旧唐書 志第三十 刑法

旧唐書

志第三十 刑法

古の聖人は、人の父母たる者、礼を制して崇敬を崇め、刑を立てて威を明らかにし、未然に防閑し、争心の将に起こらんとするを懼れた。故に軽重三典の異、宮墨五刑の差あり、時に度りて宜しきを施し、事に因りて制を議す。大なるは則ちこれを原野に陳べ、小なるは則ちこれを市朝に肆し、以て奸宄を禦ぎ、用て禍乱を懲らしむ。邦を興し理を致すに、此れより由らざるは罔し。淳樸既に消え、澆偽斯に起こりてより、刑は九に増え、章は三千に積む。凝脂次骨の峻有りと雖も、而も錐刀の末、尽く之を争う。漢より隋に至るまで、世に増損有りと雖も、而も能く折衷するは罕なり。隋の文帝は周・斉の旧政を参用し、以て律令を定め、苛惨の法を除き、務めて寛平に在り。比及晚年、漸く亦虐を滋す。よう帝は忌刻にして、法令尤も峻し。人、命に堪えず、遂に亡に至る。

高祖、初めに義師を太原に起こすや、即ち寛大の令を布く。百姓、隋の苛政に苦しみ、競いて来たりて帰附す。旬月の間、遂に帝業を成す。既に京城を平げ、法を約して十二条と為す。惟だ人を殺し、劫盗し、軍に背き、叛逆する者を制して死とし、余は並びに之を蠲除す。及び禅を受け、詔して納言劉文静と当朝の通識の士に、開皇の律令に因りて之を損益せしめ、大業の用いたる煩峻の法を尽く削る。又た五十三条の格を制し、務めて寛簡に在り、時に便なるを取る。尋いで又た勅して尚書左僕射裴寂・尚書右僕射蕭瑀及び大理卿崔善為・給事中王敬業・中書舎人劉林甫顔師古王孝遠・涇州別駕靖延・太常丞丁孝烏・隋の大理丞房軸・上将府参軍李桐客・太常博士徐上機等に、律令を撰定せしむ。大略開皇を以て准と為す。時に諸事始めて定まり、辺方尚お梗まる。時に救うの弊、未だ暇有らざる所有り。惟だ正五十三条の格を、新律に入れ、余は改むる所無し。武徳七年五月に至り奏上す。乃ち詔を下して曰く、

古より云わざる乎、「万邦の君、典有り則有り」と。故に九疇の叙は、夏の世に興り、両観の法は、隆周に大いに備わる。暴を禁じ奸を懲らし、風を弘め化を闡き、民を安んじ政を立つるは、此れを先と為す莫し。戦国より紛擾し、詐を恃み力を任せ、苛制煩刑、茲に競いて起こる。秦は天下を併せ、礼教を隳滅し、恣に酷烈を行い、蒸民を害虐す。宇内騒然たり、遂に以て顛覆す。漢氏は乱を撥ね、前軌を易えんと思い、復た務めて約法に従うと雖も、厳刑を蠲削すと雖も、尚お菹醢の誅を行い、猶錙銖の禁を設く。民を字するの道、実に未だ弘からず。刑措の風、茲を以て致す莫し。爰に魏・晋に及び、流弊相い沿い、寛猛方に乖き、綱維序を失う。下は上に凌ぎ替わり、政は散じ民は凋む。皆法令の湮訛し、条章の混謬するに由る。斯の後より、宇県瓜分し、戎馬交馳し、未だ典制に遑あらず。隋の世は、厘革すと云うと雖も、然れども損益定まらず、疏舛尚お多し。品式章程、能く甄備するは罕なり。微文曲致を加うるに、覧者は其の浅深に惑い、異例同科に、用者は其の軽重を殊にす。遂に奸吏をして巧に詆し、情に任せて与奪せしめ、愚民をして妄りに触れしめ、動もすれば羅網に陥らしむ。屡厘革を聞くも、卒に以て成ること無し。

朕は期を膺け籙を受け、区宇を甯済し、永言至治、興寐労と為す。千年の墜典を補い、百王の余弊を拯い、以て正本澄源し、流末を式清し、永く憲則を垂れ、後昆に範を貽さんことを思う。爰に群才を命じ、科律を修定せしむ。但だ今古は務を異にし、文質同じからず。喪乱の後、事は曩代に殊なり。機に応じ変に適い、弊を救うは斯に在り。是を以て繁省を斟酌し、時宜に合するを取り、差遺を矯正し、務めて体要に従う。茲に歴稔に迄り、撰次始めて畢る。宜しく四方に下し、即ち頒用を令すべし。庶くは吏曹をして簡粛ならしめ、懸石の多きを取らず、奏讞平允にして、錐刀の末を競わず。残に勝ち殺を去るは、此れに於て遠からず。

是に於て天下に頒行す。

及び太宗即位し、又た長孫無忌・房玄齢と学士法官を命じ、更に厘改を加う。戴冑・魏徴又た旧律令重きを言う。時に絞刑の属五十条を議す。死罪を免れ、其の右趾を断つ。応に死すべき者多く全活を蒙る。太宗尋いで又た其の刑を受くるの苦を湣み、侍臣に謂いて曰く、「前代肉刑を行わず久し。今忽ち人の右趾を断つは、意甚だ忍びず。」諫議大夫王珪対えて曰く、「古は肉刑を行い、以て軽罪と為す。今陛下は死刑の多きを矜み、断趾の法を設く。格は本死に合う。今にして生を獲る。刑者は幸いに命を全うす。豈に其の一足を去るを憚らんや。且つ人の之を見る者、甚だ足りて懲誡と為す。」上曰く、「本寛きを以てと為す。故に行う。然れども毎に惻愴を聞き、能く懐を忘れず。」又た蕭瑀・陳叔達等に謂いて曰く、「朕は死者は再生す可からずと為し、矜湣有らんことを思い、故に死罪五十条を簡び、断右趾に従う。朕復た其の痛を受くるを念い、極めて忍びざる所なり。」叔達等咸く曰く、「古の肉刑は、乃ち死刑の外に在り。陛下は死刑の内に於て、断趾に改め従うは、便ち是れ生を以て死に易うるなり。足りて寛法と為す。」上曰く、「朕の意は此の如しと為す。故に行わんと欲す。又た上書有りて此れ便ならずと言う。公更に之を思うべし。」其の後蜀王法曹参軍裴弘献又た律令の時に便ならざる者四十余事を駁す。太宗、参掌をして之を刪改せしむ。弘献は是に於て玄齢等と建議し、古の五刑は、刖其の一に居ると為す。及び肉刑廃れて、死・流・杖・笞凡そ五等を制し、以て五刑に備う。今復た刖足を設くれば、昌に六刑と為す。死を減ずるは寛弘に在り、刑を加うるは又た煩峻を加う。乃ち八座と定議を定めて奏聞す。是に於て又た断趾法を除き、加役流三千里、居作二年に改む。

