舊唐書

巻067

巻067

舊唐書

原文舊唐書

卷六十七

原文卷六十七

列傳第十七 李靖 李勣

原文列傳第十七 李靖 李勣

李靖、客師、令問、彦芳

原文○李靖 客師 令問 彥芳

李勣、孫敬業

原文李勣 孫敬業

李靖

原文李靖

李靖は、本名を薬師といい、雍州三原の人である。祖父の崇義は、後魏の殷州刺史・永康公であった。父の詮は、隋の趙郡守であった。靖は姿形が魁偉で、若い頃から文武の才略があり、常に親しい者に言うには、「大丈夫たるもの、主君に遇い時を得れば、必ずや功を立て事を成し、富貴を取るべきである」と。その舅の韓擒虎は、名将と称せられ、常に彼と兵法を論じるごとに、称善せざることはなく、彼を撫でて言うには、「孫子・呉子の術を論じ得る者は、この人だけである」と。初め隋に仕えて長安ちょうあん県功曹となり、後に駕部員外郎を歴任した。左僕射の楊素、吏部尚書の牛弘はいずれも彼を善しとした。素はかつてその床を叩いて靖に言うには、「卿は終にこの座に坐すであろう」と。

原文李靖,本名藥師,雍州三原人也。祖崇義,後魏殷州刺史、永康公。父詮,隋趙郡守。靖姿貌瑰偉,少有文武材略,每謂所親曰:「大丈夫若遇主逢時,必當立功立事,以取富貴。」其舅韓擒虎,號為名將,每與論兵,未嘗不稱善,撫之曰:「可與論孫、吳之術者,惟斯人矣。」初仕隋為長安縣功曹,後歷駕部員外郎。左僕射楊素、吏部尚書牛弘皆善之。素嘗拊其床謂靖曰:「卿終當坐此。」

大業の末、累遷して馬邑郡丞となった。時に高祖こうそが塞外で突厥を撃つこととなり、靖は高祖を観察し、四方を志す志があることを知り、自ら鎖をかけて上変しようとし、江都に赴かんとしたが、長安に至り、道が塞がって通じず、止まった。高祖が京城を克つと、靖を捕らえて斬らんとした。靖は大声で呼んで言うには、「公は義兵を起こし、本来は天下の暴乱を除くためであり、大事を成さんと欲しながら、私怨をもって壮士を斬るのか」と。高祖はその言葉を壮とし、太宗もまた固く請うたので、遂に赦した。太宗は間もなく召し出して幕府に入れた。

原文大業末,累除馬邑郡丞。會高祖擊突厥於塞外,靖察高祖,知有四方之志,因自鎖上變,將詣江都,至長安,道塞不通而止。高祖克京城,執靖將斬之,靖大呼曰:「公起義兵,本為天下除暴亂,不欲就大事,而以私怨斬壯士乎!」高祖壯其言,太宗又固請,遂舍之。太宗尋召入幕府。

武徳三年、王世充討伐に従い、功により開府を授けられた。時に蕭銑が荊州に拠り、靖を遣わしてこれを安輯させた。軽騎で金州に至ると、蛮賊数万に出会い、山谷に屯聚していた。廬江王の瑗がこれを討ったが、数度敗れた。靖は瑗と謀略を設けてこれを撃ち、多くを克ち獲た。硤州に至ると、蕭銑に阻まれ、久しく進むことができなかった。高祖はその遅滞を怒り、密かに硤州都督ととくの許紹に命じて斬らせようとした。紹はその才を惜しみ、彼のために命を請うたので、ここに免れることができた。時に開州の蛮首の冉肇則が反し、衆を率いて夔州を寇した。趙郡王の孝恭がこれと戦ったが、利あらず。靖は兵八百を率いてその営を襲い破り、後にまた要険に伏兵を設け、陣に臨んで肇則を斬り、五千余人を俘獲した。高祖は大いに悦び、公卿に謂って言うには、「朕は聞く、功ある者を使うは過ちある者を使うに如かずと。李靖は果たしてその効を展べた」と。そこで璽書を降して労うには、「卿は誠を竭くし力を尽くし、功効は特に顕著である。遠く至誠を覧て、極めて嘉賞す。富貴を憂うるなかれ」と。また手敕を靖に下して言うには、「既往は咎めず、旧事は吾久しく之を忘れた」と。

原文武德三年,從討王世充,以功授開府。時蕭銑據荊州,遣靖安輯之。輕騎至金州,遇蠻賊數萬,屯聚山谷。廬江王瑗討之,數為所敗。靖與瑗設謀擊之,多所克獲。既至硤州,阻蕭銑,久不得進。高祖怒其遲留,陰敕硤州都督許紹斬之。紹惜其才,為之請命,於是獲免。會開州蠻首冉肇則反,率眾寇夔州,趙郡王孝恭與戰,不利。靖率兵八百,襲破其營,後又要險設伏,臨陣斬肇則,俘獲五千餘人。高祖甚悅,謂公卿曰:「朕聞使功不如使過,李靖果展其效。」因降璽書勞曰:「卿竭誠盡力,功效特彰。遠覽至誠,極以嘉賞,勿憂富貴也。」又手敕靖曰:「既往不咎,舊事吾久忘之矣。」

四年、靖はまた十策を陳べて蕭銑を図った。高祖はこれに従い、靖に行軍総管を授け、兼ねて孝恭の行軍長史を摂らせた。高祖は孝恭がまだ軍旅を経ていないため、三軍の任を一に靖に委ねた。その年八月、兵を夔州に集めた。銑は時が秋の潦に属し、江水が泛漲し、三峡の路が険しいため、靖が進めないと必ず思い、兵を休めて備えを設けなかった。九月、靖は乃ち師を率いて進み、峡を下らんとした。諸将は皆兵を停めて水の退くのを待つよう請うたが、靖は言うには、「兵は神速を貴ぶ。機は失うべからず。今兵始めて集まり、銑は未だ知らず。若し水漲の勢いに乗じ、倏忽として城下に至れば、所謂疾雷耳に及ばず、これ兵家の上策である。仮に彼我を知るも、倉卒に兵を徴し、応敵するに及ばず、これ必ず成擒とならん」と。孝恭はこれに従い、兵を進めて夷陵に至った。銑の将の文士弘が精兵数万を率いて清江に屯した。孝恭はこれを撃たんとしたが、靖は言うには、「士弘は銑の健将であり、士卒は驍ぎょう勇である。今新たに荊門を失い、兵を尽くして出戦するは、これ敗を救うの師であり、恐らく当たるべからず。宜しく自ら南岸に泊し、鋒を争わず、その気衰えるを待ち、然る後に奮撃すれば、これを破ることは必ずである」と。孝恭は従わず、靖を留めて営を守らせ、師を率いて賊と合戦した。孝恭は果たして敗れ、南岸に奔った。賊の舟は大いに掠め、人皆重きを負う。靖はその軍の乱れるを見て、兵を放ってこれを撃ち破り、その舟艦四百余艘を獲、斬首及び溺死する者将に万人に及んだ。

原文四年,靖又陳十策以圖蕭銑。高祖從之,授靖行軍總管,兼攝孝恭行軍長史。高祖以孝恭未更戎旅,三軍之任,一以委靖。其年八月,集兵於夔州。銑以時屬秋潦,江水泛漲,三峽路險,必謂靖不能進,遂休兵不設備。九月,靖乃率師而進,將下峽,諸將皆請停兵以待水退,靖曰:「兵貴神速,機不可失。今兵始集,銑尚未知,若乘水漲之勢,倏忽至城下,所謂疾雷不及掩耳,此兵家上策。縱彼知我,倉卒徵兵,無以應敵,此必成擒也。」孝恭從之,進兵至夷陵。銑將文士弘率精兵數萬屯清江,孝恭欲擊之,靖曰:「士弘,銑之健將,士卒驍勇,今新失荊門,盡兵出戰,此是救敗之師,恐不可當也。宜自泊南岸,勿與爭鋒,待其氣衰,然後奮擊,破之必矣。」孝恭不從,留靖守營,率師與賊合戰。孝恭果敗,奔於南岸。賊舟大掠,人皆負重。靖見其軍亂,縱兵擊破之,獲其舟艦四百餘艘,斬首及溺死將萬人。

孝恭は靖に軽兵五千を率いて先鋒たらしめ、江陵に至り、城下に営を屯した。士弘が既に敗れたので、銑は甚だ懼れ、始めて江南に兵を徴したが、果たして至ることができなかった。孝恭は大軍を以て継いで進み、靖はまたその驍将の楊君茂・鄭文秀を破り、甲卒四千余人を俘え、更に兵を勒して銑の城を囲んだ。明日、銑は使いを遣わして降を請うた。靖は即ち入ってその城を占拠し、号令厳粛で、軍に私すること無かった。時に諸将は皆孝恭に言うには、「銑の将帥で官軍に拒戦して死した者の罪状は既に重い。請うてその家を籍没し、将士に賞せん」と。靖は言うには、「王者の師は、義は弔伐に存す。百姓は既に駆逼を受け、拒戦すること豈にその願うところならんや。且つ犬はその主に吠えず、叛逆の科に同うるを容れざるは、これ蒯通が漢祖に大戮を免れたる所以である。今新たに荊・郢を定むるに、宜しく寛大を弘めて、遠近の心を慰むべし。降りて之を籍するは、恐らく焚を救い溺を拯うの義に非ざらん。但し恐らくは此より已南の城鎮、各堅守して下らざらんは、計の善きに非ず」と。ここにおいて遂に止めた。江・漢の域は、これを聞いて争って下らざるは無かった。功により上柱国を授けられ、永康県公に封ぜられ、物二千五百段を賜う。詔命して荊州刺史を検校せしめ、制を承けて拝授させた。乃ち嶺を度って桂州に至り、人を分遣して道を招撫すると、その大首領の馮盎・李光度・寧真長らは皆子弟を遣わして来謁し、靖は制を承けてその官爵を授けた。凡そ懐輯すること九十六州、戸六十余万。優詔を以て労勉し、嶺南道撫慰大使を授け、桂州総管を検校した。

