旧唐書 巻六十六 列伝第十六 房玄齢 杜如晦

旧唐書

巻六十六 列伝第十六 房玄齢 杜如晦

旧唐書巻七十

列伝第十六

房玄齢(玄齢の子、遺直・遺愛) 杜如晦(弟、楚客・叔淹)

房玄齢

房喬、字は玄齢、ひと州臨淄の人。曾祖父は翼、後魏の鎮遠将軍・宋安郡守、壮武伯を襲封。祖父は熊、字は子繹、褐州の主簿。父は彦謙、学を好み、『五経』に広く通じ、隋の涇陽県令、『隋書』に伝がある。

玄齢は幼くして聡敏、経史を博覧し、草書・隷書に巧み、文章をよくした。かつて父に従って京師に至り、時に天下は平穏で、論者は皆、国祚は永く続くであろうとしていたが、玄齢は左右を避けて父に告げて言うには、「隋帝は元より功徳なく、ただ民衆を誑惑し、後嗣のための長遠な計略を立てず、嫡庶を混同し、互いに傾軋させ、諸皇子や藩王の枝葉は、競って淫侈を崇め、結局は内輪で誅戮し合い、家国を保つに足りません。今は清平であっても、その滅亡は足を挙げて待つばかりです」と。彦謙は驚き、彼を異才と認めた。十八歳の時、本州より進士に挙げられ、羽騎尉を授けられた。吏部侍郎高孝基は平素より人を見抜くことを称され、彼を見て深く嘆賞し、裴矩に言うには、「私は多くの人を見てきたが、この郎君のような者を見たことがない。必ずや偉大な器となろう。ただ、その壑を聳えさせ雲霄を凌ぐ姿を見られぬのが残念だ」と。

父の病が百日に及んでも、玄齢は薬餌と食事に心を尽くし、一度も衣を解かず、まばたきを交わすこともなかった。父が亡くなると、酒を酌み飲むこと五日間口にしなかった。後に隰城尉に補任された。義旗が関中に入ると、太宗が渭北を巡行した際、玄齢は杖を執って軍門に謁見し、温彦博もまた彼を推薦した。太宗は一見して、旧知の如く、渭北道行軍記室参軍に任じた。玄齢は知己に遇うや、心力を尽くし、知る限りのことは何でも行った。賊寇が平定されるたびに、人々は競って珍玩を求めたが、玄齢はただ一人先んじて人材を収集し、幕府に招致した。また謀臣や猛将があれば、皆と密かに結びつき、各々が死力を尽くすようにした。

やがて隠太子(李建成)は太宗の勲功と徳望が特に盛んなのを見て、猜疑の間隙を生じさせた。太宗がかつて隠太子の居所に行き、食事をして中毒し帰還すると、府中は震駭し、どうすべきかくら策がなかった。玄齢は長孫無忌に言うには、「今や嫌隙は既に成り、禍の機は発せんとしています。天下は動揺し、人々は異なる志を抱いています。変事が一度起これば、大乱が必ず興り、ただ王府の禍にとどまらず、まさに社稷が傾覆危うくなることを恐れます。この機たまたまに、どうして深く考えないことがありましょうか。私に愚計があります。周公の事績に従うに如くはありません。外には区夏を寧んじ、内には宗社を安んじ、孝養の礼を明らかにするのです。古人に『国を為す者は小節に顧みず』と言うのは、このことを言うのでしょう。どうして家国が淪亡し、身も名も共に滅びるのに及ぶことがありましょうか」と。無忌は言うには、「久しくこの謀を抱いていたが、敢えて表に出さなかった。貴公の今の言葉は、深く私の宿願に合致する」と。無忌は入ってこれを太宗に告げた。太宗は玄齢を召して言うには、「危険の兆しは、その跡が既に現れている。どうすべきか」と。答えて言うには、「国家の患難は、今も昔も何ら違いはありません。えい智聖明でなければ、安んじ治めることはできません。大王の功は天地を覆い、事は圧紐(帝位継承)に集まり、神の加護が所在します。人の謀略に頼る必要はありません」と。そこで府の属僚杜如晦と心を合わせ力を尽くした。引き続き王府の移転に従い秦王府記室に任じられ、臨淄侯に封ぜられた。また本職のまま陝東道大行台考功郎中を兼ね、文学館学士を加えられた。玄齢は秦府に十余年在し、常に記録文書を管掌し、軍書や表奏のたびに、馬を停めて立ちどころに書き上げ、文章は簡約で道理に富み、初めから草稿はなかった。高祖はかつて侍臣に言うには、「この人は機宜を深く識り、委任に足る。わが児(太宗)のために事を陳べるたび、必ず人心に叶い、千里の外にいても、まるで面と向かって語るようだ」と。

