旧唐書 蕭銑、杜伏威、輔公祏、沈法興、李子通、羅藝、梁師都

旧唐書

蕭銑、杜伏威、輔公祏、沈法興、李子通、羅藝、梁師都

蕭銑

蕭銑は、後梁の宣帝の曾孫である。祖父の蕭岩は、隋の開皇の初めに隋に叛いて陳に降り、陳が滅亡すると、文帝に誅殺された。蕭銑は幼くして孤貧であり、書を傭って自ら生計を立て、母に仕えて孝行で知られた。よう帝の時、外戚として抜擢され羅川県令に任じられた。

大業十三年、岳州の校尉董景珍・雷世猛、旅帥の鄭文秀・許玄徹・萬瓚・徐德基・くるわ華、沔州の人張繡らが共謀して隋に叛いた。郡県の官属や衆人は董景珍を主に推そうとしたが、景珍は言った。「私は元より寒賤の身であり、仮に名号を借りても、衆人は必ず従わないであろう。今主君を推すならば、衆望に従うべきである。羅川県令蕭銑は、梁氏の後裔であり、寛仁大度で、武皇(梁の武帝)の風がある。また私は聞く、帝王が籙を膺けるには、必ず符命があると。隋の冠帯は、皆『起梁』と号しているが、これは蕭家の中興の兆しである。今これを主君と請うのは、天に応じ人に順うことではあるまいか。」衆人はそこで人を遣わして意を告げた。蕭銑は大いに喜び、董景珍に返書して言った。「我が本国は、昔隋にあり、小をもって大に事え、朝貢に欠けることはなかった。それなのに(隋は)我が土地を貪り、我が宗廟を滅ぼした。私はこのことを痛心疾首し、恥を雪ぐことを忘れなかった。今、天が公らを啓発し、我が心事に協力させた。符節が合うが如きは、これ上玄の意ではあるまいか。私は士庶を糾合率いて、謹んで来請に従おう。」即日に数千人を集め、賊を討つと称して実は相応じようとした。潁川の賊帥沈柳生が羅川県を寇掠しに来るに遇い、蕭銑はこれを撃ったが、利あらず、そこでその衆に言った。「岳州の豪傑が首謀して起義し、私を主君に請うている。今、隋の政令は行われず、天下皆叛いている。私は独り守ろうとしても、力は自ら全うできない。かつて我が先人はかつてこの地に都した。もしその請いに従えば、必ずや梁のたすを復するであろう。柳生を召し寄せても、また我に従うであろう。」衆は皆大いに喜び、即日に自ら梁公と称し、隋の服色を改め、梁の旗幟を建てた。柳生は衆を率いてこれに帰し、車騎大將軍に拝され、衆を率いて巴陵に向かった。軍を起こして五日、遠近より投附する者数万人に及んだ。

董景珍は徐德基・郭華に州中の首領数百人を率いさせ、軍を迎えて謁見させた。蕭銑に会う前に、先ず柳生のもとを訪れた。柳生はその配下に言った。「私は先に梁公に奉じ、勲功は第一である。今、岳州の兵衆は、地位が私より上である。私が城に入れば、すぐにその下に出るであろう。徳基を殺し、その首領を人質とし、独り梁王を擁して州城を進取するに如くはない。」そこで左右とともに徳基を殺し、ようやく中軍に赴いて蕭銑に報告した。蕭銑は大いに驚き言った。「今、乱を撥さんとしているのに、突然自ら相殺する。私は汝らの主君となることはできない。」そこで歩いて軍門を出た。柳生は大いに恐れ、地に伏して罪を請うた。蕭銑はこれを責めて赦し、旧位に復することを命じた。蕭銑は兵を陳べて城に入った。董景珍は蕭銑に進言して言った。「徐徳基は丹誠を以て主君に奉じたのに、柳生は凶悖にもみだ(みだ)りにこれを殺した。これを誅せずして、何を以て政と為すことができようか。かつ彼は賊であり、凶頑なこと久しい。今、義に従うといえども、この心を改めず、同じ城に処れば、必ず変を為すであろう。もし予め図らなければ、後悔しても及ばない。」蕭銑はまたこれに従った。景珍は遂に城内で柳生を斬った。その下の将帥は皆潰散した。蕭銑はここにおいて城南に壇を築き、燔燎して天に告げ、自ら梁王と称した。異鳥の瑞祥があったため、元号を鳳鳴と建てた。義寧二年、僭って皇帝を称し、百官を署置し、全て梁の故事に準じた。偽ってその従父の蕭琮を孝靖帝と諡し、祖父の蕭岩を河間忠烈王とし、父の蕭璇を文憲王とした。董景珍を晋王に、雷世猛を秦王に、鄭文秀を楚王に、許玄徹を燕王に、萬瓚を魯王に、張繡を齊王に、楊道生を宋王に封じた。隋の将軍張鎮州・王仁壽がこれを撃ったが、勝つことができなかった。隋が滅んだと聞くと、鎮州は寧長真らとともに嶺表の諸州を率いてことごとく蕭銑に降った。九江・鄱陽には、初め林士弘が僭号していたが、やがて自ら相誅滅し、士弘は安成の山洞に逃れ、その郡もまた蕭銑に降った。その将軍楊道生を遣わして南郡を攻め陥れ、張繡に嶺表を略定させた。東は三硤に至り、南は交址を尽くし、北は漢川に拒(さえぎ)るまで、皆これに附き、勝兵四十余万を擁した。

武徳元年、都を江陵に遷し、園廟を修復した。岑文本を引きいて中書侍郎とし、機密を掌らせた。蕭銑はまた楊道生を遣わして硤州を攻撃させたが、刺史の許紹が兵を出してこれを撃破し、水に赴いて死ぬ者大半であった。高祖は詔して夔州総管趙郡王李孝恭に兵を率いてこれを討たせ、その通州・開州の二州を抜き、偽東平郡王蕭闍提を斬った。当時、諸将は横恣で、多く擅(みだ)りに殺戮を専らにしていた。蕭銑はそこで兵を罷めさせ、表面上は農営と称し、実は将帥の権力を奪ったのである。その大司馬董景珍の弟が偽将軍であったが、蕭銑がその兵を放ったことを怨み、遂に乱を謀った。事が洩れ、蕭銑に誅殺された。当時、景珍は長沙に出鎮していた。蕭銑は書を下してこれを赦し、江陵に召還しようとした。景珍は恐れ、間使を遣わして李孝恭のもとに赴き、降伏の意を伝えた。蕭銑はその齊王張繡を遣わしてこれを攻撃させた。景珍は張繡に言った。「『前年は彭越を醢(ししびしお)にし、往年は韓信を殺した』。卿はこれを見なかったのか。どうして今日、相攻むるのか。」張繡は答えず、進軍してこれを包囲した。景珍は包囲を潰して逃走したが、その麾下の者に殺された。蕭銑は張繡を尚書令としたが、張繡は勲功を恃んで驕慢に振る舞い、専恣に権力を弄んだ。蕭銑はまたこれを憎んで殺した。既に大臣が相次いで誅戮されたため、故人や辺将は皆疑懼し、多く叛く者がおり、蕭銑は再び制することができず、この故に兵勢はますます弱まった。

