舊唐書

巻060

巻060

舊唐書

原文舊唐書

卷六十

原文卷六十

列傳第十 宗室 (太祖諸子 代祖諸子)

原文列傳第十 宗室 (太祖諸子 代祖諸子)

永安王孝基、淮安王神通、子道彦、孝察、孝同、孝慈、孝友、孝節、孝義、孝逸

原文○永安王孝基 淮安王神通 子道彥 孝察 孝同 孝慈 孝友 孝節孝義孝逸

襄邑王神符、子徳懋、文暕

原文襄邑王神符 子德懋 文暕

長平王叔良、子孝協、孝斌、孝斌子思訓、思誨、叔良弟徳良、幼良

原文長平王叔良 子孝協 孝斌孝斌子思訓思誨 叔良 弟德良 幼良

襄武王琛、河間王孝恭、子晦、孝恭弟瑊、瑰、廬江王瑗、王君廓附

原文襄武王琛 河間王孝恭 子晦 孝恭弟 瑊 瑰廬江王瑗 王君廓附

淮陽王道玄、江夏王道宗、隴西王博乂

原文淮陽王道玄 江夏王道宗 隴西王博乂

宗室

原文宗室

永安王孝基

原文永安王孝基

永安王孝基は、高祖こうその従父弟である。父の璋は、周の梁州刺史であり、趙王の祐と謀って隋の文帝を殺害しようとしたが、事が洩れて誅殺され、高祖が即位すると、畢王を追封された。孝基は、武徳元年に永安王に封ぜられ、陝州総管・鴻臚卿を歴任したが、罪により免官された。二年、劉武周の将宋金剛が汾・澮を寇掠した。夏県の人呂崇茂は県令を殺し、兵を挙げて反乱を起こし、自ら魏王と称し、武周に援軍を請うた。再び孝基を行軍総管としてこれを討たせ、工部尚書の独孤懐恩・内史侍郎の唐儉・陝州総管の于筠を皆その配下に属させた。武周はその将尉遅敬徳に命じて密かに崇茂を救援させ、夏県で大戦し、王師は敗北し、孝基と唐儉らは皆賊に捕らわれた。後に帰国を謀ったが、武周に害された。高祖はそのために哀悼の意を表し、三日間朝政を停止し、その家に帛千匹を賜った。賊が平定された後、その屍を購い求めたが得られず、魂を招いて葬り、左衛大将軍を追贈し、諡して壮といった。子がなく、従兄の韶の子の道立を嗣とし、高平郡王に封ぜられた。九年、県公に降格された。永徽初年、陳州刺史の任で卒去した。

原文永安王孝基,高祖從父弟也。父璋,周梁州刺史,與趙王祐謀殺隋文帝,事洩被誅,高祖即位,追封畢王。孝基,武德元年封永安王,歷陝州總管、鴻臚卿,以罪免。二年,劉武周將宋金剛來寇汾、澮。夏縣人呂崇茂殺縣令,舉兵反,自稱魏王,請援於武周。復以孝基為行軍總管討之,工部尚書獨孤懷恩、內史侍郎唐儉、陝州總管於筠悉隸焉。武周遣其將尉遲敬德潛援崇茂,大戰於夏縣,王師敗績,孝基與唐儉等皆沒於賊。後謀歸國,為武周所害,高祖為之發哀,廢朝三日,賜其家帛千匹。賊平,購其屍不得,招魂而葬之,贈左衛大將軍,謚曰壯。無子,以從兄韶子道立為嗣,封高平郡王。九年,降為縣公。永徽初,卒於陳州刺史。

淮安王神通

原文淮安王神通

淮安王神通は、高祖の従父弟である。父の亮は、隋の海州刺史であり、武徳初年に鄭王を追封された。神通は、隋末に京師にいた。義兵が起こると、隋人が彼を捕らえようとしたので、神通は鄠県の山南に潜り込み、京師の大侠の史万宝・河東の裴勣・柳崇礼らと兵を挙げて義兵に応じた。使者を遣わして司竹の賊帥の何潘仁と連絡を結んだ。潘仁は平陽公主を奉じて来たので、神通はこれと合流し、進んで鄠県を陥とし、兵は一万を超えた。自ら関中道行軍総管を称し、史万宝を副将とし、裴勣を長史とし、柳崇礼を司馬とし、令狐徳棻を記室とした。高祖はこれを聞いて大いに喜び、光禄大夫を授けた。京師平定に従い、宗正卿に任ぜられた。武徳元年、右翊衛大将軍に任ぜられ、永康王に封ぜられ、まもなく淮安王に改封され、山東道安撫大使となった。魏県で宇文化及を撃つと、化及は抗しきれず、東の聊城に逃走した。神通は兵を進めてこれを追撃し、聊城に至った。ちょうど化及が食糧が尽きて降伏を請うたが、神通は受け入れなかった。その副使の黄門侍郎の崔干がこれを受け入れるよう勧めたが、神通は言った、「兵士は長く野戦に苦しみ、賊は計略尽き食糧も尽きた。勝利は旦夕のうちにある。まさに攻め取って国威を示し、その玉帛を分けて軍の賞賜とすべきである。もし降伏を受け入れるならば、我は何をもって手柄としようか」。干は言った、「今、竇建徳がまさに来ようとしており、化及は未だ平定されていない。二賊の間で事態は必ず危険に迫るでしょう。攻撃せずしてこれを下す、この功績は甚だ大きい。今、その玉帛を貪れば、敗北は遠い日ではない」。神通は怒り、干を軍中に囚えた。まもなく士及が済北から食糧を送り届けたので、化及の軍はやや盛り返し、遂に抗戦した。神通は兵を督して迫ってこれを撃った。貝州刺史の趙君徳が城壁を攀じ登ったが、神通はその功績を妬み、軍を止めて戦わなかった。君徳は大声で罵って下り、城はまた堅く守られた。神通は兵数千人を分遣して魏州に攻具を取りに行かせたが、途中でまた莘県の人に敗れた。竇建徳の軍がまさに到来すると聞き、遂に軍を率いて退却した。二日後、化及は建徳に捕らえられ、賊の勢いはますます盛んとなり、山東の城邑は多く建徳に帰した。神通の兵は次第に離散し、黎陽に退いて守り、徐勣を頼ったが、まもなく建徳に陥とされた。建徳が敗れた後、再び河北道行台尚書左僕射を授けられた。太宗に従って劉黒闥を平定し、左武衛大将軍に遷った。貞観元年、開府儀同三司に任ぜられ、実封五百戸を賜った。時に太宗は諸功臣に言った、「朕は公らの功績を序列し、封邑を定めたが、全てが適当でない恐れがある。各自、言え」。神通は言った、「義旗が初めて起こった時、臣は兵を率いて先に参じました。今、房玄齢・杜如晦ら文筆の者が功績第一とされていますが、臣は不服です」。上は言った、「義旗が初めて起こった時、人皆心を寄せた。叔父は兵を率いて先に至ったが、自ら戦陣に身を置いたことはない。山東が未だ定まらぬ時、征討を委ねられたが、建徳が南侵すると全軍が陥没した。また劉黒闥が反乱を起こすと、叔父は風の便りに破れた。今、功績を計って賞を行うに当たり、玄齢らには帷幄で謀略を巡らし社稷を安定させた功績がある。それゆえ漢の蕭何しょうかのように、汗馬の労はなくとも、指図し推挙したので、功績第一となったのである。叔父は国にとって至親であり、誠に惜しむところはないが、必ずや私情によって勲臣と同じ賞を濫りに与えるわけにはいかない」。四年、薨去した。太宗はそのために朝政を停止し、司空しくうを追贈し、諡して靖といった。十四年、詔して河間王孝恭・贈陝州大行台右僕射鄖節公殷開山・贈民部尚書渝襄公劉政会と共に高祖廟庭に配饗せしめられた。子十一人あり。長子は道彦、武徳五年に膠東王に封ぜられた。次は孝察、高密王。孝同、淄川王。孝慈、広平王。孝友、河間王。孝節、清河王。孝義、膠西王。

原文淮安王神通,高祖從父弟也。父亮,隋海州刺史,武德初追封鄭王。神通,隋末在京師。義師起,隋人捕之,神通潛入鄠縣山南,與京師大俠史萬寶、河東裴勣、柳崇禮等舉兵以應義師。遣使與司竹賊帥何潘仁連結。潘仁奉平陽公主而至,神通與之合勢,進下鄠縣,眾逾一萬。自稱關中道行軍總管,以史萬寶為副,裴勣為長史,柳崇禮為司馬,令狐德棻為記室。高祖聞之大悅,授光祿大夫。從平京師,拜宗正卿。武德元年,拜右翊衛大將軍,封永康王,尋改封淮安王,為山東道安撫大使。擊宇文化及於魏縣,化及不能抗,東走聊城。神通進兵躡之,至聊城。會化及糧盡請降,神通不受。其副使黃門侍郎崔干勸納之,神通曰:「兵士暴露已久,賊計窮糧盡,克在旦暮,正當攻取,以示國威,散其玉帛,以為軍賞。若受降者,吾何以藉手乎?」干曰:「今建德方至,化及未平,兩賊之間,事必危迫。不攻而下之,此勳甚大。今貪其玉帛,敗無日矣!」神通怒,囚干於軍中。既而士及自濟北饋之,化及軍稍振,遂拒戰。神通督兵薄而擊之,貝州刺史趙君德攀堞而上,神通心害其功,因止軍不戰,君德大詬而下,城又堅守。神通乃分兵數千人往魏州取攻具,中路復為莘人所敗。竇建德軍且至,遂引軍而退。後二日,化及為建德所虜,賊勢益張,山東城邑多歸建德。神通兵漸散,退保黎陽,依徐勣,俄為建德所陷。及建德敗,復授河北道行台尚書左僕射。從太宗平劉黑闥,遷左武衛大將軍。貞觀元年,拜開府儀同三司,賜實封五百戶。時太宗謂諸功臣曰:「朕敘公等勳效,量定封邑,恐不能盡當,各自言。」神通曰:「義旗初起,臣率兵先至,今房玄齡、杜如晦等刀筆之人,功居第一,臣且不服。」上曰:「義旗初起,人皆有心。叔父雖率兵先至,未嘗身履行陣。山東未定,受委專征,建德南侵,全軍陷沒;及劉黑闥翻動,叔父望風而破。今計勳行賞,玄齡等有籌謀帷幄定社稷功,所以漢之蕭何,雖無汗馬,指縱推轂,故功居第一。叔父於國至親,誠無所愛,必不可緣私濫與勳臣同賞耳。」四年,薨。太宗為之廢朝,贈司空,謚曰靖。十四年,詔與河間王孝恭、贈陝州大行台右僕射鄖節公殷開山、贈民部尚書渝襄公劉政會配饗高祖廟庭。有子十一人:長子道彥,武德五年,封膠東王;次孝察,高密王;孝同,淄川王;孝慈,廣平王;孝友,河間王;孝節,清河王;孝義,膠西王。