又た旧条疏に、兄弟分れた後は、廕相及ばず、連坐して俱に死し、祖孫は配没す。会うに同州の人房強有り。弟は統軍として岷州に任じ、謀反を以て誅に伏す。強は坐に従うべし。太宗嘗て囚徒を録し、其の将に死せんとするを湣み、之が為に容を動かす。顧みて侍臣に謂いて曰く、「刑典仍用するは、蓋し風化未だ洽わざるの咎なり。愚人何の罪か有りて、重刑を肆うるや。更に朕の不徳を彰すなり。刑を用うるの道は、当に事理の軽重を審らかにし、然る後に之に刑罰を加うべし。何ぞ其の本を察せずして一概に誅を加うる有らん。刑を恤い人命を重んずる所以に非ざるなり。然らば則ち反逆に二有り。一は興師動衆するを為し、一は悪言法を犯すを為す。軽重差有り。而るに連坐皆死すは、豈に朕の情の安んずる所ならんや。」更に百僚をして詳議せしむ。是に於て玄齢等復た議を定めて曰く、「礼を案ずるに、孫は王父の屍と為す。令を案ずるに、祖は孫を廕するの義有り。然らば則ち祖孫は親重くして兄弟は属軽し。応に重きは反って流し、合わすに軽きは翻って死すは、礼に据り情を論ずれば、深く未だ愜わず。今律を定むるに、祖孫と兄弟の縁坐は、俱に配没す。其れ悪言を以て法を犯し能く害を為さざる者は、情状稍軽し。兄弟は死を免れ、配流と為すを允とす。」之に従う。是より古の死刑に比すれば、殆ど其の半を除く。

玄齢らは遂に法司と共に律五百条を定め、十二巻に分けた。第一は名例、第二は衛禁、第三は職制、第四は戸婚、第五は廐庫、第六は擅興、第七は賊盗、第八は闘訟、第九は詐偽、第十は雑律、第十一は捕亡、第十二は断獄である。笞・杖・徒・流・死の五刑がある。笞刑は五条、笞十より五十まで。杖刑は五条、杖六十より杖一百まで。徒刑は五条、徒一年より半年ずつ加え、三年まで。流刑は三条、流二千里より五百里ずつ加え、三千里まで。死刑は二条、絞・斬である。総じて二十等である。また議・請・減・贖・当・免の法八つがある。第一は議親、第二は議故、第三は議賢、第四は議能、第五は議功、第六は議貴、第七は議賓、第八は議勤である。八議に該当する者は、死罪を犯した場合、いずれもその罪状及び応議の状況を条書きして奏請し、議定して奏裁を仰ぐ。流罪以下の場合は一等を減ずる。もし官爵五品以上及び皇太子妃の大功以上の親、応議者の周親以上が死罪を犯した場合は上請する。流罪以下の場合も一等を減ずる。もし七品以上の官及び官爵により請ができる者の祖父母・父母・兄弟・姉妹・妻・子孫が流罪以下を犯した場合は、各々一等を減ずる。もし応議・請・減及び九品以上の官、若しくは官品により減ずることができる者の祖父母・父母・妻・子孫が流罪以下を犯した場合は、贖うことを聴す。その贖法は、笞十は銅一斤を贖い、一斤ずつ加え、杖一百に至れば銅十斤を贖う。これより以上は十斤ずつ加え、徒三年に至れば銅六十斤を贖う。流二千里の者は銅八十斤、流二千五百里の者は銅九十斤、流三千里の者は銅一百斤を贖う。絞・斬の者は銅一百二十斤を贖う。また官をもって罪に当てることを許す。官をもって徒に当てる者は、五品以上で私罪を犯した者は一官で徒二年に当て、九品以上は一官で徒一年に当てる。もし公罪を犯した者は各々一年を加える。官をもって流に当てる者は、三流ともに徒四年に比し、なお各々現任を解く。除名の者は徒三年に比す。免官の者は徒二年に比す。免所居官の者は徒一年に比す。また十悪の条がある。第一は謀反、第二は謀大逆、第三は謀叛、第四は悪逆、第五は不道、第六は大不敬、第七は不孝、第八は不睦、第九は不義、第十は内乱である。その十悪を犯した者は、議請の例に依ることを得ず。年七十以上・十五以下及び廃疾の者が流罪以下を犯した場合も、贖うことを聴す。八十以上・十歳以下及び篤疾の者が反逆・殺人で応死の罪を犯した場合は上請し、盗及び傷人の場合も収贖し、その他は全て論ぜず。九十以上・七歳以下は、死罪があっても刑を加えず。隋代の旧律に比べ、大辟を減ずること九十二条、流を入れて徒とすることを減ずること七十一条。その徒に当たる法は、ただ一官を奪うのみで、除名の人はなお士伍と同じである。凡そ煩を削ぎ蠹を去り、重きを変じて軽きとする者は、数え切れない。

また令一千五百九十条を定め、三十巻とした。貞観十一年正月、これを頒下した。また武徳・貞観以来の勅格三千余件を刪定し、七百条を留めて定め、格十八巻とし、本司に留めて施行させた。今古を斟酌し、煩を除き弊を去り、甚だ寛簡にして人の便に適うものである。尚書省諸曹を以てその目とし、初め七巻とした。その曹の常条で、ただ本司に留めるものは、別に『留司格』一巻とした。蓋し当時の制勅を編録し、永く法則と為し、故事と為したのである。『貞観格』十八巻、房玄齢ら刪定。『永徽留司格』十八巻、『散頒格』七巻、長孫無忌ら刪定、永徽年中、また源直心らに刪定させ、ただ官号曹局の名を改易し、篇目は易えなかった。『永徽留司格後本』、劉仁軌ら刪定。『垂拱留司格』六巻、『散頒格』三巻、裴居道刪定。『太極格』十巻、岑羲ら刪定。『開元前格』十巻、姚崇ら刪定。『開元後格』十巻、宋けいら刪定。皆尚書省二十四司を以て篇目とす。凡そ式三十三篇あり、また尚書省列曹及び秘書・太常・司農・光禄・太僕・太府・少府及び監門・宿衛・計帳を以てその篇目と名付け、二十巻とした。『永徽式』十四巻、『垂拱式』・『神龍式』・『開元式』並びに二十巻、その格令を刪定するは同じ。

太宗はまた在京の現禁囚について制し、刑部は毎月一奏し、立春から秋分まで死刑の奏決をしてはならないとした。その大祭祀及び致斎・朔望・上下弦・二十四気・雨未晴・夜未明・断屠日月及び假日には、並びに死刑の奏決をしてはならない。赦のある日には、武庫令が金雞及び鼓を宮城門外の右に設け、囚徒を闕前に集めさせ、鼓を千声撾き終わってから、詔を宣してこれを釈放する。その赦書は諸州に頒ち、絹に書写して行下する。また囚を繋ぐ具には、枷・杻鉗・鎖があり、皆長短広狭の制があり、罪の軽重を量り、等級に応じて用いる。その杖は皆節目を削り去り、長さ三尺五寸である。訊囚杖は、大頭の径三分二厘、小頭二分二厘。常行杖は、大頭二分七厘、小頭一分七厘。笞杖は、大頭二分、小頭一分半である。その笞を決する者は、腿に分けて受ける。杖を決する者は、背・腿・臀に分けて受ける。及び数等を須いて拷訊する場合も同じである。その囚を拷するのは三度を過ぎず、総数二百を過ぎてはならない。杖罪以下の場合は、犯した罪の数を過ぎてはならない。諸々罪を断じて正条がない場合、その罪を出すべきものは、則ち重きを挙げて以て軽きを明らかにし、その罪に入れるべきものは、則ち軽きを挙げて以て重きを明らかにする。加と称するものは、重き次に就き、減と称するものは、軽き次に就く。ただ二死三流は、同じく一減と為し、死に加えるに至ることは得ない。獄を断じて出入に失する者は、その罪を以てこれを罪する。失入の者は各々三等を減じ、失出の者は各々五等を減ずる。

