舊唐書

巻051

巻051

舊唐書

原文舊唐書

卷五十一

原文卷五十一

后妃上

原文后妃上

三代の宮禁の職は、『周官』が最も詳しい。周代以降、彤史の沿革は、それぞれ本書に載せており、ここには備え述べない。唐は隋の制度に因り、皇后の下に、貴妃・淑妃・徳妃・賢妃各一人あり、夫人と為し、正一品;昭儀・昭容・昭媛・修儀・修容・修媛・充儀・充容・充媛各一人あり、九嬪と為し、正二品;婕妤九人、正三品;美人九人、正四品;才人九人、正五品;宝林二十七人、正六品;御女二十七人、正七品;采女二十七人、正八品;その他の六尚諸司は、分かって乗輿服御を司る。龍朔二年、官名を改易し、内職は皆旧号を更む。咸亨二年に旧に復す。開元中、玄宗は皇后の下に四妃を立てるは、帝嚳に法るなり。然るに后妃四星、一は正后たり;今既に正后を立て、また四妃有り、典法に非ず。乃ち皇后の下に恵妃・麗妃・華妃等の三位を立て、以て三夫人に代え、正一品と為す;又、芳儀六人を置き、正二品と為す;美人四人、正三品;才人七人、正四品;尚宮・尚儀・尚服各二人、正五品;六品より九品に至るは、即ち諸司諸典の職員の品第に序して之を列ね、後も亦前号を参用す。

原文三代宮禁之職,《周官》最詳。自周已降,彤史沿革,各載本書,此不備述。唐因隋制,皇后之下,有貴妃、淑妃、德妃、賢妃各一人,為夫人,正一品;昭儀、昭容、昭媛、修儀、修容、修媛、充儀、充容、充媛各一人,為九嬪,正二品;婕妤九人,正三品;美人九人,正四品;才人九人,正五品;寶林二十七人,正六品;御女二十七人,正七品;采女二十七人,正八品;其餘六尚諸司,分典乘輿服御。龍朔二年,官名改易,內職皆更舊號。咸亨二年復舊。開元中,玄宗以皇后之下立四妃,法帝嚳也。而后妃四星,一為正后;今既立正后,復有四妃,非典法也。乃於皇后之下立惠妃、麗妃、華妃等三位,以代三夫人,為正一品;又置芳儀六人,為正二品;美人四人,為正三品;才人七人,為正四品;尚宮、尚儀、尚服各二人,為正五品;自六品至九品,即諸司諸典職員品第而序之,後亦參用前號。

然れども三代の政は、賢妃を以て国を開かず、嬖寵を以て邦を傾けざるは莫し。秦・漢已還、其の流浸くに盛ん。大なるは国を移し、小なるは朝に臨み、車服を煥えして宗枝を王とし、土壤を裂きて肺腑を侯とす、末途に淪敗するに及び、赤族夷宗す。高祖こうそ龍飛し、宮に正寝無く、而して婦言を用うるに、釁は維城より起こる。大帝(高宗)孝和(中宗)、仁にして武ならず、但だ池臺の賞を恣にし、寧ぞ衽席の嫌を顧みんや。武室(武后一族)・韋宗(韋后一族)、幾くんか運祚を危うくす。東京(後漢)の帝后は、歿して夫の謚に従う、光烈(陰麗華)・和熹(鄧綏)の類是れなり。高宗自ら天皇と号し、武氏自ら天后と称し、而して韋庶人(韋后)は生けりて翌聖の名有り、粛宗は張氏を后せんと欲す、此れ経に不なる甚だしきもの、皆以て凶終す。玄宗は恵妃の愛に以て、椒宮を擯斥し、継いて太真を以て、幾くんか天下を喪わんとす。歴に前古の邦家喪敗の由を観るに、多くは子弟の禍を召すに基づく。子弟の乱は、必ず宮闈の正しからざるに始まる。故に息隠(李建成)は墻を鬩ぎ、秦王(太宗)は謀りて東洛に帰せんとし;馬嵬に塗地し、太子(粛宗)は敢えて西行せず。若し中に聖善の慈有らば、胡ぞ能く是くの若くならんや。『易』に曰く「家道正しくして天下定まる」と、其れ然らざらんや。後に累朝、長秋虚位たり、或いは旁宗を以て入り継ぎ、母属皆微にして、徒に冊拜の文有るも、諒に「関雎」の徳を乏し。今、其の史冊に存する者を録し、『后妃伝』と為す云う。

原文然而三代之政,莫不以賢妃開國,嬖寵傾邦。秦、漢已還,其流浸盛。大至移國,小則臨朝,煥車服以王宗枝,裂土壤而侯肺腑,洎末塗淪敗,赤族夷宗。高祖龍飛,宮無正寢,而婦言是用,釁起維城。大帝孝和,仁而不武,但恣池臺之賞,寧顧衽席之嫌?武室、韋宗,幾危運祚。東京帝后,歿從夫謚,光烈、和熹之類是也。高宗自號天皇,武氏自稱天后,而韋庶人生有翌聖之名,肅宗欲后張氏,此不經之甚,皆以凶終。玄宗以惠妃之愛,擯斥椒宮,繼以太真,幾喪天下。歷觀前古邦家喪敗之由,多基於子弟召禍。子弟之亂,必始於宮闈不正。故息隱鬩墻,秦王謀歸東洛;馬嵬塗地,太子不敢西行。若中有聖善之慈,胡能若是?《易》曰「家道正而天下定」,不其然歟!自後累朝,長秋虛位,或以旁宗入繼,母屬皆微,徒有冊拜之文,諒乏「關雎」之德。今錄其存於史冊者,為《后妃傳》云。

高祖

原文高祖

太穆皇后竇氏

原文太穆皇后竇氏

高祖太穆皇后竇氏は、京兆始平の人、隋の定州総管・神武公竇毅の女なり。后の母は、周の武帝の姉襄陽長公主なり。

原文高祖太穆皇后竇氏,京兆始平人,隋定州總管、神武公毅之女也。后母,周武帝姊襄陽長公主。

后は生まれながらにして髪が頸を垂れ過ぎ、三歳にして身と斉し。周の武帝は特に愛重し、宮中に養う。時に武帝は突厥の女を納れて后と為すも、寵無く、后は尚幼く、窃かに帝に言いて曰く「四辺未だ静かならず、突厥尚強し、願わくは舅、情を抑えて撫慰し、蒼生を念いとせよ。但だ突厥の助けを須うれば、則ち江南・関東は患いと為す能わざるべし」と。武帝深く之を納る。毅之を聞き、長公主に謂いて曰く「此の女才貌此くの如し、妄りに以て人に許すべからず、当に賢夫を求めんとすべし」と。乃ち門屏に二孔雀を画き、諸公子に求婚する者有らば、輒ち両箭を与えて之を射させ、潜かに目に中るる者を許すと約す。前後数十輩能く中るる莫く、高祖後に至り、両発各々一目に中る。毅大いに悦び、遂に我が帝に帰す。

原文后生而髮垂過頸,三歲與身齊。周武帝特愛重之,養於宮中。時武帝納突厥女為后,無寵,后尚幼,竊言於帝曰:「四邊未靜,突厥尚強,願舅抑情撫慰,以蒼生為念。但須突厥之助,則江南、關東不能為患矣。」武帝深納之。毅聞之,謂長公主曰:「此女才貌如此,不可妄以許人,當為求賢夫。」乃於門屏畫二孔雀,諸公子有求婚者,輒與兩箭射之,潛約中目者許之。前後數十輩莫能中,高祖後至,兩發各中一目。毅大悅,遂歸於我帝。

周の武帝崩ずるに及び、后は追思して喪する所生の如し。隋の文帝禅を受くると、后聞きて流涕し、自ら床に投じて曰く「恨むらくは我れ男と為らず、以て舅氏の難を救わざるを」と。毅と長公主は遽に口を掩いて曰く「汝妄りに言う勿れ、吾が族を滅ぼさん」と。

原文及周武帝崩,后追思如喪所生。隋文帝受禪,后聞而流涕,自投於床曰:「恨我不為男,以救舅氏之難。」毅與長公主遽掩口曰:「汝勿妄言,滅吾族矣!」

后は元貞太后に事え、孝を以て聞こゆ。太后素より羸疾有り、時に或いは危篤なり。諸姉(嫁)は太后の性厳なるを以て譴を懼れ、皆疾と称して退くも、惟だ后は昼夜扶侍し、衣履を脱がざる者、動もすれば旬月を淹む。書学を善くし、高祖の書に類し、人弁うる能わず。篇章に工にして、而して規戒を存するを好む。大業中、高祖扶風太守たり、駿馬数匹有り。常に高祖に言いて曰く「上は鷹を好み馬を愛す、公の知る所なり、此れ進御に堪え、久しく留むべからず、人或いは言う者有らば、必ず身の累と為らん、願わくは熟思せよ」と。高祖未だ決せず、竟に此れを以て譴せらる。未だ幾ばくもせず、后涿郡に崩ず、時に年四十五。高祖后の言を追思し、方に自安の計を為し、数え鷹犬を求めて以て之を進む、俄にして将軍に擢拜せられ、因りて流涕して諸子に謂いて曰く「我れ早く汝が母の言に従わば、此の官に居ること久しからん」と。初め寿安陵に葬り、後に献陵に祔葬す。上元元年八月、改めて上尊号して太穆順聖皇后と曰う。

原文后事元貞太后,以孝聞。太后素有羸疾,時或危篤。諸姒以太后性嚴懼譴,皆稱疾而退,惟后晝夜扶侍,不脫衣履者,動淹旬月焉。善書學,類高祖之書,人不能辯。工篇章,而好存規戒。大業中,高祖為扶風太守,有駿馬數匹。常言於高祖曰:「上好鷹愛馬,公之所知,此堪進御,不可久留,人或言者,必為身累,願熟思之。」高祖未決,竟以此獲譴。未幾,后崩於涿郡,時年四十五。高祖追思后言,方為自安之計,數求鷹犬以進之,俄而擢拜將軍,因流涕謂諸子曰:「我早從汝母之言,居此官久矣。」初葬壽安陵,後祔葬獻陵。上元元年八月,改上尊號曰太穆順聖皇后。

