舊唐書

巻062

巻062

舊唐書

原文舊唐書

卷六十二

原文卷六十二

列傳第十二 李綱 鄭善果 楊恭仁 皇甫無逸 李大亮

原文列傳第十二 李綱 鄭善果 楊恭仁 皇甫無逸 李大亮

李綱

原文李綱

李綱、字は文紀、観州蓚の人である。祖父の元則は後魏の清河太守。父の制は周の車騎大将軍。綱は若くして慷慨として志節があり、常に忠義を以て自ら期した。初めは名を瑗、字を子玉と称したが、『後漢書かんじょごかんじょ』張綱伝を読み、これを慕って改めた。周の斉王憲が参軍に引き立てた。宣帝が憲を害そうとした時、僚属を召してその罪を証成させようとしたが、綱は死を誓って、終に屈曲した言葉を吐かなかった。憲が害された時、露車に屍を載せて出たが、旧吏は皆散り去り、ただ綱のみが棺を撫でて号慟し、自ら埋葬し、哭拝して去った。

原文李綱,字文紀,觀州蓚人也。祖元則,後魏清河太守。父制,周車騎大將軍。綱少慷慨有志節,每以忠義自許。初名瑗,字子玉,讀《後漢書·張綱傳》,慕而改之。周齊王憲引為參軍。宣帝將害憲,召僚屬證成其罪,綱誓之以死,終無撓辭。及憲遇害,露車載屍而出,故吏皆散,唯綱撫棺號慟,躬自埋瘞,哭拜而去。

隋の開皇末、太子洗馬となった。皇太子勇が歳首に宮臣を宴した時、左庶子唐令則が自ら琵琶を奏し、また『武媚娘』の曲を歌うことを請うた。綱は勇に進言して曰く、「令則は身を宮卿に任じ、職は調護を当てるべきであるのに、宴座において自ら倡優に比し、淫声を進め、視聴を穢す。事もし上聞すれば、令則の罪は測り難く、豈に殿下に累いせざらんや。臣請う、遽かにその罪を正さんことを」。勇曰く、「我れ楽しみを為さんと欲するのみ、君多く事を為すなかれ」。綱は趨り出でた。勇が廃黜された時、文帝は東宮官属を召して厳しく譲ったが、敢えて対する者無かった。綱対えて曰く、「今日の事は、乃ち陛下の過ちにして、太子の罪に非ず。勇の器は上品に非ず、性は常人なり。若し賢明の士を得て之を輔導せしめば、足らく以て皇業を継嗣すべし。方今多士朝に盈ちたり、賢者を択びて其の任に居らしむべきに、奈何ぞ絃歌鷹犬の才を以て側に侍らしめ、至って此れを致さしむるや。乃ち陛下の訓導足らざるなり、豈に太子の罪ならんや」。辞気凛然たり、左右皆之が為に色を失う。文帝曰く、「汝を彼に在らしむるは、豈に人を択ぶに非ざるや」。綱曰く、「臣東宮に在りしも、言うを得る者に非ざりき」。帝其の対を奇とし、尚書右丞に擢拝した。時に左僕射楊素・蘇威朝政に当たり用事す。綱は毎に固く所見を執り、之と同ぜず、ここより二人深く之を悪む。時に大将軍劉方を遣わして林邑を誅討せしむ。楊素、文帝に言いて曰く、「林邑は珍宝多し、正人に非ざれば委すべからず」。因りて綱の任ずべきを言う。文帝行軍司馬と為す。劉方素の意を承け、綱を屈辱し、幾くんか死に至らんとす。軍還りて後、久しく調を得ず。後に斉王府司馬を拝す。未だ幾ばくもせず、蘇威復た綱をして南海に詣り林邑に応接せしむ。久しくして召さず。綱後自ら来りて事を奏す。威復た綱の擅に職を離るるを言い、之を以て吏に属す。綱善く卜する者を見て、之に筮わしむ。『鼎』に遇う。因りて綱に謂いて曰く、「公易姓の後、方に志を得て卿輔と為るべし。宜しく早く退くべし。然らずんば、折足の敗有らん」。尋いで赦免に会い、鄠に屏居す。

原文隋開皇末,為太子洗馬。皇太子勇嘗以歲首宴宮臣,左庶子唐令則自請奏琵琶,又歌《武媚娘》之曲。綱自勇曰:「令則身任宮卿,職當調護,乃於宴座自比倡優,進淫聲,穢視聽。事若上聞,令則罪不測,豈不累於殿下?臣請遽正其罪。」勇曰:「我欲為樂耳,君勿多事。」綱趨而出。及勇廢黜,文帝召東宮官屬切讓之,無敢對者。綱對曰:「今日之事,乃陛下之過,非太子罪也。勇器非上品,性是常人,若得賢明之士輔導之,足堪繼嗣皇業。方今多士盈朝,當擇賢者居其任,奈何以絃歌鷹犬之才侍側,至令致此?乃陛下訓導不足,豈太子之罪耶!」辭氣凜然,左右皆為之失色。文帝曰:「令汝在彼,豈非擇人?」綱曰:「臣在東宮,非得言者。」帝奇其對,擢拜尚書右丞。時左僕射楊素、蘇威當朝用事,綱每固執所見,不與之同,由是二人深惡之。會遣大將軍劉方誅討林邑,楊素言於文帝曰:「林邑多珍寶,自非正人不可委。」因言綱可任,文帝以為行軍司馬。劉方承素之意,屈辱綱,幾至於死。及軍還,久不得調。後拜齊王府司馬。未幾,蘇威復令綱詣南海應接林邑,久而不召。綱後自來奏事,威復言綱擅離所職,以之屬吏。綱見善卜者,令筮之,遇《鼎》,因謂綱曰:「公易姓之後,方可得志而為卿輔。宜早退;不然,有折足之敗也。」尋會赦免,屏居於鄠。

大業末、賊帥何潘仁、綱を以て長史と為す。義師京城に至り、綱来り謁見す。高祖こうそ大いに悦び、丞相府司録を授け、新昌県公に封じ、専ら選を掌る。高祖践祚し、礼部尚書を拝し、兼ねて太子詹事と為り、選を典すること旧の如し。

原文大業末,賊帥何潘仁以綱為長史。義師至京城,綱來謁見。高祖大悅,授丞相府司錄,封新昌縣公,專掌選。高祖踐祚,拜禮部尚書,兼太子詹事,典選如故。

先に、巣王元吉は并へい州総管を授けられた。ここにおいて其の左右をして百姓を攘奪せしめ放縦す。宇文歆頻りに諫むも納れられず、乃ち上表して曰く、「王州に在る日、多く微行を出だし、常に竇誕と遊猟を共にし、谷稼を蹂躙し、親暎を放縦し、公行攘奪し、境内の獣畜、之を取ること殆く尽きたり。衢に当たりて射ち、人の箭を避くるを観て以て笑楽と為す。左右を分遣し、戯れに攻戦と為し、互いに撃刺し疻傷して死に至る。夜府門を開き、他室に宣淫す。百姓怨毒し、各憤嘆を懐く。此を以て城を守らば、安んぞ自ら保たんや」。元吉竟に坐して免ぜらる。又父老を諷して闕に詣りて之を請わしむ。尋いで復職を令す。時に劉武周五千騎を率いて黄蛇嶺に至る。元吉車騎将軍張達を遣わし、歩卒百人を以て先ず之を嘗めしむ。達歩卒少なきを以て、固く行かざるを請う。元吉強いて之を遣わす。至れば則ち尽く賊に没す。達憤怒し、因りて武周を引きて榆次を攻め陥れ、進んで并州を逼る。元吉大いに懼れ、其の司馬劉徳威に紿いて曰く、「卿老弱を以て城を守れ、吾強兵を以て出戦せん」。因りて夜兵を出だし、其の妻子を携え、軍を棄てて奔還し京師に至る。并州遂に陥つ。高祖甚だ怒り、綱に謂いて曰く、「元吉幼少にして、未だ時事に習わず。故に竇誕・宇文歆を遣わして之を輔けしむ。強兵数万、食支十年、起義興運の資、一朝にして棄つ。宇文歆首めて此の計を画す。我れ之を斬らんとす」。綱曰く、「歆に頼りて陛下愛子を失わず、臣功有りと為す」。高祖其の故を問う。綱対えて曰く、「罪は竇誕の規諷能わざるに由り、致して軍人をして怨憤せしむ。又斉王年少にして、肆に驕逸放縦を行い、左右百姓を侵漁す。誕曾て諫止すること無く、乃ち随順掩蔵して、以て其の釁を成す。此れ誕の罪なり。宇文歆、情を論ずれば則ち疏く、彼に向かうも又浅し。王の過失、悉く以て聞奏す。且つ父子の際は、人の言い難き所、歆之を言う、豈に忠懇に非ざらんや。今罪を誅せんと欲して、其の心を録せず、臣愚窃に過ちと為す」。翌日、高祖綱を召し入れて、御座に升り謂いて曰く、「今我公有り、遂に刑罰濫れず。元吉自ら悪し、人に怨を結ぶ。歆既に曾て表を以て聞かしむ。誕亦焉んぞ能く制禁せん」。

