舊唐書

巻064

巻064

舊唐書

原文舊唐書

卷六十四

原文卷六十四

列傳第十四 高祖こうそ二十二子

原文列傳第十四 高祖二十二子

高祖に二十二男あり。太穆皇后は隠太子建成及び太宗、衛王玄覇、巣王元吉を生む。万貴妃は楚王智雲を生む。尹徳妃は酆王元亨を生む。莫嬪は荊王元景を生む。孫嬪は漢王元昌を生む。宇文昭儀は韓王元嘉、魯王霊夔を生む。崔嬪は鄧王元裕を生む。楊嬪は江王元祥を生む。小楊嬪は舒王元名を生む。郭婕妤は徐王元礼を生む。劉婕妤は道王元慶を生む。楊美人は虢王鳳を生む。張美人は霍王元軌を生む。張宝林は鄭王元懿を生む。柳宝林は滕王元嬰を生む。王才人は彭王元則を生む。魯才人は密王元暁を生む。張氏は周王元方を生む。

原文高祖二十二男:太穆皇后生隱太子建成及太宗、衛王玄霸、巢王元吉,萬貴妃生楚王智雲,尹德妃生酆王元亨,莫嬪生荊王元景,孫嬪生漢王元昌,宇文昭儀生韓王元嘉、魯王靈夔,崔嬪生鄧王元裕,楊嬪生江王元祥,小楊嬪生舒王元名,郭婕妤生徐王元禮,劉婕妤生道王元慶,楊美人生虢王鳳,張美人生霍王元軌,張寶林生鄭王元懿,柳寶林生滕王元嬰,王才人生彭王元則,魯才人生密王元曉,張氏生周王元方。

隠太子建成

原文隱太子建成

隠太子建成は、高祖の長子なり。大業末、高祖は賊を汾・晋に捕らえ、建成は家族を携えて河東に寄寓す。義旗初めて建つや、使者を遣わし密かにこれを召し、建成は巣王元吉と間行して太原に赴く。建成至るや、高祖大いに喜び、左領軍大都督ととくに拝し、隴西郡公に封ず。兵を引き西河郡を略し、長安ちょうあん平定に従う。義寧元年冬、隋の恭帝は唐国世子に拝し、開府し、僚属を置く。二年、撫軍大将軍・東討元帥を授け、兵十万を将いて洛陽らくようを徇る。還るに及び、恭帝は尚書令しょうしょれいを授く。武徳元年、皇太子に立てらる。二年、司竹の群盗祝山海は衆一千あり、自ら護郷公と称す。詔して建成に将軍桑顕和を率いて進撃し山海を平げしむ。時に涼州人安興貴は賊帥李軌を殺し、衆を以て来降す。建成をして原州に往きてこれに応接せしむ。時に甚だ暑く、馳猟度なく、士卒その労に堪えず、逃ぐる者過半なり。高祖はその政術に習わざるを憂い、毎に時事を習わしめ、軍国の大務に非ざれば、悉くこれを委ねて決せしむ。また礼部尚書李綱・民部尚書鄭善果を遣わし、倶に宮官と為し、参謀議せしむ。四年、稽胡の酋帥劉仚成は部落数万人を擁して辺害と為る。また詔して建成に師を率いてこれを討たしむ。軍鄜州に次ぐ。仚成軍と遇い、撃ちて大いにこれを破り、数百級を斬首し、千余人を虜獲す。建成は詐を設けてその渠帥数十人を放ち、並びに官爵を授け、本所に還りて群胡を招慰せしむ。仚成と胡中の大帥もまた降を請う。建成は胡兵なお衆多なるを以て、変有らんことを恐れ、尽くこれを殺さんとす。乃ち州県を増置すと揚言し、城邑を須うるありて、悉く群胡に板築の具を執らしめ、会して城を築く所に至り、陰に兵士を勒し、皆これを執る。仚成変有るを聞き、梁師都に奔る。竟に降胡六千余人を誅す。時に太宗の功業日盛んにして、高祖は私かに立って太子と為すを許す。建成密かにこれを知り、乃ち斉王元吉と潜かに謀りて乱を作らんとす。劉黒闥重ねて反すに及び、王珪・魏徴、建成に謂いて曰く、「殿下ただ地嫡長に居り、爰に元良を践むも、功績既に称すべきなく、仁声また未だ遠く布かず。而るに秦王の勲業克く隆んじ、威四海に震い、人心の向かう所、殿下何を以てか自ら安んぜん。今黒闥は破亡の余を率い、衆一万に盈たず、糧運限絶するを加え、瘡痍未だ瘳えず。若し大軍一たび臨まば、戦わずして擒にすべし。願わくはこれを討つことを請い、且つ功を立て、深く自ら封植し、因りて山東の英俊を結ばん」と。建成その計に従い、遂に劉黒闥を討つことを請い、これを擒にして還る。

原文隱太子建成,高祖長子也。大業末,高祖捕賊汾、晉,建成攜家屬寄於河東。義旗初建,遣使密召之,建成與巢王元吉間行赴太原。建成至,高祖大喜,拜左領軍大都督,封隴西郡公。引兵略西河郡,從平長安。義寧元年冬,隋恭帝拜唐國世子,開府,置僚屬。二年,授撫軍大將軍、東討元帥,將兵十萬徇洛陽。及還,恭帝授尚書令。武德元年,立為皇太子。二年,司竹群盜祝山海有眾一千,自稱護鄉公,詔建成率將軍桑顯和進擊山海,平之。時涼州人安興貴殺賊帥李軌,以眾來降,令建成往原州應接之。時甚暑,而馳獵無度,士卒不堪其勞,逃者過半。高祖憂其不閒政術,每令習時事,自非軍國大務,悉委決之。又遣禮部尚書李綱、民部尚書鄭善果俱為宮官,與參謀議。四年,稽胡酋帥劉仚成擁部落數萬人為邊害,又詔建成率師討之。軍次鄜州,與仚成軍遇,擊,大破之,斬首數百級,虜獲千餘人。建成設詐放其渠帥數十人,並授官爵,令還本所招慰群胡,仚成與胡中大帥亦請降。建成以胡兵尚眾,恐有變,將盡殺之。乃揚言增置州縣,須有城邑,悉課群胡執板築之具,會築城所,陰勒兵士,皆執之。仚成聞有變,奔於梁師都。竟誅降胡六千餘人。時太宗功業日盛,高祖私許立為太子,建成密知之,乃與齊王元吉潛謀作亂。及劉黑闥重反,王珪、魏徵謂建成曰:「殿下但以地居嫡長,爰踐元良,功績既無可稱,仁聲又未遐布。而秦王勳業克隆,威震四海,人心所向,殿下何以自安?今黑闥率破亡之餘,眾不盈萬,加以糧運限絕,瘡痍未瘳,若大軍一臨,可不戰而擒也。願請討之,且以立功,深自封植,因結山東英俊。」建成從其計,遂請討劉黑闥,擒之而旋。

時に高祖晩生の諸王、諸母椒房に寵を擅にし、親戚並びに宮府に分事し、競いて恩恵を求む。太宗は毎に戎律を総べ、惟だ才賢を撫接するを務めと為し、妃嬪に参請するに至っては、素より行わざる所なり。初め洛陽を平ぐるや、高祖は貴妃等を遣わし馳せ往きて東都の宮人及び府庫の珍物を選閲せしむ。因りて私に求索し、兼ねて親族の為に官を請う。太宗は財簿先に已に封奏し、官爵皆功有るに酬うを以て、並びに允さず。ここに因りて恨みを銜むこと弥切なり。時に太宗は陝東道行台と為り、詔して管内に於いて専ら処分するを得しむ。淮安王神通功有り、太宗乃ち田数十頃を与う。後婕妤張氏の父、婕妤をして私に奏してその地を乞わしむ。高祖手詔して賜う。神通は教給前にあるを以て、遂に与えず。婕妤矯りて奏して曰く、「勅妾の父に地を賜う。秦王これを奪いて神通に与う」と。高祖大いに怒り、袂を攘げて太宗を責めて曰く、「我が詔勅行わず、爾の教命、州県即ち受く」と。他日、高祖太宗の小名を呼びて裴寂等に謂いて曰く、「此の児兵を典くこと既に久しく、外に専制し、読書漢に教えられ、我が昔日の子に非ず」と。また徳妃の父尹阿鼠の為す所横恣なり。秦王府の属杜如晦その門を行き経る。阿鼠の家僮数人如晦を牽きて馬より墜ち毆撃す。罵して云く、「汝は何人ぞ、敢えて我が門を経て馬を下らずや」と。阿鼠或いは上聞かんことを慮り、乃ち徳妃をして奏言せしむ、「秦王の左右凶暴にして、妾が父を凌轢す」と。高祖また怒りて太宗に謂いて曰く、「爾の左右、我が妃嬪の家を欺くこと一に此くの如し、況んや凡人百姓をや」と。太宗深く自ら弁明すも、卒に納れられず。妃嬪等因りて奏言して曰く、「至尊万歳の後、秦王志を得ば、母子定めて孑遺無からん」と。因りて悲泣哽咽す。また云く、「東宮慈厚にして、必ず能く妾母子を養育せん」と。高祖惻愴すること久し。ここより太宗に対する恩礼漸く薄く、廃立の心も亦此を以て定まり、建成・元吉転た恩寵を蒙る。

原文時高祖晚生諸王,諸母擅寵椒房,親戚並分事宮府,競求恩惠。太宗每總戎律,惟以撫接才賢為務,至於參請妃媛,素所不行。初平洛陽,高祖遣貴妃等馳往東都選閱宮人及府庫珍物,因私有求索,兼為親族請官。太宗以財簿先已封奏,官爵皆酬有功,並不允許,因此銜恨彌切。時太宗為陝東道行台,詔於管內得專處分。淮安王神通有功,太宗乃給田數十頃。後婕妤張氏之父令婕妤私奏以乞其地,高祖手詔賜焉。神道以教給在前,遂不肯與。婕妤矯奏曰:「敕賜妾父地,秦王奪之以與神通。」高祖大怒,攘袂責太宗曰:「我詔敕不行,爾之教命,州縣即受。」他日,高祖呼太宗小名謂裴寂等:「此兒典兵既久,在外專制,為讀書漢所教,非復我昔日子也。」又德妃之父尹阿鼠所為橫恣,秦王府屬杜如晦行經其門,阿鼠家僮數人牽如晦墜馬毆擊之,罵云:「汝是何人,敢經我門而不下馬!」阿鼠或慮上聞,乃令德妃奏言:「秦王左右凶暴,凌轢妾父。」高祖又怒謂太宗曰:「爾之左右,欺我妃嬪之家一至於此,況凡人百姓乎!」太宗深自辯明,卒不被納。妃嬪等因奏言:「至尊萬歲後,秦王得志,母子定無孑遺。」因悲泣哽咽。又云:「東宮慈厚,必能養育妾母子。」高祖惻愴久之。自是於太宗恩禮漸薄,廢立之心亦以此定,建成、元吉轉蒙恩寵。

