舊唐書

巻054

巻054

舊唐書

原文舊唐書

卷五十四

原文卷五十四

列傳第四 王世充 竇建德

原文列傳第四 王世充 竇建德

王世充

原文王世充

王世充、字は行満、本姓は支、西域の胡人である。新豊に寓居した。祖父の支頹耨は早くに死んだ。父の収は、母が再嫁して霸は城の王氏に嫁いだのに従い、その姓を冒した。汴州長史に至った。世充は経史に広く通じ、特に兵法と亀策・推歩の術を好んだ。開皇年間、軍功により儀同に任ぜられ、累進して兵部員外郎となった。上奏に巧みで、法律に明るく習熟していたが、法文を弄び、心を高下させた。あるいは反駁・難問する者があれば、世充は口達者に非を飾り、議論が鋭く起こるので、人々はそれが正しくないと知りながらも、屈服させることができなかった。

原文王世充,字行滿,本姓支,西域胡人也。寓居新豐。祖支頹耨,早死。父收,隨母嫁霸城王氏,因冒姓焉,仕至汴州長史。世充頗涉經史,尤好兵法及龜策、推步之術。開皇中,以軍功拜儀同,累轉兵部員外郎。善敷奏,明習法律,然舞弄文法,高下其心。或有駁難之者,世充利口飾非,辭議鋒起,眾雖知其不可而莫能屈。

大業年間、累進して江都丞となり、江都宮監を兼ねた。時に煬帝はしばしば江都に行幸した。世充は主君の顔色を窺うのが巧みで、阿諛して意に順い、毎度入って事を言上すれば、帝は必ず善しとした。そこで池や台を彫飾し、ひそかに遠方の珍物を奏上して、帝に媚びた。これにより帝はますます彼を親しんだ。世充は隋の政治が乱れようとしていることを知り、ひそかに豪傑と結び、多くの人心を収め、獄に繋がれ罪に当たる者があれば、皆枉げて法を出して赦し、私恩を樹てた。楊玄感が乱を起こすと、呉人の朱燮・晋陵人の管崇が江南で兵を起こしてこれに応じ、自ら将軍と称し、十数万の衆を擁した。隋は将軍の吐万緒・魚倶羅らを派遣して討たせたが、勝てなかった。世充はその偏将となり、江都で一万余人を募り、頻りにこれを撃破した。勝利するたびに、必ず功を部下に帰し、得た戦利品は全て士卒に推し与えた。これにより人々は争って彼に用いられ、功績が最も多かった。

原文大業中,累遷江都丞,兼領江都宮監。時煬帝數幸江都,世充善候人主顏色,阿諛順旨,每入言事,帝必稱善。乃雕飾池臺,陰奏遠方珍物,以媚於帝,由是益暱之。世充知隋政將亂,陰結豪俊,多收群心,有繫獄抵罪,皆枉法出之,以樹私恩。及楊玄感作亂,吳人朱燮、晉陵人管崇起兵江南以應之,自稱將軍,擁眾十餘萬。隋遣將軍吐萬緒、魚俱羅等討之,不克。世充為其偏將,募江都萬餘人,頻擊破之。每有克捷,必歸功於下,所獲軍實,皆推與士卒,由此人爭為用,功最居多。

十年、斉郡の賊帥孟譲が長白山から諸郡を寇掠し、盱眙に至り、十数万の衆を有した。世充は兵をもってこれを防ぎ、都梁山に拠り、五つの柵を築き、相持って戦わず、わざと兵が逃げたと偽り、疲弊した軍勢で弱さを示した。譲は笑って言った、「王世充は法文を弄ぶ小役人に過ぎぬ。どうして兵を率いることができようか。我が生け捕りにして、鼓行して江都に入ろう」。時に百姓は皆堡塁に入り、野に掠めるものはなく、賊衆は次第に飢え、また柵がその道を塞いで南侵できないのを苦にし、すぐに兵を分けて五つの柵を包囲した。世充は毎日これを攻撃し、表向きは不利を装い、走って柵に戻った。このように数日が過ぎ、譲はますます彼を軽んじ、やや人を分けて南方で掠奪させ、柵を包囲するのに十分な兵だけを残した。世充はその隙を知り、営中でかまどを平らにし幕を撤去し、方陣を敷き、四面を外向きにし、柵を壊して出撃し、奮撃して大いにこれを破った。譲は数十騎で逃げ去り、首級一万余を斬り、十数万人を捕虜とした。煬帝は世充に将帥の才略があるとして、再び兵を率いて諸々の小盗賊を討たせ、向かうところ全て平定した。

原文十年,齊郡賊帥孟讓自長白山寇掠諸郡,至盱眙,有眾十餘萬。世充以兵拒之,保都梁山,為五柵,相持不戰,乃倡言兵走,羸師示弱。讓笑曰:「王世充文法小吏,安能領兵?吾令生縛取之,鼓行而入江都。」時百姓皆入壁,野無所掠,賊眾漸餒,又苦柵當其道,不得南侵,即分兵圍五柵。世充每日擊之,陽不利,走還入柵。如是數日,讓益輕之,乃稍分人於南方抄,留兵才足以圍柵。世充知其懈,乃於營中夷灶撤幕,投方陣,四面外向,毀柵而出,奮擊,大破之,讓以數十騎遁去,斬首萬餘級,俘虜十餘萬人。煬帝以世充有將帥才略,復遣領兵討諸小盜,所向盡平。

十一年、突厥が雁門で煬帝を包囲した。世充は江都の人々をことごとく発して難に赴かんとし、軍中では髪を振り乱し顔を汚し、限りなく悲しみ泣き、昼夜甲を解かず、草を敷いて臥した。煬帝はこれを聞き、忠誠とみなし、ますます信任した。十二年、江都通守に遷った。時に厭次県の人格謙が数年盗賊となり、兵十余万を率いて豆子〓におり、太僕卿楊義臣に殺された。世充は師を率いてその残党を撃ち、これを破った。また南陽で盧明月を撃ち、数万を虜獲した。後に江都に戻ると、煬帝は大いに喜び、自ら杯の酒を執ってこれを賜った。李密が洛口倉を陥落させ、東都に進逼すると、煬帝は特に詔して世充に大いに兵を発させ、洛口で密を防がせた。前後百余戦、勝負はなかった。また軍中に遣わして世充を将軍に拝し、急いで賊を破るよう命じた。世充は軍を率いて洛水を渡り、李密と戦ったが、世充の軍は敗北し、溺死者一万余人、そこで残った衆を率いて河陽に帰った。時に天寒く大雪が降り、兵士は道中で凍死する者また数万人、河陽に至った時には、わずか千数に過ぎなかった。世充は自ら獄に繋がって罪を請うた。越王侗は使者を遣わしてこれを赦し、洛陽らくように召還し、含嘉倉城に営を置かせ、逃亡・離散した者を収容し合わせ、再び一万余人を得た。

原文十一年,突厥圍煬帝於雁門。世充盡發江都人將往赴難,在軍中蓬首垢面,悲泣無度,曉夜不解甲,藉草而臥。煬帝聞之,以為忠,益信任之。十二年,遷江都通守。時厭次人格謙為盜數年,兵十餘萬在豆子〓中,為太僕卿楊義臣所殺,世充帥師擊其餘眾,破之。又擊盧明月於南陽,虜獲數萬。後還江都,煬帝大悅,自執杯酒以賜之。及李密攻陷洛口倉,進逼東都,煬帝特詔世充大發兵,於洛口拒密,前後百餘戰,未有勝負。又遣就軍拜世充為將軍,趣令破賊。世充引軍渡洛水,與李密戰,世充軍敗績,溺死者萬餘人,乃率餘眾歸河陽。時天寒大雪,兵士在道凍死者又數萬人,比至河陽,才以千數。世充自繫獄請罪,越王侗遣使赦之,徵還洛陽,置營於含嘉倉城,收合亡散,復得萬餘人。

