舊唐書

巻058

巻058

舊唐書

原文舊唐書

卷五十八

原文卷五十八

列傳第八 唐儉 長孫順德 劉弘基 殷嶠 劉政會 柴紹 武士彠

原文列傳第八 唐儉 長孫順德 劉弘基 殷嶠 劉政會 柴紹 武士彠

唐儉

原文唐儉

唐儉は、字を茂約といい、并へい州晋陽の人で、北斉の尚書左僕射邕の孫である。父の鑑は、隋の戎州刺史であった。儉は落拓として規矩に拘らず、しかし親に事えることは頗る孝行として知られていた。初め、鑑は高祖こうそと旧知であり、共に禁衛を統率していた。高祖が太原留守にあった時、儉は太宗と親密に交わり、儉は従容として太宗に隋室の昏乱を説き、天下を図るべきことを述べた。太宗は高祖にこれを告げ、そこで召し入れて、密かに時事について諮問した。儉は言った。「明公は日角龍庭の相があり、李氏はまた図牒に現れており、天下の属望するところは、今朝に在らずといえども、もし府庫を開き、南に豪傑を嘯集し、北に戎狄を招き、東に燕・趙を収め、長駆して河を渡り、秦・雍を拠有すれば、海内の権は、指麾して取るべし。願わくは達節を弘めて、群望に順い、則ち湯・武の業も遠からん。」高祖は言った。「湯・武の事は、庶幾うべきにあらず。今天下已に乱れ、私を言えば則ち存を図り、公を語れば則ち溺を拯う。卿宜しく自愛すべし、吾将に之を思わん。」大将軍府が開かれると、儉を記室参軍に任じた。太宗が渭北道行軍元帥となると、儉を司馬とした。京城を平定し、光禄大夫・相国府記室を加えられ、晋昌郡公に封ぜられた。武徳元年、内史舎人に除かれ、まもなく中書侍郎に遷り、特に散騎常侍さんきじょうじを加授された。

原文唐儉,字茂約,并州晉陽人,北齊尚書左僕射邕之孫也。父鑑,隋戎州刺史。儉落拓不拘規檢,然事親頗以孝聞。初,鑑與高祖有舊,同領禁衛。高祖在太原留守,儉與太宗周密,儉從容說太宗以隋室昏亂,天下可圖。太宗白高祖,乃召入,密訪時事。儉曰:「明公日角龍庭,李氏又在圖牒,天下屬望,非在今朝。若開府庫,南嘯豪傑,北招戎狄,東收燕、趙,長驅濟河,據有秦、雍,海內之權,指麾可取。願弘達節,以順群望,則湯、武之業不遠。」高祖曰:「湯、武之事,非所庶幾。今天下已亂,言私則圖存,語公則拯溺。卿宜自愛,吾將思之。」及開大將軍府,授儉記室參軍。太宗為渭北道行軍元帥,以儉為司馬。平京城,加光祿大夫、相國府記室,封晉昌郡公。武德元年,除內史舍人,尋遷中書侍郎,特加授散騎常侍。

王行本が蒲州城を守って降らず、詔勅により工部尚書独狐懐恩が兵を率いてその東に屯し、これを経略することとなった。まもなくまた夏県の人呂崇茂が城を挙げて叛き、劉武周に降ったので、高祖は永安王孝基・工部尚書独狐懐恩・陝州総管於筠らに兵を率いて討たせた。時に儉が使命で軍所に至ったところ、武周が兵を遣わして崇茂を援けたため、儉は孝基・筠らと共に捕らえられた。初め、懐恩が蒲州に兵を屯していた時、その配下の元君実と謀反を企てたが、時に君実も賊中に陥ち、儉と共に拘束されていたので、儉に言った。「古人に言う、『断つべくして断たざれば、反ってその乱れを受く』と。独狐尚書は近ごろ兵を挙げて事を図らんとしたが、猶予している間に、遂に今日に至った。豈に断たざるによるにあらざらんや。」やがて懐恩は脱身して帰還し、依然として以前のように屯守することを命ぜられた。君実はまた儉に言った。「独狐尚書は今遂に難を抜けて帰還し、また蒲州に屯守する。王者は死せずと言えよう。」儉はこれを聞き、懐恩が逆を為すことを恐れ、密かに親信の劉世譲に命じて懐恩の謀を奏上させた。丁度王行本が蒲州を以て帰降した時、高祖がその城に入らんとし、舟を浮かべて中流に至ったところ、世譲が謁見し、高祖が奏文を読んで大いに驚き、「豈に天命にあらざらんや」と言い、舟を回して帰還し、反者を分捕して按問した。懐恩は自縊し、余党は誅せられた。やがて太宗が武周の部将宋金剛を撃破し、太原まで追撃したので、武周は恐れて北走し、儉はその府庫を封じ、兵甲を収めて太宗を待った。高祖は儉が身は虜庭に没しながらも、心は朝闕に在ることを嘉し、旧官に復し、なお并州道安撫大使とし、便宜を以て事を行わせ、また独狐懐恩の田宅資財などを賜った。使いから還ると、礼部尚書に拝し、天策府長史を授け、兼ねて検校黄門侍郎とし、莒国公に封ぜられ、功臣らと元勲として一死を恕され、なお遂州都督ととくに除かれ、綿州の実封六百戸を食み、凌煙閣に図形された。

原文王行本守蒲州城不降,敕工部尚書獨孤懷恩率兵屯於其東,以經略之。尋又夏縣人呂崇茂以城叛,降於劉武周,高祖遣永安王孝基、工部尚書獨孤懷恩、陝州總管於筠等率兵討之。時儉使至軍所,屬武周遣兵援崇茂,儉與孝基、筠等並為所獲。初,懷恩屯兵蒲州,與其屬元君實謀反,時君實亦陷於賊中,與儉同被拘執,乃謂儉曰:「古人有言:『當斷不斷,反受其亂。』獨孤尚書近者欲舉兵圖事,遲疑之間,遂至今日,豈不由不斷耶?」俄而懷恩脫身得還,仍令依前屯守,君實又謂儉曰:「獨孤尚書今遂拔難得還,復在蒲州屯守,可謂王者不死。」儉聞之,懼懷恩為逆,乃密令親信劉世讓以懷恩之謀奏聞。適遇王行本以蒲州歸降,高祖將入其城,浮舟至中流,世讓謁見,高祖讀奏,大驚曰:「豈非天命也!」回舟而歸,分捕反者按驗之,懷恩自縊,餘黨伏誅。俄而太宗擊破武周部將宋金剛,追至太原,武周懼而北走,儉乃封其府庫,收兵甲,以待太宗。高祖嘉儉身沒虜庭,心存朝闕,復舊官,仍為并州道安撫大使,以便宜從事,並賜獨狐懷恩田宅貲財等。使還,拜禮部尚書,授天策府長史,兼檢校黃門侍郎,封莒國公,與功臣等元勳恕一死,仍除遂州都督,食綿州實封六百戶,圖形凌煙閣。