四年、高祖は趙郡王李孝恭及び李靖に命じて巴蜀の兵を率いさせ、夔州より発し、流れに沿って下らせた。廬江王李瑗は襄州道より、黔州刺史田世康は辰州道をおもむ(おもむ)かせ、黄州総管周法明は夏口道を趣かせて、蕭銑を図らせた。大軍が将に至らんとする時、蕭銑の江州総管蓋彦挙が五州を率いて降った。またその将軍文士弘らに兵を率いさせて拒戦させたが、李孝恭と李靖は皆これを撃破し、その都に進逼した。初め、蕭銑が兵を放散させた時、自らは宿衛の兵士数千人を留め置いていた。突然、李孝恭が至ったと聞き、倉卒に兵を追い集めたが、江・嶺の南は、道里が遼遠で、相及ぶことができなかった。李孝恭は兵を縦(はな)って郭(くるわ)に入り、長囲を布いてこれを守った。数日後、その水城を攻克し、その舟船数千艘を獲た。その交州総管丘和・長史高士廉・司馬杜之松らは先に蕭銑を謁見しに来ていたが、兵敗を聞くと、すぐに李靖のもとに来て降った。蕭銑は自ら救兵の至らぬことを量り、その群下に言った。「天は梁を祚(たす)けず、数は滅亡に帰している。もし力屈するを待てば、必ず黎元を害するであろう。どうして私一人のために百姓を傷つけることができようか。城が未だ抜かれぬうちに、先に出降すべきである。乱兵を免れ、幸いにして衆庶を全うすることを冀う。諸人は私を失っても、君無きことを憂うるには及ばない。」そこで城を巡って号令し、守陴じゅうひ(じゅうひ)の者は皆慟哭した。蕭銑は太牢を以てその廟に告げ、官属を率いて緦縗(しさい)布幘ふさく(ふさく)を着けて軍門に詣で、言った。「当に死すべき者は蕭銑のみである。百姓は罪ある者ではない。殺掠なきを請う。」李孝恭はこれを囚え、京師に送った。蕭銑が降った後数日、江南の救兵十余万が一時に大いに至ったが、蕭銑の降伏を知り、皆李孝恭に降伏の意を送った。蕭銑が至ると、高祖はその罪を数え上げた。蕭銑は答えて言った。「隋がその鹿(帝位)を失い、英雄が競って逐った。蕭銑に天命が無かった故に、ここに至ったのである。また田横が南面したのと同様、漢朝に負うところではない。もし罪と為すならば、甘んじて鼎鑊ていかくに従う。」遂に都市で斬られ、年三十九であった。蕭銑は初めに起ってから、五年で滅んだ。

杜伏威

杜伏威は、斉州章丘の人である。若い頃は落ちぶれて、産業を治めず、家は貧しく自らを養う術がなく、しばしば壁を穿ち盗みを働いた。輔公祏とは刎頸の交わりを結んだ。公祏の姑の家は牧羊を業としており、公祏はしばしば羊を奪って伏威に与えたので、姑はこれを恨みに思い、ついに彼の盗みの事を発覚させた。郡県が捕らえようと急ぐと、伏威は公祏とともに亡命し、徒党を集めて群盗となった。時に年十六歳であった。常に諸盗を守り助け、出撃する時は先頭に立ち、引き揚げる時は最後尾を務めたので、その仲間は皆彼に服し、共に主に推戴した。

大業九年、徒党を率いて長白山に入り、賊の帥左君行に身を寄せたが、礼遇されなかったため、去って淮南を転々と掠奪し、自ら将軍と称した。時に下邳に苗海潮という者がおり、やはり徒党を集めて盗賊となっていた。伏威は公祏を使者として彼に言わせた。「今、共に隋の政治に苦しみ、それぞれ大義を起こしているが、力が分散し勢力が弱いため、常に捕らえられることを恐れている。どうして一つに合わさって強くなり、隋軍に制せられる心配をしないのか。もし公が主となることができれば、私は敬って従おう。自ら考えてその任に堪えないならば、こちらに来て命令を聞け。そうでなければ一戦して雌雄を決しよう。」海潮は恐れ、直ちにその衆を率いて伏威に帰属した。江都留守は校尉宋顥に兵を率いて討伐させた。伏威はこれと戦い、偽って敗走し、葦原の中に引き入れ、上風から火を放ち、その歩騎を沼沢地に追い込み、火が至って皆焼き殺した。海陵の賊帥趙破陣がおり、伏威の兵が少ないと聞いてこれを軽んじ、使者を遣わして伏威を呼び寄せ、力を合わせることを請うた。伏威は公祏に厳しく兵を整え外に待機させて変事に備えさせ、自ら十人の者を率い牛と酒を持って謁見した。破陣は大いに喜び、伏威を幕中に引き入れ、その酋帥を全て集めて酒を傾け大宴会を開いた。伏威は座中で破陣を斬り、その衆を併せた。これにより兵威は次第に盛んとなり、また安宜を屠った。

