舊唐書

巻055

巻055

舊唐書

原文舊唐書

卷五十五

原文卷五十五

薛舉 李軌 劉武周 高開道 劉黑闥

原文薛舉 李軌 劉武周 高開道 劉黑闥

薛挙

原文薛舉

薛挙は、河東汾陰の人である。その父の汪は、金城に移り住んだ。挙は容貌が魁偉で、凶悍にして射を善くし、驍ぎょう武絶倫、家産は巨万、豪猾と交結し、辺朔に雄たる。初め、金城府校尉こういとなった。大業の末、隴西に群盗蜂起し、百姓は飢餒し、金城令の郝瑗は、数千人を募り、挙に討捕させた。郡中で甲を授け、吏人は皆集まり、酒を置いて士を饗した。挙はその子の仁杲及び同謀者十三人と、座中で瑗を劫し、反者を収捕すると偽称し、兵を発して郡県官を囚え、倉を開いて貧乏を賑った。自ら西秦霸は王と称し、建元して秦興とし、仁杲を斉公に封じ、少子の仁越を晋公に封じた。宗羅睺という者がおり、先に党を聚めて群盗となり、ここに至って衆を帥いてこれに会し、義興公に封ぜられ、その余は皆次第に封拝された。官を掠め馬を収め、群盗を招集し、兵鋒は甚だ鋭く、至る所皆下った。隋の将の皇甫綰は兵一万を屯せしむるに枹罕にあり、挙は精鋭二千人を選んでこれを襲い、綰軍と赤岸で遇い、兵を陳べて未だ戦わず、俄かに風雨暴至す。初め、風は挙の陣に逆い、而して綰はこれを撃たず、忽ち風返り、正に綰の陣に逆い、気色昏昧し、軍中擾乱す。挙は策馬して先に登り、衆軍これに従い、隋軍大潰し、遂に枹罕を陥す。時に羌の首長の鐘利俗は兵二万を擁して岷山界にあり、尽く衆を以て挙に降り、兵遂に大いに振う。仁杲を進めて斉王とし、東道行軍元帥を授け、仁越を晋王とし、河州刺史を兼ね、羅睺を義興王とし、以て仁杲を副う。兵を総べて地を略し、又た鄯・廓の二州を克ち、数日の間に、尽く隴西の地を有し、衆は十三万に至る。

原文薛舉,河東汾陰人也。其父汪,徙居金城。舉容貌瑰偉,凶悍善射,驍武絕倫,家產巨萬,交結豪猾,雄於邊朔。初,為金城府校尉。大業末,隴西群盜蜂起,百姓飢餒,金城令郝瑗,募得數千人,使舉討捕。授甲於郡中,吏人咸集,置酒以饗士。舉與其子仁杲及同謀者十三人,於座中劫瑗,矯稱收捕反者,因發兵囚郡縣官,開倉以賑貧乏。自稱西秦霸王,建元為秦興,封仁杲為齊公,少子仁越為晉公。有宗羅睺者,先聚黨為群盜,至是帥眾會之,封為義興公,餘皆以次封拜。掠官收馬,招集群盜,兵鋒甚銳,所至皆下。隋將皇甫綰屯兵一萬在枹罕,舉選精銳二千人襲之,與綰軍遇於赤岸,陳兵未戰,俄而風雨暴至。初,風逆舉陣,而綰不擊之;忽返風,正逆綰陣,氣色昏昧,軍中擾亂。舉策馬先登,眾軍從之,隋軍大潰,遂陷枹罕。時羌首鐘利俗擁兵二萬在岷山界,盡以眾降舉,兵遂大振。進仁杲為齊王,授東道行軍元帥;仁越為晉王,兼河州刺史;羅睺為義興王,以副仁杲。總兵略地,又克鄯、廓二州,數日間,盡有隴西之地,眾至十三萬。

十三年秋七月、挙は蘭州に僭号し、妻の鞠氏を皇后とし、母を皇太后とし、墳塋を起し、陵邑を置き、廟を城南に立てた。その月、挙は兵数万を陳べ、出でて墓を拝し、礼畢りて大会す。仁杲は兵を進めて秦州を囲む。仁越の兵は剣口に趨き、河池郡に至るも、太守の蕭瑀が拒退す。挙はその将の常仲興に命じて河を渡り李軌を撃たしむるに、軌の将の李贇と昌松で大戦し、仲興敗績し、全軍軌に陥る。及び仁杲が秦州を克つと、挙は蘭州より遷都す。仁杲を遣わして軍を引き扶風郡を寇すも、汧源の賊帥の唐弼が衆を率いてこれを拒ぎ、兵進むことを得ず。初め、弼は扶風に起ち、隴西の李弘芝を立てて天子とし、徒十万有り。挙は使を遣わして弼を招くに、弼は弘芝を殺し、軍を引いて挙に従う。仁杲は弼の備え弛むに因り、これを襲破し、併せてその衆を有し、弼は数百騎を以て遁れて免る。挙の勢い益々張り、軍号三十万、将に京師を図らんとす。会に義兵関中を定むるに、遂に留まって扶風を攻む。太宗師を帥いて討ちこれを敗り、首数千級を斬り、隴坻まで奔を追いて還る。挙又た太宗の隴を逾えてこれを追うを懼れ、乃ちその衆に問いて曰く、「古来天子に降る事有りや否や」と。偽黄門侍郎の褚亮曰く、「昔、越帝の趙佗は卒に漢祖に帰し、蜀しょく主の劉禅も亦た晋朝に仕え、近代の蕭琮は、今に至る猶貴し。禍を転じて福と為すは、古よりこれ有り」と。その衛尉卿の郝瑗趨りて進みて曰く、「皇帝問いを失す。褚亮の言、又何ぞ悖れるや。昔、漢祖は屡敗績を経、蜀の先主は亟に妻子を亡くす。戦の利害、何れの代にか之無からん。安んぞ一戦捷からずして、亡国の計と為さんや」と。挙も亦たこれを悔い、答えて曰く、「聊かこの問いを発し、君等を試みしのみ」と。乃ち厚く瑗を賞し、引いて謀主と為す。瑗又た挙を勧めて梁師都と連結し、共に声勢と為し、厚く突厥に賂し、その戎馬を餌とし、合従併力し、進んで京師を逼らんとす。挙その言に従い、突厥の莫賀咄設と謀りて京師を取らんとす。莫賀咄設は兵を以てこれに随うを許し、期日に日有り。会に都水監の宇文歆が突厥に使するに、歆は莫賀咄設を説き、その出兵を止めしむ、故に挙の謀行わず。

原文十三年秋七月,舉僭號於蘭州,以妻鞠氏為皇后,母為皇太后,起墳塋,置陵邑,立廟於城南。其月,舉陳兵數萬,出拜墓,禮畢大會。仁杲進兵圍秦州。仁越兵趨劍口,至河池郡,太守蕭瑀拒退之。舉命其將常仲興渡河擊李軌,與軌將李贇大戰於昌松,仲興敗績,全軍陷於軌。及仁杲克秦州,舉自蘭州遷都之。遣仁杲引軍寇扶風郡,汧源賊帥唐弼率眾拒之,兵不得進。初,弼起扶風,立隴西李弘芝為天子,有徒十萬。舉遣使招弼,弼殺弘芝,引軍從舉。仁杲因弼弛備,襲破之,並有其眾,弼以數百騎遁免。舉勢益張,軍號三十萬,將圖京師。會義兵定關中,遂留攻扶風。太宗帥師討敗之,斬首數千級,追奔至隴坻而還。舉又懼太宗逾隴追之,乃問其眾曰:「古來天子有降事否?」偽黃門侍郎褚亮曰:「昔越帝趙佗卒歸漢祖,蜀主劉禪亦仕晉朝,近代蕭琮,至今猶貴。轉禍為福,自古有之。」其衛尉卿郝瑗趨而進曰:「皇帝失問。褚亮之言,又何悖也!昔漢祖屢經敗績,蜀先主亟亡妻子,戰之利害,何代無之?安得一戰不捷,而為亡國之計也!」舉亦悔之,答曰:「聊發此問,試君等耳。」乃厚賞瑗,引為謀主。瑗又勸舉連結梁師都,共為聲勢,厚賂突厥,餌其戎馬,合從併力,進逼京師。舉從其言,與突厥莫賀咄設謀取京師。莫賀咄設許以兵隨之,期有日矣。會都水監宇文歆使於突厥,歆說莫賀咄設,止其出兵,故舉謀不行。

