旧唐書
巻七十 列伝第二十 王珪 戴冑 岑文本 杜正倫
王珪
王珪、字は叔玠、太原郡祁県の人である。魏においては烏丸氏を称し、曾祖父の神念が魏から梁に奔り、再び王氏に復姓した。祖父の僧辯は、梁の太尉・尚書令であった。父の顗は、北斉の楽陵太守である。王珪は幼くして孤となり、性質は雅澹で、嗜欲は少なく、志量は沈深であり、貧賤に安んじ、道を体し正を履み、交わりを苟くも合わさなかった。季叔の頗は、当時の通儒であり、人倫を鑑識する眼があり、嘗て親しい者に謂って曰く「門戸の寄る所は、唯だ此の児に在るのみ」と。開皇の末、奉礼郎となった。及んで頗が漢王諒の反事に坐して誅せられると、王珪は従坐に当たり、遂に南山に亡命し、十余歳を積んだ。
高祖が関中に入ると、丞相府司録の李綱が王珪が貞諒にして器識有りと推薦し、世子府諘議参軍に引いた。及んで東宮が建てられると、太子中舎人に除され、尋いで中允に転じ、甚だ太子に礼せられた。後にその陰謀事に連座して、巂州に流された。建成が誅された後、太宗は平素より其の才を知り、召して諫議大夫に拝した。貞観元年、太宗は嘗て侍臣に謂って曰く「正しき主が邪なる臣を御しても、理を致すことはできず、正しき臣が邪なる主に事えても、また理を致すことはできない。唯だ君臣相い遇い、魚水の如く同じく有れば、則ち海内安んず可きなり。昔の漢高祖は、田舎の翁に過ぎなかった。三尺の剣を提げて天下を定め、既にして規模弘遠にして、慶流が子孫に及ぶのは、これ蓋し賢臣を得て任じたるに由る所なり。朕は明らかならずと雖も、幸いに諸公数たび相い匡救し、嘉謀に憑りて、天下を太平に致さんことを冀う」と。王珪対えて曰く「臣聞く、木は縄に従えば則ち正しく、後は諫に従えば則ち聖なりと。故に古の聖主は、必ず諍臣七人有り、言を用いられざれば、則ち相い継いで以て死す。陛下は聖慮を開き、芻蕘を納れ給う。臣は不諱の朝に処り、実に其の狂瞽を罄くことを願う」と。太宗は善しと称し、勅して自今以後中書門下及び三品以上が閣に入るには、必ず諫官を遣わして随わしむべしとした。王珪は毎に誠を推し忠を納れ、献替すること多く、太宗の顧待益々厚く、爵を永寧県男に賜い、黄門侍郎に遷り、太子右庶子を兼ねた。
二年、高士廉に代わって侍中となった。太宗は嘗て閑居し、王珪と宴語した。時に美人が侍側に在り、元は廬江王瑗の姫で、瑗が敗れて籍没され宮中に入った者であった。太宗は之を指し示して曰く「廬江は道ならず、其の夫を賊殺して其の室を納れたり。暴虐の甚だしきこと、何ぞ亡びざる者あらんや」と。王珪は席を避けて曰く「陛下は廬江が此の婦人を取ることを是と為すか、非と為すか」と。太宗曰く「人を殺して其の妻を取る、卿乃ち朕に是非を問う、何ぞや」と。対えて曰く「臣、管子に聞く、『斉の桓公が郭に至り、其の父老に問うて曰く「郭は何の故に亡ぶや」と。父老曰く「其の善を善とし悪を悪とするに以てなり」と。桓公曰く「若し子の言の如くならば、乃ち賢君なり、何ぞ亡ぶに至らん」と。父老曰く「然らず、郭の君は善を善としながらも用いる能わず、悪を悪としながらも去る能わず、以て亡ぶ所以なり」と』と。今此の婦人尚お左右に在り、窃かに聖心を以て之を是と為すとす。陛下若し之を非と為さば、此れ悪を知りながら去らざるを謂うなり」と。太宗は此の美人を出さなかったが、其の言を甚だ重んじた。時に太常少卿の祖孝孫が宮人に声楽を教えて旨に称わず、太宗に譲責された。王珪及び温彦博諫めて曰く「孝孫は音律を妙解し、心を用いざるに非ず、但だ陛下の顧問に其人を得ざるを恐れ、以て陛下の視聴を惑わすのみ。且つ孝孫は雅士なり、陛下忽ちに女楽を教うるを以て之を怪しむ、臣は天下の怪愕するを恐る」と。太宗怒って曰く「卿等皆我が腹心なり、当に忠を進め直を献ずべし、何ぞ乃ち下に附き上を罔いて、反って孝孫の為に言うや」と。彦博は拝謝したが、王珪独り拝さず。曰く「臣本より前宮に事え、罪已に死に当たる。陛下は性命を矜み恕し、不肖を以てせず、枢近に置き、忠直を以て責む。今臣の言う所、豈に私の為ならんや。意わず陛下忽ちに疑事を以て臣を誚る、是れ陛下臣に負うなり、臣は陛下に負わず」と。帝は黙然として罷めた。翌日、帝は房玄齢に謂って曰く「古より帝王、諫めを納るる能う者は固より難し。昔の周の武王尚お伯夷・叔齊を用いず、宣王は賢主なりと雖も、杜伯猶お無罪を以て見殺さる。吾れ夙夜に前聖に庶幾し、古人に仰ぎ及ぶ能わざるを恨む。昨、彦博・王珪を責む、朕甚だ之を悔ゆ。公等此れを以て直言を進めざること勿れ」と。