やがて宇文化及が難を起こすと、太府卿元文都・武衛将軍皇甫無逸・右司郎中盧楚らは、越王侗を奉じて東都で帝位を嗣がせ、世充を吏部尚書に拝し、鄭国公に封じた。文都は楚らに言った、「今、化及が主君を弑しい逆しいぎゃくし、仇恥は未だ報いられていない。我らは戈を枕にする志はあるが、力は及ばない。国のために計るには、尊官をもって李密を寵し、庫物の権をもって彼を誘い、化及を撃たせるのが良い。二賊を互いに戦わせ、化及が破れた後は、密の兵もまた疲弊している。またその士卒は我が賞賜を得、我が官位に居り、内外相親しみ、反間しやすい。我が師は力を養ってその疲弊に乗ずれば、密もまた図ることができよう」。楚らはこれを良しとした。即日に使者を遣わして密を太尉・尚書令しょうしょれいに拝し、化及を討たせた。密はそこで臣を称して制を奉じ、兵をもって化及を黎陽で防いだ。戦いに勝つたびに、使者を遣わして勝利を告げ、人々は皆喜んだ。世充のみが麾下の諸将に言った、「文都の輩は、刀筆の吏に過ぎぬ。我はその情勢を見るに、必ずや李密に擒えられるであろう。かつ我が軍人は毎度密と戦い、その父兄子弟を殺し、前後すでに多い。一旦その下に立てば、我らは生き残れぬであろう!」。言葉を発してその衆を激怒させた。文都はこれを知って大いに恐れ、楚らと謀り、世充が内に入った時に、甲兵を伏せてこれを殺そうとし、期日を定めた。納言段達は凡庸で懦弱であり、事が成就しないことを恐れ、その女婿張志に楚らの謀を告げさせて世充に知らせた。その夜、兵を率いて宮城を包囲し、将軍費曜・田闍らが東太陽門外で防戦したが、曜の軍は敗れ、世充は遂に門を攻めて入り、無逸は単騎で遁走し、楚を捕らえて殺した。時に宮門は閉ざされ、世充は人を遣わして門を叩き侗に言わせた、「元文都らは皇帝を捕らえて李密に降らせようとしています。段達が知って臣に告げました。臣は敢えて反逆するのではなく、反逆者を誅するだけです」。初め、文都は変事を聞き、入って侗を乾陽殿に奉じ、兵を陳べてこれを守らせ、将帥に城に乗じて難を防がせた。段達は侗の命を偽り、文都を捕らえて世充に送り、至れば乱打して死なせた。達はまた侗の命を偽り、門を開いて世充を入れさせた。世充は全て人を遣わして宿衛の者を代えさせ、その後に入謁して陳謝し言った、「文都らは無状で、互いに屠害を謀りました。事急のためこのようにしましたが、敢えて国に背くつもりはありません」。侗は彼と盟を結んだ。その日、尚書左僕射に進拝し、内外の諸軍事を総督した。世充は含嘉城を去り、尚書省に移り住み、朝政を専断した。その兄の世惲を内史令とし、禁中に入居させ、子弟は皆兵馬を擁し、諸々の城邑を鎮守させた。

原文俄而宇文化及作難,太府卿元文都、武衛將軍皇甫無逸、右司郎中盧楚,奉越王侗嗣位於東都,拜世充為吏部尚書,封鄭國公。文都謂楚等曰:「今化及弒逆,讎恥未報,吾雖志在枕戈,而力所不及。為國計者,莫如以尊官寵李密,以庫物權啖之,使擊化及,令兩賊自鬬,化及既破,而密之兵固亦疲矣。又其士卒得我之賞,居我之官,內外相親,易為反間,我師養力以乘其弊,則密亦可圖也。」楚等以為然。即日遣使拜密為太尉、尚書令,令討化及。密遂稱臣奉制,以兵拒化及於黎陽。每戰勝,則遣使告捷,眾皆悅。世充獨謂其麾下諸將曰:「文都之輩,刀筆吏耳,吾觀其勢,必為李密所擒。且吾軍人每與密戰,殺其父兄子弟,前後已多,一旦為之下,吾屬無類矣!」出言以激怒其眾。文都知而大懼,與楚等謀,因世充入內,伏甲而殺之,期有日矣。納言段達庸懦,恐事不果,遣其女婿張志以楚等謀告世充。其夜,勒兵圍宮城,將軍費曜、田闍等拒戰於東太陽門外,曜軍敗,世充遂攻門而入,無逸以單騎遁走,獲楚殺之。時宮門閉,世充遣人扣門言於侗曰:「元文都等欲執皇帝降於李密,段達知而告臣,臣非敢反,誅反者耳。」初,文都聞變,入奉侗於乾陽殿,陳兵衛之,令將帥乘城以拒難。段達矯侗命,執文都送於世充,至則亂擊而死。達又矯侗命,開門以納世充。世充悉遣人代宿衛者,然後入謁陳謝曰:「文都等無狀,謀相屠害,事急為此,不敢背國。」侗與之盟。其日,進拜尚書左僕射,總督內外諸軍事。世充去含嘉城,移居尚書省,專宰朝政。以其兄世惲為內史令,入居禁中,子弟咸擁兵馬,鎮諸城邑。

間もなく、李密は宇文化及を破って帰還したが、その精鋭の兵と良馬は多く戦死し、士卒は疲労困憊していた。王世充はその疲弊に乗じて撃とうとしたが、人心が一つにならないことを恐れ、鬼神を仮託し、周公の夢を見たと述べた。そこで洛水のほとりに祠を立て、巫を遣わして宣言させた。周公が僕射(王世充)に李密を急いで討つよう命じ、大功を立てるであろう、さもなければ兵は皆疫病で死ぬであろうと。世充の兵は楚の人が多く、俗に妖言を信じるので、衆は皆戦いを請うた。世充は精鋭勇猛な者を選び練り、二万余人を得、馬二千余匹を得て、洛水の南に軍を置いた。李密の軍は偃師の北山の上にあった。時に李密は宇文化及を新たに破ったばかりで、世充を軽んじる心があり、壁壘を設けなかった。世充は夜に三百余騎を遣わし北山に潜り込み、溪谷の中に伏せさせ、軍人に馬に秣をやり、蓐で食事をさせ、夜明け近くに李密に迫った。李密は兵を出して応じたが、陣が列を成さないうちに両軍が合戦した。その伏兵が発し、高みに乗じて下り、馳せて李密の営を圧し、また火を放ってその廬舎を焼いたので、李密の軍は潰え、その将張童仁・陳智略を降し、進んで偃師を下し、李密は走って洛口を保った。初め、世充の兄世偉と子の玄応が宇文化及に従って東郡に至り、李密がこれを得て城中に囚えていたが、この時に至ってことごとくこれを捕らえた。また李密の長史邴元真の妻子、司馬鄭虔象の母および諸将の子弟を捕らえ、皆これを撫慰し、各々密かにその父兄を呼ばせた。世充は兵を進め、洛口に次いだ。邴元真・鄭虔象らが倉城を挙げてこれに応じた。李密は数十騎で河陽に走り、余りの衆を率いて朝廷(唐)に入った。世充はその衆をことごとく収め、軍を整えて還った。楊侗は世充を進めて太尉に拝し、尚書省をその府とし、官属を備え置いた。世充は三つの掲示板を府門の外に立てた。一つは文才学識が世務を助けうる者を求め、一つは武芸絶人で鋒を摧き陣を陷す者を求め、一つは冤枉を理め擁抑して申し上げられない者を能くする者を求めた。ここにおいて上書して事を陳べる者が日に数百あり、世充は皆みずから省み覧て、慇懃に慰労した。小恵を行なうことを好み、下は軍営の騎士に至るまで、皆飾った言葉でこれを誘った。当時、識者はその心口相違するのを見て、頗る二心を抱くことを以てした。世充はかつて楊侗の前で食を賜わり、家に帰って大いに嘔吐し、毒に遇ったことによるものと疑い、ここより朝請せず、楊侗と絶った。雲定興・段達を遣わして楊侗に奏上させ、九錫の礼を加えることを請うた。二年三月、ついに策を授けて相国とし、百揆を総べ、鄭王に封じ、九錫の備物を加えた。道士の桓法嗣という者がおり、みずから図讖を解すると言い、そこで『孔子閉房記』を上り、男が一竿を持って羊を駆る絵を描いた。解釈して云う、「隋は楊姓なり。干一は王の字なり。王が羊の後に居るは、相国が隋に代わって帝となることを明らかにするなり」と。また『荘子』の「人間世」「徳充符」の二篇を取ってこれを上った。法嗣は釈して曰く、「上篇は『世』を言い、下篇は『充』を言う、これ即ち相国の名なり、明らかに当に徳を人間に被わし、符命に応じて天子となるべし」と。世充は大いに喜んで曰く、「これ天命なり」と。再拝してこれを受け、即ち法嗣を諫議大夫とした。世充はまた雑鳥を網羅して取り、帛に書いてその頸に繫ぎ、みずから符命と言って散らし放った。弾射して鳥を得て来て献ずる者があれば、また官爵を拝した。段達・雲定興らが楊侗に見えて曰く、「天命は常ならず、鄭王の功徳甚だ盛んなり、願わくは陛下は揖讓して禅を告げ、唐・虞の跡に遵え」と。楊侗は怒って曰く、「天下は高祖こうそ(隋文帝)の天下なり、もし隋の徳未だ衰えずば、この言発すべからず、必ずや天命に改まる有らば、また何ぞ禅譲を論ぜん。公らは皆先朝の旧臣なり、忽ちにこの言有り、朕また当に何を望まんや」と。段達らは流涕せざる者なし。世充はまた人をして謂わしめて曰く、「今海内未だ定まらず、須らく長君を得べし、四方乂安を待ちて、子に復して明辟せしめん。必ずや前盟の如くならば、義違負せず」と。四月、楊侗の詔策を仮って禅位し、兄の世惲を遣わして含涼殿において楊侗を廃し、世充は僭って即ち皇帝の位に即き、建元して開明と曰い、国号を鄭とす。先ず同姓の王隆を淮陽王に封じ、整を東郡王に封じ、楷を馮翊王に封じ、素を楽安王に封じた。次に叔の瓊を陳王に封じ、兄の世衡を秦王に封じ、世偉を楚王に封じ、世惲を斉王に封じた。また瓊の子の辯を杞王に封じ、衡の子の虔寿を蔡王に封じ、偉の子の弘烈を魏王に封じ、行本を荊王に封じ、琬を代王に封じた。惲の子の仁則を唐王に封じ、道誠を衛王に封じ、道詢を趙王に封じ、道夌を燕王に封じた。兄の世師の子の太を宋王に封じ、君度を越王に封じた。子の玄応を立てて皇太子とし、子の玄恕を漢王に封じた。世充は毎に朝を聴くに、必ず慇懃に誨え諭し、言辞重復し、千端万緒、百司奉事するも、聴受に疲れた。或いは軽騎で街衢を遊歴しても、清道せず、百姓はただ路を避けるのみで、轡を按じて徐行し、百姓に謂って曰く、「昔時、天子は深く九重に坐し、下の事情、聞徹する由なし。世充は宝位を貪るに非ず、本時を救わんと欲す、今当に一州刺史の如く、毎事親ら覧み、士庶と共に朝政を評せん。門禁有限なるを恐れ、慮う壅塞に致らんことを、今ただ順天門外に座を置きて朝を聴く」と。また西朝堂に抑屈を受けることを令し、東朝堂に直諫を受けることを令した。ここにおいて書を献じ事を上る者、日に数百あり、条疏既に煩わしく、省覧遍からず、数日後は復た更に出でず。

