旧唐書
列伝第三 李密
李密
李密、字は玄邃、本貫は遼東襄平の人である。魏の司徒弼の曾孫、後周は弼に徒何氏の姓を賜う。祖父の曜は、周の太保・魏国公。父の寛は、隋の上柱国・蒲山公、ともに当時に名を知られた。京兆長安に移住した。密は父の蔭により左親侍となり、かつて仗下に侍していたところ、煬帝が顧みてこれを見、退いて許公宇文述に謂いて曰く、「向こうの左仗下の黒色の小児は誰か」と。許公対えて曰く、「故蒲山公李寛の子の密です」と。帝曰く、「あの小児は視瞻異常なり、宿衛させぬように」と。他日、述が密に謂いて曰く、「弟は聡明この如し、才学をもって官を取るべし、三衛は叢脞にして、賢を養う所にあらず」と。密は大いに喜び、因って病と称して辞し、専ら読書を事とし、当時の人その面を見ることは稀であった。かつて包愷を尋ねようとし、一頭の黄牛に乗り、蒲の韉を被せ、なお『漢書』一帙を角に掛け、一手に牛の靷を捉え、一手に巻書を翻してこれを読んだ。尚書令・越国公楊素が道でこれを見、後ろから轡を按じてこれに従い、追い及んで問うて曰く、「何処の書生か、学に耽ることこの如きは」と。密は越公を識り、乃ち牛より下り再拝し、自ら姓名を言う。また読む所の書を問うと、答えて『項羽伝』と曰う。越公これを奇とし、語り、大いに悦び、その子の玄感らに謂いて曰く、「吾れ李密の識度を観るに、汝らは及ばず」と。ここにおいて玄感は心を傾けて結託した。
大業九年、煬帝が高麗を伐つに当たり、玄感をして黎陽に在って運送を監させた。時に天下騒動し、玄感は将に挙兵を謀らんとし、潜かに人を関中に入れて密を迎え、謀主と為さんとした。密至り、玄感に謂いて曰く、「今天子出征し、遠く遼外に在り、地は幽州を去り、懸隔千里、南には巨海の限り有り、北には胡戎の患い有り、中間一道、理極めて艱危なり。今公兵を擁して其の不意に出で、長駆して薊に入り、直ちに其の喉を扼す。前には高麗有り、退くに帰路無し、旬朔を過ぎずして、齎す糧必ず尽きん。麾を挙げて一たび召せば、其の衆自ずから降らん、戦わずして擒にす、これ計の上なり。関中は四塞、天府の国、衛文升有りと雖も、意と為すに足らず。若し城を経て攻めず、西に長安に入り、其の無備を掩えば、天子還るも、其の襟帯を失わん。険に拠りて之に臨めば、固に必ず克つべし、万全の勢い、これ計の中なり。若し近きに随い便に逐い、先ず東都に向かわば、堅城の下に頓し、勝負殊に未だ知るべからず、これ計の下なり」と。玄感曰く、「公の下計、乃ち上策なり。今百官の家口、並びに東都に在り、若し之を取らざれば、安んぞ物を動かさんや。且つ城を経て抜かざれば、何を以て威を示さん」と。密の計は遂に行われず。玄感既に東都に至り、頻りに戦い皆捷す、自ら天下の応ずる有りと謂い、功は朝夕に在りとす。内史舎人韋福嗣を獲るに及んで、又腹心に委ね、ここを以て軍旅の事、専ら密に帰せず。福嗣は既に同謀に非ず、戦いに因りて執われ、毎に籌画を設くるに、皆両端を持す。玄感後に檄文を作らしむるに、福嗣固く辞して肯わず、密其の情を揣り、因って玄感に謂いて曰く、「福嗣は既に同盟に非ず、実に観望を懐く。明公初めて大事を起こすに、而して奸人側に在り、必ず誤らるる所と為らん、請う斬りて以て衆に謝し、方に安輯すべし」と。玄感曰く、「何ぞ此に至らんや」と。密言の用いられざるを知り、退いて親しむ所の者に謂いて曰く、「楚公は反を好みて勝を図らず、如何。吾属今虜と為らん」と。後玄感将に西に入らんとす、福嗣竟に亡れて東都に帰す。
隋の左武衛大将軍李子雄は事に坐して収められ、行在所に送られる途中、路に於いて使者を殺し、亡れて玄感に投ず、乃ち玄感に速やかに尊号を称することを勧む。玄感密に問う、密曰く、「昔陳勝自ら王を称せんと欲し、張耳諫めて而して外せられ、魏武将に九錫を求めんとし、荀彧止めて而して疏んぜらる。今者密若し正言せば、還って二子の跡を追うを恐れ、阿諛して意に順えば、又密の本図に非ず。何者ぞ。兵起これ以来、頻りに捷すと雖も復すも、郡県に至っては、従う者未だ有らず。東都の守禦尚ほ強く、天下の救兵益々至らん。公は身を以て士衆に先んじ、早く関中を定むべし、乃ち急に自ら尊崇せんと欲するは、何ぞ人の広からざるを示さんや」と。玄感笑って止む。隋の将宇文述・来護児ら軍を率いて将に至らんとするに及び、玄感謂いて曰く、「計将に安く出ださん」と。密曰く、「元弘嗣強兵を隴右に統ぶ、今陽に其の反と言い、使を遣わして公を迎え、此に因りて関に入らば、衆を紿うを得べし」と。因って軍を引きて西に入る。陝県に至り、弘農宮を囲まんと欲す、密これを諫めて曰く、「公今衆を詐りて西に入る、事は速やかに在るに宜しく、況んや追兵将に至らんとするや、安んぞ稽留すべけんや。若し前に拠るに関を得ず、退くに守る所無くんば、大衆一たび散じ、何を以て自ら全からん」と。玄感従わず、遂に之を囲み、三日にして抜かず、方に引きて西す。晙郷に至りて、追兵遂に及び、玄感敗る。密乃ち間行して関に入るも、捕る者に獲らる。
