旧唐書 温大雅、子は無隱、大雅の弟は彦博、子は振・挺、大雅の弟は大有

旧唐書

温大雅、子は無隱、大雅の弟は彦博、子は振・挺、大雅の弟は大有

陳叔達、竇威の子は惲、兄の子は軌、軌の子は奉節・琮、従子は抗、抗の子は衍・靜、靜の子は逵、誕、誕の子は孝慈、孝慈の子は希玠、誕の少子は孝諶、抗の季弟は璡

温大雅

温大雅、字は彦弘、太原の祁の人である。父の君悠は、北斉の文林館学士、隋の泗州司馬であった。大業の末、司隷従事となり、隋の政が日に乱れるのを見て、病と称して帰った。大雅は性、至孝にして、少くより学を好み、才弁をもって知られた。隋に仕えて東宮学士・長安県尉となり、父の憂いにより職を去った。後に天下が乱れんとするを以て、仕進を求めなかった。高祖が太原を鎮めるとき、甚だ礼を以てこれに接した。義兵が起こると、引いて大將軍府記室参軍とし、専ら文翰を掌らせた。禅代の際、司録竇威・主簿陳叔達と共に礼儀を参定した。武徳元年、歴遷して黄門侍郎となった。弟の彦博は中書侍郎となり、近密に対居し、議者はこれを栄とした。高祖は従容として謂いて曰く、「我れ晋陽に起義し、卿が一門の為なり」と。尋いで工部に転じ、進んで陝東道大行台工部めと書を拝した。太宗は隠太子・巣刺王の故を以て、大雅をして洛陽に鎮ましめて変を俟たしめた。大雅は数たび秘策を陳べ、甚だ嘉賞を蒙った。太宗即位の後、累転して礼部尚書となり、黎国公に封ぜられた。大雅、その祖父を改葬せんとし、筮者曰く、「この地に葬るは、兄を害し弟を福す」と。大雅曰く、「若し家弟の永康を得ば、我れ将に笑を含みて地に入らん」と。葬り終わりて、歳余にして卒し、諡して孝と曰う。『創業起居注』三巻を撰す。永徽五年、尚書右僕射を贈られた。

子の無隱は、官は工部侍郎に至った。大雅の弟は彦博。

弟 彦博

彦博は幼くして聡悟、口弁あり、書記を渉猟した。初め、その父の友の薛道衡・李綱が常に彦博兄弟三人を見て、皆嘆異して曰く、「皆卿相の才なり」と。開皇の末、州牧秦孝王俊に薦められ、文林郎を授かり、内史省に直し、転じて通直謁者となった。隋の乱に及び、幽州総管羅藝が引いて司馬とした。藝が幽州を以て国に帰すに、彦博はその事を賛成し、幽州総管府長史を授かった。未だ幾ばくもせず、征されて中書舎人となり、俄かに中書侍郎に遷り、西河郡公に封ぜられた。時に高麗が使いを遣わして方物を貢ぐ。高祖、群臣に謂いて曰く、「名実の間、理須らく相副うべし。高麗は隋に臣と称し、終によう帝を拒げり、これ亦何の臣たるかあらん。朕は万物を敬し、驕貴せんと欲せず、但に土宇に拠り、務めて共に人を安んずるのみ。何ぞ必ずしも其の臣と称せしめて以て自ら尊大ならしめんや。即ち詔と為し、朕が此の懐を述べよ」と。彦博進みて曰く、「遼東の地は、周は箕子の国、漢家の玄菟郡のみ。魏・晋已前、近く提封の内に在り、臣ならざるを許すべからず。若し高麗と抗礼せば、則ち四夷何を以て瞻仰せん。且つ中国の夷狄に於けるは、猶お太陽の列星に比するが如く、理に尊を降し、俯して夷貊に同じくす無し」と。高祖乃ち止む。其の年、突厥入寇し、右衛大将軍張瑾を命じて并州道行軍総管と為し、出でてこれを拒がしめ、彦博を行軍長史と為した。虜と太谷に戦い、軍敗れ、彦博は虜庭に没した。突厥は其の近臣を以て、苦しく国家の虚実及び兵馬の多少を問う。彦博固より肯て言わず。頡利怒り、陰山の苦塞の地に遷す。太宗即位し、突厥款を通ずるに及び、始めて彦博を征して還朝せしめ、雍州治中を授け、尋いで吏部侍郎を検校した。彦博は沙汰有らんと意し、多く損抑し、退く者服せず、囂訟庭に盈つ。彦博は惟だ辞弁を騁せ、之と相詰い、終日喧擾し、頗る識者の嗤う所と為る。復た中書侍郎を拝し、兼ねて太子右庶子と為る。貞観二年、御史大夫に遷り、仍いで中書侍郎事を検校す。彦博は宣吐に善くし、毎たび使いを奉じて入朝し、詔して四方の風俗を問うに、綸言を承受して、成誦するが若き有り。声韻高朗、響き殿庭に溢れ、進止雍容、観者は目を拭う。四年、中書令に遷り、爵を進めて虞国公と為る。高祖常に朝臣を宴し、詔して太宗に旨を諭さしめ、既にして顧みて近臣に謂いて曰く、「温彦博に何如」と。其の重んぜらるること此の如し。

