舊唐書

巻050

巻050

舊唐書

原文舊唐書

卷五十

原文卷五十

志第三十 刑法

原文志第三十 刑法

古の聖人は、人の父母たる者、礼を制して崇敬を崇め、刑を立てて威を明らかにし、未然に防閑し、争心の将に起こらんとするを懼れた。故に軽重三典の異、宮墨五刑の差あり、時に度りて宜しきを施し、事に因りて制を議す。大なるは則ちこれを原野に陳べ、小なるは則ちこれを市朝に肆し、以て奸宄を禦ぎ、用て禍乱を懲らしむ。邦を興し理を致すに、此れより由らざるは罔し。淳樸既に消え、澆偽斯に起こりてより、刑は九に増え、章は三千に積む。凝脂次骨の峻有りと雖も、而も錐刀の末、尽く之を争う。漢より隋に至るまで、世に増損有りと雖も、而も能く折衷するは罕なり。隋の文帝は周・斉の旧政を参用し、以て律令を定め、苛惨の法を除き、務めて寛平に在り。比及晚年、漸く亦虐を滋す。煬帝は忌刻にして、法令尤も峻し。人、命に堪えず、遂に亡に至る。

原文古之聖人,為人父母,莫不制禮以崇敬,立刑以明威,防閑于未然,懼爭心之將作也。故有輕重三典之異,宮墨五刑之差,度時而施宜,因事以議制。大則陳之原野,小則肆諸市朝,以禦奸宄,用懲禍亂。興邦致理,罔有弗由於此者也。暨淳樸既消,澆偽斯起,刑增為九,章積三千,雖有凝脂次骨之峻,而錐刀之末,盡爭之矣。自漢迄隋,世有增損,而罕能折衷。隋文帝參用周、齊舊政,以定律令,除苛慘之法,務在寬平。比及晚年,漸亦滋虐。煬帝忌刻,法令尤峻,人不堪命,遂至於亡。

高祖こうそ、初めに義師を太原に起こすや、即ち寛大の令を布く。百姓、隋の苛政に苦しみ、競いて来たりて帰附す。旬月の間、遂に帝業を成す。既に京城を平げ、法を約して十二条と為す。惟だ人を殺し、劫盗し、軍に背き、叛逆する者を制して死とし、余は並びに之を蠲除す。及び禅を受け、詔して納言劉文静と当朝の通識の士に、開皇の律令に因りて之を損益せしめ、大業の用いたる煩峻の法を尽く削る。又た五十三条の格を制し、務めて寛簡に在り、時に便なるを取る。尋いで又た勅して尚書左僕射裴寂・尚書右僕射蕭瑀及び大理卿崔善為・給事中王敬業・中書舎人劉林甫顔師古王孝遠・涇州別駕靖延・太常丞丁孝烏・隋の大理丞房軸・上将府参軍李桐客・太常博士徐上機等に、律令を撰定せしむ。大略開皇を以て准と為す。時に諸事始めて定まり、辺方尚お梗まる。時に救うの弊、未だ暇有らざる所有り。惟だ正五十三条の格を、新律に入れ、余は改むる所無し。武徳七年五月に至り奏上す。乃ち詔を下して曰く、

原文高祖初起義師於太原,即布寬大之令。百姓苦隋苛政,競來歸附。旬月之間,遂成帝業。既平京城,約法為十二條。惟制殺人、劫盜、背軍、叛逆者死,餘並蠲除之。及受禪,詔納言劉文靜與當朝通識之士,因開皇律令而損益之,盡削大業所用煩峻之法。又制五十三條格,務在寬簡,取便於時。尋又敕尚書左僕射裴寂、尚書右僕射蕭瑀及大理卿崔善為、給事中王敬業、中書舍人劉林甫顏師古王孝遠、涇州別駕靖延、太常丞丁孝烏、隋大理丞房軸、上將府參軍李桐客、太常博士徐上機等,撰定律令,大略以開皇為准。于時諸事始定,邊方尚梗,救時之弊,有所未暇,惟正五十三條格,入於新律,餘無所改。至武德七年五月奏上,乃下詔曰:

古より云わざる乎、「万邦の君、典有り則有り」と。故に九疇の叙は、夏の世に興り、両観の法は、隆周に大いに備わる。暴を禁じ奸を懲らし、風を弘め化を闡き、民を安んじ政を立つるは、此れを先と為す莫し。戦国より紛擾し、詐を恃み力を任せ、苛制煩刑、茲に競いて起こる。秦は天下を併せ、礼教を隳滅し、恣に酷烈を行い、蒸民を害虐す。宇内騒然たり、遂に以て顛覆す。漢氏は乱を撥ね、前軌を易えんと思い、復た務めて約法に従うと雖も、厳刑を蠲削すと雖も、尚お菹醢の誅を行い、猶錙銖の禁を設く。民を字するの道、実に未だ弘からず。刑措の風、茲を以て致す莫し。爰に魏・晋に及び、流弊相い沿い、寛猛方に乖き、綱維序を失う。下は上に凌ぎ替わり、政は散じ民は凋む。皆法令の湮訛し、条章の混謬するに由る。斯の後より、宇県瓜分し、戎馬交馳し、未だ典制に遑あらず。隋の世は、厘革すと云うと雖も、然れども損益定まらず、疏舛尚お多し。品式章程、能く甄備するは罕なり。微文曲致を加うるに、覧者は其の浅深に惑い、異例同科に、用者は其の軽重を殊にす。遂に奸吏をして巧に詆し、情に任せて与奪せしめ、愚民をして妄りに触れしめ、動もすれば羅網に陥らしむ。屡厘革を聞くも、卒に以て成ること無し。