初めに、太宗は古の時代に獄を断ずるには必ず三槐九棘の官に訊ねたと聞き、大辟の罪については中書・門下の五品以上及び尚書らに議させた。その後、河内の人李好徳が風疾により目が眩み乱れて妖妄の言葉を発したので、詔してその事を按じさせた。大理丞張蘊古が奏上して、好徳は癲病の徴があり、法に照らして罪に当たらないと述べた。治書侍御史権万紀が弾劾して、蘊古の本貫は相州であり、好徳の兄の厚徳がその刺史であって、情は阿諛して放縦にあるとし、奏事が実情に合わないと述べた。太宗は「朕は常に囚人を獄内に禁じているのに、蘊古は彼と囲碁を打った。今また好徳を阿諛して放縦するとは、朕の法を乱すものである」と言い、遂に東市で斬首した。その後これを悔いた。また交州都督の盧祖尚が、旨に逆らったとして朝堂で斬られ、帝もまた追悔した。制を下して、死刑を決するには、たとえ即時に殺せと命じても、なお三度覆奏せよとした。まもなく侍臣に言った、「人命は最も重く、一度死ねば再び生き返ることはない。昔、王世充が鄭頲を殺し、後にこれを悔いて追い及ばなかった。今春、府史が取った財は多くないのに、朕が怒ってこれを殺し、後になってまた悔いた。皆、思慮が審らかでなかったためである。近頃囚人を決するには、三度覆奏するとはいえ、須臾の間に三度の奏上を終えてしまい、まったく考える暇がない。三度奏上しても何の益があろうか。今後は、二日の間に五度覆奏し、諸州には三度覆奏させよ。また古の時代には刑を行う時、君主は楽を徹し膳を減らした。朕は今、庭に常設の楽はなく、何を徹すべきか分からないが、食事の際には酒肉を食さない。今後は、尚食と連絡を取り、刑を行う日には酒肉を進めないようにせよ。内教坊及び太常は、ともに教えを停止すべきである。また、曹司が獄を断ずるには、多く律文に拠っている。情に酌むべきところがあっても、法に違えることを敢えてせず、文を守って罪を定めるため、冤罪がある恐れがある。今後、門下が覆理する際、法に拠れば死に合うが情に酌むべき者は、その状を録して奏上せよ」。これにより全活される者が甚だ多かった。その五覆奏は、決する前の一日・二日に覆奏し、決する日にまた三度覆奏した。ただ悪逆を犯した者は、一覆奏のみとし、これを令に著した。

太宗が張蘊古を誅した後、法官は罪を軽くすることを戒めとし、時に罪を重くする過ちがあっても、また罪を加えなかった。これにより刑網は甚だ密になった。帝はかつて大理卿の劉徳威に問うた、「近頃刑網がやや密になっているのは、何故か」。徳威が答えて言うには、「律文には、罪を重くする過ちは三等を減じ、罪を軽くする過ちは五等を減ずるとある。今、罪を重くする過ちがあっても無罪であり、罪を軽くする過ちがあれば直ちに大罪を獲る。これにより吏は皆、深く文を穿鑿するのである」。太宗はその言を然りとした。これにより出入に過ちがあった者には、律文に依らせ、獄を断ずる者は次第に平允になった。十四年、また流罪を三等に制し、里数に限らず、辺境の悪しき州に配する量を定めた。その後、寛典は存したが、犯す者は次第に少なくなった。

高宗が即位し、貞観の故事に従い、刑を恤むことに務めた。かつて大理卿の唐臨に獄に繋がれている囚の数を問うた。臨が答えて言うには、「見囚は五十余人で、ただ二人が死に合うのみです」。帝は囚の数が全く少ないことを喜び、顔色に表れた。永徽初年、太尉長孫無忌・司空李勣・左僕射于志寧・右僕射張行成・侍中高季輔・黄門侍郎宇文節柳奭・右丞段宝玄・太常少卿令狐徳棻・吏部侍郎高敬言・刑部侍郎劉燕客・給事中趙文恪・中書舎人李友益・少府丞張行実・大理丞元紹・太府丞王文端・刑部郎中賈敏行らに詔して、共に律令格式を撰定させた。旧制で不便なものは、皆随って刪改した。遂に格を二部に分けた。曹司の常務を『留司格』とし、天下が共にするものを『散頒格』とした。その『散頒格』は州県に下し、『留司格』はただ本司に留めて行用させた。三年、詔して言う、「律学に定まった疏がなく、毎年挙げる明法は、遂に拠るべき準がない。宜しく解律の人を広く召して条の義疏を奏聞せしめよ。なお中書・門下に監定させよ」。ここにおいて太尉趙国公無忌・司空英国公勣・尚書左僕射兼太子少師監修国史燕国公志寧・銀青光禄大夫刑部尚書唐臨・太中大夫守大理卿段宝玄・朝議大夫守尚書右丞劉燕客・朝議大夫守御史中丞賈敏行らが参撰して『律疏』を成し、三十巻とし、四年十月に奏上して天下に頒った。これより獄を断ずる者は皆、疏を引いて分析した。永徽五年五月、上は侍臣に言った、「獄訟が繁多なのは、皆刑罰が枉濫による。故に刑は成るものと言い、一度成れば変えることができない。末代の獄を断ずる人は、皆苛刻を以て明と為す。これにより秦氏の網は秋の荼の如く密で、罪を獲る者が多かった。今、天下に事無く、四海安んじ、公らと共に寛政を行いたい。今日の刑罰に、枉濫は無いか」。無忌が答えて言うには、「陛下が刑法を寛平に得ようとされても、臣下はなお聖意を識りません。この法の弊れは久しく来り、今日に止まりません。もし情が国を体するにあれば、即ち共に癡人と号し、意が深文にあれば、便ち好吏と称します。これにより罪は杖に合うといえども、必ず徒に遣わそうとし、理に生かすべきところがあっても、務めて死に入れようとします。前人を憎むのではなく、死刑に陥れるのです。陛下が憐れんで放てと命じられても、法司もまた固く請うべきですが、ただ陛下の喜怒が妄りに人に加わらなければ、刑罰は自然に適中します」。上はこれを然りとした。永徽六年七月、上は侍臣に言った、「律は比附に通じ、条例が多すぎる」。左僕射志寧らが答えて言う、「旧律は多く比附して事を断じたので、やや解し難かった。科条は極めて多く、数は三千に至った。隋の日に再び定め、ただ五百を留めた。事類の相似たるものを以て、比附して科断した。今日停止するものは、即ち隋律を参取して修易したものである。条章既に少なく、極めて省便である」。

