卷五十九
屈突通、子は寿、少子は詮、詮の子は仲翔
任瑰、丘和、子は行恭、行恭の子は神勣、許紹、孫は力士、力士の子は欽寂・欽明、紹の次子は智仁、少子は圉師
李襲志、弟は襲譲、子は懷亻嚴、姜謩、子は行本、行本の子は簡、簡の子は晞、簡の弟は柔遠、柔遠の子は皎・晦、皎の男は慶初
屈突通
屈突通は、雍州長安の人である。父は長卿、周の邛州刺史であった。通は性質剛毅にして、志は忠実誠実を尚び、身を正しく清くし、武略を好み、騎射に長じた。開皇年中、親衛大都督となり、文帝は通を遣わして隴西に群牧を検覆させたところ、隠匿された馬二万余匹を得た。文帝は大いに怒り、太僕卿慕容悉達及び諸監官千五百人を斬らんとした。通は諫めて言うには、「人命は最も重く、死して再び生くることはありません。陛下は至仁至聖にして、群下を子の如く育まれるのに、どうして畜産の故をもって、千有余の人を殺戮されましょうか。愚臣の狂狷、死を以て請う」と。文帝は目を怒らせてこれを叱った。通はまた頓首して言うには、「臣一身が死するも、千余の人命を免ぜられんことを望みます」と。帝は悟り、言うには、「朕の不明、以てここに至る。卿のこの意に感じ、まことにこれを惻然とする。今、請いに従い、以て諫諍を旌せん」と。悉達らはついに減死の論となった。これにより次第に委信を見、右武候車騎將軍に擢げられた。公に奉じて正直、たとえ親戚が法を犯しても、これを縦捨することはなかった。時に通の弟蓋は長安令となり、また厳正整斉をもって知られた。時に人はこれがために語って言うには、「三斗の艾を食らうとも、屈突蓋を見ず、三斗の葱を服するとも、屈突通に逢わず」と。人の忌憚する所、この如くであった。文帝が崩じると、煬帝は通を遣わして詔をもって漢王諒を征召させた。先に、文帝は諒と密約して言うには、「もし璽書をもって汝を召すに、敕字の傍に別に一点を加え、また玉麟符と符合するものあらば、征に就くべし」と。発書して験なく、諒は変を覚り、通を詰問した。通は占対して屈する所なく、ついに長安に帰ることができた。大業年中、累ねて左驍衛大將軍に転じた。時に秦・隴の盗賊蜂起し、通を以て関内討捕大使とした。安定の人劉迦論が挙兵して反し、雕陰郡を拠り、僭号して建元し、百官を署置し、衆十余万を有した。稽胡の首領劉鷂子が衆を聚めて迦論と相響応した。通は関中の兵を発してこれを撃ち、師は安定に臨んだ。初め戦わず、軍中は通を怯懦と為した。通は声を揚げて師を旋し、潜かに上郡に入った。迦論はこれを覚らず、ついに兵を進めて南寇し、通より七十里を去って舍し、兵を分けて諸城邑を掠めた。通はその無備を候い、精甲を簡びて夜襲した。賊衆大潰し、迦論を斬り、並びに首級万余、上郡の南山に於いて京観を築き、男女数万口を虜にして還った。
煬帝が江都に幸すると、通に長安を鎮守させた。義兵起こり、代王は通を遣わして河東に進屯させた。既にして義師は河を済し、飲馬泉に於いて通の将桑顯和を大破し、永豊倉はまた義師に克たれた。通は大いに懼れ、鷹揚郎将堯君素を留めて河東を守らせ、自ら武関より藍田に趨って長安に赴かんとした。軍は潼関に至り、劉文静に遏えられて進むを得ず、月余相持した。通はまた顯和に命じて夜襲して文静を撃たせた。詰朝大戦し、義軍は利あらず。顯和は兵を縦して二柵を破り、ただ文静の一柵のみ独り存した。顯和の兵が再び柵に入って戦うこと往復数度に及んだ。