隠太子は玄齢と如晦が太宗に親しく礼遇されるのを、甚だ憎み、高祖に讒言した。これにより如晦と共に追放された。隠太子が変事を起こそうとした時、太宗は長孫無忌に命じて玄齢と如晦を召し、道士の服を着させ、密かに閣内に導き入れて計略を議させた。太宗が春宮(皇太子)に入ると、太子右庶子に抜擢任命し、絹五千匹を賜った。

貞観元年、蕭瑀に代わって中書令となった。功績を論じて賞を行い、玄齢及び長孫無忌・杜如晦・尉遅敬徳・侯君集の五人を第一等とし、邢国公に爵を進め、実封千三百戸を賜った。太宗は功臣たちに言うには、「朕は卿らの勲功を叙し、封邑を量り定めたが、全て適当とは限らないだろう。各自、自ら言うことを許す」と。皇従父の淮安王李神通が進み出て言うには、「義旗が初めて起こった時、臣は兵を率いて先に参じました。今、房玄齢・杜如晦らは文筆の吏に過ぎず、功が第一とされています。臣は密かに服しません」と。上は言うには、「義旗初起の時、人々皆それぞれの心があった。叔父は兵を率いて来たが、自ら戦陣に身を置いたことはない。山東が未だ定まらぬ時、委任を受けて征討を専行したが、竇建徳が南侵すると、全軍が陷没した。また劉黒闥が反乱を起こすと、叔父は風の便りに破れた。今、勲功を計って賞を行うに当たり、玄齢らには帷幄の中で籌謀し、社稷を定める功がある。それゆえ漢の蕭何のように、汗馬の労はなくとも、指蹤(指示)し推轂(推薦)したので、功が第一となったのである。叔父は国にとって至親であり、誠に惜しむところはないが、必ずや私情によって、功臣と同じ賞を濫りに与えるわけにはいかない」と。初め、将軍丘師利らは皆、自らの功を誇り、ある者は袖を捲って天を指し、手で地を画いたが、神通が道理に屈するのを見て、互いに言うには、「陛下は至公をもって賞を行い、親族に私せず、我々はどうして妄りに訴えることができようか」と。

三年、太子少師に任じられたが、固辞して受けず、太子詹事を摂行し、礼部めと書を兼ねた。翌年、長孫無忌に代わって尚書左僕射となり、魏国公に改封され、国史監修を命じられた。百司を総任するや、日夜虔恭に、心を尽くし節を竭し、一物もその所を失わないことを欲した。人の善きことを聞けば、あたかも自分がそれを持っているかのようであった。吏事に明達し、文学をもって飾り、法令を審定するには、寛平を旨とした。完璧を求めて人を取らず、自分の長所をもって物事を裁断せず、能力に従って収用叙任し、卑賤を隔てなかった。論者は良相と称した。時に事によって譴責を受けると、数日間朝堂に留まり、額を地に付けて罪を請い、恐れ慄き、身の置き所がないかのようであった。

九年、高祖の山陵の制度を護り、功により開府儀同三司を加えられた。十一年、司空長孫無忌ら十四人と共に代々刺史を襲封することとされ、本官のまま宋州刺史となり、梁国公に改封されたが、事は結局行われなかった。十三年、太子少師を加えられた。玄齢は頻りに上表して僕射の職を解くことを請うた。詔で答えて言うには、「賢を選ぶ義は、私なきを本とし、上に奉ずる道は、仁に当たるを貴しとする。歴代が風を弘める所以であり、通賢が徳に協う所以である。公は忠肅恭懿、明允篤誠である。草昧の霸図を開き、帝道に綢繆した。黄閣(宰相府)の模範となり、諸政は和する。春宮を輔翼し、声望と実績はこれ著しい。しかるにその大體を忘れ、この小節に従う。確かに教諭の職は恭しいが、機衡(政務の中枢)の務を辞するとは、いわゆる『我が一人を弼え、共に四海を安んずる』者と言えようか」と。玄齢は遂に本官のまま就職した。時に皇太子が拝礼を行おうとし、儀仗を整えて待っていたが、玄齢は深く自らを卑下し、敢えて修謁せず、家に帰った。識者は皆、その謙譲を重んじた。

