卷五十一
后妃上
然れども三代の政は、賢妃を以て国を開かず、嬖寵を以て邦を傾けざるは莫し。秦・漢已還、其の流浸くに盛ん。大なるは国を移し、小なるは朝に臨み、車服を煥えして宗枝を王とし、土壤を裂きて肺腑を侯とす、末途に淪敗するに及び、赤族夷宗す。高祖龍飛し、宮に正寝無く、而して婦言を用うるに、釁は維城より起こる。大帝(高宗)孝和(中宗)、仁にして武ならず、但だ池臺の賞を恣にし、寧ぞ衽席の嫌を顧みんや。武室(武后一族)・韋宗(韋后一族)、幾くんか運祚を危うくす。東京(後漢)の帝后は、歿して夫の謚に従う、光烈(陰麗華)・和熹(鄧綏)の類是れなり。高宗自ら天皇と号し、武氏自ら天后と称し、而して韋庶人(韋后)は生けりて翌聖の名有り、粛宗は張氏を后せんと欲す、此れ経に不なる甚だしきもの、皆以て凶終す。玄宗は恵妃の愛に以て、椒宮を擯斥し、継いて太真を以て、幾くんか天下を喪わんとす。歴に前古の邦家喪敗の由を観るに、多くは子弟の禍を召すに基づく。子弟の乱は、必ず宮闈の正しからざるに始まる。故に息隠(李建成)は墻を鬩ぎ、秦王(太宗)は謀りて東洛に帰せんとし;馬嵬に塗地し、太子(粛宗)は敢えて西行せず。若し中に聖善の慈有らば、胡ぞ能く是くの若くならんや。『易』に曰く「家道正しくして天下定まる」と、其れ然らざらんや。後に累朝、長秋虚位たり、或いは旁宗を以て入り継ぎ、母属皆微にして、徒に冊拜の文有るも、諒に「関雎」の徳を乏し。今、其の史冊に存する者を録し、『后妃伝』と為す云う。
高祖
太穆皇后竇氏
高祖太穆皇后竇氏は、京兆始平の人、隋の定州総管・神武公竇毅の女なり。后の母は、周の武帝の姉襄陽長公主なり。
后は生まれながらにして髪が頸を垂れ過ぎ、三歳にして身と斉し。周の武帝は特に愛重し、宮中に養う。時に武帝は突厥の女を納れて后と為すも、寵無く、后は尚幼く、窃かに帝に言いて曰く「四辺未だ静かならず、突厥尚強し、願わくは舅、情を抑えて撫慰し、蒼生を念いとせよ。但だ突厥の助けを須うれば、則ち江南・関東は患いと為す能わざるべし」と。武帝深く之を納る。毅之を聞き、長公主に謂いて曰く「此の女才貌此くの如し、妄りに以て人に許すべからず、当に賢夫を求めんとすべし」と。乃ち門屏に二孔雀を画き、諸公子に求婚する者有らば、輒ち両箭を与えて之を射させ、潜かに目に中るる者を許すと約す。前後数十輩能く中るる莫く、高祖後に至り、両発各々一目に中る。毅大いに悦び、遂に我が帝に帰す。
周の武帝崩ずるに及び、后は追思して喪する所生の如し。隋の文帝禅を受くると、后聞きて流涕し、自ら床に投じて曰く「恨むらくは我れ男と為らず、以て舅氏の難を救わざるを」と。毅と長公主は遽に口を掩いて曰く「汝妄りに言う勿れ、吾が族を滅ぼさん」と。
太宗
文徳皇后長孫氏
太宗が即位すると、皇后に立てられた。皇后の父の長孫晟に司空・齊獻公を追贈した。皇后は特に倹約を旨とし、身に着けるものや用いるものは、必要な分だけを調達するに過ぎなかった。太宗はますます礼遇を加え、しばしば皇后と賞罰の事について論じたが、皇后は答えて言うには、「雌鶏が時を告げるのは、家が滅びる兆しでございます。妾は婦人の身で、どうして政事に関与できましょうか」と。太宗がなおも話し続けると、ついに答えなかった。当時、皇后の兄の長孫無忌は、昔から太宗と布衣の交わりを結び、また創業の功臣として腹心に任じられ、寝所に出入りし、朝廷の政務を任されようとしていた。皇后は固く不可であると述べ、機会を見ては奏上して言うには、「妾はすでに紫宮(宮中)に身を寄せ、尊貴は極まりました。実は兄弟や子や甥が朝廷に並ぶことを望みません。漢の呂氏や霍氏のことが骨身に沁みる戒めとなりましょう。特に聖朝が妾の兄を宰相や執政にされませんよう願います」と。