原文未幾,李密破化及還,其勁兵良馬多戰死,士卒疲倦。世充欲乘其弊而擊之,恐人心不一,乃假托鬼神,言夢見周公。乃立祠於洛水,遣巫宣言周公欲令僕射急討李密,當有大功,不則兵皆疫死。世充兵多楚人,俗信妖言,眾皆請戰。世充簡練精勇,得二萬餘人,馬二千餘匹,軍於洛水南。密軍偃師北山上。時密新破化及,有輕世充之心,不設壁壘。世充夜遣三百餘騎潛入北山,伏溪谷中,令軍人秣馬蓐食,遲明而薄密。密出兵應之,陳未成列而兩軍合戰。其伏兵發,乘高而下,馳壓密營,又縱火焚其廬舍,密軍潰,降其將張童仁、陳智略,進下偃師,密走保洛口。初,世充兄世偉及子玄應隨化及至東郡,密得而囚之於城中,至是盡獲之。又執密長史邴元真妻子、司馬鄭虔象之母及諸將子弟,皆撫慰之,各令潛呼其父兄。世充進兵,次洛口,邴元真、鄭虔象等舉倉城以應之。密以數十騎走河陽,率餘眾入朝。世充盡收其眾,振旅而還。侗進拜世充太尉,以尚書省為其府,備置官屬。世充立三榜於府門之外:一求文才學識堪濟世務者,一求武藝絕人摧鋒陷陣者,一求能理冤枉擁抑不申者。於是上書陳事,日有數百,世充皆躬自省覽,慇勤慰勞。好行小惠,下至軍營騎士,皆飾辭以誘之。當時有識者見其心口相違,頗以懷貳。世充嘗於侗前賜食,還家大嘔吐,疑遇毒所致,自是不復朝請,與侗絕矣。遣雲定興、段達入奏於侗,請加九錫之禮。二年三月,遂策授相國,總百揆,封鄭王,加九錫備物。有道士桓法嗣者,自言解圖讖,乃上《孔子閉房記》,畫作丈夫持一竿以驅羊。釋云:「隋,楊姓也。干一者,王字也。王居羊後,明相國代隋為帝也。」又取《莊子人間世》、《德充符》二篇上之,法嗣釋曰:「上篇言『世』,下篇言『充』,此即相國名矣,明當德被人間,而應符命為天子也。」世充大悅曰:「此天命也。」再拜受之,即以法嗣為諫議大夫。世充又羅取雜鳥,書帛繫其頸,自言符命而散放之。有彈射得鳥來而獻者,亦拜官爵。段達、雲定興等入見於侗曰:「天命不常,鄭王功德甚盛,願陛下揖讓告禪,遵唐、虞之跡。」侗怒曰:「天下者,高祖之天下,若隋德未衰,此言不可發,必天命有改,亦何論於禪讓?公等皆是先朝舊臣,忽有斯言,朕復當何所望!」段達等莫不流涕。世充又使人謂曰:「今海內未定,須得長君,待四方乂安,復子明辟。必若前盟,義不違負。」四月,假為侗詔策禪位,遣兄世惲廢侗於含涼殿,世充僭即皇帝位,建元曰開明,國號鄭。先封同姓王隆為淮陽王,整為東郡王,楷為馮翊王,素為樂安王。次封叔瓊為陳王,兄世衡為秦王,世偉為楚王,世惲為齊王。又封瓊子辯為杞王,衡子虔壽為蔡王,偉子弘烈為魏王,行本為荊王,琬為代王;惲子仁則為唐王,道誠為衛王,道詢為趙王,道〓夌為燕王;兄世師子太為宋王,君度為越王。立子玄應為皇太子,封子玄恕為漢王。世充每聽朝,必慇勤誨諭,言辭重復,千端萬緒,百司奉事,疲於聽受。或輕騎遊歷街衢,亦不清道,百姓但避路而已,按轡徐行,謂百姓曰:「昔時天子深坐九重,在下事情,無由聞徹。世充非貪寶位,本欲救時,今當如一州刺史,每事親覽,當與士庶共評朝政。恐門禁有限,慮致壅塞,今止順天門外置座聽朝。」又令西朝堂受抑屈,東朝堂受直諫。於是獻書上事,日有數百,條疏既煩,省覽難遍,數日後不復更出。

五月、世充の礼部尚書裴仁基およびその子の左輔大将軍行儼・尚書左丞宇文儒童ら数十人が謀って世充を誅し、復た楊侗を尊立しようとした。事洩れ、皆害せられ、その三族を夷した。六月、世惲は因って世充を勧めて楊侗を害し、以て衆望を絶たしめた。世充はその甥の行本を遣わして楊侗を鴆殺させ、謚して恭皇帝と曰う。その将軍羅士信はその衆千余人を率いて来降した。十月、世充は衆を率いて東に地を徇い、滑州に至り、仍って兵を以て黎陽に臨んだ。十一月、竇建徳は世充の殷州に入り、居人を殺掠し、積聚を焚焼し、以て黎陽の役に報いた。

原文五月,世充禮部尚書裴仁基及其子左輔大將軍行儼、尚書左丞宇文儒童等數十人謀誅世充,復尊立侗。事洩,皆見害,夷其三族。六月,世惲因勸世充害侗,以絕眾望。世充遣其侄行本鴆殺侗,謚曰恭皇帝。其將軍羅士信率其眾千餘人來降。十月,世充率眾東徇地,至於滑州,仍以兵臨黎陽。十一月,竇建德入世充之殷州,殺掠居人,焚燒積聚,以報黎陽之役。

三年二月、世充の殿中監豆盧達が来降した。世充は衆心が日に日に離反するのを見て、厳刑峻制を敷き、一家のうち一人でも逃亡すれば、老若を問わず皆連座して殺され、父子・兄弟・夫妻は互いに告発することを許して罪を免れた。また五家を相互に保証させ、一家全員が叛いて去ったのに隣人が気づかなかった場合は、四隣まで誅殺した。殺人は相次ぎ、逃亡はますます甚だしくなった。薪を採る者に至るまで、出入りに皆制限数があり、公私ともに窮迫し、皆生きるに耐えなかった。また宮城を大獄とし、気にかかる者がいれば、即座にその者とその家族を宮中に収監した。また毎回諸将を外出させる際にも、その親族を収容して宮内に人質とした。囚人は次々と増え、一万口を下らず、食糧が乏しくなり、餓死者は日に数十人に及んだ。世充は兵を屯させて解散させず、倉庫の粟は日に日に尽き、城中では人々が互いに食い合った。ある者は土を握って甕に入れ、水で淘汰し、砂石を沈ませ、上に浮いた泥を取り、米屑を混ぜて餅餌を作って食べたので、人々は皆体が腫れ、足が弱り、道路に倒れ臥した。その尚書郎盧君業・郭子高等は皆溝壑に死んだ。七月、秦王が兵を率いて攻撃し、軍勢は新安に至り、世充の鎮堡が相次いで来降した。八月、秦王は青城宮に兵を陳べ、世充は全軍を挙げて来て防ぎ、澗を隔てて言うには、「隋末の喪乱により、天下は分崩し、長安ちょうあん・洛陽はそれぞれ分地を有する。世充はただ自守を願い、敢えて西侵せず。考えてみれば熊・谷二州は、相去ること遠からず、もしこれを取らんと欲すれば、豈に度内にあらざらんや。既に隣好を厚くするが故に、然らず。王は盛んに侵軼を相い、遠く吾が地に入り、三崤の道、千里の糧を饋り、これをもって師を出すは、未だ其の可なるを見ず」と。太宗はこれに謂いて曰く、「四海の内は、皆正朔を承け、唯だ公のみ執迷し、独り声教を阻む。東都の士庶は、亟に王師を請い、関中の義勇は、恩に感じて力を致す。至尊は重ねて衆願に違ひ、斯の吊伐有り。若し禍を転じて来降せば、則ち富貴を保つべし。如し相抗せんと欲せば、仮るに多言を要せず」と。世充は報いる言葉がなかった。太宗は諸将を分遣してその城鎮を攻めさせ、至る所で直ちに陥落した。九月、王君廓が世充の轘轅県を攻め落とし、東に地を巡って管城に至り帰還した。ここにおいて河南の州県が相次いで降伏した。竇建德は殷州を侵して以来、世充と深い隙を結び、使者は断絶していた。十一月、竇建德はまた人を遣わして和好を結び、併せて救援の意を陳べた。世充はそこで兄の子琬及び内史令長孫安世を派遣して返礼させ、且つ援軍を乞うた。

