卷六十七
李靖、客師、令問、彦芳
李勣、孫敬業
李靖
李靖は、本名を薬師といい、雍州三原の人である。祖父の崇義は、後魏の殷州刺史・永康公であった。父の詮は、隋の趙郡守であった。靖は姿形が魁偉で、若い頃から文武の才略があり、常に親しい者に言うには、「大丈夫たるもの、主君に遇い時を得れば、必ずや功を立て事を成し、富貴を取るべきである」と。その舅の韓擒虎は、名将と称せられ、常に彼と兵法を論じるごとに、称善せざることはなく、彼を撫でて言うには、「孫子・呉子の術を論じ得る者は、この人だけである」と。初め隋に仕えて長安県功曹となり、後に駕部員外郎を歴任した。左僕射の楊素、吏部尚書の牛弘はいずれも彼を善しとした。素はかつてその床を叩いて靖に言うには、「卿は終にこの座に坐すであろう」と。
大業の末、累遷して馬邑郡丞となった。時に高祖が塞外で突厥を撃つこととなり、靖は高祖を観察し、四方を志す志があることを知り、自ら鎖をかけて上変しようとし、江都に赴かんとしたが、長安に至り、道が塞がって通じず、止まった。高祖が京城を克つと、靖を捕らえて斬らんとした。靖は大声で呼んで言うには、「公は義兵を起こし、本来は天下の暴乱を除くためであり、大事を成さんと欲しながら、私怨をもって壮士を斬るのか」と。高祖はその言葉を壮とし、太宗もまた固く請うたので、遂に赦した。太宗は間もなく召し出して幕府に入れた。
四年、靖はまた十策を陳べて蕭銑を図った。高祖はこれに従い、靖に行軍総管を授け、兼ねて孝恭の行軍長史を摂らせた。高祖は孝恭がまだ軍旅を経ていないため、三軍の任を一に靖に委ねた。その年八月、兵を夔州に集めた。銑は時が秋の潦に属し、江水が泛漲し、三峡の路が険しいため、靖が進めないと必ず思い、兵を休めて備えを設けなかった。九月、靖は乃ち師を率いて進み、峡を下らんとした。諸将は皆兵を停めて水の退くのを待つよう請うたが、靖は言うには、「兵は神速を貴ぶ。機は失うべからず。今兵始めて集まり、銑は未だ知らず。若し水漲の勢いに乗じ、倏忽として城下に至れば、所謂疾雷耳に及ばず、これ兵家の上策である。仮に彼我を知るも、倉卒に兵を徴し、応敵するに及ばず、これ必ず成擒とならん」と。孝恭はこれに従い、兵を進めて夷陵に至った。銑の将の文士弘が精兵数万を率いて清江に屯した。孝恭はこれを撃たんとしたが、靖は言うには、「士弘は銑の健将であり、士卒は驍勇である。今新たに荊門を失い、兵を尽くして出戦するは、これ敗を救うの師であり、恐らく当たるべからず。宜しく自ら南岸に泊し、鋒を争わず、その気衰えるを待ち、然る後に奮撃すれば、これを破ることは必ずである」と。孝恭は従わず、靖を留めて営を守らせ、師を率いて賊と合戦した。孝恭は果たして敗れ、南岸に奔った。賊の舟は大いに掠め、人皆重きを負う。靖はその軍の乱れるを見て、兵を放ってこれを撃ち破り、その舟艦四百余艘を獲、斬首及び溺死する者将に万人に及んだ。