初め、高祖が禅譲を受けた時、天下が未だ定まっていなかったので、宗室を広く封じて天下に威を示した。皇従弟及び甥で年端もいかない子供数十人を、皆郡王に封じた。太宗が即位し、宗正の属籍を挙げて侍臣に問うて言った、「宗子を遍く封ずることは、天下にとって便利か」。尚書右僕射の封徳彝が答えて言った、「歴史上を観ますと、王に封ぜられる者は、今が最も多い。両漢以来、ただ帝子及び親兄弟のみを封じ、宗室で疎遠な者は、周の郇・滕や漢の賈・沢のような大功がなければ、濫りに封ぜられず、親疎を区別したのです。先朝は九族を厚く睦まじくし、一切を王に封じ、爵命が既に高く、多く力役を与えました。天下を私物とするものであり、至公をもって万物を治める道とは全く異なります」。太宗は言った、「朕が天下を治めるのは、本来百姓のためであり、百姓を労して己の親族を養おうとするのではない」。ここにおいて宗室はおおむね親族関係が疎遠であることを理由に爵を降格して郡公とし、ただ功績ある者数十人のみを王に封じた。この時、道彦らも皆例に従って爵を降格された。道彦は末弟の孝逸と最も名を知られた。

原文初,高祖受禪,以天下未定,廣封宗室以威天下,皇從弟及侄年始孩童者數十人,皆封為郡王。太宗即位,因舉宗正屬藉問侍臣曰:「遍封宗子,於天下便乎?」尚書右僕射封德彝對曰:「歷觀往古,封王者,今最為多。兩漢已降,唯封帝子及親兄弟,若宗室疏遠者,非有大功如周之郇、滕,漢之賈、澤,並不得濫封,所以別親疏也。先朝惇睦九族,一切封王,爵命既隆,多給力役,蓋以天下為私,殊非至公馭物之道。」太宗曰:「朕理天下,本為百姓,非欲勞百姓以養己之親也。」於是宗室率以屬疏降爵為郡公,唯有功者數十人封王。是時道彥等並隨例降爵。道彥與季弟孝逸最知名。

道彦は幼少より親に仕えて甚だ謹み深かった。初め、義兵が起こると、神通は難を逃れて山谷に病を患い、数十日を経過し、山中の食糧は尽きた。道彦は古びた粗末な衣を着て、人里に出て物乞いをし、また野の実を採って父に供給し、自身は何も食べなかった。父が分けて食べさせようとすると、いつも既に食べたと偽って言い、隠し留めておき、欠乏に備えた。神通が義挙に応じると、朝請大夫を授けられた。高祖が禅を受け、義興郡公に封ぜられ、膠東王に進封され、隴州刺史を授けられた。貞観初年、相州都督ととくに転じ、例により爵を降格して公とされ、岷州都督に任ぜられた。父の喪に服し、墓の傍らに廬を結び、土を背負って墳丘を築き、自ら松柏を植え、容貌は哀しみで憔悴し、親友も皆再び彼を識別できなかった。太宗は聞いて賞賛し、侍中王珪に命じて赴き慰め諭させた。再び岷州都督を授けられた。道彦は使者を遣わして党項諸部に告諭し、国の威霊を明らかにし、多くが降伏帰附した。李靖が吐谷渾を撃つにあたり、詔して道彦を赤水道行軍総管とした。時に朝廷は再び多額の財貨を党項に贈り、郷導とするよう命じた。党項の首領拓拔赤辞が李靖の軍に来て、諸将に請うて言うには、「かつて隋人が吐谷渾を撃ちに来た時、我が党項は常に軍用を援助したが、隋人は信義がなく、必ず侵掠を受けた。今将軍に他心がなければ、我らは糧食輸送を援助しよう。もし我らを欺くならば、直ちに険阻を固めて軍路を塞ごう。」諸将は彼と血をすすって盟いを結び、赤辞はこれを信じた。道彦が闊水に到着すると、赤辞に備えがないのを見て、遂にこれを襲撃し、牛羊数千頭を捕虜とした。ここにおいて諸羌は怨み怒り、野狐硤に兵を屯し、道彦は進むことができず、赤辞に乗ぜられ、軍は大敗し、死者数万人に及んだ。道彦は松州に退いて守り、ついに罪を減じられて死一等を免れ辺境に流された。後に起用されて涼州都督となり、まもなく卒去し、礼部尚書を追贈された。

原文道彥幼而事親甚謹。初,義師起,神通逃難,被疾於山谷,綿曆數旬,山中食盡。道彥著故弊衣,出人間乞丐,及采野實,以供其父,身無所啖。其父分以食之,輒詐言已啖,而覆藏留之,以備闕乏。及神通應義舉,授朝請大夫。高祖受禪,封義興郡公,進封膠東王,授隴州刺史。貞觀初,轉相州都督,例降爵為公,拜岷州都督。丁父憂,廬於墓側,負土成墳,躬植松柏,容貌哀毀,親友皆不復識之。太宗聞而嘉嘆,令侍中王珪就加開喻。復授岷州都督。道彥遣使告喻党項諸部,申國威靈,多有降附。李靖之擊吐谷渾也,詔道彥為赤水道行軍總管。時朝廷復厚幣遺党項,令為鄉導,党項首領拓拔赤辭來詣靖軍,請諸將曰:「往者隋人來擊吐谷渾,我党項每資軍用,而隋人無信,必見侵掠。今將軍若無他心者,我當資給糧運;如或我欺,當即固險以塞軍路。」諸將與之歃血而盟,赤辭信之。道彥既至闊水,見赤辭無備,遂襲之,虜牛羊數千頭。於是諸羌怨怒,屯兵野狐硤,道彥不能進,為赤辭所乘,軍大敗,死者數萬人。道彥退保松州,竟坐減死徙邊。後起為涼州都督,尋卒,贈禮部尚書。

孝逸は若くして学問を好み、文章を綴ることを解した。初め梁郡公に封ぜられた。高宗の末年に、給事中を歴任し、四度転じて益州大都督府長史となった。則天が朝政に臨むと、左衛將軍として召され、甚だ親遇された。光宅元年、徐敬業が揚州に拠って乱を起こすと、孝逸を左玉鈐衛大將軍・揚州行軍大總管とし、軍を督してこれを討たせた。孝逸は軍を率いて淮に至ったが、敬業はちょうど南の潤州を攻めており、その弟敬猷を遣わして淮陰に兵を屯させた。偽将の韋超が都梁山に拠り、孝逸を拒いだ。裨将の馬敬臣が賊の別帥尉遅昭・夏侯瓚らを撃ち斬ると、韋超は衆を擁して山に憑り自らを固守した。ある者が孝逸に言うには、「韋超の衆は険を守り、かつ山に憑って阻みとしている。これを攻めれば兵士は力を施す所なく、騎兵は足を駆る所がなく、窮寇は必死となり、殺傷必ず多かろう。兵を分けてこれを守らせるよりは、大軍を直ちに揚州に向かわせるがよい。数日も経たぬうちに、その勢い必ず降るであろう。」支度使・広府司馬の薛克構は言うには、「韋超は険に拠るとはいえ、その兵卒は多くない。今小寇に逢って撃たなければ、どうして武威を示せようか。もし兵を加えて守らせれば、前の機会を失うことになる。これを捨てて前進すれば、終には後患となろう。これを撃つに如かず。韋超を撃ち破れば淮陰は自ら恐れおののき、淮陰が破れれば楚州諸県は必ず門を開いて官軍を待つであろう。その後、兵を進めて高郵に至り、直ちに江都に向かえば、逆賊の首は指掌の間に懸けられよう。」孝逸はその言葉に従い、兵を進めて韋超の賊を撃つと、賊衆は圧伏し、官軍は山に登って急撃し、数百人を殺し、日暮れに包囲が解け、韋超は枚を銜えて夜遁した。孝逸は兵を率いて淮陰を撃ち、敬猷の衆を大破した。時に敬業は軍を返して下阿溪に屯し官軍を拒いだ。流星がその陣営に墜ちた。孝逸は兵を率いて溪を渡りこれを撃った。敬業は初め勝ち後で敗れ、孝逸は勝に乗じて数十里を追撃し、敬業は窮迫し、その党と共に妻子を連れて海曲に逃げ込んだ。孝逸は進んで揚州を占拠し、敬業らをことごとく捕らえ斬り、軍を整えて還り、功により鎮軍大將軍に進授され、左豹韜衛大將軍に転じ、吳國公に改封された。孝逸は元来名望があり、この時より世の称賛益々重く、武承嗣らは深く忌み嫉み、しばしば讒言して誹毀した。垂拱二年、施州刺史に左遷された。その冬、承嗣らはまた人を遣わして孝逸を誣告させ、かつて益州に任じた時、自ら「逸」の字を解して「走って兔を繞る者は、常に月中に在り。月は既に天に近し、天分有るべし」と言ったと。則天は孝逸が常に功有りとし、死を減じて儋州に配流し、まもなく卒去した。景雲初年、益州大都督を追贈された。孝鋭の孫の齊物、孝同の曾孫の國貞は、別に傳がある。