原文三年二月,世充殿中監豆盧達來降。世充見眾心日離,乃嚴刑峻制,家一人逃者,無少長皆坐為戮,父子、兄弟、夫妻許其相告而免之。又令五家相保,有全家叛去而鄰人不覺者,誅及四鄰。殺人相繼,其逃亡益甚。至於樵採之人,出入皆有限數,公私窘急,皆不聊生。又以宮城為大獄,意有所忌,即收繫其人及家屬於宮中。又每使諸將出外,亦收其親屬質於宮內。囚者相次,不減萬口,既艱食,餒死者日數十人。世充屯兵不散,倉粟日盡,城中人相食。或握土置甕中,用水淘汰,沙石沉下,取其上浮泥,投以米屑,作餅餌而食之,人皆體腫而腳弱,枕倚於道路。其尚書郎盧君業、郭子高等皆死於溝壑。七月,秦王率兵攻之,師至新安,世充鎮堡相次來降。八月,秦王陳兵於青城宮,世充悉兵來拒,隔澗而言曰:「隋末喪亂,天下分崩,長安、洛陽,各有分地,世充唯願自守,不敢西侵。計熊、谷二州,相去非遠,若欲取之,豈非度內?既敦鄰好,所以不然。王乃盛相侵軼,遠入吾地,三崤之道,千里饋糧,以此出師,未見其可。」太宗謂曰:「四海之內,皆承正朔,唯公執迷,獨阻聲教。東都士庶,亟請王師,關中義勇,感恩致力。至尊重違眾願,有斯吊伐。若轉禍來降,則富貴可保;如欲相抗,無假多言。」世充無以報。太宗分遣諸將攻其城鎮,所至輒下。九月,王君廓攻拔世充之轘轅縣,東徇地至管城而還,於是河南州縣相次降附。竇建德自侵殷州之後,與世充遂結深隙,信使斷絕。十一月,竇建德又遣人結好,並陳救援之意。世充乃遣其兄子琬及內史令長孫安世報聘,且乞師。

四年二月、世充は兵を率いて方諸門から出て、王師と相抗したが、世充の軍は敗れた。そこで乗勝してこれを追撃し、その城門に屯した。世充の歩卒は入ることができず、驚いて散り南へ走り、追撃して数千級を斬り、五千余人を虜にした。世充はこれ以後再び敢えて出撃せず、ただ城に拠って自ら守り、建德の援軍を待った。三月、秦王が武牢において建德及び王琬・長孫安世等を擒え、東都城下に戻ってこれを見せ、且つ安世を城中に入れさせ、敗北の状況を言わせた。世充は惶惑し、為すべきことを知らず、包囲を突破して出て、南へ襄陽に走ろうと謀り、諸将に諮ったが、皆答えなかった。そこでその将吏を率いて軍門に詣で降伏を請うた。ここにおいてその府庫を収め、将士に頒賜した。世充の黄門侍郎薛德音は文檄が不遜であったため、先ずこれを誅し、次いで世充の党与段達・楊注・単雄信・楊公卿・郭士衡・郭什柱・董浚・張童仁・朱粲等十余人を収め、皆洛渚の上で殺戮した。

原文四年二月,世充率兵出方諸門,與王師相抗,世充軍敗。因乘勝追之,屯其城門。世充步卒不得入,驚散南走,追斬數千級,虜五千餘人。世充從此不復敢出,但嬰城自守,以待建德之援。三月,秦王擒建德並王琬、長孫安世等於武牢,回至東都城下以示之,且遣安世入城,使言敗狀。世充惶惑,不知所為,將潰圍而出,南走襄陽,謀於諸將,皆不答,乃率其將吏詣軍門請降。於是收其府庫,頒賜將士。世充黃門侍郎薛德音以文檄不遜,先誅之,次收世充黨與段達、楊注、單雄信、楊公卿、郭士衡、郭什柱、董浚、張童仁、朱粲等十餘人,皆戮於洛渚之上。

秦王は世充を長安に連行した。高祖はその罪を数え上げた。世充は答えて曰く、「臣の罪を計れば、誠に誅するに容れざるべし。但だ陛下の愛子秦王、臣に不死を許されし」と。高祖はそこでこれを赦した。兄の苪・妻・子と共に蜀しょくに徙され、行こうとした時、仇人の定州刺史獨孤修德に殺された。子の玄応及び兄の世偉等は途中で謀叛を企て、誅殺された。世充は帝位を簒さん奪さんだつして以来、凡そ三年で滅んだ。

原文秦王以世充至長安,高祖數其罪,世充對曰:「計臣之罪,誠不容誅,但陛下愛子秦王許臣不死。」高祖乃釋之。與兄苪、妻、子同徙於蜀,將行,為仇人定州刺史獨孤修德所殺。子玄應及兄世偉等在路謀叛,伏誅。世充自篡位,凡三年而滅。

竇建德

原文竇建德

竇建德は、貝州漳南の人である。若い頃、頗る信義を重んじた。嘗て同郷人が親を喪い、家が貧しく葬るに足らず、時に建德は田の中で耕作していたが、これを聞いて嘆息し、直ちに耕作中の牛を止め、喪事の手助けに行った。これにより大いに郷党に称えられた。初め里長となったが、法を犯して逃亡し、赦令に会って帰還した。父が卒すると、送葬者は千余人に及び、贈り物は凡そあったものは、皆辞退して受け取らなかった。

原文竇建德,貝州漳南人也。少時,頗以然諾為事。嘗有鄉人喪親,家貧無以葬,時建德耕於田中,聞而嘆息,遽輟耕牛,往給喪事,由是大為鄉黨所稱。初,為里長,犯法亡去,會赦得歸。父卒,送葬者千餘人,凡有所贈,皆讓而不受。

大業七年、高麗討伐の兵を募り、本郡では勇敢特に優れた者を選んで小帥に充て、建德を二百人長に補任した。時に山東は大水害があり、人々は多く流散し、同県に孫安祖という者がおり、家が水に流され、妻子が餓死した。県は安祖が驍ぎょう勇であるため、行中に選んだ。安祖は貧しさを理由に辞退し、漳南令に申し出たが、令は怒ってこれを笞打った。安祖は令を刺殺し、逃亡して建德に投じ、建德はこれを匿った。この年、山東は大飢饉となり、建德は安祖に言った、「文皇帝の時、天下は殷盛で、百万の衆を発して遼東を伐ったが、尚お高麗に敗れた。今、水害が災いとなり、黎庶は窮困しているのに、主上は恤れまず、親しく遼東に臨み、加之往年の西征により、瘡痍未だ復せず、百姓は疲弊し、累年の役で行く者は帰らず、今重ねて兵を発するは、容易く動揺させ得る。丈夫死せずんば、当に大功を立てるべく、豈に逃亡の虜たるべけんや。我は高鶏泊の中が広大数百里で、莞蒲が阻深く、逃難に適し、間を承けて出て、虜掠すれば自ら資するに足ることを知る。既に人を集め、且つ時変を観れば、必ずや天下に大功有らん」と。安祖はその計略に同意した。建德は逃亡兵及び産業なき者を招誘し、数百人を得て、安祖に率いさせ、泊中に入って群盗となった。安祖は自ら将軍と称した。鄃人の張金称もまた結集して百人を得、河阻の中にいた。蓚人の高士達もまた兵を起こして千余人を得、清河の界内にいた。時に諸盗が漳南を往来する者は、通過する所で皆住民を殺掠し、家屋を焼き払ったが、建德の里だけは入らなかった。これにより郡県は建德が賊徒と交結していると疑い、その家族を収監し、老若を問わず皆殺した。建德はその家が屠滅されたと聞き、麾下二百人を率いて逃亡した。士達は自ら東海公と称し、建德を司兵とした。後に安祖が張金称に殺され、その兵数千人はまた尽く建德に帰した。ここから次第に勢いを盛んにし、兵は万余人に至ったが、依然として高鶏泊中を往来した。常に身を低くして人に接し、士卒と均しく勤苦を執った。これにより人をして死力を尽くさせることができた。

