旧唐書
巻六十四 列伝第十四 高祖二十二子
高祖に二十二男あり。太穆皇后は隠太子建成及び太宗、衛王玄覇、巣王元吉を生む。万貴妃は楚王智雲を生む。尹徳妃は酆王元亨を生む。莫嬪は荊王元景を生む。孫嬪は漢王元昌を生む。宇文昭儀は韓王元嘉、魯王霊夔を生む。崔嬪は鄧王元裕を生む。楊嬪は江王元祥を生む。小楊嬪は舒王元名を生む。郭婕妤は徐王元礼を生む。劉婕妤は道王元慶を生む。楊美人は虢王鳳を生む。張美人は霍王元軌を生む。張宝林は鄭王元懿を生む。柳宝林は滕王元嬰を生む。王才人は彭王元則を生む。魯才人は密王元暁を生む。張氏は周王元方を生む。
隠太子建成
隠太子建成は、高祖の長子なり。大業末、高祖は賊を汾・晋に捕らえ、建成は家族を携えて河東に寄寓す。義旗初めて建つや、使者を遣わし密かにこれを召し、建成は巣王元吉と間行して太原に赴く。建成至るや、高祖大いに喜び、左領軍大都督に拝し、隴西郡公に封ず。兵を引き西河郡を略し、長安平定に従う。義寧元年冬、隋の恭帝は唐国世子に拝し、開府し、僚属を置く。二年、撫軍大将軍・東討元帥を授け、兵十万を将いて洛陽を徇る。還るに及び、恭帝は尚書令を授く。武徳元年、皇太子に立てらる。二年、司竹の群盗祝山海は衆一千あり、自ら護郷公と称す。詔して建成に将軍桑顕和を率いて進撃し山海を平げしむ。時に涼州人安興貴は賊帥李軌を殺し、衆を以て来降す。建成をして原州に往きてこれに応接せしむ。時に甚だ暑く、馳猟度なく、士卒その労に堪えず、逃ぐる者過半なり。高祖はその政術に習わざるを憂い、毎に時事を習わしめ、軍国の大務に非ざれば、悉くこれを委ねて決せしむ。また礼部尚書李綱・民部尚書鄭善果を遣わし、倶に宮官と為し、参謀議せしむ。四年、稽胡の酋帥劉仚成は部落数万人を擁して辺害と為る。また詔して建成に師を率いてこれを討たしむ。軍鄜州に次ぐ。仚成軍と遇い、撃ちて大いにこれを破り、数百級を斬首し、千余人を虜獲す。建成は詐を設けてその渠帥数十人を放ち、並びに官爵を授け、本所に還りて群胡を招慰せしむ。仚成と胡中の大帥もまた降を請う。建成は胡兵なお衆多なるを以て、変有らんことを恐れ、尽くこれを殺さんとす。乃ち州県を増置すと揚言し、城邑を須うるありて、悉く群胡に板築の具を執らしめ、会して城を築く所に至り、陰に兵士を勒し、皆これを執る。仚成変有るを聞き、梁師都に奔る。竟に降胡六千余人を誅す。時に太宗の功業日盛んにして、高祖は私かに立って太子と為すを許す。建成密かにこれを知り、乃ち斉王元吉と潜かに謀りて乱を作らんとす。劉黒闥重ねて反すに及び、王珪・魏徴、建成に謂いて曰く、「殿下ただ地嫡長に居り、爰に元良を践むも、功績既に称すべきなく、仁声また未だ遠く布かず。而るに秦王の勲業克く隆んじ、威四海に震い、人心の向かう所、殿下何を以てか自ら安んぜん。今黒闥は破亡の余を率い、衆一万に盈たず、糧運限絶するを加え、瘡痍未だ瘳えず。若し大軍一たび臨まば、戦わずして擒にすべし。願わくはこれを討つことを請い、且つ功を立て、深く自ら封植し、因りて山東の英俊を結ばん」と。建成その計に従い、遂に劉黒闥を討つことを請い、これを擒にして還る。
時に高祖晩生の諸王、諸母椒房に寵を擅にし、親戚並びに宮府に分事し、競いて恩恵を求む。太宗は毎に戎律を総べ、惟だ才賢を撫接するを務めと為し、妃嬪に参請するに至っては、素より行わざる所なり。初め洛陽を平ぐるや、高祖は貴妃等を遣わし馳せ往きて東都の宮人及び府庫の珍物を選閲せしむ。因りて私に求索し、兼ねて親族の為に官を請う。太宗は財簿先に已に封奏し、官爵皆功有るに酬うを以て、並びに允さず。ここに因りて恨みを銜むこと弥切なり。時に太宗は陝東道行台と為り、詔して管内に於いて専ら処分するを得しむ。淮安王神通功有り、太宗乃ち田数十頃を与う。後婕妤張氏の父、婕妤をして私に奏してその地を乞わしむ。高祖手詔して賜う。神通は教給前にあるを以て、遂に与えず。婕妤矯りて奏して曰く、「勅妾の父に地を賜う。秦王これを奪いて神通に与う」と。高祖大いに怒り、袂を攘げて太宗を責めて曰く、「我が詔勅行わず、爾の教命、州県即ち受く」と。他日、高祖太宗の小名を呼びて裴寂等に謂いて曰く、「此の児兵を典くこと既に久しく、外に専制し、読書漢に教えられ、我が昔日の子に非ず」と。また徳妃の父尹阿鼠の為す所横恣なり。秦王府の属杜如晦その門を行き経る。阿鼠の家僮数人如晦を牽きて馬より墜ち毆撃す。罵して云く、「汝は何人ぞ、敢えて我が門を経て馬を下らずや」と。阿鼠或いは上聞かんことを慮り、乃ち徳妃をして奏言せしむ、「秦王の左右凶暴にして、妾が父を凌轢す」と。高祖また怒りて太宗に謂いて曰く、「爾の左右、我が妃嬪の家を欺くこと一に此くの如し、況んや凡人百姓をや」と。太宗深く自ら弁明すも、卒に納れられず。妃嬪等因りて奏言して曰く、「至尊万歳の後、秦王志を得ば、母子定めて孑遺無からん」と。因りて悲泣哽咽す。また云く、「東宮慈厚にして、必ず能く妾母子を養育せん」と。高祖惻愴すること久し。ここより太宗に対する恩礼漸く薄く、廃立の心も亦此を以て定まり、建成・元吉転た恩寵を蒙る。
