旧唐書
薛挙、李軌、劉武周、高開道、劉黒闥
薛挙
薛挙は、河東汾陰の人である。その父の汪は、金城に移り住んだ。挙は容貌が魁偉で、凶悍にして射を善くし、驍武絶倫、家産は巨万、豪猾と交結し、辺朔に雄たる。初め、金城府校尉となった。大業の末、隴西に群盗蜂起し、百姓は飢餒し、金城令の郝瑗は、数千人を募り、挙に討捕させた。郡中で甲を授け、吏人は皆集まり、酒を置いて士を饗した。挙はその子の仁杲及び同謀者十三人と、座中で瑗を劫し、反者を収捕すると偽称し、兵を発して郡県官を囚え、倉を開いて貧乏を賑った。自ら西秦霸王と称し、建元して秦興とし、仁杲を斉公に封じ、少子の仁越を晋公に封じた。宗羅睺という者がおり、先に党を聚めて群盗となり、ここに至って衆を帥いてこれに会し、義興公に封ぜられ、その余は皆次第に封拝された。官を掠め馬を収め、群盗を招集し、兵鋒は甚だ鋭く、至る所皆下った。隋の将の皇甫綰は兵一万を屯せしむるに枹罕にあり、挙は精鋭二千人を選んでこれを襲い、綰軍と赤岸で遇い、兵を陳べて未だ戦わず、俄かに風雨暴至す。初め、風は挙の陣に逆い、而して綰はこれを撃たず、忽ち風返り、正に綰の陣に逆い、気色昏昧し、軍中擾乱す。挙は策馬して先に登り、衆軍これに従い、隋軍大潰し、遂に枹罕を陥す。時に羌の首長の鐘利俗は兵二万を擁して岷山界にあり、尽く衆を以て挙に降り、兵遂に大いに振う。仁杲を進めて斉王とし、東道行軍元帥を授け、仁越を晋王とし、河州刺史を兼ね、羅睺を義興王とし、以て仁杲を副う。兵を総べて地を略し、又た鄯・廓の二州を克ち、数日の間に、尽く隴西の地を有し、衆は十三万に至る。
十三年秋七月、挙は蘭州に僭号し、妻の鞠氏を皇后とし、母を皇太后とし、墳塋を起し、陵邑を置き、廟を城南に立てた。その月、挙は兵数万を陳べ、出でて墓を拝し、礼畢りて大会す。仁杲は兵を進めて秦州を囲む。仁越の兵は剣口に趨き、河池郡に至るも、太守の蕭瑀が拒退す。挙はその将の常仲興に命じて河を渡り李軌を撃たしむるに、軌の将の李贇と昌松で大戦し、仲興敗績し、全軍軌に陥る。及び仁杲が秦州を克つと、挙は蘭州より遷都す。仁杲を遣わして軍を引き扶風郡を寇すも、汧源の賊帥の唐弼が衆を率いてこれを拒ぎ、兵進むことを得ず。初め、弼は扶風に起ち、隴西の李弘芝を立てて天子とし、徒十万有り。挙は使を遣わして弼を招くに、弼は弘芝を殺し、軍を引いて挙に従う。仁杲は弼の備え弛むに因り、これを襲破し、併せてその衆を有し、弼は数百騎を以て遁れて免る。挙の勢い益々張り、軍号三十万、将に京師を図らんとす。会に義兵関中を定むるに、遂に留まって扶風を攻む。太宗師を帥いて討ちこれを敗り、首数千級を斬り、隴坻まで奔を追いて還る。挙又た太宗の隴を逾えてこれを追うを懼れ、乃ちその衆に問いて曰く、「古来天子に降る事有りや否や」と。偽黄門侍郎の褚亮曰く、「昔、越帝の趙佗は卒に漢祖に帰し、蜀主の劉禅も亦た晋朝に仕え、近代の蕭琮は、今に至る猶貴し。禍を転じて福と為すは、古よりこれ有り」と。その衛尉卿の郝瑗趨りて進みて曰く、「皇帝問いを失す。褚亮の言、又何ぞ悖れるや。昔、漢祖は屡敗績を経、蜀の先主は亟に妻子を亡くす。戦の利害、何れの代にか之無からん。安んぞ一戦捷からずして、亡国の計と為さんや」と。挙も亦たこれを悔い、答えて曰く、「聊かこの問いを発し、君等を試みしのみ」と。乃ち厚く瑗を賞し、引いて謀主と為す。瑗又た挙を勧めて梁師都と連結し、共に声勢と為し、厚く突厥に賂し、その戎馬を餌とし、合従併力し、進んで京師を逼らんとす。挙その言に従い、突厥の莫賀咄設と謀りて京師を取らんとす。莫賀咄設は兵を以てこれに随うを許し、期日に日有り。会に都水監の宇文歆が突厥に使するに、歆は莫賀咄設を説き、その出兵を止めしむ、故に挙の謀行わず。