貞観初め、突厥に使いし、これを説き誘い、隋の蕭后及び楊正道を以て帰還した。太宗は儉に言った。「卿は頡利を図るべきか否やを見るか。」対えて言った。「国威恩を銜むれば、また獲ることを望むべし。」そこで儉に馳伝して虜庭に至らせ、威信を示させた。頡利の部落は歓然として帰款の計を定め、これにより兵衆は弛懈した。李靖が軽騎を率いて掩襲しこれを破り、頡利は北走し、儉は脱身して還った。歳余りして、民部尚書を授けられた。後に洛陽らくよう苑に従幸して猛獣を射た時、群豕が林中より突出し、太宗は弓を引き四発し、四豕を殪した。雄彘が突進して馬鐙に及んだので、儉は馬より投げ出してこれと搏ち、太宗は剣を抜いて豕を断ち、顧みて笑って言った。「天策長史、上将の賊を撃つを見ざるか。何ぞ甚だ懼るるや。」対えて言った。「漢祖は馬上にて之を得、馬上にて之を治めず。陛下は神武を以て四方を定め、豈にまた雄心を一獣に逞うすべきや。」太宗はこれを納れ、これにより狩猟を罷めた。まもなく光禄大夫を加えられ、また特にその子善識に豫よ章公主を尚せしめた。儉は官にある時、常に盛んに肴饌を修め、親賓と酒を縦にして楽しみ、未だ職務に留意したことはなかった。また嘗て塩州刺史張臣合に託してその私羊を収めさせ、御史に劾せられたが、旧恩により罪を免れ、光禄大夫に貶授された。永徽初め、家に致仕し、特進を加えられた。顕慶元年に卒し、年七十八であった。高宗はそのために挙哀し、三日間朝を罷め、開府儀同三司・并州都督を贈り、賻として布帛一千段・粟一千石を賜い、東園秘器を賜り、昭陵に陪葬し、謚して襄といい、官が碑を立てた。

原文貞觀初,使於突厥,說誘之,因以隋蕭後及楊正道以歸。太宗謂儉曰:「卿觀頡利可圖否?」對曰:「銜國威恩,亦可望獲。」遂令儉馳傳至虜庭,示之威信。頡利部落歡然定歸款之計,因而兵眾弛懈。李靖率輕騎掩襲破之,頡利北走,儉脫身而還。歲餘,授民部尚書。後從幸洛陽苑射猛獸,群豕突出林中,太宗引弓四發,殪四豕,有雄彘突及馬鐙,儉投馬搏之,太宗拔劍斷豕,顧笑曰:「天策長史,不見上將擊賊耶!何懼之甚?」對曰:「漢祖以馬上得之,不以馬上治之;陛下以神武定四方,豈復逞雄心於一獸。」太宗納之,因為罷獵。尋加光祿大夫,又特令其子善識尚豫章公主。儉在官每盛修肴饌,與親賓縱酒為樂,未嘗以職務留意。又嘗托鹽州刺史張臣合收其私羊,為御史所劾,以舊恩免罪,貶授光祿大夫。永徽初,致仕於家,加特進。顯慶元年卒,年七十八。高宗為之舉哀,罷朝三日,贈開府儀同三司、并州都督,賻布帛一千段、粟一千石,賜東園秘器,陪葬昭陵,謚曰襄,官為立碑。

儉の少子観は最も知名で、官は河西令に至り、文集三巻がある。儉の孫の従心は、神龍年中、子の晙が太平公主の女を娶ったため、官は殿中監に至った。晙は、先天年中に太常少卿となり、太平と連謀した罪に坐し、誅せられた。

原文儉少子觀,最知名,官至河西令,有文集三卷。儉孫從心,神龍中,以子晙娶太平公主女,官至殿中監。晙,先天中為太常少卿,坐與太平連謀,伏誅。

長孫順徳

原文長孫順德

長孫順徳は、文徳順聖皇后の族叔である。祖の澄は、周の秦州刺史。父の愷は、隋の開府であった。順徳は隋に仕えて右勲衛となったが、遼東の役を避けて、太原に逃匿し、深く高祖・太宗に親任された。時に群盗並び起こり、郡県各々兵を募って備えた。太宗は外に賊を討つことを名目とし、これにより順徳と劉弘基らに召募を命じた。旬月の間に、衆は万余人に至り、郭下に営を結び、遂に王威・高君雅らを誅した。義兵が起こると、統軍に拝された。霍邑平定に従い、臨汾を破り、絳郡を下し、俱に戦功があった。まもなく劉文静と共に潼関で屈突通を撃ち、毎戦鋒を摧いた。通が洛陽に奔らんとした時、順徳は桃林で追い及び、通を捕らえて京師に帰し、なお陝県を略定した。高祖が即位すると、左驍ぎょう衛大將軍に拝し、薛国公に封ぜられた。武徳九年、秦叔宝らと玄武門で建成の余党を討った。太宗が践祚すると、真食千二百戸を賜り、特に宮女を賜って、毎夜内省に宿直した。

原文長孫順德,文德順聖皇后之族叔也。祖澄,周秦州刺史。父愷,隋開府。順德仕隋右勳衛,避遼東之役,逃匿於太原,深為高祖、太宗所親委。時群盜並起,郡縣各募兵為備。太宗外以討賊為名,因令順德與劉弘基等召募,旬月之間,眾至萬餘人,結營於郭下,遂誅王威、高君雅等。義兵起,拜統軍。從平霍邑,破臨汾,下絳郡,俱有戰功。尋與劉文靜擊屈突通於潼關,每戰摧鋒。及通將奔洛陽,順德追及於桃林,執通歸京師,仍略定陝縣。高祖即位,拜左驍衛大將軍,封薛國公。武德九年,與秦叔寶等討建成餘黨於玄武門。太宗踐祚,真食千二百戶,特賜以宮女,每宿內省。