孝恭は靖に軽兵五千を率いて先鋒たらしめ、江陵に至り、城下に営を屯した。士弘が既に敗れたので、銑は甚だ懼れ、始めて江南に兵を徴したが、果たして至ることができなかった。孝恭は大軍を以て継いで進み、靖はまたその驍将の楊君茂・鄭文秀を破り、甲卒四千余人を俘え、更に兵を勒して銑の城を囲んだ。明日、銑は使いを遣わして降を請うた。靖は即ち入ってその城を占拠し、号令厳粛で、軍に私すること無かった。時に諸将は皆孝恭に言うには、「銑の将帥で官軍に拒戦して死した者の罪状は既に重い。請うてその家を籍没し、将士に賞せん」と。靖は言うには、「王者の師は、義は弔伐に存す。百姓は既に駆逼を受け、拒戦すること豈にその願うところならんや。且つ犬はその主に吠えず、叛逆の科に同うるを容れざるは、これ蒯通が漢祖に大戮を免れたる所以である。今新たに荊・郢を定むるに、宜しく寛大を弘めて、遠近の心を慰むべし。降りて之を籍するは、恐らく焚を救い溺を拯うの義に非ざらん。但し恐らくは此より已南の城鎮、各堅守して下らざらんは、計の善きに非ず」と。ここにおいて遂に止めた。江・漢の域は、これを聞いて争って下らざるは無かった。功により上柱国を授けられ、永康県公に封ぜられ、物二千五百段を賜う。詔命して荊州刺史を検校せしめ、制を承けて拝授させた。乃ち嶺を度って桂州に至り、人を分遣して道を招撫すると、その大首領の馮盎・李光度・寧真長らは皆子弟を遣わして来謁し、靖は制を承けてその官爵を授けた。凡そ懐輯すること九十六州、戸六十余万。優詔を以て労勉し、嶺南道撫慰大使を授け、桂州総管を検校した。
六年、輔公祏が丹陽で反し、詔して孝恭を元帥とし、靖を副としてこれを討たしめ、李勣・任瑰・張鎮州・黄君漢ら七総管は並びに節度を受けた。師は舒州に次ぐ。公祏は将の馮恵亮を遣わして舟師三万を率い当塗に屯せしめ、陳正通・徐紹宗は歩騎二万を率いて青林山に屯し、仍って梁山に鉄鎖を連ねて江路を断ち、却月城を築き、延袤十余里、恵亮と犄角の勢いを為した。孝恭は諸将を集めて会議した。皆言うには、「恵亮・正通は並びに強兵を握り、不戦の計を為し、城柵既に固く、卒に攻むべからず。請うて直ちに丹陽を指し、その巣穴を掩わん。丹陽既に破れば、恵亮自ら降らん」と。孝恭はその議に従わんとした。靖は言うには、「公祏の精鋭は、水陸二軍に在りと雖も、然れどもその自ら統ぶる兵も亦皆勁勇である。恵亮らの城柵尚お攻むべからざるに、公祏は既に石頭を保つ。豈に容易に抜くべきや。若し我が師丹陽に至り、旬月留停すれば、進むは公祏未だ平らざるも、退くは恵亮患いを為さん。これ便り腹背敵を受くれば、恐らく万全の計に非ざらん。恵亮・正通は皆是れ百戦の余賊、必ずや野戦を憚らざるも、止むるは公祏の為に計を立て、其に持重せしめ、但だ戦わずして、我が師を老いさせんと欲するのみ。今その城柵を攻めんと欲するは、乃ちその不意に出で、賊を滅するの機、唯だ此の挙に在り」と。孝恭は然りとした。靖は乃ち黄君漢らを率いて先ず恵亮を撃ち、苦戦してこれを破り、殺傷及び溺死者万余人、恵亮は奔走した。靖は軽兵を率いて先ず丹陽に至る。公祏大いに懼れる。先に偽将の左遊仙を遣わして兵を領し会稽を守らせて引援と為し、公祏は兵を擁して東走し、遊仙に趨らんとしたが、呉郡に至り、恵亮・正通と並び相次いで擒獲され、江南悉く平らぐ。ここにおいて東南道行台を置き、靖を行台兵部尚書に拝し、物千段・奴婢百口・馬百匹を賜う。その年、行台廃され、また揚州大都督府長史を検校した。丹陽は連ねて兵寇に罹り、百姓凋弊していたが、靖はこれを鎮撫し、呉・楚は以て安んず。