龍朔二年、官号を改易し、これにより司刑太常伯源直心・少常伯李敬玄・司刑大夫李文礼らに格式を重ねて定めさせたが、ただ曹局の名を改めただけで、篇第は易えなかった。麟徳二年に奏上した。儀鳳年中に至り、官号が旧に復し、また左僕射劉仁軌・右僕射戴至徳・侍中張文瓘・中書令李敬玄・右庶子郝処俊・黄門侍郎来恆・左庶子高智周・右庶子李義琰・吏部侍郎裴行儉馬載・兵部侍郎蕭徳昭裴炎・工部侍郎李義琛・刑部侍郎張楚・金部郎中盧律師らに詔して格式を刪緝させた。儀鳳二年二月九日、撰定して奏上した。先に詳刑少卿の趙仁本が『法例』三巻を撰し、これを引いて獄を断じたが、時の議論もこれを折衷と為した。後に高宗がこれを覧て、煩文で不便であると考えた。そこで侍臣に言った、「律・令・格・式は天下の通規であり、朕の庸虚が創制できるものではない。皆、武徳の際、貞観以来、宸衷に取って定め、衆議を参詳し、条章備わり挙がり、軌躅昭然としている。事に臨んでこれに遵って行えば、自ずから尽くすことができない。何故更に例を作る必要があろうか。これにより触れる度に疑いが多い。これを計るに、この因循は今日に適するものではない。速やかに轍を改め、更に然るべからず」。これより『法例』は遂に廃されて用いられなかった。

則天武后が朝政を執るに当たり、初めは大いに人心を収めんと欲した。垂拱の初年、銅を熔かして匭(投書箱)を作らせ、四面に門を設け、それぞれの方角の色に依り、一つの室を共にした。東面は延恩匭と名付け、賦頌を献上し及び官爵を求めることを許す者の封表を投ずる。南面は招諫匭と曰い、時政の得失を言い及び直言して諫諍する者を投ずる。西面は申冤匭と曰い、罪を得て冤濫する者を投ずる。北面は通玄匭と曰い、玄象災変及び軍謀秘策ある者を投ずる。毎日これを朝堂に置き、以て天下の表疏を収む。既に出でたる後、不逞の徒、或いは陰私を攻撃し、朝政を謗訕する者に至る。後に乃ち中書・門下の官一人をして、専ら其の投ずる状を監せしめ、仍って識官を責め、然る後に進封を許し、之を行いて今に至る。則天は又内史裴居道・夏官尚書岑長倩・鳳閣侍郎韋方質と刪定官袁智弘等十余人に命じ、格式を刪改し、計帳及び勾帳式を加え、旧式を通じて二十巻を成す。又武徳以来、垂拱以前の詔敕で時に便なるものを以て、『新格』二巻に編し、則天自ら序を製す。其二巻の外、別に六巻を編し、当司の行用に堪うるものと為し、『垂拱留司格』と為す。時に韋方質は法理に詳練し、又其の事を咸陽尉王守慎に委ね、又経理の才有り、故に『垂拱格』・『式』は、議者之を詳密と称す。其の律令は唯二十四条を改むるのみ、又不便なる者あり、大抵旧に依る。

然るに則天は用刑に厳しく、徐敬業の乱が起こり、及び豫・博の兵が起きたる後のこと、人心の動揺を恐れ、威を以て天下を制せんと欲し、漸く酷吏を引き入れ、務めて深文を令し、以て刑獄を案ず。長寿年間に上封事して嶺表の流人に陰謀叛逆する者ありと言う者有り、乃ち司刑評事萬國俊を遣わし監察御史を摂めて就きて之を案ぜしめ、若し反状を得ば、斬決す。國俊は広州に至り、遍く流人を召し、之を水曲に擁し、以て次第に戮を加う。三百余人、一時に並びて命を失い、然る後に鍛錬して曲げて反状を成す。乃ち更に誣奏して云く、「諸道の流人、多く怨望有り。若し推究せざれば、変を為すこと遠からず」と。則天は深く其の言を然りとす。又摂監察御史劉光業・王德壽・鮑思恭・王処貞・屈貞筠等を命じ、分かれて剣南・黔中・安南・嶺南等六道に往き、流人を按鞫せしむ。光業の所在に殺戮す。光業は九百人を誅し、德壽は七百人を誅し、其の余の少なき者も数百人を減ぜず。亦雑犯及び遠年の流人も有り、亦枉く禍に及ぶ。時に周興・来俊臣等、相次いで制を受けて大獄を推究す。乃ち都城麗景門内に於いて、別に推事使院を置き、時人之を「新開獄」と謂う。俊臣は又侍御史侯思止・王弘義・郭霸・李敬仁、評事康暐・衛遂忠等と、告事する者数百人を招集し、共に羅織を為し、以て良善を陥る。前後枉く殺害に遭う者、勝えず数うべからず。又『告密羅織経』一巻を造り、其の意旨は皆前人を網羅し、織りて反状を成す。俊臣は毎に囚を鞫うるに、軽重を問わず、多く醋を以て鼻に灌ぐ。禁地の牢中に、或いは之を甕に盛り、火を以て囲繞し炙る。兼ねて其の糧餉を絶ち、衣絮を抽いて以て之を啖う者有るに至る。其の作る所の大枷、凡そ十号有り:一に曰く定百脈、二に曰く喘不得、三に曰く突地吼、四に曰く著即承、五に曰く失魂膽、六に曰く実同反、七に曰く反是実、八に曰く死猪愁、九に曰く求即死、十に曰く求破家。又糞穢に寝処せしめ、諸の苦毒を備う。毎に制書有りて囚徒を寬宥するに、俊臣は必ず先ず獄卒を遣わし、尽く重罪を殺し、然る後に宣示す。是の時海内慴懼し、道路目を以てす。麟台正字陳子昂上書して曰く、

臣聞く、古の天下を禦ぐる者は、其の政に三有り:王者は之を化し、仁義を用うるなり;霸者は之を威し、権智を任ずるなり;強国は之を脅し、刑罰を務むるなり。是を以て化すこと足らざれば、然る後に之を威し、威すこと足らざれば、然る後に之を刑す。故に刑に至っては、則ち王者の貴ぶ所に非ざるなり。況んや光宅天下せんと欲し、功を上皇に追い、専ら刑殺を任じて以て威断と為すは、策の失う者と謂うべし。

臣伏して睹るに、陛下の聖徳聰明、太古に心を遊ばし、将に宇宙を制静し、黎民を保乂せんとし、号令を発し施すこと、誠慊より出ず。天下の蒼生、聖風を懸望せざる莫く、神化を見んことを冀い、道德を以て政と為し、将に陛下に侍らんとす。臣聞く、聖人出ずれば、必ず驅除有り、蓋し天人の符、休命に応ずるなり。日者東南の微孽、敢えて乱常を謀る。陛下天に順いて行誅し、罪悪咸く伏す、豈に天意陛下の威武の功を彰さんと欲するに非ざらんや!而して執事者天心を察せず、以て人意と為し、其の首乱唱禍を悪み、法合誅屠すべく、奸源を息めんとし、其の党与を窮む。遂に陛下をして大いに詔獄を開かしめ、重ねて厳刑を設け、以て奸を懲らしめ、天下に観せしむ。逆党の親属及び其の交遊、嫌疑に渉る有り、辞相連及し、窮捕考校せざる莫く、枝葉蟠拿す。大なるは或いは流血し、小なるは魑魅に禦う。奸人の熒惑に至りては、険に乗り相誣い、疑似を糾告し、爵賞を冀図し、闕下に叫ぶ者、日に数有り。時に朝廷徨徨として、自ら固むる能わず、海内傾聴し、以て相驚恐す。頼むに陛下仁慈に、其の危懼を憫み、恩詔を賜い、其の大功已上を許し、一切論ずる勿からしむ。人時に泰を獲、生を再造すと謂う。愚臣窃に忻然として以て、陛下の聖明、天の機を得たるを賀す。議者の異見有り、又前図を執り、比者の刑獄、紛紛として復た起るを謂わざるなり。陛下天意を深思せずして、以て休期に順わず、尚以て督察を理と為し、威刑を務めと為し、前者の詔をして、人に信ぜられしめざる。愚臣昧たり、窃に五帝・三王の罪を伐ち人を吊うの意に非ざるを恐る。