武徳初年より、高祖は太宗に西宮の承乾殿に居まわらせ、元吉に武徳殿の後院に居まわらせ、上台・東宮と昼夜を通じて往来し、隔てる限界はなかった。皇太子及び二王が上台に出入りする際は、皆馬に乗り弓刀などの雑用の物を携え、出会えば家人の礼の如くであった。これにより皇太子の令及び秦・斉二王の教と詔勅が並行し、百姓は惶惑し、何を基準とすべきか知らなかった。建成・元吉はまた外に小人と結び、内に寵幸の者と連なり、高祖の寵愛する張婕妤・尹徳妃は皆彼らと淫乱の関係にあった。さらに諸公主及び六宮の親戚と共に驕り恣に振る舞い、田宅を併せ持ち、犬馬を侵奪した。同悪相済して、聡明を掩蔽し、己が志を行い、ただ甘言諛辞をもって顔色を承候するのみであった。建成はかくて四方の驍勇を私に召し、また長安の悪少年二千余人を募り、宮甲として蓄え、左・右長林門に分屯させ、長林兵と号した。高祖が仁智宮に行幸した際、建成を留めて居守とさせたが、建成は先に慶州総管楊文幹に健児を募って京師に送らせ、以て変を為さんと欲した。また郎将爾朱煥・校尉橋公山を遣わし甲を齎して文幹に賜り、兵を起こして相応接せしめんと令した。公山・煥らは豳郷に行き至り、罪を懼れて馳せてその事を告げた。高祖は他事に託し、手詔を以て建成を行在所に追い詣でしめた。既に至ると、高祖は大いに怒り、建成は頭を叩いて謝罪し、奮身して自ら地に投じ、幾ばくか絶するに至った。その夜、幕中に置き、殿中監陳万福に防禦せしめたが、文幹は遂に兵を挙げて反した。高祖は馳せて使者を遣わし太宗を召してこれを謀らしめた。太宗曰く、「文幹は小豎にして狂悖、州府に兵を起こせば、官司已に応じて擒剿すべし。仮にその息を仮る時刻あれども、ただ一将を遣わすのみを須う。」高祖曰く、「文幹の事は建成に連なり、応ずる者衆きを恐る。汝宜しく自ら行くべし。還りて、汝を立てて太子と為さん。吾は隋文帝の如く骨肉を誅殺するに效えず、建成を廃して蜀王に封じ、地は既に僻小にして制し易し。若し汝に事えざれば、また取るに易きのみ。」太宗既に行くや、元吉及び四妃は更に建成のために内に請い、封倫はまた外に遊説を為し、高祖の意は便ち頓に改まり、遂に行わずに寝し、復た建成を還して京に居守せしめた。ただ兄弟相容れざるを責め、中允王珪・左衛率韋挺及び天策兵曹杜淹等に罪を帰し、並びに巂州に流した。後にまた元吉と謀りて鴆毒を行い、太宗を引き入れて宮中で夜宴を開き、既にして太宗は心中暴痛し、吐血数升、淮安王神通狼狽して扶けて西宮に還った。高祖は第に行幸して疾を問い、因りて建成に勅して曰く、「秦王は素より飲む能わず、更に夜聚する勿れ。」乃ち太宗に謂いて曰く、「晋陽に発跡するは、本より汝の計なり;宇内を克平するは、是れ汝の大功なり。儲位を升さんと欲すれども、汝固より譲りて受けず、以て汝の美志を成す。建成自ら東宮に居り、多年所を歴る。今復たこれを奪うに忍びず。汝兄弟の不和なるを観るに、京邑に同じく在れば、必ず忿競有らん。汝は還って行台に居り、洛陽に在り、陝より以東は、悉く宜しくこれを主とすべし。仍って汝に天子の旌旗を建てしめ、梁孝王の故事の如くせん。」太宗は泣いて奏して曰く、「今日の授くるは、実に願う所に非ず、膝下を遠く離るる能わず。」言い訖りて嗚咽し、悲しみ自ら勝えず。高祖曰く、「昔、陸賈漢臣にして、尚お遞過の事有り。況んや吾四方の主、天下を家と為すにおいてをや。東西両宮、途路咫尺、汝を憶えば即ち往く、悲しむに労する無かれ。」将に行かんとするに及び、建成・元吉相与に謀って曰く、「秦王今洛陽に往く、既に土地甲兵を得れば、必ず後患と為らん。京師に留め置けば、これを制するは一匹夫のみ。」密かに数人をして封事を上らしめて曰く、「秦王の左右は多くは東人なり、洛陽に往くを聞き、非常なる欣躍有り。その情状を観るに、今より一たび去れば、来るの意を為さざらん。」高祖はここに於いて遂に停めた。この後、日夜陰に元吉と連結して後宮に譖訴すること愈切にして、高祖これを惑わした。太宗は懼れ、為す所を知らず。李靖・李勣等数言して曰く、「大王は功高きを以て疑われ、靖等請う犬馬の力を申さん。」封倫もまた潜かに太宗を勧めてこれを図らしめたが、並びに許さず。倫は反って高祖に言って曰く、「秦王は大勲を恃み、太子の下に居るに服せず。若しこれを立たずんば、願わくは早くその所を為さん。」また建成を説いて乱を起こさせんと曰く、「四海を為す者は、その親を顧みず。漢高の羹を乞う、これを謂う。」
九年、突厥辺境を犯す。詔して元吉に師を率いてこれを拒がしむ。元吉は兵の集まるに因り、将に建成と期を剋して事を挙げんとす。長孫無忌・房玄齢・杜如晦・尉遅敬徳・侯君集等日夜固く争って曰く、「事急なり!若し権道を行わずんば、社稷必ず危うし。周公聖人、豈に骨肉に情無からんや?社稷を存するが為に、大義親を滅す。今大王機に臨みて断ぜず、坐して屠戮を受くれば、義に於いて何か成さん?若し見聴せられずんば、無忌等将に身を草沢に竄し、王の左右に居ることを得ざらん。」太宗その計を然りとす。六月三日、密かに建成・元吉の後宮に淫乱するを奏し、因りて自ら陳して曰く、「臣兄弟に於いて毫釐も負う所無し。今臣を殺さんと欲するは、世充・建德の為に仇を報ずるが如し。臣今枉しく死し、永く君親に違い、魂地下に帰り、実にまた諸賊を見るを恥ず。」高祖これを省みて愕然とし、報じて曰く、「明日当に勘問すべし、汝宜しく早く参れ。」四日、太宗左右九人を将いて玄武門に至り自衛す。高祖已に裴寂・蕭瑀・陳叔達・封倫・宇文士及・竇誕・顔師古等を召し、その事を窮覆せしめんと欲す。建成・元吉行きて臨湖殿に至り、変を覚え、即ち馬を回し、将に東に帰り宮府に赴かんとす。太宗随いてこれを呼ぶ。元吉馬上に弓を張るも、再三彀わず。太宗乃ちこれを射る。建成弦に応じて斃る。元吉流矢に中りて走る。尉遅敬徳これを殺す。俄かに東宮及び斉府の精兵二千人陣を結び馳せて玄武門を攻む。守門の兵仗これを拒ぎ、入るを得ず。良久しく接戦し、流矢内殿に及ぶ。太宗の左右数百騎来りて難に赴く。建成等の兵遂に敗散す。高祖大いに驚き、裴寂等に謂いて曰く、「今日の事如何?」蕭瑀・陳叔達進みて曰く、「臣聞く、内外限無く、父子親ならず、断つべくして断たざれば、反ってその乱を受く。建成・元吉は、義旗草創の際、並びに預謀せず;建立已来、また功徳無く、常に自ら憂いを懐き、相済いて悪を為し、釁蕭牆に起こり、遂に今日の事有り。秦王の功天下を蓋い、率土心に帰す。若し元良に処し、国務に委ねば、陛下重負を釈するが如く、蒼生自然に乂安せん。」高祖曰く、「善し!これまた吾が夙志なり。」乃ち命じて太宗を召しこれを撫でて曰く、「近日已来、幾ばくか投杼の惑い有り。」太宗哀号すること久し。建成死する時年三十八。長子太原王承宗早く卒す。次子安陸王承道・河東王承徳・武安王承訓・汝南王承明・鉅鹿王承義並びに坐して誅さる。太宗即位し、建成を追封して息王と為し、謚して隠と曰い、礼を以て改葬す。葬日の日、太宗宜秋門に於いてこれを哭すること甚だ哀しみ、仍って皇子趙王福を以て建成の嗣と為す。十六年五月、また皇太子を追贈し、謚は仍って旧に依る。