時に煬帝は高陽に在り、密はその党と共に帝の所に送られ、その徒に謂ひて曰く、「吾等の命は、朝露に同じし、若し高陽に至らば、必ず俎醢と為らん。今道中に在り、猶は計を為すべきなり、安んぞ行きて鼎鑊に就き、逃避を規らざらんや!」と。衆之を然りとす。其の金有ること多き者、密に令して使者に示さしめて曰く、「吾等の死する日、幸ひに相ひ瘞むるに用ひよ、其の餘は即ち皆徳に報ぜん」と。使者其の金を利して、之を許す。及び関外に出づるに及び、防禁漸く弛み、密は酒食を市ふことを請ひ、毎夜宴飲し、喧嘩竟夕す、使者以て意と為さず。行きて邯鄲に至り、密等七人牆を穿ちて遁る。平原の賊帥郝孝德に抵るも、孝德甚だ之を礼せず。密又去りて、淮陽に詣り、姓名を隠し、自ら劉智遠と称し、徒を聚めて教授す。数箇月を経て、鬱鬱として志を得ず、五言詩を作りて曰く、「金風初節を蕩かし、玉露晩林を凋む。此の夕窮途の士、郁陶として寸心を傷む。野平らかに葭葦合ひ、村荒れて藜藿深し。眺聽良く多感、徙倚独り襟を沾す。襟を沾す何の為す所ぞ?悵然として古意を懐ふ。秦の俗猶未だ平らかならず、漢の道将に何をか冀らん?樊噲は市井の徒、蕭何は刀筆の吏。一朝時運会ひ、千古名諡を伝ふ。世上の雄に寄言す、虚しく生くる真に愧づべきなり」と。詩成りて泣下すること数行。時に之を怪しむ者有り、以て太守趙佗に告ぐ、県を下して之を捕ふ、密又亡去す。会ふに東郡の賊帥翟讓党を聚めて万餘人、密往きて之に帰す。或は密は玄感の亡将なるを知り、潜かに讓を勧めて之を害せしむ、讓密を営外に囚ふ。密因りて王伯當を以て策を讓に於いて曰く、「当今主上に昏く、人下に怨み、鋭兵は遼東に尽き、和親は突厥に絶え、方に乃ち揚・越を巡遊し、京都を委棄す、此れ亦劉・項奮起の会なり、足下の雄才大略を以てし、士馬精勇にして、二京を席捲し、暴を誅し虐を滅せば、則ち隋氏の亡ぶるに足らざるなり」と。讓深く敬慕を加へ、遽に之を釈す。諸の小賊を説かしめ、至る所皆降る。密又讓に説きて曰く、「今兵衆既に多し、糧出づる所無し、若し日を曠くし持久すれば、則ち人馬困弊し、大敵一たび臨まば、死亡日に無からん!未だ直ちに滎陽を取るに若かず、兵を休め穀に館し、士勇馬肥えて後に、然る後に人と利を争はん」と。讓以て然りと為す。是より金堤関を破り、滎陽諸県の城堡を掠め、多く之を下す。滎陽太守楊慶及び通守張須陀兵を以て讓を討つ、讓曾て須陀に敗られしこと有り、其の来るを聞き、大いに懼れ、将に遠く之を避けんとす。密曰く、「須陀は勇にして謀無く、兵又驟に勝ち、既に驕り且つ狠し、一戦にして之を擒ふべし。公但だ陣を列ねて以て待ち、公が為に之を破らん」と。讓已むを得ず、兵を勒して将に戦はんとす、密兵千餘人を分かちて木林の間に伏を設く。讓と戦ひ利あらず、稍く卻く、密伏を発して後より之を掩ひ、須陀の衆潰れ、讓と合撃し、大いに之を破り、遂に須陀を陣に斬る。讓是に於て密に別に統ぶる所の部を令す。密の軍陣整肅にして、凡そ兵士に号令するに、盛夏と雖も皆霜雪を背負ふが若し。躬儉素に服し、得る所の金宝は皆麾下に頒賜す、是に由りて人の為に用ひらる。尋で又讓に説きて曰く、「昏主塵を蒙り、吳・越に播蕩し、群兵競ひ起り、海内饑荒す。明公英傑の才を以てし、而して驍雄の旅を統ぶ、宜しく当に天下を廓清し、群凶を誅剪すべし、豈に草間に食を求め、常に小盗たるのみならんや!今東都の士庶、中外心を離し、留守の諸官、政令一ならず。明公親しく大衆を率ひ、直ちに興洛倉を掩ひ、粟を発して窮乏を賑はし、遠近孰か帰附せざらん?百万の衆、一朝に集む可し、先んずれば人を制す、此の機失ふべからず」と。讓曰く、「僕隴畝の間より起り、望み此に至らず、必ず図る所の如くならば、請ふ君先づ発し、僕諸軍を領して便ち後殿と為らん。倉を得るの日、当に別に之を議せん」と。大業十三年春、密と讓精兵千人を領して陽城北に出で、方山を逾え、羅口より興洛倉を襲ひ、之を破る。倉を開きて人の取る所に恣にし、老弱繈負す、道路絶えず、衆数十万に至る。隋の越王侗虎賁郎将劉長恭を遣はし歩騎二万五千を率ひて密を討たしむ、密一戦にして之を破り、長恭僅かに身を以て免る。讓是に於て密を推して主と為し、号して魏公と為す。二月、鞏南に壇場を設け、即位し、元年を称し、其の文書行下は行軍元帥魏公府と称す。房彦藻を左長史と為し、邴元真を右長史と為し、楊得方を左司馬と為し、鄭德韜を右司馬と為す。翟讓を拝して司徒と為し、東郡公に封ず。単雄信を左武候大将軍と為し、徐世勣を右武候大将軍と為し、祖君彦を記室と為し、其の餘封拝各差有り。是に於て洛口に城し周回四十里を以て之に居る。