武徳元年、豊州総管の張長遜が進みて宗羅睺を撃つに、挙は悉く衆を以て来援し、軍は高墌に屯し、兵を縦して虜掠し、豳・岐の地に至る。太宗又た衆を率いてこれを撃ち、軍は高墌城に次す。その糧少なるを度り、意は速戦に在り、乃ち深溝堅壁を命じ、以てその師を老いさせんとす。未だ戦うに及ばず、会に太宗不豫、行軍長史の劉文静・殷開山が高墌の西南に兵を観んことを請い、衆を恃みて備えを設けず、挙の兵に掩い乗せられその後を襲わる。太宗これを聞き、その必ず敗るるを知り、遽に書を与えてこれを責む。未だ至らざるに、両軍合戦し、竟に挙の為に敗れ、死者十の五六、大将の慕容羅睺・李安遠・劉弘基皆陣に陥る。太宗は京師に帰り、挙の軍は高墌を取り、又た仁杲を遣わして進み寧州を囲ます。郝瑗、挙に言いて曰く、「今、唐兵新たに破れ、将帥並びに擒られ、京師騒動す。乗勝して直ちに長安を取るべし」と。挙これを然りとす。発せんと臨みて挙疾え、巫を召してこれを視しむるに、巫は唐兵が祟りと為すと言う。挙これを悪み、未だ幾ばくもせずして死す。挙は毎に陣を破るに、獲る所の士卒は皆これを殺し、人を殺すに多く舌を断ち、鼻を割り、或いは碓に搗く。その妻の性また酷暴にして、好んでその下を鞭撻し、人の痛みに勝えずして地に宛転するを見れば、則ちその足を埋め、才く腹背を露わしてこれを捶つ。ここにより人心附かず。仁杲代わってその衆を董む。偽りて挙を武皇帝と謚す。未だ葬らざるに仁杲滅ぶ。
子 薛仁杲
仁杲は、挙の長子なり。力多く騎射を善くし、軍中において万人敵と号せらる。然れども至る所多く人を殺し、その妻妾を納る。庾信の子の立を獲て、その降らざるを怒り、猛火の上に磔にし、漸く割きて以て軍士に啖わしむ。初め、秦州を抜くに、富人を悉く召し倒懸し、以て醋を鼻に灌ぎ、或いはその下竅に杙して、金宝を求む。挙は毎にこれを誡めて曰く、「汝の智略は縦横、足りて我が家事を弁ずるに、而して苛虐に傷き、物に恩無し。終に当に我が宗社を覆さん」と。挙死し、仁杲は折墌城に立ち、諸将帥と素より多く隙有り、及び位を嗣ぐに、衆咸く猜懼す。郝瑗は挙を哭し悲思し、病に因り起たず、ここより兵勢日衰す。
劉文静が挙に敗れて後、高祖は太宗に命じ諸軍を率いて仁杲を撃たしむ。師は高墌に次すも、堅壁して動かず。諸将咸く戦を請うも、太宗曰く、「我が士卒は新たに敗れ、鋭気猶少なし。賊は勝ちを以て自ら驕り、必ず軽敵して闘いを好む。故に且く壁を閉じて以てこれを折らん。その気衰うるを待ちて後に奮撃せば、一戦にして破るべし。これ万全の計なり」と。乃ち軍中に令して曰く、「敢えて戦を言う者は斬る」と。相持すること久し。仁杲は勇にして謀無く、兼ねて糧饋続かず、将士稍く離る。その内史令の翟長孫、その衆を以て来降し、仁杲の妹婿の偽左僕射の鐘俱仇は河州を以て国に帰す。太宗その撃つべきを知り、将軍の龐玉を遣わして賊将の宗羅睺を浅水原に撃たしむ。両軍酣戦す。太宗は勁兵を以て賊の意表に出で、奮撃して大いにこれを破る。勝に乗じて進みその折墌城に薄る。仁杲窮蹙し、偽百官を率いて門を開き降る。太宗これを納る。王師は旅を振い、仁杲を以て京師に帰し、その首帥数十人及び皆これを斬る。挙父子相継ぎて偽位より滅に至るまで、凡そ五年、隴西平ぐ。
李軌
李軌は字を處則といい、武威郡姑臧の人である。機知に富み弁舌に長け、書物を広く読み、家は財産に富み、貧窮を救い困窮を助けたので、人々も彼を称えた。大業の末年、鷹揚府司馬となった。時に薛挙が金城で乱を起こすと、李軌は同郡の曹珍・關謹・梁碩・李贇・安修仁らと謀って言った、「薛挙は残暴であり、必ず侵攻して来よう。郡の官は凡庸で臆病であり、これを防ぐ術はない。今こそ心を一つにして力を合わせ、河右を保ち拠り、天下の動静を見守るべきである。どうして人手に縛られ、妻子を離散させることがあろうか」と。そこで共に兵を挙げることを謀ったが、皆互いに譲り合い、主となる者はいなかった。曹珍が言うには、「常に図讖に『李氏が王となる』と聞く。今、李軌が謀議の中にいる。これこそ天命ではなかろうか」と。遂に拝賀し、推して主と為した。李軌は修仁に命じて夜に諸胡を率いて内苑城に入り、旗を立てて大声で呼ばせ、李軌は城郭の下で衆を集めてこれに応じ、隋の虎賁郎将謝統師・郡丞韋士政を捕らえて縛った。李軌は自ら河西大涼王と称し、元号を安楽と建て、官属を任命し、全て開皇の故事に倣った。初め、突厥の曷娑那可汗が衆を率いて内属し、弟の闕達度闕設に部落を領させて会寧川中にいたが、二千余騎を有し、この時に至って自ら可汗と称し、李軌に降って来た。
