旧唐書
后妃下
玄宗元献皇后楊氏
玄宗元献皇后楊氏は、弘農郡華陰県の人である。曾祖父の楊士達は、隋の納言であった。天授年間、則天武后の母方の一族であることを以て、士達を追封して鄭王とし、太尉を贈られた。父の楊知慶は、左千牛将軍であり、太尉・鄭国公を贈られた。后は景雲元年八月に太子の宮殿に選び入れられた。時に太平公主が権勢を振るい、特に東宮を忌み嫌っていた。宮中の者たちは左右に態度を保ちながら、密かに太平に附く者は、必ずや陰に伺い察し、事は些細なことでも、皆上に聞こえたので、太子は心安からず思った。后は時に妊娠しており、太子は密かに張説に言うには、「権勢を振るう者は我が子孫を多く欲しがらず、恐らくはこの婦人に禍が及ぼう。どうしたものか」と。密かに張説に堕胎薬を持たせて入らせた。太子は奥の部屋で自ら薬を煮たところ、酔ったようにうとうとし、神人が鼎を覆う夢を見た。目覚めると夢の通りであり、このことが三度あった。太子はこれを怪しみ、張説に告げた。張説は言うには、「天命である。他に慮るには及ばぬ」と。やがて太平が誅され、後に果たして粛宗が生まれた。太子妃の王氏には子がなく、后の序列は下位にあったので、后は粛宗の母たることを敢えてしなかった。王妃が養育し、慈愛は実子以上であった。開元年間、粛宗が忠王となると、后は妃となり、また寧親公主を生んだ。張説は旧恩により特に寵遇を受け、説もまた忠王の儀表を奇とし、心に運命の歴がここに集まるを知り、故に寧親公主を説の子である張垍に降嫁させた。
開元十七年、后が薨じ、細柳原に葬られた。玄宗は張説に命じて志文を作らせ、その銘に云う、「石獣は澀みて緑苔黏り、宿草は残りて白露霑う。園寝は閉ぢて脂粉膩り、知らず何れの年か鏡奩を開かん」と。二十四年、忠王は皇太子に立てられた。至徳元年、粛宗は霊武において即位した。二載五月、玄宗は蜀におり、誥して曰く、「聖人は範を垂れて、顧復の恩を推す。王者は極を建て、抑えて追尊の礼あり。蓋し母は子を以て貴く、徳は諡を以て尊し。故に妃弘農楊氏は、特く坤霊を稟け、久しく陰教を厘めたり。往には塗山の慶を續け、華渚の祥を降す。異図を誕発し、載せて帝業を光らす。而るに冊命猶ほ闕け、幽靈尚ほ牴せり。夏王統を繼ぎ、方に陽城の恩を軫む。漢後榮を褒め、庶幾くは昭霊の稱に協わん。宜しく彼に於いて追冊して元献太后とすべし」と。宝応二年正月、泰陵に祔葬された。
粛宗張皇后
粛宗張皇后は、本来南陽郡西鄂県の人であるが、後に昭応県に移り住んだ。祖母の竇氏は、玄宗の母である昭成皇太后の妹である。昭成皇太后は天后(則天武后)に殺され、玄宗は幼くして恃む所を失い、竇姨に養育された。景雲年間、鄧国夫人に封ぜられ、恩沢は甚だ厚かった。その子の張去惑・張去疑・張去奢・張去逸は、皇姨の弟であり、皆高官に至った。張去盈は玄宗の女である常芬公主を娶った。張去逸が后を生んだ。天宝年間、太子の宮殿に選び入れられ良娣となった。后の弟の張清は、また大寧郡主を娶った。
后は弁舌に恵まれ豊満で、巧みに上の意に中った。安禄山の乱の時、玄宗は蜀に幸し、太子と良娣は共に従った。車駕が渭水を渡るとき、百姓が道を遮って太子の留まり長安を収復することを請うた。粛宗は性質仁孝であり、上皇が漂泊しているので、その側を離れたくはなかった。宦官の李靖忠が太子に留まることを請うて啓上し、良娣がこれを賛成し、玄宗に申し上げた。太子が霊武に向かうと、時に賊は既に京師を陥とし、従官は少なく、道中は危険が多かった。太子が宿泊する度に、良娣は必ずその前に居た。太子が言うには、「防禦は婦人の事ではない。どうして前に居るのか」と。良娣は言うには、「今、大家(殿下)が険難を跋履され、兵衛多くはない。恐らくは倉卒の事あらん、妾自らこれを当たり、大家は後より出でられよ。庶幾くは患い無からん」と。霊武に至ると、子を産み、三日で起き上がり、兵士の衣を縫った。太子が労うと、「産後は労作を忌む。安んぞ容易にせん」と。后は言う、「これは妾が自ら養生する時ではなく、大家の事を弁ずるを須いとす」と。粛宗が即位すると、淑妃に冊立された。父の太僕卿張去逸に左僕射を贈り、母の竇氏を義章県主に封じ、姉で李曇の妻を清河郡夫人に封じ、妹の師師を郕国夫人に封じた。乾元元年四月、皇后に冊立された。弟の駙馬都尉張清に特進・太常卿を加え、同正とし、范陽郡公に封じた。皇后は寵遇して後宮を専らにし、宦官の李輔国と共に禁中で権勢を握り、政事に干渉し、請謁が度を過ぎたので、帝は頗る悦ばず、どうすることもできなかった。后は光順門で外命婦の朝謁を受け、苑中で親蚕を行い、内外の命婦が相見える儀注は甚だ盛んであった。先に霊武にいた時、太子の弟の建寧王李倓が后の誣告により死んだ。これより太子は憂懼し、常に后が禍を構えることを恐れ、恭遜をもって容れられることを取り、后は建寧王の事による隙から、常に太子を危うくしようとした。張后は二子を生んだ。興王李佋と定王李侗である。興王は早くに薨じ、侗もまた幼かったので、儲位は安泰を得た。