原文孝恭遣靖率輕兵五千為先鋒,至江陵,屯營於城下。士弘既敗,銑甚懼,始徵兵於江南,果不能至。孝恭以大軍繼進,靖又破其驍將楊君茂、鄭文秀,俘甲卒四千餘人,更勒兵圍銑城。明日,銑遣使請降,靖即入據其城,號令嚴肅,軍無私焉。時諸將咸請孝恭云:「銑之將帥與官軍拒戰死者,罪狀既重,請籍沒其家,以賞將士。」靖曰:「王者之師,義存吊伐。百姓既受驅逼,拒戰豈其所願?且犬吠非其主,無容同叛逆之科,此蒯通所以免大戮於漢祖也。今新定荊、郢,宜弘寬大,以慰遠近之心,降而籍之,恐非救焚拯溺之義。但恐自此已南城鎮,各堅守不下,非計之善。」於是遂止。江、漢之域,聞之莫不爭下。以功授上柱國,封永康縣公,賜物二千五百段。詔命檢校荊州刺史,承制拜授。乃度嶺至桂州,遣人分道招撫,其大首領馮盎、李光度、寧真長等皆遣子弟來謁,靖承製授其官爵。凡所懷輯九十六州,戶六十餘萬。優詔勞勉,授嶺南道撫慰大使,檢校桂州總管。

六年、輔公祏が丹陽で反し、詔して孝恭を元帥とし、靖を副としてこれを討たしめ、李勣・任瑰・張鎮州・黄君漢ら七総管は並びに節度を受けた。師は舒州に次ぐ。公祏は将の馮恵亮を遣わして舟師三万を率い当塗に屯せしめ、陳正通・徐紹宗は歩騎二万を率いて青林山に屯し、仍って梁山に鉄鎖を連ねて江路を断ち、却月城を築き、延袤十余里、恵亮と犄角の勢いを為した。孝恭は諸将を集めて会議した。皆言うには、「恵亮・正通は並びに強兵を握り、不戦の計を為し、城柵既に固く、卒に攻むべからず。請うて直ちに丹陽を指し、その巣穴を掩わん。丹陽既に破れば、恵亮自ら降らん」と。孝恭はその議に従わんとした。靖は言うには、「公祏の精鋭は、水陸二軍に在りと雖も、然れどもその自ら統ぶる兵も亦皆勁勇である。恵亮らの城柵尚お攻むべからざるに、公祏は既に石頭を保つ。豈に容易に抜くべきや。若し我が師丹陽に至り、旬月留停すれば、進むは公祏未だ平らざるも、退くは恵亮患いを為さん。これ便り腹背敵を受くれば、恐らく万全の計に非ざらん。恵亮・正通は皆是れ百戦の余賊、必ずや野戦を憚らざるも、止むるは公祏の為に計を立て、其に持重せしめ、但だ戦わずして、我が師を老いさせんと欲するのみ。今その城柵を攻めんと欲するは、乃ちその不意に出で、賊を滅するの機、唯だ此の挙に在り」と。孝恭は然りとした。靖は乃ち黄君漢らを率いて先ず恵亮を撃ち、苦戦してこれを破り、殺傷及び溺死者万余人、恵亮は奔走した。靖は軽兵を率いて先ず丹陽に至る。公祏大いに懼れる。先に偽将の左遊仙を遣わして兵を領し会稽を守らせて引援と為し、公祏は兵を擁して東走し、遊仙に趨らんとしたが、呉郡に至り、恵亮・正通と並び相次いで擒獲され、江南悉く平らぐ。ここにおいて東南道行台を置き、靖を行台兵部尚書に拝し、物千段・奴婢百口・馬百匹を賜う。その年、行台廃され、また揚州大都督府長史を検校した。丹陽は連ねて兵寇に罹り、百姓凋弊していたが、靖はこれを鎮撫し、呉・楚は以て安んず。

原文六年,輔公祏於丹陽反,詔孝恭為元帥、靖為副以討之,李勣、任瑰、張鎮州、黃君漢等七總管並受節度。師次舒州,公祏遣將馮惠亮率舟師三萬屯當涂,陳正通、徐紹宗領步騎二萬屯青林山,仍於梁山連鐵鎖以斷江路,築卻月城,延袤十餘里,與惠亮為犄角之勢。孝恭集諸將會議,皆云:「惠亮、正通並握強兵,為不戰之計,城柵既固,卒不可攻。請直指丹陽,掩其巢穴,丹陽既破,惠亮自降。」孝恭欲從其議。靖曰:「公祏精銳,雖在水陸二軍,然其自統之兵,亦皆勁勇。惠亮等城柵尚不可攻,公祏既保石頭,豈應易拔?若我師至丹陽,留停旬月,進則公祏未平,退則惠亮為患,此便腹背受敵,恐非萬全之計。惠亮、正通皆是百戰餘賊,必不憚於野戰,止為公祏立計,令其持重,但欲不戰,以老我師。今欲攻其城柵,乃是出其不意,滅賊之機,唯在此舉。」孝恭然之。靖乃率黃君漢等先擊惠亮,苦戰破之,殺傷乃溺死者萬餘人,惠亮奔走。靖率輕兵先至丹陽,公祏大懼。先遣偽將左遊仙領兵守會稽以為引援,公祏擁兵東走,以趨遊仙,至吳郡,與惠亮、正通並相次擒獲,江南悉平。於是置東南道行台,拜靖行台兵部尚書,賜物千段、奴婢百口、馬百匹。其年,行台廢,又檢校揚州大都督府長史。丹陽連罹兵寇,百姓凋弊,靖鎮撫之,吳、楚以安。

八年、突厥が太原を寇す。靖を行軍総管と為し、江淮の兵一万を統率せしめ、張瑾と共に大谷に屯す。時に諸軍利あらず、靖の衆のみ独り全し。尋いで安州大都督を検校す。高祖は常に云う、「李靖は蕭銑・輔公祏の膏肓なり。古の名将たる韓信かんしん・白起・衛青・霍去病、豈に及ぶべけんや」と。九年、突厥の莫賀咄設が辺境を寇す。靖を征して霊州道行軍総管と為す。頡利可汗が涇陽に入る。靖は兵を率いて倍道して豳州に趨き、賊の帰路を邀う。既にして虜と和親して罷む。

原文八年,突厥寇太原,以靖為行軍總管,統江淮兵一萬,與張瑾屯大谷。時諸軍不利,靖眾獨全。尋檢校安州大都督。高祖每云:「李靖是蕭銑、輔公祏膏肓,古之名將韓、白、衛、霍,豈能及也!」九年,突厥莫賀咄設寇邊,征靖為靈州道行軍總管。頡利可汗入涇陽,靖率兵倍道趨豳州,邀賊歸路,既而與虜和親而罷。

太宗位を嗣ぐ。刑部尚書に拝し、併せて前後の功を録し、実封四百戸を賜う。貞観二年、本官を以て兼ねて中書令を検校す。三年、兵部尚書に転ず。突厥諸部離叛す。朝廷将に進取を図らんとし、靖を代州道行軍総管と為し、驍騎三千を率い、馬邑より其の不意に出で、直ちに悪陽嶺に趨きて之を逼る。突利可汗は靖を虞わず、官軍の奄かに至るを見て、是に於いて大いに懼れ、相謂いて曰く、「唐兵若し国を傾けて来たらずば、靖豈に孤軍を以て至らんや」と。一日に数たび驚く。靖は候いて之を知り、潜かに間諜をして其の心腹を離さしむ。其の親しむ所の康蘇密来たりて降る。四年、靖進みて定襄を撃ち、之を破り、隋の斉王暕の子楊正道及び煬帝の蕭后を獲て、京師に送る。可汗は僅かに身を以て遁る。功を以て代国公に進封し、物六百段及び名馬・宝器を賜う。太宗嘗て謂いて曰く、「昔、李陵が歩卒五千を提げ、身を匈奴に降すを免れず、尚お竹帛に名を書くを得たり。卿は三千の軽騎を以て深く虜庭に入り、定襄を克復し、威を北狄に振う。古今未だ嘗て有らず。往年の渭水の役に報ゆるに足る」と。

原文太宗嗣位,拜刑部尚書,並錄前後功,賜實封四百戶。貞觀二年,以本官兼檢校中書令。三年,轉兵部尚書。突厥諸部離叛,朝廷將圖進取,以靖為代州道行軍總管,率驍騎三千,自馬邑出其不意,直趨惡陽嶺以逼之。突利可汗不虞於靖,見官軍奄至,於是大懼,相謂曰:「唐兵若不傾國而來,靖豈敢孤軍而至?」一日數驚。靖候知之,潛令間諜離其心腹,其所親康蘇密來降。四年,靖進擊定襄,破之,獲隋齊王暕之子楊正道及煬帝蕭后,送於京師,可汗僅以身遁。以功進封代國公,賜物六百段及名馬、寶器焉。太宗嘗謂曰:「昔李陵提步卒五千,不免身降匈奴,尚得書名竹帛。卿以三千輕騎深入虜庭,克復定襄,威振北狄,古今所未有,足報往年渭水之役。」