武德元年の冬、李軌は尊号を僭称し、その子の伯玉を皇太子とし、長史の曹珍を左僕射とした。關謹らは議して隋の官人を皆殺しにし、その家産を分けようとしたが、李軌は言った、「諸君は私を主に推し立てた以上、私の処分に従わねばならぬ。義兵を起こすのは、火災を救う意図である。今、人を殺して物を取るのは、狂った賊である。このような計画を立てて、どうして成功を求められようか」と。そこで統師を太僕卿に、士政を太府卿に任命した。薛挙が兵を遣わして李軌を侵すと、李軌はその将の李贇を遣わして昌松でこれを撃破し、二千の首級を斬り、その衆を全て虜にしたが、再び議してこれを放還しようとした。李贇が李軌に言うには、「今、力を尽くして戦いに勝ち、賊兵を捕虜にしたのに、またこれを放ち帰らせ、敵に資するのは、皆殺しにするに如かぬ」と。李軌は言った、「そうではない。もし天命があれば、自ずとその主を擒にするであろう。この輩の士卒は、終には我がものとなる。もし事が成らなければ、これを留めておいて何の益があろうか」と。遂にこれを遣わした。間もなく、張掖・燉煌・西平・枹罕を攻め落とし、河西五郡の地を全て有した。
その年、李軌はその吏部尚書の梁碩を殺した。初め、李軌が挙兵した時、梁碩は謀主となり、非常に智略があり、衆は皆彼を畏れた。梁碩は諸胡の種族部落が繁盛しているのを見て、密かに李軌に警戒すべきことを勧めたので、戸部尚書の安修仁とこれによって隙が生じた。また李軌の子の仲琰は恨みを抱き、言葉や表情に現れたので、修仁はこれに乗じて梁碩の罪をでっち上げ、更に讒言して中傷し、謀反を企てていると云ったので、李軌は命じて毒薬を持たせてその邸宅で殺させた。この後、旧来の者たちは多く疑い恐れ、腹心の臣はこれより次第に離れていった。時に高祖は薛挙を討とうとしていたので、使者を密かに涼州に遣わして李軌と結び、璽書を下し、彼を従弟と呼んだ。李軌は大いに喜び、その弟の懋を入朝させ、地方の産物を献上させた。高祖は懋を大将軍に任じ、涼州に帰還させた。また鴻臚少卿の張侯徳に節を持たせ、冊命して涼州総管とし、涼王に封じ、羽葆鼓吹一部を与えた。李軌は群僚を召して朝廷で議して言った、「今、私の従兄(高祖)が図籙を受け、京邑を占拠している。天命は知るべきである。一姓で競って帝位に立つべきではない。今、帝号を除いて冊命を受けるのはどうか」と。曹珍が進み出て言うには、「隋が天下を失い、英雄が競い逐い、王号を称し帝号を称え、鼎の足のように並び立って瓜分した。唐国は自ら関中を占拠し、大涼は自ら河右に処する。既に天子となっているのに、どうして人の官爵を受けようか。もし小国が大国に仕えようとするなら、蕭察の故事に倣い、自ら梁帝と称して周に臣と称すべきである」と。李軌はこれに従った。
二年、その尚書左丞の鄧曉を使者に随行させて入朝させ、上表して皇従弟大涼皇帝臣軌と称したが、官職は受けなかった。時に胡の巫が彼を惑わして言うには、「上帝が玉女を天から降らせるであろう」と。そこで兵を徴発して台を築き、玉女を待ったので、費やすところ多く、百姓はこれを憂いた。また凶年に属し、人々が互いに食い合う有様であったので、李軌は家財を傾けてこれを救済したが、私財は尽き果て、行き渡らなかった。また倉を開いて粟を与えようとし、衆を召してこれを議した。曹珍らが答えて言うには、「国は人を以て本と為す。本が既に立たなければ、国は傾き危うくなる。どうしてこの倉粟を惜しんで、坐して百姓の死を見ていられようか」と。その旧来の者たちは皆、粟を与えるのが便利であると言った。謝統師らは隋の旧官人で、李軌に捕らえられた者たちであり、任用されていたが、心情はなおも服従していなかった。常に群胡と結び、朋党を引き入れ、李軌の旧臣を排斥し、この大飢饉に乗じて、その衆を離反させようとした。そこで曹珍を罵って言うには、「百姓の飢えている者は元より弱い者である。勇壮の士は終に困窮することはない。国家の倉粟は不慮の事態に備えるべきもので、どうしてこれを散じて弱小の者に供することができようか。僕射(曹珍)がもし人情に媚びるなら、全く国家の計略ではない」と。李軌はこれを然りとし、これによって士民は怨み憤り、多くは彼に叛こうとした。