原文先是,巢王元吉授并州總管,於是縱其左右攘奪百姓,宇文歆頻諫不納,乃上表曰:「王在州之日,多出微行,常共竇誕遊獵,蹂踐谷稼,放縱親暱,公行攘奪,境內獸畜,取之殆盡。當衢而射,觀人避箭以為笑樂。分遣左右,戲為攻戰,至相擊刺疻傷致死。夜開府門,宣淫他室。百姓怨毒,各懷憤嘆。以此守城,安能自保!」元吉竟坐免。又諷父老詣闕請之,尋令復職。時劉武週率五千騎至黃蛇嶺,元吉遣車騎將軍張達以步卒百人先嘗之。達以步卒少,固請不行。元吉強遣之,至則盡沒於賊。達憤怒,因引武周攻陷榆次,進逼并州。元吉大懼,紿其司馬劉德威曰:「卿以老弱守城,吾以強兵出戰。」因夜出兵,攜其妻孥,棄軍奔還京師,并州遂陷。高祖怒甚,謂綱曰:「元吉幼小,未習時事,故遣竇誕、宇文歆輔之。強兵數萬,食支十年,起義興運之資,一朝而棄。宇文歆首畫此計,我當斬之。」綱曰:「賴歆令陛下不失愛子,臣以為有功。」高祖問其故,綱對曰:「罪由竇誕不能規諷,致令軍人怨憤。又齊王年少,肆行驕逸放縱,左右侵漁百姓,誕曾無諫止,乃隨順掩藏,以成其釁,此誕之罪。宇文歆論情則疏,向彼又淺,王之過失,悉以聞奏。且父子之際,人所難言,歆言之,豈非忠懇?今欲誅罪,不錄其心,臣愚竊以為過。」翌日,高祖召綱入,升御坐謂曰:「今我有公,遂使刑罰不濫。元吉自惡,結怨於人。歆既曾以表聞,誕亦焉能制禁?」

時に高祖舞人安叱奴を散騎常侍さんきじょうじに拝す。綱上疏して諫めて曰く、「謹んで案ずるに『周礼』、均工・楽胥は仕伍に預かることを得ず。復た才子野の如く、妙師襄に等しきも、皆身終り子継ぎ、其の業を易えず。故に魏武祢衡をして鼓を撃たしむ。衡先ず朝服を解き、体を露わして之を撃ち、云う、敢えて先王の法服を伶人の衣と為さずと。斉の高緯曹妙達を封じて王と為し、安馬駒に開府を授くるも、既に物議を招き、大いに彝倫を絜う。国を有ち家を有つ者は以て殷鑑と為す。方今新たに天下を定め、太平の基を開く。起義の功臣、賞を行いて未だ遍からず。高才碩学、猶草萊に滞る。而るに先ず舞胡を令し、位を五品に致す。玉を鳴らし組を曳き、廊廟に趨馳す。顧みるに創業垂統、厥の子孫に貽すの道に非ざるなり」。高祖納れず。尋いで律令を参詳せしむ。

原文時高祖拜舞人安叱奴為散騎常侍,綱上疏諫曰:「謹案《周禮》,均工、樂胥不得預於仕伍。雖復才如子野,妙等師襄,皆身終子繼,不易其業。故魏武使祢衡擊鼓,衡先解朝服,露體而擊之,雲不敢以先王法服為伶人之衣。雖齊高緯封曹妙達為王,授安馬駒為開府,既招物議,大絜彝倫,有國有家者以為殷鑑。方今新定天下,開太平之基。起義功臣,行賞未遍;高才碩學,猶滯草萊。而先令舞胡,致位五品;鳴玉曳組,趨馳廊廟,顧非創業垂統貽厥子孫之道也。」高祖不納。尋令參詳律令。

李綱が東宮に在った時、隠太子の李建成は初めは甚だ礼遇した。建成は常に温湯に行き、李綱は時に病を以て従わなかった。建成に生魚を進める者がおり、饔人を召して鱠を作らせようとした。時に唐儉・趙元楷が座に在り、各自鱠を作ることを能くすると称え、建成はこれに従い、既にして言うには、「飛刀鱠鯉、鼎食を調和するは、公実に之れ有り。審諭弼諧に至っては、固より李綱に属す。」と。ここに於て使者を遣わし絹二百匹を送って之を遺った。建成は後漸く無行の徒に狎れ、猜忌の謀有り、諫めて止む可からず。又筮者の言を思い、頻りに骸骨を乞う。高祖漫罵して曰く、「卿は潘仁の長史たりしに、何ぞ乃ち朕が尚書たるを羞じるや。且つ建成東宮に在り、卿を遣わして輔導せしむ。何を為て屡々辞を致すや。」と。李綱頓首して陳謝して曰く、「潘仁は賊なり。誠に殺害に在り、諫むる毎に便ち止む。活かす所極めて多し。其の長史たる故に、愧じること無きを得たり。陛下は功成り業泰え、頗る自ら矜伐す。臣は凡劣を以て、才元凱に乖き、言う所水を石に投ずるが如し。安んぞ敢えて久しく尚書たらんや。兼ねて愚臣の太子に事うるを以てす。懐う所の鄙見、復た探納せず。既に補益無し。故に請うて退かんとす。」と。高祖謝して曰く、「公の直士たるを知る。勉めて我が児を弼えよ。」と。ここに於て擢きて太子少保と為し、尚書・詹事並びに如故。李綱又上書して太子を諫めて曰く、「李綱耄たり。日時流に過ぎ、墳樹已に拱す。幸いに未だ土に就かず、聖躬を傅くことを許さる。恩に酬いる無く、愚直を効さんことを請う。伏して願わくは殿下之を詳らかにせよ。窃に見るに、酒を飲むこと過多なるは、誠に養生の術に非ず。且つ凡そ人子と為る者は、孝友に務めて、以て君父の心を慰むべく、邪言を聴受し、妄りに猜忌を生ずべからず。」と。建成書を覧めて悦ばず、而して為す所は如故。李綱数言事を以て太子の旨に忤い、道既に行われず、鬱鬱として志を得ず。武徳二年、老を以て表して職を辞し、優詔を以て尚書を解き、仍って太子少保と為す。高祖は李綱を隋代の名臣と為し、甚だ優礼を加え、手敕する毎に未だ嘗て名を称せず。其の重んぜらるること此の如し。

原文綱在東宮,隱太子建成初甚禮遇。建成常往溫湯,綱時以疾不從。有進生魚於建成者,將召饔人作鱠。時唐儉、趙元楷在座,各自讚能為鱠,建成從之,既而謂曰:「飛刀鱠鯉,調和鼎食,公實有之;至於審諭弼諧,固屬於李綱矣。」於是遣使送絹二百匹以遺之。建成後漸狎無行之徒,有猜忌之謀,不可諫止。又思筮者之言,頻乞骸骨。高祖漫罵之曰:「卿為潘仁長史,何乃羞為朕尚書?且建成在東宮,遣卿輔導,何為屢致辭乎?」綱頓首陳謝曰:「潘仁,賊也,誠在殺害,每諫便止,所活極多,為其長史,故得無愧。陛下功成業泰,頗自矜伐,臣以凡劣,才乖元凱,所言如水投石,安敢久為尚書?兼以愚臣事太子,所懷鄙見,復不探納,既無補益,所以請退。」高祖謝曰:「知公直士,勉弼我兒。」於是擢拜太子少保,尚書、詹事並如故。綱又上書諫太子曰:「綱耄矣,日過時流,墳樹已拱,幸未就土,許傅聖躬,無以酬恩,請效愚直,伏願殿下詳之。竊見飲酒過多,誠非養生之術。且凡為人子者,務於孝友,以慰君父之心,不宜聽受邪言,妄生猜忌。」建成覽書不懌,而所為如故。綱以數言事忤太子旨,道既不行,鬱鬱不得志。武德二年,以老表辭職,優詔解尚書,仍為太子少保。高祖以綱隋代名臣,甚加優禮,每手敕未嘗稱名,其見重如此。

貞観四年、太子少師に拝す。時に李綱脚疾有り、践履に堪えず、太宗特に歩輿を賜い、李綱をして乗じて閣下に至らしめ、数たび禁中に引入れ、政道を以て問う。又輿をして東宮に入らしめ、皇太子引きて上殿せしめ、親しく之を拝す。李綱ここに於て君臣父子の道・問寝視膳の方を陳べ、理順にして辞直く、聴く者倦みを忘る。太子政事に親しむ毎に、太宗必ず李綱及び左僕射房玄齢・侍中王珪をして侍坐せしむ。太子嘗て古来君臣名教竭忠尽節の事を商略す。李綱凜然として曰く、「六尺の孤を托し、百里の命を寄す。古人以て難しと為すも、李綱は以て易しと為す。」と。毎に論を吐き言を発するに、皆辞色慷慨、奪う可からざるの志有り。疾に遇うに及び、太宗尚書左僕射房玄齢を遣わし宅に詣りて存問し、絹二百匹を賜う。五年卒す。年八十五。開府儀同三司を贈り、謚して貞と曰う。太子之が為に碑を立つ。初め、周の斉王憲の女孀居して孑立す。李綱自ら斉王の故吏を以てし、贍恤甚だ厚し。李綱の卒するに及び、其の女髪を被りて号哭し、生む所を喪うが如し。

原文貞觀四年,拜太子少師。時綱有腳疾,不堪踐履,太宗特賜步輿,令綱乘至閣下,數引入禁中,問以政道。又令輿入東宮,皇太子引上殿,親拜之。綱於是陳君臣父子之道、問寢視膳之方,理順辭直,聽者忘倦。太子每親政事,太宗必令綱及左僕射房玄齡、侍中王珪侍坐。太子嘗商略古來君臣名教竭忠盡節之事,綱凜然曰:「托六尺之孤,寄百里之命,古人以為難,綱以為易。」每吐論發言,皆辭色慷慨,有不可奪之志。及遇疾,太宗遣尚書左僕射房玄齡詣宅存問,賜絹二百匹。五年卒,年八十五。贈開府儀同三司,謚曰貞。太子為之立碑。初,周齊王憲女孀居孑立,綱自以齊王故吏,贍恤甚厚。及綱卒,其女被髮號哭,如喪所生焉。

孫少植

原文孫少植

子少植、隋の武陽郡同功書佐、李綱に先だって卒す。

原文子少植,隋武陽郡同功書佐,先綱卒。

少植の子安仁、永徽中太子左庶子と為る。太子の廃せらるるに属し、陳邸に帰る。宮僚皆逃散し、敢えて辞送する者無し。安仁独り涕泣して拝辞して去る。朝野之を義とす。後恒州刺史に卒す。

