旧唐書
列伝第四 王世充 竇建德
王世充
王世充、字は行満、本姓は支、西域の胡人である。新豊に寓居した。祖父の支頹耨は早くに死んだ。父の収は、母が再嫁して霸城の王氏に嫁いだのに従い、その姓を冒した。汴州長史に至った。世充は経史に広く通じ、特に兵法と亀策・推歩の術を好んだ。開皇年間、軍功により儀同に任ぜられ、累進して兵部員外郎となった。上奏に巧みで、法律に明るく習熟していたが、法文を弄び、心を高下させた。あるいは反駁・難問する者があれば、世充は口達者に非を飾り、議論が鋭く起こるので、人々はそれが正しくないと知りながらも、屈服させることができなかった。
大業年間、累進して江都丞となり、江都宮監を兼ねた。時に煬帝はしばしば江都に行幸した。世充は主君の顔色を窺うのが巧みで、阿諛して意に順い、毎度入って事を言上すれば、帝は必ず善しとした。そこで池や台を彫飾し、ひそかに遠方の珍物を奏上して、帝に媚びた。これにより帝はますます彼を親しんだ。世充は隋の政治が乱れようとしていることを知り、ひそかに豪傑と結び、多くの人心を収め、獄に繋がれ罪に当たる者があれば、皆枉げて法を出して赦し、私恩を樹てた。楊玄感が乱を起こすと、呉人の朱燮・晋陵人の管崇が江南で兵を起こしてこれに応じ、自ら将軍と称し、十数万の衆を擁した。隋は将軍の吐万緒・魚倶羅らを派遣して討たせたが、勝てなかった。世充はその偏将となり、江都で一万余人を募り、頻りにこれを撃破した。勝利するたびに、必ず功を部下に帰し、得た戦利品は全て士卒に推し与えた。これにより人々は争って彼に用いられ、功績が最も多かった。
十年、斉郡の賊帥孟譲が長白山から諸郡を寇掠し、盱眙に至り、十数万の衆を有した。世充は兵をもってこれを防ぎ、都梁山に拠り、五つの柵を築き、相持って戦わず、わざと兵が逃げたと偽り、疲弊した軍勢で弱さを示した。譲は笑って言った、「王世充は法文を弄ぶ小役人に過ぎぬ。どうして兵を率いることができようか。我が生け捕りにして、鼓行して江都に入ろう」。時に百姓は皆堡塁に入り、野に掠めるものはなく、賊衆は次第に飢え、また柵がその道を塞いで南侵できないのを苦にし、すぐに兵を分けて五つの柵を包囲した。世充は毎日これを攻撃し、表向きは不利を装い、走って柵に戻った。このように数日が過ぎ、譲はますます彼を軽んじ、やや人を分けて南方で掠奪させ、柵を包囲するのに十分な兵だけを残した。世充はその隙を知り、営中でかまどを平らにし幕を撤去し、方陣を敷き、四面を外向きにし、柵を壊して出撃し、奮撃して大いにこれを破った。譲は数十騎で逃げ去り、首級一万余を斬り、十数万人を捕虜とした。煬帝は世充に将帥の才略があるとして、再び兵を率いて諸々の小盗賊を討たせ、向かうところ全て平定した。
十一年、突厥が雁門で煬帝を包囲した。世充は江都の人々をことごとく発して難に赴かんとし、軍中では髪を振り乱し顔を汚し、限りなく悲しみ泣き、昼夜甲を解かず、草を敷いて臥した。煬帝はこれを聞き、忠誠とみなし、ますます信任した。十二年、江都通守に遷った。時に厭次県の人格謙が数年盗賊となり、兵十余万を率いて豆子{{PUA|〓}}におり、太僕卿楊義臣に殺された。世充は師を率いてその残党を撃ち、これを破った。また南陽で盧明月を撃ち、数万を虜獲した。後に江都に戻ると、煬帝は大いに喜び、自ら杯の酒を執ってこれを賜った。李密が洛口倉を陥落させ、東都に進逼すると、煬帝は特に詔して世充に大いに兵を発させ、洛口で密を防がせた。前後百余戦、勝負はなかった。また軍中に遣わして世充を将軍に拝し、急いで賊を破るよう命じた。世充は軍を率いて洛水を渡り、李密と戦ったが、世充の軍は敗北し、溺死者一万余人、そこで残った衆を率いて河陽に帰った。時に天寒く大雪が降り、兵士は道中で凍死する者また数万人、河陽に至った時には、わずか千数に過ぎなかった。世充は自ら獄に繋がって罪を請うた。越王侗は使者を遣わしてこれを赦し、洛陽に召還し、含嘉倉城に営を置かせ、逃亡・離散した者を収容し合わせ、再び一万余人を得た。