八年、突厥が太原を寇す。靖を行軍総管と為し、江淮の兵一万を統率せしめ、張瑾と共に大谷に屯す。時に諸軍利あらず、靖の衆のみ独り全し。尋いで安州大都督を検校す。高祖は常に云う、「李靖は蕭銑・輔公祏の膏肓なり。古の名将たる韓信・白起・衛青・霍去病、豈に及ぶべけんや」と。九年、突厥の莫賀咄設が辺境を寇す。靖を征して霊州道行軍総管と為す。頡利可汗が涇陽に入る。靖は兵を率いて倍道して豳州に趨き、賊の帰路を邀う。既にして虜と和親して罷む。
定襄を破りて後より、頡利可汗大いに懼れ、退きて鉄山を保ち、使いを遣わして朝に入り謝罪し、国を挙げて内附せんことを請う。又た靖を定襄道行軍総管と為し、往きて頡利を迎えしむ。頡利は外には朝謁を請うと雖も、潜かに猶豫を懐く。其の年二月、太宗は鴻臚卿唐儉・将軍安修仁を遣わして慰諭す。靖は其の意を揣み知り、将軍張公謹に謂いて曰く、「詔使彼に到らば、虜必ず自ら寛ぐ。乃ち精騎一万を選び、二十日の糧を齎し、兵を引きて白道より之を襲わん」と。公謹曰く、「詔は其の降るを許し、行人彼に在り。未だ討撃すべからず」と。靖曰く、「此れ兵機なり。時に失うべからず。是れ韓信の斉を破る所以なり。唐儉等の輩の如きは、何ぞ惜しむに足らん」と。軍を督して疾く進む。師陰山に至り、其の斥候千余帳に遇い、皆俘虜として軍に随わしむ。頡利は使者を見て大いに悦び、官兵の至るを虞わず。靖の軍将に其の牙帳に逼ること十五里、虜始めて覚ゆ。頡利は威を畏れて先ず走り、部衆是に因りて潰散す。靖は万余級を斬り、男女十余万を俘え、其の妻隋の義成公主を殺す。頡利は千里馬に乗って将に吐谷渾に走り投ぜんとす。西道行軍総管張宝相之を擒えて献ず。俄かに突利可汗来たりて奔る。遂に定襄・常安の地を復し、土界を斥けて陰山より北、大漠に至る。太宗初めて靖の頡利を破るを聞き、大いに悦び、侍臣に謂いて曰く、「朕聞く、主憂うれば臣辱しめられ、主辱しめられれば臣死すと。往者国家草創の時、太上皇は百姓の故を以て、突厥に臣と称す。朕未だ嘗て痛心疾首せずんばあらず。志は匈奴を滅ぼさんとし、坐して安んぜず、食して甘き味を知らず。今者暫く偏師を動かし、往くとして捷からざる無し。単于塞に款き、恥其れ雪がれんか」と。是に於いて天下に大赦し、酺すること五日。
御史大夫温彦博其の功を害し、靖の軍に綱紀無きを譖え、致して虜中の奇宝を乱兵の手に散らさしむ。太宗大いに責譲を加う。靖頓首して謝す。久しくして、太宗謂いて曰く、「隋の将史万歳が達頭可汗を破り、功有りて賞せられず、罪を以て戮に致す。朕は然らず。当に公の罪を赦し、公の勲を録すべし」と。詔して左光禄大夫を加え、絹千匹を賜い、真の食邑前を通じて五百戸とす。未だ幾ばくもせず、太宗靖に謂いて曰く、「前に人公を讒る有り。今朕意已に悟る。公以て懐うること勿れ」と。絹二千匹を賜い、尚書右僕射に拝す。
靖性沈厚にして、時に時宰と参議する毎に、恂恂然として言う能わざるに似たり。八年、詔して畿内道大使と為り、風俗を伺察せしむ。尋いで足疾を以て表を上りて骸骨を乞う。言甚だ懇至なり。太宗中書侍郎岑文本を遣わして謂いて曰く、「朕観るに、古より已来、身富貴に居りて、能く止足を知る者は甚だ少なし。愚智を問わず、自ら知る莫し。才は堪えずと雖も、強いて職に居らんと欲し、縦え疾病有りと雖も、猶お自ら勉強す。公能く大體を識達す。深く嘉す可し。朕今直ちに公の雅志を成すのみに非ず、公を以て一代の楷模と為さんと欲す」と。乃ち優詔を下し、特進を加授し、第に在りて摂養するを聴す。物千段・尚乗馬二匹を賜い、禄賜・国官府佐は並びに旧の如く給し、患若し小瘳すれば、毎に三両日を以て門下・中書に至り政事を平章せしむ。