武徳元年、豊州総管の張長遜が進みて宗羅睺を撃つに、挙は悉く衆を以て来援し、軍は高墌に屯し、兵を縦して虜掠し、豳・岐の地に至る。太宗又た衆を率いてこれを撃ち、軍は高墌城に次す。その糧少なるを度り、意は速戦に在り、乃ち深溝堅壁を命じ、以てその師を老いさせんとす。未だ戦うに及ばず、会に太宗不豫よ、行軍長史の劉文静・殷開山が高墌の西南に兵を観んことを請い、衆を恃みて備えを設けず、挙の兵に掩い乗せられその後を襲わる。太宗これを聞き、その必ず敗るるを知り、遽に書を与えてこれを責む。未だ至らざるに、両軍合戦し、竟に挙の為に敗れ、死者十の五六、大将の慕容羅睺・李安遠・劉弘基皆陣に陥る。太宗は京師に帰り、挙の軍は高墌を取り、又た仁杲を遣わして進み寧州を囲ます。郝瑗、挙に言いて曰く、「今、唐兵新たに破れ、将帥並びに擒られ、京師騒動す。乗勝して直ちに長安ちょうあんを取るべし」と。挙これを然りとす。発せんと臨みて挙疾え、巫を召してこれを視しむるに、巫は唐兵が祟りと為すと言う。挙これを悪み、未だ幾ばくもせずして死す。挙は毎に陣を破るに、獲る所の士卒は皆これを殺し、人を殺すに多く舌を断ち、鼻を割り、或いは碓に搗く。その妻の性また酷暴にして、好んでその下を鞭撻し、人の痛みに勝えずして地に宛転するを見れば、則ちその足を埋め、才く腹背を露わしてこれを捶つ。ここにより人心附かず。仁杲代わってその衆を董む。偽りて挙を武皇帝と謚す。未だ葬らざるに仁杲滅ぶ。

原文武德元年,豐州總管張長遜進擊宗羅睺,舉悉眾來援,軍屯高墌,縱兵虜掠,至於豳、岐之地。太宗又率眾擊之,軍次高墌城,度其糧少,意在速戰,乃命深溝堅壁,以老其師。未及與戰,會太宗不豫,行軍長史劉文靜、殷開山請觀兵於高墌西南,恃眾不設備,為舉兵掩乘其後。太宗聞之,知其必敗,遽與書責之。未至,兩軍合戰,竟為舉所敗,死者十五六,大將慕容羅睺、李安遠、劉弘基皆陷於陣。太宗歸於京師,舉軍取高墌,又遣仁杲進圍寧州。郝瑗言於舉曰:「今唐兵新破,將帥並擒,京師騷動,可乘勝直取長安。」舉然之。臨發而舉疾,召巫視之,巫言唐兵為祟,舉惡之,未幾而死。舉每破陣,所獲士卒皆殺之,殺人多斷舌、割鼻,或碓搗之。其妻性又酷暴,好鞭撻其下,見人不勝痛而宛轉於地,則埋其足,才露腹背而捶之。由是人心不附。仁杲代董其眾,偽謚舉為武皇帝,未葬而仁杲滅。

子 薛仁杲

原文{{Annotate|子}} 薛仁杲

仁杲は、挙の長子なり。力多く騎射を善くし、軍中において万人敵と号せらる。然れども至る所多く人を殺し、その妻妾を納る。庾信の子の立を獲て、その降らざるを怒り、猛火の上に磔にし、漸く割きて以て軍士に啖わしむ。初め、秦州を抜くに、富人を悉く召し倒懸し、以て醋を鼻に灌ぎ、或いはその下竅に杙して、金宝を求む。挙は毎にこれを誡めて曰く、「汝の智略は縦横、足りて我が家事を弁ずるに、而して苛虐に傷き、物に恩無し。終に当に我が宗社を覆さん」と。挙死し、仁杲は折墌城に立ち、諸将帥と素より多く隙有り、及び位を嗣ぐに、衆咸く猜懼す。郝瑗は挙を哭し悲思し、病に因り起たず、ここより兵勢日衰す。

原文仁杲,舉長子也,多力善騎射,軍中號為萬人敵。然所至多殺人,納其妻妾。獲庾信子立,怒其不降,磔於猛火之上,漸割以啖軍士。初,拔秦州,悉召富人倒懸之,以醋灌鼻,或杙其下竅,以求金寶。舉每誡之曰:「汝智略縱橫,足辦我家事,而傷於苛虐,與物無恩,終當覆我宗社。」舉死,仁杲立於折墌城,與諸將帥素多有隙,及嗣位,眾咸猜懼。郝瑗哭舉悲思,因病不起,自此兵勢日衰。

劉文静が挙に敗れて後、高祖こうそは太宗に命じ諸軍を率いて仁杲を撃たしむ。師は高墌に次すも、堅壁して動かず。諸将咸く戦を請うも、太宗曰く、「我が士卒は新たに敗れ、鋭気猶少なし。賊は勝ちを以て自ら驕り、必ず軽敵して闘いを好む。故に且く壁を閉じて以てこれを折らん。その気衰うるを待ちて後に奮撃せば、一戦にして破るべし。これ万全の計なり」と。乃ち軍中に令して曰く、「敢えて戦を言う者は斬る」と。相持すること久し。仁杲は勇にして謀無く、兼ねて糧饋続かず、将士稍く離る。その内史令の翟長孫、その衆を以て来降し、仁杲の妹婿の偽左僕射の鐘俱仇は河州を以て国に帰す。太宗その撃つべきを知り、将軍の龐玉を遣わして賊将の宗羅睺を浅水原に撃たしむ。両軍酣戦す。太宗は勁兵を以て賊の意表に出で、奮撃して大いにこれを破る。勝に乗じて進みその折墌城に薄る。仁杲窮蹙し、偽百官を率いて門を開き降る。太宗これを納る。王師は旅を振い、仁杲を以て京師に帰し、その首帥数十人及び皆これを斬る。挙父子相継ぎて偽位より滅に至るまで、凡そ五年、隴西平ぐ。

原文自劉文靜為舉所敗後,高祖命太宗率諸軍以擊仁杲,師次高墌,而堅壁不動。諸將咸請戰,太宗曰:「我士卒新敗,銳氣猶少。賊以勝自驕,必輕敵好鬥,故且閉壁以折之。待其氣衰而後奮擊,可一戰而破,此萬全計也。」乃令軍中曰:「敢言戰者斬。」相持者久之。仁杲勇而無謀,兼糧饋不屬,將士稍離,其內史令翟長孫以其眾來降,仁杲妹夫偽左僕射鐘俱仇以河州歸國。太宗知其可擊,遣將軍龐玉擊賊將宗羅睺於淺水原。兩軍酣戰,太宗以勁兵出賊不意,奮擊大破之。乘勝進薄其折墌城,仁杲窮蹙,率偽百官開門降,太宗納之。王師振旅,以仁杲歸於京師,及其首帥數十人皆斬之。舉父子相繼偽位至滅,凡五年,隴西平。

李軌

原文李軌

李軌は字を處則といい、武威郡姑臧の人である。機知に富み弁舌に長け、書物を広く読み、家は財産に富み、貧窮を救い困窮を助けたので、人々も彼を称えた。大業の末年、鷹揚府司馬となった。時に薛挙が金城で乱を起こすと、李軌は同郡の曹珍・關謹・梁碩・李贇・安修仁らと謀って言った、「薛挙は残暴であり、必ず侵攻して来よう。郡の官は凡庸で臆病であり、これを防ぐ術はない。今こそ心を一つにして力を合わせ、河右を保ち拠り、天下の動静を見守るべきである。どうして人手に縛られ、妻子を離散させることがあろうか」と。そこで共に兵を挙げることを謀ったが、皆互いに譲り合い、主となる者はいなかった。曹珍が言うには、「常に図讖に『李氏が王となる』と聞く。今、李軌が謀議の中にいる。これこそ天命ではなかろうか」と。遂に拝賀し、推して主と為した。李軌は修仁に命じて夜に諸胡を率いて内苑城に入り、旗を立てて大声で呼ばせ、李軌は城郭の下で衆を集めてこれに応じ、隋の虎賁郎将謝統師・郡丞韋士政を捕らえて縛った。李軌は自ら河西大涼王と称し、元号を安楽と建て、官属を任命し、全て開皇の故事に倣った。初め、突厥の曷娑那可汗が衆を率いて内属し、弟の闕達度闕設に部落を領させて会寧川中にいたが、二千余騎を有し、この時に至って自ら可汗と称し、李軌に降って来た。

原文李軌,字處則,武威姑臧人也。有機辯,頗窺書籍,家富於財,賑窮濟乏,人亦稱之。大業末,為鷹揚府司馬。時薛舉作亂於金城,軌與同郡曹珍、關謹、梁碩、李贇、安修仁等謀曰:「薛舉殘暴,必來侵擾,郡官庸怯,無以御之。今宜同心戮力,保據河右,以觀天下之事,豈可束手於人,妻子分散!」乃謀共舉兵,皆相讓,莫肯為主。曹珍曰:「常聞圖讖云『李氏當王』。今軌在謀中,豈非天命也?」遂拜賀之,推以為主。軌令修仁夜率諸胡入內苑城,建旗大呼,軌於郭下聚眾應之,執縛隋虎賁郎將謝統師、郡丞韋士政。軌自稱河西大涼王,建元安樂,署置官屬,並擬開皇故事。初,突厥曷娑那可汗率眾內屬,遣弟闕達度闕設領部落在會寧川中,有二千餘騎,至是自稱可汗,來降於軌。