衛王玄霸
衛王玄覇は、高祖の第三子である。早くに薨去し子がなかった。武徳元年、衛王を追贈し、諡して懐といった。四年、太宗の子泰を宜都王に封じてその祭祀を奉らせ、礼を以て改葬し、太子以下が城外まで送った。泰は後に越に転封され、また宗室の西平王瓊の子保定を嗣ぎとした。貞観五年に薨じ、子がなく、国は除かれた。
巣王元吉
巣王元吉は、高祖の第四子である。義師が起こると、太原郡守を授けられ、姑臧郡公に封ぜられた。まもなく斉国公に進封され、十五郡諸軍事・鎮北大将軍を授けられ、太原に留まって鎮守し、便宜行事を許された。武徳元年、王爵に進み、并州総管を授けられた。二年、劉武周が南侵して汾・晋を侵すと、詔して右衛将軍宇文歆を遣わして元吉を助け并州を守らせた。元吉は性質として狩猟を好み、網罟三十余両を載せ、かつて「我は寧ろ三日食わずとも、一日狩りをせずにはいられぬ」と言い、またその左右に百姓を掠奪させた。歆は頻りに諫めたが受け入れられず、乃ち上表して言うには、「王が州に在る日、多く微行に出で、常に竇誕と共に遊猟し、穀稼を蹂躙し、親暱を放縦し、公然と掠奪を行い、境内の六畜、これにより殆ど尽きる。大路に向かって射ち、人の矢を避けるのを見て笑楽と為す。左右を分かち遣わし、戯れに攻戦と為し、互いに撃刺し毀傷して死に至らしむ。夜に府門を開き、他室で淫行を宣べる。百姓は怨毒し、各々憤嘆を懐く。此を以て城を守らば、安んぞ自ら保つことができようか」と。元吉は遂に坐して免ぜられた。また父老を唆して闕に詣でてこれを請わせ、まもなく復職を命ぜられた。時に劉武周が五千騎を率いて黄蛇嶺に至ると、元吉は車騎将軍張達に歩卒百人を以て先ずこれを試みさせた。達は歩卒が少ないことを以て、固く行かぬよう請うた。元吉は強いてこれを遣わし、至れば則ち尽く賊に没した。達は憤怒し、因って武周を引きいて楡次を攻め陥れ、并州に進んで逼った。元吉は大いに懼れ、その司馬劉徳威に欺いて言うには、「卿は老弱を以て城を守れ、我は強兵を以て出戦する」と。因って夜に出兵し、その妻妾を携えて軍を棄てて京師に奔還し、并州は遂に陥落した。高祖は甚だ怒り、礼部尚書李綱に謂って言うには、「元吉は幼少にして、時事に習わず、故に竇誕・宇文歆を遣わしてこれを輔けしめた。強兵数万、食糧十年分、起義興運の基、一朝にして棄つ。宇文歆が首にこの計を画した、我はこれを斬らん」と。綱は言うには、「歆のおかげで陛下は愛子を失わず、臣は功有りと為す」と。高祖がその故を問うと、綱は封じて言うには、「罪は竇誕が規諫せず、軍人をして怨憤せしめたことによる。また斉王は年少にして、驕逸を肆に行い、左右を放縦し、百姓を侵漁した。誕は曾て諫止せず、却って随順して掩い隠し、以てその釁を成せしめた、これ誕の罪である。宇文歆は情を論ずれば則ち疎く、彼に向かってはまた浅く、王の過失、悉く以て聞き奏す。且つ父子の際、人の言い難きところ、而るに歆はこれを言う、豈に忠懇ならざらんや。今罪を誅せんと欲し、その心を録さず、臣愚かしく窃に過ちと為す」と。翌日、高祖は綱を召し入れて、御座に昇らせ、謂って言うには、「今我に公有り、遂に刑罰を濫らさしめず。元吉自ら悪を為し、人に怨みを結ぶ。歆は既に表を以て聞かせ、誕もまた焉んぞ禁制できようか。皆その罪に非ず」と。まもなく元吉に侍中・襄州道行台尚書令・稷州刺史を加授した。四年、太宗が竇建徳を征すると、元吉を留めて屈突通と共に王世充を東都に囲ませた。世充が出兵して拒戦すると、元吉は伏兵を設けてこれを撃ち破り、首級八百を斬り、その大将楽仁昉・甲士千余人を生擒した。世充が平定されると、司空に拝され、余官は元の如く、袞冕の服・前後部鼓吹楽二部・班剣二十人・黄金二千斤を加賜され、太宗と各々三炉の銭を鋳ることを聴されて自給した。六年、隰州総管を加授された。及び建成と連謀し、各々壮士を募り、多く罪人を匿った。また内に宮掖と結び、互いに称誉を加え、また厚く中書令封倫に賂して以て党助と為した。これにより高祖は頗る太宗を疎んじて元吉を愛することを加えた。太宗が嘗て高祖に従ってその第に幸すると、元吉はその護軍宇文宝を寝室内に伏せ、以て太宗を刺さんとした。建成は事が果たさずと恐れてこれを止め、元吉は慍って言うには、「兄の為に計るのみ、我に何の害かあらん」と。九年、左衛大将軍に転じ、まもなく司徒・兼侍中に進位し、并州大都督・隰州都督・稷州刺史は並びに元の如く。