その後、長孫順德の監奴が、人の贈った絹を受け取った事が発覚した。太宗は近臣に言った、「順德は外戚の地位にあり、功績は元勳であり、位は高く爵は厚く、富貴と称するに足る。もし能く古今を勤めて覧、以て自らを鑑戒とし、我が国家を弘益する者ならば、朕は当に之と共に府庫を有すべきである。何ぞ名節を遵ばずして、貪冒を発聞せしむるや」と。然れどもその功を惜しみ、忍びて罪を加えず、遂に殿庭において絹数十匹を賜い、以てその心を愧じしめた。大理少卿胡演が進みて言うには、「順德は枉法して財を受け、罪は恕すべからず、奈何ぞまた之に絹を賜うや」と。太宗曰く、「人生性霊、絹を得るは刑戮に甚だし。もし愧を知らざれば、一の禽獣のみ、之を殺すも何の益かあらん」と。尋いで李孝常と交通した事に坐して除名された。歳余りして、太宗が功臣図を閲し、順德の像を見て、閔然として之を憐れみ、宇文士及を遣わしてその為す所を視させた。順德が頽然として酔っているのを見て、論者は命に達したと為した。召して澤州刺史に拝し、その爵邑を復した。順德は素より放縦多く、法度を遵ばず、此に及び折節して政を為し、明粛と号された。先ず是れ、長吏多く百姓の饋餉を受く、順德は糾擿し、一も容れる所無く、良牧と称された。前刺史張長貴・趙士達並びに境内の膏腴の田数十頃を占め、順德並びに劾して追奪し、貧戸に分け与えた。尋いで又事に坐して免ぜられた。疾を発し、太宗聞いて之を鄙み、房玄齢に謂って曰く、「順德に慷慨の節無く、多く児女の情有り、今此の疾有り、何ぞ問うに足らんや」と。未だ幾ばくもせずして卒し、太宗之が為に朝を罷め、使を遣わして弔祭し、荊州都督を贈り、謚して襄と曰う。貞観十三年、追って改めて封じて邳国公と為す。永徽五年、重ねて開府儀同三司を贈る。

原文後,順德監奴,受人饋絹事發,太宗謂近臣曰:「順德地居外戚,功即元勳,位高爵厚,足稱富貴。若能勤覽古今,以自鑑誡,弘益我國家者,朕當與之同有府庫耳。何乃不遵名節,而貪冒發聞乎!」然惜其功,不忍加罪,遂於殿庭賜絹數十匹,以愧其心。大理少卿胡演進曰:「順德枉法受財,罪不可恕,奈何又賜之絹?」太宗曰:「人生性靈,得絹甚於刑戮;如不知愧,一禽獸耳,殺之何益!」尋坐與李孝常交通除名。歲餘,太宗閱功臣圖,見順德之像,閔然憐之,遣宇文士及視其所為,見順德頹然而醉,論者以為達命。召拜澤州刺史,復其爵邑。順德素多放縱,不遵法度,及此折節為政,號為明肅。先是,長吏多受百姓饋餉,順德糾擿,一無所容,稱為良牧。前刺史張長貴、趙士達並佔境內膏腴之田數十頃,順德並劾而追奪,分給貧戶。尋又坐事免。發疾,太宗聞而鄙之,謂房玄齡曰:「順德無慷慨之節,多兒女之情,今有此疾,何足問也!」未幾而卒,太宗為之罷朝,遣使弔祭,贈荊州都督,謚曰襄。貞觀十三年,追改封為邳國公。永徽五年,重贈開府儀同三司。

劉弘基

原文劉弘基

劉弘基は、雍州池陽の人である。父は昇、隋の河州刺史。弘基は少にして落拓、軽侠と交通し、家産に事えず、父の廕により右勳侍と為る。大業末、嘗て煬帝に従い遼東を征し、家貧にして自ら致す能わず、汾陰に行き至り、已に後期すべく当に斬らるべしと度り、計る所出でず、遂に同旅と牛を屠り、潜かに吏を諷して之を捕えしめ、県獄に繋がれ、歳余りして、竟に贖を以て論ぜらる。事解けて亡命し、馬を盗み以て衣食を供し、因りて太原に至る。会に高祖太原を鎮む、遂に自ら結托し、又太宗に非常の度有るを察し、特に心を委ねたり。是より大いに親礼を蒙り、出ずれば則ち騎を連ね、入れば則ち臥起を同じくす。義兵将に挙らんとし、弘基召募して二千人を得たり。王威・高君雅変を為さんと欲し、高祖弘基及び長孫順德を廳事の後に伏せ、弘基因りて左右を麾して威等を執らしむ。又太宗に従い西河を攻め下す。義軍賈胡堡に次ぎ、隋将宋老生と戦い、之を破り、霍邑を進攻す。老生衆を率いて城外に陣し、弘基太宗に従いて之を撃ち、老生敗走し、馬を棄てて塹に投ず、弘基下りて其の首を斬り、右光禄大夫に拝せらる。師河東に至り、弘基兵千人を以て先ず河を済み、進んで馮翊を下し、渭北道大使と為り、便宜に事に従うを得、殷開山を副と為す。西に扶風の地を略し、衆六万有り。南に渭水を渡り、長安ちょうあん故城に屯し、威声大いに振い、軍を金光門に耀かす。衛文升兵を遣わして来たり戦わんとす、弘基逆撃して之を走らせ、甲士千余人・馬数百匹を擒にす。時に諸軍未だ至らず、弘基先ず至り、一戦にして捷つ。高祖大いに悦び、馬二十匹を賜う。京城を破るに及び、功第一と為る。太宗に従い扶風において薛挙を撃ち、之を破り、奔を追って隴山に至りて返る。累ねて右領都督に拝し、河間郡公に封ぜらる。又太宗に従い東都を経略し、瓔珞門外に戦い、之を破る。師旋り、弘基殿と為る。隋将段達・張志三王陵に陳す、弘基撃ちて之を敗る。武徳元年、右驍衛大將軍に拝し、元謀の勳を以て、其の一死を恕し、行軍左一総管を領す。又太宗に従い薛挙を討つ。時に太宗疾を以て高墌城に頓す、弘基・劉文静等挙と浅水原に接戦し、王師利あらず、八総管咸く敗る。唯だ弘基一軍尽力苦闘し、矢尽き、挙に獲らる。高祖其の難に臨みて屈せざるを嘉し、其の家に粟帛を賜うこと甚だ厚し。仁杲平ぎ、帰るを得、其の官爵を復す。会に宋金剛太原を陥す、弘基を遣わして晉州に屯せしむ。裴寂宋金剛に敗られ、人情崩駭し、固き志有る者莫し。金剛兵を以て城下に造り、弘基守る能わず、復た賊に陥る。俄かに逃れて帰るを得、高祖慰諭し、左一総管を授く。太宗に従い柏壁に屯し、兵二千を率いて隰州より西河に趨り、賊の帰路を断つ。時に賊鋒甚だ勁し、弘基堅壁し、進む能わず。金剛遁るるに及び、弘基騎を率いて之を邀え、介休に至り、太宗と会し、追撃して大いに之を破る。累ねて任国公に封ぜらる。尋いで劉黒闥を洺州に撃つに従い、師旋り、秉鉞將軍を授かる。会に突厥寇す、弘基歩騎一万を率い、豳州北界より東は子午嶺に拒ぎ、西は臨涇に接し、営障塞を修め、淮安王神通に副い、北鄙に胡寇を備う。九年、佐命の功を以て、真食九百戸。