武德元年の冬、李軌は尊号を僭称し、その子の伯玉を皇太子とし、長史の曹珍を左僕射とした。關謹らは議して隋の官人を皆殺しにし、その家産を分けようとしたが、李軌は言った、「諸君は私を主に推し立てた以上、私の処分に従わねばならぬ。義兵を起こすのは、火災を救う意図である。今、人を殺して物を取るのは、狂った賊である。このような計画を立てて、どうして成功を求められようか」と。そこで統師を太僕卿に、士政を太府卿に任命した。薛挙が兵を遣わして李軌を侵すと、李軌はその将の李贇を遣わして昌松でこれを撃破し、二千の首級を斬り、その衆を全て虜にしたが、再び議してこれを放還しようとした。李贇が李軌に言うには、「今、力を尽くして戦いに勝ち、賊兵を捕虜にしたのに、またこれを放ち帰らせ、敵に資するのは、皆殺しにするに如かぬ」と。李軌は言った、「そうではない。もし天命があれば、自ずとその主を擒にするであろう。この輩の士卒は、終には我がものとなる。もし事が成らなければ、これを留めておいて何の益があろうか」と。遂にこれを遣わした。間もなく、張掖・燉煌・西平・枹罕を攻め落とし、河西五郡の地を全て有した。

原文武德元年冬,軌僭稱尊號,以其子伯玉為皇太子,長史曹珍為左僕射。謹等議欲盡殺隋官,分其家產,軌曰:「諸人見逼為主,便須稟吾處分。義兵之起,意在救焚,今殺人取物,是為狂賊。立計如此,何以求濟乎!」乃署統師太僕卿,士政太府卿,薛舉遣兵侵軌,軌遣其將李贇擊敗於昌松,斬首二千級,盡虜其眾,復議放還之。贇言於軌曰:「今竭力戰勝,俘虜賊兵,又縱放之,還使資敵,不如盡坑之。」軌曰:「不然。若有天命,自擒其主,此輩士卒,終為我有。若事不成,留此何益?」遂遣之。未幾,攻陷張掖、燉煌、西平、枹罕,盡有河西五郡之地。

その年、李軌はその吏部尚書の梁碩を殺した。初め、李軌が挙兵した時、梁碩は謀主となり、非常に智略があり、衆は皆彼を畏れた。梁碩は諸胡の種族部落が繁盛しているのを見て、密かに李軌に警戒すべきことを勧めたので、戸部尚書の安修仁とこれによって隙が生じた。また李軌の子の仲琰は恨みを抱き、言葉や表情に現れたので、修仁はこれに乗じて梁碩の罪をでっち上げ、更に讒言して中傷し、謀反を企てていると云ったので、李軌は命じて毒薬を持たせてその邸宅で殺させた。この後、旧来の者たちは多く疑い恐れ、腹心の臣はこれより次第に離れていった。時に高祖は薛挙を討とうとしていたので、使者を密かに涼州に遣わして李軌と結び、璽書を下し、彼を従弟と呼んだ。李軌は大いに喜び、その弟の懋を入朝させ、地方の産物を献上させた。高祖は懋を大将軍に任じ、涼州に帰還させた。また鴻臚少卿の張侯徳に節を持たせ、冊命して涼州総管とし、涼王に封じ、羽葆鼓吹一部を与えた。李軌は群僚を召して朝廷で議して言った、「今、私の従兄(高祖)が図籙を受け、京邑を占拠している。天命は知るべきである。一姓で競って帝位に立つべきではない。今、帝号を除いて冊命を受けるのはどうか」と。曹珍が進み出て言うには、「隋が天下を失い、英雄が競い逐い、王号を称し帝号を称え、鼎の足のように並び立って瓜分した。唐国は自ら関中を占拠し、大涼は自ら河右に処する。既に天子となっているのに、どうして人の官爵を受けようか。もし小国が大国に仕えようとするなら、蕭察の故事に倣い、自ら梁帝と称して周に臣と称すべきである」と。李軌はこれに従った。

原文其年,軌殺其吏部尚書梁碩。初,軌之起也,碩為謀主,甚有智略,眾咸憚之。碩見諸胡種落繁盛,乃陰勸軌宜加防察,與其戶部尚書安修仁由是有隙。又軌子仲琰懷恨,形於辭色,修仁因之構成碩罪,更譖毀之,雲其欲反,軌令齎鴆就宅殺焉。是後,故人多疑懼之,心膂從此稍離。時高祖方圖薛舉,遣使潛往涼州與之相結,下璽書,謂之為從弟。軌大悅,遣其弟懋入朝,獻方物。高祖授懋大將軍,遣還涼州。又令鴻臚少卿張侯德持節,冊拜為涼州總管,封涼王,給羽葆鼓吹一部。軌召群僚廷議曰:「今吾從兄膺受圖籙,據有京邑,天命可知,一姓不宜競立,今去帝號受冊可乎?」曹珍進曰:「隋失天下,英雄競逐,稱王號帝,鼎峙瓜分。唐國自據關中,大涼自處河右,己為天子,奈何受人官爵?若欲以小事大,宜依蕭察故事,自稱梁帝而稱臣於周。」軌從之。

二年、その尚書左丞の鄧曉を使者に随行させて入朝させ、上表して皇従弟大涼皇帝臣軌と称したが、官職は受けなかった。時に胡の巫が彼を惑わして言うには、「上帝が玉女を天から降らせるであろう」と。そこで兵を徴発して台を築き、玉女を待ったので、費やすところ多く、百姓はこれを憂いた。また凶年に属し、人々が互いに食い合う有様であったので、李軌は家財を傾けてこれを救済したが、私財は尽き果て、行き渡らなかった。また倉を開いて粟を与えようとし、衆を召してこれを議した。曹珍らが答えて言うには、「国は人を以て本と為す。本が既に立たなければ、国は傾き危うくなる。どうしてこの倉粟を惜しんで、坐して百姓の死を見ていられようか」と。その旧来の者たちは皆、粟を与えるのが便利であると言った。謝統師らは隋の旧官人で、李軌に捕らえられた者たちであり、任用されていたが、心情はなおも服従していなかった。常に群胡と結び、朋党を引き入れ、李軌の旧臣を排斥し、この大飢饉に乗じて、その衆を離反させようとした。そこで曹珍を罵って言うには、「百姓の飢えている者は元より弱い者である。勇壮の士は終に困窮することはない。国家の倉粟は不慮の事態に備えるべきもので、どうしてこれを散じて弱小の者に供することができようか。僕射(曹珍)がもし人情に媚びるなら、全く国家の計略ではない」と。李軌はこれを然りとし、これによって士民は怨み憤り、多くは彼に叛こうとした。

原文二年,遣其尚書左丞鄧曉隨使者入朝,表稱皇從弟大涼皇帝臣軌而不受官。時有胡巫惑之曰:「上帝當遣玉女從天而降。」遂徵兵築台以候玉女,多所糜費,百姓患之。又屬年飢,人相食,軌傾家賑之,私家罄盡,不能周遍。又欲開倉給粟,召眾議之。珍等對曰:「國以人為本,本既不立,國將傾危,安可惜此倉粟,而坐觀百姓之死乎?」其故人皆云,給粟為便。謝統師等隋舊官人,為軌所獲,雖被任使,情猶不附。每與群胡相結,引進朋黨,排軌舊人,因其大餒,欲離其眾。乃詬珍曰:「百姓餓者自是弱人,勇壯之士終不肯困,國家倉粟須備不虞,豈可散之以供小弱?僕射苟悅人情,殊非國計。」軌以為然,由是士庶怨憤,多欲叛之。

