旧唐書 侯君集、張亮、薛萬徹(兄萬均)、盛彥師、盧祖尚、劉世讓、劉蘭、李君羨等附

旧唐書

侯君集、張亮、薛萬徹(兄萬均)、盛彥師、盧祖尚、劉世讓、劉蘭、李君羨等附

侯君集

侯君集は、豳州三水の人である。性質は虚飾を好み、誇示することを好み、弓矢を弄んでもその技芸を成し遂げられず、武勇をもって自ら称した。太宗が藩王であった時、幕府に引き入れられ、数度征伐に従い、累ねて左虞侯・車騎将軍に除され、全椒県子に封ぜられた。次第に恩遇を蒙り、謀議に参与した。建成・元吉を誅したことについては、君集の献策が多かった。太宗が即位すると、左衛将軍に遷り、功により潞国公に進封され、邑千戸を賜り、まもなく右衛大将軍を拝した。貞観四年、兵部尚書に遷り、朝政を参議した。時に吐谷渾の伏允を討たんとし、李靖を西海道行軍大総管とし、君集及び任城王の道宗を並びにその副と為した。九年三月、軍は鄯州に次ぐ。君集、靖に言うには、「大軍已に至るも、賊虜未だ険阻に走らず。精鋭を簡び、長駆疾進すべし。彼我を虞れず、必ず大利有らん。若し此の策行はれずんば、潜遁必ず遠く、山障阻みと為り、之を討つは実に難し」と。靖其の計を然りとし、乃ち精鋭を簡び、軽く齎して深く入る。道宗、庫山に於いて伏允の衆に追い及び、之を破る。伏允、軽兵を以て磧に入り、官軍を避く。靖乃ち士馬を中分して両道と為し併せて入る。靖は薛萬均・李大亮と北路に趣き、侯君集・道宗をして南路に趣かしむ。歴て破邏真谷を破り、漢哭山を踰え、経途二千余里、空虚の地を行く。盛夏に霜降り、山多く積雪有り、転戦して星宿川を過ぎ、柏海に至り、頻りに虜と遇い、皆大いに克獲す。北に積玉山を望み、河源の出づる所を観る。乃ち師を旋し、李靖と大非川に会し、吐谷渾を平げて還る。十一年、長孫無忌等と倶に世封を受け、君集に陳州刺史を授け、陳国公に改封す。明年、吏部尚書を拝し、光禄大夫に進位す。君集は行伍より出で、素より学術無く、任遇せらるるに及び、方に書を読み始む。選挙を典とし、考課を定め、出でて将領と為り、入りて朝政に参し、並びに時に誉れ有り。

高昌王の麹文泰、時に西域の商賈を遏絶す。太宗、文泰を徴して入朝せしむるも、疾有りと称して至らず。詔して君集を以て交河道行軍大総管と為し、之を討たしむ。文泰、王師将に起こらんとするを聞き、其の国人に謂ひて曰く、「唐国此を去ること七千里、磧を渉ること闊さ二千里、地に水草無く、冬の風は凍寒し、夏の風は焚くが如し。風の吹く所、行人多く死す、百人行くも能はざるを得ず、安んぞ能く大軍を致さんや。若し兵を吾が城下に頓せば、二十日食必ず尽き、自然魚潰す。乃ち接して之を虜ふるに足らん、何をか憂ふるに足らん」と。軍の磧口に至るに及び、文泰卒す。其の子智盛、位を襲ふ。君集、兵を率いて柳谷に至る。候騎、文泰剋日将に葬らんとす、国人咸く集まると言ふ。諸将、之を襲はんことを請ふ。君集曰く、「不可なり。天子高昌の驕慢無礼を以て、吾をして天罰を恭しく行はしむ。今人を墟墓の間に襲ふは、罪を問ふの師に非ず」と。是に於いて鼓行して前し、其の田地を攻む。賊、城を嬰りて自ら守る。君集之を諭すも行はれず。先づ是れ、大軍の発するや、上、山東の善く攻城器械を為る者を召し、悉く軍に従はしむ。君集遂に木を刊ちて隍を填め、撞車を推して其の睥睨を撞き、数丈頽穴す。抛車の石を以て其の城中を撃てば、其の当る所は糜碎せざる無し。或いは氈被を張り、用て抛石を障ぐ。城上守陴の者は復た立つことを得ず。遂に之を抜き、其の男女七千余口を虜ひ、仍て兵を進めて其の都城を囲む。智盛窮蹙し、君集に致書して曰く、「天子に罪有る者は先王なり。天罰の加はる所、身已に喪背す。智盛位を襲ふ未だ幾ばくもあらず、以て愆闕を知らず。冀くは尚書哀憐せよ」と。君集報じて曰く、「若し能く禍を悔い改めば、宜しく軍門に束手すべし」と。智盛猶ほ出でず。因りて士卒を命じて其の隍塹を填め、抛車を発して以て之を攻む。又た十丈の高樓を為り、城内を俯視し、行人及び飛石の当る処有れば、皆唱ひて言ふ。人多く室に入り石を避く。初め、文泰は西突厥の欲谷設と約し、兵至らば共に表裏と為らんとす。君集の至るを聞くに及び、欲谷設懼れて西に千余里走る。智盛援を失ひ、計出す所無く、遂に門を開き出でて降る。君集、兵を分かち地を略し、遂に其の国を平げ、智盛及び其の将吏を俘へ、石を刻み功を紀して還る。君集初め高昌を破りし時、曾て奏請せず、輒ち無罪の人を配没し、又た私に宝物を取りしこと有り。将士之を知り、亦競ひて来たり盗竊す。君集其の事の発するを恐れ、敢へて制せず。京師に及び、有司其の罪を推せんことを請ふ。詔して獄に下す。中書侍郎の岑文本、功臣大将は軽く屈辱を加ふべからずと以為ひ、上疏して曰く、