原文少植子安仁,永徽中為太子左庶子。屬太子被廢,歸於陳邸,宮僚皆逃散,無敢辭送者,安仁獨涕泣拜辭而去,朝野義之。後卒於恆州刺史。

鄭善果

原文鄭善果

鄭善果は、鄭州滎沢の人なり。祖孝穆、西魏の少司空しくう・岐州刺史。父誠、周の大将軍・開封県公。大象初、尉遅迥を討ち、力戦して害に遇う。善果年九歳、父の王事に死するを以て、詔して其の官爵を襲わしむ。家人其の嬰孺を以てし、之に告げず。冊を受けて悲慟し、擗踴して勝えず、観る者之が為に流涕せざる莫し。隋の開皇初、武徳郡公に改封し、沂州刺史に拝す。大業中、累転して魯郡太守と為る。善果篤慎、親に事えて至孝なり。母崔氏、賢明にして政道に暁る。善果務めを理むる毎に、崔氏嘗て閣内に於て之を聴く。其の剖断合理なるを聞けば、帰れば則ち大悦す。若し処事允ならざれば、母則ち之と言わず、善果床前に伏し、終日敢えて食せず。崔氏之に謂いて曰く、「吾は汝を怒るに非ず、反って汝が家を愧づるのみ。汝が先君官に在りて清恪、未だ嘗て私を問わず、身を以て国に徇い、之に継ぎて死す。吾亦汝が父の心を継がんことを望む。童子より茅土を承襲し、今位方伯に至る。豈汝が身の能く之を致す所ならんや。安んぞ此の事を思わずして妄りに嗔怒を加えんや。内は則ち爾が家風を墜し、或いは官爵を亡ぼし、外は則ち天子の法を虧き、以て罪戾を取らん。吾は寡婦なり。慈有りて威無し。汝をして教訓を知らしめず、以て清忠の業を負わしむ。吾が死するの日、亦何の面を以てか汝が先君に事えん。」と。善果此に由りて遂に己を励まして清吏と為り、所在に政績有り、百姓之を懐う。京師に朝するに及び、煬帝其の官に居りて儉約、政に蒞りて厳明なるを以てし、武威太守樊子蓋なる者と天下第一と為し、各物千段、黄金百両を賞し、再び遷って大理卿と為す。後突厥煬帝を雁門に囲む。守禦の功を以て、右光禄大夫に拝す。江都に幸するに従う。宇文化及逆を弑しいし、民部尚書に署し、化及に随いて遼城に至る。淮安王神通化及を囲む。善果化及が為に守禦督戦し、流矢に中る。神通退還するに及び、竇建徳進軍して之を克つ。建徳の将王琮善果を獲、之を誚って曰く、「公は隋室の大臣なり。自尊夫人亡びて後、清称益衰う。又忠臣の子なり。奈何ぞ弑君の賊に殉命して苦戦し、傷痍此の如くなるや。」と。善果深く愧赧し、自殺せんと欲す。偽中書令宋正本馳せ往きて救い止む。建徳又之が為に礼せず、乃ち相州に奔る。淮安王神通京師に送る。高祖之に遇うこと甚だ厚く、太子左庶子に拝し、検校内史侍郎、滎陽けいよう郡公に封ず。善果東宮に在り、数たび忠言を進め、匡諫する所多し。未だ幾ばくもなく、検校大理卿、兼ねて民部尚書と為る。身を正しくして法を奉じ、甚だ善績有り。制して裴寂等十人と、奏事及び侍立する毎に、並びに殿に升らしめ、従兄の元璹其の数に在り、時に以て栄と為す。尋いで事に坐して免ぜらる。山東平るに及び、節を持ちて招撫大使と為り、選挙不平に坐して除名せらる。後礼部・刑部二尚書を歴る。貞観元年、出でて岐州刺史と為り、復た公事を以て免ぜらる。三年、起きて江州刺史と為り、卒す。

原文鄭善果,鄭州滎澤人也。祖孝穆,西魏少司空、岐州刺史。父誠,周大將軍、開封縣公。大象初,討尉遲迥,力戰遇害。善果年九歲,以父死王事,詔令襲其官爵。家人以其嬰孺,弗之告也,受冊悲慟,擗踴不能勝,觀者莫不為之流涕。隋開皇初,改封武德郡公,拜沂州刺史。大業中,累轉魯郡太守。善果篤慎,事親至孝。母崔氏,賢明曉於政道,每善果理務,崔氏嘗於閣內聽之。聞其剖斷合理,歸則大悅;若處事不允,母則不與之言,善果伏於床前,終日不敢食。崔氏謂之曰:「吾非怒汝,反愧汝家耳。汝先君在官清恪,未嘗問私,以身徇國,繼之以死。吾亦望汝繼父之心。自童子承襲茅土,今位至方伯,豈汝身能致之耶?安可不思此事而妄加嗔怒?內則墜爾家風,或亡官爵;外則虧天子之法,以取罪戾。吾寡婦也,有慈無威,使汝不知教訓,以負清忠之業,吾死之日,亦何面以事汝先君乎!」善果由此遂勵己為清吏,所在有政績,百姓懷之。及朝京師,煬帝以其居官儉約,蒞政嚴明,與武威太守樊子蓋者為天下第一,各賞物千段,黃金百兩,再遷大理卿。後突厥圍煬帝於雁門,以守禦功,拜右光祿大夫。從幸江都。宇文化及弒逆,署為民部尚書,隨化及至遼城。淮安王神通圍化及,善果為化及守禦督戰,為流矢所中。及神通退還,竇建德進軍克之。建德將王琮獲善果,誚之曰:「公隋室大臣也,自尊夫人亡後而清稱益衰,又忠臣子,奈何為弒君之賊殉命苦戰而傷痍若此?」善果深愧赧,欲自殺,偽中書令宋正本馳往救止之。建德又不為之禮,乃奔相州。淮安王神通送於京師,高祖遇之甚厚,拜太子左庶子,檢校內史侍郎,封滎陽郡公。善果在東宮,數進忠言,多所匡諫。未幾,檢校大理卿,兼民部尚書。正身奉法,甚有善績。制與裴寂等十人,每奏事及侍立,並令升殿,與從兄元璹在其數,時以為榮。尋坐事免。及山東平,持節為招撫大使,坐選舉不平除名。後歷禮部、刑部二尚書。貞觀元年,出為岐州刺史,復以公事免。三年,起為江州刺史,卒。

従兄元璹

原文從兄元璹

元璹は、隋の岐州刺史・沛はい国公鄭訳の子である。若くして父の功により儀同大将軍に拝され、沛国公の爵を襲い、累進して右武候将軍に転じ、莘国公に改封された。大業年間、出向して文城郡太守となった。義師が河東に至ると、元璹は郡を挙げて降伏し、召されて太常卿に拝された。京城が平定されると、本官のまま参旗将軍を兼ねた。元璹は若い頃から軍旅にあり、特に軍法に明るく、高祖はしばしば諸軍を巡視させ、その兵事を教えさせた。突厥の始畢可汗の弟乙力設が兄に代わって叱羅可汗となり、また劉武周の将宋金剛が叱羅と共に犄角の勢いをなして、汾州・晋州を寇掠した。詔により元璹が蕃に入り、禍福を諭したが、叱羅はついに受け入れず、かえってその部落を総べて太原に入寇し、武周の声援としようとした。間もなく、叱羅は病に罹り、治療しても癒えず、その部下は元璹が人に命じて毒を盛ったのではないかと疑い、ついに元璹を囚え、帰国させなかった。叱羅はついに死んだ。頡利が後を嗣いで立つと、元璹を留め置き、毎回その牙帳に随い、数年を経た。頡利は後に高祖が財物を送り、また結婚を許したと聞き、初めて元璹を放って来還させた。高祖は労って言った、「卿は虜庭において累年拘束され、蘇武にも劣らぬ。」鴻臚卿に拝した。間もなく突厥がまた并州を寇掠した。当時元璹は母の喪中であったが、高祖は墨絰のまま使者を充てて招慰することを命じた。突厥は介休から晋州に至るまで、数百里の間に、精騎数十万が山谷を埋め映した。元璹に会うと、中国の違背の事を責めたが、元璹は機に応じて対処し、ついに屈する所なく、かえって突厥の背誕の罪を数え上げたので、突厥は大いに慚じ、返答できなかった。元璹はまた頡利に言った、「漢と突厥とは風俗が異なり、漢が突厥を得ても臣とすることはできず、突厥が漢を得てもまた何の用があろうか。かつ抄掠した資財は皆将士に入り、可汗においては一無所得である。早く兵馬を収め、使者を遣わして和好するに如かず、国家は必ず重い賜物があり、幣帛は皆可汗に入り、労苦を免れて坐して利益を受けることができる。大唐が天下を有する初め、即ち可汗と兄弟を結び、行人往来し、音問絶えなかった。今どうして善を捨て怨みを取り、多きに背き少なきに就くのか。」頡利はその言を容れ、即ち兵を引いて還った。太宗は書を致して慰めて言った、「公が既に可汗と和を結んだことを知り、遂に辺亭の警を息め、烽火を燃やさず。戎を和する功は、豈に魏絳のみならんや、金石の賜は固より遠からざるべし。」元璹は義寧以来、五度蕃に入り使者を充て、幾らか死に至らんとする事数度に及んだ。貞観三年、また突厥に使いし、還って奏上して言った、「突厥の興亡は、唯羊馬を以て準とする。今六畜疲羸し、人皆菜色、またその牙内に飯を炊けば、化して血となる。徴祥此の如し、三年を出でず、必ず覆滅すべし。」太宗は然りとした。間もなく、突厥は果たして敗れた。元璹は後に累進して左武候大将軍に転じ、事に坐して免官された。間もなく起用されて宜州刺史となり、また沛国公に封ぜられた。元璹は幹略あり、在任する所に頗る声譽著しかった。然しその父鄭訳が継母に事えて温凊の礼を失い、隋文帝曾て『孝経』を賜い、元璹に至って親に事えるも、また孝を以て聞こえず、清論これを鄙んだ。二十年に卒し、幽州刺史を贈られ、諡して簡と言う。