時に房玄齢・李靖・温彦博・戴冑・魏徴と王珪は国政を同知した。後に嘗て侍宴した時、太宗は王珪に謂って曰く「卿は識鑑清通にして、尤も談論を善くす。房玄齢等より自ら、咸く宜しく品藻すべく、又た自ら量るに、諸子と孰れか賢れるか」と。対えて曰く「孜孜として国に奉じ、知る有れば為さざる無きは、臣は玄齢に如かず。才文武を兼ね、将に出で相に入るは、臣は李靖に如かず。敷奏詳明にして、出納惟れ允かなるは、臣は温彦博に如かず。繁を処り劇を理め、衆務必ず挙がるは、臣は戴冑に如かず。諫諍を以て心と為し、君の堯・舜に及ばざるを恥ずるは、臣は魏徴に如かず。激濁揚清し、悪を嫉み善を好むに至っては、臣は数子に於いて、亦た一日の長有り」と。太宗は深く其の言を然りとし、群公も亦た各おの以て己が懐を尽くす所と為し、之を確論と謂った。後に進んで郡公の爵となった。七年、禁中の語を漏洩した事に坐し、同州刺史に左遷された。明年、召されて礼部尚書に拝した。十一年、諸儒と共に『五礼』を正定し、書成ると帛三百段を賜い、一子を封じて県男とした。是の歳、魏王師を兼ねた。既にして上は黄門侍郎の韋挺に問うて曰く「王珪が魏王泰の師たり、其の相い見るに、若為なる礼節か」と。挺対えて曰く「師を見るの礼、拝答礼の如し」と。王は忠孝を以て王珪に問う、王珪答えて曰く「陛下は、王の君なり、君に事えては忠を尽くさんことを思う。陛下は、王の父なり、父に事えては孝を尽くさんことを思う。忠孝の道は、以て身を立て、以て名を成し、当年に天祐を享け、余芳は後葉に垂る可し」と。王曰く「忠孝の道は、已に教えを聞けり。願わくは習う所を聞かん」と。王珪答えて曰く「漢の東平王蒼云う『善を為すは最も楽し』と」と。上は侍臣に謂って曰く「古来帝子は、宮闥に生まれ、其の成人に及び、驕逸ならざるは無し、是を以て傾覆相い踵き、自ら済う能う者は少なし。我今子弟を厳しく教え、皆安全を得しめんと欲す。王珪は我久しく駆使す、是れ諳悉する所、其の意忠孝に存するを以て、選びて子の師と為す。爾宜しく泰に語れ『汝の珪を待つこと、我に事うるが如くせば、以て過ち無かる可し』と」と。泰は毎に之が為に先ず拝し、王珪も亦た師道を以て自ら居り、物議之を善しとした。時に王珪の子の敬直が南平公主に尚った。礼に婦が舅姑を見るの儀有り、近代より公主の出降するより、此の礼皆廃れた。王珪曰く「今主上欽明にして、動もて法制に循う。吾れ公主の謁見を受くるは、豈に身の栄えの為ならんや、国家の美を成す所以なり」と。遂に其の妻と就席して坐し、公主に親しく笄を執らしめ盥饋の道を行わしめ、礼成って退いた。是より後、公主が舅姑有る者に下降するには、皆婦礼を備えるようになり、王珪より始まった。
王珪は若い頃貧しく、人から物を贈られても初めは辞退せず、貴くなると皆に厚く報いた。たとえその人が亡くなっていても、必ず妻子を救済した。寡婦の嫂には礼を尽くし、孤児の甥には恩義を厚くし、宗族や姻戚で困窮する者も多く救済した。王珪は高位に昇って久しいが、私廟を営まず、四季の祭祀もなお寝殿で行った。法司に弾劾されたが、太宗は寛大に扱い、譴責せず、かえって廟を立ててその心を恥じさせた。王珪は倹約が礼に合わず、当時の論評はこれをもって彼を軽んじた。十三年、病気になり、勅命で公主が邸宅を見舞い、また民部尚書唐儉を遣わして薬膳を調整させた。まもなく卒去、六十九歳。太宗は喪服を着て別室で哀悼し、長く惜しんだ。詔して魏王泰に百官を率いさせて臨哭させ、吏部尚書を追贈し、諡して懿といった。
長子崇基は爵を襲い、官は主爵郎中に至った。少子敬直は公主を娶り駙馬都尉に任じられ、太子承乾と交結した罪で嶺外に流された。崇基の孫旭は、開元初めに左司郎中兼侍御史となった。時に光禄少卿盧崇道が罪を得て嶺南に配流され、逃げ帰って東都に潜伏し、仇家に告発された。玄宗は旭にその獄を究めさせた。旭は威権を擅にしようとし、崇道の親族数十人を捕らえて皆に酷刑を加え、その後罪をでっち上げた。崇道とその三子はともに死罪に処せられ、親友は皆杖刑・流刑・貶官となった。時に罪を得た者は多く知名の士であり、天下はこれを冤んだ。旭はまた御史大夫李傑と不和で、互いに糾弾し合い、李傑はついに左遷されて衢州刺史となった。旭は志を得て威福を擅にし、朝廷は彼を畏れつつ軽蔑した。まもなく贓罪で龍川尉に貶黜され、憤慨して死に、当時の人々は大いに快とした。