太宗

原文太宗

文徳皇后長孫氏

原文文德皇后長孫氏

太宗文徳順聖皇后長孫氏は、長安ちょうあんの人、隋の右驍ぎょう衛将軍長孫晟の女なり。晟の妻は、隋の揚州刺史高敬徳の女、后を生む。少くして書を読むを好み、造次必ず礼則に循う。年十三、太宗に嬪す。隋の大業中、常に永興里に帰寧す、后の舅高士廉の媵張氏、后の所宿の舎外に大馬を見る、高さ二丈、鞍勒皆具わり、以て士廉に告ぐ。命じて之を筮わしむ、『坤』の『泰』に遇う。筮者曰く「至れるかな坤元、万物資りて生ず、乃ち天に順承す。坤厚く物を載せ、徳合して無疆なり。牝馬は地の類、地を行くに無疆なり。変じて『泰』に之くは、内陽にして外陰、内健にして外順、是れ天地交わりて万物通ずるなり。『象』に曰く、后は以て天地の宜を輔相して人を左右すと。龍は『乾』の象なり。馬は『坤』の象なり。変じて『泰』と為るは、天地交わるなり。繇は『帰妹』に協い、婦人の兆なり。女尊位に処り、中を履み順に居るなり。此の女貴ぶべからず言う」と。武徳元年、冊して秦王妃と為す。時に太宗の功業既に高く、隠太子の猜忌滋く甚だし。后は孝事して高祖に、恭順して妃嬪に、力を尽くして弥縫し、以て内助を存す。及び難作るや、太宗玄武門に在り、方に将士を引き入れて宮に甲を授けんとするに、后親しく慰勉し、左右感激せざる莫し。九年、冊して皇太子妃と拝す。

原文太宗文德順聖皇后長孫氏,長安人,隋右驍衛將軍晟之女也。晟妻,隋揚州刺史高敬德女,生后。少好讀書,造次必循禮則。年十三,嬪於太宗。隋大業中,常歸寧於永興里,后舅高士廉媵張氏,於后所宿舍外見大馬,高二丈,鞍勒皆具,以告士廉。命筮之,遇《坤》之《泰》,筮者曰:「至哉坤元,萬物資生,乃順承天。坤厚載物,德合無疆。牝馬地類,行地無疆。變而之《泰》,內陽而外陰,內健而外順,是天地交而萬物通也。《象》曰:后以輔相天地之宜而左右人也。龍,《乾》之象也。馬,《坤》之象也。變而為《泰》,天地交也。繇協於《歸妹》,婦人之兆也。女處尊位,履中居順也。此女貴不可言。」武德元年,冊為秦王妃。時太宗功業既高,隱太子猜忌滋甚。后孝事高祖,恭順妃嬪,盡力彌縫,以存內助。及難作,太宗在玄武門,方引將士入宮授甲,后親慰勉之,左右莫不感激。九年,冊拜皇太子妃。

太宗が即位すると、皇后に立てられた。皇后の父の長孫晟に司空しくう・齊獻公を追贈した。皇后は特に倹約を旨とし、身に着けるものや用いるものは、必要な分だけを調達するに過ぎなかった。太宗はますます礼遇を加え、しばしば皇后と賞罰の事について論じたが、皇后は答えて言うには、「雌鶏が時を告げるのは、家が滅びる兆しでございます。妾は婦人の身で、どうして政事に関与できましょうか」と。太宗がなおも話し続けると、ついに答えなかった。当時、皇后の兄の長孫無忌は、昔から太宗と布衣の交わりを結び、また創業の功臣として腹心に任じられ、寝所に出入りし、朝廷の政務を任されようとしていた。皇后は固く不可であると述べ、機会を見ては奏上して言うには、「妾はすでに紫宮(宮中)に身を寄せ、尊貴は極まりました。実は兄弟や子や甥が朝廷に並ぶことを望みません。漢の呂氏や霍氏のことが骨身に沁みる戒めとなりましょう。特に聖朝が妾の兄を宰相や執政にされませんよう願います」と。太宗は聞き入れず、ついに無忌を左武候大將軍・吏部尚書・右僕射に任用した。皇后はさらに密かに無忌に命じて、ひたすら辞退を願い出させ、太宗はやむなくこれを許し、開府儀同三司に改めて授けたので、皇后の心はようやく和らげた。異母兄の長孫安業がおり、酒を好み無頼であった。獻公(長孫晟)が薨去した時、皇后と無忌はともに幼く、安業は彼らを母方の叔父の家に追いやったが、皇后はまったく気にかけず、しばしば太宗に厚く恩礼を加えるよう請い、安業は監門將軍の位に至った。劉德裕の謀反に加担した時、太宗は彼を殺そうとしたが、皇后は叩頭して涙を流し命乞いをして言うには、「安業の罪は万死に値し、赦すべきではありません。しかし、彼が妾に慈しみをかけなかったことは、天下の知るところです。今、極刑に処せば、人々は必ずや妾が寵愛を恃んで兄の仇を討ったと言い、聖朝の累わずらわしきものとならないでしょうか」と。こうして死罪を減じられた。

原文太宗即位,立為皇后。贈后父晟司空、齊獻公。后性尤儉約,凡所服御,取給而已。太宗彌加禮待,常與后論及賞罰之事,對曰:「牝雞之晨,惟家之索。妾以婦人,豈敢豫聞政事?」太宗固與之言,竟不之答。時后兄無忌,夙與太宗為布衣之交,又以佐命元勛,委以腹心,出入臥內,將任之朝政。后固言不可,每乘間奏曰:「妾既托身紫宮,尊貴已極,實不願兄弟子侄布列朝廷。漢之呂、霍可為切骨之誡,特願聖朝勿以妾兄為宰執。」太宗不聽,竟用無忌為左武候大將軍、吏部尚書、右僕射。后又密遣無忌苦求遜職,太宗不獲已而許焉,改授開府儀同三司,后意乃懌。有異母兄安業,好酒無賴。獻公之薨也,后及無忌並幼,安業斥還舅氏,后殊不以介意,每請太宗厚加恩禮,位至監門將軍。及預劉德裕逆謀,太宗將殺之,后叩頭流涕為請命曰:「安業之罪,萬死無赦。然不慈於妾,天下知之,今置以極刑,人必謂妾恃寵以復其兄,無乃為聖朝累乎!」遂得減死。

皇后が生んだ長樂公主は、太宗が特に寵愛し、降嫁する際に、主管官庁に命じて長公主の倍の資財を送らせた。魏徵が諫めて言うには、「昔、漢の明帝の時、皇子を封じようとしたが、帝は言われた、『朕の子がどうして先帝の子と同じであろうか』と。しかし、長公主というのは、確かに公主よりも尊いのです。情には差があっても、義には等級の別はありません。もし公主の礼が長公主を超えるならば、道理として恐らく不可であり、陛下にご考慮を願います」と。太宗はこの言葉を持ち帰って皇后に告げると、皇后は嘆息して言うには、「かつて陛下が魏徵を重んじておられるのを聞きましたが、その理由がよく分かりませんでした。今、その諫言を聞き、実に義をもって主君の情を制することができる人物であり、まさに正直な社稷の臣と言えましょう。妾は陛下と結髮して夫婦となり、曲がりなりにも礼遇を受け、情義は深く重いものです。毎回言葉を発するには必ず陛下の顔色を窺い、なお軽々しく威厳を犯すことはできません。まして臣下たる者、情は疎く礼は隔てられています。故に韓非は『説難』を著し、東方朔はその難しさを称えたのです。まことに理由があることです。忠言は耳に逆らっても行いには利があり、国や家を持つ者の急務です。これを受け入れれば風俗は安らぎ、これを拒めば政治は乱れます。誠に願わくは陛下がこれを詳しくご覧になり、そうすれば天下は幸いです」と。皇后はそこで中使に命じて帛五百匹を持たせ、魏徵の邸宅に赴かせて賜った。太子の承乾の乳母の遂安夫人が常に皇后に言うには、「東宮の器物が不足しておりますので、上奏してご所望したいと思います」と。皇后は聞き入れず、言うには、「太子たるもの、患うべきは徳が立たず名が揚がらないことであり、器物が少ないことを憂えることではあるまい」と。

原文后所生長樂公主,太宗特所鐘愛,及將出降,敕所司資送倍於長公主。魏徵諫曰:「昔漢明帝時,將封皇子,帝曰:『朕子安得同於先帝子乎!』然謂長主者,良以尊於公主也,情雖有差,義無等別。若令公主之禮有過長主,理恐不可,願陛下思之。」太宗以其言退而告后,后嘆曰:「嘗聞陛下重魏徵,殊未知其故。今聞其諫,實乃能以義制主之情,可謂正直社稷之臣矣。妾與陛下結髮為夫婦,曲蒙禮待,情義深重,每言必候顏色,尚不敢輕犯威嚴,況在臣下,情疏禮隔,故韓非為之說難,東方稱其不易,良有以也。忠言逆於耳而利於行,有國有家者急務,納之則俗寧,杜之則政亂,誠願陛下詳之,則天下幸甚。」后因請遣中使賫帛五百匹,詣徵宅以賜之。太子承乾乳母遂安夫人常白后曰:「東宮器用闕少,欲有奏請。」后不聽,曰:「為太子,所患德不立而名不揚,何憂少於器物也!」

八年、九成宮に行幸に従い、病に染まり危篤となった。太子の承乾が伺候し、密かに皇后に申し上げて言うには、「医薬は尽くしましたが、尊体が癒えません。囚人を赦すことを奏上し、また人を出家させて道に入らせ、福の助けを蒙りたいと存じます」と。皇后は言うには、「死生は天命にあり、人力で加えることはできない。もし福を修めれば延命できるなら、私はもとより悪事を働いたことはない。もし善を行っても効果がなければ、何の福を求められようか。赦しは国家の大事である。仏道は、異国の教えが存在することを示すに過ぎず、政体を損なうのみならず、また陛下のなさらぬことである。どうして私一人の婦人のために天下の法を乱すことができようか」と。承乾は奏上できず、左僕射の房玄齢に告げた。玄齢がこれを奏上すると、太宗と侍臣たちはみな嘆息した。朝臣たちはこぞって大赦を請い、太宗はこれに従おうとした。皇后がこれを聞き、固く争ったので、やめた。臨終が近づき、太宗と別れを告げた時、玄齢は咎められて邸に帰っていた。皇后は固く言うには、「玄齢は陛下に仕えて最も長く、小心謹慎で、奇謀秘計はすべて預かって聞いていながら、ついに一言も漏洩しませんでした。大過がない限り、お見捨てになりませんよう。また、妾の本宗(実家)は、幸いにも姻戚の縁にありますが、徳行によって挙げられたのではなく、容易に危機に陥ります。永久に保全されるには、慎重に権要の地位に置かず、ただ外戚として朝請に奉ずるだけで、それこそ幸いです。妾は生きている時も時世に益するところがなく、今死ぬに当たって厚く費用をかけるべきではありません。かつ葬とは、蔵すること、人に見られないようにすることです。古来の聖賢は皆、倹約と薄葬を尊びました。ただ無道の世にのみ、大きな山陵を築き、天下に労役と費用をかけ、有識者に笑われるのです。ただ山に因って葬り、墳丘を築く必要はなく、棺や槨を用いず、必要な器や服はすべて木や瓦とし、倹約と薄葬をもって送終すれば、それは私を忘れないことになります」と。十年六月己卯、立政殿にて崩御した。時に三十六歳。その年十一月庚寅、昭陵に葬られた。

