旧唐書
裴寂、劉文靜
裴寂
裴寂は、字を玄真といい、蒲州桑泉の人である。祖父の融は、司本大夫であった。父の瑜は、絳州刺史であった。寂は幼くして孤となり、諸兄に養育された。十四歳の時、州主簿に補せられた。成長すると、眉目が秀で、姿容が魁偉であった。隋の開皇年間、左親衛となった。家が貧しく自ら生業を立てる術がなく、しばしば徒歩で京師に赴き、華岳廟を経て、祭りを捧げて祝して言うには、「窮困ここに至る、敢えて誠を修めて謁す、神に霊あらば、その運命を鑑みたまえ。もし富貴期すべきあらば、吉夢を降したまえ」と。再拝して去った。夜、白頭の翁が寂に謂う夢を見た、「卿は三十歳以後にして方に志を得、終には位人臣の極みに至るであろう」と。後に齊州司戸となった。大業年間、侍御史・駕部承務郎・晉陽宮副監を歴任した。高祖が太原に留守していた時、寂とは旧知であり、時に親礼を加え、しばしば宴語に招き、博奕を交えて、ついに通宵連日、情に忘れて厭倦を知らなかった。時に太宗が義師を挙げようとして敢えて発言せず、寂が高祖に厚遇されているのを見て、乃ち私銭数百万を出し、密かに龍山令の高斌廉と寂に博戯させ、次第に寂に負けさせた。寂は銭を得ること既に多く、大いに喜び、毎日太宗に従って遊んだ。その歓び甚だしいのを見て、遂に実情を告げると、寂は即ち承諾した。寂はまた晉陽宮の宮人を以て密かに高祖に侍らせ、高祖が寂と飲み、酒酣に及んだ時、寂は状を白して言うには、「二郎(太宗)が密かに兵馬を繋ぎ、義旗を挙げようとしているのは、正に寂が宮人を以て公に奉じたため、事が発覚して誅されることを恐れ、急ぎこれを為すのです。今、天下大乱し、城門の外は、皆盗賊である。もし小節を守れば、旦夕に死亡し、もし義兵を挙げれば、必ず天位を得るでしょう。衆情既に協しています、公の意は如何ですか」と。高祖は言う、「我が児に確かにこの計あり、既に定まった以上、従うべきである」と。義兵が起こると、寂は宮女五百人を進め、併せて米九万斛・雑彩五万段・甲四十万領を上って、軍用に供した。大將軍府が建てられると、寂を長史とし、聞喜縣公の爵を賜った。河東に至ると、屈突通が拒んで守り、攻めても下らず、三輔の豪傑で帰義する者は日に千数を数えた。高祖は先ず京師を定めようとしたが、議者は通が後患となることを恐れ、猶豫して未だ決しなかった。寂は進み説いて言う、「今、通は蒲関を拠り、もし先に平らげなければ、前には京城の守り、後には屈突の援けがあり、これは腹背に敵を受ける、敗の道です。蒲州を攻め、これを下して後に關に入るに如かず。京師は援けを絶たれ、攻めずして定めることができましょう」と。太宗は言う、「そうではない。兵法は権を尚び、権は速さに在り。機に乗じて早く渡り、その心を駭すべきである。我もし遅留すれば、彼は生計を立てる。且つ關中の群盗は、所在に屯結し、未だ定主なく、招き懐き易く、賊が附けば兵強く、何の城か克たざらん。屈突通は自ら守る賊に過ぎず、憂うるに足らぬ。もし關に入る機を失えば、則ち事未だ知るべからず」と。高祖は両者の意見に従い、兵を留めて河東を囲み、軍を率いて關に入った。京師が平定されると、良田千頃・甲第一区・物四万段を賜り、大丞相府長史に転じ、魏國公に進封され、食邑三千戸を賜った。
隋の恭帝が位を譲ると、高祖は固く辞して受けず、寂が勧進したが、また答えなかった。寂は謁見を請うて言う、「桀・紂の亡びるにも、亦それぞれ子があったが、湯・武が臣としてこれを輔けたとは聞かない、これをもって亀鑑とすべきで、疑う所はありません。寂の茅土・大位は、皆唐より受けたものであり、陛下が唐の帝とならなければ、臣は官を去るのみです」と。又符命十余事を陳べると、高祖は乃ちこれに従った。寂が出ると、太常に命じて礼儀を具えさせ、吉日を選ばせた。高祖が禅を受けると、寂に謂う、「我をしてここに至らしめたのは、公の力である」と。尚書右僕射に拝し、服玩を賜うこと数え切れず、仍って詔して尚食奉御に、毎日寂に御膳を賜わせた。高祖が朝を視ると、必ず引きて同座せしめ、閣に入れば則ちこれを臥内に延き、言うこと従わざるなく、裴監と呼んで名を呼ばなかった。当朝の貴戚、親礼これに比するもの無かった。武德二年、劉武周の将の黄子英・宋金剛が頻りに太原を寇し、行軍総管の姜寶誼・李仲文が相次いで陷没し、高祖これを患った。寂は自ら行くことを請い、因って晉州道行軍総管とされ、便宜従事することを得た。師は介休に次ぐが、金剛は城を拠りて寂に抗した。寂は度索原に保つが、営中水を欠き、賊がその澗路を断ったため、これにより危迫した。