初めに、安修仁の兄の興貴は先に長安におり、上表して涼州に赴き李軌を招慰することを請うた。高祖は言った、「李軌は河西の地を拠り、吐谷渾と友好を結び、突厥に援けを結び、兵を興して討ち撃つにも、なお難しと為す。まして単なる使者でどうして至らしめられようか」。興貴は答えて言った、「李軌は凶暴で強く、誠に聖旨の如くでございます。今もし逆順を以て諭し、禍福を以て明らかにすれば、彼は固く拠り遠きを恃み、必ずや従わないでしょう。何となれば、臣は涼州において、代々豪族として声望があり、凡そその士庶は、靡いて依附しない者はありません。臣の弟は軌に信任され、枢密を職とする者は数十人、これをもって隙を窺い図るは、反掌よりも易く、成らざることはありません」。高祖はこれに従った。興貴が涼州に至ると、軌は左右衛大將軍を授け、また自ら安んずる術を問うた。興貴はこれを諭して言った、「涼州は僻遠にして、人物凋残し、勝兵は余り十万あるも、開く地は千里に過ぎず、既に険固無く、また蕃戎に接し、戎狄は豺狼、我が族類に非ず、此れにして久しうべくば、実に用いるに疑わし。今大唐は京邑を拠有し、中原を略定し、攻むれば必ず取り、戦えば必ず勝つ、是れ天の啓く所、人力に非ず。今もし河西の地を挙げて質を委ねてこれに事えれば、即ち漢家の竇融も、未だ比ぶるに足らざるべし」。軌は黙然として答えず、久しくして、興貴に謂いて言った、「昔、呉王濞は江左の兵を以て、なお己れを『東帝』と称せり。我れ今、河右の衆を以て、豈に『西帝』と為さざらんや。彼は強大なりと雖も、其れ帝たる我れを如何にせん。君は唐と計り、我を誘引するは、彼の恩遇に酬いるのみ」。興貴は懼れ、乃ち偽って謝して言った、「窃かに聞く、富貴は故郷に在らず、衣錦して夜行するが如しと。今、合家の子弟並びに信任を蒙り、栄慶は実に一門に在り、豈に敢えて心を興し、更に他の志を懐かんや」。興貴は軌の動かし難きを知り、乃ち修仁らと潜かに謀り、諸胡の衆を引き起こして兵を挙げ軌を図り、将に其の城を囲まんとす。軌は歩騎千余を率いて城を出でて拒戦す。先に、薛挙の柱国奚道宜有り、羌兵三百人を率いて軌に亡奔し、既に其の刺史を許すも授けず、礼遇また薄く、深く憤怨を懐く。道宜は率いる所の部衆を以て共に修仁と軌を撃ち、軌は敗れて城に入り、兵を引きて陴に登り、外の救い有るを冀う。興貴は宣言して言う、「大唐我を使わして李軌を殺さしむ、従わざる者は三族に誅及すべし」。ここにおいて諸城の老幼皆出でて修仁に詣る。軌は嘆いて言う、「人心去れり、天我を亡ぼすか」。妻子を携えて玉女台に上り、酒を置いて別れを為す。修仁は之を執りて聞かしむ。時に鄧曉は尚長安に在り、軌の敗るるを聞き、舞蹈して慶びを称す。高祖は之を数えて言う、「汝は人に質を委ね、使としてここに来り、軌の淪陷するを聞きて、曾て蹙める容無く、苟くも朕の情を悦ばしめ、妄りに慶躍を為す。既に李軌に心を留むること能わず、何ぞ朕に節を尽くすことを能わんや」。竟に廃して歯せず。軌は尋いで誅せらる。起りてより滅ぶまで三載、河西悉く平ぐ。詔して興貴に右武候大将軍・上柱国を授け、涼国公に封じ、実封六百戸を食み、帛万段を賜う。修仁に左武候大将軍を授け、申国公に封じ、並びに田宅を給し、実封六百戸を食ます。

原文初,安修仁之兄興貴先在長安,表請詣涼州招慰軌。高祖謂曰:「李軌據河西之地,連好吐谷渾,結援於突厥,興兵討擊,尚以為難,豈單使所能致也?」興貴對曰:「李軌凶強,誠如聖旨。今若諭之以逆順,曉之以禍福,彼則憑固負遠,必不見從。何則?臣於涼州,奕代豪望,凡厥士庶,靡不依附。臣之弟為軌所信任,職典樞密者數十人,以此候隙圖之,易於反掌,無不濟矣。」高祖從之。興貴至涼州,軌授以左右衛大將軍,又問以自安之術,興貴諭之曰:「涼州僻遠,人物凋殘,勝兵雖余十萬,開地不過千里,既無險固,又接蕃戎,戎狄豺狼,非我族類,此而可久,實用為疑。今大唐據有京邑,略定中原,攻必取,戰必勝,是天所啟,非人力焉。今若舉河西之地委質事之,即漢家竇融,未足為比。」軌默然不答,久之,謂興貴曰:「昔吳濞以江左之兵,猶稱己為『東帝』;我今以河右之眾,豈得不為『西帝』?彼雖強大,其如帝何?君與唐為計,誘引於我,酬彼恩遇耳。」興貴懼,乃偽謝曰:「竊聞富貴不在故鄉,有如衣錦夜行。今合家子弟並蒙信任,榮慶實在一門,豈敢興心,更懷他志?」興貴知軌不可動,乃與修仁等潛謀,引諸胡眾起兵圖軌,將圍其城,軌率步騎千餘出城拒戰。先時,有薛舉柱國奚道宜,率羌兵三百人亡奔於軌,既許其刺史而不授之,禮遇又薄,深懷憤怨。道宜率所部共修仁擊軌,軌敗入城,引兵登陴,冀有外救。興貴宣言曰:「大唐使我來殺李軌,不從者誅及三族!」於是諸城老幼皆出詣修仁。軌嘆曰:「人心去矣,天亡我乎!」攜妻子上玉女台,置酒為別,修仁執之以聞。時鄧曉尚在長安,聞軌敗,舞蹈稱慶。高祖數之曰:「汝委質於人,為使來此,聞軌淪陷,曾無蹙容,苟悅朕情,妄為慶躍。既不能留心於李軌,何能盡節於朕乎?」竟廢而不齒。軌尋伏誅,自起至滅三載,河西悉平。詔授興貴右武候大將軍、上柱國,封涼國公,食實封六百戶,賜帛萬段;修仁左武候大將軍,封申國公,並給田宅,食實封六百戶。

劉武周(附 苑君璋)

原文劉武周 {{Annotate|附 苑君璋}}

劉武周は、河間景城の人である。父の匡は、家を馬邑に徙す。匡は嘗て妻の趙氏と夜に庭中に坐す。忽ち一物を見る、状は雄鶏の如く、光を流して地を燭し、飛んで趙氏の懐に入る。衣を振るうも見る所無く、これにより娠あり、遂に武周を生む。驍勇にして射を善くし、豪侠と交通す。其の兄の山伯は毎に之を誡めて言う、「汝は交遊を択ばず、終に吾が族を滅ぼすべし」。数えて之を詈辱す。武周は因りて家を去り洛に入り、太僕楊義臣の帳内となり、遼東を征募し、軍功を以て建節校尉を授かる。家に還り、鷹揚府校尉と為る。太守王仁恭は其の州里の雄たるを以て、甚だ親遇せられ、毎に虞候を率いて閣下に屯せしむ。因りて仁恭の侍児と私通し、事の洩るるを恐れ、又天下已に乱るるを見て、陰かに異計を懐き、乃ち郡中に宣言して言う、「今、百姓飢餓し、死人野に相枕す。王府尹は倉を閉じて恤れまず、豈に百姓を憂うるの意か」。これをもって衆人を激怒せしめ、皆発憤怨す。武周は衆心の動揺するを知り、因りて疾を称して起たず、郷閭の豪傑多く来たりて候問す。遂に牛を椎き酒を縦し大言して言う、「盗賊此の如く、壮士志を守り、並びに溝壑に死す。今、倉内の積粟皆爛ず、誰か能く我とともに之を取らん」。諸豪傑皆諾す。同郡の張万歳ら十余人与に仁恭の視事を候い、武周は上謁し、万歳は後より入り、仁恭を郡庁に斬り、其の首を持ち出でて郡中に徇う。敢えて動く者無し。ここにおいて廩を開き以て窮乏を賑い、檄を境内に馳せ、其の属城皆之に帰す。兵万余を得る。

原文劉武周,河間景城人。父匡,徙家馬邑。匡嘗與妻趙氏夜坐庭中,忽見一物,狀如雄雞,流光燭地,飛入趙氏懷,振衣無所見,因而有娠,遂生武周。驍勇善射,交通豪俠。其兄山伯每誡之曰:「汝不擇交遊,終當滅吾族也。」數詈辱之。武周因去家入洛,為太僕楊義臣帳內,募征遼東,以軍功授建節校尉。還家,為鷹揚府校尉。太守王仁恭以其州里之雄,甚見親遇,每令率虞候屯於閣下。因與仁恭侍兒私通,恐事洩,又見天下已亂,陰懷異計,乃宣言於郡中曰:「今百姓飢餓,死人相枕於野,王府尹閉倉不恤,豈憂百姓之意乎!」以此激怒眾人,皆發憤怨。武周知眾心搖動,因稱疾不起,鄉閭豪傑多來候問,遂椎牛縱酒大言曰:「盜賊若此,壯士守志,並死溝壑。今倉內積粟皆爛,誰能與我取之?」諸豪傑皆許諾。與同郡張萬歲等十餘人候仁恭視事,武周上謁,萬歲自後而入,斬仁恭於郡廳,持其首出徇郡中,無敢動者。於是開廩以賑窮乏,馳檄境內,其屬城皆歸之,得兵萬餘人。