長白山の賊孟讓其の部を率ひて密に帰す、鞏県長柴孝和・侍御史鄭頤鞏県を以て密に降る。隋の虎賁郎将裴仁基其の子行儉を率ひて武牢を以て密に帰し、拝して上柱国と為し、河東郡公に封ず。因りて仁基と孟讓を遣はし兵三万餘人を率ひて回洛倉を襲はしめ、之を破り、東都に入り、居人を俘掠し、天津を焼く、東都兵を出して之に乗ず、仁基等大いに敗れ、僅かに身を以て免る。密復た親しく兵三万を率ひて東都を逼る、将軍段達・虎賁郎将高毗・劉長林等兵七万を出して之を拒ぎ、故都城に戦ふ、隋軍敗走す。密復た回洛倉を下して之に拠り、大いに営塹を修め、以て東都を逼り、仍りて書を作りて以て郡県に移すに曰く、
「元気肇闢より、厥の初め人を生じ、之に帝王を樹て、以て司牧と為す。是を以て羲・農・軒・頊の后、堯・舜・禹・湯の君、靡く上玄を祗畏し、黔首を愛育し、乾乾終日し、翼翼小心し、朽索を馭するに危きを同じくし、春冰を履むに是れ懼るるが若し。故に一物所を失すれば、隍に納るるが若くして之を愧じ、一夫罪有れば、遂に車を下りて之を泣く。謙徳は躬を責むるに軫し、憂労は己を罪するに切なり。普天の下、率土の濱、蟠木は流沙に距り、瀚海は丹穴に窮るも、莫く腹を鼓し壤を撃ち、井を鑿り田を耕し、治升平に致し、之を仁寿に駆る。是を以て之を愛すること父母の如く、之を敬すること神明の若く、用ひて能く国を享くること多年、祚延長世す。未だ暴虐人に臨み、天位を克終する者有らざるなり。
隋氏往に因りて週末に預り、綴衣を奉じ、狐媚して聖宝を図り、胠篋して神器を取る。及び負扆を纘承するに及び、狼虎其の心、始めて明両の暉を曀し、終に少陽の位を幹る。先皇大漸し、禁中に侍疾し、遂に梟獍と為り、便ち鴆毒を行ふ。禍は莒僕より深く、釁は商臣より酷し、天地容れ難く、人神嗟憤す!州吁安忍、閼伯日尋す、剣閣是れ以て凶を懐く所以、晋陽是れ以て乱を興す所以、甸人を為めに罄とし、淫刑斯に逞し。夫れ九族既に睦べば、唐帝其の欽明を闡く、百世本枝、文王其の光大を表す。況んや復た磐石を隳壞し、維城を剿絶し、脣亡びて歯寒し、甯んぞ虞・虢に止まらんや?其の長久たらんことを欲す、其れ得可けんや!其の罪一なり。
禽獣の行いは、牝牡を共にするにあり、人倫の体は、内外を別つに在り。然るに蘭陵公主は逼幸を迫られて終わりを告げ、誰か敤首の賢を謂えん、翻って斉襄の恥を見る。先皇の嬪御に及んでは、並びに銀環を進め、諸王の子女は、咸く金屋に貯えらる。牝鶏は詰旦に鳴き、雄雉は其の群飛を恣にす。衵衣は陳侯の朝に戯れ、穹廬は冒頓の寝と同じ。爵賞の出ずるや、女謁遂に成り、公卿淫を宣べ、復た綱紀無し。其の罪二なり。
百姓を平章し、一日万機、未だ暁けずして衣を求め、昃る日影に食らわず。大禹は尺壁を貴ばず、光武は支体を隔てず、是を以て憂勤し、深く幽枉を慮う。然るに酒に荒湎し、昼を俾って夜と作し、式に号呼し、声伎を甘嗜し、常に窟室に居り、毎に糟丘に藉る。朝謁は其の身を覯ること罕にして、群臣は其の面を睹ること希なり。断決は此より行わず、敷奏は是に於て停擁す。中山の千日の飲、酩酊として名無く、襄陽の三雅の杯、留連詎に比せん。又広く良家を召し、宮掖に充選し、潜かに九市と為し、親しく四驢を駕し、自ら商人に比し、逆旅に見要らる。殷辛の譴は小と為し、漢霊の罪は更に軽し。内外驚心し、遐邇失望す。其の罪三なり。
上棟下宇は、『易』の爻に著わり、茅茨采椽は、諸史籍に陳ぶ。聖人の本意は、惟だ風雨を避くるに在り、詎に朱玉の華を待たん、寧ぞ綈錦の麗を須いん。故に璿室の崇構、商辛是を以て滅亡し、阿房の崛起、二世是を以て傾覆す。然るに古典に遵わず、前章を念わず、広く池台を立て、多く宮観を営み、金鋪玉戸、青瑣丹墀、日月を蔽虧し、寒暑を隔閡す。生人の筋力を窮め、天下の資財を罄くし、鬼をして尚為すに難からしめ、労人は固より其の不可なり。其の罪四なり。