営を移して水に就かんと欲すると、賊は因りてこれを犯し、師は遂に大潰し、死散略尽した。寂は一日一夜で晉州に馳せ至った。東の城鎮が俱に没したため、金剛は絳州に進逼し、寂は表を抗して陳謝し、高祖はこれを慰諭し、復た河東の地を鎮撫せしめた。寂は性怯懦で、捍禦の才無く、ただ使者を発して絡繹とし、虞・秦二州の居人を催督し、城堡に入ることを勒め、その積聚を焚いた。百姓惶駭し、復た乱を為さんと思った。夏県人の呂崇茂は遂に県令を殺し兵を挙げて反し、金剛を引きて援けとし、寂がこれを撃つと、復た崇茂に敗れた。徴されて朝廷に入ると、高祖はこれを数えて言う、「義挙の始め、公に翼佐の勲あり、官爵亦極まった。前に武周を拒ぐ時、兵勢は以て敵を破るに足りたのに、この喪敗を致したのは、朕に愧じるのみではないか」と。これを吏に属したが、尋いで釈放し、顧待ますます重くした。
高祖が巡幸する時は、必ず居守せしめた。麟州刺史の韋雲起が寂の謀反を告げたが、訊問しても端緒無かった。高祖は寂に謂う、「朕が天下を持つのは、もと公の推す所であり、今どうして貳心あろうか。皁白分かつべきなので、推究しただけである」と。因って貴妃三人に命じて珍饌・宝器を齎らせて寂の邸に就かせ、宴楽極めて歓び、一宿して去った。又嘗て従容として寂に謂う、「我が李氏は昔、隴西に在り、亀玉に富み、祖祢に降り、姻婭は帝室であった。及び義兵を挙げると、四海雲集し、数日を涉るのみで、天子に昇った。前代の皇王に至っては、多く微賤より起こり、行陣に劬労し、下聊生せず。公はまた世胄の名家で、清顕の職を歴任し、どうして蕭何・曹参が刀筆吏より起こったようなものか。唯我と公とは、千載の後、前修に愧じることが無いであろう」と。その年、銭を改鋳するに当たり、特賜して寂に自ら鋳造せしめた。又趙王元景のために寂の女を聘して妃とした。六年、尚書左僕射に遷り、含章殿で賜宴し、高祖極めて歓び、寂は頓首して言う、「臣が初め太原を発つ時、慈旨有り、清平の後、退耕を許されました。今、四海乂安、伏して願わくは臣の骸骨を賜わらんことを」と。高祖は涙下りて襟を沾し言う、「今は未だそうではない、要は相偕に老いんとするのだ。公が台司となり、我が太上となり、一代を逍遙するのは、豈に快からずや」と。俄かに司空に冊し、実封五百戸を賜い、尚書員外郎一人を遣わして毎日更に寂の邸に直らせ、その崇貴せられること此の如くであった。
貞観元年、実封を加え前と併せて一千五百戸となった。二年、太宗が南郊で祭祀し、寂と長孫無忌に命じて共に金輅に昇らせた。寂が辞譲すると、太宗は言う、「公に佐命の勲有り、無忌も亦朕に力を宣べた、同載参乗するは、公でなくて誰か」と。遂に同乗して帰った。
三年、沙門法雅という者がおり、初めは恩寵によって両宮に出入りしていたが、この時になって禁絶された。法雅は怨望を抱き、妖言を放ち、処刑された。兵部尚書杜如晦がその獄を訊問すると、法雅は裴寂がその言葉を知っていたと称した。寂は答えて言うには、「法雅はただ時節が疫病流行の兆しであると言っただけで、初めから妖言は聞かなかった」と。法雅がこれを証言したため、これに連座して免官となり、食邑の半分を削られ、本邑に帰された。寂は京師に留まることを請うたが、太宗は彼を責めて言うには、「貴公の勲功を考えれば、このような地位に至るはずはなく、ただ恩沢によって特に第一の位に居ただけである。武徳の時、政令と刑罰に誤りがあり、官紀が弛緩紊乱したのは、貴公に原因がある。ただ旧情ゆえに、極刑に処することはできない。墳墓を掃うために帰るのだ、どうしてまた辞退できようか」と。寂はついに蒲州に帰った。間もなく、信行と自称する狂人がおり、汾陰に寓居し、言葉は多く妖妄であり、常に寂の家僮に言うには、「裴公には天分がある」と。当時、信行は既に死んでいた。寂の監奴の恭命がその言葉を寂に告げると、寂は恐れ慄いて奏聞することを敢えず、密かに恭命を呼んでその言葉を言った者を殺させた。恭命はその者を逃亡潜伏させ、寂はそれを知らなかった。寂が恭命に封邑の租税を収納させたところ、百余万銭を得たが、恭命はそれを使い尽くしてしまった。寂は怒り、人を遣わして捕らえようとしたので、恭命は恐れて変事を上告した。太宗は大いに怒り、侍臣に言うには、「寂に死罪が四つある。位は三公でありながら妖人法雅と親密であったこと、これが第一の罪である。事が発覚した後、意地を張って憤怒し、国家が天下を得たのは自分の謀略によるものだと言ったこと、これが第二の罪である。