旧唐書 高士廉 子に履行・真行あり 長孫無忌

旧唐書

高士廉 子に履行・真行あり 長孫無忌

高儉

高儉、字は士廉、渤海郡蓚県の人である。曾祖父の飛雀は、後魏より太尉を追贈された。祖父の岳は、北斉の侍中・左僕射・太尉・清河王であった。父の励は、字を敬徳といい、北斉の楽安王・尚書左僕射、隋の洮州刺史であった。士廉は若くして器量と見識があり、広く文史に通じていた。隋の司隸大夫薛道衡と起居舎人崔祖浚はともに先達として名高く、士廉と年齢を忘れた交わりを結び、これにより公卿の間で名声が高まった。大業年間、治礼郎となった。士廉の妹は先に隋の右驍衛将軍長孫晟に嫁ぎ、子の無忌と娘を生んだ。晟が没すると、士廉は妹と甥たちを自宅に迎え入れ、恩情を厚くした。太宗が潜龍の時(帝位につく前)に並々ならぬ人物であるのを見て、そこで晟の娘を娶らせた。これが文徳皇后である。隋軍が遼を征伐した時、兵部尚書の斛斯政が高麗に亡命した。士廉は彼と交遊していたことで連座し、朱鳶主簿に左遷された。父母に仕えることを孝行として知られ、嶺南は瘴癘の地で同行できず、妻の鮮于氏を留めて侍養させたが、供給が足りなかった。また妹に寄るべき所がないのを思い、大宅を売って小宅を買い彼女を住まわせ、残った資産を分け与え、軽装で出発した。まもなく天下大乱に遭遇し、朝廷の命令は途絶え、交趾太守の丘和が彼を司法書佐に任命した。士廉は長く南方におり、母の消息を知ることができず、北を望む思いはますます切実であった。ある時昼寝をしていると、夢に母が現れて語りかけ、まるで膝元にいるようであった。目が覚めると涙が流れ落ちた。翌日、果たして母からの便りを得た。議論する者はこれを孝行の感動が応じたものとした。時に欽州の寧長真が軍勢を率いて丘和を攻めた。和は門を出て迎えようとしたが、士廉が進み出て説いた。「長真の兵勢は多いが、孤軍を遠くから進め、内は離反し外は逼迫して、長く持ちこたえることはできません。また城中の精兵は、彼らに対抗するに足ります。どうして人の制を受けるようなことをなさいますか。」和はこれに従い、そこで士廉を行軍司馬に命じ、水陸ともに進軍し、迎え撃ってこれを破った。長真はただ一身で逃れるのみで、残りの兵はすべて降伏した。蕭銑が敗れると、高祖は嶺南を巡行させた。武徳五年、士廉は丘和とともに上表して帰国し、累進して雍州治中となった。時に太宗は雍州牧であり、士廉が文徳皇后の舅であり、平素から才能と声望があることから、非常に親しく敬った。隠太子を誅殺しようとした時、士廉は甥の長孫無忌とともに密謀に参与した。六月四日、士廉は吏卒を率いて囚人を解放し、兵甲を与え、芳林門に馳せつけ、太宗と合流する態勢を整えた。太宗が春宮(皇太子)に昇ると、太子右庶子に任じられた。

