卷五十六
蕭銑 杜伏威 輔公祏 沈法興 李子通 羅藝 梁師都
蕭銑
蕭銑は、後梁の宣帝の曾孫である。祖父の蕭岩は、隋の開皇の初めに隋に叛いて陳に降り、陳が滅亡すると、文帝に誅殺された。蕭銑は幼くして孤貧であり、書を傭って自ら生計を立て、母に仕えて孝行で知られた。煬帝の時、外戚として抜擢され羅川県令に任じられた。
四年、高祖は趙郡王李孝恭及び李靖に命じて巴蜀の兵を率いさせ、夔州より発し、流れに沿って下らせた。廬江王李瑗は襄州道より、黔州刺史田世康は辰州道を趣かせ、黄州総管周法明は夏口道を趣かせて、蕭銑を図らせた。大軍が将に至らんとする時、蕭銑の江州総管蓋彦挙が五州を率いて降った。またその将軍文士弘らに兵を率いさせて拒戦させたが、李孝恭と李靖は皆これを撃破し、その都に進逼した。初め、蕭銑が兵を放散させた時、自らは宿衛の兵士数千人を留め置いていた。突然、李孝恭が至ったと聞き、倉卒に兵を追い集めたが、江・嶺の南は、道里が遼遠で、相及ぶことができなかった。李孝恭は兵を縦って郭に入り、長囲を布いてこれを守った。数日後、その水城を攻克し、その舟船数千艘を獲た。その交州総管丘和・長史高士廉・司馬杜之松らは先に蕭銑を謁見しに来ていたが、兵敗を聞くと、すぐに李靖のもとに来て降った。蕭銑は自ら救兵の至らぬことを量り、その群下に言った。「天は梁を祚けず、数は滅亡に帰している。もし力屈するを待てば、必ず黎元を害するであろう。どうして私一人のために百姓を傷つけることができようか。城が未だ抜かれぬうちに、先に出降すべきである。乱兵を免れ、幸いにして衆庶を全うすることを冀う。諸人は私を失っても、君無きことを憂うるには及ばない。」そこで城を巡って号令し、守陴の者は皆慟哭した。蕭銑は太牢を以てその廟に告げ、官属を率いて緦縗の布幘を着けて軍門に詣で、言った。「当に死すべき者は蕭銑のみである。百姓は罪ある者ではない。殺掠なきを請う。」李孝恭はこれを囚え、京師に送った。蕭銑が降った後数日、江南の救兵十余万が一時に大いに至ったが、蕭銑の降伏を知り、皆李孝恭に降伏の意を送った。蕭銑が至ると、高祖はその罪を数え上げた。蕭銑は答えて言った。「隋がその鹿(帝位)を失い、英雄が競って逐った。蕭銑に天命が無かった故に、ここに至ったのである。また田横が南面したのと同様、漢朝に負うところではない。もし罪と為すならば、甘んじて鼎鑊に従う。」遂に都市で斬られ、年三十九であった。蕭銑は初めに起ってから、五年で滅んだ。
杜伏威
杜伏威は、斉州章丘の人である。若い頃は落ちぶれて、産業を治めず、家は貧しく自らを養う術がなく、しばしば壁を穿ち盗みを働いた。輔公祏とは刎頸の交わりを結んだ。公祏の姑の家は牧羊を業としており、公祏はしばしば羊を奪って伏威に与えたので、姑はこれを恨みに思い、ついに彼の盗みの事を発覚させた。郡県が捕らえようと急ぐと、伏威は公祏とともに亡命し、徒党を集めて群盗となった。時に年十六歳であった。常に諸盗を守り助け、出撃する時は先頭に立ち、引き揚げる時は最後尾を務めたので、その仲間は皆彼に服し、共に主に推戴した。