定襄を破りて後より、頡利可汗大いに懼れ、退きて鉄山を保ち、使いを遣わして朝に入り謝罪し、国を挙げて内附せんことを請う。又た靖を定襄道行軍総管と為し、往きて頡利を迎えしむ。頡利は外には朝謁を請うと雖も、潜かに猶豫よを懐く。其の年二月、太宗は鴻臚卿唐儉・将軍安修仁を遣わして慰諭す。靖は其の意を揣み知り、将軍張公謹に謂いて曰く、「詔使彼に到らば、虜必ず自ら寛ぐ。乃ち精騎一万を選び、二十日の糧を齎し、兵を引きて白道より之を襲わん」と。公謹曰く、「詔は其の降るを許し、行人彼に在り。未だ討撃すべからず」と。靖曰く、「此れ兵機なり。時に失うべからず。是れ韓信の斉を破る所以なり。唐儉等の輩の如きは、何ぞ惜しむに足らん」と。軍を督して疾く進む。師陰山に至り、其の斥候千余帳に遇い、皆俘虜として軍に随わしむ。頡利は使者を見て大いに悦び、官兵の至るを虞わず。靖の軍将に其の牙帳に逼ること十五里、虜始めて覚ゆ。頡利は威を畏れて先ず走り、部衆是に因りて潰散す。靖は万余級を斬り、男女十余万を俘え、其の妻隋の義成公主を殺す。頡利は千里馬に乗って将に吐谷渾に走り投ぜんとす。西道行軍総管張宝相之を擒えて献ず。俄かに突利可汗来たりて奔る。遂に定襄・常安の地を復し、土界を斥けて陰山より北、大漠に至る。太宗初めて靖の頡利を破るを聞き、大いに悦び、侍臣に謂いて曰く、「朕聞く、主憂うれば臣辱しめられ、主辱しめられれば臣死すと。往者国家草創の時、太上皇は百姓の故を以て、突厥に臣と称す。朕未だ嘗て痛心疾首せずんばあらず。志は匈奴を滅ぼさんとし、坐して安んぜず、食して甘き味を知らず。今者暫く偏師を動かし、往くとして捷からざる無し。単于塞に款き、恥其れ雪がれんか」と。是に於いて天下に大赦し、酺すること五日。

原文自破定襄後,頡利可汗大懼,退保鐵山,遣使入朝謝罪,請舉國內附。又以靖為定襄道行軍總管,往迎頡利。頡利雖外請朝謁,而潛懷猶豫。其年二月,太宗遣鴻臚卿唐儉、將軍安修仁慰諭,靖揣知其意,謂將軍張公謹曰:「詔使到彼,虜必自寬。遂選精騎一萬,齎二十日糧,引兵自白道襲之。」公謹曰:「詔許其降,行人在彼,未宜討擊。」靖曰:「此兵機也,時不可失,韓信所以破齊也。如唐儉等輩,何足可惜。」督軍疾進,師至陰山,遇其斥候千餘帳,皆俘以隨軍。頡利見使者,大悅,不虞官兵至也。靖軍將逼其牙帳十五里,虜始覺。頡利畏威先走,部眾因而潰散。靖斬萬餘級,俘男女十餘萬,殺其妻隋義成公主。頡利乘千里馬將走投吐谷渾,西道行軍總管張寶相擒之以獻。俄而突利可汗來奔,遂復定襄、常安之地,斥土界自陰山北至於大漠。太宗初聞靖破頡利,大悅,謂侍臣曰:「朕聞主憂臣辱,主辱臣死。往者國家草創,太上皇以百姓之故,稱臣於突厥,朕未嘗不痛心疾首,志滅匈奴,坐不安席,食不甘味。今者暫動偏師,無往不捷,單于款塞,恥其雪乎!」於是大赦天下,酺五日。

御史大夫温彦博其の功を害し、靖の軍に綱紀無きを譖え、致して虜中の奇宝を乱兵の手に散らさしむ。太宗大いに責譲を加う。靖頓首して謝す。久しくして、太宗謂いて曰く、「隋の将史万歳が達頭可汗を破り、功有りて賞せられず、罪を以て戮に致す。朕は然らず。当に公の罪を赦し、公の勲を録すべし」と。詔して左光禄大夫を加え、絹千匹を賜い、真の食邑前を通じて五百戸とす。未だ幾ばくもせず、太宗靖に謂いて曰く、「前に人公を讒る有り。今朕意已に悟る。公以て懐うること勿れ」と。絹二千匹を賜い、尚書右僕射に拝す。

原文御史大夫溫彥博害其功,譖靖軍無綱紀,致令虜中奇寶,散於亂兵之手。太宗大加責讓,靖頓首謝。久之,太宗謂曰:「隋將史萬歲破達頭可汗,有功不賞,以罪致戮。朕則不然,當赦公之罪,錄公之勳。」詔加左光祿大夫,賜絹千匹,真食邑通前五百戶。未幾,太宗謂靖曰:「前有人讒公,今朕意已悟,公勿以為懷。」賜絹二千匹,拜尚書右僕射。

靖性沈厚にして、時に時宰と参議する毎に、恂恂然として言う能わざるに似たり。八年、詔して畿内道大使と為り、風俗を伺察せしむ。尋いで足疾を以て表を上りて骸骨を乞う。言甚だ懇至なり。太宗中書侍郎岑文本を遣わして謂いて曰く、「朕観るに、古より已来、身富貴に居りて、能く止足を知る者は甚だ少なし。愚智を問わず、自ら知る莫し。才は堪えずと雖も、強いて職に居らんと欲し、縦え疾病有りと雖も、猶お自ら勉強す。公能く大體を識達す。深く嘉す可し。朕今直ちに公の雅志を成すのみに非ず、公を以て一代の楷模と為さんと欲す」と。乃ち優詔を下し、特進を加授し、第に在りて摂養するを聴す。物千段・尚乗馬二匹を賜い、禄賜・国官府佐は並びに旧の如く給し、患若し小瘳すれば、毎に三両日を以て門下・中書に至り政事を平章せしむ。

原文靖性沉厚,每與時宰參議,恂恂然似不能言。八年,詔為畿內道大使,伺察風俗。尋以足疾上表乞骸骨,言甚懇至。太宗遣中書侍郎岑文本謂曰:「朕觀自古已來,身居富貴,能知止足者甚少。不問愚智,莫能自知,才雖不堪,強欲居職,縱有疾病,猶自勉強。公能識達大體,深足可嘉,朕今非直成公雅志,欲以公為一代楷模。」乃下優詔,加授特進,聽在第攝養。賜物千段、尚乘馬兩匹,祿賜、國官府佐,並依舊給,患若小瘳,每三兩日至門下、中書平章政事。

九年正月、靖に霊寿杖を賜い、足疾を助く。未だ幾ばくもせず、吐谷渾辺境を寇す。太宗顧みて侍臣に謂いて曰く、「李靖を得て帥と為さば、豈に善からずや」と。靖乃ち房玄齢に見えて曰く、「靖年老いたりと雖も、固より一行に堪えん」と。太宗大いに悦び、即ち靖を西海道行軍大総管と為し、兵部尚書・任城王道宗・涼州都督李大亮・右衛将軍李道彦・利州刺史高甑生等三総管を統べて之を征せしむ。九年、軍伏俟城に次す。吐谷渾は野草を焼き去り、以て我が師を餧やし、退きて大非川を保つ。諸将咸に春草未だ生ぜず、馬已に羸瘦すと言い、敵に赴くべからずとす。唯だ靖決計して進み、深く敵境に入り、遂に積石山を逾ゆ。前後数十合戦し、殺傷甚だ衆く、大いに其の国を破る。吐谷渾の衆遂に其の可汗を殺して来降す。靖又た大寧王慕容順を立てて還る。

原文九年正月,賜靖靈壽杖,助足疾也。未幾,吐谷渾寇邊,太宗顧謂侍臣曰:「得李靖為帥,豈非善也!」靖乃見房玄齡曰:「靖雖年老,固堪一行。」太宗大悅,即以靖為西海道行軍大總管,統兵部尚書、任城王道宗、涼州都督李大亮、右衛將軍李道彥、利州刺史高甑生等三總管征之。九年,軍次伏俟城,吐谷渾燒去野草,以餧我師,退保大非川,諸將咸言春草未生,馬已羸瘦,不可赴敵。唯靖決計而進,深入敵境,遂逾積石山。前後戰數十合,殺傷甚眾,大破其國。吐谷渾之眾遂殺其可汗來降,靖又立大寧王慕容順而還。

初め、利州刺史高甑生は塩沢道総管と為り、後軍期せしむ。靖之を薄く責む。甑生是に因りて靖に憾み有り。及んで是に至り、広州都督府長史唐奉義と共に靖の謀反を告ぐ。太宗法官を命じて其の事を按ぜしむ。甑生等竟に誣罔を以て罪を得。靖乃ち門を闔して自ら守り、賓客を杜絶し、親戚と雖も妄りに進むことを得ず。

原文初,利州刺史高甑生為鹽澤道總管,以後軍期,靖薄責之,甑生因有憾於靖。及是,與廣州都督府長史唐奉義告靖謀反。太宗命法官按其事,甑生等竟以誣罔得罪。靖乃闔門自守,杜絕賓客,雖親戚不得妄進。

十一年、衛国公に改封し、濮州刺史を授け、仍って代襲せしむ。例竟に行われず。十四年、靖の妻卒す。詔有りて墳塋の制度は、漢の衛青・霍去病の故事に依る。闕を築きて突厥内の鉄山・吐谷渾内の積石山の形に象り、以て殊績を旌す。十七年、詔して靖及び趙郡王孝恭等二十四人の図画を凌煙閣にす。十八年、帝其の第に幸して疾を問い、仍って絹五百匹を賜い、位を進めて衛国公・開府儀同三司とす。太宗将に遼東を伐たんとし、靖を召して閣に入らしめ、御前に坐するを賜い、謂いて曰く、「公は南に呉会を平げ、北に沙漠を清め、西に慕容を定む。唯だ東に高麗未だ服せず。公の意如何」と。対えて曰く、「臣往者は天威に憑藉し、薄く微効を展ぶ。今残年朽骨、唯だ此の行を擬す。陛下棄てずば、老臣病期に瘳えん」と。太宗其の羸老を愍み、許さず。