戴胄
戴胄は字を玄胤といい、相州安陽の人である。性質は貞正で、才幹と器量があった。律令に明るく、特に文簿に通暁していた。隋の大業末年に門下録事となり、納言蘇威・黄門侍郎裴矩は彼を大いに礼遇した。越王侗は給事郎に任じた。王世充が越王の位を簒奪しようとした時、胄は世充に言った。「君臣の分は情は父子に等しく、理は休戚を共にし、終始を励ますべきである。明公は文武の才をもって社稷の寄託に当たり、存亡は今日にある。誠意を王室に推し、伊尹・周公の跡を踏むことを願い、国に泰山の安きをもたらし、家に代々の禄の盛んなりを伝えれば、率土の濱、幸甚なるは莫からん」。世充は詭弁で善しとし、労をねぎらって帰した。世充が後に越王を脅して九錫を加えさせようとした時、胄はまた直言して切諫した。世充は受け入れず、これにより鄭州長史に出され、兄の子行本とともに武牢を鎮守させた。太宗が武牢を攻略して彼を得ると、秦府士曹参軍に抜擢した。即位すると、兵部郎中に任じ、武昌県男に封じた。
貞観元年、大理少卿に転じた。時に吏部尚書長孫無忌が召しを受けた際、佩刀を解かずに東上閣に入った。尚書右僕射封徳彝は、監門校尉が気づかなかったことを議して、罪は死に当たるとし、無忌が誤って帯びたのは罰銅二十斤とした。上はこれに従った。胄が駁して言うには、「校尉が気づかなかったことと無忌が帯びたことは、ともに誤りである。臣子が尊極に対しては誤りと称すべきでなく、律に準じて云う『供御の湯薬・飲食・舟船に、誤って知らざる者は皆死す』とある。陛下がその功を考慮されるなら、憲司の決すべきでない。法に拠るべきなら、罰銅では妥当でない」。太宗は言った。「法は朕一人の法ではなく、天下の法である。どうして無忌が国の親戚だからといって、へつらおうとするのか」。改めて議を定めさせた。徳彝は初めの議を堅持し、太宗はその議に従おうとした。胄はまた言った。「校尉は無忌によって罪を得たのであり、法により軽くすべきである。その誤りを論ずれば、情は同じであるのに生死が急に異なる。敢えて固く請う」。上はこれを嘉し、ついに校尉の死を免じた。当時朝廷は盛んに選挙を開き、詐偽で資蔭を得る者がいた。帝は自首を命じ、自首しない者は死罪とした。まもなく詐偽の者が事を洩らした。胄は法に拠って流刑と断じて奏上した。帝は言った。「朕は勅を下して自首しなければ死とすると言った。今流刑と断ずるのは、天下に不信を示すことだ。卿は獄を売ろうとするのか」。胄は言った。「陛下が即時に殺されるなら、臣の及ぶところではない。既に所司に付された以上、臣は法を損なうことはできません」。帝は言った。「卿は自ら法を守り、朕に不信を行わせようとするのか」。胄は言った。「法は国家が天下に大信を布くものであり、言葉はその時の喜怒から発せられるものです。陛下が一朝の忿りを発して殺すと許し、既に不可と知りながら法に置くのは、小忿を忍んで大信を存するのです。忿りに順って信に背くなら、臣は窃かに陛下のため惜しみます」。帝は言った。「法に失がある時、公がこれを正せるなら、朕は何を憂えよう」。胄が前後して顔を犯して法を執ったのは多くこの類である。論じた刑獄は皆冤濫なく、方に随って指摘し、言は泉の湧くが如くであった。その年、尚書右丞に転じ、まもなく左丞に遷った。先に、毎年水旱の災があれば、皆正倉から出給し、倉のない所では他州に就食し、百姓は多く飢乏に至った。二年、胄が上言した。「水旱の凶災は、前聖も免れなかった。国に九年の儲蓄なきは、礼経の明らかに誡めるところである。今喪乱の後、戸口は凋残し、毎年租を納めても倉稟は実らず、随って出給すれば当年を供するに足りず、もし凶災があれば何をもって賑恤せん。故に隋の開皇に制を立て、天下の人に節級して粟を輸させ、名づけて社倉とし、文皇の代まで饑饉がなかった。大業中年に至り、国用足らず、社倉の物を併せ取って官費に充てた故、末途に至り支給するもの無し。王公以下より衆庶に及び、墾田の稼穡頃畝を計り、秋熟に至る毎に、その苗に準じて理をもって勧課し、尽く粟を出させよ。稻麥の郷もまたこの税に同じくし、各々所在に納め、義倉と立てよ」。太宗はその議に従った。その家が貧しいため、銭十万を賜った。