妖人が自分に天分があると言ったのを、隠して奏上しなかったこと、これが第三の罪である。密かに殺戮を行って口を滅ぼそうとしたこと、これが第四の罪である。朕が彼を殺しても言い訳はない。議論する者は多く流刑配所に送ることを言うが、朕は衆に従おうか」と。そこで交州に移し、ついに静州に流した。間もなく山羌が乱を起こし、ある者は反乱した獠が寂を劫略して主としたと言った。太宗はこれを聞いて言うには、「我が国家は寂に命の恩がある。必ずやそうではないだろう」と。間もなく、果たして寂が家僮を率いて賊を破ったと称した。太宗は寂の佐命の功を思い、朝に召し入れたが、ちょうど死去した。時に六十歳であった。相州刺史・工部尚書・河東郡公を追贈された。
子の律師が嗣ぎ、太宗の妹の臨海長公主を娶り、官は汴州刺史に至った。律師の子の承先は、則天の時に殿中監となり、酷吏に殺された。
劉文靜
劉文静、字は肇仁、自ら彭城の人と称し、代々京兆の武功に居住した。祖父の懿用は、石州刺史であった。父の韶は、隋の時に戦死し、上儀同三司を追贈された。若くしてその父が王事のために身を死なせたことにより、父の儀同三司を襲った。姿形は立派で、器量と才幹があり、豪放磊落で権謀術策に長けていた。隋末、晋陽令となり、裴寂が晋陽宮監であった時に出会い、よって友となった。夜、共に宿ると、寂は城上の烽火を見て、天を仰いで嘆いて言うには、「卑賤の極みで、家道は屡々空しく、また乱離に属している。どうやって救われようか」と。文静は笑って言うには、「世の道がこのようであるなら、時事は知れる。我々二人が意気投合すれば、卑賤を何と憂えようか」と。
高祖が太原を鎮守するに及んで、文静は高祖に四方の志があることを察し、深く結び付いた。また密かに太宗を観察し、寂に言うには、「並々ならぬ人物である。大度は漢の高祖に類し、神武は魏の太祖と同じである。その年は若いが、まさに天が与えたものだ」と。寂は初めはそうとは思わなかった。後に文静は李密と婚姻を結んだことで連座し、煬帝の命により郡の獄に繋がれた。太宗は文静が謀議を共にできると考え、禁獄の中を訪ねて会った。文静は大いに喜んで言うには、「天下は大乱している。湯・武・高祖・光武帝のような才がなければ、定めることはできない」と。太宗は言うには、「卿はどうしてないと知るのか。ただ常人には見分けがつかないことを恐れるだけだ。今、禁獄の中を訪ねて会うのは、児女の情で憂えるだけではない。時事がこのようであるから、君と大計を図りに来たのだ。どうか善く事を籌策してほしい」と。文静は言うには、「今、李密は長く洛邑を包囲し、主上は淮南に流離している。大賊は州郡を連ね、小盗は沢山を阻んでいる者は、万を数える。ただ真の主君が駆り立てて取ることを待つばかりである。誠に天に応じ人に順い、旗を挙げて大呼すれば、四海を定めるのに足りないことはない。今、太原の百姓で盗賊を避ける者は、皆この城に入っている。文静は令として数年、その豪傑を知っている。一朝に呼び集めれば、十万人を得ることができる。尊公(高祖)が率いる兵も、また数万である。君の言葉が口を出せば、誰が従わないことがあろうか。虚を乗じて関中に入り、天下に号令すれば、半年に満たずして帝業は成し遂げられる」と。太宗は笑って言うには、「君の言葉はまさに人の意に合う」と。そこで賓客を部署し、密かに起義を図った。機会を待って発動しようとしたが、高祖が従わないことを恐れ、長く沈吟した。文静は高祖が裴寂を厚遇しているのを見て、寂を通じて説得しようとし、そこで寂を引いて太宗と交わりを結ばせ、謀議を通じさせた。
高君雅が突厥に敗れた時、高祖は拘束され、太宗はまた文静を遣わして寂と共に進言させて言うには、「『易』に『幾を知るは其れ神ならんか』とある。今、大乱が既に起こり、公は嫌疑の地に処し、賞せられざる功を立てている。どうして全きを図れようか。その裨将が敗北し、罪に帰せられている。事は誠に切迫している。計略を為すべきである。晋陽の地は、兵馬は精強であり、宮監の中には、府庫が盈ち積もっている。これをもって事を挙げれば、大功を立てることができる。関中は天府の地であり、代王は幼沖で、権豪が並び起き、従うべきものがまだない。願わくは公が兵を興して西に入り、大事を図られよ。どうして単なる使者の囚われを受けようとするのか」と。高祖はこれを認めた。当時、太宗は密かに死士を結び、文静らと協議し、日を定めて挙兵しようとしたが、ちょうど高祖が釈放されたので止めた。そこで文静に命じて煬帝の勅であると偽り、太原・西河・雁門・馬邑の、年二十以上五十以下の者を悉く兵とし、年末を期して涿郡に集結させ、遼東を伐つとさせた。