原文古不云乎,「萬邦之君,有典有則。」故九疇之敘,興于夏世,兩觀之法,大備隆周。所以禁暴懲奸,弘風闡化,安民立政,莫此為先。自戰國紛擾,恃詐任力,苛制煩刑,於茲競起。秦並天下,隳滅禮教,恣行酷烈,害虐蒸民,宇內騷然,遂以顛覆。漢氏撥亂,思易前軌,雖復務從約法,蠲削嚴刑,尚行菹醢之誅,猶設錙銖之禁。字民之道,實有未弘,刑措之風,以茲莫致。爰及魏、晉,流弊相沿,寬猛乖方,綱維失序。下淩上替,政散民凋。皆由法令湮訛,條章混謬。自斯以後,宇縣瓜分,戎馬交馳,未遑典制。有隋之世,雖云厘革,然而損益不定,疏舛尚多,品式章程,罕能甄備。加以微文曲致,覽者惑其淺深,異例同科,用者殊其輕重,遂使奸吏巧詆,任情與奪,愚民妄觸,動陷羅網,屢聞厘革,卒以無成。

朕は期を膺け籙を受け、区宇を甯済し、永言至治、興寐労と為す。千年の墜典を補い、百王の余弊を拯い、以て正本澄源し、流末を式清し、永く憲則を垂れ、後昆に範を貽さんことを思う。爰に群才を命じ、科律を修定せしむ。但だ今古は務を異にし、文質同じからず。喪乱の後、事は曩代に殊なり。機に応じ変に適い、弊を救うは斯に在り。是を以て繁省を斟酌し、時宜に合するを取り、差遺を矯正し、務めて体要に従う。茲に歴稔に迄り、撰次始めて畢る。宜しく四方に下し、即ち頒用を令すべし。庶くは吏曹をして簡粛ならしめ、懸石の多きを取らず、奏讞平允にして、錐刀の末を競わず。残に勝ち殺を去るは、此れに於て遠からず。

原文朕膺期受籙,甯濟區宇,永言至治,興寐為勞。補千年之墜典,拯百王之餘弊,思所以正本澄源,式清流末,永垂憲則,貽範後昆。爰命群才,修定科律。但今古異務,文質不同,喪亂之後,事殊曩代,應機適變,救弊斯在。是以斟酌繁省,取合時宜,矯正差遺,務從體要。迄茲曆稔,撰次始畢,宜下四方,即令頒用。庶使吏曹簡肅,無取懸石之多;奏讞平允,靡競錐刀之末。勝殘去殺,此焉非遠。

是に於て天下に頒行す。

原文於是頒行天下。

及び太宗即位し、又た長孫無忌・房玄齢と学士法官を命じ、更に厘改を加う。戴冑・魏徴又た旧律令重きを言う。時に絞刑の属五十条を議す。死罪を免れ、其の右趾を断つ。応に死すべき者多く全活を蒙る。太宗尋いで又た其の刑を受くるの苦を湣み、侍臣に謂いて曰く、「前代肉刑を行わず久し。今忽ち人の右趾を断つは、意甚だ忍びず。」諫議大夫王珪対えて曰く、「古は肉刑を行い、以て軽罪と為す。今陛下は死刑の多きを矜み、断趾の法を設く。格は本死に合う。今にして生を獲る。刑者は幸いに命を全うす。豈に其の一足を去るを憚らんや。且つ人の之を見る者、甚だ足りて懲誡と為す。」上曰く、「本寛きを以てと為す。故に行う。然れども毎に惻愴を聞き、能く懐を忘れず。」又た蕭瑀・陳叔達等に謂いて曰く、「朕は死者は再生す可からずと為し、矜湣有らんことを思い、故に死罪五十条を簡び、断右趾に従う。朕復た其の痛を受くるを念い、極めて忍びざる所なり。」叔達等咸く曰く、「古の肉刑は、乃ち死刑の外に在り。陛下は死刑の内に於て、断趾に改め従うは、便ち是れ生を以て死に易うるなり。足りて寛法と為す。」上曰く、「朕の意は此の如しと為す。故に行わんと欲す。又た上書有りて此れ便ならずと言う。公更に之を思うべし。」其の後蜀しょく王法曹参そうしん軍裴弘献又た律令の時に便ならざる者四十余事を駁す。太宗、参掌をして之を刪改せしむ。弘献は是に於て玄齢等と建議し、古の五刑は、刖其の一に居ると為す。及び肉刑廃れて、死・流・杖・笞凡そ五等を制し、以て五刑に備う。今復た刖足を設くれば、昌に六刑と為す。死を減ずるは寛弘に在り、刑を加うるは又た煩峻を加う。乃ち八座と定議を定めて奏聞す。是に於て又た断趾法を除き、加役流三千里、居作二年に改む。

原文及太宗即位,又命長孫無忌、房玄齡與學士法官,更加厘改。戴胄、魏徵又言舊律令重,于時議絞刑之屬五十條。免死罪,斷其右趾,應死者多蒙全活。太宗尋又湣其受刑之苦,謂侍臣曰:「前代不行肉刑久矣,今忽斷人右趾,意甚不忍。」諫議大夫王珪對曰:「古行肉刑,以為輕罪。今陛下矜死刑之多,設斷趾之法,格本合死,今而獲生。刑者幸得全命,豈憚去其一足?且人之見者,甚足懲誡。」上曰:「本以為寬,故行之。然每聞惻愴,不能忘懷。」又謂蕭瑀、陳叔達等曰:「朕以死者不可再生,思有矜湣,故簡死罪五十條,從斷右趾。朕復念其受痛,極所不忍。」叔達等咸曰:「古之肉刑,乃在死刑之外。陛下于死刑之內,改從斷趾,便是以生易死,足為寬法。」上曰:「朕意以為如此,故欲行之。又有上書言此非便,公可更思之。」其後蜀王法曹參軍裴弘獻又駁律令不便於時者四十餘事,太宗令參掌刪改之。弘獻於是與玄齡等建議,以為古者五刑,刖居其一。及肉刑廢,制為死、流、杖、笞凡五等,以備五刑。今復設刖足,昌為六刑。減死在於寬弘,加刑又加煩峻。乃與八座定議奏聞,於是又除斷趾法,改為加役流三千里,居作二年。