高祖が太和宮に避暑せんとし、二王は従うべきであったが、元吉は建成に謂って言うには、「宮所に至るを待ち、当に精兵を興してこれを襲い取らん。土窟の中に置き、唯だ一孔を開いて以て飲食を通ぜしめん」と。会うところ突厥の郁射設が軍を河南に屯し、烏城を囲んで入った。建成は乃ち元吉を薦めて太宗に代わって軍を督し北討させ、仍って秦府の驍将秦叔宝・尉遅敬徳・程知節・段志玄等を並びに同行せしめた。また秦府の兵帳を追い、驍勇を簡閲し、将に太宗の兵を奪って以てその府を益さんとした。また杜如晦・房玄齢を譖し、遂に帰第せしめた。高祖はその謀を知りながら制しなかった。元吉は因って密かに太宗を害することを請うと、高祖は言うには、「是には四海を定むるの功有り、罪跡未だ見えず、一旦殺さんと欲する、何を以て辞と為さん」と。元吉は言うには、「秦王は常に詔勅に違い、初め東都を平らげし日、偃蹇して顧望し、急ぎ還京せず、銭帛を分散し、以て私恵を樹つ。違戾此の如し、豈に反逆に非ずや。但だ速やかに殺すを須う、何ぞ辞無きを患えん」と。高祖は答えず、元吉は遂に退いた。建成は元吉に謂って言うには、「既に秦王の精兵を得、数万の衆を統べ、我と秦王と昆明池に至り、彼に於いて宴別し、壮士に令してこれを幕下に拉ぎ殺させ、因って暴卒と云わしめば、主上は諒や信ぜざるは無からん。我当に人をして進説せしめ、令して我に国務を付せしめん。正位已後、汝を以て太弟と為さん。敬徳等既に汝の手に入れば、一時にこれを坑い、孰か敢えて服さざらん」と。率更丞王晊その謀を聞き、密かに太宗に告げた。太宗は府僚を召して以てこれを告げると、皆言うには、「大王若し正しく断ぜずんば、社稷は唐の所有に非ず。若し建成・元吉にその毒心を肆にせしめ、群小志を得ば、元吉は狼戾にして、終にはまたその兄に事えざらん。往者護軍薛宝が斉王に符籙を上ぐるに云う、『元吉唐の字を合成す』と。斉王これ得て喜びて曰く、『但だ秦王を除き、東宮を取ること反掌の如し』と。乱を為す未だ成らず、預め相奪うを懐く。大王の威を以てすれば、二人を襲うこと地芥を拾うが如し」と。太宗は猶予して未だ決せず、衆また言うには、「大王は舜を以て何如なる人と為すか」と。曰く、「浚哲文明、温恭允塞、子と為して孝、君と為して聖、焉んぞこれを議すべけんや」と。府僚は言うには、「向使舜井を浚いて出でずんば、自ら魚鱉の斃に同じくし、焉んぞ孝子と為すを得ん。廩を塗りて下らずんば、便ち煨燼の余と成り、焉んぞ聖君と為すを得ん。小杖は受け、大杖は避く、良く以て有り」と。太宗は是に於いて計を定めて建成及び元吉を誅した。元吉の死する時年二十四。五子有り:梁郡王承業・漁陽王承鸞・普安王承奨・江夏王承裕・義陽王承度、並びに坐して誅せられた。まもなく詔して建成・元吉の属籍を絶つ。太宗践祚し、元吉を海陵郡王に追封し、諡して剌と曰い、礼を以て改葬した。貞観十六年、また巣王に追封し、諡は元の如く、復た曹王明を以て元吉の後と為した。
楚王智雲
楚王智雲は、高祖の第五子である。母は萬貴妃と申し、性質恭順にして、特に高祖の親礼を蒙った。宮中の事は、皆彼女に諮り稟り、諸王の妃や公主は、推敬しない者はなかった。後に楚國太妃を授けられ、薨じ、獻陵に陪葬された。智雲は本名を稚詮といい、大業の末、高祖に従って河東にあった。義師が起こらんとする時、隠太子建成は密かに太原に帰ったが、智雲が年若いのを以て、委ねて去った。その為に吏に捕らえられ、長安に送られ、陰世師に害せられ、年十四であった。義寧元年、尚書左僕射・楚國公を追贈された。武德元年、楚王に追封され、謚して哀といった。子がなく、三年、太宗の子寬を嗣とした。寬が薨じ、貞観二年、再び濟南公世都の子霊亀を嗣とした。霊亀は、永徽年中に魏州刺史を歴任し、政治は清厳を尚び、姦盗は跡を屏いた。また永済渠を開いて新市に入れ、以て商旅を控引し、百姓はこれを利した。官に卒した。子の福が嗣ぎ、嗣いで爵を降って公となった。儀鳳年中、右威衛将軍に在って卒した。子の承況は、神龍年中に右羽林将軍となり、節愍太子と共に兵を挙げ、玄武門に入り、乱兵に殺された。
荊王元景
荊王元景は、高祖の第六子である。武德三年、趙王に封ぜられた。八年、安州都督を授けられた。貞観初め、雍州牧・右驍衛大将軍を歴任して遷った。十年、転じて荊王に封ぜられ、荊州都督を授けられた。十一年、元景らを代襲刺史とする制を定めた。詔して曰く、
皇王命を受くるや、歩驟の跡以て殊なり、経籍の紀す所、質文の道一ならず。治乱同じからずと雖も、損益或いは異なり、官司を設けて海内を制し、籓屏を建てて王室を輔くるに至っては、その典章を明らかにせざる莫く、義は致治に存し、その賢戚を崇くするは、志は無疆に在り。朕寡昧を以て、鴻緒を丕承し、三霊を寅畏し、百姓を憂勤し、明哲の余論を考へ、経邦の長策を求む。帝業の重きは、独任を以ては務を成し難く、天下の曠きは、人に因りて以て安きを獲易し。然れども侯伯は昔より肇り、州郡は中代に始まる。聖賢術を異にし、沿革時に随ふ。古に復せば則ち義頓に従ひ難く、今を尋ぬれば則ち事理を尽さず。遂に周・漢を規模し、曹・馬を斟酌し、按部の嘉名を采り、建侯の旧制に参へ、共治の職重し、分土の実存す。已に制書有りて、その至理を陳ぶ。世を継ぎて範を垂れ、厥の後昆に貽し、城を維へて固と作り、前烈に符を同じくす。荊州都督荊王元景・梁州都督漢王元昌・徐州都督徐王元礼・潞州都督韓王元嘉・遂州都督彭王元則・鄭州刺史鄭王元懿・絳州刺史霍王元軌・虢州刺史虢王鳳・豫州刺史道王元慶・鄧州刺史鄧王元裕・寿州刺史舒王元名・幽州都督燕王霊夔・蘇州刺史許王元祥・安州都督呉王恪・相州都督魏王泰・齊州都督齊王裕・益州都督蜀王愔・襄州刺史蔣王惲・揚州都督越王貞・并州都督晉王某・秦州都督紀王慎等、或いは地は旦・奭に居り、夙に詩・礼を聞き、或いは望は間・平に及び、早く才芸を称へ、並びに爵は土宇に隆く、寵は車服に兼ぬ。誠孝の心は、造次に忘れず、風政の挙は、期月に克く著はる。宜しく恆冊に冠し、休命を以て祚すべし。その任ずる刺史は、咸く子孫に代々承襲せしむ。
尋いで又代襲の制を罷む。元景久しくして鄜州刺史に転ず。高宗即位し、司徒に進位し、実封を加へて前に通じ一千五百戸に満つ。永徽四年、房遺愛と謀反を図った罪に坐して賜死し、国除となる。後に沈黎王を追封し、礼を備へて改葬す。渤海王奉慈の子長沙を以て嗣とし、爵を降して侯となす。神龍初め、爵土を追復し、並びにその孫逖を嗣荊王に封ず。尋いで薨じ、国除となる。
漢王元昌