これによって人心は大いに擾乱し、乱を思う者は益々多くなった。文静はよって裴寂に言うには、「公は『先んずれば人を制し、後るれば人に制せられる』と聞かないのか。唐公の名は図讖に応じ、天下に聞こえている。どうして引き延ばし、自ら禍いを招くのか。宜しく早く唐公を勧めて、時に応じて義兵を挙げるべきである」と。また寂を脅して言うには、「かつて公は宮監でありながら、宮人をもって客に侍らせた。公が死ぬのは構わないが、どうして唐公を誤らせるのか」と。寂は甚だ懼れ、そこで屡々高祖を促して起兵させた。ちょうど馬邑の劉武周が太守王仁恭を殺し、天子を自称し、突厥の衆を引き連れて、太原を侵そうとした。太宗は文静及び長孫順徳らを遣わして分かれて兵を募り、武周を討つことを名目とし、また文静と裴寂に命じて符勅を偽造させ、宮監の庫物を出して留守の資用に供し、よって兵を募り衆を集めさせた。義兵が将に起こらんとする時、副留守の王威・高君雅だけが猜疑の心を抱いていた。後数日、将に晋祠で大会せんとした時、威及び君雅は密かに高祖を害そうと謀った。晋陽の郷長劉世龍がこれを太宗に告げた。太宗は既に切迫していることを知り、先んじて彼らを誅しようとし、文静と鷹揚府司馬劉政会を遣わして急変の書を投じ、留守に詣でて威ら二人の謀反を告げさせた。この日、高祖は威・君雅と同座して政務を見ていた。文静が政会を引いて庭中に至り、密かな訴状があり、人が反逆しようとしていることを知っていると言った。高祖は威らを指して訴状を見ようとしたが、政会は与えようとせず、言うには、「告げるのは副留守の事であり、ただ唐公だけがこれを見ることができる」と。高祖は陽に驚いて言うには、「どうしてこのようなことがあろうか」と。訴状を見終わると、威らに言うには、「この者が公の事を告げているが、どうしたことか」と。君雅は大声で罵って言うには、「これは反逆者だ。私を殺そうとしている」と。文静は左右を叱って彼らを捕らえさせ、別室に囚えた。威らを拘束した後、ついに挙兵することができた。
高祖が大將軍府を開くと、文靜を軍司馬とした。文靜は旗幟を改めて義挙を彰わすことを勧め、また突厥と連合して兵威を益すことを請うたが、高祖はともにこれに従った。そこで文靜を遣わして始畢可汗に使わすと、始畢は言った、「唐公が事を起こしたが、今何を為そうとするのか」。文靜は言った、「皇帝が冢嫡を廃し、後主に位を伝えたため、この禍乱を招いた。唐公は国の懿戚であり、坐して成敗を見るに忍びず、故に義軍を起こし、立つべからざる者を黜けようとする。願わくは可汗の兵馬とともに京師に入り、人衆と土地は唐公に帰し、財帛と金宝は突厥に入れん」。始畢は大いに喜び、直ちに将軍康鞘利に二千騎を率いさせ、文靜に随従して来させ、また馬千匹を献じた。高祖は大いに悦び、文靜に言った、「公の善き辞がなければ、どうしてここに至ることができようか」。まもなく兵を率いて隋の将軍屈突通を潼関に防ぎ、通は武牙郎将桑顯和に勁兵を率いて来撃させたが、文靜は半日にわたり苦戦し、死者数千人に及んだ。文靜は顯和の軍が稍々怠ると推し量り、密かに奇兵を遣わしてその背後を掩い、顯和は大敗し、その衆を悉く虜にした。通はなお数万の兵を擁し、東都に遁れ帰らんとしたが、文靜は諸将を遣わして追わせてこれを捕らえ、新安以西の地を略定した。大丞相府司馬に転じ、光禄大夫を授けられ、魯国公に封ぜられた。
高祖が践祚すると、納言に拝された。時に高祖はしばしば重臣を引いて共に食したが、文靜は奏上して言った、「陛下は億兆に君臨され、率土みな臣ならざるはないのに、朝に当たっては捴抑し、言うに尚お名を称え、また宸極の位は尊く、帝座は厳重であるのに、乃ち太陽をして万物に俯同せしめ、臣下は震恐し、身を措く所なし」。帝は納れなかった。時に制度は草創であり、文靜に命じて当朝の通識の士とともに『隋開皇律令』を更に刊して損益し、通法となした。高祖は言った、「本来法令を設くるは、人をして共に解からしめんとするが、往代相承、多くは隠語と為り、執法の官、これに縁って舞弄す。宜しく更に刊定し、務めて知り易からしむべし」。時に薛挙が涇州を寇すと、太宗に命じてこれを討たせ、文靜を元帥府長史とした。太宗の不豫に遇い、文靜及び司馬殷開山に委ね、戒めて言った、「挙は糧少なく兵疲れ、懸軍深入し、意は決戦に在り、持久に利あらず、即ち挑戦せんと欲するも、慎んで決するなかれ。吾が差えるを待て、当に君等の為にこれを取らん」。文靜は開山の計を用い、軍を出して利を争い、王師は敗績した。文靜は奔って京師に還り、坐して除名された。俄かにまた太宗に従って挙を討ち、これを平らげ、功によりその爵邑を復し、民部尚書に拝され、陝東道行台左僕射を領した。武德二年、太宗に従って長春宮を鎮めた。