原文元璹,隋岐州刺史、沛國公譯子也。少以父功拜儀同大將軍,襲爵沛國公,累轉右武候將軍,改封莘國公。大業中,出為文城郡守。義師至河東,元璹以郡來降,征拜太常卿。及定京城,以本官兼參旗將軍。元璹少在戎旅,尤明軍法,高祖常令巡諸軍,教其兵事。突厥始畢可汗弟乙力設代其兄為叱羅可汗,又劉武周將宋金剛與叱羅共為掎角,來寇汾、晉。詔元璹入蕃,諭以禍福,叱羅竟不納,乃欲總其部落,入寇太原,以為武周聲援。未幾,叱羅遇疾,療之弗愈,其下疑元璹令人毒之,乃囚執元璹,不得歸,叱羅竟死。頡利嗣立,留元璹,每隨其牙帳,經數年。頡利後聞高祖遺其財物,又許結婚,始放元璹來還。高祖勞之曰:「卿在虜庭,累載拘繫,蘇武弗之過也。」拜鴻臚卿。尋而突厥又寇并州,時元璹在母喪,高祖令墨絰充使招慰。突厥從介休至晉州,數百里間,精騎數十萬,填映山谷。及見元璹,責中國違背之事,元璹隨機應對,竟無所屈,因數突厥背誕之罪,突厥大慚,不能報。元璹又謂頡利曰:「漢與突厥,風俗各異,漢得突厥,既不能臣,突厥得漢,復何所用?且抄掠資財,皆入將士,在於可汗,一無所得。不如早收兵馬,遣使和好,國家必有重賚,幣帛皆入可汗,免為劬勞,坐受利益。大唐初有天下,即與可汗結為兄弟,行人往來,音問不絕。今乃舍善取怨,違多就少,何也?」頡利納其言,即引還。太宗致書慰之曰:「知公已共可汗結和,遂使邊亭息警,爟火不然。和戎之功,豈唯魏絳,金石之錫,固當非遠。」元璹自義寧已來,五入蕃充使,幾至於死者數矣。貞觀三年,又使入突厥,還奏曰:「突厥興亡,唯以羊馬為準。今六畜疲羸,人皆菜色,又其牙內炊飯,化而為血。征祥如此,不出三年,必當覆滅。」太宗然之。無幾,突厥果敗。元璹後累轉左武候大將軍,坐事免。尋起為宜州刺史,復封沛國公。元璹有干略,所在頗著聲譽。然其父譯事繼母失溫凊之禮,隋文帝曾賜以《孝經》;至元璹事親,又不以孝聞,清論鄙之。二十年卒,贈幽州刺史,謚曰簡。

弟の孫杲は知名で、則天の時に天官侍郎となった。

原文弟孫杲知名,則天時為天官侍郎。

楊恭仁

原文楊恭仁

楊恭仁、本名は綸、弘農郡華陰県の人、隋の司空・観王楊雄の長子である。隋の仁寿年間、累進して甘州刺史を除かれた。恭仁は大綱を挙げることに務め、苛察を為さず、戎夏これを安んじた。文帝は楊雄に謂って言った、「恭仁は州において、甚だ善政あり、唯朕が人を得たのみならず、また卿の義方の致す所なり。」大業初年、吏部侍郎に転じた。楊玄感が乱を起こすと、煬帝は恭仁に兵を率いて経略することを制し、玄感と破陵において戦い、大いにこれを破った。玄感兄弟は身を挺して遁走し、恭仁は屈突通らと追討してこれを獲た。軍が還ると、煬帝は内殿に召し入れて言った、「我聞く、破陵の陣において、唯卿力戦し、功最も比ぶべからずと。卿が法を奉じて清慎なるは知るも、都て勇決此の如きは知らざりき。」納言蘇威曰く、「仁者は必ず勇あり、固より虚ならず。」当時蘇威及び左衛大将軍宇文述・御史大夫裴蘊・黄門侍郎裴矩らは皆詔を受けて選事を参掌し、多く賄賂を受け、士流怨嗟した。恭仁独り雅正自ら守り、蘊らに容れられず、これにより出向して河南道大使となり、盗賊を討捕した。当時天下大乱し、行って譙郡に至り、朱粲に敗れ、奔還して江都に至った。宇文化及が弑逆しいぎゃくすると、吏部尚書に署し、河北に随い、化及のために魏県を守った。当時元宝蔵が魏郡を拠有し、ちょうど行人魏徴が宝蔵を説き下し、恭仁を執って京師に送った。高祖は甚だ礼遇し、黄門侍郎に拝し、観国公に封ぜられた。間もなく涼州総管となった。恭仁は平素より辺事に習熟し、羌胡の情偽を深く悉くし、推心して下を馭し、人吏悦服し、葱嶺以東より、皆入朝貢した。間もなく、遥かに納言を授けられ、総管は元の如し。俄かに突厥の頡利可汗が衆数万を率いて州境に奄至したが、恭仁は方に随って備御し、多く疑兵を設けたので、頡利は懼れて退走した。瓜州刺史賀拔威が兵を擁して乱を起こすに属し、朝廷は遠きを憚り、未だ征討に遑あらず。恭仁は乃ち驍ぎょう勇を募り、倍道兼行して進み、賊は兵の至るの速きを慮らず、その二城を克った。恭仁は悉く俘虜を放ち、賊衆はその寛恵に感じ、遂に相率いて威を執って降った。久しくして、召されて吏部尚書に拝され、左衛大将軍・鼓旗将軍に遷った。貞観初年、雍州牧に拝され、左光禄大夫を加えられ、揚州大都督ととく府長史を行った。五年、洛州都督に遷った。太宗曰く、「洛陽らくようは要衝重地、古より其人を得難し。朕の子弟多しと雖も、恐らく任に非ず、特ち公に委ぬ。」恭仁は性虚澹にして、必ず礼度を以て自ら居り、謙恭して下士に接し、未だ物に忤わず、時人は石慶に比した。恭仁の弟師道は桂陽公主に尚し、従姪女は巣剌王妃となり、弟子の思敬は安平公主に尚し、帝室と連姻し、益々崇重を見た。後、老病を以て骸骨を乞うと、特進を以て帰第することを聴された。十三年に卒し、冊贈して開府儀同三司・潭州都督とし、昭陵に陪葬し、諡して孝と言う。

原文楊恭仁,本名綸,弘農華陰人,隋司空、觀王雄之長子也。隋仁壽中,累除甘州刺史。恭仁務舉大綱,不為苛察,戎夏安之。文帝謂雄曰:「恭仁在州,甚有善政,非唯朕舉得人,亦是卿義方所致也。」大業初,轉吏部侍郎。楊玄感作亂,煬帝制恭仁率兵經略,與玄感戰於破陵,大敗之。玄感兄弟挺身遁走,恭仁與屈突通等追討獲之。軍旋,煬帝召入內殿,謂曰:「我聞破陵之陣,唯卿力戰,功最難比。雖知卿奉法清慎,都不知勇決如此也。」納言蘇威曰:「仁者必有勇,固非虛也。」時蘇威及左衛大將軍宇文述、御史大夫裴蘊、黃門侍郎裴矩等皆受詔參掌選事,多納賄賂,士流嗟怨。恭仁獨雅正自守,不為蘊等所容,由是出為河南道大使,討捕盜賊。時天下大亂,行至譙郡,為硃粲所敗,奔還江都。宇文化及弒逆,署吏部尚書,隨至河北,為化及守魏縣。時元寶藏據有魏郡,會行人魏徵說下寶藏,執恭仁送於京師。高祖甚禮遇之,拜黃門侍郎,封觀國公。尋為涼州總管。恭仁素習邊事,深悉羌胡情偽,推心馭下,人吏悅服,自蔥嶺已東,併入朝貢。未幾,遙授納言,總管如故。俄而突厥頡利可汗率眾數萬奄至州境,恭仁隨方備御,多設疑兵,頡利懼而退走。屬瓜州刺史賀拔威擁兵作亂,朝廷憚遠,未遑征討。恭仁乃募驍勇,倍道兼進,賊不虞兵至之速,克其二城。恭仁悉放俘虜,賊眾感其寬惠,遂相率執威而降。久之,征拜吏部尚書,遷左衛大將軍、鼓旗將軍。貞觀初,拜雍州牧,加左光祿大夫,行揚州大都督府長史。五年,遷洛州都督。太宗曰:「洛陽要重,古難其人。朕之子弟多矣,恐非所任,特以委公也。」恭仁性虛澹,必以禮度自居,謙恭下士,未嘗忤物,時人方之石慶。恭仁弟師道,尚桂陽公主,從侄女為巢剌王妃,弟子思敬,尚安平公主,連姻帝室,益見崇重。後以老病乞骸骨,聽以特進歸第。十三年卒,冊贈開府儀同三司、潭州都督,陪葬昭陵,謚曰孝。

子の思訓が爵を襲い、

原文子思訓

子の思訓が爵を襲い、顕慶年間、右屯衛将軍を歴任した。当時右衛大将軍慕容宝節に愛妾があり、別宅に置き、嘗て思訓を邀えて之に就き宴楽した。思訓は深く宝節がその妻と隔絶することを責めたので、妾らは怒り、密かに毒薬を酒に置き、思訓は飲み尽くして便ち死んだ。宝節はこれに坐して嶺表に配流された。思訓の妻はまた闕に詣でて冤を称えたので、制して使者を遣わし就いてこれを斬らせた。仍って『賊盗律』を改め、毒薬を以て人を殺す科条を、更に重法に従わせた。

原文子思訓襲爵。顯慶中,歷右屯衛將軍。時右衛大將軍慕容寶節有愛妾,置於別宅,嘗邀思訓就之宴樂。思訓深責寶節與其妻隔絕,妾等怒,密以毒藥置酒,思訓飲盡便死。寶節坐是配嶺表。思訓妻又詣闕稱冤,制遣使就斬之。仍改《賊盜律》,以毒藥殺人之科,更從重法。