漢王元昌は、高祖の第七子である。少くして学を好み、隷書を善くす。武德三年、魯王に封ぜられた。貞観五年、華州刺史を授けられ、梁州都督に転ず。十年、漢王に改封される。元昌は州に在りて、頗る憲法に違ひ、太宗手勅を以てこれを責む。初め自ら咎めず、更に怨望を懐く。太子承乾が魏王泰の寵を嫉むを知り、乃ち相附托し、不軌を図る。十六年、元昌京師に来朝し、承乾頻りに召して東宮に入れ夜宿せしめ、因りて承乾に謂ひて曰く、「願くは陛下早く天子為らんことを。近く御側に見るに、一人の宮人有り、琵琶を弾くに善くす。事平らぎし後の、当に望みて賜はらんことを垂れよ。」承乾諾す。又臂を刻みて血を出だし、帛を以てこれを拭ひ、焼きて灰と作り、酒に和して同じく飲み、共に信誓を為し、潜かに間隙を伺ふ。十七年、事発し、太宗誅を加ふるに忍びず、特勅を以て死を免ず。大臣高士廉・李世勣等奏言して曰く、「王者は四海を家と為し、万姓を子と為し、公に天下を行く、情独親有ること無し。元昌凶悪を苞蔵し、逆乱を図謀す。その指趣を観、その心府を察すれば、罪は燕旦に深く、釁は楚英に甚だし。天地の容れざる所、人臣の切歯する所、五刑以てその罰を申すに足らず、九死以てその愆に当つること無し。而るに陛下情は至公に屈し、恩を梟獍に加へ、疏網を開かんと欲し、この鯨鯢を漏らす。臣等有司、制を奉ぜざるを期す。伏して願くは憲典を敦師し、この凶慝を誅せんことを。群臣の願に順ひ、鷹鸇の心を奪はば、則ち呉・楚七君、往漢に幽嘆せず、管・蔡二叔、有周に沈恨せざらん。」太宗事已むことを獲ず、乃ち元昌に自尽を家に賜ひ、妻子は籍没し、国除となる。
酆王元亨
酆王元亨は、高祖の第八子である。武德三年封を受く。貞観二年、散騎常侍を授けられ、金州刺史拝さる。藩に之くに及び、太宗その幼少を以て、これを甚だ思ひ、中路に金盞を賜ひ、使を遣わして為に宴を設けしむ。六年薨じ、子無く、国除となる。
周王元方
周王元方は、高祖の第九子である。武德四年封を受く。貞観二年、散騎常侍を授けられる。三年薨じ、左光禄大夫を贈られ、子無く、国除となる。
徐王元礼
徐王元礼は、高祖の第十子である。少くして恭謹、騎射を善くす。武德四年、鄭王に封ぜられる。貞観六年、実封七百戸を賜ひ、鄭州刺史を授けられ、転じて徐王に封ぜられ、徐州都督に遷る。十七年、絳州刺史に転じ、善政を以て聞こえ、太宗璽書を降して労勉し、錦彩を以て賜ふ。二十三年、実封千戸を加ふ。永徽四年、司徒を加授され、潞州刺史を兼ぬ。咸亨三年薨じ、太尉・冀州大都督を贈られ、献陵に陪葬される。
淮南王茂
子の淮南王茂が嗣いだ。茂は険薄にして行いがなく、元禮の妾趙氏は美色であったが、元禮が病に罹った際、茂は遂に彼女を逼り、元禮はこれを知って厳しく責め咎めた。茂はそこで元禮の侍衛を退け、その薬と食膳を断ち、なおも言うには、「既に五十年も王であるのに、更に何ぞ煩わしく薬を服する必要があろうか」と。遂に餓えて終わった。上元年中、事が洩れ、振州に配流されて死んだ。神龍初年、また茂の子璀を嗣徐王に封じた。景龍四年、銀青光禄大夫を加えられた。開元年中、宗正員外卿に除かれ、卒した。子の延年が嗣いだ。開元二十六年、嗣徐王に封ぜられ、員外洗馬に除かれた。天宝初年、抜汗那王が入朝した際、延年は娘を彼に嫁がせようとしたが、右相李林甫に奏上され、文安郡別駕・彭城長史に貶ぜられ、贓罪に坐して永嘉司士に貶ぜられた。至徳初年、餘杭郡司馬となり、卒した。永泰元年、女婿の黔中観察使趙国珍が入朝し、延年の子で前施州刺史の諷を嗣とすべく請うたため、これにより嗣徐王に封ぜられた。
韓王元嘉
韓王元嘉は、高祖の第十一子である。母は宇文昭儀、隋の左武衛大将軍述の娘である。早くから高祖に寵愛され、高祖が即位するとすぐに皇后に立てようとしたが、固辞して受けなかった。元嘉は幼少の頃より母の寵愛により、特に高祖に愛され、即位後に生まれた皇子の中で、彼に及ぶ者はなかった。武徳四年、宋王に封ぜられ、徐王に転封された。貞観六年、実封七百戸を賜り、潞州刺史に任ぜられた。時に十五歳。州において太妃の病を知ると、涙を流して食を絶った。京師で発喪すると、哀毀して礼を過ぎ、太宗はその至性を嘆き、幾度も慰め励ました。九年、右領軍大将軍に任ぜられた。十年、韓王に改封され、潞州都督に任ぜられた。二十三年、実封が満千戸に加えられた。元嘉は若くして学問を好み、書物を集めて万巻に至り、また碑文古跡を採集し、多くの異本を得た。閨門は修整して、寒素の士大夫の類いであった。弟の霊夔と甚だ友愛し、兄弟が集まって会う時は、布衣の礼のようであった。その身を修め己を潔くし、内外が一であることは、当代の諸王で及ぶ者なく、ただ霍王元軌がその次ぐのみであった。高宗の末、元嘉は沢州刺史に転じた。天后が臨朝して政を摂ると、物情に順おうとして、元嘉を太尉・定州刺史に、霍王元軌を司徒・青州刺史に、舒王元名を司空・隆州刺史に、魯王霊夔を太子太師・蘇州刺史に、越王貞を太子太傅・安州都督に、紀王慎を太子太保に進授し、外には尊崇を示したが、実は綜理する所はなかった。その後次第に宗室諸王で己に附かない者を誅戮しようとし、元嘉は大いに恐れ、その子の通州刺史・黄公譔及び越王貞父子と謀って兵を起こした。ここにおいて皇宗国戚で内外相連なる者は甚だ広かった。使者を遣わして貞及び貞の子琅邪王沖に報じて言うには、「四面より同来すれば、事は成らざるはない」と。沖は諸道と計料未だ審らかならぬうちに先に兵を発し、倉卒のうちにただ貞のみが応じたので、諸道に赴く者はなく、故にその事は成らなかった。元嘉は坐して誅された。譔は若くして文才で知られ、諸王子の中で、琅邪王沖と一時の秀であり、凡そ交結した者は皆当代の名士であった。時に天下で犯罪により籍没される者は甚だ多かったが、ただ沖と譔父子の書籍が最も多く、皆文句が詳定されて、秘閣の及ばざる所であった。神龍初年、元嘉の爵土を追復し、併せてその第五子訥を嗣韓王に封じ、官は員外祭酒に至った。開元十七年に卒した。元嘉の長子訓は、高祖の時に潁川王に封ぜられ、早世した。次子誼は、武陵王に封ぜられ、官は濮州刺史に至った。開元年中、訥の子叔璿を嗣韓王・国子員外司業に封じた。