やがて宇文化及が難を起こすと、太府卿元文都・武衛将軍皇甫無逸・右司郎中盧楚らは、越王侗を奉じて東都で帝位を嗣がせ、世充を吏部尚書に拝し、鄭国公に封じた。文都は楚らに言った、「今、化及が主君を弑逆し、仇恥は未だ報いられていない。我らは戈を枕にする志はあるが、力は及ばない。国のために計るには、尊官をもって李密を寵し、庫物の権をもって彼を誘い、化及を撃たせるのが良い。二賊を互いに戦わせ、化及が破れた後は、密の兵もまた疲弊している。またその士卒は我が賞賜を得、我が官位に居り、内外相親しみ、反間しやすい。我が師は力を養ってその疲弊に乗ずれば、密もまた図ることができよう」。楚らはこれを良しとした。即日に使者を遣わして密を太尉・尚書令に拝し、化及を討たせた。密はそこで臣を称して制を奉じ、兵をもって化及を黎陽で防いだ。戦いに勝つたびに、使者を遣わして勝利を告げ、人々は皆喜んだ。世充のみが麾下の諸将に言った、「文都の輩は、刀筆の吏に過ぎぬ。我はその情勢を見るに、必ずや李密に擒えられるであろう。かつ我が軍人は毎度密と戦い、その父兄子弟を殺し、前後すでに多い。一旦その下に立てば、我らは生き残れぬであろう!」。言葉を発してその衆を激怒させた。文都はこれを知って大いに恐れ、楚らと謀り、世充が内に入った時に、甲兵を伏せてこれを殺そうとし、期日を定めた。納言段達は凡庸で懦弱であり、事が成就しないことを恐れ、その女婿張志に楚らの謀を告げさせて世充に知らせた。その夜、兵を率いて宮城を包囲し、将軍費曜・田闍らが東太陽門外で防戦したが、曜の軍は敗れ、世充は遂に門を攻めて入り、無逸は単騎で遁走し、楚を捕らえて殺した。時に宮門は閉ざされ、世充は人を遣わして門を叩き侗に言わせた、「元文都らは皇帝を捕らえて李密に降らせようとしています。段達が知って臣に告げました。臣は敢えて反逆するのではなく、反逆者を誅するだけです」。初め、文都は変事を聞き、入って侗を乾陽殿に奉じ、兵を陳べてこれを守らせ、将帥に城に乗じて難を防がせた。段達は侗の命を偽り、文都を捕らえて世充に送り、至れば乱打して死なせた。達はまた侗の命を偽り、門を開いて世充を入れさせた。世充は全て人を遣わして宿衛の者を代えさせ、その後に入謁して陳謝し言った、「文都らは無状で、互いに屠害を謀りました。事急のためこのようにしましたが、敢えて国に背くつもりはありません」。侗は彼と盟を結んだ。その日、尚書左僕射に進拝し、内外の諸軍事を総督した。世充は含嘉城を去り、尚書省に移り住み、朝政を専断した。その兄の世惲を内史令とし、禁中に入居させ、子弟は皆兵馬を擁し、諸々の城邑を鎮守させた。
間もなく、李密は宇文化及を破って帰還したが、その精鋭の兵と良馬は多く戦死し、士卒は疲労困憊していた。王世充はその疲弊に乗じて撃とうとしたが、人心が一つにならないことを恐れ、鬼神を仮託し、周公の夢を見たと述べた。そこで洛水のほとりに祠を立て、巫を遣わして宣言させた。周公が僕射(王世充)に李密を急いで討つよう命じ、大功を立てるであろう、さもなければ兵は皆疫病で死ぬであろうと。世充の兵は楚の人が多く、俗に妖言を信じるので、衆は皆戦いを請うた。世充は精鋭勇猛な者を選び練り、二万余人を得、馬二千余匹を得て、洛水の南に軍を置いた。李密の軍は偃師の北山の上にあった。時に李密は宇文化及を新たに破ったばかりで、世充を軽んじる心があり、壁壘を設けなかった。世充は夜に三百余騎を遣わし北山に潜り込み、溪谷の中に伏せさせ、軍人に馬に秣をやり、蓐で食事をさせ、夜明け近くに李密に迫った。李密は兵を出して応じたが、陣が列を成さないうちに両軍が合戦した。その伏兵が発し、高みに乗じて下り、馳せて李密の営を圧し、また火を放ってその廬舎を焼いたので、李密の軍は潰え、その将張童仁・陳智略を降し、進んで偃師を下し、李密は走って洛口を保った。初め、世充の兄世偉と子の玄応が宇文化及に従って東郡に至り、李密がこれを得て城中に囚えていたが、この時に至ってことごとくこれを捕らえた。また李密の長史邴元真の妻子、司馬鄭虔象の母および諸将の子弟を捕らえ、皆これを撫慰し、各々密かにその父兄を呼ばせた。世充は兵を進め、洛口に次いだ。邴元真・鄭虔象らが倉城を挙げてこれに応じた。李密は数十騎で河陽に走り、余りの衆を率いて朝廷(唐)に入った。世充はその衆をことごとく収め、軍を整えて還った。楊侗は世充を進めて太尉に拝し、尚書省をその府とし、官属を備え置いた。世充は三つの掲示板を府門の外に立てた。一つは文才学識が世務を助けうる者を求め、一つは武芸絶人で鋒を摧き陣を陷す者を求め、一つは冤枉を理め擁抑して申し上げられない者を能くする者を求めた。ここにおいて上書して事を陳べる者が日に数百あり、世充は皆みずから省み覧て、慇懃に慰労した。小恵を行なうことを好み、下は軍営の騎士に至るまで、皆飾った言葉でこれを誘った。当時、識者はその心口相違するのを見て、頗る二心を抱くことを以てした。世充はかつて楊侗の前で食を賜わり、家に帰って大いに嘔吐し、毒に遇ったことによるものと疑い、ここより朝請せず、楊侗と絶った。雲定興・段達を遣わして楊侗に奏上させ、九錫の礼を加えることを請うた。二年三月、ついに策を授けて相国とし、百揆を総べ、鄭王に封じ、九錫の備物を加えた。