太宗は聞き入れず、ついに無忌を左武候大將軍・吏部尚書・右僕射に任用した。皇后はさらに密かに無忌に命じて、ひたすら辞退を願い出させ、太宗はやむなくこれを許し、開府儀同三司に改めて授けたので、皇后の心はようやく和らげた。異母兄の長孫安業がおり、酒を好み無頼であった。獻公(長孫晟)が薨去した時、皇后と無忌はともに幼く、安業は彼らを母方の叔父の家に追いやったが、皇后はまったく気にかけず、しばしば太宗に厚く恩礼を加えるよう請い、安業は監門將軍の位に至った。劉德裕の謀反に加担した時、太宗は彼を殺そうとしたが、皇后は叩頭して涙を流し命乞いをして言うには、「安業の罪は万死に値し、赦すべきではありません。しかし、彼が妾に慈しみをかけなかったことは、天下の知るところです。今、極刑に処せば、人々は必ずや妾が寵愛を恃んで兄の仇を討ったと言い、聖朝の累とならないでしょうか」と。こうして死罪を減じられた。
皇后が生んだ長樂公主は、太宗が特に寵愛し、降嫁する際に、主管官庁に命じて長公主の倍の資財を送らせた。魏徵が諫めて言うには、「昔、漢の明帝の時、皇子を封じようとしたが、帝は言われた、『朕の子がどうして先帝の子と同じであろうか』と。しかし、長公主というのは、確かに公主よりも尊いのです。情には差があっても、義には等級の別はありません。もし公主の礼が長公主を超えるならば、道理として恐らく不可であり、陛下にご考慮を願います」と。太宗はこの言葉を持ち帰って皇后に告げると、皇后は嘆息して言うには、「かつて陛下が魏徵を重んじておられるのを聞きましたが、その理由がよく分かりませんでした。今、その諫言を聞き、実に義をもって主君の情を制することができる人物であり、まさに正直な社稷の臣と言えましょう。妾は陛下と結髮して夫婦となり、曲がりなりにも礼遇を受け、情義は深く重いものです。毎回言葉を発するには必ず陛下の顔色を窺い、なお軽々しく威厳を犯すことはできません。まして臣下たる者、情は疎く礼は隔てられています。故に韓非は『説難』を著し、東方朔はその難しさを称えたのです。まことに理由があることです。忠言は耳に逆らっても行いには利があり、国や家を持つ者の急務です。これを受け入れれば風俗は安らぎ、これを拒めば政治は乱れます。誠に願わくは陛下がこれを詳しくご覧になり、そうすれば天下は幸いです」と。皇后はそこで中使に命じて帛五百匹を持たせ、魏徵の邸宅に赴かせて賜った。太子の承乾の乳母の遂安夫人が常に皇后に言うには、「東宮の器物が不足しておりますので、上奏してご所望したいと思います」と。皇后は聞き入れず、言うには、「太子たるもの、患うべきは徳が立たず名が揚がらないことであり、器物が少ないことを憂えることではあるまい」と。
八年、九成宮に行幸に従い、病に染まり危篤となった。太子の承乾が伺候し、密かに皇后に申し上げて言うには、「医薬は尽くしましたが、尊体が癒えません。囚人を赦すことを奏上し、また人を出家させて道に入らせ、福の助けを蒙りたいと存じます」と。皇后は言うには、「死生は天命にあり、人力で加えることはできない。もし福を修めれば延命できるなら、私はもとより悪事を働いたことはない。もし善を行っても効果がなければ、何の福を求められようか。赦しは国家の大事である。仏道は、異国の教えが存在することを示すに過ぎず、政体を損なうのみならず、また陛下のなさらぬことである。どうして私一人の婦人のために天下の法を乱すことができようか」と。承乾は奏上できず、左僕射の房玄齢に告げた。玄齢がこれを奏上すると、太宗と侍臣たちはみな嘆息した。朝臣たちはこぞって大赦を請い、太宗はこれに従おうとした。皇后がこれを聞き、固く争ったので、やめた。臨終が近づき、太宗と別れを告げた時、玄齢は咎められて邸に帰っていた。