玄齢は自ら端揆(宰相の職)に居ること十五年、娘は韓王の妃となり、男子の遺愛は高陽公主を尚(めと)り、実に顕貴の極みであるとして、頻りに上表して位を辞したが、優詔をもって許さなかった。十六年、また士廉らと共に『文思博要』を撰して成り、賜賚甚だ優厚であった。司空に進み拜せられ、仍(なお)朝政を綜理し、旧に依って国史の監修を務めた。玄齢は表を抗して陳讓したが、太宗は使者を遣わして之に謂いて曰く、「昔、留侯(張良)は位を譲り、竇融は栄を辞し、自ら盈満を懼れ、進むを知りて能く退き、止足を鑑みるに善く、前代之を美とす。公も亦往哲の跡を斉しくせんと欲するは、実に嘉尚すべきなり。然れども国家久しく相任使し、一朝忽ち良相無くんば、両手を失うが如し。公若し筋力衰えずば、此の譲りを煩わす無かれ」と。玄齢遂に止めた。

十八年、司徒長孫無忌らと共に凌煙閣に図形され、賛して曰く、「才は藻翰を兼ね、思は機神に入る。官に当たりて節を励まし、上に奉じて身を忘る」と。高宗が春宮(皇太子)に居た時、玄齢に太子太傅を加え、なお(なお)門下省事を知り、監修国史は旧の如し。尋(まも)なく『高祖・太宗実録』を撰して成ったので、璽書を降して褒美し、物一千五百段を賜う。其の年、玄齢は継母の憂いに遭い去職したが、特勅をもって昭陵の葬地を賜う。未だ幾ばくもなく、本官に起復された。太宗が親征して遼東に赴くに当たり、玄齢を命じて京城留守とし、手詔して曰く、「公は蕭何の任に当たるべし、朕に西顧の憂い無からしむ」と。軍戎の器械、戦士の糧廩は、並びに委ねて処分発遣せしめた。玄齢はしばしば上言して敵を軽んずべからず、とがも誡慎すべきことを説いた。

まもなく中書侍郎褚遂良と詔を受けて重ねて『晋書』を撰し、ここに奏して太子左庶子許敬宗・中書舎人来済・著作郎陸元仕・劉子翼・前雍州刺史令狐徳棻・太子舎人李義府・薛元超・起居郎上官儀ら八人を取って、功を分かち撰録せしめ、臧栄緒の『晋書』を主とし、諸家を参考して、甚だ詳洽であった。然れども史官は多く文詠の士であり、詭謬なる碎事を採りて異聞を広めることを好み、又その評論は競って綺艶を為し、篤実を求めず、ここに頗る学者の譏りを受けた。ただ李淳風は深く星暦に明るく、著述に善く、修めたる『天文』・『律暦』・『五行』の三志は、最も観採すべきものであった。太宗は自ら宣帝・武帝及び陸機・王羲之の四論を著し、ここに総題して「御撰」と云う。二十年に至り、書成る。凡そ一百三十巻、詔して秘府に蔵し、頒賜し加級すること各差有り。

玄齢嘗て微譴に因りて第に帰った時、黄門侍郎褚遂良が上疏して曰く、「君は元首と為り、臣は股肱と号す。龍躍び雲興り、嘯かずして集う。もし(もし)時来たれば、千年も朝暮の如し。陛下昔布衣に在りし時、心に溺れるを拯わんことを懐き、手に軽剣を提げ、義に仗りて起つ。諸の寇乱を平ぐるは、皆自ら神功にして、文経の助けは、頗る輔翼に由る。臣たるの勤めは、玄齢最も最たるものなり。昔、呂望の周武を扶くる、伊尹の成湯を佐くる、蕭何の関中、王導の江外、之に方(くら)ぶれば、以て匹と為すべし。且つ武徳初めに策名して伏事し、忠勤恭孝、衆の帰する所なり。而るに前宮(隠太子)・海陵(元吉)は、凶に憑り乱に恃み、時にかん(かん)して主に事え、人自ら安からず。累卵の危きに居り、倒懸の急き有り、命は一刻を視、身は寸景に縻(つな)がるるも、玄齢の心は終始変わること無し。及び九年の際、機事に臨みて迫り、身は斥逐せられ、謨謀に闕くも、猶道士の衣を服し、文徳皇后と同心して影助す。其の臣節に於いては、自ら負う所無し。及び貞観の始め、万物惟新、吏をえら(えら)びて君に事えしむるに、物論推与す。而るに勲庸比ぶるもの無く、質を委ねるは惟旧なり。自ら罪状赦す無きに非ざれば、搢紳同じく尤(とが)むるも、一犯一愆を以て軽々しく遐棄を示すべからず。陛下必ずや玄齢の歯髪をあわれ(あわれ)み、其の為す所を薄(うす)くせん。古に大臣を諷諭して其の致仕を遣わす者有り。自ら後在るべく、前事にのっと(のっと)り、礼を以て退けば、善声を失わず。今数十年の勲旧を、一事を以て斥逐せば、外に云々して是に非ずと為す。夫れ天子大臣を重んずれば、則ち人其の力を尽くし、去就を軽んずれば、則ち物自ら安からず。臣庸薄を以て、忝(かたじけな)くも左右に預かり、敢えて天威を冒し、管見を申す」と。二十一年、太宗翠微宮に幸す。司農卿李緯を授けて民部尚書と為す。玄齢時に京城留守に在り、会(たまたま)京師より来る者有り。太宗問うて曰く、「玄齢李緯の尚書に拜するを聞きて如何」と。対えて曰く、「玄齢但だ李緯は髭鬚好しと云うのみ、更に他の語無し」と。太宗遽(にわか)に緯を改めて洛州刺史に授く。其の当時に准的と為すこと此の如し。