君集らは或いは輔佐の位にあり、或いは爪牙の職にあり、皆抜擢を受け、将帥の任に当たりながら、身を正し法を奉じて陛下の恩に報いることができず、挙措は情にまかせ、罪過は積もり満ちて、まさに刑典をもってこれを糾すべきであり、朝廷の倫理を粛正すべきである。しかし高昌は昏迷し、人神ともにこれを棄てた。朝廷の議者においては、その地が遐荒にあることを以て、皆これを度外に置こうとした。ただ陛下が独見の明を運らし、決勝の略を授けられたので、君集らは聖算を奉じて行い、遂に期日を指して平定することができた。もし事実を論ずれば、皆陛下の功績であり、君集らには道中の労苦はあっても、その勲功と称するには足りない。それなのに陛下は天徳を宰とせず、功績を将帥に推し譲られた。露布が初めて届いた時、直ちに大恩を降し、従征した者は皆恩沢に浴した。凱旋の際には、特に曲宴を賜り、また万国の前で重賞を加えられた。内外の文武は皆、陛下の賞が時を過ぎないことを喜んだ。ところが十日も経たないうちに、一斉に大理寺に付された。これは君集らが自ら網羅に掛かったとはいえ、朝廷の人々はその犯した罪を知らず、恐らくは海内がまた、陛下がただその過失のみを記録し、その功績を遺漏したかのように疑うであろう。臣は下才をもって、誤って近職に参じた。既に見聞するところがある以上、黙然としているわけにはいかない。臣は聞く、古の人君は、出師して将を命じ、敵に克てば重賞を獲、克たねば厳刑を受けた。それゆえ、功ある者を賞する時は、たとえ貪残で淫縱であっても、必ず青紫の寵を蒙り、罪ある時は、たとえ勤めて躬を潔くしても、鈇鉞の誅を免れなかった。故に『周書』に曰く、「人の功を記し、人の過を忘るるは、君たるに宜しきなり」と。昔、漢の貳師将軍李広利は五万の師を損じ、億万の費を糜し、四年の労を経て、ただ駿馬三十匹を獲たのみであった。宛王の首を斬ったとはいえ、貪にして卒を愛さず、罪悪は甚だ多かった。武帝は万里を征伐することを以て、その過失を記録せず、遂に広利を海西侯に封じ、食邑八千戸を賜った。また校尉陳湯は詔を矯って師を興し、郅支単于を斬ったとはいえ、湯は元来貪盗であり、収めた康居の財物は、事多く不法で、司隷に繫がれた。湯は乃ち上疏して曰く、「吏士と共に郅支を誅し、幸いに擒滅を得たり。今司隷が乃ち収繫して案験するは、是れ郅支の為に仇を報いるなり」と。元帝はその罪を赦し、湯を関内侯に封じ、黄金百斤を賜った。また晋の龍驤将軍王浚は呉を平定する功があったが、王渾らが浚が詔に違背し、節度を受けず、軍人が孫皓の宝物を得、また皓の宮殿と船を焼いたと論じた。浚は上表して曰く、「今年呉を平ぐるは、誠に大慶なり。臣の身に於いては、更に咎累たり」と。武帝は赦して推問せず、輔国大将軍に拝し、襄陽侯に封じ、絹一万匹を賜った。近く隋の新義郡公韓擒虎が陳を平定した日、士卒をして叔宝の宮内で暴乱せしめたが、文帝もまた罪を問わず、爵を進めなかったが、擒虎を上柱国に拝し、物八千段を賜った。これらを観るに、将帥の臣は、廉慎なる者は少なく、貪求する者は多い。それゆえ黄石公の『軍勢』に曰く、「智を使い、勇を使い、貪を使い、愚を使う。故に智者は其の功を立てるを楽しみ、勇者は其の志を行うを好み、貪者は其の利を邀趨し、愚者は其の死を計らわず」と。これにより前聖は皆、人の長所を収め、短所を棄てたのは、まさにこのためであると知る。臣はまた聞く、天地の道は覆載を以て先とし、帝王の徳は含弘を以て美と為す。区区たる漢武及び歴代の諸帝でさえ、なお広利らを宥することができた。まして陛下は天縱の神武をもって、宏図を振るって六合を定められたのである。どうしてただこの刑網を正すのみで、古人の行いを行わないことがあろうか。伏して惟うに、聖懐は自ら斟酌すべきである。臣が今陳べて聞かせる所以は、敢えて君集らに私するのではなく、螢爝の末光をもって日月の光を増すことを庶幾うものである。もし陛下が雨露の沢を降し、雷電の威を収め、その微労を記録し、その大過を忘れ、君集をして重ねて朝列に昇らせ、再び駆馳に預からしめれば、清貞の臣とは言えなくとも、なお貪愚の将ではあろう。これこそ陛下の聖徳は、法を屈するも徳は弥く顕れ、君集らの愆過は、宥しを蒙るも過は更に彰わるであろう。足るをもって、功を立てた士はこれにより皆励まされ、罪を負った将はこれにより節を改めるであろう。