皇后は固く言うには、「玄齢は陛下に仕えて最も長く、小心謹慎で、奇謀秘計はすべて預かって聞いていながら、ついに一言も漏洩しませんでした。大過がない限り、お見捨てになりませんよう。また、妾の本宗(実家)は、幸いにも姻戚の縁にありますが、徳行によって挙げられたのではなく、容易に危機に陥ります。永久に保全されるには、慎重に権要の地位に置かず、ただ外戚として朝請に奉ずるだけで、それこそ幸いです。妾は生きている時も時世に益するところがなく、今死ぬに当たって厚く費用をかけるべきではありません。かつ葬とは、蔵すること、人に見られないようにすることです。古来の聖賢は皆、倹約と薄葬を尊びました。ただ無道の世にのみ、大きな山陵を築き、天下に労役と費用をかけ、有識者に笑われるのです。ただ山に因って葬り、墳丘を築く必要はなく、棺や槨を用いず、必要な器や服はすべて木や瓦とし、倹約と薄葬をもって送終すれば、それは私を忘れないことになります」と。十年六月己卯、立政殿にて崩御した。時に三十六歳。その年十一月庚寅、昭陵に葬られた。
賢妃徐氏
太宗の賢妃徐氏、名は惠、右散騎常侍徐堅の叔母である。生後五ヶ月で言葉を話し、四歳で『論語』『毛詩』を誦し、八歳で文章を綴ることを好んだ。その父の徐孝徳が『楚辭』を擬えて試みさせると、「山中には久しく留まるべからず」と詠み、言葉は甚だ典雅で美しかった。ここから経書史書に広く渉猟し、手から書物を離さなかった。太宗がこれを聞き、才人として後宮に入れた。その文章は、筆を揮えばたちまち完成し、言葉は華麗で豊かであった。まもなく婕妤に任じられ、さらに充容に昇進した。当時、軍旅が頻繁に動き、宮室が相次いで造営され、百姓は労役にかなり疲弊していた。上疏して諫めて言うには、
ひそかに見るに、近年以来、労役が兼ねて総動員され、東には遼海の軍があり、西には昆丘の役があり、兵士と馬は甲冑に疲れ、舟車は輸送に倦んでいる。しかも召募して兵役や守備に就かせれば、去る者も留まる者も死生の痛みを懐き、風に因り浪に阻まれて、人や米には漂溺の危険がある。一人の男が力を尽くして耕しても、ついに数十の収穫はなく、一隻の船が損傷すれば、数百の糧食を傾ける。これはすなわち、尽きることある農事の成果を運び、窮まりなき巨浪に填め、未だ獲ざる他国の衆を図り、既に成せる我が軍を喪うようなものである。凶悪を除き暴虐を伐つことは、国に常規あるも、武を黷らし兵を玩ぶは、先哲の戒めるところである。昔、秦の皇帝は六国を併呑して、かえって危亡の基を速め、晋の武帝は三方を奄有して、翻って覆敗の業を成した。豈に功を矜り大を恃み、徳を棄てて邦を軽んじ、利を図りて害を忘れ、情を肆にし欲を縱にしたからではあるまいか。遂に悠悠たる六合をして、広しといえどもその亡を救わず、嗷嗷たる黎庶をして、弊に因りてその禍を成さしめた。ここに知る、地の広きは常に安からしむる術にあらず、人の労するは乃ち易き乱の源であることを。願わくは陛下、沢を布き人を流し、弊を矜み乏しきを恤み、行役の煩わしきを減じ、湛露の恵みを増したまわんことを。妾また聞く、政を為すの本は、無為に在るを貴ぶと。ひそかに見るに、土木の工事は、兼ねて遂げるべからず。この闕初めて建つや、南に翠微を営み、未だ時に逾ぎざるに、玉華創制す。山に因り水を藉るといえども、架築の労なきにあらず、損之又損すといえども、頗る工力の費あり。終に茅茨をもって約を示すも、なお木石の疲れを興し、仮に和雇をもって人を取るも、煩擾の弊なきにあらず。ここを以て卑き宮室粗き食事は、聖主の安んずる所、金屋瑤臺は、驕主の麗しきと為す。故に有道の君は、逸をもって人を逸し、無道の君は、楽をもって身を楽しむ。願わくは陛下、之を使うに時を以てすれば、則ち力竭くること無く、用いて之を息ませば、則ち人斯に悦ばん。