思訓の孫の睿交、本名は璬、若くして観国公の爵を襲ぎ、中宗の女長寧公主に尚した。張易之を誅するに預かり功有り、実封五百戸を賜う。神龍年間、秘書監となった。後に貶せられ、絳州別駕の任で卒した。

原文思訓孫睿交,本名璬,少襲爵觀國公,尚中宗女長寧公主。預誅張易之有功,賜實封五百戶。神龍中,為秘書監。後被貶,卒於絳州別駕。

弟の続、

原文弟續

恭仁の弟の続は、頗る辞学有り。貞観年間、鄆州刺史となった。

原文恭仁弟續,頗有辭學。貞觀中,為鄆州刺史。

続く孫の執柔は、則天の時に地官尚書となり、則天は外氏の近属であるため、甚だ優しく寵愛した。時に武承嗣・攸寧が相次いで政事を知り、則天は嘗て言うには、「我今、宗族及び外家より、常に一人を宰相とすべし」と。これにより執柔は同中書門下三品となり、間もなく卒した。執柔の子滔は、開元中に官は吏部侍郎・同州刺史に至る。執柔の弟執一は、神龍初め、張易之を誅した功により河東郡公に封ぜられ、累進して右金吾衛大將軍に至った。

原文續孫執柔,則天時為地官尚書,則天以外氏近屬,甚優寵之。時武承嗣、攸寧相次知政事,則天嘗曰:「我今當宗及外家,常一人為宰相。」由是執柔同中書門下三品,尋卒。執柔子滔,開元中官至吏部侍郎、同州刺史。執柔弟執一,神龍初,以誅張易之功封河東郡公,累至右金吾衛大將軍。

少弟の師道。

原文少弟師道

恭仁の少弟師道は、隋末に洛陽より帰国し、上儀同を授かり、備身左右となった。間もなく桂陽公主を尚めとり、吏部侍郎に超拜され、累転して太常卿となり、安德郡公に封ぜられた。貞観七年、魏徴に代わって侍中となった。性は周到で慎み深く謹密であり、未だ嘗て内事を漏洩せず、親友或いは禁中の言を問うと、却って他の言葉で答えた。嘗て言うには、「我れ少くして漢史を窺う、孔光が温室の樹を言わざるに至り、毎に其の余風を欽し、庶幾ちかくはこれに及ばん」と。師道は退朝後、必ず当時の英俊を引き連れ、園池に宴集し、而して文会の盛んなるは、当時比ぶるもの無し。雅みやびに篇什を善くし、又草隸に巧みで、酣賞の際、筆を援とって直ちに書き、宿構の如き有り。太宗は毎に師道の制する所を見れば、必ず吟諷して嗟賞した。十三年、転じて中書令となる。太子承乾の逆謀事が洩れ、長孫無忌・房玄齢と共に其の獄を按ずる。師道の妻の前夫の子趙節が承乾と通謀し、師道は微かに太宗を諷し、之を生かさんことを冀こいねがう、これにより譴責を受け、機密を知ることを罷やめられる。転じて吏部尚書となる。師道は貴家の子で、四海の人物に委くわしく練れん達せず、署用する所多く其の才に非ず、而して深く貴勢及び其の親党を抑え、以て嫌疑を避け、時論之を譏そしる。太宗は嘗て従容として侍臣に謂いて曰く、「楊師道の性行は純善にして、自ら愆過無し。而して情実は怯懦にして、未だ甚だしく事に更ふれず、緩急に力を得可からず」と。未だ幾いくばくもなく、高麗征伐に従い、中書令を摂る。及び軍還るに及び、之を毀そしる者有り、稍ようやく貶せられて工部尚書となり、間もなく転じて太常卿となる。二十一年卒し、吏部尚書・并州都督を贈られ、昭陵に陪葬し、東園秘器を賜い、併せて碑を立てしめられる。子の豫よ之は、巢剌王の女寿春県主を尚る。母の喪に居り、永嘉公主と淫乱し、主の婿竇奉節に擒とらえられ、五刑を具そなえて之を殺される。

原文恭仁少弟師道,隋末自洛陽歸國,授上儀同,為備身左右。尋尚桂陽公主,超拜吏部侍郎,累轉太常卿,封安德郡公。貞觀七年,代魏徵為侍中。性周慎謹密,未嘗漏洩內事,親友或問禁中之言,乃更對以他語。嘗曰:「吾少窺漢史,至孔光不言溫室之樹,每欽其餘風,所庶幾也。」師道退朝後,必引當時英俊,宴集園池,而文會之盛,當時莫比。雅善篇什,又工草隸,酣賞之際,援筆直書,有如宿構。太宗每見師道所制,必吟諷嗟賞之。十三年,轉中書令。太子承乾逆謀事洩,與長孫無忌、房玄齡同按其獄。師道妻前夫之子趙節與承乾通謀,師道微諷太宗,冀活之,由是獲譴,罷知機密。轉吏部尚書。師道貴家子,四海人物,未能委練,所署用多非其才,而深抑貴勢及其親黨,以避嫌疑,時論譏之。太宗嘗從容謂侍臣曰:「楊師道性行純善,自無愆過。而情實怯懦,未甚更事,緩急不可得力。」未幾,從征高麗,攝中書令。及軍還,有毀之者,稍貶為工部尚書,尋轉太常卿。二十一年卒,贈吏部尚書、并州都督,陪葬昭陵,賜東園秘器,並為立碑。子豫之,尚巢剌王女壽春縣主。居母喪,與永嘉公主淫亂,為主婿竇奉節所擒,具五刑而殺之。

師道の兄の子思玄は、高宗の時に吏部侍郎・国子祭酒となる。玄の弟思敬は、礼部尚書となる。師道の従兄の子崇敬は、太子詹事となる。

原文師道兄子思玄,高宗時為吏部侍郎、國子祭酒。玄弟思敬,禮部尚書。師道從兄子崇敬,太子詹事。

初め恭仁の父雄は隋に在り、同姓として寵貴せられ、武德の後より、恭仁兄弟の名位は尤も盛んであり、則天の時、又外戚として崇寵される。一家の内、駙馬三人、王妃五人、皇后を贈る者一人、三品已上の官二十余人、遂に盛族となる。

原文始恭仁父雄在隋,以同姓寵貴,自武德之後,恭仁兄弟名位尤盛,則天時,又以外戚崇寵。一家之內,駙馬三人,王妃五人,贈皇后一人,三品已上官二十餘人,遂為盛族。

皇甫無逸。

原文皇甫無逸

皇甫無逸、字は仁儉、安定烏氏の人。父の誕は、隋の并州総管府司馬。其の先は安定の著姓、京兆万年に徙居す。仁寿末、漢王諒が并州に於いて起兵して反し、誕は節を抗あらがって従わず、諒に殺される。無逸は時に長安ちょうあんに在り、諒の反を聞くや、即ち居喪の礼に同じ。人其の故を問うと、泣いて対えて曰く、「大人平生節義に徇したがい、既に乱常に属す、必ず苟免無からん」と。間もなく凶問果たして至る。喪に在りて柴毀礼を過ぎ、母に事つかうるに孝を以て聞こゆ。煬帝は誕の死節を以て、柱国・弘義郡公を贈り、無逸に爵を襲わしむ。時に五等皆廃せられ、其の時の忠義の後なるを以て、特ことに平輿侯に封ず。涓陽太守を拝し、甚だ能名有り、差品天下第一となる。再転して右武衛将軍となり、甚だ親委せらる。帝江都に幸す、無逸を以て洛陽を留守せしむ。江都の変に及び、段達・元文都と共に越王侗を尊立して帝と為す。王世充難を作す、無逸は老母妻子を棄て、関を斬って走る、追騎将まさに至らんとす、無逸曰く、「我れ死して後已やまん、終に爾と同じて逆を為す能わず」と。因って服する所の金帯を解きて之を地に投じ、曰く、「此を以て卿に贈らん、相迫る無かれ」と。追騎競きそって下馬して帯を取り、自ら相争奪す、これにより免る。高祖は隋代の旧臣を以て、甚だ之を尊礼し、刑部尚書を拝し、滑国公に封じ、歴て陝東道行台民部尚書となる。明年、遷って御史大夫となる。時に益部新たに開け、刑政未だ洽あまねからず、長吏横恣し、贓污狼藉す;無逸に命じて節を持ちて之を巡撫せしめ、制を承うけて除授せしむ。無逸朝化を宣揚し、法令厳粛、蜀しょく中甚だ之に頼る。皇甫希仁という者有り、無逸が方面を専制するを見て、徼幸して変を上もうし、云うには、「臣の父洛陽に在り、無逸は母の故の為に、陰に臣を遣わして王世充と相知る」と。高祖其の詐を審つまびらかにし、之を数せめて曰く、「無逸は世充に逼せまられ、母を棄てて朕に帰す。今の委任、衆人に異なり。其の益州に在りては、極めて清正なり。此れ蓋し群小耐えず、之を誣しわんと欲するなり。此れ乃ち我が君臣を離間し、我が視聴を惑乱せんとするなり」と。是に於いて希仁を順天門に於いて斬り、給事中李公昌を遣わして馳せ往きて之を慰諭せしむ。俄しばらくして又無逸が陰に蕭銑と交通すと告ぐる者有り、無逸は時に益州行台僕射竇璡と協わず、是に於いて表を上りて自ら理ことわりを明らかにし、又璡の罪状を言う。高祖之を覧て曰く、「無逸官に当たり法を執る、回避する所無し、必ず是れ邪佞の徒、直を悪にくみ正を丑しうし、共に相構扇するなり」と。因って劉世龍・温彦博をして将まさに其の事を按ぜしむ、終に験無くして止み、告ぐる者は坐して斬られ、竇璡も亦罪を以て黜せらる。無逸既に命を返し、高祖之を労ねぎらいて曰く、「公の身を立て己を行う、朕の悉くする所なり。比ちかごろ譖訴する者多し、但だ正直なるが故に邪佞に憎まれるのみ」と。間もなく民部尚書を拝し、累転して益州大都督府長史となる。門を閉じて自ら守り、賓客に通ぜず、左右門を出ることを得ず。凡そ貨易する所は、皆他州に往く;毎に部を按ずるに、樵採人を犯さず。嘗て夜人家に宿し、灯炷尽きるに遇い、主人将まさに之を継がんとす、無逸佩刀を抽ぬきて衣帯を断ちて以て炷と為す、其の廉介此の如し。然れども審慎に過ぎ、上る所の表奏、誤失有らんことを懼れ、必ず之を数十遍読み、仍なお官属をして再三披省せしむ;使者路に就くに及び、又追いて更に審らかにし、毎に一使を遣わすに、輒すなわち連日上道することを得ず。議者此を以て之を少いやしむ。母長安に在りて疾篤し、太宗駅をして之を召さしむ。無逸性至孝、問いを承けて惶懼し、飲食する能わず、因って道に病みて卒す。礼部尚書を贈られ、太常行いを考かんがえ、謚して「孝」と曰う。礼部尚書王珪之を駁して曰く、「無逸蜀に入るの初め、自ら当に老母を扶侍し、之と同去し、其の色養を申のべるべし、而るに乃ち京師に留め置き、子道未だ足らず、何ぞ孝と為すを得ん」と。竟ついに謚を良と為す。