原文孝逸少好學,解屬文。初封梁郡公。高宗末,歷給事中,四遷益州大都督府長史。則天臨朝,入為左衛將軍,甚見親遇。光宅元年,徐敬業據揚州作亂,以孝逸為左玉鈐衛大將軍、揚州行軍大總管,督軍以討之。孝逸引軍至淮,而敬業方南攻潤州,遣其弟敬猷屯兵淮陰;偽將韋超據都梁山,以拒孝逸。裨將馬敬臣擊斬賊之別帥尉遲昭、夏侯瓚等,超乃擁眾憑山以自固。或謂孝逸曰:「超眾守險,且憑山為阻,攻之則士無所施其力,騎無所騁其足,窮寇殊死,殺傷必眾。不若分兵守之,大軍直趣揚州,未數日,其勢必降也。」支度使、廣府司馬薛克構曰:「超雖據險,其卒非多,今逢小寇不擊,何以示武?若加兵以守,則有闕前機;舍之而前,則終為後患,不如擊之。克超則淮陰自懾,淮陰破,則楚州諸縣必開門而候官軍。然後進兵高郵,直趣江都,逆豎之首,可指掌而懸也。」孝逸從其言,進兵擊超賊,眾壓伏,官軍登山急擊之,殺數百人,日暮圍解,超銜枚夜遁。孝逸引兵擊淮陰,大破敬猷之眾。時敬業回軍屯於下阿溪以拒官軍,有流星墜其營。孝逸引兵渡溪以擊之。敬業初勝後敗,孝逸乘勝追奔數十里,敬業窘迫,與其黨攜妻子逃入海曲。孝逸進據揚州,盡捕斬敬業等,振旅而還,以功進授鎮軍大將軍,轉左豹韜衛大將軍,改封吳國公。孝逸素有名望,自是時譽益重,武承嗣等深所忌嫉,數讒毀之。垂拱二年,左遷施州刺史。其冬,承嗣等又使人誣告孝逸往任益州,嘗自解「逸」字云:「走繞兔者,常在月中。月既近天,合有天分。」則天以孝逸常有功,減死配徙儋州,尋卒。景雲初,贈益州大都督。孝銳孫齊物,孝同曾孫國貞,別有傳。

襄邑王神符は、神通の弟である。幼くして孤となり、兄に事えて友悌をもって知られた。義寧初年、光祿大夫を授けられ、安吉郡公に封ぜられた。武德元年、襄邑郡王に進封された。四年、累遷して并へい州總管となった。突厥の頡利可汗が衆を率いて来寇すると、神符は兵を出して汾水の東で戦い、これを破り、五百級を斬首し、その馬二千匹を捕虜とした。また沙河の北で戦い、その乙利達官および可汗の乗馬と甲を獲て献上した。これにより召されて太府卿に任ぜられた。九年、揚州大都督に遷り、州府と住民を丹陽から江を渡って移し、州人はこれに頼った。貞観初年、再び宗正卿に遷った。後に病を理由に職を辞すると、太宗はその邸に臨んで病を問い、縑帛を賜い、常に羊酒を与えた。また小輿に乗せ、紫微殿に引き入れさせた。神符が脚疾であったため、三衛に命じて輿で昇らせた。まもなく開府儀同三司を授けられた。永徽二年に薨去、七十三歳。司空・荊州都督を追贈され、献陵に陪葬し、諡して恭といった。子七人有り、武德初年、皆郡王に封ぜられたが、後例により県公に降封された。次子の德懋・少子の文暕が最も知名である。德懋は官は少府監・臨川郡公に至った。文暕は幽州都督・魏郡公を歴任した。垂拱年中、事に坐して藤州別駕に貶せられ、まもなく誅殺された。文暕の子の佺は、開元年中に宗正卿となった。

原文襄邑王神符,神通弟也。幼孤,事兄以友悌聞。義寧初,授光祿大夫,封安吉郡公。武德元年,進封襄邑郡王。四年,累遷并州總管。突厥頡利可汗率眾來寇,神符出兵與戰於汾水東,敗之,斬首五百級,虜其馬二千匹。又戰於沙河之北,獲其乙利達官並可汗所乘馬及甲獻之,由是召拜太府卿。九年,遷揚州大都督,移州府及居人自丹陽渡江,州人賴焉。貞觀初,再遷宗正卿。後以疾辭職,太宗幸其第問疾,賜以縑帛,每給羊酒。又令乘小輿,引入紫微殿,以神符腳疾,乃遣三衛輿之而升。尋授開府儀同三司。永徽二年薨,年七十三,贈司空、荊州都督,陪葬獻陵,謚曰恭。有子七人,武德初,並封郡王,後例降封縣公。次子德懋、少子文暕最知名。德懋官至少府監、臨川郡公。文暕歷幽州都督、魏郡公。垂拱中,坐事貶為藤州別駕,尋被誅。文暕子佺,開元中為宗正卿。

長平王叔良

原文長平王叔良

長平王叔良は、高祖の従父弟である。父の禕は、隋の上儀同三司で、武德初年に追封されて郇王となった。叔良は、義寧年中に左光祿大夫を授けられ、長平郡公に封ぜられた。武德元年、刑部侍郎に任ぜられ、爵を進めて王となった。師を率いて涇州を鎮め、薛挙を防禦した。薛挙は食糧が尽きたと偽って言い、兵を率いて南へ去り、高墌の人を遣わして偽って降伏させた。叔良は驃騎劉感に衆を率いて赴かせた。百里細川に至ると、伏兵が発し、官軍は敗績し、劉感は陣に没した。叔良は大いに恐れ、金を出して士卒に賜った。厳重に守備を固め、涇州は辛うじて全うされた。四年、突厥が入寇すると、叔良に命じて五軍を率いてこれを撃たせた。叔良は流れ矢に当たって薨じ、左翊衛大將軍・靈州總管を追贈され、諡して肅といった。

原文長平王叔良,高祖從父弟也。父禕,隋上儀同三司,武德初,追封郇王。叔良,義寧中授左光祿大夫,封長平郡公。武德元年,拜刑部侍郎,進爵為王。師鎮涇州,以御薛舉。舉乃陽言食盡,引兵南去,遣高墌人偽以降。叔良遣驃騎劉感率眾赴之,至百里細川,伏兵發,官軍敗績,劉感沒於陣。叔良大懼,出金以賜士卒。嚴為守備,涇州僅全。四年,突厥入寇,命叔良率五軍擊之。叔良中流矢而薨,贈左翊衛大將軍、靈州總管,謚曰肅。

子の孝協が嗣ぎ、武德五年、范陽郡王に封ぜられた。貞観初年、属として疎遠であることを理由に例により郇國公に降封され、累遷して魏州刺史となった。麟德年中、贓物を受け取った罪に坐して賜死された。

原文子孝協嗣,武德五年,封范陽郡王。貞觀初,以屬疏例降封郇國公,累遷魏州刺史。麟德中,坐受贓賜死。

孝協の弟の孝斌は、官は原州都督府長史に至った。

原文孝協弟孝斌,官至原州都督府長史。

孝斌の子の思訓は、高宗の時に累転して江都令となった。則天の革命に属し、宗室は多く誣陷されることがあったので、思訓は遂に官を棄てて潜み匿れた。神龍初年、中宗が初めて宗社を復すると、思訓が旧臣であることを以て、急遽宗正卿に遷され、隴西郡公に封ぜられ、実封二百戸を与えられた。益州長史を歴任した。開元初年、左羽林大將軍となり、彭國公に進封され、さらに実封二百戸を加えられ、まもなく右武衛大將軍に転じた。開元六年に卒去。秦州都督を追贈され、橋陵に陪葬された。思訓は特に丹青を善くし、今に至るまで絵事を業とする者は李將軍の山水を推す。

原文孝斌子思訓,高宗時累轉江都令。屬則天革命,宗室多見搆陷,思訓遂棄官潛匿。神龍初,中宗初復宗社,以思訓舊齒,驟遷宗正卿,封隴西郡公,實封二百戶。歷益州長史。開元初,左羽林大將軍,進封彭國公,更加實封二百戶,尋轉右武衛大將軍。開元六年卒。贈秦州都督,陪葬橋陵。思訓尤善丹青,迄今繪事者推李將軍山水。

思訓の弟の思誨は、垂拱年中に揚州參軍となった。思誨の子の林甫は別に傳がある。

原文思訓弟思誨,垂拱中揚州參軍。思誨子林甫別有傳。

叔良の弟の德良は、若くして病があり、仕官しなかった。武德の初め、新興王に封ぜられた。貞観十一年に薨じ、涼州都督を追贈された。

原文叔良弟德良,少有疾,不仕。武德初,封新興王。貞觀十一年薨,贈涼州都督。

德良の孫の晉は、先天年中、殿中監となり、雍州長史を兼ね、甚だ威名があり、新興王を紹封した。まもなく太平公主に附会した罪に坐して誅せられ、姓を厲氏に改められた。初め、晉が誅せられるとき、僚吏は皆奔走散逸したが、ただ司功の李捴のみが徒歩で従い、在官の礼を失わず、なおその屍を哭した。姚崇はこれを聞いて言うには、「欒・向の儔なり」と。擢て尚書郎とした。後に官は澤州刺史に至った。