煬帝は右御衛将軍陳棱に精兵八千を率いて討伐させた。棱は戦おうとせず、伏威は棱に婦人の服を贈って怒らせようとし、併せて書状を送って「陳姥」と号した。棱は大いに怒り、全軍を率いて来襲した。伏威はこれを迎え撃ち、自ら陣前に出て挑戦した。棱の部将がその額に射当てた。伏威は怒り、彼を指さして言った。「汝を殺さなければ、私は終にこの矢を抜かない。」そして馬を駆けて突進した。棱の部将は走って自陣に逃げ帰った。伏威はこれに乗じて棱の陣中に突入し、大声をあげて衝撃し、向かうところ敵なく、射た者を捕らえ、彼に矢を抜かせ、それから斬り、その首を携えて再び棱の軍中に突入して奮撃し、数十人を殺した。棱の陣は大いに潰え、僅かに身一つで逃れた。勝ちに乗じて高郵県を破り、兵を率いて歴陽を占拠し、自ら総管と称し、諸将を分遣して属県を攻略させた。行くところ必ず陥落させたので、江淮の間の小盗賊は争ってこれに付き従った。伏威はかつて敢死の士五千人を選び、「上募」と号し、これを非常に厚く寵遇し、苦楽を共にした。攻戦がある時は、常に上募にこれを撃たせ、戦いが終わって検分する時、背中に傷を受けた者がいれば、直ちに殺した。退却して撃たれたからである。得た財貨は全て軍士に賞与し、戦死した者がいれば、その妻妾を殉葬させた。故に人は自ら戦い、向かうところ敵無かった。

宇文化及が反乱を起こした時、伏威を歴陽太守に任命したが、伏威は受けなかった。また丹陽に移り住み、人材を登用し、大いに器械を整え、賦役を軽くし、殉葬の法を廃止した。姦盗を犯した者や、役人が貪り汚した者は、軽重を問わず皆殺した。なお越王侗に上表し、侗は伏威を東道大総管に任じ、楚王に封じた。太宗が王世充を包囲した時、使者を遣わして招いたので、伏威は降伏を請うた。高祖は使者を遣わして、伏威を東南道行台尚書令・江淮以南安撫大使・上柱国に任じ、呉王に封じ、李氏の姓を賜い、宗正の属籍に預からせ、その子徳俊を山陽公に封じ、帛五千段・馬三百匹を賜った。伏威はその将軍陳正通・徐紹宗に兵を率いて参集させた。武徳四年、その将軍王雄誕をして杭州において李子通を討たせ、これを捕らえて献上させた。また歙州において汪華を破り、江東・淮南の地をことごとく有し、南は嶺に接し、東は海に至った。まもなく太宗が劉黒闥を平定し、徐円朗を攻撃していると聞き、伏威は恐れて来朝し、太子太保に任じられ、なお行台尚書令を兼ねた。京師に留め置かれ、礼遇は非常に厚く、その位は斉王元吉の上にあり、寵愛して異例の扱いをした。初め、輔公祏が反乱を起こした時、伏威の命令であると偽ってその衆を欺いた。高祖は趙郡王孝恭にこれを討たせた。時に伏威は長安で急死した。公祏が平定された後、孝恭は公祏の反逆の言葉を入手したが、その偽りを知らず、急いでこれを上奏した。そこで伏威の名を除き、その妻子を籍没した。貞観元年、太宗はその冤罪を知り、赦免し、その官爵を回復し、公礼をもって葬った。

輔公祏

輔公祏は、斉州臨済の人である。隋末、杜伏威に従って群盗となった。初め、伏威が自ら総管と称した時、公祏を長史とした。李子通が沈法興を破った時、伏威は公祏に精鋭数千を率いて江を渡り討伐させた。子通は数万の衆を率いて公祏を防ぎ、兵鋒は非常に鋭かった。公祏は甲士千人を選び、皆に長刀を執らせ、なお千余人をその後ろに従わせ、命令して言った。「退く者は斬る。」公祏は自ら残りの衆を率い、さらにその後ろに陣取った。やがて子通が方陣を組んで前進してきた。公祏が派遣した千人隊は皆決死の覚悟で決戦し、公祏は左右の翼を展開して攻撃した。子通は大敗し、その衆数千人が降伏した。公祏はまもなく伏威とともに使者を遣わして帰順し、淮南道行台尚書左僕射に任じられ、舒国公に封じられた。初め、伏威と公祏は若い頃から親しく交わり、公祏の方が年長であったので、伏威は常に兄として仕え、軍中では皆「伯」と呼び、畏敬の念は伏威と同等であった。伏威は内心これを忌み嫌い、養子の闞棱を左将軍に、王雄誕を右将軍に任命し、公祏を僕射に推戴して、外見は尊崇しているように見せながら、密かにその兵権を奪った。公祏はその意を知り、不満を抱いて快からず、旧知の左遊仙とともに偽って道を学び辟穀して、その事から遠ざかった。武徳五年、伏威が入朝しようとした時、公祏を留めて守らせ、また雄誕に兵を統轄させて公祏の副とさせ、密かに言った。「私が京に入り、もし職を失わなければ、公祏に変事を起こさせてはならない。」その後、左遊仙が公祏を説いて反乱を起こさせた。ちょうど雄誕が家で病気にかかっていたので、公祏はその兵権を奪い、伏威が江南に戻れなくなったと偽り、書を送って兵を起こすよう命じた。そして僭称して偽の位に即き、自ら宋国と称し、陳の故都に宮殿を築いて居住した。百官を任命し、左遊仙を兵部尚書・東南道大使・越州総管とした。大いに兵甲を整え、糧食を輸送した。時に呉興の賊帥沈法興が毗陵を占拠していたが、公祏はこれを撃破した。またその将馮恵亮を博望山に駐屯させ、陳正通・徐紹宗を青林山に駐屯させて官軍を防がせた。高祖は趙郡王孝恭に命じて諸将を率い奮撃させ、大いにこれを破った。紹宗・正通は五騎で丹陽に逃げた。公祏は恐れて逃走し、会稽の左遊仙のもとに身を寄せようとしたが、武康に至り、野人に捕らえられ、丹陽に送られ、孝恭がこれを斬り、首を京師に伝送した。公祏は伏威とともに起こり、滅亡するまで凡そ十三年、江東はことごとく平定された。初め、伏威は壮士三十余人を養子とし、兵馬を分領させたが、闞棱・王雄誕のみが有名である。