原文八年,從幸九成宮,染疾危惙,太子承乾入侍,密啟后曰:「醫藥備盡,尊體不瘳,請奏赦囚徒,並度人入道,冀蒙福助。」后曰:「死生有命,非人力所加。若修福可延,吾素非為惡。若行善無效,何福可求?赦者,國之大事;佛道者,示存異方之教耳,非惟政體靡弊,又是上所不為,豈以吾一婦人而亂天下法?」承乾不敢奏,以告左僕射房玄齡,玄齡以聞,太宗及侍臣莫不噓唏。朝臣咸請肆赦,太宗從之;后聞之,固爭,乃止。將大漸,與太宗辭訣,時玄齡以譴歸第,后固言:「玄齡事陛下最久,小心謹慎,奇謀秘計,皆所預聞,竟無一言漏泄,非有大故,願勿棄之。又妾之本宗,幸緣姻戚,既非德舉,易履危機,其保全永久,慎勿處之權要,但以外戚奉朝請,則為幸矣。妾生既無益於時,今死不可厚費。且葬者,藏也,欲人之不見。自古聖賢,皆崇儉薄,惟無道之世,大起山陵,勞費天下,為有識者笑。但請因山而葬,不須起墳,無用棺槨,所須器服,皆以木瓦,儉薄送終,則是不忘妾也。」十年六月己卯,崩於立政殿,時年三十六。其年十一月庚寅,葬於昭陵。

皇后はかつて古代の婦人の善行を撰び、十巻にまとめ、『女則』と名付け、自ら序文を書いた。また論を著して漢の明徳馬皇后を駁し、外戚を抑えて退けることができず、彼らを朝廷で貴盛にさせたことを、ただ龍馬水車(贅沢な車)を戒めたのは、禍の源を開きながらその末端を防いだに過ぎないと論じた。かつて主守者に戒めて言うには、「これは私が自らを防ぐためのものである。婦人の著述には条理がなく、至尊(皇帝)にご覧いただきたくない。慎んで口外するな」と。崩御の後、宮司がこれを奏上した。太宗はこれを見てますます慟哭し、近臣に示して言うには、「皇后のこの書は、まさに後代に伝えるに足る。私はどうして天命に通ぜずして情を断ち切れないことがあろうか。彼女は常に規諫して朕の過ちを補ってくれた。今、善言を再び聞くことができない。これは内に良き補佐役を一人失ったことであり、これによって人を哀しませるのだ」と。上元元年八月、尊号を改めて文徳順聖皇后と上った。

原文后嘗撰古婦人善事,勒成十卷,名曰《女則》,自為之序。又著論駁漢明德馬皇后,以為不能抑退外戚,令其當朝貴盛,乃戒其龍馬水車,此乃開其禍源而防其末事耳。且戒主守者曰:「此吾以自防閑耳。婦人著述無條貫,不欲至尊見之,慎勿言。」崩後,宮司以聞,太宗覽而增慟,以示近臣曰:「皇后此書,足可垂於後代。我豈不達天命而不能割情乎!以其每能規諫,補朕之闕,今不復聞善言,是內失一良佐,以此令人哀耳!」上元元年八月,改上尊號曰文德順聖皇后。

賢妃徐氏

原文賢妃徐氏

太宗の賢妃徐氏、名は惠、右散騎常侍さんきじょうじ徐堅の叔母である。生後五ヶ月で言葉を話し、四歳で『論語』『毛詩』を誦し、八歳で文章を綴ることを好んだ。その父の徐孝徳が『楚辭』を擬えて試みさせると、「山中には久しく留まるべからず」と詠み、言葉は甚だ典雅で美しかった。ここから経書史書に広く渉猟し、手から書物を離さなかった。太宗がこれを聞き、才人として後宮に入れた。その文章は、筆を揮えばたちまち完成し、言葉は華麗で豊かであった。まもなく婕妤に任じられ、さらに充容に昇進した。当時、軍旅が頻繁に動き、宮室が相次いで造営され、百姓は労役にかなり疲弊していた。上疏して諫めて言うには、

原文太宗賢妃徐氏,名惠,右散騎常侍堅之姑也。生五月而能言,四歲誦《論語》、《毛詩》,八歲好屬文。其父孝德試擬《楚辭》,云「山中不可以久留」,詞甚典美。自此遍涉經史,手不釋卷。太宗聞之,納為才人。其所屬文,揮翰立成,詞華綺贍。俄拜婕妤,再遷充容。時軍旅亟動,宮室互興,百姓頗倦勞役,上疏諫曰:

「貞観以来、二十二年、風雨は順調で、毎年豊作となり、人々に水害旱害の弊なく、国に飢饉の災いなし。昔、漢の武帝は文を守る常主でありながら、なお刻玉の符(封禅の玉牒)に登った。齊の桓公は小国の庸君でありながら、なお泥金(封禅の儀礼)の事を図った。願わくは陛下には功を推して己を損じ、徳を譲って居らられませんように。億兆の民は心を傾けているのに、なお告成の礼(封禅)は欠けている。雲亭(泰山と梁父山)は謁見を待ち望んでいるのに、升中の儀(封禅)はまだ行われていない。この功績と徳行は、百王を凌駕し、千代を網羅するに足るものであります。古人に言う、『たとえ善くても休むなかれ』と。まことに理由があることです。初めを守り終わりを保つことは、聖哲でも兼ねることは稀です。これによって業の大なる者は驕りやすいことを知り、願わくは陛下にはこれを難事とされんことを。善く始める者は終わり難いことを知り、願わくは陛下にはこれを易事とされんことを。

原文「自貞觀已來,二十有二載,風調雨順,年登歲稔,人無水旱之弊,國無饑饉之災。昔漢武守文之常主,猶登刻玉之符;齊桓小國之庸君,尚圖泥金之事。望陛下推功損己,讓德不居。億兆傾心,猶闕告成之禮;雲亭佇謁,未展升中之儀。此之功德,足以咀嚼百王,網羅千代者矣。古人有云:「雖休勿休」,良有以也。守初保末,聖哲罕兼。是知業大者易驕,願陛下難之;善始者難終,願陛下易之。

ひそかに見るに、近年以来、労役が兼ねて総動員され、東には遼海の軍があり、西には昆丘の役があり、兵士と馬は甲冑に疲れ、舟車は輸送に倦んでいる。しかも召募して兵役や守備に就かせれば、去る者も留まる者も死生の痛みを懐き、風に因り浪に阻まれて、人や米には漂溺の危険がある。一人の男が力を尽くして耕しても、ついに数十の収穫はなく、一隻の船が損傷すれば、数百の糧食を傾ける。これはすなわち、尽きることある農事の成果を運び、窮まりなき巨浪に填め、未だ獲ざる他国の衆を図り、既に成せる我が軍を喪うようなものである。凶悪を除き暴虐を伐つことは、国に常規あるも、武を黷らし兵を玩ぶは、先哲の戒めるところである。昔、秦の皇帝は六国を併呑して、かえって危亡の基を速め、晋の武帝は三方を奄有して、翻って覆敗の業を成した。豈に功を矜り大を恃み、徳を棄てて邦を軽んじ、利を図りて害を忘れ、情を肆にし欲を縱にしたからではあるまいか。遂に悠悠たる六合をして、広しといえどもその亡を救わず、嗷嗷たる黎庶をして、弊に因りてその禍を成さしめた。ここに知る、地の広きは常に安からしむる術にあらず、人の労するは乃ち易き乱の源であることを。願わくは陛下、沢を布き人を流し、弊を矜み乏しきを恤み、行役の煩わしきを減じ、湛露の恵みを増したまわんことを。妾また聞く、政を為すの本は、無為に在るを貴ぶと。ひそかに見るに、土木の工事は、兼ねて遂げるべからず。この闕初めて建つや、南に翠微を営み、未だ時に逾ぎざるに、玉華創制す。山に因り水を藉るといえども、架築の労なきにあらず、損之又損すといえども、頗る工力の費あり。終に茅茨をもって約を示すも、なお木石の疲れを興し、仮に和雇をもって人を取るも、煩擾の弊なきにあらず。ここを以て卑き宮室粗き食事は、聖主の安んずる所、金屋瑤臺は、驕主の麗しきと為す。故に有道の君は、逸をもって人を逸し、無道の君は、楽をもって身を楽しむ。願わくは陛下、之を使うに時を以てすれば、則ち力竭くること無く、用いて之を息ませば、則ち人斯に悦ばん。

原文「竊見頃年已來,力役兼總,東有遼海之軍,西有昆丘之役,士馬疲於甲胄,舟車倦於轉輸。且召募役戍,去留懷死生之痛;因風阻浪,人米有漂溺之危。一夫力耕,卒無數十之獲;一船致損,則傾數百之糧。是猶運有盡之農功,填無窮之巨浪,圖未獲之他眾,喪已成之我軍。雖除凶伐暴,有國常規;然黷武玩兵,先哲所戒。昔秦皇並吞六國,反速危亡之基;晉武奄有三方,翻成覆敗之業。豈非矜功恃大,棄德而輕邦;圖利忘害,肆情而縱欲?遂使悠悠六合,雖廣不救其亡;嗷嗷黎庶,因弊以成其禍。是知地廣非常安之術,人勞乃易亂之源。願陛下布澤流人,矜弊恤乏,減行役之煩,增湛露之惠。妾又聞為政之本,貴在無為。竊見土木之功,不可兼遂。此闕初建,南營翠微,曾未逾時,玉華創制。雖復因山藉水,非無架築之勞;損之又損,頗有工力之費。終以茅茨示約,猶興木石之疲;假使和雇取人,不無煩擾之弊。是以卑宮菲食,聖主之所安;金屋瑤臺,驕主之為麗。故有道之君,以逸逸人;無道之君,以樂樂身。願陛下使之以時,則力無竭矣;用而息之,則人斯悅矣。