貞観元年、侍中に抜擢され、義興郡公に封ぜられ、実封九百戸を賜う。士廉は明弁にして、容止に優れ、凡そ献納する所あれば、搢紳の士、目を属さざるは無し。時に黄門侍郎王珪、密表有りて士廉に附して聞かせんとす。士廉は寝して言わず、これに坐して安州都督に出され、転じて益州大都督府長史となる。蜀土の俗は薄く、鬼を畏れ疾を悪み、父母病みて危殆なる者有れば、多く親しく扶侍せず、杖頭に食を掛け、遥かに以てこれに哺す。士廉は方に随い訓誘し、風俗頓に改まる。秦の時、李冰蜀を守り、汶江を導引し、浸灌の利を創め、今に至るまで地水側に居る者は、須らく直千金、富強の家、多く相侵奪す。士廉は乃ち故渠の外に別に更に疏決し、蜀中大いに其の利を得。又暇日に因り辞人を汲引し、以て文会と為し、兼ねて儒生を命じ経史を講論せしめ、後進を勉励し、蜀中の学校燦然として復興す。蜀人朱桃椎なる者、淡泊を事とし、隠居して仕えず、裘を披き索を帯び、人間に沈浮す。竇軌の益州を鎮むるや、聞きて召見し、衣服を遺し、逼めて郷正と為さしむ。桃椎口竟に言無く、衣を地に棄て、山中に逃れ込み、庵を澗曲に結ぶ。夏は則ち裸形し、冬は則ち樹皮を以て自ら覆い、人の贈遺有るも、一も受けざる所無し。毎に芒履を為し、之を路に置く。人これを見る者、「朱居士の履なり」と曰う。米を鬻ぎて本処に置くを為し、桃椎夕べに至りて之を取り、終に人と相見えず。議する者、焦先の流と為す。士廉下車し、礼を以て之を致し、至るに及んで、階を降りて与に語る。桃椎答えず、直視して去る。士廉毎に存問せしむ。桃椎使者を見れば、輒ち林に入り自ら匿う。近代以来、多く隠逸を軽んず。士廉独り褒礼を加え、蜀中以って美談と為す。五年、入りて吏部尚書と為り、許国公に進封され、仍て一子を県公に封ず。人倫を奨鑑し、姓氏に雅く諳んじ、凡そ署用する所、人地俱に允ならざるは莫し。高祖崩ず。士廉司空を摂し、山陵の制度を営む。事畢りて、特進・上柱国を加えらる。是の時、朝議以って山東の人士は好んで自ら矜誇し、復た累葉陵遅すと雖も、猶其の旧地を恃み、女他族に適すれば、必ず多く聘財を求む。太宗之を悪み、甚だ教義を傷つくると為し、乃ち士廉に詔し、御史大夫韋挺・中書侍郎岑文本・礼部侍郎令狐徳棻等と共に姓氏を刊正せしむ。是に於て普く天下の譜牒を責め、仍て史伝に憑拠し、其の真偽を考え、忠賢なる者は褒め進め、悖逆なる者は貶し黜き、撰して『氏族志』と為す。士廉乃ち其の等第を類して以て進む。太宗曰く、「我と山東の崔・盧・李・鄭とは、旧より既に嫌無し。其の世代衰微し、全く冠蓋無きが為めに、猶自ら士大夫と雲い、婚姻の間は則ち多く錢幣を邀う。才識凡下にして、偃仰自ら高く、松檟を販鬻し、富貴に依託す。我人間何を為てか之を重んずるかを解せず。只だ斉は惟だ河北に拠り、梁・陳は僻く江南に在り、当時人物有りと雖も、偏僻の小国、貴ぶに足らず、今に至るまで猶崔・盧・王・謝を以て重しと為す。我四海を平定し、天下一家なり。凡そ朝士に在る者は、皆功效顕著、或いは忠孝称す可く、或いは学芸通博、以って擢用する所なり。見居三品以上、衰代の旧門と親を為さんと欲すれば、縦い多く錢帛を輸すと雖も、猶偃仰せらる。我今族姓を特定するは、今朝の冠冕を崇重せんと欲するなり。何ぞ因って崔干猶第一等と為すや。昔漢高祖は止だ山東の一匹夫、其の天下を平定するを以て、主尊く臣貴し。卿等書を読み、其の行跡を見、今に至るまで美談と為し、心に敬重を懐く。卿等我が官爵を貴ばざるか。須らく数世以前を論ぜず、止だ今日の官爵高下を取りて等級を作れ。」遂に崔干を第三等と為す。及び書成る。凡そ一百巻。詔して天下に頒つ。士廉に物千段を賜う。尋いで中書門下三品に同ず。十二年、長孫無忌等と以って佐命の功に、並びに代わりて刺史を襲い、申国公を授かる。其の年、尚書右僕射に拝す。士廉既に任遇益々隆く、表奏する所多く、成れば輒ち稿を焚き、人之を知る莫し。太子少師を摂し、特詔にて選を掌らしむ。十六年、開府儀同三司を加授され、尋いで表を上りて致仕を請う。尚書右僕射を解くを聴し、開府儀同三司を以って旧の如く平章事せしむ。又正に詔を受けて魏徴等と文学の士を集め、『文思博要』一千二百巻を撰し、之を奏し、物千段を賜う。十七年二月、詔して凌煙閣に図形す。十九年、太宗高麗を伐つ。皇太子定州に監国す。士廉太子太傅を摂し、仍て朝政を典む。皇太子下令して曰く、「太傅を摂す申国公士廉は、朝望国華、儀刑攸属す。寡人監守に忝く膺る、実に訓導を資とす。比に政を聴くに、常に同榻を屈し、庶幾くは諮白に因り、少しく蒙滞を祛わんとす。但だ案に拠り奉対するは、情未だ安からず。已に約束して更に進むを許さず。太傅誨諭深至にして、常式に遵わしむ。辞獲免せず、輒ち復た敬従す。所司亦宜しく別に一の案を以て太傅に供すべし。」士廉固く譲りて敢えて当たらず。二十年、疾に遇う。太宗其の第に幸して之を問い、因りて生平を叙説し、流涕歔欷して訣す。二十一年正月壬辰、京師崇仁里の私第に薨ず。時に年七十二。太宗又命駕して将に之に臨まんとす。司空玄齢上りて薬石を餌するは、喪に臨むに宜しからずとし、表を抗して切に諫む。上曰く、「朕が此の行は、豈独り君臣の礼の為めのみならんや、兼ねて故旧情深く、姻戚義重きを以てす。卿復た言う勿れ。」太宗数百騎を従え興安門を出で、延喜門に至る。長孫無忌馳せて馬前に至り諫めて曰く、「石を餌して喪に臨むは、経方明らかに忌む。陛下黎元を含育し、須らく宗社の為めに珍愛すべし。臣が亡き舅士廉、将に救わざるを知り、顧みて臣に謂いて曰く、『至尊覆載の恩隆く、簪履を遺さず。亡歿の後、或いは親臨を致さん。内省凡才、聖日に益無し。安んぞ死亡の余を以て、輒ち宸駕を回らす可けんや。魂有りて霊有らば、譴負斯に及ばん。』陛下故旧に恩深し、亦其の丹誠を察せんことを請う。」其の言甚だ切なり。太宗猶許さず。無忌乃ち馬前に伏して流涕す。帝乃ち宮に還る。司徒・并州都督を贈り、昭陵に陪葬し、諡して文献と曰う。士廉の祖・父及び身、並びに僕射たり。子は尚書たり。甥は太尉たり。当代之を栄しむ。六子:履行・至行・純行・真行・審行・慎行。及び喪柩横橋より出ず。太宗故城の西北楼に登り望みて慟す。高宗即位し、太尉を追贈し、房玄齢・屈突通と並びに太宗廟庭に配享す。