文靜は自ら才能幹用が裴寂の右にあるとし、また屡々軍功有りながら、位はその下に居ることを以て、意甚だ平らかならず。毎に廷議多く相違戾し、寂に是とすることあれば、文靜は必ずこれを非とし、ここより寂と隙有り。文靜は嘗てその弟の通直散騎常侍文起と酣宴し、怨望の言を出し、刀を抜いて柱を撃ちて言う、「必ず当に裴寂を斬らんのみ」。家中に妖怪数回見え、文起これを憂い、遂に巫者を召して星下に髪を被り刀を銜え、厭勝の法を行わしめた。時に文靜に愛妾有りて寵を失い、その状をその兄に告げ、妾の兄が上変した。高祖はこれを以て吏に属し、裴寂、蕭瑀を遣わして状を問わしめた。文靜は言う、「起義の初め、忝くも司馬と為り、長史と計らい位望略同じし、今寂は僕射と為り、甲第に据わり、臣の官賞は衆人と異ならず、東西に征討し、家口託する所無く、実に觖望の心有り。酔いに因り或いは怨言有り、自ら保つ能わず」。高祖は群臣に謂いて言う、「文靜の此言、反明白なり」。李綱、蕭瑀は皆その反に非ざることを明らかにした。太宗は文靜が義旗初めて起こるや、先ず非常の策を定め、始めて寂に知らせ、及び京城を平らげ、任遇懸隔なるも、ただ文靜を以て觖望するのみとし、敢えて謀反せざるを極めて佑助した。然るに高祖は素よりこれを疏忌し、裴寂また言う、「文靜の才略、実に時人を冠し、性また粗険にして、忿りて難を思わず、丑言悖逆、その状已に彰わなり。当今天下定まらず、外に勍敵有り、今若しこれを赦せば、必ず後患を貽す」。高祖は竟にその言を聴き、遂に文靜、文起を殺し、仍ってその家を籍没した。文靜は刑に臨み、膺を撫でて嘆いて言う、「高鳥逝き、良弓蔵さる、故に虚しからず」。時に年五十二。
貞観三年、官爵を追復し、子の樹義に魯国公の封を襲がせ、公主を尚せしめることを許した。後にその兄の樹藝とともにその父の戮せられたるを怨み、また謀反し、誅せられた。
文靜が初めて納言と為りし時、詔有りて太原の元謀立功を以て、尚書令・秦王某、尚書左僕射裴寂及び文靜は、特恕二死。左驍衛大將軍長孫順徳、右驍衛大將軍劉弘基、右屯衛大將軍竇琮、左翊衛大將軍柴紹、内史侍郎唐儉、吏部侍郎殷開山、鴻臚卿劉世龍、衛尉少卿劉政会、都水監趙文恪、庫部郎中武士鸊、驃騎將軍張平高、李思行、李高遷、左屯衛府長史許世緒等十四人は、約して一死を免ず。武德九年十月、太宗始めて功臣の実封差第を定む。文靜は已に死す。ここにおいて裴寂に食九百戸を加え、前を通じて一千五百戸と為す。長孫無忌、王君廓、尉遅敬徳、房玄齢、杜如晦等五人、食邑一千三百戸。長孫順徳、柴紹、羅芸、趙郡王孝恭等四人、食邑一千二百戸。侯君集、張公謹、劉師立等三人食邑一千戸。李勣、劉弘基二人食邑九百戸。高士廉、宇文士及、秦叔宝、程知節四人食七百戸。安興貴、安修仁、唐儉、竇軌、屈突通、蕭瑀、封徳彝、劉義節八人、各食六百戸。銭九隴、樊興、公孫武達、李孟嘗、段志玄、龐卿惲、張亮、李薬師、杜淹、元仲文十人、各食四百戸。張長遜、張平高、李安遠、李子和、秦行師、馬三宝六人、各食三百戸。その王君廓の事は『廬江王瑗伝』に在り、安興貴・安修仁の事は『李軌伝』に在り、李子和の事は『梁師都伝』に在り、馬三宝の事は『柴紹伝』に在り。
李孟嘗、秦行師
李孟嘗は趙州平棘の人、官は右威衛大將軍・漢東郡公に至る。元仲文は洛州の人、右監門將軍・河南県公に至る。秦行師は并州太原の人、左監門將軍・清水郡公に至る。並びに事微にして録せず。余は伝する者無く、尽くここに附す。
劉世龍
劉世龍は并州晉陽の人。大業の末、晉陽の郷長と為る。高祖が太原を鎮むるや、裴寂数回これを薦め、ここにより甚だ接待せられ、また王威・高君雅の家に出入りすれども、然れども独り高祖に帰心す。義兵将に起こらんとするや、威と君雅は内に疑惑を懐き、世龍は輒ちその情を探り得て、以て高祖に白す。及び威等を誅するに及び、銀青光禄大夫を授かる。京城を平らぐるに従い、累転して鴻臚卿と為り、仍って名を義節と改む。
時に草創の始め、府蔵を傾竭して勲人に賜うも、国用足らず、義節進みて計りて曰く、「今義師数万、並びに京師に在り、樵薪貴くして布帛賤し。若し街衢及び苑中の樹を采りて樵と為し、以て布帛に易えれば、歳に数十万匹を収むること立つに致す可し。又蔵内の繒絹、匹匹軸之し、申に使ひて截り取り剩物を以て、雑費に供せば、動もて十余万段に盈つ。」高祖並びに之に従ひ、大いに其の利を収む。再び太府卿に遷り、葛国公に封ぜらる。貞観初、少府監に転じ、罪に坐して嶺南に配流せられ、尋いで欽州別駕を授けられ、卒す。
