舊唐書

巻052

巻052

舊唐書

原文舊唐書

卷五十二

原文卷五十二

后妃下

原文后妃下

玄宗元献皇后楊氏

原文玄宗元獻皇后楊氏

玄宗元献皇后楊氏は、弘農郡華陰県の人である。曾祖父の楊士達は、隋の納言であった。天授年間、則天武后の母方の一族であることを以て、士達を追封して鄭王とし、太尉を贈られた。父の楊知慶は、左千牛将軍であり、太尉・鄭国公を贈られた。后は景雲元年八月に太子の宮殿に選び入れられた。時に太平公主が権勢を振るい、特に東宮を忌み嫌っていた。宮中の者たちは左右に態度を保ちながら、密かに太平に附く者は、必ずや陰に伺い察し、事は些細なことでも、皆上に聞こえたので、太子は心安からず思った。后は時に妊娠しており、太子は密かに張説に言うには、「権勢を振るう者は我が子孫を多く欲しがらず、恐らくはこの婦人に禍が及ぼう。どうしたものか」と。密かに張説に堕胎薬を持たせて入らせた。太子は奥の部屋で自ら薬を煮たところ、酔ったようにうとうとし、神人が鼎を覆う夢を見た。目覚めると夢の通りであり、このことが三度あった。太子はこれを怪しみ、張説に告げた。張説は言うには、「天命である。他に慮るには及ばぬ」と。やがて太平が誅され、後に果たして粛宗が生まれた。太子妃の王氏には子がなく、后の序列は下位にあったので、后は粛宗の母たることを敢えてしなかった。王妃が養育し、慈愛は実子以上であった。開元年間、粛宗が忠王となると、后は妃となり、また寧親公主を生んだ。張説は旧恩により特に寵遇を受け、説もまた忠王の儀表を奇とし、心に運命の歴がここに集まるを知り、故に寧親公主を説の子である張垍に降嫁させた。

原文玄宗元獻皇后楊氏,弘農華陰人。曾祖士達,隋納言,天授中,以則天母族,追封士達為鄭王,贈太尉。父知慶,左千牛將軍,贈太尉、鄭國公。后景雲元年八月選入太子宮。時太平公主用事,尤忌東宮。宮中左右持兩端,而潛附太平者,必陰伺察,事雖纖芥,皆聞于上,太子心不自安。后時方娠,太子密謂張說曰:「用事者不欲吾多息胤,恐禍及此婦人,其如之何?」密令說懷去胎藥而入。太子于曲室躬自煮藥,醺然似寐,夢神人覆鼎。既寤如夢,如是者三。太子異之,告說。說曰:「天命也,無宜他慮。」既而太平誅,後果生肅宗。太子妃王氏無子,后班在下,后不敢母肅宗。王妃撫鞠,慈甚所生。開元中,肅宗為忠王,后為妃,又生甯親公主。張說以舊恩特承寵異,說亦奇忠王儀錶,心知運曆所鐘,故甯親公主降說子垍。

開元十七年、后が薨じ、細柳原に葬られた。玄宗は張説に命じて志文を作らせ、その銘に云う、「石獣は澀みて緑苔黏り、宿草は残りて白露霑う。園寝は閉ぢて脂粉膩り、知らず何れの年か鏡奩を開かん」と。二十四年、忠王は皇太子に立てられた。至徳元年、粛宗は霊武において即位した。二載五月、玄宗は蜀しょくにおり、誥して曰く、「聖人は範を垂れて、顧復の恩を推す。王者は極を建て、抑えて追尊の礼あり。蓋し母は子を以て貴く、徳は諡を以て尊し。故に妃弘農楊氏は、特く坤霊を稟け、久しく陰教を厘めたり。往には塗山の慶を續け、華渚の祥を降す。異図を誕発し、載せて帝業を光らす。而るに冊命猶ほ闕け、幽靈尚ほ牴せり。夏王統を繼ぎ、方に陽城の恩を軫む。漢後榮を褒め、庶幾くは昭霊の稱に協わん。宜しく彼に於いて追冊して元献太后とすべし」と。宝応二年正月、泰陵に祔葬された。

原文開元十七年,后薨,葬細柳原,玄宗命說為志文,其銘云:「石獸澀兮綠苔黏,宿草殘兮白露霑。園寢閉兮脂粉膩,不知何年開鏡奩。」二十四年,忠王立為皇太子。至德元年,肅宗即位于靈武。二載五月,玄宗在蜀,誥曰:「聖人垂范,是推顧復之恩;王者建極,抑有追尊之禮。蓋母以子貴,德以諡尊。故妃弘農楊氏,特稟坤靈,久厘陰教。往以續塗山之慶,降華渚之祥。誕發異圖,載光帝業。而冊命猶闕,幽靈尚牴。夏王繼統,方軫陽城之恩;漢後褒榮,庶協昭靈之稱。宜於彼追冊為元獻太后。」寶應二年正月,祔葬泰陵。

粛宗張皇后

原文肅宗張皇后

粛宗張皇后は、本来南陽郡西鄂県の人であるが、後に昭応県に移り住んだ。祖母の竇氏は、玄宗の母である昭成皇太后の妹である。昭成皇太后は天后(則天武后)に殺され、玄宗は幼くして恃む所を失い、竇姨に養育された。景雲年間、鄧国夫人に封ぜられ、恩沢は甚だ厚かった。その子の張去惑・張去疑・張去奢・張去逸は、皇姨の弟であり、皆高官に至った。張去盈は玄宗の女である常芬公主を娶った。張去逸が后を生んだ。天宝年間、太子の宮殿に選び入れられ良娣となった。后の弟の張清は、また大寧郡主を娶った。

原文肅宗張皇后,本南陽西鄂人,後徙家昭應。祖母竇氏,玄宗母昭成皇太后之妹也。昭成為天后所殺,玄宗幼失所恃,為竇姨鞠養。景雲中,封鄧國夫人,恩渥甚隆。其子去惑、去疑、去奢、去逸,皇姨弟也,皆至大官。去盈尚玄宗女常芬公主。去逸生后,天寶中,選入太子宮為良娣。后弟清,又尚大寧郡主。

后は弁舌に恵まれ豊満で、巧みに上の意に中った。安禄山の乱の時、玄宗は蜀に幸し、太子と良娣は共に従った。車駕が渭水を渡るとき、百姓が道を遮って太子の留まり長安ちょうあんを収復することを請うた。粛宗は性質仁孝であり、上皇が漂泊しているので、その側を離れたくはなかった。宦官の李靖忠が太子に留まることを請うて啓上し、良娣がこれを賛成し、玄宗に申し上げた。太子が霊武に向かうと、時に賊は既に京師を陥とし、従官は少なく、道中は危険が多かった。太子が宿泊する度に、良娣は必ずその前に居た。太子が言うには、「防禦は婦人の事ではない。どうして前に居るのか」と。良娣は言うには、「今、大家(殿下)が険難を跋履され、兵衛多くはない。恐らくは倉卒の事あらん、妾自らこれを当たり、大家は後より出でられよ。庶幾くは患い無からん」と。霊武に至ると、子を産み、三日で起き上がり、兵士の衣を縫った。太子が労うと、「産後は労作を忌む。安んぞ容易にせん」と。后は言う、「これは妾が自ら養生する時ではなく、大家の事を弁ずるを須いとす」と。粛宗が即位すると、淑妃に冊立された。父の太僕卿張去逸に左僕射を贈り、母の竇氏を義章県主に封じ、姉で李曇の妻を清河郡夫人に封じ、妹の師師を郕国夫人に封じた。乾元元年四月、皇后に冊立された。弟の駙馬都尉張清に特進・太常卿を加え、同正とし、范陽郡公に封じた。皇后は寵遇して後宮を専らにし、宦官の李輔国と共に禁中で権勢を握り、政事に干渉し、請謁が度を過ぎたので、帝は頗る悦ばず、どうすることもできなかった。后は光順門で外命婦の朝謁を受け、苑中で親蚕を行い、内外の命婦が相見える儀注は甚だ盛んであった。先に霊武にいた時、太子の弟の建寧王李倓が后の誣告により死んだ。これより太子は憂懼し、常に后が禍を構えることを恐れ、恭遜をもって容れられることを取り、后は建寧王の事による隙から、常に太子を危うくしようとした。張后は二子を生んだ。興王李佋と定王李侗である。興王は早くに薨じ、侗もまた幼かったので、儲位は安泰を得た。

原文后辯惠豐碩,巧中上旨。祿山之亂,玄宗幸蜀,太子與良娣俱從,車駕渡渭,百姓遮道請留太子收復長安。肅宗性仁孝,以上皇播越,不欲違離左右。宦者李靖忠啟太子請留,良娣贊成之,白于玄宗。太子如靈武,時賊已陷京師,從官單寮,道路多虞。每太子次舍宿止,良娣必居其前。太子曰:「捍禦非婦人之事,何以居前?」良娣曰:「今大家跋履險難,兵衛非多,恐有倉卒,妾自當之,大家可由後而出,庶幾無患。」及至靈武,產子,三日起,縫戰士衣。太子勞之曰:「產忌作勞,安可容易?」後曰:「此非妾自養之時,須辦大家事。」肅宗即位,冊為淑妃。贈父太僕卿去逸左僕射,母竇氏封義章縣主,姊李曇妻封清河郡夫人,妹師師封郕國夫人。乾元元年四月,冊為皇后。弟駙馬都尉清加特進、太常卿,同正,封范陽郡公。皇后寵遇專房,與中官李輔國持權禁中,干預政事,請謁過當,帝頗不悅,無如之何。後於光順門受外命婦朝,親蠶苑中,內外命婦相見,儀注甚盛。先在靈武時,太子弟建甯王倓為后誣譖而死。自是太子憂懼,常恐后之構禍,乃以恭遜取容,后以建寧之隙,常欲危之。張后生二子:興王佋、定王侗。興王早薨,侗又孩幼,故儲位獲安。

宝応元年四月、粛宗が危篤に陥ると、后は宦官の朱輝光・馬英俊・啖廷瑤・陳仙甫らと謀り、越王李係を立てようとし、詔を矯って太子を召し入れて侍疾させた。宦官の程元振・李輔国はその謀りを知り、太子が入ると、二人は難を告げ、太子を飛龍廄に留まることを請うた。元振は禁軍を率いて越王を収め、朱輝光らを捕らえた。やがて粛宗が崩御し、太子が監国すると、遂に后を別殿に移し、幽閉のうちに崩じさせた。馬英俊を誅し、女道士の許霊素を配流し、山人申大芝に死を賜い、駙馬都尉張清を硤州司馬に貶し、弟の延和郡主の婿である鴻臚卿張潜を郴州司馬に貶し、舅の鴻臚卿竇履信を道州刺史に貶した。