原文大業七年,募人討高麗,本郡選勇敢尤異者以充小帥,遂補建德為二百人長。時山東大水,人多流散,同縣有孫安祖,家為水所漂,妻子餒死。縣以安祖驍勇,亦選在行中。安祖辭貧,白言漳南令,令怒笞之。安祖刺殺令,亡投建德,建德舍之。是歲,山東大飢,建德謂安祖曰:「文皇帝時,天下殷盛,發百萬之眾以伐遼東,尚為高麗所敗。今水潦為災,黎庶窮困,而主上不恤,親駕臨遼,加以往歲西征,瘡痍未復,百姓疲弊,累年之役,行者不歸,今重發兵,易可搖動。丈夫不死,當立大功,豈可為逃亡之虜也?我知高雞泊中廣大數百里,莞蒲阻深,可以逃難,承間而出,虜掠足以自資。既得聚人,且觀時變,必有大功於天下矣。」安祖然其計。建德招誘逃兵及無產業者,得數百人,令安祖率之,入泊中為群盜,安祖自稱將軍。鄃人張金稱亦結聚得百人,在河阻中。蓚人高士達又起兵得千餘人,在清河界中。時諸盜往來漳南者,所過皆殺掠居人,焚燒舍宅,獨不入建德之閭。由是郡縣意建德與賊徒交結,收繫家屬,無少長皆殺之。建德聞其家被屠滅,率麾下二百人亡歸。士達自稱東海公,以建德為司兵。後安祖為張金稱所殺,其兵數千人又盡歸於建德。自此漸盛,兵至萬餘人,猶往來高雞泊中。每傾身接物,與士卒均執勤苦,由是能致人之死力。

十二年、涿郡通守郭絢が兵万余人を率いて士達を討伐しに来た。士達は自ら智略が建德に及ばないと考え、進んで建德を軍司馬とし、皆兵を彼に委ねた。建德は初めて衆を統率することとなり、奇功を立てて群賊に威を示さんと欲し、士達に輜重を守らせ、自ら精兵七千人を選んで絢を迎え撃ち、士達と不和があるふりをして叛いた。士達もまた建德が背いて逃亡したと宣言し、虜獲した婦人を取って建德の妻子と偽り、軍中でこれを殺した。建德は偽って人を遣わし絢に書を送って降伏を請い、先鋒となって士達を破り自らの誠意を示したいと願った。絢はこれを信じ、即座に兵を率いて建德に従い長河の界まで来て、盟を結び、共に士達を図ることを約した。絢の兵はますます弛緩して備えがなく、建德がこれを襲い、大いに絢の軍を破り、数千人を殺略し、馬千余匹を獲た。絢は数十騎で遁走し、将を遣わして平原で追い及んでその首を斬り、士達に献じた。これにより建德の勢いはますます振るった。

原文十二年,涿郡通守郭絢率兵萬餘人來討士達。士達自以智略不及建德,乃進為軍司馬,咸以兵授焉。建德既初董眾,欲立奇功以威群賊,請士達守輜重,自簡精兵七千人以拒絢,詐為與士達有隙而叛之。士達又宣言建德背亡,而取虜獲婦人紿為建德妻子,於軍中殺之。建德偽遣人遺絢書請降,願為前驅,破士達以自效。約信之,即引兵從建德至長河界,期與為盟,共圖士達。絢兵益懈而不備,建德襲之,大破絢軍,殺略數千人,獲馬千餘匹,絢以數十騎遁走,遣將追及於平原,斬其首以獻士達。由是建德之勢益振。

隋は太僕卿楊義臣を遣わし、兵一万余りを率いて張金稱を討たせ、清河においてこれを破り、捕らえた賊の兵卒は皆屠殺し、草沢の間に散らばっていた残党は再び集まって建徳に投じた。義臣は勝ちに乗じて平原に至り、高鶏泊の中に入ろうとした。建徳は士達に言うには、「歴代の隋の将軍を見渡すに、兵を用いるのが巧みな者は、ただ義臣のみである。新たに金稱を破り、遠くから我らを襲おうとしている。その鋒鋭は当たるべからず。兵を引いてこれを避け、彼に戦いたくとも戦えず、空しく歳月を延ばさせ、将兵が疲労困憊したところで、機に乗じて襲撃すれば、大功を挙げることができよう。今、鋒を争えば、恐らく公は敵わないであろう」と。士達はその言に従わず、建徳を留めて陣営を守らせ、自ら精兵を率いて義臣を迎え撃った。戦いは小勝し、酒を放縦に飲み大いに宴を張り、義臣を軽んずる心があった。建徳はこれを聞いて言うには、「東海公(高士達)は賊を破ることができずして自ら誇り大いに奢る。この禍は至るまで久しくないであろう。隋兵は勝ちに乗じて、必ず長駆してここに至り、人心は驚き恐れる。我は全うされぬことを恐れる」と。そこで人を留めて陣営を守らせ、自ら精鋭百余りを率いて険阻な地を占拠し、士達の敗北に備えた。五日後、義臣は果たして士達を大破し、陣中でこれを斬り、勢いに乗じて敗走を追い、建徳を包囲しようとした。守兵は既に少なく、士達の敗北を聞いて、兵卒は皆潰走散乱した。建徳は百余騎を率いて逃亡し、饒陽に行き着き、その守備がないのを見て、これを攻め落とし、兵士を慰撫し従わせると、多くが従うことを望み、また三千余りの兵を得た。初め、義臣は士達を殺した後、建徳は憂うるに足らぬと考えた。建徳は再び平原に戻り、士達の敗死した兵卒の屍を収め、ことごとく埋葬した。士達のために喪を発し、三軍は皆喪服を着た。亡命した兵卒を招集すると、数千人を得て、軍勢は再び大いに振るい、初めて自ら将軍と称した。初め、群盗は隋の官吏や山東の士人を得ると皆殺しにしたが、ただ建徳だけは士人を捕らえるごとに、必ず恩遇を加えた。初めて饒陽県令宋正本を得て、上客として引き立て、謀議に参与させた。この後、隋の郡の長吏が次第に城を降してくるようになり、軍容はますます盛んとなり、勝兵十余万人となった。

原文隋遣太僕卿楊義臣率兵萬餘人討張金稱,破之於清河,所獲賊眾皆屠滅,餘散在草澤間者復相聚而投建德。義臣乘勝至平原,欲入高雞泊中,建德謂士達曰:「歷觀隋將,善用兵者,唯義臣耳。新破金稱,遠來襲我,其鋒不可當。請引兵避之,令其欲戰不得,空延歲月,將士疲倦,乘便襲擊,可有大功。今與爭鋒,恐公不能敵也。」士達不從其言,因留建德守壁,自率精兵逆擊義臣。戰小勝,而縱酒高宴,有輕義臣之心。建德聞之曰:「東海公未能破賊而自矜大,此禍至不久矣。隋兵乘勝,必長驅至此,人心驚駭,吾恐不全。」遂留人守壁,自率精銳百餘據險,以防士達之敗。後五日,義臣果大破士達,於陣斬之,乘勢追奔,將圍建德。守兵既少,聞士達敗,眾皆潰散。建德率百餘騎亡去,行至饒陽,觀其無守備,攻陷之,撫循士眾,人多願從,又得三千餘兵。初,義臣既殺士達,以為建德不足憂。建德復還平原,收士達敗兵之死者,悉收葬焉。為士達發喪,三軍皆縞素。招集亡卒,得數千人,軍復大振,始自稱將軍。初,群盜得隋官及山東士子皆殺之,唯建德每獲士人,必加恩遇。初得饒陽縣長宋正本,引為上客,與參謀議。此後隋郡長吏稍以城降之,軍容益盛,勝兵十餘萬人。