子 履行

子の履行は、貞観の初めに祠部郎中を歴任した。母の喪に服し、哀しみ憔悴して礼を越えた。太宗は使者を遣わして諭して言うには、「孝子の道は、身を毀つも性を滅ぼさず。汝は強いて食すべく、礼を過ごすべからず」と。喪が明けて、累遷して滑州刺史となった。太宗の娘東陽公主を娶り、駙馬都尉に任ぜられた。十九年、戸部侍郎を除かれ、銀青光禄大夫を加えられた。間もなく、父の喪に遭い、喪に居てまた孝行で知られた。太宗は手詔を下して敦しく諭して言うには、「古人孝を立てるに、身を毀つも身を滅ぼさず。卿が粒を絶つと聞くは、甚だ大體に乖く、幸いに摧裂の情を抑え、生を傷つける累を断たんことを」と。やがて起用されて衛尉卿となり、進めて金紫光禄大夫を加えられ、爵を襲い申国公となった。永徽元年、戸部尚書・検校太子詹事・太常卿に任ぜられた。顕慶元年、出て益州大都督府長史となった。先に、士廉がこの職に居て、頗る能名を著わした。ここに至り、履行がこれを継ぎ、また善政があり、大いに人吏に称えられた。三年、長孫無忌の親族として連座し、左遷されて洪州都督となり、転じて永州刺史となり、官にて卒した。

弟 真行

履行の弟真行は、官は右衛将軍に至った。その子の典膳丞岐は、章懐太子と陰謀を図った罪に坐し、事が洩れ、詔して真行に付して自ら懲誡せしむ。真行は遂に手ずからこれを斬り、なおその屍を衢路に棄てた。高宗は聞いてこれを鄙み、真行を睦州刺史に貶し、卒した。

長孫無忌

長孫無忌は、字は輔機、河南洛陽の人である。その先祖は後魏の献文帝の第三兄より出づ。初めは拓跋氏を為し、魏室に力を宣べ、功最も多し、世襲して大人の号を承け、後に跋氏と改め、宗室の長となり、姓を長孫氏と改む。七世の祖道生は、後魏の司空・上党靖王。六世の祖旃は、後魏の特進・上党斉王。五世の祖観は、後魏の司徒・上党定王。高祖稚は、西魏の太保・馮翊文宣王。曾祖子裕は、西魏の衛尉卿・平原郡公。祖光は、周の開府儀同三司、平原公を襲ぐ。父晟は、隋の右驍衛将軍。無忌は貴戚にして学を好み、文史に該博し、性通悟にして、籌略あり。文徳皇后は即ちその妹なり。少くより太宗と友善し、義軍河を渡るに及び、無忌は長春宮に至り謁見し、渭北道行軍典簽を授けられる。常に太宗に従い征討し、累遷して比部郎中を除かれ、上党県公に封ぜられる。武徳九年、隠太子建成・斉王元吉謀りて、将に太宗を害せんとす。無忌は太宗に請うて先に発してこれを誅せんことを。ここにおいて旨を奉じて密かに房玄齢・杜如晦等を召し、共に籌略を為す。六月四日、無忌は尉遅敬徳・侯君集・張公謹・劉師立・公孫武達・独孤彦雲・杜君綽・鄭仁泰・李孟嘗等九人と、玄武門に入り建成・元吉を討ち、これを平らぐ。太宗春宮に昇り、太子左庶子を授く。即位するに及び、左武候大将軍に遷る。貞観元年、吏部尚書に転じ、功第一を以て、進めて斉国公に封ぜられ、実封千三百戸。太宗は無忌を佐命の元勲とし、地は外戚を兼ねるを以て、礼遇特に重く、常に出入りして臥内を許す。その年、尚書右僕射に拝す。時に突厥の頡利可汗新たに中国と和盟すれども、政教紊乱し、事を言う者多く攻取の策を陳ぶ。太宗は蕭瑀及び無忌を召して問うて曰く、「北蕃の君臣昏乱し、無辜を殺戮す。国家旧好に違わざれば、便ち攻昧の機を失い、今乱を取り亡を侮らんと欲すれば、また同盟の義を爽かす。二途決せず、孰れか勝ちと為すや」と。蕭瑀曰く、「弱を兼ね昧を攻め、これを撃つのを善と為す」と。無忌曰く、「今国家の務めは兵を戢むるに在り、その辺を寇するを待ちて、方に討撃すべし。彼既に弱ければ、必ず来たること能わず。若し虜廷に深く入らば、臣その可なるを見ず。且つ甲を按じて信を存するは、臣以て宜しと為す」と。太宗無忌の議に従う。突厥尋いで政衰えて滅ぶ。