又た旧条疏に、兄弟分れた後は、廕相及ばず、連坐して俱に死し、祖孫は配没す。会うに同州の人房強有り。弟は統軍として岷州に任じ、謀反を以て誅に伏す。強は坐に従うべし。太宗嘗て囚徒を録し、其の将に死せんとするを湣み、之が為に容を動かす。顧みて侍臣に謂いて曰く、「刑典仍用するは、蓋し風化未だ洽わざるの咎なり。愚人何の罪か有りて、重刑を肆うるや。更に朕の不徳を彰すなり。刑を用うるの道は、当に事理の軽重を審らかにし、然る後に之に刑罰を加うべし。何ぞ其の本を察せずして一概に誅を加うる有らん。刑を恤い人命を重んずる所以に非ざるなり。然らば則ち反逆に二有り。一は興師動衆するを為し、一は悪言法を犯すを為す。軽重差有り。而るに連坐皆死すは、豈に朕の情の安んずる所ならんや。」更に百僚をして詳議せしむ。是に於て玄齢等復た議を定めて曰く、「礼を案ずるに、孫は王父の屍と為す。令を案ずるに、祖は孫を廕するの義有り。然らば則ち祖孫は親重くして兄弟は属軽し。応に重きは反って流し、合わすに軽きは翻って死すは、礼に据り情を論ずれば、深く未だ愜わず。今律を定むるに、祖孫と兄弟の縁坐は、俱に配没す。其れ悪言を以て法を犯し能く害を為さざる者は、情状稍軽し。兄弟は死を免れ、配流と為すを允とす。」之に従う。是より古の死刑に比すれば、殆ど其の半を除く。

原文又舊條疏,兄弟分後,廕不相及,連坐俱死,祖孫配沒。會有同州人房強,弟任統軍於岷州,以謀反伏誅,強當從坐。太宗嘗錄囚徒,憫其將死,為之動容。顧謂侍臣曰:「刑典仍用,蓋風化未洽之咎。愚人何罪,而肆重刑乎?更彰朕之不德也。用刑之道,當審事理之輕重,然後加之以刑罰。何有不察其本而一概加誅,非所以恤刑重人命也。然則反逆有二:一為興師動眾,一為惡言犯法。輕重有差,而連坐皆死,豈朕情之所安哉?」更令百僚詳議。於是玄齡等復定議曰:「案禮,孫為王父屍。案令,祖有廕孫之義。然則祖孫親重而兄弟屬輕,應重反流,合輕翻死,據禮論情,深為未愜。今定律,祖孫與兄弟緣坐,俱配沒。其以惡言犯法不能為害者,情狀稍輕,兄弟免死,配流為允。」從之。自是比古死刑,殆除其半。

玄齢らは遂に法司と共に律五百条を定め、十二巻に分けた。第一は名例、第二は衛禁、第三は職制、第四は戸婚、第五は廐庫、第六は擅興、第七は賊盗、第八は闘訟、第九は詐偽、第十は雑律、第十一は捕亡、第十二は断獄である。笞・杖・徒・流・死の五刑がある。笞刑は五条、笞十より五十まで。杖刑は五条、杖六十より杖一百まで。徒刑は五条、徒一年より半年ずつ加え、三年まで。流刑は三条、流二千里より五百里ずつ加え、三千里まで。死刑は二条、絞・斬である。総じて二十等である。また議・請・減・贖・当・免の法八つがある。第一は議親、第二は議故、第三は議賢、第四は議能、第五は議功、第六は議貴、第七は議賓、第八は議勤である。八議に該当する者は、死罪を犯した場合、いずれもその罪状及び応議の状況を条書きして奏請し、議定して奏裁を仰ぐ。流罪以下の場合は一等を減ずる。もし官爵五品以上及び皇太子妃の大功以上の親、応議者の周親以上が死罪を犯した場合は上請する。流罪以下の場合も一等を減ずる。もし七品以上の官及び官爵により請ができる者の祖父母・父母・兄弟・姉妹・妻・子孫が流罪以下を犯した場合は、各々一等を減ずる。もし応議・請・減及び九品以上の官、若しくは官品により減ずることができる者の祖父母・父母・妻・子孫が流罪以下を犯した場合は、贖うことを聴す。その贖法は、笞十は銅一斤を贖い、一斤ずつ加え、杖一百に至れば銅十斤を贖う。これより以上は十斤ずつ加え、徒三年に至れば銅六十斤を贖う。流二千里の者は銅八十斤、流二千五百里の者は銅九十斤、流三千里の者は銅一百斤を贖う。絞・斬の者は銅一百二十斤を贖う。また官をもって罪に当てることを許す。官をもって徒に当てる者は、五品以上で私罪を犯した者は一官で徒二年に当て、九品以上は一官で徒一年に当てる。もし公罪を犯した者は各々一年を加える。官をもって流に当てる者は、三流ともに徒四年に比し、なお各々現任を解く。除名の者は徒三年に比す。免官の者は徒二年に比す。免所居官の者は徒一年に比す。また十悪の条がある。第一は謀反、第二は謀大逆、第三は謀叛、第四は悪逆、第五は不道、第六は大不敬、第七は不孝、第八は不睦、第九は不義、第十は内乱である。その十悪を犯した者は、議請の例に依ることを得ず。年七十以上・十五以下及び廃疾の者が流罪以下を犯した場合も、贖うことを聴す。八十以上・十歳以下及び篤疾の者が反逆・殺人で応死の罪を犯した場合は上請し、盗及び傷人の場合も収贖し、その他は全て論ぜず。九十以上・七歳以下は、死罪があっても刑を加えず。隋代の旧律に比べ、大辟を減ずること九十二条、流を入れて徒とすることを減ずること七十一条。その徒に当たる法は、ただ一官を奪うのみで、除名の人はなお士伍と同じである。凡そ煩を削ぎ蠹を去り、重きを変じて軽きとする者は、数え切れない。

