卷六十三
封倫
封倫は、字を徳彝といい、観州蓚県の人である。北斉の太子太保封隆之の孫。父の封子繡は、隋の通州刺史であった。封倫が若い時、その舅の盧思道がしばしば言うには、「この子は智識が人に優れ、必ずや卿相の位に至るであろう」と。開皇の末、江南で乱が起こると、内史令楊素が征討に赴き、封倫を行軍記室に任用した。船が海曲に至った時、楊素が召すと、封倫は水中に墜ち、人が救って溺死を免れたが、そこで衣を替えて拝謁し、終いに至るまでそのことを言わなかった。楊素が後で知って、その理由を問うと、答えて言うには、「私事でございますので、申し上げなかったのです」と。楊素は大いに嘆異した。楊素が仁寿宮を営造しようとした時、封倫を土木監に引き立てた。隋の文帝が宮殿の場所に至り、その制度が奢侈であるのを見て、大いに怒って言うには、「楊素は誠実でない。百姓の力を尽くし、離宮を彫飾して、我がために天下に怨みを結ぶとは」と。楊素は恐れおののき、譴責を受けることを憂慮した。封倫は言うには、「公は憂えるには及びません。皇后がお見えになるのを待てば、必ず恩詔があります」と。翌日、果たして楊素が召されて入対すると、独孤皇后が労って言うには、「公は我ら夫婦が年老いて、心を楽しませるものがないことを知り、この宮殿を盛大に飾ってくれた。これこそ孝順ではないか」と。楊素が退いて封倫に問うには、「卿はどうしてそれを知ったのか」と。答えて言うには、「至尊は性質が倹約家なので、初めに見て怒られたのです。しかし、もとより皇后の言うことをよくお聞きになります。皇后は婦人で、美しいものを好まれるだけです。皇后の心が既に喜べば、帝のご考慮も必ず移ります。それゆえに知ったのです」と。楊素は嘆服して言うには、「揣摩の才は、私の及ぶところではない」と。楊素は貴を負い才を恃んで、多く人を凌侮したが、ただ封倫を激賞した。しばしば引きいて宰相の務めを論じ、終日倦むことを忘れ、その床を撫でて言うには、「封郎は必ずや我がこの座に就くであろう」と。しきりに文帝に称薦したので、これにより内史舎人に抜擢任用された。大業年間、封倫は虞世基が煬帝に寵愛されながら吏務に通じていないのを見て、毎度詔勅を受けると、多く事機を失った。封倫はまた彼に附託し、密かに指図し、詔命を宣行して、主君の心に諂い順った。外からの表疏で帝の意に逆らうようなものは、すべて留めて奏上しなかった。刑法を決断するには、多く峻文で深く誣い、勲功を策定し賞を行うには、必ず抑えて削った。それゆえ虞世基の寵は日に日に隆盛し、隋の政は日に日に壊れていったが、すべて封倫の仕業であった。宇文化及の乱の時、帝を脅して宮殿から出させ、封倫に帝の罪を数えさせた。帝は言うには、「卿は士人であるのに、どうしてここまでするのか」と。封倫は恥じて退いた。化及はやがて封倫を内史令に任用し、聊城に従った。封倫は化及の勢いが窮屈になるのを見て、ひそかに化及の弟の宇文士及と結び、済北で糧食を運ぶことを請うて、その変を観ようとした。化及の敗北に遇い、士及と共に降伏して来た。高祖はその前代の旧臣であるとして、使者を遣わして迎え労い、内史舎人に任じた。まもなく内史侍郎に遷った。
子の封言道は、高祖の娘の淮南長公主を娶り、官は宋州刺史に至った。封倫の兄の子の封行高は、文学をもって知名であった。貞観年間、官は礼部郎中に至った。