初めに、安修仁の兄の興貴は先に長安におり、上表して涼州に赴き李軌を招慰することを請うた。高祖は言った、「李軌は河西の地を拠り、吐谷渾と友好を結び、突厥に援けを結び、兵を興して討ち撃つにも、なお難しと為す。まして単なる使者でどうして至らしめられようか」。興貴は答えて言った、「李軌は凶暴で強く、誠に聖旨の如くでございます。今もし逆順を以て諭し、禍福を以て明らかにすれば、彼は固く拠り遠きを恃み、必ずや従わないでしょう。何となれば、臣は涼州において、代々豪族として声望があり、凡そその士庶は、靡いて依附しない者はありません。臣の弟は軌に信任され、枢密を職とする者は数十人、これをもって隙を窺い図るは、反掌よりも易く、成らざることはありません」。高祖はこれに従った。興貴が涼州に至ると、軌は左右衛大將軍を授け、また自ら安んずる術を問うた。興貴はこれを諭して言った、「涼州は僻遠にして、人物凋残し、勝兵は余り十万あるも、開く地は千里に過ぎず、既に険固無く、また蕃戎に接し、戎狄は豺狼、我が族類に非ず、此れにして久しうべくば、実に用いるに疑わし。今大唐は京邑を拠有し、中原を略定し、攻むれば必ず取り、戦えば必ず勝つ、是れ天の啓く所、人力に非ず。今もし河西の地を挙げて質を委ねてこれに事えれば、即ち漢家の竇融も、未だ比ぶるに足らざるべし」。軌は黙然として答えず、久しくして、興貴に謂いて言った、「昔、呉王濞は江左の兵を以て、なお己れを『東帝』と称せり。我れ今、河右の衆を以て、豈に『西帝』と為さざらんや。彼は強大なりと雖も、其れ帝たる我れを如何にせん。君は唐と計り、我を誘引するは、彼の恩遇に酬いるのみ」。興貴は懼れ、乃ち偽って謝して言った、「窃かに聞く、富貴は故郷に在らず、衣錦して夜行するが如しと。今、合家の子弟並びに信任を蒙り、栄慶は実に一門に在り、豈に敢えて心を興し、更に他の志を懐かんや」。興貴は軌の動かし難きを知り、乃ち修仁らと潜かに謀り、諸胡の衆を引き起こして兵を挙げ軌を図り、将に其の城を囲まんとす。軌は歩騎千余を率いて城を出でて拒戦す。先に、薛挙の柱国奚道宜有り、羌兵三百人を率いて軌に亡奔し、既に其の刺史を許すも授けず、礼遇また薄く、深く憤怨を懐く。道宜は率いる所の部衆を以て共に修仁と軌を撃ち、軌は敗れて城に入り、兵を引きて陴に登り、外の救い有るを冀う。興貴は宣言して言う、「大唐我を使わして李軌を殺さしむ、従わざる者は三族に誅及すべし」。ここにおいて諸城の老幼皆出でて修仁に詣る。軌は嘆いて言う、「人心去れり、天我を亡ぼすか」。妻子を携えて玉女台に上り、酒を置いて別れを為す。修仁は之を執りて聞かしむ。時に鄧曉は尚長安に在り、軌の敗るるを聞き、舞蹈して慶びを称す。高祖は之を数えて言う、「汝は人に質を委ね、使としてここに来り、軌の淪陷するを聞きて、曾て蹙める容無く、苟くも朕の情を悦ばしめ、妄りに慶躍を為す。既に李軌に心を留むること能わず、何ぞ朕に節を尽くすことを能わんや」。竟に廃して歯せず。軌は尋いで誅せらる。起りてより滅ぶまで三載、河西悉く平ぐ。詔して興貴に右武候大将軍・上柱国を授け、涼国公に封じ、実封六百戸を食み、帛万段を賜う。修仁に左武候大将軍を授け、申国公に封じ、並びに田宅を給し、実封六百戸を食ます。
劉武周(附 苑君璋)
劉武周は、河間景城の人である。父の匡は、家を馬邑に徙す。匡は嘗て妻の趙氏と夜に庭中に坐す。忽ち一物を見る、状は雄鶏の如く、光を流して地を燭し、飛んで趙氏の懐に入る。衣を振るうも見る所無く、これにより娠あり、遂に武周を生む。驍勇にして射を善くし、豪侠と交通す。其の兄の山伯は毎に之を誡めて言う、「汝は交遊を択ばず、終に吾が族を滅ぼすべし」。数えて之を詈辱す。武周は因りて家を去り洛に入り、太僕楊義臣の帳内となり、遼東を征募し、軍功を以て建節校尉を授かる。家に還り、鷹揚府校尉と為る。太守王仁恭は其の州里の雄たるを以て、甚だ親遇せられ、毎に虞候を率いて閣下に屯せしむ。因りて仁恭の侍児と私通し、事の洩るるを恐れ、又天下已に乱るるを見て、陰かに異計を懐き、乃ち郡中に宣言して言う、「今、百姓飢餓し、死人野に相枕す。王府尹は倉を閉じて恤れまず、豈に百姓を憂うるの意か」。これをもって衆人を激怒せしめ、皆発憤怨す。武周は衆心の動揺するを知り、因りて疾を称して起たず、郷閭の豪傑多く来たりて候問す。遂に牛を椎き酒を縦し大言して言う、「盗賊此の如く、壮士志を守り、並びに溝壑に死す。今、倉内の積粟皆爛ず、誰か能く我とともに之を取らん」。諸豪傑皆諾す。同郡の張万歳ら十余人与に仁恭の視事を候い、武周は上謁し、万歳は後より入り、仁恭を郡庁に斬り、其の首を持ち出でて郡中に徇う。敢えて動く者無し。ここにおいて廩を開き以て窮乏を賑い、檄を境内に馳せ、其の属城皆之に帰す。兵万余を得る。