文静は流矢に中り、義軍の気は奪われ、敗れんとすること垂んとした。顯和は兵疲れたるを以て、餐を伝えて食らった。文静はこれにより兵を分けて以て二柵を充実するを得た。また遊軍数百騎が南山より来たりてその背を撃つあり、三柵の兵また大呼して出で、表裡斉しく奮い、顯和の軍は潰え、僅かに身を免れた。その衆を悉く虜にし、通の勢いは弥々蹙った。或る者通に帰降を説く。通は泣いて言うには、「吾は国の重恩を蒙り、両主に事え、人の厚禄を受け、安んぞ難を逃れん。死あるのみ」と。毎に自らその頸を摩って言うには、「要は当に国家の為に人の一刀を受くべきのみ」と。将士を労勉するに、未だ嘗て涕を流さざるはなく、人もまたこれによりてこれを懐いた。高祖はその家僮を遣わしてこれを召した。通は遽かに命じてこれを斬らせた。通は京師平らぎ、家属尽く没したるを聞き、乃ち顯和を留めて潼関を鎮守させ、兵を率いて東下し、将に洛陽に趨らんとした。通が適に路を進むや、顯和は劉文静に降った。副将竇琮・段志玄等を遣わして精騎を率い、顯和とともにこれを追い、稠桑に及んだ。通は陣を結んで以て自ら固めしめた。竇琮は通の子寿を縦して往きてこれを諭させた。通は大呼して言うには、「昔は汝と父子たりしも、今は汝と仇讐たり」と。左右を命じてこれを射させた。顯和はその衆に呼びて言うには、「京師陥ちたり、汝ら並びに関西の人、何くにか去らんと欲する」と。衆は皆仗を釈いた。通は免れ難きを知り、乃ち馬を下りて東南に向かって再拝号哭し、言うには、「臣力屈げ兵敗る、陛下に負わず、天地神祇、実に鑑察せらる」と。遂に通を擒えて長安に送った。高祖はこれに謂いて言うには、「何ぞ相見ゆることの晩きや」と。通は泣いて対えて言うには、「通は人臣の節を尽くす能わず、力屈げて至る、本朝の辱めと為り、以て代王に愧ず」と。高祖は言うには、「隋室の忠臣なり」と。命じてこれを釈き、兵部尚書を授け、蔣國公に封じ、仍って太宗の行軍元帥長史とした。
任瑰
任瑰は、字を瑋といい、廬州合肥の人である。陳の鎮東大将軍蛮奴の弟の子である。父の七宝は、陳に仕えて定遠太守となった。瑰は早く孤児となり、蛮奴は彼を愛し、情は己が子を越え、常に称して言うには、「我が子や甥は多いが、皆下僕の類である。家門の寄るべき所は、ただ瑰にあるのみ」と。十九歳の時、試みに霊溪県令を守った。まもなく衡州司馬に遷り、都督の王勇は大いに敬異し、州府の事務を委ねた。時に隋の軍が陳を滅ぼすに及び、瑰は王勇に嶺南を拠えるよう勧め、陳氏の子孫を求めて立てて帝とすべきことを説いたが、勇は用いることができず、嶺外をもって隋に降ったので、瑰は官を棄てて去った。仁寿年間、韓城尉となり、まもなくまた職を罷められた。
高祖が汾・晋の地で討捕を行った時、瑰は轅門で高祖に謁見し、制を承けて河東県戸曹となった。高祖が晋陽に赴こうとした時、隠太子建成を留めて瑰に託した。義師が起こると、瑰は龍門に至って謁見した。高祖は彼に言うには、「隋氏は統御を失い、天下は沸騰している。私は外戚として忝くも重寄に当たり、時変を坐視すべきではない。晋陽は用武の地であり、士馬は精強である。今、驍雄を率いて国難を匡べんとす。卿は将家の子にして、深く智謀あり。我がこの挙を見て、成すべきかどうか」と。瑰は言うには、「後主は残酷にして道なく、征役止まず、天下は恟恟として、乱を拯うを聞くを思う。