二十三年、駕玉華宮に幸す。時に玄齢旧疾発し、詔して臥して留台を総べしむ。及び漸く篤く、追って宮所に赴かしめ、担輿に乗じて殿に入り、将に御座に至らんとして乃ち下る。太宗之に対し流涕し、玄齢も亦感咽して自勝えず。勅して名医を遣わし救療せしめ、尚食毎日御膳を供す。若し微かに減損を得れば、太宗即ち喜色を見え、増劇を聞けば、便ち容を改めて悽愴と為す。玄齢因りて諸子に謂いて曰く、「吾自ら危篤を度るに、而して恩沢転た深し。若し聖君に孤負せば、則ち死して余責有り。当今天下清謐にして、みな(みな)其の宜きを得たり。唯だ東に高麗を討つこと止まず、方に国患と為る。主上怒を含み意決し、臣下敢えて顔を犯す者莫し。吾知りて言わざれば、則ち恨みを銜(ふく)んで地に入らん」と。遂に表を抗して諫めて曰く、

兵は収められぬことを悪み、武は戈を止めることを貴ぶと聞く。当今、聖なる教化の及ぶところは遠く届かぬところなく、上古より臣従せざる者も、陛下は皆これを臣とし、制せざる者も皆これを制することができた。詳しく今古を観れば、中国の患害となる者は、突厥に如くものはない。遂に坐して神策を運び、殿堂を下ることなく、大小の可汗は相次いで手を束ね、禁衛を分かち典し、戟を執って行間に侍る。その後、延陀が鴟張したが、尋いで夷滅に就き、鉄勒は義を慕い、州県を置くことを請うた。沙漠以北、万里に塵無し。高昌が流沙に叛渙し、吐渾が積石に首鼠するが如きは、偏師を以てうす伐し、倶に平蕩に従う。高麗は歴代逋誅し、討撃するもの能わざるなり。陛下はその逆乱を責め、主を弑し人を虐げるを以て、親しく六軍を総べ、遼・碣に罪を問う。旬月を経ずして、即ち遼東を抜き、前後虜獲すること、数十万計、諸州に分配して、満たさぬところ無し。往代の宿恥を雪ぎ、崤陵の枯骨を掩う。功を比べ徳を較ぶれば、万倍前王なり。これ聖心の自ら知る所、微臣安んぞ備えて説くことを得んや。且つ陛下の仁風は率土に被り、孝徳は配天に彰る。夷狄の将に亡びんとするを見れば、則ち期を指して数歳を数え、将帥に節度を授くれば、則ち機を決して万里を絶つ。指を屈して駅を候い、景を視て書を望む。符応すること神の如く、算に遺策無し。将を行伍の中より擢げ、士を凡庸の末より取る。遠夷の単使も、一見して忘れず、小臣の名も、未だ再び問わず。箭は七札を穿ち、弓は六鈞を貫く。情を墳典に留め、意を篇什に属することを加うれば、筆は鍾・張に邁り、辞は班・馬に窮す。文鋒既に振るえば、則ち管磬自ずから諧い、軽翰暫く飛べば、則ち花蘤競い発つ。万姓を慈しみ以て撫で、群臣を礼を以て遇う。秋毫の善を褒め、吞舟の網を解く。逆耳の諫は必ず聴き、膚受の訴は斯く絶つ。生を好むの徳は、江湖に障塞を焚き、殺を悪むの仁は、屠肆に鼓刀を息ます。鳧鶴は稻粱の恵みを荷い、犬馬は帷蓋の恩に蒙る。乗を降りて思摩の瘡を吮い、堂に登りて魏徴の柩に臨む。戦亡の卒を哭すれば、則ち哀しみ六軍を動かし、填道の薪を負えば、則ち精誠天地に感ず。黔黎の大命を重んじ、特しく庶獄に心を尽くす。臣が心識昏憒たり、豈に聖功の深遠を論じ、天徳の高大を談ずるに足らんや。陛下は衆美を兼ねてこれを有し、備わらざる無し。微臣は深く陛下のためこれを惜しみこれを重んじ、これを愛しこれを宝とす。《周易》に曰く、「進むを知りて退くを知らず、存するを知りて亡ぶるを知らず、得るを知りて喪うるを知らず」と。又曰く、「進退存亡を知りて、その正を失わざる者は、惟だ聖人か」と。これに由りて言えば、進むには退くの義有り、存するには亡ぶるの機有り、得るには喪うるの理有り。老臣の以て陛下のためこれを惜しむ所以のものは、蓋し此れを謂うなり。老子曰く、「足るを知れば辱められず、止まるを知れば殆うからず」と。陛下の威名功徳も、亦た以て足るべし、拓地開疆も、亦た以て止むべしと謂う。彼の高麗は、辺夷の賤類、仁義を以て待つに足らず、常礼を以て責むべからず。古来魚鱉を以てこれを畜う、宜しく闊略に従うべし。若し必ずやその種類を絶たんと欲すれば、恐らくは獣窮まれば則ち搏たん。且つ陛下は毎に一死囚を決するに、必ず三覆五奏せしめ、素食を進め音楽を停むるは、蓋し人命の重んずる所、聖慈を感動せしむるなり。況んや今の兵士の徒は、一の罪戾無く、故無くしてこれを行陣の間に駆り、鋒刃の下に委ね、肝脳を地に塗らしめ、魂魄帰する所無からしめ、その老父孤児・寡妻慈母に、轊車を望みて泣きを掩わしめ、枯骨を抱いて心を摧かしむるは、以て陰陽を変動し、和気を感傷するに足り、実に天下の冤痛なり。且つ兵は兇器、戦は危事、已むを得ずしてこれを用う。向使高麗臣節に違失せば、陛下これを誅す可し、百姓を侵擾せば、陛下これを滅す可し、久長して能く中国の患と為らば、陛下これを除く可し。一これに在りと雖も、日に万夫を殺すと雖も、愧じるに足らず。今この三条無く、坐して中国を煩わし、内には旧王の恥を雪ぎ、外には新羅の仇を報ずるは、豈に存する所は小さく、損ずる所は大なりと為さざらんや。願わくは陛下、皇祖老子の止足の誡に遵い、以て万代の巍巍たる名を保たん。霈然たる恩を発し、寛大の詔を降し、陽春に順いて以て沢を布き、高麗に自新を許さん。淩波の船を焚き、応募の衆を罷め、自然に華夷慶頼し、遠くは肅しく邇くは安んぜん。臣は老病の三公、旦夕に地に入らんとす。恨むらくは竟に塵露無く、微かに海嶽を増すこと無きを。謹みて残魂余息を罄くし、預め代わって結草の誠を致す。倘し此の哀鳴を録せられば、即ち臣死すとも且つ朽ちず。