上疏が奏上されると、乃ち釈放された。君集は自ら西域に功があると思いながら、貪冒によって囚われたので、志は殊に怏怏としていた。十七年、張亮が太子詹事として出て洛州都督となった時、君集は亮を激怒させて曰く、「何故排斥されるのか」と。亮は曰く、「貴公が排斥されたのであり、更に誰を冤としようか」と。君集は曰く、「我は一国を平定して戻ったのに、天子の大いなる怒りに触れた。どうして抑えられ排斥されようか」と。因って袂を攘げて曰く、「鬱鬱として生きられぬ。貴公は反逆できるか。貴公と共に反逆しよう」と。亮は密かにこれを上聞した。太宗は亮に謂って曰く、「卿と君集は共に功臣である。君集が独り卿に語ったことで、他に聞いた者も見た者もいない。もしこれを属吏に付せば、君集は必ずこんなことはないと言うであろう。二人が互いに証言すれば、事の真偽は分からない」。遂にこの事を寝かせ、君集を以前の如く遇した。間もなく諸功臣と共に凌煙閣に画像を描かせた。時に庶人承乾が東宮にいたが、廃立されることを恐れ、また君集の怨望を知り、遂に通謀した。君集の子婿の賀蘭楚石は時に東宮の千牛であった。承乾はしばしば君集を引き入れて、自ら安泰となる術を問うた。君集は承乾が劣弱であるのを見て、隙に乗じてこれを図ろうと意図し、遂に承乾を賛助して陰に不軌を図らせた。かつて手を挙げて承乾に謂って曰く、「この良き手は、当に用いられるべきである」と。君集は或いは謀が洩れることを慮り、心自ら安からず、毎夜中に蹶然として起き、嘆咤すること久しかった。その妻は怪しんで謂って曰く、「貴公は国の大臣である。何故このようになるのか。必ず故があるに違いない。もし不善の事があって国家に孤負するならば、宜しく自ら罪に帰し、首領を全うすべきである」と。君集は用いることができなかった。承乾の事が発覚すると、君集は収監され、楚石もまた闕に詣でてその事を告げた。太宗は親臨して問うて曰く、「私は刀筆吏に貴公を辱しめさせたくないので、自ら鞫問検証するのだ」と。君集は言い逃れができなかった。太宗は百僚に謂って曰く、「かつて家国が未だ安からなかった時、君集は実にその力を展べた。法に置くに忍びない。私はその性命を乞おうと思うが、公卿は私を許すか」と。群臣は争って進み出て曰く、「君集の罪は天地の容れるところではありません。大法を明らかにするために誅すことを請います」と。太宗は君集に謂って曰く、「貴公と長く訣別する。今より後は、ただ貴公の遺像を見るのみである」と。因って歔欷して涙を流した。遂に四達の衢で斬り、その家を籍没した。君集は臨刑に際し、容色を改めず、監刑の将軍に謂って曰く、「君集はどうして反逆者であろうか、蹉跌してここに至った。しかしかつて将として二国を破滅させ、頗る微功があった。陛下に言上して、一子を乞い祭祀を守らせてほしい」と。これにより特にその妻と一子を原赦し、嶺南に徙した。