義節の従子思礼、万歳通天二年、箕州刺史と為る。思礼少くして嘗て相術を許州張憬蔵に学び、己を相して必ず刺史を歴ね、位は太師に至らんとす。箕州を授けらるるに及び、益々自ら喜び、以て太師の職は、位人臣に極まり、佐命に非ざれば以て之に致す無からんとす。洛州録事参軍綦連耀と結構し謀反を謀り、耀に謂ひて曰く、「公体に龍気有り。」耀も亦た思礼に謂ひて曰く、「公は金刀なり、合して我が輔と為るべし。」因りて相い図讖を解釈し、即ち君臣の契を定む。又た思礼に令して自ら相術を衒はしめ、見る所の人毎に、皆之を謂ひて「三品を得るに合す」とし、務めて進まんとするの士をして、之を聞きて望みに満たしめ、然る後に始めて謂ひて云く、「綦連耀に天分有り、公之に因りて以て富貴を得。」事発して獄に繫がれ、乃ち多く朝士を証引し、以て自ら免れんことを冀ふ。誅め陷れらるる所の者三十余家、耀・思礼並びに誅せらる。鳳閣侍郎李元素・夏官侍郎孫元亨・天官侍郎事を知る石抱忠・鳳閣舎人王劇・劇の兄前涇州刺史勔・太子司議郎路敬淳等、耀及び思礼と交結せしに坐し、皆死す。初め、則天河内王武懿宗を命じて思礼の獄を按ぜしむ。懿宗思礼を外に寬し、令して広く逆徒を引かしむ。而して思礼計を得たりと以為ひ、従容自若たり、嘗て相い忤へる者有らば、必ず引いて枉て誅せしむ。刑に臨むも猶外に在り、尚之を覚えず、及び衆人戮に就きて、乃ち収めて之を誅す。
趙文恪
趙文恪は、并州太原の人なり。隋末、鷹揚府司馬と為る。義師の挙るるに、右三統軍を授けらる。武徳二年、都水監に拝し、新興郡公に封ぜらる。時に大乱の後、中州馬少なく、突厥に遇ひて蕃市し牛馬を以て国用に資す。俄にして劉武周の将宋金剛来たりて太原を寇す、属城皆没す。真郷公李仲文退きて浩州を守り、城孤く兵弱し、元吉文恪を遣はし歩騎千余を率ひ助けて声援と為す。及び太原賊の陷る所と為るに及び、文恪遂に城を棄て遁り去り、是に坐して賜死し獄中にて死す。
張平高
張平高は、綏州膚施の人なり。隋末、鷹揚府校尉と為り、太原に戍り、高祖の識る所と為り、因りて謀議に参ず。義旗建つるに、軍頭と為す。京城を平ぐるに従ひ、累ねて左領軍将軍を授けられ、蕭国公に封ぜらる。貞観初、出でて丹州刺史と為り、事に坐して免ぜられ、令して右光禄大夫を以て第に還らしめ、卒す。後に羅国公に改封せらる。永徽中、追贈して潭州都督と為す。
李思行
李思行は、趙州の人なり。嘗て仇を避けて太原に在り。高祖将に義兵を挙げんとし、京城に赴きて動静を観覘せしめ、及び還り、機変を具に論じ、深く旨に称し、左三統軍を授けらる。宋老生を破るに従ひ、京城を平ぐり、累ねて嘉州刺史を授けられ、楽安郡公に封ぜらる。永徽初卒し、贈りて洪州都督と為し、謚して襄と曰ふ。
李高遷
李高遷は、岐州岐山の人なり。隋末、客遊して太原に在り、高祖常に之を左右に引く。及び高君雅・王威等を擒ふるに、高遷功有り、右三統軍を授けらる。霍邑を平ぐるに従ひ、京城を囲み、力戦して功最も優れ、累ねて左武衛大将軍に遷り、江夏郡公に封ぜられ、西麟州刺史を検校す。武徳初、突厥馬邑を寇し、朔州総管高満政救ひを請ふ、高祖高遷に令して兵を督し助けて鎮ましむ。俄にして賊兵甚だ盛んなり、高遷乃ち関を斬りて宵に遁れ、其の将士皆没し、竟に坐して除名し辺に徙す。後に佐命の功を以て、陵州刺史に拝す。永徽五年卒し、贈りて梁州都督と為す。
許世緒
許世緒は、并州の人なり。大業末、鷹揚府司馬と為る。隋の祚将に亡ぶを見て、高祖に言ひて曰く、「天道は徳を輔け、人事は能に与す、機を蹈みて発せざれば、必ず後悔を貽す。今隋政綱を為さず、天下鼎沸す、公姓図籙に当たり、名歌謡に応じ、五都の兵を握り、四戦の地に当たる。若し遂に他計無くんば、当に敗れて踵を旋めざるべからず。未だ若くは首に義旗を建て、天下の為に唱へんには、此れ帝王の業なり。」高祖甚だ之を奇とし、親顧日を厚くす。義兵起こるるに、右一府司馬を授けらる。武徳中、累ねて蔡州刺史を除かれ、真定郡公に封ぜられ、卒す。
弟洛仁も、亦た元従功臣を以て冠軍大将軍・行左監門将軍に至る。永徽初卒し、贈りて代州都督と為し、謚して勇と曰ひ、昭陵に陪葬す。
劉師立