武徳初年より、高祖は太宗に西宮の承乾殿に居まわらせ、元吉に武徳殿の後院に居まわらせ、上台・東宮と昼夜を通じて往来し、隔てる限界はなかった。皇太子及び二王が上台に出入りする際は、皆馬に乗り弓刀などの雑用の物を携え、出会えば家人の礼の如くであった。これにより皇太子の令及び秦・斉二王の教と詔勅が並行し、百姓は惶惑し、何を基準とすべきか知らなかった。建成・元吉はまた外に小人と結び、内に寵幸の者と連なり、高祖の寵愛する張婕妤・尹徳妃は皆彼らと淫乱の関係にあった。さらに諸公主及び六宮の親戚と共に驕り恣に振る舞い、田宅を併せ持ち、犬馬を侵奪した。同悪相済して、聡明を掩蔽し、己が志を行い、ただ甘言諛辞をもって顔色を承候するのみであった。建成はかくて四方の驍ぎょう勇を私に召し、また長安の悪少年二千余人を募り、宮甲として蓄え、左・右長林門に分屯させ、長林兵と号した。高祖が仁智宮に行幸した際、建成を留めて居守とさせたが、建成は先に慶州総管楊文幹に健児を募って京師に送らせ、以て変を為さんと欲した。また郎将爾朱煥・校尉こうい橋公山を遣わし甲を齎して文幹に賜り、兵を起こして相応接せしめんと令した。公山・煥らは豳郷に行き至り、罪を懼れて馳せてその事を告げた。高祖は他事に託し、手詔を以て建成を行在所に追い詣でしめた。既に至ると、高祖は大いに怒り、建成は頭を叩いて謝罪し、奮身して自ら地に投じ、幾ばくか絶するに至った。その夜、幕中に置き、殿中監陳万福に防禦せしめたが、文幹は遂に兵を挙げて反した。高祖は馳せて使者を遣わし太宗を召してこれを謀らしめた。太宗曰く、「文幹は小豎にして狂悖、州府に兵を起こせば、官司已に応じて擒剿すべし。仮にその息を仮る時刻あれども、ただ一将を遣わすのみを須う。」高祖曰く、「文幹の事は建成に連なり、応ずる者衆きを恐る。汝宜しく自ら行くべし。還りて、汝を立てて太子と為さん。吾は隋文帝の如く骨肉を誅殺するに效えず、建成を廃して蜀しょく王に封じ、地は既に僻小にして制し易し。若し汝に事えざれば、また取るに易きのみ。」太宗既に行くや、元吉及び四妃は更に建成のために内に請い、封倫はまた外に遊説を為し、高祖の意は便ち頓に改まり、遂に行わずに寝し、復た建成を還して京に居守せしめた。ただ兄弟相容れざるを責め、中允王珪・左衛率韋挺及び天策兵曹杜淹等に罪を帰し、並びに巂州に流した。後にまた元吉と謀りて鴆毒を行い、太宗を引き入れて宮中で夜宴を開き、既にして太宗は心中暴痛し、吐血数升、淮安王神通狼狽して扶けて西宮に還った。高祖は第に行幸して疾を問い、因りて建成に勅して曰く、「秦王は素より飲む能わず、更に夜聚する勿れ。」乃ち太宗に謂いて曰く、「晋陽に発跡するは、本より汝の計なり;宇内を克平するは、是れ汝の大功なり。儲位を升さんと欲すれども、汝固より譲りて受けず、以て汝の美志を成す。建成自ら東宮に居り、多年所を歴る。今復たこれを奪うに忍びず。汝兄弟の不和なるを観るに、京邑に同じく在れば、必ず忿競有らん。汝は還って行台に居り、洛陽に在り、陝より以東は、悉く宜しくこれを主とすべし。仍って汝に天子の旌旗を建てしめ、梁孝王の故事の如くせん。」太宗は泣いて奏して曰く、「今日の授くるは、実に願う所に非ず、膝下を遠く離るる能わず。」言い訖りて嗚咽し、悲しみ自ら勝えず。高祖曰く、「昔、陸賈漢臣にして、尚お遞過の事有り。況んや吾四方の主、天下を家と為すにおいてをや。東西両宮、途路咫尺、汝を憶えば即ち往く、悲しむに労する無かれ。」将に行かんとするに及び、建成・元吉相与に謀って曰く、「秦王今洛陽に往く、既に土地甲兵を得れば、必ず後患と為らん。京師に留め置けば、これを制するは一匹夫のみ。」密かに数人をして封事を上らしめて曰く、「秦王の左右は多くは東人なり、洛陽に往くを聞き、非常なる欣躍有り。その情状を観るに、今より一たび去れば、来るの意を為さざらん。」高祖はここに於いて遂に停めた。この後、日夜陰に元吉と連結して後宮に譖訴すること愈切にして、高祖これを惑わした。太宗は懼れ、為す所を知らず。李靖・李勣等数言して曰く、「大王は功高きを以て疑われ、靖等請う犬馬の力を申さん。」封倫もまた潜かに太宗を勧めてこれを図らしめたが、並びに許さず。倫は反って高祖に言って曰く、「秦王は大勲を恃み、太子の下に居るに服せず。若しこれを立たずんば、願わくは早くその所を為さん。」また建成を説いて乱を起こさせんと曰く、「四海を為す者は、その親を顧みず。漢高の羹を乞う、これを謂う。」

原文自武德初,高祖令太宗居西宮之承乾殿,元吉居武德殿後院,與上台、東宮晝夜並通,更無限隔。皇太子及二王出入上台,皆乘馬攜弓刀雜用之物,相遇則如家人之禮。由是皇太子令及秦、齊二王教與詔敕並行,百姓惶惑,莫知准的。建成、元吉又外結小人,內連嬖倖,高祖所寵張婕妤、尹德妃皆與之淫亂。復與諸公主及六宮親戚驕恣縱橫,並兼田宅,侵奪犬馬。同惡相濟,掩蔽聰明,苟行己志,惟以甘言諛辭承候顏色。建成乃私召四方驍勇,並募長安惡少年二千餘人,畜為宮甲,分屯左、右長林門,號為長林兵。及高祖幸仁智宮,留建成居守,建成先令慶州總管楊文干募健兒送京師,欲以為變。又遣郎將爾硃煥、校尉橋公山齎甲以賜文干,令起兵共相應接。公山、煥等行至豳鄉,懼罪馳告其事。高祖托以他事,手詔追建成詣行在所。既至,高祖大怒,建成叩頭謝罪,奮身自投於地,幾至於絕。其夜,置之幕中,令殿中監陳萬福防禦,而文干遂舉兵反。高祖馳使召太宗以謀之,太宗曰:「文干小豎狂悖,起兵州府,官司已應擒剿。縱其假息時刻,但須遣一將耳。」高祖曰:「文幹事連建成,恐應之者眾,汝宜自行,還,立汝為太子。吾不能效隋文帝誅殺骨肉,廢建成封作蜀王,地既僻小易制。若不能事汝,亦易取耳。」太宗既行,元吉及四妃更為建成內請,封倫又外為遊說,高祖意便頓改,遂寢不行,復令建成還京居守。惟責以兄弟不能相容,歸罪於中允王珪、左衛率韋挺及天策兵曹杜淹等,並流之巂州。後又與元吉謀行鴆毒,引太宗入宮夜宴,既而太宗心中暴痛,吐血數升,淮安王神通狼狽扶還西宮。高祖幸第問疾,因敕建成:「秦王素不能飲,更勿夜聚。」乃謂太宗曰:「發跡晉陽,本是汝計;克平宇內,是汝大功。欲升儲位,汝固讓不受,以成汝美志。建成自居東宮,多歷年所,今復不忍奪之。觀汝兄弟是不和,同在京邑,必有忿競。汝還行台,居於洛陽,自陝已東,悉宜主之。仍令汝建天子旌旗,如梁孝王故事。」太宗泣而奏曰:「今日之授,實非所願,不能遠離膝下。」言訖嗚咽,悲不自勝。高祖曰:「昔陸賈漢臣,尚有遞過之事,況吾四方之主,天下為家。東西兩宮,途路咫尺,憶汝即往,無勞悲也。」及將行,建成、元吉相與謀曰:「秦王今往洛陽,既得土地甲兵,必為後患。留在京師,制之一匹夫耳。」密令數人上封事曰:「秦王左右多是東人,聞往洛陽,非常欣躍,觀其情狀,自今一去,不作來意。」高祖於是遂停。是後,日夜陰與元吉連結後宮,譖訴愈切,高祖惑之。太宗懼,不知所為。李靖、李勣等數言:「大王以功高被疑,靖等請申犬馬之力。」封倫亦潛勸太宗圖之,並不許。倫反言於高祖曰:「秦王恃有大勳,不服居太子之下。若不立之,願早為之所。」又說建成作亂,曰:「夫為四海者,不顧其親。漢高乞羹,此之謂矣。」

九年、突厥辺境を犯す。詔して元吉に師を率いてこれを拒がしむ。元吉は兵の集まるに因り、将に建成と期を剋して事を挙げんとす。長孫無忌・房玄齢・杜如晦・尉遅敬徳・侯君集等日夜固く争って曰く、「事急なり!若し権道を行わずんば、社稷必ず危うし。周公聖人、豈に骨肉に情無からんや?社稷を存するが為に、大義親を滅す。今大王機に臨みて断ぜず、坐して屠戮を受くれば、義に於いて何か成さん?若し見聴せられずんば、無忌等将に身を草沢に竄し、王の左右に居ることを得ざらん。」太宗その計を然りとす。六月三日、密かに建成・元吉の後宮に淫乱するを奏し、因りて自ら陳して曰く、「臣兄弟に於いて毫釐も負う所無し。今臣を殺さんと欲するは、世充・建德の為に仇を報ずるが如し。臣今枉しく死し、永く君親に違い、魂地下に帰り、実にまた諸賊を見るを恥ず。」高祖これを省みて愕然とし、報じて曰く、「明日当に勘問すべし、汝宜しく早く参れ。」四日、太宗左右九人を将いて玄武門に至り自衛す。高祖已に裴寂・蕭瑀・陳叔達・封倫・宇文士及・竇誕・顔師古等を召し、その事を窮覆せしめんと欲す。建成・元吉行きて臨湖殿に至り、変を覚え、即ち馬を回し、将に東に帰り宮府に赴かんとす。太宗随いてこれを呼ぶ。元吉馬上に弓を張るも、再三彀わず。太宗乃ちこれを射る。建成弦に応じて斃る。元吉流矢に中りて走る。尉遅敬徳これを殺す。俄かに東宮及び斉府の精兵二千人陣を結び馳せて玄武門を攻む。守門の兵仗これを拒ぎ、入るを得ず。良久しく接戦し、流矢内殿に及ぶ。太宗の左右数百騎来りて難に赴く。建成等の兵遂に敗散す。高祖大いに驚き、裴寂等に謂いて曰く、「今日の事如何?」蕭瑀・陳叔達進みて曰く、「臣聞く、内外限無く、父子親ならず、断つべくして断たざれば、反ってその乱を受く。建成・元吉は、義旗草創の際、並びに預謀せず;建立已来、また功徳無く、常に自ら憂いを懐き、相済いて悪を為し、釁蕭牆に起こり、遂に今日の事有り。秦王の功天下を蓋い、率土心に帰す。若し元良に処し、国務に委ねば、陛下重負を釈するが如く、蒼生自然に乂安せん。」高祖曰く、「善し!これまた吾が夙志なり。」乃ち命じて太宗を召しこれを撫でて曰く、「近日已来、幾ばくか投杼の惑い有り。」太宗哀号すること久し。建成死する時年三十八。長子太原王承宗早く卒す。次子安陸王承道・河東王承徳・武安王承訓・汝南王承明・鉅鹿王承義並びに坐して誅さる。太宗即位し、建成を追封して息王と為し、謚して隠と曰い、礼を以て改葬す。葬日の日、太宗宜秋門に於いてこれを哭すること甚だ哀しみ、仍って皇子趙王福を以て建成の嗣と為す。十六年五月、また皇太子を追贈し、謚は仍って旧に依る。

