旧唐書
巻六十八 列伝第十八 尉遅敬徳 秦叔宝 程知節 段志玄 張公謹
尉遅敬徳
六月四日、建成が既に死ぬと、敬徳は七十騎を率いて踵を接して続いて至り、元吉は馬を走らせて東へ奔り、左右からこれを射て墜馬させた。太宗の乗っていた馬がまた林の下に逸走し、横に繣(轡の革)に引っ掛かり、墜ちて起き上がれなかった。元吉は急いで来て弓を奪おうとし、まさに扼(首を絞め)んとしようとした。敬徳は馬を躍らせてこれを叱り、そこで歩いて走り、武徳殿に帰ろうとしたが、敬徳は奔り逐ってこれを射殺した。その宮府の諸将、薛万徹・謝叔方・馮立らが兵を率いて大いに至り、玄武門に屯して、屯営将軍を殺した。敬徳は建成・元吉の首を持ってこれらに示すと、宮府の兵は遂に散った。この時、高祖は海池で舟を浮かべていた。太宗は敬徳に命じて高祖を侍衛させた。敬徳は甲を擐え矛を持ち、直ちに高祖の居所に至った。高祖は大いに驚き、問うて言うには、「今日乱を起こした者は誰か。卿がここに来るのは何故か」と。答えて言うには、「秦王が太子・斉王の乱を起こしたとして、兵を挙げてこれを誅しました。陛下が驚動されることを恐れ、臣を遣わして宿衛させたのです」と。高祖の心は乃ち安らかになった。南衙・北門の兵馬及び二宮の左右がなお相拒んで戦っていたので、敬徳は奏上して手勅を降すことを請い、諸軍兵をして並びに秦王の処分を受けるようにさせた。そこで内外は遂に定まった。高祖は敬徳を労って言うには、「卿は国のために社稷を安んずる功がある」と。珍物を賜うこと甚だ多かった。太宗が春宮(皇太子の宮)に昇ると、太子左衛率を授けた。時に議する者は、建成らの左右百余人を、併せて従坐として籍没すべきだと論じたが、唯だ敬徳がこれを執って聴かず、言うには、「罪を為した者は二凶(建成・元吉)であり、今既に誅し終わった。若し更に支党に及ぼすならば、安んずるの策を取るものではない」と。これによって免れることを得た。及び功を論ずると、敬徳と長孫無忌を第一とし、各々絹一万匹を賜う。斉王府の財幣器物は、その全邸を封じて、尽く敬徳に賜うた。
秦叔宝
六月四日、建成・元吉の誅殺に従った。事が寧んじると、左武衛大将軍に拝され、実封七百戸を食んだ。その後は毎度多く疾病に罹り、因って人に謂って言うには、「我は少より戎馬に長じ、経ること二百余陣、屡々重瘡に中る。我が前後出血するを計るに亦数斛に及ぶ。安んぞ病まざらんや」と。十二年に卒す。徐州都督を贈られ、昭陵に陪葬された。太宗は特に司(役所)に命じてその塋内に石人馬を立て、戦陣の功を旌(顕彰)させた。十三年、胡国公に改封された。十七年、長孫無忌らと共に凌煙閣に図形された。
程知節
段志玄
張公謹
公謹の子 大素
公謹の子 大安
大安の子 涚
史臣曰
史臣曰く、敬徳は槊を奪い陣を陥れ、王師の勇を鼓し、賂を退けて恩に報い、忠を竭くして霸主に尽くす。然れども拳を奮い気を負うは、自ら全うするの道に非ず。文皇の告誡の言は、功臣の薬石と為すべし。叔宝は馬槊を用いるに善く、賊の壘を抜くには寡を以て衆に敵す。勇と謂うべし。知節は国難を平らげんことを志し、隼籞(衛府の官)に拝されては命を致して君を輔く。忠と謂うべし。而して並びに世充の猜貳を暁り、唐代の霸図を識る。幾を見る君子と謂うべし。志玄は鏑に中りても言わず、竟に師旅を安んず。公謹は亀を投じて議を定め、志は儲君を助く。皆いわゆる猛将謀臣、機を知り変を識る。唐の盛んなる有るは、斯れ実にこれに頼る。
賛
賛して曰く、太宗の経綸は、実に虎臣に頼る。胡・鄂の諸将は、身を顧みず奮う。図形は凌煙にあり、配食は厳禋にあり。簡冊に光をそえ、君親に報ゆ。