公は天縦の神武にして、親しく義師を挙げ、下す所の城邑は秋毫も犯さず、軍令厳明、将士は命を用う。関中所在蜂起し、ただ義兵を待つのみ。大順に仗り、衆欲に従えば、何ぞ済わざるを憂えん。瑰は馮翊に積年を過ごし、人情に諳練す。願わくは一介の使となり、命を銜んで関に入り、同州以東は必ず款伏すべし。梁山にて船を以て済り、直ちに韓城を指し、進んで合陽に逼り、分かち朝邑を取らん。かつ蕭造は文吏にして、本来武略なく、威霊を仰ぎて懼れ、理として自ら下るべし。孫華ら諸賊は未だ適従なく、必ず相率いて至るべし。然る後に鼓行して衆を整え、永豊を拠え入らば、未だ京城を得ずとも、関中は固より已に定まらん」と。高祖は言うには、「これ我が心なり」と。乃ち銀青光禄大夫を授け、陳演寿・史大奈に歩騎六千を領せしめて梁山に趨り河を渡らせ、瑰及び薛献を招慰大使と為した。高祖は演寿に言うには、「閫外の事は、宜しく任瑰とこれを籌すべし」と。孫華・白玄度らは兵の将に至らんとするを聞き、果たして競って来降し、並びに河に舟を具え、師は遂に利渉した。瑰は韓城県を説き下し、諸将と共に進撃して飲馬泉を破り、左光禄大夫に拝され、永豊倉を留守した。
高祖が即位すると、谷州刺史に改めて授けられた。王世充が数たび衆を率いて新安を攻めたが、瑰は拒戦してこれを破り、功により累ねて管国公に封ぜられた。太宗が師を率いて世充を討つに及び、瑰は従って邙山に至り、水運を検校して糧餉の供給に当たらせた。関東が初めて定まると、節を持ち河南道安撫大使となった。世充の弟の辯が徐州行台尚書令として、率いる所の部を以て瑰に詣でて降った。瑰が宋州に至った時、時に徐円朗が兗州に拠って反し、曹・戴諸州が皆これに応じた。副使の柳浚が瑰に退いて汴州を保つよう勧めたが、瑰は笑って言うには、「柳公何ぞ怯なるや。老将辺に居ること甚だ久しく、自ら計有るべし。公の知る所に非ず」と。円朗はまもなくまた楚丘を攻め陥とし、兵を引いて将に虞城を囲まんとし、瑰は崔枢・張公謹を鄢陵より遣わし、諸州の豪右の質子百余人を率いさせて虞城を守らせ賊を拒がしめた。浚はまた諫めて言うには、「枢と公謹は並びに世充の将であり、また諸州の質子の父兄は皆反している。これは必ず変を為さん」と。瑰は答えなかった。枢が至ると、質子を分配し、並びに土人と合隊して居守させた。賊が既に稍々近づくと、質子に叛く者があり、枢は因ってその隊帥を斬った。城中の人は懼れて言うには、「質子の父兄は悉く来たりて賊と為る。賊の子弟を安んぞ城を守らしめんや」と。枢は因って諸隊に各々質子を殺させ、門外に梟首し、使者を遣わして瑰に報じた。瑰は陽に怒って言うには、「将を遣わし去らしむるは、招慰せんと欲するのみ。何の罪あってこれを殺すや」と。退いて浚に謂いて言うには、「固より崔枢のこれを弁ずるを知れり。既に県人を遣わして賊の質子を殺せしめ、冤隙已に大なり。我何ぞ患えん」と。枢は果たして円朗を拒ぎ退けた。事平らぎ、徐州総管に遷り、仍めて大使となった。
丘和