公田の徹する所は、十畝を過ぎず、人力の供する所は、纔かに三日に止まる。是を以て徭を軽くし賦を薄くし、農時を奪わず、寧ろ人に積むも、府に蔵めず。然るに科税繁猥にして、紀極を知らず、猛火屡に焼き、漏卮満ち難し。頭会箕斂、逆に十年の租を折り、杼軸其の空しく、日に千金の費を損す。父母は其の赤子を保たず、夫妻は相い匡床に棄つ。万戸なれば則ち城郭空虚、千里なれば則ち煙火断滅す。西蜀王孫の室は、翻って原憲の貧に同じく、東海糜竺の家は、俄に鄧通の鬼と成る。其の罪五なり。
古の先哲の王は、征を卜し巡狩し、唐虞は五載、周は則ち一紀。本より親しく疾苦を問い、風謡を観省せんと欲す。乃ち復た薪芻を広く積み、饔餼を多く備う。年年歴覧し、処処登臨し、従臣疲弊し、供頓辛苦す。飄風凍雨、聊かに先駆に比せんと窃にし、車轍馬跡、遂に天下に周行す。秦皇の心未だ已まず、周穆の意窮め難し。西母に宴して雲を歌い、東海に浮かびて日を観る。家は納秸の勤を苦しみ、人は来蘇の望を阻まる。且つ夫れ天下道有れば、海外に守り、夷は華を乱さず、徳に在りて険に非ず。長城の役は、戦国の為す所、乃ち是れ狙詐の風にして、稽古の法に関せず。然るに秦代を追蹤し、板築更に興り、其の基墟を襲い、延袤万里、屍骸野を蔽い、血流河と成り、積怨山川に満ち、号哭天地に動く。其の罪六なり。
遼水の東、朝鮮の地は、『禹貢』以て荒服と為し、周王は棄てて臣とせず、羈縻を示し、其の声教を通わす。苟くも人を愛せんと欲するも、拓土を求むるに非ず。又強弩の末矢、理として魯縞に穿つ無く、沖風の余力、詎に鴻毛を動かし得ん。石田得て而も堪え無く、鶏肋啖いて而も何の用かあらん。然るに衆を恃み力を怙り、強兵黷武、惟だ併吞に在りて、長策を思わず。夫れ兵は猶お火の如し、戢えざれば将に自ら焚かんとす。遂に億兆の夷人をして、只輪も返る莫からしむ。夫差国を喪うは、実に黄池の盟に為り、苻堅身を滅すは、良に寿春の役に由る。鳴蟬を前もって捕えんと欲して、挟弾の後に在るを知らず。復た矢相い顧み、髽にして行を成す。義夫は切歯し、壮士は腕を扼つ。其の罪七なり。
直言を以て啓沃し、王臣躬を匪とせず、惟だ木は縄に従い、金は礪を須うが如し。唐堯は鼓を建て、献替の言を聞かんと思い、夏禹は鞀を懸け、時に箴規の美を聴く。然るに諫に愎くして卜に違い、賢を蠹し能を嫉み、直士正人は、皆屠害に由る。左僕射斉国公高穎、上柱国宋国公賀若弼は、或いは文昌の上相、或いは細柳の功臣、暫く良薬の言を吐くも、翻って属鏤の賜を加う。龍逢罪無くして、便ち夏癸の誅に遭い、王子何の辜か有らん、濫りに商辛の戮を被る。遂に君子をして舌を結ばしめ、賢人をして口を緘からしむ。白日を指して盛に比し、蒼天を射て敢えて欺く。国の将に亡びんとするを悟らず、死の将に至らんとするを知らず。其の罪八なり。
官を設け職を分つは、銓衡に貴ぶに在り、獄を察し刑を問うは、販鬻を聞く無し。然るに銭神論を起こし、銅臭公と為り、梁冀は黄金の蛇を受け、孟佗は蒲萄の酒を薦む。遂に彝倫の篸くる攸をして、政賄を以て成り、君子は野に在り、小人は位に在る。薪を積みて上に居るは、汲黯の言に同じく、銭を嚢するも及ばざるは、趙壹の賦を傷む。其の罪九なり。
宣尼の言有り、信無くば立たず、命を用いて祖を賞うは、義豈に食言せん。昏主の嗣位するより、毎歳行幸し、南北巡狩し、東西征伐す。浩亹に陪蹕し、東都に守固し、閿郷に野戦し、雁門に解囲するが如きに至る。外自らの征夫は、勝げて紀す可からず。既に功勲を立てたれば、須らく官爵を酬うべし。然るに志は翻覆を懐き、言行浮詭、危急なれば則ち勲賞を懸けて授け、克定すれば則ち絲綸行わず。商鞅の金を頒つのに異なり、項王の印を剚つのに同じ。芳餌の下には、必ず懸魚有り。其の重賞を惜しみて、人の死力を求め、丸を走らせて坡に逆うは、此れに匹するは難しからず。凡そ百の驍雄、誰か仇怨せざらん。匹夫の蕞爾たるに至りては、宿諾を虧かさず。既に乗輿に在りて、二三其の徳す。其の罪十なり。
一つも此れに在らば、未だ或いは亡びざるは無し。況んや四維張らず、三靈総て瘁え、小無く大無く、愚夫愚婦、共に殷の亡ぶるを識り、咸く夏の滅ぶるを知る。南山の竹を罄くすも、罪を書いて未だ窮まらず、東海の波を決すも、悪を流して難く尽くし。是を以て窮奇は上国に災いし、猰貐は中原に暴く。三河は封豕の貪を縦にし、四海は長蛇の毒を被る。百姓殲亡し、殆ど遺類無く、十分を以て計れば、纔かに一のみ。蒼生懍懍として、咸く杞国の崩るるを憂え、赤子嗷嗷として、但だ歴陽の陥つるを愁う。且つ国祚将に改まらんとすれば、必ず常期有り、六百は殷亡の年、三十は姫終の世。故に讖籙に云う、隋氏三十六年にして滅ぶ、此れ則ち厭徳の象已に彰れ、代終の兆先に見ゆ。皇天親無く、惟だ徳是れ輔く。況んや攙搶竟天し、申繻之を除旧と謂い、歳星井に入り、甘公之を義興と為す。兼ねて朱雀門焼け、正陽日蝕し、狐鳴き鬼哭き、川竭き山崩る。並びに是れ宗廟墟と為るの妖、荊棘庭に旅するの事。夏氏は則ち災釁多く非ず、殷人は則ち咎征更に少なし。牽牛漢に入り、方に大乱の期を知り、王良馬に策し、始めて兵車の会を験す。