原文德良孫晉,先天中,為殿中監,兼雍州長史,甚有威名,紹封新興王。尋坐附會太平公主伏誅,改姓厲氏。初,晉之就誅,僚吏皆奔散,唯司功李捴步從,不失在官之禮,仍哭其屍。姚崇聞之曰:「欒、向之儔也。」擢為尚書郎。後官至澤州刺史。

德良の弟の幼良は、武德の初め、長楽王に封ぜられた。時にその馬を盗む者があり、幼良は盗人を捕えて密かに殺した。高祖は怒って言うには、「昔人は盗馬者に酒を賜い、終にその報いを得た。爾は輒ち殺戮を行い、何ぞ古風なきや。盗者は確かに罪ありといえども、専殺は豈に枉ちでないことがあろうか」と。礼部尚書の李綱を遣わして朝堂に宗室王公を集めてこれを撻った。その後累遷して涼州都督となり、嘗て不逞の徒百余りを左右に引き入れ、多く市裡を侵暴し、行旅これを苦しめた。太宗が即位すると、幼良が密かに死士を養い、境外と交通し、恐らく反叛を謀っていると告げる者があった。詔して中書令の宇文士及を遣わして都督に代え、併せてその事を按じさせた。士及はその変を慮り、遂に縊殺した。

原文德良弟幼良,武德初,封長樂王。時有人盜其馬者,幼良獲盜而閃殺之,高祖怒曰:「昔人賜盜馬者酒,終獲其報,爾輒行戮,何無古風!盜者信有罪矣,專殺豈非枉邪?」遣禮部尚書李綱於朝堂集宗室王公而撻之。自後累遷涼州都督,嘗引不逞百餘人為左右,多侵暴市裡,行旅苦之。太宗即位,有告幼良陰養死士,交通境外,恐謀為反叛,詔遣中書令宇文士及代為都督,並按其事。士及慮其為變,遂縊殺之。

襄武王琛

原文襄武王琛

襄武王琛は、高祖の従父兄の子である。祖父の蔚は、周の朔州総管であった。父の安は、隋の領軍大将軍であった。武德の初め、蔚を追封して蔡王とし、安を西平王とした。琛は、義寧年中に襄武郡公に封ぜられ、太常卿の鄭元璹と共に女妓を齎して突厥の始畢可汗に遺し、以て和親を結んだ。始畢はこれを甚だ重んじ、名馬数百匹を贈り、骨咄祿特勒を遣わして琛に随い方物を貢がせた。高祖は大いに悦び、刑部侍郎に拝し、爵を進めて王とした。蒲・絳二州総管を歴任した。宋金剛が澮州を陥落させたとき、稽胡多く叛き、転じて琛を隰州総管としてこれを鎮めさせた。衆を馭するに寛簡で、夷夏これを安んじた。三年、薨じた。子の儉が嗣ぎ、後に例に随って爵を降りて公となった。

原文襄武王琛,高祖從父兄子也。祖蔚,周朔州總管。父安,隋領軍大將軍。武德初,追封蔚為蔡王,安為西平王。琛,義寧中封襄武郡公,與太常卿鄭元璹齎女妓遺突厥始畢可汗,以結和親。始畢甚重之,贈名馬數百匹,遣骨咄祿特勒隨琛貢方物。高祖大悅,拜刑部侍郎,進爵為王。歷蒲、絳二州總管。及宋金剛陷澮州,時稽胡多叛,轉琛為隰州總管以鎮之。馭眾寬簡,夷夏安之。三年,薨。子儉嗣,後隨例降爵為公。

琛の弟 孝恭

原文琛弟 孝恭

河間王孝恭は、琛の弟である。高祖が京師を克つと、左光禄大夫に拝し、尋いで山南道招慰大使となった。金州より巴蜀しょくはしょくに出で、礼を以て招き携え、降附する者三十余州。孝恭は進んで硃粲を撃ち、これを破った。諸将は言うには、「これは人を食う賊なり、害を為すこと実に深し、請うてこれを坑せん」と。孝恭は言うには、「不可なり。此より已東、皆寇境なり、若し此の事を聞かば、豈に来降する者あらんや」と。尽く赦して殺さず、これにより書檄の至る所、相継いで降款した。武德二年、信州総管を授け、制を承けて仮に拝することを許された。蕭銑が江陵に拠ると、孝恭は銑を平らげる策を献じ、高祖嘉みてこれを納れた。三年、爵を進めて王とした。信州を夔州と改め、孝恭を総管に拝することを命じ、大いに舟楫を造らせ、水戦を教習させ、以て蕭銑を図らせた。孝恭は巴蜀の首領の子弟を召し、量才して用を授け、これを左右に致し、外には引擢を示し、而して実は以て質と為した。尋いで荊湘道行軍総管を授け、水陸十二総管を統べ、硤州より発し、進軍して江陵に至った。その水城を攻め、これを克ち、得たる船を江中に散らした。諸将は皆言うには、「虜は賊船を得て、当にその用を藉すべし、何ぞこれを棄つる、無乃賊に資するか」と。孝恭は言うには、「然らず。蕭銑の偽境は、南は嶺外に極まり、東は洞庭に至る。若し城を攻めて未だ抜かず、援兵復た到らば、我は則ち内外敵を受け、進退すべからず、舟楫有りと雖も、何の用か之れを為さん。今銑の縁江の州鎮、忽ち船舸の乱れ下るを見れば、必ずや銑の敗れたるを知り、未だ敢えて兵を進めず、来たり去たり覘伺し、動もすれば旬月を淹む。以てその救いを緩め、克つこと必せり」と。銑の救兵は巴陵に至り、船が江を被って下るを見て、果たして狐疑して敢えて軽く進まず。既に内外阻絶せられ、銑はここに出でて降った。高祖は大いに悦び、孝恭を荊州大総管に拝し、画工に命じてその貌を写して視せしめた。ここに於いて屯田を開置し、銅冶を創立し、百姓これに利した。六年、襄州道行台尚書左僕射に遷った。時に荊襄は定まったと雖も、嶺表は未だ悉く平らかでなかった。孝恭は分かって使人を遣わして撫慰し、嶺南四十九州皆来たりて款附した。輔公祏が江東に拠り反し、兵を発して寿陽を寇すに及び、孝恭を行軍元帥としてこれを撃たしむるを命じた。七年、孝恭は荊州より九江に趣いた。時に李靖・李勣・黄君漢・張鎮州・盧祖尚並びに孝恭の節度を受けた。将に発たんとし、諸将と宴集し、命じて水を取らせると、忽ち血に変じ、座する者皆色を失った。孝恭は挙止自若として、徐にこれを諭して言うには、「禍福門無し、唯だ人の召す所なり。自ら顧みて物に負うこと無し、諸公何ぞ憂いの深きを見るや。公祏は悪積み禍盈ち、今廟算を承けて以て討ち致す。碗中の血は、乃ち公祏の首を授けたる後の徴なり」と。遂に尽く飲みて罷めた。時に人はその識度に服し而して能く衆を安んずることを服した。公祏はその偽将の馮惠亮・陳當時に命じて水軍を率い博望山に屯せしめ、陳正通・徐紹宗に歩騎軍を率いさせ青林山に於いてせしめた。孝恭至りて、堅壁してこれと闘わず、奇兵をしてその糧道を断たしめた。賊漸く餧え、夜我が営に薄く。孝恭は安臥して動かず。明日、羸兵を縦して以て賊の壘を攻めさせ、盧祖尚に精騎を率いさせ陣を列ねて以てこれを待たしめた。俄にして壘を攻むる者敗走し、賊出でて数里を追奔し、祖尚の軍に遇い、これと戦い、大いにこれを敗った。正通は営を棄てて走り、復た馮惠亮と共に梁山を保った。孝恭は勝に乗じてこれを攻め、その梁山の別鎮を破り、水に赴きて死する者数千人、正通は陸軍を率いて夜遁した。総管の李靖また広陵城を下し、楊子鎮を抜いた。公祏窮蹙し、丹陽を棄てて東走した。孝恭は騎将に命じてこれを追わしめ、武康に至り、公祏及びその偽僕射の西門君儀等数十人を擒え、麾下に致し、江南悉く平らぐ。璽書を以て褒賞し、甲第一区・女楽二部・奴婢七百人・金宝珍玩甚だ衆を賜い、東南道行台尚書左僕射を授けた。後に行台を廃し、揚州大都督に拝した。孝恭は既に公祏を破り、江淮及び嶺南皆統摂した。大業の末より、群雄競い起り、皆太宗の平らげる所となり、謀臣猛将並びに麾下に在りて、別に勲庸を立てる者罕なりき。唯だ孝恭のみ方面の功を著わし、声名甚だ盛んたり。厚く自ら崇重し、威名を以て遠方を鎮めんと欲し、石頭に宅を築き、廬徼を陳べて以て自衛した。尋いで征して宗正卿に拝した。九年、実封一千二百戸を賜う。貞観の初め、礼部尚書に遷り、功臣として河間郡王に封ぜられ、観州刺史を除かれ、長孫無忌等と代襲の刺史となった。孝恭は性奢豪にして、遊宴を重んじ、歌姫舞女百余人あり、然れども寛恕退譲し、驕矜自伐の色無し。太宗は甚だ親待を加え、諸宗室中これと比ぶる者莫し。孝恭は嘗て悵然として親しき者に謂いて言うには、「吾が居む宅は微かに宏壮なり、吾が心に非ざるなり、当にこれを売り、別に一所を営み、粗く事を充たすのみならしめん。身歿の後、諸子若し才あらば、此を守る足れり。其れ才無からば、他人の利する所を免れんことを冀うなり」と。十四年、暴薨す。年五十。太宗は素服して哀を挙げ、これを哭すること甚だ慟し、司空・揚州都督を贈り、献陵に陪葬し、謚して元と曰い、高祖廟庭に配享した。