丘和は、河南洛陽の人である。父の寿は、魏の鎮東将軍であった。和は少にして弓馬に便で、気を重んじ任侠を好んだ。長ずるに及び、初めて節を折り、物と忤わず、貴賤を問わず皆これを愛した。周において開府儀同三司となった。隋に入り、累遷して右武衛将軍となり、平城郡公に封ぜられた。漢王諒の反するに当たり、和を以て蒲州刺史と為した。諒は兵士に婦人の服を着せ、冪旂を被らせ、奄かに城中に至らしめたので、和は身を脱して免れ、これにより除名された。時に宇文述は方に任遇され、和は心を傾けてこれに附き、また武陵公元冑の罪を発したことにより、代州刺史に拝された。時に煬帝が北巡して代州を過ぎ、和は食物を献じて甚だ精良であり、朔州に至った時、刺史の楊廓のみは何も献じなかったので、帝は悦ばず、宇文述がまた盛んにこれを称えたため、乃ち和を博陵太守と為し、仍めて楊廓をして博陵に至らしめ和のやり方を観察させた。駕が博陵に至ると、和がまた食物を献じて豊かであったので、帝は益々これを称えた。これにより、帝の幸う所では献食する者が競って華侈を為すようになった。和は郡において吏士を善く撫で、甚だ歓心を得、まもなく天水郡守に遷った。大業末、海南は僻遠であり、吏多く侵漁し、百姓皆怨み、数たび乱逆を為したため、淳良な太守を選んでこれを撫でることとした。黄門侍郎の裴矩が奏言して言うには、「丘和は歴居二郡、皆恵政を以て聞こえ、寛にして擾わさず」と。煬帝はこれに従い、和を遣わして交趾太守と為した。既に至ると、諸豪傑を撫で、甚だ蛮夷の心を得た。
時に煬帝が化及に弑せられると、鴻臚卿の寧長真は鬱林・始安の地を以て蕭銑に附き、馮盎は蒼梧・高涼・珠崖・番禺の地を以て林士弘に附いた。各々人を遣わして和を召したが、和は初め隋の滅びたことを知らず、皆就かなかった。林邑の西の諸国は、並びに和に明珠・文犀・金宝の物を遣わし贈り、その富は王者に匹敵した。銑はこれを利し、長真を遣わして百越の衆を率い海を渡り和を侵させたが、和は高士廉を遣わして交・愛の首領を率いこれを撃たせ、長真は退走し、境内は全きを得、郡中に碑を樹てて徳を頌した。時に旧き驍果で江都より還る者が、審らかに隋の滅びたことを知り、遂に州を以て銑に従った。銑が平らぎたるに及び、和は海南の地を以て国に帰した。詔して使者の李道裕に即時に上柱国・譚国公・交州総管を授けさせた。和は司馬の高士廉を遣わし表を奉じて入朝を請うたので、詔してこれを許した。高祖はその子の師利を遣わしてこれを迎えさせた。謁見に及ぶと、高祖は彼のために興り、臥内に引き入れ、平生を語り合い、甚だ歓び、『九部楽』を奏してこれを饗し、左武候大将軍に拝した。和は時に既に衰老していたので、乃ち稷州刺史に拝し、これが本郷であることを以て、自ら怡養せしめた。九年、特進を除かれた。貞観十一年に卒し、八十六歳であった。荊州総管を贈られ、襄と諡され、東園の秘器を賜り、献陵に陪葬された。子十五人有り、多く大官に至り、ただ行恭が知名であった。
行恭の性格は厳酷で、所在の僚列は皆これを畏れ憚り、数度事に坐して解免された。太宗は常にその功を思い、時月を過ぎずしてその官を復した。初め、王世充討伐に従い、邙山の上で戦いが会した。太宗はその虚実強弱を知ろうとし、数十騎を率いてこれに突撃し、直ちにその背後に出た。衆は皆披靡し、その鋒に当たる者なく、殺傷すること甚だ多かった。やがて長堤に限られ、諸騎と相失い、ただ行恭のみが従った。まもなく勁騎数人が太宗に追い及び、矢が御馬に中った。行恭は馬を回してこれを射、発するに中らざるなく、残りの賊は再び前進することを敢えてしなかった。それから下馬して矢を抜き、自らの乗馬を太宗に進めた。行恭は御馬の前で歩きながら長刀を執り、巨躍して大呼し、数人を斬り、陣を突いて出で、大軍に入ることができた。貞観年中、詔があり、石を刻んで人馬とし、行恭が矢を抜く状を象り、昭陵の闕前に立てた。