闞棱

闞棱は、斉州臨済の人である。大刀を用いることに長じ、長さ一丈、両刃を施し、陌刃と称し、一たびこれを振るうごとに、数人を斃し、前に当たる者無し。伏威が江淮の地を拠有するに及んで、棱は数たび戦功有り、左将軍に署せらる。伏威の歩兵は皆群賊より出で、多く放縱なるを類とし、相侵奪する者有れば、棱は必ずこれを殺し、親故と雖も捨てる所無く、令行禁止、路に遺物を拾わず。後に伏威に従い朝に入り、左領軍将軍を拝し、越州都督に遷る。公祏が僭号するに及び、棱は軍に従いこれを討ち、陳正通と相遇す。陣まさに接せんとするに、棱は兜鍪を脱ぎて賊衆に謂いて曰く、「汝我を識らざるか。何ぞ敢えて来たりて戦わんや」と。その衆多く棱が旧時に部せし所の者なり、ここにより各々闘志無く、あるいは還りて拝する者有り。公祏の破るるや、棱の功多くを占め、頗る自ら矜るの色有り。公祏を擒えるに及び、棱を誣いて己と通謀せしとす。また杜伏威・王雄誕及び棱の家産の賊中に在る者は、合して従って原放すべきに、孝恭は乃ち皆籍没す。棱これを訴理す、孝恭に忤う有り、孝恭怒り、遂に謀反を以てこれを誅す。

王雄誕

王雄誕は、曹州済陰の人である。初め、伏威の起つや、その計を用い、屡々克獲有り、驃騎将軍に署せらる。伏威後に衆を率いて淮を渡り、海陵の賊李子通と合す。後に子通は伏威の雄武を悪み、騎をしてこれを襲わしむ、伏威重き瘡を被り馬より墮つ、雄誕これを負い、葭蘆の中に逃る。伏威復た余党を招集し、郡県を攻劫す、隋将来整またこれを撃破し、余衆を亡失す。その部将西門君儀の妻王氏は勇決にして力多く、伏威を負いて走り、雄誕は麾下の壮士十余りを率いて衛護す。隋軍追い至る、雄誕は輒ち還りてこれを防ぎ、身に数槍を被り、勇気ますます厲しく、竟に伏威を脱せしむ。時に闞棱は雄誕より年長なり、故に軍中に棱を号して大将軍と為し、雄誕を小将軍と為す。

後に伏威は輔公祏をして李子通を江都に撃たしめ、雄誕と棱を副と為さしむ、溧水に戦い、子通大敗す。公祏勝に乗じてこれを追う、却って子通に破られ、軍士皆堅壁して敢えて出でず。雄誕公祏に謂いて曰く、「子通の軍は営壘無く、且つ初勝に狃れて設備せず、若しこれを撃てば、必ず克つ」と。公祏従わず。雄誕その私属数百人を以て枚を銜み夜これを撃ち、因って順風に火を放ち、子通大敗し、走りて太湖を渡り、復た沈法興を破り、その地に居る。高祖伏威の呉・楚を拠有するを聞き、使いを遣わしてこれを諭す。雄誕衆を率いてこれを討ち、子通精兵を以て独松嶺を守る、雄誕その部将陳当を遣わし千余人を率い、その不意に出で、高きに乗り険を拠り、多く旗幟を張り、夜は則ち炬火を樹上に縛し、山沢の間に満ち佈く。子通大いに懼れ、営を焼きて走り、杭州に保つ。雄誕追撃してこれを敗り、子通を陣に擒え、京師に送る。歙州の首領汪華は、隋末本郡に拠り王を称すること十余年、雄誕軍を回してこれを撃つ。華新安洞口に出でて以て雄誕にさえぎぐ、甲兵甚だ鋭し。雄誕精兵を山谷の間に伏せ、羸弱数千人を率いてこれに当たり、戦い才に合い、偽りて退き本営に帰る。華これを攻めて克つ能わず、会う日に暮れんと欲して還らんとす、雄誕の伏兵已にその洞口を拠る、華入るを得ず、窘急して面縛して降る。蘇州の賊帥聞人遂安は崑山県に拠りて所属無し、伏威また雄誕を命じてこれを攻めしむ。雄誕崑山の険隘なるを以て、力をもって勝ち難しとし、遂に単騎その城下に詣り、国の威霊を陳べ、禍福を示す、遂安感悦し、諸将を率いて出で降る。以前後の功により歙州総管を授け、宜春郡公に封ぜらる。伏威の朝に入るや、輔公祏を留めて江南を鎮めしむ、而して兵馬は雄誕に属す。公祏将に逆を為さんとし、その兵を奪い、別室に拘え、西門君儀を遣わして反計を以て諭す、雄誕曰く、「当今方に太平にし、呉王また京輦に在り、国家の威霊、遠く被らざる無し、公何ぞ族滅の事を為さんや。雄誕死有るのみ、敢えて命を聞かず」と。公祏屈すべからざるを知り、遂に縊りてこれを殺す。雄誕は将士を撫卹することに善く、皆その死力を得、城鎮を破る毎に、部下を約勒し、絲毫も犯すこと無し、故に死するの日、江南の士庶これが為に涕を流さざる者無し。高祖その節を嘉し、その子果に命じて宜春郡公の封を襲わしむ。太宗即位し、左衛大将軍・越州都督を追贈し、謚して忠と曰う。

果は、垂拱初めに官至りて広州都督、安西大都護。

沈法興

沈法興は、湖州武康の人である。父恪は、陳の特進・広州刺史。法興は、隋の大業末に呉興郡守と為る。東陽の賊帥楼世干兵を挙げて郡城を囲む、煬帝法興と太僕丞元祐をしてこれを討たしむ。俄にして宇文化及煬帝を江都に弑す、法興自ら代々南土に居り、宗族数千家、遠近に服せらるるを以て、乃ち祐の部将孫士漢・陳果仁とともに祐を坐において執り、遠近に号令す。化及を誅するを名とし、東陽より発し、行きて兵を収め、将に江都に趨かんとし、余杭郡を下し、烏程に至るに比し、精卒六万。毗陵郡通守路道德兵を率いてこれを拒ぐ、法興連和を請い、因って会盟して襲い道德を殺し、進みてその城を拠る。時に斉郡の賊帥楽伯通丹陽に拠り、化及の為に城守す、法興果仁を使い攻めてこれを陥れ、ここにより江表十余郡を拠有し、自ら江南道総管と署す。復た越王侗の立つを聞き、乃ち侗に上表し、自ら大司馬・録尚書事・天門公と称す。制を承けて百官を置き、陳果仁を司徒と為し、孫士漢を司空と為し、蒋元超を尚書左僕射と為し、殷芊を尚書左丞と為し、徐令言を尚書右丞と為し、劉子翼を選部侍郎と為し、李百薬を府掾と為す。