今、人に順うこと革まらんとし、天に先んずること違わず、孟津に大誓し、景亳に命を陳ぶ。三千の列国、八百の諸侯、謀らずして同辞し、召さずして自ら至る。轟轟として隠隠、霆の如く雷の如く、彪虎嘯いて穀風生じ、応龍驤いて景雲起こる。我が魏公は聡明神武、斉聖広淵、七徳を総べて躬に在り、九功を包みて挺出す。周の太保・魏公の孫、上柱国・蒲山公の子なり。家に盛徳を伝え、武王季歴の基を承け、地に元勲を啓き、世祖元皇の業を嗣ぐ。篤く白水に生まれ、日角の相便ち彰れ、載た丹陵に誕し、大宝の文斯に著わる。これに姓は図緯に符し、名は歌謡に協い、六合の帰心する所以、三霊の改卜する所以なり。文王は羑里に厄せられ、赤雀方に来たり、高祖は碭山に隠れ、彤雲自ら起こる。兵は不道を誅し、『赤伏』は長安より至り、鋒鋭は当り難く、黄星は梁・宋より出づ。九五龍飛の始め、天人豹変の初め、諸難を歴試し、大敵に弥よ勇む。上柱国・司徒・東郡公の翟譲は功を締構に宣べ、経綸を翼亮し、伊尹の成湯を佐くるが如く、蕭何の高帝を輔くるが如し。上柱国・総管・斉国公の孟譲、柱国・歴城公の孟暢、柱国・絳郡公の裴行儼、大将軍・左長史の邴元真らは、並びに籌を千里に運び、勇は三軍に冠たり、剣を撃てば則ち蛟を截ち鰲を断ち、弧を彎げば則ち猿を吟え雁を落とす。韓・彭・絳・灌は、沛公の基を成し、寇・賈・呉・馮は、蕭王の業を奉ず。復た蒙輪挿輈の士、抜距投石の夫あり、驥馬は風を追い、呉戈は日を照らす。魏公は期運に属し、茲に億兆を伏す。躬ずから甲冑を擐ぎ、山川を跋渉し、風に櫛り雨に沐い、豈に労倦を辞せんや、遂に西伯の師を起こし、将に南巣の罪を問わんとす。百万旅を成し、四七を名と為し、呼吸すれば則ち河・渭流を絶ち、叱咤すれば則ち嵩・華自ら抜く。此れを以て城を攻めば、何の城か陥ちざらん、此れを以て陣を撃てば、何の陣か摧けざらん!譬えば猶お滄海を瀉して残熒を灌ぎ、昆侖を挙げて小卵を圧すが如し。鼓行して進み、百道俱に前にし、今月二十一日を以て東都に届く。而して昏朝の文武・留守の段達らは、昆吾の悪稔り、飛廉の奸佞、久しく天数を迷い、敢えて義兵を拒み、醜徒を駆率し、衆十万有り、回洛倉の北に於いて、遂に来たりて斧を挙ぐ。ここにおいて熊羆角逐し、貔虎率先し、其の倒戈の心に因り、我が破竹の勢いに乗ずるに、未だ踵を旋たずして、瓦解氷銷し、坑卒は則ち長平未だ多からず、積甲は則ち熊耳小なるを為す。達らは桀を助けて虐を為し、城に嬰りて自ら固め、梯沖乱舞し、徒らに九拒の謀を設け、鼓角将に鳴らんとし、空しく百楼の険を憑む。燕は衛の幕に巣くい、魚は宋の池に游ぐ、殄滅の期は、匪朝伊暮なり。然れども興洛・虎牢は、国家の儲積、我は已に先ず拠り、日を久しくす。回洛を得る既に、又た黎陽を取り、天下の倉は、尽く隋有に非ず。四方起義し、食を足し兵を足し、前に無く敵無し。裴光祿の仁基は、雄才の上将、脤を受けて征を専らにし、遐邇の憑る所、安危の托する所、乃ち機を識り変を知り、殷を遷して夏に事う。袁謙は藍水に擒えられ、張須陀は滎陽に獲られ、竇慶は淮南に戦没し、郭詢は河北に首を授く、隋の亡候、聊か知るべし。清河公の房彦藻は、近く戎律を秉り、地を東南に略し、師の臨む所、風行電撃す。安陸・汝南は、機に随い蕩定し、淮安・済陽は、俄然として款を送る。徐円朗は已に魯郡を平げ、孟海公は又た済陽を破り、海内の英雄、咸来りて応ず。封民贍は平原の境を取り、郝孝徳は黎陽の倉を拠り、李士雄は長平に虎視し、王徳仁は上党に鷹揚す。滑公の李景・考功郎中の房山基は臨渝より発し、劉興祖は白朔より起ち、崔白駒は潁川に起ち、方献伯は譙郡を以て来たり、各数万の兵を擁し、俱に牧野の会を期す。滄溟の右、函谷以東、牛酒は軍前に献じ、壺漿は道路に盈つ。諸君らは並びに衣冠の世冑、杞梓の良才、神鼎霊繹の秋、地を裂き侯を封ずるの始め、豹変鵲起、今や其の時、鼉鳴鱉応、機を見て作す、宜しく各子弟を鳩率し、共に功名を建つべし。耿弇の光武に赴く、蕭何の高帝に奉ずる、豈に止むらんや金章紫綬、華蓋朱輪、富貴以て当年を重んじ、忠貞以て奕葉に伝え、豈に盛ならずや!