原文劉弘基,雍州池陽人也。父昇,隋河州刺史。弘基少落拓,交通輕俠,不事家產,以父廕為右勳侍。大業末,嘗從煬帝征遼東,家貧不能自致,行至汾陰,度已後期當斬,計無所出,遂與同旅屠牛,潛諷吏捕之,繫於縣獄,歲餘,竟以贖論。事解亡命,盜馬以供衣食,因至太原。會高祖鎮太原,遂自結托,又察太宗有非常之度,尤委心焉。由是大蒙親禮,出則連騎,入同臥起。義兵將舉,弘基召募得二千人。王威、高君雅欲為變,高祖伏弘基及長孫順德於廳事之後,弘基因麾左右執威等。又從太宗攻下西河。義軍次賈胡堡,與隋將宋老生戰,破之,進攻霍邑。老生率眾陣於城外,弘基從太宗擊之,老生敗走,棄馬投塹,弘基下斬其首,拜右光祿大夫。師至河東,弘基以兵千人先濟河,進下馮翊,為渭北道大使,得便宜從事,以殷開山為副。西略地扶風,有眾六萬。南渡渭水,屯於長安故城,威聲大振,耀軍金光門。衛文升遣兵來戰,弘基逆擊走之,擒甲士千餘人、馬數百匹。時諸軍未至,弘基先至,一戰而捷。高祖大悅,賜馬二十匹。及破京城,功為第一。從太宗擊薛舉於扶風,破之,追奔至隴山而返。累拜右領都督,封河間郡公。又從太宗經略東都,戰於瓔珞門外,破之。師旋,弘基為殿。隋將段達、張志陳於三王陵,弘基擊敗之。武德元年,拜右驍衛大將軍,以元謀之勳,恕其一死,領行軍左一總管。又從太宗討薛舉。時太宗以疾頓於高墌城,弘基、劉文靜等與舉接戰於淺水原,王師不利,八總管咸敗;唯弘基一軍盡力苦鬥,矢盡,為舉所獲。高祖嘉其臨難不屈,賜其家粟帛甚厚。仁杲平,得歸,復其官爵。會宋金剛陷太原,遣弘基屯晉州。裴寂為宋金剛所敗,人情崩駭,莫有固志。金剛以兵造城下,弘基不能守,復陷於賊。俄得逃歸,高祖慰諭之,授左一總管。從太宗屯於柏壁,率兵二千自隰州趨西河,斷賊歸路。時賊鋒甚勁,弘基堅壁,不能進。及金剛遁,弘基率騎邀之,至於介休,與太宗會,追擊大破之。累封任國公。尋從擊劉黑闥於洺州,師旋,授秉鉞將軍。會突厥入寇,弘基率步騎一萬,自豳州北界東拒子午嶺,西接臨涇,修營障塞,副淮安王神通,備胡寇於北鄙。九年,以佐命功,真食九百戶。

太宗即位し、顧待益々隆し。李孝常・長孫安業の謀逆するや、交遊に坐して除名さる。歳余りして、起して易州刺史と為し、其の封爵を復し、征して衛尉卿に拝す。九年、改めて夔国公に封ぜられ、世襲朗州刺史と為るも、例に停まり行わず。後年老いて骸骨を乞う、輔国大將軍を授かり、朔望に朝し、祿賜職事と同じ。太宗遼東を征し、弘基を以て前軍大総管と為す。駐蹕山において高延壽を撃つに従い、力戦して功有り、太宗屡々労勉を加う。永徽元年実封を加え通前一千一百戸。其の年卒す、年六十九。高宗之が為に哀を挙げ、朝を三日廃し、開府儀同三司・并州都督を贈り、昭陵に陪葬し、仍って碑を立て、謚して襄と曰う。弘基遺令して諸子に奴婢各十五人・良田五頃を与え、親しき者に謂って曰く、「若し賢ならば、固より多財に藉らず。賢ならざれば、此を守りて以て飢凍を免るべし」と。余財悉く以て散施す。

原文太宗即位,顧待益隆。李孝常、長孫安業之謀逆也,坐與交遊除名。歲餘,起為易州刺史,復其封爵,征拜衛尉卿。九年,改封夔國公,世襲朗州刺史,例停不行。後以年老乞骸骨,授輔國大將軍,朝朔望,祿賜同於職事。太宗征遼東,以弘基為前軍大總管。從擊高延壽於駐蹕山,力戰有功,太宗屢加勞勉。永徽元年加實封通前一千一百戶。其年卒,年六十九。高宗為之舉哀,廢朝三日,贈開府儀同三司、并州都督,陪葬昭陵,仍為立碑,謚曰襄。弘基遺令給諸子奴婢各十五人、良田五頃,謂所親曰:「若賢,固不藉多財;不賢,守此可以免飢凍。」余財悉以散施。

子仁実襲ぎ、官左典戎衛郎将に至る。從子仁景、神龍初、官司農卿に至る。

原文子仁實襲,官至左典戎衛郎將。從子仁景,神龍初,官至司農卿。

殷嶠

原文殷嶠

殷嶠、字は開山、雍州鄠縣の人、陳の司農卿不害の孫なり。その先はもと陳郡に居し、陳滅びて、関中に徙る。父僧首、隋の秘書丞、世に名有り。嶠は少にして学行を以て称せられ、特に尺牘に工なり。隋に仕えて太谷長たり、治名有り。義兵起こり、召し補はれて大將軍府掾と為り、謀略に参預し、心腹の寄せを授けられ、累ねて軍功を以て光祿大夫に拝せらる。隠太子に従ひ西河を攻克す。太宗渭北道元帥と為り、引いて長史と為す。時に關中の群盗往々聚結し、衆適従する所無し、嶠をして之を招慰せしむるに、至る所皆下る。又統軍劉弘基と兵六万を率ひて長安故城に屯し、隋将衛孝節金光門より出でて戦ふを、嶠弘基と之を撃破す。京城平ぎ、爵を陳郡公に賜ひ、丞相府掾に遷る。尋で吏部侍郎を授く。薛挙を撃つに従ひ、元帥府司馬と為る。時に太宗疾有り、軍を劉文静に委ね、之に誡めて曰く、「賊衆遠来し、急戦に利有り、争鋒し難し。且つ宜しく持久し、糧尽くるを待ち、然る後に図る可し」と。嶠退きて文静に謂ひて曰く、「王体安からず、公の済はざるを慮ひ、故に此の言を発す。宜しく機に因りて賊を破るべし、何ぞ乃ち勍敵を以て王に遺さんや」と。久しくして、文静に言ひて曰く、「王豫せず、恐らくは賊我を軽んずるを、請ふ武を耀はして以て之を威せん」と。遂に兵を折墌に陳べ、挙の乗ずる所と為り、軍乃ち大敗す。嶠坐して死を減じて除名せらる。後に薛仁杲を平ぐるに従ひ、其の爵位を復す。武德二年、陝東道大行台兵部尚書を兼ね、吏部尚書に遷る。太宗に従ひ王世充を討ち平げ、功を以て爵を鄖國公に進む。復た劉黑闥を征するに従ひ、道に病みて卒す。太宗親しく喪に臨み、之を哭すること甚だ慟し、陝東道大行台右僕射を贈り、謚して節と曰ふ。貞観十四年、詔して贈司空しくう・淮安王神通、贈司空・河間王孝恭、贈民部尚書劉政会と俱に、佐命の功を以て高祖廟庭に配饗せしむ。十七年、又長孫無忌・唐儉・長孫順德・劉弘基・劉政会・柴紹等十七人と俱に、其の形を凌煙閣に図る。永徽五年、司空を追贈す。