法興毗陵を克したる後、江淮已南は指捴にして定むべしと謂い、専ら威刑を立て、将士に小過有れば、便ち即ち誅戮し、而言笑自若す、ここにより将士解体す。梁と称し、建元して延康と曰い、隋の官を改易し、頗る陳氏の故事に依る。是の時、杜伏威は歴陽に拠り、陳棱は江都に拠り、李子通は海陵に拠り、並びに強兵を握り、俱に江表を窺覦するの志有り。法興三面より敵を受け、軍数たび挫衄す。陳棱尋いで李子通に囲まれて江都に在り、棱窘急し、質を送りて救いを求め、法興その子綸に兵数万を領せしめてこれを救わしむ。子通衆を率いて綸を攻め、大敗し、勝に乗じて江を渡り、その京口を陥す。法興蒋元超を使い庱亭においてこれを拒がしむ、元超戦死す。法興左右数百人とともに呉郡の賊帥聞人遂安に投じ、その将葉孝辯を遣わしてこれを迎えしむ。法興中路に至りて悔い、孝辯を殺し、更に会稽に向かわんと欲す。孝辯これを覚り、法興懼れ、乃ち江に赴きて死す。初め、法興は義寧二年に兵を起こし、武徳三年に至りて滅ぶ。

李子通

李子通は、東海郡丞県の人である。若い頃は貧賤で、漁猟を生業としていた。郷里に住み、白髪の老人が荷物を提げているのを見れば、必ず代わって持ってやった。性質は施し恵むことを好み、家に蓄えはなく、些細な怨みも必ず報いた。隋の大業の末、賊帥の左才相という者がおり、自ら博山公と号し、斉郡の長白山に拠った。子通はこれに帰順し、武勇の力をもって才相に重んじられた。郷人が賊に捕らえられた者がいれば、必ず全うして守った。当時、諸賊は皆残忍であったが、子通のみが仁恕を行ったので、これにより人々多くが帰順し、半年も経たぬうちに、兵は一万人に至った。才相は次第に彼を忌むようになり、子通は自ら引き去り、淮を渡って、杜伏威と合流した。まもなく隋の将来整に敗れ、子通はその余衆を擁して海陵に奔り、二万の衆を得て、自ら将軍と称した。初め、宇文化及は隋の将軍陳棱を江都太守としたが、子通は軍を率いてこれを撃った。棱は南の沈法興に救いを求め、西の杜伏威に軍を乞うた。二人はそれぞれ兵を率いて到着し、伏威は清流に屯し、法興は楊子を保ち、数十里の間を隔てた。子通の納言毛文深が計略を進言し、江南の人を募って法興の兵と偽り、夜に伏威を襲わせた。伏威は悟らず、法興が己を侵したことを恨み、また兵を遣わして法興を襲った。二人は互いに疑い、敢えて先に動く者はいなかった。子通はついに精鋭を尽くして江都を攻め落とし、陳棱は伏威のもとに奔った。子通は入って江都を占拠し、その衆をことごとく虜とし、ついに僭称して皇帝の位に即き、国号を呉と称し、年号を明政と建てた。

丹陽の賊帥楽伯通が衆一万余を率いて降伏してきたので、子通は彼を尚書左僕射に任じた。さらに進んで庱亭において法興を撃ち、その僕射蔣元超を斬り、法興は城を棄てて夜遁し、ついに晋陵の地を有した。法興の府掾李百薬を捕らえ、内史侍郎に引き立てて文翰を司らせた。法興の尚書左丞殷芊を太常卿として礼楽を掌らせた。これにより隋の郡県及び江南の人々多くが帰順した。後に伏威が輔公祏を遣わして丹陽を陥落させ、溧水に進んで屯した。子通がこれを撃つと、かえって公祏に敗れた。また糧食が尽きるに及び、子通は江都を棄て、京口を保ち、江西の地はことごとく伏威に帰した。子通はまた東に太湖へ走り、亡命散乱の者を鳩集し、二万人を得て、呉郡において沈法興を襲い、これを破り、その官属を率いて余杭に都した。東は会稽に至り、南は千嶺に至り、西は宣城に距り、北は太湖に至るまで、その地をことごとく有した。

まもなく、杜伏威がその将王雄誕を遣わして攻撃し、蘇州において大戦し、子通は敗北し、余杭に退いて守った。雄誕が進んでこれを逼迫し、城下で戦い、軍は覆滅し、子通は窮迫して降伏を請うた。伏威は彼を捕らえ、その左僕射楽伯通とともに京師に送り、その地をことごとく収めた。高祖は彼を罪とせず、宅一区、公田五頃を賜い、礼遇と賜物は甚だ厚かった。伏威が来朝した時、子通は伯通に言った、「伏威が既に来た以上、東方は未だ静かでない。我が部下の兵は、多くが江の外におる。あちらへ赴いてこれを収めれば、天下に対して大功を立てることができよう。」ついに互いに逃亡し、藍田関に至り、役人に捕らえられ、伯通とともに誅殺された。時にまた朱粲・林士弘・張善安がおり、皆江・淮の間に僭号した。