原文河間王孝恭,琛之弟也。高祖克京師,拜左光祿大夫,尋為山南道招慰大使。自金州出於巴蜀,招攜以禮,降附者三十餘州。孝恭進擊硃粲,破之,諸將曰:「此食人賊也,為害實深,請坑之。」孝恭曰:「不可!自此已東,皆為寇境,若聞此事,豈有來降者乎?」盡赦而不殺,由是書檄所至,相繼降款。武德二年,授信州總管,承製拜假。蕭銑據江陵,孝恭獻平銑之策,高祖嘉納之。三年,進爵為王。改信州為夔州,使拜孝恭為總管,令大造舟楫,教習水戰,以圖蕭銑。孝恭召巴蜀首領子弟,量才授用,致之左右,外示引擢,而實以為質也。尋授荊湘道行軍總管,統水陸十二總管,發自硤州,進軍江陵。攻其水城,克之,所得船散於江中。諸將皆曰:「虜得賊船,當藉其用,何為棄之,無乃資賊耶?」孝恭曰:「不然,蕭銑偽境,南極嶺外,東至洞庭。若攻城未拔,援兵復到,我則內外受敵,進退不可,雖有舟楫,何所用之?今銑緣江州鎮忽見船舸亂下,必知銑敗,未敢進兵,來去覘伺,動淹旬月,用緩其救,克之必矣。」銑救兵至巴陵,見船被江而下,果狐疑不敢輕進。既內外阻絕,銑於是出降。高祖大悅,拜孝恭荊州大總管,使畫工貌而視之。於是開置屯田,創立銅冶,百姓利焉。六年,遷襄州道行台尚書左僕射。時荊襄雖定,嶺表尚未悉平。孝恭分遣使人撫慰,嶺南四十九州皆來款附。及輔公祏據江東反,發兵寇壽陽,命孝恭為行軍元帥以擊之。七年,孝恭自荊州趣九江,時李靖、李勣、黃君漢、張鎮州、盧祖尚並受孝恭節度。將發,與諸將宴集,命取水,忽變為血,在座者皆失色。孝恭舉止自若,徐諭之曰:「禍福無門,唯人所召。自顧無負於物,諸公何見憂之深!公祏惡積禍盈,今承廟算以致討,碗中之血,乃公祏授首之後征。」遂盡飲而罷。時人服其識度而能安眾。公祏遣其偽將馮惠亮、陳當時領水軍屯於博望山,陳正通、徐紹宗率步騎軍於青林山。孝恭至,堅壁不與斗,使奇兵斷其糧道。賊漸餧,夜薄我營,孝恭安臥不動。明日,縱羸兵以攻賊壘,使盧祖尚率精騎列陣以待之。俄而攻壘者敗走,賊出追奔數里,遇祖尚軍,與戰,大敗之。正通棄營而走,復與馮惠亮保梁山。孝恭乘勝攻之,破其梁山別鎮,赴水死者數千人,正通率陸軍夜遁。總管李靖又下廣陵城,拔楊子鎮。公祏窮蹙,棄丹陽東走。孝恭命騎將追之,至武康,擒公祏及其偽僕射西門君儀等數十人,致於麾下,江南悉平。璽書褒賞,賜甲第一區、女樂二部、奴婢七百人、金寶珍玩甚眾,授東南道行台尚書左僕射。後廢行台,拜揚州大都督。孝恭既破公祏,江淮及嶺南皆統攝之。自大業末,群雄競起,皆為太宗所平,謀臣猛將並在麾下,罕有別立勳庸者,唯孝恭著方面之功,聲名甚盛。厚自崇重,欲以威名鎮遠,築宅於石頭,陳廬徼以自衛。尋征拜宗正卿。九年,賜實封一千二百戶。貞觀初,遷禮部尚書,以功臣封河間郡王,除觀州刺史,與長孫無忌等代襲刺史。孝恭性奢豪,重遊宴,歌姬舞女百有餘人,然而寬恕退讓,無驕矜自伐之色。太宗甚加親待,諸宗室中莫與為比。孝恭嘗悵然謂所親曰:「吾所居宅微為宏壯,非吾心也,當賣之,別營一所,粗令充事而已。身歿之後。諸子若才,守此足矣;如其不才,冀免他人所利也。」十四年,暴薨,年五十。太宗素服舉哀,哭之甚慟,贈司空、揚州都督,陪葬獻陵,謚曰元,配享高祖廟庭。

子の崇義が嗣ぎ、爵を降りて譙国公となり、蒲・同二州刺史、益州大都督長史を歴任し、甚だ威名あり。後に宗正卿にて卒した。

原文子崇義嗣,降爵為譙國公,歷蒲、同二州刺史,益州大都督長史,甚有威名。後卒於宗正卿。

孝恭の次子の晦は、乾封年間に累進して營州都督に任ぜられ、善政をもって聞こえた。璽書を賜って労問し、物三百段を賜う。右金吾將軍に轉じ、兼ねて檢校雍州長史を務め、奸豪を糾發して容赦することなく、人吏に畏服された。晦の私邸には樓があり、下に酒肆を臨んでいた。その者がかつて晦を待ち受けて言うには、「微賤の者ではありますが、禮には及ばぬとはいえ、家には長幼があり、外の者に見られたくはございません。家が明公の樓に迫り、出入りが不便です。どうかこれより辭させてください。」晦は即日にその樓を毀った。高宗が洛陽らくように幸せんとする際、京師に留まって守らせ、顧みて言うには、「關中のことは、一切卿に任せる。ただ令式が人を拘束するからといって、官政を成し遂げられぬわけではない。令式の外で、人に利あることは、事に隨って即座に行い、奏聞する必要はない。」晦は累ねて異績を挙げた。則天が朝に臨むと、戶部尚書に遷る。垂拱初年、右金吾衛大將軍に拜し、秋官尚書に轉ず。永昌元年に卒し、幽州都督を贈られた。子の榮は、酷吏に殺された。

原文孝恭次子晦,乾封中,累除營州都督,以善政聞;璽書勞問,賜物三百段。轉右金吾將軍,兼檢校雍州長史,糾發奸豪,無所容貸,為人吏畏服。晦私第有樓,下臨酒肆,其人嘗候晦言曰:「微賤之人,雖則禮所不及,然家有長幼,不欲外人窺之。家迫明公之樓,出入非便,請從此辭。」晦即日毀其樓。高宗將幸洛陽,令在京居守,顧謂之曰:「關中之事,一以付卿。但令式跼人,不可以成官政,令式之外,有利於人者,隨事即行,不須聞奏。」晦累有異績。則天臨朝,遷戶部尚書。垂拱初,拜右金吾衛大將軍,轉秋官尚書。永昌元年卒,贈幽州都督。子榮,為酷吏所殺。

琛の弟 瑊

原文琛弟 瑊

孝恭の弟の瑊は、武德年間に尚書右丞となり、濟北郡王に封ぜられ、始州刺史の任で卒した。

原文孝恭弟瑊,武德中,為尚書右丞,封濟北郡王,卒於始州刺史。

琛の弟 瑰

原文琛弟 瑰

瑊の弟の瑰は、義師が京城を克つと、瑰に左光祿大夫を授けた。武德元年、漢陽郡公に封ぜられる。五年、爵を進めて王となった。時に突厥がしばしば侵寇するので、高祖は瑰に布帛數萬段を持たせて和親を結ばせた。頡利可汗が初めて瑰を見たとき、箕踞した。瑰は厚利をもって餌とし、頡利は大いに悅び、容を改めて敬いを加え、使者を瑰に隨わせて名馬を獻上させた。後に再び命を受けて行くと、頡利は左右に言うには、「李瑰が前に來たとき、屈服させられなかったことを恨んだ。今度は必ず跪拜させよう。」瑰は密かにこれを知り、頡利に會うと、長揖して節を屈しなかった。頡利は大怒し、瑰を留めて歸さなかった。瑰は神色自若とし、終にそのために屈しなかった。頡利は威脅をもってはならぬと知り、禮を盡くして歸した。左武候將軍に拜し、衛尉卿に轉じ、兄の孝恭に代わって荊州都督となった。政は清靜を旨とし、深く士庶に懷かれた。嶺外の豪帥がしばしば相攻擊したが、使者を遣わして威德を諭すと、皆相次いで歸附し、嶺表は遂に平定した。太宗が即位すると、例により爵を降めて公となった。時に長史の馮長命はかつて御史大夫を務め、平素から矜衒し、事多く專決したので、瑰は怒ってこれを杖ち、これに坐して免官された。貞觀四年、宜川刺史に拜し、散騎常侍さんきじょうじを加えられ、卒した。

原文瑊弟瑰,義師克京城,授瑰左光祿大夫。武德元年,封漢陽郡公。五年,進爵為王。時突厥屢為侵寇,高祖使瑰齎布帛數萬段與結和親。頡利可汗初見瑰,箕踞;瑰餌以厚利,頡利大悅,改容加敬,遣使隨瑰獻名馬。後復將命,頡利謂左右曰:「李瑰前來,恨不屈之,今者必令下拜。」瑰微知之,及見頡利,長揖不屈節。頡利大怒,乃留瑰不遣。瑰神意自若,竟不為之屈。頡利知不可以威脅,終禮遣之。拜左武候將軍,轉衛尉卿,代兄孝恭為荊州都督。政存清靜,深為士庶所懷。嶺外豪帥屢相攻擊,遣使喻以威德,皆相次歸附,嶺表遂定。太宗即位,例降爵為公。時長史馮長命曾為御史大夫,素矜衒,事多專決,瑰怒杖之,坐是免。貞觀四年,拜宜川刺史,加散騎常侍,卒。