蕭瑀
蕭瑀、字は時文。高祖は梁の武帝、曾祖は昭明太子、祖父は察、後梁の宣帝。父は巋、明帝。蕭瑀は九歳の時、新安郡王に封ぜられ、幼少より孝行をもって聞こえた。姉は隋の晋王の妃となり、これに従って長安に入る。学を聚め文を属し、端正にして鯁亮なり。釈氏を好み、常に梵行を修め、沙門と難及び苦空を論ずる毎に、必ず微旨に詣る。常に劉孝標の『弁命論』を観て、その先王の教えを傷つけ、性命の理を迷わすを悪み、乃ち『非弁命論』を作りてこれを釈す。大旨は以て為すに、「人は天地を稟けて生まる、孰れか命に非ざるを云わんや、然れども吉凶禍福も、亦人に因りて有り、若し一にこれを命に帰せば、その蔽や甚だし」と。時に晋府の学士柳顧言・諸葛穎これを見て称えて曰く、「孝標より後数十年の間、性命の理を言う者、詆詰する能わざるなり。今蕭君の此の論、足りて劉子の膏肓を療すべし」と。煬帝、太子たりし時、太子右千牛を授く。践祚するに及び、尚衣奉御に遷り、左翊衛鷹揚郎将を検校す。忽ち風疾に遇い、家人に命じて即時に医療せしめず、仍りて云く、「若し天余年に仮せば、此に因りて棲遁の資と為さんことを望むのみ」と。蕭后聞きてこれを誨えて曰く、「爾が才智を以てせば、足りて名を揚げ親を顕わすに堪うべし、豈に軽く形骸を毀ちて隠逸を求むるを得んや。若し此を以て譴を致さば、則ち罪は不測に在り」と。病やや愈ゆるに、その姉これを勧勉す、故に復た仕進の志有り。累ねて銀青光禄大夫・内史侍郎を加う。既に后弟の親を以て、機務をこれに委ぬるも、後に数たび言を以て旨に忤い、漸く疏斥を見る。煬帝、雁門に至り、突厥に囲まれるや、蕭瑀進みて謀りて曰く、「聞く所に依れば、始畢は校猟を托けて此に至り、義成公主は初めその違背の心有るを知らざるなり。且つ北蕃の夷俗、可賀敦は兵馬の事を知る。昔、漢の高祖が平城の囲みを解くは、乃是れ閼氏の力なり。況んや義成は帝女を以て妻と為す、必ず大国の援を恃む。若し一の単使を発して義成に告げしめば、仮令い益無くとも、事も亦損無からん。臣又窃かに輿人の誦を聴くに、乃ち陛下の突厥を平げたる後、更に遼東に事を為さんことを慮るを以て、所以に人心一ならず、或いは挫敗を致すを慮るなり。請う、明詔を下して軍中に告げ、高麗を赦して専ら突厥を攻めしめよ、然らば則ち百姓心安んじ、人自ら戦うを為さん」と。煬帝これに従う、ここに於て使を発して可賀敦に詣り旨を諭す。俄かに突厥囲みを解きて去る、後に其の諜人を獲るに、云く、義成公主、使を遣わして始畢に急を告げ、北方に警有りと称す、ここに由りて突厥囲みを解く、蓋し公主の助けなり。煬帝又た将に遼東を伐たんとし、群臣に謂いて曰く、「突厥狂悖にして寇と為るも、勢い何ぞ能く為さん。その少時散ぜざるを以て、蕭瑀遂に相恐動す、情恕すべからず」と。因りて河池郡守に出し、即日にこれを遣わす。既に郡に至るや、山賊万余人有りて寇暴し縦横す、蕭瑀潜かに勇敢の士を募り、奇を設けてこれを撃ち、陣に当たりてその衆を降す。獲る所の財畜は、咸く功有る者に賞す、ここに由りて人その力を竭くす。薛挙、衆数万を遣わして郡境を侵掠す、蕭瑀これを要撃し、此れより後諸賊進むこと敢えず、郡中復た安んず。