武周は自ら太守と称し、使を遣わして突厥に附す。隋の雁門郡丞陳孝意・虎賁将王智辯、兵を合して之を討ち、其の桑乾鎮を囲む。会に突厥大いに至り、武周と共に智辯を撃つ。隋師敗績す。孝意は奔り還りて雁門す。部人之を殺し、城を以て武周に降る。ここにおいて楼煩郡を襲い破り、進みて汾陽宮を取り、隋の宮人を獲て以て突厥に賂し、始畢可汗は馬を以て之に報い、兵威益々振う。及び定襄を攻め陥し、復た馬邑に帰る。突厥は武周を立てて定楊可汗と為し、狼頭纛を遺す。因りて僭って皇帝と称し、妻の沮氏を皇后と為し、建元して天興と為す。衛士の楊伏念を左僕射と為し、妹婿の同県人苑君璋を内史令と為す。先に、上谷の人宋金剛、衆万余有り、易州の界に在りて群盗と為り、定州の賊帥魏刀児と相表裏す。後、刀児は竇建德に滅ぼされ、金剛之を救う。戦いに敗れ、余衆四千人を率いて武周に奔る。武周は金剛の兵を用いるに善きを聞き、之を得て甚だ喜び、号して宋王と為し、軍事を委ね、家産を中分して之に遺す。金剛も亦深く自ら結納し、遂に其の妻を出し、武周の妹を聘せんことを請う。又、武周を説きて晋陽に入り図り、南向して以て天下を争わしむ。武周は金剛に西南道大行台を授け、兵二万人を率いて并へい州を侵さしめ、軍を黄虵鎮にす。又、突厥の衆を引き、兵鋒甚だ盛んにして、榆次県を襲い破り、進みて介州を陥す。高祖は太常少卿李仲文を遣わし衆を率いて之を討たしむ。賊に執せられ、一軍全く没す。仲文は後に逃れ還るを得。復た右僕射裴寂を遣わして之を拒がしむ。戦い又敗績す。武周進みて逼り、総管斉王元吉は城を委ねて遁走す。武周は遂に太原を拠る。金剛を遣わして晋州を進攻せしむ。六日、城陥つ。右驍衛大将軍劉弘基、賊に没す。進みて澮州を取り、属県悉く下る。

原文武周自稱太守,遣使附於突厥。隋雁門郡丞陳孝意、虎賁將王智辯合兵討之,圍其桑乾鎮。會突厥大至,與武周共擊智辯,隋師敗績。孝意奔還雁門,部人殺之,以城降於武周。於是襲破樓煩郡,進取汾陽宮,獲隋宮人以賂突厥,始畢可汗以馬報之,兵威益振。及攻陷定襄,復歸於馬邑。突厥立武周為定楊可汗,遺以狼頭纛。因僭稱皇帝,以妻沮氏為皇后,建元為天興。以衛士楊伏念為左僕射,妹婿同縣人苑君璋為內史令。先是,上谷人宋金剛有眾萬餘人,在易州界為群盜,定州賊帥魏刀兒與相表裡。後刀兒為竇建德所滅,金剛救之,戰敗,率餘眾四千人奔武周。武周聞金剛善用兵,得之甚喜,號為宋王,委以軍事,中分家產遺之。金剛亦深自結納,遂出其妻,請聘武周之妹。又說武周入圖晉陽,南向以爭天下。武周授金剛西南道大行台,令率兵二萬人侵并州,軍黃虵鎮。又引突厥之眾,兵鋒甚盛,襲破榆次縣,進陷介州。高祖遣太常少卿李仲文率眾討之,為賊所執,一軍全沒。仲文後得逃還。復遣右僕射裴寂拒之,戰又敗績。武周進逼,總管齊王元吉委城遁走,武周遂據太原。遣金剛進攻晉州,六日,城陷,右驍衛大將軍劉弘基沒於賊。進取澮州,屬縣悉下。

夏県の人呂崇茂は県令を殺し、自ら魏王と号して、賊に応じた。河東の賊帥王行本はまた密かに金剛と連和し、関中は大いに驚いた。高祖は太宗に命じて兵を増やし進撃討伐させ、柏壁に駐屯させ、相持すること久しかった。また永安王孝基・陝州総管於筠・工部尚書獨孤懷恩・内史侍郎唐儉に命じて夏県を攻め取らせたが、陥落させることができず、軍を城南に置いた。崇茂は賊将尉遅敬徳とともに孝基の営を襲撃して破り、諸軍はともに陥落し、四将はともに没した。敬徳は澮州に帰還したが、太宗は美良川で邀撃し、これを大破した。敬徳は賊将尋相とともにまた蒲州の王行本を救援したが、太宗はふたたび蒲州でこれを破った。高祖はみずから蒲津関に行幸し、太宗は柏壁から軽騎で行在所の高祖に謁見した。宋金剛はついに絳州を包囲した。太宗が帰還すると、金剛は恐れて退却した。武周はふたたび浩州の李仲文を攻撃したが、たびたび戦って皆敗れ、また糧秣の輸送が続かず、賊の兵士は大いに飢えた。ここにおいて金剛はついに逃走した。太宗はふたたび雀鼠谷で金剛に追いつき、一日に八度戦い、皆これを破り、数万人を捕虜斬首し、輜重千余両を獲得した。金剛は介州に逃げ込んだ。王師はこれを追い詰めた。金剛にはなお二万の兵がおり、その西門から出て、城を背にして陣を布いた。太宗は諸将と力を合わせて戦いこれを破り、金剛は軽騎で遁走した。その驍将尉遅敬徳・尋相・張万歳はその精兵を収め、介州及び永安を挙げて降伏した。武周は大いに恐れ、五百騎を率いて并州を棄て北走し、乾燭谷から突厥に亡命した。金剛はふたたびその逃亡散乱した兵を収集して官軍に抵抗しようとしたが、人これに従う者はなく、百余騎とともにふたたび突厥に奔った。太宗は進軍して并州を平定し、故地をことごとく回復した。まもなく、金剛は突厥に背いて逃亡し、上谷に帰還しようとしたが、追撃の騎兵に捕らえられ、腰斬に処せられた。武周はまた馬邑に帰還しようと謀ったが、事が洩れ、突厥に殺された。武周が初めに挙兵してから死ぬまで、合わせて六年であった。初め、武周が兵を率いて南侵したとき、苑君璋が説いて言った、「唐主は一州の兵を挙げて三輔の地を平定し、郡県は影のごとく付き従い、向かうところ風靡するがごとし。これは固より天命であり、どうして人謀と言えようか。かつ并州以南は地形険阻であり、もし孤軍を懸けて深入りすれば、後続が続かないことを恐れる。突厥と連和し、唐朝と結んで援けとり、南面して孤を称するのが、足るべき上策である。」武周は聞き入れず、君璋を遣わして朔州を守らせ、ついに汾・晋を侵した。敗れた後、泣いて君璋に言った、「君の言葉を用いなかったことを恨む。ここに至るまでになったのだ。」

原文夏縣人呂崇茂殺縣令,自號魏王,以應賊。河東賊帥王行本又密與金剛連和,關中大駭。高祖命太宗益兵進討,屯於柏壁,相持者久之。又命永安王孝基、陝州總管於筠、工部尚書獨孤懷恩、內史侍郎唐儉進取夏縣,不能克,軍於城南。崇茂與賊將尉遲敬德襲破孝基營,諸軍並陷,四將俱沒。敬德還澮州,太宗邀擊於美良川,大破之。敬德與賊將尋相又援王行本於蒲州,太宗復破之於蒲州。高祖親幸蒲津關,太宗自柏壁輕騎謁高祖於行在所。宋金剛遂圍絳州。及太宗還,金剛懼而引退。武周復攻李仲文於浩州,頻戰皆敗,又饋運不屬,賊眾大餒,於是金剛遂遁。太宗復追及金剛於雀鼠谷,一日八戰,皆破之,俘斬數萬人,獲輜重千餘兩。金剛走入介州,王師逼之。金剛尚有眾二萬,出其西門,背城而陣,太宗與諸將力戰破之,金剛輕騎遁走。其驍將尉遲敬德、尋相、張萬歲收其精兵,舉介州及永安來降。武周大懼,率五百騎棄并州北走,自乾燭谷亡奔突厥。金剛復收其亡散以拒官軍,人莫之從,與百餘騎復奔突厥。太宗進平并州,悉復故地。未幾,金剛背突厥而亡,將還上谷,為追騎所獲,腰斬之。武周又欲謀歸馬邑,事洩,為突厥所殺。武周自初起至死,凡六載。初,武周引兵南侵,苑君璋說曰:「唐主舉一州之兵,定三輔之地,郡縣影附,所向風靡,此固天命,豈曰人謀?且并州已南,地形險阻,若懸軍深入,恐後無所繼,不如連和突厥,結援唐朝,南面稱孤,足為上策。」武周不聽,遣君璋守朔州,遂侵汾、晉。及敗,泣謂君璋曰:「恨不用君言,乃至於此!」