九年正月、靖に霊寿杖を賜い、足疾を助く。未だ幾ばくもせず、吐谷渾辺境を寇す。太宗顧みて侍臣に謂いて曰く、「李靖を得て帥と為さば、豈に善からずや」と。靖乃ち房玄齢に見えて曰く、「靖年老いたりと雖も、固より一行に堪えん」と。太宗大いに悦び、即ち靖を西海道行軍大総管と為し、兵部尚書・任城王道宗・涼州都督李大亮・右衛将軍李道彦・利州刺史高甑生等三総管を統べて之を征せしむ。九年、軍伏俟城に次す。吐谷渾は野草を焼き去り、以て我が師を餧やし、退きて大非川を保つ。諸将咸に春草未だ生ぜず、馬已に羸瘦すと言い、敵に赴くべからずとす。唯だ靖決計して進み、深く敵境に入り、遂に積石山を逾ゆ。前後数十合戦し、殺傷甚だ衆く、大いに其の国を破る。吐谷渾の衆遂に其の可汗を殺して来降す。靖又た大寧王慕容順を立てて還る。
初め、利州刺史高甑生は塩沢道総管と為り、後軍期せしむ。靖之を薄く責む。甑生是に因りて靖に憾み有り。及んで是に至り、広州都督府長史唐奉義と共に靖の謀反を告ぐ。太宗法官を命じて其の事を按ぜしむ。甑生等竟に誣罔を以て罪を得。靖乃ち門を闔して自ら守り、賓客を杜絶し、親戚と雖も妄りに進むことを得ず。
十一年、衛国公に改封し、濮州刺史を授け、仍って代襲せしむ。例竟に行われず。十四年、靖の妻卒す。詔有りて墳塋の制度は、漢の衛青・霍去病の故事に依る。闕を築きて突厥内の鉄山・吐谷渾内の積石山の形に象り、以て殊績を旌す。十七年、詔して靖及び趙郡王孝恭等二十四人の図画を凌煙閣にす。十八年、帝其の第に幸して疾を問い、仍って絹五百匹を賜い、位を進めて衛国公・開府儀同三司とす。太宗将に遼東を伐たんとし、靖を召して閣に入らしめ、御前に坐するを賜い、謂いて曰く、「公は南に呉会を平げ、北に沙漠を清め、西に慕容を定む。唯だ東に高麗未だ服せず。公の意如何」と。対えて曰く、「臣往者は天威に憑藉し、薄く微効を展ぶ。今残年朽骨、唯だ此の行を擬す。陛下棄てずば、老臣病期に瘳えん」と。太宗其の羸老を愍み、許さず。
靖の弟客師は、貞観年間に官は右武衛将軍に至り、戦功により累ねて丹陽郡公に封ぜられた。永徽初め、年老いたことを以て致仕し、性は馳騁狩猟を好み、四季を通じて鳥獣を追い、暫しも止息することがなかった。別業が昆明池の南にあり、京城の外より、西は澧水に至るまで、鳥獣は皆これを識り、出る毎に烏鵲が随い逐って騒ぎ、野人はこれを「鳥賊」と称した。総章年間に卒し、年九十余であった。
大和年間、令問の孫彦芳は、鳳翔府司録参軍として、闕に詣でて高祖・太宗の賜わった衛国公靖の官告・勅書・手詔等十余巻を進上し、内四巻は太宗文皇帝の筆跡であり、文宗は宝惜して手を放すことができなかった。その佩筆は尚ほ書くに堪え、金装の木匣は製作精巧であった。帝は併せて禁中に留め、書工に模写本を作らせて返し、芳に絹二百匹・衣服・靴笏を賜うて酬いた。
徐世勣