宝応元年四月、粛宗が危篤に陥ると、后は宦官の朱輝光・馬英俊・啖廷瑤・陳仙甫らと謀り、越王李係を立てようとし、詔を矯って太子を召し入れて侍疾させた。宦官の程元振・李輔国はその謀りを知り、太子が入ると、二人は難を告げ、太子を飛龍廄に留まることを請うた。元振は禁軍を率いて越王を収め、朱輝光らを捕らえた。やがて粛宗が崩御し、太子が監国すると、遂に后を別殿に移し、幽閉のうちに崩じさせた。馬英俊を誅し、女道士の許霊素を配流し、山人申大芝に死を賜い、駙馬都尉張清を硤州司馬に貶し、弟の延和郡主の婿である鴻臚卿張潜を郴州司馬に貶し、舅の鴻臚卿竇履信を道州刺史に貶した。
粛宗韋妃
粛宗韋妃。父は韋元珪、兗州都督であった。粛宗が忠王であった時、孺人として娶り、太子に昇ると、太子妃となり、兗王李僴・絳王李佺・永和公主・永穆公主を生んだ。天宝年間、宰相李林甫が太子に不利であり、妃の兄の韋堅が刑部尚書であった。李林甫は罪を羅織し、柳勣の獄を起こし、韋堅が連坐して罪を得、兄弟共に死を賜わった。太子は懼れ、上表して自らを弁明し、妃とは情義睦まじくないと述べ、離婚を請うた。玄宗はこれを慰撫し、離婚を許した。妃は遂に髪を削ぎ尼服を着て、禁中の仏舍に住んだ。西京が失陥すると、妃もまた賊に陥った。至徳二年、京城にて薨じた。
粛宗章敬皇后呉氏
粛宗章敬皇后呉氏は、父の事に坐して掖庭に没入された。開元二十三年、玄宗が忠王の邸に幸した時、王の服御が蕭然としており、傍らに媵侍がいないのを見て、将軍高力士に命じて掖庭の宮人を選び賜うたが、呉后はその籍中にあった。容姿端麗で、性質は謙抑多く、寵遇は益々厚くなった。明年、代宗皇帝を生んだ。二十八年に薨じ、春明門外に葬られた。
代宗が即位した年の十二月、群臣は粛宗の山陵の期日が定まったことを以て、礼に準じて先の太后を陵廟に祔せんとした。宰臣の郭子儀らが上表して曰く、
宸極に儷(なら)ぶ者は、まさに淑徳に帰し、徽号を諡(おくりな)する者は、必ず鴻名に副う。運に履(ふ)みて天を承くるに当たりては、則ち心に因りて往(いにしえ)を追う、これ先王の明訓、聖人の茂典なり。伏して惟(おも)うに、先太后は円精の挺質、方祇の稟秀、禎符は四星に協い、典礼は万国に敦(あつ)く、元和の正気を得、霄漢の清英を韞(いだ)く。史を顧みて箴を求め、道は先ず壺則にあり、謙を捴(ひき)いて礼に率(したが)い、教は中闈に備わる。太陰に昃朓(そくちょう)の徴なく、丙殿に祝延の慶あり。師傅を尊敬し、礼経を佩服し、蘋藻の薦に勤め、珩璜の飾を貴ばず。徽音允(まこと)に穆(やわら)ぎ、嘉慶聿(つと)に彰(あきら)か、憲度輔佐の労、玄黙の化を緝熙(しゅうき)し、以て宗祀を光昭し、紫微に作配するに足る。豈に『騶虞』の風、江漢の域に行われ、『葛覃』の詠、岐陽の下より起らんや。爰に歴数を膺(う)け、聖明を啓き、艱難を大いに拯(すく)い、夷夏を永く清む。復た文母の周王の業を成し、慶都の帝堯の聖を誕(う)むるも、異代同符、彼多く慚徳あり。昊蒼弔わず、聖善長く違(さ)る。円魄の成るに当たり、玉英早く落ち、坤儀の美有りて、象服未だ加わらず。悲懐は先遠の辰にあり、感慟は易名の日にす。伏して山陵の貞兆、良吉期有り、虞祔の儀、式に配享を資(と)るを以てす。故実に率い、嘉名を敬いて奉ず。謹んで諡法に按ずるに、『敬慎高明を章と曰い、法度明大を章と曰い、夙興夜寐を敬と曰い、斉荘中正を敬と曰う』と。敢えて先典を遵い、仰いで懿徳を図り、謹んで上り尊諡して章敬皇后と曰う。
二年三月、建陵に祔葬す。春明門外の旧壟を啓くに、后の容状生けるが如く、粉黛故の如く、而して衣皆赭黄色なり、見る者駭異し、聖子の符兆の先と為す。
后の父令珪は、宝応初めに太尉を贈られ、母李氏は秦国夫人を贈られる。叔父令瑤は太子家令に拝され、馮翊郡公に封ぜられ、令瑜は太子右諭徳に任じられ、済陰郡公に封ぜられる。后の兄漵は鴻臚少卿となり、鄄城県公に封ぜられ、澄は太子賓客となり、濮陽県公に封ぜられ、湊は太子詹事となり、臨濮県公に封ぜられ、並びに開府儀同三司を加えられる。漵の位は終に金吾大将軍に至り、湊の位は終に京兆尹に至る、『外戚伝』に見ゆ。
代宗睿真皇后沈氏
代宗睿真皇后沈氏は、呉興の人、代々冠族たり。父は易直、秘書監。開元末、良家の子を以て選ばれて東宮に入り、太子の男広平王に賜わる。天宝元年、徳宗皇帝を生む。禄山の乱に、玄宗蜀に幸し、諸王・妃・主従幸に及ばざる者は、多く賊に陥り、后は東都掖庭に拘わる。代宗賊を破り、東都を収むるに及び、之を見て、宮中に留め、方に北征を経略し、未だ長安に迎え帰る暇あらず。俄(やが)て史思明再び河洛を陥す。朝義敗るるに及び、復た東都を収むるも、后の所在を失い、存亡を測る莫し。代宗使いを遣わして求訪す、十余年寂として聞く所無し。徳宗即位し、詔を下して曰く、「王者父に事えて孝なれば、故に天を事えて明らかにし、母に事えて孝なれば、故に地を事えて察す。則ち天を事えるは厳父に先んずる莫く、地を事えるは尊親に盛んなる莫し。朕恭しく天命を承け、以て社稷を主とし、珪璧を執りて上帝に事え、祖宗克く配す、園寢永く終わる。而るに内朝虚位にして、問安の礼を闕き、悲を銜(ふく)み内に惻(いた)み、憂恋歳を終う。舟車の路を歴(へ)て、以て音問を求むるに聴かんことを思うも、茲(こ)の重器を主とし、深哀に匪(あら)ず。是を以て旧儀を仰ぎ稽(かんが)え、大号を敬いて崇め、茲の礼命を挙げ、前典に式(のっと)り遵う。宜しく公卿大夫をして前訓を稽度せしめ、皇太后の尊号を上らしむべし」と。