或る密表ありて無忌の権寵盛んに過ぐと称す。太宗は表を以て無忌に示して曰く、「朕と卿君臣の間、凡そ事疑うこと無し。若し各おの聞く所を懐いて言わざれば、則ち君臣の意通ずることを獲ず」と。因りて百僚を召してこれに謂いて曰く、「朕今子有ること皆幼く、無忌は朕に於いて、実に大功有り。今者これを委ぬること、猶お子の如し。疏間親し、新間旧る、これを順わずと謂う、朕取らざる所なり」と。無忌は深く盈満を以て誡めと為し、懇ろに機密を辞し、文徳皇后またこの為に陳請す。太宗已むことを獲ず、乃ち開府儀同三司を拝し、尚書右僕射を解く。是歳、太宗親しく南郊に祠り、将に還らんとし、命じて無忌と司空裴寂とをして同じく金輅に昇らしむ。五年、房玄齢・杜如晦・尉遅敬徳四人と、元勲を以て各おの一子を封じて郡公と為す。七年十月、冊して司空を拝す。無忌固く辞すれども、許さず。又高士廉に因りて奏して曰く、「臣幸いに外戚に居るも、聖主私親の誚りを招かんことを恐れ、敢えて死を以て請う」と。太宗曰く、「朕の官を授くるは、必ず才行を択ぶ。若し才行至らざれば、縦え朕の至親と雖も、亦虚しく授けず、襄邑王神符是れなり。若し才適う所あれば、怨仇と雖も棄てず、魏徴等是れなり。朕若し無忌を後兄の愛に居らしめんと欲せば、当に多く子女金帛を遺すべし、何ぞ須いん重官を委ぬるを、蓋し是れその才行を取るのみ。無忌は聰明鑑悟し、雅に武略有り、公等の知る所、朕故にこれを台鼎に委ぬ」と。無忌又上表して切に譲る。詔を下してこれに報じて曰く、「昔黄帝力牧を得て五帝の先と為り、夏禹咎繇を得て三王の祖と為り、斉桓管仲を得て五伯の長と為る。朕自ら藩邸に居るより、公は腹心と為り、遂に宇内を廓清し、天下に君臨することを得たり。公の功績才望を以て、允に具瞻に称す。故にこの官を授く、多く譲る宜しからざるなり」と。太宗は王業の艱難を追思し、佐命の力を念い、又『威鳳賦』を作りて以て無忌に賜う。その辞に曰く、

一つの威鳳有り、朝陽に憩い翮す。晨に紫霧に遊び、夕に玄霜を飲む。長風を資りて以て翰を挙げ、天衢に戾りて遠く翔ぶ。西に翥てば則ち煙氛色を閉ざし、東に飛べば則ち日月光を騰す。鵬を化して北裔に垂れ、群鳥を馴らして南荒に在らしむ。乱世を殄ぼして方に降り、明時に応じて自ら彰る。翼を雲路に俯し、功を本樹に帰す。喬枝を仰ぎて見猜られ、修条に俯して蠹を抱く。林を同じくするの侶俱に嫉み、干を共にするの儔並びに忤う。恒山の義情無く、炎洲の凶度有り。若し葦に巣くいて安んずるも、独り危きを懐きて懼れを履む。鴟鴞側葉に嘯き、燕雀下枝に喧う。己が陋の至りて鄙しきを慚じ、他賢の独り奇なるを害す。或いは咮を聚めて交撃し、乍ら羅を分けて見羈る。凌雲の逸羽を戢え、偉世の清儀を韜む。遂に乃ち情を宵影に蓄え、志を晨暉に結ぶ。霜は綺翼を残し、露は紅衣を点ず。嗟ふ憂患の結び易きを、嘆く矰繳の違い難きを。期す畢命を一死に、本より情無し再飛に於て。幸いに頼む君子に、以て依り以て恃る。この風雲を引き、この塵滓を濯う。蒙翳を葉下に披き、光華を枝裡に発す。仙翰屈して還た舒き、霊音摧けて復た起つ。八極を眄みて以て遐く翥ち、九天に臨みて高く峙つ。庶幾くは徳を衆禽に広め、利を一己に崇めず。是を以て徘徊して徳に感じ、顧み慕いて賢を懐う。明哲に憑りて禍散じ、英才に托りて福全うす。恵に答うるの情弥く結び、功に報ゆるの志方に宣ぶ。難きを知りて易きを行うに非ず、後を令めて前を終えんことを思う。賢徳の流慶を俾ち、万葉を畢えて芳しく伝わらんことを。