時に尚書左僕射蕭瑀が免官され、僕射封徳彝もまた卒去した。太宗は胄に言った。「尚書省は天下の綱維であり、百官の稟ずるところである。一事でも失えば、天下必ずその弊を受ける者がある。今令・僕を卿に委ねるのは、朕の望むところに当たるべきである」。胄の性質は明敏で、政事に通達し、処断は明速であった。議者は左右丞が職に称するのは、武德以来ただ一人であるとした。また諫議大夫を兼ね、魏徵と日を更えて供奉させた。三年、民部尚書に進み、兼ねて検校太子左庶子となった。先に、右僕射杜如晦が選挙を専掌し、臨終に選事を胄に委ねるよう請い、これにより詔して吏部尚書を兼摂させ、民部・庶子・諫議はそのままとした。胄は才幹はあったが学術がなく、吏部に居ては文雅を抑え法吏を奨励したため、当時の論評に大いに譏られた。四年、吏部尚書を罷め、本官をもって朝政に参預し、まもなく郡公に進爵した。五年、太宗が洛陽宮を修復しようとした時、胄は上表して諫めた。
陛下は百王の弊に当たり、暴隋の後に属し、塗炭の餘燼を拯い、倒懸の遺黎を救う。遠く至り邇く安んじ、率土清謐たり、大功大德は、豈に臣の称讃する所ならんや。臣誠に小人、才識遠からず、唯だ耳目の近きを知るのみにして、長久の策に達せず、敢えて区区の誠を竭くして、臣が職司の事を論ず。比来関中・河外を見るに、尽く軍団を置き、富室強丁、並びに戎旅に従う。重ねて九成の作役を以てし、余丁向くに尽き、京を去ること二千里の内、先ず司農将作に配す。仮りに遺余有りと雖も、勢い何ぞ紀すに足らん。乱離甫かに爾り、戸口単弱、一人就役すれば、挙家便ち廃す。軍に入る者は其の戎仗を督め、役に従う者は其の餱糧を責め、尽室経営すれども、多く能く済まず。臣が愚慮を以てすれば、怨嗟を致すを恐る。七月已来、霖潦過度し、河南・河北、其の田洿下たり、時に豊かに歳に稔ると雖も、猶未だ量る可からず。加うるに軍国の須うる所、皆府庫に資り、布絹の出す所、歳に百万を過ぐ。丁既に役尽き、賦調減ぜず、費用止まず、帑蔵虚ならん。且つ洛陽の宮殿は、風雨を蔽うに足り、数年功畢るも、亦晩しと謂うに非ず。若し頓に修営せば、労擾を傷つくを恐る。
太宗甚だ之を嘉し、因りて侍臣に謂ひて曰く、「戴冑は我に骨肉の親無しと雖も、但だ忠直を以て行ひを勵まし、情深く国を體し、事機要有れば、聞かざる無し。進むる所の官爵は、以て其の誠に酬ゆるのみ。」七年に卒す。太宗之が為に哀を挙げ、朝を廃すること三日。尚書右僕射を贈り、道国公を追封し、謚して忠と曰ふ。詔して虞世南に碑文を撰せしむ。又冑の宅宇弊陋にして、祭享する所無きを以て、有司に令して特為に廟を造らしむ。房玄齢・魏徵並びに冑の才用を美とし、俱に之と親善す。及び冑卒したる後、嘗て其の游処の地を見て、数之が為に流涕す。冑子無く、兄の子至德を以て後と為す。
冑兄の子 至德
至德は、乾封中累遷して西台侍郎・同東西台三品と為る。尋で転じて戸部尚書と為り、旧に依りて政事を知る。父子十数年間相継いで尚書と為り、国政に預かり知る。時に以て栄と為す。咸亨中、高宗飛白書を為りて以て侍臣に賜ふ。至德に賜ふに「洪源に泛び、舟楫を俟つ」と曰ひ、郝処俊に賜ふに「九霄に飛び、六翮を仮る」と曰ひ、李敬玄に賜ふに「啓沃を資け、丹誠を罄す」と曰ひ、又中書侍郎崔知悌に賜ふに「忠節を竭くし、皇猷を賛す」と曰ふ。其の辞皆興比有り。俄に尚書右僕射に遷る。時に劉仁軌左僕射と為る。毎に冤滞を申訴する者に遇ふや、輒ち美言を以て之を許す。而して至德は先づ理に拠りて難詰し、未だ嘗て与奪せず。若し理有る者あれば、密かに之を奏す。終に己の断決を顕さず。是に由りて時誉仁軌に帰す。或は以て至徳に問ふ。答へて曰く、「夫れ慶賞刑罰は、人主の権柄なり。凡そ人臣と為る者、豈に人主と権柄を争はんや」と。其の慎密此の如し。後、高宗知りて深く嘆美す。儀鳳四年に薨ず。朝を輟むこと三日。百官をして以て次に宅に赴きて之を哭せしむ。開府儀同三司・并州大都督を贈り、謚して恭と曰ふ。