若し隋代の官人は、堯に吠ゆるの犬に同じ、尚ほ王莽の恩を荷い、仍て蒯聵の禄を懐く。審配は袁氏に死すも、張郃の曹に帰するに如かず、范増は項王に困するも、陳平の漢に従うに若かず。魏公は赤心を推し、当に好爵を加え、木を択びて処らしめ、自ら疑わしめず。脱し猛虎猶予し、舟中の敵国と為らば、夙沙の人共に其の主を縛り、彭寵の僕自ら其の君を殺す、高官上賞、即ち以て相授けん。如し成事に暗く、迷いを守りて反らざれば、昆山に火を縱ち、玉石俱に焚け、爾等臍を噬み、悔い将に何ぞ及ばん!黄河は地を帯び、余が旦旦の言を明らかにし、皎日は天に麗い、我が勤勤の意を知らん。海内に布告し、咸しく聞知せしむ。」
祖君彦の辞なり。
俄にして徳韜・徳方俱に死し、復た鄭頲を以て左司馬と為し、鄭虔象を以て右司馬と為す。柴孝和、密に説いて曰く、「秦の地は山に阻まれ河を帯び、西楚は之に背きて亡び、漢高は之に都して覇たり。愚意の如きは、仁基をして回洛を守らしめ、翟譲をして洛口を守らしめ、明公自ら精鋭を簡び、西のかた長安を襲い、百姓孰か郊迎せざらん、必ず征有りて戦無からん。京邑を克つ既に、業固く兵強く、方に更に崤函を長駆し、東洛を掃蕩し、檄を伝え指捴すれば、天下定まる可し。但し今英雄競い起り、実に他人我に先んずるを恐る、一朝之を失えば、臍を噬む何ぞ及ばん!」密曰く、「君の図る所、僕も亦之を思うこと久し、誠に上策なり。但し昏主尚ほ存し、従兵猶ほ衆し、我が部する所、並びに山東の人、未だ洛陽を下さざるを見るや、何ぞ肯て相随いて西に入らん。諸将は群盗より出づ、之を留めれば各雄雌を競わん。若し然らば、殆んど将に敗れんとす!」密、兵鋒甚だ鋭く、毎に苑に入りて隋軍と連戦す。会うに密流矢に中たられ、営内に臥すに、東都復た兵を出して之に乗ず、密の衆大いに潰え、回洛倉を棄て、洛口に帰る。煬帝、王世充を遣わして勁卒五万を率いて之を撃たしむ、密之と戦い、利あらず、孝和洛水に溺死す、密之を哭して甚だ慟す。世充洛西に営し、密と百余日相拒し、大小六十余戦す。武陽郡丞の元宝蔵、黎陽の賊帥の李文柏、洹水の賊帥の張升、清河の賊帥の趙君徳、平原の賊帥の郝孝徳、並びに密に帰し、共に黎陽倉を襲い破り、之を拠る。永安の大族の周法明、江・黄の地を挙げて密に附き、斉郡の賊帥の徐円朗、任城の大侠の徐師仁、淮陽太守の趙佗皆之に帰す。
翟譲の部将王儒信は、譲に大塚宰となり、衆務を統轄して、密の権力を奪うよう勧めた。譲の兄の寛もまた譲に言うには、「天子は自ら作るべきもので、どうして人に与えられようか。もし汝が作ることができなければ、我が為すべきである」と。密はその言葉を聞き、ひそかに譲を除こうと謀る計画を立てた。ちょうど世充が陣を列ねて来たので、譲は出てこれを防ぎ、世充に攻撃され、譲の軍は少し敗れた。密は単雄信らとともに精鋭を率いて救援に向かい、世充は敗走した。翌日、譲はまっすぐに密のところへ行き、宴楽をしようとした。密は饗応の食事を用意してこれを待ち、その率いる左右の者をそれぞれ分けて食事をさせた。密は譲を招き入れて座らせ、良弓を譲に見せた。譲がちょうど弓を引き絞ろうとしたとき、密は壮士を遣わして背後からこれを斬らせ、その兄の寛と王儒信をも殺した。譲の部将徐世勣は乱兵に斬られ、重傷を負ったが、密は急いでこれを止めさせ、死を免れた。単雄信らは頓首して哀願したので、密は皆これを釈放して慰め諭した。そこで譲の連なる陣営に赴き、その将士に諭したので、敢えて動く者はなかった。そこで徐世勣、単雄信、王伯當に命じてその兵を分統させた。間もなく、世充が倉城を襲撃したが、密は再びこれを破った。世充はまた陣営を洛北に移し、浮橋を造り、全軍を挙げて密を攻撃した。密は千余騎を率いてこれを防いだが、利あらずして退いた。世充はこれに乗じてその城下に迫った。密は精鋭の兵数百人を選んでこれを邀撃し、世充は大敗し、争って浮橋に向かい、溺死者は数万に及んだ。虎賁郎将楊威、王辯、霍挙、劉長恭、梁徳、董智はいずれも陣に没し、世充はかろうじて死を免れた。その夜、大雪が降り、士卒は凍死する者がほとんどであった。密は勝ちに乗じて偃師を陥落させ、そこで金墉城を修築してここに居を構え、兵三十余万を擁した。留守韋津はまた密と上春門で戦い、津は大敗し、陣中で捕らえられた。将作大匠宇文愷は東都に叛き、密に降った。東は海・岱に至り、南は江・淮の郡県に至るまで、使者を遣わして密に帰順しないところはなかった。竇建徳、朱粲、楊士林、孟海公、徐円朗、盧祖尚、周法明らは皆使者に随って密に上表し、帝位に即くよう勧めた。そこで密の下の官属は皆密に尊号に即くよう勧めたが、密は言った、「東都がまだ平定されていないので、このことを議することはできない」と。
義旗が建てられると、密はその強盛を恃み、自ら盟主となろうと欲し、そこで高祖に書を送って兄と呼び、合従して隋を滅ぼすことを請い、大略において高祖と盟津の会を行い、牧野で商辛を殪し、咸陽で子嬰を執らえんと欲すると述べ、その趣旨は後主を弑し代王を執らえることを意としていた。高祖は書を見て笑い、「李密は陸梁放肆であり、簡単な書簡で招くことはできない。我は今、京師を安輯しているところであり、まだ東討の暇がない。もし今彼を阻絶すれば、さらに一つの秦を生むことになる。密は今、ちょうど我がために東都の兵を防ぎ、成皋の要を守る者となっている。韓信、彭越を求めようとするより、密を用いるに如くはない。へりくだった言葉で推奨し、その志を驕らせ、我を警戒させないようにすべきである。我が関中に入り、蒲津を拠り永豊に屯し、崤函を阻んで伊・洛に臨むことができれば、我が大事は成就するであろう」と言い、記室の温大雅に命じて書を作り密に報じさせた。