臣がひそかに観察するに、当今天下の百姓は、安寧を思うこと久しい。かつて北胡が塞を侵し、西戎が辺を寇した際には、兵革相屠り、ほぼ十年を経た。関・河より北は、幽・燕へと輸送し、秦・蜀の西は、湟・海へと馳せた。当時、天下は疲弊極まりなかったか。重ねて大兵の後に、凶年に遭い、流離し飢餓し、死喪することほぼ半ばに及んだ。幸い陛下の至聖の徳により、兆民を撫寧し、辺境は安らぎを得、中国は事なく、陰陽大いに順い、年穀累ねて登り、天下の父子、始めて相養うを得たのである。揚州に禍を構えて、ほぼ五十日、しかるに海中は晏然として、微塵も動かず、これ天下の蒸庶が凶乱を厭うにあらざるか。臣はこれをもって占うに、百姓は安寧を思うこと久しいのである。今、陛下は玄黙を務めて疲民を救わず、かえって威刑を任せてその望みを失わせ、察察たるをもって政と為し、寰区を粛理せんと欲する。愚臣暗昧、ひそかに大いに惑う。かつ臣が聞くところによれば、刑は政の末節である。先王は暴を禁じ乱を厘するに、已むを得ずしてこれを用いた。今、天下幸いに安らかで、万物は泰平を思い、陛下は末節の法をもって、平人を察理せんとされる。愚臣は適変随時の義に非ざると思う。近年以来、諸方の告密を見るに、囚人は累百千輩に及ぶ。大抵告ぐるところは、皆揚州を名とし、その窮竟に及べば、百に一つの実もない。陛下は仁恕にして、また法を屈してこれを容れ、傍ら他事を訐るも、また推劾せしめられる。遂に奸臣の党をして、快意相讎せしめ、睚眥の嫌あれば、即ち密有りと称せしめる。一人被告すれば、百人獄に満つ。使者の推捕するや、冠蓋市の如し。あるいは陛下が一人を愛して百人を害すると謂い、天下喁喁として、寧所を知る莫し。

臣が聞くところによれば、聖人に非ざれば、外患無くば必ず内憂有り、物理自然のなりである。臣は古遠を以て言うことを敢えず、隋を指して説くことを請う。臣が長老の云うところを聞けば、隋の末世、天下は猶平らかであった。煬帝は恭しからず、威武を窮毒し、皇極に居ることを厭い、自ら元戎を総べ、百万の師を以て、遼海に兵を観し、天下始めて騒然とした。遂に楊玄感をして不臣の勢を挟み、大盗の心を有らしめ、人謀に因りて、皇業を窃まんと欲せしめた。中夏に兵を称し、将に洛陽を拠らんとするに及んで、哮寔の勢宇宙を傾けた。然るに乱未だ月を逾えずして、頭足異処す。何となれば、天下の弊、未だ土崩せず、蒸人の心、猶楽業を望んだからである。煬帝は悟らず、人機を暗忽にした。自ら元悪既に誅せられ、天下に巨猾無しと為し、皇極の任は、刑罰を以てこれを理すべしとした。遂に兵部尚書樊子蓋をして専ら屠戮を行わしめ、党与を大いに窮め、海内の豪士、殃に罹らざる無からしめた。遂に人を殺すこと麻の如く、血を流して沢と成し、天下靡然として乱を為さんと思った。ここにおいて蕭銑・朱粲は荊南より起り、李密・竇建徳は河北に乱れた。四海雲の如く揺れ、遂に並び起って隋族を亡ぼした。豈に哀しまざらんや。長老今に至るまでこれを談じ、委曲かくの如し。

三代夏・殷の興亡を観、以下秦・漢・魏・晋の理乱に至るまで、皆毒刑を以て敗壊に致したものでないものはない。大獄一たび起これば、濫れ無からざるを得ない。何となれば、刀筆の吏は大方を識ること寡く、断獄の能者は、急刻に名在り。文深く網密なれば、則ち共に至公と称し、爰に人主に及んでも、またその法を奉ずると謂う。ここにおいて利は人を殺すに在り、害は平恕に在り、故に獄吏は相誡めて、殺を以て詞とす。人を憎むに非ざるなり、己に利有るが故である。故に上は人主の旨を希い、栄身の利を図る。利に徇うこと既に多ければ、則ち濫れ無からざるを得ず、濫れて良善に及べば、則ち淫刑逞しくなる。人情、自らその身を愛さざるは莫し、陛下これを以て察せられよ、豈に濫れ無からんや。冤人籲嗟し、和気を感傷す。和気悖乱すれば、群生癘疫す。水旱これに随い、則ち凶年有り。人既に業を失えば、則ち禍乱の心怵然として生ず。近頃亢陽候に愆り、雲して雨らず、農夫耒を釈き、嗷嗷と瞻望す。豈に陛下の聖徳有りて人に降沢せざるに由らざらんや。儻し旱遂に春を過ぎ、時種に廃すれば、今年の稼穡、必ず損有らん。陛下天意を敬承し、以て人を沢恤せざらんや。臣が聞くところによれば、古の明王は刑罰を重慎した、蓋しこれを懼れたからである。『書』に云わざるか、「其れ不辜を殺すに与するよりは、寧ろ不経を失え」と。陛下奈何ぞ堂堂の聖を以て、猶強国の威を務めんとされる。愚臣ひそかに陛下の取らざる所と為す。

かつ愚人は安ければ則ち生を楽しみ、危ければ則ち変を思う。故に事に禍を招く有り、法に奸を起す有り。儻し大獄未だ休まず、支党日に広まり、天下疑惑し、相い無辜を恐るれば、人情の変、察せざるべからず。昔、漢武帝の時、巫蠱の獄起こり、江充詐を行い、京師に乱を作し、太子の奔走に至り、兵宮闕に交わり、無辜の害せられる者万千数を以て数う。当時、劉宗幾くんと覆滅せんとしたが、武帝が壺関の三老の上書を得て、幡然として感悟し、江充の三族を夷し、余獄は論ぜず、天下稍く以て安んずるを得た。臣、書を読みて此に至り、未だ嘗て戾太子の為に涕を流さざるはない。古人云う、「前事忘れざれば、後事の師なり」と。伏して願わくは陛下これを念わんことを。今、臣は湯鑊の罪を避けず、螻蟻の命を以て、軽く宸厳に触る。臣は死を悪みて生を貪らざるに非ざるなり、誠に陛下の恩遇に負い、微命を以て聰明を蔽塞するも、また敢えて陛下に厳刑を頓息せしめんと欲するに非ず、恤刑に望むのみである。三事大夫と与に、その可否を図らんことを乞う。往く者は諫むべからず、来たる者は猶追うべし。臣微なるを以てその奏を忽せざらんことを、天下幸甚なり。