珍玩伎巧は、乃ち国を喪う斧斤であり、珠玉錦繡は、実に心を迷わす鴆毒である。ひそかに見るに、服用や玩物が繊細で華美で、自然に変化したかの如く、織り貢ぐ珍奇が、神仙の製したるが如し。季俗に華を馳せしむるも、実に淳風を敗る素である。ここに知る、漆器は叛を延ばす方にあらず、桀が之を造りて人叛き、玉杯豈に亡を招く術ならん、紂が之を用いて国亡ぶ。まさに侈麗の源は、遏むべからざるを験す。儉を以て法を作すも、なおその奢るを恐る、奢を以て法を作せば、何を以て後に制せん。伏して惟うに、陛下は明鑑未だ形ならず、智周ること際無く、麟閣に奥秘を窮め、儒林に賾を探り尽くす。千王の治乱の跡、百代の安危の跡、興衰禍福の数、得失成敗の機、故また心府の中に苞吞し、目囲の内に循環し、乃ち宸衷の久しく察する所、一二言を仮る無し。惟うに恐るるは、知るは難からず、行うは易からず、業の泰なるに志驕り、時の安んずるに体逸することなり。伏して願わくは、志を抑え心を裁ち、終わりを慎むこと始めの如くし、軽き過ちを削りて重き徳を添え、今の是に循いて前の非に替え、則ち令名は日月と窮まり無く、盛業は乾坤と永く大ならんことを。
高宗
廃后王氏
高宗の廃后王氏は、并州祁の人である。父は仁祐、貞観中に羅山令。同安長公主は、即ち后の従祖母である。公主は后に美色有りとて、太宗に言上し、遂に納れて晋王妃と為す。高宗が儲君に登るや、冊して皇太子妃と為し、父仁祐を以て陳州刺史と為す。永徽初め、立てて皇后と為し、仁祐を以て特進・魏国公と為し、母柳氏を魏国夫人と為す。仁祐まもなく卒し、司空を贈られる。
初め、武皇后は貞観末に太宗の嬪御に随い感業寺に居たが、后及び左右数度之を言い、高宗是に由りて復た召し入れて宮中に置き、立てて昭儀と為す。俄にして漸く恩寵を受け、遂に后及び良娣蕭氏と互いに譖毀し合う。帝終に后の言を納れず、而して昭儀の寵遇日増し厚し。后懼れて自ら安からず、密かに母柳氏と謀り巫祝を求めて厭勝す。事発覚し、帝大いに怒り、柳氏を断ちて宮中に入るを許さず、后の舅中書令柳奭は政事を知るを罷め、並びに将に后を廃せんとす。長孫無忌・褚遂良等固く諫め、乃ち止む。俄にしてまた李義府の策を納れ、永徽六年十月、后及び蕭良娣を廃して皆庶人と為し、別院に囚う。武昭儀人をして皆縊殺せしむ。后の母柳氏・兄尚衣奉御全信及び蕭氏の兄弟は、並びに配流して嶺外とす。遂に昭儀を立てて皇后と為す。尋いで又后の姓を追い改めて蟒氏とし、蕭良娣を梟氏とす。
良娣蕭氏
庶人良娣初め囚われし時、大いに罵りて曰く、「願わくは阿武が鼠と為り、吾が猫児と為りて、生生に其の喉を扼さんことを!」と。武后怒り、是より宮中に猫を畜わず。初め囚われし時、高宗之を念い、閑行して其の所に至り、其の室の封閉極めて密なるを見る。惟だ一つの竅を開きて食器の出入を通ず。高宗惻然として呼びて曰く、「皇后・淑妃安在?」と。庶人泣きて対えて曰く、「妾等罪を得て、廃棄せられ宮婢と為る。何ぞ更に尊称有るを得ん、名づけて皇后と為すや?」と。言い訖りて悲しみ咽び、又曰く、「今至尊疇昔に思い及び、妾等をして再び日月を見しめ、院中に出入りせしめ、此の院の名を『回心院』と改むるを望む。妾等再生の幸いなり」と。高宗曰く、「朕即ち処置有らん」と。武后之を知り、人をして庶人及び蕭氏に各々一百杖し、手足を截ち去り、酒甕の中に投げて曰く、「此の二嫗をして骨酔わしめよ!」と。数日にして卒す。
後に則天は頻りに王・蕭二庶人が髪を披き血を瀝ぐるを見る、死時の状の如し。武后之を悪み、巫祝を以て禱り、又蓬萊宮に移り居すも、復た見ゆ。故に多くは東都に在り。
中宗即位し、后の姓を復た王氏とし、梟氏を還して蕭氏とす。