原文殷嶠,字開山,雍州鄠縣人,陳司農卿不害孫也。其先本居陳郡,陳亡,徙關中。父僧首,隋秘書丞,有名於世。嶠少以學行見稱,尤工尺牘。仕隋太谷長,有治名。義兵起,召補大將軍府掾,參預謀略,授心腹之寄,累以軍功拜光祿大夫。從隱太子攻克西河。太宗為渭北道元帥,引為長史。時關中群盜往往聚結,眾無適從,令嶠招慰之,所至皆下。又與統軍劉弘基率兵六萬屯長安故城,隋將衛孝節自金光門出戰,嶠與弘基擊破之。京城平,賜爵陳郡公,遷丞相府掾。尋授吏部侍郎。從擊薛舉,為元帥府司馬。時太宗有疾,委軍於劉文靜,誡之曰:「賊眾遠來,利在急戰,難與爭鋒。且宜持久,待糧盡,然後可圖。」嶠退謂文靜曰:「王體不安,慮公不濟,故發此言。宜因機破賊,何乃以勍敵遺王也!」久之,言於文靜曰:「王不豫,恐賊輕我,請耀武以威之。」遂陳兵於折墌,為舉所乘,軍乃大敗。嶠坐減死除名。後從平薛仁杲,復其爵位。武德二年,兼陝東道大行台兵部尚書,遷吏部尚書。從太宗討平王世充,以功進爵鄖國公。復從征劉黑闥,道病卒。太宗親臨喪,哭之甚慟,贈陝東道大行台右僕射,謚曰節。貞觀十四年,詔與贈司空、淮安王神通,贈司空、河間王孝恭,贈民部尚書劉政會,俱以佐命功配饗高祖廟庭。十七年,又與長孫無忌、唐儉、長孫順德、劉弘基、劉政會、柴紹等十七人,俱圖其形於凌煙閣。永徽五年,追贈司空。

嶠の從祖弟聞禮、文学有り、武德中、太子中舍人と為り、梁史を修す、未だ就かずして卒す。聞禮の子仲容、亦た知名、則天其の才を深く愛す。官申州刺史に至る。

原文嶠從祖弟聞禮,有文學,武德中,為太子中舍人,修梁史,未就而卒。聞禮子仲容,亦知名,則天深愛其才。官至申州刺史。

劉政会

原文劉政會

劉政会、滑州胙城の人なり。祖環雋、北齊の中書侍郎。政会、隋の大業中太原鷹揚府司馬と為る。高祖太原留守と為り、政会兵を率ひて麾下に隷す。太宗劉文静と謀りて義兵を起す、副留守王威・高君雅独り猜貳を懐く。後数日、将に晋祠に大会せんとす、威と君雅高祖を危くせんと謀る。人有りて以て白す、太宗既に迫急を知り、先づ事を以て之を誅せんと欲し、因りて政会を遣はして急変の書と為し、詣りて留守に告げて威等二人の謀反を白す。是の日、高祖威・君雅と同坐して事を視る、文静政会を引き入る、庭中に至り、密状有り、人の反せんと欲するを知ると雲ふ。高祖威等を指して之を視しむるに、政会肯はずして曰く、「告ぐる所は副留守の事、唯だ唐公之を省みるを得るのみ」と。君雅袂を攘げて大呼して曰く、「此れ反人なり、我を殺さんと欲するなり」と。時に太宗已に兵馬を列ねて街巷に佈し、文静因りて左右を令して威等を引きて別室に囚ふ。既に威等を拘へ、竟に挙兵を得るは、政会の功なり。大將軍府建ち、引いて戸曹参そうしん軍と為す。長安を平ぐるに従ひ、丞相府掾を除く。武德初、衛尉少卿を授け、太原を留守す。政会内に軍士を輯め、外に戎狄を和し、遠近悦服せざる莫し。尋で劉武周進みて并州に逼り、晉陽の豪右薛深等城を以て賊に応す、政会賊の擒ふる所と為り、賊中に於て密に表して武周の形勢を論ず。賊平ぎ、其の官爵を復す。刑部尚書・光祿卿を歴り、邢國公に封ぜらる。貞観初、累ねて転じて洪州都督と為り、実封三百戸を賜ふ。九年卒す、太宗手敕して曰く、「義を挙げし日に、実に殊功有り、葬る所並びに宜しく優厚にすべし」と。民部尚書を贈り、謚して襄と曰ふ。後に殷開山と同く高祖廟庭に配饗す。

原文劉政會,滑州胙城人也。祖環雋,北齊中書侍郎。政會,隋大業中為太原鷹揚府司馬。高祖為太原留守,政會率兵隸於麾下。太宗與劉文靜謀起義兵,副留守王威、高君雅獨懷猜貳。後數日,將大會於晉祠,威與君雅謀危高祖。有人以白,太宗既知迫急,欲先事誅之,因遣政會為急變之書,詣留守告威等二人謀反。是日,高祖與威、君雅同坐視事,文靜引政會入,至庭中,雲有密狀,知人欲反。高祖指威等令視之,政會不肯,曰:「所告是副留守事,唯唐公得省之耳。」君雅攘袂大呼曰:「此是反人,欲殺我也!」時太宗已列兵馬佈於街巷,文靜因令左右引威等囚於別室。既拘威等,竟得舉兵,政會之功也。大將軍府建,引為戶曹參軍。從平長安,除丞相府掾。武德初,授衛尉少卿,留守太原。政會內輯軍士,外和戎狄,遠近莫不悅服。尋而劉武周進逼并州,晉陽豪右薛深等以城應賊,政會為賊所擒,於賊中密表論武周形勢。賊平,復其官爵。歷刑部尚書、光祿卿,封邢國公。貞觀初,累轉洪州都督,賜實封三百戶。九年卒,太宗手敕曰:「舉義之日,實有殊功,所葬並宜優厚。」贈民部尚書,謚曰襄。後與殷開山同配饗高祖廟庭。