初め、突厥の降るや、詔して安辺の術を議せしむ。朝士多く言う、「突厥は強を恃み、中国を擾乱すること日久し。今天実に之を喪し、窮して我に帰す、本より義を慕うの心に非ず。其の帰命に因り、其の種落を分ち、之を河南に俘え、州県に散属せしめ、各々耕田せしめ、其の風俗を変ぜば、百万の胡虜、化して漢と為るを得べし。則ち中国に戸を加うるの利有り、塞北常に空しからん」と。惟だ彦博議して曰く、「漢の建武の時、降匈奴を五原塞下に置き、其の部落を全うし、捍蔽と為るを得しめ、又其の土俗を離れず、因りて之を撫す。一には則ち空虚の地を実にし、二には則ち猜なきの心を示すなり。若し西南に向かわしむれば、則ち物性に乖き、故に含育の道に非ず」と。太宗これに従い、遂に降人を朔方の地に処し、其の長安に入居する者は近く且つ万家なり。議者は尤も不便と為し、河外に突厥国を建てんと欲す。彦博又執奏して曰く、「既に之を納し、故無くして遣り去らば、深く惜しむべし」と。魏徴等と争論し、数年決せず。十年、尚書右僕射に遷る。明年薨じ、年六十四。彦博自ら機務を知掌するより、即ち賓客を杜絶し、国の利害、知る所は言わざる無く、太宗是を以て之を嘉す。及び薨ずるに、侍臣に謂いて曰く、「彦博は憂国の故を以て、精を労し神を竭くす。我れ其の逮ばざるを見る、已に二年なり。其の閑逸を縦せざるを恨む、性霊を夭せしむるに致す」と。彦博の家に正寝無く、及び卒するの日、別室に殯す。太宗命じて有司に堂を造らしむ。特進を贈り、諡して恭と曰い、昭陵に陪葬す。

子の振は、少くして雅望有り、官は太子舎人に至り、喪に居りて毀ちて卒す。振の弟の挺は、高祖の女千金公主を尚し、官は延州刺史に至る。

弟 大有

大雅の弟の大有、字は彦将、性端謹、少くより学行を以て称せらる。隋の仁寿中、尚書右丞李綱表してこれを薦め、羽騎尉を授かる。尋いで憂いに丁り、職を去り郷里に帰る。義旗初めて挙がるるや、高祖引いて太原令と為す。太宗に従い西河を撃つ。高祖謂いて曰く、「士馬尚ほ少なく、要は経略に資す。卿を以て軍事に参謀せしむるは、其れ善く功名を建てよとの意なり。事の成敗は、当に此の行を以て之を卜すべし。若し西河を克せば、帝業成るなり」と。西河を破りて還るに及び、復た本官を以て大將軍府記室を摂り、兄の大雅と共に機密を掌る。大有は昆季同じく機務に在るを以て、意自ら安からず、固く他職を請う。高祖曰く、「我れ虚心相待し、疑いと為さず、卿何ぞ自ら疑うや」と。大有は命に応ずと雖も、然れども毎たび退譲し、機権を遠く避け、僚列是を以て之を多しとす。武徳元年、累転して中書侍郎となる。会して卒す。高祖甚だ之を傷惜し、鴻臚卿を贈る。初め、大雅は隋に在りて、顔思魯と俱に東宮に在り、彦博は思魯の弟の愍楚と同く内史省に直し、彦将は愍楚の弟の游秦と秘閣を典校す。二家の兄弟、各々一時の人物の選と為る。少時の学業は、顔氏優れり。其の後の職位は、温氏盛んなり。