中宗
和思皇后趙氏
韋庶人
帝が房州にいた時、常に后に言った、「一日天日を見る事があれば、誓って互いに禁忌としない」と。志を得るに及んで、上官昭容の邪説を受け入れ、武三思を宮中に引き入れ、御床に昇らせ、后と双陸を打たせ、帝が采を数えて、歓笑と為し、醜い声は日に日に外に聞こえた。そこで大いに宮女を放出し、左右の内職であっても、時々禁中を出ることを許した。上官氏および宮人で貴幸な者は、皆外宅を立て、出入りに節度なく、朝官の邪佞な者はこれを待ち受け、ほしいままに親しみ遊び、その賞賜や官秩を祈り、要職に至るまでを求めた。当時、侍中敬暉が諸武を除こうと謀り、武三思はこれを憂い、そこで上官氏と結んで援けとし、これによって后に寵愛を得て、密かに宮中に入り謀議し、そこで百官に諷して帝の尊号を応天皇帝とし、后を順天皇后と上るようさせた。帝と后は親しく太廟に謁し、尊号を受けた意を告謝した。ここにおいて三思は驕横に事を行い、敬暉・王同皎は相次いで誅滅され、天下は皆后を咎めた。后は方や親族を優遇寵愛し、内外に封拜し、清要の官に遍く列ねた。また安楽公主を寵愛し立てようと欲し、そこで公主に開府を許す制を下し、官属を置かせた。太平公主の儀礼は親王に比した。長寧・安楽の二府は長史を置かないのみであった。宜城公主らは后の生んだ子でないため、それぞれ太平の半分に減じた。安楽は寵を恃んで驕り恣に、官を売り獄を鬻ぎ、その勢いは朝廷を傾け、常に自ら制勅を草し、その文を隠して帝に書くよう請い、帝は笑ってこれに従い、ついに省みなかった。また自ら皇太女に立てられるよう請い、帝は従わなかったが、また譴責を加えなかった。その署いた府僚は、皆猥り濫りで才なき者であった。また広く第宅を営み、侈靡甚だ過ぎた。長寧および諸公主は相次いで模倣し、天下は皆これを嗟怨した。
「昔、高祖が天命を受ける前、天下は『桃李子』を歌い、太宗が天命を受ける前、天下は『秦王破陣楽』を歌い、高宗が天命を受ける前、天下は『側堂堂』を歌い、天后が天命を受ける前、天下は『武媚娘』を歌った。伏して考えるに、応天皇帝が天命を受ける前、天下は『英王石州』を歌い、順天皇后が天命を受ける前、天下は『桑条韋也』を歌った。女の行いは六合の内に及び、首を揃え足を踏み、四時八節の会いに応じ、歌舞して共に歓ぶ。どうして『簫韶』九成・百獣率舞などと同年に語れようか。伏して考えるに、皇后は帝女の精を降し、国母として合し、蚕桑を主として天下を安んじ、后妃の徳はここに於いて盛んである。謹んで『桑条歌』十二篇を進め、伏して中外に宣布し、楽府に入れ、皇后が先蚕の時、以て宗廟を享けんことを請う」と。
帝は喜んでこれを許し、特に志忠に荘一区・雑彩七百段を賜った。太常少卿鄭愔はまたこれを引き延ばして、舞詠に播き、また厚賞を受けた。兵部尚書宗楚客はまた補闕趙延禧に諷して符命を表陳させ、『桑条』を解釈して十八代の符と為し、天下に頒示し、諸史冊に編入するよう請わせた。帝は大いに喜び、延禧を諫議大夫に抜擢した。当時、上官昭容とその母鄭氏および尚宮柴氏・賀婁氏は、親党を用い立て、広く貨賂を納め、別に墨勅を降し、斜封して官を授け、あるいは臧獲屠販の類を出し、累ねて栄秩に居た。また女巫趙氏を引き入れて禁中に出入りさせ、隴西夫人に封じ、その勢いは上官氏と比するものがあった。