十一年、功臣らに世襲の刺史を命ずる詔を下す。詔して曰く、

周の武王は天下を定め、子弟に茅土を賜い、漢の高祖は天命を受け、功臣に帯礪を誓う。ただ親賢の地を重んじ、その典礼を崇めるのみならず、また磐石の基を固くし、藩翰に託す所以である。魏晋以来、事古に師らず、侯を建つるの制、名実に乖く。王室を屏と作し、永く固くして窮まり無からしむる、いわゆるこれに非ざるなり。隋氏の季、四海沸騰す。朕、運殷憂に属し、多く難を戡翦す。上は明霊の祐に憑り、下は英賢の輔に頼り、宇県を廓清し、宝暦を嗣ぎ膺く。豈に予一人のみ、独り能く此れを致さんや。時に迍れば共に其の力を資け、世安んずれば専ら其の利を享く。乃ち斯れに睠みて、甚だ取る所とせず。但だ今の刺史は即ち古の諸侯なり。名を立てること同じからずと雖も、監統すること一なり。故に有司に命を申し、前代を斟酌し、条を宣べて共理の寄を委ね、賢を象り世及の典を存す。司空斉国公無忌等は、並びに名を策し運の始めに参じ、功締構に参じ、義休戚に貫き、効夷険に彰れ、嘉庸懿績、朕が心に簡ぶ。宜しく藩鎮に委ね、土宇を改めて賜うべし。無忌は趙州刺史と為し、趙国公に改封すべし。尚書左僕射魏国公玄齢は宋州刺史と為し、梁国公に改封すべし。故司空蔡国公杜如晦は密州刺史を贈り、萊国公に改封すべし。特進代国公靖は濮州刺史と為し、衛国公に改封すべし。特進吏部尚書許国公士廉は申州刺史と為し、申国公に改封すべし。兵部尚書潞国公侯君集は陳州刺史と為し、陳国公に改封すべし。刑部尚書任城郡王道宗は鄂州刺史と為し、江夏郡王に改封すべし。晋州刺史趙郡王孝恭は観州刺史と為し、河間郡王に改封すべし。同州刺史呉国公尉遅敬徳は宣州刺史と為し、鄂国公に改封すべし。并州都督府長史曹国公李勣は蘄州刺史と為し、英国公に改封すべし。左驍衛大将軍楚国公段志玄は金州刺史と為し、褒国公に改封すべし。左領軍大将軍宿国公程知節は普州刺史と為し、盧国公に改封すべし。太僕卿任国公劉弘基は朗州刺史と為し、夔国公に改封すべし。相州都督府長史鄅国公張亮は澧州刺史と為し、鄖国公に改封すべし。余の官食邑は並びに故の如し。即ち子孫に令し奕葉承襲せしむ。

無忌等上言して曰く、「臣等荆棘を披きて以て陛下に事え、今海内寧一たり。離れ違わんことを願わず。而るに乃ち世に外州を牧せしめんとは、遷徙と何ぞ異ならん」と。乃ち房玄齢と共に上表して曰く、

臣等聞く、質文迭変し、皇王の跡殊なるあり。今古相沿い、理を致すの方乃ち革まる。惟みるに三代、習俗常ならず。爰に五等を制し、時に随いて教を作す。蓋し力能く制せず、因りて之を利するに由り、礼楽節文、多く己に出ずるに非ざるなり。両漢に逮び、用て前に違えるを矯い、守を置き条を頒ち、曩の弊を蠲除す。益なきの文を為し、四方に覃び及び、易え難きの理を建て、千載を逾ゆ。今臣等の為に曲りて此の奄荒を復し、其の優隆たらんことを欲し、之に茅社を錫け、子孫に施し、永く長世に貽さんとす。斯れ乃ち大鈞物を播き、毫髪並びに其の生を施す。小人分を逾え、後世必ず其の禍に嬰る。何となれば、時に違え務を易え、私恩を曲りて樹て、庶僚に謀り、義僉允に非ざればなり。方に史冊の誚を招き、聖代の綱を紊らさんとす。此れ其の不可なる一なり。又臣等智効罕く施し、器識庸陋なり。或いは情右戚に縁り、遂に台階に陟り、或いは披荊を顧想し、便ち夜拝を蒙る。直に今日に当たり、猶才に非ざるを愧じ、山河を重ねて裂き、愈々濫賞を彰わさん。此れ其の不可なる二なり。又且つ孩童職を嗣ぎ、義師倹の方に乖き、帷を褰ぐを任とせば、寧く錦を傷つくの弊無からんや。上は天憲を干し、彝典既に常科有り、下は生民を擾し、必ず後を余殃に致し、一たび刑網に掛かり、自ら誅夷を取らん。陛下深仁、務め其の世を延ばさんとす。翻りて令し剿絶せしめんとは、誠に哀しむべき有り。此れ其の不可なる三なり。当今聖暦欽明、賢を求めて政を分つ。古良守を称え、寄する所は共理に在り。此の道の目、日に滋く久し。臣等に因縁し、或いは改張有らん。児曹を封植し、瘼を求むるに失い、百姓不幸、将に焉くにか之を用いん。此れ其の不可なる四なり。茲に一挙するに在りて、損実に多し。暁夕深く思い、憂い心髄に貫く。所以に丹を披きて上訴し、事を指して心を明かし、敢えて浮辞をせず、矯飾に同じからんことを。伏して願わくは天沢、其の愚款を諒とし、特ちに渙汗の旨を停め、其の性命の恩を賜わんことを。