太宗表を見て、玄齢の子の婦たる高陽公主に謂いて曰く、「此人危惙すること此の如く、尚お能く我が国家を憂う」と。後疾増劇し、遂に苑の牆を鑿ち門を開き、累ねて中使を遣わして候問す。上又親臨し、手を握りて別を敘し、悲しみ自ら勝えず。皇太子も亦た就きて之と訣す。即日その子遺愛を右衛中郎将に、遺則を中散大夫に授け、目前に及ばしめて、その通顕を見しむ。尋いで薨ず。年七十。朝を廃すること三日、冊して太尉・并州都督を贈り、諡して文昭と曰い、東園秘器を給し、昭陵に陪葬す。玄齢嘗て諸子を誡むるに驕奢沈溺を以てし、必ず地望を以て人に淩ぐべからずと。故に古今の聖賢家誡を集め、屏風に書きて、各々一具を取らしめ、謂いて曰く、「若し能く留意せば、以て身を保ち名を成すに足る」と。又云う、「袁家累葉忠節、是れ吾の尚ぶ所、汝宜しくこれを師とすべし」と。高宗位を嗣ぎ、詔して太宗廟庭に配享せしむ。

玄齢の子 遺直・遺愛

子遺直嗣ぐ。永徽初め礼部尚書・汴州刺史と為る。次子遺愛、太宗の女高陽公主に尚り、駙馬都尉を拝し、官は太府卿・散騎常侍に至る。初め、主は太宗に寵有り、故に遺愛は特く恩遇を承け、諸主婿と礼秩絶異なり。主既に驕恣し、遺直を黜しその封爵を奪わんと謀り、永徽中遺直が己に無礼なるを誣告す。高宗長孫無忌に令してその事を鞫せしむ。因って公主と遺愛の謀反の状を得たり。遺愛誅せられ、公主は自尽を賜い、諸子は嶺表に配流す。遺直は父の功を以て特くこれを宥し、名を除いて庶人と為す。玄齢の配享を停む。