劉師立は、宋州虞城の人なり。初め王世充の将軍と為り、親遇甚だ密なり。洛陽平ぐるに、当に誅すべし;太宗其の才を惜しみ、特ち之を免し、左親衛と為す。太宗の建成・元吉を謀るや、嘗て師立を引いて密かに其の事を籌し、或は宵より曙に達す。其の後師立は尉遅敬徳・龐卿惲・李孟嘗等九人と、同しく建成を誅するに功有り、超えて左衛率に拝す。尋いで左驍衛将軍に遷り、襄武郡公に封ぜられ、絹五千匹を賜ふ。後人師立の告げて自ら云ふ「眼に赤光有り、体に非常の相有り、姓氏又符讖に応ず」と。太宗之に謂ひて曰く、「人卿の反せんと欲すと云ふ、如何。」師立大いに懼れ、俯して対へて曰く、「臣隋朝に任ずるも、六品に過ぎず、身材駑下にて、敢へて輒く富貴を希はず。過分に非常の遇を蒙り、常に性命を以て国に許す。而して陛下功成り事立ち、臣復た位を致して将軍と為り、己を顧み躬を循るに、実に涯分を踰ゆ、臣是何の人ぞ、輒く敢へて反と云はんや。」太宗笑ひて曰く、「卿然らずを知る、此れ妄言のみ。」帛六十匹を賜ひ、臥内に延し入れて慰諭す。羅藝の反するや、長安人情騒動し、師立を以て右武候大将軍を検校し、以て非常に備ふ。及び藝平ぐるに、憲司党与を窮究し、師立交通に坐し、遂に除名せらる。又た籓邸の旧を以て、尋いで岐州都督を検校す。師立上書して吐谷渾を討たんことを請ふ、書奏未だ報へざるに、便ち使を遣はし其の部落を間ひ、利害を諭し、多く降附有り、其の地を列して開・橋の二州と為す。又た党項の首領拓拔赤辞有り、先づ吐谷渾に附き、険を負ひて自ら固め、師立亦た人を遣はして為に利害を陳べしむ、赤辞遂に其の種落を率ひ内属す。太宗甚だ之を嘉し、赤辞を拝して西戎州都督と為す。後師立母憂を以て当に職を去るべく、父老上表して留めんことを請ふ、詔して哀に赴くことを許さず、復た令して任に居らしむ。時に河西の党項破刃氏常に辺患と為り、又た新附を阻む、師立兵を総べて之を撃つ。軍未だ至らざるに、破刃氏大いに懼れ、山谷に遁る、師立之を追ひ、恤於真山に至りて還る。吐谷渾を小莫門川に於いて撃ち破り、虜獲多し。尋いで始州刺史に転ず。十四年卒し、謚して肅と曰ふ。
錢九隴
錢九隴は、元は晉陵の人である。父は陳において国境で捕らえられ、没落して皇家の隷人となった。九隴は騎射に優れ、高祖に信頼され寵愛され、常に側近に置かれた。義兵が起こると、軍功により金紫光禄大夫を授けられた。京城を攻略すると、左監門郎将に任じられた。薛仁杲・劉武周を平定したことに従い、前後の戦功により累進して右武衛将軍となった。その後、太宗に従って竇建徳を擒え、王世充を平定した。隠太子に従って魏州で劉黒闥を討ち、力戦して賊を破り、勲功が最も優れていた。累進して郇国公に封ぜられ、引き続き本官のまま苑游将軍となった。貞観初年、眉州刺史として出向し、再び転じて右監門大将軍となった。十二年、郇国公に改封され、加えて廬州の実封六百戸を賜った。まもなく卒去し、左武衛大将軍・潭州都督を追贈され、諡して勇といい、献陵に陪葬された。
樊興
樊興は、元は安陸の人である。父が罪を犯し、配流されて皇家の隷人となった。興は京城平定に従い、累進して右監門将軍に任じられた。また太宗に従って薛挙を破り、王世充・竇建徳を平定し、戦功を積み、累進して営国公に封ぜられ、物二千段・黄金三十鋌を賜った。まもなく事に坐して爵位を削られた。貞観六年、陵州の獠が反乱し、興は兵を率いてこれを討ち、左驍衛将軍に任じられた。また特進李靖に従って吐谷渾を撃ち、赤水道行軍総管となったが、遅留して軍期に赴かず、また士卒が多く死に、甲仗を失い亡くした罪で、勲功により死刑を減じられた。久しくして、累進して左監門大将軍となり、襄城郡公に封ぜられた。太宗が遼東を征した時、興が忠実で謹厳であるとして、司空房玄齢を副えさせ、京師を留守させた。俄かにまた右武候将軍を検校した。永徽初年に卒去し、左武候大将軍・洪州都督を追贈され、献陵に陪葬された。
公孫武達
公孫武達は、雍州櫟陽の人である。若い頃から膂力があり、豪侠と称された。隋において驍果であった。武徳初年、長春宮に至り太宗に謁見を請い、劉武周討伐に従い、力戦して功績が最も優れた。また王世充・竇建徳平定に従い、累進して秦王府右三軍驃騎となり、清水県公に封ぜられた。貞観初年、右監門将軍を検校し、まもなく粛州刺史に任じられた。一年余り後、突厥の数千騎と輜重一万余が粛州に侵入し、南の吐谷渾に入ろうとした。武達は二千人を率いてその精鋭と遭遇し、力戦して虜を少し退かせ、急攻して遂に大いに潰走させ、張掖河に追い落とした。また軍士に命じて上流で筏を作り兵を渡らせ、その余衆を撃ち、賊が半分渡ったところで、両岸から挟み撃ちにして、斬り殺し溺死させてほぼ全滅させた。璽書をもって慰労激励され、左監門将軍に任じられた。後にまた詔を受けて塩州の叛いた突厥を撃ち、武達は兵を率いて霊州へ向かい、追い及んだ。賊がちょうど河を渡ろうとしている時、武達が到着したのを見て、河南岸に拠った。武達は兵を率いてこれを撃ち、その渠帥可邏抜扈を斬り、余党はほとんど全滅した。進んで東萊郡公に封ぜられた。永徽年間、累進して右武衛大将軍を授けられた。卒去すると、高宗は朝を廃して哀悼し、荊州都督を追贈し、東園秘器を給され、昭陵に陪葬され、諡して壮といった。