道士の桓法嗣という者がおり、みずから図讖を解すると言い、そこで『孔子閉房記』を上り、男が一竿を持って羊を駆る絵を描いた。解釈して云う、「隋は楊姓なり。干一は王の字なり。王が羊の後に居るは、相国が隋に代わって帝となることを明らかにするなり」と。また『荘子』の「人間世」「徳充符」の二篇を取ってこれを上った。法嗣は釈して曰く、「上篇は『世』を言い、下篇は『充』を言う、これ即ち相国の名なり、明らかに当に徳を人間に被わし、符命に応じて天子となるべし」と。世充は大いに喜んで曰く、「これ天命なり」と。再拝してこれを受け、即ち法嗣を諫議大夫とした。世充はまた雑鳥を網羅して取り、帛に書いてその頸に繫ぎ、みずから符命と言って散らし放った。弾射して鳥を得て来て献ずる者があれば、また官爵を拝した。段達・雲定興らが楊侗に見えて曰く、「天命は常ならず、鄭王の功徳甚だ盛んなり、願わくは陛下は揖讓して禅を告げ、唐・虞の跡に遵え」と。楊侗は怒って曰く、「天下は高祖(隋文帝)の天下なり、もし隋の徳未だ衰えずば、この言発すべからず、必ずや天命に改まる有らば、また何ぞ禅譲を論ぜん。公らは皆先朝の旧臣なり、忽ちにこの言有り、朕また当に何を望まんや」と。段達らは流涕せざる者なし。世充はまた人をして謂わしめて曰く、「今海内未だ定まらず、須らく長君を得べし、四方乂安を待ちて、子に復して明辟せしめん。必ずや前盟の如くならば、義違負せず」と。四月、楊侗の詔策を仮って禅位し、兄の世惲を遣わして含涼殿において楊侗を廃し、世充は僭って即ち皇帝の位に即き、建元して開明と曰い、国号を鄭とす。先ず同姓の王隆を淮陽王に封じ、整を東郡王に封じ、楷を馮翊王に封じ、素を楽安王に封じた。次に叔の瓊を陳王に封じ、兄の世衡を秦王に封じ、世偉を楚王に封じ、世惲を斉王に封じた。また瓊の子の辯を杞王に封じ、衡の子の虔寿を蔡王に封じ、偉の子の弘烈を魏王に封じ、行本を荊王に封じ、琬を代王に封じた。惲の子の仁則を唐王に封じ、道誠を衛王に封じ、道詢を趙王に封じ、道夌を燕王に封じた。兄の世師の子の太を宋王に封じ、君度を越王に封じた。子の玄応を立てて皇太子とし、子の玄恕を漢王に封じた。世充は毎に朝を聴くに、必ず慇懃に誨え諭し、言辞重復し、千端万緒、百司奉事するも、聴受に疲れた。或いは軽騎で街衢を遊歴しても、清道せず、百姓はただ路を避けるのみで、轡を按じて徐行し、百姓に謂って曰く、「昔時、天子は深く九重に坐し、下の事情、聞徹する由なし。世充は宝位を貪るに非ず、本時を救わんと欲す、今当に一州刺史の如く、毎事親ら覧み、士庶と共に朝政を評せん。門禁有限なるを恐れ、慮う壅塞に致らんことを、今ただ順天門外に座を置きて朝を聴く」と。また西朝堂に抑屈を受けることを令し、東朝堂に直諫を受けることを令した。ここにおいて書を献じ事を上る者、日に数百あり、条疏既に煩わしく、省覧遍からず、数日後は復た更に出でず。
五月、世充の礼部尚書裴仁基およびその子の左輔大将軍行儼・尚書左丞宇文儒童ら数十人が謀って世充を誅し、復た楊侗を尊立しようとした。事洩れ、皆害せられ、その三族を夷した。六月、世惲は因って世充を勧めて楊侗を害し、以て衆望を絶たしめた。世充はその甥の行本を遣わして楊侗を鴆殺させ、謚して恭皇帝と曰う。その将軍羅士信はその衆千余人を率いて来降した。十月、世充は衆を率いて東に地を徇い、滑州に至り、仍って兵を以て黎陽に臨んだ。十一月、竇建徳は世充の殷州に入り、居人を殺掠し、積聚を焚焼し、以て黎陽の役に報いた。
三年二月、世充の殿中監豆盧達が来降した。世充は衆心が日に日に離反するのを見て、厳刑峻制を敷き、一家のうち一人でも逃亡すれば、老若を問わず皆連座して殺され、父子・兄弟・夫妻は互いに告発することを許して罪を免れた。また五家を相互に保証させ、一家全員が叛いて去ったのに隣人が気づかなかった場合は、四隣まで誅殺した。殺人は相次ぎ、逃亡はますます甚だしくなった。薪を採る者に至るまで、出入りに皆制限数があり、公私ともに窮迫し、皆生きるに耐えなかった。また宮城を大獄とし、気にかかる者がいれば、即座にその者とその家族を宮中に収監した。また毎回諸将を外出させる際にも、その親族を収容して宮内に人質とした。囚人は次々と増え、一万口を下らず、食糧が乏しくなり、餓死者は日に数十人に及んだ。世充は兵を屯させて解散させず、倉庫の粟は日に日に尽き、城中では人々が互いに食い合った。ある者は土を握って甕に入れ、水で淘汰し、砂石を沈ませ、上に浮いた泥を取り、米屑を混ぜて餅餌を作って食べたので、人々は皆体が腫れ、足が弱り、道路に倒れ臥した。その尚書郎盧君業・郭子高等は皆溝壑に死んだ。