大業九年、徒党を率いて長白山に入り、賊の帥左君行に身を寄せたが、礼遇されなかったため、去って淮南を転々と掠奪し、自ら将軍と称した。時に下邳に苗海潮という者がおり、やはり徒党を集めて盗賊となっていた。伏威は公祏を使者として彼に言わせた。「今、共に隋の政治に苦しみ、それぞれ大義を起こしているが、力が分散し勢力が弱いため、常に捕らえられることを恐れている。どうして一つに合わさって強くなり、隋軍に制せられる心配をしないのか。もし公が主となることができれば、私は敬って従おう。自ら考えてその任に堪えないならば、こちらに来て命令を聞け。そうでなければ一戦して雌雄を決しよう。」海潮は恐れ、直ちにその衆を率いて伏威に帰属した。江都留守は校尉宋顥に兵を率いて討伐させた。伏威はこれと戦い、偽って敗走し、葦原の中に引き入れ、上風から火を放ち、その歩騎を沼沢地に追い込み、火が至って皆焼き殺した。海陵の賊帥趙破陣がおり、伏威の兵が少ないと聞いてこれを軽んじ、使者を遣わして伏威を呼び寄せ、力を合わせることを請うた。伏威は公祏に厳しく兵を整え外に待機させて変事に備えさせ、自ら十人の者を率い牛と酒を持って謁見した。破陣は大いに喜び、伏威を幕中に引き入れ、その酋帥を全て集めて酒を傾け大宴会を開いた。伏威は座中で破陣を斬り、その衆を併せた。これにより兵威は次第に盛んとなり、また安宜を屠った。
煬帝は右御衛将軍陳棱に精兵八千を率いて討伐させた。棱は戦おうとせず、伏威は棱に婦人の服を贈って怒らせようとし、併せて書状を送って「陳姥」と号した。棱は大いに怒り、全軍を率いて来襲した。伏威はこれを迎え撃ち、自ら陣前に出て挑戦した。棱の部将がその額に射当てた。伏威は怒り、彼を指さして言った。「汝を殺さなければ、私は終にこの矢を抜かない。」そして馬を駆けて突進した。棱の部将は走って自陣に逃げ帰った。伏威はこれに乗じて棱の陣中に突入し、大声をあげて衝撃し、向かうところ敵なく、射た者を捕らえ、彼に矢を抜かせ、それから斬り、その首を携えて再び棱の軍中に突入して奮撃し、数十人を殺した。棱の陣は大いに潰え、僅かに身一つで逃れた。勝ちに乗じて高郵県を破り、兵を率いて歴陽を占拠し、自ら総管と称し、諸将を分遣して属県を攻略させた。行くところ必ず陥落させたので、江淮の間の小盗賊は争ってこれに付き従った。伏威はかつて敢死の士五千人を選び、「上募」と号し、これを非常に厚く寵遇し、苦楽を共にした。攻戦がある時は、常に上募にこれを撃たせ、戦いが終わって検分する時、背中に傷を受けた者がいれば、直ちに殺した。退却して撃たれたからである。得た財貨は全て軍士に賞与し、戦死した者がいれば、その妻妾を殉葬させた。故に人は自ら戦い、向かうところ敵無かった。
輔公祏
闞棱
闞棱は、斉州臨済の人である。大刀を用いることに長じ、長さ一丈、両刃を施し、陌刃と称し、一たびこれを振るうごとに、数人を斃し、前に当たる者無し。伏威が江淮の地を拠有するに及んで、棱は数たび戦功有り、左将軍に署せらる。伏威の歩兵は皆群賊より出で、多く放縱なるを類とし、相侵奪する者有れば、棱は必ずこれを殺し、親故と雖も捨てる所無く、令行禁止、路に遺物を拾わず。後に伏威に従い朝に入り、左領軍将軍を拝し、越州都督に遷る。公祏が僭号するに及び、棱は軍に従いこれを討ち、陳正通と相遇す。陣まさに接せんとするに、棱は兜鍪を脱ぎて賊衆に謂いて曰く、「汝我を識らざるか。何ぞ敢えて来たりて戦わんや」と。その衆多く棱が旧時に部せし所の者なり、ここにより各々闘志無く、あるいは還りて拝する者有り。公祏の破るるや、棱の功多くを占め、頗る自ら矜るの色有り。公祏を擒えるに及び、棱を誣いて己と通謀せしとす。また杜伏威・王雄誕及び棱の家産の賊中に在る者は、合して従って原放すべきに、孝恭は乃ち皆籍没す。棱これを訴理す、孝恭に忤う有り、孝恭怒り、遂に謀反を以てこれを誅す。