原文九年,突厥犯邊,詔元吉率師拒之,元吉因兵集,將與建成剋期舉事。長孫無忌、房玄齡、杜如晦、尉遲敬德、侯君集等日夜固爭曰:「事急矣!若不行權道,社稷必危。周公聖人,豈無情於骨肉?為存社稷,大義滅親。今大王臨機不斷,坐受屠戮,於義何成?若不見聽,無忌等將竄身草澤,不得居王左右。」太宗然其計。六月三日,密奏建成、元吉淫亂後宮,因自陳曰:「臣於兄弟無絲毫所負,今欲殺臣,似為世充、建德報仇。臣今枉死,永違君親,魂歸地下,實亦恥見諸賊。」高祖省之愕然,報曰:「明日當勘問,汝宜早參。」四日,太宗將左右九人至玄武門自衛。高祖已召裴寂、蕭瑀、陳叔達、封倫、宇文士及、竇誕、顏師古等,欲令窮覆其事。建成、元吉行至臨湖殿,覺變,即回馬,將東歸宮府。太宗隨而呼之,元吉馬上張弓,再三不彀。太宗乃射之,建成應弦而斃,元吉中流矢而走,尉遲敬德殺之。俄而東宮及齊府精兵二千人結陣馳攻玄武門,守門兵仗拒之,不得入,良久接戰,流矢及於內殿。太宗左右數百騎來赴難,建成等兵遂敗散。高祖大驚,謂裴寂等曰:「今日之事如何?」蕭瑀、陳叔達進曰:「臣聞內外無限,父子不親,當斷不斷,反受其亂。建成、元吉,義旗草創之際,並不預謀;建立已來,又無功德,常自懷憂,相濟為惡,釁起蕭牆,遂有今日之事。秦王功蓋天下,率土歸心,若處以元良,委之國務,陛下如釋重負,蒼生自然乂安。」高祖曰:「善!此亦吾之夙志也。」乃命召太宗而撫之曰:「近日已來,幾有投杼之惑。」太宗哀號久之。建成死時年三十八。長子太原王承宗早卒。次子安陸王承道、河東王承德、武安王承訓、汝南王承明、鉅鹿王承義並坐誅。太宗即位,追封建成為息王,謚曰隱,以禮改葬。葬日,太宗於宜秋門哭之甚哀,仍以皇子趙王福為建成嗣。十六年五月,又追贈皇太子,謚仍依舊。

衛王玄霸は

原文衛王玄霸

衛王玄覇は、高祖の第三子である。早くに薨去し子がなかった。武徳元年、衛王を追贈し、諡して懐といった。四年、太宗の子泰を宜都王に封じてその祭祀を奉らせ、礼を以て改葬し、太子以下が城外まで送った。泰は後に越に転封され、また宗室の西平王瓊の子保定を嗣ぎとした。貞観五年に薨じ、子がなく、国は除かれた。

原文衛王玄霸,高祖第三子也。早薨無子。武德元年,追贈衛王,謚曰懷。四年,封太宗子泰為宜都王以奉其祀,以禮改葬,太子以下送於郭外。泰後徙封於越,又以宗室贈西平王瓊之子保定為嗣。貞觀五年薨,無子,國除。

巣王元吉

原文巢王元吉

巣王元吉は、高祖の第四子である。義師が起こると、太原郡守を授けられ、姑臧郡公に封ぜられた。まもなく斉国公に進封され、十五郡諸軍事・鎮北大将軍を授けられ、太原に留まって鎮守し、便宜行事を許された。武徳元年、王爵に進み、并へい州総管を授けられた。二年、劉武周が南侵して汾・晋を侵すと、詔して右衛将軍宇文歆を遣わして元吉を助け并州を守らせた。元吉は性質として狩猟を好み、網罟三十余両を載せ、かつて「我は寧ろ三日食わずとも、一日狩りをせずにはいられぬ」と言い、またその左右に百姓を掠奪させた。歆は頻りに諫めたが受け入れられず、乃ち上表して言うには、「王が州に在る日、多く微行に出で、常に竇誕と共に遊猟し、穀稼を蹂躙し、親暱を放縦し、公然と掠奪を行い、境内の六畜、これにより殆ど尽きる。大路に向かって射ち、人の矢を避けるのを見て笑楽と為す。左右を分かち遣わし、戯れに攻戦と為し、互いに撃刺し毀傷して死に至らしむ。夜に府門を開き、他室で淫行を宣べる。百姓は怨毒し、各々憤嘆を懐く。此を以て城を守らば、安んぞ自ら保つことができようか」と。元吉は遂に坐して免ぜられた。また父老を唆して闕に詣でてこれを請わせ、まもなく復職を命ぜられた。時に劉武周が五千騎を率いて黄蛇嶺に至ると、元吉は車騎将軍張達に歩卒百人を以て先ずこれを試みさせた。達は歩卒が少ないことを以て、固く行かぬよう請うた。元吉は強いてこれを遣わし、至れば則ち尽く賊に没した。達は憤怒し、因って武周を引きいて楡次を攻め陥れ、并州に進んで逼った。元吉は大いに懼れ、その司馬劉徳威に欺いて言うには、「卿は老弱を以て城を守れ、我は強兵を以て出戦する」と。因って夜に出兵し、その妻妾を携えて軍を棄てて京師に奔還し、并州は遂に陥落した。高祖は甚だ怒り、礼部尚書李綱に謂って言うには、「元吉は幼少にして、時事に習わず、故に竇誕・宇文歆を遣わしてこれを輔けしめた。強兵数万、食糧十年分、起義興運の基、一朝にして棄つ。宇文歆が首にこの計を画した、我はこれを斬らん」と。綱は言うには、「歆のおかげで陛下は愛子を失わず、臣は功有りと為す」と。高祖がその故を問うと、綱は封じて言うには、「罪は竇誕が規諫せず、軍人をして怨憤せしめたことによる。また斉王は年少にして、驕逸を肆に行い、左右を放縦し、百姓を侵漁した。誕は曾て諫止せず、却って随順して掩い隠し、以てその釁を成せしめた、これ誕の罪である。宇文歆は情を論ずれば則ち疎く、彼に向かってはまた浅く、王の過失、悉く以て聞き奏す。且つ父子の際、人の言い難きところ、而るに歆はこれを言う、豈に忠懇ならざらんや。今罪を誅せんと欲し、その心を録さず、臣愚かしく窃に過ちと為す」と。翌日、高祖は綱を召し入れて、御座に昇らせ、謂って言うには、「今我に公有り、遂に刑罰を濫らさしめず。元吉自ら悪を為し、人に怨みを結ぶ。歆は既に表を以て聞かせ、誕もまた焉んぞ禁制できようか。皆その罪に非ず」と。まもなく元吉に侍中・襄州道行台尚書令・稷州刺史を加授した。四年、太宗が竇建徳を征すると、元吉を留めて屈突通と共に王世充を東都に囲ませた。世充が出兵して拒戦すると、元吉は伏兵を設けてこれを撃ち破り、首級八百を斬り、その大将楽仁昉・甲士千余人を生擒した。世充が平定されると、司空しくうに拝され、余官は元の如く、袞冕の服・前後部鼓吹楽二部・班剣二十人・黄金二千斤を加賜され、太宗と各々三炉の銭を鋳ることを聴されて自給した。六年、隰州総管を加授された。及び建成と連謀し、各々壮士を募り、多く罪人を匿った。また内に宮掖と結び、互いに称誉を加え、また厚く中書令封倫に賂して以て党助と為した。これにより高祖は頗る太宗を疎んじて元吉を愛することを加えた。太宗が嘗て高祖に従ってその第に幸すると、元吉はその護軍宇文宝を寝室内に伏せ、以て太宗を刺さんとした。建成は事が果たさずと恐れてこれを止め、元吉は慍って言うには、「兄の為に計るのみ、我に何の害かあらん」と。九年、左衛大将軍に転じ、まもなく司徒しと・兼侍中に進位し、并州大都督・隰州都督・稷州刺史は並びに元の如く。

原文巢王元吉,高祖第四子也。義師起,授太原郡守,封姑臧郡公。尋進封齊國公,授十五郡諸軍事、鎮北大將軍,留鎮太原,許以便宜行事。武德元年,進爵為王,授并州總管。二年,劉武周南侵汾、晉,詔遣右衛將軍宇文歆助元吉守并州。元吉性好畋獵,載網罟三十餘兩,嘗言「我寧三日不食,不能一日不獵」,又縱其左右攘奪百姓。歆頻諫不納,乃上表曰:「王在州之日,多出微行,常共竇誕遊獵,蹂踐谷稼,放縱親暱,公行攘奪,境內六畜,因之殆盡。當衢而射,觀人避箭以為笑樂。分遣左右,戲為攻戰,至相擊刺毀傷至死。夜開府門,宣淫他室。百姓怨毒,各懷憤嘆。以此守城,安能自保!」元吉竟坐免。又諷父老詣闕請之,尋令復職。時劉武週率五千騎至黃蛇嶺,元吉遣車騎將軍張達以步卒百人先嘗之。達以步卒少,固請不行。元吉強遣之,至則盡沒於賊。達憤怒,因引武周攻陷榆次,進逼并州。元吉大懼,紿其司馬劉德威曰:「卿以老弱守城,吾以強兵出戰。」因夜出兵,攜其妻妾棄軍奔還京師,并州遂陷。高祖怒甚,謂禮部尚書李綱曰:「元吉幼小,未習時事,故遣竇誕、宇文歆輔之。強兵數萬,食支十年,起義興運之基,一朝而棄。宇文歆首畫此計,我當斬之。」綱曰:「賴歆令陛下不失愛子,臣以為有功。」高祖問其故,綱封曰:「罪由竇誕不能規諷,致令軍人怨憤。又齊王年少,肆行驕逸,放縱左右,侵漁百姓。誕曾無諫止,乃隨順掩藏,以成其釁,此誕之罪。宇文歆論情則疏,向彼又淺,王之過失,悉以聞奏。且父子之際,人所難言,而歆言之,豈非忠懇?今欲誅罪,不錄其心,臣愚竊以為過。」翌日,高祖召綱入,升御坐,謂曰:「今我有公,遂使刑罰不濫。元吉自惡,結怨於人。歆既曾以表聞,誕亦焉能禁制?皆非其罪也。」尋加授元吉侍中、襄州道行台尚書令、稷州刺史。四年,太宗征竇建德,留元吉與屈突通圍王世充於東都。世充出兵拒戰,元吉設伏擊破之,斬首八百級,生擒其大將樂仁昉、甲士千餘人。世充平,拜司空,余官如故,加賜袞冕之服、前後部鼓吹樂二部、班劍二十人、黃金二千斤,與太宗各聽三爐鑄錢以自給。六年,加授隰州總管。及與建成連謀,各募壯士,多匿罪人。復內結宮掖,遞加稱譽,又厚賂中書令封倫以為黨助。由是高祖頗疏太宗而加愛元吉。太宗嘗從高祖幸其第,元吉伏其護軍宇文寶於寢內,將以刺太宗。建成恐事不果而止之,元吉慍曰:「為兄計耳,於我何害!」九年,轉左衛大將軍,尋進位司徒、兼侍中,并州大都督、隰州都督、稷州刺史並如故。

高祖が太和宮に避暑せんとし、二王は従うべきであったが、元吉は建成に謂って言うには、「宮所に至るを待ち、当に精兵を興してこれを襲い取らん。土窟の中に置き、唯だ一孔を開いて以て飲食を通ぜしめん」と。会うところ突厥の郁射設が軍を河南に屯し、烏城を囲んで入った。建成は乃ち元吉を薦めて太宗に代わって軍を督し北討させ、仍って秦府の驍将秦叔宝・尉遅敬徳・程知節・段志玄等を並びに同行せしめた。また秦府の兵帳を追い、驍勇を簡閲し、将に太宗の兵を奪って以てその府を益さんとした。また杜如晦・房玄齢を譖し、遂に帰第せしめた。高祖はその謀を知りながら制しなかった。元吉は因って密かに太宗を害することを請うと、高祖は言うには、「是には四海を定むるの功有り、罪跡未だ見えず、一旦殺さんと欲する、何を以て辞と為さん」と。元吉は言うには、「秦王は常に詔勅に違い、初め東都を平らげし日、偃蹇して顧望し、急ぎ還京せず、銭帛を分散し、以て私恵を樹つ。違戾此の如し、豈に反逆に非ずや。但だ速やかに殺すを須う、何ぞ辞無きを患えん」と。高祖は答えず、元吉は遂に退いた。建成は元吉に謂って言うには、「既に秦王の精兵を得、数万の衆を統べ、我と秦王と昆明池に至り、彼に於いて宴別し、壮士に令してこれを幕下に拉ぎ殺させ、因って暴卒と云わしめば、主上は諒や信ぜざるは無からん。我当に人をして進説せしめ、令して我に国務を付せしめん。正位已後、汝を以て太弟と為さん。敬徳等既に汝の手に入れば、一時にこれを坑い、孰か敢えて服さざらん」と。率更丞王晊その謀を聞き、密かに太宗に告げた。太宗は府僚を召して以てこれを告げると、皆言うには、「大王若し正しく断ぜずんば、社稷は唐の所有に非ず。若し建成・元吉にその毒心を肆にせしめ、群小志を得ば、元吉は狼戾にして、終にはまたその兄に事えざらん。往者護軍薛宝が斉王に符籙を上ぐるに云う、『元吉唐の字を合成す』と。斉王これ得て喜びて曰く、『但だ秦王を除き、東宮を取ること反掌の如し』と。乱を為す未だ成らず、預め相奪うを懐く。大王の威を以てすれば、二人を襲うこと地芥を拾うが如し」と。太宗は猶予して未だ決せず、衆また言うには、「大王は舜を以て何如なる人と為すか」と。曰く、「浚哲文明、温恭允塞、子と為して孝、君と為して聖、焉んぞこれを議すべけんや」と。府僚は言うには、「向使舜井を浚いて出でずんば、自ら魚鱉の斃に同じくし、焉んぞ孝子と為すを得ん。廩を塗りて下らずんば、便ち煨燼の余と成り、焉んぞ聖君と為すを得ん。小杖は受け、大杖は避く、良く以て有り」と。太宗は是に於いて計を定めて建成及び元吉を誅した。元吉の死する時年二十四。五子有り:梁郡王承業・漁陽王承鸞・普安王承奨・江夏王承裕・義陽王承度、並びに坐して誅せられた。まもなく詔して建成・元吉の属籍を絶つ。太宗践祚し、元吉を海陵郡王に追封し、諡して剌と曰い、礼を以て改葬した。貞観十六年、また巣王に追封し、諡は元の如く、復た曹王明を以て元吉の後と為した。