七月、秦王が兵を率いて攻撃し、軍勢は新安に至り、世充の鎮堡が相次いで来降した。八月、秦王は青城宮に兵を陳べ、世充は全軍を挙げて来て防ぎ、澗を隔てて言うには、「隋末の喪乱により、天下は分崩し、長安・洛陽はそれぞれ分地を有する。世充はただ自守を願い、敢えて西侵せず。考えてみれば熊・谷二州は、相去ること遠からず、もしこれを取らんと欲すれば、豈に度内にあらざらんや。既に隣好を厚くするが故に、然らず。王は盛んに侵軼を相い、遠く吾が地に入り、三崤の道、千里の糧を饋り、これをもって師を出すは、未だ其の可なるを見ず」と。太宗はこれに謂いて曰く、「四海の内は、皆正朔を承け、唯だ公のみ執迷し、独り声教を阻む。東都の士庶は、亟に王師を請い、関中の義勇は、恩に感じて力を致す。至尊は重ねて衆願に違ひ、斯の吊伐有り。若し禍を転じて来降せば、則ち富貴を保つべし。如し相抗せんと欲せば、仮るに多言を要せず」と。世充は報いる言葉がなかった。太宗は諸将を分遣してその城鎮を攻めさせ、至る所で直ちに陥落した。九月、王君廓が世充の轘轅県を攻め落とし、東に地を巡って管城に至り帰還した。ここにおいて河南の州県が相次いで降伏した。竇建德は殷州を侵して以来、世充と深い隙を結び、使者は断絶していた。十一月、竇建德はまた人を遣わして和好を結び、併せて救援の意を陳べた。世充はそこで兄の子琬及び内史令長孫安世を派遣して返礼させ、且つ援軍を乞うた。
四年二月、世充は兵を率いて方諸門から出て、王師と相抗したが、世充の軍は敗れた。そこで乗勝してこれを追撃し、その城門に屯した。世充の歩卒は入ることができず、驚いて散り南へ走り、追撃して数千級を斬り、五千余人を虜にした。世充はこれ以後再び敢えて出撃せず、ただ城に拠って自ら守り、建德の援軍を待った。三月、秦王が武牢において建德及び王琬・長孫安世等を擒え、東都城下に戻ってこれを見せ、且つ安世を城中に入れさせ、敗北の状況を言わせた。世充は惶惑し、為すべきことを知らず、包囲を突破して出て、南へ襄陽に走ろうと謀り、諸将に諮ったが、皆答えなかった。そこでその将吏を率いて軍門に詣で降伏を請うた。ここにおいてその府庫を収め、将士に頒賜した。世充の黄門侍郎薛德音は文檄が不遜であったため、先ずこれを誅し、次いで世充の党与段達・楊注・単雄信・楊公卿・郭士衡・郭什柱・董浚・張童仁・朱粲等十余人を収め、皆洛渚の上で殺戮した。
秦王は世充を長安に連行した。高祖はその罪を数え上げた。世充は答えて曰く、「臣の罪を計れば、誠に誅するに容れざるべし。但だ陛下の愛子秦王、臣に不死を許されし」と。高祖はそこでこれを赦した。兄の苪・妻・子と共に蜀に徙され、行こうとした時、仇人の定州刺史獨孤修德に殺された。子の玄応及び兄の世偉等は途中で謀叛を企て、誅殺された。世充は帝位を簒奪して以来、凡そ三年で滅んだ。
竇建德
竇建德は、貝州漳南の人である。若い頃、頗る信義を重んじた。嘗て同郷人が親を喪い、家が貧しく葬るに足らず、時に建德は田の中で耕作していたが、これを聞いて嘆息し、直ちに耕作中の牛を止め、喪事の手助けに行った。これにより大いに郷党に称えられた。初め里長となったが、法を犯して逃亡し、赦令に会って帰還した。父が卒すると、送葬者は千余人に及び、贈り物は凡そあったものは、皆辞退して受け取らなかった。
大業七年、高麗討伐の兵を募り、本郡では勇敢特に優れた者を選んで小帥に充て、建德を二百人長に補任した。時に山東は大水害があり、人々は多く流散し、同県に孫安祖という者がおり、家が水に流され、妻子が餓死した。県は安祖が驍勇であるため、行中に選んだ。安祖は貧しさを理由に辞退し、漳南令に申し出たが、令は怒ってこれを笞打った。安祖は令を刺殺し、逃亡して建德に投じ、建德はこれを匿った。この年、山東は大飢饉となり、建德は安祖に言った、「文皇帝の時、天下は殷盛で、百万の衆を発して遼東を伐ったが、尚お高麗に敗れた。今、水害が災いとなり、黎庶は窮困しているのに、主上は恤れまず、親しく遼東に臨み、加之往年の西征により、瘡痍未だ復せず、百姓は疲弊し、累年の役で行く者は帰らず、今重ねて兵を発するは、容易く動揺させ得る。丈夫死せずんば、当に大功を立てるべく、豈に逃亡の虜たるべけんや。我は高鶏泊の中が広大数百里で、莞蒲が阻深く、逃難に適し、間を承けて出て、虜掠すれば自ら資するに足ることを知る。既に人を集め、且つ時変を観れば、必ずや天下に大功有らん」と。安祖はその計略に同意した。建德は逃亡兵及び産業なき者を招誘し、数百人を得て、安祖に率いさせ、泊中に入って群盗となった。安祖は自ら将軍と称した。鄃人の張金称もまた結集して百人を得、河阻の中にいた。蓚人の高士達もまた兵を起こして千余人を得、清河の界内にいた。時に諸盗が漳南を往来する者は、通過する所で皆住民を殺掠し、家屋を焼き払ったが、建德の里だけは入らなかった。これにより郡県は建德が賊徒と交結していると疑い、その家族を収監し、老若を問わず皆殺した。建德はその家が屠滅されたと聞き、麾下二百人を率いて逃亡した。士達は自ら東海公と称し、建德を司兵とした。後に安祖が張金称に殺され、その兵数千人はまた尽く建德に帰した。ここから次第に勢いを盛んにし、兵は万余人に至ったが、依然として高鶏泊中を往来した。常に身を低くして人に接し、士卒と均しく勤苦を執った。これにより人をして死力を尽くさせることができた。