子の沖玄は、垂拱年間に官は冬官尚書に至る。沖虛は、尚方監の任で卒した。

原文子沖玄,垂拱中官至冬官尚書;沖虛,卒於尚方監。

廬江王瑗

原文廬江王瑗

廬江王瑗は、高祖の從父兄の子である。父の哲は、隋の柱國・備身將軍で、濟南王を追封された。瑗は、武德元年に信州總管を歷任し、廬江王に封ぜられた。九年、累遷して幽州大都督となる。朝廷は瑗が懦弱で、邊將の才ではないとして、右領軍將軍王君廓を遣わして兵事を助けさせた。君廓はかつて盜賊をしていたが、勇力人に絕え、瑗はこれを倚仗し、婚姻を結ぶことを許して心腹とした。時に隱太子建成が異圖を抱き、外に瑗と結んだ。建成が誅殺されると、通事舍人崔敦禮を遣わして瑗を召し入朝させようとした。瑗は懼色を示した。君廓は元來險薄で、事に因ってこれを陷れ己の功としようとし、遂に瑗を欺いて言うには、「京師に變あり、事は未だ知れず。大王は國の懿親にして、委ねられて鎮守する。どうして數萬の兵を擁しながら一介の使者の召しに従えようか。かつ趙郡王が先に拘えられたと聞き、太子・齊王もまたこのように言う。大王今去かば、自ら保つことができようか。」ともに泣いた。瑗は乃ち敦禮を囚え、兵を挙げて反した。北齊州刺史王詵を召し、これと計らおうとした。兵曹參軍王利涉が瑗に説いて言うには、「王は詔を奉ぜずして擅に兵を發するは、これ反なり。法度を改易し、權宜をもって應變し、先ず眾心を定むべし。今諸州刺史の中には逆命する者もあり、王が兵を徴しても集まらぬならば、どうして保全できよう。」瑗曰く、「どうしたらよいか。」利涉曰く、「山東の地は、先に竇建德に従い、酋豪の首領は皆偽官なり。今これを並べて黜し、匹庶に退かせれば、この者は亂を思い、旱苗の雨を望むが如し。王は使者を發してその舊職を復し、各所在において本兵を募らせるべし。諸州もし従わざれば、即ち委ねて隨便に誅戮せよ。この計を行えば、河北の地は呼吸の間に定まらん。然る後に王詵を分遣して北は突厥に連なり、道は太原よりし、南は蒲・絳に臨ましむ。大王は整駕して親しく洛陽に詣で、西は潼關に入らん。兩軍勢を合せば、旬月を盈たずして天下定まれり。」瑗これに従う。瑗は内外の機務を悉く君廓に付した。利涉は君廓が翻覆多いとして、また瑗に説きて兵を王詵に委ね君廓を除くべしとし、瑗は決することができなかった。君廓これを知り、馳せて詵を斬り、その首を持って眾に告げて言うには、「李瑗と王詵と共に反し、敕使を禁錮し、擅に兵を追い集む。今王詵は既に斬られ、獨り李瑗在り。為す能わざるなり。汝ら若しこれに従えば、終には族滅せん。我に従ってこれを取れば、直ちに富貴を得ん。禍福かくの如し、意いずれに従わんと欲するか。」眾曰く、「皆賊を討たんと願う。」君廓はその麾下を率いて城に登り西面す。瑗は未だ之を知らなかった。君廓自ら千餘人を領して先に獄中に往き敦禮を出した。瑗始めてこれを知り、遽かに數百人を率いて甲を披き、門外に出るに及んで、君廓と相遇した。君廓その眾に謂いて言うには、「李瑗逆を作して人を誤る。何ぞ忽ちこれに従い、自ら塗炭を取らんや。」眾皆倒戈し、一時に潰走した。瑗塊然として獨り存し、君廓に謂いて言うには、「小人我を賣りて自ら媚びんとす。汝の行い自ら及ぶべし。」君廓は瑗を擒らえ、縊り殺した。年四十一。首を京師に傳え、その屬籍を絕った。

原文廬江王瑗,高祖從父兄子也。父哲,隋柱國、備身將軍,追封濟南王。瑗,武德元年曆信州總管,封廬江王。九年,累遷幽州大都督。朝廷以瑗懦曌,非邊將才,遣右領軍將軍王君廓助典兵事。君廓故嘗為盜,勇力絕人,瑗倚仗之,許結婚姻,以布心腹。時隱太子建成將有異圖,外結於瑗。及建成誅死,遣通事舍人崔敦禮召瑗入朝,瑗有懼色。君廓素險薄,欲因事陷之以為己功,遂紿瑗曰:「京都有變,事未可知。大王國之懿親,受委作鎮,寧得擁兵數萬而從一使召耶!且聞趙郡王先以被拘,太子、齊王又言若此,大王今去,能自保乎?」相與共泣。瑗乃囚敦禮,舉兵反。召北齊州刺史王詵,將與計事,兵曹參軍王利涉說瑗曰:「王不奉詔而擅發兵,此為反矣。須改易法度,以權宜應變,先定眾心。今諸州刺史或有逆命,王徵兵不集,何以保全?」瑗曰:「若之何?」利涉曰:「山東之地,先從竇建德,酋豪首領,皆是偽官,今並黜之,退居匹庶,此人思亂,若旱苗之望雨。王宜發使復其舊職,各於所在遣募本兵,諸州倘有不從,即委隨便誅戮。此計若行,河北之地可呼吸而定也。然後分遣王詵北連突厥,道自太原,南臨蒲、絳;大王整駕親詣洛陽,西入潼關。兩軍合勢,不盈旬月,天下定矣。」瑗從之。瑗以內外機悉付君廓。利涉以君廓多翻覆,又說瑗委兵於王詵而除君廓,瑗不能決。君廓知之,馳斬詵,持首告其眾曰:「李瑗與王詵共反,禁錮敕使,擅追兵集。今王詵已斬,獨李瑗在,無能為也。汝若從之,終亦族滅;從我取之,立得富貴。禍福如是,意欲何從?」眾曰:「皆願討賊。」君廓領其麾下登城西面,瑗未之覺。君廓自領千餘人先往獄中出敦禮,瑗始知之,遽率數百人披甲,才出至門外,與君廓相遇。君廓謂其眾曰:「李瑗作逆誤人,何忽從之,自取塗炭?」眾皆倒戈,一時潰走。瑗塊然獨存,謂君廓曰:「小人賣我以自媚,汝行當自及矣。」君廓擒瑗,縊殺之,年四十一,傳首京師,絕其屬籍。

君廓は、并州石艾の人である。少くして亡命して群盜となり、徒を聚めて千餘人、轉掠して長平に及び、進んで夏縣を逼った。李密が使者を遣わして召すと、遂に密に投じた。尋ねてまた眾を率いて歸國し、歷遷して右武衛將軍となり、累封して彭國公となった。劉黑闥を平らぐに従い、幽州に鎮守せしめられた。會うところ突厥が入寇したので、君廓は邀撃してこれを破り、二千餘人を俘斬し、馬五千匹を獲た。高祖大いに悅び、朝に徵し入れて御馬を賜い、殿庭においてこれに乗って出でしめ、因って侍臣に謂いて言うには、「吾聞く、藺相如が秦皇を叱するに、目皆血を出すと。君廓が往きて竇建德を撃つとき、將に出戰せんとす。李靖これを遏す。君廓發憤して大呼し、目及び鼻耳一時に流血す。この壯氣、何ぞ古人に謝せん。常例をもって賞すべからず。」また錦袍金帶を賜い、幽州に還鎮せしめた。尋ねて瑗を誅した功により、左領軍大將軍に拜し、幽州都督を兼ね、瑗の家口を賜い、左光祿大夫を加えられ、物千段を賜い、實封千三百戶を食した。在職多く縱逸し、長史李玄道が數たび朝憲をもって脅すので、奏されることを懼れ、殊に自ら安からず。後に追い入朝せしめられ、渭南に行き至り、驛史を殺して遁れた。將に突厥に奔らんとす。野人に殺された。封邑を追削された。

原文君廓,并州石艾人也。少亡命為群盜,聚徒千餘人,轉掠長平,進逼夏縣。李密遣使召之,遂投於密。尋又率眾歸國,歷遷右武衛將軍,累封彭國公。從平劉黑闥,令鎮幽州。會突厥入寇,君廓邀擊破之,俘斬二千餘人,獲馬五千匹。高祖大悅,徵入朝,賜以御馬,令於殿庭乘之而出,因謂侍臣曰:「吾聞藺相如叱秦皇,目皆出血。君廓往擊竇建德,將出戰,李靖遏之,君廓發憤大呼,目及鼻耳一時流血。此之壯氣,何謝古人,不可以常例賞之。」復賜錦袍金帶,還鎮幽州。尋以誅瑗功,拜左領軍大將軍,兼幽州都督,以瑗家口賜之,加左光祿大夫,賜物千段,食實封千三百戶。在職多縱逸,長史李玄道數以朝憲脅之,懼為所奏,殊不自安。後追入朝,行至渭南,殺驛史而遁。將奔突厥,為野人所殺,追削其封邑。