彭王元則
彭王元則は、高祖の第十二子である。武徳四年、荊王に封ぜられた。貞観七年、豫州刺史に任ぜられた。十年、彭王に改封され、遂州都督に除かれ、尋で章服の奢僭に坐して免官された。十七年、澧州刺史に拝され、更に節を折り行いを励まし、頗る声譽が著しかった。永徽二年に薨じ、高宗はこれがために三日間朝を廃し、司徒・荊州都督を贈り、献陵に陪葬し、謚して思といった。発引の日、高宗は望春宮に登ってその霊車を望み、甚だ慟哭した。子がなく、霍王元軌の子絢を嗣がせ、龍朔年中に南昌王に封ぜられた。子の志暕は、神龍初年に嗣彭王に封ぜられた。景龍初年、銀青光禄大夫を加えられた。開元年中、宗正卿同正員となり、卒した。
鄭王元懿
鄭王元懿は、高祖の第十三子である。頗る学問を好んだ。武徳四年、滕王に封ぜられた。貞観七年、兗州刺史に任ぜられ、実封六百戸を賜った。十年、鄭王に改封され、鄭・潞二州刺史を歴任した。二十三年、実封が満千戸に加えられた。総章年中、累ねて絳州刺史に任ぜられた。数度大獄を断じ、甚だ平允の誉れがあった。高宗はこれを嘉し、璽書を降して褒め称え、物三百段を賜った。咸亨四年に薨じ、司徒・荊州大都督を贈り、謚して惠といい、献陵に陪葬した。子の璥は、上元初年、嗣鄭王に封ぜられ、官は鄂州刺史に至った。神龍初年、また璥の嫡子希言を嗣鄭王に封じた。景龍四年、嗣鄭王希言ら合わせて十四人、皆銀青光禄大夫を加えられた。開元年中、右金吾大将軍となった。天宝初年、再び太子詹事同正員となり、卒した。
霍王元軌
霍王元軌は、高祖の第十四子である。若くして多才多芸であり、高祖は大いにこれを奇異とした。武徳六年、蜀王に封ぜられる。八年、吳王に徙封される。貞観初め、太宗嘗て群臣に問うて曰く、「朕の子弟の孰れか賢なるや」と。侍中魏徵對えて曰く、「臣愚闇にして、其の能を盡く知らず。唯だ吳王數たび臣と言ふも、未だ嘗て自失せざるはなし」と。上曰く、「朕も亦た之を器とす。卿以て前代の誰に比すべきと爲すや」と。征曰く、「經學文雅、亦た漢の間・平なり」と。是より寵遇彌厚く、因りて征の女を娶らしむ。太宗に從ひ遊獵し、群獸に遇ふ。元軌をして之を射しめしむるに、矢虚發するなく、太宗其の背を撫でて曰く、「汝武藝人に過ぐ、今施す所無きを悵む。天下未だ定まらざる當に、我汝を得ること豈に美ならざらんや」と。七年、壽州刺史を拜し、實封六百戸を賜ふ。高祖崩じ、職を去り、毀瘠禮を過ぎ、自ら後常に布衣を着し、終身の戚有るを示す。每に忌辰に至れば、輒ち數日食はず。十年、霍王に改封し、絳州刺史を授け、尋で徐州刺史に轉ず。元軌前後刺史と爲り、州に至れば、唯だ閣を閉ぢて書を讀み、吏事は長史・司馬に責成し、謹慎自ら守り、物と忤ふること無く、人と爲り妄ならず。徐州に在りては、唯だ處士劉玄平と布衣の交はりを爲す。人或は玄平に王の長を問ふ。玄平答へて曰く、「長無し」と。問ふ者怪しみて復た之を問ふ。玄平曰く、「夫人短有るは、以て其の長を見る所以なり。霍王に至りては、備はらざる所無し。吾何を以て之を稱せんや」と。二十三年、實封を加へて滿千戸と爲し、定州刺史と爲る。突厥來寇す。元軌門を開き旗を偃せしむ。虜伏有るを疑ひ、懼れて宵遁す。州人李嘉運賊と連謀す。事洩る。高宗收め其の黨を按ずるを令す。元軌強寇境に在り、人心安からずと以て、唯だ嘉運を殺し、余は及ぶ所無し。因りて自ら制に違へるを劾す。上表を覽て大悅し、使に謂ひて曰く、「朕も亦た之を悔ゆ。向ひ王無くば、則ち定州を失せしならん」と。王文操賊に遇ふ。而して二子鳳・賢遂に身を以て蔽ひ捍ぎ、文操全からしむ。二子皆死す。縣司抑へて申さず。元軌察知し、使を遣はして弔祭し、表を上り其事をす。詔して並びに朝散大夫を贈り、旌表を加へしむ。其の禮賢愛善此の如し。後因りて朝に入り、屢疏を上り時政の得失を陳ぶ。匡益する所多し。高宗甚だ之を尊重す。及ひ外籓に在り、朝廷每に大事有れば、或は密制を以て之を問ふ。高宗崩じ、侍中劉齊賢等と山陵の葬事を知る。齊賢其の識練故事に服し、每に人に謂ひて曰く、「我輩の及ぶ所に非ず」と。元軌嘗て國令をして封を征せしむ。令白して曰く、「諸國の賦物貿易に依り利を取るを請ふ」と。元軌曰く、「汝國令と爲り、當に吾が失を正すべし。反つて利を以て吾を說くや」と。拒みて納れず。垂拱元年、位を加へて司徒と爲り、尋で出でて襄州刺史と爲り、青州に轉ず。四年、越王貞と連謀し起兵するに坐し、事覺め、黔州に徙居せしめ、仍りて檻車を以て載するを令す。行きて陳倉に至りて死す。子七人有り。長子緒、最も才藝有り。上元中、江都王に封ぜられ、累ねて金州刺史を除く。重拱中、裴承光と交通するに坐して殺さる。神龍初、元軌と並び追復爵位し、仍りて緒の孫暉を嗣霍王と封ず。景龍四年、銀青光祿大夫を加ふ。開元中、左千牛員外將軍。
虢王鳳