建中元年十一月、遥かに聖母沈氏を皇太后と尊び、礼を含元殿庭に陳し、正至の儀の如し。上袞冕を以て東序門より出で、東方に立ち、朝臣位に班し、冊して曰く、「嗣皇帝臣名言す、恩は顧復より重きは莫く、礼は徽号より貴きは莫し、上は以て愛敬の道を展べ、下は以て『春秋』の義を正す、則ち祖宗の稟命する所、臣子の尽心する所、尊尊親親、此に在りて而して在り。両漢而下、帝王嗣位し、尊称を崇奉するに、厥(そ)れ旧章有り。永く惟うに丕烈、敢えて前典を墜(おと)さず、臣名謹んで尊号を上りて皇太后と曰う」と。帝再拝し、歔唏自ら勝えず、左右皆泣下す。仍りて睦王述を奉迎皇太后使と為し、工部尚書喬琳之を副え、太后の問の至るを候い、昇平公主宜しく起居を備うべし。是に於て命を分かち使臣とし、周行天下す。明年二月、吉問至り、群臣賀し、既にして詐妄なり。是より詐りて太后と称する者数四、皆之を罪せず、終に貞元の世に聞く無し。
徳宗外族を敦崇し、太后の父易直に太師を贈り、易直の子庫部員外郎介福に太傅を贈り、介福の子徳州刺史士衡に太保を贈り、易直第二子秘書少監震に太尉を贈る。時に沈氏封贈拜爵する者百余り。貞元七年、詔して外曾祖隋陝令沈琳に司徒を贈り、徐国公を追封し、外祖贈太師易直等と五廟を立て、琳を始めと為し、祠廟の須うる所に縁り、官に給す。後近属無く、惟だ族子房近し、徳宗用いて金吾将軍と為し、沈氏の祀を主らしむ。
憲宗即位の年の九月、礼儀使奏す、「太后沈氏厭代登真し、今に至るまで二十七載、大行皇帝至孝惟だ深く、哀思罔極なり。建中の初め、已に明詔を発し、舟車の至る所、靡(ことごと)く周遍せずと云うこと無し、歳月滋(ますます)深く、迎訪理絶ゆ。晋の庾蔚之の議に按ずるに、尋求三年の後、又中寿を俟ちて之に服す。今礼例を参詳し、伏して大行皇帝攢宮を啓くの日を以て、百官をして肅章門内の正殿に哀を挙げしめ、先ず有司をして禕衣一副を造らしめ、発哀の日に内官をして禕衣を幄に置かしむることを請う。此より後宮人朝夕上食し、先ず元陵に啓告し、次に天地宗廟・昭徳皇后廟に告ぐ。太皇太后の諡冊、神主を造り、日を択びて代宗廟に祔す。其の禕衣法駕を備え元陵祠に奉迎し、復た代宗皇帝の袞衣の右に置く。便ち発哀の日を以て国忌と為す」と。詔して奏の如くす。其の年十一月、冊諡して睿真皇后と曰い、神主を奉じて代宗の室に祔す。
代宗崔妃
代宗崔妃は、博陵安平の人。父は峋、秘書少監。母は楊氏、韓国夫人。天宝中、楊貴妃寵倖す、即ち妃の姨母なり。時に韓国・虢国の寵、戚里に冠たり。時に代宗広平王と為る、故に玄宗韓国の女を選び、広平邸に嬪す、礼儀甚だ盛ん。召王偲を生む。初め、妃母氏の勢を挟み、性頗る妒悍、西京賊に陥るに及び、母党皆誅せられ、妃王に従いて霊武に至り、恩顧漸く薄く、京に達して薨ず。
代宗貞懿皇后独孤氏
代宗貞懿皇后獨孤氏は、父は穎、左威衛錄事參軍であったが、后の貴いことにより、工部尚書を追贈された。后は美麗をもって宮中に入り、寵愛を受けて専房となり、故に長秋(皇后の宮殿)は空位のままで、諸姫はめったに御前に進むことがなかった。後に初めて貴妃に冊立され、韓王迥と華陽公主を生んだ。華陽は聡明で悟りが人に勝り、上(皇帝)の顔色をうかがい、発言は必ず喜びや怒りに従った。上が賞賛するものは、それに従って褒め称え、上が嫌うものは、曲げて全うしようとした。これにより、特に鍾愛された。大暦九年、公主が薨去すると、上は嘆き悼むことが深く、数日間朝政を視なかった。宰臣らは中使呉承倩に託して奏上し、寿命の長短は常理であり、社稷の重さを考え、哀しみを節して政務を視るべきであると言った。初め、公主が病んだ時、上は宗師に道教を教えさせ、名を瓊華真人とした。病が重くなると、上は自ら臨御して見舞い、属纊(臨終)の際には、上(皇帝)の指を噛んで傷つけた。その愛念はこのようなものであった。上はまだ朝政を聴かなかったので、宰臣らは諫めて言った、「公主は早くから神悟を成し、仁眷を特に集められ、祈祷には必ず親しく臨まれ、既に減膳を承けられましたが、幽明が急に隔たり、慈衷を倍して痛んでおられます。臣らの微誠は、感達する由もありません。伏して惟みますに、陛下は累聖の公器を守り、群生の重畜を御し、百戦の艱患を平らげ、四海の傷残を撫でられます。虜の動静が憂慮すべきものであり、戎師が近く警備を要し、一言が万務に及び、裁成は聖心にあり、得失は毫厘に誤り、安危は晷刻に存します。伏して慮りますに、顧懐がなお切であり、神志が未だ和せず、衆情はこれにより安寧せず、臣子はこれにより兢悸しております。伏して願わくは、周の喪(公の喪)の私痛を抑え、品物を至公に均しくし、下は黔黎を慰め、上は宗社を安んじられますように」。上はようやく朝政を聴いた。