淮陽王道玄

原文淮陽王道玄

淮陽王の李道玄は、高祖の従父兄の子である。祖父の李繪は、隋の夏州総管であり、武徳初年に雍王を追封された。父の李贄は、河南王を追封された。道玄は、武徳元年に淮陽王に封ぜられ、右千牛を授けられた。太宗に従って介州で宋金剛を撃つに当たり、先陣を切って敵陣に突入した。時に年十五歳、太宗はこれを壮とし、賞物千段を賜った。後に王世充討伐に従い、頻りに戦って皆勝利した。竇建徳が武牢に至ると、太宗は軽騎をもって賊を誘い、道玄に命じて伏兵を率いて道の左に潜ませた。賊が到着した時、追撃してこれを破った。また太宗に従って汜水で転戦し、戈を揮って敵陣に突入し、真っ直ぐに賊の背後に出て、衆は靡き、再び衝突して帰還した。太宗は大いに喜び、副乗の馬を命じて道玄に与えた。また太宗に従って賊に赴き、再び入り再び出で、飛ぶ矢が乱れ下り、箭は蝟の毛の如く、猛気は益々激しく、射る人は弦に応じて倒れざるはなかった。東都が平定されると、洛州総管に拝された。及び府が廃止されると、洛州刺史に改めて授けられた。五年、劉黒闥が突厥を引き連れて河北を寇すと、再び山東道行軍総管を授けられた。軍は下博に駐屯し、賊軍と遭遇した。道玄は騎兵を率いて先陣を切り、副将の史万宝に命じて軍を督して続いて進ませた。万宝はこれと協調せず、道玄が深く入った時、兵を擁して進まず、親しい者に謂って曰く、「私は手詔を奉じて、淮陽の小児は将と名乗るも、軍の進止は皆我に委ねられると言う。今その軽脱にして、泥濘を越えて交戦する。大軍若し動かば、必ず泥濘に陥らん。結陣してこれを待つに如かず。王に利あらずとも、国に利あらん」と。道玄は遂に賊に擒えられ、全軍尽く没し、ただ万宝のみ逃げ帰った。道玄は害に遇い、年十九歳。太宗は久しく追悼し、嘗て従容として侍臣に謂って曰く、「道玄は終始朕に従い、朕の賊陣に深入するを見て、向かう所必ず克つを、意嘗て企み慕い、以て毎陣先登す。蓋し朕を学ぶなり。惜しむらくは其の年少にして、遠図を遂げざるなり」と。因って之が為に流涕した。左驍ぎょう衛大將軍を贈り、諡して壮と曰う。子無く、詔して其の弟の武都郡公の李道明を淮陽王に封じ、道玄の祀を主たることを令した。累遷して左驍衛将軍に至る。弘化公主を送って蕃に還すに当たり、主が太宗の女に非ざることを洩らした罪に坐し、爵を奪われ国を除かれた。後に鄆州刺史にて卒した。

原文淮陽王道玄,高祖從父兄子也。祖繪,隋夏州總管,武德初,追封雍王。父贄,追封河南王。道玄,武德元年封淮陽王,授右千牛。從太宗擊宋金剛於介州,先登陷陣,時年十五,太宗壯之,賞物千段。後從討王世充,頻戰皆捷。竇建德至武牢,太宗以輕騎誘賊,領道玄率伏兵於道左,會賊至,追擊破之。又從太宗轉戰於汜水,麾戈陷陣,直出賊後,眾披靡,復衝突而歸。太宗大悅,命副乘以給道玄。又從太宗赴賊,再入再出,飛矢亂下,箭如蝟毛,猛氣益厲,射人無不應弦而倒。東都平,拜洛州總管。及府廢,改授洛州刺史。五年,劉黑闥引突厥寇河北,復授山東道行軍總管。師次下博,與賊軍遇,道玄帥騎先登,命副將史萬寶督軍繼進。萬寶與之不協,及道玄深入,而擁兵不進,謂所親曰:「吾奉手詔,言淮陽小兒雖名為將,而軍之進止皆委於吾。今其輕脫,越濘交戰,大軍若動,必陷泥溺,莫如結陣以待之,雖不利於王,而利於國。」道玄遂為賊所擒,全軍盡沒,惟萬寶逃歸。道玄遇害,年十九。太宗追悼久之,嘗從容謂侍臣曰:「道玄終始從朕,見朕深入賊陣,所向必克,意嘗企慕,所以每陣先登,蓋學朕也。惜其年少,不遂遠圖。」因為之流涕。贈左驍衛大將軍,謚曰壯。無子,詔封其弟武都郡公道明為淮陽王,令主道玄之祀。累遷左驍衛將軍。送弘化公主還蕃,坐洩主非太宗女,奪爵國除,後卒於鄆州刺史。

道玄の従父弟に道宗あり。

原文道玄從父弟 道宗

江夏王の李道宗は、道玄の従父弟である。父の李韶は、東平王を追封され、戸部尚書を贈られた。道宗は、武徳元年に略陽郡公に封ぜられ、左千牛備身より起家した。劉武周を討ち、度索原に戦い、軍敗れ、賊徒進んで河東に逼る。道宗時に年十七歳、太宗に従って衆を率いてこれを拒いだ。太宗、玉壁城に登り賊を望み、顧みて道宗に謂って曰く、「賊は其の衆を恃みて来たり我に戦を邀う。汝は如何と謂うか」と。対えて曰く、「群賊は勝に乗ずるも、其の鋒は当たるべからず。計を以て屈するは易く、力と競うは難し。今深く壁を高く壘し、以て其の鋒を挫く。烏合の徒は、久しく持する能わず、糧運尽きて、自ら離散すべし。戦わずして擒う可し」と。太宗曰く、「汝の意は暗に我と合う」と。後に賊果たして食尽きて夜遁し、介州に追い及び、一戦にしてこれを滅ぼした。また竇建徳を平らげ、王世充を破るに従い、屡々殊なる効果あり。五年、霊州総管を授けられた。梁師都が夏州を拠り、弟の洛仁を遣わして突厥の兵数万を引き至らしめて城下に至る。道宗は門を閉じて拒守し、隙を伺って戦い、賊徒大いに敗れた。高祖聞いて之を嘉し、左僕射の裴寂・中書令の蕭瑀に謂って曰く、「道宗今辺を守り、寡を以て衆を制す。昔、魏の任城王の曹彰が戎に臨み敵を却く。道宗の勇敢は、彼に同じき有り」と。遂に任城王に封ぜられた。初め、突厥は梁師都と連なり、其の郁射設が五原の旧地に入り居る。道宗はこれを逐い出した。威武を振るい耀かし、疆界を開拓し、地を斥けて千余里、辺人は悦び服した。

原文江夏王道宗,道玄從父弟也。父韶,追封東平王,贈戶部尚書。道宗,武德元年封略陽郡公,起家左千牛備身。討劉武周,戰於度索原,軍敗,賊徒進逼河東。道宗時年十七,從太宗率眾拒之。太宗登玉壁城望賊,顧謂道宗曰:「賊恃其眾來邀我戰,汝謂如何?」對曰:「群賊乘勝,其鋒不可當,易以計屈,難與力競。今深壁高壘,以挫其鋒;烏合之徒,莫能持久,糧運致竭,自當離散,可不戰而擒。」太宗曰:「汝意暗與我合。」後賊果食盡夜遁,追及介州,一戰滅之。又從平竇建德,破王世充,屢有殊效。五年,授靈州總管。梁師都據夏州,遣弟洛仁引突厥兵數萬至於城下。道宗閉門拒守,伺隙而戰,賊徒大敗。高祖聞而嘉之,謂左僕射裴寂、中書令蕭瑀曰:「道宗今能守邊,以寡制眾。昔魏任城王彰臨戎卻敵,道宗勇敢,有同於彼。」遂封為任城王。初,突厥連於梁師都,其郁射設入居五原舊地,道宗逐出之。振耀威武,開拓疆界,斥地千餘里,邊人悅服。

貞観元年、征して鴻臚卿に拝し、左領軍・大理卿を歴任す。時に太宗将に突厥を経略せんとし、また霊州都督に拝す。三年、大同道行軍総管と為る。李靖の頡利可汗を襲破するに遇い、頡利十余騎を以て来奔して其の部に至る。道宗兵を引きて之を逼り、其の頡利を執送するを徴す。頡利数騎を以て夜走し、荒谷に匿る。沙鉢羅懼れ、馳せて追ひて之を獲り、使を遣はして京師に送る。功を以て実封六百戸を賜ひ、召して刑部尚書に拝す。吐谷渾辺を寇す。詔して右僕射李靖を昆丘道行軍大総管と為し、道宗と吏部尚書侯君集之が副と為る。賊兵至るを聞き、嶂山に走り入り、既に数千里を行く。諸将議して兵を息めんと欲す。道宗固く追討を請ふ。李靖之を然りとす。而して君集従はず。道宗遂に偏師を率ひて並び行き道を倍し、大軍を去ること十日、之に追ひ及ぶ。賊険に拠りて苦戦す。道宗潜かに千余騎を遣はし山を踰えて其の後を襲はしむ。賊表裏敵を受け、一時に奔潰す。十二年、礼部尚書に遷り、改めて江夏王に封ぜらる。尋で贓に坐して獄に下る。太宗侍臣に謂ひて曰く、「朕四海に富み、士馬林の如し。轍跡をして宇内に周らしめ、遊観して休息無からしめ、絶域に奇玩を采り、海外に珍羞を訪はしむることを欲せば、豈得ざらんや。万姓を労して一人を楽しましむるは、朕の取らざる所なり。人心厭ふこと無し。唯だ理を以て之を制すべし。道宗の俸料甚だ高く、宴賜少からず。足るべき余財有り。而るに貪婪此の如し。人をして嗟惋せしむ。豈鄙ならざらんや」と。遂に官を免じ、封邑を削る。十三年、起して茂州都督と為り、未だ行かず、転じて晋州刺史と為る。十四年、復た礼部尚書に拝す。時に侯君集高昌に功を立て、自ら其の才を負ひ、潜かに異志有り。道宗嘗て侍宴に因り、従容として言ひて曰く、「君集は智小さく言大なり。挙止倫ならず。臣の観る所を以てすれば、必ず戎首と為らん」と。太宗曰く、「何を以て之を知る」と。対へて曰く、「其の微功を恃み、深く矜伐を懐き、房玄齢・李靖の下に在るを恥づるを見る。吏部尚書と為ると雖も、未だ其の志を満たさず、時賢を毀り、常に不平の語有り」と。太宗曰く、「億度すべからず、浪らに猜貳を生ずべからず。其の功勲才用、堪へざる所無し。朕豈重位を惜しまんや。第に未だ到らざるのみ」と。俄にして君集謀反して誅せらる。太宗笑ひて道宗に謂ひて曰く、「君集の事、果たして公の揣へし所の如し」と。及び大軍高麗を討つに、道宗と李靖をして前鋒と為らしめ、遼水を済ひ、蓋牟城を克つ。賊兵大いに至るに逢ふ。軍中僉に深溝を堀り険を保ち、太宗の至るを待ちて徐かに進まんと欲す。道宗曰く、「不可なり。賊急に赴き遠く来たり、兵実に疲頓す。衆を恃みて我を軽んず。一戦必ず摧けん。昔耿弇賊を以て君父に遺さず。我既に職前軍に在り。須らく道を清めて以て輿駕を待つべし」と。李靖之を然りとす。乃ち壮士数十騎と与に直ちに賊陣を衝き、左右出入す。靖因りて合撃し、大いに之を破る。太宗至り、深く賞労を加へ、奴婢四十人を賜ふ。又た土山を築きて安市城を攻む。土山崩る。道宗部署に失ひ、賊の拠る所と為る。罪を果毅傅伏愛に帰し、之を斬る。道宗跣行して旗下に詣りて罪を請ふ。太宗曰く、「漢武王恢を殺すは、秦穆孟明を赦すに如かず。土山の失、且つ其の罪に非ず」と。捨てて問はず。道宗陣に在りて足を損ふ。太宗親く其が為に針し、御膳を以て賜ふ。二十一年、疾を以て閑職に居らんことを請ひ、転じて太常卿と為る。永徽元年、特進を加授し、実封を増し並び前に六百戸と為す。四年、房遺愛伏誅せらる。長孫無忌・褚遂良素より道宗と協はず。上言して道宗遺愛と交結すとす。象州に配流す。道病卒す。年五十四。及び無忌・遂良罪を得、詔して其の官爵を復す。道宗晚年頗る学を好み、賢士を敬慕し、地勢を以て人に凌がず。宗室の中、唯だ道宗及び河間王孝恭昆季最も当代に重んぜらる。