原文寶應元年四月,肅宗大漸,后與內官朱輝光、馬英俊、啖廷瑤、陳仙甫等謀立越王係,矯詔召太子入侍疾。中官程元振、李輔國知其謀,及太子入,二人以難告,請太子在飛龍廄。元振率禁軍收越王,捕硃輝光等。俄而肅宗崩,太子監國,遂移后於別殿,幽崩。誅馬英俊,女道士許靈素配流,山人申大芝賜死,駙馬都尉清貶硤州司馬,弟延和郡主婿鴻臚卿潛貶郴州司馬,舅鴻臚卿竇履信貶道州刺史。

粛宗韋妃

原文肅宗韋妃

粛宗韋妃。父は韋元珪、兗州都督ととくであった。粛宗が忠王であった時、孺人として娶り、太子に昇ると、太子妃となり、兗王李僴・絳王李佺・永和公主・永穆公主を生んだ。天宝年間、宰相李林甫が太子に不利であり、妃の兄の韋堅が刑部尚書であった。李林甫は罪を羅織し、柳勣の獄を起こし、韋堅が連坐して罪を得、兄弟共に死を賜わった。太子は懼れ、上表して自らを弁明し、妃とは情義睦まじくないと述べ、離婚を請うた。玄宗はこれを慰撫し、離婚を許した。妃は遂に髪を削ぎ尼服を着て、禁中の仏舍に住んだ。西京が失陥すると、妃もまた賊に陥った。至徳二年、京城にて薨じた。

原文肅宗韋妃。父元珪,兗州都督。肅宗為忠王時,納為孺人,及升儲位,為太子妃,生兗王僴、絳王佺、永和公主、永穆公主。天寶中,宰相李林甫不利於太子,妃兄堅為刑部尚書,林甫羅織,起柳勣之獄,堅連坐得罪,兄弟並賜死。太子懼,上表自理,言與妃情義不睦,請離婚,玄宗慰撫之,聽離。妃遂削髮被尼服,居禁中佛舍。西京失守,妃亦陷賊。至德二年,薨於京城。

粛宗章敬皇后呉氏

原文肅宗章敬皇后吳氏

粛宗章敬皇后呉氏は、父の事に坐して掖庭に没入された。開元二十三年、玄宗が忠王の邸に幸した時、王の服御が蕭然としており、傍らに媵侍がいないのを見て、将軍高力士に命じて掖庭の宮人を選び賜うたが、呉后はその籍中にあった。容姿端麗で、性質は謙抑多く、寵遇は益々厚くなった。明年、代宗皇帝を生んだ。二十八年に薨じ、春明門外に葬られた。

原文肅宗章敬皇后吳氏,坐父事沒入掖庭。開元二十三年,玄宗幸忠王邸,見王服御蕭然,傍無媵侍,命將軍高力士選掖庭宮人以賜之,而吳后在籍中。容止端麗,性多謙抑,寵遇益隆。明年,生代宗皇帝。二十八年薨,葬於春明門外。

代宗が即位した年の十二月、群臣は粛宗の山陵の期日が定まったことを以て、礼に準じて先の太后を陵廟に祔せんとした。宰臣の郭子儀らが上表して曰く、

原文代宗即位之年十二月,群臣以肅宗山陵有期,准禮以先太后祔陵廟。宰臣郭子儀等上表曰:

宸極に儷ならぶ者は、まさに淑徳に帰し、徽号を諡おくりなする者は、必ず鴻名に副う。運に履ふみて天を承くるに当たりては、則ち心に因りて往いにしえを追う、これ先王の明訓、聖人の茂典なり。伏して惟おもうに、先太后は円精の挺質、方祇の稟秀、禎符は四星に協い、典礼は万国に敦あつく、元和の正気を得、霄漢の清英を韞いだく。史を顧みて箴を求め、道は先ず壺則にあり、謙を捴ひきいて礼に率したがい、教は中闈に備わる。太陰に昃朓そくちょうの徴なく、丙殿に祝延の慶あり。師傅を尊敬し、礼経を佩服し、蘋藻の薦に勤め、珩璜の飾を貴ばず。徽音允まことに穆やわらぎ、嘉慶聿つとに彰あきらか、憲度輔佐の労、玄黙の化を緝熙しゅうきし、以て宗祀を光昭し、紫微に作配するに足る。豈に『騶虞』の風、江漢の域に行われ、『葛覃』の詠、岐陽の下より起らんや。爰に歴数を膺うけ、聖明を啓き、艱難を大いに拯すくい、夷夏を永く清む。復た文母の周王の業を成し、慶都の帝堯の聖を誕うむるも、異代同符、彼多く慚徳あり。昊蒼弔わず、聖善長く違さる。円魄の成るに当たり、玉英早く落ち、坤儀の美有りて、象服未だ加わらず。悲懐は先遠の辰にあり、感慟は易名の日にす。伏して山陵の貞兆、良吉期有り、虞祔の儀、式に配享を資とるを以てす。故実に率い、嘉名を敬いて奉ず。謹んで諡法に按ずるに、『敬慎高明を章と曰い、法度明大を章と曰い、夙興夜寐を敬と曰い、斉荘中正を敬と曰う』と。敢えて先典を遵い、仰いで懿徳を図り、謹んで上り尊諡して章敬皇后と曰う。

原文「儷宸極者,允歸於淑德;諡徽號者,必副於鴻名。當履運而承天,則因心而追往,此先王之明訓,聖人之茂典也。伏惟先太后圓精挺質,方祗稟秀。禎符協於四星,典禮敦于萬國,得元和之正氣,韞霄漢之清英。顧史求箴,道先於壺則;捴謙率禮,教備於中闈。太陰無昃朓之征,丙殿有祝延之慶。尊敬師傅,佩服禮經,勤於蘋藻之薦,罔貴珩璜之飾。徽音允穆,嘉慶聿彰,憲度輔佐之勞,緝熙玄默之化,足以光昭宗祀,作配紫微。豈《騶虞》之風,行于江、漢之域;《葛覃》之詠,起自岐陽之下。爰膺歷數,作啟聖明,大拯艱難,永清夷夏。雖復文母成周王之業,慶都誕帝堯之聖,異代同符,彼多慚德。昊蒼不吊,聖善長違。當圓魄之成,玉英早落;有坤儀之美,象服未加。悲懷於先遠之辰,感慟于易名之日。伏以山陵貞兆,良吉有期,虞祔之儀,式資配享。率由故實,敬奉嘉名。謹按諡法:『敬慎高明曰章,法度明大曰章,夙興夜寐曰敬,齊莊中正曰敬。』敢遵先典,仰圖懿德,謹上尊諡曰章敬皇后。」

二年三月、建陵に祔葬す。春明門外の旧壟を啓くに、后の容状生けるが如く、粉黛故の如く、而して衣皆赭黄色なり、見る者駭異し、聖子の符兆の先と為す。

原文二年三月,祔葬建陵。啟春明門外舊壟,后容狀如生,粉黛如故,而衣皆赭黃色,見者駭異,以為聖子符兆之先。

后の父令珪は、宝応初めに太尉を贈られ、母李氏は秦国夫人を贈られる。叔父令瑤は太子家令に拝され、馮翊郡ひょうよくぐん公に封ぜられ、令瑜は太子右諭徳に任じられ、済陰郡公に封ぜられる。后の兄漵は鴻臚少卿となり、鄄城県公に封ぜられ、澄は太子賓客となり、濮陽県公に封ぜられ、湊は太子詹事となり、臨濮県公に封ぜられ、並びに開府儀同三司を加えられる。漵の位は終に金吾大将軍に至り、湊の位は終に京兆尹に至る、『外戚伝』に見ゆ。

原文后父令珪,寶應初贈太尉;母李氏,贈秦國夫人。叔令瑤,拜太子家令,封馮翊郡公;令瑜,太子右諭德,封濟陰郡公。后兄漵,鴻臚少卿,封鄄城縣公;澄,太子賓客,濮陽縣公;湊,太子詹事,臨濮縣公;並加開府儀同三司。漵位終金吾大將軍,湊位終京兆尹,見《外戚傳》。

代宗睿真皇后沈氏

原文代宗睿真皇后沈氏

代宗睿真皇后沈氏は、呉興の人、代々冠族たり。父は易直、秘書監。開元末、良家の子を以て選ばれて東宮に入り、太子の男広平王に賜わる。天宝元年、徳宗皇帝を生む。禄山の乱に、玄宗蜀に幸し、諸王・妃・主従幸に及ばざる者は、多く賊に陥り、后は東都掖庭に拘わる。代宗賊を破り、東都を収むるに及び、之を見て、宮中に留め、方に北征を経略し、未だ長安に迎え帰る暇あらず。俄やがて史思明再び河洛を陥す。朝義敗るるに及び、復た東都を収むるも、后の所在を失い、存亡を測る莫し。代宗使いを遣わして求訪す、十余年寂として聞く所無し。徳宗即位し、詔を下して曰く、「王者父に事えて孝なれば、故に天を事えて明らかにし、母に事えて孝なれば、故に地を事えて察す。則ち天を事えるは厳父に先んずる莫く、地を事えるは尊親に盛んなる莫し。朕恭しく天命を承け、以て社稷を主とし、珪璧を執りて上帝に事え、祖宗克く配す、園寢永く終わる。而るに内朝虚位にして、問安の礼を闕き、悲を銜ふくみ内に惻いたみ、憂恋歳を終う。舟車の路を歴へて、以て音問を求むるに聴かんことを思うも、茲この重器を主とし、深哀に匪あらず。是を以て旧儀を仰ぎ稽かんがえ、大号を敬いて崇め、茲の礼命を挙げ、前典に式のっとり遵う。宜しく公卿大夫をして前訓を稽度せしめ、皇太后の尊号を上らしむべし」と。

原文代宗睿真皇后沈氏,吳興人,世為冠族。父易直,秘書監。開元末,以良家子選入東宮,賜太子男廣平王。天寶元年,生德宗皇帝。祿山之亂,玄宗幸蜀,諸王、妃、主從幸不及者,多陷於賊,后被拘於東都掖庭。及代宗破賊,收東都,見之,留于宮中,方經略北征,未暇迎歸長安。俄而史思明再陷河洛。及朝義敗,復收東都,失后所在,莫測存亡。代宗遣使求訪,十餘年寂無所聞。德宗即位,下詔曰:「王者事父孝,故事天明;事母孝,故事地察。則事天莫先于嚴父,事地莫盛於尊親。朕恭承天命,以主社稷,執珪璧以事上帝,祖宗克配,園寢永終。而內朝虛位,闕問安之禮,銜悲內惻,憂戀終歲。思欲曆舟車之路,以聽求音問,而主茲重器,莫匪深哀。是用仰稽舊儀,敬崇大號,舉茲禮命,式遵前典。宜令公卿大夫稽度前訓,上皇太后尊號。」