和の末子の行掩は、高宗の時に少府監となった。
許紹
許紹は、字を嗣宗といい、本は高陽の人であるが、梁の末に周に徙り、安陸に家した。祖父は弘、父は法光で、共に楚州刺史であった。元皇帝が安州総管であった時、紹は幼少の頃に高祖と同学し、特に相友愛した。大業の末、夷陵郡通守となった。この時盗賊が競い起こり、紹は郡境を保全し、流民が自ら帰附するもの数十万口、倉を開いて賑給し、甚だ人心を得た。江都で弑逆が起こると、紹は郡人を率いて三日間大いに喪に臨み、なお郡を以て遙かに越王侗に属した。王世充が位を簒すると、黔安・武陵・澧陽等の諸郡を率いて使を遣わし国に帰し、硤州刺史を授けられ、安陸郡公に封ぜられた。高祖は勅書を降して曰く、「昔、子衿の時、共に庠序に遊び、博士の呉琰、その妻は姓を仇とす。この時を追想すれば、宛然として心目にあり、歳月は荏苒として、遂に累紀を成す。かつ安州に在りし日、公家は乃ち岳州に蒞り、遼を渡る時、伯裔また同じく戎旅にあり。安危契闊、累葉これを同じくし、その間の游処、事に触れて想うべし。盧綰と劉邦と里を同じくし、呉質と曹丕と席を接するも、今を以て古に方うれば、何ぞ称するに足らんや。而るに公は硯席の旧歓を追い、通家の曩好を存し、去就の理を明鑑し、成敗の機を洞識す。爰に荊門より、心を絳闕に馳せ、士庶を綏懐し、賓僚を糾合し、江山を踰越し、遠く誠款を申す。この忠至を覧て、弥に以て懐を慰む」と。蕭銑の将の董景珍が長沙を以て降って来ると、紹に命じて兵を率いてこれに応ぜしめた。銑を破った功により、その子の智仁を温州刺史に拝し、招慰を委ねた。時に蕭銑はその将の楊道生を遣わして硤州を囲ませたが、紹は兵を放ってこれを撃破した。銑はまたその将の陳普環を遣わし、大艦に乗じて江を溯り硤州に入り、開州の賊の蕭闍提と図って巴蜀を取らんとした。紹は智仁及び録事参軍の李弘節・子婿の張玄静を遣わして西陵硤まで追撃し、これを大破し、普環を生擒し、その船艦を収めた。江南岸に安蜀城があり、硤州と相対し、東に次いで荊門城があり、皆険峻で、銑は兵を以て並びに鎮守させた。紹は智仁及び李弘節を遣わして荊門鎮を攻め、これを破った。高祖は大いに悦び、制を下して褒め称え、便宜に従って事を行なうことを許した。紹は王世充・蕭銑と疆界を接し、紹の士卒で賊に虜われた者は、直ちに殺害された。紹は敵を捕らえると、皆に資給してこれを遣わしたので、賊はその義に感じ、再び侵掠せず、闔境安寧を得た。趙郡王の孝恭が蕭銑を撃つに当たり、再び紹に命じて兵を督し荊州を図らせたが、軍中で卒した。高祖はこれを聞いて流涕した。貞観年中、荊州都督を贈られた。嫡孫の力士が爵を襲い、官は洛州長史に至り、卒した。
紹の次子の智仁は、初め、父の勲により温州刺史を授けられ、孝昌県公に封ぜられた。まもなくその父を継いで硤州刺史となり、後に太僕少卿・涼州都督を歴任した。貞観年中に卒した。
李襲志