武周が死ぬと、突厥はまた君璋を大行臺とし、その余衆を統率させ、なお郁射設に命じて兵を監督させて鎮守を助けさせた。高祖は使者を遣わしてこれを諭した。君璋の部将高満政が君璋に言った、「夷狄は礼儀なく、もとより人類にあらず。どうして北面してこれに仕えようか。突厥をことごとく殺して唐朝に帰するに如くはない。」君璋は従わず、満政は人心に因って夜に君璋を脅迫し、君璋は突厥に亡命した。満政はついに城を挙げて降伏し、朔州総管に任じられ、栄国公に封ぜられた。

原文武周既死,突厥又以君璋為大行臺,統其餘眾,仍令郁射設督兵助鎮。高祖遣諭之,君璋部將高滿政謂君璋曰:「夷狄無禮,本非人類,豈可北面事之?不如盡殺突厥以歸唐朝。」君璋不從,滿政因人心夜逼君璋,君璋亡奔突厥。滿政遂以城來降,拜朔州總管,封榮國公。

翌年、君璋はふたたび突厥を引き連れて馬邑を攻撃し、満政はこれに死した。君璋はその党をことごとく殺して去り、退いて恒安を守った。君璋の統率する部衆は次第に離散し、勢い窮まって降伏を請うた。高祖はこれを許し、使者を遣わして金券を賜った。ちょうど突厥の頡利可汗がふたたび召し寄せたので、君璋は躊躇して決断できなかった。その子孝政が言った、「劉武周は十分な殷鑑である。今すでに唐に降りながら、また頡利に帰すれば、滅亡への道を取ることになる。糧食の備蓄はすでに尽き、人心はことごとく離れている。もしさらに遅留すれば、変は肘腋に生じるであろう。」恒安の人郭子威が君璋を説いて言った、「恒安の地は王者の旧都であり、山川の形勝は十分に険固たりうる。突厥はまさに強盛で、我が唇歯となる。この堅城を拠り、天下の変を観るに足る。どうして人に降らんと欲するのか。」君璋はその計策をよしとし、ついに我が行く人(使者)を捕らえて突厥に送り、突厥と合軍して太原の北境を寇した。君璋はふたたび頡利の政が乱れているのを見て、ついに率いる部衆を挙げて降伏した。安州都督ととくに任じられ、芮国公に封ぜられ、実封五百戸を賜った。

原文明年,君璋復引突厥來攻馬邑,滿政死之,君璋盡殺其黨而去,退保恆安。君璋所部稍稍離散,勢蹙請降,高祖許之,遣使賜以金券。會突厥頡利可汗復遣召之,君璋猶豫未決。其子孝政曰:「劉武周足為殷鑑。今既降唐,又歸頡利,取滅之道也。糧儲已盡,人情悉離,如更遲留,變生肘腋。」恆安人郭子威說君璋曰:「恆安之地,王者舊都,山川形勝,足為險固。突厥方強,為我唇齒。據此堅城,足觀天下之變,何乃欲降於人也?」君璋然其計,乃執我行人送於突厥,與突厥合軍寇太原之北境。君璋復見頡利政亂,竟率所部來降,拜安州都督,封芮國公,賜實封五百戶。

高開道

原文高開道

高開道は滄州陽信の人である。若いとき煮塩をして自給し、勇力があり、走って奔馬に及んだ。隋の大業の末、河間の人格謙が豆子〓に兵を擁した。開道はこれに従い、将軍に任じられた。後に謙が隋の軍に滅ぼされると、開道はその党百余りとともに海曲に亡匿した。ふたたび出て滄州を掠め、数百人を招集し、北に城鎮を掠め、臨渝から懐遠に至るまで、ことごとくこれを破り、その衆をことごとく有した。武徳元年、隋の将李景が北平郡を守った。開道は兵を率いてこれを包囲したが、連年陥落させることができなかった。景は自ら支えられないと判断し、城を抜けて去った。開道はまたその地を取って、漁陽郡を陥落させ、馬数千匹、兵およそ一万人を有し、自ら燕王と称し、漁陽に都した。先に、懐戎の沙門高曇晟という者がおり、県令が斎会を設けたとき、士女が大いに集まった。曇晟はその僧徒五十人とともに斎会の衆を擁して反乱を起こし、県令及び鎮将を殺し、自ら大乗皇帝と称し、尼の静宣を耶輸皇后と立て、建元して法輪とした。夜になると、人を遣わして開道を招き誘い、兄弟の契りを結び、改めて斉王に封じた。開道は五千の兵を率いてこれに帰し、数か月経ったとき、曇晟を襲撃して殺し、その衆をことごとく併せた。

原文高開道,滄州陽信人也。少以煮鹽自給,有勇力,走及奔馬。隋大業末,河間人格謙擁兵於豆子〓,開道往從之,署為將軍。後謙為隋師所滅,開道與其黨百餘人亡匿海曲。復出掠滄州,招集得數百人,北掠城鎮,臨渝至於懷遠,皆破之,悉有其眾。武德元年,隋將李景守北平郡,開道引兵圍之,連年不能克。景自度不能支,拔城而去。開道又取其地,進陷漁陽郡,有馬數千匹,眾且萬人,自立為燕王,都於漁陽。先是,有懷戎沙門高曇晟者,因縣令設齋,士女大集,曇晟與其僧徒五十人擁齋眾而反,殺縣令及鎮將,自稱大乘皇帝,立尼靜宣為耶輸皇后,建元為法輪。至夜,遣人招誘開道,結為兄弟,改封齊王。開道以眾五千人歸之,居數月,襲殺曇晟,悉並其眾。

三年、ふたたび燕王を称し、建元し、百官を設置した。羅芸が幽州におり、竇建徳に包囲された。開道に急を告げると、二千騎を率いてこれを救援した。建徳はその驍鋭を恐れ、ここにおいて引き去った。開道は羅芸を通じて使者を遣わして降伏した。詔して北平郡王に封じ、李氏の姓を賜い、蔚州総管に任じた。時に幽州は大飢饉であった。開道は粟を与えることを約束した。羅芸は老弱者を派遣して食を求めた。開道は皆厚く遇した。羅芸は大いに喜び、警戒せず、ついに兵三千人・車数百乗・驢馬千余匹を発し、開道に粟を請うた。開道はこれをことごとく留め、北は突厥と連合し、羅芸に絶交を告げ、ふたたび燕国を称した。

原文三年,復稱燕王,建元,署置百官。羅藝在幽州,為竇建德所圍,告急於開道,乃率二千騎援之。建德懼其驍銳,於是引去。開道因藝遣使來降,詔封北平郡王,賜姓李氏,授蔚州總管。時幽州大飢,開道許給之粟,藝遣老弱就食,開道皆厚遇之。藝甚悅,不以為虞,乃發兵三千人、車數百乘、驢馬千餘匹,請粟於開道。悉留之,北連突厥,告絕於藝,復稱燕國。

この年、劉黑闥が山東に侵入し、高開道はこれと連合し、兵を率いて易州を攻めたが、落とせずに退いた。また、その将謝稜をして芸に偽降させ、援兵を請わせた。芸は兵を出して応じたが、将に懐戎に至らんとするや、稜は芸の兵を襲撃して破った。開道はまた突厥を引き連れて頻りに来寇し、恒・定・幽・易等の州は皆その患いに罹った。突厥の頡利可汗が馬邑を攻めたとき、開道の兵は攻具を善くするをもって、これを引き連れて馬邑を陥落させて去った。時に天下は大いに定まり、開道は降伏しようとしたが、自ら数度翻覆したことを以て、終に罪を得ることを恐れ、また北は突厥の衆を恃んだ。その将兵の多くは山東の人で、故郷に帰りたいと思い、人心は頗る離れていた。先に、劉黑闥の亡将張君立が開道のもとに奔り、これとその将張金樹と潜かに結び連なった。時に開道の親兵数百人は、皆勇敢の士で、「義児」と号し、常に閣内にいた。金樹は毎度兵を督して閣下にいた。金樹が開道を囲まんとするや、潜かに数人をその閣内に入れ、諸義児と陽に遊戯を為し、日が暮れんとするに及び、陰にその弓弦を断ち、またその刀を隠し、その槊を床下に伏せて集めた。暮れに及んで、金樹はその徒を率いて大呼して来たり閣下を攻め、先に遣わした人が義児の槊を抱いて一時に出で、諸義児は急ぎ出戦せんとしたが、弓弦は皆絶え、刀仗は既に失せていた。君立は外城で火を挙げて相応じ、表裏驚擾した。義児は窮迫し、争って金樹に帰した。開道は免れ難きを知り、ここに甲を擐ぎ兵を持って堂上に坐し、その妻妾と楽しく酣宴した。金樹の党はその勇を憚り、逼ることを敢えなかった。天将に暁けんとするや、開道は先ずその妻妾及び諸子を縊り、後に自殺した。金樹は兵を陳べ、その義児を執えて、皆斬った。また張君立を殺し、死者五百余人、遂に国に帰した。開道の初め起りて滅ぶまで、凡そ八年。その地を以て媯州とした。