龐卿惲
龐卿惲は、并州太原の人である。太宗に従って隠太子を討ち功績があり、累進して右驍衛将軍となり、邾国公に封ぜられた。まもなく卒去し、濮国公を追封された。
子の同善は、官は右金吾大将軍に至った。同善の子の承宗は、開元初年、太子賓客となった。
張長遜
張長遜は、雍州櫟陽の人である。隋代に里長となり、陳平定に功績があり、累進して五原郡通守となった。天下が乱れると、遂に突厥に附き、長遜を割利特勒と号した。義旗が建つと、長遜は郡を挙げて降伏し、五原太守を授けられ、まもなく豊州総管に任じられた。この時、梁師都・薛挙が突厥に兵を請い、河を渡らせようとした。長遜はこれを知り、偽りの詔書を莫賀咄設に与え、その謀りごとを知らせた。突厥はそこで師都らの使者を拒絶し、高祖はこれを賞賛した。武徳元年、詔により右武候驃騎将軍高静が始畢可汗に幣を届けることとなり、路は豊州を経由したが、ちょうど可汗が死んだため、詔により到着した場所で庫に納めることとなった。突厥はこれを聞いて大いに怒り、南渡しようとした。長遜はそこで高静を遣わして塞外に出させ、国家の賻贈の礼を申し述べさせたので、突厥は引き返した。薛挙征伐の時、長遜は命令を待たずして到着し、功績により豊州総管を授けられ、進んで巴国公に封ぜられ、錦袍と金甲を賜った。この時、事を言上する者が、長遜が長く豊州に居て、突厥と連結していると述べた。長遜は恐れ、入朝を請い、右武候将軍に任じられ、転じて息国公に封ぜられ、宮人と彩物千余段を賜った。ちょうど病気にかかり、車駕が親しくその邸宅を訪れた。竇軌が巴蜀の兵を率いて王世充を撃つ時、長遜をして益州行台左僕射を検校させ、遂州・夔州二州の総管を歴任し、在任する所全てに善政があった。貞観十一年に卒去した。
李安遠
李安遠は、夏州朔方の人である。隋の雲州刺史李徹の子である。家は財産に富み、若い頃は博徒の徒党を組んで不逞であったが、晩年に至ってようやく節を改めて書を読み、士友を敬慕した。父の爵位城陽公を襲った。王珪と親しく交わった。大業初年、珪が叔父の王頗の罪に連坐して配流に当たった時、安遠が彼のために奔走し保護して、免罪させた。後に正平令となった。義兵が絳郡を攻めた時、安遠は通守陳叔達と共に城を守って自ら防衛した。城が陥落すると、高祖は安遠と旧知の間柄であったので、馳せてその宅に至り慰撫し、引き連れて共に食事をした。右翊衛統軍に任じ、正平県公に封ぜられた。武徳元年、右武衛大将軍を授けられた。太宗の征伐に従い、特に恩沢を蒙り、戦功を積み、広徳郡公に改封された。また吐谷渾に使いし、敦睦と和好を結び、ここにおいて吐谷渾の主伏允が中国と互市を請うたのは、安遠の功績である。後に隠太子建成が密かに引き入れて党援としようとしたが、安遠は固くこれを拒絶し、これによって太宗はますます親信を加えた。貞観初年、潞州都督・懐州刺史を歴任した。歴任した所にはかなり名声と実績があったが、厳しさと急峻さに傷つき、当時の論評ではこれを軽んじた。七年に卒去し、涼州都督を追贈され、諡して密といった。十三年、遂安郡公を追封された。
史臣曰
史臣が曰く、裴寂は隋に仕えて官歴を重ね、官は宮監に至り、子女玉帛の事務を総管し、倉廩兵甲の豊富さを拠り所とし、博戯の利益を喜んで多く貪り、挙義の謀を啓くことにおいて首謀者となった。岳神に謁して福を求めたことは、初めて不逞の心を顕わにし、貴妃を留めて宿を共にしたことは、終に臣たる道を暗くした。第一の位に居ながら、三に在る規律を欠いた。高祖の旧恩を恃み、文静に極刑を招いた。終に四罪に帰したが、尚も再生を保ったのは、幸運である。文静は縦横の略を奮い起こし、締構の功を立てたが、寵辱の機微を思わず、過ぎた軽躁の行いを為し、封ぜられるに及ばずして禍いに遭ったのは、惜しいことである。凡そ佐命に関わる者、実封の順位を定め、大小漏らすことなく、賢愚自ら勧める、太宗の行賞は、明らかである。
賛に曰く、風雲初めて合し、共に智力を竭くす。勢利既に分かれ、遽かに仇敵に變ず。