張亮

張亮は鄭州滎陽けいようの人である。元来は貧しく賤しい身分で、農業を生業としていた。豪放磊落にして大節があり、外見は篤実で厚いが、内心は詭計を抱いており、人々はこれを知らなかった。大業の末、李密が滎・汴の地を攻略すると、亮は策を杖ってこれに従ったが、任用されなかった。時に軍中に謀反を企てる者がおり、亮はこれを密告したので、密は至誠の士と認め、驃騎将軍に任じ、徐勣の配下とした。やがて勣が黎陽をもって国(唐)に帰順するに及んで、亮は大いにその事を賛成し、鄭州刺史を授けられた。折しも王世充が鄭州を陥落させたため、亮は任地に赴くことができず、孤軍で援けもなく、ついに共城の山沢に亡命した。後に房玄齢・李勣が亮が豪放で智謀あることを以て、太宗に推薦し、秦府の車騎将軍に引き立てた。次第に顧遇を受け、心膂として委ねられた。時に建成・元吉が禍を起こそうとしていたので、太宗は洛州が要害の地であることから、一朝事変があれば、出てこれを保とうと考えた。亮を洛陽に派遣し、左右の王保ら千余人を統率させ、ひそかに山東の豪傑を引き入れて事変を待たせ、多額の金帛を出して、その用いるままに任せた。元吉が亮が軌を図らんとしていると告発したので、これに連座して官吏に引き渡されたが、亮は終に何も言わなかった。事が解けて、洛陽に帰還させられた。建成が死ぬと、懐州総管を授けられ、長平郡公に封ぜられた。貞観五年、御史大夫に歴任して遷り、光禄卿に転じ、鄅国公に進封され、実封五百戸を賜った。後に豳・夏・鄜の三州都督を歴任した。七年、魏王泰が相州都督となったが任地に赴かず、亮を金紫光禄大夫に進め、行相州大都督長史とした。十一年、鄖国公に改封された。亮が職に臨むところでは、ひそかに左右の者を遣わして善悪を伺い探らせ、奸悪隠れたことを発摘し、動くこと神の如く、豪強を抑えて貧弱を恤れんだので、所在で称賛された。初め、亮が州にいた時、本妻を棄てて、更に李氏を娶った。李は元来淫行があり、驕慢で嫉妬深く甚だしかったが、亮は寵愛して畏れた。後に相州に至り、鄴県に筆売りを業とする小児がおり、歌舞に長じていたので、李はこれを見て悦び、遂に私通した。亮が先にその母と野合して生んだ子であると偽って言い、亮の子として養い、名を慎幾といった。亮の前妻の子慎微は、しばしば慎幾を養うことを諫めたが、亮は従わなかった。李は特に左道を好み、行くところ巫覡が門に満ち、また政事に干預したので、これにより亮の名声は次第に損なわれた。十四年、また工部尚書となった。明年、太子詹事に遷り、出て洛州都督となった。侯君集が誅殺された時、亮が先にその謀反を奏上していたので、優詔で褒め称えられ、刑部尚書に遷り、朝政に参預した。太宗が高麗を討伐しようとすると、亮は頻りに諫めたが容れられず、自ら従軍を請うた。亮を滄海道行軍大総管とし、舟師を統率させた。東萊から海を渡り、沙卑城を襲撃してこれを破り、男女数千口を捕虜とした。進軍して建安城下に駐屯したが、営塁が未だ固まらず、士卒の多くが薪採りや放牧をしていた。賊の大軍が急に到来し、軍中は惶恐した。亮は元来怯懦で、計策もなく、ただ胡床に踞り、直視して何も言わなかったが、将士らはこれを見て、かえって亮に胆気ありと思った。その副総管張金樹らが鼓を鳴らして士衆に賊を撃たせ、これを破った。太宗は亮に将帥の才がないことを知っていたが、責めはしなかった。方術の者に程公穎という者がおり、亮はこれを親信した。初め、相州にいた時、ひそかに公穎を召して言った、「相州は要害の地で、人言には数年を出でずして王者が起こるとあるが、公はどう思うか」と。公穎は亮に異志あることを知り、亮の臥す姿が龍の形に似ており、必ず大貴すると言った。また公孫常という者がおり、文辞に長じ、自ら黄白の術があると言い、特に亮と親しかった。亮はこれに言った、「私は図讖に『弓長の君、別都に当たる』とあると聞いたことがあるが、この言葉があっても、実は聞きたくはない」と。常はまた亮の名が図録に応じると言ったので、亮は大いに喜んだ。二十年、陝人の常徳玄がこの事を告発し、また亮に義児五百人がいると言った。太宗は法官を遣わしてこれを取り調べさせたところ、公穎及び常がその罪を証言したので、亮は言った、「この二人は死を恐れて誣いるのだ」と。また自ら佐命の旧功を陳べて、寛大な処置を望んだ。太宗は侍臣に言った、「亮に義児五百人いるが、この輩を養うのは、何をしようというのか。正に反逆しようというのだ」と。百官にその獄を議させたところ、多くは亮を誅すべしと言い、ただ将作少匠李道裕のみが亮の反形未だ具わらずと述べて、その無罪を明らかにした。太宗は既に盛怒して、ついに市中で斬り、その家を籍没した。一年余り後、刑部侍郎に欠員が生じ、執政者に適任を選ばせたが、累次奏上しても適任者がいなかった。太宗は言った、「朕に適任者がいる。以前李道裕が張亮について『反形未だ具わらず』と議したが、この言葉は当たっていた。すぐには従わなかったが、今に至って悔いる」と。遂に道裕を刑部侍郎に任じた。