原文皇甫無逸,字仁儉,安定烏氏人。父誕,隋并州總管府司馬。其先安定著姓,徙居京兆萬年。仁壽末,漢王諒於并州起兵反,誕抗節不從,為諒所殺。無逸時在長安,聞諒反,即同居喪之禮。人問其故,泣而對曰:「大人平生徇節義,既屬亂常,必無苟免。」尋而凶問果至。在喪柴毀過禮,事母以孝聞。煬帝以誕死節,贈柱國、弘義郡公,令無逸襲爵。時五等皆廢,以其時忠義之後,特封平輿侯。拜涓陽太守,甚有能名,差品為天下第一。再轉右武衛將軍,甚見親委。帝幸江都,以無逸留守洛陽。及江都之變,與段達、元文都尊立越王侗為帝。王世充作難,無逸棄老母妻子,斬關而走,追騎且至,無逸曰:「吾死而後已,終不能同爾為逆。」因解所服金帶投之於地,曰:「以此贈卿,無為相迫。」追騎競下馬取帶,自相爭奪,由是得免。高祖以隋代舊臣,甚尊禮之,拜刑部尚書,封滑國公,歷陝東道行台民部尚書。明年,遷御史大夫。時益部新開,刑政未洽,長吏橫恣,贓污狼藉;令無逸持節巡撫之,承製除授。無逸宣揚朝化,法令嚴肅,蜀中甚賴之。有皇甫希仁者,見無逸專制方面,徼幸上變,云:「臣父在洛陽,無逸為母之故,陰遣臣與王世充相知。」高祖審其詐,數之曰:「無逸逼於世充,棄母歸朕。今之委任,異於眾人。其在益州,極為清正。此蓋群小不耐,欲誣之也。此乃離間我君臣,惑亂我視聽。」於是斬希仁於順天門,遣給事中李公昌馳往慰諭之。俄而又告無逸陰與蕭銑交通者,無逸時與益州行台僕射竇璡不協,於是上表自理,又言璡罪狀。高祖覽之曰:「無逸當官執法,無所迴避,必是邪佞之徒,惡直丑正,共相構扇也。」因令劉世龍、溫彥博將按其事,卒無驗而止,所告者坐斬,竇璡亦以罪黜。無逸既返命,高祖勞之曰:「公立身行己,朕之所悉。比多譖訴者,但為正直致邪佞所憎耳。」尋拜民部尚書,累轉益州大都督府長史。閉門自守,不通賓客,左右不得出門。凡所貨易,皆往他州;每按部,樵採不犯於人。嘗夜宿人家,遇燈炷盡,主人將續之,無逸抽佩刀斷衣帶以為炷,其廉介如此。然過於審慎,所上表奏,懼有誤失,必讀之數十遍,仍令官屬再三披省;使者就路,又追而更審,每遣一使,輒連日不得上道。議者以此少之。母在長安疾篤,太宗令驛召之。無逸性至孝,承問惶懼,不能飲食,因道病卒。贈禮部尚書,太常考行,謚曰「孝」。禮部尚書王珪駁之曰:「無逸入蜀之初,自當扶侍老母,與之同去,申其色養,而乃留在京師,子道未足,何得為孝?」竟謚為良。

孫の忠は、開元中に衛尉卿となる。

原文孫忠,開元中為衛尉卿。

李大亮。

原文李大亮

李大亮は雍州涇陽の人である。後魏の度支尚書琰の曾孫にあたる。その先祖はもと隴西狄道に居住し、代々著名な姓であった。祖父の綱は後魏の南岐州刺史、父の充節は隋の朔州総管・武陽公である。大亮は若くして文武の才幹があり、隋末に韓國公龐玉の行軍兵曹に任ぜられた。東都で李密と戦って敗れ、同輩百余人は皆処刑されようとしたが、賊の帥張弼が彼を見て異才を認め、ただ一人釈放して語り合い、ついに幕下で交わりを結んだ。義兵が関中に入ると、大亮は東都から帰国し、土門令を授けられた。折しも百姓が飢饉に遭い、盗賊が侵攻してきたので、大亮は自らの乗馬を売って貧弱な者に分け与え、墾田を勧めたため、その年は大いに豊作となった。自ら寇盗を捕らえ、討つところは必ず平定した。時に太宗は藩王として北境を巡撫していたが、これを聞いて嘆賞し、文書を下して労い、馬一匹・帛五十段を賜った。その後、胡賊が境を侵すと、大亮は兵が少なく対抗できず、遂に単騎で賊の営に赴き、その豪帥を召して禍福を説くと、群胡は感銘して相次いで降伏を請うた。大亮はまた自らの乗馬を殺し、彼らと宴楽を共にし、徒歩で帰還した。前後して降伏する者は千余人に及び、県内は清まった。高祖は大いに喜び、格別に金州総管府司馬に任じた。時に王世充がその兄の子弘烈を遣わして襄陽を占拠させたので、大亮に樊・鄧を安撫させ、進取を図らせた。大亮は進軍してこれを撃ち、十余城を陥落させた。高祖は文書を下して労い励まし、安州刺史に転じた。また広州巴東を巡行させようとしたが、九江に至った時、輔公祏が反乱を起こしたので、大亮は計略をもって公祏の将張善安を生け捕りにした。公祏はまもなく兵を遣わして猷州を包囲し、刺史左難當は城に拠って自ら守ったが、大亮は兵を率いて進み援け、賊を撃破した。功により奴婢百人を賜ったが、大亮は言った、「お前たちは多く衣冠の子女であり、破亡してこのような身となった。どうして忍んでお前たちを賤しい隷属としようか」と。すべて放免して帰らせた。高祖はこれを聞いて嘆き驚き、さらに婢二十人を賜い、越州都督に任じた。貞観元年、交州都督に転じ、武陽県男に封ぜられた。越州で書物百巻を写し、転任する際、すべて官舎に置き去りにした。まもなく召されて太府卿に任ぜられ、涼州都督として出向し、恵政で知られた。かつて台使が州に来て、名鷹を見て、大亮に献上するようほのめかした。大亮は密かに上表して言った、「陛下は久しく狩猟を絶たれているのに、使者が鷹を求めています。もしこれが陛下の御意であれば、かつての御趣旨に深く背くものであり、もし使者の独断であれば、それは使者が不適任であるということです」と。太宗は彼に文書を下して言った、「卿は文武を兼ね備え、志操が貞固であるゆえ、藩牧を委ね、この重責を担わせた。州鎮にあっては、名声と実績が遠くに顕れ、この忠勤を思うと、覚めても寝ても忘れられない。使者が鷹を献上させようとしたのに、曲げて従わず、今を論じ古を引き、遠慮なく直言し、腹心を披露し、非常に懇切である。読んで賞賛し、やむことができない。このような臣があれば、朕はまた何を憂えようか。この誠を守り、終始一貫せよ。古人は一つの言葉の重さは千金に等しいと言うが、卿のこの言葉は深く貴ぶべきである。今、卿に胡瓶一枚を賜う。千鎰の重さはないが、朕が自ら用いる物である」と。また荀悦の『漢紀』一部を賜い、文書を下して言った、「卿は志操が方正で直く、節を尽くして至公に努め、職務に当たり官に在っては、常に委任に応え、大任を使わしめ、重責を果たそうとしている。公事の暇に、典籍を探求すべきである。この書は叙述が明らかで、論議が深く広く、極めて治国の要諦を尽くし、君臣の義を尽くしている。今これを卿に賜うから、よく読み究めるがよい」と。時に頡利可汗が敗亡し、北荒の諸部が相次いで内属した。大度設・拓設・泥熟特勒および七姓種落などが、なお伊吾に散在していたので、大亮を西北道安撫大使としてこれを綏撫させると、多くが降伏帰附した。朝廷はその部衆が凍餓に苦しむを哀れみ、磧石に糧食を貯蔵させ、特に救済を与えようとした。大亮はこれが事に益なしと考え、上疏して言った。