原文高祖將避暑太和宮,二王當從,元吉謂建成曰:「待至宮所,當興精兵襲取之。置土窟中,唯開一孔以通飲食耳。」會突厥郁射設屯軍河南,入圍烏城。建成乃薦元吉代太宗督軍北討,仍令秦府驍將秦叔寶、尉遲敬德、程知節、段志玄等並與同行。又追秦府兵帳,簡閱驍勇,將奪太宗兵以益其府。又譖杜如晦、房玄齡,逐令歸第。高祖知其謀而不制。元吉因密請加害太宗,高祖曰:「是有定四海之功,罪跡未見,一旦欲殺,何以為辭?」元吉曰:「秦王常違詔敕,初平東都之日,偃蹇顧望,不急還京,分散錢帛,以樹私惠。違戾如此,豈非反逆?但須速殺,何患無辭!」高祖不對,元吉遂退。建成謂元吉曰:「既得秦王精兵,統數萬之眾,吾與秦王至昆明池,於彼宴別,令壯士拉之於幕下,因雲暴卒,主上諒無不信。吾當使人進說,令付吾國務。正位已後,以汝為太弟。敬德等既入汝手,一時坑之,孰敢不服?」率更丞王晊聞其謀,密告太宗。太宗召府僚以告之,皆曰:「大王若不正斷,社稷非唐所有。若使建成、元吉肆其毒心,群小得志,元吉狼戾,終亦不事其兄。往者護軍薛寶上齊王符籙云:『元吉合成唐字。』齊王得之喜曰:『但除秦王,取東宮如反掌耳。』為亂未成,預懷相奪。以大王之威,襲二人如拾地芥。」太宗遲疑未決,眾又曰:「大王以舜為何如人也?」曰:「浚哲文明,溫恭允塞,為子孝,為君聖,焉可議之乎?」府僚曰:「向使舜浚井不出,自同魚鱉之斃,焉得為孝子乎?涂廩不下,便成煨燼之餘,焉得為聖君乎?小杖受,大杖避,良有以也。」太宗於是定計誅建成及元吉。元吉死時年二十四。有五子:梁郡王承業、漁陽王承鸞、普安王承獎、江夏王承裕、義陽王承度,並坐誅。尋詔絕建成、元吉屬籍。太宗踐祚,追封元吉為海陵郡王,謚曰剌,以禮改葬。貞觀十六年,又追封巢王,謚如故,復以曹王明為元吉後。

楚王智雲

原文楚王智雲

楚王智雲は、高祖の第五子である。母は萬貴妃と申し、性質恭順にして、特に高祖の親礼を蒙った。宮中の事は、皆彼女に諮り稟り、諸王の妃や公主は、推敬しない者はなかった。後に楚國太妃を授けられ、薨じ、獻陵に陪葬された。智雲は本名を稚詮といい、大業の末、高祖に従って河東にあった。義師が起こらんとする時、隠太子建成は密かに太原に帰ったが、智雲が年若いのを以て、委ねて去った。その為に吏に捕らえられ、長安に送られ、陰世師に害せられ、年十四であった。義寧元年、尚書左僕射・楚國公を追贈された。武德元年、楚王に追封され、謚して哀といった。子がなく、三年、太宗の子寬を嗣とした。寬が薨じ、貞観二年、再び濟南公世都の子霊亀を嗣とした。霊亀は、永徽年中に魏州刺史を歴任し、政治は清厳を尚び、姦盗は跡を屏いた。また永済渠を開いて新市に入れ、以て商旅を控引し、百姓はこれを利した。官に卒した。子の福が嗣ぎ、嗣いで爵を降って公となった。儀鳳年中、右威衛将軍に在って卒した。子の承況は、神龍年中に右羽林将軍となり、節愍太子と共に兵を挙げ、玄武門に入り、乱兵に殺された。

原文楚王智雲,高祖第五子也。母曰萬貴妃,性恭順,特蒙高祖親禮。宮中之事,皆諮稟之,諸王妃主,莫不推敬。後授楚國太妃,薨,陪葬獻陵。智雲本名稚詮,大業末,從高祖於河東。及義師將起,隱太子建成潛歸太原,以智雲年小,委之而去。因為吏所捕,送於長安,為陰世師所害,年十四。義寧元年,贈尚書左僕射、楚國公。武德元年,追封楚王,謚曰哀。無子,三年,以太宗子寬為嗣。寬薨,貞觀二年,復以濟南公世都子靈龜嗣焉。靈龜,永徽中歷魏州刺史,政尚清嚴,姦盜屏跡。又開永濟渠入於新市,以控引商旅,百姓利之。卒官。子福嗣,嗣降爵為公。儀鳳中,卒於右威衛將軍。子承況,神龍中為右羽林將軍,與節愍太子同舉兵,入玄武門,為亂兵所殺。

荊王元景

原文荊王元景

荊王元景は、高祖の第六子である。武德三年、趙王に封ぜられた。八年、安州都督を授けられた。貞観初め、雍州牧・右驍衛大将軍を歴任して遷った。十年、転じて荊王に封ぜられ、荊州都督を授けられた。十一年、元景らを代襲刺史とする制を定めた。詔して曰く、

原文荊王元景,高祖第六子也。武德三年,封為趙王。八年,授安州都督。貞觀初,歷遷雍州牧、右驍衛大將軍。十年,徙封荊王,授荊州都督。十一年,定制元景等為代襲刺史。詔曰:

皇王命を受くるや、歩驟の跡以て殊なり、経籍の紀す所、質文の道一ならず。治乱同じからずと雖も、損益或いは異なり、官司を設けて海内を制し、籓屏を建てて王室を輔くるに至っては、その典章を明らかにせざる莫く、義は致治に存し、その賢戚を崇くするは、志は無疆に在り。朕寡昧を以て、鴻緒を丕承し、三霊を寅畏し、百姓を憂勤し、明哲の余論を考へ、経邦の長策を求む。帝業の重きは、独任を以ては務を成し難く、天下の曠きは、人に因りて以て安きを獲易し。然れども侯伯は昔より肇り、州郡は中代に始まる。聖賢術を異にし、沿革時に随ふ。古に復せば則ち義頓に従ひ難く、今を尋ぬれば則ち事理を尽さず。遂に周・漢を規模し、曹・馬を斟酌し、按部の嘉名を采り、建侯の旧制に参へ、共治の職重し、分土の実存す。已に制書有りて、その至理を陳ぶ。世を継ぎて範を垂れ、厥の後昆に貽し、城を維へて固と作り、前烈に符を同じくす。荊州都督荊王元景・梁州都督漢王元昌・徐州都督徐王元礼・潞州都督韓王元嘉・遂州都督彭王元則・鄭州刺史鄭王元懿・絳州刺史霍王元軌・虢州刺史虢王鳳・豫よ州刺史道王元慶・鄧州刺史鄧王元裕・寿州刺史舒王元名・幽州都督燕王霊夔・蘇州刺史許王元祥・安州都督呉王恪・相州都督魏王泰・齊州都督齊王裕・益州都督蜀王愔・襄州刺史蔣王惲・揚州都督越王貞・并州都督晉王某・秦州都督紀王慎等、或いは地は旦・奭に居り、夙に詩・礼を聞き、或いは望は間・平に及び、早く才芸を称へ、並びに爵は土宇に隆く、寵は車服に兼ぬ。誠孝の心は、造次に忘れず、風政の挙は、期月に克く著はる。宜しく恆冊に冠し、休命を以て祚すべし。その任ずる刺史は、咸く子孫に代々承襲せしむ。

原文皇王受命,步驟之跡以殊;經籍所紀,質文之道匪一。雖治亂不同,損益或異,至於設官司以制海內,建籓屏以輔王室,莫不明其典章,義存於致治;崇其賢戚,志在於無疆。朕以寡昧,丕承鴻緒,寅畏三靈,憂勤百姓,考明哲之餘論,求經邦之長策。帝業之重,獨任難以成務;天下之曠,因人易以獲安。然則侯伯肇於自昔,州郡始於中代,聖賢異術,沿革隨時,復古則義難頓從,尋今則事不盡理。遂規模周、漢,斟酌曹、馬,采按部之嘉名,參建侯之舊制,共治之職重矣,分土之實存焉。已有制書,陳其至理。繼世垂範,貽厥後昆;維城作固,同符前烈。荊州都督荊王元景、梁州都督漢王元昌、徐州都督徐王元禮、潞州都督韓王元嘉、遂州都督彭王元則、鄭州刺史鄭王元懿、絳州刺史霍王元軌、虢州刺史虢王鳳、豫州刺史道王元慶、鄧州刺史鄧王元裕、壽州刺史舒王元名、幽州都督燕王靈夔、蘇州刺史許王元祥、安州都督吳王恪、相州都督魏王泰、齊州都督齊王裕、益州都督蜀王愔、襄州刺史蔣王惲、揚州都督越王貞、并州都督晉王某、秦州都督紀王慎等,或地居旦、奭,夙聞《詩》、《禮》;或望及間、平,早稱才藝,並爵隆土宇,寵兼車服。誠孝之心,無忘於造次;風政之舉,克著於期月。宜冠恆冊,祚以休命。其所任刺史,咸令子孫代代承襲。

尋いで又代襲の制を罷む。元景久しくして鄜州刺史に転ず。高宗即位し、司徒に進位し、実封を加へて前に通じ一千五百戸に満つ。永徽四年、房遺愛と謀反を図った罪に坐して賜死し、国除となる。後に沈黎王を追封し、礼を備へて改葬す。渤海王奉慈の子長沙を以て嗣とし、爵を降して侯となす。神龍初め、爵土を追復し、並びにその孫逖を嗣荊王に封ず。尋いで薨じ、国除となる。

原文尋又罷代襲之制。元景久之轉鄜州刺史。高宗即位,進位司徒,加實封通前滿一千五百戶。永徽四年,坐與房遺愛謀反賜死,國除。後追封沉黎王,備禮改葬。以渤海王奉慈子長沙為嗣,降爵為侯。神龍初,追復爵土,並封其孫逖為嗣荊王,尋薨,國除。