珍玩伎巧は、乃ち国を喪う斧斤であり、珠玉錦繡は、実に心を迷わす鴆毒である。ひそかに見るに、服用や玩物が繊細で華美で、自然に変化したかの如く、織り貢ぐ珍奇が、神仙の製したるが如し。季俗に華を馳せしむるも、実に淳風を敗る素である。ここに知る、漆器は叛を延ばす方にあらず、桀が之を造りて人叛き、玉杯豈に亡を招く術ならん、紂が之を用いて国亡ぶ。まさに侈麗の源は、遏むべからざるを験す。儉を以て法を作すも、なおその奢るを恐る、奢を以て法を作せば、何を以て後に制せん。伏して惟うに、陛下は明鑑未だ形ならず、智周ること際無く、麟閣に奥秘を窮め、儒林に賾を探り尽くす。千王の治乱の跡、百代の安危の跡、興衰禍福の数、得失成敗の機、故また心府の中に苞吞し、目囲の内に循環し、乃ち宸衷の久しく察する所、一二言を仮る無し。惟うに恐るるは、知るは難からず、行うは易からず、業の泰なるに志驕り、時の安んずるに体逸することなり。伏して願わくは、志を抑え心を裁ち、終わりを慎むこと始めの如くし、軽き過ちを削りて重き徳を添え、今の是に循いて前の非に替え、則ち令名は日月と窮まり無く、盛業は乾坤と永く大ならんことを。

原文「夫珍玩伎巧,乃喪國之斧斤;珠玉錦繡,實迷心之鴆毒。竊見服玩纖靡,如變化於自然;織貢珍奇,若神仙之所制。雖馳華於季俗,實敗素於淳風。是知漆器非延叛之方,桀造之而人叛;玉杯豈招亡之術,紂用之而國亡。方驗侈麗之源,不可不遏。作法於儉,猶恐其奢;作法於奢,何以制後?伏惟陛下明鑒未形,智周無際,窮奧秘於麟閣,盡探賾於儒林。千王治亂之蹤,百代安危之跡,興衰禍福之數,得失成敗之機,故亦苞吞心府之中,循環目圍之內,乃宸衷之久察,無假一二言焉。惟恐知之非難,行之不易,志驕於業泰,體逸於時安。伏願抑志裁心,慎終如始,削輕過以添重德,循今是以替前非,則令名與日月無窮,盛業與乾坤永大。」

太宗はその言を善しとし、優に賜うこと甚だ厚かった。太宗崩御に及び、顧遇の恩を追思し、哀慕愈甚だしく、疾を発して自ら医せず。病甚だしくなり、親しき者に謂いて曰く、「吾が顧みられること実に深く、志は早く歿するに在り、魂其れ霊有らば、園寢に侍るを得ん、吾が志なり」と。因りて七言詩及び連珠を作りて以てその志を表す。永徽元年に卒す。時に年二十四。詔して賢妃を贈り、昭陵の石室に陪葬せしむ。

原文太宗善其言,優賜甚厚。及太宗崩,追思顧遇之恩,哀慕愈甚,發疾不自醫。病甚,謂所親曰:「吾荷顧實深,志在早歿,魂其有靈,得侍園寢,吾之志也。」因為七言詩及連珠以見其志。永徽元年卒,時年二十四,詔贈賢妃,陪葬於昭陵之石室。

高宗

原文高宗

廃后王氏

原文廢后王氏

高宗の廃后王氏は、并へい州祁の人である。父は仁祐、貞観中に羅山令。同安長公主は、即ち后の従祖母である。公主は后に美色有りとて、太宗に言上し、遂に納れて晋王妃と為す。高宗が儲君に登るや、冊して皇太子妃と為し、父仁祐を以て陳州刺史と為す。永徽初め、立てて皇后と為し、仁祐を以て特進・魏国公と為し、母柳氏を魏国夫人と為す。仁祐まもなく卒し、司空を贈られる。

原文高宗廢后王氏,并州祁人也。父仁祐,貞觀中羅山令。同安長公主,即后之從祖母也。公主以后有美色,言於太宗,遂納為晉王妃。高宗登儲,冊為皇太子妃,以父仁祐為陳州刺史。永徽初,立為皇后,以仁祐為特進、魏國公,母柳氏為魏國夫人。仁祐尋卒,贈司空。

初め、武皇后は貞観末に太宗の嬪御に随い感業寺に居たが、后及び左右数度之を言い、高宗是に由りて復た召し入れて宮中に置き、立てて昭儀と為す。俄にして漸く恩寵を受け、遂に后及び良娣蕭氏と互いに譖毀し合う。帝終に后の言を納れず、而して昭儀の寵遇日増し厚し。后懼れて自ら安からず、密かに母柳氏と謀り巫祝を求めて厭勝す。事発覚し、帝大いに怒り、柳氏を断ちて宮中に入るを許さず、后の舅中書令柳奭は政事を知るを罷め、並びに将に后を廃せんとす。長孫無忌・褚遂良等固く諫め、乃ち止む。俄にしてまた李義府の策を納れ、永徽六年十月、后及び蕭良娣を廃して皆庶人と為し、別院に囚う。武昭儀人をして皆縊殺せしむ。后の母柳氏・兄尚衣奉御全信及び蕭氏の兄弟は、並びに配流して嶺外とす。遂に昭儀を立てて皇后と為す。尋いで又后の姓を追い改めて蟒氏とし、蕭良娣を梟氏とす。

原文初,武皇后貞觀末隨太宗嬪御居於感業寺,后及左右數為之言,高宗由是復召入宮,立為昭儀。俄而漸承恩寵,遂與后及良娣蕭氏遞相譖毀。帝終不納后言,而昭儀寵遇日厚。后懼不自安,密與母柳氏求巫祝厭勝。事發,帝大怒,斷柳氏不許入宮中,后舅中書令柳奭罷知政事,並將廢后,長孫無忌、褚遂良等固諫,乃止。俄又納李義府之策,永徽六年十月,廢后及蕭良娣皆為庶人,囚之別院。武昭儀令人皆縊殺之。后母柳氏、兄尚衣奉御全信及蕭氏兄弟,並配流嶺外。遂立昭儀為皇后。尋又追改后姓為蟒氏,蕭良娣為梟氏。

良娣蕭氏

原文良娣蕭氏

庶人良娣初め囚われし時、大いに罵りて曰く、「願わくは阿武が鼠と為り、吾が猫児と為りて、生生に其の喉を扼さんことを!」と。武后怒り、是より宮中に猫を畜わず。初め囚われし時、高宗之を念い、閑行して其の所に至り、其の室の封閉極めて密なるを見る。惟だ一つの竅を開きて食器の出入を通ず。高宗惻然として呼びて曰く、「皇后・淑妃安在?」と。庶人泣きて対えて曰く、「妾等罪を得て、廃棄せられ宮婢と為る。何ぞ更に尊称有るを得ん、名づけて皇后と為すや?」と。言い訖りて悲しみ咽び、又曰く、「今至尊疇昔に思い及び、妾等をして再び日月を見しめ、院中に出入りせしめ、此の院の名を『回心院』と改むるを望む。妾等再生の幸いなり」と。高宗曰く、「朕即ち処置有らん」と。武后之を知り、人をして庶人及び蕭氏に各々一百杖し、手足を截ち去り、酒甕の中に投げて曰く、「此の二嫗をして骨酔わしめよ!」と。数日にして卒す。

原文庶人良娣初囚,大罵曰:「願阿武為老鼠,吾作貓兒,生生扼其喉!」武后怒,自是宮中不畜貓。初囚,高宗念之,閑行至其所,見其室封閉極密,惟開一竅通食器出入。高宗惻然,呼曰:「皇后、淑妃安在?」庶人泣而對曰:「妾等得罪,廢棄為宮婢,何得更有尊稱,名為皇后?」言訖悲咽,又曰:「今至尊思及疇昔,使妾等再見日月,出入院中,望改此院名為『回心院』,妾等再生之幸。」高宗曰:「朕即有處置。」武后知之,令人杖庶人及蕭氏各一百,截去手足,投於酒甕中,曰:「令此二嫗骨醉!」數日而卒。

後に則天は頻りに王・蕭二庶人が髪を披き血を瀝ぐるを見る、死時の状の如し。武后之を悪み、巫祝を以て禱り、又蓬萊宮に移り居すも、復た見ゆ。故に多くは東都に在り。

原文後則天頻見王、蕭二庶人披髮瀝血,如死時狀。武后惡之,禱以巫祝,又移居蓬萊宮,復見,故多在東都。

中宗即位し、后の姓を復た王氏とし、梟氏を還して蕭氏とす。

原文中宗即位,復后姓為王氏,梟氏還為蕭氏。

中宗

原文中宗

和思皇后趙氏

原文和思皇后趙氏

中宗の和思皇后趙氏は、京兆長安の人である。祖父は綽、武徳中に戦功を以て右領軍衛将軍に至る。父は瑰、高祖の女常楽公主を尚し、歴遷して左千牛将軍。中宗が英王たりし時、后を納れて妃と為す。既にして妃の母たる公主罪を得、妃も亦座に連なりて廃され、内侍省に幽死す。則天朝に臨み、瑰は寿州刺史と為り、座して越王貞と連謀するに坐して誅せられ、公主も亦座して死す。神龍元年、后に謚を贈りて恭皇后と為し、瑰に左衛大将軍を贈る。中宗崩御に及び、将に定陵に葬らんとす。議者韋后罪を得たるを以て、祔葬に宜しからずとす。是に於いて后を追謚して和思と為すも、瘞する所を知らず、行って招魂祔葬の礼を行ふ。太常博士彭景直上言して曰く、「古に招魂葬の礼無し。棺槨を備え、轀鬻輬を置くべからず。宜しく《漢書かんじょ郊祀志》黄帝の衣冠を橋山に葬る故事に拠り、皇后の禕衣を以て陵所の寢宮に招魂し、衣を魂輿に置き、太牢を以て告祭し、衣を寢宮に遷し、御榻の右に舒き、夷衾を以て覆いて祔葬すべし」と。之に従う。

原文中宗和思皇后趙氏,京兆長安人。祖綽,武德中以戰功至右領軍衛將軍。父瑰,尚高祖女常樂公主,歷遷左千牛將軍。中宗為英王時,納后為妃。既而妃母公主得罪,妃亦坐廢,幽死於內侍省。則天臨朝,瑰為壽州刺史,坐與越王貞連謀被誅,公主亦坐死。神龍元年,贈后謚為恭皇后,贈瑰左衛大將軍。及中宗崩,將葬於定陵,議者以韋后得罪,不宜祔葬,於是追謚后為和思,莫知瘞所,行招魂祔葬之禮。太常博士彭景直上言:「古無招魂葬之禮,不可備棺槨,置轀鬻輬。宜據《漢書郊祀志》葬黃帝衣冠於橋山故事,以皇后禕衣於陵所寢宮招魂,置衣於魂輿,以太牢告祭,遷衣於寢宮,舒於御榻之右,覆以夷衾而祔葬焉。」從之。