建中元年十一月、遥かに聖母沈氏を皇太后と尊び、礼を含元殿庭に陳し、正至の儀の如し。上袞冕を以て東序門より出で、東方に立ち、朝臣位に班し、冊して曰く、「嗣皇帝臣名言す、恩は顧復より重きは莫く、礼は徽号より貴きは莫し、上は以て愛敬の道を展べ、下は以て『春秋』の義を正す、則ち祖宗の稟命する所、臣子の尽心する所、尊尊親親、此に在りて而して在り。両漢而下、帝王嗣位し、尊称を崇奉するに、厥それ旧章有り。永く惟うに丕烈、敢えて前典を墜おとさず、臣名謹んで尊号を上りて皇太后と曰う」と。帝再拝し、歔唏自ら勝えず、左右皆泣下す。仍よりて睦王述を奉迎皇太后使と為し、工部尚書喬琳之を副え、太后の問の至るを候い、昇平公主宜しく起居を備うべし。是に於て命を分かち使臣とし、周行天下す。明年二月、吉問至り、群臣賀し、既にして詐妄なり。是より詐りて太后と称する者数四、皆之を罪せず、終に貞元の世に聞く無し。

原文建中元年十一月,遙尊聖母沈氏為皇太后,陳禮於含元殿庭,如正至之儀。上袞冕出自東序門,立於東方,朝臣班於位,冊曰:「嗣皇帝臣名言:恩莫重于顧復,禮莫貴於徽號,上以展愛敬之道,下以正《春秋》之義,則祖宗之所稟命,臣子之所盡心,尊尊親親,此焉而在。兩漢而下,帝王嗣位,崇奉尊稱,厥有舊章。永惟丕烈,敢墜前典,臣名謹上尊號曰皇太后。」帝再拜,歔唏不自勝,左右皆泣下。仍以睦王述為奉迎皇太后使,工部尚書喬琳副之,候太后問至,升平公主宜備起居。於是分命使臣,周行天下。明年二月,吉問至,群臣稱賀,既而詐妄。自是詐稱太后者數四,皆不之罪,終貞元之世無聞焉。

徳宗外族を敦崇し、太后の父易直に太師を贈り、易直の子庫部員外郎介福に太傅を贈り、介福の子徳州刺史士衡に太保を贈り、易直第二子秘書少監震に太尉を贈る。時に沈氏封贈拜爵する者百余り。貞元七年、詔して外曾祖隋陝令沈琳に司徒しとを贈り、徐国公を追封し、外祖贈太師易直等と五廟を立て、琳を始めと為し、祠廟の須うる所に縁り、官に給す。後近属無く、惟だ族子房近し、徳宗用いて金吾将軍と為し、沈氏の祀を主つかさどらしむ。

原文德宗敦崇外族,贈太后父易直太師,易直子庫部員外郎介福贈太傅,介福子德州刺史士衡贈太保,易直第二子秘書少監震贈太尉;時沈氏封贈拜爵者百餘人。貞元七年,詔外曾祖隋陝令沈琳贈司徒,追封徐國公,與外祖贈太師易直等立五廟,以琳為始,緣祠廟所須,官給。後無近屬,惟族子房為近,德宗用為金吾將軍,主沈氏之祀。

憲宗即位の年の九月、礼儀使奏す、「太后沈氏厭代登真し、今に至るまで二十七載、大行皇帝至孝惟だ深く、哀思罔極なり。建中の初め、已に明詔を発し、舟車の至る所、靡ことごとく周遍せずと云うこと無し、歳月滋ますます深く、迎訪理絶ゆ。晋の庾蔚之の議に按ずるに、尋求三年の後、又中寿を俟ちて之に服す。今礼例を参詳し、伏して大行皇帝攢宮を啓くの日を以て、百官をして肅章門内の正殿に哀を挙げしめ、先ず有司をして禕衣一副を造らしめ、発哀の日に内官をして禕衣を幄に置かしむることを請う。此より後宮人朝夕上食し、先ず元陵に啓告し、次に天地宗廟・昭徳皇后廟に告ぐ。太皇太后の諡冊、神主を造り、日を択びて代宗廟に祔す。其の禕衣法駕を備え元陵祠に奉迎し、復た代宗皇帝の袞衣の右に置く。便ち発哀の日を以て国忌と為す」と。詔して奏の如くす。其の年十一月、冊諡して睿真皇后と曰い、神主を奉じて代宗の室に祔す。

原文憲宗即位之年九月,禮儀使奏:「太后沈氏厭代登真,於今二十七載,大行皇帝至孝惟深,哀思罔極。建中之初,已發明詔,舟車所至,靡不周遍,歲月滋深,迎訪理絕。按晉庾蔚之議,尋求三年之後,又俟中壽而服之。今參詳禮例,伏請以大行皇帝啟攢宮日,百官舉哀于肅章門內之正殿,先令有司造禕衣一副,發哀日令內官以禕衣置於幄。自後宮人朝夕上食,先啟告元陵,次告天地宗廟、昭德皇后廟。太皇太后諡冊,造神主,擇日祔於代宗廟。其禕衣備法駕奉迎於元陵祠,復置於代宗皇帝袞衣之右。便以發哀日為國忌。」詔如奏。其年十一月,冊諡曰睿真皇后,奉神主祔于代宗之室。

代宗崔妃

原文代宗崔妃

代宗崔妃は、博陵安平の人。父は峋、秘書少監。母は楊氏、韓国夫人。天宝中、楊貴妃寵倖す、即ち妃の姨母なり。時に韓国・虢国の寵、戚里に冠たり。時に代宗広平王と為る、故に玄宗韓国の女を選び、広平邸に嬪ひんす、礼儀甚だ盛ん。召王偲を生む。初め、妃母氏の勢を挟み、性頗る妒悍、西京賊に陥るに及び、母党皆誅せられ、妃王に従いて霊武に至り、恩顧漸く薄く、京に達して薨ず。

原文代宗崔妃,博陵安平人。父峋,秘書少監。母楊氏,韓國夫人。天寶中,楊貴妃寵倖,即妃之姨母也。時韓國、虢國之寵,冠于戚里。時代宗為廣平王,故玄宗選韓國之女,嬪于廣平邸,禮儀甚盛。生召王偲。初,妃挾母氏之勢,性頗妒悍,及西京陷賊,母黨皆誅,妃從王至靈武,恩顧漸薄,達京而薨。

代宗貞懿皇后独孤氏

原文代宗貞懿皇后獨孤氏

代宗貞懿皇后獨孤氏は、父は穎、左威衛錄事參軍であったが、后の貴いことにより、工部尚書を追贈された。后は美麗をもって宮中に入り、寵愛を受けて専房となり、故に長秋(皇后の宮殿)は空位のままで、諸姫はめったに御前に進むことがなかった。後に初めて貴妃に冊立され、韓王迥と華陽公主を生んだ。華陽は聡明で悟りが人に勝り、上(皇帝)の顔色をうかがい、発言は必ず喜びや怒りに従った。上が賞賛するものは、それに従って褒め称え、上が嫌うものは、曲げて全うしようとした。これにより、特に鍾愛された。大暦九年、公主が薨去すると、上は嘆き悼むことが深く、数日間朝政を視なかった。宰臣らは中使呉承倩に託して奏上し、寿命の長短は常理であり、社稷の重さを考え、哀しみを節して政務を視るべきであると言った。初め、公主が病んだ時、上は宗師に道教を教えさせ、名を瓊華真人とした。病が重くなると、上は自ら臨御して見舞い、属纊(臨終)の際には、上(皇帝)の指を噛んで傷つけた。その愛念はこのようなものであった。上はまだ朝政を聴かなかったので、宰臣らは諫めて言った、「公主は早くから神悟を成し、仁眷を特に集められ、祈祷には必ず親しく臨まれ、既に減膳を承けられましたが、幽明が急に隔たり、慈衷を倍して痛んでおられます。臣らの微誠は、感達する由もありません。伏して惟みますに、陛下は累聖の公器を守り、群生の重畜を御し、百戦の艱患を平らげ、四海の傷残を撫でられます。虜の動静が憂慮すべきものであり、戎師が近く警備を要し、一言が万務に及び、裁成は聖心にあり、得失は毫厘に誤り、安危は晷き刻に存します。伏して慮りますに、顧懐がなお切であり、神志が未だ和せず、衆情はこれにより安寧せず、臣子はこれにより兢悸しております。伏して願わくは、周の喪(公の喪)の私痛を抑え、品物を至公に均しくし、下は黔黎を慰め、上は宗社を安んじられますように」。上はようやく朝政を聴いた。

原文代宗貞懿皇后獨孤氏,父穎,左威衛錄事參軍,以后貴,贈工部尚書。后以美麗入宮,嬖幸專房,故長秋虛位,諸姬罕所進御。後始冊為貴妃,生韓王迥、華陽公主。華陽聰悟過人,能候上顏色,發言必隨喜慍。上之所賞,則因而美之;上之所惡,則曲以全之,由是鍾愛特異。大曆九年,公主薨,上嗟悼過深,數日不視朝。宰臣等因中使吳承倩附奏,言修短常理,以社稷之重,宜節哀視事。初,公主疾,上令宗師道教,名曰瓊華真人。及疾亟,上親自臨視,屬纊之際,齧傷上指,其愛念如此。上既未聽朝,宰臣等諫曰:「公主夙成神悟,仁眷特鐘,嘗禱必親,已承減膳,幽明遽間,倍軫慈衷。臣等微誠,無由感達。伏惟陛下守累聖之公器,禦群生之重畜,夷百戰之艱患,撫四海之傷殘。虜候為虞,戎師近警,一言萬務,裁成聖心,得失謬於毫釐,安危存於晷刻。伏慮顧懷猶切,神志未和,眾情以之不甯,臣子以之兢悸。伏願抑周喪之私痛,均品物於至公,下慰黔黎,上安宗社。」上始聽朝。

大暦十年五月、貴妃が薨去し、追諡して貞懿皇后とし、内殿に殯し、数年を経ても宮を出るに忍びなかった。十三年十月にようやく葬り、宰臣常袞に命じて哀冊を作らせた。

原文大曆十年五月,貴妃薨,追諡曰貞懿皇后,殯于內殿,累年不忍出宮。十三年十月方葬,命宰臣常袞為哀冊曰:

「大暦十年、歳は辛卯に在り、十月辛酉朔。六日丙寅、貴妃獨孤氏薨ず。粤ここに明日、追諡して貞懿皇后と曰い、内殿の西階に殯す。十三年十月癸酉、乃ち門下侍郎・同平章事常袞に命じ、節を持ちて冊命す。その月二十五日丁酉を以て、座を莊陵に遷す、礼なり。素紗位を列ね、黼奕ふえき周庭に満ち、輅ろ玉綴に昇り、軒けん珠欞しゅりょうに〓(あお)ぐ。皇帝鸞掖らんえきを悼みて追懐し、麟跡りんせきに感じて増慟し、百礼を備えて殷遣し、六宮を命じて哀送せしむ。宗祝薦告し、司儀降収す。爰ここに侍臣に詔し、垂鴻の休よきことを紀せしむ。その辞に曰く、

原文「維大曆十年,歲在辛卯,十月辛酉朔。六日丙寅,貴妃獨孤氏薨。粵明日,追諡曰貞懿皇后,殯于內殿之西階。十三年十月癸酉,乃命門下侍郎、同平章事常袞持節冊命。以其月二十五日丁酉,遷座于莊陵,禮也。素紗列位,黼奕周庭,輅升玉綴,軒〓珠欞。皇帝悼鸞掖以追懷,感麟跡而增慟,備百禮以殷遣,命六宮而哀送。宗祝薦告,司儀降收,爰詔侍臣,紀垂鴻休。其辭曰:

『祚祉そし悠久、寵霊誕受たんじゅす、元魏の戚籓せきはん、周・隋の帝后。五侯迭興し、七貴右に居り、皇運を肇啓ちょうけいし、文母に光膺こうようす。纘女さんじょ是れ因、以て大倫を綱つなぐ、陰教を生知し、我が蒸人じょうじんを育む。瑞雲彩を呈し、瑶星神を降す、聡明睿智、婉麗貞仁。惟れ昔、天監てんかんし、才淑を搜求す、龍徳田に在り、葛覃かったん穀に于ある。周の薑きょう宇を胥つくり、漢の後轂こくを推す、王業惟れ艱かんし、嬪風已に穆し。文を継ぎ聖を伝え、徽を嗣ぎ令を克よくす、其の光を曜さず、乃ち終に慶有り。園寢を祗奉しほうし、霊命に粛恭す、哀煢あいけいに在りて越え、聿のりに孝敬を追う。文織の絲組、硃緑玄黄、上に祭服を供し、以て明堂を祀る。法度節有り、珩璜こうこうを待たず、篇訓の制、自ら縑緗けんしょうに盈つ。我が邦族を叙し、風を天下に於おく、憂勤に始まり、協かなえて王化を成す。諸女を慈厚にし、寵を下嫁に臨み、賢才を登進し、日夜を労謙す。繒そうを服して倹を示し、簪を脱して誡を申し、後言を訪問し、宴遊夙つとに退く。内に群娣ぐんていを加え、動くに矜誨有り;外に諸親を睦むつまじくし、泣いて封拝を辞す。闕翟けってき日に有り、親蠶しんさん時を俟つ、忽ち清漢に帰し、言ここに方祗ほうしに復す。万乗悼懐し、群臣慕思す、玉衣慶を追い、金鈿きんでん儀を同じくす。嗚呼哀哉!昭陽を去りて窅然ようぜんたり、雲駕に乗りて何くにか在る?人代宛えんとして旧きが如く、炎涼えんりょう倏しゅくとして已に改まる。翠葆すいほう森として列を成し、素旗儼げんとして相待つ。言に玉兆の貞に従い、永く瑶華の彩に牴あてん。長秋の西苑を別れ、望春を過ぎて南に登り、帝子を北渚ほくしょに招き、母后に東陵に従わん。下土清くして金翠動き、外に像無くして中に馮よりどころ有り、簫挽を合して攢咽さんえんし、雲雨を結んで淒凝せいぎょうす。吾が君幽期に感じ、層亭を俯して望思し、惨さんとして嬪媛ひんえんを以て延踔えんたくし、極めて容衛を以て時を尽くす。巾袂きんべいを搖ゆすぶりて遠訣し、軒檻けんかんを隔てて群悲す、復た見ずして回禦輦えいれん、傷むこと如何んぞ睿慈えいじを軫いたましむる。蘭皋らんこうを下りて芷陽しように背き、旌悠悠せいゆうゆうとして野蒼蒼そうそうたり、白花を帯びて淚を掩おおい、玄帉げんぷんを衣きて腸を断つ。盛明に当たりて共に楽しまんとし、忽ち幽処に在りて独り傷む、故廷を去りて日遠く、新宮に即きて夜長し。襚ずいに文繡の飾り無く、器に珠貝の蔵ぞう無し、蓋けだし我の立てし制に自り、国の大方を刑のりとす。嗚呼哀哉!送往の空しく帰るを見、終焉の此の如きを歎く、方士の神は是か非か、甘泉の画は疑うらくは復た似たりや。遺音は玉瑱ぎょくてんに在り、陳跡は金所きんしょに留まる、万寿を献ずるに期無く、《二南》の余美を存す。』」

原文『祚祉悠久,寵靈誕受,元魏戚籓,周、隋帝后。五侯迭興,七貴居右,肇啟皇運,光膺文母。纘女是因,以綱大倫,生知陰教,育我蒸人。瑞雲呈彩,瑤星降神,聰明睿智,婉麗貞仁。惟昔天監,搜求才淑,龍德在田,葛覃于穀。周薑胥宇,漢後推轂,王業惟艱,嬪風已穆。繼文傳聖,嗣徽克令,不曜其光,乃終有慶。祗奉園寢,肅恭靈命,越在哀煢,聿追孝敬。文織絲組,硃綠玄黃,上供祭服,以祀明堂。法度有節,不待珩璜,篇訓之制,自盈縑緗。敘我邦族,風於天下,始於憂勤,協成王化。慈厚諸女,寵臨下嫁,登進賢才,勞謙日夜。服繒示儉,脫簪申誡,訪問後言,宴遊夙退。內加群娣,動有矜誨;外睦諸親,泣辭封拜。闕翟有日,親蠶俟時,忽歸清漢,言復方祗。萬乘悼懷,群臣慕思,玉衣追慶,金鈿同儀。嗚呼哀哉!去昭陽兮窅然,乘雲駕兮何在?人代宛兮如舊,炎涼倏兮已改。翠葆森以成列,素旗儼而相待。言從玉兆之貞,永牴瑤華之彩。別長秋之西苑,過望春兮南登,招帝子於北渚,從母后於東陵。下土清兮動金翠,外無像兮中有馮,合簫挽以攢咽,結雲雨之淒凝。吾君感於幽期,俯層亭而望思,慘嬪媛以延踔,極容衛以盡時。搖巾袂兮遠訣,隔軒檻兮群悲,不復見兮回禦輦,傷如何兮軫睿慈。下蘭皋兮背芷陽,旌悠悠兮野蒼蒼,帶白花兮掩淚,衣玄帉兮斷腸。當盛明兮共樂,忽幽處兮獨傷,去故廷兮日遠,即新宮兮夜長。襚無文繡之飾,器無珠貝之藏,蓋自我之立制,刑有國之大方。嗚呼哀哉!見送往之空歸,歎終焉之如此,方士神兮是與非,甘泉畫兮疑復似。遺音在於玉瑱,陳跡留于金所,獻萬壽兮無期,存《二南》之餘美。』」

帝は追思して已まず、何事にも極めて哀情を尽くそうとした。常袞は当代の才臣であり、詔されて哀詞を作ったが、文旨は淒悼で、これを見る者は惻然とした。華陽公主は先に城東に葬られていたが、地が卑湿であったため、この時に至って改葬し、莊陵の園に祔葬した。故に哀詞に「帝子を北渚に招き、母后に東陵に従わん」とある。乃ち常参官に詔して輓歌を作らせ、上自らその傷切なるものを選び、挽士に歌わせた。大暦初め、后の寵遇は比類なく、恩沢をもってその宗属を官とした。叔父の太常少卿卓は少府監となり、后の兄良佐は太子中允となった。

原文帝追思不已,每事欲極哀情。常袞當代才臣,詔為哀詞,文旨淒悼,覽之者惻然。華陽公主先葬于城東,地卑濕,至是徙葬,祔于莊陵之園,故哀詞云:「招帝子於北渚,從母后於東陵。」乃詔常參官為輓歌,上自選其傷切者,令挽士歌之。大曆初,后寵遇無雙,以恩澤官其宗屬,叔太常少卿卓為少府監,后兄良佐太子中允。

德宗昭德皇后王氏

原文德宗昭德皇后王氏

德宗昭德皇后王氏は、父は遇、官は秘書監に至った。德宗が魯王であった時、后を嬪として納れた。上元二年、順宗皇帝を生み、特に寵異を受けた。德宗が即位すると、淑妃に冊立された。貞元二年、妃は病んだ。十一月甲午、皇后に冊立され、この日に両儀殿で崩御した。臨終を終え、素服で政務を視た。大殮が終わり喪服を着ると、百官は三日間喪服を着てから脱いだ。これは晉の文明后が崩御した時、天下に三日間哀悼を発して止めた故事によるもので、上(皇帝)の喪服は凡そ七日間で脱いだ。諡して昭德と曰う。初め、兵部侍郎李紓に諡冊を撰ばせたが、文が進上されると、帝は李紓の文が皇后を「大行皇后」と称するのは礼に合わないとして、留中して出さなかった。詔して翰林学士呉通玄にこれを作らせたが、通玄はまた「后王氏を咨あう」と言い、議者もまた非礼であるとした。礼を知る者は、貞観中に岑文本が文德皇后の諡冊を撰んで「皇后長孫氏」と称したことを以て、これが正しいとした。五月、靖陵に葬られた。后の母郕国夫人鄭氏が祭を設けることを請うた。詔して曰く、「祭筵に仮の花果を用いるべからず、祭ろうとする者はこれに従え」。これより宗室の諸親、及び李晟・渾瑊・神策六軍大将ら皆祭を設けた。啓攢(けいさん、葬儀開始)の後より、日数を追って祭り、発引(出棺)に至って方や止んだ。宰臣韓滉が哀冊を作った。また宰相張延賞・柳渾に命じて《昭徳皇后廟楽章》を撰ばせたが、進上されると、上は詞句が巧みでないとして、留中して下さず、学士呉通玄に別に撰進させた。初め、后が淑妃であった時、德宗は后の父遇に揚州大都督を追贈し、遇の子果は眉州司馬となり、甥・侄で官を拝した者は二十余人であった。永貞元年十一月、靖陵を移し、崇陵に祔葬した。