高祖が京城を平定し、文書を送って彼を招いた。蕭瑀は郡を挙げて帰順し、光禄大夫を授けられ、宋国公に封ぜられ、民部尚書に任ぜられた。太宗が右元帥となり、洛陽を攻めたとき、蕭瑀を府司馬とした。武徳五年、内史令に転じた。当時は軍国草創の時期で、四方の境域は未だ平穏でなかったため、高祖は心腹として委ね、あらゆる政務に関与させずにはおかなかった。高祖が軒に臨んで政務を聴くたびに、必ず御榻に昇ることを許し、蕭瑀は独孤氏の婿であったので、語りかけるときは蕭郎と呼んだ。国家の典礼と朝廷の儀礼も、蕭瑀に責務を負わせ、蕭瑀は孜々と自ら励み、違反を正し過失を挙げたので、人々は皆彼を畏れた。常に便宜数十条を奏上し、多くは採用され、手詔に『公の言葉を得ることは、社稷の頼るところである。智者の策を運び、以て人の美を成すことを能くし、諫者の言を納れ、以て金宝を以てその徳に酬いる。今、金一函を賜い、以て智者に報い、推退することなかれ』とあった。蕭瑀は固く辞退したが、優詔で許さなかった。その年、州に七職を置き、必ず才望兼備の者を選んでこれに当たらせた。太宗が雍州牧に臨んだとき、蕭瑀を州都督とした。高祖がしばしば詔勅を下したが、中書省が時を移さず宣行しないことがあり、高祖がその遅れを責めると、蕭瑀は言った。『臣が大業の日に見たところ、内史が詔勅を宣するとき、前後で矛盾するものがあり、百官がこれを行っても、何を承用すべきか分からなかった。いわゆる易きは必ず前にあり、難きは必ず後にあるということで、臣が中書省に長くいて、その事を詳しく見てきた。今、皇基が初めて構えられ、事は安危に関わり、遠方に疑いがあれば、機会を失う恐れがある。近ごろは一つの詔勅を受けるごとに、臣は必ず勘審し、前の詔勅と矛盾しないことを確かめてから、初めて宣行するのである。遅延の過ちは、実にこれによるものである』。高祖は言った。『卿がこのように心を用いるならば、私に何の憂いがあろうか』。初め、蕭瑀が朝廷に来たとき、関内の産業は全て先に勲功の者に与えられていた。この時に至り、特にその田宅を返還されたが、蕭瑀は全てを諸宗族の子弟に分け与え、ただ廟堂一区のみを留めて、祭祀を奉じた。王世充を平定したとき、蕭瑀は軍謀に参与した功績により、邑二千戸を加増され、尚書右僕射に任ぜられた。内外の考課は全て司会に委ねられ、群僚の指南となり、庶務は繁雑であった。蕭瑀は事を見るに時に偏りや誤りがあり、法を執るのにやや厳しすぎたため、当時の議論からやや軽んじられた。蕭瑀はかつて封倫を高祖に推薦し、高祖は封倫を中書令とした。太宗が即位すると、尚書左僕射に転じ、封倫は右僕射となった。封倫は元来、険悪で不正な心を抱いており、蕭瑀と相談して奏上すべき事柄を決めても、太宗の前では全て変えてしまった。当時、房玄齢と杜如晦が既に新たに権力を握り、蕭瑀を疎んじて封倫に親しんだため、蕭瑀は心中穏やかでなく、遂に封事を上奏してこれを論じたが、文意は散漫であった。太宗は房玄齢らの功績が高いとして、これにより旨に逆らい、家に廃された。間もなく特進・太子少師に任ぜられた。間もなく、再び尚書左僕射となり、実封六百戸を賜った。太宗は常に蕭瑀に言った。『朕は子孫を長久にし、社稷を永く安んじたいと思うが、その道理はどうか』。蕭瑀は答えて言った。『臣が前代を見るに、国祚が長久である所以は、諸侯を封じて盤石の固さとするに如くはありません。秦は六国を併合し、侯を廃して守を置いたが、二代で滅亡した。