武周は自ら太守と称し、使を遣わして突厥に附す。隋の雁門郡丞陳孝意・虎賁将王智辯、兵を合して之を討ち、其の桑乾鎮を囲む。会に突厥大いに至り、武周と共に智辯を撃つ。隋師敗績す。孝意は奔り還りて雁門す。部人之を殺し、城を以て武周に降る。ここにおいて楼煩郡を襲い破り、進みて汾陽宮を取り、隋の宮人を獲て以て突厥に賂し、始畢可汗は馬を以て之に報い、兵威益々振う。及び定襄を攻め陥し、復た馬邑に帰る。突厥は武周を立てて定楊可汗と為し、狼頭纛を遺す。因りて僭って皇帝と称し、妻の沮氏を皇后と為し、建元して天興と為す。衛士の楊伏念を左僕射と為し、妹婿の同県人苑君璋を内史令と為す。先に、上谷の人宋金剛、衆万余有り、易州の界に在りて群盗と為り、定州の賊帥魏刀児と相表裏す。後、刀児は竇建德に滅ぼされ、金剛之を救う。戦いに敗れ、余衆四千人を率いて武周に奔る。武周は金剛の兵を用いるに善きを聞き、之を得て甚だ喜び、号して宋王と為し、軍事を委ね、家産を中分して之に遺す。金剛も亦深く自ら結納し、遂に其の妻を出し、武周の妹を聘せんことを請う。又、武周を説きて晋陽に入り図り、南向して以て天下を争わしむ。武周は金剛に西南道大行台を授け、兵二万人を率いて并州を侵さしめ、軍を黄虵鎮にす。又、突厥の衆を引き、兵鋒甚だ盛んにして、榆次県を襲い破り、進みて介州を陥す。高祖は太常少卿李仲文を遣わし衆を率いて之を討たしむ。賊に執せられ、一軍全く没す。仲文は後に逃れ還るを得。復た右僕射裴寂を遣わして之を拒がしむ。戦い又敗績す。武周進みて逼り、総管斉王元吉は城を委ねて遁走す。武周は遂に太原を拠る。金剛を遣わして晋州を進攻せしむ。六日、城陥つ。右驍衛大将軍劉弘基、賊に没す。進みて澮州を取り、属県悉く下る。
夏県の人呂崇茂は県令を殺し、自ら魏王と号して、賊に応じた。河東の賊帥王行本はまた密かに金剛と連和し、関中は大いに驚いた。高祖は太宗に命じて兵を増やし進撃討伐させ、柏壁に駐屯させ、相持すること久しかった。また永安王孝基・陝州総管於筠・工部尚書獨孤懷恩・内史侍郎唐儉に命じて夏県を攻め取らせたが、陥落させることができず、軍を城南に置いた。崇茂は賊将尉遅敬徳とともに孝基の営を襲撃して破り、諸軍はともに陥落し、四将はともに没した。敬徳は澮州に帰還したが、太宗は美良川で邀撃し、これを大破した。敬徳は賊将尋相とともにまた蒲州の王行本を救援したが、太宗はふたたび蒲州でこれを破った。高祖はみずから蒲津関に行幸し、太宗は柏壁から軽騎で行在所の高祖に謁見した。宋金剛はついに絳州を包囲した。太宗が帰還すると、金剛は恐れて退却した。武周はふたたび浩州の李仲文を攻撃したが、たびたび戦って皆敗れ、また糧秣の輸送が続かず、賊の兵士は大いに飢えた。ここにおいて金剛はついに逃走した。太宗はふたたび雀鼠谷で金剛に追いつき、一日に八度戦い、皆これを破り、数万人を捕虜斬首し、輜重千余両を獲得した。金剛は介州に逃げ込んだ。王師はこれを追い詰めた。金剛にはなお二万の兵がおり、その西門から出て、城を背にして陣を布いた。太宗は諸将と力を合わせて戦いこれを破り、金剛は軽騎で遁走した。その驍将尉遅敬徳・尋相・張万歳はその精兵を収め、介州及び永安を挙げて降伏した。武周は大いに恐れ、五百騎を率いて并州を棄て北走し、乾燭谷から突厥に亡命した。金剛はふたたびその逃亡散乱した兵を収集して官軍に抵抗しようとしたが、人これに従う者はなく、百余騎とともにふたたび突厥に奔った。太宗は進軍して并州を平定し、故地をことごとく回復した。まもなく、金剛は突厥に背いて逃亡し、上谷に帰還しようとしたが、追撃の騎兵に捕らえられ、腰斬に処せられた。武周はまた馬邑に帰還しようと謀ったが、事が洩れ、突厥に殺された。武周が初めに挙兵してから死ぬまで、合わせて六年であった。初め、武周が兵を率いて南侵したとき、苑君璋が説いて言った、「唐主は一州の兵を挙げて三輔の地を平定し、郡県は影のごとく付き従い、向かうところ風靡するがごとし。これは固より天命であり、どうして人謀と言えようか。かつ并州以南は地形険阻であり、もし孤軍を懸けて深入りすれば、後続が続かないことを恐れる。突厥と連和し、唐朝と結んで援けとり、南面して孤を称するのが、足るべき上策である。」武周は聞き入れず、君璋を遣わして朔州を守らせ、ついに汾・晋を侵した。敗れた後、泣いて君璋に言った、「君の言葉を用いなかったことを恨む。ここに至るまでになったのだ。」