原文玄齡等遂與法司定律五百條,分為十二卷:一曰名例,二曰衛禁,三曰職制,四曰戶婚,五曰廄庫,六曰擅興,七曰賊盜,八曰鬥訟,九曰詐偽,十曰雜律,十一曰捕亡,十二曰斷獄。有笞、杖、徒、流、死,為五刑。笞刑五條,自笞十至五十;杖刑五條,自杖六十至杖一百;徒刑五條,自徒一年,遞加半年,至三年;流刑三條,自流二千里,遞加五百里,至三千里;死刑二條:絞、斬。大凡二十等。又有議請減贖當免之法八:一曰議親,二曰議故,三曰議賢,四曰議能,五曰議功,六曰議貴,七曰議賓,八曰議勤。八議者,犯死罪者皆條所坐及應議之狀奏請,議定奏裁。流罪已下,減一等。若官爵五品已上,及皇太子妃大功已上親,應議者周以上親,犯死罪者上請。流罪已下,亦減一等。若七品已上官,及官爵得請者之祖父母、父母、兄弟、姊妹、妻、子孫,犯流罪已下,各減一等。若應議請減及九品已上官,若官品得減者之祖父母、父母、妻、子孫,犯流罪已下,聽贖。其贖法:笞十,贖銅一斤,遞加一斤,至杖一百,則贖銅十斤。自此已上,遞加十斤,至徒三年,則贖銅六十斤。流二千里者,贖銅八十斤;流二千五百里者,贖銅九十斤;流三千里者,贖銅一百斤。絞斬者,贖銅一百二十斤。又許以官當罪。以官當徒者,五品已上犯私罪者,一官當徒二年;九品已上,一官當徒一年。若犯公罪者,各加一年。以官當流者,三流同比徒四年,仍各解見任。除名者,比徒三年。免官者,比徒二年。免所居官者,比徒一年。又有十惡之條:一曰謀反,二曰謀大逆,三曰謀叛,四曰謀惡逆,五曰不道,六曰大不敬,七曰不孝,八曰不睦,九曰不義,十曰內亂。其犯十惡者,不得依議請之例。年七十以上、十五以下及廢疾,犯流罪以下,亦聽贖。八十已上、十歲以下及篤疾,犯反逆殺人應死者,上請,盜及傷人,亦收贖,餘皆勿論。九十以上、七歲以下,雖有死罪,不加刑。比隋代舊律,減大辟者九十二條,減流入徒者七十一條。其當徒之法,唯奪一官,除名之人,仍同士伍。凡削煩去蠹,變重為輕者,不可勝紀。

また令一千五百九十条を定め、三十巻とした。貞観十一年正月、これを頒下した。また武徳・貞観以来の勅格三千余件を刪定し、七百条を留めて定め、格十八巻とし、本司に留めて施行させた。今古を斟酌し、煩を除き弊を去り、甚だ寛簡にして人の便に適うものである。尚書省諸曹を以てその目とし、初め七巻とした。その曹の常条で、ただ本司に留めるものは、別に『留司格』一巻とした。蓋し当時の制勅を編録し、永く法則と為し、故事と為したのである。『貞観格』十八巻、房玄齢ら刪定。『永徽留司格』十八巻、『散頒格』七巻、長孫無忌ら刪定、永徽年中、また源直心らに刪定させ、ただ官号曹局の名を改易し、篇目は易えなかった。『永徽留司格後本』、劉仁軌ら刪定。『垂拱留司格』六巻、『散頒格』三巻、裴居道刪定。『太極格』十巻、岑羲ら刪定。『開元前格』十巻、姚崇ら刪定。『開元後格』十巻、宋璟ら刪定。皆尚書省二十四司を以て篇目とす。凡そ式三十三篇あり、また尚書省列曹及び秘書・太常・司農・光禄・太僕・太府・少府及び監門・宿衛・計帳を以てその篇目と名付け、二十巻とした。『永徽式』十四巻、『垂拱式』・『神龍式』・『開元式』並びに二十巻、その格令を刪定するは同じ。

原文又定令一千五百九十條,為三十卷。貞觀十一年正月,頒下之。又刪武德、貞觀已來敕格三千餘件,定留七百條,以為格十八卷,留本司施行。斟酌今古,除煩去弊,甚為寬簡,便於人者。以尚書省諸曹為之目,初為七卷。其曹之常條,但留本司者,別為《留司格》一卷。蓋編錄當時制敕,永為法則,以為故事。《貞觀格》十八卷,房玄齡等刪定。《永徽留司格》十八卷,《散頒格》七卷,長孫無忌等刪定,永徽中,又令源直心等刪定,惟改易官號曹局之名,不易篇目。《永徽留司格後本》,劉仁軌等刪定。《垂拱留司格》六卷,《散頒格》三卷,裴居道刪定。《太極格》十卷,岑羲等刪定。《開元前格》十卷,姚崇等刪定。《開元後格》十卷,宋璟等刪定。皆以尚書省二十四司為篇目。凡式三十有三篇,亦以尚書省列曹及秘書、太常、司農、光祿、太僕、太府、少府及監門、宿衛、計帳名其篇目,為二十卷。《永徽式》十四卷,《垂拱》、《神龍》、《開元式》並二十卷,其刪定格令同。