太宗表を覧みて謂いて曰く、「地を割きて功臣を封ずるは、古今通義なり。公が後嗣をして、朕が子孫を翼け、長く藩翰と為し、之を永久に伝えんことを意えり。而るに公等山河の誓を薄くし、言を発して怨望す。朕亦安んぞ強いて公を以て土宇せしめんや」と。是に於いて遂に止む。十二年、太宗其の第に幸す。凡そ親族、班賜差有り。十六年、冊を以て司徒を拝す。十七年、無忌等二十四人の図を凌煙閣に画かしむるを令す。詔して曰く、

古より皇王、勲徳を褒崇し、既に鐘鼎に銘を勒し、又丹青に形を図す。是を以て甘露の良佐、麟閣に其の美を著し、武功の功臣、雲台に其の跡を紀す。司徒趙国公無忌、故司空揚州都督河間元王孝恭、故司空萊国成公如晦、故司空相州都督太子太師鄭国文貞公征、司空梁国公玄齢、開府儀同三司尚書右僕射申国公士廉、開府儀同三司鄂国公敬徳、特進衛国公靖、特進宋国公瑀、故輔国大将軍揚州都督褒忠壮公志玄、輔国大将軍夔国公弘基、故尚書左僕射蔣忠公通、故陝東道行台右僕射鄖節公開山、故荊州都督譙襄公柴紹、故荊州都督邳襄公順徳、洛州都督鄖国公張亮、光禄大夫吏部尚書陳国公侯君集、故左驍衛大将軍郯襄公張公謹、左領軍大将軍盧国公程知節、故礼部尚書永興文懿公虞世南、故戸部尚書渝襄公劉政会、光禄大夫戸部尚書莒国公唐儉、光禄大夫兵部尚書英国公勣、故徐州都督胡壮公秦叔宝等、或いは材は棟梁に推され、謀猷は経遠に及び、帷帳に綢繆し、霸図を経綸し、或いは学は経籍を綜べ、徳は光茂に範たり、隠犯同致し、忠讜日に聞こえ、或いは義旗に力を竭し、藩邸に質を委ね、一心に節を表し、百戦に奇を標し、或いは廟堂に脣を受け、方面に土を闢き、重氛載廓し、王略遐く宣べらる。並びに契闊屯夷し、師旅に劬労す。景業を草昧に賛し、淳化を隆平に翼けり。茂績殊勲、列辟の冠冕たり。昌言直道、搢紳を牢籠す。宜しく故実を酌み、此の令典を弘むべし。併せて凌煙閣に図画すべし。庶くは功を念うの懐、前載に謝せず、賢を旌うの義、後昆に永く貽らん。