漢王元昌

原文漢王元昌

漢王元昌は、高祖の第七子である。少くして学を好み、隷書を善くす。武德三年、魯王に封ぜられた。貞観五年、華州刺史を授けられ、梁州都督に転ず。十年、漢王に改封される。元昌は州に在りて、頗る憲法に違ひ、太宗手勅を以てこれを責む。初め自ら咎めず、更に怨望を懐く。太子承乾が魏王泰の寵を嫉むを知り、乃ち相附托し、不軌を図る。十六年、元昌京師に来朝し、承乾頻りに召して東宮に入れ夜宿せしめ、因りて承乾に謂ひて曰く、「願くは陛下早く天子為らんことを。近く御側に見るに、一人の宮人有り、琵琶を弾くに善くす。事平らぎし後の、当に望みて賜はらんことを垂れよ。」承乾諾す。又臂を刻みて血を出だし、帛を以てこれを拭ひ、焼きて灰と作り、酒に和して同じく飲み、共に信誓を為し、潜かに間隙を伺ふ。十七年、事発し、太宗誅を加ふるに忍びず、特勅を以て死を免ず。大臣高士廉・李世勣等奏言して曰く、「王者は四海を家と為し、万姓を子と為し、公に天下を行く、情独親有ること無し。元昌凶悪を苞蔵し、逆乱を図謀す。その指趣を観、その心府を察すれば、罪は燕旦に深く、釁は楚英に甚だし。天地の容れざる所、人臣の切歯する所、五刑以てその罰を申すに足らず、九死以てその愆に当つること無し。而るに陛下情は至公に屈し、恩を梟獍に加へ、疏網を開かんと欲し、この鯨鯢を漏らす。臣等有司、制を奉ぜざるを期す。伏して願くは憲典を敦師し、この凶慝を誅せんことを。群臣の願に順ひ、鷹鸇の心を奪はば、則ち呉・楚七君、往漢に幽嘆せず、管・蔡二叔、有周に沈恨せざらん。」太宗事已むことを獲ず、乃ち元昌に自尽を家に賜ひ、妻子は籍没し、国除となる。

原文漢王元昌,高祖第七子也。少好學,善隸書。武德三年,封為魯王。貞觀五年,授華州刺史,轉梁州都督。十年,改封漢王。元昌在州,頗違憲法,太宗手敕責之。初不自咎,更懷怨望。知太子承乾嫉魏王泰之寵,乃相附托,圖為不軌。十六年,元昌來朝京師,承乾頻召入東宮夜宿,因謂承乾曰:「願陛下早為天子。近見御側,有一宮人,善彈琵琶,事平之後,當望垂賜。」承乾許諾。又刻臂出血,以帛拭之,燒作灰,和酒同飲,共為信誓,潛伺間隙。十七年,事發,太宗弗忍加誅,特敕免死。大臣高士廉、李世勣等奏言:「王者以四海為家,以萬姓為子,公行天下,情無獨親。元昌苞藏凶惡,圖謀逆亂,觀其指趣,察其心府,罪深燕旦,釁甚楚英。天地之所不容,人臣之所切齒,五刑不足申其罰,九死無以當其愆。而陛下情屈至公,恩加梟獍,欲開疏網,漏此鯨鯢。臣等有司,期不奉制,伏願敦師憲典,誅此凶慝。順群臣之願,奪鷹鸇之心,則吳、楚七君,不幽嘆於往漢;管、蔡二叔,不沉恨於有周。」太宗事不獲已,乃賜元昌自盡於家,妻子籍沒,國除。

酆王元亨

原文酆王元亨

酆王元亨は、高祖の第八子である。武德三年封を受く。貞観二年、散騎常侍さんきじょうじを授けられ、金州刺史拝さる。藩に之くに及び、太宗その幼少を以て、これを甚だ思ひ、中路に金盞を賜ひ、使を遣わして為に宴を設けしむ。六年薨じ、子無く、国除となる。

原文酆王元亨,高祖第八子也。武德三年受封。貞觀二年,授散騎常侍,拜金州刺史。及之籓,太宗以其幼小,甚思之,中路賜以金盞,遣使為之設宴。六年薨,無子,國除。

周王元方

原文周王元方

周王元方は、高祖の第九子である。武德四年封を受く。貞観二年、散騎常侍を授けられる。三年薨じ、左光禄大夫を贈られ、子無く、国除となる。

原文周王元方,高祖第九子也。武德四年受封。貞觀二年,授散騎常侍。三年薨,贈左光祿大夫,無子,國除。

徐王元礼

原文徐王元禮

徐王元礼は、高祖の第十子である。少くして恭謹、騎射を善くす。武德四年、鄭王に封ぜられる。貞観六年、実封七百戸を賜ひ、鄭州刺史を授けられ、転じて徐王に封ぜられ、徐州都督に遷る。十七年、絳州刺史に転じ、善政を以て聞こえ、太宗璽書を降して労勉し、錦彩を以て賜ふ。二十三年、実封千戸を加ふ。永徽四年、司徒を加授され、潞州刺史を兼ぬ。咸亨三年薨じ、太尉・冀州大都督を贈られ、献陵に陪葬される。

原文徐王元禮,高祖第十子也。少恭謹,善騎射。武德四年,封鄭王。貞觀六年,賜實封七百戶,授鄭州刺史,徙封徐王,遷徐州都督。十七年,轉絳州刺史,以善政聞,太宗降璽書勞勉,賜以錦彩。二十三年,加實封千戶。永徽四年,加授司徒,兼潞州刺史。咸亨三年薨,贈太尉、冀州大都督,陪葬獻陵。

淮南王茂

原文淮南王茂

子の淮南王茂が嗣いだ。茂は険薄にして行いがなく、元禮の妾趙氏は美色であったが、元禮が病に罹った際、茂は遂に彼女を逼り、元禮はこれを知って厳しく責め咎めた。茂はそこで元禮の侍衛を退け、その薬と食膳を断ち、なおも言うには、「既に五十年も王であるのに、更に何ぞ煩わしく薬を服する必要があろうか」と。遂に餓えて終わった。上元年中、事が洩れ、振州に配流されて死んだ。神龍初年、また茂の子璀を嗣徐王に封じた。景龍四年、銀青光禄大夫を加えられた。開元年中、宗正員外卿に除かれ、卒した。子の延年が嗣いだ。開元二十六年、嗣徐王に封ぜられ、員外洗馬に除かれた。天宝初年、抜汗那王が入朝した際、延年は娘を彼に嫁がせようとしたが、右相李林甫に奏上され、文安郡別駕・彭城長史に貶ぜられ、贓罪に坐して永嘉司士に貶ぜられた。至徳初年、餘杭郡司馬となり、卒した。永泰元年、女婿の黔中観察使趙国珍が入朝し、延年の子で前施州刺史の諷を嗣とすべく請うたため、これにより嗣徐王に封ぜられた。

原文子淮南王茂嗣。茂險薄無行,元禮姬趙氏有美色,及元禮遇疾,茂遂逼之,元禮知而切加責讓。茂乃屏斥元禮侍衛,斷其藥膳,仍云:「既得五十年為王,更何煩服藥?」竟以餒終。上元中,事洩,配流振州而死。神龍初,又封茂子璀為嗣徐王。景龍四年,加銀青光祿大夫。開元中,除宗正員外卿,卒。子延年嗣。開元二十六年,封嗣徐王,除員外洗馬。天寶初,拔汗那王入朝,延年將嫁女與之,為右相李林甫所奏,貶文安郡別駕、彭城長史,坐贓貶永嘉司士。至德初,餘杭郡司馬,卒。永泰元年,女婿黔中觀察使趙國珍入朝,請以延年子前施州刺史諷為嗣,因封嗣徐王。

韓王元嘉

原文韓王元嘉

韓王元嘉は、高祖の第十一子である。母は宇文昭儀、隋の左武衛大将軍述の娘である。早くから高祖に寵愛され、高祖が即位するとすぐに皇后に立てようとしたが、固辞して受けなかった。元嘉は幼少の頃より母の寵愛により、特に高祖に愛され、即位後に生まれた皇子の中で、彼に及ぶ者はなかった。武徳四年、宋王に封ぜられ、徐王に転封された。貞観六年、実封七百戸を賜り、潞州刺史に任ぜられた。時に十五歳。州において太妃の病を知ると、涙を流して食を絶った。京師で発喪すると、哀毀して礼を過ぎ、太宗はその至性を嘆き、幾度も慰め励ました。九年、右領軍大将軍に任ぜられた。十年、韓王に改封され、潞州都督に任ぜられた。二十三年、実封が満千戸に加えられた。元嘉は若くして学問を好み、書物を集めて万巻に至り、また碑文古跡を採集し、多くの異本を得た。閨門は修整して、寒素の士大夫の類いであった。弟の霊夔と甚だ友愛し、兄弟が集まって会う時は、布衣の礼のようであった。その身を修め己を潔くし、内外が一であることは、当代の諸王で及ぶ者なく、ただ霍王元軌がその次ぐのみであった。高宗の末、元嘉は沢州刺史に転じた。天后が臨朝して政を摂ると、物情に順おうとして、元嘉を太尉・定州刺史に、霍王元軌を司徒・青州刺史に、舒王元名を司空・隆州刺史に、魯王霊夔を太子太師・蘇州刺史に、越王貞を太子太傅・安州都督に、紀王慎を太子太保に進授し、外には尊崇を示したが、実は綜理する所はなかった。その後次第に宗室諸王で己に附かない者を誅戮しようとし、元嘉は大いに恐れ、その子の通州刺史・黄公譔及び越王貞父子と謀って兵を起こした。ここにおいて皇宗国戚で内外相連なる者は甚だ広かった。使者を遣わして貞及び貞の子琅邪王沖に報じて言うには、「四面より同来すれば、事は成らざるはない」と。沖は諸道と計料未だ審らかならぬうちに先に兵を発し、倉卒のうちにただ貞のみが応じたので、諸道に赴く者はなく、故にその事は成らなかった。元嘉は坐して誅された。譔は若くして文才で知られ、諸王子の中で、琅邪王沖と一時の秀であり、凡そ交結した者は皆当代の名士であった。時に天下で犯罪により籍没される者は甚だ多かったが、ただ沖と譔父子の書籍が最も多く、皆文句が詳定されて、秘閣の及ばざる所であった。神龍初年、元嘉の爵土を追復し、併せてその第五子訥を嗣韓王に封じ、官は員外祭酒に至った。開元十七年に卒した。元嘉の長子訓は、高祖の時に潁川王に封ぜられ、早世した。次子誼は、武陵王に封ぜられ、官は濮州刺史に至った。開元年中、訥の子叔璿を嗣韓王・国子員外司業に封じた。

原文韓王元嘉,高祖第十一子也。母宇文昭儀,隋左武衛大將軍述之女也。早有寵於高祖,高祖初即位,便欲立為皇后,固辭不受。元嘉少以母寵,特為高祖所愛,自登極晚生皇子,無及之者。武德四年,封宋王,徙封徐王。貞觀六年,賜實封七百戶,授潞州刺史,時年十五。在州聞太妃有疾,便涕泣不食。及京師發喪,哀毀過禮,太宗嗟其至性,屢慰勉之。九年,授右領軍大將軍。十年,改封韓王,授潞州都督。二十三年,加實封滿千戶。元嘉少好學,聚書至萬卷,又采碑文古蹟,多得異本。閨門修整,有類寒素士大夫。與其弟靈夔甚相友愛,兄弟集見,如布衣之禮。其修身潔己,內外如一,當代諸王莫能及者,唯霍王元軌抑其次焉。高宗末,元嘉轉澤州刺史。及天后臨朝攝政,欲順物情,乃進授元嘉為太尉,定州刺史、霍王元軌為司徒,青州刺史、舒王元名為司空,隆州刺史、魯王靈夔為太子太師,蘇州刺史、越王貞為太子太傅,安州都督、紀王慎為太子太保,並外示尊崇,實無所綜理。其後漸將誅戮宗室諸王不附己者,元嘉大懼,與其子通州刺史、黃公譔及越王貞父子謀起兵,於是皇宗國戚內外相連者甚廣。遣使報貞及貞子琅邪王沖曰:「四面同來,事無不濟。」沖與諸道計料未審而先發兵,倉卒唯貞應之,諸道莫有赴者,故其事不成。元嘉坐誅。譔少以文才見知,諸王子中,與琅邪王沖為一時之秀,凡所交結皆當代名士。時天下犯罪籍沒者甚眾,唯沖與譔父子書籍最多,皆文句詳定,秘閣所不及。神龍初,追復元嘉爵土,並封其第五子訥為嗣韓王,官至員外祭酒。開元十七年卒。元嘉長子訓,高祖時封潁川王,早卒。次子誼,封武陵王,官至濮州刺史。開元中,封訥子叔璇為嗣韓王、國子員外司業。