岑文本
岑文本、字は景仁、南陽棘陽の人。祖は善方、蕭察に仕えて吏部尚書と為る。父は之象、隋末邯鄲令と為り、嘗て人の訟ふる所と為り、理申さるるを得ず。文本の性沈敏、姿儀有り、博く経史を考へ、多く貫綜する所有り、談論を美とし、属文を善くす。時に年十四、司隷に詣りて冤を称し、辞情慨切、召対明弁、衆頗る之を異とす。試みに令して『蓮花賦』を作らしむ。下筆便ち成り、属意甚だ佳し。台を合せて歎賞せざる莫し。其の父の冤雪ぐ。是に由りて知名と為る。其の後、郡秀才を挙ぐ。時に乱有るを以て応ぜず。蕭銑荊州に於て僭号す。召し署けて中書侍郎と為し、専ら文翰を典す。及び河間王孝恭荊州を定む。軍中の将士咸く大掠せんと欲す。文本進みて孝恭に説きて曰く、「隋室無道より以来、群雄鼎沸し、四海延頸して以て真主を望む。今蕭氏の君臣・江陵の父老、決計して降を帰する者は、実に危を去り安に就かんことを望むのみ。王必ず兵を縦して虜掠せんと欲せば、誠に鄙州来蘇の意に非ず。亦た江・嶺以南、向化の心沮むを恐る」と。孝恭善しと称し、遂に之を止む。文本を署けて荊州別駕と為す。孝恭進みて輔公祏を撃つ。召して軍書を典せしめ、復た行台考功郎中に署く。貞観元年、秘書郎を除き、兼ねて直中書省と為す。太宗藉田の礼を行ふに遇ふ。文本上ぐるに『藉田頌』を以てす。及び元日軒に臨みて百僚を宴するに、文本復た上ぐるに『三元頌』を以てす。其の辞甚だ美なり。文本才名既に著はる。李靖復た之を称薦す。擢びて中書舎人に拝し、漸く親顧を蒙る。初め、武徳中詔誥及び軍国の大事、文皆顔師古に出づ。是に至り、文本の草する所の詔誥。或は衆務繁湊すれば、即ち書僮六七人を命じて口に随ひ並びに写さしむ。須臾にして悉く成る。亦殆ど其の妙を尽くす。時に中書侍郎顔師古譴を以て職を免ぜらる。頃之、温彦博奏して曰く、「師古は時事に諳練し、文法に長ず。時に及ぶ者無し。復用を蒙らんことを冀ふ」と。太宗曰く、「我自ら一人を挙ぐ。公憂ふる勿れ」と。是に於て文本を以て中書侍郎と為し、専ら機密を典す。又先づ令狐徳棻と与に『周史』を撰す。其の史論多く文本に出づ。十年に至り史成る。江陵県子に封ず。十一年、従ひて洛陽宮に至る。会ふに谷・洛泛溢す。文本封事を上ぐるに曰く。
臣が聞くに、乱を撥ね除ける事業を創始することは、その功績が既に難しいが、成り上がった基盤を守ることは、その道が容易ではない。故に安泰な時に危険を思うのは、その事業を安定させる所以であり、始めがあって終わりがあるのは、その基盤を隆盛させる所以である。今、億兆の民は安寧であり、四方の辺境は静謐であるが、喪乱の後に承け、凋弊の余りに接しているので、戸口の減損は尚多く、田畑の開墾は猶少ない。覆い被せる恩恵は顕著であるが、瘡痍は未だ回復せず、徳教の風は覆われているが、資産は屡々空しい。是故に古人はこれを種樹に譬え、年月が綿遠であれば、枝葉は扶疏するが、もし植えて日が浅く、根本が未だ固まらなければ、黒墳で土を盛り、春の日で暖めても、一人が揺らせば、必ず枯れ萎びるに至る。今の百姓は、頗るこれに類する。常に含養を加えれば、日に滋息に就くが、暫く征役があれば、則ち随って凋耗する。凋耗が既に甚だしければ、人は生きることを願わず、人が生きることを願わなければ、怨気が充塞し、怨気が充塞すれば、離叛の心が生ずる。故に帝舜は曰く、「愛すべきは君に非ず、畏るべきは人に非ず。」と。孔安国は曰く、「人は君を以て命とする故に愛すべきであり、君が道を失えば、人がこれに叛く故に畏るべきである。」と。仲尼は曰く、「君は猶舟の如く、人は猶水の如し。水は舟を載せる所以であり、亦舟を覆す所以である。」と。是故に古の哲王は、休むと雖も休まず、日に慎みを加えるのは、誠に此の為である。伏して惟うに、陛下が古今の事を覧、安危の機を察し、上は社稷を以て重しとし、下は億兆を以て念とされることを。選挙を明らかにし、賞罰を慎み、賢才を進め、不肖を退ける。過ちを聞けば即ち改め、諫めに従うこと流るる如く。善を行うには疑わずに在り、令を出すには必ず信を期す。神を養い性を養い、畋猟遊楽の娯を省み、奢を去り儉に従い、工役の費を減らす。方内を静めることを務めて闢土を求めず、弓矢を橐に載せて武備を忘れない。凡そ此の数者は、国の常道と為り、陛下の常に行われる所であるが、臣の愚心は、唯陛下が之を思って倦まず、之を行って怠らぬことを願うのみである。然らば至道の美は、三皇五帝と比隆し、億載の祚は、天地に随って長久ならん。桑谷が妖を為し、龍蛇が孽を為し、雉が鼎の耳に雊ぎ、石が晋の地に言うと雖も、猶禍を転じて福と為し、咎を変じて祥と為すべきである。況んや水雨の患は、陰陽の常理であって、豈に天譴と謂って聖心を繋ぐべきであろうか。臣が聞くに、古人に言有り、「農夫は労して君子は養い、愚者は言って智者は択ぶ。」と。輒て狂瞽を陳べ、伏して斧鉞を待つ。