大暦十年五月、貴妃が薨去し、追諡して貞懿皇后とし、内殿に殯し、数年を経ても宮を出るに忍びなかった。十三年十月にようやく葬り、宰臣常袞に命じて哀冊を作らせた。
「大暦十年、歳は辛卯に在り、十月辛酉朔。六日丙寅、貴妃獨孤氏薨ず。粤(ここに)明日、追諡して貞懿皇后と曰い、内殿の西階に殯す。十三年十月癸酉、乃ち門下侍郎・同平章事常袞に命じ、節を持ちて冊命す。その月二十五日丁酉を以て、座を莊陵に遷す、礼なり。素紗位を列ね、黼奕(ふえき)周庭に満ち、輅(ろ)玉綴に昇り、軒(けん)珠欞(しゅりょう)に〓(あお)ぐ。皇帝鸞掖(らんえき)を悼みて追懐し、麟跡(りんせき)に感じて増慟し、百礼を備えて殷遣し、六宮を命じて哀送せしむ。宗祝薦告し、司儀降収す。爰(ここ)に侍臣に詔し、垂鴻の休を紀せしむ。その辞に曰く、
『祚祉(そし)悠久、寵霊誕受(たんじゅ)す、元魏の戚籓(せきはん)、周・隋の帝后。五侯迭興し、七貴右に居り、皇運を肇啓(ちょうけい)し、文母に光膺(こうよう)す。纘女(さんじょ)是れ因、以て大倫を綱(つな)ぐ、陰教を生知し、我が蒸人(じょうじん)を育む。瑞雲彩を呈し、瑶星神を降す、聡明睿智、婉麗貞仁。惟れ昔、天監(てんかん)し、才淑を搜求す、龍徳田に在り、葛覃(かったん)穀に于(あ)る。周の薑(きょう)宇を胥(つく)り、漢の後轂(こく)を推す、王業惟れ艱(かん)し、嬪風已に穆(ぼく)し。文を継ぎ聖を伝え、徽を嗣ぎ令を克(よ)くす、其の光を曜さず、乃ち終に慶有り。園寢を祗奉(しほう)し、霊命に粛恭す、哀煢(あいけい)に在りて越え、聿(のり)に孝敬を追う。文織の絲組、硃緑玄黄、上に祭服を供し、以て明堂を祀る。法度節有り、珩璜(こうこう)を待たず、篇訓の制、自ら縑緗(けんしょう)に盈つ。我が邦族を叙し、風を天下に於(お)く、憂勤に始まり、協(かな)えて王化を成す。諸女を慈厚にし、寵を下嫁に臨み、賢才を登進し、日夜を労謙す。繒(そう)を服して倹を示し、簪を脱して誡を申し、後言を訪問し、宴遊夙(つと)に退く。内に群娣(ぐんてい)を加え、動くに矜誨有り;外に諸親を睦(むつ)まじくし、泣いて封拝を辞す。闕翟(けってき)日に有り、親蠶(しんさん)時を俟つ、忽ち清漢に帰し、言(ここ)に方祗(ほうし)に復す。万乗悼懐し、群臣慕思す、玉衣慶を追い、金鈿(きんでん)儀を同じくす。嗚呼哀哉!昭陽を去りて窅然(ようぜん)たり、雲駕に乗りて何くにか在る?人代宛(えん)として旧きが如く、炎涼(えんりょう)倏(しゅく)として已に改まる。翠葆(すいほう)森として列を成し、素旗儼(げん)として相待つ。言(ここ)に玉兆の貞に従い、永く瑶華の彩に牴(あ)てん。長秋の西苑を別れ、望春を過ぎて南に登り、帝子を北渚(ほくしょ)に招き、母后に東陵に従わん。下土清くして金翠動き、外に像無くして中に馮(よりどころ)有り、簫挽を合して攢咽(さんえん)し、雲雨を結んで淒凝(せいぎょう)す。吾が君幽期に感じ、層亭を俯して望思し、惨(さん)として嬪媛(ひんえん)を以て延踔(えんたく)し、極めて容衛を以て時を尽くす。巾袂(きんべい)を搖(ゆ)すぶりて遠訣し、軒檻(けんかん)を隔てて群悲す、復た見ずして回禦輦(えいれん)、傷むこと如何んぞ睿慈(えいじ)を軫(いた)ましむる。蘭皋(らんこう)を下りて芷陽(しよう)に背き、旌悠悠(せいゆうゆう)として野蒼蒼(そうそう)たり、白花を帯びて淚を掩(おお)い、玄帉(げんぷん)を衣(き)て腸を断つ。盛明に当たりて共に楽しまんとし、忽ち幽処に在りて独り傷む、故廷を去りて日遠く、新宮に即きて夜長し。襚(ずい)に文繡の飾り無く、器に珠貝の蔵(ぞう)無し、蓋(けだ)し我の立てし制に自り、国の大方を刑(のり)とす。嗚呼哀哉!送往の空しく帰るを見、終焉の此の如きを歎く、方士の神は是か非か、甘泉の画は疑うらくは復た似たりや。遺音は玉瑱(ぎょくてん)に在り、陳跡は金所に留まる、万寿を献ずるに期無く、《二南》の余美を存す。』」
帝は追思して已まず、何事にも極めて哀情を尽くそうとした。常袞は当代の才臣であり、詔されて哀詞を作ったが、文旨は淒悼で、これを見る者は惻然とした。華陽公主は先に城東に葬られていたが、地が卑湿であったため、この時に至って改葬し、莊陵の園に祔葬した。故に哀詞に「帝子を北渚に招き、母后に東陵に従わん」とある。乃ち常参官に詔して輓歌を作らせ、上自らその傷切なるものを選び、挽士に歌わせた。大暦初め、后の寵遇は比類なく、恩沢をもってその宗属を官とした。叔父の太常少卿卓は少府監となり、后の兄良佐は太子中允となった。
德宗昭德皇后王氏