十三年正月、河間楽寿の境界に壇場を築き、自ら長楽王と称し、年号を丁丑とし、官属を設置した。七月、隋は右翊衛将軍薛世雄を遣わし、兵三万を率いて討伐に来た。河間城の南に至り、七里井に陣を張った。建徳は世雄が来たと聞き、精兵数千人を選んで河間の南界の沢に伏せさせ、諸城から全て兵を引き上げ偽って撤退し、「豆子〓の中に逃げ込んだ」と流言した。世雄は建徳が自分を恐れたと思い、そこで守備を設けなかった。建徳はこれを偵知し、自ら敢死の士一千人を率いて世雄を襲撃した。時に雲霧が立ち込め昼間も暗く、両軍は見分けがつかず、隋軍は大いに潰え、自ら踏み合い、死者一万余りを出し、世雄は数百騎で逃げ去り、残りの軍はことごとく陥落した。ここにおいて建徳は河間を攻撃したが、頻りに戦っても陥落しなかった。その後、城中の食糧が尽き、また煬帝が弑逆されたと聞き、郡丞王琮が官吏を率いて喪を発した。建徳は使者を遣わして弔問し、琮は使者を通じて降伏を請うた。建徳は陣営を退き饗宴を整えて待った。琮は官属を率いて喪服を着し、手を後ろに縛って軍門に詣でた。建徳は自らその縄を解き、隋の滅亡の事について語り合うと、琮は俯伏して悲しみ慟哭し、建徳もまた彼のために泣いた。諸賊の将帥の中には進言する者があった。「琮は我らを長く拒み、殺傷甚だ多く、計略が尽きて初めて出てきたのです。今、彼を烹殺することを請います」と。建徳は言うには、「これは義士である。これから抜擢登用し、君に仕える者を励ますべきであり、どうして殺すことができようか!かつて泊中で共に小盗をしていた時は、恣意に人を殺すことも許されたが、今は百姓を安んじて天下を定めようとしているのに、どうして忠良を害することができようか」と。そこで軍中に令して言うには、「先に王琮と不和があった者で、今敢えて動揺するものがあれば、三族の罪に処す」と。即日に琮を瀛州刺史に任じた。初めて楽寿を都とし、金城宮と号した。ここから郡県は多く降伏した。

原文十三年正月,築壇場於河間樂壽界中,自稱長樂王,年號丁丑,署置官屬。七月,隋遣右翊衛將軍薛世雄率兵三萬來討之,至河間城南,營於七里井。建德聞世雄至,選精兵數千人伏河間南界澤中,悉拔諸城偽遁,云亡入豆子〓中。世雄以為建德畏己,乃不設備。建德覘知之,自率敢死士一千人襲擊世雄。會雲霧晝晦,兩軍不辨,隋軍大潰,自相踏藉,死者萬餘,世雄以數百騎而遁,餘軍悉陷。於是建德進攻河間,頻戰不下。其後城中食盡,又聞煬帝被弒,郡丞王琮率士吏發喪,建德遣使吊之,琮因使者請降,建德退舍具饌以待焉。琮率官屬素服面縛詣軍門,建德親解其縛,與言隋亡之事,琮俯伏裴哀,建德亦為之泣。諸賊帥或進言曰;「琮拒我久,殺傷甚眾,計窮方出,今請烹之。」建德曰:「此義士也。方加擢用,以勵事君者,安可殺之!往在泊中共為小盜,容可恣意殺人,今欲安百姓以定天下,何得害忠良乎?」因令軍中曰:「先與王琮有隙者,今敢動搖,罪三族。」即日授琮瀛州刺史。始都樂壽,號曰金城宮,自是郡縣多下之。

武徳元年の冬至の日、金城宮にて宴会を設けたところ、五羽の大鳥が楽寿に降り立ち、数万の群鳥がこれに従い、一日経って去った。そこで年号を五鳳と改めた。宗城の人が玄珪一枚を献上した。景城丞孔徳紹が言うには、「昔、夏の禹が符命を受けた時、天は玄珪を賜った。今、祥瑞が禹と同じであるから、夏国と称すべきである」と。建徳はこれに従った。先に、上谷の賊帥王須抜が漫天と自称し、数万の兵を擁して幽州に侵入し掠奪し、流れ矢に当たって死んだ。その副将魏刀児が代わってその兵を率い、歴山飛と自称し、深沢に入り占拠し、十万の徒党を有していた。建徳は彼と和睦し、刀児はそこで守備を緩めた。建徳はこれを襲撃して破り、またその地をことごとく併合した。

原文武德元年冬至日,於金城宮設會,有五大鳥降於樂壽,群鳥數萬從之,經日而去,因改年為五鳳。有宗城人獻玄珪一枚,景城丞孔德紹曰:「昔夏禹膺籙,天錫玄珪。今瑞與禹同,宜稱夏國。」建德從之。先是,有上谷賊帥王須拔自號漫天,擁眾數萬,入掠幽州,中流矢而死。其亞將魏刀兒代領其眾,自號歷山飛,入據深澤,有徒十萬。建德與之和,刀兒因弛守備,建德襲破之,又盡並其地。

二年、宇文化及が魏県で僭号を称した。建徳はその納言宋正本、内史侍郎孔徳紹に言うには、「我は隋の百姓として数十年、隋は我が君として二代に及んだ。今、化及がこれを殺したのは、大逆無道であり、これこそ我が仇である。諸公と共にこれを討ちたいと思うが、どうか」と。徳紹は言うには、「今、海内に主なく、英雄が競い逐っている。大王は布衣の身から漳浦に起こり、隋の郡県の官吏は争って帰附する者がなかったのは、大王が順を仗って動き、義をもって天下を安んじようとされたからである。宇文化及は国と婚姻を結び、父子兄弟は隋代の恩を受けて、身は疑われることのない地位にありながら、弑逆の禍を行い、隋を簒奪して自ら代わった。これは天下の賊である。これを誅殺しないで、どうして盟主たることができましょうか」と。建徳は善しと称した。即日に兵を率いて化及を討ち、連戦して大いにこれを破った。化及は聊城に拠った。建徳は撞車を放ち石を抛り、その機巧絶妙にして、四方から城を攻め、これを陥落させた。建徳は城に入り、先ず隋の蕭皇后に謁見し、臣と称して語った。煬帝弑逆の首謀者である宇文智及、楊士覧、元武達、許弘仁、孟景をことごとく捕らえ、隋の文武官を集め、彼らの面前で斬り、首を轅門の外に晒した。化及とその二人の子を共に檻車に載せ、大陸県に至って斬った。

原文二年,宇文化及僭號於魏縣,建德謂其納言宋正本、內史侍郎孔德紹曰:「吾為隋之百姓數十年矣,隋為吾君二代矣。今化及殺之,大逆無道,此吾仇矣,請與諸公討之,何如?」德紹曰:「今海內無主,英雄競逐,大王以布衣而起漳浦,隋郡縣官人莫不爭歸附者,以大王仗順而動,義安天下也。宇文化及與國連姻,父子兄弟受恩隋代,身居不疑之地,而行弒逆之禍,篡隋自代,乃天下之賊也。此而不誅,安用盟主!」建德稱善。即日引兵討化及,連戰,大破之。化及保聊城,建德縱撞車拋石,機巧絕妙,四面攻城,陷之。建德入城,先謁隋蕭皇后,與語稱臣。悉收弒煬帝元謀者宇文智及、楊士覽、元武達、許弘仁、孟景,集隋文武官,對而斬之,梟首轅門之外。化及並其二子同載以檻車,至大陸縣斬之。

建徳は城を平定し陣を破るごとに、得た資財をことごとく諸将に分け与え、少しも取らなかった。また肉を食わず、常食はただ野菜と玄米の飯のみであった。その妻曹氏は絹織物の衣服を着ず、使う婢妾はわずか十数人であった。ここに至り、宮人を数千人得て、皆容色があったが、時宜に応じて解放し帰した。隋の文武官と驍果(精鋭兵)をなお一万ほど得たが、これも解放し、その行くに任せた。また隋の黄門侍郎裴矩を尚書左僕射とし、兵部侍郎崔君粛を侍中とし、少府令何稠を工部尚書とし、その他は才能に応じて官職を授け、政事を委ねた。関中や東都に行きたい者もまた恣にその意に任せ、なお衣服と食糧を与え、兵で援護し、その境から送り出した。洺州を攻め陥とし、刺史袁子干を虜にした。都を洺州に遷し、万春宮と号した。使者を灌津に遣わし、竇青の墓を祀り、二十戸の守冢を置いた。また王世充と友好を結び、使者を遣わして洛陽の隋の越王侗に朝貢した。後に世充が侗を廃して自立すると、そこで関係を断ち、初めて自ら尊大に振る舞い、天子の旌旗を建て、出入りに警蹕を設け、下す文書を詔と称した。隋の煬帝を追諡して閔帝とし、斉王暕の子政道を鄖公に封じた。しかしなお突厥に依拠していた。隋の義城公主は先に突厥に嫁いでいたが、この時使者を遣わして蕭皇后を迎えた。建徳は兵千余騎を整えて彼女を蕃地に送り届けさせ、また化及の首を伝えて公主に献上させた。既に突厥と連合したので、兵鋒はますます盛んとなった。

原文建德每平城破陣,所得資財,並散賞諸將,一無所取。又不啖肉,常食唯有菜蔬、脫粟之飯。其妻曹氏不衣紈綺,所使婢妾才十數人。至此,得宮人以千數,並有容色,應時放散。得隋文武官及驍果尚且一萬,亦放散,聽其所去。又以隋黃門侍郎裴矩為尚書左僕射,兵部侍郎崔君肅為侍中,少府令何稠為工部尚書,自余隨才拜授,委以政事,其有欲往關中及東都者亦恣聽之,仍給其衣糧,以兵援之,送出其境。攻陷洺州,虜刺史袁子干。遷都於洺州,號萬春宮。遣使往灌津,祠竇青之墓,置守冢二十家。又與王世充結好,遣使朝隋越王侗於洛陽。後世充廢侗自立,乃絕之,始自尊大,建天子旌旗,出警入蹕,下書言詔。追諡隋煬帝為閔帝,封齊王暕子政道為鄖公。然猶依倚突厥。隋義城公主先嫁突厥,及是遣使迎蕭皇后,建德勒兵千餘騎送之入蕃,又傳化及首以獻公主。既與突厥相連,兵鋒益盛。