是の時、魏王泰の寵は諸王に冠たり、盛んに第宅を修め、文本は奢侈は長くすべからずと以為い、上疏して節儉の義を盛んに陳べ、泰に抑損有るべきを言う。太宗は併せて之を嘉し、帛三百段を賜う。十七年、銀青光禄大夫を加う。
文本は自ら書生より出ずるを以て、毎に捴損を懐く。平生の故人、微賤と雖も必ず之と抗礼す。居処は卑陋にして、室に茵褥帷帳の飾り無し。母に事うるに孝を以て聞こえ、弟侄を撫でるに恩義甚だ篤し。太宗は毎に其の「弘厚忠謹、吾之を親しみ之を信ず。」と言う。是の時、新たに晋王を立てて皇太子と為し、名士多く宮官を兼領す。太宗は文本に兼摂せしめんと欲す。文本は再拝して曰く、「臣、庸才を以て、久しく涯分を逾え、此の一職を守るも、猶満盈を懼る。豈に更に春坊を忝うし、以て時の謗を速くすべけんや。臣は請う、一心を以て陛下に事え、更に東宮の恩沢を希わず。」と。太宗乃ち止む。仍って五日に一度東宮に参することを令し、皇太子は賓友の礼を執り、之と答拝す。其の見待されること此の如し。俄に中書令を拝し、家に帰りて憂色有り。其の母怪しんで之を問う。文本曰く、「勳に非ず旧に非ず、濫に寵栄を荷い、責重く位高し。是を以て憂懼す。」と。親賓慶賀に来る者有れば、輒ち曰く、「今は弔いを受け、賀を受けず。」と。又産業を営むを勧むる者有り。文本嘆じて曰く、「南方の一布衣、徒歩して関に入り、疇昔の望みは、秘書郎・一県令に過ぎず。而して汗馬の労無く、徒に文墨を以て中書令の位に致る。斯れ亦極まりたり。俸禄の重きを荷い、懼るること已に多し。何ぞ更に産業を言わんや。」と。言う者嘆息して退く。
文本は既に久しく枢揆に在り、当涂に任事し、賞錫稠疊す。凡そ財物出入有るは、皆季弟文昭に委ね、一も問わず。文昭は時に校書郎に任じ、多く時人と遊款す。太宗聞いて悦ばず、嘗て従容として文本に謂いて曰く、「卿の弟は過多に交結す。卿に累わらんことを懼る。朕之を出だして外官と為さんとす。如何。」と。文本泣いて曰く、「臣の弟は少くして孤なり、老母特に鍾念する所、信宿も左右を離れしめんと欲せず。若し今外出せば、母必ず憂悴せん。儻し此の弟無くんば、亦老母無からん。」と。歔欷嗚咽す。太宗其の意を愍みて止む。唯文昭を召見し、厳に誡約を加う。亦終に愆過無し。遼を伐たんと将るに及び、凡そ籌度する所は、一皆之を委ぬ。文本委を受け既に深く、神情頓に竭き、言辞挙措、頗る平常に異なり。太宗見て之を憂え、左右に謂いて曰く、「文本今我と同行す。我と同返せざるを恐る。」と。幽州に至るに及び、暴疾に遇う。太宗自ら臨視し、之を撫でて流涕す。尋いで卒す。年五十一。其の夕、太宗厳鼓の声を聞きて曰く、「文本殞逝し、情深く惻怛たり。今宵の夜警は、聞くに忍びず。」と。之を停むるを命ず。侍中・広州都督を贈り、謚して憲と曰う。東園秘器を賜い、昭陵に陪葬す。集六十巻有り、代に行わる。
文本の兄の子 長倩
文本の兄 文叔。文叔の子 長倩、少くして文本に鞠われ、己が子に同じ。永淳中、累転して兵部侍郎・同中書門下平章事と為る。垂拱初、夏官尚書より内史に遷り、夏官事を知る。俄に文昌右相を拝し、鄧国公に封ぜらる。則天初め革命し、尤も符瑞を好む。長倩は罪を懼れ、頗る陳奏有り。又上疏して皇嗣の姓を武氏に改むるを請い、以て周室の儲貳と為さんとす。則天之を許し、実封五百戸を賜う。天授二年、特進・輔国大將軍を加う。其の年、鳳閣舎人張嘉福と洛州人王慶之等、名を列ねて表を上り、武承嗣を立てて皇太子と為さんことを請う。長倩は皇嗣東宮に在るを以て、更に承嗣を立つべからずとし、地官尚書格輔元と竟に署名せず、仍って上書者を切責するを奏請す。是より大いに諸武の意に忤い、乃ち斥けて西征吐蕃を令し、武威道行軍大総管を充てしむ。中路召還し、制獄に下し、誅せらる。仍って其の父祖の墳墓を発掘す。来俊臣又長倩の子 霊源を脅迫し、納言欧陽通及び格輔元等数十人を誣らしめ、皆同反の罪に陥れ、併せて誅死せしむ。