韋庶人

原文韋庶人

中宗韋庶人は、京兆府萬年県の人である。祖父の弘表は、貞観年間に曹王府の典軍となった。中宗が太子であった時、后を妃として迎え、さらに后の父で普州参軍であった玄貞を豫よ州刺史に抜擢した。嗣聖元年、皇后に立てられた。その年、中宗が廃位されると、后は房州に従った。当時、中宗は恐れて自ら安んじることができず、詔使が来るたびに、恐れ慌てて自殺しようとした。后は王を諫めて言うには、「禍福は互いに転じるもので、常に一定しているものではない。一死を失うことなどありえようか、どうして急にこのようなことをなさるのですか」と。長年にわたり共に艱難危険を分かち合い、情義は甚だ篤かった。生んだ子は、懿徳太子、永泰・永寿・長寧・安楽の四公主であり、安楽公主は最も幼く、房州で生まれた。帝は自ら衣を脱いで彼女を包み、そこで名を裹児と付け、特に寵愛して異例の扱いをした。中宗が再び太子に立てられると、また后を妃に立てた。当時、昭容上官氏は常に后に則天武后の故事を行うよう勧め、そこで上表して天下の士庶が出母のために三年の喪に服することを請い、また百姓が二十三歳をもって丁とし、五十九歳で役を免じるよう請い、制度を改易して、時の人望を収めようとした。詔勅はすべてこれを許した。

原文中宗韋庶人,京兆萬年人也。祖弘表,貞觀中為曹王府典軍。中宗為太子時,納后為妃,仍擢后父普州參軍玄貞為豫州刺史。嗣聖元年,立為皇后。其年,中宗見廢,后隨從房州。時中宗懼不自安,每聞制使至,惶恐欲自殺。后勸王曰:「禍福倚伏,何常之有?豈失一死,何遽如是也!」累年同艱危,情義甚篤。所生懿德太子、永泰、永壽、長寧、安樂四公主,安樂最幼,生於房州,帝自脫衣裹之,遂名曰裹兒,特寵異焉。及中宗復立為太子,又立后為妃。時昭容上官氏常勸后行則天故事,乃上表請天下士庶為出母服喪三年;又請百姓以年二十三為丁,五十九免役,改易制度,以收時望。制皆許之。

帝が房州にいた時、常に后に言った、「一日天日を見る事があれば、誓って互いに禁忌としない」と。志を得るに及んで、上官昭容の邪説を受け入れ、武三思を宮中に引き入れ、御床に昇らせ、后と双陸を打たせ、帝が采を数えて、歓笑と為し、醜い声は日に日に外に聞こえた。そこで大いに宮女を放出し、左右の内職であっても、時々禁中を出ることを許した。上官氏および宮人で貴幸な者は、皆外宅を立て、出入りに節度なく、朝官の邪佞な者はこれを待ち受け、ほしいままに親しみ遊び、その賞賜や官秩を祈り、要職に至るまでを求めた。当時、侍中敬暉が諸武を除こうと謀り、武三思はこれを憂い、そこで上官氏と結んで援けとし、これによって后に寵愛を得て、密かに宮中に入り謀議し、そこで百官に諷して帝の尊号を応天皇帝とし、后を順天皇后と上るようさせた。帝と后は親しく太廟に謁し、尊号を受けた意を告謝した。ここにおいて三思は驕横に事を行い、敬暉・王同皎は相次いで誅滅され、天下は皆后を咎めた。后は方や親族を優遇寵愛し、内外に封拜し、清要の官に遍く列ねた。また安楽公主を寵愛し立てようと欲し、そこで公主に開府を許す制を下し、官属を置かせた。太平公主の儀礼は親王に比した。長寧・安楽の二府は長史を置かないのみであった。宜城公主らは后の生んだ子でないため、それぞれ太平の半分に減じた。安楽は寵を恃んで驕り恣に、官を売り獄を鬻ぎ、その勢いは朝廷を傾け、常に自ら制勅を草し、その文を隠して帝に書くよう請い、帝は笑ってこれに従い、ついに省みなかった。また自ら皇太女に立てられるよう請い、帝は従わなかったが、また譴責を加えなかった。その署いた府僚は、皆猥り濫りで才なき者であった。また広く第宅を営み、侈靡甚だ過ぎた。長寧および諸公主は相次いで模倣し、天下は皆これを嗟怨した。

原文帝在房州時,常謂后曰:「一朝見天日,誓不相禁忌。」及得志,受上官昭容邪說,引武三思入宮中,升御床,與后雙陸,帝為點籌,以為歡笑,醜聲日聞於外。乃大出宮女,雖左右內職,亦許時出禁中。上官氏及宮人貴幸者,皆立外宅,出入不節,朝官邪佞者候之,恣為狎遊,祈其賞秩,以至要官。時侍中敬暉謀去諸武,武三思患之,乃結上官氏以為援,因得幸於后,潛入宮中謀議,乃諷百官上帝尊號為應天皇帝,后為順天皇后。帝與后親謁太廟,告謝受尊號之意。於是三思驕橫用事,敬暉、王同皎相次夷滅,天下咸歸咎於后。后方優寵親屬,內外封拜,遍列清要。又欲寵樹安樂公主,乃制公主開府,置官屬。太平公主儀比親王。長寧、安樂二府不置長史而已。宜城公主等以非后所生,各減太平之半。安樂恃寵驕恣,賣官鬻獄,勢傾朝廷,常自草制敕,掩其文而請帝書焉,帝笑而從之,竟不省視。又請自立為皇太女,帝雖不從,亦不加譴。所署府僚,皆猥濫非才。又廣營第宅,侈靡過甚。長寧及諸公主叠相仿效,天下咸嗟怨之。

神龍三年、節湣太子が死んだ後、宗楚客が百官を率いて上表し、后の号に順天翊聖皇后を加えた。景龍二年春、宮中で上意を窺い、妄りに后の衣箱から五色の雲が出たと称し、帝は画工にこれを図らせ、朝廷に示し、そこで大赦を天下に下し、百官の母妻にそれぞれ邑号を加えた。右驍衛将軍・知太史事の迦葉志忠が上表して言うには、

原文神龍三年,節湣太子死後,宗楚客率百僚上表,加后號為順天翊聖皇后。景龍二年春,宮中希旨,妄稱后衣箱中有五色雲出,帝使畫工圖之,出示於朝,乃大赦天下,百僚母妻各加邑號。右驍衛將軍、知太史事迦葉誌忠上表曰:

「昔、高祖が天命を受ける前、天下は『桃李子』を歌い、太宗が天命を受ける前、天下は『秦王破陣楽』を歌い、高宗が天命を受ける前、天下は『側堂堂』を歌い、天后が天命を受ける前、天下は『武媚娘』を歌った。伏して考えるに、応天皇帝が天命を受ける前、天下は『英王石州』を歌い、順天皇后が天命を受ける前、天下は『桑条韋也』を歌った。女の行いは六合の内に及び、首を揃え足を踏み、四時八節の会いに応じ、歌舞して共に歓ぶ。どうして『簫韶』九成・百獣率舞などと同年に語れようか。伏して考えるに、皇后は帝女の精を降し、国母として合し、蚕桑を主として天下を安んじ、后妃の徳はここに於いて盛んである。謹んで『桑条歌』十二篇を進め、伏して中外に宣布し、楽府に入れ、皇后が先蚕の時、以て宗廟を享けんことを請う」と。

原文「昔高祖未受命時,天下歌《桃李子》;太宗未受命時,天下歌《秦王破陣樂》;高宗未受命時,天下歌《側堂堂》;天后未受命時,天下歌《武媚娘》。伏惟應天皇帝未受命時,天下歌《英王石州》;順天皇后未受命時,天下歌《桑條韋也》。女行六合之內,齊首蹀足,應四時八節之會,歌舞同歡。豈與夫《簫韶》九成、百獸率舞同年而語哉!伏惟皇后降帝女之精,合為國母,主蠶桑以安天下,后妃之德,於斯為盛。謹進《桑條歌》十二篇,伏請宣布中外,進入樂府,皇后先蠶之時,以享宗廟。」

帝は喜んでこれを許し、特に志忠に荘一区・雑彩七百段を賜った。太常少卿鄭愔はまたこれを引き延ばして、舞詠に播き、また厚賞を受けた。兵部尚書宗楚客はまた補闕趙延禧に諷して符命を表陳させ、『桑条』を解釈して十八代の符と為し、天下に頒示し、諸史冊に編入するよう請わせた。帝は大いに喜び、延禧を諫議大夫に抜擢した。当時、上官昭容とその母鄭氏および尚宮柴氏・賀婁氏は、親党を用い立て、広く貨賂を納め、別に墨勅を降し、斜封して官を授け、あるいは臧獲屠販の類を出し、累ねて栄秩に居た。また女巫趙氏を引き入れて禁中に出入りさせ、隴西夫人に封じ、その勢いは上官氏と比するものがあった。

原文帝悅而許之,特賜誌忠莊一區、雜彩七百段。太常少卿鄭愔又引而申之,播於舞詠,亦受厚賞。兵部尚書宗楚客又諷補闕趙延禧表陳符命,解《桑條》以為十八代之符,請頒示天下,編諸史冊。帝大悅,擢延禧為諫議大夫。時上官昭容與其母鄭氏及尚宮柴氏、賀婁氏,樹用親黨,廣納貨賂,別降墨敕,斜封授官,或出臧獲屠販之類,累居榮秩。又引女巫趙氏出入禁中,封為隴西夫人,勢與上官氏為比。

三年冬、帝が親しく南郊で祭祀を行おうとした時、国子祭酒祝欽明・司業郭山惲が建議して云うには、「皇后もまた祭を助けるに合う」と。太常博士唐紹・蔣欽緒が上疏してこれに争った。尚書右僕射韋巨源が儀注を詳定し、遂に上意に迎合して欽明の議に協同した。帝はその言を納れ、后を亜献とし、なお宰相の女を斎娘として、籩豆を執らせた。欽明はまた安楽公主を終献とするよう請おうとしたが、時の議論に迫られて止めた。四年正月の望の夜、帝と后は微行して市裏に至り、燈を焼くのを観た。また宮女数千人を放ち、夜遊して縦観し、これによって外人と密かに通じ、逃げ帰らぬ者もあった。当時、国子祭酒葉静能は符禁の小術に善く、散騎常侍馬秦客は頗る医薬に閑(熟)く、光禄少卿楊均は調膳をもって侍奉し、皆宮掖に出入りした。均と秦客は皆后に寵愛を得、相次いで母の憂に服したが、十日で悉く旧職に復した。当時、安楽公主と駙馬武延秀・侍中紀処訥・中書令宗楚客・司農卿趙履温は互いに猜疑し、相次いで朋党を為した。