疏奏して省みられず。

時に司刑少卿徐有功は常に酷吏の奏する所を駁し、毎日これと廷争して得失を論じ、冤濫を雪ぐことを以てし、これにより全済せられる者また勝えず数う、語は『有功伝』に在り。俊臣・弘義等の誅せられるに及び、刑獄稍く息む。前後の宰相王及善・姚元崇・朱敬則等、皆言うに、垂拱以来身死し家破るる者は、皆是れ枉濫なりと、則天も頗る覚悟す。ここにおいて監察御史魏靖上言して曰く。

臣が聞くに、国の綱紀は生殺(生かすことと殺すこと)にある。その周興・来俊臣・丘神勣・万国俊・王弘義・侯思止・郭弘霸・李敬仁・彭先覚・王徳寿・張知黙らは、まさに堯の時代の四凶である。愚かで暴虐な振る舞いをほしいままにし、虐げと毒を含んだ行いを縦にし、在位する者を仇敵のように嫉み、朝廷の臣下に対して安んじて残忍なことを行い、罪は情実によって加えられ、刑罰は意のままに改められた。その当時は、囚人が牢獄に満ちて市のようであり、朝廷は目を伏せるばかりであった。やがて白日の下に隠れず、冤罪の魂も託すところがあり、悪を行えばその報いがあり、禍は淫らな者を懲らしめるもので、厳然たる天の刑罰を具現し、乱の首謀者を懲らしめる。ひそかに見るに、来俊臣が極刑に処せられたのは、彼が善良な者を羅織し、忠賢な者を陥れて殺害したためであり、財産を没収して将来を戒め、公然と殺戮して天下に謝罪するためである。臣はまた道で聞くところによれば、上は聖主から、傍らは貴臣に至るまで、皆はっきりと羅織の事があることを知っていた。俊臣が死んだ後、推問した者が功績を得、胡元礼は超えて昇進し、裴談は顕著に官職を授かり、朝廷内外で慶賀が称えられ、朝廷はようやく安泰となった。その党を破った者は、賞を時を過ぎずに与えることができた。彼らに陥れられた者は、どうして何年も滞らせておくことができようか。しかも反逆の徒と称するには、反逆の状況を得なければならない。ただ一片の言葉に拠るだけで、すぐに刑の執行を請い、拷問を妄りに加え、自白の答弁に限りはなかった。故に徐有功は寛大公平であるために忌み嫌われ、斛瑟羅は妓女のために拘束され、朝廷内外に皆知られており、枉げられた者と正しい者がここにある。これを例として借りれば、その他のことは詳らかである。臣はまた聞く、郭弘霸は自ら刺して快哉を叫び、万国俊は遮られて急に死んだ。霍献可は臨終に、膝が項に拳り、李敬仁は死に臨んで、舌が臍に至った。皆、多くの鬼が庭に満ち、群妖が道を横切り、徴が集まって応じるのは、響きが声に随うようであった。人々の謡いに備わっており、虚説ではない。伯有が昼間に現れることと、ほとんど異ならない。これもまた羅織の一つの証拠である。臣は至って愚かで、大体を識らず、もし平反する者を数人置き、衆人で共に詳しく覆審して来俊臣らが推問した大獄を、鄧艾が今日に申し開きを得、孝婦が昔のように濫りに罪を負わないようにし、恩沢が一流れとなれば、天下は幸いである。

上疏が奏上され、制令して来俊臣・丘神勣らが推問して身死し籍没した者を記録させ、三司に重ねて推勘させ、冤罪や濫りがある者は、皆雪冤して免ずるように命じた。

中宗神龍元年、制を以て故司僕少卿徐有功は、法を執り行って平恕であったため、越州都督を追贈し、特に一子に官職を授けた。また丘神勣・来子珣・万国俊・周興・来俊臣・魚承曄・王景昭・索元礼・傅遊芸・王弘義・張知黙・裴籍・焦仁亶・侯思止・郭霸・李敬仁・皇甫文備・陳嘉言・劉光業・王徳寿・王処貞・屈貞筠・鮑思恭の二十三人は、垂拱年間以来共に枉げ濫りに人を殺したため、所有の官爵を、皆追奪するよう命じた。天下は慶賀を称えた。時に既に改易し、制は全て貞観・永徽の故事に依った。中書令韋安石・礼部侍郎祝欽明・尚書右丞蘇瑰・兵部郎中狄光嗣らに勅して、『垂拱格』以後から神龍元年に至るまでの制勅を刪定し、『散頒格』七巻とした。また旧式を刪補し、二十巻として、天下に頒布した。景雲初年、えい宗はまた戸部尚書岑羲・中書侍郎陸象先・右散騎常侍徐堅・右司郎中唐紹・刑部員外郎邵知与・刪定官大理寺丞陳義海・右衛長史張処斌・大理評事張名播・左衛率府倉曹参軍羅思貞・刑部主事閻義顓の凡そ十人に勅して、格・式・律・令を刪定させた。太極元年二月に奏上し、名を『太極格』とした。

開元初年、玄宗は黄門監盧懐慎・紫微侍郎兼刑部尚書李乂・紫微侍郎蘇頲・紫微舍人呂延祚・給事中魏奉古・大理評事高智静・同州韓城県丞侯郢璡・瀛州司法参軍閻義顓らに勅して、格・式・令を刪定させ、三年三月に奏上し、名を『開元格』とした。六年、玄宗はまた吏部侍郎兼侍中宋璟・中書侍郎蘇頲・尚書左丞盧従願・吏部侍郎裴漼慕容珣・戸部侍郎楊滔・中書舍人劉令植・大理司直高智静・幽州司功参軍侯郢璡ら九人に勅して、律・令・格・式を刪定させ、七年三月に奏上した。律・令・式は仍って旧名のままとし、格を『開元後格』といった。十九年、侍中裴光庭・中書令蕭すうは、また格後の制勅が行用された後、格文と頗る相違し、事に便ならずとして、司に奏して刪撰させ『格後長行敕』六巻とし、天下に頒布した。二十二年、戸部尚書李林甫はまた詔を受けて格令を改修した。林甫が中書令に遷ると、乃ち侍中牛仙客・御史中丞王敬従と、明法の官である前左武衛冑曹参軍崔見・衛州司戸参軍直中書陳承信・酸棗尉直刑部俞元杞らと共に、旧格・式・律・令及び勅を加えて刪緝し、総七千二十六条とした。その内一千三百二十四条は事に要せず、併せて刪除した。二千一百八十条は文に随って損益し、三千五百九十四条は仍って改めず。総じて律十二巻、『律疏』三十巻、『令』三十巻、『式』二十巻、『開元新格』十巻を成した。また『格式律令事類』四十巻を撰し、類を以て相従い、省覧に便ならしめた。二十五年九月に奏上し、尚書都省に五十本を写させ、使者を発して天下に散らすよう勅した。その年、刑部が獄を断じたところ、天下の死罪はただ五十八人だけであった。大理少卿徐嶠が上言して言うには、大理獄院は、由来相伝えて殺気が盛ん過ぎ、鳥雀が棲まなかったが、この時に至って鵲がその樹に巣を作った。ここにおいて百官は幾らか刑措に至ったとして、上表して賀を陳べた。玄宗は宰相が政務を処理し、法官が平允であった功績により、仙客を邠国公に封じ、林甫を晋国公に封じ、刑部大理の官に共に帛二千匹を賜った。