太宗はまた在京の現禁囚について制し、刑部は毎月一奏し、立春から秋分まで死刑の奏決をしてはならないとした。その大祭祀及び致斎・朔望・上下弦・二十四気・雨未晴・夜未明・断屠日月及び假日には、並びに死刑の奏決をしてはならない。赦のある日には、武庫令が金雞及び鼓を宮城門外の右に設け、囚徒を闕前に集めさせ、鼓を千声撾き終わってから、詔を宣してこれを釈放する。その赦書は諸州に頒ち、絹に書写して行下する。また囚を繋ぐ具には、枷・杻鉗・鎖があり、皆長短広狭の制があり、罪の軽重を量り、等級に応じて用いる。その杖は皆節目を削り去り、長さ三尺五寸である。訊囚杖は、大頭の径三分二厘、小頭二分二厘。常行杖は、大頭二分七厘、小頭一分七厘。笞杖は、大頭二分、小頭一分半である。その笞を決する者は、腿に分けて受ける。杖を決する者は、背・腿・臀に分けて受ける。及び数等を須いて拷訊する場合も同じである。その囚を拷するのは三度を過ぎず、総数二百を過ぎてはならない。杖罪以下の場合は、犯した罪の数を過ぎてはならない。諸々罪を断じて正条がない場合、その罪を出すべきものは、則ち重きを挙げて以て軽きを明らかにし、その罪に入れるべきものは、則ち軽きを挙げて以て重きを明らかにする。加と称するものは、重き次に就き、減と称するものは、軽き次に就く。ただ二死三流は、同じく一減と為し、死に加えるに至ることは得ない。獄を断じて出入に失する者は、その罪を以てこれを罪する。失入の者は各々三等を減じ、失出の者は各々五等を減ずる。

原文太宗又制在京見禁囚,刑部每月一奏,從立春至秋分,不得奏決死刑。其大祭祀及致齋、朔望、上下弦、二十四氣、雨未晴、夜未明、斷屠日月及假日,並不得奏決死刑。其有赦之日,武庫令設金雞及鼓于宮城門外之右,勒集囚徒于闕前,撾鼓千聲訖,宣詔而釋之。其赦書頒諸州,用絹寫行下。又系囚之具,有枷、杻鉗、鎖,皆有長短廣狹之制,量罪輕重,節級用之。其杖皆削去節目,長三尺五寸。訊囚杖,大頭徑三分二厘,小頭二分二厘。常行杖,大頭二分七厘,小頭一分七厘。笞杖,大頭二分,小頭一分半。其決笞者,腿分受。決杖者,背、腿、臀分受。及須數等拷訊者,亦同。其拷囚不過三度,總數不得過二百。杖罪已下,不得過所犯之數。諸斷罪而無正條,其應出罪者,則舉重以明輕;其應入罪者,則舉輕以明重。稱加者,就重次;稱減者,就輕次。惟二死三流,同為一減,不得加至於死。斷獄而失於出入者,以其罪罪之。失入者,各減三等;失出者,各減五等。

初めに、太宗は古の時代に獄を断ずるには必ず三槐九棘の官に訊ねたと聞き、大辟の罪については中書・門下の五品以上及び尚書らに議させた。その後、河内の人李好徳が風疾により目が眩み乱れて妖妄の言葉を発したので、詔してその事を按じさせた。大理丞張蘊古が奏上して、好徳は癲病の徴があり、法に照らして罪に当たらないと述べた。治書侍御史権万紀が弾劾して、蘊古の本貫は相州であり、好徳の兄の厚徳がその刺史であって、情は阿諛して放縦にあるとし、奏事が実情に合わないと述べた。太宗は「朕は常に囚人を獄内に禁じているのに、蘊古は彼と囲碁を打った。今また好徳を阿諛して放縦するとは、朕の法を乱すものである」と言い、遂に東市で斬首した。その後これを悔いた。また交州都督ととくの盧祖尚が、旨に逆らったとして朝堂で斬られ、帝もまた追悔した。制を下して、死刑を決するには、たとえ即時に殺せと命じても、なお三度覆奏せよとした。まもなく侍臣に言った、「人命は最も重く、一度死ねば再び生き返ることはない。昔、王世充が鄭頲を殺し、後にこれを悔いて追い及ばなかった。今春、府史が取った財は多くないのに、朕が怒ってこれを殺し、後になってまた悔いた。皆、思慮が審らかでなかったためである。近頃囚人を決するには、三度覆奏するとはいえ、須臾の間に三度の奏上を終えてしまい、まったく考える暇がない。三度奏上しても何の益があろうか。今後は、二日の間に五度覆奏し、諸州には三度覆奏させよ。また古の時代には刑を行う時、君主は楽を徹し膳を減らした。朕は今、庭に常設の楽はなく、何を徹すべきか分からないが、食事の際には酒肉を食さない。今後は、尚食と連絡を取り、刑を行う日には酒肉を進めないようにせよ。内教坊及び太常は、ともに教えを停止すべきである。また、曹司が獄を断ずるには、多く律文に拠っている。情に酌むべきところがあっても、法に違えることを敢えてせず、文を守って罪を定めるため、冤罪がある恐れがある。今後、門下が覆理する際、法に拠れば死に合うが情に酌むべき者は、その状を録して奏上せよ」。これにより全活される者が甚だ多かった。その五覆奏は、決する前の一日・二日に覆奏し、決する日にまた三度覆奏した。ただ悪逆を犯した者は、一覆奏のみとし、これを令に著した。

原文初,太宗以古者斷獄,必訊於三槐九棘之官,乃詔大辟罪,中書、門下五品已上及尚書等議之。其後河內人李好德,風疾瞀亂,有妖妄之言,詔按其事。大理丞張蘊古奏,好德癲病有征,法不當坐。治書侍御史權萬紀,劾蘊古貫相州,好德之兄厚德,為其刺史,情在阿縱,奏事不實。太宗曰:「吾常禁囚於獄內,蘊古與之弈棋,今復阿縱好德,是亂吾法也。」遂斬於東市。既而悔之。又交州都督盧祖尚,以忤旨斬於朝堂,帝亦追悔。下制,凡決死刑,雖令即殺,仍三覆奏。尋謂侍臣曰:「人命至重,一死不可再生。昔世充殺鄭頲,既而悔之,追止不及。今春府史取財不多,朕怒殺之,後亦尋悔,皆由思不審也。比來決囚,雖三覆奏,須臾之間,三奏便訖,都未得思,三奏何益?自今已後,宜二日中五覆奏,下諸州三覆奏。又古者行刑,君為徹樂減膳。朕今庭無常設之樂,莫知何徹,然對食即不啖酒肉。自今已後,令與尚食相知,刑人日勿進酒肉。內教坊及太常,並宜停教。且曹司斷獄,多據律文,雖情在可矜,而不敢違法,守文定罪,或恐有冤。自今門下覆理,有據法合死而情可宥者,宜錄狀奏。」自是全活者甚眾。其五覆奏,以決前一日、二日覆奏,決日又三覆奏。惟犯惡逆者,一覆奏而已,著之於令。