漢は天下を有し、郡国を参建したが、やはり四百余年の年数を得た。魏・晋はこれを廃したが、永久に続かなかった。封建の法は、実に遵行すべきものです』。太宗はこれを認め、封建の議論を始めた。間もなく、侍中陳叔達と共に御前で激しく争い、声色が甚だ厳しかったため、不敬の罪で免官された。一年余り後、晋州都督に任ぜられた。翌年、召されて左光禄大夫に任ぜられ、御史大夫を兼ねた。宰臣と共に朝政を参議したが、蕭瑀は弁舌が多く、評議があるごとに、房玄齢らは抗し得なかった。しかし、内心では彼の言うことが正しいと知りながら、その言を用いなかったため、蕭瑀はますます不満を抱いた。房玄齢・魏徴・温彦博がかつて微かな過失があったとき、蕭瑀がこれを弾劾したが、罪は結局問われず、このため自ら落胆した。これにより御史大夫を罷められ、太子少傅とされ、再び朝政に関与しなくなった。六年、特進に任ぜられ、太常卿を行った。八年、河南道巡省大使となり、推劾すべき罪があるが苦しんで真情を得られない者がいたため、遂に格を置き縄を設けて、死に至らしめたが、太宗は特に責めを免じた。九年、特進に任ぜられ、再び政事に参与することを命じられた。太宗はかつて房玄齢に悠然と言った。『蕭瑀は大業の日に、隋の主に諫言して、河池郡守に出された。心臓を抉られる禍いに遭うべきところが、翻って太平の日を見るとは、北叟が馬を失うも、事もまた常ならずとはこのことだ』。蕭瑀は頓首して拝謝した。太宗はまた言った。『武徳六年以後、太上皇には廃立の心があったが定めず、私はこの日、兄弟に容れられず、実に功高くして賞せられぬ恐れがあった。この人は厚利で誘うことができず、刑戮で恐れることもできない、真の社稷の臣である』。そこで蕭瑀に詩を賜って言った。『疾風勁草を知り、版蕩誠臣を識る』。また蕭瑀に言った。『卿の道を守って耿介なることは、古人もこれを超えるものはない。しかし善悪を明らかにしすぎることも、時に失うことがある』。蕭瑀は再拝して謝して言った。『臣は特に誡訓を蒙り、また忠諒を以て臣を許されたことは、死ぬ日も、生きている年のようです』。魏徴が進み出て言った。『臣が衆に逆らって法を執れば、明主は忠を以てこれを恕し、臣が孤特に節を執れば、明主は勁を以てこれを恕す。昔その言を聞き、今その実を見る。蕭瑀が明聖に遇わなければ、必ず難に及んだでしょう』。太宗はその言葉を喜んだ。
十七年、長孫無忌ら二十四人と共に凌煙閣に図形を描かれた。この年、晋王が皇太子に立てられ、蕭瑀は太子太保に任ぜられ、引き続き政事を知った。太宗が遼東を征伐したとき、洛邑が要衝で、関・河を襟帯することから、蕭瑀を洛陽宮守とした。車駕が遼から還ると、太保の解任を請い、引き続き同中書門下とした。太宗は蕭瑀が仏道を好むことから、かつて刺繍の仏像一体を賜い、さらに蕭瑀の形状を仏像の側に刺繍して、供養の姿とした。また王褒の書いた『大品般若経』一部を賜い、さらに袈裟を賜って、講誦の服とした。蕭瑀はかつて言った。『房玄齢以下の同中書門下内臣は、皆朋党を結び比周し、真心を以て上に奉じる者はない』。累次にわたって単独で奏上して言った。『この者らは互いに権力を執り、膠漆の如く一体となっており、陛下は細かく熟知なさらないが、ただ未だ反逆していないだけです』。太宗は蕭瑀に言った。