原文德宗昭德皇后王氏,父遇,官至秘書監。德宗為魯王時,納后為嬪。上元二年,生順宗皇帝,特承寵異。德宗即位,冊為淑妃。貞元二年,妃病。十一月甲午,冊為皇后,是日崩於兩儀殿。臨畢,素服視事。既大殮成服,百僚服三日而釋,用晉文明后崩天下發哀三日止之義,上服凡七日而釋。諡曰昭德。初,令兵部侍郎李紓撰諡冊,文既進,帝以紓文謂皇后曰「大行皇后」非禮,留中不出。詔翰林學士吳通玄為之,通玄又雲「咨後王氏」,議者亦以為非。知禮者以貞觀中岑文本撰文德皇后諡冊曰「皇后長孫氏」,斯得之矣。五月,葬於靖陵。后母郕國夫人鄭氏請設祭,詔曰:「祭筵不可用假花果,欲祭者從之。」自是宗室諸親,及李晟、渾瑊、神策六軍大將皆設祭。自啟攢後,日數祭,至發引方止。宰臣韓滉為哀冊。又命宰相張延賞、柳渾撰《昭德皇后廟樂章》,既進,上以詞句非工,留中不下,令學士吳通玄別撰進。初,后為淑妃,德宗贈后父遇揚州大都督,遇子果眉州司馬,甥侄拜官者二十餘人。永貞元年十一月,徙靖陵,祔葬於崇陵。

德宗韋妃

原文德宗韋妃

徳宗の韋賢妃は、氏族の出自を知らず、初めは良娣であった。貞元二年に冊立されて賢妃となった。性質は聡明で聡く、言葉に軽率な容れ物はなく、行動は必ず礼に由った。徳宗は深くこれを重んじ、六宮はその德行を師とした。徳宗が崩御すると、崇陵において喪紀を終えることを請い、よって寢園に侍した。元和四年に薨去した。

原文德宗韋賢妃,不知氏族所出,初為良娣,貞元二年,冊為賢妃。性敏惠,言無苟容,動必由禮,德宗深重之,六宮師其德行。及德宗崩,請於崇陵終喪紀,因侍於寢園。元和四年薨。

順宗の莊憲皇后王氏

原文順宗莊憲皇后王氏

順宗の莊憲皇后王氏は、琅邪の人である。曾祖父は思敬、試太子賓客を務めた。祖父は難得、潞州都督を贈られ、琅邪郡公に封ぜられた。父は顔、金紫光祿大夫・衛尉卿であった。后は幼くして良家の子として選ばれて宮中に入り才人となった。順宗が藩王であった時、代宗が才人を賜った。時に年十三歳であった。大暦十三年に憲宗皇帝を生み、宣王の孺人に立てられた。順宗が皇太子に昇ると、冊立されて良娣となった。后は言葉と容姿が恭しく謹み深く、宮中ではその德行を称えられた。順宗が即位した時、病が癒えず、后は医薬を供給し侍奉して、左右を離れなかった。帝が言葉を発することができない状態にあったため、冊礼を行おうとしてまた止めた。永貞の内禅に及び、太上皇后に冊立された。元和元年正月、順宗が晏駕し、五月に太上皇后を尊んで皇太后とし、冊礼が終わると、憲宗は紫宸殿に御して赦を宣した。太后は興慶宮に居住した。后の性質は仁和で恭遜、外戚を深く抑え、些細な貸し借りもなく、内職を訓戒激励し、母儀の風があった。元和十一年三月、南内の咸寧殿にて崩御し、諡して莊憲皇后といった。

原文順宗莊憲皇后王氏,琅邪人。曾祖思敬,試太子賓客;祖難得,贈潞州都督,封琅邪郡公;父顏,金紫光祿大夫、衛尉卿。后幼以良家子選入宮為才人,順宗在籓時,代宗以才人賜之,時年十三。大曆十三年,生憲宗皇帝,立為宣王孺人。順宗升儲,冊為良娣。后言容恭謹,宮中稱其德行。順宗即位,疾恙未平,后供侍醫藥,不離左右。屬帝不能言,冊禮將行復止。及永貞內禪,冊為太上皇后。元和元年正月,順宗晏駕,五月,尊太上皇后為皇太后,冊禮畢,憲宗御紫宸殿宣赦。太后居興慶宮。后性仁和恭遜,深抑外戚,無絲毫假貸,訓厲內職,有母儀之風焉。元和十一年三月,崩于南內之咸寧殿,諡曰莊憲皇后。

初め、太常少卿の韋纁が諡議を進め、公卿が署名して定め、天地宗廟に告げようとした。礼院が奏議して言うには、「謹んで『曾子問』を按ずるに、『賤は貴を誄せず、幼は長を誄せず、これ礼なり』とある。古くは天子は天を称してこれを誄し、皇后の諡は則ち廟で読んだ。『江都集禮』が『白虎通』を引いて言うには、『皇后は何れの所でこれを諡するか、廟に於いて為すと為す』と。また言う、『皇后に外事無く、郊に於いて為すこと無し』と。『傳』に言う、『故に天子と雖も、必ず尊ぶ所あり』と。礼に準ずれば、賤は貴を誄するを得ず、子は母に爵するを得ず。必ず廟で諡する所以は、諡は祖宗に成を受くべし。故に天子の諡は郊に成り、后妃の諡は廟に成る。今、礼に準じて、百官を集めて連署の諡状を終え、太廟で読み、然る後に両儀殿に上諡することを請う。既に故事に符し、礼経に允合する」と。これに従った。初め諡を称して並びに莊憲皇太后と云ったが、禮儀使の鄭絪が奏議して言うには、「秦・漢以来、天子の后は皇后と称し、母は皇太后と称し、祖母は太皇太后と称し、崩じてもまた之の如し。『太』の字を加えるは、尊称を別つ所以なり。国朝の典礼は皆旧制に依る。開元六年正月、太常が昭成皇太后の諡号を奏し、牒を礼部に送ったが、礼部はこれを非とした。太常が報じて言うには、『廟に入れば后と称し、義は夫に係る。朝に在れば太后と称し、義は子に係る』と。これは史冊に載せられ、不刊として垂れる。今、百司の移牒及び奏状、典故を参詳するに、『太』の字を除くは恐らく合わず。もし諡冊が陵に入り、神主が廟に入れば、即ち当にこれを去るべし」と。その年八月、豊陵に祔葬した。后は福王綰、漢陽・雲安・遂安の三公主を生んだ。后の祖父・父・母・弟は『外戚傳』に見える。

原文初,太常少卿韋纁進諡議,公卿署定,欲告天地宗廟。禮院奏議曰:「謹按《曾子問》:『賤不誄貴,幼不誄長,禮也。』古者天子稱天以誄之,皇后之諡,則讀於廟。《江都集禮》引《白虎通》曰:『皇后何所諡之,以為於廟。』又曰:『皇后無外事,無為於郊。』《傳》曰:『故雖天子,必有尊也。』准禮,賤不得誄貴,子不得爵母。所以必諡於廟者,諡宜受成於祖宗;故天子諡成于郊,后妃諡成於廟。今請准禮,集百官連署諡狀訖,讀於太廟,然後上諡於兩儀殿。既符故事,允合禮經。」從之。初稱諡並雲莊憲皇太后,禮儀使鄭絪奏議:「奏、漢已來,天子之后稱皇后,母稱皇太后,祖母稱太皇太后,崩亦如之。加『太』字者,所以別尊稱也。國朝典禮,皆依舊制。開元六年正月,太常奏昭成皇太后諡號,以牒禮部,禮部非之。太常報曰:『入廟稱后,義系於夫;在朝稱太后,義系於子。』此載於史冊,垂之不刊。今百司移牒及奏狀,參詳典故,恐不合除『太』字;如諡冊入陵,神主入廟,即當去之。」其年八月,祔葬于豐陵。后生福王綰,漢陽、雲安、遂安三公主。后之祖、父、母、弟見《外戚傳》。

憲宗の懿安皇后郭氏

原文憲宗懿安皇后郭氏

憲宗の懿安皇后郭氏は、尚父・子儀の孫、贈左僕射・駙馬都尉の曖の女である。母は代宗の長女・昇平公主。憲宗が広陵王であった時、后を妃として納れた。母が貴く、父・祖が王室に大勲あるを以て、順宗は深く寵愛し異遇した。貞元十一年に穆宗皇帝を生んだ。元和元年八月、貴妃に冊立された。八年十二月、百官が表を奉って貴妃を立てて皇后とすることを請い、凡そ三度上章した。上は歳暮を以て、来年には子午の忌があるとして、暫く止めた。帝は後宮に私愛多く、后の門族が華盛なるを以て、正位の後は嬖幸を容れざるを慮り、この故に冊拜が後時となった。元和十五年正月、穆宗が位を嗣ぐと、閏正月に皇太后に冊立され、儀を陳べて宣政殿庭にて冊し、冊文に曰く、

原文憲宗懿安皇后郭氏,尚父子儀之孫,贈左僕射、駙馬都尉曖之女。母代宗長女升平公主。憲宗為廣陵王時,納后為妃。以母貴,父、祖有大勳於王室,順宗深寵異之。貞元十一年,生穆宗皇帝。元和元年八月,冊為貴妃。八年十二月,百僚拜表請立貴妃為皇后,凡三上章。上以歲暮,來年有子午之忌,且止。帝後庭多私愛,以后門族華盛,慮正位之後,不容嬖幸,以是冊拜後時。元和十五年正月,穆宗嗣位,閏正月,冊為皇太后,陳儀宣政殿庭,冊曰:

「嗣皇帝臣名、再拝して言う。伏して坤元を正し、天下を母とし、至徳に符して大号を昇め、晉運に因りて鴻徽を飾るは、焕乎として前聞に、焯として彼の古訓に、以て尊尊親親の義を極め、天に因り地に事うるの経を明らかにするは、自ら来ること有り。伏して惟うに、大行皇帝貴妃は、大虹毓慶し、霽月祥を披き、霊派を昭回に導き、殊仁を気母に揖し、百行を範囲し、六宮を表飭し、粤に中闈に在りて、陰教を流宣し、先聖を輔佐し、庶工を勤労す。顧みるに沖眇を以て、閔凶に遭罹し、成命を守器の時に荷い、宝図を鑄鼎の日に奉り、哀は易月に纏わり、痛みは終天に钜し。而して四海虞無く、万邦截有り、仰いで惟うに顧復の徳、敢えて聖善の風を揚げ、謹んで尊号を上りて皇太后と曰う」と。