原文十一年,改封衛國公,授濮州刺史,仍令代襲,例竟不行。十四年,靖妻卒,有詔墳塋制度,依漢衛、霍故事;築闕象突厥內鐵山、吐谷渾內積石山形,以旌殊績。十七年,詔圖畫靖及趙郡王孝恭等二十四人於凌煙閣。十八年,帝幸其第問疾,仍賜絹五百匹,進位衛國公、開府儀同三司。太宗將伐遼東,召靖入閣,賜坐御前,謂曰:「公南平吳會,北清沙漠,西定慕容,唯東有高麗未服,公意如何?」對曰:「臣往者憑藉天威,薄展微效,今殘年朽骨,唯擬此行。陛下不棄,老臣病期瘳矣。」太宗愍其羸老,不許。

二十三年、家に薨ず。年七十九。冊して司徒しと・并へい州都督を贈り、班剣四十人・羽葆鼓吹を給し、昭陵に陪葬す。謚して景武と曰う。子徳謇嗣ぐ。官将作少匠に至る。

原文二十三年,薨於家,年七十九。冊贈司徒、并州都督,給班劍四十人、羽葆鼓吹,陪葬昭陵,謚曰景武。子德謇嗣,官至將作少匠。

靖の弟客師は、貞観年間に官は右武衛将軍に至り、戦功により累ねて丹陽郡公に封ぜられた。永徽初め、年老いたことを以て致仕し、性は馳騁狩猟を好み、四季を通じて鳥獣を追い、暫しも止息することがなかった。別業が昆明池の南にあり、京城の外より、西は澧水に至るまで、鳥獣は皆これを識り、出る毎に烏鵲が随い逐って騒ぎ、野人はこれを「鳥賊」と称した。総章年間に卒し、年九十余であった。

原文靖弟客師,貞觀中,官至右武衛將軍,以戰功累封丹陽郡公。永徽初,以年老致仕,性好馳獵,四時從禽,無暫止息。有別業在昆明池南,自京城之外,西際澧水,鳥獸皆識之,每出則鳥鵲隨逐而噪,野人謂之「鳥賊」。總章中卒,年九十餘。

客師の孫令問は、玄宗が藩王であった時に令問と親しく交わり、即位すると、協賛の功により累ねて殿中少監に遷った。先天年間、竇懐貞等を誅する功に預かり、宋国公に封ぜられ、実封五百戸を賜う。令問は固より実封を辞したが、詔は許さず。開元年間、殿中監・左散騎常侍さんきじょうじに転じ、尚食事を知る。令問は特に恩寵を蒙りながらも、未だ時政に干与せず、深く物論に称せられた。然れども自らの供養に厚く、食饌は豊かで奢侈を極め、広く芻豢を蓄え、自ら臨んで宰殺した。時に仏を奉じており、篤信の士は或いはこれを譏った。令問曰く、「此の物は畜生なり、果菜と何の異なることがあろうか。何ぞ強いて分別を生じ、道に遠からざらんや」と。少しも恩眄を自ら恃まず、閑暇には郊野に適い、鳥獣を追って自ら楽しんだ。十五年、涼州都督王君跂が回紇部落に奉じて叛くと、令問は連姻の罪に坐し、左遷されて撫州別駕となり、尋いで卒した。

原文客師孫令問,玄宗在籓時與令問款狎,及即位,以協贊功累遷至殿中少監。先天中,預誅竇懷貞等功,封宋國公,實封五百戶。令問固辭實封,詔不許。開元中,轉殿中監、左散騎常侍,知尚食事。令問雖特承恩寵,未嘗干預時政,深為物論所稱。然厚於自奉,食饌豐侈,廣畜芻豢,躬臨宰殺。時方奉佛,其篤信之士或譏之。令問曰:「此物畜生,與果菜何異?胡為強生分別,不亦遠於道乎?」略不以恩眄自恃,閒適郊野,從禽自娛。十五年,涼州都督王君跂奉回紇部落叛,令問坐與連姻,左授撫州別駕,尋卒。

大和年間、令問の孫彦芳は、鳳翔府司録参軍として、闕に詣でて高祖・太宗の賜わった衛国公靖の官告・勅書・手詔等十余巻を進上し、内四巻は太宗文皇帝の筆跡であり、文宗は宝惜して手を放すことができなかった。その佩筆は尚ほ書くに堪え、金装の木匣は製作精巧であった。帝は併せて禁中に留め、書工に模写本を作らせて返し、芳に絹二百匹・衣服・靴笏を賜うて酬いた。

原文大和中,令問孫彥芳,鳳翔府司錄參軍,詣闕進高祖、太宗所賜衛國公靖官告、敕書、手詔等十餘卷,內四卷太宗文皇帝筆跡,文宗寶惜不能釋手。其佩筆尚堪書,金裝木匣,製作精巧。帝並留禁中,令書工模寫本還之,賜芳絹二百匹、衣服、靴笏以酬之。

徐世勣

原文徐世勣

李勣は、曹州離狐の人である。隋末に滑州の衛南に徙居した。本姓は徐氏、名は世勣、永徽年間、太宗の諱を犯すを以て、単に勣と名乗った。家には僮僕多く、積粟数千鐘あり、その父蓋と共に好んで恵施し、貧乏を拯済し、親疏を問わなかった。大業末、韋城の人翟譲が衆を聚めて盗賊となると、勣は往きてこれに従い、時に年十七、譲に謂いて曰く、「今この土地は公及び勣の郷壤にして、人多く相識る、自ら相侵掠するに宜しからず。且つ宋・鄭両郡は、地は御河を管し、商旅往還し、船乗絶えず、彼に就き邀截すれば、以て自ら相資助するに足る」と。譲はこれを然りとし、ここに於て公私の船を劫って物を取り、兵衆大いに振るう。隋は斉郡通守張須陀を遣わして師二万を率いてこれを討たしむ。勣は頻りに戦い、遂に須陀を陣に斬る。初め、李密が雍丘に亡命し、浚儀の人王伯当が野に匿われると、伯当は勣と共に翟譲を説き、密を奉じて主とす。隋は王世充をして密を討たしむ。勣は奇計を以て世充を洛水の上に破り、密は勣を東海郡公に拝す。時に河南・山東に大水あり、死者半ばに将せんとす。隋帝は飢人をして黎陽に就き食わしめ、倉を開き賑給せしむ。時に政教已に紊れ、倉司は時に賑給せず、死者日数万人。勣、密に言うて曰く、「天下大乱、本は飢えの為なり。今若し黎陽一倉を得ば、大事済まん」と。密は乃ち勣を遣わし麾下五千人を領いて原武より河を済い掩襲せしむ。即日これを克ち、倉を開き恣に食わしむ。一句の間に、勝兵二十万余。歳余を経て、宇文化及が江都に於て弑しい逆しいぎゃくし、兵を擁して北上し、直ちに東郡を指す。時に越王侗が東京に即位し、密の罪を赦し、太尉に拝し、魏国公に封ず。勣に右武候大将軍を授け、化及を討たしむ。密は勣を遣わし倉城を守らしむ。勣は城外に深溝を掘りて固守し、化及は攻具を設け、四面より倉を攻む。塹に阻まれて城下に至ること得ず。勣は塹中に地道を為し、兵を出してこれを撃ち、大いに敗れて去る。

原文李勣,曹州離狐人也。隋末徙居滑州之衛南。本姓徐氏,名世勣,永徽中,以犯太宗諱,單名勣焉。家多僮僕,積粟數千鐘,與其父蓋皆好惠施,拯濟貧乏,不問親疏。大業末,韋城人翟讓聚眾為盜,勣往從之,時年十七,謂讓曰:「今此土地是公及勣鄉壤,人多相識,不宜自相侵掠。且宋、鄭兩郡,地管御河,商旅往還,船乘不絕,就彼邀截,足以自相資助。」讓然之,於是劫公私船取物,兵眾大振。隋遣齊郡通守張須陀率師二萬討之,勣與頻戰,竟斬須陀於陣。初,李密亡命在雍丘,浚儀人王伯當匿於野,伯當共勣說翟讓奉密為主。隋令王世充討密,勣以奇計敗世充於洛水之上,密拜勣為東海郡公。時河南、山東大水,死者將半,隋帝令飢人就食黎陽,開倉賑給。時政教已紊,倉司不時賑給,死者日數萬人。勣言於密曰:「天下大亂,本是為飢,今若得黎陽一倉,大事濟矣。」密乃遣勣領麾下五千人自原武濟河掩襲,即日克之,開倉恣食,一旬之間,勝兵二十萬餘。經歲餘,宇文化及於江都弒逆,擁兵北上,直指東郡。時越王侗即位於東京,赦密之罪,拜為太尉,封魏國公;授勣右武候大將軍,命討化及。密遣勣守倉城,勣於城外掘深溝以固守,化及設攻具,四面攻倉,阻塹不得至城下,勣於塹中為地道,出兵擊之,大敗而去。