襲譽、字は茂実、若くして聡明で機敏、識見と度量があった。隋末、冠軍府司兵となった。時に陰世師が代王を補佐して京師留守となり、所在に盗賊が蜂起した。襲譽は世師に説き、兵を遣わして永豊倉を占拠させ、穀物を発して窮乏を賑い、庫物を出して戦士を賞し、檄を郡県に移して同心して賊を討たせようとした。世師は用いず、襲譽は外出して山南の士馬を募ることを求め、世師はこれを許した。漢中に至った時、高祖が長安を平定したのに会い、召されて太府少卿を授かり、安康郡公に封ぜられ、兄の襲志と共に宗正に附籍することを命じられた。太宗が王世充を討つ時、襲譽を潞州総管とした。時に突厥は国と和親し、また世充に使者を通じていたが、襲譽は掩撃して皆斬った。これにより委ねられて転運を令し、大軍に糧食を送った。後に光禄卿・浦州刺史を歴任し、揚州大都督府長史に転じ、江南道巡察大使となり、多くを罷免・昇進させた。江都の風俗は商賈を好み、農桑に事としない。襲譽は雷陂の水を引き、また勾城塘を築き、田八百余頃を灌漑し、百姓はその利益を得た。召されて太府卿に拝された。襲譽の性格は厳粛で整っており、任地では威厳と厳粛さで知られた。俸禄を得る度に、必ず宗族親戚に分け与え、残りの資産は多く書物を書写するだけであった。揚州から罷職して帰る時、経史の書が遂に数車に満ちた。かつて子孫に言った。「私は京城近くに賜田十頃があり、耕せば食を満たすことができる。河内に賜った桑千樹があり、蚕を飼えば衣を満たすことができる。江東で写した書物があり、読めば官を求めることができる。私が没した後、お前たちはこの三つの事に勤めさえすれば、また何を人に羨むことがあろうか。」ほどなく涼州都督に転じ、金紫光禄大夫を加えられ、行同州刺史となった。涼州でひそかに番禾県丞の劉武を恨み、杖で打ち殺した罪に坐り、この時有司が死罪に当たると議し、詔により除名され、泉州に流され、間もなく卒した。『五経妙言』四十巻、『江東記』三十巻、『忠孝図』二十巻を撰した。
兄の子の懷儼は、文才でかなり著名であった。蘭台侍郎を歴任し、制を受けて四部の書を校訂写進することを検校したが、書物に汚れがあったため、左遷されて郢州刺史となった。後に礼部侍郎の任で卒した。
姜抃
子の行本は、貞観年間に将作大匠となった。太宗が九成宮・洛陽宮の二宮を修築した際、行本がこれを総領し、勤勉で事を成し遂げたことが上意に適い、賞賜は甚だ厚かった。行幸遊猟のある時は、従わないことはなかった。また左屯衛将軍に転じた。時に太宗は敏捷な士を選び、五色の袍を着せ、六閑の馬に乗せ、屯営に直宿させて仗内の宿衛に充て、これを「飛騎」と名付けた。行幸の度ごとに、これに騎乗させて従わせ、行本の配下に分属させた。高昌の役に及んで、行本を行軍副総管とし、衆を率いて先に出て伊州を発した。柳谷に至ること百余里の手前で、山に依って攻具を造った。その場所に班超の紀功碑があったが、行本はその文を磨き去り、改めて頌を刻み、国の威徳を陳べて去った。かくて侯君集と共に進んで高昌を平定し、璽書を以て労うに言うには、「攻戦の要は、器械を先とし、将士の心を属するは、これを持って敵を制するを待つ。卿は星言して路に就き、躬ら事を修営し、干戈才に動き、梯衝暫く臨む。三軍の勇士、これに因りて績を樹つ。万里の逋寇、これを用いて克く平ぐ。古に比するも、豈に相況えんや」と。還ると、進んで金城郡公に封ぜられ、物一百五十段・奴婢七十人を賜った。十七年、太宗が高麗を征討せんとした時、行本は師を動かすべからずと諫めたが、太宗は従わなかった。行本は従って蓋牟城に至り、流れ矢に中って卒した。太宗は詩を賦してこれを悼み、左衛大将軍・郕国公を追贈し、諡して襄と曰い、昭陵に陪葬させた。
子の簡が嗣ぎ、永徽年間に官は安北都護に至り、卒した。子の晞が嗣ぎ、開元初年に左散騎常侍となった。