陳叔達

陳叔達、字は子聰、陳の宣帝の第十六子である。容姿・挙措に優れ、頗る才学があり、陳において義陽王に封ぜられた。十余歳の時、嘗て宴に侍し、十韻の詩を賦し、筆を援げば直ちに成り、僕射徐陵は甚だこれを奇とした。侍中・丹陽尹・都官尚書を歴任した。隋に入り、久しく任用されなかった。大業年間、内史舍人に拝され、出て絳郡通守となった。義師が絳郡に至ると、叔達は郡を挙げて帰順し、丞相府主簿を授けられ、漢東郡公に封ぜられた。記室温大雅と共に機密を掌り、軍書・赦令及び禅代の文誥は、多く叔達の為す所であった。武徳元年、黄門侍郎を授けられる。二年、納言を兼ねる。四年、侍中に拝される。叔達は明弁にして容止に優れ、敷奏有る毎に、搢紳は目を注がざるはなかった。江南の名士で長安に遊ぶ者は、多くが彼に推薦・抜擢された。五年、進んで江国公に封ぜられる。嘗て御前で食を賜わり、蒲萄を得て、執りて食わず。高祖其の故を問うと、対えて曰く、「臣の母は口乾を患い、これを求めても得られず、帰って母に遺さんと欲します」と。高祖は喟然として涕を流し曰く、「卿に母に遺す有りや」と。因って物三百段を賜う。貞観初め、光禄大夫を加授される。尋で蕭瑀と御前で忿争した事に坐して免官される。未だ幾ばくもせず、母の憂に服す。叔達は先に疾有り、太宗其の危殆を慮り、使者を遣わして弔賓を禁絶せしむ。服闋し、遂州都督を授けられるも、疾を以て行かず。久しくして、礼部尚書に拝される。建成・元吉は太宗を嫉害し、陰に譖毀を行い、高祖其の言に惑い、将に貶責せんとす、叔達固く諫めて乃ち止む。是に至り太宗之を労いて曰く、「武徳の時、危難潜かに構えられ、公の讜言有るを知る、今の此の拝は、以て相い答うる有り」と。叔達謝して曰く、「此れ独り陛下の為のみならず、社稷を計るのみ」と。後に閨庭を理めざるに坐し、憲司に劾せられる。朝廷其の名臣を惜しみ、其の罪を顕わすを欲せず、散秩を以て第に帰るを聴す。九年卒す、謚して繆と曰う。後に戸部尚書を贈られ、謚を改めて忠と曰う。集十五巻有り。

竇威

竇威、字は文蔚、扶風平陸の人、太穆皇后の従父兄である。父は熾、隋の太傅。威の家は世々勳貴、諸昆弟並びに武芸を尚ぶも、威は文史に耽玩し、介然として自ら守る。諸兄之を哂い、「書痴」と謂う。隋の内史令李德林は秀異を挙げ、射策甲科、秘書郎に拝される。秩満して当に遷るべしと雖も、固く守って調せず、秘書に十余歳、其の学業益々広し。時に諸兄並びに軍功を以て仕え通顕に致り、豪貴と交結し、賓客門に盈つるも、威の職は閑散を掌る。諸兄更に威に謂いて曰く、「昔し孔子は積学して聖を成すも、猶い当時に狼狽し、此の如く棲遲す、汝此の道に效い、復た何を求めんとするか、名位達せざるは、固より其れ宜なり」と。威は笑って答えず。久しくして、蜀王秀は記室に闢き、秀の行う事多く法に背くを以て、疾を称して田裡に還る。秀の廃黜に及び、府僚多く罪を獲るも、唯だ威は先見を以て保全す。大業四年、累遷して内史舍人となり、数え得失を陳べて旨に忤い、転じて考功郎中、後に事に坐して免ぜられ、京師に帰る。高祖関に入り、召し補って大丞相府司録参軍とす。時に軍旅草創、五禮曠墜す。威は既に博物、旧儀を多く識り、朝章国典は皆其の定むる所、禅代の文翰多く参預す。高祖常に裴寂に謂いて曰く、「叔孫通も加うる能わざるなり」と。武徳元年、内史令に拝される。威の奏議は雍容、多く古を引いて諭と為し、高祖甚だ之を親重し、或いは臥内に引入れ、常に膝席を為す。又嘗て謂いて曰く、「昔し周朝に八柱国の貴有り、吾と公の家は咸に此の職に登る。今我已に天子と為り、公は内史令と為る、本同じく末異なり、乃ち平らかならず」と。威謝して曰く、「臣の家は昔し漢朝に在り、再び外戚と為り、後魏に至り、三たび外家に処す、陛下隆興し、復た皇后を出す。臣又た戚裡に階緣し、位は鳳池に忝く、惟み自ら叨濫を、暁夕兢懼す」と。高祖笑いて曰く、「比来関東の人崔・盧と婚を為すを見るに、猶い自ら矜伐す、公は代々帝戚と為る、亦た貴からずや」と。及び寢疾す、高祖自ら往き臨問す。尋で卒す、家に余財無く、遺令して薄葬せしむ。謚して靖と曰う、同州刺史を贈られ、追封して延安郡公とす。葬日の詔に、太子及び百官並びに出で臨送せしむ。文集十巻有り。