原文李大亮,雍州涇陽人。後魏度支尚書琰之曾孫也。其先本居隴西狄道,代為著姓。祖綱,後魏南岐州刺史。父充節,隋朔州總管、武陽公。大亮少有文武才幹,隋末,署韓國公龐玉行軍兵曹。在東都與李密戰,敗,同輩百餘人皆就死,賊帥張弼見而異之,獨釋與語,遂定交於幕下。義兵入關,大亮自東都歸國,授土門令。屬百姓饑荒,盜賊侵寇,大亮賣所乘馬分給貧弱,勸以墾田,歲因大稔。躬捕寇盜,所擊輒平。時太宗在籓,巡撫北境,聞而嗟嘆,下書勞之,賜馬一匹、帛五十段。其後,胡賊寇境,大亮眾少不敵,遂單馬詣賊營,召其豪帥,諭以禍福,群胡感悟,相率請降。大亮又殺所乘馬,以與之宴樂,徒步而歸。前後降者千餘人,縣境以清。高祖大悅,超拜金州總管府司馬。時王世充遣其兄子弘烈據襄陽,令大亮安撫樊、鄧,以圖進取。大亮進兵擊之,所下十餘城。高祖下書勞勉,遷安州刺史。又令徇廣州巴東,行次九江,會輔公祏反,大亮以計擒公祏將張善安。公祏尋遣兵圍猷州,刺史左難當嬰城自守,大亮率兵進援,擊賊破之。以功賜奴婢百人,大亮謂曰:「汝輩多衣冠子女,破亡至此,吾亦何忍以汝為賤隸乎!」一皆放遣。高祖聞而嗟異,復賜婢二十人,拜越州都督。貞觀元年,轉交州都督,封武陽縣男。在越州寫書百卷,及徙職,皆委之廨宇。尋召拜太府卿,出為涼州都督,以惠政聞。嘗有台使到州,見有名鷹,諷大亮獻之。大亮密表曰:「陛下久絕畋獵,而使者求鷹。若是陛下之意,深乖昔旨;如其自擅,便是使非其人。」太宗下之書曰:「以卿兼資文武,志懷貞確,故委籓牧,當茲重寄。比在州鎮,聲績遠彰,念此忠勤,無忘寤寐。使遣獻鷹,遂不曲順,論今引古,遠獻直言,披露腹心,非常懇到,覽用嘉嘆,不能便已。有臣若此,朕復何憂!宜守此誠,終始若一。古人稱一言之重,侔於千金,卿之此言,深足貴矣。今賜卿胡瓶一枚,雖無千鎰之重,是朕自用之物。」又賜荀悅《漢紀》一部,下書曰:「卿立志方直,竭節至公,處職當官,每副所委,方大任使,以申重寄。公事之閒,宜尋典籍。然此書敘致既明,論議深博,極為治之體,盡君臣之義,今以賜卿,宜加尋閱也。」時頡利可汗敗亡,北荒諸部相率內屬。有大度設、拓設、泥熟特勒及七姓種落等,尚散在伊吾,以大亮為西北道安撫大使以綏之,多所降附。朝廷愍其部眾凍餒,遣於磧石貯糧,特加賑給。大亮以為於事無益,上疏曰:

臣は聞く、遠方を綏撫せんと欲する者は、必ずまず近方を安んずる、と。中国の百姓は天下の根本であり、四夷の人は枝葉のようなものである。根本を乱して枝葉を厚くし、久安を求めようとしたことは、かつてない。古来の明王は、中国を信をもって教化し、夷狄を権謀をもって統御した。故に『春秋』に言う、「戎狄は豺狼のごとく、飽くことを知らず、諸夏は親密にして、棄てるべからず」と。陛下が区宇を君臨されて以来、根本を深く固め、人民は安逸で兵は強く、九州は殷盛し、四夷は自ら服従している。今、突厥を招致するのは、領内に入れたとはいえ、臣の愚見ではやや労費を感じ、その有益さを悟れない。しかし河西の民衆は、長く蕃夷を防衛し、州県は蕭条として戸口が少なく、隋の乱によって減少消耗が特に多い。突厥が平定される前は、まだ安んじて生業に就けず、匈奴が微弱になってから、ようやく農耕に就いたのである。もしすぐに労役を課せば、妨害損害を招く恐れがある。臣の愚惑をもってすれば、招慰を停止するよう請う。かつて荒服と呼ばれる者は、臣としても内属させないものであった。それゆえ周室は人を愛し狄を攘い、ついに七百年の寿命を延ばし、秦王は軽々しく戦って胡に事を構え、四十年で遂に絶えた。漢の文帝は兵を養って静かに守り、天下は安穏豊かであり、孝武帝は威を揚げて遠略を行い、海内は虚耗した。輪台の詔で悔いたとしても、追い及ばなかった。隋室に至っては、早くに伊吾を得、鄯善をも併せて統べたが、得た後は労費が日増しに甚だしく、内を虚しくして外に致し、ついに損害ばかりで益がなかった。遠く秦・漢を尋ね、近く隋室を観れば、動静と安危は明らかである。伊吾はすでに臣従帰附したとはいえ、遠く蕃磧にあり、人は中夏ではなく、地は多く砂鹵である。自ら立ち上がって藩属と称する者は、羈縻して受け入れ、塞外に居住させれば、必ず威を畏れ徳を懐き、永く蕃臣となるであろう。まさに虚の恵を行って実の福を収めるのである。近ごろ突厥が国を挙げて入朝したが、江淮に移してその俗を変えることもできず、内地に置けば京師から遠くない。寛仁の義とはいえ、久安の計ではない。一人が初めて降伏するごとに、賜物五匹・袍一領を与え、酋帥にはすべて大官を授け、禄厚く位尊くしているのは、理の上で多くの浪費である。中国の幣帛をもって、積悪の凶虜に供給すれば、その衆はますます多くなり、中国の利益ではない。

原文臣聞欲綏遠者,必先安近。中國百姓,天下本根;四夷之人,猶於枝葉。擾於根本,以厚枝附,而求久安,未之有也。自古明王,化中國以信,馭夷狄以權。故《春秋》云:「戎狄豺狼,不可厭也;諸夏親暱,不可棄也。」自陛下君臨區宇,深根固本,人逸兵強,九州殷盛,四夷自服。今者招致突厥,雖入提封,臣愚稍覺勞費,未悟其有益也。然河西氓庶,積御蕃夷,州縣蕭條,戶口鮮少,加因隋亂,減耗尤多。突厥未平之前,尚不安業;匈奴微弱已來,始就農畝。若即勞役,恐致妨損。以臣愚惑,請停招慰。且謂之荒服者,故臣而不內。是以周室愛人攘狄,竟延七百之齡;秦王輕戰事胡,四十載而遂絕。漢文養兵靜守,天下安豐;孝武揚威遠略,海內虛耗。雖悔輪台,追已不及。至於隋室,早得伊吾,兼統鄯善,既得之後,勞費日甚,虛內致外,竟損無益。遠尋秦、漢,近觀隋室,動靜安危,昭然備矣。伊吾雖已臣附,遠在蕃磧,人非中夏,地多沙鹵。其自豎立稱籓附庸者,請羈縻受之,使居塞外,必畏威懷德,永為蕃臣,蓋行虛惠,而收實福矣。近日突厥傾國入朝,既不能俘之江淮,以變其俗;置於內地,去京不遠,雖則寬仁之義,亦非久安之計也。每見一人初降,賜物五匹、袍一領,酋帥悉授大官,祿厚位尊,理多縻費。以中國之幣帛,供積惡之凶虜,其眾益多,非中國之利也。

太宗はその上奏を容れた。八年、剣南道巡省大使となった。大亮は濁流を激して清流を揚げ、当時の称賛を大いに得た。吐谷渾を討つに及んで、大亮を河東道行軍総管とした。大総管李靖らと北路より出で、青海を渡り、河源を経て、蜀渾山にて賊に遇い、戦いを交えてこれを破り、その名王を俘え、雑畜五万に及ぶを虜にした。功により爵を進めて公とし、物千段・奴婢百五十人を賜うたが、ことごとく親戚に遺した。なおその家資を尽くして、五葉の宗族で後なき者の三十余りの喪を収葬し、送終の礼は、一時に盛んと称された。後に左衛大将軍を拝した。十七年、晋王が皇太子となると、東宮の僚属は皆、重臣を盛んに選んだ。大亮を以て太子右衛率を兼領させ、まもなく工部尚書を兼ね、身は三職に居り、両宮を宿衛して、甚だ親信された。大亮は宿直する毎に、必ず徹夜して仮寐した。太宗は嘗てこれを労って曰く、「卿が宿直すると、朕は通夜安臥できる」と。その信任されること此の如しであった。太宗は巡幸ある毎に、多く留守を命じた。房玄齢は甚だこれを重んじ、毎に大亮に王陵・周勃の節有りと称し、大位に当たるべしとした。大亮は位望通顕なれども、居処は卑陋で、衣服は倹約質素であった。至性忠謹にして、妻子と雖もその惰容を見ず。兄嫂に事えること父母に同じ。常に張弼の恩を懐いていたが、久しく得ることができなかった。弼は当時将作丞であったが、自ら匿して言わなかった。大亮は嘗て途上でこれに遇って識り、弼を抱いて泣き、相得るの遅きを恨んだ。多く家産を推して弼に遺そうとしたが、弼は拒んで受けなかった。大亮は太宗に言上して曰く、「臣が今日の栄有るは、張弼の力なり。官爵を以て回らしめんことを請う」と。太宗は遂に弼を中郎将に遷し、まもなく代州都督とした。当時の人は皆、大亮の恩に背かざるを賢とし、弼の自ら伐らざるを多とした。十八年、太宗が洛陽に幸すに当たり、大亮に司空玄齢を副えて居守らしめた。まもなく疾に遇うと、太宗は親しく薬を調え、駅伝を馳せてこれを賜うた。臨終に上表し、遼東の役を停めんことを請い、また京師は宗廟の在る所なりとし、深く関中を意とせんことを願うた。表成って嘆いて曰く、「吾れ礼に聞く、男子は婦人の手に死せずと」と。ここに於いて婦人を屏けしめ、言終わって卒す。時に五十九。死するの日、家に珠玉として唅とすべきもの無く、唯だ米五石・布三十端有るのみ。親戚の孤遺で大亮に鞠養せられ、これに服すること父の如き者十五人。太宗は別次に於いて哀を挙げ、これを哭すること甚だ慟し、朝を廃すること三日。兵部尚書・秦州都督を贈り、謚して懿と曰い、昭陵に陪葬せしむ。