簡の弟の柔遠は、姿容美しく、敷奏を善くした。則天の時に至り、左鷹揚衛将軍・通事舎人・内供奉に至った。
柔遠の子の皎は、長安年間に累遷して尚衣奉御となった。時に玄宗は藩王に在ったが、これを見て悦んだ。皎は玄宗に非凡の器量あるを察し、特に心を委ねた。尋いで出て潤州長史となった。玄宗が即位すると、召して殿中少監に拝した。数たび臥内に召し入れ、敬を捨てることを命じ、曲宴に侍しては后妃と連榻し、間に撃球・闘鶏を交え、常に姜七と呼んで名を呼ばなかった。兼ねて宮女・名馬及び諸々の珍物を賜うこと数え切れなかった。玄宗はまた嘗て皎と殿庭で一つの嘉樹を賞玩し、皎がその美を称えると、玄宗は直ちにこれを其の家に移植するよう命じた。その寵遇はこのようなものであった。竇懐貞らが潜かに逆乱を謀った時、玄宗がこれを討たんとすると、皎は謀議に協賛し、功を以て殿中監に拝され、楚国公に封ぜられ、実封四百戸を賜った。玄宗は皎が藩邸に在った旧誼があり、皎には先見の明があったので、その事を宣布せんと欲し、乃ち下敕して曰く。
朕聞く、士の生代に在るは、始めは親に事え、中ごろは君に事え、終わりに身を立つるにあり、これ其の本なり。若し孝を移して忠を成し、名を策して質を委ぬるは、命は泰山の重き有り、義に殉ずれば則ち軽しと為す。草は疾風の力有り、節を全うすれば則ち勁きを知る。況んや君臣の相遇うるや、而して故旧の遺わざるは乎。銀青光禄大夫・殿中監・楚国公姜皎は、簪紱華を聯ね、珪璋特に秀でる。寛厚を量と為し、体は静にして仁を安んず。精微を心に用い、理は和にして直に専る。往きて藩邸に居し、潜かに風雲に款く。亦た彭祖の書を同じくし、子陵の学を共にすに由る。朕常に外に遊幸し、長楊・鄠杜の間に至る。皎この時に於いて之と累宿し、私かに朕に謂いて曰く、「太上皇即ち九五に登らば、王必ず儲副と為らん」と。凡そ此の如き者数四、朕叱して後に止む。寧くんぞ僕に非ざるを知らん、鄧晨に玩ぶと雖も。護軍を収むべく、遂に硃祐に訶る。皎復た朕の兄弟及び諸駙馬等に言い、因りて聞こえ太上皇に徹す。太上皇遽ちに中宗孝和皇帝に奏す。尋いで嗣虢王邕等を遣わして鞫問す。皎保護して怠ること無く、辞意転じて堅し。李通の讖記は言わず、田叔の髡鉗憚ること罔し。仍て宗楚客・紀処訥等密かに奏し、皎を炎荒に投ぜんことを請う。中宗特ちに恩私を降し、左遷して潤州長史と為す。讒邪毎に構え、忠懇逾い深く、朕が躬に戴き、王室に憂い存す。以て天且つ命有り、預め成龍の征を睹る。人にして礼無く、常に鳥を逐うの志を懐く。游辞枉しく陷れ、旋ちに貶斥を罹る。厳憲将に及ばんとし、殆く誅夷を見んとす。危きを履むは本より初心に在り、険に遭うは不貳を期す。禍福の際は昭然として図る可きと雖も、艱難の中に是れ繄に頼む所。朕宝位を祗膺するに及び、又奸臣を共に翦ぎ、光寵を以て拝し、捴挹を忘れず。敬愛の極み、神明の知る所。膝を造れば則ち曾て詭随すること莫く、躬に匪ずれば則ち動もて多く規諫し、朕が闕を補う、斯の人孔臧なり。而して悠悠の談、嗷嗷妄に作し、正を醜くし直を悪み、窃かに謗に生ず。言を考へ事を詢ね、益々其の誠を亮かす。昔漢昭帝の霍光を保ち、魏太祖の程昱を明らかにす。朕が不徳、庶幾くは此に於いてせん。矧んや夫れ否其の悔に当たれば、則ち宗を滅ぼし族を毀つ。朕之に負うこと必ず深し。泰其の亨に至れば、則ち山の如く河の如し。朕之に酬うること未だ補わず。豈に流言の足るを聴き、而して厚徳の遂に忘れんや。謀り始め之れ有り、図り終わる可きなり。宜しく中外に告示し、咸く知悉せしむべし。