武周が死ぬと、突厥はまた君璋を大行臺とし、その余衆を統率させ、なお郁射設に命じて兵を監督させて鎮守を助けさせた。高祖は使者を遣わしてこれを諭した。君璋の部将高満政が君璋に言った、「夷狄は礼儀なく、もとより人類にあらず。どうして北面してこれに仕えようか。突厥をことごとく殺して唐朝に帰するに如くはない。」君璋は従わず、満政は人心に因って夜に君璋を脅迫し、君璋は突厥に亡命した。満政はついに城を挙げて降伏し、朔州総管に任じられ、栄国公に封ぜられた。
翌年、君璋はふたたび突厥を引き連れて馬邑を攻撃し、満政はこれに死した。君璋はその党をことごとく殺して去り、退いて恒安を守った。君璋の統率する部衆は次第に離散し、勢い窮まって降伏を請うた。高祖はこれを許し、使者を遣わして金券を賜った。ちょうど突厥の頡利可汗がふたたび召し寄せたので、君璋は躊躇して決断できなかった。その子孝政が言った、「劉武周は十分な殷鑑である。今すでに唐に降りながら、また頡利に帰すれば、滅亡への道を取ることになる。糧食の備蓄はすでに尽き、人心はことごとく離れている。もしさらに遅留すれば、変は肘腋に生じるであろう。」恒安の人郭子威が君璋を説いて言った、「恒安の地は王者の旧都であり、山川の形勝は十分に険固たりうる。突厥はまさに強盛で、我が唇歯となる。この堅城を拠り、天下の変を観るに足る。どうして人に降らんと欲するのか。」君璋はその計策をよしとし、ついに我が行く人(使者)を捕らえて突厥に送り、突厥と合軍して太原の北境を寇した。君璋はふたたび頡利の政が乱れているのを見て、ついに率いる部衆を挙げて降伏した。安州都督に任じられ、芮国公に封ぜられ、実封五百戸を賜った。
高開道
高開道は滄州陽信の人である。若いとき煮塩をして自給し、勇力があり、走って奔馬に及んだ。隋の大業の末、河間の人格謙が豆子{{PUA|〓}}に兵を擁した。開道はこれに従い、将軍に任じられた。後に謙が隋の軍に滅ぼされると、開道はその党百余りとともに海曲に亡匿した。ふたたび出て滄州を掠め、数百人を招集し、北に城鎮を掠め、臨渝から懐遠に至るまで、ことごとくこれを破り、その衆をことごとく有した。武徳元年、隋の将李景が北平郡を守った。開道は兵を率いてこれを包囲したが、連年陥落させることができなかった。景は自ら支えられないと判断し、城を抜けて去った。開道はまたその地を取って、漁陽郡を陥落させ、馬数千匹、兵およそ一万人を有し、自ら燕王と称し、漁陽に都した。先に、懐戎の沙門高曇晟という者がおり、県令が斎会を設けたとき、士女が大いに集まった。曇晟はその僧徒五十人とともに斎会の衆を擁して反乱を起こし、県令及び鎮将を殺し、自ら大乗皇帝と称し、尼の静宣を耶輸皇后と立て、建元して法輪とした。夜になると、人を遣わして開道を招き誘い、兄弟の契りを結び、改めて斉王に封じた。開道は五千の兵を率いてこれに帰し、数か月経ったとき、曇晟を襲撃して殺し、その衆をことごとく併せた。
三年、ふたたび燕王を称し、建元し、百官を設置した。羅芸が幽州におり、竇建徳に包囲された。開道に急を告げると、二千騎を率いてこれを救援した。建徳はその驍鋭を恐れ、ここにおいて引き去った。開道は羅芸を通じて使者を遣わして降伏した。詔して北平郡王に封じ、李氏の姓を賜い、蔚州総管に任じた。時に幽州は大飢饉であった。開道は粟を与えることを約束した。羅芸は老弱者を派遣して食を求めた。開道は皆厚く遇した。羅芸は大いに喜び、警戒せず、ついに兵三千人・車数百乗・驢馬千余匹を発し、開道に粟を請うた。開道はこれをことごとく留め、北は突厥と連合し、羅芸に絶交を告げ、ふたたび燕国を称した。