原文太宗納其奏。八年,為劍南道巡省大使。大亮激濁揚清,甚獲當時之譽。及討吐谷渾,以大亮為河東道行軍總管。與大總管李靖等出北路,涉青海,歷河源,遇賊於蜀渾山,接戰破之,俘其名王,虜雜畜五萬計。以功進爵為公,賜物千段、奴婢一百五十人,悉遺親戚。仍罄其家資,收葬五葉宗族無後者三十餘喪,送終之禮,一時稱盛。後拜左衛大將軍。十七年,晉王為皇太子,東宮僚屬,皆盛選重臣。以大亮兼領太子右衛率,俄兼工部尚書,身居三職,宿衛兩宮,甚為親信。大亮每當宿直,必通宵假寐。太宗嘗勞之曰:「至公宿直,我便通夜安臥。」其見任如此。太宗每有巡幸,多令居守。房玄齡甚重之,每稱大亮有王陵、周勃之節,可以當大位。大亮雖位望通顯,而居處卑陋,衣服儉率。至性忠謹,雖妻子不見其惰容。事兄嫂有同於父母。每懷張弼之恩,而久不能得。弼時為將作丞,自匿不言。大亮嘗遇諸途而識之,持弼而泣,恨相得之晚。多推家產以遺弼,弼拒而不受。大亮言於太宗曰:「臣有今日之榮,張弼力也。有官爵請回。」太宗遂遷弼為中郎將,俄代州都督。時人皆賢大亮不背恩,而多弼不自伐也。十八年,太宗幸洛陽,令大亮副司空玄齡居中。尋遇疾,太宗親為調藥,馳驛賜之。臨終上表,請停遼東之役,又言京師宗廟所在,願深以關中為意。表成而嘆曰:「吾聞禮,男子不死婦人之手。」於是命屏婦人,言終而卒,時五十九。死之日,家無珠玉可以為唅,唯有米五石、布三十端。親戚孤遺為大亮所鞠養,服之如父者十五人。太宗為舉哀於別次,哭之甚慟,廢朝三日。贈兵部尚書、秦州都督,謚曰懿,陪葬昭陵。

兄の子道裕は、永徽中に大理卿となった。

原文兄子道裕,永徽中為大理卿。

族孫の迥秀

原文族孫迥秀

迥秀は、大亮の族孫なり。祖父は玄明、済州刺史。父は義本、宣州刺史。迥秀は弱冠にして英材傑出挙に応じ、相州参軍を拝し、累転して考功員外郎となる。則天はその才を雅く愛し、甚だ寵待した。挙を掌ること数年、鳳閣舎人に遷る。迥秀の母は庶賤なれども、色養は人に過ぎ、その妻崔氏が嘗て媵婢を叱ると、母はこれを聞いて悦ばず、迥秀は即時にこれを出した。或いは止めて云う、「賢室は嫌疑を避けざるも、然れども過は状に出ず、何ぞ遽に此の如くせん」と。迥秀曰く、「妻を娶るは本より顏色を承順せしむるを以てす、顏色苟も違わば、何ぞ敢えて留めんや」と。竟に従わず。長安初年、天官・夏官の二侍郎を歴任し、まもなく鳳閣鸞台平章事を同ず。則天は宮人をしてその母に参問せしめ、また嘗て宮中に迎え入れ、これを待つこと甚だ優しかった。迥秀は雅く文才有り、酒を斗余飲み、広く賓朋を接し、当時に風流の士と称された。然れども頗る権幸に托附し、心を傾けて張易之・昌宗兄弟に事え、これにより深く讜正の士に譏られた。まもなく贓に坐し、廬州刺史として出される。景龍中、累転して鴻臚卿・修文館学士となり、また節を持って朔方道行軍大総管となる。居る宅の中に芝草数茎生じ、また猫が犬に乳せられる有り、中宗は孝感の致す所と為し、その門閭を旌せしむ。まもなく姚崇に代わって兵部尚書となるが、病卒す。子の齊損は、開元十年、権梁山らと謀りて逆を構え伏誅せられ、その家を籍没す。

原文迥秀,大亮族孫也。祖玄明,濟州刺史。父義本,宣州刺史。迥秀弱冠應英材傑出舉,拜相州參軍,累轉考功員外郎。則天雅愛其材,甚寵待之。掌舉數年,遷鳳閣舍人。迥秀母氏庶賤而色養過人,其妻崔氏嘗叱其媵婢,母聞之不悅,迥秀即時出之。或止云:「賢室雖不避嫌疑,然過非出狀,何遽如此?」迥秀曰:「娶妻本以承順顏色,顏色苟違,何敢留也?」竟不從。長安初,歷天官、夏官二侍郎,俄同鳳閣鸞台平章事。則天令宮人參問其母,又嘗迎入宮中,待之甚優。迥秀雅有文才,飲酒斗余,廣接賓朋,當時稱為風流之士。然頗托附權幸,傾心以事張易之、昌宗兄弟,由是深為讜正之士所譏。俄坐贓,出為廬州刺史。景龍中,累轉鴻臚卿、修文館學士,又持節為朔方道行軍大總管。所居宅中生芝草數莖,又有貓為犬所乳,中宗以為孝感所致,使旌其門閭。俄代姚崇為兵部尚書,病卒。子齊損,開元十年,與權梁山等構逆伏誅,籍沒其家也。

史評

原文史評

史臣曰く、孔子云う、「邦に道有れば、言を危くし行いを危くす」と。李綱の如きは直道を以て人に事え、心を執して回らず。始め隋文に対し、慷慨して免るれ、終に楊素に忤い、屈辱尤も深し。高祖の朝に臨むに及び、舞胡の鳴玉を諫め、吐せず茹れざるの節を懐き、始め有り終り有るの規を存す、危しと謂うべし。有道に逢わずんば、焉んぞ諸れを免れんや?『易』に曰く、「王臣蹇蹇たり、躬の故に非ず」と、李綱にこれ有り。善果は幼くして賢母に事え、長じて正人と為る。元璹は国に功有り、ただ辺事に練れども、家を承くるに孝ならず、終に匪人と為る。恭仁は隋に仕えて忠厚、衆を馭するに謙恭。賊を破り功を立て、方に仁者に勇有るを見る。選を掌りて斥けらる、所謂独り正しき者は危し。偽より朝に帰り、才を懐きて主に遇い、帝室に連婚し、籓宣に列位す、始終に玷れ無き者は鮮し。師道は慎密純善、怯懦にして更事の名無し。勢を抑え嫌を避け、署用して非才の誚を致す。無逸は父の守節して難に陷るを知り、母を離れて逆を避け終に吉なり、忠信の道著し。賓客を絶ちて府門を閉じ、衣帯を断ちて燈炷を継ぐ、廉介の志彰る。嗚呼、蜀道初めて開け、親老し地梗る、至孝性を滅す、子の道知るべし、謚して「孝」と為すを得ず、惜しいかな。大亮は文武兼才、貞確性を成す。馬を売りて農を勧む、是れ政なり。身を投じて賊を諭す、略なり。奴婢を放ちて良に従わしむ、仁なり。鷹に因りて猟を諫め、臨終に表を上す、忠なり。伊吾の衆を論ず、智なり。五葉の後無きを葬り、張弼の恩に報ゆ、義なり。兄嫂に事えること父母の如し、孝なり。婦人の手に死せず、礼なり。珠玉を以て唅と為す無し、廉なり。房玄齢云う、大亮に王陵・周勃の節有り、名の下に虚士無しと。迥秀は権幸に諂い事え、爰に台司に至る、余は観るに足らず、清風替わる。

原文史臣曰:孔子雲,「邦有道,危言危行。」如李綱直道事人,執心不回。始對隋文,慷慨獲免;終忤楊素,屈辱尤深。及高祖臨朝,諫舞胡鳴玉,懷不吐不茹之節,存有始有卒之規,可謂危矣。非逢有道,焉能免諸?《易》曰,「王臣蹇蹇,匪躬之故」,李綱有焉。善果幼事賢母,長為正人。元璹於國有功,祗練邊事,承家不孝,終為匪人。恭仁仕隋忠厚,馭眾謙恭。破賊立功,方見仁者有勇;掌選被斥,所謂獨正者危。自偽歸朝,懷才遇主,連婚帝室,列位籓宣,始終無玷者鮮矣!師道慎密純善,怯懦無更事之名;抑勢避嫌,署用致非才之誚。無逸知父守節陷難,離母避逆終吉,忠信之道著矣;絕賓客以閉府門,斷衣帶以續燈炷,廉介之志彰矣。於乎,蜀道初開,親老地梗,至孝滅性,子道可知,不得謚為「孝」也,惜哉!大亮文武兼才,貞確成性。賣馬勸農,是為政也;投身諭賊,略也;放奴婢從良者,仁也;因鷹諫獵,臨終上表,忠也;論伊吾之眾,智也;葬五葉無後,報張弼恩,義也;侍兄嫂如父母,孝也;不死婦人之手,禮也;無珠玉為唅,廉也。房玄齡雲,大亮有王陵、周勃之節,名下無虛士矣!迥秀諂事權幸,爰至台司,余不足觀,清風替矣。

賛して曰く、李綱は道を守り、言行俱に危し。善果は母の訓、清貞是れ資る。元璹父子、要道何ぞ虧けん。恭仁は独り正しく、令徳違うこと無し。師道は慎密、勢を抑えて機を見る。無逸は廉介、終に孝思に在り。大亮は才徳、陵・勃の名随う。迥秀は托附し、実に台司を汚す。

原文贊曰:李綱守道,言行俱危。善果母訓,清貞是資。元璹父子,要道何虧。恭仁獨正,令德無違。師道慎密,抑勢見機。無逸廉介,終於孝思。大亮才德,陵、勃名隨。迥秀托附,實污台司。