六月、帝は毒に遇い暴崩した。時に馬秦客が侍疾していたので、議者は秦客及び安楽公主に罪を帰した。后は懼れ、秘して喪を発せず、親しい者を引いて禁中に入れ、自ら安んずる策を謀った。刑部尚書裴談・工部尚書張錫に政事を知らせ、東都を留守させた。また左金吾大将軍趙承恩及び宦者左監門衛大将軍薛崇簡に命じて兵五百人を率い筠州に往かせ、譙王重福に備えさせた。后は兄の太子少保韋溫と策を定め、温王重茂を立てて皇太子とし、諸府の兵五万人を召して京城に屯させ、左右の営に分け、然る後に喪を発した。少帝即位し、后を尊んで皇太后とし、朝に臨んで政を摂せしめた。韋温は内外の兵馬を総知し、宮掖を守援した。駙馬韋捷・韋濯は左右の屯営を分掌した。武延秀及び温の従子韋播・族弟韋璿・外甥高崇は、共に左右の羽林軍及び飛騎・万騎を典した。播・璿は先ず威厳を樹てんと欲し、官を拝する日に先だって万騎の数人を鞭打ったので、衆は皆怨み、用いられず。時に京城は恐懼し、相伝えて将に革命の事有らんとし、往々偶語し、人情安からず。臨淄王は薛崇簡・鐘紹京・劉幽求を率い、万騎及び総監を領し、丁未、玄武門より入り、左羽林軍に至り、将軍韋璿・韋播及び中郎将高崇を寝帳に斬った。遂に関を斬って入り、太極殿に至った。后は惶駭して殿前の飛騎営に遁れ入ったが、武延秀・安楽公主と共に皆乱兵に殺された。万騎を分遣してその党与の韋温・温の従子韋捷、及び族弟韋嬰を誅した。宗楚客・弟の晋卿、紀処訥、馬秦客、葉静能、楊均、趙履温、衛尉卿王哲、太常卿李𤤺、将作少匠李守質及び韋氏武氏の宗族は、少長無く皆斬った。后及び安楽公主の首を東市に梟した。翌日、勅して后の屍を収め、一品の礼をもって葬り、追貶して庶人とした。安楽公主は三品の礼をもって葬り、追貶して悖逆庶人とした。
上官昭容
中宗の上官昭容は、名は婉児、西台侍郎上官儀の孫である。父の庭芝は、儀と共に誅され、婉児は時に繈褓に在り、母に随って掖庭に配された。長ずるに及び、文詞有り、吏事に明習した。則天の時、婉児は旨に忤いて誅に当たるべきところ、則天はその才を惜しんで殺さず、ただその面に黥するのみであった。聖暦以後より、百司の表奏は多く参決を命じた。中宗即位し、また制命を専ら掌らせ、深く信任された。尋いで昭容に拝し、その母鄭氏を沛国夫人に封じた。婉児は既に武三思と淫乱し、制勅を下す毎に、多く事に因り武后を推尊して皇家を排抑した。節湣太子はこれを深く悪み、兵を挙げるに及び、肅章門に至り、閣を叩いて婉児を索めた。婉児は大言して曰く、「その此の意を観れば、即ち当に次に皇后及び大家を索めんとす」と。帝と后は遂に激怒し、並びに婉児を将いて玄武門楼に登り兵鋒を避けた。俄にして事定まる。婉児は常に昭文学士を広く置くことを勧め、盛んに当朝の詞学の臣を引き、数たび遊宴を賜い、詩を賦し唱和した。婉児は毎に帝及び后・長寧安楽二公主に代わり、数首並びに作り、辞甚だ綺麗で、時人皆これを諷誦した。婉児はまた吏部侍郎崔湜と通じ、政事を知らせた。湜は嘗て使を充てて商山の新路を開いたが、功半ばならずして中宗崩じ、婉児は遺制を草し、曲くその功を叙して褒賞を加えた。韋庶人の敗るるに及び、婉児もまた旗下に斬られた。玄宗はその詩筆を収め、文集二十巻を撰成せしめ、張説に命じてこれが序を作らせた。初め、婉児が孕みし時、その母は人が己に大秤を遺すを夢み、占者は曰く、「当に貴子を生み、而して国の権衡を秉るべし」と。既に女を生み、聞く者はその効無きを嗤ったが、婉児が内政を専ら秉るに及び、果たして占者の言の如し。
睿宗
肅明皇后劉氏
昭成皇后竇氏
玄宗
廢后王氏
貞順皇后武氏