この年、劉黑闥が山東に侵入し、高開道はこれと連合し、兵を率いて易州を攻めたが、落とせずに退いた。また、その将謝稜をして芸に偽降させ、援兵を請わせた。芸は兵を出して応じたが、将に懐戎に至らんとするや、稜は芸の兵を襲撃して破った。開道はまた突厥を引き連れて頻りに来寇し、恒・定・幽・易等の州は皆その患いに罹った。突厥の頡利可汗が馬邑を攻めたとき、開道の兵は攻具を善くするをもって、これを引き連れて馬邑を陥落させて去った。時に天下は大いに定まり、開道は降伏しようとしたが、自ら数度翻覆したことを以て、終に罪を得ることを恐れ、また北は突厥の衆を恃んだ。その将兵の多くは山東の人で、故郷に帰りたいと思い、人心は頗る離れていた。先に、劉黑闥の亡将張君立が開道のもとに奔り、これとその将張金樹と潜かに結び連なった。時に開道の親兵数百人は、皆勇敢の士で、「義児」と号し、常に閣内にいた。金樹は毎度兵を督して閣下にいた。金樹が開道を囲まんとするや、潜かに数人をその閣内に入れ、諸義児と陽に遊戯を為し、日が暮れんとするに及び、陰にその弓弦を断ち、またその刀を隠し、その槊を床下に伏せて集めた。暮れに及んで、金樹はその徒を率いて大呼して来たり閣下を攻め、先に遣わした人が義児の槊を抱いて一時に出で、諸義児は急ぎ出戦せんとしたが、弓弦は皆絶え、刀仗は既に失せていた。君立は外城で火を挙げて相応じ、表裏驚擾した。義児は窮迫し、争って金樹に帰した。開道は免れ難きを知り、ここに甲を擐ぎ兵を持って堂上に坐し、その妻妾と楽しく酣宴した。金樹の党はその勇を憚り、逼ることを敢えなかった。天将に暁けんとするや、開道は先ずその妻妾及び諸子を縊り、後に自殺した。金樹は兵を陳べ、その義児を執えて、皆斬った。また張君立を殺し、死者五百余人、遂に国に帰した。開道の初め起りて滅ぶまで、凡そ八年。その地を以て媯州とした。
劉黑闥
劉黑闥は、貝州漳南の人である。無頼で、酒を嗜み、博奕を好み、産業を治めず、父兄はこれを患った。竇建徳と少時より相善くし、家貧しく自給するものなく、建徳は毎度これを資した。隋末に亡命し、郝孝徳に従って群盗となり、後に李密に帰して裨将となった。密が敗れると、王世充に虜われた。世充は平素その勇を聞き、騎将とした。世充の為すところを見て窃かにこれを笑い、ここに亡れて建徳に帰し、建徳はこれを署して将軍とし、漢東郡公に封じ、奇兵を将いて東西掩襲せしめた。黒闥は既に諸賊を遍く遊歴し、時変を観るに善く、素より驍勇で、多く奸詐であった。建徳に経略する所あれば、必ず専ら斥候を知らしめ、常に間に入って敵中に虚実を覘視し、あるいはその不意に出で、機に乗じて奮撃し、多く克獲し、軍中では神勇と号した。建徳が敗れるに及び、黒闥は自ら漳南に匿れ、門を杜って出でず。会に高祖が建徳の故将を征し、范願・董康買・曹湛・高雅賢等が将に長安に赴かんとするや、願等は相謀って曰く、「王世充は洛陽を以て降り、その下の驍将公卿・単雄信の徒は皆夷滅せられ、我ら輩若し長安に至らば、必ず保全の理無からん。且つ夏王は往日淮安王を擒獲し、その性命を全うし、遣わして還し送らしめた。唐家今夏王を得て、即ち殺害を加う、我ら輩の残命、若し兵を起こして仇を報いざれば、実にまた天下の人物に見るを恥ず。」ここに相率いて復た謀反を謀った。卜うに劉氏を主とすれば吉なり、共に漳南に往き、建徳の故将劉雅に見えて告げ、且つ請う。雅曰く、「天下已に平らぎ、楽しむは丘園に農夫たるに在り。起兵の事は、願う所に非ず。」衆怒り、雅を殺して去った。范願曰く、「漢東公劉黒闥は果敢にして奇略多く、寛仁にして衆を容れ、恩は士卒に結ぶ。吾久しく常に聞く、劉氏に王者有るべしと、今大事を挙げ、夏王の衆を収めんと欲すれば、その人に非ざれば莫し。」遂に黒闥に詣り、以てその意を告ぐ。黒闥大いに悦び、牛を殺して衆を会し、兵を挙げて百余りを得、漳南県を襲撃して破った。貝州刺史戴元詳・魏州刺史権威が兵を合わせてこれを撃つも、並びに黒闥に敗れ、元詳及び威は皆陣に没した。黒闥はその器械及び余衆千余人を尽く収め、ここに范願・高雅賢等の宿旧左右漸く来たり帰附し、衆二千人に至った。
武徳四年七月、漳南に壇を設け、建徳を祭り、挙兵の意を告げ、自ら大将軍と称した。淮安王神通・将軍秦武通・王行敏が前後してこれを討つも、皆その為に敗れた。ここに趙・魏に移書し、その建徳の将士、往々官吏を殺して応ず。黒闥は北に懐戎の賊帥高開道と連なり、兵鋒甚だ鋭く、宗城に進み、衆数万を有した。黎州総管李世勣は拒ぐ能わず、城を棄てて洺州に走り保った。黒闥は追撃してこれを破り、歩卒五千人は皆陣に歿し、世勣と武通は僅かに身を以て免れた。黒闥はまた王琮を征して中書令とし、劉斌を中書侍郎として、以て文翰を掌らしめた。使いを遣わして北に突厥と連なり、頡利可汗は俟斤宋耶那を遣わし、胡騎を率いてこれに従わしめた。黒闥の軍大いに振い、相州を陥落させた。半年にして、悉く建徳の故地を回復した。兗州の賊帥徐円朗は斉・兗の地を挙げて黒闥に附き、その勢い益々張った。