九月、南に相州を侵し、河北大使淮安王李神通は拒ぐことができず、退いて黎陽に奔る。相州は陥落し、刺史呂玟を殺す。また衛州に進攻し、黎陽を陥落させ、左武衛大將軍李世勣、皇妹同安長公主及び李神通は共に捕虜となる。滑州刺史王軌は奴僕に殺され、その首を携えて建徳のもとに奔り、言うには「奴僕が主君を殺すのは大逆である。我どうしてこれを受け入れられようか」と。命じて直ちに奴僕を斬らせ、王軌の首を滑州に返す。官吏民人はこれに感じ、即日に降伏する。斉・済二州及び兗州の賊帥徐円朗は皆、風聞して降伏する。建徳は李世勣を釈放し、彼に兵を率いさせて黎州を鎮守させる。

原文九月,南侵相州,河北大使淮安王神通不能拒,退奔黎陽。相州陷,殺刺史呂玟。又進攻衛州,陷黎陽,左武衛大將軍李世勣、皇妹同安長公主及神通並為所虜。滑州刺史王軌為奴所殺,攜其首以奔建德,曰:「奴殺主為大逆,我何可納之!」命立斬奴,而返軌首於滑州。吏人感之,即日而降。齊、濟二州及兗州賊帥徐圓朗皆聞風而下。建德釋李世勣,使其領兵以鎮黎州。

三年正月、李世勣はその父を捨てて逃げ帰る。執法者はこれを誅殺するよう請うたが、建徳は言う「李勣はもと唐の臣であり、我が捕虜となったが、その主君を忘れず、本朝に逃げ帰った。これは忠臣である。その父に何の罪があろうか」と。遂に誅殺しなかった。同安長公主及び李神通を別館に住まわせ、客礼をもって遇した。高祖は使者を遣わしてこれと連和し、建徳は即座に公主を使者と共に帰らせた。かつて趙州を破り、刺史張昂・邢州刺史陳君賓・大使張道源らを捕らえたが、彼らが自らの境を侵したため、建徳はこれを殺そうとした。その国子祭酒凌敬が進言して言う「犬はそれぞれその主君でない者に吠えるものである。今、隣人が堅守し、力尽きて捕らえられた。これは忠誠堅固な士である。もし酷い害を加えるならば、どうして大王の臣下を勧められようか」と。建徳は激怒して言う「我が城下に至っても、なお迷って降伏せず、我が軍旅を労した。その罪はどうして赦せようか」と。凌敬はまた言う「今、大王は大将軍高士興を易水に派遣して羅芸を抗禦させたが、兵がようやく至ると、士興は即座に降伏した。大王の考えはまたどうであろうか」と。建徳はようやく悟り、即座に彼らを釈放するよう命じた。その寛厚で諫言に従うことは、多くこの類いである。また士興を派遣して幽州を包囲させたが、攻め落とせず、軍を退いて籠火城に駐屯し、羅芸に襲撃されて、士興は大敗した。先に、その大将王伏宝は勇略多く、功績は同輩の中で最も優れていたが、諸将帥はこれを嫉んだ。ある者が彼が謀反を企てていると言うと、建徳は彼を殺そうとした。伏宝は言う「私は無罪である。大王はどうして讒言を聞き、自ら左右の手を斬るのか」と。殺した後、用兵することが多く不利となった。

原文三年正月,世勣舍其父而逃歸,執法者請誅之,建德曰:「勣本唐臣,為我所虜,不忘其主,逃還本朝,此忠臣也,其父何罪!」竟不誅。舍同安長公主及神通於別館,待以客禮。高祖遣使與之連和,建德即遣公主與使俱歸。嘗破趙州,執刺史張昂、邢州刺史陳君賓、大使張道源等,以侵軼其境,建德將戮之。其國子祭酒凌敬進曰:「夫犬各吠非其主,今鄰人堅守,力屈就擒,此乃忠確士也。若加酷害,何以勸大王之臣乎?」建德盛怒曰:「我至城下,猶迷不降,勞我師旅,罪何可赦?」敬又曰:「今大王使大將軍高士興於易水抗禦羅藝,兵才至,士興即降,大王之意復為可不?」建德乃悟,即命釋之。其寬厚從諫,多此類也。又遣士興進圍幽州,攻之不克,退軍旅籠火城,為藝所襲,士興大潰。先是,其大將王伏寶多勇略,功冠等倫,群帥嫉之。或言其反,建德將殺之,伏寶曰:「我無罪也,大王何聽讒言,自斬左右手乎?」既殺之,後用兵多不利。

九月、建徳は自ら師を率いて幽州を包囲し、羅芸は兵を出して戦い、これを大破し、千二百級を斬首する。羅芸の兵は頻繁に勝利して驕り、進んでその陣営を襲撃した。建徳は陣営の中に陣を列ね、塹壕を埋めて出撃し、羅芸を撃って敗走させた。建徳はその城に迫ったが、陥落させられず、遂に洺州に帰った。その納言宋正本は直言を好んだが、建徳はまた讒言を聞いてこれを殺した。この後、人々はこれを戒めとして、再び進言する者はなく、これにより政治と教化はますます衰えた。

原文九月,建德自帥師圍幽州,藝出兵與戰,大破之,斬首千二百級。藝兵頻勝而驕,進襲其營,建德列陣於營中,填塹而出,擊藝敗之。建德薄其城,不克,遂歸洺州。其納言宋正本好直諫,建德又聽讒言殺之。是後人以為誡,無復進言者,由此政教益衰。

先に、曹州済陰の人孟海公が精兵三万を擁し、周橋城を拠点として河南の地を掠めていた。その年十一月、建徳は自ら兵を率いて黄河を渡り、これを撃った。時に秦王が洛陽で王世充を攻めており、建徳の中書舎人劉斌が建徳に説いて言う「今、唐は関内を有し、鄭(王世充)は河南を有し、夏(我が国)は河北に居る。これは鼎の足のように互いに持ち合う勢いである。聞くところによれば、唐兵は全軍を挙げて鄭を攻め、前後二年に及び、鄭の勢いは日々逼迫しているが、唐兵は解かない。唐は強く鄭は弱く、その勢いは必ず鄭を破るであろう。鄭が破られれば、夏には唇亡びて歯寒しの憂いがある。大王のために計るならば、鄭を救うに如くはない。鄭が内で拒み、夏が外から攻めれば、これを破ることは必至である。もし唐を退けて鄭を全うすれば、これは常に三分の勢いを保つことができる。もし唐軍が破れた後に鄭を図ることができれば、それに乗じてこれを滅ぼし、二国の衆を総べ、唐軍の敗北に乗じて、長駆して西に入れば、京師を得て有することができる。これは太平の基である」と。建徳は大いに喜んで言う「これは良策である」と。丁度、王世充が使者を遣わして建徳に援軍を乞うたので、即座にその職方侍郎魏処絵を朝廷に入らせ、王世充の包囲を解くよう請わせた。

原文先,曹州濟陰人孟海公擁精兵三萬,據周橋城以掠河南之地。其年十一月,建德自率兵渡河以擊之。時秦王攻王世充於洛陽,建德中書舍人劉斌說建德曰:「今唐有關內,鄭有河南,夏居河北,此鼎足相持之勢也。聞唐兵悉眾攻鄭,首尾二年,鄭勢日蹙而唐兵不解。唐強鄭弱,其勢必破鄭,鄭破則夏有齒寒之憂。為大王計者,莫若救鄭,鄭拒其內,夏攻其外,破之必矣。若卻唐全鄭,此常保三分之勢也。若唐軍破後而鄭可圖,則因而滅之,總二國之眾,乘唐軍之敗,長驅西入,京師可得而有,此太平之基也。」建德大悅曰:「此良策矣。」適會世充遣使乞師於建德,即遣其職方侍郎魏處繪入朝,請解世充之圍。