杜如晦

杜如晦、字は克明、京兆杜陵の人なり。曾祖皎、周において開府儀同・大将軍・遂州刺史を贈られる。高祖徽、周の河内太守。祖果、周の溫州刺史、隋に入り、工部尚書・義興公、《周書》に伝有り。父吒、隋の昌州長史。

如晦少くして聰悟、文史を談ずるを好む。隋の大業中、常調を以て選に預かり、吏部侍郎高孝基深く器重す。顧みてこれに謂いて曰く、「公は応変の才有り、棟梁の用と為るべし。願わくは令徳を保崇せよ。今卑職に俯就せんと欲するは、須らく少禄俸を為さんがためなり」と。遂に滏陽尉を補し、尋いで官を棄てて帰る。

太宗が京城を平定したとき、彼を召し出して秦王府の兵曹参軍とし、まもなく陝州総管府長史に遷した。当時、府中には多くの英俊がいたが、外任に遷される者が多く、太宗はこれを憂えた。記室の房玄齢が言うには、「府僚で去る者は多いが、惜しむに足りません。杜如晦は聡明で識見に達し、王を補佐する才です。もし大王が藩屏を守り端座しておられるなら、用いる所はありません。必ず四方を経営しようとなさるなら、この人でなければなりません。」太宗は大いに驚いて言った、「お前が言わなければ、ほとんどこの人を失うところであった!」そこで上奏して府の属官とした。後に薛仁杲、劉武周、王世充、竇建德を征討するに従い、常に帷幄で参謀を務めた。当時、軍国に事多く、裁断は流れるように速く、深く当時の人々に敬服された。累進して陝東道大行台司勲郎中となり、建平県男に封ぜられ、食邑三百戸を与えられた。まもなく本官のまま文学館学士を兼ねた。天策府が建てられると、彼を從事中郎とし、丹青に画像を描かせた者は十八人いたが、如晦がその首座であり、文学の褚亮に命じてその賛を作らせて言わせた、「建平(如晦)は文雅あり、美しく烈光あり。忠を懐き義を履み、身立ち名揚がる。」彼がこのように重んじられたのである。

隠太子は彼を深く忌み、斉王元吉に言った、「秦王府の中で恐るべき者は、ただ杜如晦と房玄齢だけだ。」そこで高祖に讒言し、ついに玄齢とともに排斥・追放された。後にまた密かに入って策をめぐらし、事が成功すると、房玄齢と功績が同等であり、抜擢されて太子左庶子に任じられ、まもなく兵部尚書に遷り、蔡国公に進封され、実封千三百戸を賜った。貞観二年、本官のまま侍中を検校し、吏部尚書を摂り、引き続き東宮の兵馬事を総監し、称職と号された。

三年、長孫無忌に代わって尚書右僕射となり、引き続き選事を管掌し、房玄齢とともに朝政を執った。台閣の規模や典章・人物に至るまで、皆二人が定めたところであり、当代の誉れを大いに得、良相を談ずる者は、今に至るまで房・杜と称する。如晦は高孝基に人を見抜く鑑識があるとして、彼のために神道碑を建ててその徳を記念した。その年の冬、病にかかり、上表して職務の解除を請うた。許され、禄と賜物は特に旧例のままとした。太宗はその病を深く憂い、頻りに使者を遣わして見舞い、名医や上薬が道に相望んだ。

四年、病が重篤となり、皇太子に命じて邸宅に臨問させ、上みずからその宅に幸して、彼を撫でて涙を流し、物千段を賜った。その最期に至らぬうちに、子が官に任ぜられるのを見ようと、ついにその子の左千牛・杜構を超遷して尚舎奉御とした。まもなく薨去した。四十六歳。太宗は彼のために慟哭し、三日間朝政を停止し、司空を追贈し、萊国公に徙封し、諡して成といった。太宗は著作郎の虞世南に手詔して言った、「朕と如晦とは、君臣の義が重い。不幸にも忽然と物化に従った。勲旧を追念し、懐に痛悼する。卿は朕のこの意を体して、碑文を作製せよ。」太宗は後に瓜を食べて美味であると感じ、愴然として彼を悼み、ついに食事の半分を止め、使者を遣わして霊座に奠した。またかつて房玄齢に黄銀の帯を賜ったとき、顧みて玄齢に言った、「昔、如晦は公と心を同じくして朕を補佐した。今日賜る所は、ただ公だけに見える。」そこで涙を流して泣いた。また言った、「朕は聞く、黄銀は多く鬼神に畏れられるという。」命じて黄金の帯を取り寄せ、玄齢に遣わして霊所に親しく送らせた。その後、太宗は忽然と如晦が平生の如く夢に見た。夜明けになって、これを玄齢に告げ、言ってはすすり泣き、御饌を送って祭らせた。翌年の如晦の亡くなった日、太宗はまた尚宮を遣わして邸宅に至らせ、その妻子を慰問し、その国官府の佐官たちも罷免しなかった。終始恩遇されたことは、これまでなかった。