『人君たるものは、英材を駆り立て、心を推して士を待つものである。公の言はあまりに甚だしいのではないか、何ぞここに至らんや』。太宗は数日後に蕭瑀に言った。『臣を知るは君に若くはなく、人は完璧を求めるべからず、自らその短を捨てて長を用いるべきである。朕は才能は聡明に及ばないが、頓に臧否に迷うべきではない』。そこで数回にわたり蕭瑀に信誓を立てた。蕭瑀は既に自ら得るところがなく、太宗も長くこれを恨みに思っていたが、終に蕭瑀の忠貞が多いことを以て廃さなかった。折しも蕭瑀が出家を請うたので、太宗は言った。『公が平素より沙門を愛することをよく知っている。今、その意に背くことはできない』。蕭瑀は直ちに奏上して言った。『臣は近ごろ考えたが、出家することはできません』。太宗は群臣に対して発言しながら、取捨が相違するので、心中穏やかでなかった。蕭瑀は間もなく足疾を称して、時に朝堂に詣でても、また入って謁見せず、太宗は侍臣に言った。『蕭瑀はその所を得ていないのではないか、自らこのように不満を抱いているのか』。遂に手詔を下して言った。
朕は聞く、物が順調であれば、質が異なっても成功し、事が背けば、形が同じでも用いられぬと。それゆえ舟が浮かび楫が上がれば千里の川を渡ることができ、轅が引かれ輪が止まれば一毫の地も越えられぬ。故に動静が互いに循り合えば務めやすく、曲直が相反すれば功を成し難いことを知る。ましてや上下の宜しきや君臣の間際においてはなおさらである。朕は元首としての明がなく、股肱に徳を託そうと期し、偽を去り真に帰り、澆薄を除き質朴に返らんと欲する。仏教に至っては、意に遵うところではなく、国としての常経はあるが、固より弊俗の虚術である。何となれば、その道を求める者は将来の福を験せず、その教を修める者は却って既往の罪を受けるからだ。梁の武帝が釈氏に心を窮め、簡文帝が法門に意を鋭くし、帑蔵を傾けて僧祇に給し、人力を殫くして塔廟に供したが、三淮に沸浪が起こり五嶺に煙が騰るに及んで、熊蹯に余息を仮り、雀谷に残魂を引くに至った。子孫は覆亡する暇もなく、社稷は俄頃にして墟と化した。報施の徴、何ぞ其れ繆れること甚だしきや。而るに太子太保・宋国公の蕭瑀は覆車の余軌を践み、亡国の遺風を襲う。公を棄て私に就き、隠顕の際を明らかにせず、身は俗にして口は道を説き、邪正の心を弁ぜず。累葉の殃源を修め、一躬の福本を祈り、上は君主に違忤し、下は浮華を扇習す。先に朕は張亮に謂いて云う、「卿は既に仏に事えているのに、何故出家しないのか」と。蕭瑀は端然として自ら応え、先に入道せんことを請うたので、朕は即ちこれを許したが、尋ねてまた用いなかった。一たびは応え一たびは惑い、瞬息の間にあり、自ら可とし自ら否とし、帷扆の所に変ず。棟梁の大體に乖き、豈に具瞻の量あらんや。朕は猶お隠忍して今に至るも、蕭瑀は尚ほ全く悛改無し。宜しく即ち茲の朝闕を去り、小藩に出でて牧すべし。商州刺史と為すことを可とし、仍って其の封を除く。