十二年、涿郡通守郭絢が兵万余人を率いて士達を討伐しに来た。士達は自ら智略が建德に及ばないと考え、進んで建德を軍司馬とし、皆兵を彼に委ねた。建德は初めて衆を統率することとなり、奇功を立てて群賊に威を示さんと欲し、士達に輜重を守らせ、自ら精兵七千人を選んで絢を迎え撃ち、士達と不和があるふりをして叛いた。士達もまた建德が背いて逃亡したと宣言し、虜獲した婦人を取って建德の妻子と偽り、軍中でこれを殺した。建德は偽って人を遣わし絢に書を送って降伏を請い、先鋒となって士達を破り自らの誠意を示したいと願った。絢はこれを信じ、即座に兵を率いて建德に従い長河の界まで来て、盟を結び、共に士達を図ることを約した。絢の兵はますます弛緩して備えがなく、建德がこれを襲い、大いに絢の軍を破り、数千人を殺略し、馬千余匹を獲た。絢は数十騎で遁走し、将を遣わして平原で追い及んでその首を斬り、士達に献じた。これにより建德の勢いはますます振るった。
隋は太僕卿楊義臣を遣わし、兵一万余りを率いて張金稱を討たせ、清河においてこれを破り、捕らえた賊の兵卒は皆屠殺し、草沢の間に散らばっていた残党は再び集まって建徳に投じた。義臣は勝ちに乗じて平原に至り、高鶏泊の中に入ろうとした。建徳は士達に言うには、「歴代の隋の将軍を見渡すに、兵を用いるのが巧みな者は、ただ義臣のみである。新たに金稱を破り、遠くから我らを襲おうとしている。その鋒鋭は当たるべからず。兵を引いてこれを避け、彼に戦いたくとも戦えず、空しく歳月を延ばさせ、将兵が疲労困憊したところで、機に乗じて襲撃すれば、大功を挙げることができよう。今、鋒を争えば、恐らく公は敵わないであろう」と。士達はその言に従わず、建徳を留めて陣営を守らせ、自ら精兵を率いて義臣を迎え撃った。戦いは小勝し、酒を放縦に飲み大いに宴を張り、義臣を軽んずる心があった。建徳はこれを聞いて言うには、「東海公(高士達)は賊を破ることができずして自ら誇り大いに奢る。この禍は至るまで久しくないであろう。隋兵は勝ちに乗じて、必ず長駆してここに至り、人心は驚き恐れる。我は全うされぬことを恐れる」と。そこで人を留めて陣営を守らせ、自ら精鋭百余りを率いて険阻な地を占拠し、士達の敗北に備えた。五日後、義臣は果たして士達を大破し、陣中でこれを斬り、勢いに乗じて敗走を追い、建徳を包囲しようとした。守兵は既に少なく、士達の敗北を聞いて、兵卒は皆潰走散乱した。建徳は百余騎を率いて逃亡し、饒陽に行き着き、その守備がないのを見て、これを攻め落とし、兵士を慰撫し従わせると、多くが従うことを望み、また三千余りの兵を得た。初め、義臣は士達を殺した後、建徳は憂うるに足らぬと考えた。建徳は再び平原に戻り、士達の敗死した兵卒の屍を収め、ことごとく埋葬した。士達のために喪を発し、三軍は皆喪服を着た。亡命した兵卒を招集すると、数千人を得て、軍勢は再び大いに振るい、初めて自ら将軍と称した。初め、群盗は隋の官吏や山東の士人を得ると皆殺しにしたが、ただ建徳だけは士人を捕らえるごとに、必ず恩遇を加えた。初めて饒陽県令宋正本を得て、上客として引き立て、謀議に参与させた。この後、隋の郡の長吏が次第に城を降してくるようになり、軍容はますます盛んとなり、勝兵十余万人となった。
十三年正月、河間楽寿の境界に壇場を築き、自ら長楽王と称し、年号を丁丑とし、官属を設置した。七月、隋は右翊衛将軍薛世雄を遣わし、兵三万を率いて討伐に来た。河間城の南に至り、七里井に陣を張った。建徳は世雄が来たと聞き、精兵数千人を選んで河間の南界の沢に伏せさせ、諸城から全て兵を引き上げ偽って撤退し、「豆子{{PUA|〓}}の中に逃げ込んだ」と流言した。世雄は建徳が自分を恐れたと思い、そこで守備を設けなかった。建徳はこれを偵知し、自ら敢死の士一千人を率いて世雄を襲撃した。時に雲霧が立ち込め昼間も暗く、両軍は見分けがつかず、隋軍は大いに潰え、自ら踏み合い、死者一万余りを出し、世雄は数百騎で逃げ去り、残りの軍はことごとく陥落した。