王雄誕
王雄誕は、曹州済陰の人である。初め、伏威の起つや、その計を用い、屡々克獲有り、驃騎将軍に署せらる。伏威後に衆を率いて淮を渡り、海陵の賊李子通と合す。後に子通は伏威の雄武を悪み、騎をしてこれを襲わしむ、伏威重き瘡を被り馬より墮つ、雄誕これを負い、葭蘆の中に逃る。伏威復た余党を招集し、郡県を攻劫す、隋将来整またこれを撃破し、余衆を亡失す。その部将西門君儀の妻王氏は勇決にして力多く、伏威を負いて走り、雄誕は麾下の壮士十余りを率いて衛護す。隋軍追い至る、雄誕は輒ち還りてこれを防ぎ、身に数槍を被り、勇気ますます厲しく、竟に伏威を脱せしむ。時に闞棱は雄誕より年長なり、故に軍中に棱を号して大将軍と為し、雄誕を小将軍と為す。
後に伏威は輔公祏をして李子通を江都に撃たしめ、雄誕と棱を副と為さしむ、溧水に戦い、子通大敗す。公祏勝に乗じてこれを追う、却って子通に破られ、軍士皆堅壁して敢えて出でず。雄誕公祏に謂いて曰く、「子通の軍は営壘無く、且つ初勝に狃れて設備せず、若しこれを撃てば、必ず克つ」と。公祏従わず。雄誕その私属数百人を以て枚を銜み夜これを撃ち、因って順風に火を放ち、子通大敗し、走りて太湖を渡り、復た沈法興を破り、その地に居る。高祖伏威の呉・楚を拠有するを聞き、使いを遣わしてこれを諭す。雄誕衆を率いてこれを討ち、子通精兵を以て独松嶺を守る、雄誕その部将陳当を遣わし千余人を率い、その不意に出で、高きに乗り険を拠り、多く旗幟を張り、夜は則ち炬火を樹上に縛し、山沢の間に満ち佈く。子通大いに懼れ、営を焼きて走り、杭州に保つ。雄誕追撃してこれを敗り、子通を陣に擒え、京師に送る。歙州の首領汪華は、隋末本郡に拠り王を称すること十余年、雄誕軍を回してこれを撃つ。華新安洞口に出でて以て雄誕に拒ぐ、甲兵甚だ鋭し。雄誕精兵を山谷の間に伏せ、羸弱数千人を率いてこれに当たり、戦い才に合い、偽りて退き本営に帰る。華これを攻めて克つ能わず、会う日に暮れんと欲して還らんとす、雄誕の伏兵已にその洞口を拠る、華入るを得ず、窘急して面縛して降る。蘇州の賊帥聞人遂安は崑山県に拠りて所属無し、伏威また雄誕を命じてこれを攻めしむ。雄誕崑山の険隘なるを以て、力をもって勝ち難しとし、遂に単騎その城下に詣り、国の威霊を陳べ、禍福を示す、遂安感悦し、諸将を率いて出で降る。以前後の功により歙州総管を授け、宜春郡公に封ぜらる。伏威の朝に入るや、輔公祏を留めて江南を鎮めしむ、而して兵馬は雄誕に属す。公祏将に逆を為さんとし、その兵を奪い、別室に拘え、西門君儀を遣わして反計を以て諭す、雄誕曰く、「当今方に太平にし、呉王また京輦に在り、国家の威霊、遠く被らざる無し、公何ぞ族滅の事を為さんや。雄誕死有るのみ、敢えて命を聞かず」と。公祏屈すべからざるを知り、遂に縊りてこれを殺す。雄誕は将士を撫卹することに善く、皆その死力を得、城鎮を破る毎に、部下を約勒し、絲毫も犯すこと無し、故に死するの日、江南の士庶これが為に涕を流さざる者無し。高祖その節を嘉し、その子果に命じて宜春郡公の封を襲わしむ。太宗即位し、左衛大将軍・越州都督を追贈し、謚して忠と曰う。