原文三年冬,帝將親祠南郊,國子祭酒祝欽明、司業郭山惲建議云:「皇后亦合助祭。」太常博士唐紹、蔣欽緒上疏爭之。尚書右僕射韋巨源詳定儀注,遂希旨協同欽明之議。帝納其言,以后為亞獻,仍以宰相女為齊娘,以執籩豆。欽明又欲請安樂公主為終獻,迫於時議而止。四年正月望夜,帝與后微行市裏,以觀燒燈。又放宮女數千,夜遊縱觀,因與外人陰通,逃逸不還。時國子祭酒葉靜能善符禁小術,散騎常侍馬秦客頗閑醫藥,光祿少卿楊均以調膳侍奉,皆出入宮掖。均與秦客皆得幸於后,相次丁母憂,旬日悉起復舊職。時安樂公主與駙馬武延秀、侍中紀處訥、中書令宗楚客、司農卿趙履溫互相猜貳,叠為朋黨。

六月、帝は毒に遇い暴崩した。時に馬秦客が侍疾していたので、議者は秦客及び安楽公主に罪を帰した。后は懼れ、秘して喪を発せず、親しい者を引いて禁中に入れ、自ら安んずる策を謀った。刑部尚書裴談・工部尚書張錫に政事を知らせ、東都を留守させた。また左金吾大将軍趙承恩及び宦者左監門衛大将軍薛崇簡に命じて兵五百人を率い筠州に往かせ、譙王重福に備えさせた。后は兄の太子少保韋溫と策を定め、温王重茂を立てて皇太子とし、諸府の兵五万人を召して京城に屯させ、左右の営に分け、然る後に喪を発した。少帝即位し、后を尊んで皇太后とし、朝に臨んで政を摂せしめた。韋温は内外の兵馬を総知し、宮掖を守援した。駙馬韋捷・韋濯は左右の屯営を分掌した。武延秀及び温の従子韋播・族弟韋璿・外甥高崇は、共に左右の羽林軍及び飛騎・万騎を典した。播・璿は先ず威厳を樹てんと欲し、官を拝する日に先だって万騎の数人を鞭打ったので、衆は皆怨み、用いられず。時に京城は恐懼し、相伝えて将に革命の事有らんとし、往々偶語し、人情安からず。臨淄王は薛崇簡・鐘紹京・劉幽求を率い、万騎及び総監を領し、丁未、玄武門より入り、左羽林軍に至り、将軍韋璿・韋播及び中郎将高崇を寝帳に斬った。遂に関を斬って入り、太極殿に至った。后は惶駭して殿前の飛騎営に遁れ入ったが、武延秀・安楽公主と共に皆乱兵に殺された。万騎を分遣してその党与の韋温・温の従子韋捷、及び族弟韋嬰を誅した。宗楚客・弟の晋卿、紀処訥、馬秦客、葉静能、楊均、趙履温、衛尉卿王哲、太常卿李𤤺、将作少匠李守質及び韋氏武氏の宗族は、少長無く皆斬った。后及び安楽公主の首を東市に梟した。翌日、勅して后の屍を収め、一品の礼をもって葬り、追貶して庶人とした。安楽公主は三品の礼をもって葬り、追貶して悖逆庶人とした。

原文六月,帝遇毒暴崩。時馬秦客侍疾,議者歸罪於秦客及安樂公主。后懼,秘不發喪,引所親入禁中,謀自安之策。以刑部尚書裴談、工部尚書張錫知政事,留守東都;又命左金吾大將軍趙承恩及宦者左監門衛大將軍薛崇簡帥兵五百人往筠州,以備譙王重福。后與兄太子少保溫定策,立溫王重茂為皇太子,召諸府兵五萬人屯京城,分為左右營,然後發喪。少帝即位,尊后為皇太后,臨朝攝政。韋溫總知內外兵馬,守援宮掖;駙馬韋捷、韋濯分掌左右屯營;武延秀及溫從子播、族弟璿、外甥高崇,共典左右羽林軍及飛騎、萬騎。播、璿欲先樹威嚴,拜官日先鞭萬騎數人,眾皆怨,不為之用。時京城恐懼,相傳將有革命之事,往往偶語,人情不安。臨淄王率薛崇簡、鐘紹京、劉幽求領萬騎及總監,丁未,入自玄武門,至左羽林軍,斬將軍韋璿、韋播及中郎將高崇於寢帳。遂斬關而入,至太極殿。后惶駭遁入殿前飛騎營,及武延秀、安樂公主皆為亂兵所殺。分遣萬騎誅其黨與韋溫、溫從子捷,及族弟嬰;宗楚客、弟晉卿,紀處訥,馬秦客,葉靜能,楊均,趙履溫,衛尉卿王哲,太常卿李{{!|𤤺|【王曳】}},將作少匠李守質及韋氏武氏宗族,無少長皆斬之。梟后及安樂公主首於東市。翌日,敕收后屍,葬以一品之禮,追貶為庶人;安樂公主葬以三品之禮,追貶為悖逆庶人。

上官昭容

原文上官昭容

中宗の上官昭容は、名は婉児、西台侍郎上官儀の孫である。父の庭芝は、儀と共に誅され、婉児は時に繈褓に在り、母に随って掖庭に配された。長ずるに及び、文詞有り、吏事に明習した。則天の時、婉児は旨に忤いて誅に当たるべきところ、則天はその才を惜しんで殺さず、ただその面に黥げいするのみであった。聖暦以後より、百司の表奏は多く参決を命じた。中宗即位し、また制命を専ら掌らせ、深く信任された。尋いで昭容に拝し、その母鄭氏を沛はい国夫人に封じた。婉児は既に武三思と淫乱し、制勅を下す毎に、多く事に因り武后を推尊して皇家を排抑した。節湣太子はこれを深く悪み、兵を挙げるに及び、肅章門に至り、閣を叩いて婉児を索めた。婉児は大言して曰く、「その此の意を観れば、即ち当に次に皇后及び大家を索めんとす」と。帝と后は遂に激怒し、並びに婉児を将いて玄武門楼に登り兵鋒を避けた。俄にして事定まる。婉児は常に昭文学士を広く置くことを勧め、盛んに当朝の詞学の臣を引き、数たび遊宴を賜い、詩を賦し唱和した。婉児は毎に帝及び后・長寧安楽二公主に代わり、数首並びに作り、辞甚だ綺麗で、時人皆これを諷誦した。婉児はまた吏部侍郎崔湜と通じ、政事を知らせた。湜は嘗て使を充てて商山の新路を開いたが、功半ばならずして中宗崩じ、婉児は遺制を草し、曲くその功を叙して褒賞を加えた。韋庶人の敗るるに及び、婉児もまた旗下に斬られた。玄宗はその詩筆を収め、文集二十巻を撰成せしめ、張説に命じてこれが序を作らせた。初め、婉児が孕みし時、その母は人が己に大秤を遺すを夢み、占者は曰く、「当に貴子を生み、而して国の権衡を秉るべし」と。既に女を生み、聞く者はその効無きを嗤ったが、婉児が内政を専ら秉るに及び、果たして占者の言の如し。

原文中宗上官昭容,名婉兒,西臺侍郎儀之孫也。父庭芝,與儀同被誅,婉兒時在繈褓,隨母配入掖庭。及長,有文詞,明習吏事。則天時,婉兒忤旨當誅,則天惜其才不殺,但黥其面而已。自聖歷已後,百司表奏,多令參決。中宗即位,又令專掌制命,深被信任。尋拜為昭容,封其母鄭氏為沛國夫人。婉兒既與武三思淫亂,每下制敕,多因事推尊武后而排抑皇家。節湣太子深惡之,及舉兵,至肅章門,扣閣索婉兒。婉兒大言曰:「觀其此意,即當次索皇后以及大家。」帝與后遂激怒,並將婉兒登玄武門樓以避兵鋒,俄而事定。婉兒常勸廣置昭文學士,盛引當朝詞學之臣,數賜遊宴,賦詩唱和。婉兒每代帝及后、長寧安樂二公主,數首並作,辭甚綺麗,時人咸諷誦之。婉兒又通於吏部侍郎崔湜,引知政事。湜嘗充使開商山新路,功未半而中宗崩,婉兒草遺制,曲敘其功而加褒賞。及韋庶人敗,婉兒亦斬於旗下。玄宗令收其詩筆,撰成文集二十卷,令張說為之序。初,婉兒在孕時,其母夢人遺己大秤,占者曰:「當生貴子,而秉國權衡。」既生女,聞者嗤其無效,及婉兒專秉內政,果如占者之言。

睿宗

原文睿宗

肅明皇后劉氏

原文肅明皇后劉氏

睿宗肅明順聖皇后劉氏は、刑部尚書劉徳威の孫である。父の延景は、陜州刺史、景雲元年、尚書右僕射・沛国公を追贈された。儀鳳年中、睿宗が藩に居た時、后を孺人として納れ、尋いで妃に立て、寧王憲・寿昌代国二公主を生んだ。文明元年睿宗即位し、冊して皇后とした。皇嗣に降るるに及び、后は従って妃に降った。長寿年中、昭成皇后と同譴を受け、則天に殺された。景雲元年、肅明皇后と追謚し、東都城南に招魂葬し、陵を恵陵と曰う。睿宗崩じ、橋陵に遷祔した。昭成太后の故を以て、太廟に入り配饗するを得ず、常に儀坤廟に別祀した。開元二十年、始めて太廟に祔した。

原文睿宗肅明順聖皇后劉氏,刑部尚書德威之孫也。父延景,陜州刺史,景雲元年,追贈尚書右僕射、沛國公。儀鳳中,睿宗居籓,納后為孺人,尋立為妃,生寧王憲、壽昌代國二公主。文明元年睿宗即位,冊為皇后;及降為皇嗣,后從降為妃。長壽中,與昭成皇后同被譴,為則天所殺。景雲元年,追謚肅明皇后,招魂葬於東都城南,陵曰惠陵。睿宗崩,遷祔橋陵。以昭成太后故,不得入太廟配饗,常別祀於儀坤廟。開元二十年,始祔太廟。