ここにおいて建徳は河間を攻撃したが、頻りに戦っても陥落しなかった。その後、城中の食糧が尽き、また煬帝が弑逆されたと聞き、郡丞王琮が官吏を率いて喪を発した。建徳は使者を遣わして弔問し、琮は使者を通じて降伏を請うた。建徳は陣営を退き饗宴を整えて待った。琮は官属を率いて喪服を着し、手を後ろに縛って軍門に詣でた。建徳は自らその縄を解き、隋の滅亡の事について語り合うと、琮は俯伏して悲しみ慟哭し、建徳もまた彼のために泣いた。諸賊の将帥の中には進言する者があった。「琮は我らを長く拒み、殺傷甚だ多く、計略が尽きて初めて出てきたのです。今、彼を烹殺することを請います」と。建徳は言うには、「これは義士である。これから抜擢登用し、君に仕える者を励ますべきであり、どうして殺すことができようか!かつて泊中で共に小盗をしていた時は、恣意に人を殺すことも許されたが、今は百姓を安んじて天下を定めようとしているのに、どうして忠良を害することができようか」と。そこで軍中に令して言うには、「先に王琮と不和があった者で、今敢えて動揺するものがあれば、三族の罪に処す」と。即日に琮を瀛州刺史に任じた。初めて楽寿を都とし、金城宮と号した。ここから郡県は多く降伏した。
武徳元年の冬至の日、金城宮にて宴会を設けたところ、五羽の大鳥が楽寿に降り立ち、数万の群鳥がこれに従い、一日経って去った。そこで年号を五鳳と改めた。宗城の人が玄珪一枚を献上した。景城丞孔徳紹が言うには、「昔、夏の禹が符命を受けた時、天は玄珪を賜った。今、祥瑞が禹と同じであるから、夏国と称すべきである」と。建徳はこれに従った。先に、上谷の賊帥王須抜が漫天と自称し、数万の兵を擁して幽州に侵入し掠奪し、流れ矢に当たって死んだ。その副将魏刀児が代わってその兵を率い、歴山飛と自称し、深沢に入り占拠し、十万の徒党を有していた。建徳は彼と和睦し、刀児はそこで守備を緩めた。建徳はこれを襲撃して破り、またその地をことごとく併合した。
二年、宇文化及が魏県で僭号を称した。建徳はその納言宋正本、内史侍郎孔徳紹に言うには、「我は隋の百姓として数十年、隋は我が君として二代に及んだ。今、化及がこれを殺したのは、大逆無道であり、これこそ我が仇である。諸公と共にこれを討ちたいと思うが、どうか」と。徳紹は言うには、「今、海内に主なく、英雄が競い逐っている。大王は布衣の身から漳浦に起こり、隋の郡県の官吏は争って帰附する者がなかったのは、大王が順を仗って動き、義をもって天下を安んじようとされたからである。宇文化及は国と婚姻を結び、父子兄弟は隋代の恩を受けて、身は疑われることのない地位にありながら、弑逆の禍を行い、隋を簒奪して自ら代わった。これは天下の賊である。これを誅殺しないで、どうして盟主たることができましょうか」と。建徳は善しと称した。即日に兵を率いて化及を討ち、連戦して大いにこれを破った。化及は聊城に拠った。建徳は撞車を放ち石を抛り、その機巧絶妙にして、四方から城を攻め、これを陥落させた。建徳は城に入り、先ず隋の蕭皇后に謁見し、臣と称して語った。煬帝弑逆の首謀者である宇文智及、楊士覧、元武達、許弘仁、孟景をことごとく捕らえ、隋の文武官を集め、彼らの面前で斬り、首を轅門の外に晒した。化及とその二人の子を共に檻車に載せ、大陸県に至って斬った。
建徳は城を平定し陣を破るごとに、得た資財をことごとく諸将に分け与え、少しも取らなかった。また肉を食わず、常食はただ野菜と玄米の飯のみであった。その妻曹氏は絹織物の衣服を着ず、使う婢妾はわずか十数人であった。ここに至り、宮人を数千人得て、皆容色があったが、時宜に応じて解放し帰した。隋の文武官と驍果(精鋭兵)をなお一万ほど得たが、これも解放し、その行くに任せた。また隋の黄門侍郎裴矩を尚書左僕射とし、兵部侍郎崔君粛を侍中とし、少府令何稠を工部尚書とし、その他は才能に応じて官職を授け、政事を委ねた。関中や東都に行きたい者もまた恣にその意に任せ、なお衣服と食糧を与え、兵で援護し、その境から送り出した。洺州を攻め陥とし、刺史袁子干を虜にした。都を洺州に遷し、万春宮と号した。使者を灌津に遣わし、竇青の墓を祀り、二十戸の守冢を置いた。また王世充と友好を結び、使者を遣わして洛陽の隋の越王侗に朝貢した。後に世充が侗を廃して自立すると、そこで関係を断ち、初めて自ら尊大に振る舞い、天子の旌旗を建て、出入りに警蹕を設け、下す文書を詔と称した。隋の煬帝を追諡して閔帝とし、斉王暕の子政道を鄖公に封じた。しかしなお突厥に依拠していた。隋の義城公主は先に突厥に嫁いでいたが、この時使者を遣わして蕭皇后を迎えた。建徳は兵千余騎を整えて彼女を蕃地に送り届けさせ、また化及の首を伝えて公主に献上させた。既に突厥と連合したので、兵鋒はますます盛んとなった。