四年二月、建徳は周橋を陥落させ、孟海公を捕虜とし、その将范願を留めて曹州を守らせ、孟海公及び徐円朗の衆をことごとく発して王世充を救いに来た。軍は滑州に至り、王世充の行臺僕射韓洪が城を開いてこれを受け入れ、遂に元州・梁州・管州に進逼し、ことごとく陥落させ、滎陽けいように駐屯した。三月、秦王が武牢に入り、進んでその陣営に迫り、多くを傷つけ殺し、またその将殷秋・石瓚を生け捕りにした。時に王世充の弟王世弁が徐州行臺であり、その将郭士衡に兵数千を率いさせてこれに従わせ、合わせて十余万、号して三十万と称し、軍は成皋に駐屯し、板渚に宮殿を築き、必ず戦うことを示した。また間者を遣わして王世充と約し、共に表裏をなすことを図った。二月を経て、武牢に迫ったが、進むことができなかった。秦王は将軍王君廓に軽騎千余を率いさせてその糧食輸送を襲撃させ、その大将張青特を捕らえ、捕虜と鹵獲は甚だ多かった。建徳は数度不利となり、人心は危惧し、将帥以下は孟海公を破って、皆何らかの獲物を得ており、洺州に帰りたいと思った。凌敬が進言して説いて言う「宜しく全軍を挙げて黄河を渡り、懐州・河陽を攻め取り、重将を置いて守らせるべきである。さらに衆を率いて鼓を鳴らし旗を立て、太行山を越え、上党に入り、まず声勢をあげて後に実を取れば、檄文を伝えて平定できる。次第に壺口に向かい、少しずつ蒲津を脅かし、河東の地を収めれば、これが策の上である。これを行えば必ず三つの利がある。一つには人のいない境に入り、軍は万全である。二つには土地を拓き兵を得る。三つには鄭の包囲は自然に解ける」と。建徳はこれに従おうとしたが、王世充の使者長孫安世が密かに金玉を携え、その諸将を買収して、その謀略を乱した。衆は皆進言して言う「凌敬は一介の書生に過ぎない。どうして戦について語ることができようか」と。建徳はこれに従い、退いて凌敬に謝って言う「今、衆の心は甚だ鋭い。これは天が我を助けているのである。これによって決戦すれば、必ず大勝するであろう。すでに衆議に依ったので、公の言に従うことはできない」と。凌敬が固く争うと、建徳は怒り、彼を引きずり出した。その妻曹氏がまた建徳に言う「祭酒(凌敬)の言は従うべきである。大王はどうして受け入れないのか。滏口の道より、唐国の虚に乗じ、連営して漸進し、山北を取ることを請う。また突厥に因って西から関中を襲わせれば、唐は必ず師を還して自らを救うであろう。これによって鄭の包囲は解ける。今、武牢の下に兵を頓挫させ、日月が長く滞り、徒らに自ら苦しむだけで、事は恐らく功を奏さないであろう」と。建徳は言う「これは女子の知るところではない。かつ鄭国は朝夕の命を懸けて、我の来るを待っている。すでに救うことを許した以上、どうして難を見て退き、天下に不信を示すことができようか」と。ここにおいて衆を挙げて武牢に進逼したが、官軍は甲を按じてその鋭気を挫いた。建徳が汜水に陣を結んだ時、秦王は騎兵を遣わしてこれを挑発し、建徳は進軍して戦い、竇抗がこれに当たった。建徳が少し退くと、秦王は騎馬を駆って深く入り、四五度反覆した後、ついにこれを大破した。建徳は槍を受け、牛口渚に逃げ隠れたが、車騎将軍白士譲・楊武威がこれを生け捕りにした。先に、軍中に童謡があった。「豆が牛の口に入れば、勢いは久しからず」と。建徳が牛口渚に行くに及び、これを甚だ忌み嫌ったが、果たしてこの地で敗れた。建徳の率いる兵衆は一時に奔り潰え、妻曹氏及びその左僕射斉善行が数百騎を率いて洺州に逃れた。残党は建徳の養子を立てて主としようとしたが、善行は言う「夏王は河朔を平定し、士馬は精強であったが、一朝にしてこのように捕らえられた。これは天命の帰する所があるのではないか。心を委ねて命を請うに如くはない。無為に生民を塗炭に陥らせるな」と。ここにおいて府庫の財物をことごとく士卒に分け与え、それぞれ散り去るよう命じた。善行は建徳の右僕射裴矩・行臺曹旦及び建徳の妻と共に偽りの官属を率い、山東の地を挙げ、伝国璽など八つの璽を奉じて降伏して来た。七月、秦王は建徳を捕虜として京師に至らせ、長安市で斬った。年四十九。軍を起こしてから滅亡するまで、凡そ六年、河北はことごとく平定された。その年、劉黒闥が再び山東を盗み拠った。

原文四年二月,建德克周橋,虜海公,留其將范願守曹州,悉發海公及徐圓朗之眾來救世充。軍至滑州,世充行臺僕射韓洪開城納之,遂進逼元州、梁州、管州,皆陷之,屯於滎陽。三月,秦王入武牢,進薄其營,多所傷殺,並擒其將殷秋、石瓚。時世充弟世辨為徐州行臺,遣其將郭士衡領兵數千人從之,合眾十餘萬,號為三十萬,軍次成皋,築宮於板渚,以示必戰。又遣間使約世充共為表裡。經二月,迫於武牢,不得進。秦王遣將軍王君廓領輕騎千餘抄其糧運,獲其大將張青特,虜獲甚眾。建德數不利,人情危駭,將帥已下破孟海公,皆有所獲,思歸洺州。凌敬進說曰:「宜悉兵濟河,攻取懷州河陽,使重將居守。更率眾鳴鼓建旗,逾太行,入上黨,先聲後實,傳檄而定。漸趨壺口,稍駭蒲津,收河東之地,此策之上也。行此必有三利:一則入無人之境,師有萬全;二則拓土得兵;三則鄭圍自解。」建德將從之,而世充之使長孫安世陰齎金玉,啖其諸將,以亂其謀。眾咸進諫曰:「凌敬,書生耳,豈可與言戰乎?」建德從之,退而謝敬曰:「今眾心甚銳,此天贊我矣。因此決戰,必將大捷。已依眾議,不得從公言也。」敬固爭,建德怒,扶出焉。其妻曹氏又言於建德曰:「祭酒之言可從,大王何不納也?請自滏口之道,乘唐國之虛,連營漸進,以取山北,又因突厥西抄關中,唐必還師以自救,此則鄭圍解矣。今頓兵武牢之下,日月淹久,徒為自苦,事恐無功。」建德曰:「此非女子所知也。且鄭國懸命朝暮,以待吾來,既許救之,豈可見難而退,示天下以不信也?」於是悉眾進逼武牢,官軍按甲挫其銳。及建德結陣於汜水,秦王遣騎挑之,建德進軍而戰,竇抗當之。建德少卻,秦王馳騎深入,反覆四五合,然後大破之。建德中槍,竄於牛口渚,車騎將軍白士讓、楊武威生獲之。先是,軍中有童謠曰:「豆入牛口,勢不得久。」建德行至牛口渚,甚惡之,果敗於此地。建德所領兵眾,一時奔潰,妻曹氏及其左僕射齊善行將數百騎遁於洺州。餘黨欲立建德養子為主,善行曰:「夏王平定河朔,士馬精強,一朝被擒如此,豈非天命有所歸也?不如委心請命,無為塗炭生人。」遂以府庫財物悉分士卒,各令散去。善行乃與建德右僕射裴矩、行臺曹旦及建德妻率偽官屬,舉山東之地,奉傳國等八璽來降。七月,秦王俘建德至京師,斬於長安市,年四十九。自起軍至滅,凡六歲,河北悉平。其年,劉黑闥復盜據山東。

史臣曰く

原文史臣曰

史臣曰く、世充は奸人にして、昏主に遭逢し、上は諛佞詭俗を以て栄名を取り、下は強弁非を飾りて群論を制す。終に篡逆を行い、自ら陸梁を恣にし、安んじて人を殺すことを忍び、情を矯りて衆を馭す。凡そ委任する所は、多くは叛亡なり、秦王に出降して、顕戮を致さず、其の幸多きこと多し。建德は義を郷閭に伏し、盗みに河朔を拠し、士卒を撫馭し、賢良を招集す。中に世充を絶ち、終に化及を斬り、徐蓋を殺さず、神通を生還せしめ、沈機英断、初め有らざるは靡し。宋正本・王伏宝の讒に被り害を見、凌敬・曹氏の謀を陳べて行はれざるに及び、遂に亡滅に至り、終りを克くする鮮し。然れども天命帰する有り、人謀及ばず。

原文史臣曰:世充奸人,遭逢昏主,上則諛佞詭俗以取榮名,下則強辯飾非以制群論。終行篡逆,自恣陸梁,安忍殺人,矯情馭眾,凡所委任,多是叛亡,出降秦王,不致顯戮,其為幸也多矣。建德義伏鄉閭,盜據河朔,撫馭士卒,招集賢良。中絕世充,終斬化及,不殺徐蓋,生還神通,沉機英斷,靡不有初。及宋正本、王伏寶被讒見害,凌敬、曹氏陳謀不行,遂至亡滅,鮮克有終矣。然天命有歸,人謀不及。

賛に曰く、世充は篡逆し、建德は諫を愎くす。二凶即ち誅せられ、中原乱を弭ぐ。

原文贊曰:世充篡逆,建德愎諫,二凶即誅,中原弭亂。