二十一年、征されて金紫光禄大夫を授けられ、復た宋国公に封ぜられる。玉華宮に従幸し、疾に遘い宮所にて薨ず。年七十四。太宗聞きて膳を輟め、高宗之が為に哀を挙げ、使いを遣わして弔祭す。太常、謚して「肅」と曰う。太宗曰く、「易名の典は必ず其の行いを考う。蕭瑀の性は猜貳多く、此の謚は不直に失す。更に宜しく実を摭うべし」と。謚を改めて貞褊公と曰う。冊贈して司空・荊州都督と為し、東園秘器を賜い、昭陵に陪葬す。臨終に遺書して曰く、「生れて必ず死すは、理の常分なり。気絶の後は単服一通を著すべく、以て小斂に充てよ。棺内に単席を施すのみとし、其の速やかに朽ちんことを冀い、別に一物を加うること不得。卜日に仮ること無く、惟だ速やかに辦ずるに在り。古より賢哲、等例無きに非ず、爾宜しく之を勉めよ」と。諸子其の遺志に遵い、斂葬すること儉薄なり。
子の蕭鋭
子の蕭鋭が嗣ぎ、太宗の女襄城公主を尚し、太常卿・汾州刺史を歴任す。公主は雅に礼度有り、太宗は毎に諸公主に令して、凡そ其の為す所は、皆其の楷則を視しむ。又た所司に令して別に第を営ましむ。公主辞して曰く、「婦人の舅姑に事うることは父母に事うるが如し。若し居処同じからずんば、則ち定省多く闕くべし」と。再三固く譲り、乃ち止み、旧宅に於いて改めて創らしむ。永徽初め、公主薨じ、詔して昭陵に葬る。
蕭瑀の兄の蕭璟も亦た学行有り。武徳中に黄門侍郎と為り、累転して秘書監、蘭陵県公に封ぜらる。貞観中に卒し、礼部尚書を贈らる。
兄の子の蕭鈞
蕭鈞の子の蕭瓘
子の蕭瓘、官は渝州長史に至る。母終わり、毀ちて以て卒す。蕭瓘の子の蕭嵩、別に伝有り。
蕭鈞の兄の子の蕭嗣業
蕭鈞の兄の子の蕭嗣業、少くより祖姑の隋の煬帝后に随ひて突厥に入る。貞観九年に帰朝し、深く蕃情を識るを以て使に充て、突厥の衆を統領す。累転して鴻臚卿、単于都護府長史を兼ぬ。調露中、単于突厥反叛し、蕭嗣業兵を率いて戦ひ、敗れ、嶺南に配流されて死す。
裴矩
子の宣機は、高宗の時に官は銀青光禄大夫・太子左中護に至った。
宇文士及
宇文士及は、雍州長安の人である。隋の右衛大將軍宇文述の子で、宇文化及の弟である。開皇の末、父の勲功により新城縣公に封ぜられた。隋の文帝は嘗て彼を臥内に引き入れて語らい、その才を奇とし、煬帝の娘である南陽公主を娶らせた。大業年間、尚輦奉御を歴任し、江都への行幸に従った。父の喪により職を去ったが、間もなく起用されて鴻臚少卿となった。化及が密かに逆乱を謀った際、彼は主君の婿であったため、深く忌み嫌って告げず、煬帝を弑した後、内史令に任じた。初め、高祖(李淵)が殿内少監であった時、士及は奉御であり、深く結び付きを図った。化及に従って黎陽に至った時、高祖は手詔を下して彼を召し寄せた。士及もまた密かに家僮を遣わし、間道を通って長安に赴き誠心を表明し、更に使者を通じて密かに金環を貢いだ。高祖は大いに喜び、侍臣に謂って曰く、「我は士及と平素より共に事を為したことがある。今、金環を貢ぐとは、これ彼の来る意向である」と。魏縣に至り、兵威が日に窮迫すると、士及は化及に西帰して長安に帰るよう勧めたが、化及は従わず、士及は封倫と共に済北に赴き軍糧を徴督することを求めた。間もなく化及が竇建德に捕らえられると、済北の豪族は多く士及に勧めて青・斉の兵衆を発し、北進して建德を撃ち、河北の地を収めて形勢を観るべきだと言った。士及は受け入れず、遂に封倫等と共に降伏して来た。高祖は彼を責めて曰く、「汝兄弟は帰郷を思う兵卒を率いて、関に入る計略を為した。この時、もし我が父子を得たならば、どうして生かしておくことがあろうか。今、何の地に自ら処そうとするのか」と。士及は謝して曰く、「臣の罪は誠に誅に容れられません。