子惲嗣ぎ、官は岐州刺史に至る。威の兄の子軌、従兄の子抗、並びに知名なり。

竇軌

竇軌は、字を士則といい、周の雍州牧・酇国公竇恭の子である。隋の大業年間、資陽郡の東曹掾となり、後に官を去って家に帰った。義兵が起こると、軌は千余人の衆を集め、長春宮に迎え謁見した。高祖(李淵)はこれを見て大いに喜び、席を降りて手を握り、平生のことを語り合い、良馬十匹を賜い、渭南の地を掠め取らせた。軌は先に永豊倉を陥落させ、兵を収めて五千人を得た。京城平定に従い、贊皇県公に封ぜられ、大丞相諮議参軍に任ぜられた。時に稽胡の賊五万余人が宜春を掠め、軌がこれを討った。行軍して黄欽山に至り、賊と遭遇した。賊は高みに乗じて火を放ち、王師はやや退いた。軌はその部将十四人を斬り、隊中の小帥を抜擢してこれに代えた。軌みずから数百騎を率いて軍の後方に殿し、これに命じて言った、「鼓の音を聞いて進まない者は、後方から斬る」。鼓を聞くと、士卒は争って敵に赴き、賊が射ても止めることができず、ついにこれを大破し、千余級を斬首し、男女二万口を虜にした。武徳元年、太子詹事を授けられた。時に赤排羌が乱を起こし、薛挙の叛将鐘俱仇とともに漢中を寇した。軌を秦州総管に任じ、賊と連戦して皆勝利し、残党は悉く降伏した。酇国公に進封された。三年、益州道行台左僕射に遷り、便宜を以て事に従うことを許された。党項が松州を寇したため、詔して軌にこれを救援させ、また扶州刺史蔣善合に軌と連勢することを命じた。時に党項は吐谷渾の衆を引き連れ、その鋒は甚だ鋭かった。軌の軍は未だ至らず、善合は先に期して鉗川に至り、賊に遭遇して力戦し、これを走らせた。軌はまた軍を臨洮に置き、左封に進撃してその部衆を破った。まもなく命じて率いる所の兵を従え、太宗について洛陽の王世充を討たせた。四年、益州に還った。時に蜀の土寇はしばしば聚結していたが、悉くこれを討平した。軌は毎度軍陣に臨み賊に対すると、或いは旬月を経ても、身に甲を解かなかった。その部衆は貴賤少長を問わず、命に恭しくなければ即座にこれを斬った。毎日、吏士は多く鞭撻され、流血が庭に満ち、見る者は重足して股慄せざるはなかった。軌が初めて蜀に入った時、その甥を将いて心腹とし、嘗て夜に出て、これを呼んだが時に至らず、怒ってこれを斬った。毎度家僮を戒めて外出することを許さなかった。嘗て奴を遣わして官厨に就き漿を取らせたがこれを悔い、奴に謂って言った、「我は誠に汝を使うが、要は汝の頭を斬って法を明らかにするのみ」。その部将を遣わして奴を収め斬らせた。その奴は冤を称え、監刑者は躊躇して未だ決せず、軌は怒り、ともにこれを斬った。行台郎中趙弘安は知名の士であったが、軌は動輒ち榜箠し、年に数百に至った。後に徴されて朝に入り、御榻に坐を賜うたが、軌は容儀が粛然とせず、また坐したまま詔に対した。高祖は大いに怒り、因って謂って言った、「公が蜀に入った時、車騎・驃騎の従者は二十人であったが、公によって略く斬り尽くされた。我が隴種の車騎は、未だ公に給するに足らぬ」。詔して獄に下し、俄かにこれを釈し、益州に還鎮させた。軌は行台尚書韋雲起・郭行方と素より協わなかった。及んで隠太子が誅せられると、詔が益州に下った。軌はこれを懐中に蔵し、雲起が問うて言った、「詔書は何処にあるか」。軌はこれを示さず、ただ言った、「卿は反逆しようとしている」。執りてこれを殺した。行方は大いに懼れ、京師に奔ったが、軌は追って斬るに及ばなかった。この歳、行台が廃され、即座に益州大都督を授けられ、食邑六百戸を加えられた。貞観元年、征されて右衛大將軍を授けられた。二年、出て洛州都督となった。洛陽は隋末の喪乱に因り、人多く浮偽であった。軌は併せて農務に遣わし、各々属県に遊手怠惰の者あれば皆これを按じた。これにより人吏は憚り懼れ、風化は整肅された。四年、官において卒し、并州都督を贈られた。