「近ごろ、崑山の火は烈しく、海水は群れ飛び、赤県は丘墟と化し、黔黎は塗炭に苦しむ。布衣の戎卒、鋤櫌や棘矜を手にし、覇を争い王を図り、狐鳴し蜂起する。翼翼たる京洛には強弩が城を囲み、膴膴たる周原には僵屍が路に満つ。主上は南巡し、膠舟に泛ぎて返るを忘れ、匈奴は北に熾え、将に伊川に被髮せんとす。輦上に虞無く、群下は結舌し、大盗国を移すも、これを敢えて指す者無し。忽焉として此に至り、自らこの憂いを招く。七百の基、二世に窮す。周・斉より以往、書契以来、邦国淪胥するも、斯くの如き酷きは未だ有らざるなり。天、蒸民を生むには、必ず司牧有り。当今牧たるは、子に非ずして誰ぞや。老夫は年命を知るを余すも、願わくは此に及ばず。欣んで大弟を戴き、鱗に攀じ翼に附さん。惟うに早く図籙に応じ、以て兆庶を寧んずることを冀う。宗盟の長は、属籍に見容れられ、復た唐に封ぜられんこと、斯の栄足れり。牧野に商辛を殪すは、言うに忍びず。咸陽に子嬰を執るは、敢えて命を聞かず。汾・晋の左右は、尚お安輯を須い、盟津の会は、未だ暇あらずして期を卜すべからず。今日鑾輿南幸するは、恐らくは永嘉の勢いに同じからん。顧みるにこの中原、鞠として茂草と為り、言を興して感歎すれば、実に疚しく懐にあり。脱し動静を知らば、数たび報を遅らせよ。未だ霊襟に面せず、用て労軫を増す。名利の地、鋒鏑縦横す。深く垂堂を慎み、此の鴻業を勉めよ。」
密は書を得て甚だ悦び、その部下に示して言った、「唐公が推してくれるのであれば、天下を定めるのは難しくない」と。そこで義師を警戒せず、専ら世充に意を注いだ。間もなく、宇文化及が衆を率いて江都より北へ黎陽を指し、兵十余万であった。密は自ら歩騎二万を将いてこれを防いだ。隋の越王侗が尊号を称し、使者を遣わして密に太尉・尚書令・東南道大行台行軍元帥・魏国公を授け、まず化及を平定した後、入朝して政を輔けるよう命じた。密は化及と対抗しようとしたが、前後に敵を受けることを恐れ、そこでへりくだった言葉で返礼した。化及が黎陽に至り、密と遭遇した。密はその軍に食糧が少ないことを知り、急戦が有利であると考えたので、敢えて鋒を交えず、またその帰路を遮った。密は徐世勣を遣わして倉城を守らせたが、化及はこれを攻めて落とせなかった。密は化及の食糧が尽きようとしていることを知り、偽って和を請うてその衆を疲弊させようとした。化及はこれを悟らず、大いに喜び、その兵に食糧を恣にさせ、密がこれを送るのを期待した。後にその計略を知ると、化及は怒り、密と衛州の童山の下で大戦した。密は流れ矢に当たり、汲県に頓した。化及は力尽き糧尽き、多くの者が叛き、汲県を掠め、北へ魏県に向かった。その将陳智略、張童仁らが率いる所部の兵で密に帰順する者は、前後相継いだ。初め、化及は輜重を東郡に留め、その任命した刑部尚書王軌にこれを守らせていたが、この時、軌は郡を挙げて密に降った。密は兵を率いて西進し、使者を遣わして東都に朝し、煬帝を弑した者于弘達を捕らえて越王侗に献じた。侗は密を召して入朝させようとしたが、温県に至った時、世充が乱を起こしたと聞いて止まり、金墉城に帰った。
当時、密の兵は衣服が少なく、世充の兵は食糧に乏しかったので、交易を請うた。密は初め難色を示したが、邴元真は私利を求めることを好み、しばしば密を勧めたので、密は遂にこれを許した。初め、東都は食糧が絶え、兵士で密に帰する者は日に数百人いたが、この時食糧を得るに及んで、降る者はますます少なくなり、密はようやく後悔して止めた。密は倉を占拠していても府庫がなく、兵は数度戦っても賞を得られず、また初めて帰附した兵を厚く慰撫したので、これにより衆心は次第に怨んだ。武徳元年九月、世充はその衆五千を率いて決戦に来た。密は王伯當を留めて金墉を守らせ、自ら精兵を率いて偃師に赴き、北に邙山を阻んでこれを待った。世充の軍が至ると、密は遂に敗北し、裴仁基、祖君彥は共に世充に捕らえられた。密は一万余人とともに洛口へ馳せ向かった。世充は偃師を包囲し、守将鄭頲の下の兵士が劫略して叛き、城を挙げて世充に降った。密が洛口倉城に入ろうとした時、邴元真は既に人を潜ませて世充を招いていた。密はひそかにこれを知ったが、その事を発せず、世充の兵が半ば洛水を渡ったところで、それから撃とうと待っていた。世充の軍が至った時、密の斥候騎兵が時を移さずに気づかず、いざ出戦しようとした時には、世充の軍は既に渡河を終えていた。密は自ら支えられぬと判断し、騎兵を率いて逃れ、まっすぐ武牢へ赴いた。元真は遂に城を挙げて世充に降った。