玄宗の貞順皇后武氏は、則天武后の従父兄の子である恒安王攸止の娘である。攸止が卒した後、后はなお幼く、例に従って宮中に入った。上(玄宗)が即位すると、次第に恩寵を受けるようになった。王庶人が廃された後、特に恵妃の号を賜わり、宮中の礼秩は、皇后と同一であった。生母の楊氏は、鄭国夫人に封ぜられた。同母弟の忠は、累進して国子祭酒となり、信は秘書監となった。恵妃は開元の初めに夏悼王及び懐哀王、上仙公主を産んだが、いずれも幼くして育たず、上は特に深く傷悼した。寿王瑁を生んだ時は、敢えて宮中で養わず、寧王憲に命じて外で養わせた。また盛王琦、咸宜・太華の二公主を生んだ。恵妃は開元二十五年十二月に薨じ、年四十余であった。下制して曰く、「存するに懿範あり、没するに寵章あり、豈に独り朝班に被るのみならんや、故に乃ち亜政に施す、以て裕を垂るべく、斯れ通典と為す。故恵妃武氏は、少にして婉順、長じて賢明、行は礼経に合い、言は図史に応ず。戚里の華冑を承け、後庭の峻秩に昇り、貴びて恃まず、謙にして益々光る。道を以て躬を飭み、和を以て下に逮し、四徳は其れ兼備して燦たり、六宮は是を則として諮る。法度は己に在り、珩佩を資とせず、躬儉は人を化し、率先して絺纮す。夙に奇表有り、将に正位を加えんとす、前後固く譲り、辞して受けず、奄かに淪歿に至り、載し深く感悼す、遂に玉衣の慶をして、生前に及ばず、象服の栄をして、徒らに身後に増す。貞順皇后を贈るべく、宜しく所司に令して日を択び冊命せしむべし。」と。敬陵に葬った。時に慶王琮らが斉衰の服を制することを請い、有司が忌日に務めを廃することを請うたが、上はいずれもこれを許さなかった。京中の昊天観の南に廟を立てたが、乾元の後、祠享も絶えた。
楊貴妃
玄宗の楊貴妃は、高祖は令本、金州刺史。父は玄琰、蜀州司戸。妃は早く孤となり、叔父の河南府士曹玄璬に養われた。開元の初め、武恵妃が特に寵遇を受けていたため、王皇后は廃黜された。二十四年に恵妃が薨じ、帝は久しく悼惜し、後庭数千人いても意に適う者はいなかった。或る者が奏上して、玄琰の女が姿色当代に冠たり、召見を受くべしと。時に妃は道士の服を着て、太真と号した。進見するや、玄宗は大いに悦んだ。一年も経たぬうちに、礼遇は恵妃の如くであった。太真は姿質豊艶にして、歌舞に巧み、音律に通じ、智算人に過ぎた。毎に倩盼して承迎し、上意を動かした。宮中では「娘子」と呼び、礼数は実に皇后と同じであった。姉三人あり、皆才貌あり、玄宗は並びに国夫人の号を封じた。長を大姨といい、韓国に封じ、三姨を虢国に封じ、八姨を秦国に封じた。並びに恩沢を受け、宮掖に出入りし、勢天下に傾く。妃の父玄琰は、累贈して太尉・斉国公、母は涼国夫人に封ぜられ、叔父玄珪は光禄卿。再従兄の銛は鴻臚卿。锜は侍御史で、武恵妃の女太華公主を尚し、母の愛により、礼遇諸公主を過ぎ、甲第を賜わり、宮禁に連なった。韓・虢・秦の三夫人と銛・锜ら五家は、請托有る毎に、府県は承迎し、峻く詔勅の如く、四方の賂遺、其の門市の如し。
天宝五載七月、貴妃は微かな譴りにより楊銛の宅に送り返された。亭午に至るまで、上は之を思い、食らわず。高力士が上旨を探り知り、貴妃院への供帳・器玩・廩餼等の辦具百余車を送ることを請うと、上はまた御饌を分けてこれを送らせた。帝は動くごとに旨に称わず、暴怒して左右を笞撻した。力士が伏して奏し、貴妃を迎えて院に帰すことを請うた。是の夜、安興里の門を開いて内に入り、妃は地に伏して謝罪すると、上は歓然として慰撫した。翌日、韓・虢が食を進め、上は楽を作して終日、左右に暴に賜与有り。これより寵遇愈々隆盛となった。韓・虢・秦の三夫人には歳に千貫を給して、脂粉の資と為した。銛は三品・上柱国を授かり、私第に戟を立てた。姊妹昆仲五家は、甲第洞開し、宮掖に僭擬し、車馬僕御、京邑を照耀し、互いに誇尚した。毎に一堂を構えるに、費や千万を逾えるを計り、制度己より宏壮なるものを見れば、即ち撤して復た造り、土木の工、昼夜を舎てず。玄宗の頒賜及び四方の献遺は、五家一の如く、中使絶えず。開元已来、豪貴雄盛、楊氏の比の如きは無し。玄宗は凡そ遊幸有れば、貴妃は随侍せざるは無く、馬に乗れば則ち高力士が轡を執り鞭を授けた。宮中で貴妃院に供する織錦刺繡の工は、凡そ七百人、其の雕刻熔造は、又数百人。