德宗昭德皇后王氏は、父は遇、官は秘書監に至った。德宗が魯王であった時、后を嬪として納れた。上元二年、順宗皇帝を生み、特に寵異を受けた。德宗が即位すると、淑妃に冊立された。貞元二年、妃は病んだ。十一月甲午、皇后に冊立され、この日に両儀殿で崩御した。臨終を終え、素服で政務を視た。大殮が終わり喪服を着ると、百官は三日間喪服を着てから脱いだ。これは晉の文明后が崩御した時、天下に三日間哀悼を発して止めた故事によるもので、上(皇帝)の喪服は凡そ七日間で脱いだ。諡して昭德と曰う。初め、兵部侍郎李紓に諡冊を撰ばせたが、文が進上されると、帝は李紓の文が皇后を「大行皇后」と称するのは礼に合わないとして、留中して出さなかった。詔して翰林学士呉通玄にこれを作らせたが、通玄はまた「后王氏を咨(あ)う」と言い、議者もまた非礼であるとした。礼を知る者は、貞観中に岑文本が文德皇后の諡冊を撰んで「皇后長孫氏」と称したことを以て、これが正しいとした。五月、靖陵に葬られた。后の母郕国夫人鄭氏が祭を設けることを請うた。詔して曰く、「祭筵に仮の花果を用いるべからず、祭ろうとする者はこれに従え」。これより宗室の諸親、及び李晟・渾瑊・神策六軍大将ら皆祭を設けた。啓攢(けいさん、葬儀開始)の後より、日数を追って祭り、発引(出棺)に至って方や止んだ。宰臣韓滉が哀冊を作った。また宰相張延賞・柳渾に命じて《昭徳皇后廟楽章》を撰ばせたが、進上されると、上は詞句が巧みでないとして、留中して下さず、学士呉通玄に別に撰進させた。初め、后が淑妃であった時、德宗は后の父遇に揚州大都督を追贈し、遇の子果は眉州司馬となり、甥・侄で官を拝した者は二十余人であった。永貞元年十一月、靖陵を移し、崇陵に祔葬した。
德宗韋妃
徳宗の韋賢妃は、氏族の出自を知らず、初めは良娣であった。貞元二年に冊立されて賢妃となった。性質は聡明で聡く、言葉に軽率な容れ物はなく、行動は必ず礼に由った。徳宗は深くこれを重んじ、六宮はその德行を師とした。徳宗が崩御すると、崇陵において喪紀を終えることを請い、よって寢園に侍した。元和四年に薨去した。
順宗の莊憲皇后王氏
順宗の莊憲皇后王氏は、琅邪の人である。曾祖父は思敬、試太子賓客を務めた。祖父は難得、潞州都督を贈られ、琅邪郡公に封ぜられた。父は顔、金紫光祿大夫・衛尉卿であった。后は幼くして良家の子として選ばれて宮中に入り才人となった。順宗が藩王であった時、代宗が才人を賜った。時に年十三歳であった。大暦十三年に憲宗皇帝を生み、宣王の孺人に立てられた。順宗が皇太子に昇ると、冊立されて良娣となった。后は言葉と容姿が恭しく謹み深く、宮中ではその德行を称えられた。順宗が即位した時、病が癒えず、后は医薬を供給し侍奉して、左右を離れなかった。帝が言葉を発することができない状態にあったため、冊礼を行おうとしてまた止めた。永貞の内禅に及び、太上皇后に冊立された。元和元年正月、順宗が晏駕し、五月に太上皇后を尊んで皇太后とし、冊礼が終わると、憲宗は紫宸殿に御して赦を宣した。太后は興慶宮に居住した。后の性質は仁和で恭遜、外戚を深く抑え、些細な貸し借りもなく、内職を訓戒激励し、母儀の風があった。元和十一年三月、南内の咸寧殿にて崩御し、諡して莊憲皇后といった。
初め、太常少卿の韋纁が諡議を進め、公卿が署名して定め、天地宗廟に告げようとした。礼院が奏議して言うには、「謹んで『曾子問』を按ずるに、『賤は貴を誄せず、幼は長を誄せず、これ礼なり』とある。古くは天子は天を称してこれを誄し、皇后の諡は則ち廟で読んだ。『江都集禮』が『白虎通』を引いて言うには、『皇后は何れの所でこれを諡するか、廟に於いて為すと為す』と。また言う、『皇后に外事無く、郊に於いて為すこと無し』と。『傳』に言う、『故に天子と雖も、必ず尊ぶ所あり』と。礼に準ずれば、賤は貴を誄するを得ず、子は母に爵するを得ず。必ず廟で諡する所以は、諡は祖宗に成を受くべし。故に天子の諡は郊に成り、后妃の諡は廟に成る。今、礼に準じて、百官を集めて連署の諡状を終え、太廟で読み、然る後に両儀殿に上諡することを請う。既に故事に符し、礼経に允合する」と。これに従った。初め諡を称して並びに莊憲皇太后と云ったが、禮儀使の鄭絪が奏議して言うには、「秦・漢以来、天子の后は皇后と称し、母は皇太后と称し、祖母は太皇太后と称し、崩じてもまた之の如し。『太』の字を加えるは、尊称を別つ所以なり。国朝の典礼は皆旧制に依る。開元六年正月、太常が昭成皇太后の諡号を奏し、牒を礼部に送ったが、礼部はこれを非とした。太常が報じて言うには、『廟に入れば后と称し、義は夫に係る。朝に在れば太后と称し、義は子に係る』と。これは史冊に載せられ、不刊として垂れる。今、百司の移牒及び奏状、典故を参詳するに、『太』の字を除くは恐らく合わず。もし諡冊が陵に入り、神主が廟に入れば、即ち当にこれを去るべし」と。その年八月、豊陵に祔葬した。后は福王綰、漢陽・雲安・遂安の三公主を生んだ。后の祖父・父・母・弟は『外戚傳』に見える。
憲宗の懿安皇后郭氏