果は、垂拱初めに官至りて広州都督、安西大都護。
沈法興
沈法興は、湖州武康の人である。父恪は、陳の特進・広州刺史。法興は、隋の大業末に呉興郡守と為る。東陽の賊帥楼世干兵を挙げて郡城を囲む、煬帝法興と太僕丞元祐をしてこれを討たしむ。俄にして宇文化及煬帝を江都に弑す、法興自ら代々南土に居り、宗族数千家、遠近に服せらるるを以て、乃ち祐の部将孫士漢・陳果仁とともに祐を坐において執り、遠近に号令す。化及を誅するを名とし、東陽より発し、行きて兵を収め、将に江都に趨かんとし、余杭郡を下し、烏程に至るに比し、精卒六万。毗陵郡通守路道德兵を率いてこれを拒ぐ、法興連和を請い、因って会盟して襲い道德を殺し、進みてその城を拠る。時に斉郡の賊帥楽伯通丹陽に拠り、化及の為に城守す、法興果仁を使い攻めてこれを陥れ、ここにより江表十余郡を拠有し、自ら江南道総管と署す。復た越王侗の立つを聞き、乃ち侗に上表し、自ら大司馬・録尚書事・天門公と称す。制を承けて百官を置き、陳果仁を司徒と為し、孫士漢を司空と為し、蒋元超を尚書左僕射と為し、殷芊を尚書左丞と為し、徐令言を尚書右丞と為し、劉子翼を選部侍郎と為し、李百薬を府掾と為す。
李子通
李子通は、東海郡丞県の人である。若い頃は貧賤で、漁猟を生業としていた。郷里に住み、白髪の老人が荷物を提げているのを見れば、必ず代わって持ってやった。性質は施し恵むことを好み、家に蓄えはなく、些細な怨みも必ず報いた。隋の大業の末、賊帥の左才相という者がおり、自ら博山公と号し、斉郡の長白山に拠った。子通はこれに帰順し、武勇の力をもって才相に重んじられた。郷人が賊に捕らえられた者がいれば、必ず全うして守った。当時、諸賊は皆残忍であったが、子通のみが仁恕を行ったので、これにより人々多くが帰順し、半年も経たぬうちに、兵は一万人に至った。才相は次第に彼を忌むようになり、子通は自ら引き去り、淮を渡って、杜伏威と合流した。まもなく隋の将来整に敗れ、子通はその余衆を擁して海陵に奔り、二万の衆を得て、自ら将軍と称した。初め、宇文化及は隋の将軍陳棱を江都太守としたが、子通は軍を率いてこれを撃った。棱は南の沈法興に救いを求め、西の杜伏威に軍を乞うた。二人はそれぞれ兵を率いて到着し、伏威は清流に屯し、法興は楊子を保ち、数十里の間を隔てた。子通の納言毛文深が計略を進言し、江南の人を募って法興の兵と偽り、夜に伏威を襲わせた。伏威は悟らず、法興が己を侵したことを恨み、また兵を遣わして法興を襲った。二人は互いに疑い、敢えて先に動く者はいなかった。子通はついに精鋭を尽くして江都を攻め落とし、陳棱は伏威のもとに奔った。子通は入って江都を占拠し、その衆をことごとく虜とし、ついに僭称して皇帝の位に即き、国号を呉と称し、年号を明政と建てた。