九月、南に相州を侵し、河北大使淮安王李神通は拒ぐことができず、退いて黎陽に奔る。相州は陥落し、刺史呂玟を殺す。また衛州に進攻し、黎陽を陥落させ、左武衛大將軍李世勣、皇妹同安長公主及び李神通は共に捕虜となる。滑州刺史王軌は奴僕に殺され、その首を携えて建徳のもとに奔り、言うには「奴僕が主君を殺すのは大逆である。我どうしてこれを受け入れられようか」と。命じて直ちに奴僕を斬らせ、王軌の首を滑州に返す。官吏民人はこれに感じ、即日に降伏する。斉・済二州及び兗州の賊帥徐円朗は皆、風聞して降伏する。建徳は李世勣を釈放し、彼に兵を率いさせて黎州を鎮守させる。
三年正月、李世勣はその父を捨てて逃げ帰る。執法者はこれを誅殺するよう請うたが、建徳は言う「李勣はもと唐の臣であり、我が捕虜となったが、その主君を忘れず、本朝に逃げ帰った。これは忠臣である。その父に何の罪があろうか」と。遂に誅殺しなかった。同安長公主及び李神通を別館に住まわせ、客礼をもって遇した。高祖は使者を遣わしてこれと連和し、建徳は即座に公主を使者と共に帰らせた。かつて趙州を破り、刺史張昂・邢州刺史陳君賓・大使張道源らを捕らえたが、彼らが自らの境を侵したため、建徳はこれを殺そうとした。その国子祭酒凌敬が進言して言う「犬はそれぞれその主君でない者に吠えるものである。今、隣人が堅守し、力尽きて捕らえられた。これは忠誠堅固な士である。もし酷い害を加えるならば、どうして大王の臣下を勧められようか」と。建徳は激怒して言う「我が城下に至っても、なお迷って降伏せず、我が軍旅を労した。その罪はどうして赦せようか」と。凌敬はまた言う「今、大王は大将軍高士興を易水に派遣して羅芸を抗禦させたが、兵がようやく至ると、士興は即座に降伏した。大王の考えはまたどうであろうか」と。建徳はようやく悟り、即座に彼らを釈放するよう命じた。その寛厚で諫言に従うことは、多くこの類いである。また士興を派遣して幽州を包囲させたが、攻め落とせず、軍を退いて籠火城に駐屯し、羅芸に襲撃されて、士興は大敗した。先に、その大将王伏宝は勇略多く、功績は同輩の中で最も優れていたが、諸将帥はこれを嫉んだ。ある者が彼が謀反を企てていると言うと、建徳は彼を殺そうとした。伏宝は言う「私は無罪である。大王はどうして讒言を聞き、自ら左右の手を斬るのか」と。殺した後、用兵することが多く不利となった。
九月、建徳は自ら師を率いて幽州を包囲し、羅芸は兵を出して戦い、これを大破し、千二百級を斬首する。羅芸の兵は頻繁に勝利して驕り、進んでその陣営を襲撃した。建徳は陣営の中に陣を列ね、塹壕を埋めて出撃し、羅芸を撃って敗走させた。建徳はその城に迫ったが、陥落させられず、遂に洺州に帰った。その納言宋正本は直言を好んだが、建徳はまた讒言を聞いてこれを殺した。この後、人々はこれを戒めとして、再び進言する者はなく、これにより政治と教化はますます衰えた。
先に、曹州済陰の人孟海公が精兵三万を擁し、周橋城を拠点として河南の地を掠めていた。その年十一月、建徳は自ら兵を率いて黄河を渡り、これを撃った。時に秦王が洛陽で王世充を攻めており、建徳の中書舎人劉斌が建徳に説いて言う「今、唐は関内を有し、鄭(王世充)は河南を有し、夏(我が国)は河北に居る。これは鼎の足のように互いに持ち合う勢いである。聞くところによれば、唐兵は全軍を挙げて鄭を攻め、前後二年に及び、鄭の勢いは日々逼迫しているが、唐兵は解かない。唐は強く鄭は弱く、その勢いは必ず鄭を破るであろう。鄭が破られれば、夏には唇亡びて歯寒しの憂いがある。大王のために計るならば、鄭を救うに如くはない。鄭が内で拒み、夏が外から攻めれば、これを破ることは必至である。もし唐を退けて鄭を全うすれば、これは常に三分の勢いを保つことができる。もし唐軍が破れた後に鄭を図ることができれば、それに乗じてこれを滅ぼし、二国の衆を総べ、唐軍の敗北に乗じて、長駆して西に入れば、京師を得て有することができる。これは太平の基である」と。建徳は大いに喜んで言う「これは良策である」と。丁度、王世充が使者を遣わして建徳に援軍を乞うたので、即座にその職方侍郎魏処絵を朝廷に入らせ、王世充の包囲を解くよう請わせた。