薛萬徹

薛萬徹は雍州咸陽の人で、燉煌から移り住んだ。隋の左御衛大将軍薛世雄の子である。世雄は大業の末に涿郡太守の任で卒した。萬徹は若い時、兄の萬均と共に父に従って幽州におり、共に武略をもって羅藝の親待を受けた。まもなく藝と共に高祖に帰附し、萬均は上柱国・永安郡公を、萬徹は車騎将軍・武安県公を授けられた。時に竇建徳が十万の衆を率いて范陽を寇したので、藝はこれを迎え撃った。萬均は藝に言った、「衆寡敵せず、今もし出撃すれば、百戦百敗するであろう。計をもってこれを取るべきである。疲れた兵と弱い馬に水を背に城を背にして陣を布かせてこれを誘い、賊の勢いを見れば、必ず水を渡って交戦するであろう。萬均は精騎百人を率いて城の側に伏せ、その半ば渡ったところを撃てば、賊を破ることは必定です」と。藝はその言に従った。建徳は果たして軍を率いて水を渡り、萬均が邀撃して大破した。明年、建徳が二十万の衆を率いて再び幽州を攻めた。賊は既に城壁によじ登ろうとしていたが、萬均と萬徹が敢死の士百人を率いて地道から出て、直ちに賊の背後を襲撃したので、賊は潰走した。太宗が劉黒闥を平定した時、萬均を右二護軍に引き立て、恩顧は極めて厚かった。隠太子建成もまた萬徹を引き立てて左右に置いた。建成が誅殺されると、萬徹は宮兵を率いて玄武門で戦い、鼓噪して秦府に入ろうとしたので、将士は大いに恐れた。建成の首を梟して示すと、萬徹は数十騎を率いて終南山に逃亡した。太宗は累次使者を遣わして意を諭したので、萬徹は武器を捨てて来た。太宗はその事に忠であったとして、罪に問わなかった。

萬均は貞観の初めに殿中少監に歴任して遷った。柴紹が梁師都を撃つ時、萬徹を副将とした。朔方に至るまで数十里のところで、突厥が四方から到来し、官軍は少し退いた。萬均と萬徹が横から撃って出て、その驍将を斬り、虜の陣を乱し、これに乗じて、殺傷は野を覆った。鼓行して進み、遂に師都を包囲した。まもなく師都は殺され、城は降伏し、突厥は来援することができなかった。萬徹は後に李靖に従って塞北で突厥の頡利可汗を撃ち、功により統軍を授かり、郡公に進爵した。初め、靖が吐谷渾を撃とうとした時、萬徹を同行させた。賊の境に至ると、諸将と各々百余騎を率いて先行し、突然虜の数千騎と遭遇した。萬徹は単騎で馳せ撃ったので、虜は敢えて当たる者はいなかった。戻って諸将に言った、「賊は容易い相手だ」と。馬を躍らせて再び進み、諸将がこれに従い、数千級を斬り、人馬流血して、勇は三軍に冠した。また萬均と共に赤水源で吐谷渾の天柱王を破り、その雑畜二十万を獲、河源まで追撃した。萬均はその後、左屯衛大将軍に至り、累封して潞国公となり卒した。

萬徹はまもなく母の喪に服して職を解かれたが、ほどなく起用されて右衛将軍となり、蒲州刺史として出向した。時に薛延陀が回紇・同羅の兵を率いて磧を渡り、南進して李思摩を攻撃したので、萬徹は李勣の副将としてこれを救援した。敵と遭遇すると、数百騎を率いて先鋒となり、その陣の背後を撃つと、騎兵は皆散り散りとなり、賊はこれを見て大いに潰走した。数十里を追撃し、三千余級を斬首し、一万五千匹の馬を捕獲した。功により別に一子を県侯に封じた。十八年、左衛将軍を授かり、丹陽公主を娶り、駙馬都尉に任じられた。まもなく右衛大将軍に遷り、杭州刺史に転じ、代州都督に遷り、ふたたび召されて右武衛大将軍に任じられた。太宗は従容として従臣に謂いて曰く、「当今の名将は、ただ李勣・道宗・萬徹の三人のみである。李勣・道宗は大勝せずとも、また大敗せず。萬徹は大勝せざれば、すなわち大敗す」と。太宗はかつて司徒長孫無忌ら十余人を丹霄殿に宴し、各々に貘皮を賜ったが、萬徹もこれに預かった。太宗は萬徹に賜わんとしたが、誤って萬均の名を呼び、愴然として曰く、「萬均は朕の勲旧なり、不幸早く亡し、思わずその名を呼ぶ、豈にその魂霊朕の賜わんことを欲するや」と。そこで貘皮を取り、萬均の名を呼んでともに賜い、その前でこれを焼き、侍坐する者感嘆せざるはなかった。二十二年、萬徹はまた青丘道行軍大総管となり、甲士三万を率いて萊州より海を渡り高麗を伐ち、鴨緑水を百余里入り、泊灼城に至ると、高麗は震懼し、多く城を棄てて遁走した。泊灼城主所夫孫が歩騎一万余人を率いて防戦すると、萬徹は右衛将軍裴行方に歩卒を率いさせて支軍として続いて進ませ、萬徹および諸軍がこれに乗じ、賊は大いに潰走した。百余里を追撃し、陣中で所夫孫を斬り、進軍して泊灼城を包囲した。その城は山に因って険を設け、鴨緑水を阻んで堅固とし、攻めても陥ちなかった。高麗は将軍高文に烏骨・安地諸城の兵三万余人を率いさせて来援させ、両陣を分けて置いた。萬徹は軍を分けてこれに当たらせ、鋒刃ようやく接するや賊は大いに潰走した。萬徹は軍中において、気勢を仗って人を凌ぎ、ある人がこれを奏上した。謁見したとき、太宗はこれに謂いて曰く、「上書する者が卿と諸将の不協を論ずるが、朕は功を録して過を棄て、卿を罪せざるなり」と。そこでその上書を取りて焼いた。まもなく副将・右衛将軍裴行方がその怨望を言上したので、廷においてこれを検証すると、萬徹は言葉に窮した。英国公李勣が進み出て曰く、「萬徹の職は将軍、親は主婿、発言怨望、罪誅に容れず」と。これにより除名して辺境に徙し、赦に会って還ることができた。永徽二年、寧州刺史を授かった。入朝して房遺愛と親しく昵び、遺愛に謂いて曰く、「今たとえ脚を患うとも、京師に坐していれば、諸輩なお敢えて動かず」と。遺愛は萬徹に謂いて曰く、「公もし国家に変あらば、我は公とともに荊王元景を立てて主とせん」と。謀が洩れると、吏がこれを逮捕し、萬徹はこれを認めず、遺愛がこれを証したので、ついに誅された。臨刑に大言して曰く、「薛萬徹は大健児なり、留まって国家に効死力するは固よりよし、豈に房遺愛に坐して殺されんや」と。そこで衣を解き監刑者に謂って速やかに斬れと言った。刃を執る者が斬っても絶えず、萬徹はこれを叱して曰く、「何ぞ力を加えざる」と。三たび斬ってようやく絶えた。