子玄意爵を襲ぎ、渝國公に改封せられ、南平公主に尚し、駙馬都尉を授く。高宗時に汝州刺史と為る。次子奇、長壽中天官侍郎と為り、酷吏の陷るる所と為る。

原文子玄意襲爵,改封渝國公,尚南平公主,授駙馬都尉。高宗時為汝州刺史。次子奇,長壽中為天官侍郎,為酷吏所陷也。

柴紹

原文柴紹

柴紹、字は嗣昌、晉州臨汾の人なり。祖烈、周の驃騎大將軍、遂・梁二州刺史を歴り、冠軍縣公に封ぜらる。父慎、隋の太子右内率、鉅鹿郡公に封ぜらる。紹幼にして趫捷勇力有り、任俠関中に聞こゆ。少にして隋の元德太子千牛備身を補ふ。高祖微時に、女を以て之に妻せしむ、即ち平陽公主なり。

原文柴紹,字嗣昌,晉州臨汾人也。祖烈,周驃騎大將軍,歷遂、梁二州刺史,封冠軍縣公。父慎,隋太子右內率,封鉅鹿郡公。紹幼趫捷有勇力,任俠聞於關中。少補隋元德太子千牛備身。高祖微時,妻之以女,即平陽公主也。

義旗建ち、紹京より間路を趣きて太原に至る。時に建成・元吉河東より往き、道に会す、建成紹に謀りて曰く、「追書甚だ急なり、已に事を起せりと恐る。隋の郡縣城を連ねて千有餘里、中間路を偷み、勢必ず全からず、今且つ小賊に投ぜんと欲し、権りに以て自ら済はん」と。紹曰く、「不可なり。追既に急なれば、宜しく速かに去るべし、稍しく辛苦すと雖も、終に当に全きを獲ん。若し小賊に投ぜば、君の唐公の子なるを知り、執へて以て功と為し、徒らに死するのみ」と。建成之に従ひ、遂に共に走りて太原に入る。雀鼠谷に入り、已に義を起せるを知り、是に於て相賀し、紹の計を以て得たりと為す。右領軍大都督府長史を授く。大軍晉陽より発し、兼ねて馬軍総管を領す。将に霍邑に至らんとす、紹先づ城下に至り、宋老生の形勢を察し、白して曰く、「老生匹夫の勇有り、我が師若し到らば、必ず来りて出戦せん、戦へば則ち擒と成らん」と。義師至るに及び、老生果たして出づ、紹力戦して功有り。臨汾を下し、絳郡を平げ、並びに先登して陣を陷り、右光祿大夫を授く。隋将桑顯和来りて撃つ、孫華精鋭を率ひて河を渡りて以て之を援く、紹軍を引いて直ちに其の背を掩ひ、史大奈と勢を合はせて之を撃ち、顯和大敗し、因りて諸将と進みて京城を下す。武德元年、累ねて遷りて左翊衛大將軍と為る。尋で太宗に従ひ薛挙を平げ、宋金剛を破り、王世充を洛陽に攻め平げ、竇建德を武牢に擒ふ、霍國公に封ぜられ、実封千二百戸を賜ひ、転じて右驍衛大將軍と為る。吐谷渾と党項俱に来りて辺を寇す、紹を命じて之を討たしむ。虜高きに拠りて下を臨み、紹の軍中を射るに、矢雨の如く下る。紹乃ち人を遣はして胡琵琶を弾かしめ、二女子対舞せしむ、虜之を異とし、弓矢を駐めて相与に聚り観る。紹虜の陣整はざるを見て、密かに精騎をして自ら後より之を撃たしむ、虜大潰し、首級五百餘を斬る。貞観元年、右衛大將軍に拝せらる。二年、梁師都を夏州に撃ちて、之を平ぐ。転じて左衛大將軍と為り、出でて華州刺史と為る。七年、鎮軍大將軍を加へられ、行右驍衛大將軍、改めて譙國公に封ぜらる。十二年、寢疾す、太宗親しく臨み問ふ。尋で卒す、荊州都督を贈り、謚して襄と曰ふ。

原文義旗建,紹自京間路趣太原。時建成、元吉自河東往,會於道,建成謀於紹曰:「追書甚急,恐已起事。隋郡縣連城千有餘裡,中間偷路,勢必不全,今欲且投小賊,權以自濟。」紹曰:「不可。追既急,宜速去,雖稍辛苦,終當獲全。若投小賊,知君唐公之子,執以為功,徒然死耳。」建成從之,遂共走太原。入雀鼠谷,知已起義,於是相賀,以紹之計為得。授右領軍大都督府長史。大軍發晉陽,兼領馬軍總管。將至霍邑,紹先至城下,察宋老生形勢,白曰:「老生有匹夫之勇,我師若到,必來出戰,戰則成擒矣。」及義師至,老生果出,紹力戰有功。下臨汾,平絳郡,並先登陷陣,授右光祿大夫。隋將桑顯和來擊,孫華率精銳渡河以援之,紹引軍直掩其背,與史大奈合勢擊之,顯和大敗,因與諸將進下京城。武德元年,累遷左翊衛大將軍。尋從太宗平薛舉,破宋金剛,攻平王世充於洛陽,擒竇建德於武牢,封霍國公,賜實封千二百戶,轉右驍衛大將軍。吐谷渾與党項俱來寇邊,命紹討之。虜據高臨下,射紹軍中,矢下如雨。紹乃遣人彈胡琵琶,二女子對舞,虜異之,駐弓矢而相與聚觀。紹見虜陣不整,密使精騎自後擊之,虜大潰,斬首五百餘級。貞觀元年,拜右衛大將軍。二年,擊梁師都於夏州,平之。轉左衛大將軍,出為華州刺史。七年,加鎮軍大將軍,行右驍衛大將軍,改封譙國公。十二年,寢疾,太宗親自臨問。尋卒,贈荊州都督,謚曰襄。