憲宗の懿安皇后郭氏は、尚父・子儀の孫、贈左僕射・駙馬都尉の曖の女である。母は代宗の長女・昇平公主。憲宗が広陵王であった時、后を妃として納れた。母が貴く、父・祖が王室に大勲あるを以て、順宗は深く寵愛し異遇した。貞元十一年に穆宗皇帝を生んだ。元和元年八月、貴妃に冊立された。八年十二月、百官が表を奉って貴妃を立てて皇后とすることを請い、凡そ三度上章した。上は歳暮を以て、来年には子午の忌があるとして、暫く止めた。帝は後宮に私愛多く、后の門族が華盛なるを以て、正位の後は嬖幸を容れざるを慮り、この故に冊拜が後時となった。元和十五年正月、穆宗が位を嗣ぐと、閏正月に皇太后に冊立され、儀を陳べて宣政殿庭にて冊し、冊文に曰く、
「嗣皇帝臣名、再拝して言う。伏して坤元を正し、天下を母とし、至徳に符して大号を昇め、晉運に因りて鴻徽を飾るは、焕乎として前聞に、焯として彼の古訓に、以て尊尊親親の義を極め、天に因り地に事うるの経を明らかにするは、自ら来ること有り。伏して惟うに、大行皇帝貴妃は、大虹毓慶し、霽月祥を披き、霊派を昭回に導き、殊仁を気母に揖し、百行を範囲し、六宮を表飭し、粤に中闈に在りて、陰教を流宣し、先聖を輔佐し、庶工を勤労す。顧みるに沖眇を以て、閔凶に遭罹し、成命を守器の時に荷い、宝図を鑄鼎の日に奉り、哀は易月に纏わり、痛みは終天に钜し。而して四海虞無く、万邦截有り、仰いで惟うに顧復の徳、敢えて聖善の風を揚げ、謹んで尊号を上りて皇太后と曰う」と。
この日、百官慶賀を称え、外命婦は光順門にて賀を奉った。詔して皇太后の曾祖父・贈太保を追封して岐国公の敬之に、贈太傅を、太后の父・駙馬都尉の曖に贈太尉を、母の虢国大長公主に贈斉国大長公主を、后の兄の司農卿の釗を刑部尚書に、鏦を金吾大将軍とした。
太后は興慶宮に居住し、帝は毎月朔望に参拝し、三朝の慶賀には、帝自ら百官を率いて門に詣で寿を上った。或いは良辰美景に遇えば、六宮の命婦、戚里の親属、車騎が南内に駢噎し、鑾佩の音、鏘として九奏の如し。穆宗の意は頗る奢縦に傾き、朝夕の供御、特に華侈であった。太后嘗て驪山に幸し、石甕寺に登ると、上は景王に命じて禁軍を率いさせて侍従させ、帝自ら昭応に於いて奉迎し、游豫行楽し、数日を経て還った。敬宗が即位すると、尊んで太皇太后とした。
宝曆の季年に及び、凶徒窃発し、昭湣暴殞し、内外震駭した。宦官が絳王を迎えて国を監させ、尋でまた害を加えた。太皇太后が下令して曰く、「大行皇帝は睿哲多能、天命に対越し、宜しく九廟の重を荷い、億年の祚を永く享くべし。豈に奸妖窃発し、神器を矯専し、中外を蠱惑し、群情を扇誘し、神人を駭動し、釁深く梟鏡なるを謂わんや。咨うるに爾江王は、聰哲精粹、清明躬に在り、智算機閑、玄謀雷発し、躬ず義勇を率い、丑類を大清し、允に当璧の符に膺り、爰に枕戈の憤を攄う。既に巨逆を殲し、当に豊福を享くべし。是れ爾を命じて元後に陟らしめ、宜しく司空・平章事・晋国公の度に冊を奉らしめて即皇帝位せしむ」と。文宗は孝にして謙謹、祖母に奉るに礼有り。膳羞珍果、蛮夷の奇貢は、郊廟に献じた後、三宮に及びて後に進禦した。武宗が即位すると、后を祖母の尊、門地素より貴きを以て、奉る益々隆盛であった。既にして宣宗が統を継ぐは、即ち后の諸子なり、恩礼愈々前朝に異なり。大中年に興慶宮にて崩じ、諡して懿安皇太后と曰い、景陵に祔葬した。后は七朝に歴位し、五たび太母の尊に居り、人君子孫の礼を行い、福寿隆貴四十余年、漢の馬・鄧と雖も以て加うる無し。識者は以て、汾陽の社稷の功未だ泯まず、復た慶を懿安に鐘すと為す。
憲宗の孝明皇后鄭氏
憲宗孝明皇后鄭氏は、宣宗の母である。蓋し内職の御女の列にあり、旧史は残欠して、族姓の出づる所、宮に入る由を見ず。宣宗が光王であった時、后は王太妃であった。即位すると、尊んで皇太后とした。会昌六年、后の弟の光が夢に車中に日月を載せ、光芒六合を燭すを見、占者は曰く、「必ず暴貴すべし」と。月余りして、武宗崩じ、宣宗即位し、光は元舅の尊をもって、検校戸部尚書・諸衛将軍となり、出でて平盧節度使となった。后は大中末に崩じ、諡して孝明という。
女学士尚宮宋氏
女学士・尚宮宋氏は、名は若昭、貝州清陽の人である。父は庭芬、代々儒学を業とし、庭芬に至って詞藻あり。五女を生み、皆聡恵にして、庭芬始めて経芸を教え、既にして詩賦を課し、年未だ笄に及ばずして、皆能く文を属す。長女は若莘、次は若昭・若倫・若憲・若荀。若莘・若昭は文特に淡麗にして、性また貞素閑雅、紛華の飾りを尚ばず。嘗て父母に白し、誓って人に従わず、願わくは芸学をもって名を揚げ親を顕わさんと。若莘は四妹を教誨すること、厳師の如し。『女論語』十篇を著し、その言は『論語』を模倣し、韋逞の母宣文君宋氏をもって仲尼に代え、曹大家等をもって顔・閔に代え、その間の問答、悉く婦道の尚ぶ所に拠る。若昭が注解すること、皆理致あり。貞元四年、昭義節度使李抱真表を上げて薦め以て聞かす。徳宗俱に召し入宮し、詩賦を以て試み、兼ねて経史中の大義を問い、深く賞歎を加う。徳宗は詩能くし、侍臣と唱和相属す、亦た若莘姊妹に応制せしむ。毎に進禦するに、善しと称せざるは無し。その節概群ならざるを嘉し、宮妾を以て遇せず、学士先生と呼ぶ。庭芬は起家して饒州司馬を受け、習芸館内に、勅して第一区を賜い、俸料を給す。