萬徹の長兄萬淑もまた戦功があった。貞観初年、営州都督に至り、検校東夷校尉を兼ね、梁郡公に封ぜられた。末弟萬備は孝行があり、母が終ると墓側に廬した。太宗は璽書を降して弔慰し、なおその門を旌表した。後に官は左衛将軍に至った。ともに萬徹に先立って卒した。

初め、武徳・貞観の際、盛彦師・盧祖尚・劉世譲・劉蘭・李君羨らがあり、ともに功名があったがその位を終えなかった。

盛彦師

盛彦師は、宋州虞城の人である。大業年中、澄城の長となった。義師が汾陰に至ると、賓客千余人を率いて河を渡り謁し、銀青光禄大夫・行軍総管に拝され、従って京城を平定した。まもなく史萬宝とともに宜陽を鎮めて東寇を防いだ。李密の叛くに及び、山南に出ようとすると、史萬宝は李密の威名を懼れ、敢えて拒まず、彦師に謂って曰く、「李密は驍賊なり、また王伯当を輔け、決策して叛く、その下の兵士は東帰を欲す、万全の計に出でざれば、すなわち為さざるなり。兵は死地にあり、当え難からん」と。彦師笑って曰く、「数千の衆を以てこれを邀えんことを請う、必ずその首を梟すべし」と。萬宝曰く、「計いずくに出でん」と。対えて曰く、「軍法は詐りを尚ぶ、公の為にこれを説くべからず」と。便ち衆を率いて熊耳山の南を逾え、道に傍って止まり、弓弩の者に道を挟んで高きに乗じさせ、刀楯の者を渓谷に伏せさせた。令して曰く、「賊の半渡を待ち、一時に斉しく発せよ、弓弩は高きに拠って縦射し、刀楯は即ち乱れ出てこれを薄めよ」と。ある人がこれに問うて曰く、「李密の洛州に向かわんと欲すと聞くに、公は山に入る、何ぞや」と。彦師曰く、「密は声言して洛に向かうとすれども、実は襄城に走りて張善相に就かんとするなり、必ずや人の不意に出でん。もし賊が谷口に入らば、我は自ら後よりこれを追うべし、山路険隘にして力を展ぶる所なく、一夫殿すれば必ず制し難からん。今吾先んじて谷に入るを得ば、これを擒にするは必せり」と。李密はすでに陝州を度り、余は慮るに足らずと以為い、遂に衆を擁して徐行し、果たして山南を逾えて渡った。彦師これを撃つと、李密の衆は首尾断絶し、相救うを得ず、遂に李密を斬り、伯当を追擒した。功により葛国公に封ぜられ、武衛将軍に拝され、なお熊州を鎮めた。太宗が王世充を討つに、彦師を遣わして萬宝とともに伊闕に軍し、その山南の路を絶った。賊平らぎ、宋州総管を除かれた。初め、彦師の関に入るや、王世充はその将陳宝遇を宋州刺史とし、その家を処するに礼を以てせず、ここに及び、彦師は事に因ってこれを殺した。平生の悪むところ数十家もまた皆これを殺した。州中震駭し、重足して立った。時に徐円朗が反し、彦師は安撫大使となり、戦いに因って遂に賊に没した。円朗は礼厚くこれをもてなし、彦師にその弟に報ずる書を作らせ、城を挙げて己に降らしめよと命じた。彦師書を作りて曰く、「吾使を奉じて無状、賊に擒にせられ、臣として不忠、死を誓う。汝宜しく老母を善く侍し、吾を念うことなかれ」と。円朗初め色動いたが、彦師自若たり、円朗乃ち笑って曰く、「盛将軍は壮節あり、殺すべからず」と。旧の如くこれをもてなした。賊平らぎ、彦師は竟に罪を以て賜死した。