丹陽の賊帥楽伯通が衆一万余を率いて降伏してきたので、子通は彼を尚書左僕射に任じた。さらに進んで庱亭において法興を撃ち、その僕射蔣元超を斬り、法興は城を棄てて夜遁し、ついに晋陵の地を有した。法興の府掾李百薬を捕らえ、内史侍郎に引き立てて文翰を司らせた。法興の尚書左丞殷芊を太常卿として礼楽を掌らせた。これにより隋の郡県及び江南の人々多くが帰順した。後に伏威が輔公祏を遣わして丹陽を陥落させ、溧水に進んで屯した。子通がこれを撃つと、かえって公祏に敗れた。また糧食が尽きるに及び、子通は江都を棄て、京口を保ち、江西の地はことごとく伏威に帰した。子通はまた東に太湖へ走り、亡命散乱の者を鳩集し、二万人を得て、呉郡において沈法興を襲い、これを破り、その官属を率いて余杭に都した。東は会稽に至り、南は千嶺に至り、西は宣城に距り、北は太湖に至るまで、その地をことごとく有した。
まもなく、杜伏威がその将王雄誕を遣わして攻撃し、蘇州において大戦し、子通は敗北し、余杭に退いて守った。雄誕が進んでこれを逼迫し、城下で戦い、軍は覆滅し、子通は窮迫して降伏を請うた。伏威は彼を捕らえ、その左僕射楽伯通とともに京師に送り、その地をことごとく収めた。高祖は彼を罪とせず、宅一区、公田五頃を賜い、礼遇と賜物は甚だ厚かった。伏威が来朝した時、子通は伯通に言った、「伏威が既に来た以上、東方は未だ静かでない。我が部下の兵は、多くが江の外におる。あちらへ赴いてこれを収めれば、天下に対して大功を立てることができよう。」ついに互いに逃亡し、藍田関に至り、役人に捕らえられ、伯通とともに誅殺された。時にまた朱粲・林士弘・張善安がおり、皆江・淮の間に僭号した。
朱粲
朱粲は、亳州城父県の人である。初め県の佐史であった。大業の末、軍に従って長白山の賊を討ち、ついに集結して群盗となり、「可達寒賊」と号し、自ら迦楼羅王と称し、衆は十万余に至った。軍を率いて淮を渡り、竟陵・沔陽を屠り、後に転じて山南を掠め、郡県は守ることができず、至る所で殺戮し、生き残る者は無かった。義寧年間、招慰使馬元規がこれを撃破した。やがて余衆を収集し、兵勢はまた大いに盛んとなり、冠軍において楚帝を僭称し、年号を昌達と建て、鄧州を攻め落とし、二十万の衆を有した。粲が攻略した州県では、皆その蔵粟を発して食糧に充て、遷徙は常なく、去る時は必ず残った財物を焼き、城郭を毀ち、また農耕に努めず、劫掠を業とした。ここにおいて百姓は大いに飢え、死者は積み重なり、人々多くが共食いした。軍中が空竭し、掠奪するものが無くなると、ついに嬰児を取って蒸して食い、そこで軍士に命じて言った、「美味なるものは、人肉に過ぎるものがあろうか!ただ他国に人がいれば、我ら何を憂えようか?」すぐに配下に命じ、婦人や小児を略奪して得た者は皆これを烹り、軍士に分け与え、また諸城砦に税を課し、弱小の男女を取って兵糧を増やした。隋の著作佐郎陸従典・通事舍人顔愍楚は譴責されて左遷され、ともに南陽におり、粲は皆これを賓客として招いたが、後に飢饉に遭い、一家そろって賊に食われた。また諸城は税を恐れ、皆互いに連れ立って逃散した。顕州の首領楊士林・田瓚が兵を率いて粲に背き、諸州これに呼応し、集まってこれを攻め、淮源において大戦した。粲は敗れ、数千の兵を率いて菊潭県に奔り、使者を遣わして降伏を請うた。高祖は仮の散騎常侍段確に命じてこれを迎え労った。確は酔ったため、粲を侮って言った、「卿が人を食うと聞くが、どんな味がするか?」粲は言った、「酒を嗜む人を食えば、ちょうど糟蔵の豚肉のようだ。」確は怒り、罵って言った、「狂賊め、朝廷に入れば一介の奴隷に過ぎぬ、また人を食うことができようか!」粲は恐れ、座中で確及び従者数十人を捕らえ、王世充のもとに奔り、龍驤大将軍に任じられた。東都が平定され、彼を捕らえ、洛水のほとりで斬った。士庶はその残忍を憎み、競って瓦礫を投げてその屍を撃ち、たちまち塚のように覆った。