元和末、若莘卒し、河内郡君を贈る。貞元七年已後より、宮中の記注簿籍は、若莘その事を掌る。穆宗また若昭に命じてその職を代わらせ、尚宮に拝す。姊妹の中、若昭は特に人事に通暁し、憲・穆・敬の三帝より、皆先生と呼び、六宮の嬪媛・諸王・公主・駙馬皆師事し、これに敬意を為す。梁国夫人に進封す。宝暦初め卒し、葬らんとするに、詔して所司に鹵簿を供せしむ。敬宗また若憲に命じて宮籍を代わらせしむ。文宗は文を好み、若憲の文を善くし、能く論議奏対するを以て、特にこれを重んず。
大和中、神策中尉王守澄事を用い、翼城の医人鄭注・賊臣李訓を委信し、時権を幹窃す。訓・注は宰相李宗閔・李徳裕を悪み、宗閔の憸邪なるを構え、吏部侍郎の時、駙馬都尉沈〓をして若憲に賂を通ぜしめ、宰相を求めしむと。文宗怒り、宗閔を潮州司戸に貶し、〓を柳州司馬とし、若憲を外第に幽し、死を賜う。若憲の弟・姪・女婿等連坐する者十三人、皆嶺表に流す。李訓敗れ、文宗その誣構たるを悟り、深くその才を惜しむ。若倫・若荀は早く卒す。
穆宗恭僖皇后王氏
穆宗恭僖皇后王氏は、越の人。父は紹卿、婺州金華の令。后は少くして太子宮に入り、元和四年に敬宗を生む。穆宗皇帝立って妃と為す。長慶四年二月、尊んで皇太后と為す。昭湣は母族を崇重し、紹卿に司空を贈り、后の母張氏に趙国夫人を贈る。文宗即位の初め、宝暦太后と号す。大和八年詔して曰く、「伏して皇太后と宝暦太后と、毎に有司行遣するに、称号未だ分かたず、礼式便ならず、諸を前代に稽え、詔令の施す所、太后を斥言せず、宮名を以て称とす。今宝暦太后は義安殿に居す、宜しく故事に准じて義安太后と称すべし」と。
敬宗郭貴妃
敬宗郭貴妃、父は義、右威衛将軍。長慶末、姿貌を以て選ばれて太子宮に入る。敬宗即位し、才人と為り、晋王普を生む。帝は少年にして子あるを以て、また才人の容徳冠絶するを以て、特に寵異す。その父に礼部尚書を贈り、また兄の環を少府少監と為し、第一区を賜う。俄に冊して貴妃と為す。及び昭湣盗に遇い、宮闈変起し、文宗即位し、特に晋王を憐れみ、己が子の如くす、故に貴妃の礼遇衰えず。大和二年晋王薨じ、帝深く嗟惜し、悼懐太子と贈る。
穆宗貞献皇后蕭氏
穆宗貞献皇后蕭氏は、福建の人。初め、十六宅に入り建安王の侍者と為り、元和四年十月、文宗皇帝を生む。宝暦三年正月、敬宗弑害に遇い、中尉王守澄兵を率いて賊を討ち、江王を迎えて即位せしむ。文宗践祚の日、冊を奉りて曰く、「嗣皇帝臣名言す、古先哲王の天下を有つや、必ず孝敬を以て上に奉じ、慈恵を以て下に浹し、誠意を極めて人倫を厚くし、近きより及び遠きを思う、故に家よりして国を刑す。臣が厳慈の訓を奉じ、教撫の仁を承くるに、而るに長楽尚ほその鴻名を鬱し、内朝未だ正位を崇めず、則ち率土の臣子、勤勤懇懇、頸を延べ踵を企て、何を以てかその心を塞がんや。是を以て特挙に彝章を挙げ、旧典に式遵し、稽首再拝し、謹みて穆宗睿文恵孝皇帝妃の尊号を上りて皇太后と曰う。伏して惟うに天と徳を合わし、義を申して慶を錫い、允かに陰教を厘し、祗しく内則を修め、六宮の教を広め、十乱の功に参じ、神を頤して和を保ち、万有を弘覆せんことを」と。
その後、乱のために故郷を離れ、自ら王邸に入り、家との音信は途絶え、別れる時には父母は既に亡くなっており、母方の弟が一人いた。文宗は母方の一族に親族が少なく、ただ舅だけが存命していると聞き、詔を下して閩・越の連率に命じ、故郷で尋ね求めた。戸部の茶綱の役人である蕭洪という者がおり、自分に姉が流落していると申し出た。商人の趙縝が蕭洪を引いて后の姉である徐国夫人の女婿呂璋に会わせたが、夫人もはっきりと確認できず、共に太后に拝謁し、嗚咽して自らを抑えることができなかった。上は元の舅が再び得られたと思い、そこで金吾将軍・検校戸部尚書・河陽懐節度使に任じ、さらに検校左僕射・鄜坊節度使に転任させた。先に、神策両軍から出て方鎮となった者がおり、軍中では多くがその旅装の資金を出し、鎮に着くと三倍にして返済させた。時に左軍から出て鄜坊となった者がおり、資金を返済しないうちに鎮で死去し、その金を蕭洪に請求した。宰相李訓は蕭洪が国舅を詐称していることをよく知っており、蕭洪は恐れて、李訓の兄の仲京を鄜坊の従事として請い、事を繕わせた。蕭洪は李訓と交際していることを恃み、返済をしなかった。また、死者の子に請求すると、蕭洪はその子に命じて宰相に訴えさせたが、李訓は判を下して絶った。左軍中尉仇士良はこれを深く恨んだ。時に閩人の蕭本という者がおり、また太后の弟と称した。士良は蕭本のことを上聞に達し、蕭洪の詐偽を発覚させ、鄜坊から蕭洪を追って獄に下し、御史台に審問させた。その偽りをことごとく認めたので、詔を下して長流驩州とし、路で死を賜い、趙縝・呂璋もまた連座した。蕭洪が偽りで敗れたので、蕭本を真実と思い、そこで賛善大夫に任じ、緋色の袍と龜鈕の印を賜い、さらにその曾祖の倰を太保に、祖の聰を太傅に、父の俊を太師に追封し、巨万の賜物を与えた。蕭本は福建の人で、太后には真の母弟がいたが、弱くて自ら上達することができず、蕭本が近づき、その家の系譜や内外の族属の名諱を得て、さらに士良が保証したので、上も詐偽を疑わなかった。