四年二月、建徳は周橋を陥落させ、孟海公を捕虜とし、その将范願を留めて曹州を守らせ、孟海公及び徐円朗の衆をことごとく発して王世充を救いに来た。軍は滑州に至り、王世充の行臺僕射韓洪が城を開いてこれを受け入れ、遂に元州・梁州・管州に進逼し、ことごとく陥落させ、滎陽に駐屯した。三月、秦王が武牢に入り、進んでその陣営に迫り、多くを傷つけ殺し、またその将殷秋・石瓚を生け捕りにした。時に王世充の弟王世弁が徐州行臺であり、その将郭士衡に兵数千を率いさせてこれに従わせ、合わせて十余万、号して三十万と称し、軍は成皋に駐屯し、板渚に宮殿を築き、必ず戦うことを示した。また間者を遣わして王世充と約し、共に表裏をなすことを図った。二月を経て、武牢に迫ったが、進むことができなかった。秦王は将軍王君廓に軽騎千余を率いさせてその糧食輸送を襲撃させ、その大将張青特を捕らえ、捕虜と鹵獲は甚だ多かった。建徳は数度不利となり、人心は危惧し、将帥以下は孟海公を破って、皆何らかの獲物を得ており、洺州に帰りたいと思った。凌敬が進言して説いて言う「宜しく全軍を挙げて黄河を渡り、懐州・河陽を攻め取り、重将を置いて守らせるべきである。さらに衆を率いて鼓を鳴らし旗を立て、太行山を越え、上党に入り、まず声勢をあげて後に実を取れば、檄文を伝えて平定できる。次第に壺口に向かい、少しずつ蒲津を脅かし、河東の地を収めれば、これが策の上である。これを行えば必ず三つの利がある。一つには人のいない境に入り、軍は万全である。二つには土地を拓き兵を得る。三つには鄭の包囲は自然に解ける」と。建徳はこれに従おうとしたが、王世充の使者長孫安世が密かに金玉を携え、その諸将を買収して、その謀略を乱した。衆は皆進言して言う「凌敬は一介の書生に過ぎない。どうして戦について語ることができようか」と。建徳はこれに従い、退いて凌敬に謝って言う「今、衆の心は甚だ鋭い。これは天が我を助けているのである。これによって決戦すれば、必ず大勝するであろう。すでに衆議に依ったので、公の言に従うことはできない」と。凌敬が固く争うと、建徳は怒り、彼を引きずり出した。その妻曹氏がまた建徳に言う「祭酒(凌敬)の言は従うべきである。大王はどうして受け入れないのか。滏口の道より、唐国の虚に乗じ、連営して漸進し、山北を取ることを請う。また突厥に因って西から関中を襲わせれば、唐は必ず師を還して自らを救うであろう。これによって鄭の包囲は解ける。今、武牢の下に兵を頓挫させ、日月が長く滞り、徒らに自ら苦しむだけで、事は恐らく功を奏さないであろう」と。建徳は言う「これは女子の知るところではない。かつ鄭国は朝夕の命を懸けて、我の来るを待っている。すでに救うことを許した以上、どうして難を見て退き、天下に不信を示すことができようか」と。ここにおいて衆を挙げて武牢に進逼したが、官軍は甲を按じてその鋭気を挫いた。建徳が汜水に陣を結んだ時、秦王は騎兵を遣わしてこれを挑発し、建徳は進軍して戦い、竇抗がこれに当たった。建徳が少し退くと、秦王は騎馬を駆って深く入り、四五度反覆した後、ついにこれを大破した。建徳は槍を受け、牛口渚に逃げ隠れたが、車騎将軍白士譲・楊武威がこれを生け捕りにした。先に、軍中に童謡があった。「豆が牛の口に入れば、勢いは久しからず」と。建徳が牛口渚に行くに及び、これを甚だ忌み嫌ったが、果たしてこの地で敗れた。建徳の率いる兵衆は一時に奔り潰え、妻曹氏及びその左僕射斉善行が数百騎を率いて洺州に逃れた。残党は建徳の養子を立てて主としようとしたが、善行は言う「夏王は河朔を平定し、士馬は精強であったが、一朝にしてこのように捕らえられた。これは天命の帰する所があるのではないか。心を委ねて命を請うに如くはない。無為に生民を塗炭に陥らせるな」と。ここにおいて府庫の財物をことごとく士卒に分け与え、それぞれ散り去るよう命じた。善行は建徳の右僕射裴矩・行臺曹旦及び建徳の妻と共に偽りの官属を率い、山東の地を挙げ、伝国璽など八つの璽を奉じて降伏して来た。七月、秦王は建徳を捕虜として京師に至らせ、長安市で斬った。年四十九。軍を起こしてから滅亡するまで、凡そ六年、河北はことごとく平定された。その年、劉黒闥が再び山東を盗み拠った。
史臣曰く
史臣曰く、世充は奸人にして、昏主に遭逢し、上は諛佞詭俗を以て栄名を取り、下は強弁非を飾りて群論を制す。終に篡逆を行い、自ら陸梁を恣にし、安んじて人を殺すことを忍び、情を矯りて衆を馭す。凡そ委任する所は、多くは叛亡なり、秦王に出降して、顕戮を致さず、其の幸多きこと多し。建德は義を郷閭に伏し、盗みに河朔を拠し、士卒を撫馭し、賢良を招集す。中に世充を絶ち、終に化及を斬り、徐蓋を殺さず、神通を生還せしめ、沈機英断、初め有らざるは靡し。宋正本・王伏宝の讒に被り害を見、凌敬・曹氏の謀を陳べて行はれざるに及び、遂に亡滅に至り、終りを克くする鮮し。然れども天命帰する有り、人謀及ばず。
賛に曰く、世充は篡逆し、建德は諫を愎くす。二凶即ち誅せられ、中原乱を弭ぐ。