原文是歲,劉黑闥入寇山東,開道與之連和,引兵攻易州,不克而退。又遣其將謝稜詐降於藝,請兵援接,藝出兵應之,將至懷戎,稜襲破藝兵。開道又引突厥頻來為寇,恆、定、幽、易等州皆罹其患。突厥頡利可汗攻馬邑,以開道兵善為攻具,引之陷馬邑而去。時天下大定,開道欲降,自以數翻復,終恐致罪,又北恃突厥之眾。其將士多山東人,思還本士,人心頗離。先是,劉黑闥亡將張君立奔於開道,因與其將張金樹潛相結連。時開道親兵數百人,皆勇敢士也,號為「義兒」,常在閣內。金樹每督兵於閣下。金樹將圍開道,潛令數人入其閣內,與諸義兒陽為遊戲,至日將夕,陰斷其弓弦,又藏其刀,伏聚其槊於床下。迨暝,金樹以其徒大呼來攻閣下,向所遣人抱義兒槊一時而出,諸義兒遽將出戰,而弓弦皆絕,刀仗已失。君立於外城舉火相應,表裡驚擾。義兒窮蹙,爭歸金樹。開道知不免,於是擐甲持兵坐堂上,與其妻妾樂酣宴。金樹之黨憚其勇,不敢逼。天將曉,開道先縊其妻妾及諸子而後自殺。金樹陳兵,執其義兒,皆斬之。又殺張君立,死者五百餘人,遂歸國。開道自初起至滅,凡八歲。以其地為媯州。

劉黑闥

原文劉黑闥

劉黑闥は、貝州漳南の人である。無頼で、酒を嗜み、博奕を好み、産業を治めず、父兄はこれを患った。竇建徳と少時より相善くし、家貧しく自給するものなく、建徳は毎度これを資した。隋末に亡命し、郝孝徳に従って群盗となり、後に李密に帰して裨将となった。密が敗れると、王世充に虜われた。世充は平素その勇を聞き、騎将とした。世充の為すところを見て窃かにこれを笑い、ここに亡れて建徳に帰し、建徳はこれを署して将軍とし、漢東郡公に封じ、奇兵を将いて東西掩襲せしめた。黒闥は既に諸賊を遍く遊歴し、時変を観るに善く、素より驍勇で、多く奸詐であった。建徳に経略する所あれば、必ず専ら斥候を知らしめ、常に間に入って敵中に虚実を覘視し、あるいはその不意に出で、機に乗じて奮撃し、多く克獲し、軍中では神勇と号した。建徳が敗れるに及び、黒闥は自ら漳南に匿れ、門を杜って出でず。会に高祖が建徳の故将を征し、范願・董康買・曹湛・高雅賢等が将に長安に赴かんとするや、願等は相謀って曰く、「王世充は洛陽らくようを以て降り、その下の驍将公卿・単雄信の徒は皆夷滅せられ、我ら輩若し長安に至らば、必ず保全の理無からん。且つ夏王は往日淮安王を擒獲し、その性命を全うし、遣わして還し送らしめた。唐家今夏王を得て、即ち殺害を加う、我ら輩の残命、若し兵を起こして仇を報いざれば、実にまた天下の人物に見るを恥ず。」ここに相率いて復た謀反を謀った。卜うに劉氏を主とすれば吉なり、共に漳南に往き、建徳の故将劉雅に見えて告げ、且つ請う。雅曰く、「天下已に平らぎ、楽しむは丘園に農夫たるに在り。起兵の事は、願う所に非ず。」衆怒り、雅を殺して去った。范願曰く、「漢東公劉黒闥は果敢にして奇略多く、寛仁にして衆を容れ、恩は士卒に結ぶ。吾久しく常に聞く、劉氏に王者有るべしと、今大事を挙げ、夏王の衆を収めんと欲すれば、その人に非ざれば莫し。」遂に黒闥に詣り、以てその意を告ぐ。黒闥大いに悦び、牛を殺して衆を会し、兵を挙げて百余りを得、漳南県を襲撃して破った。貝州刺史戴元詳・魏州刺史権威が兵を合わせてこれを撃つも、並びに黒闥に敗れ、元詳及び威は皆陣に没した。黒闥はその器械及び余衆千余人を尽く収め、ここに范願・高雅賢等の宿旧左右漸く来たり帰附し、衆二千人に至った。

原文劉黑闥,貝州漳南人。無賴,嗜酒,好博弈,不治產業,父兄患之。與竇建德少相友善,家貧,無以自給,建德每資之。隋末亡命,從郝孝德為群盜,後歸李密為裨將。密敗,為王世充所虜。世充素聞其勇,以為騎將。見世充所為而竊笑之,乃亡歸建德,建德署為將軍,封漢東郡公,令將奇兵東西掩襲。黑闥既遍游諸賊,善觀時變,素驍勇,多奸詐。建德有所經略,必令專知斥候,常間入敵中覘視虛實,或出其不意,乘機奮擊,多所克獲,軍中號為神勇。及建德敗,黑闥自匿於漳南,杜門不出。會高祖征建德故將,范願、董康買、曹湛、高雅賢等將赴長安,願等相與謀曰:「王世充以洛陽降,其下驍將公卿、單雄信之徒皆被夷滅,我輩若至長安,必無保全之理。且夏王往日擒獲淮安王,全其性命,遣送還之。唐家今得夏王,即加殺害,我輩殘命,若不起兵報仇,實亦恥見天下人物。」於是相率復謀反叛。卜以劉氏為主吉,共往漳南,見建德故將劉雅告之,且請。雅曰:「天下已平,樂在丘園為農夫耳。起兵之事,非所願也。」眾怒,殺雅而去。范願曰:「漢東公劉黑闥果敢多奇略,寬仁容眾,恩結於士卒。吾久常聞劉氏當有王者,今舉大事,欲收夏王之眾,非其人莫可。」遂往詣黑闥,以告其意。黑闥大悅,殺牛會眾,舉兵得百餘人,襲破漳南縣。貝州刺史戴元詳、魏州刺史權威合兵擊之,並為黑闥所敗,元詳及威皆沒於陣。黑闥盡收其器械及餘眾千餘人,於是范願、高雅賢等宿舊左右漸來歸附,眾至二千人。

武徳四年七月、漳南に壇を設け、建徳を祭り、挙兵の意を告げ、自ら大将軍と称した。淮安王神通・将軍秦武通・王行敏が前後してこれを討つも、皆その為に敗れた。ここに趙・魏に移書し、その建徳の将士、往々官吏を殺して応ず。黒闥は北に懐戎の賊帥高開道と連なり、兵鋒甚だ鋭く、宗城に進み、衆数万を有した。黎州総管李世勣は拒ぐ能わず、城を棄てて洺州に走り保った。黒闥は追撃してこれを破り、歩卒五千人は皆陣に歿し、世勣と武通は僅かに身を以て免れた。黒闥はまた王琮を征して中書令とし、劉斌を中書侍郎として、以て文翰を掌らしめた。使いを遣わして北に突厥と連なり、頡利可汗は俟斤宋耶那を遣わし、胡騎を率いてこれに従わしめた。黒闥の軍大いに振い、相州を陥落させた。半年にして、悉く建徳の故地を回復した。兗州の賊帥徐円朗は斉・兗の地を挙げて黒闥に附き、その勢い益々張った。

原文武德四年七月,設壇於漳南,祭建德,告以舉兵之意,自稱大將軍。淮安王神通、將軍秦武通、王行敏前後討之,皆為所敗。於是移書趙、魏,其建德將士,往往殺官吏以應。黑闥北連懷戎賊帥高開道,兵鋒甚銳,進至宗城,有眾數萬。黎州總管李世勣不能拒,棄城走保洺州。黑闥追擊破之,步卒五千人,皆歿於陣,世勣與武通僅以身免。黑闥又征王琮為中書令,劉斌為中書侍郎,以掌文翰。遣使北連突厥,頡利可汗遣俟斤宋耶那,率胡騎從之。黑闥軍大振,進陷相州。半歲,悉復建德故地。兗州賊帥徐圓朗舉齊、兗之地以附於黑闥,其勢益張。