太宗が張蘊古を誅した後、法官は罪を軽くすることを戒めとし、時に罪を重くする過ちがあっても、また罪を加えなかった。これにより刑網は甚だ密になった。帝はかつて大理卿の劉徳威に問うた、「近頃刑網がやや密になっているのは、何故か」。徳威が答えて言うには、「律文には、罪を重くする過ちは三等を減じ、罪を軽くする過ちは五等を減ずるとある。今、罪を重くする過ちがあっても無罪であり、罪を軽くする過ちがあれば直ちに大罪を獲る。これにより吏は皆、深く文を穿鑿するのである」。太宗はその言を然りとした。これにより出入に過ちがあった者には、律文に依らせ、獄を断ずる者は次第に平允になった。十四年、また流罪を三等に制し、里数に限らず、辺境の悪しき州に配する量を定めた。その後、寛典は存したが、犯す者は次第に少なくなった。

原文太宗既誅張蘊古之後,法官以出罪為誡,時有失入者,又不加罪焉,由是刑網頗密。帝嘗問大理卿劉德威曰:「近來刑網稍密,何也?」德威對曰:「律文失入減三等,失出減五等。今失入則無辜,失出則便獲大罪,所由吏皆深文。」太宗然其言。由是失於出入者,令依律文,斷獄者漸為平允。十四年,又制流罪三等,不限以里數,量配邊惡之州。其後雖存寬典,而犯者漸少。

高宗が即位し、貞観の故事に従い、刑を恤むことに務めた。かつて大理卿の唐臨に獄に繋がれている囚の数を問うた。臨が答えて言うには、「見囚は五十余人で、ただ二人が死に合うのみです」。帝は囚の数が全く少ないことを喜び、顔色に表れた。永徽初年、太尉長孫無忌・司空しくう李勣・左僕射于志寧・右僕射張行成・侍中高季輔・黄門侍郎宇文節柳奭・右丞段宝玄・太常少卿令狐徳棻・吏部侍郎高敬言・刑部侍郎劉燕客・給事中趙文恪・中書舎人李友益・少府丞張行実・大理丞元紹・太府丞王文端・刑部郎中賈敏行らに詔して、共に律令格式を撰定させた。旧制で不便なものは、皆随って刪改した。遂に格を二部に分けた。曹司の常務を『留司格』とし、天下が共にするものを『散頒格』とした。その『散頒格』は州県に下し、『留司格』はただ本司に留めて行用させた。三年、詔して言う、「律学に定まった疏がなく、毎年挙げる明法は、遂に拠るべき準がない。宜しく解律の人を広く召して条の義疏を奏聞せしめよ。なお中書・門下に監定させよ」。ここにおいて太尉趙国公無忌・司空英国公勣・尚書左僕射兼太子少師監修国史燕国公志寧・銀青光禄大夫刑部尚書唐臨・太中大夫守大理卿段宝玄・朝議大夫守尚書右丞劉燕客・朝議大夫守御史中丞賈敏行らが参撰して『律疏』を成し、三十巻とし、四年十月に奏上して天下に頒った。これより獄を断ずる者は皆、疏を引いて分析した。永徽五年五月、上は侍臣に言った、「獄訟が繁多なのは、皆刑罰が枉濫による。故に刑は成るものと言い、一度成れば変えることができない。末代の獄を断ずる人は、皆苛刻を以て明と為す。これにより秦氏の網は秋の荼の如く密で、罪を獲る者が多かった。今、天下に事無く、四海安んじ、公らと共に寛政を行いたい。今日の刑罰に、枉濫は無いか」。無忌が答えて言うには、「陛下が刑法を寛平に得ようとされても、臣下はなお聖意を識りません。この法の弊れは久しく来り、今日に止まりません。もし情が国を体するにあれば、即ち共に癡人と号し、意が深文にあれば、便ち好吏と称します。これにより罪は杖に合うといえども、必ず徒に遣わそうとし、理に生かすべきところがあっても、務めて死に入れようとします。前人を憎むのではなく、死刑に陥れるのです。陛下が憐れんで放てと命じられても、法司もまた固く請うべきですが、ただ陛下の喜怒が妄りに人に加わらなければ、刑罰は自然に適中します」。上はこれを然りとした。永徽六年七月、上は侍臣に言った、「律は比附に通じ、条例が多すぎる」。左僕射志寧らが答えて言う、「旧律は多く比附して事を断じたので、やや解し難かった。科条は極めて多く、数は三千に至った。隋の日に再び定め、ただ五百を留めた。事類の相似たるものを以て、比附して科断した。今日停止するものは、即ち隋律を参取して修易したものである。条章既に少なく、極めて省便である」。