李勣は、曹州離狐の人である。隋末に滑州の衛南に徙居した。本姓は徐氏、名は世勣、永徽年間、太宗の諱を犯すを以て、単に勣と名乗った。家には僮僕多く、積粟数千鐘あり、その父蓋と共に好んで恵施し、貧乏を拯済し、親疏を問わなかった。大業末、韋城の人翟譲が衆を聚めて盗賊となると、勣は往きてこれに従い、時に年十七、譲に謂いて曰く、「今この土地は公及び勣の郷壤にして、人多く相識る、自ら相侵掠するに宜しからず。且つ宋・鄭両郡は、地は御河を管し、商旅往還し、船乗絶えず、彼に就き邀截すれば、以て自ら相資助するに足る」と。譲はこれを然りとし、ここに於て公私の船を劫って物を取り、兵衆大いに振るう。隋は斉郡通守張須陀を遣わして師二万を率いてこれを討たしむ。勣は頻りに戦い、遂に須陀を陣に斬る。初め、李密が雍丘に亡命し、浚儀の人王伯当が野に匿われると、伯当は勣と共に翟譲を説き、密を奉じて主とす。隋は王世充をして密を討たしむ。勣は奇計を以て世充を洛水の上に破り、密は勣を東海郡公に拝す。時に河南・山東に大水あり、死者半ばに将せんとす。隋帝は飢人をして黎陽に就き食わしめ、倉を開き賑給せしむ。時に政教已に紊れ、倉司は時に賑給せず、死者日数万人。勣、密に言うて曰く、「天下大乱、本は飢えの為なり。今若し黎陽一倉を得ば、大事済まん」と。密は乃ち勣を遣わし麾下五千人を領いて原武より河を済い掩襲せしむ。即日これを克ち、倉を開き恣に食わしむ。一句の間に、勝兵二十万余。歳余を経て、宇文化及が江都に於て弑逆し、兵を擁して北上し、直ちに東郡を指す。時に越王侗が東京に即位し、密の罪を赦し、太尉に拝し、魏国公に封ず。勣に右武候大将軍を授け、化及を討たしむ。密は勣を遣わし倉城を守らしむ。勣は城外に深溝を掘りて固守し、化及は攻具を設け、四面より倉を攻む。塹に阻まれて城下に至ること得ず。勣は塹中に地道を為し、兵を出してこれを撃ち、大いに敗れて去る。
勣は前後して戦勝によって得た金帛を、すべて将士に分け与えた。初めて黎陽倉を得た時、倉に集まった者は数十万人に及んだ。魏徴・高季輔・杜正倫・郭孝恪はいずれもその地を遊歴し、勣は衆人の中から彼らを見出すと、すぐに礼を厚くして敬い、寝室に招き入れ、談笑して倦むことを忘れた。武牢を平定した時、偽鄭州長史の戴冑を捕らえ、その行いと才能を知ると、まもなく釈放し、推薦して皆顕達させたので、当時、人を見抜く鑑識があると称された。また、初めて王世充を平定した時、その旧友の単雄信を捕らえ、例に従って処刑しようとしたが、勣は上表してその武芸が並ぶ者がないと称し、死罪の中から救い出せば、必ず大いに恩を感じ、国家のために命を尽くすに堪えるであろうから、官爵をもって贖いたいと請うた。高祖は許さず、処刑されようとする時、勣は彼に向かって号泣し、腿の肉を切り取って食べさせ、「生死の別れである。この肉もともに土に帰ろう」と言った。そしてその子を養育した。行軍や用兵にあたっては、よく謀略を任せ、敵に臨んでの応変は、動きが事機に合致した。人と謀を図る時、その善悪を見抜き、わずかな善行を聞けば、手を握りしめて従った。戦勝の日には、多く功績を部下に推譴したので、人々は皆彼のために用いられ、向かうところ多く勝利を収めた。勣の死を聞いた者は、誰もが悲しみに沈まなかった。弟の弼とは特に友愛を保ち、家門の内は厳かな君主のようであった。病に罹ってから、高宗や皇太子が薬を送ると、すぐに服用したが、家中で医師や巫を召しても、皆門に入ることを許さなかった。子弟がどうしても薬を進めると、勣は言った。「私は山東の一田夫に過ぎない。明主に縁付き、分を越えて富貴に居り、位は三台の極みに至り、年は八十に近づいた。これも天命ではなかろうか。寿命の長短には必ず定めがある。どうして軽々しく医者に頼って生き長らえようとできようか。」ついに拒んで服用しなかった。