その年、皇太子承乾が罪を得ると、太宗は晋王を立てようとしたが、順序に限られて、迷い決断できなかった。両儀殿に臨み、群官をすべて退出させ、ただ無忌と司空房玄齢、兵部尚書李勣を留めて、言った。「我が三子一弟の行いがこのようであるのは、我が心に頼るものがないからである。」そこで自ら床に投げ出し、佩刀を抜いて自害しようとした。無忌らは驚き恐れ、争って前に進み抱きかかえ、佩刀を取って晋王に渡した。無忌らが太宗の望むところを請うと、答えて言った。「我は晋王を立てたい。」無忌は言った。「謹んで詔を奉じます。異議を唱える者があれば、臣が斬ることを請います。」太宗は晋王に言った。「汝の舅が汝を許したのだから、拝謝すべきである。」晋王はそこで下って拝した。太宗は無忌らに言った。「公らは既に我が意に合ったが、世間の議論はどうであろうか。」無忌は言った。「晋王は仁孝であり、天下が心を寄せるのは久しいことです。伏して百官を召して問うことを乞います。必ず異なる言葉はないでしょう。もし歓舞して同音とならなければ、臣は陛下に万死を負います。」ここに至って立太子は遂に定まり、そこで無忌に太子太師を加授した。まもなく太宗はまた呉王恪を立てようとしたが、無忌が密かに争ったので、その事は遂に中止となった。太宗はかつて無忌らに言った。「朕は聞く、主が賢ければ臣は直であると。人は自らを知らぬことを苦しむ。公らは面と向かって論じ、朕の得失を攻めるべきである。」無忌が奏上して言った。「陛下の武功文徳は、古今を超え絶えており、号令を発し事を行うことは、すべて物事を利するものです。『孝経』に云う、『その美を順う』と。臣はそれに順う暇もなく、実に陛下に過失のあるのを見ません。」太宗は言った。「朕は己の過ちを聞くことを望むのに、公は妄りに諂い媚びる。朕は今、公らの得失を面と向かって談じ、鑑戒としよう。言う者は過ちなく、聞く者は自ら改めることができる。」そこで無忌を見て言った。「嫌疑をよく避け、応対は敏速であり、古人に求めても、これに比するものはないであろう。しかし兵を総べて攻戦することは、その長ずるところではない。高士廉は古今に渉猟し、心術は聡明で悟り、難に臨んでも節を改めず、官にあっても朋党を作らない。欠けるところは、骨鯁の規諫である。唐儉は言辞便利で、人を和解させるのが上手く、酒杯が巡れば、発言して口を開く。朕に事えて三十年、遂に一言も国家の得失を論じない。楊師道は性行純善で、自ら過ちはない。しかし情実は怯懦であり、甚だ事を任せられず、緩急に力を得ることができない。岑文本は性道が惇厚で、文章はその長ずるところである。しかし持論は常に経遠に拠り、自ずと物に負うことはないであろう。劉洎は性最も堅貞で、言うことは多く利益がある。しかしその意は上に然諾を朋友にし、自ら補闕することができる。また何をもって尚ぶことができようか。馬周は事を見るのに敏速で、性は甚だ貞正であり、人物を論量するに至っては、直道を行く。朕は比べて任用し、多く称意とする。褚遂良は学問がやや長け、性も堅正であり、既に忠誠を書き、甚だ朕に親附する。譬えば飛ぶ鳥が人に依るが如く、自ずと憐愛を加える。」十九年、太宗が高麗を征するに当たり、無忌に侍中を摂行させた。帰還後、無忌は固く師傅の位を辞し、優詔をもって太子太師を罷めることを聴許した。二十一年、遙かに揚州都督を領した。二十三年、太宗の病が篤くなると、無忌と中書令褚遂良の二人を引き寄せて遺令を授け、政を輔けさせた。太宗は遂良に言った。「無忌は我に尽忠してきた。我が天下を得たのは、多くはこの人の力である。爾が政を輔けた後、讒毀の徒に無忌を損害させてはならない。もしこのようであれば、爾はもはや人臣ではない。」