原文「嗣皇帝臣名再拜言:伏以正坤元,母天下,符至德以升大號,因晉運而飾鴻徽,煥乎前聞,焯彼古訓,以極尊尊親親之義,明因天事地之經,有自來矣。伏惟大行皇帝貴妃,大虹毓慶,霽月披祥,導靈派於昭回,揖殊仁於氣母,範圍百行,表飭六宮,粵在中闈,流宣陰教,輔佐先聖,勤勞庶工。顧以沖眇,遭罹閔凶,荷成命於守器之時,奉寶圖於鑄鼎之日,哀纏易月,痛钜終天。而四海無虞,萬邦有截,仰惟顧復之德,敢揚聖善之風,謹上尊號曰皇太后。」

この日、百官慶賀を称え、外命婦は光順門にて賀を奉った。詔して皇太后の曾祖父・贈太保を追封して岐国公の敬之に、贈太傅を、太后の父・駙馬都尉の曖に贈太尉を、母の虢国大長公主に贈斉国大長公主を、后の兄の司農卿の釗を刑部尚書に、鏦を金吾大将軍とした。

原文是日,百僚稱慶,外命婦奉賀光順門。詔皇太后曾祖贈太保,追封岐國公敬之,贈太傅,太后父駙馬都尉曖贈太尉,母虢國大長公主贈齊國大長公主,后兄司農卿釗為刑部尚書、鏦為金吾大將軍。

太后は興慶宮に居住し、帝は毎月朔望に参拝し、三朝の慶賀には、帝自ら百官を率いて門に詣で寿を上った。或いは良辰美景に遇えば、六宮の命婦、戚里の親属、車騎が南内に駢噎し、鑾佩の音、鏘として九奏の如し。穆宗の意は頗る奢縦に傾き、朝夕の供御、特に華侈であった。太后嘗て驪り山に幸し、石甕寺に登ると、上は景王に命じて禁軍を率いさせて侍従させ、帝自ら昭応に於いて奉迎し、游豫よ行楽し、数日を経て還った。敬宗が即位すると、尊んで太皇太后とした。

原文太后居興慶宮,帝每月朔望參拜,三朝慶賀,帝自率百官詣門上壽。或遇良辰美景,六宮命婦,戚里親屬,車騎駢噎于南內,鑾佩之音,鏘如九奏。穆宗意頗奢縱,朝夕供御,尤為華侈。太后嘗幸驪山,登石甕寺,上命景王率禁軍侍從,帝自于昭應奉迎,游豫行樂,數日方還。敬宗即位,尊為太皇太后。

宝曆の季年に及び、凶徒窃発し、昭湣暴殞し、内外震駭した。宦官が絳王を迎えて国を監させ、尋でまた害を加えた。太皇太后が下令して曰く、「大行皇帝は睿哲多能、天命に対越し、宜しく九廟の重を荷い、億年の祚を永く享くべし。豈に奸妖窃発し、神器を矯専し、中外を蠱惑し、群情を扇誘し、神人を駭動し、釁深く梟鏡なるを謂わんや。咨うるに爾江王は、聰哲精粹、清明躬に在り、智算機閑、玄謀雷発し、躬ず義勇を率い、丑類を大清し、允に当璧の符に膺り、爰に枕戈の憤を攄う。既に巨逆を殲し、当に豊福を享くべし。是れ爾を命じて元後に陟らしめ、宜しく司空しくう・平章事・晋国公の度に冊を奉らしめて即皇帝位せしむ」と。文宗は孝にして謙謹、祖母に奉るに礼有り。膳羞珍果、蛮夷の奇貢は、郊廟に献じた後、三宮に及びて後に進禦した。武宗が即位すると、后を祖母の尊、門地素より貴きを以て、奉る益々隆盛であった。既にして宣宗が統を継ぐは、即ち后の諸子なり、恩礼愈々前朝に異なり。大中年に興慶宮にて崩じ、諡して懿安皇太后と曰い、景陵に祔葬した。后は七朝に歴位し、五たび太母の尊に居り、人君子孫の礼を行い、福寿隆貴四十余年、漢の馬・鄧と雖も以て加うる無し。識者は以て、汾陽の社稷の功未だ泯まず、復た慶を懿安に鐘すと為す。

原文及寶曆季年,凶徒竊發,昭湣暴殞,內外震駭。宦官迎絳王監國,尋又加害。太皇太后下令曰:「大行皇帝睿哲多能,對越天命,宜荷九廟之重,永享億年之祚。豈謂奸妖竊發,矯專神器,蠱惑中外,扇誘群情,駭動神人,釁深梟鏡。咨爾江王,聰哲精粹,清明在躬,智算機閑,玄謀雷發,躬率義勇,大清丑類,允膺當璧之符,爰攄枕戈之憤,既殲巨逆,當享豐福。是命爾陟於元後,宜令司空、平章事、晉國公度奉冊即皇帝位。」文宗孝而謙謹,奉祖母有禮。膳羞珍果,蠻夷奇貢,獻郊廟之後,及三宮而後進禦。武宗即位,以后祖母之尊,門地素貴,奉之益隆。既而宣宗繼統,即后之諸子也,恩禮愈異於前朝。大中年崩于興慶宮,諡曰懿安皇太后,祔葬于景陵。后歷位七朝,五居太母之尊,人君行子孫之禮,福壽隆貴,四十餘年,雖漢之馬、鄧,無以加焉。識者以為汾陽社稷之功未泯,復鐘慶于懿安焉。

憲宗の孝明皇后鄭氏

原文憲宗孝明皇后鄭氏

憲宗孝明皇后鄭氏は、宣宗の母である。蓋し内職の御女の列にあり、旧史は残欠して、族姓の出づる所、宮に入る由を見ず。宣宗が光王であった時、后は王太妃であった。即位すると、尊んで皇太后とした。会昌六年、后の弟の光が夢に車中に日月を載せ、光芒六合を燭すを見、占者は曰く、「必ず暴貴すべし」と。月余りして、武宗崩じ、宣宗即位し、光は元舅の尊をもって、検校戸部尚書・諸衛将軍となり、出でて平盧節度使となった。后は大中末に崩じ、諡して孝明という。

原文憲宗孝明皇后鄭氏,宣宗之母也。蓋內職禦女之列,舊史殘缺,未見族姓所出、入宮之由。宣宗為光王時,后為王太妃。既即位,尊為皇太后。會昌六年,后弟光夢車中載日月,光芒燭六合,占者曰:「必暴貴。」月余,武宗崩,宣宗即位,光以元舅之尊,檢校戶部尚書、諸衛將軍,出為平盧節度使。后大中末崩,諡曰孝明。

女学士尚宮宋氏

原文女學士尚宮宋氏

女学士・尚宮宋氏は、名は若昭、貝州清陽の人である。父は庭芬、代々儒学を業とし、庭芬に至って詞藻あり。五女を生み、皆聡恵にして、庭芬始めて経芸を教え、既にして詩賦を課し、年未だ笄に及ばずして、皆能く文を属す。長女は若莘、次は若昭・若倫・若憲・若荀。若莘・若昭は文特に淡麗にして、性また貞素閑雅、紛華の飾りを尚ばず。嘗て父母に白し、誓って人に従わず、願わくは芸学をもって名を揚げ親を顕わさんと。若莘は四妹を教誨すること、厳師の如し。『女論語』十篇を著し、その言は『論語』を模倣し、韋逞の母宣文君宋氏をもって仲尼に代え、曹大家等をもって顔・閔に代え、その間の問答、悉く婦道の尚ぶ所に拠る。若昭が注解すること、皆理致あり。貞元四年、昭義節度使李抱真表を上げて薦め以て聞かす。徳宗俱に召し入宮し、詩賦を以て試み、兼ねて経史中の大義を問い、深く賞歎を加う。徳宗は詩能くし、侍臣と唱和相属す、亦た若莘姊妹に応制せしむ。毎に進禦するに、善しと称せざるは無し。その節概群ならざるを嘉し、宮妾を以て遇せず、学士先生と呼ぶ。庭芬は起家して饒州司馬を受け、習芸館内に、勅して第一区を賜い、俸料を給す。

原文女學士、尚宮宋氏者,名若昭,貝州清陽人。父庭芬,世為儒學,至庭芬有詞藻。生五女,皆聰惠,庭芬始教以經藝,既而課為詩賦,年未及笄,皆能屬文。長曰若莘,次曰若昭、若倫、若憲、若荀。若莘、若昭文尤淡麗,性復貞素閒雅,不尚紛華之飾。嘗白父母,誓不從人,願以藝學揚名顯親。若莘教誨四妹,有如嚴師。著《女論語》十篇,其言模仿《論語》,以韋逞母宣文君宋氏代仲尼,以曹大家等代顏、閔,其間問答,悉以婦道所尚。若昭注解,皆有理致。貞元四年,昭義節度使李抱真表薦以聞。德宗俱召入宮,試以詩賦,兼問經史中大義,深加賞歎。德宗能詩,與侍臣唱和相屬,亦令若莘姊妹應制。每進禦,無不稱善。嘉其節概不群,不以宮妾遇之,呼為學士先生。庭芬起家受饒州司馬,習藝館內,敕賜第一區,給俸料。

元和末、若莘卒し、河内郡君を贈る。貞元七年已後より、宮中の記注簿籍は、若莘その事を掌る。穆宗また若昭に命じてその職を代わらせ、尚宮に拝す。姊妹の中、若昭は特に人事に通暁し、憲・穆・敬の三帝より、皆先生と呼び、六宮の嬪媛・諸王・公主・駙馬皆師事し、これに敬意を為す。梁国夫人に進封す。宝暦初め卒し、葬らんとするに、詔して所司に鹵簿を供せしむ。敬宗また若憲に命じて宮籍を代わらせしむ。文宗は文を好み、若憲の文を善くし、能く論議奏対するを以て、特にこれを重んず。

原文元和末,若莘卒,贈河內郡君。自貞元七年已後,宮中記注簿籍,若莘掌其事。穆宗復令若昭代司其職,拜尚宮。姊妹中,若昭尤通曉人事,自憲、穆、敬三帝,皆呼為先生,六宮嬪媛、諸王、公主、駙馬皆師之,為之致敬。進封梁國夫人。寶曆初卒,將葬,詔所司供鹵簿。敬宗復令若憲代司宮籍。文宗好文,以若憲善屬文,能論議奏對,尤重之。