突然、弼に言った。「私は少し快方に向かったようだ。酒を設けて宴楽を尽くそう。」そこで堂上で女妓の演奏をさせ、軒下に子孫を並べた。宴が終わると、弼に言った。「私は自ら死期が近いと覚悟している。お前と別れを告げたいのだ。お前が悲しんで泣くのを恐れ、快方に向かったように嘘をついた。泣く必要はない。私の言うことを聞け。私は房玄齢・杜如晦・高季輔が苦労して築いた家門が、子孫に余沢を残そうとしたのに、愚かな息子によって破産し尽くされるのを見た。私にもこれだけの豚犬(愚かな子孫)がいる。お前に託すので、よく監視せよ。品行がならず、交際する者が良くない者は、すぐに打ち殺し、それから奏上せよ。また、人が多く金玉を埋めるのを見るが、それも必要ない。ただ布を張った露車に、私の棺を載せ、棺の中には常服で納め、朝服一揃いだけを加えよ。死後に知覚があれば、これで先帝にお目にかかりたい。副葬品は馬を五六匹作るだけでよく、下帳は幔布で頂きを作り、白紗で裙とし、その中に木人を十個入れ、古礼の芻霊の意味を示せばよい。それ以外は一物も用いるな。妾媼以下で、子供がいて自ら養いたい者は、そのまま住まわせよ。その他はすべて解放せよ。事が済んだら、お前はすぐに私の堂に移り住み、幼弱な者を慰め養え。私の言葉に背くならば、屍を斬るに等しい。」その後はほとんど言葉を発さず、弼らは遺言に従って行った。
勣の末弟の感は、幼くして志操あり。李密の敗北の際、王世充に陥り、世充は書を以て勣を召すよう迫ったが、感は言う、「家兄は立身し、名節を損なわず、今や既に主に事え、君臣の分定まり、決して感の軽率な行動によって図を改めないであろう」と。遂に肯んぜず。世充怒り、遂に害した。時に年十五。勣の長子震は、顕慶初年に官は桂州刺史に至り、勣に先立って卒した。
孫 徐敬業
偽りに朝政を臨む武氏は、人として温順ならず、地実に寒微なり。昔太宗の下陳に充たり、嘗て更衣を以て入侍す。晩節に及びては、春宮を穢乱す。先帝の私を密かに隠し、後庭の嬖を陰に図る。門に入りて嫉を見、蛾眉肯て人を譲らず。袖を掩いて讒に工しく、狐媚偏に能く主を惑わす。元后を翬翟に践み、吾が君を聚麀に陥らしむ。加以えて虺蠍を以て心と為し、豺狼性を成し、邪僻に近づき、忠良を残害し、姉を殺し兄を屠り、君を弑し母を鴆す。人神の同く嫉む所、天地の容れざる所なり。猶復た禍心を包蔵し、神器を窺窃す。君の愛子は、これを別宮に幽す。賊の宗盟は、これに重任を委ぬ。嗚呼、霍子孟の作さざる、朱虚侯の已に亡ぶ。燕皇孫を啄み、漢祚の将に尽きんとするを知る。龍漦帝后、夏廷の遽かに衰えるを識る。敬業は皇唐の旧臣、公侯の冢胤、先君の成業を奉じ、本朝の旧恩に荷う。宋微子の悲を興す、良に以て有り。袁君山の涕を流す、豈に徒然ならんや。是を用いて気風雲に憤り、志社稷を安んじ、天下の失望に因り、宇内の推心に順う。爰に義旗を挙げ、妖孽を清めんことを誓う。南は百越に連なり、北は三河を尽くし、鉄騎群を成し、玉舳相接す。海陵の紅粟、倉儲の積み窮まり無く、江浦の黄旗、匡復の功何ぞ遠からん。班声動けば北風起こり、剣気沖すれば南斗平らかなり。喑嗚すれば則ち山岳崩頹し、叱咤すれば則ち風雲色を変ず。此を以て敵を制すれば、何の敵か摧かざらん。此を以て功を図れば、何の功か克たざらん。公等或いは漢爵を家伝し、或いは地周親に協い、或いは重寄を爪牙に膺け、或いは顧命を宣室に受く。言猶お耳に在り、忠豈に心を忘れんや。一抔の土未だ乾かず、六尺の孤何に托せん。倘しくも禍を転じて福と為し、往きを送り居に事え、共に勤王の師を立て、旧君の命を廃すること無くんば、凡そ諸の爵賞、山河を同じく裂かん。請う今日の域中、竟に誰が家の天下なるかを看よ。