五年正月、黒闥は相州に至り、僭って漢東王と称し、元を天造と建てた。范願を左僕射とし、董康買を兵部尚書とし、高雅賢を右領軍とし、また建徳の時の文武を引いて悉く本位に復し、洺州に都した。その法を設け政を行うは、皆建徳に師いながら攻戦勇決はこれを過ぎた。ここに太宗また自ら請いて兵を統べこれを討ち、師は衛州に次いだ。黒闥は数度兵を以て挑戦するも、輒ち官軍に挫かれた。黒闥懼れ、相州を委ね、列人営に退き保った。時に洺水県の人が内応を請うたので、太宗は総管羅士信を遣わして城に入り据え守らしめたが、黒闥はまたその城を攻め陥し、士信はこれに死し、遂に洺州を据えた。三月、太宗は洺水を阻んで営を列ねてこれを逼り、奇兵を分遣して、その糧道を断った。黒闥はまた数度挑戦するも、太宗は堅壁して応ぜず、以てその鋒を挫いた。黒闥の城中糧尽き、太宗はその必ず来たり決戦せんことを度り、予め洺水の上流を擁し、堤を守る吏に謂いて曰く、「我賊を撃つ日、賊の半ば度るを候いて堰を決せよ。」黒闥果たして歩騎二万を率いて洺水を渡り陣し、官軍と大戦し、賊衆大いに潰え、水また大いに至り、黒闥の衆は渡るを得ず、首級万余りを斬り、溺死者数千人。黒闥は范願等と千余人を以て突厥に奔り、山東悉く定まった。太宗は遂に軍を河南に引いて徐円朗を討った。

原文五年正月,黑闥至相州,僭稱漢東王,建元為天造。以范願為左僕射,董康買為兵部尚書,高雅賢為右領軍,又引建德時文武悉復本位,都於洺州。其設法行政,皆師建德而攻戰勇決過之。於是太宗又自請統兵討之,師次衛州,黑闥數以兵挑戰,輒為官軍所挫。黑闥懼,委相州,而退保於列人營。時洺水縣人請為內應,太宗遣總管羅士信入城據守,黑闥又攻陷其城,士信死之,遂據洺州。三月,太宗阻洺水列營以逼之,分遣奇兵,斷其糧道。黑闥又數挑戰,太宗堅壁不應,以挫其鋒。黑闥城中糧盡,太宗度其必來決戰,預擁洺水上流,謂守堤吏曰:「我擊賊之日,候賊半度而決堰。」黑闥果率步騎二萬渡洺水而陣,與官軍大戰,賊眾大潰,水又大至,黑闥眾不得渡,斬首萬餘級,溺死者數千人。黑闥與范願等以千餘人奔於突厥,山東悉定。太宗遂引軍於河南以討徐圓朗。

六月、黒闥はまた突厥より兵を借り、山東を寇す。七月、定州に至る。その旧将曹湛・董康買は先に亡命して鮮虞にあり、また兵を聚めて黒闥に応ず。高祖は淮陽王李道玄・原国公史万宝を遣わしてこれを討たしむ。下博に戦い、王師敗績し、道玄は陣に死し、万宝は軽騎にて逃げ還る。ここにおいて河北の諸州尽く叛き、また黒闥に降る。旬日の間に悉く故城を復し、また洺州に都す。十一月、高祖は斉王李元吉を遣わしてこれを撃たしむも、遅留して進まず。また隠太子李建成に兵を督して進討せしむ。頻りに戦いて大捷す。六年二月、また館陶においてこれを大破す。黒闥は軍を引きて北に走る。建成と元吉は千余騎を合わせて永済渠に屯し、騎を放ってこれを撃つ。黒闥敗走し、騎将劉弘基に命じてこれを追わしむ。黒闥は王師に迫られ、休息を得ず、道遠く兵疲れ、饒陽に至るに比して、従う者纔かに百余人、衆皆飢え、城に入りて食を求む。黒闥の署する饒州刺史葛徳威、門を出でて迎え拝し、これを延いて城に入らしむ。黒闥初めは許さず、徳威誤って誠敬を為し、涕泣して固く請う。黒闥乃ち進み、城の傍らに至る。徳威兵を勒してこれを執り、建成に送る。洺州にて斬る。山東また定まる。

原文六月,黑闥復借兵於突厥,來寇山東。七月,至定州,其舊將曹湛、董康買先亡在鮮虞,復聚兵以應黑闥。高祖遣淮陽王道玄、原國公史萬寶討之,戰於下博,王師敗績,道玄死於陣,萬寶輕騎逃還。由是河北諸州盡叛,又降於黑闥,旬日間悉復故城,復都洺州。十一月,高祖遣齊王元吉擊之,遲留不進。又令隱太子建成督兵進討,頻戰大捷。六年二月,又大破之於館陶,黑闥引軍北走。建成與元吉合千餘騎屯於永濟渠,縱騎擊之,黑闥敗走,命騎將劉弘基追之。黑闥為王師所蹙,不得休息,道遠兵疲,比至饒陽,從者才百餘人,眾皆餒,入城求食。黑闥所署饒州刺史葛德威出門迎拜,延之入城。黑闥初不許,德威謬為誠敬,涕泣固請。黑闥乃進,至城傍,德威勒兵執之,送於建成,斬於洺州,山東復定。

徐円朗

原文徐圓朗

徐円朗は、兗州の人なり。隋末、亡命して群盗と為り、本郡を拠り、兵を放って地を略す。琅邪より巳西、北は東平に至るまで、尽くこれを有ち、勝兵二万余人。初め李密に附き、密敗れ、王世充に帰す。及び洛陽平らぎ、国に帰し、兗州総管に拝せられ、魯郡公に封ぜらる。高祖は葛国公盛彦師に命じて河南を安輯せしむ。任城に行き至る。時に劉黒闥乱を作し、潜かに円朗と結ぶ。ここにおいて彦師を執り挙兵して黒闥に応じ、自ら魯王と称す。黒闥は円朗を大行台元帥と為す。兗・鄆・陳・杞・伊・洛・曹・戴等八州の豪猾、皆その長吏を殺してこれに応ず。太宗黒闥を平らげ、師を進めて曹州に至り、淮安王李神通及び李世勣を遣わしてこれを攻む。円朗数え戦に出でて利あらず、城内の百姓争って城を逾えて降る。円朗窮蹙し、数騎とともに城を棄て夜遁る。野人に殺さる。その地悉く平らぐ。

原文徐圓朗者,兗州人也。隋末,亡命為群盜,據本郡,縱兵略地,自琅邪巳西,北至東平,盡有之,勝兵二萬餘人。初附於李密,密敗,歸王世充。及洛陽平,歸國,拜兗州總管,封魯郡公。高祖令葛國公盛彥師安輯河南,行至任城。會劉黑闥作亂,潛結於圓朗,因執彥師舉兵應黑闥,自稱魯王。黑闥以圓朗為大行台元帥,兗、鄆、陳、杞、伊、洛、曹、戴等八州豪猾,皆殺其長吏以應之。太宗平黑闥,進師曹州,遣淮安王神通及李世勣攻之。圓朗數出戰,不利,城內百姓爭逾城降。圓朗窮蹙,與數騎棄城夜遁,為野人所殺,其地悉平。

史臣曰く

原文史臣曰

史臣曰く、薛挙父子は勇悍人倫に絶え、性皆殺を好む。仁杲特に甚だしく、恩無く衆叛き、猛と雖も何を為さん。李軌窃かに鷹揚を拠り、僭号して河西にあり、隋朝の官属を安んじ、その財を奪わず。李贇の甲兵を破り、その衆を放ち還す。これその興る所以なり。及び謀主を殺害し、妖巫を崇信し、衆叛き親離る。その亡ぶや、宜なるかな。武周始めは鼠窃と為り、偶々鴟張に恣し、君璋の謀を用いず、竟に突厥に殺さる。苑君璋及び余衆を総べ、別に異図を生ず。頡利の朝に帰するを見るも、亦是れ機を見る者なり。黒闥・開道は勇にして謀無く、その行師を顧みるに、只だ是れ狂賊、皆麾下に殺さる。衆を馭するの道謬れるかな。

原文史臣曰:薛舉父子勇悍絕倫,性皆好殺,仁杲尤甚,無恩眾叛,雖猛何為?李軌竊據鷹揚,僭號河西,安隋朝官屬,不奪其財;破李贇甲兵,放還其眾,是其興也。及殺害謀主,崇信妖巫,眾叛親離,其亡也,宜哉!武周始為鼠竊,偶恣鴟張,不用君璋之謀,竟為突厥所殺。苑君璋及總餘眾,別生異圖,見頡利歸朝,亦是見機者也。黑闥、開道,勇而無謀,顧其行師,祗是狂賊,皆為麾下所殺,馭眾之道謬哉。

賛に曰く、国に紀綱無く、盗草沢より興る。隋の乱有らざれば、焉んぞ唐の徳を知らん。

原文贊曰:國無紀綱,盜興草澤。不有隋亂,焉知唐德?