子の奉節が嗣ぎ、高祖の永嘉公主を尚り、左衛将軍・秦州都督を歴任した。

竇琮

軌の弟の琮もまた武幹があり、隋の左親衛であった。大業末、法を犯し、亡命して太原に奔り、高祖に依った。琮は太宗と宿憾があり、毎度自ら疑った。太宗は方に英傑を蒐羅し、礼を降してこれを納れ、臥内に出入りさせたので、その疑いは解けた。及んで義挙を将にせんとすると、琮は大謀に協賛した。大將軍府が建てられると、統軍となった。西河平定に従い、霍邑を破り、金紫光禄大夫・扶風郡公に任ぜられた。まもなく劉文静に従って潼関の屈突通を撃ち、通は裨将桑顯和を遣わして文静を逼った。義軍は利あらず。琮は段志玄らと力戦すること久しく、隋軍は大いに潰え、通は遁走した。琮は軽騎を率いて稠桑まで追い、通を獲て還った。兵を進めて東を略し、陝県を下し、太原倉を抜いた。右領軍大將軍に任ぜられ、物五百段を賜った。時に隋の河陽都尉獨孤武が潜かに帰国を謀り、乃ち琮に歩騎一万を以て柏崖道より応接することを命じた。遅留して進まず、武は殺され、これに坐して除名された。武徳初、元謀の勲により特恕して一死を免じ、右屯衛大將軍に任ぜられ、また右領軍大將軍に転じた。時に洛陽を図らんとし、琮を遣わして陝城に留守させ、糧運を督せしめた。王世充はその驍将羅士信を遣わして糧道を断たんとした。琮は潜かに人を遣わして利害を説き、士信は遂に衆を帥いて降った。及んで東都平定に従い、賞物一千四百段を賜った。後に本官を以て晋州総管を検校した。まもなく隠太子に従って劉黒闥を討平し、功により譙国公に封ぜられ、黄金五十斤を賞された。未だ幾ばくもなくして卒した。高祖は佐命の旧臣として、甚だこれを悼み、左衛大將軍を贈り、諡して敬といった。永徽五年、重ねて特進を贈られた。