長倩の子 羲
長倩の子羲は、長安年間に広武県令となり、有能の名があった。則天はかつて宰相に各々員外郎に堪える者を挙げるよう命じたところ、鳳閣侍郎韋嗣立が羲を推薦し、かつ奏上して言うには、「その従父長倩が逆を犯したことが累となっていることを恨みます」と。則天は言う、「もし材幹があるならば、どうして微かな累を恨むことがあろうか」と。そこで天官員外郎に任じた。これにより縁坐の近親が相次いで省に入り、登封県令劉守悌は司門員外郎となり、渭南県令裴惓は地官員外郎となった。先に、羲が金壇県令であった時、守悌および惓は清徳と称された。羲は文吏として著名であり、ともに巡察使に推薦され、皆畿県の県令に任じられ、また同じく尚書郎となり、悉く美誉があった。守悌は後に陝州刺史に至り、惓は杭州刺史に至った。羲は、神龍初年に中書舍人となった。時に武三思が権勢を振るい、侍中敬暉が諸武の王たる者を削るよう上表を請おうとして、疏を作る者を募った。衆は三思を畏れ、皆辞退し託けて敢えてこれを行わなかったが、羲は直ちに筆を執り、言葉は甚だ切直であった。これにより三思の意に逆らい、秘書少監に転じ、再び吏部侍郎に遷った。時に吏部侍郎崔湜、太常少卿鄭愔、大理少卿李元恭が選事を分掌し、皆贓貨をもって聞こえたが、羲は最も正を守り、時の議論はこれを美とした。まもなく銀青光禄大夫、右散騎常侍、同中書門下三品を加えられた。睿宗が即位すると、出て陝州刺史となった。再び刑部、戸部二尚書を歴任し、門下三品となり、国史を監修し、格令を刪定し、なお『氏族録』を修した。初め、中宗の時、侍御史冉祖雍が睿宗及び太平公主が節愍太子と連謀したと誣って奏上し、推究を加えるよう請うたが、羲は中書侍郎蕭至忠と密かに保護を申し立てた。及び羲が『中宗実録』を監修した時、自らその事を書き記したところ、睿宗はこれを見て大いに賞嘆し、物三百段、良馬一匹を賜い、なお制書を下してこれを褒め称えた。時に羲の兄献は国子司業、弟翔は陝州刺史、休は商州刺史であり、従族の兄弟子姪で、羲によって引用され清要の職に登った者は数十人に及んだ。羲は嘆いて言う、「物極まれば則ち返る、以て懼るべし」と。しかし結局これらを抑え退けることができなかった。まもなく侍中に遷った。先天元年、太平公主の謀逆に預かった罪で誅殺に伏し、その家は籍没された。
附 格輔元
格輔元は、汴州浚儀の人である。伯父の徳仁は、隋の剡県丞であり、同郡の人である斉王文学王孝逸、文林郎繁師玄、羅川郡戸曹靖君亮、司隸従事鄭祖咸、宣城県長鄭師善、王世充の中書舍人李行簡、処士盧協ら八人と、辞学をもって名を擅にし、当時「陳留八俊」と号された。輔元は弱冠にして明経に挙げられ、歴遷して御史大夫、地官尚書、同鳳閣鸞台平章事となった。初め、張嘉福らが武承嗣を立てるよう請うた時、則天が輔元に問うたところ、固く不可と称したため、遂に承嗣の讒言にあって死に、海内はこれを冤とした。輔元の兄希元は、高宗の時に洛州司法参軍であり、章懷太子が召して洗馬劉訥言らと共に范曄の『後漢書』を註解させ、代に行われた。輔元より先に卒した。
杜正倫
杜正倫は、相州洹水の人である。隋の仁寿年間に、兄の正玄、正蔵とともに秀才に擢第した。隋代に秀才を挙げた者は十余りに止まったが、正倫一家に三人の秀才があり、甚だ当時に称美された。正倫は文を属することを善くし、深く釈典に明るかった。隋に仕えて羽騎尉となった。武徳年間に、歴遷して斉州総管府録事参軍となった。太宗はその名を聞き、秦府文学館に直らせた。貞観元年、尚書右丞魏徴が表を上って正倫を推薦し、古今に匹敵し難いと認めたため、遂に兵部員外郎に擢授された。太宗は言う、「朕は今行能の人を行わしめるが、朕が独り行能者に私するのではなく、その百姓に益する能があるからである。朕は宗親及び勲旧で行能なき者には、終えて任じない。卿が忠直であるをもって、朕は今卿を行わしめる、卿は挙げられたことに勉めて称えるべし」と。二年、給事中に拝され、兼ねて起居注を知った。太宗はかつて侍臣に言う、「朕は毎日朝に坐す時、一言を出そうとすれば、即ちこの言が百姓に利益あるか否かを思う、それ故に多く言うことができない」と。正倫が進み言う、「君の挙は必ず書かれ、言は左右史に存する。臣の職は起居注を修めるに当たり、敢えて愚直を尽くさざるを得ません。陛下もし一言道理に乖けば、則ち千載聖徳に累し、ただ当今百姓を損なうのみならず、願わくは陛下これを慎まれんことを」と。太宗は大いに悦び、絹二百段を賜った。