揚・益・嶺表の刺史は、必ず良工を求めて奇器異服を造作し、以て貴妃に奉り献賀し、因って顕位に擢居せしめられた。玄宗は每年十月華清宮に幸すと、国忠姊妹五家は扈従し、每家一隊を為し、一色の衣を著け、五家合隊すれば、照映して百花の煥発するが如く、而して遺鈿墜舄、瑟瑟珠翠、路に燦爛芳馥たり。而して国忠は虢国と私し、雄狐の刺を避けず、毎に入朝するに或いは鑣を聯ね方駕し、帷幔を施さず。毎に三朝の慶賀、五鼓に待漏するに、艶妝巷に盈ち、蠟炬昼の如し。而して十宅諸王百孫院の婚嫁は、皆韓・虢を因りて紹介と為し、仍り先に賂千貫を納めて奏請すれば、罔く旨に称わざるは無し。天宝九載、貴妃復た旨に忤い、外第に送り返された。時に吉温は中貴人と善くし、温が入奏して曰く、「婦人の智識遠からず、聖情に忤う有りと雖も、然れども貴妃久しく恩顧を受け、何ぞ宮中の一席の地を惜しみ、其の就戮せしめ、安んぞ外に辱を取りしむるを忍びんや」と。上は即ち中使張韜光に令して御饌を賜わしめ、妃は韜光に附いて泣き奏して曰く、「妾聖顔に忤い、罪万死に当たる。衣服の外は、皆聖恩の賜う所、遺留すべき無し、然れども髪膚は父母の所有なり」と。乃ち刀を引いて髪一繚を翦り附けて献ず。玄宗之を見て驚惋し、即ち力士をして召還せしむ。
国忠は既に宰執に居り、兼ねて剣南節度を領し、勢次第に恣横となる。十載正月の望夜、楊家五宅が夜遊し、広平公主の騎従と西市門を争う。楊氏の奴が鞭を揮って公主の衣に及び、公主は馬より堕ち、駙馬程昌裔が主を扶け、因って数撾を及ぼす。公主が泣いて之を奏すと、上は楊氏の奴を殺すことを令し、昌裔もまた官を停められた。国忠の二男昢・暄、妃の弟鑒は、皆公主を尚し、楊氏一門は二公主・二郡主を尚す。貴妃の父祖に私廟を立て、玄宗は自ら家廟碑文を制し並びに書す。玄珪は累遷して兵部尚書に至る。天宝中、范陽節度使安禄山が大いに辺功を立て、上は深く之を寵す。禄山が来朝すると、帝は貴妃の姊妹に禄山と兄弟を結ばしむ。禄山は母として貴妃に事え、毎に宴賜するに、錫賚稠沓たり。禄山が叛するに及び、檄を露わして国忠の罪を数う。河北に盗起こり、玄宗は皇太子を以て天下兵馬元帥と為し、軍国事を監撫せしむ。国忠大いに懼れ、諸楊聚りて哭き、貴妃は土を銜んで陳請す、帝は遂に行内禅せず。潼関失守に及び、幸に従いて馬嵬に至る、禁軍大将陳玄禮が密かに太子に啓し、国忠父子を誅す。既にして四軍散ぜず、玄宗は力士を遣わして宣問す、対えて曰く「賊本尚在り」と、蓋し貴妃を指すなり。力士復た奏す、帝已むを得ず、妃と詔し、遂に仏室に縊死せしむ。時に年三十八、駅西の道側に瘞す。
上皇(玄宗)が蜀より還り、中使をして祭奠せしめ、詔して改葬を命ず。礼部侍郎李揆曰く、「龍武将士が国忠を誅したのは、その国に背き乱を兆したが故なり。今故妃を改葬すれば、将士の疑懼を恐れ、葬禮は行うべからず」と。乃ち止む。上皇密かに中使をして他所に改葬せしむ。初め瘞む時、紫褥を以て之を裹みしに、肌膚は既に壞れ、而して香囊は尚在り。内官之を献ず。上皇之を視て淒惋し、乃ち其の形を別殿に図らしめ、朝夕之を視る。
馬嵬にて国忠を誅するや、虢国夫人難の作るを聞き、馬を奔らせて陳倉に至る。県令薛景仙人吏を率いて之を追ひ、竹林に走入る。先づ其の男裴徽及び一女を殺す。国忠の妻裴柔曰く、「娘子我が為に命を尽くせ」と。即ち之を刺殺す。已にして自刎すも死せず、県吏之を載せ、獄中に閉ぢこむ。猶吏に謂ひて曰く、「国家か、賊か」と。吏曰く、「互に之あり」と。血喉に凝りて卒す。遂に郭外に瘞す。韓國夫人の婿秘書少監崔峋、女は代宗の妃と為る。虢国の男裴徽は代宗の女延安公主を尚し、女は譲帝の男に嫁す。秦國夫人の婿柳澄先に死し、男鈞は長清県主を尚し、澄の弟潭は肅宗の女和政公主を尚す。