原文高宗即位,遵貞觀故事,務在恤刑。嘗問大理卿唐臨在獄系囚之數,臨對曰:「見囚五十餘人,惟二人合死。」帝以囚數全少,怡然形於顏色。永徽初,敕太尉長孫無忌、司空李勣、左僕射于志寧、右僕射行成、侍中高季輔、黃門侍郎宇文節柳奭、右丞段寶玄、太常少卿令狐德棻、吏部侍郎高敬言、刑部侍郎劉燕客、給事中趙文恪,中書舍人李友益、少府丞張行實、大理丞元紹、太府丞王文端、刑部郎中賈敏行等,共撰定律令格式。舊制不便者,皆隨刪改。遂分格為兩部:曹司常務為《留司格》,天下所共者為《散頒格》。其《散頒格》下州縣,《留司格》但留本司行用焉。三年,詔曰:「律學未有定疏,每年所舉明法,遂無憑准。宜廣召解律人條義疏奏聞。仍使中書、門下監定。」於是太尉趙國公無忌、司空英國公勣、尚書左僕射兼太子少師監修國史燕國公志寧、銀青光祿大夫刑部尚書唐臨、太中大夫守大理卿段寶玄、朝議大夫守尚書右丞劉燕客、朝議大夫守御史中丞賈敏行等,參撰《律疏》,成三十卷,四年十月奏之,頒於天下。自是斷獄者皆引疏分析之。永徽五年五月,上謂侍臣曰:「獄訟繁多,皆由刑罰枉濫,故曰刑者成也,一成而不可變。末代斷獄之人,皆以苛刻為明,是以秦氏網密秋荼,而獲罪者眾。今天下無事,四海乂安,欲與公等共行寬政。今日刑罰,得無枉濫乎?」無忌對曰:「陛下欲得刑法寬平,臣下猶不識聖意。此法弊來已久,非止今日。若情在體國,即共號癡人,意在深文,便稱好吏。所以罪雖合杖,必欲遣徒,理有可生,務入於死,非憎前人,陷於死刑。陛下矜而令放,法司亦宜固請,但陛下喜怒不妄加於人,刑罰自然適中。」上以為然。永徽六年七月,上謂侍臣曰:「律通比附,條例太多。」左僕射志寧等對:「舊律多比附斷事,乃稍難解。科條極眾,數至三千。隋日再定,惟留五百。以事類相似者,比附科斷。今日所停,即是參取隋律修易。條章既少,極成省便。」

龍朔二年、官号を改易し、これにより司刑太常伯源直心・少常伯李敬玄・司刑大夫李文礼らに格式を重ねて定めさせたが、ただ曹局の名を改めただけで、篇第は易えなかった。麟徳二年に奏上した。儀鳳年中に至り、官号が旧に復し、また左僕射劉仁軌・右僕射戴至徳・侍中張文瓘・中書令李敬玄・右庶子郝処俊・黄門侍郎来恆・左庶子高智周・右庶子李義琰・吏部侍郎裴行儉馬載・兵部侍郎蕭徳昭裴炎・工部侍郎李義琛・刑部侍郎張楚・金部郎中盧律師らに詔して格式を刪緝させた。儀鳳二年二月九日、撰定して奏上した。先に詳刑少卿の趙仁本が『法例』三巻を撰し、これを引いて獄を断じたが、時の議論もこれを折衷と為した。後に高宗がこれを覧て、煩文で不便であると考えた。そこで侍臣に言った、「律・令・格・式は天下の通規であり、朕の庸虚が創制できるものではない。皆、武徳の際、貞観以来、宸衷に取って定め、衆議を参詳し、条章備わり挙がり、軌躅昭然としている。事に臨んでこれに遵って行えば、自ずから尽くすことができない。何故更に例を作る必要があろうか。これにより触れる度に疑いが多い。これを計るに、この因循は今日に適するものではない。速やかに轍を改め、更に然るべからず」。これより『法例』は遂に廃されて用いられなかった。

原文龍朔二年,改易官號,因敕司刑太常伯源直心、少常伯李敬玄、司刑大夫李文禮等重定格式,惟改曹局之名,而不易篇第。麟德二年奏上。至儀鳳中,官號復舊,又敕左僕射劉仁軌、右僕射戴至德、侍中張文瓘、中書令李敬玄、右庶子郝處俊、黃門侍郎來恆、左庶子高智周、右庶子李義琰、吏部侍郎裴行儉馬載、兵部侍郎蕭德昭裴炎、工部侍郎李義琛、刑部侍郎張楚、金部郎中盧律師等,刪緝格式。儀鳳二年二月九日,撰定奏上。先是詳刑少卿趙仁本撰《法例》三卷,引以斷獄,時議亦為折衷。後高宗覽之,以為煩文不便。因謂侍臣曰:「律、令、格、式,天下通規,非朕庸虛所能創制。並是武德之際,貞觀已來,或取定宸衷,參詳眾議,條章備舉,軌躅昭然,臨事遵行,自不能盡。何為更須作例,致使觸緒多疑。計此因循,非適今日,速宜改轍,不得更然。」自是,《法例》遂廢不用。

則天武后が朝政を執るに当たり、初めは大いに人心を収めんと欲した。垂拱の初年、銅を熔かして匭(投書箱)を作らせ、四面に門を設け、それぞれの方角の色に依り、一つの室を共にした。東面は延恩匭と名付け、賦頌を献上し及び官爵を求めることを許す者の封表を投ずる。南面は招諫匭と曰い、時政の得失を言い及び直言して諫諍する者を投ずる。西面は申冤匭と曰い、罪を得て冤濫する者を投ずる。北面は通玄匭と曰い、玄象災変及び軍謀秘策ある者を投ずる。毎日これを朝堂に置き、以て天下の表疏を収む。既に出でたる後、不逞の徒、或いは陰私を攻撃し、朝政を謗訕する者に至る。後に乃ち中書・門下の官一人をして、専ら其の投ずる状を監せしめ、仍って識官を責め、然る後に進封を許し、之を行いて今に至る。則天は又内史裴居道・夏官尚書岑長倩・鳳閣侍郎韋方質と刪定官袁智弘等十余人に命じ、格式を刪改し、計帳及び勾帳式を加え、旧式を通じて二十巻を成す。又武徳以来、垂拱以前の詔敕で時に便なるものを以て、『新格』二巻に編し、則天自ら序を製す。其二巻の外、別に六巻を編し、当司の行用に堪うるものと為し、『垂拱留司格』と為す。時に韋方質は法理に詳練し、又其の事を咸陽尉王守慎に委ね、又経理の才有り、故に『垂拱格』・『式』は、議者之を詳密と称す。其の律令は唯二十四条を改むるのみ、又不便なる者あり、大抵旧に依る。