しかし臣は早くより龍顔に奉り、久しく心腹として存じました。かつて涿郡におりました時、嘗て夜中に密かに時事を論じ、後に汾陰宮において、また丹赤を尽くしました。陛下が九五に龍飛されて以来、臣は実に心を傾けて西帰を願い、密かに貢ぎ物を申し上げたのは、これをもって罪を贖いたいと望んだからでございます」と。高祖は笑って裴寂に謂って曰く、「この人は我と天下の事を言って以来、今に至るまで既に六、七年になる。公ら輩は皆その後に居る」と。当時、士及の妹は昭儀となり、寵愛を受けており、これにより次第に親しく遇されるようになり、上儀同を授けられた。太宗に従って宋金剛を平定し、功により再び新城縣公に封ぜられ、壽光縣主を妻とし、仍って秦王府驃騎將軍に遷った。また王世充・竇建德の平定に従い、功により爵を進めて郢國公とされ、中書侍郎に遷り、再び転じて太子詹事となった。太宗が即位すると、封倫に代わって中書令となり、真食として益州七百戸を賜った。間もなく本官のまま涼州都督を檢校した。当時、突厥が屡々辺境の寇賊となったため、士及は威を立てて辺境を鎮めようと欲し、出入りの度に兵を陳列し、盛大に儀仗・護衛を設けた。また、節を折って士を礼遇し、涼州の人士はその威厳と恩恵に服した。殿中監に徴され、病により出て蒲州刺史となり、政治は寛大で簡素であり、吏民は安んじた。数年後、入朝して右衛大將軍となり、甚だ親しく顧みられ、毎度閣中に招き入れられ、夜更けになってようやく退出し、彼が帰宅して沐浴する時でさえ、仍って馳せて召し寄せられ、同列で比べる者はいなかった。しかし特に謹み深く秘密を守り、その妻が度々宮中からの使者の召しに何か楽しい事があったかと尋ねても、士及は終に何も言わなかった。間もなくその功績を記録し、別に一子を新城縣公に封じた。職に在ること七年、再び殿中監となり、金紫光祿大夫を加えられた。病が篤くなると、太宗は自ら見舞い、撫でて涙を流した。貞観十六年に卒し、左衛大將軍・涼州都督を贈られ、昭陵に陪葬された。士及は幼い弟と孤児となった兄の子を養育し、友愛をもって称えられ、親戚や旧知で貧乏な者があれば、常に物を与えた。しかし自らの生活は豊かにし、衣食や服玩は必ず奢侈の極みに至った。謚を「恭」としようとしたが、黄門侍郎劉洎が駁して曰く、「士及は家に居て奢侈にふけり、恭と為すに適さない」と。遂に謚を「縱」とされた。
史評
史臣曰く、封倫は揣摩の才多く、附托の巧み有り。化及に党して煬帝を数えたりすれば、或いは赧顔あらん。士及に托して唐朝に帰すには、殊に愧色無し。建成の際に当たりては、事に両端を持し、蕭瑀の恩に背きては、奏に異議多し。太宗は明主なり、其の心を見ず。玄齢は賢相なり、尚お其の諂を容る。狡算醜行、死して後彰る。苟も唐臨の劾、唐儉等の議無からんには、則ち奸人計を得ん。蕭瑀は骨鯁亮直、儒術清明なり。隋朝に執政し、忠にして罪を得、高祖に委質し、知る所は為さざる無し。太宗の朝に臨むに及び、房・杜用事するに、小過を容れず、成功に居らんと欲す。既に猜貳の言を形せば、寧んぞ或は躍の位を固くせん。易名して祗に「褊」の字を加うるは、幸いする所猶お多し。仏に奉じて道情を失わざるは、善ならずして何をか謂わん。裴矩は方略寛簡、士及は通変謹密、皆一時の称する所なり。
贊して曰く、封倫は揣摩諂詐、蕭瑀は骨鯁儒術。裴矩は方略寛簡、士及は通変謹密。