明慶より先天に至る六十年の間、高宗は寛仁にして、政は宮閫に帰す。則天の女主は猜忌にして、殺戮に果敢なり、宗枝の大臣は酷吏に鍛えられ、宗社を移易するに至り、幾くんぞ李氏を亡ぼさんとす。神龍の後、後族政を幹き、景雲継ぎ立ち、帰妹権を怙う。開元の際、刑政賞罰は宸極に断じ、四十余年、太平と謂うべし。及び塚臣邪を懐き、辺将内に侮り、乗輿巴・蜀に幸し、儲副朔方に立ち、未だ年を逾えずして、載せて京邑を収む、書契以来、宗社を克復すること斯くの如く速きは未だ有らず。而して両京の衣冠、多く脅従せられ、是に至り相率いて闕下に待罪す。而して執事者は務めて峻刑を以て威を取らんと欲し、尽く其の族を誅し、以て天下に令せんとす。議久しく定まらず、竟に三司使を置き、御史大夫兼京兆尹李峴・兵部侍郎呂諲・戸部侍郎兼御史中丞崔器・刑部侍郎兼御史中丞韓択木・大理卿厳向等五人を以て之と為す。初め、西京の文武官陸大鈞等賊に陥ち来帰す、崔器儀を草し、尽く冠を免き徒跣せしめ、膺を撫でて号泣せしめ、金吾府県の人吏を以て之を囲み、朝に於いて謝罪せしめ、収めて大理京兆府の獄に付し之を繫ぐ。及び陳希烈等大臣の至る者数百人、又た朝堂に徒跣せしむること初めの如く、宰相苗晋卿・崔円・李麟等百僚をして同視せしめ、以て棄辱と為し、詔を宣して以て之を責む。朝廷又た罪を負う者衆く、獄中に容れず、乃ち楊国忠の宅を賜いて之を鞫く。器・諲多く旨を希い深刻にし、而して択木は是非無く、独り李峴之に力争し、乃ち推す所の罪を六等と定め、百僚を集めて尚書省に議す。粛宗方に刑名を用い、公卿但だ唯唯として署名するのみ。是に於いて河南尹達奚珣等三十九人、以て罪重しと為し、従と共に棄つ。珣等十一人、子城西に於いて伏誅す。陳希烈・張垍・郭納・独孤朗等七人、大理寺獄に於いて自尽を賜う。達奚摯・張岯・李有孚・劉子英・冉大華二十一人、京兆府門に於いて重杖を決して死す。大理卿張均は独柳樹下の刑人の処に引き至り、死を免じて合浦郡に配流す、而して達奚珣・韋恆は乃ち腰斬に至る。是に先立ち、慶緒相州に至り、史思明・高秀岩等皆款を送りて命を請う、粛宗各々復位を令し、便ち管する所を領せしむ、是に至り自安せずして懼れ、各々其の党を率いて叛く。其の後三司刑を用い、連年定まらず、流貶相継ぐ。及び王璵相と為り、素より物議を聞き、詔を下すことを請う、今より已後、三司推勘未だ畢らざる者は一切放免せよと、大いに人望を収む。後蕭華魏州を抜きて国に帰り、嘗て朝に於いて話して云う、「初め河北の官、国家の詔を宣し陳希烈等の脅従官一切問わず、各々復位を令するを聞き、聞く者帰国の遅きを悔い、挙措自ら失う。及び後希烈等の死を聞き、皆相賀いて計を得たりとし、敢えて帰る者無し。是に於いて河北の将吏、人々益々堅く、大兵解けず。」

後に毛若虚・敬羽の流有り、皆深く酷く割剥し、驟に権柄を求め、人を殺して以て刑を逞しうし、厚く斂めて以て国を資す。六七年の間、大獄相継ぎ、州県の内、多くは貶降の人なり。粛宗復た三司の濫るる多きを聞き、嘗て悔いて云う、「朕三司に誤らる、深く之を恨む。」及び弥留の際、元載を以て相と為し、乃ち天下の流降人等一切放帰すと詔す。

代宗宝応元年、回紇史朝義と戦い、勝ち、其の将士の妻子老幼四百八十人を擒う。上婦人は雖も賊家の口と為るも、皆是れ良家の子女、賊に逼略せられ、惻然として之を湣み、万年県に令して勝業仏寺に安置し、糧料を給す。若し親属認むる者有らば、任せて之を還すべし、如し親族無き者は、其の適する所に任せ、仍て糧を給して遞過せしむ。是に於いて人情感戴忻悦せざる莫し。大暦十四年六月一日、徳宗丹鳳楼に禦し大赦す。赦書の節文、「律・令・格・式の条目不だ折衷せざる者は、中書門下に委ね理識通明の官を簡択し共に刪定せしむ。至德已来の制勅、或いは人の奏請に因り、或いは事に臨み頒行し、差互同じからず、人をして疑惑せしむ、中書門下刪定官と詳決し、久長に行用に堪うるを取って、格条に編入す。」三司使は、式に准じて御史中丞・中書舎人・給事中各一人を以て之と為し、毎日朝堂に於いて詞を受け、推勘処分す。建中二年、刪定格令使並びに三司使を罷む。是に先立ち、中書門下を以て刪定格令使に充て、又た給事中・中書舎人・御史中丞を以て三司使と為す。是に至り中書門下奏請して旧に復し、刑部・御史台・大理寺を以て之と為す。其の格令は刑部に委ねて刪定せしむ。元和四年九月勅、「刑部大理決断系囚、過ぎて淹遅と為り、是れ奸幸を長ず。今より已後、大理寺検断、二十日を過ぐるを得ず、刑部覆下、十日を過ぐるを得ず。如し刑部覆に異同有らば、寺司重く加うるに十五日を過ぐるを得ず、省司量り覆うるに本日を過ぐるを得ず。如し牒外の州府の節目及び京城内に於いて勘する有らば、本推即日に報ず。牒到後の日数を計り、勘せらるる司卻って報ずるに五日を過ぐるを得ず。仍て刑部に令して遣牒及び報牒の月日を具し、牒報都省及び分察使にし、各々勅文に准じて勾挙糾訪せしむ。」

六年九月、富平県人梁悦、父の為に仇人秦果を殺し、県に投じて罪を請う。勅、「復讐人を殺すは、固より彝典有り。其の冤を申し罪を請い、死を視ること帰するが如きを以て、自ら公門に詣い、天性より発す。節を徇わんと志し、本より生を求むるの心無く、経に失わずんば寧ろしとし、特に死を減ずるの法に従う。宜しく一百を決し、循州に配流すべし。」職方員外郎韓愈議を献じて曰く。