虢王鳳は、高祖の第十五子である。武徳六年、豳王に封ぜられる。貞観七年、鄧州刺史を授け、實封六百戸を賜ふ。十年、虢王に徙封し、歷ねて虢・豫二州刺史。二十三年、實封を加へて滿千戸と爲る。麟德初、累ねて青州刺史を授く。上元元年薨ず。年五十二。司徒・揚州大都督を贈り、獻陵に陪葬し、謚して莊と曰ふ。子平陽郡王翼嗣ぐ。官光州刺史に至る。永隆二年卒す。子寓嗣ぐ。則天の時爵を失ふ。鳳第三子定襄郡公宏、則天初め曹州刺史と爲る。第五子東莞郡公融、少くより武勇を以て知らる。垂拱中、申州刺史と爲る。初め、黃公譔將に越王貞と通謀せんとし、深く融を倚仗し、以て外助と爲す。時詔して諸親を追ひて都に赴かしむ。融私に使して其の親しむ所の成均助教高子貢に問ひて曰く、「朝に入るべきや否や」と。子貢報へて曰く、「來らば必ず死を取らん」と。融乃ち疾を稱して朝せず、以て諸籓の期を俟つ。及ひ越王貞起兵の書を得るや、倉卒相應ずること能はず。僚吏に逼せられ、已むことを獲ずして之を奏す。是に於て擢で授けて銀青光祿大夫、行太子右贊善大夫と爲す。未だ幾ばくもせず、支黨に引かるる所と爲り、誅せらる。子徹、神龍元年東莞郡公を襲封す。開元五年、密王元曉を繼ぎ、改めて嗣密王と爲す。十二年、改めて濮陽郡王に封ぜられ、歷ねて宗正卿・金紫光祿大夫、卒す。神龍初、鳳の嫡孫邕を嗣虢王と封ず。邕韋庶人の妹を娶りて妻と爲す。是より中宗の時特承寵異せられ、轉じて秘書監、俄に又た改めて汴王に封ぜられ、開府僚屬を置く。月餘にして韋氏敗る。邕刃を揮ひて其の妻の首を截ち、以て朝に至る。深く物議の鄙む所と爲る。沁州刺史に貶ぜられ、州事を知らず、封邑を削る。景雲二年、復た嗣虢王と爲り、還りて二百戸を封ず。累ねて衛尉卿に遷る。開元十五年卒す。子巨嗣ぐ。別に傳有り。
道王元慶
道王元慶は、高祖の第十六子である。武徳六年、漢王に封ぜられる。八年、陳王に改封す。貞観九年、趙州刺史を拜し、實封八百戸を賜ふ。十年、道王に改封し、豫州刺史を授く。二十三年、實封を加へて滿千戸と爲る。永徽四年、歷ねて滑州刺史、政績を以て聞こえ、物二百段を賜ふ。後歷ねて徐・沁・衛三州刺史。元慶母に事へること甚だ謹み、及ひ母薨ずるや、又た躬りて墳墓を修むるを請ふ。優詔して許さず。麟德元年薨ず。司徒・益州都督を贈り、獻陵に陪葬し、謚して孝と曰ふ。子臨淮王誘嗣ぐ。官澧州刺史に至る。永淳中、贓に坐して爵を削らる。次子詢、壽州刺史。詢の子微、神龍初、嗣道王と封ぜらる。景龍四年、銀青光祿大夫を加ふ。景雲元年、宗正卿、卒す。子鏈、開元二十五年、嗣道王を襲封す。廣德中、官宗正卿に至る。
鄧王元裕
鄧王元裕は、高祖の第十七子である。貞観五年、鄶王に封ぜられる。十一年、鄧王に改封し、實封八百戸を賜ひ、歷ねて鄧・梁・黃三州刺史。元裕學を好み、名理を談ずるに善く、典簽盧照鄰と布衣の交はりを爲す。二十三年、實封を加へて通前一千五百戸と爲る。高宗の時、又た歷ねて壽・襄二州刺史・兗州都督。麟德二年薨ず。司徒・益州大都督を贈り、獻陵に陪葬し、謚して康と曰ふ。子無し。弟江王元祥の子廣平公炅を以て嗣がしむ。神龍初、炅の子孝先を嗣鄧王と封ず。開元十三年、右監門衛大將軍・冠軍大將軍、卒す。
舒王元名
舒王元名は、高祖の第十八子である。十歳の時、高祖が大安宮におられたが、太宗は朝夕に尚宮を遣わして起居を伺わせ珍饌を送らせた。元名の保傅らが元名に言うには、「尚宮は品秩の高い者である。お目にかかるには拝礼すべきである」と。元名は言った、「これは私の二哥(太宗)の家の婢である。どうして拝する必要があろうか」と。太宗はこれを聞いて壮とし、言った、「これはまことに我が弟である」と。貞観五年、譙王に封ぜられる。十一年、舒王に徙封され、実封八百戸を賜り、寿州刺史に拝された。後に滑・許・鄭の三州刺史を歴任した。二十三年、実封を加えられて満千戸とし、石州刺史に転じた。
元名は性質が高潔で、家人の産業を問うことは稀であり、朝夕に矜荘を保ち、門庭は清粛であった。常にその子の豫章王亶らを戒めて言った、「藩王に欠けるものは、銭財や官職の無いことを慮るのではなく、ただ善事を行い、忠孝をもって身を保つこと、これが我が志である」と。亶が江州刺史となった時、善政をもって聞こえ、高宗は手勅を下して元名を褒賞し、その義方の訓えを賞した。高宗は毎度元名に大州刺史を授けようとしたが、固く辞して言った、「忝くも藩戚に預かる身、どうして州郡の戸口を仕進の資とすることができましょうか」と。辞情が懇到であったので、石州に二十年在任し、林泉を賞玩して、塵外の意があった。垂拱年間、青州刺史を除され、また鄭州刺史を除された。州境は都畿に隣接し、諸王や帝戚が官に蒞む者の中には、家人を検攝せず、百姓に苦しめられる者があった。元名が到着すると、大いにその弊を革めた。滑州刺史に転じ、政理は鄭州に在った時と同じであった。尋ねて司空を加授された。永昌年間、子の亶と共に丘神勣に陥れられ、殺害された。神龍初年、司徒を追贈され、その官爵を復し、なお礼をもって改葬することを命じられた。亶の子の津が嗣舒王となった。景龍四年、銀青光禄大夫を加えられた。開元年中、左威衛将軍となり、卒した。子の万が嗣ぎ、天宝二年に卒した。子の藻が嗣ぎ、天宝九載、嗣舒王に封ぜられた。
魯王霊夔
魯王霊夔は、高祖の第十九子である。少時より美誉があり、音律を善くし、学を好み、草隷に巧みで、同母兄の韓王元嘉と特に相友愛した。貞観五年、魏王に封ぜられる。十年、燕王に改封され、実封八百戸を賜り、幽州都督を授けられた。十四年、魯王に改封され、兗州都督を授けられた。二十三年、実封を加えられて満千戸とした。永徽六年、隆州刺史に転じ、後に絳・滑・定等州刺史、太子太師を歴任した。垂拱元年、邢州刺史を授けられた。四年、兄の元嘉の子の黄公譔と謀を結び、兵を起こして越王貞父子に応接しようとしたが、事が洩れ、振州に配流され、自縊して死んだ。二子あり。長子は銑、清河王に封ぜられた。次子は藹、范陽王に封ぜられ、右散騎常侍を歴任し、酷吏に陥れられた。神龍初年、霊夔の官爵を追復し、なお礼をもって改葬することを命じた。藹の子の道堅を嗣魯王に封じた。性質は厳整で、閨門の中に在っても、造次には必ず荘敬を旨とした。少年にして郡を佐け、声実既に顕れた。景龍四年、銀青光禄大夫を加えられ、果・隴・吉・冀・洺・汾・滄等の七州刺史、国子祭酒を歴任した。開元二十二年、兼検校魏州刺史となり、未だ行かず、汴州刺史・河南道採訪使に改められた。この州は都会で、水陸輻湊し、実に膏腴の地と言われたが、道堅は特に清毅をもって聞こえた。入って宗正卿となり、卒した。子の宇が嗣ぎ、二十九年、嗣魯王に封ぜられた。至徳元年、幸に従って巴蜀に至り、右金吾将軍となった。宝応元年、皇太子が魯王に封ぜられたため、宇を改めて鄒王を嗣がせた。道堅の弟の道邃は、中興の初め、戴国公に封ぜられた。恭黙をもって自ら守り、山東婚姻の故事を修め、頻りに清列の任に就いた。天宝年中、右丞、大理・宗正の二卿となり、卒した。