子の杜構が爵を襲い、官は慈州刺史に至ったが、弟の杜荷の謀反に連座して、嶺表に徙され、そこで卒した。初め、杜荷は功臣の子として城陽公主に尚し、襄陽郡公の爵を賜り、尚乗奉御に任じられた。貞観年間、太子承乾と謀反を企て、斬罪に処せられた。

如晦の弟 楚客

如晦の弟の楚客は、幼くして叔父の杜淹に従って王世充のもとに没した。杜淹は平素から如晦兄弟と仲が良くなく、如晦の兄を王行満に讒言し、王世充は彼を殺し、併せて楚客を囚え、ほとんど餓死するところであったが、楚客は終に怨む色がなかった。洛陽が平定されると、杜淹は死罪に当たった。楚客は涙を流して如晦に請い、彼を救わせようとした。如晦は初め従わなかった。楚客は言った、「叔父はすでに長兄を殺しました。今、兄がまた恨みを結んで叔父を見捨てるならば、一門の内で、互いに殺し合って尽きてしまうことになり、痛ましいことではありませんか!」そこで自ら刎ねようとした。如晦はその言葉に感じ、太宗に請うたので、杜淹はついに恩赦を蒙った。楚客はこれによりすう山に隠棲した。

貞観四年、召し出されて給事中に任じられた。上は言った、「聞くところでは卿は山に居すること久しく、志意が甚だ高いという。宰相の任でなければ出てこられないというが、どうしてそんな道理があろうか。遠くに渡る者は必ず近くから始め、高く昇る者は必ず下から始めるのである。ただ官にあって衆人に認められるならば、官が大きくならないことを憂うるには及ばない。爾の兄は朕と体は異なっても、その心は一つであり、朕の国家に対して大功がないわけではない。爾の兄を思い、爾に会いたいと思う。朕の意を識り、爾の兄の忠義を受け継げ。」楚客を蒲州刺史に任じ、甚だ有能な名声があった。後に魏王府長史を歴任し、工部尚書に任じられ、魏王泰の府事を摂った。

楚客は太宗が承乾を喜ばないことを知り、魏王泰はまた密かに楚客に命じて、朝廷の臣下で権勢のある者と交友させ、中には金を懐にして賄賂する者もあり、そこで泰が聡明であると説き、嫡嗣とすべきであると言った。ある人がこれを聞きつけて報告したが、太宗は隠して言わなかった。事が発覚すると、太宗は初めてその事を明らかにし、その兄に佐命の功があるとして、死罪を免じ、家に廃した。まもなく処化県令に任じ、そこで卒した。

如晦の叔父 淹

如晦の叔父の杜淹。杜淹は字を執礼という。祖父の杜業は、北周の豫州刺史。父の杜征は、河内太守。杜淹は聡明で弁舌に優れ多才多芸であり、弱冠にして美名があり、同郡の韋福嗣と莫逆の交わりを結び、互いに謀って言った、「上は嘉遁を用いることを好まれ、蘇威は幽人として徴用され、美職に抜擢された。」そこで共に太白山に入り、隠逸を揚言したが、実は時の名誉を求めようとしたのである。隋の文帝はこれを聞いて憎み、江表に謫戍とし、後に郷里に帰った。

雍州司馬の高孝基が上表して彼を推薦し、承奉郎に任じられた。大業の末、官は御史中丞に至った。王世充が僭号を称すると、吏部に任じられ、大いに親任された。洛陽が平定されると、初めは任用されず、杜淹は隠太子に身を委ねようとした。当時、封徳彝が選事を掌り、これを房玄齢に告げ、隠太子が彼を得れば、その奸計を助長することを恐れ、そこで急いで太宗にひら上し、天策府兵曹参軍・文学館学士に引き入れた。

武徳八年、慶州総管の楊文幹が乱を起こし、その言葉が東宮に連なり、罪を杜淹と王珪・韋挺らに帰し、ともに越巂に流された。太宗は杜淹が罪でないことを知り、黄金三百両を贈った。即位すると、徴召して御史大夫に任じ、安吉郡公に封じ、実封四百戸を賜った。杜淹が典故に多く通じているため、特に詔して東宮の儀式や簿領は、みな杜淹の取り決めに従わせた。まもなく吏部尚書を判じ、朝政に参議した。前後して表して四十余人を推薦し、後に多く知名の士となった。