武德二年、密は王世充に撃破され、衆を擁して朝廷に帰順した。その旧領は東は海に至り、南は江に至り、西は汝州に至り、北は魏郡に至るまで、勣はこれをことごとく拠していたが、所属するところがなかった。長史の郭孝恪に謂って曰く、「魏公(李密)は既に大唐に帰順した。今、この人衆と土地は、魏公の所有である。我がもし上表してこれを献上すれば、それは主君の敗北を利するものであり、自ら功績として富貴を求めることになり、我の恥じるところである。今は州県の名と数、及び軍人・戸口を詳細に記録し、総じて魏公に啓上し、公が自ら献上するに任せるべきである。これこそが魏公の功績となる。」乃ち使者を遣わして密に啓上した。使者が初めて到着した時、高祖(李淵)はその表文がなく、ただ密への啓上のみあることを聞き、甚だ怪しんだ。使者が勣の意を奏上すると、高祖は大いに喜んで曰く、「徐世勣は恩徳を感じて功績を推譲する、実に純粋なる臣である。」詔して黎陽総管・上柱国・萊国公を授けた。まもなく右武候大将軍を加え、曹国公に改封し、李氏の姓を賜い、良田五十頃と甲第一区を賜った。その父の蓋を済陰王に封じたが、蓋は固く王爵を辞したので、舒国公に封じ、散騎常侍・陵州刺史を授けた。勣に命じて河南・山東の兵を総統させ、王世充を防がせた。李密が反乱を起こし誅殺されると、高祖は勣がかつて密に仕えていたことを考慮し、使者を遣わしてその反逆の状況を報せた。勣は表を奉って収葬を請うたので、詔してこれを許した。勣は衰絰を着用し、旧僚の官吏・将士と共に密を黎山の南に葬り、墳の高さは七仞とし、喪服を脱いで解散した。朝廷・民間ともにその義を称えた。竇建德が魏県で宇文化及を捕らえ、さらに進軍して勣を攻撃したので、力尽きてこれに降った。建德はその父を捕らえ、軍に従わせて人質とし、勣に再び黎陽を守らせた。三年、自ら脱出して京師に帰った。四年、太宗に従って東都で王世充を討ち、累戦して大勝した。また東に地を攻略して武牢に至り、偽鄭州司兵の沈悦が武牢の内応を請うたので、勣は夜に潜んで兵を応接させ、これを陥落させた。その偽刺史の荊王行本を捕らえた。また太宗に従って竇建徳を平定し、王世充を降伏させ、軍を整えて凱旋した。功績を論じて賞を行い、太宗が上将、勣が下将となり、太宗と共に金甲を着用し、戎輅に乗り、太廟に告捷した。その父は洺州から裴矩と共に入朝し、高祖はこれを見て大いに喜び、その官爵を回復させた。勣はまた太宗に従って劉黒闥・徐円朗を撃破し、累遷して左監門大将軍となった。円朗が再び兗州を拠って反乱を起こすと、勣に河南大総管を授けてこれを討たせ、まもなく円朗を捕らえ、首を斬って献上し、兗州は平定された。七年、詔して趙郡王孝恭と共に輔公祏を討ち、孝恭は舟師を率いて江を巡り下り、勣は歩卒一万を率いて淮を渡り、その寿陽を陥落させ、硤石に至った。公祏の将の陳正通が兵十万を率いて梁山に駐屯し、またその大将の馮恵亮に水軍十万を率いさせ、大艦を鎖で繋いで江路を断絶させ、さらに江西に堡塁を築き、水陸を分かって守り、王師を防いだ。勣はその堡塁を攻撃し、まもなくこれを陥落させた。恵亮は単舼で逃げた。勣は勝ちに乗じて正通に迫り、大いに潰走させ、十余騎で丹陽に奔らせた。公祐は城を棄てて夜に逃げ、勣は騎兵を放って武康でこれを追撃斬殺し、江南は悉く平定された。八年、突厥が并州を侵したので、勣を行軍総管に命じ、太谷でこれを撃ち、敗走させた。太宗が即位すると、并州都督に拝し、実封九百戸を賜った。貞観三年、通漠道行軍総管となった。雲中に至り、突厥の頡利可汗の兵と遭遇し、白道で大戦した。突厥は敗れ、磧口に営を屯し、使者を遣わして和を請うた。詔して鴻臚卿の唐儉を遣わしてこれを赦した。勣は時に定襄道大総管李靖の軍と合流し、互いに議して曰く、「頡利は敗れたとはいえ、人衆は尚お多い。もし磧を渡って逃走し、九姓の地に保つならば、道は遥かで阻害深く、追撃するも及ぶことは難しい。今、詔使の唐儉が彼の地に至れば、必ず備えを弛めるであろう。我らはその後を襲撃すれば、戦わずして賊を平定できる。」靖は手を握りしめて喜び曰く、「公のこの言葉は、まさに韓信が田横を滅ぼした策である。」ここに於いて計略を定めた。靖は兵を率いて夜を逼って出発し、勣は兵を統率して続いて進んだ。靖の軍が到着すると、賊の営は大いに潰え、頡利は万余人と共に磧を渡って逃走しようとした。勣は磧口に軍を屯し、頡利が到着しても磧を渡ることができず、その大酋長が部落を率いて勣に降伏し、五万余口を捕虜として帰還した。時に高宗が晋王であり、遥かに并州大都督を領し、勣に光禄大夫を授け、行并州大都督府長史とした。父の喪で官を解かれたが、まもなく旧職に復帰した。十一年、英国公に改封し、代襲して蘄州刺史となったが、時に国には赴かず、また本官のまま遥かに太子左衛率を領した。勣が并州に在ること凡そ十六年、令は行わり禁止は行われ、称職と号された。太宗は侍臣に謂って曰く、「隋の煬帝は賢良を精選して辺境を安撫することができず、ただ長城を築いて突厥に備えることのみ理解した。その情識の惑いは、ここに至るまで甚だしい!朕は今、李世勣を并州に委任したことにより、遂に突厥に威を畏れさせて遁走させ、塞垣を安静にさせた。これは遠く長城を築くことに勝るのではないか?」

原文武德二年,密為王世充所破,擁眾歸朝。其舊境東至於海,南至於江,西至汝州,北至魏郡,勣並據之,未有所屬,謂長史郭孝恪曰:「魏公既歸大唐,今此人眾土地,魏公所有也。吾若上表獻之,即是利主之敗,自為己功,以邀富貴,吾所恥也。今宜具錄州縣名數及軍人戶口,總啟魏公,聽公自獻,此則魏公之功也。」乃遣使啟密。使人初至,高祖聞其無表,惟有啟與密,甚怪之。使者以勣意聞奏,高祖大喜曰:「徐世勣感德推功,實純臣也。」詔授黎陽總管、上柱國,萊國公。尋加右武候大將軍,改封曹國公,賜姓李氏,賜良田五十頃,甲第一區。封其父蓋為濟陰王,蓋固辭王爵,乃封舒國公,授散騎常侍、陵州刺史。令勣總統河南、山東之兵以拒王世充。及李密反叛伏誅,高祖以勣舊經事密,遣使報其反狀。勣表請收葬,詔許之。勣服衰絰,與舊僚吏將士葬密於黎山之南,墳高七仞,釋服而散,朝野義之。而竇建德擒化及於魏縣,復進軍攻勣,力屈降之。建德收其父,從軍為質,令勣復守黎陽。三年,自拔歸京師。四年,從太宗伐王世充於東都,累戰大捷。又東略地至武牢,偽鄭州司兵沈悅請翻武牢,勣夜潛兵應接,克之。擒其偽刺史荊王行本。又從太宗平竇建德,降王世充,振旅而還。論功行賞,太宗為上將,勣為下將,與太宗俱服金甲,乘戎輅,告捷於太廟。其父自洺州與裴矩入朝,高祖見之大喜,復其官爵。勣又從太宗破劉黑闥、徐圓朗,累遷左監門大將軍。圓朗重據兗州反,授勣河南大總管以討之,尋獲圓朗,斬首以獻,兗州平。七年,詔與趙郡王孝恭討輔公祏,孝恭領舟師巡江而下,勣領步卒一萬渡淮,拔其壽陽,至硤石。公祏之將陳正通率兵十萬屯於梁山,又遣其大將馮惠亮帥水軍十萬,鎖連大艦以斷江路,仍於江西結壘,分守水陸,以御王師。勣攻其壘,尋克之。惠亮單舼而遁。勣乘勝逼正通,大潰,以十餘騎奔於丹陽。公祐棄城夜遁,勣縱騎追斬之於武康,江南悉定。八年,突厥寇并州,命勣為行軍總管,擊之於太谷,走之。太宗即位,拜并州都督,賜實封九百戶。貞觀三年,為通漠道行軍總管。至雲中,與突厥頡利可汗兵會,大戰於白道。突厥敗,屯營於磧口,遣使請和。詔鴻臚卿唐儉往赦之。勣時與定襄道大總管李靖軍會,相與議曰:「頡利雖敗,人眾尚多,若走渡磧,保於九姓,道遙阻深,追則難及。今詔使唐儉至彼,其必弛備,我等隨後襲之,此不戰而平賊矣。」靖扼腕喜曰:「公之此言,乃韓信滅田橫之策也。」於是定計。靖將兵逼夜而發,勣勒兵繼進。靖軍既至,賊營大潰,頡利與萬餘人欲走渡磧。勣屯軍於磧口,頡利至,不得渡磧,其大酋長率其部落並降於勣,虜五萬餘口而還。時高宗為晉王,遙領并州大都督,授勣光祿大夫,行并州大都督府長史。父憂解,尋起復舊職。十一年,改封英國公,代襲蘄州刺史,時並不就國,復以本官遙領太子左衛率。勣在并州凡十六年,令行禁止,號為稱職。太宗謂侍臣曰:「隋煬帝不能精選賢良,安撫邊境,惟解築長城以備突厥,情識之惑,一至於此!朕今委任李世勣於并州,遂使突厥畏威遁走,塞垣安靜,豈不勝遠築長城耶?」