蕭本は衛尉少卿・左金吾将軍を歴任した。開成二年、福建観察使唐扶が上奏し、泉州晋江県令蕭弘の申し出を得て、自ら皇太后の実弟であると称し、京に送られた。詔を下して御史台に送り審問させたが、事はすべて偽りであり、詔を下して本貫に追い返した。開成四年、昭義節度使劉従諫が上章し、蕭本が太后の弟を偽称していることを論じ、「今、上より下まで、異口同音に、皆蕭弘が真で、蕭本が偽であると言う。蕭弘を追って京に赴かせ、蕭本と証明させよ。もし一時の恥辱を忍べば、終に千古の笑いを取るであろう」と言った。そこで詔を下して御史中丞高元裕・刑部侍郎孫簡・大理卿崔郇の三司に蕭弘・蕭本の獄を審問させた。ことごとく偽りであった。詔に曰く、
「恭しく考えるに、皇太后の族望は、斉・梁の後を承け、僑寓して流滞し、久しく閩中に在った。慶霊が鐘集し、早く椒掖に帰し、終に兄弟に乏しく、常に嘆いていた。朕が臨御して以来、便ち尋訪を遣わし、諸舅を得て、慈顔を慰めんことを冀った。而して奸濫の徒、我が情抱を探り、因って州里の近きに縁り、祖先の名に附会し、幸いに我が国恩を覬い、我が外族を仮託す。蕭洪の悪跡未だ遠からず、蕭本の覆轍相尋ぎ、蕭弘の本末、尤更に乖戾なり。三司推鞫し、曾て似たるの蹤無し。宰臣参驗し、其の難容の状を見る。文款継いで入り、留中久し。朕、視膳の時に於いて、頻りに咨稟有り、恭しく処分を聞くに、惟だ真実に在り。沐を丐い桑に堕つ、既に驗ふ可き無し。空を鑿き偽りを作す、豈に更に容る可けんや。其の罪状に據れば、合当に極法に當るべし、尚為に含忍し、之を荒裔に投ず。蕭本は名を除き、長流愛州。蕭弘は配流儋州。」
初め、蕭洪が国舅を詐称すること十数年、両たび旄鉞を授けられ、寵貴は天下に崇かった。蕭本は士良の郷導により、蕭洪の詐偽を発覚させ、連ねて顕栄を歴任した。及んで従諫が奏論するに及び、偽跡掩い難く、而して太后は終に真弟を得ず。
文宗は孝義天然であり、大和年中、太皇太后は興慶宮に居り、宝暦太后は義安殿に居り、皇太后は大内に居り、時に「三宮太后」と号した。上は五日ごとに参拝し、四節に献賀し、皆複道より南内に幸し、朝臣命婦は宮門に詣でて起居し、上は特に礼を執り、造次にも失わず。有司嘗て新瓜・櫻桃を献じ、陵寝宗廟に献じた後、中使を分かちて三宮・十宅に送らしむ。初め、有司が三宮に物を送るに、一例として賜と称す。帝曰く、「物を三宮に上る、安んぞ賜と名づく可けんや」と。遽かに筆を取って籍を塗り、「賜」を「奉」に改む。開成中、正月の望夜、帝は咸泰殿に燈燭を陳べ、《仙韶楽》を奏し、三宮太后俱に集い、觴を奉じて寿を献じ、家人の礼の如くし、諸親王・公主・駙馬・戚属皆侍宴す。上は性恭儉、延安公主の衣裾寬大なるを、即時に遣還し、駙馬竇浣を罰して両月の賜銭を停む。武宗即位し、供養弥謹し。蕭太后は積慶殿に徙居し、積慶太后と号す。会昌中に崩じ、諡して貞献と曰う。
穆宗宣懿皇后韋氏は、武宗昭粛皇帝の母なり。事闕く。
武宗王賢妃。事闕く。
宣宗元昭皇后晁氏は、懿宗皇帝の母なり。事闕く。
懿宗恵安皇后王氏は、僖宗皇帝の母なり。事闕く。
昭宗積善皇后何氏
昭宗積善皇后何氏は、東蜀の人なり。寿王邸に入り侍し、婉麗にして智多く、特ちに恩顧を承け、徳王・輝王を生む。昭宗即位し、淑妃に立てらる。乾寧中、車駕華州に在り、皇后に冊す。国家、乾符已後より、盗天下に満ち、妖九重に生じ、宮廟榛蕪し、奔播暇あらず。景福の際、奸臣内に侮り、后は蒙塵薄狩の中に於いて、嘗て膳を禦ぎ侮を禦ぎ、左右を離れず。左関・右輔の幸、時事危迫す、后消息撫禦し、終に保全を獲たり。岐下より還京し、崔胤黄門宦官を尽く誅し、毎に宰臣に宣諭するに、但だ宮嬪をして来往せしむ。是の時、国命朱氏に奪はれ、左右前後、皆な汴人なり、宮中の動息、縦え纖芥と雖も必ず朱全忠に聞こゆ。宮人常に惴怵を懐き、帝后相視みて泣く。天祐初、全忠輿駕を逼遷し、東に幸して洛陽す。其の年八月、昭宗弑せらる。翌日、宰相柳璨・独孤損等、詐りて皇后の令を宣し云く、「帝は宮人の為に害せらる、輝王祚宜しく帝位に升るべし」と。仍て后を尊びて皇太后と為す。変故に遭罹し、凶威に迫られ、宮中哭泣し、敢えて声を外に聞こゆる無し。明年十二月、全忠将に位を僭せんとし、先ず九錫を行い、然る後に禅を受く。全忠の牙将蔣玄暉、洛陽宮に在りて枢密を知り、太常卿張廷範と私に議して云く、「山西・河北未だ平らかならず、禅代利無し、請う蕩定を俟てん」と。咨諫せんと欲す。宣徽副使趙殷衡、素より張・蔣と協せず、且つ枢密事を知り代らんと欲し、因って梁に使いし、誣告して云く、「玄暉、私に何太后に於いて、相与に盟詛し、誓って唐室を復し、王の九錫を受くるを欲せず」と。全忠大怒し、即日使いを遣わして洛陽に至らしめ、玄暉・廷范・柳璨等を誅し、太后も亦積善宮に於いて害せられ、又宮人阿秋・阿虔を殺し、仍て太后を廃して庶人と為す。
賛に曰く、坤徳既に軌に則り、彤管煒有り。韋・武は邦を喪ぼし、毒蛇虺に侔ひ。陰教斯に僻まり、嬪風浸く毀る。賢なる哉長孫、母儀何ぞ偉なる。