彭王元則

原文彭王元則

彭王元則は、高祖の第十二子である。武徳四年、荊王に封ぜられた。貞観七年、豫州刺史に任ぜられた。十年、彭王に改封され、遂州都督に除かれ、尋で章服の奢僭に坐して免官された。十七年、澧州刺史に拝され、更に節を折り行いを励まし、頗る声譽が著しかった。永徽二年に薨じ、高宗はこれがために三日間朝を廃し、司徒・荊州都督を贈り、献陵に陪葬し、謚して思といった。発引の日、高宗は望春宮に登ってその霊車を望み、甚だ慟哭した。子がなく、霍王元軌の子絢を嗣がせ、龍朔年中に南昌王に封ぜられた。子の志暕は、神龍初年に嗣彭王に封ぜられた。景龍初年、銀青光禄大夫を加えられた。開元年中、宗正卿同正員となり、卒した。

原文彭王元則,高祖第十二子也。武德四年,封荊王。貞觀七年,授豫州刺史。十年,改封彭王,除遂州都督,尋坐章服奢僭免官。十七年,拜澧州刺史,更折節勵行,頗著聲譽。永徽二年薨,高宗為之廢朝三日,贈司徒、荊州都督,陪葬獻陵,謚曰思。發引之日,高宗登望春宮望其靈車,哭之甚慟。無子,以霍王元軌子絢嗣,龍朔中封南昌王。子志暕,神龍初封嗣彭王。景龍初,加銀青光祿大夫。開元中,宗正卿同正員,卒。

鄭王元懿

原文鄭王元懿

鄭王元懿は、高祖の第十三子である。頗る学問を好んだ。武徳四年、滕王に封ぜられた。貞観七年、兗州刺史に任ぜられ、実封六百戸を賜った。十年、鄭王に改封され、鄭・潞二州刺史を歴任した。二十三年、実封が満千戸に加えられた。総章年中、累ねて絳州刺史に任ぜられた。数度大獄を断じ、甚だ平允の誉れがあった。高宗はこれを嘉し、璽書を降して褒め称え、物三百段を賜った。咸亨四年に薨じ、司徒・荊州大都督を贈り、謚して惠といい、献陵に陪葬した。子の璥は、上元初年、嗣鄭王に封ぜられ、官は鄂州刺史に至った。神龍初年、また璥の嫡子希言を嗣鄭王に封じた。景龍四年、嗣鄭王希言ら合わせて十四人、皆銀青光禄大夫を加えられた。開元年中、右金吾大将軍となった。天宝初年、再び太子詹事同正員となり、卒した。

原文鄭王元懿,高祖第十三子也。頗好學。武德四年,封滕王。貞觀七年,授兗州刺史,賜實封六百戶。十年,改封鄭王,歷鄭、潞二州刺史。二十三年,加實封滿千戶。總章中,累授絳州刺史。數斷大獄,甚有平允之譽。高宗嘉之,降璽書褒美,賜物三百段。咸亨四年薨,贈司徒、荊州大都督,謚曰惠,陪葬獻陵。子璥,上元初,封為嗣鄭王,官至鄂州刺史。神龍初,又封璥嫡子希言為嗣鄭王。景龍四年,嗣鄭王希言等共一十四人,並加銀青光祿大夫。開元中,右金吾大將軍。天寶初,再為太子詹事同正員,卒。

霍王元軌

原文霍王元軌

霍王元軌は、高祖の第十四子である。若くして多才多芸であり、高祖は大いにこれを奇異とした。武徳六年、蜀王に封ぜられる。八年、吳王に徙封される。貞観初め、太宗嘗て群臣に問うて曰く、「朕の子弟の孰れか賢なるや」と。侍中魏徵對えて曰く、「臣愚闇にして、其の能を盡く知らず。唯だ吳王數たび臣と言ふも、未だ嘗て自失せざるはなし」と。上曰く、「朕も亦た之を器とす。卿以て前代の誰に比すべきと爲すや」と。征曰く、「經學文雅、亦た漢の間・平なり」と。是より寵遇彌厚く、因りて征の女を娶らしむ。太宗に從ひ遊獵し、群獸に遇ふ。元軌をして之を射しめしむるに、矢虚發するなく、太宗其の背を撫でて曰く、「汝武藝人に過ぐ、今施す所無きを悵む。天下未だ定まらざる當に、我汝を得ること豈に美ならざらんや」と。七年、壽州刺史を拜し、實封六百戸を賜ふ。高祖崩じ、職を去り、毀瘠禮を過ぎ、自ら後常に布衣を着し、終身の戚有るを示す。每に忌辰に至れば、輒ち數日食はず。十年、霍王に改封し、絳州刺史を授け、尋で徐州刺史に轉ず。元軌前後刺史と爲り、州に至れば、唯だ閣を閉ぢて書を讀み、吏事は長史・司馬に責成し、謹慎自ら守り、物と忤ふること無く、人と爲り妄ならず。徐州に在りては、唯だ處士劉玄平と布衣の交はりを爲す。人或は玄平に王の長を問ふ。玄平答へて曰く、「長無し」と。問ふ者怪しみて復た之を問ふ。玄平曰く、「夫人短有るは、以て其の長を見る所以なり。霍王に至りては、備はらざる所無し。吾何を以て之を稱せんや」と。二十三年、實封を加へて滿千戸と爲し、定州刺史と爲る。突厥來寇す。元軌門を開き旗を偃せしむ。虜伏有るを疑ひ、懼れて宵遁す。州人李嘉運賊と連謀す。事洩る。高宗收め其の黨を按ずるを令す。元軌強寇境に在り、人心安からずと以て、唯だ嘉運を殺し、余は及ぶ所無し。因りて自ら制に違へるを劾す。上表を覽て大悅し、使に謂ひて曰く、「朕も亦た之を悔ゆ。向ひ王無くば、則ち定州を失せしならん」と。王文操賊に遇ふ。而して二子鳳・賢遂に身を以て蔽ひ捍ぎ、文操全からしむ。二子皆死す。縣司抑へて申さず。元軌察知し、使を遣はして弔祭し、表を上り其事をす。詔して並びに朝散大夫を贈り、旌表を加へしむ。其の禮賢愛善此の如し。後因りて朝に入り、屢疏を上り時政の得失を陳ぶ。匡益する所多し。高宗甚だ之を尊重す。及ひ外籓に在り、朝廷每に大事有れば、或は密制を以て之を問ふ。高宗崩じ、侍中劉齊賢等と山陵の葬事を知る。齊賢其の識練故事に服し、每に人に謂ひて曰く、「我輩の及ぶ所に非ず」と。元軌嘗て國令をして封を征せしむ。令白して曰く、「諸國の賦物貿易に依り利を取るを請ふ」と。元軌曰く、「汝國令と爲り、當に吾が失を正すべし。反つて利を以て吾を說くや」と。拒みて納れず。垂拱元年、位を加へて司徒と爲り、尋で出でて襄州刺史と爲り、青州に轉ず。四年、越王貞と連謀し起兵するに坐し、事覺め、黔州に徙居せしめ、仍りて檻車を以て載するを令す。行きて陳倉に至りて死す。子七人有り。長子緒、最も才藝有り。上元中、江都王に封ぜられ、累ねて金州刺史を除く。重拱中、裴承光と交通するに坐して殺さる。神龍初、元軌と並び追復爵位し、仍りて緒の孫暉を嗣霍王と封ず。景龍四年、銀青光祿大夫を加ふ。開元中、左千牛員外將軍。

原文霍王元軌,高祖第十四子也。少多才藝,高祖甚奇之。武德六年,封蜀王。八年,徙封吳王。貞觀初,太宗嘗問群臣曰:「朕子弟孰賢?」侍中魏徵對曰:「臣愚闇,不盡知其能。唯吳王數與臣言,未嘗不自失。」上曰:「朕亦器之,卿以為前代誰比?」征曰:「經學文雅,亦漢之間、平也。」由是寵遇彌厚,因令娶征女焉。從太宗遊獵,遇群獸,命元軌射之,矢不虛發,太宗撫其背曰:「汝武藝過人,悵今無所施耳。當天下未定,我得汝豈不美乎!」七年,拜壽州刺史,賜實封六百戶。高祖崩,去職,毀瘠過禮,自後常衣布,示有終身之戚焉。每至忌辰,輒數日不食。十年,改封霍王,授絳州刺史,尋轉徐州刺史。元軌前後為刺史,至州,唯閉閣讀書,吏事責成於長史、司馬,謹慎自守,與物無忤,為人不妄。在徐州,唯與處士劉玄平為布衣之交。人或問玄平王之長,玄平答曰:「無長。」問者怪而復問之,玄平曰:「夫人有短,所以見其長。至於霍王,無所不備,吾何以稱之哉?」二十三年,加實封滿千戶,為定州刺史。突厥來寇,元軌令開門偃旗,虜疑有伏,懼而宵遁。州人李嘉運與賊連謀,事洩,高宗令收按其黨。元軌以強寇在境,人心不安,惟殺嘉運,余無所及,因自劾違制。上覽表大悅,謂使曰:「朕亦悔之,向無王,則失定州矣。」有王文操遇賊,而二子鳳、賢遂以身蔽捍,文操獲全,二子皆死。縣司抑而不申,元軌察知,遣使弔祭,表上其事,詔並贈朝散大夫,令加旌表。其禮賢愛善如此。後因入朝,屢上疏陳時政得失,多所匡益,高宗甚尊重之。及在外籓,朝廷每有大事,或密制問焉。高宗崩,與侍中劉齊賢等知山陵葬事,齊賢服其識練故事,每謂人曰:「非我輩所及也。」元軌嘗使國令征封,令白:「請依諸國賦物貿易取利。」元軌曰:「汝為國令,當正吾失,反說吾以利耶!」拒而不納。垂拱元年,加位司徒,尋出為襄州刺史,轉青州。四年,坐與越王貞連謀起兵,事覺,徙居黔州,仍令載以檻車,行至陳倉而死。有子七人。長子緒,最有才藝。上元中,封江都王,累除金州刺史。重拱中,坐與裴承光交通被殺。神龍初,與元軌並追復爵位,仍封緒孫暉為嗣霍王。景龍四年,加銀青光祿大夫。開元中,左千牛員外將軍。

虢王鳳

原文虢王鳳

虢王鳳は、高祖の第十五子である。武徳六年、豳王に封ぜられる。貞観七年、鄧州刺史を授け、實封六百戸を賜ふ。十年、虢王に徙封し、歷ねて虢・豫二州刺史。二十三年、實封を加へて滿千戸と爲る。麟德初、累ねて青州刺史を授く。上元元年薨ず。年五十二。司徒・揚州大都督を贈り、獻陵に陪葬し、謚して莊と曰ふ。子平陽郡王翼嗣ぐ。官光州刺史に至る。永隆二年卒す。子寓嗣ぐ。則天の時爵を失ふ。鳳第三子定襄郡公宏、則天初め曹州刺史と爲る。第五子東莞郡公融、少くより武勇を以て知らる。垂拱中、申州刺史と爲る。初め、黃公譔將に越王貞と通謀せんとし、深く融を倚仗し、以て外助と爲す。時詔して諸親を追ひて都に赴かしむ。融私に使して其の親しむ所の成均助教高子貢に問ひて曰く、「朝に入るべきや否や」と。子貢報へて曰く、「來らば必ず死を取らん」と。融乃ち疾を稱して朝せず、以て諸籓の期を俟つ。及ひ越王貞起兵の書を得るや、倉卒相應ずること能はず。僚吏に逼せられ、已むことを獲ずして之を奏す。是に於て擢で授けて銀青光祿大夫、行太子右贊善大夫と爲す。未だ幾ばくもせず、支黨に引かるる所と爲り、誅せらる。子徹、神龍元年東莞郡公を襲封す。開元五年、密王元曉を繼ぎ、改めて嗣密王と爲す。十二年、改めて濮陽郡王に封ぜられ、歷ねて宗正卿・金紫光祿大夫、卒す。神龍初、鳳の嫡孫邕を嗣虢王と封ず。邕韋庶人の妹を娶りて妻と爲す。是より中宗の時特承寵異せられ、轉じて秘書監、俄に又た改めて汴王に封ぜられ、開府僚屬を置く。月餘にして韋氏敗る。邕刃を揮ひて其の妻の首を截ち、以て朝に至る。深く物議の鄙む所と爲る。沁州刺史に貶ぜられ、州事を知らず、封邑を削る。景雲二年、復た嗣虢王と爲り、還りて二百戸を封ず。累ねて衛尉卿に遷る。開元十五年卒す。子巨嗣ぐ。別に傳有り。