十五年、兵部尚書に召し出されたが、京に赴く前に、薛延陀がその子の大度設に騎兵八万を率いさせて南侵し、李思摩の部落を襲った。勣を朔州行軍総管に任じ、軽騎三千を率いて延陀を青山に追い詰め、これを撃ち大破し、その名王一人を斬り、首領を捕虜し、五万余りの虜を獲た功績により、一子を県公に封じた。勣が急病に罹った時、処方箋に鬚の灰が効くとあったので、太宗自ら鬚を切り、薬を調合した。勣は額を叩いて血が出るほどに泣いて感謝したが、帝は「朕は社稷のためである。深く感謝せずともよい」と言った。十七年、高宗が皇太子となると、勣を太子詹事兼左衛率に転じ、特進の位を加え、同中書門下三品とした。太宗は言った。「我が子が新たに儲君となった。卿は旧来の長史である。今、宮中のことを委ねるので、この任を授ける。階資を屈するが、怪しまないでほしい。」太宗はまた宴席で、勣を見て言った。「朕は幼い孤児を託そうと思うが、卿に勝る者はない。公はかつて李密を見捨てず、今まさに朕に背くことがあろうか。」勣は涙を拭いながら言葉を述べ、指を噛んで血を流した。やがて深く酔ったので、帝は自らの衣を脱いで彼に掛けた。これほどに信頼されたのである。十八年、太宗が親征して高麗を征討するにあたり、勣を遼東道行軍大総管に任じ、蓋牟・遼東・白崖などの数城を攻め落とし、また太宗について駐蹕陣を殲滅し、功績により一子を郡公に封じた。二十年、延陀部落が騒乱を起こしたので、詔して勣に二百騎を率いさせ、ただちに突厥兵を発して討伐させた。烏徳鞬山に至り、大戦してこれを破った。その大首領の梯真達於が衆を率いて来降し、その可汗の咄摩支は南の荒谷に逃げた。通事舎人の蕭嗣業を遣わして部衆を招き慰撫し、京師に送ったので、磧北はすべて平定された。二十二年、太常卿に転じ、引き続き同中書門下三品とした。十日後、また太子詹事を授けた。二十三年、太宗が病に臥せり、高宗に言った。「汝は李勣に恩がない。今、彼を左遷して外に出そう。我が死後、汝は彼を僕射に任じよ。そうすれば汝の恩を受けて、必ず死力を尽くすであろう。」そこで疊州都督として出させた。高宗が即位すると、その月、洛州刺史に召し出し、まもなく開府儀同三司を加え、同中書門下とし、機密を参掌させた。この年、尚書左僕射に冊拝した。永徽元年、上表して僕射の職を解くことを請い、引き続き開府儀同三司として政事を知ることを命じられた。四年、司空しくうに冊拝した。初め、貞観年間、太宗は勣の勲功が特に顕著であるとして、その姿を凌煙閣に描かせたが、この時、帝はまたその姿を描かせ、自ら序文を書いた。顕慶三年、東都への行幸に従い、途中で病に罹ったので、帝は親しく見舞った。麟徳初年、泰山に封禅するにあたり、詔して勣を封禅大使とし、行幸に従わせた。滑州に滞在した時、彼の姉が早くに寡婦となり、勣の旧宅に住んでいたので、皇后が親しく見舞い、衣服を賜り、東平郡君に封じた。また落馬して足を傷つけた時、上は親しく見舞い、自らの乗り物を賜った。

原文十五年,徵拜兵部尚書,未赴京,會薛延陀遣其子大度設帥騎八萬南侵李思摩部落。命勣為朔州行軍總管,率輕騎三千追及延陀於青山,擊大破之,斬其名王一人,俘獲首領,虜五萬餘計,以功封一子為縣公。勣時遇暴疾,驗方云,鬚灰可以療之,太宗乃自翦鬚,為其和藥。勣頓首見血,泣以懇謝,帝曰:「吾為社稷計耳,不煩深謝。」十七年,高宗為皇太子,轉勣太子詹事兼左衛率,加位特進,同中書門下三品。太宗謂曰:「我兒新登儲貳,卿舊長史,今以宮事相委,故有此授。雖屈階資,可勿怪也。」太宗又嘗閒宴,顧勣曰:「朕將屬以幼孤,思之無越卿者。公往不遺於李密,今豈負於朕哉!」勣雪涕致辭,因噬指流血。俄而沉醉,乃解御服覆之,其見委信如此。十八年,太宗將親征高麗,授勣遼東道行軍大總管,攻破蓋牟、遼東、白崖等數城,又從太宗摧殄駐蹕陣,以功封一子為郡公。二十年,延陀部落擾亂,詔勣將二百騎便發突厥兵討擊。至烏德鞬山,大戰破之。其大首領梯真達於率眾來防,其可汗咄摩支南竄於荒谷,遣通事舍人蕭嗣業招慰部領,送於京師,磧北悉定。二十二年,轉太常卿,仍同中書門下三品。旬日,復除太子詹事。二十三年,太宗寢疾,謂高宗曰:「汝於李勣無恩,我今將責出之。我死後,汝當授以僕射,即荷汝恩,必致其死力。」乃出為疊州都督。高宗即位,其月,召拜洛州刺史,尋加開府儀同三司,令同中書門下,參掌機密。是歲,冊拜尚書左僕射。永徽元年,抗表求解僕射,仍令以開府儀同三司依舊知政事。四年,冊拜司空。初,貞觀中,太宗以勳庸特著,嘗圖其形於凌煙閣,至是,帝又命寫形焉,仍親為之序。顯慶三年,從幸東都,在路遇疾,帝親臨問。麟德初,東封泰山,詔勣為封禪大使,乃從駕。次滑州,其姊早寡,居勣舊閭,皇后親自臨問,賜以衣服,仍封為東平郡君。又墜馬傷足,上親降問,以所乘賜之。

乾封元年、高麗の莫離支の男産がその弟の男建に追われ、国内城に拠り、子を遣わして城を献上し、朝廷に援軍を請うた。総章元年、勣を遼東道行軍総管に任じ、兵二万を率いて鴨緑水まで攻略させた。賊はその弟を遣わして防戦させたが、勣は兵を放ってこれを撃破し、二百里を追撃して平壤城に至った。男建は門を閉じて出てこようとせず、賊中の諸城は恐れおののき、多くは人衆を引き連れて逃げ去り、降伏する者が相次いだ。勣はまた兵を進めて平壤を包囲し、遼東道副大総管の劉仁軌・郝処俊・将軍の薛仁貴がともに平壤に会し、犄角の勢いで包囲した。一ヶ月余りを経てその城を陥落させ、その王の高蔵および男建・男産を捕虜し、諸城を分割して州県とし、軍を整えて凱旋した。勣に命じて近道から高蔵および男建を昭陵に献上させ、礼が終わると、軍容を整えて京城に入り、太廟に献じた。二年、太子太師を加え、実封を増やして以前と合わせて一千一百戸とした。その年、病に臥せると、詔して勣を司衛正卿とし、病を見舞えるようにした。まもなく薨去した。七十六歳であった。帝はそのために哀悼の意を表し、七日間朝政を止め、太尉・揚州大都督を追贈し、諡を貞武とし、東園の秘器を賜り、昭陵に陪葬させた。司平太常伯の楊昉に命じて同文正卿を代行させ、葬儀を監督させた。葬送の日、帝は未央古城に行幸し、楼に登って見送り、柩車を望んで慟哭し、あわせて祭りを設けた。皇太子もまた行幸に従って見送り、哀慟の情は左右を悲しませた。詔して百官に故城の西北まで送らせ、築いた墳墓はすべて衛青・霍去病の故事に準じ、陰山・鉄山および烏徳鞬山をかたどり、突厥・薛延陀を破った功績を顕彰した。光宅元年、詔して勣を高宗廟庭に配享させた。

原文乾封元年,高麗莫離支男產為其弟男建所逐,保於國內城,遣子獻城詣闕乞師。總章元年,命勣為遼東道行軍總管,率兵二萬略地至鴨綠水。賊遣其弟來拒戰,勣縱兵擊敗之,追奔二百里,至於平壤城。男建閉門不敢出,賊中諸城駭懼,多拔人眾遁走,降款者相繼。勣又引兵圍平壤,遼東道副大總管劉仁軌、郝處俊、將軍薛仁貴並會於平壤,犄角圍之。經月餘,克其城,虜其王高藏及男建、男產,裂其諸城,並為州縣,振旅而旋。令勣便道以高藏及男建獻於昭陵,禮畢,備軍容入京城,獻太廟。二年,加太子太師,增食實封通前一千一百戶。其年寢疾,詔以勣為司衛正卿,使得視疾。尋薨,年七十六。帝為之舉哀,輟朝七日,贈太尉、揚州大都督,謚曰貞武,給東園秘器,陪葬昭陵。令司平太常伯楊昉攝同文正卿監護。及葬日,帝幸未央古城,登樓臨送,望柳車慟哭,並為設祭。皇太子亦從駕臨送,哀慟悲感左右。詔百官送至故城西北,所築墳一准衛、霍故事,象陰山、鐵山及烏德鞬山,以旌破突厥、薛延陀之功。光宅元年,詔勣配享高宗廟庭。