杜淹はかつて刑部員外郎の郅懷道を推薦したことがあり、太宗はそれに因んで杜淹に問うた、「懷道の才能と行いはどうか」。杜淹は答えて言った、「懷道は隋の時代に吏部主事を務め、非常に清廉で慎み深い名声がありました。また、よう帝が江都に向かおうとした時、百官を召して去就の計を問いました。当時、行幸の計画は既に決まっており、公卿たちは皆、上意に迎合して行くことを請うたが、懷道は官位が極めて低いながら、ただ一人、行くべきでないと述べました。臣はこのことをこの目で見ました」。太宗は言った、「卿はその時、どの計に従ったのか」。答えて言った、「臣は行く計に従いました」。太宗は言った、「君主に仕える義理としては、犯顔して諫め、隠し立てはしないものである。卿は懷道の言うことを正しいと称賛しているのに、なぜ自ら正しく諫めなかったのか」。答えて言った、「臣は当時、重任を担っておらず、また諫めても必ず聞き入れられないと知っていたので、ただ死ぬだけでは益がありませんでした」。太宗は言った、「孔子は、父の命令に従うだけでは孝子とは言えないとされた。故に父には争う子がおり、国には争う臣がいる。もし君主が無道であるならば、なぜその世に仕え続けたのか。既にその禄を食んでいる以上、その非を正さないわけにはいかないのではないか」。そこで群臣に向かって言った、「公らはそれぞれ、諫めの事についてどう思うか」。王珪が言った、「昔、比干は紂王を諫めて死んだが、孔子はその仁を称えられた。洩冶は諫めて殺されたが、孔子は言われた、『民に邪なことが多いならば、自ら法を立てるな』と。これはつまり、禄が重く責任が深ければ、道理として極言して諫めねばならず、官が卑しく声望が低ければ、その従容たるを許すべきであるということです」。太宗はまた杜淹を召し出し、笑って言った、「卿が隋に仕えていた時は、位が低いことを理由に言わなかったが、近く王世充に仕えた時は、なぜ極言して諫めなかったのか」。答えて言った、「諫めたこともありますが、ただ聞き入れられませんでした」。太宗は言った、「世充がもし徳を修め善に従っていたならば、滅亡することはなかったであろう。既に無道で諫めを拒んだのに、卿はどうして禍を免れたのか」。杜淹は答える言葉がなかった。太宗はまた言った、「卿が今日(朕の朝廷に)いるならば、備任として任用できるが、また極言して諫めようと思うか」。答えて言った、「臣が今日おりますならば、必ず死を尽くして隠し立てはしません。かつて百里奚は虞にいては虞が亡び、秦にいては秦が覇者となった。臣はひそかに彼に自分をなぞらえます」。太宗は笑った。

当時、杜淹は二つの職を兼ねていたが、清廉潔白な誉れはなく、また平素から長孫無忌と仲が悪かったため、当時の世論に非難された。病気になった時、太宗は自ら見舞いに行き、絹三百匹を賜った。貞観二年に死去し、尚書右僕射を追贈され、諡を襄といった。子の敬同が爵位を襲い、官は鴻臚少卿に至った。敬同の子の從則は、中宗の時に蒲州刺史となった。

史臣が言う。

史臣が言う。房玄齢・杜如晦の二公は、皆、世に名を成す才能を持ち、明主に遭い、謀略がよく調和し、もって太平の世をもたらした。議論する者はこれを漢の蕭何・曹参に比するが、まことにその通りである。しかし、杜淹(萊成公)が用いられたのは、房玄齢(文昭公)の推薦によるものであった。世に伝えられるには、太宗がかつて房玄齢と事を図った時、玄齢は「杜如晦でなければこれを籌策できない」と言った。そして杜如晦が来ると、結局は房玄齢の策に従ったのである。おそらく房玄齢は杜如晦が大事を断ずる能力があることを知り、杜如晦は房玄齢が優れた謀略をよく立てることを知っていたのであろう。裨諶が草稿を作り、東里子産が修辞を加えるように、互いに必要として成し遂げ、後悔する事なからしめた。賢達の心遣いには、確かに道理がある。もし過去の哲人に比べるならば、房玄齢は管仲・子産、杜如晦は鮑叔・罕虎といったところであろう。

賛。

賛して言う。聖君が啓かれる時には、必ず賢明な補佐が生まれる。ああ、この二公こそ、実に国運を開いたのである。文は経緯を含み、謀略は補佐として深遠である。笙と磬が同じ音を奏でるように、調和するのは房玄齢と杜如晦のみである。