四年、累遷して中書侍郎となった。六年、正倫は御史大夫韋挺、秘書少監虞世南、著作郎姚思廉らとともに皆封事を上って旨に称い、太宗はこのために宴を設け、因って言う、「朕は歴観すること古人臣の忠を立てる事、もし明王に値すれば、便ち誠を尽くして規諫を得るが、龍逢、比干の如きに至っては、竟に孥戮を免れなかった。君たるは易からず、臣たるは極めて難し。我又聞く、龍は擾えて馴らすべしと、然れども喉下に逆鱗あり、これに触れば則ち人を殺す。人主にもまた逆鱗あり、卿らは遂に犯触を避けず、各々封事を進めた。常にこの如くならば、朕豈に危亡あるを慮わんや!我は卿らのこの意を思い、豈に暫くも忘れ得ようか。故に聊か宴楽を設くるなり」と。なお並びに帛を賜うこと差等があった。まもなく散騎常侍を加えられ、太子右庶子を行い、兼ねて崇賢館学士となった。太宗は言う、「国の儲副は、古より重んぜられ、必ず善人を択びてこれが輔佐とす。今太子は年なお幼沖に在り、志意未だ定まらず、朕もし朝夕これを見れば、事に随って誡約を得べし。今既に監国を委ね、目前に在らず、卿の志懐貞愨にして、能く直道を敦うするを知る。故に輒ち卿を朕より輟きて、以て太子を匡うす、委任の軽重を知るべし」と。十年、再び中書侍郎を授けられ、南陽県侯の爵を賜い、なお兼ねて太子左庶子となった。正倫は両宮に出入りし、機密に参典し、甚だ幹理をもって称された。時に太子承乾は足疾があり、朝謁することができず、群小を暱近することを好んだ。太宗は正倫に言う、「我が児の疾病は、乃ち事とすべし。但だ全く令誉なく、賢を愛し善を好むことを聞かず、私に引接する者は、多くは小人なり、卿はこれを察すべし。もし教示を得ずば、須らく来たりて我に告ぐべし」と。正倫は数度諫めたが納められず、乃ち太宗の語を告げたところ、承乾は表を抗して聞奏した。太宗は正倫に言う、「何故我が語を漏洩したか」と。対えて言う、「開導して入らず、故に陛下の語を以てこれを嚇し、其の懼れあるを冀い、或いは善に反すべきなり」と。帝は怒り、出して谷州刺史とし、又左遷して交州都督とした。後、承乾が逆を構え、事は侯君集と相連なり、君集に金帯を遣わして正倫に遺したと称したため、これにより驩州に配流された。顕慶元年、累授して黄門侍郎となり、兼ねて崇賢館学士となり、まもなく同中書門下三品となった。二年、度支尚書を兼ね、なお旧の如く政事を知った。俄かに中書令に拝され、兼ねて太子賓客、弘文館学士となり、襄陽県公に進封された。三年、中書令李義府と協わざる罪により、出て横州刺史となり、なおその封邑を削られた。まもなく卒した。集十巻が代に行われる。
史臣曰
史臣が曰く、王珪は正道を履みて曲がらず、忠讜無比にして、君臣の時命、胥に茲に会す。《易》に曰く、「天より之を祐し、吉にして利無し」と。叔玠(王珪の字)は之れ有り。戴胄は両朝に仕官し、一乃心力、刑に僭濫無く、事に箴規有り。学術は備はらざるを求めずと雖も、匡益自ら時に済ふ可し、亦た所謂大を任するに巧みなり。文本文(文本文は誤植か、文本文の意か)は江海を傾け、忠は雪霜を貫き、慈父の冤を申し、明主の業を匡し、繁劇を委せられて、俄かに暴終を致す。《書》に曰く、「小心翼翼、上帝に事へて昭らかなり」と。所謂憂ひ能く人を傷つけ、復た永年せずと。洎(及ぶ)羲(馬周の字)より以下、清要に登る者数十人。積善の道、焉ぞ忽にせんや。正倫(杜正倫)は能文を以て挙げられ、直道を以て委せられ、機密に参典し、両宮に出入す、斯れ時を得たりと謂ふ。然れども承乾の金帯の譏りを受けしは、孰れか夫れ薏苡の謗りと与にせん、士大夫之れを慎め。
贊
贊して曰く、五霊の嘉瑞、出づるは汚隆に係る。人中の麟鳳、王・戴諸公。動くには必ず礼に由り、言ふことは皆躬を匡す。規を献げ諫を納る、貞観の風。