盧祖尚

盧祖尚は、字を季良といい、光州楽安の人である。父の禧は、隋の虎賁郎将であった。累代の豪富で、財産を傾けて施しを行い、人心を大いに得た。大業の末、壮士を募集して群盗を追捕した。当時は年齢が非常に若かったが、武勇は人に優れ、また衆を統御するに厳整であり、向かうところ功績があった。群盗は畏怖し、その境に入ることを敢えてしなかった。宇文化及が乱を起こすと、州人は祖尚に刺史を請うた。祖尚は当時十九歳で、壇に登り血をすすって、その衆に誓い、涙を流してすすり泣き、悲しみに堪えず、衆は皆感激した。王世充が越王侗を立てると、祖尚は使者を遣わしてこれに従い、侗は祖尚を光州総管に任じた。世充が自立すると、ついに州を挙げて帰順し、高祖はこれを嘉して、璽書を賜り労い励まし、光州刺史に任じ、弋陽郡公に封じた。武徳六年、趙郡王孝恭に従って輔公祏を討ち、前軍総管となり、その宣州・歙州を攻めてこれを陥落させた。進んで賊帥の馮恵亮・陳正通を撃ち、ともにこれを破った。賊が平定されると、功により蔣州刺史を授けられた。また寿州都督・瀛州刺史を歴任し、いずれも能吏の名声があった。貞観初め、交州都督・遂安公寿が貪欲の罪を得ると、太宗は良き州牧を求め、朝臣は皆、祖尚の文武兼備の才と廉潔公平正直を言上した。京師に召し出され、朝廷でこれに言うには、「交州は大藩で、京師から甚だ遠く、賢牧を以てこれを撫する必要がある。前後の都督は皆その職に適わなかった。卿には辺境を安んずる方策がある。我のために辺境を鎮めよ。道遠きを以て辞するなかれ」と。祖尚は拝謝して退出したが、やがてこれを後悔し、旧疾を理由に辞退した。太宗は杜如晦を遣わして旨を諭させたが、祖尚は固く辞した。またその妻の兄の周范を遣わしてこれを諭させて言うには、「匹夫でさえ約束を交わすには、なお信を守るべきである。卿は面と向かって朕に許諾したのに、どうして後になってこれを悔いることがあろうか。早く赴任すべきである。三年すれば必ず自ら召し還そう。卿は推拒せず、朕は食言しない」と。これに対し、「嶺南は瘴癘の地で、皆毎日酒を飲みます。臣は酒に強くなく、行けば戻れないでしょう」と答えた。太宗は大いに怒って言うには、「我が人を使うに従わぬなら、どうして天下を命じることができようか」と。朝廷でこれを斬った。時に三十余歳であった。やがてこれを後悔し、その官爵と蔭位を復活させた。

劉世讓

劉世讓は、字を元欽といい、雍州醴泉の人である。隋に仕えて征仕郎となった。高祖が長安に入ると、世讓は湋川を以て国に帰順し、通議大夫に任じられた。時に唐弼の残党が扶風を寇すと、世讓は自ら安撫を請い、許され、間もなく数千人を得た。また安定道行軍総管となり、兵を率いて薛挙を防ぎ、戦いに敗れ、世讓と弟の宝はともに挙の軍に捕らえられた。挙は城下に至らせ、城中を欺いて言わせた。「大軍五道はすでに長安に向かっている。早く門を開いて降るべきである」と。世讓は偽ってこれを承諾し、城中に告げて言うには、「賊兵の数は、これが限りである。よく自らを固守し、安全を図るべし」と。挙はその節操を重んじ、ついに害を加えなかった。太宗が当時高墌に兵を駐屯させると、世讓は密かに宝を逃がして帰らせ、賊中の虚実を言上させた。高祖はこれを嘉し、その家に帛千匹を賜った。賊が平定されると、帰還し、彭州刺史を授けられた。まもなく陝東道行軍総管を兼ね、永安王孝基とともに夏県で呂崇茂を撃ったが、諸軍は敗北し、世讓と唐儉はともに賊に捕らえられた。獄中で独狐懐恩に逆謀があると聞き、逃げ帰って高祖に告げた。時に高祖はちょうど河を渡り、懐恩の陣営に行こうとしていたが、難を聞いて驚き言うには、「劉世讓の到来は、まさに天命ではなかろうか」と。そこでこれを労って言うには、「卿はかつて薛挙に陥り、弟を潜かに遣わして誠意を尽くし、今また危険を冒して難を告げる。これらは皆、国を憂い身を忘れたものである」と。まもなく弘農郡公に封じられ、荘園一区と銭百万を賜った。累進して并州総管となり、兵を統率して雁門に駐屯した。突厥の処羅可汗が高開道・苑君璋と合流し、これを激しく攻めた。鴻臚卿の鄭元璹が先に蕃国に使者としており、可汗は元璹に命じてこれを説得させた。世讓は声を厲して言うには、「大丈夫たるもの、どうして夷狄のために説客となろうか」と。一日余りして、虜は退いた。元璹が帰還すると、世讓の忠貞勇幹を述べ、高祖は制を下してこれを褒め称え、良馬を賜った。間もなく、召し出されて広州総管に任じられた。赴任しようとする時、高祖に備辺の策を問われると、世讓は答えて言うには、「突厥が南寇するのは、ただ馬邑をその中路とするからです。臣の計るところでは、崞城に智勇の将を一人置き、金帛を多く蓄え、降って来る者には厚く賞賜し、しばしば奇兵を出してその城下を略奪し、禾稼を刈り踏み荒らし、その生業を破壊します。一年と経たぬうちに、彼らは食糧がなくなり、馬邑は図るに足りなくなります」と。高祖に任せられる者がいなかったので、駅馬を馳せて往き経略させた。突厥はその威名を恐れ、反間を放ち、世讓が可汗と通謀し、乱を起こそうとしていると流言した。高祖はこれを察知せず、ついに世讓を誅し、その家を籍没した。貞観初め、突厥の降伏者が、世讓には初め逆謀がなかったと言い、ようやくその妻子を赦した。