竇抗

竇抗、字は道生、太穆皇后の従兄なり、隋の洛州総管・陳国公竇栄の子なり。母は、隋文帝の万安公主なり。竇抗は隋において帝の甥として甚だ崇寵せらる。少くして太学に入り、書史を略く渉猟し、千牛備身・儀同三司に釈褐す。時に其の父の病臥に属し、竇抗躬自ら扶侍し、衣帯を解かざること五十余日に及ぶ。及び喪に居りては、哀毀礼を過ぐ。後に陳国公の爵を襲ぎ、累ねて梁州刺史に転ず。官に赴かんとするに、隋文帝其の第に幸し、竇抗及び公主に命じて酣宴せしめ、家人の礼の如くし、賞賜極めて厚し。母卒し、号慟して絶え復た蘇ること数たびなり、文帝宮人をして第に至らしめ、其の哭泣を節せしむ。歳余りして、起ちて岐州刺史と為り、幽州総管に転じ、政並びに寛恵を以て聞こゆ。及び漢王諒乱を作すに及び、煬帝其の変を為さんことを恐れ、李子雄を遣わし馳せ往きて之に代わらしむ。子雄因りて竇抗が諒の書を得て奏せざりしを言上し、之を按ずるも験無し、疑貳を以て除名せらる。竇抗は高祖と少くより親狎し、及び楊玄感乱を作すに及び、高祖兵を隴右に統ぶるや、竇抗高祖に言いて曰く、「玄感は発蹤の者に過ぎず。李氏図籙に名有り、其の便に乗ずべし、是れ天の啓く所なり。」高祖曰く、「禍の始めと為る無かれ、何ぞ言の妄なるや。」大業末、竇抗霊武に於いて長城を巡り以て盗賊を伺う。及び高祖京城を定むるを聞き、竇抗衆に対し忭びて曰く、「此れ吾が家の妹婿なり、豁達として大度有り、真に撥乱の主なり。」因りて長安に帰る。高祖之を見て大いに悦び、手を握り坐に引きて曰く、「李氏竟に事を成す能くせり、如何。」因りて酒を縦にして楽しましむ。尋いで将作大匠に拝す。武徳元年、本官を以て兼ねて納言と為る。高祖朝を聴くに、或いは御坐に升り、退朝の後は、臥内に延き入れ、之に敬を舎てしめ、酒を縦にし談謔し、平生の款を敦くす。常に宴に侍すること時を移し、或いは禁内に留宿す。高祖毎に兄と称して名を呼ばず、宮内皆舅と称す。常に游宴に陪侍し、朝務を知らず。左武候大将軍に転じ、左右千牛備身大将軍を領す。尋いで太宗に従い薛挙を平げ、勲第一に居る。四年、又従い王世充を征す。及び東都平らぎ、太廟に勲を冊する者九人、竇抗は従弟竇軌と俱に預かる。朝廷之を栄しめ、女楽一部・金宝万計を賜う。武徳四年、宴に侍するに因り暴卒す。司空を贈り、謚して密と曰う。

子衍。竇衍嗣ぎ、官左武衛将軍に至る。時に竇抗の群従内に三品七人、四品・五品十余人、主を尚ふ者三人、妃数人、冠冕の盛なること、当朝比ぶるもの無し。

竇靜

竇靜、字は元休、竇抗の第二子なり。武徳初、累ねて并州大総管府長史に転ず。時に突厥数たび辺患と為り、師旅歳に興り、軍糧属せず、竇静表を上して太原に屯田を置き以て饋運を省かんことを請う。時に議する者民物凋零を以て、衆を動かすに宜しからずとす。書奏して省みられず。竇静頻りに上書し、辞甚だ切至なり。ここに於いて竇静を征し入朝せしめ、裴寂・蕭瑀・封徳彝等と殿庭に於いて争論せしむ。寂等屈する能わず、竟に竇静の議に従う。歳に数千斛を収め、高祖之を善しとし、并州大総管を検校せしむ。竇静又突厥の頻りに入寇するを以て、石嶺を断ち以て障塞と為さんことを請い、復た之に従う。太宗即位し、征して司農卿に拝し、信都男に封ぜられ、尋いで夏州都督に転ず。時に突厥携貳す。諸将出征し、多く其の所に詣る。竇静虜中の虚実を知り、潜かに人をして其の部落を間わしむ。郁射設の部する郁孤尼等九俟斤並びに衆を率いて帰款す。太宗称善し、馬百匹・羊千口を賜う。及び頡利を擒え、其の部衆を河南に処するに及び、以て不便と為し、封事を上りて曰く、「臣聞く、夷狄は禽獣に同じ、窮すれば則ち搏噬し、群なれば則ち塵を聚む。刑法を以て威すべからず、仁義を以て教うべからず。衣食仰給し、耕桑を務めず、徒らに有為の民を損じ、以て無知の虜に資す。之を得れば則ち治に益無く、之を失えば則ち化に損無し。然れども彼の首丘の情、未だ易く忘れ難し。誠に一旦変生じ、我が王略を犯すを恐る。愚臣の深く慮る所なり。臣が計る如きは、其の破亡の後に因り、其の無妄の福を加え、賢王の号を仮し、宗室の女を妻とし、其の土地を分ち、其の部落を析き、其の権弱勢分からしめ、羈制し易からしむるに如かず。自ら永く辺塞を保ち、俾く籓臣と為らしむべし。此れ実に長轡遠馭の道なり。」時に務め懷輯に在り、未だ之に従わざるも、太宗深く其の志を嘉す。制して曰く、「北方の務、悉く以て相委ぬ。卿を以て寧朔大使と為し、華戎を撫鎮せしむ。朕北顧の憂無し。」再び民部尚書に遷る。貞観九年卒す。謚して肅と曰う。子逵。