原文虢王鳳,高祖第十五子也。武德六年,封豳王。貞觀七年,授鄧州刺史,賜實封六百戶。十年,徙封虢王,歷虢、豫二州刺史。二十三年,加實封滿千戶。麟德初,累授青州刺史。上元元年薨,年五十二,贈司徒、揚州大都督,陪葬獻陵,謚曰莊。子平陽郡王翼嗣,官至光州刺史。永隆二年卒。子寓嗣,則天時失爵。鳳第三子定襄郡公宏,則天初為曹州刺史。第五子東莞郡公融,少以武勇見知。垂拱中,為申州刺史。初,黃公譔將與越王貞通謀,深倚仗融,以為外助。時詔追諸親赴都,融私使問其所親成均助教高子貢曰:「可入朝以否?」子貢報曰:「來必取死。」融乃稱疾不朝,以俟諸籓期。及得越王貞起兵書,倉卒不能相應,為僚吏所逼,不獲已而奏之,於是擢授銀青光祿大夫,行太子右贊善大夫。未幾,為支黨所引,被誅。子徹,神龍元年襲封東莞郡公。開元五年,繼密王元曉,改為嗣密王。十二年,改封濮陽郡王,歷宗正卿、金紫光祿大夫,卒。神龍初,封鳳嫡孫邕為嗣虢王。邕娶韋庶人妹為妻,由是中宗時特承寵異,轉秘書監,俄又改封汴王,開府置僚屬。月餘而韋氏敗,邕揮刃截其妻首,以至於朝,深為物議所鄙。貶沁州刺史,不知州事,削封邑。景雲二年,復嗣虢王,還封二百戶。累遷衛尉卿。開元十五年卒。子巨嗣,別有傳。

道王元慶

原文道王元慶

道王元慶は、高祖の第十六子である。武徳六年、漢王に封ぜられる。八年、陳王に改封す。貞観九年、趙州刺史を拜し、實封八百戸を賜ふ。十年、道王に改封し、豫州刺史を授く。二十三年、實封を加へて滿千戸と爲る。永徽四年、歷ねて滑州刺史、政績を以て聞こえ、物二百段を賜ふ。後歷ねて徐・沁・衛三州刺史。元慶母に事へること甚だ謹み、及ひ母薨ずるや、又た躬りて墳墓を修むるを請ふ。優詔して許さず。麟德元年薨ず。司徒・益州都督を贈り、獻陵に陪葬し、謚して孝と曰ふ。子臨淮王誘嗣ぐ。官澧州刺史に至る。永淳中、贓に坐して爵を削らる。次子詢、壽州刺史。詢の子微、神龍初、嗣道王と封ぜらる。景龍四年、銀青光祿大夫を加ふ。景雲元年、宗正卿、卒す。子鏈、開元二十五年、嗣道王を襲封す。廣德中、官宗正卿に至る。

原文道王元慶,高祖第十六子也。武德六年,封漢王。八年,改封陳王。貞觀九年,拜趙州刺史,賜實封八百戶。十年,改封道王,授豫州刺史。二十三年,加實封滿千戶。永徽四年,歷滑州刺史,以政績聞,賜物二百段。後歷徐、沁、衛三州刺史。元慶事母甚謹,及母薨,又請躬修墳墓,優詔不許。麟德元年薨,贈司徒、益州都督,陪葬獻陵,謚曰孝。子臨淮王誘嗣,官至澧州刺史。永淳中,坐贓削爵。次子詢,壽州刺史。詢子微,神龍初,封為嗣道王。景龍四年,加銀青光祿大夫。景雲元年,宗正卿,卒。子鏈,開元二十五年,襲封嗣道王。廣德中,官至宗正卿。

鄧王元裕

原文鄧王元裕

鄧王元裕は、高祖の第十七子である。貞観五年、鄶王に封ぜられる。十一年、鄧王に改封し、實封八百戸を賜ひ、歷ねて鄧・梁・黃三州刺史。元裕學を好み、名理を談ずるに善く、典簽盧照鄰と布衣の交はりを爲す。二十三年、實封を加へて通前一千五百戸と爲る。高宗の時、又た歷ねて壽・襄二州刺史・兗州都督。麟德二年薨ず。司徒・益州大都督を贈り、獻陵に陪葬し、謚して康と曰ふ。子無し。弟江王元祥の子廣平公炅を以て嗣がしむ。神龍初、炅の子孝先を嗣鄧王と封ず。開元十三年、右監門衛大將軍・冠軍大將軍、卒す。

原文鄧王元裕,高祖第十七子也。貞觀五年,封鄶王。十一年,改封鄧王,賜實封八百戶,歷鄧、梁、黃三州刺史。元裕好學,善談名理,與典簽盧照鄰為布衣之交。二十三年,加實封通前一千五百戶。高宗時,又歷壽、襄二州刺史、兗州都督。麟德二年薨,贈司徒、益州大都督,陪葬獻陵,謚曰康。無子,以弟江王元祥子廣平公炅嗣。神龍初,封炅子孝先為嗣鄧王。開元十三年,右監門衛大將軍、冠軍大將軍,卒。

舒王元名

原文舒王元名

舒王元名は、高祖の第十八子である。十歳の時、高祖が大安宮におられたが、太宗は朝夕に尚宮を遣わして起居を伺わせ珍饌を送らせた。元名の保傅らが元名に言うには、「尚宮は品秩の高い者である。お目にかかるには拝礼すべきである」と。元名は言った、「これは私の二哥(太宗)の家の婢である。どうして拝する必要があろうか」と。太宗はこれを聞いて壮とし、言った、「これはまことに我が弟である」と。貞観五年、譙王に封ぜられる。十一年、舒王に徙封され、実封八百戸を賜り、寿州刺史に拝された。後に滑・許・鄭の三州刺史を歴任した。二十三年、実封を加えられて満千戸とし、石州刺史に転じた。

原文舒王元名,高祖第十八子也。年十歲時,高祖在大安宮,太宗晨夕使尚宮起居送珍饌,元名保傅等謂元名曰:「尚宮品秩高者,見宜拜之。」元名曰:「此我二哥家婢也,何用拜為?」太宗聞而壯之,曰:「此真我弟也。」貞觀五年,封譙王。十一年,徙封舒王,賜實封八百戶,拜壽州刺史。後歷滑、許、鄭三州刺史。二十三年,加實封滿千戶,轉石州刺史。

元名は性質が高潔で、家人の産業を問うことは稀であり、朝夕に矜荘を保ち、門庭は清粛であった。常にその子の豫章王亶らを戒めて言った、「藩王に欠けるものは、銭財や官職の無いことを慮るのではなく、ただ善事を行い、忠孝をもって身を保つこと、これが我が志である」と。亶が江州刺史となった時、善政をもって聞こえ、高宗は手勅を下して元名を褒賞し、その義方の訓えを賞した。高宗は毎度元名に大州刺史を授けようとしたが、固く辞して言った、「忝くも藩戚に預かる身、どうして州郡の戸口を仕進の資とすることができましょうか」と。辞情が懇到であったので、石州に二十年在任し、林泉を賞玩して、塵外の意があった。垂拱年間、青州刺史を除され、また鄭州刺史を除された。州境は都畿に隣接し、諸王や帝戚が官に蒞む者の中には、家人を検攝せず、百姓に苦しめられる者があった。元名が到着すると、大いにその弊を革めた。滑州刺史に転じ、政理は鄭州に在った時と同じであった。尋ねて司空を加授された。永昌年間、子の亶と共に丘神勣に陥れられ、殺害された。神龍初年、司徒を追贈され、その官爵を復し、なお礼をもって改葬することを命じられた。亶の子の津が嗣舒王となった。景龍四年、銀青光禄大夫を加えられた。開元年中、左威衛将軍となり、卒した。子の万が嗣ぎ、天宝二年に卒した。子の藻が嗣ぎ、天宝九載、嗣舒王に封ぜられた。

原文元名性高潔,罕問家人產業,朝夕矜莊,門庭清肅,常誡其子豫章王亶等曰:「籓王所乏者,不慮無錢財官職,但勉行善事,忠孝持身,此吾志也。」及亶為江州刺史,以善政聞,高宗手敕褒美元名,以賞其義方之訓。高宗每欲授元名大州刺史,固辭曰:「忝預籓戚,豈以州郡戶口為仕進之資?」辭情懇到,故在石州二十年,賞玩林泉,有塵外之意。垂拱年,除青州刺史,又除鄭州刺史。州境鄰接都畿,諸王及帝戚蒞官者,或有不檢攝家人,為百姓所苦。及元名到,大革其弊。轉滑州刺史,政理如在鄭州。尋加授司空。永昌年,與子亶俱為丘神勣所陷,被殺。神龍初,贈司徒,復其官爵,仍令以禮改葬。亶子津為嗣舒王。景龍四年,加銀青光祿大夫。開元中,左威衛將軍,卒。子萬嗣,天寶二年卒。子藻嗣,天寶九載,封嗣舒王。

魯王霊夔

原文魯王靈夔

魯王霊夔は、高祖の第十九子である。少時より美誉があり、音律を善くし、学を好み、草隷に巧みで、同母兄の韓王元嘉と特に相友愛した。貞観五年、魏王に封ぜられる。十年、燕王に改封され、実封八百戸を賜り、幽州都督を授けられた。十四年、魯王に改封され、兗州都督を授けられた。二十三年、実封を加えられて満千戸とした。永徽六年、隆州刺史に転じ、後に絳・滑・定等州刺史、太子太師を歴任した。垂拱元年、邢州刺史を授けられた。四年、兄の元嘉の子の黄公譔と謀を結び、兵を起こして越王貞父子に応接しようとしたが、事が洩れ、振州に配流され、自縊して死んだ。二子あり。長子は銑、清河王に封ぜられた。次子は藹、范陽王に封ぜられ、右散騎常侍を歴任し、酷吏に陥れられた。神龍初年、霊夔の官爵を追復し、なお礼をもって改葬することを命じた。藹の子の道堅を嗣魯王に封じた。性質は厳整で、閨門の中に在っても、造次には必ず荘敬を旨とした。少年にして郡を佐け、声実既に顕れた。景龍四年、銀青光禄大夫を加えられ、果・隴・吉・冀・洺・汾・滄等の七州刺史、国子祭酒を歴任した。開元二十二年、兼検校魏州刺史となり、未だ行かず、汴州刺史・河南道採訪使に改められた。この州は都会で、水陸輻湊し、実に膏腴の地と言われたが、道堅は特に清毅をもって聞こえた。入って宗正卿となり、卒した。子の宇が嗣ぎ、二十九年、嗣魯王に封ぜられた。至徳元年、幸に従って巴蜀はしょくに至り、右金吾将軍となった。宝応元年、皇太子が魯王に封ぜられたため、宇を改めて鄒王を嗣がせた。道堅の弟の道邃は、中興の初め、戴国公に封ぜられた。恭黙をもって自ら守り、山東婚姻の故事を修め、頻りに清列の任に就いた。天宝年中、右丞、大理・宗正の二卿となり、卒した。