李密は黎陽へ向かおうとしたが、ある者が密に言うには、「翟譲を殺した際、徐世勣はほとんど死にかけました。今その者のところへ行くのは、どうして安全が保てましょうか」と。時に王伯當は金墉を棄てて河陽を守っていた。密は軽騎を率いて武牢から彼のもとへ帰り、伯當に言うには、「軍は敗れた。長らく諸君を苦しめてきた。我は今自刎して、衆に謝罪しよう」と。伯當は密を抱き、号泣して慟哭し、衆も皆泣き、顔を上げて見る者もなかった。密はまた言うには、「諸軍が幸いにも我を見捨てず、共に関中へ帰ろう。密自身は功績なく恥ずかしいが、諸君は必ず富貴を保つであろう」と。その府掾の柳奭が答えて言うには、「昔、盆子が漢に帰した時、尚食均輸の官を得ました。明公は唐公と同族であり、かつての交誼もあります。義兵の挙兵には加わらなかったものの、東都を阻み、隋の帰路を断ち、唐公が戦わずして京師を占拠することを可能にしました。これもまた公の功績です」と。衆は皆言うには、「その通りである」と。密はまた王伯當に言うには、「将軍は家族も重く、どうして再び孤と共に行くことができようか」と。伯當は言うには、「昔、漢の高祖が項羽を誅した時、蕭何は子弟を率いて従いました。伯當は兄弟が皆従わなかったことを恨み、これを恥じているだけです。どうして公が今日の失敗により、軽々しく去就を変えましょうか。たとえ身が原野に散ろうとも、甘んじて受けます」と。左右の者は感激しない者なく、ここに関中に入った者はなお二万人いた。高祖は使者を遣わして迎え労い、道に相望んだ。密は大いに喜び、その徒に言うには、「我は百万の衆を持っていたが、一朝にしてここに至った。これも運命である。今、事敗れて国に帰り、幸いに殊遇を蒙る。忠を尽くして奉ずる所に事えよう。かつ山東には連なる城数百あり、我がここに至ったことを知れば、使者を遣わして招けば、皆国に帰るであろう。竇融に比べても、勲功も小さくはない。どうして一台司の地位で処遇されないことがあろうか」と。京師に至ると、礼遇はますます薄くなり、執政者もまた賄賂を求めてきたので、心中甚だ不平であった。まもなく光禄卿に任じられ、邢国公に封ぜられた。
ほどなく、その配下の将帥が皆王世充に附かないと聞き、高祖は密に本兵を率いて黎陽へ行き、旧時の将士を招集し、世充を経略するよう命じた。時に王伯當は左武衛将軍であり、副将とするよう命じられた。密が桃林まで行くと、高祖はまた密を召還した。密は大いに恐れ、叛こうと謀った。伯當はしきりにこれを止めたが、密は従わず、密に言うには、「義士が志を立てるのは、存亡によって心を変えないためである。伯當は公の恩礼を蒙り、命を以て報いることを期している。公がどうしても聞き入れないなら、今はただ共に行くのみで、死生を共にしよう。しかし結局は益がないことを恐れる」と。そこで驍勇数千人を選び、婦人の衣を着せ、幕籬を被らせ、刀を裙の下に隠し、妻妾と偽らせ、自ら率いて桃林県の官舎に入った。しばらくして、服を変えて突出し、県城を占拠し、畜産を駆り掠め、直ちに南山へ向かい、険しい地形に乗じて東進し、人を馳せて張善相に告げ、兵を以て応接するよう命じた。時に右翊衛将軍史萬寶が熊州に留まって鎮守し、副将の盛彦師に歩騎数千を率いて追跡させ、陸渾県の南七十里で密に追いついた。彦師は山谷に伏兵を置き、密の軍が半分渡ったところで横から撃ってこれを破り、遂に密を斬った。時に三十七歳。王伯當もまたこれに死し、密と共に首を京師に伝送された。時に李勣は黎陽総管であった。高祖は勣がかつて密に仕えていたので、使者を遣わしてその反逆の様子を報せた。勣は上表して収葬を請うたので、詔してこれを許した。高祖はその屍を帰し、勣は喪を発し喪服を着て、君臣の礼を備えた。大いに威儀を整え、三軍皆縞素を着て、黎陽山の南五里に葬った。旧友がこれを哭し、多くは血を嘔する者がいた。邴元真が世充に降った時、行臺僕射に任じられ、滑州を鎮守した。密の旧将の杜才幹は元真が密に背いたことを恨み、偽って彼と会い、伏兵を置いてこれを斬り、その首を密の塚に祭った。
(附)単雄信
単雄信は、曹州の人である。翟譲と親しく交わった。若い頃から驍健で、特に馬上で槍を用いることに長け、密の軍中では「飛将」と号された。密が偃師で敗れると、遂に王世充に降り、大将軍に任じられた。太宗が東都を包囲攻撃した時、雄信は軍を出して拒戦し、槍を援って至り、ほとんど太宗に及んだ。徐世勣がこれを叱って止め、「これは秦王である」と言うと、雄信は恐れ慌てて退いた。太宗はこれによって難を免れた。東都が平定されると、洛陽で斬られた。
史臣曰く
史臣曰く、隋の政が動揺し、煬帝が荒淫で、中原を揺るがし、遠く遼海を征した時、内には国を匡す賢臣がなく、外には民を治める良吏が乏しく、両京は空虚で、兆民は疲弊していた。李密は民の堪えられぬに乗じ、まず乱の端を開き、心は機謀を断じ、身は陣敵に臨み、鞏・洛の要衝を占拠し、百万の師と号した。竇建德の輩は皆推戴に倣い、唐公も喜んで擁戴した。偉大ではなかったか。偃師で敗れた後も、なお麾下に数万の衆を保ち、もし猜忌を去り、速やかに黎陽へ向かい、世勣を将臣として任用し、魏徴を謀主として信頼すれば、成敗の勢いは、あるいは未だ知れなかったであろう。天命の帰する所となり、大事既に去った後では、陳勝に比べても余裕があった。始めは兵を挙げる首謀者となり、終わりには甘んじて降虜となる。その計略は、危うくはなかったか。また臣として身を委ね、誠を尽くして上に事えることもできず、遂には叛逆者となり、結局は狂夫であった。伯當の言葉を取らず、遂に桃林の禍に及んだ。ある者は項羽に擬するが、文武の器量と度量は余裕があっても、壮勇と果断では及ばない。楊素は既に密の才幹を知りながら、王の爪牙とすべきであったのに、癡児に委ね、遂には謀主となり、族を覆す禍となった。当然のことであろう。
賛して曰く、太陽(烏陽)既に昇れば、炬火(爝火)は息まず。狂えるかな李密、始めは乱を起こし、終わりには逆臣となる。