竇逵太宗の女遂安公主を尚ぎ、信都男の爵を襲ぐ。

竇誕

竇誕、竇抗の第三子なり。隋の仁寿中、起家して朝請郎と為る。義寧初、丞相府祭酒に辟され、殿中監に転じ、安豊郡公に封ぜられ、高祖の女襄陽公主を尚ぐ。太宗に従い薛挙を征し、元帥府司馬と為る。刑部尚書に遷り、太常卿に転ず。高祖の諸少子荊王元景等未だ宮を出でざる者十余王、所有の国司家産の事、皆竇誕に令して之を主どらしむ。出でて梁州都督と為る。貞観初、召して右領軍大将軍に拝し、大理卿・莘国公に転ず。太廟を修営し、物五百段を賜う。復た殿中監と為り、疾を以て官を解き、復た宗正卿に拝す。太宗常に之と言わんとすれども、昏忘して対うる能わず。乃ち手詔して曰く、「朕聞く、官を為して人を択ぶ者は治まり、人を為して官を択ぶ者は乱る。竇誕比来精神衰耗し、常時に殊なり。不肖なるを知りて之を任じ、尸祿なるを睹て退かずは、唯だ風を傷い政を乱すのみならず、亦た君の明ならざるを恐る。考績黜陟は古今の常典なり。竇誕は光禄大夫として第に還るべし。」尋いで卒す。工部尚書・荊州刺史を贈り、謚して安と曰う。

子孝慈。竇孝慈嗣ぎ、官左衛将軍に至る。孝慈の子希玠。竇希玠少くして爵を襲ぎ、中宗の時に礼部尚書と為り、恩沢を以て実封二百五十戸を賜う。開元初、太子少傅・開府儀同三司と為る。竇誕の少子孝諶は、『外戚伝』に在り。竇氏武徳より今に至るまで、再び外戚と為り、一品三人、三品已上三十余人、主を尚ぐ者八人、女王妃と為る者六人、唐世の貴盛、之と比ぶるもの莫し。

竇璡

璡は字を之推といい、抗の末弟である。大業の末、扶風太守となった。高祖が京師を平定すると、郡を挙げて帰順し、礼部尚書・民部尚書の二尚書を歴任した。太宗に従って薛仁杲を平定した。まもなく益州を鎮守し、当時蜀中にはなお多くの寇賊がおり、璡はたびたび討伐して平定した。時に皇甫無逸が蜀におり、彼と協調せず、璡はたびたび入朝を請うた。高祖がこれを召還すると、途中で詔を下して鎮守に戻らせた。璡は志を得ず、そこで路傍の山に題字し、鬱積を晴らした。使者がその地に至ると、璡は臥内でこれを宴し、綾綺を贈った。無逸がこの事を奏上し、罪に坐して免官となった。ほどなく、秘書監に任ぜられ、鄧国公に封ぜられた。貞観の初め、太子詹事を授けられた。後に将作大匠となり、洛陽宮を修繕した。璡は宮中に池を穿ち山を築き、高く飾り立てて彫麗を極め、徒らに功力を費やしたので、太宗は怒り、直ちにこれを破壊させた。事に坐して免官となった。時にその娘を酆王妃に納れると、まもなく復位し、右光禄大夫を加えられた。七年に卒し、礼部尚書を追贈され、諡して安といった。璡は音律にかなり通暁し、武徳年中、太常少卿祖孝孫とともに詔を受けて正声雅楽を制定し、璡は故実を討論し、『正声調』一卷を撰し、世に行われた。

史臣が曰く、人を得る者は昌える。諸温の儒雅清顕なること、一時の称賛を得、叔達の才学明弁なること、二国の選に中る。皆、廊廟の器を抱き、倶に社稷の臣となる。威は道を守り、軌は戎に臨み、抗は喪に居り、静は経略し、璡は音律に通じ、なお懿親として、倶に顕位に至る。才能と門第、数朝に輝映す。豈に人を得ざらんや。唐の昌えること、亦た宜ならずや。然れども彦博の褊狭、竇軌の残酷、亦た全き器に非ず。

賛して曰く、温・陳の才位、文は典礼に蔚たり。諸竇の戚里、栄盛比ぶるものなし。