平陽公主

原文平陽公主

平陽公主は、高祖の第三女にして、太穆皇后の生みしところなり。義兵起こらんとするや、公主は紹とともに長安にあり、使者を遣わして密かに召し寄せたり。紹、公主に謂いて曰く、「尊公は将に多難を掃清せんとし、紹は義旗を迎えんと欲す。ともに去るは不可、独り行かば後患に罹るを恐る。計いを為すこと若何」と。公主曰く、「君は速やかに去るべし。我は一婦人、臨時に易くも蔵隠すべし、当に別に自ら計いを為すべし」と。紹は即ち間行して太原に赴く。公主は乃ち鄠県の荘所に帰り、遂に家資を散じ、山中の亡命を招き引き、数百人を得て、兵を起こして高祖に応ず。時に胡賊何潘仁あり、衆を司竹園に聚め、総管と自称し、未だ所属する所なし。公主は家僮馬三宝を遣わして利害を説かしめ、潘仁は鄠県を攻めて、これを陥とす。三宝は又群盗李仲文・向善志・丘師利等を説き、各々衆数千人を率いて来会せしむ。時に京師留守頻りに軍を遣わして公主を討つも、三宝・潘仁屡々その鋒を挫く。公主は地を掠めて盩厔・武功・始平に至り、皆これを下す。毎に法令を申明し、兵士を禁じ、侵掠するを得ざらしむ。故に遠近より奔赴する者甚だ衆く、兵七万人を得たり。公主は間使をして以て聞かしむ。高祖大いに悦ぶ。及び義軍河を渡るや、紹を遣わして数百騎を将いて華陰に趨らしめ、南山に傍いて以て公主を迎えしむ。時に公主は精兵万余を引きて太宗の軍と渭北に会し、紹と各々幕府を置き、倶に京城を囲み、営中に号して「娘子軍」と曰う。京城平らぎ、平陽公主に封ぜられ、独り軍功有るを以て、毎に賞賜は他の主に異なり。六年、薨ず。及び将に葬らんとするや、詔して前後部羽葆鼓吹・大輅・麾幢・班劍四十人・虎賁甲卒を加う。太常奏議して、礼を以て、婦人に鼓吹無しとす。高祖曰く、「鼓吹は軍楽なり。往者公主は司竹に於いて兵を挙げて義旗に応じ、親しく金鼓を執り、克定の勳有り。周の文母は、十乱に列す。公主の功は佐命に参じ、常の婦人の匹儔する所に非ず。何ぞ鼓吹無からんや」と。遂に特ちにこれを加え、以て殊績を旌す。仍って所司に令して謚法に按ずるに「明徳有りて功有るを昭と曰う」と、公主を謚して昭とす。

原文平陽公主,高祖第三女也,太穆皇后所生。義兵將起,公主與紹並在長安,遣使密召之。紹謂公主曰:「尊公將掃清多難,紹欲迎接義旗;同去則不可,獨行恐罹後患,為計若何?」公主曰:「君宜速去。我一婦人,臨時易可藏隱,當別自為計矣。」紹即間行赴太原。公主乃歸鄠縣莊所,遂散家資,招引山中亡命,得數百人,起兵以應高祖。時有胡賊何潘仁聚眾於司竹園,自稱總管,未有所屬。公主遣家僮馬三寶說以利害,潘仁攻鄠縣,陷之。三寶又說群盜李仲文、向善志、丘師利等,各率眾數千人來會。時京師留守頻遣軍討公主,三寶、潘仁屢挫其鋒。公主掠地至盩厔、武功、始平,皆下之。每申明法令,禁兵士,無得侵掠,故遠近奔赴者甚眾,得兵七萬人。公主令間使以聞,高祖大悅。及義軍渡河,遣紹將數百騎趨華陰,傍南山以迎公主。時公主引精兵萬餘與太宗軍會於渭北,與紹各置幕府,俱圍京城,營中號曰「娘子軍」。京城平,封為平陽公主,以獨有軍功,每賞賜異於他主。六年,薨。及將葬,詔加前後部羽葆鼓吹、大輅、麾幢、班劍四十人、虎賁甲卒。太常奏議,以禮,婦人無鼓吹。高祖曰:「鼓吹,軍樂也。往者公主於司竹舉兵以應義旗,親執金鼓,有克定之勳。周之文母,列於十亂;公主功參佐命,非常婦人之所匹也。何得無鼓吹!」遂特加之,以旌殊績;仍令所司按謚法「明德有功曰昭」,謚公主為昭。

子哲威は、右屯営将軍を歴任し、爵を襲いて譙国公と為る。弟令武の謀反に坐し、嶺南に徙る。起きて交州都督と為り、官に卒す。令武は巴陵公主を尚し、累除して太僕少卿・衛州刺史、封ぜられて襄陽郡公と為る。永徽中、公主及び房遺愛と謀反を謀るに坐し、使者を遣わしてこれを収む。行きて華陰に至り、自殺し、仍ってその屍を戮す。公主は死を賜う。

原文子哲威,歷右屯營將軍,襲爵譙國公。坐弟令武謀反,徙嶺南。起為交州都督,卒官。令武尚巴陵公主,累除太僕少卿、衛州刺史,封襄陽郡公。永徽中,坐與公主及房遺愛謀反,遣使收之。行至華陰,自殺,仍戮其屍。公主賜死。

馬三宝(附)

原文馬三寶 {{annotate|附}}

馬三宝は、初め京城平定の功を以て、太子監門率に拝せらる。別に叛胡劉抜真を北山に撃ちて、これを破る。又薛仁杲を平ぐるに従い、左驍衛将軍に遷る。復た柴紹に従い吐谷渾を岷州に撃ち、先鋒として陣に陷り、その名王を斬り、前後男女数千口を虜にす。累封して新興県公と為る。嘗て幸するに司竹に従い、高祖顧みて三宝に謂いて曰く、「是れ汝が英雄を建つる処なり、衛青大いに悪しからず」と。累除して左驍衛大将軍と為る。貞観三年卒す。太宗之が為に朝を廃し、謚して忠と曰う。

原文馬三寶,初以平京城功,拜太子監門率。別擊叛胡劉拔真於北山,破之。又從平薛仁杲,遷左驍衛將軍。復從柴紹擊吐谷渾於岷州,先鋒陷陣,斬其名王,前後虜男女數千口,累封新興縣公。嘗從幸司竹,高祖顧謂三寶曰:「是汝建英雄之處,衛青大不惡!」累除左驍衛大將軍。貞觀三年卒。太宗為之廢朝,謚曰忠。