林士弘
張善安
張善安は、兗州方與の人である。十七歳にして早くも盗賊となり、淮南を転掠し、百余りの徒党を得た。孟譲が王世充に破られた際、その散卒が次第に帰順し、八百人を得た。廬江郡を襲撃して陥落させ、長江を渡り、豫章の林士弘に帰附した。士弘は彼を信用せず、南塘の上に営を置いた。善安はこれを恨み、士弘を襲撃し、その外郭を焼いた。後に士弘が豫章を去ると、善安は再びこれを占拠し、その地を唐に帰順させ、洪州総管に任じられた。輔公祏が反乱を起こすと、善安も兵を挙げて呼応し、公祏は彼を西南道大行台とした。安撫使李大亮が兵を率いてこれを攻撃し、両軍は水を隔てて陣を構え、大亮は禍福を説いて諭した。善安は答えて言う、「善安に背逆の心はないが、ただ将士に誤らされただけである。今、帰降しようと思うが、また死を免れないのではないかと恐れる。」大亮はこれに言う、「張総管に既に降伏の心があるなら、私も疑い阻むことはしない。」そこで単身で澗を越えて彼のもとに赴き、その陣中に入り、善安と握手して語らい、猜疑の意がないことを示した。善安は大いに喜び、降伏を承諾し、数十騎を率いて大亮の陣営に至った。大亮は彼を導き入れると、武士に命じてこれを捕らえさせ、従者は逃げ去った。その後、善安を長安に送り、公祏と通じていないと称したので、高祖は初めは手厚く遇した。公祏が敗れると、彼との往復書簡が発見され、遂に誅殺された。
羅藝
太宗が劉黒闥を撃った時、藝は本兵数万を率い、黒闥の弟什善を徐河で破り、八千人を捕虜・斬首した。翌年、黒闥が突厥を引き連れて侵入すると、藝は再び兵を率いて隠太子建成と洺州で会し、朝廷に入ることを請うた。高祖は彼を非常に厚く遇し、間もなく左翊衛大将軍に任じた。藝は自ら功が高く位が重いとして、誰にもへりくだらず、太宗の側近がかつてその陣営に至ると、藝は理由もなくこれを殴打した。高祖は怒り、官吏に引き渡したが、しばらくして釈放し、以前のように遇した。当時、突厥がたびたび寇患となったので、藝が平素から威名があり、北夷に憚られていたため、本官のまま天節軍将を兼ねて涇州を鎮守することを命じた。
太宗が即位すると、開府儀同三司に任じられたが、藝は恐れて自ら安んじず、遂に涇州で武を閲すると偽って言い、兵を召集し、密詔を奉じて兵を率いて朝廷に入ると偽称し、衆軍を率いて豳州に至った。治中趙慈皓は藝が反逆したことを知らず、馳せ出て謁見したので、藝は豳州を占拠した。太宗は吏部尚書長孫無忌、右武候大将軍尉遅敬徳に衆を率いて藝を討伐することを命じた。王師が未だ到らぬうちに、慈皓と統軍楊岌が密かに藝を撃つことを謀ったが、事が洩れ、藝は慈皓を捕らえて獄に繋いだ。楊岌は当時城外におり、変事を察知すると、急いで兵を率いてこれを攻撃し、藝は大敗し、妻子を棄て、数百騎で突厥に奔った。