則天は左玉鈐衛大将軍李孝逸に命じ兵三十万を将いてこれを討たしめ、敬業の祖父・父の官爵を追削し、墳を剖き棺を斬り、本姓徐氏に復す。初め、敬業の兵集まり、その向かう所を図るに、薛璋曰く、「金陵の王気猶お在り、大江険を設け、以て自ら固むべし。且つ常・潤等州を取って、以て覇の基と為し、然る後に兵を治めて北渡すべし」と。魏思温曰く、「兵は神速を貴ぶ。但だ早く淮を渡って北に進み、山東の豪傑を招合し、その未だ集まらざるに乗じ、直ちに東都を取り、関に拠って決戦すべし。これ上策なり」と。敬業従わず。十月、衆を率いて江を渡り、潤州を攻め抜き、刺史李思文を殺す。先に、太子賢は天后に廃せられ、巴州にて死す。敬業は乃ち賢に状貌似たる者を求め、城中に置き、これを奉じて主と為し、賢は本より死せずと云う。孝逸の軍は淮を渡り、楚州に至る。敬業の衆狼狽して江都に還り、兵を高郵に屯して以てこれを拒ぐ。頻りに戦い大敗し、孝逸は勝に乗じて追躡す。敬業は揚州に奔り、唐之奇・杜求仁等と小舸に乗り、将に海に入り高麗に投ぜんとす。追兵及び、皆これを捕獲す。初め、敬業の伝檄京師に至り、則天これ読みて微哂す。「一抔の土未だ乾かず」に至り、遽かに侍臣に問うて曰く、「此の語誰かこれを為す」と。或いは対えて曰く、「駱賓王の辞なり」と。則天曰く、「宰相の過ち、安くんぞ此人を失せしむ」と。中宗返正し、詔して曰く、「故司空勣、往くに敬業に因り、墳塋を毀廃す。朕元勲を追想し、永く佐命を懐う。昔竇憲紀を干むも、安豊の祠を累さず。霍禹常を乱すも、猶お博陸の祀を全うす。罪は相及ばず、国の通典なり。宜しく特りに恩礼を垂れ、司をして速やかに墳を起さしめ、所有の官爵、並びに宜しく追復すべし」と。勣の諸子孫は敬業に坐して誅殺され、遺胤有ること靡く、偶に禍を脱する者は、皆跡を胡越に竄す。貞元十七年、吐蕃麟州を陥れ、民畜を駆掠して去る。塩州西横槽烽に至り、蕃将徐舍人と号する者、漢俘を呼延州に環集し、僧延素に謂いて曰く、「師甚だ懼るる勿れ。予本漢の五代孫なり。武太后が王室を斫喪するに属し、吾が祖義を建てて果たさず、子孫絶域に流落し、今三代なり。代々職任に居り、兵要を掌握すと雖も、然れども本を思うの心、国を忘れず。但だ族属已に多く、自ら抜くる由無し。此の地は蕃漢の交境、師を放ちて郷に還らしむ」と。数千百人を解縛して遣わす。
【史評】
史臣曰く、近代名将と称せられる者は、英・衛二公、誠に煙閣の最たり。英公は彭・黥の跡を振い、草莽より自ら抜け、常に能く義を以て身を籓え、物と忤わず、遂に功名を始終するを得たり。賢なるかな、命を垂るるの誡。敬業は貽謀を蹈まず、覆族に至る。悲しいかな。衛公は将家の子、渭陽の風綽に有り。戎に臨み師を出すに、凜然として威断あり。位重くして能く避け、功成りて益々謙る。これを鼎鐘に銘す、何ぞ耿・鄧に慚じん。美なるかな。
賛して曰く、功は懋賞を以てす、主を震わすは則ち危し。禄を辞し位を避け、猜を除き疑を破る。功は華夷を定め、志は忠義を懐う。白首にして戎を平らぐ、賢なるかな英・衛。