武士鸊

原文武士鸊

武士鸊は、并州文水の人なり。家は財に富み、頗る交結を好む。高祖初め汾・晋に行軍するや、その家に休止し、因りて顧接を蒙る。及び太原留守と為り、行軍司鎧に引く。時に盗賊蜂起す。士鸊嘗て陰に高祖を勧めて兵を挙げ、自ら兵書及び符瑞を進む。高祖これに謂いて曰く、「幸いに多く言うこと勿れ。兵書は禁物なり、尚能く将来す。深く雅意を識り、当に富貴を同じくせん」と。及び義兵将に起こらんとするや、高祖人を募り、劉弘基・長孫順德等を遣わして分ちこれを統べしむ。王威・高君雅陰に士鸊に謂いて曰く、「弘基等は皆背征三衛にして、犯す所当に死すべし、安んぞ兵を領するを得ん。吾は身を禁じて推覈せんと欲す」と。士鸊曰く、「此れ並びに唐公の客なり。若し爾らば、便ち大いに紛紜せん」と。威等是より疑いて発せず。留守司兵田徳平又た威等を勧めて募人の状を鞫問せんと欲す。士鸊徳平に謂いて曰く、「討捕の兵は、総じて唐公に隷す。王威・高君雅等は、並びに寄坐するのみ。彼何をか能為さん」と。徳平遂に止む。義旗起こり、士鸊を以て大将軍府鎧曹と為す。京城平定の功に従い、光禄大夫に拝せられ、太原郡公に封ぜらる。初め義師将に起こらんとするや、士鸊は預知せず。及び京師平らぎ、乃ち自ら説いて云く、「嘗て高祖の西京に入り、升りて天子と為るを夢みたり」と。高祖之を哂いて曰く、「汝は王威の党なり。汝が能く弘基等を諫め止むるを以て、微心録すべく、故に酬效を加う。今事の成るを見て、乃ち迂誕を説きて媚を取るか」と。武徳中、累遷して工部尚書、進みて応国公に封ぜられ、又利州・荊州都督を歴任す。貞観九年官に卒す。礼部尚書を贈られ、謚して定と曰う。顕慶元年、后父を以て累贈して司徒しと、改めて周国公に封ぜらる。咸亨中、又太尉・太原王を贈られ、特詔して高祖廟庭に配饗せしめ、功臣の上に列す。孫承嗣、事は『外戚伝』に在り。

原文武士鸊,并州文水人也。家富於財,頗好交結。高祖初行軍於汾、晉,休止其家;因蒙顧接,及為太原留守,引為行軍司鎧。時盜賊蜂起,士鸊嘗陰勸高祖舉兵,自進兵書及符瑞,高祖謂曰:「幸勿多言。兵書禁物,尚能將來,深識雅意,當同富貴耳。」及義兵將起,高祖募人,遣劉弘基、長孫順德等分統之。王威、高君雅陰謂士鸊曰:「弘基等皆背征三衛,所犯當死,安得領兵?吾欲禁身推覈。」士鸊曰:「此並唐公之客也,若爾,便大紛紜。」威等由是疑而不發。留守司兵田德平又欲勸威等鞫問募人之狀,士鸊謂德平曰:「討捕之兵,總隸唐公。王威、高君雅等,並寄坐耳,彼何能為!」德平遂止。義旗起,以士鸊為大將軍府鎧曹。從平京城功,拜光祿大夫,封太原郡公。初為義師將起,士鸊不預知,及平京師,乃自說云:「嘗夢高祖入西京,升為天子。」高祖哂之曰:「汝王威之黨也。以汝能諫止弘基等,微心可錄,故加酬效;今見事成,乃說迂誕而取媚也?」武德中,累遷工部尚書,進封應國公,又歷利州、荊州都督。貞觀九年卒官,贈禮部尚書,謚曰定。顯慶元年,以後父累贈司徒,改封周國公。咸亨中,又贈太尉、太原王,特詔配饗高祖廟庭,列在功臣之上。孫承嗣,事在《外戚傳》。

(長兄)武士棱

原文{{Annotate|長兄}} 武士棱

鸊の長兄士棱は、性恭順にして、稼穡に勤む。起義に従い、官は司農少卿に至り、宣城県公に封ぜらる。常に苑中に居り、農囿の事を委ねらる。貞観中卒す。潭州都督を贈らる。

原文鸊長兄士棱,性恭順,勤於稼穡。從起義,官至司農少卿,封宣城縣公。常居苑中,委以農囿之事。貞觀中卒,贈潭州都督。

(次兄)武士逸

原文{{Annotate|次兄}} 武士逸

次兄士逸も亦た戦功有り。武徳初、斉王府戸曹と為り、安陸県公の爵を賜う。斉王に従い并州を鎮め、劉武周に獲らる。賊中に於いて密かに人をして京師に詣らしめ、武周図るべきの計を陳ぶ。及び武周平らぎ、甚だ慰勉せられ、累授して益州行台左丞と為る。数え時政得失を陳ぶ。高祖毎に嘉みてこれを納る。貞観初、韶州刺史と為り、卒す。

原文次兄士逸,亦有戰功,武德初,為齊王府戶曹,賜爵安陸縣公。從齊王鎮并州,為劉武周所獲,於賊中密令人詣京師,陳武周可圖之計。及武周平,甚見慰勉,累授益州行台左丞。數陳時政得失,高祖每嘉納之。貞觀初,為韶州刺史,卒。

史臣曰く、唐儉は義旗の下に質を委ね、草昧の初めに功を立て、虜庭に拘せられ、高祖蒲州の急を脱す。苑囿に侍獵し、太宗馬上の言を諫む。純臣と謂うべし。順徳は佐命して功を立て、郡を理めて明肅の政を著わす。弘基は難に臨みて屈せず、陣に陷りて克捷の勳多し。殷嶠・劉政会・柴嗣昌並びに太原に在り、首めて挙義に預かり、微より著に至り、善く始めて令終す。馬三宝は廝養の徒より出で、将軍の位に処る。亦た馬の善く走る者なり。武士鸊は首めて起義に参じ、例に功臣に封ぜらる。戡難の労無く、人に因るの跡有り。他伝を載せ窺うに、過ぎて褒詞を為す。慮うらくは武后の朝に当たり、佞は敬宗の筆に出ず。凡そ虚美に渉るは、削りて書かず。

原文史臣曰:唐儉委質義旗之下,立功草昧之初,被拘虜庭,脫高祖蒲州之急;侍獵苑囿,諫太宗馬上之言,可謂純臣矣。順德佐命立功,理郡著明肅之政;弘基臨難不屈,陷陣多克捷之勳。殷嶠、劉政會、柴嗣昌並在太原,首預舉義,從微至著,善始令終。馬三寶出廝養之徒,處將軍之位,亦馬之善走者也。武士鸊首參起義,例封功臣,無戡難之勞,有因人之跡,載窺他傳,過為褒詞。慮當武後之朝,佞出敬宗之筆,凡涉虛美,削而不書。

賛して曰く、茂約忠純、順徳功勳。弘基六士、義風雲に合す。

原文贊曰:茂約忠純,順德功勳。弘基六士,義合風云。