昭成皇后竇氏

原文昭成皇后竇氏

睿宗昭成順聖皇后竇氏は、将作大匠竇抗の曾孫である。祖の誕は、大理卿・莘国公。父の孝諶は、潤州刺史、景雲元年、太尉・邠国公を追贈された。后は姿容婉順、動くに礼則に循い、睿宗が相王の時孺人となり、甚だ礼異せられた。光宅元年、徳妃に立てられた。玄宗及び金仙・玉真二公主を生んだ。長寿二年、戸婢の団児に誣譖せられ、肅明皇后と厭蠱咒詛を為すとされた。正月二日、則天皇后に嘉豫殿に朝し、既に退きて同時に害に遇う。梓宮秘密にして、所在を知る莫し。睿宗即位し、昭成皇后と謚し、都城の南に招魂葬し、陵を靖陵と曰う。また京師に廟を立て、儀坤廟と号した。睿宗崩じ、后は帝母の重を以て、皇太后に追尊され、謚は仍旧、橋陵に祔葬し、神主を太廟に遷した。

原文睿宗昭成順聖皇后竇氏,將作大匠抗曾孫也。祖誕,大理卿、莘國公。父孝諶,潤州刺史,景雲元年,追贈太尉、邠國公。后姿容婉順,動循禮則,睿宗為相王時為孺人,甚見禮異。光宅元年,立為德妃。生玄宗及金仙、玉真二公主。長壽二年,為戶婢團兒誣譖與肅明皇后厭蠱咒詛。正月二日,朝則天皇后於嘉豫殿,既退而同時遇害。梓宮秘密,莫知所在。睿宗即位,謚曰昭成皇后,招魂葬於都城之南,陵曰靖陵。又立廟於京師,號為儀坤廟。睿宗崩,后以帝母之重,追尊為皇太后,謚仍舊,祔葬橋陵,遷神主於太廟。

玄宗

原文玄宗

廢后王氏

原文廢后王氏

玄宗の廢后王氏は、同州下邽の人、梁の冀州刺史王神念の後である。上が臨淄王の時、后を妃として納れた。上将に起事せんとし、頗る密謀に預かり、大業を賛成した。先天元年、皇后と為り、父の仁皎を太僕卿とし、累ねて開府儀同三司・邠国公を加えた。后の兄の守一は后に子無きを以て、常に廢立有るを懼れ、符厭の事を以て導いた。左道の僧明悟有りて南北斗を祭り、霹靂木を刻み、天地の字及び上の諱を書き、合してこれを佩かしめ、且つ祝して曰く、「此を佩くに子有らば、当に則天皇后と比すべし」と。事発し、上親しくこれを究め、皆験した。開元十二年秋七月己卯、制を下して曰く、「皇后王氏、天命祐せず、華にして実らず。獄訟を造起し、朝廷に朋扇し、将無きの心を見え、諱むべきの悪有り。焉んぞ敬って宗廟を承け、天下に母儀せんや。庶人に廢すべく、別院に安置す。家室に刑するは、昔の王に愧じ、国の大計の為め、蓋し已むを得ざるなり」と。守一は死を賜う。その年の十月、庶人卒し、一品の礼を以て無相寺に葬る。宝応元年、雪免し、復た皇后と尊ぶ。

原文玄宗廢后王氏,同州下邽人,梁冀州刺史神念之後。上為臨淄王時,納后為妃。上將起事,頗預密謀,贊成大業。先天元年,為皇后,以父仁皎為太僕卿,累加開府儀同三司、邠國公。后兄守一以后無子,常懼有廢立,導以符厭之事。有左道僧明悟為祭南北斗,刻霹靂木,書天地字及上諱,合而佩之,且祝曰:「佩此有子,當與則天皇后為比。」事發,上親究之,皆驗。開元十二年秋七月己卯,下制曰:「皇后王氏,天命不祐,華而不實。造起獄訟,朋扇朝廷,見無將之心,有可諱之惡。焉得敬承宗廟,母儀天下?可廢為庶人,別院安置。刑於家室,有愧昔王,為國大計,蓋非獲已。」守一賜死。其年十月,庶人卒,以一品禮葬於無相寺。寶應元年,雪免,復尊為皇后。

貞順皇后武氏

原文貞順皇后武氏

玄宗の貞順皇后武氏は、則天武后の従父兄の子である恒安王攸止の娘である。攸止が卒した後、后はなお幼く、例に従って宮中に入った。上(玄宗)が即位すると、次第に恩寵を受けるようになった。王庶人が廃された後、特に恵妃の号を賜わり、宮中の礼秩は、皇后と同一であった。生母の楊氏は、鄭国夫人に封ぜられた。同母弟の忠は、累進して国子祭酒となり、信は秘書監となった。恵妃は開元の初めに夏悼王及び懐哀王、上仙公主を産んだが、いずれも幼くして育たず、上は特に深く傷悼した。寿王瑁を生んだ時は、敢えて宮中で養わず、寧王憲に命じて外で養わせた。また盛王琦、咸宜・太華の二公主を生んだ。恵妃は開元二十五年十二月に薨じ、年四十余であった。下制して曰く、「存するに懿範あり、没するに寵章あり、豈に独り朝班に被るのみならんや、故に乃ち亜政に施す、以て裕を垂るべく、斯れ通典と為す。故恵妃武氏は、少にして婉順、長じて賢明、行は礼経に合い、言は図史に応ず。戚里の華冑を承け、後庭の峻秩に昇り、貴びて恃まず、謙にして益々光る。道を以て躬を飭み、和を以て下に逮し、四徳は其れ兼備して燦たり、六宮は是を則として諮る。法度は己に在り、珩佩を資とせず、躬儉は人を化し、率先して絺纮す。夙に奇表有り、将に正位を加えんとす、前後固く譲り、辞して受けず、奄かに淪歿に至り、載し深く感悼す、遂に玉衣の慶をして、生前に及ばず、象服の栄をして、徒らに身後に増す。貞順皇后を贈るべく、宜しく所司に令して日を択び冊命せしむべし。」と。敬陵に葬った。時に慶王琮らが斉衰の服を制することを請い、有司が忌日に務めを廃することを請うたが、上はいずれもこれを許さなかった。京中の昊天観の南に廟を立てたが、乾元の後、祠享も絶えた。

原文玄宗貞順皇后武氏,則天從父兄子恆安王攸止女也。攸止卒後,后尚幼,隨例入宮。上即位,漸承恩寵。及王庶人廢後,特賜號為惠妃,宮中禮秩,一同皇后。所生母楊氏,封為鄭國夫人。同母弟忠,累遷國子祭酒;信,秘書監。惠妃開元初產夏悼王及懷哀王、上仙公主,並繈褓不育,上特垂傷悼。及生壽王瑁,不敢養於宮中,命寧王憲於外養之。又生盛王琦,咸宜、太華二公主。惠妃以開元二十五年十二月薨,年四十餘。下制曰:「存有懿範,沒有寵章,豈獨被於朝班,故乃施於亞政,可以垂裕,斯為通典。故惠妃武氏,少而婉順,長而賢明,行合禮經,言應圖史。承戚里之華胄,升後庭之峻秩,貴而不恃,謙而益光。以道飭躬,以和逮下,四德粲其兼備,六宮咨而是則。法度在己,靡資珩佩;躬儉化人,率先絺纮。夙有奇表,將加正位,前後固讓,辭而不受,奄至淪歿,載深感悼,遂使玉衣之慶,不及於生前;象服之榮,徒增於身後。可贈貞順皇后,宜令所司擇日冊命。」葬於敬陵。時慶王琮等請制齊衰之服,有司請以忌日廢務,上皆不許之。立廟於京中昊天觀南,乾元之後,祠享亦絕。

楊貴妃

原文楊貴妃

玄宗の楊貴妃は、高祖は令本、金州刺史。父は玄琰、蜀しょく州司戸。妃は早く孤となり、叔父の河南府士曹玄璬に養われた。開元の初め、武恵妃が特に寵遇を受けていたため、王皇后は廃黜された。二十四年に恵妃が薨じ、帝は久しく悼惜し、後庭数千人いても意に適う者はいなかった。或る者が奏上して、玄琰の女が姿色当代に冠たり、召見を受くべしと。時に妃は道士の服を着て、太真と号した。進見するや、玄宗は大いに悦んだ。一年も経たぬうちに、礼遇は恵妃の如くであった。太真は姿質豊艶にして、歌舞に巧み、音律に通じ、智算人に過ぎた。毎に倩盼して承迎し、上意を動かした。宮中では「娘子」と呼び、礼数は実に皇后と同じであった。姉三人あり、皆才貌あり、玄宗は並びに国夫人の号を封じた。長を大姨といい、韓国に封じ、三姨を虢国に封じ、八姨を秦国に封じた。並びに恩沢を受け、宮掖に出入りし、勢天下に傾く。妃の父玄琰は、累贈して太尉・斉国公、母は涼国夫人に封ぜられ、叔父玄珪は光禄卿。再従兄の銛は鴻臚卿。锜は侍御史で、武恵妃の女太華公主を尚し、母の愛により、礼遇諸公主を過ぎ、甲第を賜わり、宮禁に連なった。韓・虢・秦の三夫人と銛・锜ら五家は、請托有る毎に、府県は承迎し、峻く詔勅の如く、四方の賂遺、其の門市の如し。

原文玄宗楊貴妃,高祖令本,金州刺史。父玄琰,蜀州司戶。妃早孤,養於叔父河南府士曹玄璬。開元初,武惠妃特承寵遇,故王皇后廢黜。二十四年惠妃薨,帝悼惜久之,後庭數千,無可意者。或奏玄琰女姿色冠代,宜蒙召見。時妃衣道士服,號曰太真。既進見,玄宗大悅。不期歲,禮遇如惠妃。太真姿質豐艷,善歌舞,通音律,智算過人。每倩盼承迎,動移上意。宮中呼為「娘子」,禮數實同皇后。有姊三人,皆有才貌,玄宗並封國夫人之號:長曰大姨,封韓國;三姨,封虢國;八姨,封秦國。並承恩澤,出入宮掖,勢傾天下。妃父玄琰,累贈太尉、齊國公;母封涼國夫人;叔玄珪,光祿卿。再從兄銛,鴻臚卿。锜,侍御史,尚武惠妃女太華公主,以母愛,禮遇過於諸公主,賜甲第,連於宮禁。韓、虢、秦三夫人與銛、锜等五家,每有請托,府縣承迎,峻如詔敕,四方賂遺,其門如市。