原文貞觀元年,征拜鴻臚卿,歷左領軍、大理卿。時太宗將經略突厥,又拜靈州都督。三年,為大同道行軍總管。遇李靖襲破頡利可汗,頡利以十餘騎來奔其部。道宗引兵逼之,征其執送頡利。頡利以數騎夜走,匿於荒谷,沙鈐羅懼,馳追獲之,遣使送於京師。以功賜實封六百戶,召拜刑部尚書。吐谷渾寇邊,詔右僕射李靖為昆丘道行軍大總管,道宗與吏部尚書侯君集為之副。賊聞兵至,走入嶂山,已行數千里。諸將議欲息兵,道宗固請追討,李靖然之,而君集不從。道宗遂率偏師並行倍道,去大軍十日,追及之。賊據險苦戰,道宗潛遣千餘騎逾山襲其後,賊表裡受敵,一時奔潰。十二年,遷禮部尚書,改封江夏王。尋坐贓下獄。太宗謂侍臣曰:「朕富有四海,士馬如林,欲使轍跡周宇內,遊觀無休息,絕域采奇玩,海外訪珍羞,豈不得耶?勞萬姓而樂一人,朕所不取也。人心無厭,唯當以理制之。道宗俸料甚高,宴賜不少,足有餘財,而貪婪如此,使人嗟惋,豈不鄙乎!」遂免官,削封邑。十三年,起為茂州都督,未行,轉晉州刺史。十四年,復拜禮部尚書。時侯君集立功於高昌,自負其才,潛有異志。道宗嘗因侍宴,從容言曰:「君集智小言大,舉止不倫,以臣觀之,必為戎首。」太宗曰:「何以知之?」對曰:「見其恃有微功,深懷矜伐,恥在房玄齡、李靖之下。雖為吏部尚書,未滿其志,非毀時賢,常有不平之語。」太宗曰:「不可億度,浪生猜貳。其功勳才用,無所不堪,朕豈惜重位?第未到耳。」俄而君集謀反誅,太宗笑謂道宗曰:「君集之事,果如公所揣。」及大軍討高麗,令道宗與李靖為前鋒,濟遼水,克蓋牟城。逢賊兵大至,軍中僉欲深溝保險,待太宗至徐進,道宗曰:「不可。賊赴急遠來,兵實疲頓,恃眾輕我,一戰必摧。昔耿弇不以賊遺君父,我既職在前軍,當須清道以待輿駕。」李靖然之。乃與壯士數十騎直衝賊陣,左右出入,靖因合擊,大破之。太宗至,深加賞勞,賜奴婢四十人。又築土山攻安市城,土山崩,道宗失於部署,為賊所據。歸罪於果毅傅伏愛,斬之。道宗跣行詣旗下請罪,太宗曰:「漢武殺王恢,不如秦穆赦孟明,土山之失,且非其罪。」舍而不問。道宗在陣損足,太宗親為其針,賜以御膳。二十一年,以疾請居閒職,轉太常卿。永徽元年,加授特進,增實封並前六百戶。四年,房遺愛伏誅,長孫無忌、褚遂良素與道宗不協,上言道宗與遺愛交結,配流象州。道病卒,年五十四。及無忌、遂良得罪,詔復其官爵。道宗晚年頗好學,敬慕賢士,不以地勢凌人,宗室中唯道宗及河間王孝恭昆季最為當代所重。

道宗の子景恆、降封して盧国公と為り、官は相州刺史に至る。

原文道宗子景恆,降封盧國公,官至相州刺史。

隴西王博乂

原文隴西王博乂

隴西王博乂は、高祖の兄の子なり。高祖の長兄は澄と曰ひ、次は湛と曰ひ、次は洪と曰ひ、並びに早卒す。武徳初、追封して澄を梁王と為し、湛を蜀王と為し、洪を鄭王と為す。澄・洪並びに後無し。博乂は即ち湛の第二子なり。武徳元年封を受く。高祖の時、宗正卿・礼部尚書を歴任し、特進を加ふ。博乂妓妾数百人有り、皆羅綺を衣、食は必ず粱肉、朝夕弦歌を以て自ら娯しみ、驕侈比ぶるもの無し。其の弟渤海王奉慈と俱に高祖の鄙む所と為る。帝謂ひて曰く、「我怨仇に善有れば、猶ほ以て不次に擢ぶ。況んや親戚に於いて而して委任せざらんや。汝等唯だ小人に暱近し、好んで不軌を為し、先王の墳典、習学を聞かずと聞く。今絹二百匹を賜ふ。各経史を買ひ習読し、務めて善事を為すべし」と。咸亨二年薨じ、開府儀同三司・荊州都督を贈り、謚して恭と曰ふ。奉慈は、武徳初、渤海王に封ぜらる。顕慶中、累遷して原州都督と為り、薨じ、謚して敬と曰ふ。

原文隴西王博乂,高祖兄子也。高祖長兄曰澄,次曰湛,次曰洪,並早卒。武德初,追封澄為梁王,湛為蜀王,洪為鄭王。澄、洪並無後,博乂即湛第二子也。武德元年受封。高祖時,歷宗正卿、禮部尚書,加特進。博乂有妓妾數百人,皆衣羅綺,食必粱肉,朝夕纟玄歌自娛,驕侈無比。與其弟渤海王奉慈俱為高祖所鄙,帝謂曰:「我怨仇有善,猶擢以不次,況於親戚而不委任?聞汝等唯暱近小人,好為不軌,先王墳典,不聞習學。今賜絹二百匹,可各買經史習讀,務為善事。」咸亨二年薨,贈開府儀同三司、荊州都督,謚曰恭。奉慈,武德初,封渤海王。顯慶中,累遷原州都督,薨,謚曰敬。

【論】

原文【論】

史臣曰く、物に私無ければ、物亦公なり。高祖才に中原を定め、先づ疏属を封じ、廬江をして叛かしめ、神通功を争はしむ。封徳彝之を論ずる於前、房玄齢之を譏る於後。若し河間の機謀深沉、識度弘遠、虚舟を縱てて蕭銑を降し、妖血を飲みて公祏を平げ、朝に入りて君臣の分を定め、第を売りて子孫の謀と為す。善く始め令く終はり、功を論じ賞を行ふ。即ち私無し。或ひ問ふ曰く、「水血に変ず、信に妖なり。竟に功を成して咎無きは、何ぞや」と。答へて曰く、河間の節神明に貫き、志宗社を匡ふ。故に妖徳に勝たざる明かなり。道宗軍謀武勇、学を好み賢に下る。群従の中に於いて、一時の傑と称せらる。無忌・遂良不協の素を銜み、千載の冤を致す。永徽中、無忌・遂良忠にして罪を得、人皆之を哀しむ。深く知らず、劉洎・呉王恪を誣陷する於前、道宗を枉害する於後。天網漏らさず、其の死を得ざるも宜なるかな。

原文史臣曰:無私於物,物亦公焉。高祖才定中原,先封疏屬,致廬江為叛,神通爭功,封德彝論之於前,房玄齡譏之於後。若河間機謀深沉,識度弘遠,縱虛舟而降蕭銑,飲妖血而平公祏,入朝定君臣之分,賣第為子孫之謀,善始令終,論功行賞,即無私矣。或問曰:「水變為血,信妖矣;竟成功而無咎者,何也?」答曰:河間節貫神明,志匡宗社,故妖不勝德明矣。道宗軍謀武勇,好學下賢,於群從之中,稱一時之傑。無忌、遂良銜不協之素,致千載之冤。永徽中,無忌、遂良忠而獲罪,人皆哀之。殊不知誣陷劉洎、吳王恪於前,枉害道宗於後,天網不漏,不得其死也宜哉!

贊して曰く、疏属尽く封ぜられ、乱を啓き公を害す。河間孝恭、独り軍功を称せらる。

原文贊曰:疏屬盡封,啟亂害公。河間孝恭,獨稱軍功。