大和中、神策中尉王守澄事を用い、翼城の医人鄭注・賊臣李訓を委信し、時権を幹窃す。訓・注は宰相李宗閔・李徳裕を悪み、宗閔の憸邪なるを構え、吏部侍郎の時、駙馬都尉沈〓をして若憲に賂を通ぜしめ、宰相を求めしむと。文宗怒り、宗閔を潮州司戸に貶し、〓を柳州司馬とし、若憲を外第に幽し、死を賜う。若憲の弟・姪・女婿等連坐する者十三人、皆嶺表に流す。李訓敗れ、文宗その誣構たるを悟り、深くその才を惜しむ。若倫・若荀は早く卒す。

原文大和中,神策中尉王守澄用事,委信翼城醫人鄭注、賊臣李訓,幹竊時權。訓、注惡宰相李宗閔、李德裕,構宗閔憸邪,為吏部侍郎時,令駙馬都尉沈〓通賂於若憲,求為宰相。文宗怒,貶宗閔為潮州司戶,〓柳州司馬,幽若憲於外第,賜死。若憲弟侄女婿等連坐者十三人,皆流嶺表。李訓敗,文宗悟其誣構,深惜其才。若倫、若荀早卒。

穆宗恭僖皇后王氏

原文穆宗恭僖皇后王氏

穆宗恭僖皇后王氏は、越の人。父は紹卿、婺州金華の令。后は少くして太子宮に入り、元和四年に敬宗を生む。穆宗皇帝立って妃と為す。長慶四年二月、尊んで皇太后と為す。昭湣は母族を崇重し、紹卿に司空を贈り、后の母張氏に趙国夫人を贈る。文宗即位の初め、宝暦太后と号す。大和八年詔して曰く、「伏して皇太后と宝暦太后と、毎に有司行遣するに、称号未だ分かたず、礼式便ならず、諸を前代に稽え、詔令の施す所、太后を斥言せず、宮名を以て称とす。今宝暦太后は義安殿に居す、宜しく故事に准じて義安太后と称すべし」と。

原文穆宗恭僖皇后王氏,越人。父紹卿,婺州金華令。後少入太子宮,元和四年生敬宗。穆宗皇帝立為妃。長慶四年二月,尊為皇太后。昭湣崇重母族,贈紹卿司空,後母張氏贈趙國夫人。文宗即位之初,號寶曆太后。大和八年詔:「伏以皇太后與寶曆太后,每有司行遣,稱號未分,禮式非便,稽諸前代,詔令所施,不斥言太后,以宮名為稱。今寶曆太后居義安殿,宜准故事稱義安太后。」

敬宗郭貴妃

原文敬宗郭貴妃

敬宗郭貴妃、父は義、右威衛将軍。長慶末、姿貌を以て選ばれて太子宮に入る。敬宗即位し、才人と為り、晋王普を生む。帝は少年にして子あるを以て、また才人の容徳冠絶するを以て、特に寵異す。その父に礼部尚書を贈り、また兄の環を少府少監と為し、第一区を賜う。俄に冊して貴妃と為す。及び昭湣盗に遇い、宮闈変起し、文宗即位し、特に晋王を憐れみ、己が子の如くす、故に貴妃の礼遇衰えず。大和二年晋王薨じ、帝深く嗟惜し、悼懐太子と贈る。

原文敬宗郭貴妃,父義,右威衛將軍。長慶末,以姿貌選入太子宮。敬宗即位,為才人,生晉王普。帝以少年有子,復以才人容德冠絕,特寵異之。贈其父禮部尚書,又以兄環為少府少監,賜第一區。俄冊為貴妃。及昭湣遇盜,宮闈變起,文宗即位,尤憐晉王,有若己子,故貴妃禮遇不衰。大和二年晉王薨,帝深嗟惜,贈曰悼懷太子。

穆宗貞献皇后蕭氏

原文穆宗貞獻皇后蕭氏

穆宗貞献皇后蕭氏は、福建の人。初め、十六宅に入り建安王の侍者と為り、元和四年十月、文宗皇帝を生む。宝暦三年正月、敬宗弑しい害に遇い、中尉王守澄兵を率いて賊を討ち、江王を迎えて即位せしむ。文宗践祚の日、冊を奉りて曰く、「嗣皇帝臣名言す、古先哲王の天下を有つや、必ず孝敬を以て上に奉じ、慈恵を以て下に浹し、誠意を極めて人倫を厚くし、近きより及び遠きを思う、故に家よりして国を刑す。臣が厳慈の訓を奉じ、教撫の仁を承くるに、而るに長楽尚ほその鴻名を鬱し、内朝未だ正位を崇めず、則ち率土の臣子、勤勤懇懇、頸を延べ踵を企て、何を以てかその心を塞がんや。是を以て特挙に彝章を挙げ、旧典に式遵し、稽首再拝し、謹みて穆宗睿文恵孝皇帝妃の尊号を上りて皇太后と曰う。伏して惟うに天と徳を合わし、義を申して慶を錫い、允かに陰教を厘し、祗しく内則を修め、六宮の教を広め、十乱の功に参じ、神を頤して和を保ち、万有を弘覆せんことを」と。

原文穆宗貞獻皇后蕭氏,福建人。初,入十六宅為建安王侍者,元和四年十月,生文宗皇帝。寶曆三年正月,敬宗遇弑,中尉王守澄率兵討賊,迎江王即位。文宗踐祚之日,奉冊曰:「嗣皇帝臣名言:古先哲王之有天下也,必以孝敬奉於上,慈惠浹於下,極誠意以厚人倫,思由近以及遠,故自家而刑國。以臣奉嚴慈之訓,承教撫之仁,而長樂尚鬱其鴻名,內朝未崇於正位,則率土臣子,勤勤懇懇,延頸企踵,曷以塞其心乎!是用特舉彝章,式遵舊典,稽首再拜,謹上穆宗睿文惠孝皇帝妃尊號曰皇太后。伏惟與天合德,義申錫慶,允厘陰教,祗修內則。廣六宮之教,參十亂之功,頤神保和,弘覆萬有。」

その後、乱のために故郷を離れ、自ら王邸に入り、家との音信は途絶え、別れる時には父母は既に亡くなっており、母方の弟が一人いた。文宗は母方の一族に親族が少なく、ただ舅だけが存命していると聞き、詔を下して閩・越の連率に命じ、故郷で尋ね求めた。戸部の茶綱の役人である蕭洪という者がおり、自分に姉が流落していると申し出た。商人の趙縝が蕭洪を引いて后の姉である徐国夫人の女婿呂璋に会わせたが、夫人もはっきりと確認できず、共に太后に拝謁し、嗚咽して自らを抑えることができなかった。上は元の舅が再び得られたと思い、そこで金吾将軍・検校戸部尚書・河陽懐節度使に任じ、さらに検校左僕射・鄜坊節度使に転任させた。先に、神策両軍から出て方鎮となった者がおり、軍中では多くがその旅装の資金を出し、鎮に着くと三倍にして返済させた。時に左軍から出て鄜坊となった者がおり、資金を返済しないうちに鎮で死去し、その金を蕭洪に請求した。宰相李訓は蕭洪が国舅を詐称していることをよく知っており、蕭洪は恐れて、李訓の兄の仲京を鄜坊の従事として請い、事を繕わせた。蕭洪は李訓と交際していることを恃み、返済をしなかった。また、死者の子に請求すると、蕭洪はその子に命じて宰相に訴えさせたが、李訓は判を下して絶った。左軍中尉仇士良はこれを深く恨んだ。時に閩人の蕭本という者がおり、また太后の弟と称した。士良は蕭本のことを上聞に達し、蕭洪の詐偽を発覚させ、鄜坊から蕭洪を追って獄に下し、御史台に審問させた。その偽りをことごとく認めたので、詔を下して長流驩州とし、路で死を賜い、趙縝・呂璋もまた連座した。蕭洪が偽りで敗れたので、蕭本を真実と思い、そこで賛善大夫に任じ、緋色の袍と龜鈕の印を賜い、さらにその曾祖の倰を太保に、祖の聰を太傅に、父の俊を太師に追封し、巨万の賜物を与えた。蕭本は福建の人で、太后には真の母弟がいたが、弱くて自ら上達することができず、蕭本が近づき、その家の系譜や内外の族属の名諱を得て、さらに士良が保証したので、上も詐偽を疑わなかった。蕭本は衛尉少卿・左金吾将軍を歴任した。開成二年、福建観察使唐扶が上奏し、泉州晋江県令蕭弘の申し出を得て、自ら皇太后の実弟であると称し、京に送られた。詔を下して御史台に送り審問させたが、事はすべて偽りであり、詔を下して本貫に追い返した。開成四年、昭義節度使劉従諫が上章し、蕭本が太后の弟を偽称していることを論じ、「今、上より下まで、異口同音に、皆蕭弘が真で、蕭本が偽であると言う。蕭弘を追って京に赴かせ、蕭本と証明させよ。もし一時の恥辱を忍べば、終に千古の笑いを取るであろう」と言った。そこで詔を下して御史中丞高元裕・刑部侍郎孫簡・大理卿崔郇の三司に蕭弘・蕭本の獄を審問させた。ことごとく偽りであった。詔に曰く、

原文后因亂去鄉里,自入王邸,不通家問,別時父母已喪,有母弟一人。文宗以母族鮮親,惟舅獨存,詔閩、越連率於故里求訪。有戶部茶綱役人蕭洪,自言有姊流落。估人趙縝引洪見後姊徐國夫人女婿呂璋,夫人亦不能省認,俱見太后,嗚咽不自勝。上以為復得元舅,遂拜金吾將軍、檢校戶部尚書、河陽懷節度使,遷檢校左僕射、鄜坊節度使。先是,有自神策兩軍出為方鎮者,軍中多資其行裝,至鎮三倍償之。時有自左軍出為鄜坊者,資錢未償而卒於鎮,乃征錢于洪。宰相李訓雅知洪詐稱國舅,洪懼,請訓兄仲京為鄜坊從事以彌縫之。洪恃與訓交,不與所償;又征於卒者之子,洪俾其子接訴于宰相,李訓判絕之。左軍中尉仇士良深銜之。時有閩人蕭本者,復稱太后弟,士良以本上聞,發洪詐假,自鄜坊追洪下獄,御史台按鞠,具服其偽,詔長流驩州,賜死于路,趙縝、呂璋亦從坐。洪以偽敗,謂本為真,乃拜贊善大夫,賜緋龜,仍追封其曾祖倰為太保,祖聰為太傅,父俊為太師,賜與钜萬計。本,福建人,太后有真母弟,孱弱不能自達,本就之,得其家代及內外族屬名諱,復士良保任之,上亦不疑詐妄。本曆衛尉少卿、左金吾將軍。開成二年,福建觀察使唐扶奏,得泉州晉江縣令蕭弘狀,自稱是皇太后親弟,送赴闕庭,詔送御史台按問,事皆偽妄,詔逐還本貫。開成四年,昭義節度使劉從諫上章,論蕭本偽稱太后弟,云:「今自上及下,異口同音,皆言蕭弘是真,蕭本是偽。請追蕭弘赴闕,與本證明。若含垢于一時,終取笑於千古。」遂詔御史中丞高元裕、刑部侍郎孫簡、大理卿崔郇三司按弘、本之獄,具,並偽。詔曰:

「恭しく考えるに、皇太后の族望は、斉・梁の後を承け、僑寓して流滞し、久しく閩中に在った。慶霊が鐘集し、早く椒掖に帰し、終に兄弟に乏しく、常に嘆いていた。朕が臨御して以来、便ち尋訪を遣わし、諸舅を得て、慈顔を慰めんことを冀った。而して奸濫の徒、我が情抱を探り、因って州里の近きに縁り、祖先の名に附会し、幸いに我が国恩を覬い、我が外族を仮託す。蕭洪の悪跡未だ遠からず、蕭本の覆轍相尋ぎ、蕭弘の本末、尤更に乖戾なり。三司推鞫し、曾て似たるの蹤無し。宰臣参驗し、其の難容の状を見る。文款継いで入り、留中久し。朕、視膳の時に於いて、頻りに咨稟有り、恭しく処分を聞くに、惟だ真実に在り。沐を丐い桑に堕つ、既に驗ふ可き無し。空を鑿き偽りを作す、豈に更に容る可けんや。其の罪状に據れば、合当に極法に當るべし、尚為に含忍し、之を荒裔に投ず。蕭本は名を除き、長流愛州。蕭弘は配流儋州。」

原文「恭以皇太后族望,承齊、梁之後,僑寓流滯,久在閩中。慶靈鐘集,早歸椒掖,終鮮兄弟,常所咨嗟。朕自臨禦已來,便遣尋訪,冀得諸舅,以慰慈顏。而奸濫之徒,探我情抱,因緣州裏之近,附會祖先之名,覬幸我國恩,假託我外族。蕭洪之惡跡未遠,蕭本之覆轍相尋,弘之本末,尤更乖戾。三司推鞫,曾無似是之蹤;宰臣參驗,見其難容之狀。文款繼入,留中久之。朕于視膳之時,頻有咨稟,恭聞處分,惟在真實。丐沐墮桑,既無可驗;鑿空作偽,豈得更容?據其罪狀,合當極法,尚為含忍,投之荒裔。蕭本除名,長流愛州;蕭弘配流儋州。」

初め、蕭洪が国舅を詐称すること十数年、両たび旄鉞を授けられ、寵貴は天下に崇かった。蕭本は士良の郷導により、蕭洪の詐偽を発覚させ、連ねて顕栄を歴任した。及んで従諫が奏論するに及び、偽跡掩い難く、而して太后は終に真弟を得ず。

原文初,蕭洪詐稱國舅十數年,兩授旄鉞,寵貴崇於天下。蕭本因士良鄉導,發洪之詐,聯曆顯榮。及從諫奏論,偽跡難掩,而太后終不獲真弟。

文宗は孝義天然であり、大和年中、太皇太后は興慶宮に居り、宝暦太后は義安殿に居り、皇太后は大内に居り、時に「三宮太后」と号した。上は五日ごとに参拝し、四節に献賀し、皆複道より南内に幸し、朝臣命婦は宮門に詣でて起居し、上は特に礼を執り、造次にも失わず。有司嘗て新瓜・櫻桃を献じ、陵寝宗廟に献じた後、中使を分かちて三宮・十宅に送らしむ。初め、有司が三宮に物を送るに、一例として賜と称す。帝曰く、「物を三宮に上る、安んぞ賜と名づく可けんや」と。遽かに筆を取って籍を塗り、「賜」を「奉」に改む。開成中、正月の望夜、帝は咸泰殿に燈燭を陳べ、《仙韶楽》を奏し、三宮太后俱に集い、觴を奉じて寿を献じ、家人の礼の如くし、諸親王・公主・駙馬・戚属皆侍宴す。上は性恭儉、延安公主の衣裾寬大なるを、即時に遣還し、駙馬竇浣を罰して両月の賜銭を停む。武宗即位し、供養弥謹し。蕭太后は積慶殿に徙居し、積慶太后と号す。会昌中に崩じ、諡して貞献と曰う。

原文文宗孝義天然,大和中,太皇太后居興慶宮,寶曆太后居義安殿,皇太后居大內,時號「三宮太后」。上五日參拜,四節獻賀,皆由復道幸南內,朝臣命婦詣宮門起居,上尤執禮,造次不失。有司嘗獻新瓜、櫻桃,命獻陵寢宗廟之後,中使分送三宮、十宅。初,有司送三宮物,一例稱賜。帝曰:「物上三宮,安得名賜?」遽取筆塗籍,改「賜」為「奉」。開成中正月望夜,帝於咸泰殿陳燈燭,奏《仙韶樂》,三宮太后俱集,奉觴獻壽,如家人禮,諸親王、公主、駙馬、戚屬皆侍宴。上性恭儉,延安公主衣裾寬大,即時遣還,罰駙馬竇浣兩月賜錢。武宗即位,供養彌謹。蕭太后徙居積慶殿,號積慶太后。會昌中崩,諡曰貞獻。

穆宗宣懿皇后韋氏は、武宗昭粛皇帝の母なり。事闕く。

原文穆宗宣懿皇后韋氏,武宗昭肅皇帝之母也。事闕

武宗王賢妃。事闕く。

原文武宗王賢妃。事闕

宣宗元昭皇后晁氏は、懿宗皇帝の母なり。事闕く。

原文宣宗元昭皇后晁氏,懿宗皇帝之母也。事闕

懿宗恵安皇后王氏は、僖宗皇帝の母なり。事闕く。

原文懿宗惠安皇后王氏,僖宗皇帝之母也。事闕

昭宗積善皇后何氏

原文昭宗積善皇后何氏

昭宗積善皇后何氏は、東蜀の人なり。寿王邸に入り侍し、婉麗にして智多く、特ちに恩顧を承け、徳王・輝王を生む。昭宗即位し、淑妃に立てらる。乾寧中、車駕華州に在り、皇后に冊す。国家、乾符已後より、盗天下に満ち、妖九重に生じ、宮廟榛蕪し、奔播暇あらず。景福の際、奸臣内に侮り、后は蒙塵薄狩の中に於いて、嘗て膳を禦ぎ侮を禦ぎ、左右を離れず。左関・右輔の幸、時事危迫す、后消息撫禦し、終に保全を獲たり。岐下より還京し、崔胤黄門宦官を尽く誅し、毎に宰臣に宣諭するに、但だ宮嬪をして来往せしむ。是の時、国命朱氏に奪はれ、左右前後、皆な汴人なり、宮中の動息、縦え纖芥と雖も必ず朱全忠に聞こゆ。宮人常に惴怵を懐き、帝后相視みて泣く。天祐初、全忠輿駕を逼遷し、東に幸して洛陽らくようす。其の年八月、昭宗弑せらる。翌日、宰相柳璨・独孤損等、詐りて皇后の令を宣し云く、「帝は宮人の為に害せらる、輝王祚宜しく帝位に升るべし」と。仍て后を尊びて皇太后と為す。変故に遭罹し、凶威に迫られ、宮中哭泣し、敢えて声を外に聞こゆる無し。明年十二月、全忠将に位を僭せんとし、先ず九錫を行い、然る後に禅を受く。全忠の牙将蔣玄暉、洛陽宮に在りて枢密を知り、太常卿張廷範と私に議して云く、「山西・河北未だ平らかならず、禅代利無し、請う蕩定を俟てん」と。咨諫せんと欲す。宣徽副使趙殷衡、素より張・蔣と協せず、且つ枢密事を知り代らんと欲し、因って梁に使いし、誣告して云く、「玄暉、私に何太后に於いて、相与に盟詛し、誓って唐室を復し、王の九錫を受くるを欲せず」と。全忠大怒し、即日使いを遣わして洛陽に至らしめ、玄暉・廷范・柳璨等を誅し、太后も亦積善宮に於いて害せられ、又宮人阿秋・阿虔を殺し、仍て太后を廃して庶人と為す。

原文昭宗積善皇后何氏,東蜀人。入侍壽王邸,婉麗多智,特承恩顧,生德王、輝王。昭宗即位,立為淑妃。乾甯中,車駕在華州,冊為皇后。國家自乾符已後,盜滿天下,妖生九重,宮廟榛蕪,奔播不暇。景福之際,奸臣內侮,后於蒙塵薄狩之中,嘗膳禦侮,不離左右。左關、右輔之幸,時事危迫,後消息撫禦,終獲保全。自岐下還京,崔胤盡誅黃門宦官,每宣諭宰臣,但令宮嬪來往。是時國命奪於朱氏,左右前後,皆是汴人,宮中動息,雖纖芥必聞于朱全忠。宮人常懷惴怵,帝后垂泣相視。天祐初,全忠逼遷輿駕,東幸洛陽。其年八月,昭宗遇弑。翌日,宰相柳璨、獨孤損等詐宣皇后令云:「帝為宮人害,輝王祚宜升帝位。」仍尊后為皇太后。遭罹變故,迫以凶威,宮中哭泣,不敢聲聞於外。明年十二月,全忠將僭位,先行九錫,然後受禪。全忠牙將蔣玄暉在洛陽宮知樞密,與太常卿張廷範私議云:「山西、河北未平,禪代無利,請俟蕩定。」欲有咨諫。宣徽副使趙殷衡素與張、蔣不協,且欲代知樞密事,因使于梁,誣告云:「玄暉私于何太后,相與盟詛,誓復唐室,不欲王受九錫。」全忠大怒,即日遣使至洛陽,誅玄暉、廷范、柳璨等,太后亦被害于積善宮,又殺宮人阿秋、阿虔,仍廢太后為庶人。

賛に曰く、坤徳既に軌に則り、彤管煒有り。韋・武は邦を喪ぼし、毒蛇虺に侔ひ。陰教斯に僻まり、嬪風浸く毀る。賢なる哉長孫、母儀何ぞ偉なる。

原文贊曰:坤德既軌,彤管有煒。韋、武喪邦,毒侔蛇虺。陰教斯僻,嬪風浸毀。賢哉長孫,母儀何偉。