朱粲

朱粲は、亳州城父県の人である。初め県の佐史であった。大業の末、軍に従って長白山の賊を討ち、ついに集結して群盗となり、「可達寒賊」と号し、自ら迦楼羅王と称し、衆は十万余に至った。軍を率いて淮を渡り、竟陵・沔陽を屠り、後に転じて山南を掠め、郡県は守ることができず、至る所で殺戮し、生き残る者は無かった。義寧年間、招慰使馬元規がこれを撃破した。やがて余衆を収集し、兵勢はまた大いに盛んとなり、冠軍において楚帝を僭称し、年号を昌達と建て、鄧州を攻め落とし、二十万の衆を有した。粲が攻略した州県では、皆その蔵粟を発して食糧に充て、遷徙は常なく、去る時は必ず残った財物を焼き、城郭を毀ち、また農耕に努めず、劫掠を業とした。ここにおいて百姓は大いに飢え、死者は積み重なり、人々多くが共食いした。軍中が空竭し、掠奪するものが無くなると、ついに嬰児を取って蒸して食い、そこで軍士に命じて言った、「美味なるものは、人肉に過ぎるものがあろうか!ただ他国に人がいれば、我ら何を憂えようか?」すぐに配下に命じ、婦人や小児を略奪して得た者は皆これを烹り、軍士に分け与え、また諸城砦に税を課し、弱小の男女を取って兵糧を増やした。隋の著作佐郎陸従典・通事舍人顔愍楚は譴責されて左遷され、ともに南陽におり、粲は皆これを賓客として招いたが、後に飢饉に遭い、一家そろって賊に食われた。また諸城は税を恐れ、皆互いに連れ立って逃散した。顕州の首領楊士林・田瓚が兵を率いて粲に背き、諸州これに呼応し、集まってこれを攻め、淮源において大戦した。粲は敗れ、数千の兵を率いて菊潭県に奔り、使者を遣わして降伏を請うた。高祖は仮の散騎常侍段確に命じてこれを迎え労った。確は酔ったため、粲を侮って言った、「卿が人を食うと聞くが、どんな味がするか?」粲は言った、「酒を嗜む人を食えば、ちょうど糟蔵の豚肉のようだ。」確は怒り、罵って言った、「狂賊め、朝廷に入れば一介の奴隷に過ぎぬ、また人を食うことができようか!」粲は恐れ、座中で確及び従者数十人を捕らえ、王世充のもとに奔り、龍驤大将軍に任じられた。東都が平定され、彼を捕らえ、洛水のほとりで斬った。士庶はその残忍を憎み、競って瓦礫を投げてその屍を撃ち、たちまち塚のように覆った。

林士弘

林士弘は、饒州鄱陽県の人である。大業十二年、その郷人操師乞とともに起って群盗となった。師乞は自ら元興王と号し、豫章郡を攻め落としてこれを拠り、士弘を大将軍とした。隋は持書侍御史劉子翊に命じて軍を率いて討たせたが、師乞は矢に当たって死んだ。士弘が代わってその衆を統率し、また子翊と彭蠡湖において大戦し、隋軍は敗北し、子翊はこれに死んだ。士弘は大いに勢いを振るい、兵は十余万に至った。大業十三年、虔州に移って拠り、自ら皇帝と称し、国号を楚とし、年号を太平と建て、その党の王戎を司空とした。臨川・廬陵・南康・宜春などの諸郡を攻め落とし、北は九江に至り、南は番禺に及ぶまで、その地をことごとく有した。その党の張善安は南康郡を保ち、士弘に対して二心を抱き、舟師を率いて江を下り、豫章を撃破した。士弘はなお南昌・虔・循・潮の数州の地を有していた。蕭銑が破れた後、散兵が次第に帰順してきたので、士弘は再び勢いを盛り返した。荊州総管趙王孝恭が使者を遣わして招慰すると、その循・潮二州はともに降伏してきた。武徳五年、士弘はその弟の鄱陽王薬師に命じて兵二万を率いて循州を攻囲させたが、刺史楊略と戦い、大破された。士弘は恐れて遁走し、ひそかに安城の山洞に身を潜めた。王戎もまた南昌をもって降伏し、南昌州刺史に任じられた。戎はそこで士弘を召して宅に隠し、旧兵を招誘し、さらに謀反を企てた。その年、洪州総管張善安が密かにこのことを知り、兵を発して討伐し、ちょうど士弘が死んだので、部兵は潰散し、戎は善安に捕らえられた。

張善安

張善安は、兗州方與の人である。十七歳にして早くも盗賊となり、淮南を転掠し、百余りの徒党を得た。孟譲が王世充に破られた際、その散卒が次第に帰順し、八百人を得た。廬江郡を襲撃して陥落させ、長江を渡り、豫章の林士弘に帰附した。士弘は彼を信用せず、南塘の上に営を置いた。善安はこれを恨み、士弘を襲撃し、その外郭を焼いた。後に士弘が豫章を去ると、善安は再びこれを占拠し、その地を唐に帰順させ、洪州総管に任じられた。輔公祏が反乱を起こすと、善安も兵を挙げて呼応し、公祏は彼を西南道大行台とした。安撫使李大亮が兵を率いてこれを攻撃し、両軍は水を隔てて陣を構え、大亮は禍福を説いて諭した。善安は答えて言う、「善安に背逆の心はないが、ただ将士に誤らされただけである。今、帰降しようと思うが、また死を免れないのではないかと恐れる。」大亮はこれに言う、「張総管に既に降伏の心があるなら、私も疑い阻むことはしない。」そこで単身で澗を越えて彼のもとに赴き、その陣中に入り、善安と握手して語らい、猜疑の意がないことを示した。善安は大いに喜び、降伏を承諾し、数十騎を率いて大亮の陣営に至った。大亮は彼を導き入れると、武士に命じてこれを捕らえさせ、従者は逃げ去った。その後、善安を長安に送り、公祏と通じていないと称したので、高祖は初めは手厚く遇した。公祏が敗れると、彼との往復書簡が発見され、遂に誅殺された。

羅藝

羅藝は、字を子延といい、本来は襄陽の人であるが、京兆の雲陽に寓居した。父の栄は、隋の監門将軍であった。藝は性質が桀黠で、剛愎不仁であり、攻戦に勇み、弓射に優れ、槊を弄ぶことができた。大業年間、軍功により累進して虎賁郎将に至り、煬帝は右武衛大将軍李景の節度を受け、北平で軍を督することを命じた。藝は若くして軍旅に習熟し、部隊の統率は厳粛であったが、気性に任せて暴虐を振るい、しばしば李景を凌辱し、頻繁に李景から辱めを受けたので、藝は深くこれを恨んだ。後に天下大乱に遭遇し、涿郡は物資が豊富で、さらに高句麗遠征の兵器が加わり、倉庫の穀物は山のように積まれていた。また臨朔宮には多くの珍宝が蓄えられ、数万の兵が駐屯していたが、諸賊が競って侵掠に来た。留守官の虎賁郎将趙什住、賀蘭誼、晋文衍らは皆これを防ぐことができず、ただ藝のみが出戦し、前後して賊を破ること数え切れず、威勢は日に日に重くなった。什住らは藝をかなり忌み、藝は密かにこれを知り、乱を図ろうとして、衆に宣言して言った、「我らは賊を討伐し、大いに功績がある。城中の倉庫は山のように積まれているが、その管理は留守の官にあり、貧しい者を救済する心がない。これはどうして民を思いやる意味があろうか!」この言葉でその衆を激怒させ、人々は皆怨んだ。やがて軍を返すと、郡丞が城を出て藝を迎えたので、藝は彼を捕らえて兵を陳列し、什住らは恐れて、皆来て命令を聴いた。そこで庫の物資を発して戦士に賜り、倉を開いて窮乏を賑い、境内は皆喜んだ。渤海太守唐禕ら、自分に同調しない者数人を殺し、威勢は辺境に震い、柳城、懐遠は共に帰附した。藝は柳城太守楊林甫を罷免し、郡を営州と改め、襄平太守鄧暠を総管とし、藝は自ら幽州総管と称した。宇文化及が山東に至ると、使者を遣わして藝を召したが、藝は言った、「私は隋室の旧臣であり、累代の恩に感じている。先帝が顛覆されたことは、実に痛心である。」そこで化及の使者を斬り、煬帝のために喪を発し、三日間大いに哀悼した。竇建徳、高開道も藝に使者を遣わしたが、藝は官属に言った、「建徳、開道は皆、大賊に過ぎない。化及は主君を弑逆した者であり、いずれも従うべきではない。今、唐公(李淵)が兵を起こし、人望に符している。関右を占拠し、事は成らぬことはない。私は衆を率いてこれに帰順する。決意は固まった。衆を沮み異議を唱える者は必ず誅する。」ちょうど唐の使者張道源が山東を綏輯していたので、人を遣わして意を諭すと、藝は大いに喜んだ。武徳三年、表を奉って唐に帰順し、詔により燕王に封ぜられ、李氏の姓を賜り、宗正の属籍に預けられた。