五年正月、黒闥は相州に至り、僭って漢東王と称し、元を天造と建てた。范願を左僕射とし、董康買を兵部尚書とし、高雅賢を右領軍とし、また建徳の時の文武を引いて悉く本位に復し、洺州に都した。その法を設け政を行うは、皆建徳に師いながら攻戦勇決はこれを過ぎた。ここに太宗また自ら請いて兵を統べこれを討ち、師は衛州に次いだ。黒闥は数度兵を以て挑戦するも、輒ち官軍に挫かれた。黒闥懼れ、相州を委ね、列人営に退き保った。時に洺水県の人が内応を請うたので、太宗は総管羅士信を遣わして城に入り据え守らしめたが、黒闥はまたその城を攻め陥し、士信はこれに死し、遂に洺州を据えた。三月、太宗は洺水を阻んで営を列ねてこれを逼り、奇兵を分遣して、その糧道を断った。黒闥はまた数度挑戦するも、太宗は堅壁して応ぜず、以てその鋒を挫いた。黒闥の城中糧尽き、太宗はその必ず来たり決戦せんことを度り、予め洺水の上流を擁し、堤を守る吏に謂いて曰く、「我賊を撃つ日、賊の半ば度るを候いて堰を決せよ。」黒闥果たして歩騎二万を率いて洺水を渡り陣し、官軍と大戦し、賊衆大いに潰え、水また大いに至り、黒闥の衆は渡るを得ず、首級万余りを斬り、溺死者数千人。黒闥は范願等と千余人を以て突厥に奔り、山東悉く定まった。太宗は遂に軍を河南に引いて徐円朗を討った。
六月、黒闥はまた突厥より兵を借り、山東を寇す。七月、定州に至る。その旧将曹湛・董康買は先に亡命して鮮虞にあり、また兵を聚めて黒闥に応ず。高祖は淮陽王李道玄・原国公史万宝を遣わしてこれを討たしむ。下博に戦い、王師敗績し、道玄は陣に死し、万宝は軽騎にて逃げ還る。ここにおいて河北の諸州尽く叛き、また黒闥に降る。旬日の間に悉く故城を復し、また洺州に都す。十一月、高祖は斉王李元吉を遣わしてこれを撃たしむも、遅留して進まず。また隠太子李建成に兵を督して進討せしむ。頻りに戦いて大捷す。六年二月、また館陶においてこれを大破す。黒闥は軍を引きて北に走る。建成と元吉は千余騎を合わせて永済渠に屯し、騎を放ってこれを撃つ。黒闥敗走し、騎将劉弘基に命じてこれを追わしむ。黒闥は王師に迫られ、休息を得ず、道遠く兵疲れ、饒陽に至るに比して、従う者纔かに百余人、衆皆飢え、城に入りて食を求む。黒闥の署する饒州刺史葛徳威、門を出でて迎え拝し、これを延いて城に入らしむ。黒闥初めは許さず、徳威誤って誠敬を為し、涕泣して固く請う。黒闥乃ち進み、城の傍らに至る。徳威兵を勒してこれを執り、建成に送る。洺州にて斬る。山東また定まる。
徐円朗
徐円朗は、兗州の人なり。隋末、亡命して群盗と為り、本郡を拠り、兵を放って地を略す。琅邪より巳西、北は東平に至るまで、尽くこれを有ち、勝兵二万余人。初め李密に附き、密敗れ、王世充に帰す。及び洛陽平らぎ、国に帰し、兗州総管に拝せられ、魯郡公に封ぜらる。高祖は葛国公盛彦師に命じて河南を安輯せしむ。任城に行き至る。時に劉黒闥乱を作し、潜かに円朗と結ぶ。ここにおいて彦師を執り挙兵して黒闥に応じ、自ら魯王と称す。黒闥は円朗を大行台元帥と為す。兗・鄆・陳・杞・伊・洛・曹・戴等八州の豪猾、皆その長吏を殺してこれに応ず。太宗黒闥を平らげ、師を進めて曹州に至り、淮安王李神通及び李世勣を遣わしてこれを攻む。円朗数え戦に出でて利あらず、城内の百姓争って城を逾えて降る。円朗窮蹙し、数騎とともに城を棄て夜遁る。野人に殺さる。その地悉く平らぐ。
史臣曰く
史臣曰く、薛挙父子は勇悍人倫に絶え、性皆殺を好む。仁杲特に甚だしく、恩無く衆叛き、猛と雖も何を為さん。李軌窃かに鷹揚を拠り、僭号して河西にあり、隋朝の官属を安んじ、その財を奪わず。李贇の甲兵を破り、その衆を放ち還す。これその興る所以なり。及び謀主を殺害し、妖巫を崇信し、衆叛き親離る。その亡ぶや、宜なるかな。武周始めは鼠窃と為り、偶々鴟張に恣し、君璋の謀を用いず、竟に突厥に殺さる。苑君璋及び余衆を総べ、別に異図を生ず。頡利の朝に帰するを見るも、亦是れ機を見る者なり。黒闥・開道は勇にして謀無く、その行師を顧みるに、只だ是れ狂賊、皆麾下に殺さる。衆を馭するの道謬れるかな。
賛に曰く、国に紀綱無く、盗草沢より興る。隋の乱有らざれば、焉んぞ唐の徳を知らん。