勣は前後して戦勝によって得た金帛を、すべて将士に分け与えた。初めて黎陽倉を得た時、倉に集まった者は数十万人に及んだ。魏徴・高季輔・杜正倫・郭孝恪はいずれもその地を遊歴し、勣は衆人の中から彼らを見出すと、すぐに礼を厚くして敬い、寝室に招き入れ、談笑して倦むことを忘れた。武牢を平定した時、偽鄭州長史の戴冑を捕らえ、その行いと才能を知ると、まもなく釈放し、推薦して皆顕達させたので、当時、人を見抜く鑑識があると称された。また、初めて王世充を平定した時、その旧友の単雄信を捕らえ、例に従って処刑しようとしたが、勣は上表してその武芸が並ぶ者がないと称し、死罪の中から救い出せば、必ず大いに恩を感じ、国家のために命を尽くすに堪えるであろうから、官爵をもって贖いたいと請うた。高祖は許さず、処刑されようとする時、勣は彼に向かって号泣し、腿の肉を切り取って食べさせ、「生死の別れである。この肉もともに土に帰ろう」と言った。そしてその子を養育した。行軍や用兵にあたっては、よく謀略を任せ、敵に臨んでの応変は、動きが事機に合致した。人と謀を図る時、その善悪を見抜き、わずかな善行を聞けば、手を握りしめて従った。戦勝の日には、多く功績を部下に推譴したので、人々は皆彼のために用いられ、向かうところ多く勝利を収めた。勣の死を聞いた者は、誰もが悲しみに沈まなかった。弟の弼とは特に友愛を保ち、家門の内は厳かな君主のようであった。病に罹ってから、高宗や皇太子が薬を送ると、すぐに服用したが、家中で医師や巫を召しても、皆門に入ることを許さなかった。子弟がどうしても薬を進めると、勣は言った。「私は山東の一田夫に過ぎない。明主に縁付き、分を越えて富貴に居り、位は三台の極みに至り、年は八十に近づいた。これも天命ではなかろうか。寿命の長短には必ず定めがある。どうして軽々しく医者に頼って生き長らえようとできようか。」ついに拒んで服用しなかった。突然、弼に言った。「私は少し快方に向かったようだ。酒を設けて宴楽を尽くそう。」そこで堂上で女妓の演奏をさせ、軒下に子孫を並べた。宴が終わると、弼に言った。「私は自ら死期が近いと覚悟している。お前と別れを告げたいのだ。お前が悲しんで泣くのを恐れ、快方に向かったように嘘をついた。泣く必要はない。私の言うことを聞け。私は房玄齢・杜如晦・高季輔が苦労して築いた家門が、子孫に余沢を残そうとしたのに、愚かな息子によって破産し尽くされるのを見た。私にもこれだけの豚犬(愚かな子孫)がいる。お前に託すので、よく監視せよ。品行がならず、交際する者が良くない者は、すぐに打ち殺し、それから奏上せよ。また、人が多く金玉を埋めるのを見るが、それも必要ない。ただ布を張った露車に、私の棺を載せ、棺の中には常服で納め、朝服一揃いだけを加えよ。死後に知覚があれば、これで先帝にお目にかかりたい。副葬品は馬を五六匹作るだけでよく、下帳は幔布で頂きを作り、白紗で裙とし、その中に木人を十個入れ、古礼の芻霊の意味を示せばよい。それ以外は一物も用いるな。妾媼おう以下で、子供がいて自ら養いたい者は、そのまま住まわせよ。その他はすべて解放せよ。事が済んだら、お前はすぐに私の堂に移り住み、幼弱な者を慰め養え。私の言葉に背くならば、屍を斬るに等しい。」その後はほとんど言葉を発さず、弼らは遺言に従って行った。

原文勣前後戰勝所得金帛,皆散之於將士。初得黎陽倉,就倉者數十萬人。魏徵、高季輔、杜正倫、郭孝恪皆游其所,一見於眾人中,即加禮敬,引之臥內,談謔忘倦。及平武牢,獲偽鄭州長史戴胄,知其行能,尋釋於竟,推薦咸至顯達,當時稱其有知人之鑑。又,初平王世充,獲其故人單雄信,依例處死,勣表稱其武藝絕倫,若收之於合死之中,必大感恩,堪為國家盡命,請以官爵贖之。高祖不許,臨將就戮,勣對之號慟,割股肉以啖之,曰:「生死永訣,此肉同歸於土矣。」仍收養其子。每行軍用師,頗任籌算,臨敵應變,動合事機。與人圖計,識其臧否,聞其片善,扼腕而從。事捷之日,多推功於下,以是人皆為用,所向多克捷。洎勣之死,聞者莫不淒愴。與弟弼特存友愛,閨門之內,肅若嚴君。自遇疾,高宗及皇太子送藥,即取服之;家中召醫巫,皆不許入門。子弟固以藥進,勣謂曰:「我山東一田夫耳,攀附明主,濫居富貴,位極三台,年將八十,豈非命乎?修短必是有期,寧容浪就醫人求活!」竟拒而不進。忽謂弼曰:「我似得小差,可置酒以申宴樂。」於是堂上奏女妓,簷下列子孫。宴罷,謂弼曰:「我自量必死,欲與汝一別耳。恐汝悲哭,誑言似差,可未須啼泣,聽我約束。我見房玄齡、杜如晦、高季輔辛苦作得門戶,亦望垂裕後昆,並遭痴兒破家蕩盡。我有如許豚犬,將以付汝,汝可防察,有操行不倫、交遊非類,急即打殺,然後奏知。又見人多埋金玉,亦不須爾。惟以布裝露車,載我棺柩,棺中斂以常服,惟加朝服一副,死倘有知,望著此奉見先帝。明器惟作馬五六匹,下帳用幔布為頂,白紗為裙,其中著十個木人,示依古禮芻靈之義,此外一物不用。姬媼已下,有兒女而願住自養者,聽之;余並放出。事畢,汝即移入我堂,撫卹小弱。違我言者,同於戮屍。」此後略不復語,弼等遵行遺言。

勣の末弟の感は、幼くして志操あり。李密の敗北の際、王世充に陥り、世充は書を以て勣を召すよう迫ったが、感は言う、「家兄は立身し、名節を損なわず、今や既に主に事え、君臣の分定まり、決して感の軽率な行動によって図を改めないであろう」と。遂に肯んぜず。世充怒り、遂に害した。時に年十五。勣の長子震は、顕慶初年に官は桂州刺史に至り、勣に先立って卒した。

原文勣少弟感,幼有志操。李密之敗也,陷於王世充,世充逼令以書召勣,感曰:「家兄立身,不虧名節,今已事主,君臣分定,決不以感造次改圖。」卒不肯。世充怒,遂害焉,時年十五。勣長子震,顯慶初官至桂州刺史,先勣卒。

孫 徐敬業

原文{{--|孫}} 徐敬業

勣の孫敬業。高宗崩御し、則天太后が朝政を臨む。既にして帝を廃して廬陵王とし、相王を立てて皇帝としたが、政は天后より出で、諸武は皆権任に当たり、人情憤怨す。時に給事中唐之奇は括蒼令に貶授され、長安主簿駱賓王は臨海丞に貶授され、詹事司直杜求仁は黝県丞となり、敬業は事に坐して柳州司馬に左授され、その弟盩啡令敬猷もまた累に坐して左遷され、俱に揚州に在った。敬業は前盩啡尉魏思温の謀を用い、揚州に拠る。嗣聖元年七月、敬業はその党監察御史薛璋を遣わし先ず江都に使わしめ、又雍州人韋超を令して璋に詣り変を告げさせ、「揚州長史陳敬之が唐之奇と謀逆を図る」と云う。璋は乃ち敬之を収めて獄に繫ぐ。数日を経て、敬業は制を矯って敬之を殺し、自ら揚州司馬を称し、詐りて「高州首領馮子猷叛逆し、密詔を奉じて兵を募り進討す」と。是日、府庫を開き、士曹参そうしん軍李宗臣に令して繫囚及び丁役・工匠を解き放ち、数百人を得て、皆これに甲を授く。録事参軍孫処行は命を拒み、敬業はこれを斬って徇らしむ。遂に揚州を拠り、民衆を鳩聚し、以て廬陵を匡復するを辞とす。乃ち三府を開く。一は匡復府、二は英公府、三は揚州大都督府。敬業は自ら匡復府上将を称し、揚州大都督を領し、杜求仁・唐之奇・駱賓王を府属とし、余は皆偽りに職位を署す。旬日の間に、勝兵十余万を有す。仍て諸郡県に檄を移して曰く、

原文勣孫敬業。高宗崩,則天太后臨朝,既而廢帝為廬陵王,立相王為皇帝,而政由天后,諸武皆當權任,人情憤怨。時給事中唐之奇貶授括蒼令,長安主簿駱賓王貶授臨海丞,詹事司直杜求仁黝縣丞,敬業坐事左授柳州司馬,其弟盩啡令敬猷亦坐累左遷,俱在揚州。敬業用前盩啡尉魏思溫謀,據揚州。嗣聖元年七月,敬業遣其黨監察御史薛璋先求使江都,又令雍州人韋超詣璋告變,雲「揚州長史陳敬之與唐之奇謀逆」,璋乃收敬之繫獄。居數日,敬業矯制殺敬之,自稱揚州司馬,詐言「高州首領馮子猷叛逆,奉密詔募兵進討。」是日開府庫,令士曹參軍李宗臣解繫囚及丁役、工匠,得數百人,皆授之以甲。錄事參軍孫處行拒命,敬業斬之以徇。遂據揚州,鳩聚民眾,以匡復廬陵為辭。乃開三府:一曰匡復府,二曰英公府,三曰揚州大都督府。敬業自稱匡復府上將,領揚州大都督,以杜求仁、唐之奇、駱賓王為府屬,余皆偽署職位。旬日之間,勝兵有十餘萬。仍移檄諸郡縣曰:

偽りに朝政を臨む武氏は、人として温順ならず、地実に寒微なり。昔太宗の下陳に充たり、嘗て更衣を以て入侍す。晩節に及びては、春宮を穢乱す。先帝の私を密かに隠し、後庭の嬖を陰に図る。門に入りて嫉を見、蛾眉肯て人を譲らず。袖を掩いて讒に工しく、狐媚偏に能く主を惑わす。元后を翬翟に践み、吾が君を聚麀に陥らしむ。加以えて虺蠍を以て心と為し、豺狼性を成し、邪僻に近づき、忠良を残害し、姉を殺し兄を屠り、君を弑し母を鴆す。人神の同く嫉む所、天地の容れざる所なり。猶復た禍心を包蔵し、神器を窺窃す。君の愛子は、これを別宮に幽す。賊の宗盟は、これに重任を委ぬ。嗚呼、霍子孟の作さざる、朱虚侯の已に亡ぶ。燕皇孫を啄み、漢祚の将に尽きんとするを知る。龍漦帝后、夏廷の遽かに衰えるを識る。敬業は皇唐の旧臣、公侯の冢胤、先君の成業を奉じ、本朝の旧恩に荷う。宋微子の悲を興す、良に以て有り。袁君山の涕を流す、豈に徒然ならんや。是を用いて気風雲に憤り、志社稷を安んじ、天下の失望に因り、宇内の推心に順う。爰に義旗を挙げ、妖孽を清めんことを誓う。南は百越に連なり、北は三河を尽くし、鉄騎群を成し、玉舳相接す。海陵の紅粟、倉儲の積み窮まり無く、江浦の黄旗、匡復の功何ぞ遠からん。班声動けば北風起こり、剣気沖すれば南斗平らかなり。喑嗚すれば則ち山岳崩頹し、叱咤すれば則ち風雲色を変ず。此を以て敵を制すれば、何の敵か摧かざらん。此を以て功を図れば、何の功か克たざらん。公等或いは漢爵を家伝し、或いは地周親に協い、或いは重寄を爪牙に膺け、或いは顧命を宣室に受く。言猶お耳に在り、忠豈に心を忘れんや。一抔の土未だ乾かず、六尺の孤何に托せん。倘しくも禍を転じて福と為し、往きを送り居に事え、共に勤王の師を立て、旧君の命を廃すること無くんば、凡そ諸の爵賞、山河を同じく裂かん。請う今日の域中、竟に誰が家の天下なるかを看よ。

原文偽臨朝武氏者,人非溫順,地實寒微。昔充太宗下陳,嘗以更衣入侍。洎乎晚節,穢亂春宮。密隱先帝之私,陰圖後庭之嬖。入門見嫉,蛾眉不肯讓人;掩袖工讒,狐媚偏能惑主。踐元後於翬翟,陷吾君於聚麀。加以虺蠍為心,豺狼成性,近狎邪僻,殘害忠良,殺姊屠兄,弒君鴆母。人神之所同嫉,天地之所不容。猶復包藏禍心,窺竊神器。君之愛子,幽之於別宮;賊之宗盟,委之以重任。嗚呼!霍子孟之不作,硃虛侯之已亡。燕啄皇孫,知漢祚之將盡;龍漦帝后,識夏廷之遽衰。敬業皇唐舊臣,公侯冢胤,奉先君之成業,荷本朝之舊恩。宋微子之興悲,良有以也;袁君山之流涕,豈徒然哉!是用氣憤風雲,志安社稷,因天下之失望,順宇內之推心。爰舉義旗,誓清妖孽。南連百越,北盡三河,鐵騎成群,玉舳相接。海陵紅粟,倉儲之積靡窮;江浦黃旗,匡復之功何遠!班聲動而北風起,劍氣沖而南斗平。喑嗚則山嶽崩頹,叱咤則風雲變色。以此制敵,何敵不摧?以此圖功,何功不克?公等或家傳漢爵,或地協周親,或膺重寄於爪牙,或受顧命於宣室。言猶在耳,忠豈忘心?一抔之土未乾,六尺之孤何托?倘能轉禍為福,送往事居,共立勤王之師,無廢舊君之命,凡諸爵賞,同裂山河。請看今日之域中,竟是誰家之天下!

則天は左玉鈐衛大将軍李孝逸に命じ兵三十万を将いてこれを討たしめ、敬業の祖父・父の官爵を追削し、墳を剖き棺を斬り、本姓徐氏に復す。初め、敬業の兵集まり、その向かう所を図るに、薛璋曰く、「金陵の王気猶お在り、大江険を設け、以て自ら固むべし。且つ常・潤等州を取って、以て覇の基と為し、然る後に兵を治めて北渡すべし」と。魏思温曰く、「兵は神速を貴ぶ。但だ早く淮を渡って北に進み、山東の豪傑を招合し、その未だ集まらざるに乗じ、直ちに東都を取り、関に拠って決戦すべし。これ上策なり」と。敬業従わず。十月、衆を率いて江を渡り、潤州を攻め抜き、刺史李思文を殺す。先に、太子賢は天后に廃せられ、巴州にて死す。敬業は乃ち賢に状貌似たる者を求め、城中に置き、これを奉じて主と為し、賢は本より死せずと云う。孝逸の軍は淮を渡り、楚州に至る。敬業の衆狼狽して江都に還り、兵を高郵に屯して以てこれを拒ぐ。頻りに戦い大敗し、孝逸は勝に乗じて追躡す。敬業は揚州に奔り、唐之奇・杜求仁等と小舸に乗り、将に海に入り高麗に投ぜんとす。追兵及び、皆これを捕獲す。初め、敬業の伝檄京師に至り、則天これ読みて微哂す。「一抔の土未だ乾かず」に至り、遽かに侍臣に問うて曰く、「此の語誰かこれを為す」と。或いは対えて曰く、「駱賓王の辞なり」と。則天曰く、「宰相の過ち、安くんぞ此人を失せしむ」と。中宗返正し、詔して曰く、「故司空勣、往くに敬業に因り、墳塋を毀廃す。朕元勲を追想し、永く佐命を懐う。昔竇憲紀を干むも、安豊の祠を累さず。霍禹常を乱すも、猶お博陸の祀を全うす。罪は相及ばず、国の通典なり。宜しく特りに恩礼を垂れ、司をして速やかに墳を起さしめ、所有の官爵、並びに宜しく追復すべし」と。勣の諸子孫は敬業に坐して誅殺され、遺胤有ること靡く、偶に禍を脱する者は、皆跡を胡越に竄す。貞元十七年、吐蕃麟州を陥れ、民畜を駆掠して去る。塩州西横槽烽に至り、蕃将徐舍人と号する者、漢俘を呼延州に環集し、僧延素に謂いて曰く、「師甚だ懼るる勿れ。予本漢の五代孫なり。武太后が王室を斫喪するに属し、吾が祖義を建てて果たさず、子孫絶域に流落し、今三代なり。代々職任に居り、兵要を掌握すと雖も、然れども本を思うの心、国を忘れず。但だ族属已に多く、自ら抜くる由無し。此の地は蕃漢の交境、師を放ちて郷に還らしむ」と。数千百人を解縛して遣わす。

原文則天命左玉鈐衛大將軍李孝逸將兵三十萬討之,追削敬業祖、父官爵,剖墳斫棺,復本姓徐氏。初,敬業兵集,圖其所向,薛璋曰:「金陵王氣猶在,大江設險,可以自固。且取常、潤等州,以為霸基,然後治兵北渡。」魏思溫曰:「兵貴神速,但宜早渡淮而北,招合山東豪傑,乘其未集,直取東都,據關決戰,此上策也。」敬業不從。十月,率眾渡江,攻拔潤州,殺刺史李思文。先是,太子賢為天后所廢,死於巴州,敬業乃求狀貌似賢者,置於城中,奉之為主,雲賢本不死。孝逸軍渡淮,至楚州,敬業之眾狼狽還江都,屯兵高郵以拒之。頻戰大敗,孝逸乘勝追躡。敬業奔至揚州,與唐之奇、杜求仁等乘小舸,將入海投高麗。追兵及,皆捕獲之。初,敬業傳檄至京師,則天讀之微哂,至「一抔之土未乾」,遽問侍臣曰:「此語誰為之?」或對曰:「駱賓王之辭也。」則天曰:「宰相之過,安失此人?」中宗返正,詔曰:「故司空勣,往因敬業,毀廢墳塋。朕追想元勳,永懷佐命。昔竇憲干紀,無累安豐之祠;霍禹亂常,猶全博陸之祀。罪不相及,國之通典。宜特垂恩禮,令所司速為起墳,所有官爵,並宜追復。」勣諸子孫坐敬業誅殺,靡有遺胤,偶脫禍者,皆竄跡胡越。貞元十七年,吐蕃陷麟州,驅掠民畜而去。至鹽州西橫槽烽,蕃將號徐舍人者,環集漢俘於呼延州,謂僧延素曰:「師勿甚懼,予本漢五代孫也。屬武太后斫喪王室,吾祖建義不果,子孫流落絕域,今三代矣。雖代居職任,掌握兵要,然思本之心,無忘於國。但族屬已多,無由自拔耳。此地蕃漢交境,放師還鄉。」數千百人,解縛而遣之。

【史評】

原文【史評】

史臣曰く、近代名将と称せられる者は、英・衛二公、誠に煙閣の最たり。英公は彭・黥げいの跡を振い、草莽より自ら抜け、常に能く義を以て身を籓え、物と忤わず、遂に功名を始終するを得たり。賢なるかな、命を垂るるの誡。敬業は貽謀を蹈まず、覆族に至る。悲しいかな。衛公は将家の子、渭陽の風綽に有り。戎に臨み師を出すに、凜然として威断あり。位重くして能く避け、功成りて益々謙る。これを鼎鐘に銘す、何ぞ耿・鄧に慚じん。美なるかな。

原文史臣曰:近代稱為名將者,英、衛二公,誠煙閣之最。英公振彭、黥之跡,自拔草莽,常能以義籓身,與物無忤,遂得功名始終。賢哉,垂命之誡!敬業不蹈貽謀,至於覆族,悲夫!衛公將家子,綽有渭陽之風。臨戎出師,凜然威斷。位重能避,功成益謙。銘之鼎鐘,何慚耿、鄧。美哉!

賛して曰く、功は懋賞を以てす、主を震わすは則ち危し。禄を辞し位を避け、猜を除き疑を破る。功は華夷を定め、志は忠義を懐う。白首にして戎を平らぐ、賢なるかな英・衛。

原文贊曰:功以懋賞,震主則危。辭祿避位,除猜破疑。功定華夷,志懷忠義。白首平戎,賢哉英、衛。