天宝五載七月、貴妃は微かな譴りにより楊銛の宅に送り返された。亭午に至るまで、上は之を思い、食らわず。高力士が上旨を探り知り、貴妃院への供帳・器玩・廩餼等の辦具百余車を送ることを請うと、上はまた御饌を分けてこれを送らせた。帝は動くごとに旨に称わず、暴怒して左右を笞撻した。力士が伏して奏し、貴妃を迎えて院に帰すことを請うた。是の夜、安興里の門を開いて内に入り、妃は地に伏して謝罪すると、上は歓然として慰撫した。翌日、韓・虢が食を進め、上は楽を作して終日、左右に暴に賜与有り。これより寵遇愈々隆盛となった。韓・虢・秦の三夫人には歳に千貫を給して、脂粉の資と為した。銛は三品・上柱国を授かり、私第に戟を立てた。姊妹昆仲五家は、甲第洞開し、宮掖に僭擬し、車馬僕御、京邑を照耀し、互いに誇尚した。毎に一堂を構えるに、費や千万を逾えるを計り、制度己より宏壮なるものを見れば、即ち撤して復た造り、土木の工、昼夜を舎てず。玄宗の頒賜及び四方の献遺は、五家一の如く、中使絶えず。開元已来、豪貴雄盛、楊氏の比の如きは無し。玄宗は凡そ遊幸有れば、貴妃は随侍せざるは無く、馬に乗れば則ち高力士が轡を執り鞭を授けた。宮中で貴妃院に供する織錦刺繡の工は、凡そ七百人、其の雕刻熔造は、又数百人。揚・益・嶺表の刺史は、必ず良工を求めて奇器異服を造作し、以て貴妃に奉り献賀し、因って顕位に擢居せしめられた。玄宗は每年十月華清宮に幸すと、国忠姊妹五家は扈従し、每家一隊を為し、一色の衣を著け、五家合隊すれば、照映して百花の煥発するが如く、而して遺鈿墜舄、瑟瑟珠翠、路に燦爛芳馥たり。而して国忠は虢国と私し、雄狐の刺を避けず、毎に入朝するに或いは鑣を聯ね方駕し、帷幔を施さず。毎に三朝の慶賀、五鼓に待漏するに、艶妝巷に盈ち、蠟炬昼の如し。而して十宅諸王百孫院の婚嫁は、皆韓・虢を因りて紹介と為し、仍り先に賂千貫を納めて奏請すれば、罔く旨に称わざるは無し。天宝九載、貴妃復た旨に忤い、外第に送り返された。時に吉温は中貴人と善くし、温が入奏して曰く、「婦人の智識遠からず、聖情に忤う有りと雖も、然れども貴妃久しく恩顧を受け、何ぞ宮中の一席の地を惜しみ、其の就戮せしめ、安んぞ外に辱を取りしむるを忍びんや」と。上は即ち中使張韜光に令して御饌を賜わしめ、妃は韜光に附いて泣き奏して曰く、「妾聖顔に忤い、罪万死に当たる。衣服の外は、皆聖恩の賜う所、遺留すべき無し、然れども髪膚は父母の所有なり」と。乃ち刀を引いて髪一繚を翦り附けて献ず。玄宗之を見て驚惋し、即ち力士をして召還せしむ。

原文皇場五載七月,貴妃以微譴送歸楊銛宅。比至亭午,上思之,不食。高力士探知上旨,請送貴妃院供帳、器玩、廩餼等辦具百餘車,上又分御饌以送之。帝動不稱旨,暴怒笞撻左右。力士伏奏請迎貴妃歸院。是夜,開安興里門入內,妃伏地謝罪,上歡然慰撫。翌日,韓、虢進食,上作樂終日,左右暴有賜與。自是寵遇愈隆。韓、虢、秦三夫人歲給錢千貫,為脂粉之資。銛授三品、上柱國,私第立戟。姊妹昆仲五家,甲第洞開,僭擬宮掖,車馬僕禦,照耀京邑,遞相誇尚。每構一堂,費逾千萬計,見制度宏壯於己者,即撤而復造,土木之工,不舍晝夜。玄宗頒賜及四方獻遺,五家如一,中使不絕。開元已來,豪貴雄盛,無如楊氏之比也。玄宗凡有遊幸,貴妃無不隨侍,乘馬則高力士執轡授鞭。宮中供貴妃院織錦刺繡之工,凡七百人,其雕刻熔造,又數百人。揚、益、嶺表刺史,必求良工造作奇器異服,以奉貴妃獻賀,因致擢居顯位。玄宗每年十月幸華清宮,國忠姊妹五家扈從,每家為一隊,著一色衣,五家合隊,照映如百花之煥發,而遺鈿墜舄,瑟瑟珠翠,燦爛芳馥於路。而國忠私於虢國而不避雄狐之刺,每入朝或聯鑣方駕,不施帷幔。每三朝慶賀,五鼓待漏,艷妝盈巷,蠟炬如晝。而十宅諸王百孫院婚嫁,皆因韓、虢為紹介,仍先納賂千貫而奏請,罔不稱旨。天寶九載,貴妃復忤旨,送歸外第。時吉溫與中貴人善,溫入奏曰:「婦人智識不遠,有忤聖情,然貴妃久承恩顧,何惜宮中一席之地,使其就戮,安忍取辱於外哉!」上即令中使張韜光賜御饌,妃附韜光泣奏曰:「妾忤聖顏,罪當萬死。衣服之外,皆聖恩所賜,無可遺留,然髮膚是父母所有。」乃引刀翦髮一繚附獻。玄宗見之驚惋,即使力士召還。

国忠は既に宰執に居り、兼ねて剣南節度を領し、勢次第に恣横となる。十載正月の望夜、楊家五宅が夜遊し、広平公主の騎従と西市門を争う。楊氏の奴が鞭を揮って公主の衣に及び、公主は馬より堕ち、駙馬程昌裔が主を扶け、因って数撾を及ぼす。公主が泣いて之を奏すと、上は楊氏の奴を殺すことを令し、昌裔もまた官を停められた。国忠の二男昢・暄、妃の弟鑒は、皆公主を尚し、楊氏一門は二公主・二郡主を尚す。貴妃の父祖に私廟を立て、玄宗は自ら家廟碑文を制し並びに書す。玄珪は累遷して兵部尚書に至る。天宝中、范陽節度使安禄山が大いに辺功を立て、上は深く之を寵す。禄山が来朝すると、帝は貴妃の姊妹に禄山と兄弟を結ばしむ。禄山は母として貴妃に事え、毎に宴賜するに、錫賚稠沓たり。禄山が叛するに及び、檄を露わして国忠の罪を数う。河北に盗起こり、玄宗は皇太子を以て天下兵馬元帥と為し、軍国事を監撫せしむ。国忠大いに懼れ、諸楊聚りて哭き、貴妃は土を銜んで陳請す、帝は遂に行内禅せず。潼関失守に及び、幸に従いて馬嵬に至る、禁軍大将陳玄禮が密かに太子に啓し、国忠父子を誅す。既にして四軍散ぜず、玄宗は力士を遣わして宣問す、対えて曰く「賊本尚在り」と、蓋し貴妃を指すなり。力士復た奏す、帝已むを得ず、妃と詔し、遂に仏室に縊死せしむ。時に年三十八、駅西の道側に瘞す。

原文國忠既居宰執,兼領劍南節度,勢漸恣橫。十載正月望夜,楊家五宅夜遊,與廣平公主騎從爭西市門。楊氏奴揮鞭及公主衣,公主墮馬,駙馬程昌裔扶主,因及數撾。公主泣奏之,上令殺楊氏奴,昌裔亦停官。國忠二男昢、暄,妃弟鑒,皆尚公主,楊氏一門尚二公主、二郡主。貴妃父祖立私廟,玄宗御制家廟碑文並書。玄珪累遷至兵部尚書。天寶中,范陽節度使安祿山大立邊功,上深寵之。祿山來朝,帝令貴妃姊妹與祿山結為兄弟。祿山母事貴妃,每宴賜,錫賚稠沓。及祿山叛,露檄數國忠之罪。河北盜起,玄宗以皇太子為天下兵馬元帥,監撫軍國事。國忠大懼,諸楊聚哭,貴妃銜土陳請,帝遂不行內禪。及潼關失守,從幸至馬嵬,禁軍大將陳玄禮密啟太子,誅國忠父子。既而四軍不散,玄宗遣力士宣問,對曰「賊本尚在」,蓋指貴妃也。力士復奏,帝不獲已,與妃詔,遂縊死於佛室。時年三十八,瘞於驛西道側。

上皇(玄宗)が蜀より還り、中使をして祭奠せしめ、詔して改葬を命ず。礼部侍郎李揆曰く、「龍武将士が国忠を誅したのは、その国に背き乱を兆したが故なり。今故妃を改葬すれば、将士の疑懼を恐れ、葬禮は行うべからず」と。乃ち止む。上皇密かに中使をして他所に改葬せしむ。初め瘞うずむ時、紫褥を以て之を裹みしに、肌膚は既に壞れ、而して香囊は尚在り。内官之を献ず。上皇之を視て淒惋し、乃ち其の形を別殿に図らしめ、朝夕之を視る。

原文上皇自蜀還,令中使祭奠,詔令改葬。禮部侍郎李揆曰:「龍武將士誅國忠,以其負國兆亂。今改葬故妃,恐將士疑懼,葬禮未可行。」乃止。上皇密令中使改葬於他所。初瘞時以紫褥裹之,肌膚已壞,而香囊仍在。內官以獻,上皇視之淒惋,乃令圖其形於別殿,朝夕視之。

馬嵬にて国忠を誅するや、虢国夫人難の作るを聞き、馬を奔らせて陳倉に至る。県令薛景仙人吏を率いて之を追ひ、竹林に走入る。先づ其の男裴徽及び一女を殺す。国忠の妻裴柔曰く、「娘子我が為に命を尽くせ」と。即ち之を刺殺す。已にして自刎すも死せず、県吏之を載せ、獄中に閉ぢこむ。猶吏に謂ひて曰く、「国家か、賊か」と。吏曰く、「互に之あり」と。血喉に凝りて卒す。遂に郭外に瘞す。韓國夫人の婿秘書少監崔峋、女は代宗の妃と為る。虢国の男裴徽は代宗の女延安公主を尚めし、女は譲帝の男に嫁す。秦國夫人の婿柳澄先に死し、男鈞は長清県主を尚し、澄の弟潭は肅宗の女和政公主を尚す。

原文馬嵬之誅國忠也,虢國夫人聞難作,奔馬至陳倉。縣令薛景仙率人吏追之,走入竹林。先殺其男裴徽及一女。國忠妻裴柔曰:「娘子為我盡命。」即刺殺之。已而自刎,不死,縣吏載之,閉於獄中。猶謂吏曰:「國家乎?賊乎?」吏曰:「互有之。」血凝至喉而卒,遂瘞於郭外。韓國夫人婿秘書少監崔峋,女為代宗妃。虢國男裴徽尚代宗女延安公主,女嫁讓帝男。秦國夫人婿柳澄先死,男鈞尚長清縣主,澄弟潭尚肅宗女和政公主。