謹んで今月五日付の詔勅を拝受する。復讐については、礼経に拠れば義は天と異ならず、法令を徴すれば人を殺す者は死す、とある。礼と法の二事は、いずれも王者の教えの端緒であり、この異同がある以上、必ず論議を待つべきである。宜しく都省に命じて集議させ、奏聞すべきである、とのこと。謹んで考えるに、子が父の仇を復することは、『春秋』に見え、『礼記』に見え、また『周官』に見え、また諸子史に見えて、数え切れず、非としてこれを罪とするものはない。最も律において詳しくすべきであるが、律にはその条項がない。これは欠文ではない。おそらく、復讐を許さなければ孝子の心を傷つけ、先王の訓えに背き、復讐を許せば人は法に倚って専殺し、その端緒を禁じ止める術がなくなるからであろう。律は聖人に本づくとはいえ、これを執り行うのは有司である。経が明らかにしているのは、有司を制することである。経においてその義を丁寧にし、律においてその文を深く没しているのは、その意は法吏に法によって一断させ、経術の士に経を引きいて議せしめんとするためである。『周官』に曰く、「凡そ人を殺して義なる者は、仇とすべからず、仇とすれば則ち死す」と。義とは宜しきなり、人を殺してその宜しきを得ざる者は、子復讐すべし、と明らかにしている。これは百姓の相仇するものである。『公羊伝』に曰く、「父誅せられざれば、子復讐すべし」と。誅せられざるとは、罪誅に当たらずという。また『周官』に曰く、「凡そ仇讐を報ずる者は、士に書し、これを殺すも罪なし」と。復讐せんとすれば、必ず先ず官に言上すれば、罪なしというのである。今、陛下は典章に意を垂れ、定制を立てんと思し召され、有司の職守を惜しみ、孝子の心を憐れみ、自ら専断せず、群下に議を訪ねられた。臣愚かならんや、復讐の名は同じといえども、その事は各々異なる。あるいは百姓が相仇するもので、『周官』の称えるところで、今に議すべきものあり。あるいは官吏に誅せられるもので、『公羊』の称えるところで、今に行うべからざるものあり。また『周官』の称えるところで、復讐せんとし、先ず士に告げれば罪なしというもの。もし孤稚羸弱の者が、微かな志を抱いて敵人の隙を伺い、官に自ら言上できぬ恐れがあるならば、今に断ずることはできない。されば殺すことと赦すことは、一例にすべからず。宜しくその制を定めて曰く、凡そ父の仇を復する者あれば、事発したならば、その事由を具えて、尚書省に下して集議奏聞せしめ、その宜しきを酌んでこれを処すれば、経と律ともにその旨を失わないであろう。

元和十三年八月、鳳翔節度使鄭余慶らが『格後勅』三十巻を詳定し、右司郎中崔郾ら六人が修訂して上進した。その年、刑部侍郎許孟容・蔣乂らが詔を奉じて刪定し、また三十巻に勒成した。刑部侍郎劉伯芻らが考定し、旧巻の如くとした。

長慶元年五月、御史中丞牛僧孺が奏上した。「天下の刑獄は、淹滞に苦しんでいる。程限を立てることを請う。大事は、大理寺が三十五日の限りで詳断を終え、刑部に申し、三十日の限りで聞奏する。中事は、大理寺三十日、刑部二十五日。小事は、大理寺二十五日、刑部二十日。一状の犯人が十人以上、断ずる罪が二十件以上を大とし、犯人六人以上、断罪十件以上を中とし、犯人五人以下、断罪十件以下を小とする。もし抵する罪状および結ぶ刑名がともに同じならば、人数が甚だ多くとも、同一人の例とする。違反した者は罪に差がある。」二年四月、刑部員外郎孫革が奏上した。「京兆府雲陽県の人張蒞が、羽林官騎康憲の銭米を負っている。憲がこれを徴収すると、蒞は酔った勢いで憲を引き摺り、氣息将に絶えんとした。憲の子買得、年十四、その父を救わんとした。蒞が角牴の力人であるため、敢えて解きほぐすことができず、遂に木鍤を持って蒞の首を撃ち、血を見せ、後三日にして死に至らしめた。律に准えば、父が人に毆たれ、子が往きて救い、その人を撃ち折傷すれば、凡闘より三等を減ず。死に至る者は、常律に依る。即ち買得が父の難を救うのは性孝にして暴にあらず、張蒞を撃つのは心切にして凶にあらず。髫丱の歳に、父子の親を正す、聖化の加うる所でなければ、童子どうしてここに及ぶことができようか。『王制』は五刑の理を称え、必ず父子の親を原としてこれを権え、浅深の量を慎んで測りてこれを別つ。『春秋』の義は、心を原として罪を定む。周書の訓えるところは、諸罰に権あり。今、買得は生まれながら皇風を被り、幼くして至孝に符し、哀矜の宥しは、伏して聖慈に在り。臣の職は刑を讞するに当たり、善悪を分かつに合う。」詔勅。「康買得はなお童年に在りて、能く子道を知る。人を殺して死に当たるといえども、父のためは哀れむべし。もし沈命の科に従えば、恐らくは原情の義を失わん。宜しく法司に付し、死罪一等を減ずべし。」

大和七年十二月、刑部が奏上した。「先に詔勅を奉じて、前大理丞謝登の『新編格後勅』六十巻を詳定せよとのこと。臣らは謝登の進めたものに拠り、諸理例を詳らかにし、格式を参酌した。あるいは事が久要に非ず、恩が一時に出るもの、あるいは前後差殊あるもの、あるいは書写錯誤あるものは、並びに落下及び改正を終えた。繁を去り要を挙げ、司を分ち門を列ね、都で五十巻とした。謹んで宣下施行を請う。」これを可とした。八年四月、詔して応に軽罪を犯す人は、情状巨蠹にして法の原ゆるし難きものを除き、その他の過誤罪愆及び尋常の公事違犯には、鞭背してはならない、と。太宗の故事に遵うのである。俄にして京兆尹韋長が奏上した。「京師は浩穰にして、奸豪の聚まる所である。終日懲罰しても、抵犯なお多く、少しでも寛容すれば、即ち禁戢し難い。もし恭しく勅旨を守れば、則ち以て肅清するなく、もし事に臨んで刑を用いれば、則ち詔使に違う。伏して望むらくは、前に依り軽重に据えて処置することを許されたい。」これに従った。

開成四年、両省が『刑法格』十巻を詳定し、勅令して施行した。

会昌元年九月、庫部郎中・知制誥紇幹泉らが奏上した。「刑部の奏に准えば、贓を犯した官五品以上は、死刑に抵するに合い、獄官令に准じて家に死することを請う。謹んで永く定格と為すことを請う。」これを従った。大中五年四月、刑部侍郎劉彖らが勅を奉じて『大中刑法総要格後勅』六十巻を修し、貞観二年六月二十日より、大中五年四月十三日に至る、凡そ二百二十四年の雑勅を、都計六百四十六門、二千百六十五条とした。七年五月、左衛率倉曹参軍張戣が『大中刑法統類』十二巻を進め、勅して刑部に詳定させ奏行した。