江王元祥
江王元祥は、高祖の第二十子である。貞観五年、許王に封ぜられる。十一年、江王に徙封され、蘇州刺史を授けられ、実封八百戸を賜った。二十三年、実封を加えられて満千戸とした。高宗の時、また金・鄜・鄭の三州刺史を歴任した。性質は貪鄙で、多く金宝を聚め、営求に厭きず、人吏に患いとされた。時に滕王元嬰・蒋王惲・虢王鳳もまた貪暴と称され、その府官に授けられた者があり、これを嶺南の悪処に比して、これがために語って言うには、「儋・崖・振・白に向かうとも、江・滕・蒋・虢に事えじ」と。元祥は体質が洪大で、腰帯十圍、飲啖もまた数人分を兼ね、その時韓王元嘉・虢王鳳・魏王恭も状貌が偉であったが、元祥には及ばなかった。また一目を眇としていた。永隆元年に薨じ、司徒・并州大都督を追贈され、献陵に陪葬され、諡して安といった。子の永嘉王晫は、永隆年中、復州刺史となった。禽獣の行い有るを以て、家に賜死された。中興初年、元祥の子の鉅鹿郡公晃の子の欽が江王を嗣いだ。景龍四年、銀青光禄大夫を加えられ、王仁皎の女を娶り、千牛将軍に至り、卒した。
密王元暁
密王元暁は、高祖の第二十一子である。貞観五年に封を受けた。九年、虢州刺史を授けられた。十四年、実封八百戸を賜った。二十三年、満千戸に加えられ、沢州刺史に転じた。永徽四年、宣州刺史を除され、後に徐州刺史を歴任した。上元三年に薨じ、司徒・揚州都督を追贈され、献陵に陪葬され、諡して貞といった。子の南安王穎が嗣いだ。神龍初年、穎の弟の亮の子の曇を嗣密王に封じた。
滕王元嬰
滕王元嬰は、高祖の第二十二子である。貞観十三年に封を受け、十五年、実封八百戸を賜り、金州刺史に任ぜられた。二十三年、実封を加えて満千戸となった。永徽年中、元嬰は甚だ驕り放縦で遊楽にふけり、動作に節度を失った。高宗は書を賜ってこれを戒めて曰く、「王は地は宗枝に在り、磐石に寄せること深く、幼くより『詩』『礼』を聞き、夙に義訓を承けたり。実に孜孜として怠ることなく、漸く以て徳を成すことを冀うに、豈に軌轍に遵わず、典章を踰越せんとは謂わんや。且つ城池は固く作して、不虞に備え、関鑰の閉開は、須らく常の准有るべし。散楽を鳩合し、並びに府僚を集め、厳関夜開、復た一度に非ず。遏密の悲しみ、尚ほ比屋に纏うに、王此の情事を以てす、何ぞ遽に紛紜たる。又百姓を巡省するは、本より風を観て俗を問うに在り、遂に乃ち老幼を駆率し、狗を借りて置を求め、禽に従うの娛を志し、黎元の重きを忽せり。時方に農要なるに、屡に畋游に出で、以て弾を以て人を弾じ、将に笑楽と為さんとす。適を取るの方、亦応に多緒有るべく、何ぞ必ずしも此の事を以て、方に娛と為すを得ん。晋霊の虐主は、未だ則を取るべからず。趙孝文は趨走の小人、張四は又倡優の賤隸、王親しく博戯を為し、極めて軽脱、一府の官僚、何をか瞻望せん。凝寒方に甚だしきに、雪を以て人を埋め、物を虐ること既に深し、何を以てか楽と為さん。家人奴僕、官人を侮弄し、此の事に至りては、弥に長ずべからず。朕は王を骨肉の至親と為すも、王を法に致すこと能わず、王と上下の考を下し、以て王の心を愧じしむ。人の過有るは、貴ぶ能く改むるに在り、国に憲章有り、私恩再び難し。言を興して此に及べば、慚嘆懐に盈つ」と。三年、蘇州刺史に遷り、尋いで洪州都督に転ず。又数たび憲章を犯し、邑戸及び親事帳内の半ばを削り、滁州に安置す。後に起用して寿州刺史を授け、隆州刺史に転ず。弘道元年、開府儀同三司を加え、梁州都督を兼ぬ。文明元年に薨じ、司徒・冀州都督を贈られ、献陵に陪葬す。子の長楽王循琦が嗣ぐ。兄弟六人、垂拱年中並びに詔獄に陥る。神龍初め、循琦の弟循琣の子の涉を以て滕王に嗣がしむ。本名は茂宗、状貌胡に類して豊碩なり。開元十二年、銀青光禄大夫・左驍衛将軍を加う。天宝初め、淮安郡別駕、卒す。子の湛然が嗣ぐ。十一載、滕王に封ぜらる。十五載、幸蜀に従い、左金吾将軍を除く。
評論
史臣曰く、一人元良にして、万国以て貞し。若し明異にして重離、道は出震に非ずんば、嫡長に居ると雖も、寧くんぞ其の鎡を固くせんや!況んや開創の初めに当たり、太平の兆を見ざるに於てをや。建成は残忍、豈に主鬯の才あらんや。元吉は凶狂、覆巣の跡有り。若し太宗の逆を取り順に守るに非ずんば、徳を積み功を累ね、何を以てか三百年の延洪・二十帝の纂嗣を致さん。或いは小節を堅持して、必ず大猷を虧かんとし、秦の二世・隋の煬帝に比せんと欲すれば、亦及ばざるなり。元嘉は身を修め、元軌は短無く、元裕は名理、元名は高潔、霊夔は厳整、皆封冊の名有りて、磐石の固き無し。武氏の乱に、或いは連頸して刑せられ、奸臣権を擅にすれば、則ち束手して制せらる。其の本枝百世を望むや、亦た難からずや。
贊して曰く、功有るを祖と曰い、徳有るを宗と曰う。建成・元吉、実に二凶と為る。中外交構し、人神容れず。晦を用いて明らかにし、殷憂聖を啓く。運文皇に属し、功成りて正を守る。善悪既に分かれ、社稷乃ち定まる。盤維封建し、本枝茂盛なり。元嘉・元軌、身を修め行いを慎む。元裕・元名、行い簡にして居り正し。犬牙固からず、武氏姓を易う。既に兵民無く、陷阱に拘わるるが若し。敢えて後人に告ぐ、或いは政を失うこと無かれ。