尋いで太常卿に遷り、国史を監修した。弟の晦は、また御史中丞・吏部侍郎を歴任し、兄弟朝廷に当たり用事した。侍中宋璟は其の権寵甚だ盛んなるを以て、久安の道に非ざるを恐れ、屡々奏請して稍々之を抑損せんとした。開元五年に下敕して曰く、「西漢の諸将、多くは権貴を以て全からず。南陽の故人、並びに優閑を以て自ら保つ。夫れ先後の跡・吉凶の数を観るに、較然として知る可く、良く以て有り。太常卿・上柱国・楚国公・監修国史姜皎は、衣纓奕代、忠讜誠を立て、精識は橋玄に比し、密私は硃祐の方なり。朕昔藩邸に在り、早く款洽を申す。当に我をして遺わざらしむと謂い、亦た予を起して自愛せしむ。大位を膺るに及び、屡々崇班を錫い、茅土爵を列ね、山河誓を伝え、光寵に備わり蒙り、時に等夷を冠す。朕毎に盈を戒めんと欲し、以て克く終に吉ならしめんとす。未だ栄を公府に避け、靖を私第に守り、自ら高尚の風を弘め、囂塵の境に渉らず、我が恩貸を沐い、爾が子孫を庇うに若かざるは莫し。宜しく田園に放ち帰し、以て娛樂に恣にすべし」と。又晦を宗正卿に遷し、以て其の権を去らしめた。久しくして、皎復た起用されて秘書監となった。十年、禁中の語を漏洩した罪に坐し、嗣濮王嶠に奏せられ、敕して中書門下に其の状を究めしめた。嶠は即ち王守一の妹婿なり。中書令張嘉貞は守一の意に希い、其の罪を構成し、仍て奏請して先ず決杖して嶺外に配流せんとした。制を下して曰く、「秘書監姜皎は、往きて艱難に属し、頗る誠信に效い、功は則ち録す可く、寵は是を以て加う。既に満盈の誡を忘れ、又静慎の道を虧く。休咎を仮説し、宮掖を妄談す。其の作孽に拠れば、極刑を処するに合う。茲の旧勳を念い、此の殊死を免す。宜しく一頓を決し、欽州に配流すべし」。皎既に決杖せられ、汝州に行き至って卒し、年五十余。皎の親しむ所の都水使者劉承祖は、雷州に配流され、其余流死する者数人。時に朝廷頗る皎を冤と為し、而して嘉貞を咎めたり。源乾曜時に侍中と為り、能く持正する所有ること無く、論者亦深く之を譏る。玄宗復た皎の旧勳を思い、其の柩を遞送して還らしめ、礼を以て之を葬り、仍て中使を遣わして其の家を存問せしめた。十五年、追贈して沢州刺史と為す。晦は皎に坐して左遷され春州司馬となり、俄かに海州刺史に遷り、卒した。
史臣曰く
史臣曰く、或ひは問ふ、屈突通隋に盡忠して功は唐に立ち、兩國に事へて名愈彰かなるは、何ぞや。答へて云ふ、若し純誠を立て、明主に遇はば、一心以て百君に事ふる可し、豈に兩國に限らんや。稠桑の擒に被り、難に臨みて苟も免るゝこと無し。仁杲の眾を破り、財に臨みて苟も得ること無し、君子なるかな。任瑰、丘和、許紹、李襲志皆眞主に遇ひ、故人と為るを得たり。或ひは舊を敘べて功を立て、或ひは眾を率ゐて國に歸す。其の履跡を尋ぬれば、皆稱す可き有り。襲志政を為し、襲譽子を訓ふ、庶幾くは弘遠なり。姜抃恩信、能官の譽有り。行本勤濟、克敵の功多し。皎は故舊と雖も、恩幸倫ならず、嘉貞冤を致すと雖も、亦寵に冒りて自ら掇る、豈に德無くして祿を食み、福過ぎて災生ずるの驗に非ずや。任瑰妒妻の無禮を縱にし、親戚の財を求むるに任せ、丘和進食して幸を邀ふ、皆取る無し。
贊して曰く、屈突節を守り、仁を求めて仁を得たり。諸君主に遇ふ、倫を擬するに足らず。