高宗が即位すると、太尉に進み、揚州都督を兼ね、尚書省及び門下省の二省の事を知ることを命じられ、従前の如くであった。無忌は固く尚書省の事を知ることを辞し、これを許され、なお太尉として中書門下三品に同ずることを命じられた。永徽二年、国史を監修した。高宗はかつて公卿に謂って、「朕は献書の路を開き、意見を録すべきものを冀い、将にこれを擢用せんとす。比者上疏は多くと雖も、而して遂に採るべきもの無し」と。無忌対えて曰く、「陛下即位し、政化流行し、条式律令、固より遺闕無し。事を言う者は率ね其の鄙見を率い、妄りに僥倖を希い、俗を裨し教を益するに至っては、理当に足るべき無きに当たる。然れども須らく此の路を開くべく、猶時に讜言有るを冀う。もし或いは杜絶せば、便ち下情達せざるを恐る」と。帝曰く、「又聞く所在の官司、猶自ら多く顔面有りと」と。無忌曰く、「顔面阿私は、古より免れず。然れども聖化の漸む所、人皆公に向かい、情を肆ほし法を曲ぐるに至っては、実に必ず此の事無しと謂う。小小人情を収取するは、恐らく陛下尚亦免れず、況んや臣下其の親戚を私するにおいてをや、豈に頓に絶無と言えんや」と。時に無忌の位は元舅に当たり、数謀議を進め、高宗優に納れざる無し。明年、旱に因り上疏して職を辞し、高宗頻りに手詔を降して敦喻し、許さず。五年、親しく無忌の第に幸し、其の三子を見、並びに朝散大夫を擢授す。又命じて無忌の形像を図し、親しく画賛を為して以て之を賜う。六年、帝将に昭儀武氏を立てて皇后と為さんとし、無忌屡言す可からずと、帝乃ち密かに使を遣わし無忌に金銀宝器各一車、綾錦十車を賜い、以て其の意を悦ばしむ。昭儀の母楊氏復自ら無忌の宅に詣り、屡加えて祈請す。時に礼部尚書許敬宗又屡申して勧請す、無忌嘗て厲色を以て之を折る。帝后又無忌・左僕射於志寧・右僕射褚遂良を召し、謂って曰く、「武昭儀に令徳有り、朕立たんと欲して皇后と為す、卿等以て如何と為すや」と。無忌曰く、「貞観二十三年の後より、先朝付託遂良す、陛下に其の可否を問わしめんことを望む」と。帝竟に無忌等の言に従わずして昭儀を立てて皇后と為す。皇后無忌の先に重賞を受けながら己を助けざるを以て、心甚だ之を銜む。顕慶元年、無忌史官国子祭酒令狐徳棻と武徳・貞観の二朝史を綴集して八十巻と為し、表して上ぐ、無忌監領の功を以て、物二千段を賜い、其の子潤を封じて金城県子と為す。四年、中書令許敬宗人を遣わし封事を上ぐ、監察御史李巢無忌と交通し謀反すと称す、帝敬宗と侍中辛茂将に命じて之を鞠さしむ。敬宗奏言す無忌謀反の端有りと、帝曰く、「我家不幸、親戚の中頻りに悪事有り。高陽公主朕と同気、往年遂に房遺愛と謀反し、今阿舅復悪心を作す。近親此の如く、我をして万姓に見るに慚じしむ」と。敬宗曰く、「房遺愛乳臭児、女子と謀反し、豈に事を成すを得んや。且つ無忌先朝と謀りて天下を取り、眾人其の智に服し、宰相と作ること三十年、百姓其の威を畏る、威能く物を服し、智能く衆を動かすと謂う可し。臣恐らくは無忌事の露るるを知り、即ち急計を為し、袂を攘げて一呼し、同悪に命を嘯き、必ず宗廟の深憂と為らんと。誠に願わくは陛下之を断たんことを、日に即ち収捕し、法に准いて家を破らん」と。帝泣いて曰く、「我決して処分して罪とせんに忍びず、後代の良史我が其の親戚を和すること能わずして、此に至らしむと道わん」と。敬宗曰く、「漢文帝漢室の明主、薄昭即ち是れ帝の舅、代より来る日、亦大勳有り、無忌と別ならず。後に於いて惟だ人を殺すに坐し、文帝国法を惜しみ、朝臣に喪服を着せて宅に就き、哭いて之を殺す、良史以て失と為さず。今無忌先朝の大徳を忘れ、陛下の至親を捨て、邪謀を聴受し、遂に悖逆を懐き、意は生霊を塗炭せんとす。若し薄昭の罪悪に比すれば、未だ同年に語る可からず、諸の刑典に案ずるに、五族を誅するに合す。臣聞く当に断つに断たざれば、反って其の乱を受く、大機の事、間髪を容れず、若し少しく遅延せば、恐らくは即ち変を生ぜん、惟だ早く決せんことを請う」と。帝竟に親しく無忌の謀反の由を問わず、惟だ敬宗の誣構の説を聴き、遂に其の官爵を去り、黔州に流し、仍って使を遣わし次州府の兵を発して流所に援送せしむ。其の子秘書監・駙馬都尉沖等並びに除名し、嶺外に流す。敬宗尋に吏部尚書李義府と大理正袁公瑜を遣わし黔州に就き重ねて無忌の反状を鞫さしむ、公瑜逼りて自縊せしめて死なしめ、其の家を籍没す。無忌既に大功有り、而して死は其の罪に非ず、天下今に至るまで之を哀しむ。上元元年、優詔を以て無忌の官爵を追復し、特ち無忌の孫延に令して斉献公の祀を主たしむ。無忌の従父兄安世、王世充に仕え、内史令に署せられ、東都平らぎ、獄中に死す。安世の子祥、文徳皇后の近属を以て、累ねて刑部尚書を除かれ、無忌と通書するに坐して殺さる。

史臣曰く、士廉才望素より高く、操秉玷無く、君臣終始の義を保ち、子孫襲継の謀を為す。社稷の臣、功亦隆かなり。奨遇の恩、賞亦厚し。子真行に及んで、手を下して其の子を刃す、何ぞ凶忍なるや。若し是れ積慶の道ならば、其れ惑わざらんや。無忌戚裡の右族、英人傑に冠たり、儲闈を定立し、力社稷を安んじ、勳庸茂著にして、終始渝らず。中宮を黜廃するに及び、竟に旨に阿わず、先帝の顧托に報い、敬宗の誣構に為る。嗟乎、忠信罪を獲るは、今古免れず。名無くして戮を受け、族滅何の辜ぞ。主暗く臣奸し、足りて後代に貽す。

賛して曰く、厳厳たる申公、功名終始す。文皇題品し、信に酌中と謂う可し。趙公右戚、両朝力を宣ぶ。功成りて去らず、竟に鬼域に逢う。