原文魯王靈夔,高祖第十九子也。少有美譽,善音律,好學,工草隸,與同母兄韓王元嘉特相友愛。貞觀五年,封魏王。十年,改封燕王,賜實封八百戶,授幽州都督。十四年,改封魯王,授兗州都督。二十三年,加實封滿千戶。永徽六年,轉隆州刺史,後歷絳、滑、定等州刺史,太子太師。垂拱元年,授邢州刺史。四年,與兄元嘉子黃公譔結謀,欲起兵應接越王貞父子,事洩,配流振州,自縊而死。有二子:長子銑,封清河王。次子藹,封范陽王,歷右散騎常侍,為酷吏所陷。神龍初,追復靈夔官爵,仍令以禮改葬。封藹子道堅為嗣魯王。性嚴整,雖在閨門,造次必於莊敬。少年佐郡,聲實已彰。景龍四年,加銀青光祿大夫,歷果、隴、吉、冀、洺、汾、滄等七州刺史,國子祭酒。開元二十二年,兼檢校魏州刺史,未行,改汴州刺史、河南道採訪使。此州都會,水陸輻湊,實曰膏腴,道堅特以清毅聞。入為宗正卿,卒。子宇嗣,二十九年,封嗣魯王。至德元年,從幸巴蜀,為右金吾將軍。寶應元年,皇太子封為魯王,改宇嗣鄒王。道堅弟道邃,中興初,封戴國公。以恭默自守,修山東婚姻故事,頻任清列。天寶中為右丞,大理、宗正二卿,卒。

江王元祥

原文江王元祥

江王元祥は、高祖の第二十子である。貞観五年、許王に封ぜられる。十一年、江王に徙封され、蘇州刺史を授けられ、実封八百戸を賜った。二十三年、実封を加えられて満千戸とした。高宗の時、また金・鄜・鄭の三州刺史を歴任した。性質は貪鄙で、多く金宝を聚め、営求に厭きず、人吏に患いとされた。時に滕王元嬰・蒋王惲・虢王鳳もまた貪暴と称され、その府官に授けられた者があり、これを嶺南の悪処に比して、これがために語って言うには、「儋・崖・振・白に向かうとも、江・滕・蒋・虢に事えじ」と。元祥は体質が洪大で、腰帯十圍、飲啖もまた数人分を兼ね、その時韓王元嘉・虢王鳳・魏王恭も状貌が偉であったが、元祥には及ばなかった。また一目を眇としていた。永隆元年に薨じ、司徒・并州大都督を追贈され、献陵に陪葬され、諡して安といった。子の永嘉王晫は、永隆年中、復州刺史となった。禽獣の行い有るを以て、家に賜死された。中興初年、元祥の子の鉅鹿郡公晃の子の欽が江王を嗣いだ。景龍四年、銀青光禄大夫を加えられ、王仁皎の女を娶り、千牛将軍に至り、卒した。

原文江王元祥,高祖第二十子也。貞觀五年,封許王。十一年,徙封江王,授蘇州刺史,賜實封八百戶。二十三年,加實封滿千戶。高宗時,又歷金、鄜、鄭三州刺史。性貪鄙,多聚金寶,營求無厭,為人吏所患。時滕王元嬰、蔣王惲、虢王鳳亦稱貪暴,有授得其府官者,以比嶺南惡處,為之語曰:「寧向儋、崖、振、白,不事江、滕、蔣、虢。」元祥體質洪大,腰帶十圍,飲啖亦兼數人,其時韓王元嘉、虢王鳳、魏王恭狀貌亦偉,不逮於元祥。又眇一目。永隆元年薨,贈司徒、并州大都督,陪葬獻陵,謚曰安。子永嘉王晫,永隆中,為復州刺史。以禽獸其行,賜死於家。中興初,元祥子鉅鹿郡公晃子欽嗣江王。景龍四年,加銀青光祿大夫,娶王仁皎女,至千牛將軍,卒。

密王元暁

原文密王元曉

密王元暁は、高祖の第二十一子である。貞観五年に封を受けた。九年、虢州刺史を授けられた。十四年、実封八百戸を賜った。二十三年、満千戸に加えられ、沢州刺史に転じた。永徽四年、宣州刺史を除され、後に徐州刺史を歴任した。上元三年に薨じ、司徒・揚州都督を追贈され、献陵に陪葬され、諡して貞といった。子の南安王穎が嗣いだ。神龍初年、穎の弟の亮の子の曇を嗣密王に封じた。

原文密王元曉,高祖第二十一子也。貞觀五年受封。九年,授虢州刺史。十四年,賜實封八百戶。二十三年,加滿千戶,轉澤州刺史。永徽四年,除宣州刺史,後歷徐州刺史。上元三年薨,贈司徒、揚州都督,陪葬獻陵,謚曰貞。子南安王穎嗣。神龍初,封穎弟亮子曇為嗣密王。

滕王元嬰

原文滕王元嬰

滕王元嬰は、高祖の第二十二子である。貞観十三年に封を受け、十五年、実封八百戸を賜り、金州刺史に任ぜられた。二十三年、実封を加えて満千戸となった。永徽年中、元嬰は甚だ驕り放縦で遊楽にふけり、動作に節度を失った。高宗は書を賜ってこれを戒めて曰く、「王は地は宗枝に在り、磐石に寄せること深く、幼くより『詩』『礼』を聞き、夙に義訓を承けたり。実に孜孜として怠ることなく、漸く以て徳を成すことを冀うに、豈に軌轍に遵わず、典章を踰越せんとは謂わんや。且つ城池は固く作して、不虞に備え、関鑰の閉開は、須らく常の准有るべし。散楽を鳩合し、並びに府僚を集め、厳関夜開、復た一度に非ず。遏密の悲しみ、尚ほ比屋に纏うに、王此の情事を以てす、何ぞ遽に紛紜たる。又百姓を巡省するは、本より風を観て俗を問うに在り、遂に乃ち老幼を駆率し、狗を借りて置を求め、禽に従うの娛を志し、黎元の重きを忽せり。時方に農要なるに、屡に畋游に出で、以て弾を以て人を弾じ、将に笑楽と為さんとす。適を取るの方、亦応に多緒有るべく、何ぞ必ずしも此の事を以て、方に娛と為すを得ん。晋霊の虐主は、未だ則を取るべからず。趙孝文は趨走の小人、張四は又倡優の賤隸、王親しく博戯を為し、極めて軽脱、一府の官僚、何をか瞻望せん。凝寒方に甚だしきに、雪を以て人を埋め、物を虐ること既に深し、何を以てか楽と為さん。家人奴僕、官人を侮弄し、此の事に至りては、弥に長ずべからず。朕は王を骨肉の至親と為すも、王を法に致すこと能わず、王と上下の考を下し、以て王の心を愧じしむ。人の過有るは、貴ぶ能く改むるに在り、国に憲章有り、私恩再び難し。言を興して此に及べば、慚嘆懐に盈つ」と。三年、蘇州刺史に遷り、尋いで洪州都督に転ず。又数たび憲章を犯し、邑戸及び親事帳内の半ばを削り、滁州に安置す。後に起用して寿州刺史を授け、隆州刺史に転ず。弘道元年、開府儀同三司を加え、梁州都督を兼ぬ。文明元年に薨じ、司徒・冀州都督を贈られ、献陵に陪葬す。子の長楽王循琦が嗣ぐ。兄弟六人、垂拱年中並びに詔獄に陥る。神龍初め、循琦の弟循琣の子の涉を以て滕王に嗣がしむ。本名は茂宗、状貌胡に類して豊碩なり。開元十二年、銀青光禄大夫・左驍衛将軍を加う。天宝初め、淮安郡別駕、卒す。子の湛然が嗣ぐ。十一載、滕王に封ぜらる。十五載、幸蜀に従い、左金吾将軍を除く。

原文滕王元嬰,高祖第二十二子也。貞觀十三年受封。十五年,賜實封八百戶,授金州刺史。二十三年,加實封滿千戶。永徽中,元嬰頗驕縱逸游,動作失度,高宗與書誡之曰:「王地在宗枝,寄深磐石,幼聞《詩》、《禮》,夙承義訓。實冀孜孜無怠,漸以成德,豈謂不遵軌轍,踰越典章。且城池作固,以備不虞,關鑰閉開,須有常准。鳩合散樂,並集府僚,嚴關夜開,非復一度。遏密之悲,尚纏比屋,王以此情事,何遽紛紜?又巡省百姓,本觀風問俗,遂乃驅率老幼,借狗求置,志從禽之娛,忽黎元之重。時方農要,屢出畋游,以彈彈人,將為笑樂。取適之方,亦應多緒,何必此事,方得為娛?晉靈虐主,未可取則。趙孝文趨走小人,張四又倡優賤隸,王親與博戲,極為輕脫,一府官僚,何所瞻望?凝寒方甚,以雪埋人,虐物既深,何以為樂?家人奴僕,侮弄官人,至於此事,彌不可長。朕以王骨肉至親,不能致王於法,令與王下上考,以愧王心。人之有過,貴在能改,國有憲章,私恩難再。興言及此,慚嘆盈懷。」三年,遷蘇州刺史,尋轉洪州都督。又數犯憲章,削邑戶及親事帳內之半,於滁州安置。後起授壽州刺史,轉隆州刺史。弘道元年,加開府儀同三司,兼梁州都督。文明元年薨,贈司徒、冀州都督,陪葬獻陵。子長樂王循琦嗣。兄弟六人,垂拱中並陷詔獄。神龍初,以循琦弟循琣子涉嗣滕王,本名茂宗,狀貌類胡而豐碩。開元十二年,加銀青光祿大夫,左驍衛將軍。天寶初,淮安郡別駕,卒。子湛然嗣。十一載,封滕王。十五載,從幸蜀,除左金吾將軍。

評論

原文評論

史臣曰く、一人元良にして、万国以て貞し。若し明異にして重離、道は出震に非ずんば、嫡長に居ると雖も、寧くんぞ其の鎡を固くせんや!況んや開創の初めに当たり、太平の兆を見ざるに於てをや。建成は残忍、豈に主鬯の才あらんや。元吉は凶狂、覆巣の跡有り。若し太宗の逆を取り順に守るに非ずんば、徳を積み功を累ね、何を以てか三百年の延洪・二十帝の纂嗣を致さん。或いは小節を堅持して、必ず大猷を虧かんとし、秦の二世・隋の煬帝に比せんと欲すれば、亦及ばざるなり。元嘉は身を修め、元軌は短無く、元裕は名理、元名は高潔、霊夔は厳整、皆封冊の名有りて、磐石の固き無し。武氏の乱に、或いは連頸して刑せられ、奸臣権を擅にすれば、則ち束手して制せらる。其の本枝百世を望むや、亦た難からずや。

原文史臣曰:一人元良,萬國以貞。若明異重離,道非出震,雖居嫡長,寧固钅其鎡!況當開創之初,未見太平之兆。建成殘忍,豈主鬯之才;元吉凶狂,有覆巢之跡。若非太宗逆取順守,積德累功,何以致三百年之延洪、二十帝之纂嗣?或堅持小節,必虧大猷,欲比秦二世、隋煬帝,亦不及矣。元嘉修身,元軌無短,元裕名理,元名高潔,靈夔嚴整,皆有封冊之名,而無磐石之固。武氏之亂,或連頸被刑;奸臣擅權,則束手為制。其望本枝百世也,不亦難乎?

贊して曰く、功有るを祖と曰い、徳有るを宗と曰う。建成・元吉、実に二凶と為る。中外交構し、人神容れず。晦を用いて明らかにし、殷憂聖を啓く。運文皇に属し、功成りて正を守る。善悪既に分かれ、社稷乃ち定まる。盤維封建し、本枝茂盛なり。元嘉・元軌、身を修め行いを慎む。元裕・元名、行い簡にして居り正し。犬牙固からず、武氏姓を易う。既に兵民無く、陷阱に拘わるるが若し。敢えて後人に告ぐ、或いは政を失うこと無かれ。

原文贊曰:有功曰祖,有德曰宗。建成、元吉,實為二凶。中外交構,人神不容。用晦而明,殷憂啟聖。運屬文皇,功成守正。善惡既分,社稷乃定。盤維封建,本枝茂盛。元嘉、元軌,修身慎行。元裕、元名,行簡居正。犬牙不固,武氏易姓。既無兵民,若拘陷阱。敢告後人,無或失政。