太宗が劉黒闥を撃った時、藝は本兵数万を率い、黒闥の弟什善を徐河で破り、八千人を捕虜・斬首した。翌年、黒闥が突厥を引き連れて侵入すると、藝は再び兵を率いて隠太子建成と洺州で会し、朝廷に入ることを請うた。高祖は彼を非常に厚く遇し、間もなく左翊衛大将軍に任じた。藝は自ら功が高く位が重いとして、誰にもへりくだらず、太宗の側近がかつてその陣営に至ると、藝は理由もなくこれを殴打した。高祖は怒り、官吏に引き渡したが、しばらくして釈放し、以前のように遇した。当時、突厥がたびたび寇患となったので、藝が平素から威名があり、北夷に憚られていたため、本官のまま天節軍将を兼ねて涇州を鎮守することを命じた。

太宗が即位すると、開府儀同三司に任じられたが、藝は恐れて自ら安んじず、遂に涇州で武を閲すると偽って言い、兵を召集し、密詔を奉じて兵を率いて朝廷に入ると偽称し、衆軍を率いて豳州に至った。治中趙慈皓は藝が反逆したことを知らず、馳せ出て謁見したので、藝は豳州を占拠した。太宗は吏部尚書長孫無忌、右武候大将軍尉遅敬徳に衆を率いて藝を討伐することを命じた。王師が未だ到らぬうちに、慈皓と統軍楊岌が密かに藝を撃つことを謀ったが、事が洩れ、藝は慈皓を捕らえて獄に繋いだ。楊岌は当時城外におり、変事を察知すると、急いで兵を率いてこれを攻撃し、藝は大敗し、妻子を棄て、数百騎で突厥に奔った。寧州の境界に至り、烏氏の駅を過ぎると、従者は次第に散り、その側近が藝を斬り、首を京師に伝え、市で梟首した。本姓の羅氏に復した。藝の弟の寿は、当時利州都督であったが、連座して誅殺された。先だって、曹州の女子李氏が五戒を奉じ、自ら鬼物と通じると称し、癩病の者が治療を受けに来ると多く癒え、四方に流布し、病人が遠方から至り、門には多くの車騎があった。高祖はこれを聞き、詔して京師に赴かせた。彼女は藝の家に出入りし、藝の妻孟氏に言った、「妃の骨相は貴く言い尽くせません。必ずや天下の母儀となられるでしょう。」孟氏はこれを篤く信じ、密かに藝を観察するよう命じた。李氏はまた言った、「妃の貴さは、王によるものです。王の貴い気色が現れました。十日以内に大位に昇られるでしょう。」孟氏はこれによって急いで反逆を勧め、孟氏及び李氏は共に坐して斬られた。

梁師都

梁師都は、夏州朔方の人である。代々、本郡の豪族であり、隋に仕えて鷹揚郎将となった。大業末年に罷免されて帰郷した。盗賊が群れをなして起こるに属し、師都は密かに数千人の徒党を結び、郡丞唐宗を殺し、郡を占拠して反逆した。自ら大丞相と称し、北は突厥と連合した。隋の将張世隆がこれを撃ったが、かえって敗れた。師都は兵を遣わして雕陰、弘化、延安などの郡を掠め定め、ここに於いて僭越して皇帝の位に即き、梁国と称し、年号を永隆と建てた。突厥の始畢可汗は狼頭纛を贈り、大度毗伽可汗と号した。師都はそこで突厥を引き入れて河南の地に居らせ、塩川郡を攻め破った。