劉蘭

劉蘭は、字を文郁といい、青州北海の人である。隋に仕えて鄱陽郡書佐となった。経史に広く通じ、成敗を論ずるに巧みであった。しかし性質は凶悪狡猾が多く、隋末に乱が起こらんとするのを見て、不逞の徒と交際した。当時、北海は完富であり、蘭はその子女玉帛を利して、群盗と相呼応し、その本郷の城邑を破った。武徳年間、淮安王神通が山東道安撫大使となると、蘭は宗族を率いてこれに帰順した。功により累進して尚書員外郎となった。貞観初め、梁師都がなお朔方を占拠すると、蘭は攻取の計を上言した。太宗はこれを善しとし、夏州都督府司馬に任じた。時に梁師都が突厥の軍を率いて城下に陣を敷くと、蘭は旗を偃げ鼓を臥せ、これと鋒を争わず、賊徒は夜遁し、蘭は追撃してこれを破り、ついに夏州に進軍した。師都が平定されると、功により豊州刺史に転じ、召し出されて右領軍将軍となった。十一年、洛陽に行幸し、蜀王愔を夏州都督とした。愔はその藩国に赴かず、蘭を長史としてその府の事務を総括させた。時に突厥は離反し、郁射設の阿史那摸末がその部落を率いて河南に入居した。蘭は反間を放ってその部落を離間させると、頡利は果たして摸末を疑い、摸末は恐れ、頡利はまた兵を遣わしてこれを追った。蘭は衆を率いて迎え撃ち、これを破った。太宗はこれを能あるものとし、抜擢して豊州刺史とし、再び転じて夏州都督とし、平原郡公に封じた。貞観末、謀反の罪で腰斬に処せられた。右驍衛大将軍の丘行恭がその心肝を探り出して食った。太宗はこれを聞き、行恭を召して責めて言うには、「典刑には常の科条がある。どうしてここまでする必要があろうか。もし逆者の心肝を食って忠孝となすならば、劉蘭の心は太子や諸王が食うべきであって、どうして卿に至ろうか」と。行恭は答える言葉がなかった。

李君羨

李君羨は、洺州武安の人である。初め王世充の驃騎となり、世充の為人を憎み、その徒党と共に叛いて来帰した。太宗はこれを左右に引き立てた。劉武周及び王世充等を討つに従い、毎戦必ず単騎先鋒として陣を陥し、前後して宮女・馬牛・黄金・雑彩を賜わること、数え切れなかった。太宗即位の後、累遷して華州刺史となり、武連郡公に封ぜられた。貞観の初め、太白星が頻りに昼間に現れ、太史が占って曰く、「女三昌」と。また謡言有り、「当に女武王有るべし」と。太宗これを憎んだ。時に君羨は左武衛将軍として、玄武門に在った。太宗、武官の内宴に因り、酒令を作り、各々小名を言わしめた。君羨自ら小名を「五娘子」と称した。太宗愕然として、因って大笑して曰く、「何たる女子ぞ、かくの如く勇猛なる」と。また君羨の封邑及び属県に皆「武」の字有るを以て、深くこれを憎んだ。会うに御史が君羨が妖人たる員道信と潜かに謀り結び、将に不軌を為さんとすと奏した。遂に詔を下してこれを誅した。天授二年、その家族が闕に詣でて冤を称した。則天は乃ちその官爵を追復し、礼を以て改葬した。

史臣曰く

史臣曰く、侯君集は凶を摧き敵を克つに、効用多くを占む。寵を恃み功を矜り、粗率にして検わず、前功を棄てて後患に罹る。貪愚の将、明らかなり。張亮は公穎の妖言を聴き、弓長の邪讖を恃み、義兒を斯く畜い、悪跡遂に彰る。道裕雲く反状未だ形を成さずと雖も、詭詐の性、ここに験わる。万徹は籌を行陣に深くし、勇は戎夷に冠たり。その首領を保つ能わず、以て誅戮に至る。夫れ二三子は、始めを慎みて終わりを保つに非ざるなり。

賛に曰く、君子功を立て、謙沖を以て守る。小人位を得て、足れり身を害するに。侯・張凶険、聖代を窺い望む。雄なること韓・彭の若くとも、菹醢を逃れ難し。