寧州の境界に至り、烏氏の駅を過ぎると、従者は次第に散り、その側近が藝を斬り、首を京師に伝え、市で梟首した。本姓の羅氏に復した。藝の弟の寿は、当時利州都督であったが、連座して誅殺された。先だって、曹州の女子李氏が五戒を奉じ、自ら鬼物と通じると称し、癩病の者が治療を受けに来ると多く癒え、四方に流布し、病人が遠方から至り、門には多くの車騎があった。高祖はこれを聞き、詔して京師に赴かせた。彼女は藝の家に出入りし、藝の妻孟氏に言った、「妃の骨相は貴く言い尽くせません。必ずや天下の母儀となられるでしょう。」孟氏はこれを篤く信じ、密かに藝を観察するよう命じた。李氏はまた言った、「妃の貴さは、王によるものです。王の貴い気色が現れました。十日以内に大位に昇られるでしょう。」孟氏はこれによって急いで反逆を勧め、孟氏及び李氏は共に坐して斬られた。
梁師都
梁師都は、夏州朔方の人である。代々、本郡の豪族であり、隋に仕えて鷹揚郎将となった。大業末年に罷免されて帰郷した。盗賊が群れをなして起こるに属し、師都は密かに数千人の徒党を結び、郡丞唐宗を殺し、郡を占拠して反逆した。自ら大丞相と称し、北は突厥と連合した。隋の将張世隆がこれを撃ったが、かえって敗れた。師都は兵を遣わして雕陰、弘化、延安などの郡を掠め定め、ここに於いて僭越して皇帝の位に即き、梁国と称し、年号を永隆と建てた。突厥の始畢可汗は狼頭纛を贈り、大度毗伽可汗と号した。師都はそこで突厥を引き入れて河南の地に居らせ、塩川郡を攻め破った。
劉季真
劉季真は、離石の胡人なり。父龍児、隋末兵数万を擁し、自ら劉王と号し、季真を以て太子と為す。龍児、虎賁郎将梁徳に斬らる。その衆漸く散ず。義師起こるに及び、季真弟六児と復た兵を挙げて盗と為り、劉武周の衆を引きて石州を攻め陥す。季真北に突厥に連なり、自ら突利可汗と称し、六児を以て拓定王と為す。甚だ辺患と為る。時に西河公張綸・真郷公李仲文俱に兵を以てこれに臨む。季真懼れて来降し、石州総管を授け、姓を李氏に賜い、彭城郡王に封ぜらる。季真、宋金剛の官軍と澮州に相持すること久しくして未だ決せざるを見て、遂に親しく武周に伏し、これと勢を合わす。金剛敗るるに及び、季真亡奔して高満政に奔る。尋いで為に所殺せらる。
李子和
史臣曰く
史臣曰く、蕭銑烏合の衆を聚め、鹿走の時に当たり、兵を放ちて将権を奪い、旧を殺して位定を求め、大軍奄至するに及び、束手して出で降る。宜なるかな。杜伏威勇を恃みて徒を聚め、機を見て国に帰す。或いは高祖に疑いを致すも、竟に太宗に雪がんを見る。輔公祏兵を窃みて叛と為り、王雄誕節を守りて回らず。子孫を訓うるに忠貞を以てし、士庶の流涕を感ぜしむ。子通仁を修めて衆を馭すも、終に貳を懐いて誅せらる。羅芸国に帰り功を立てるも、妖言を信じて叛と為る。善く始め令く終わる者は、鮮し。沈法興狂賊、梁師都凶人、皆覆亡に至り、殊に改悔無し。隋朝維絶するより、宇県瓜分す。小は則ち鼠窃狗偷、大は則ち鯨呑虎拠す。大唐義を挙げ、兆庶仁に帰す。高祖運瑤図に応じ、太宗天資神武、群凶席巻し、寰海鏡清す。祚永年を享け、功後代に宣る。謚して神堯・文武と曰う。豈に韙ならずや。
賛に曰く、政を失いて盗を資し、王を図りて号を僭す。真主勃興し、風駆電掃す。