武德二年、高祖は延州総管段徳操を遣わして兵を督しこれを討たしむ。師都は突厥の衆数千騎を率いて延安を寇し、野猪嶺に営す。徳操は衆寡敵せずとし、甲を按じてその鋭を挫く。後に師都の稍だ怠るを伺い、副総管梁礼に衆を率いてこれを撃たしめ、徳操は軽騎を以てその不意に出づ。師都と礼は酣戦すること久しく、徳操は多く旗幟を張り、奄かにその後ろに至る。師都大いに潰え、北に逐うこと二百余里、男女二百余口を虜う。数ヶ月を経て、師都また歩騎五千を以て来寇す。徳操これを撃ち、俘斬略んど尽きたり。劉武周の敗るるに及び、師都の大将張挙・劉旻相次いで来降す。師都大いに懼れ、その尚書陸季覧を遣わして処羅可汗を説きて曰く、「比者中原喪乱し、数国に分かれ、勢均しくして弱きを以て、北に突厥に附す。今武周既に滅び、唐国益大なり。師都甘んじて亡破に従うも、亦た次に可汗に及ぶを恐る。願わくは可汗魏の孝文の事を行い、兵を遣わして南侵せしめよ。師都請う、郷導たらんことを」と。処羅これに従う。謀りて莫賀咄設をして原州より入らしめ、泥歩設と師都をして延州より入らしめ、処羅をして并州より入らしめ、突利可汗と奚・霫・契丹・靺鞨をして幽州より入らしめ、竇建德と合し、滏口道を経て来たりて晋・絳に会わしめんとす。兵発せんとするに臨み、処羅の死に遇い、乃ち止む。高祖また徳操に令して辺兵を悉く発して進み師都を撃たしめ、その東城を抜く。師都退きて西城に拠り、また突厥の頡利可汗に求救す。頡利勁兵万騎を以て救援す。時に稽胡の大帥劉仚成衆を率いて師都に降る。師都讒を信じてこれを殺す。ここにおいて群情疑懼し、多く師都に叛き来降す。師都勢蹙し、乃ち頡利に往朝し、入寇の計を陳ぶ。ここより頻りに突厥の寇を致し、辺州略んど寧歳無し。頡利可汗の渭橋を寇するも、亦た師都の計なり。頡利政乱る。太宗師都の勢危く援孤なるを知り、書を以てこれを諭すも従わず。夏州長史劉旻・司馬劉蘭を遣わしてこれを経略せしむ。その生口を得る者有れば、輒ちはなち遣わして反間たらしめ、その君臣の計を離る。頻りに軽騎を選びてその禾稼を践ましむ。城中漸く虚しく、帰命する者相継ぎ、皆これを善遇す。ここによりて益々相猜阻す。李正宝・辛獠兒なる者有り、皆その名将たり。謀りて師都を執らんとす。事洩れて果たさず、正宝竟に来降す。貞観二年、太宗右衛大将軍柴紹・殿中少監薛万均を遣わしてこれを討たしめ、また劉旻・劉蘭をして勁卒を率い直ちに朔方東城を拠らしめてこれを逼らしむ。頡利可汗兵を遣わして来たり師都を援く。紹逆撃ちてこれを破り、進みて城下に屯す。師都の兵勢日を逐うて蹙る。その従父弟洛仁師都を斬り、紹に詣りて降る。洛仁を拝して右驍衛将軍と為し、朔方郡公に封ず。師都起りより滅ぶまで、凡そ十二歳。その地を以て夏州と為す。時にまた劉季真・李子和有り、北辺に屯拠し、劉武周・梁師都と遞に表裏と為す。

劉季真

劉季真は、離石の胡人なり。父龍児、隋末兵数万を擁し、自ら劉王と号し、季真を以て太子と為す。龍児、虎賁郎将梁徳に斬らる。その衆漸く散ず。義師起こるに及び、季真弟六児と復た兵を挙げて盗と為り、劉武周の衆を引きて石州を攻め陥す。季真北に突厥に連なり、自ら突利可汗と称し、六児を以て拓定王と為す。甚だ辺患と為る。時に西河公張綸・真郷公李仲文俱に兵を以てこれに臨む。季真懼れて来降し、石州総管を授け、姓を李氏に賜い、彭城郡王に封ぜらる。季真、宋金剛の官軍と澮州に相持すること久しくして未だ決せざるを見て、遂に親しく武周に伏し、これと勢を合わす。金剛敗るるに及び、季真亡奔して高満政に奔る。尋いで為に所殺せらる。

李子和

李子和は、同州蒲城の人なり。本姓は郭氏。大業末、左翊衛と為り、罪を犯して榆林に徙す。郡内大いに飢ゆるを見て、遂に潜かに敢死の士を引き、十八人を得、郡門を攻め、郡丞王才を執り、百姓を恤わざるを数えてこれを斬り、倉を開きて窮乏を賑う。自ら永楽王と称し、建元して正平と為し、その父を尊びて太公と為し、弟子政を以て尚書令と為し、子端・子升を左・右僕射と為す。衆二千余騎有り、南に梁師都に連なり、北に突厥の始畢可汗に附き、並びに子を送りて質と為し以て自ら固む。始畢先ず劉武周を署して定楊天子と為し、梁師都を署して解事天子と為し、また子和を以て平楊天子と為さんとす。子和固く辞して敢えて当たらず。始畢乃ち更に子和を署して屋利設と為す。武徳元年、使を遣わして帰款す。榆林郡守を授く。尋いで就きて拝して雲州総管と為し、金河郡公に封ぜらる。二年、進みて郕国公に封ぜらる。時に師都強暴なり。子和攻めらるるを慮り、尋いで兵を勒して師都の寧朔城を襲い、これを克つ。子和既に師都を絶ち、また突厥の間釁を伺い、使を遣わして以て聞かしむ。処羅可汗の候騎に獲らる。処羅大いに怒り、その弟子升を囚う。子和自ら孤危を以てす。甚だ懼る。四年、戸口を抜きて南に徙る。詔して延州の故城を以てこれに居らしむ。五年、太宗に従い劉黒闥を平ぐ。陣に陥り功有り。高祖その誠節を嘉し、姓を李氏に賜い、右武衛将軍を拝す。貞観元年、実封三百戸を賜う。十一年、婺州刺史を除き、改めて夷国公に封ぜらる。顕慶元年、累転して黔州都督と為る。年老を以て骸骨を乞う。これを許し、金紫光禄大夫を加う。麟徳九年卒す。

史臣曰く

史臣曰く、蕭銑烏合の衆を聚め、鹿走の時に当たり、兵を放ちて将権を奪い、旧を殺して位定を求め、大軍奄至するに及び、束手して出で降る。宜なるかな。杜伏威勇を恃みて徒を聚め、機を見て国に帰す。或いは高祖に疑いを致すも、竟に太宗に雪がんを見る。輔公祏兵を窃みて叛と為り、王雄誕節を守りて回らず。子孫を訓うるに忠貞を以てし、士庶の流涕を感ぜしむ。子通仁を修めて衆を馭すも、終に貳を懐いて誅せらる。羅芸国に帰り功を立てるも、妖言を信じて叛と為る。善く始め令く終わる者は、鮮し。沈法興狂賊、梁師都凶人、皆覆亡に至り、殊に改悔無し。隋朝維絶するより、宇県瓜分す。小は則ち鼠窃狗偷、大は則ち鯨呑虎拠す。大唐義を挙げ、兆庶仁に帰す。高祖運瑤図に応じ、太宗天資神武、群凶席巻し、寰海鏡清す。祚永年を享け、功後代に宣る。謚して神堯・文武と曰う。豈に韙ならずや。

賛に曰く、政を失いて盗を資し、王を図りて号を僭す。真主勃興し、風駆電掃す。