原文則天臨朝,初欲大收人望。垂拱初年,令熔銅為匭,四面置門,各依方色,共為一室。東面名曰延恩匭,上賦頌及許求官爵者封表投之。南面曰招諫匭,有言時政得失及直言諫諍者投之。西面曰申冤匭,有得罪冤濫者投之。北面曰通玄匭,有玄象災變及軍謀秘策者投之。每日置之於朝堂,以收天下表疏。既出之後,不逞之徒,或至攻訐陰私,謗訕朝政者。後乃令中書、門下官一人,專監其所投之狀,仍責識官,然後許進封,行之至今焉。則天又敕內史裴居道、夏官尚書岑長倩、鳳閣侍郎韋方質與刪定官袁智弘等十餘人,刪改格式,加計帳及勾帳式,通舊式成二十卷。又以武德已來、垂拱已前詔敕便於時者,編為《新格》二卷,則天自製序。其二卷之外,別編六卷,堪為當司行用,為《垂拱留司格》。時韋方質詳練法理,又委其事于咸陽尉王守慎,又有經理之才,故《垂拱格》、《式》,議者稱為詳密。其律令惟改二十四條,又有不便者,大抵依舊。

然るに則天は用刑に厳しく、徐敬業の乱が起こり、及び豫よ・博の兵が起きたる後のこと、人心の動揺を恐れ、威を以て天下を制せんと欲し、漸く酷吏を引き入れ、務めて深文を令し、以て刑獄を案ず。長寿年間に上封事して嶺表の流人に陰謀叛逆する者ありと言う者有り、乃ち司刑評事萬國俊を遣わし監察御史を摂めて就きて之を案ぜしめ、若し反状を得ば、斬決す。國俊は広州に至り、遍く流人を召し、之を水曲に擁し、以て次第に戮を加う。三百余人、一時に並びて命を失い、然る後に鍛錬して曲げて反状を成す。乃ち更に誣奏して云く、「諸道の流人、多く怨望有り。若し推究せざれば、変を為すこと遠からず」と。則天は深く其の言を然りとす。又摂監察御史劉光業・王德壽・鮑思恭・王処貞・屈貞筠等を命じ、分かれて剣南・黔中・安南・嶺南等六道に往き、流人を按鞫せしむ。光業の所在に殺戮す。光業は九百人を誅し、德壽は七百人を誅し、其の余の少なき者も数百人を減ぜず。亦雑犯及び遠年の流人も有り、亦枉く禍に及ぶ。時に周興・来俊臣等、相次いで制を受けて大獄を推究す。乃ち都城麗景門内に於いて、別に推事使院を置き、時人之を「新開獄」と謂う。俊臣は又侍御史侯思止・王弘義・郭霸は・李敬仁、評事康暐・衛遂忠等と、告事する者数百人を招集し、共に羅織を為し、以て良善を陥る。前後枉く殺害に遭う者、勝えず数うべからず。又『告密羅織経』一巻を造り、其の意旨は皆前人を網羅し、織りて反状を成す。俊臣は毎に囚を鞫うるに、軽重を問わず、多く醋を以て鼻に灌ぐ。禁地の牢中に、或いは之を甕に盛り、火を以て囲繞し炙る。兼ねて其の糧餉を絶ち、衣絮を抽いて以て之を啖う者有るに至る。其の作る所の大枷、凡そ十号有り:一に曰く定百脈、二に曰く喘不得、三に曰く突地吼、四に曰く著即承、五に曰く失魂膽、六に曰く実同反、七に曰く反是実、八に曰く死猪愁、九に曰く求即死、十に曰く求破家。又糞穢に寝処せしめ、諸の苦毒を備う。毎に制書有りて囚徒を寬宥するに、俊臣は必ず先ず獄卒を遣わし、尽く重罪を殺し、然る後に宣示す。是の時海内慴懼し、道路目を以てす。麟台正字陳子昂上書して曰く、

原文然則天嚴于用刑,屬徐敬業作亂,及豫、博兵起之後,恐人心動搖,欲以威制天下,漸引酷吏,務令深文,以案刑獄。長壽年有上封事言嶺表流人有陰謀逆者,乃遣司刑評事萬國俊攝監察御史就案之,若得反狀,斬決。國俊至廣州,遍召流人,擁之水曲,以次加戮。三百餘人,一時並命,然後鍛煉曲成反狀。乃更誣奏云:「諸道流人,多有怨望。若不推究,為變不遙。」則天深然其言。又命攝監察御史劉光業、王德壽、鮑思恭、王處貞、屈貞筠等,分往劍南、黔中、安南、嶺南等六道,按鞫流人。光業所在殺戮。光業誅九百人,德壽誅七百人,其餘少者不減數百人。亦有雜犯及遠年流人,亦枉及禍焉。時周興、來俊臣等,相次受制推究大獄。乃于都城麗景門內,別置推事使院,時人謂之「新開獄」。俊臣又與侍御史侯思止王弘義郭霸李敬仁、評事康暐衛遂忠等,招集告事數百人,共為羅織,以陷良善。前後枉遭殺害者,不可勝數。又造《告密羅織經》一卷,其意旨皆網羅前人,織成反狀。俊臣每鞫囚,無問輕重,多以醋灌鼻。禁地牢中,或盛之於甕,以火圍繞炙之。兼絕其糧餉,至有抽衣絮以啖之者。其所作大枷,凡有十號:一曰定百脈,二曰喘不得,三曰突地吼,四曰著即承,五曰失魂膽,六曰實同反,七曰反是實,八曰死豬愁,九曰求即死,十曰求破家。又令寢處糞穢,備諸苦毒。每有制書寬宥囚徒,俊臣必先遣獄卒,盡殺重罪,然後宣示。是時海內懾懼,道路以目。麟台正字陳子昂上書曰:

臣聞く、古の天下を禦ぐる者は、其の政に三有り:王者は之を化し、仁義を用うるなり;霸者は之を威し、権智を任ずるなり;強国は之を脅し、刑罰を務むるなり。是を以て化すこと足らざれば、然る後に之を威し、威すこと足らざれば、然る後に之を刑す。故に刑に至っては、則ち王者の貴ぶ所に非ざるなり。況んや光宅天下せんと欲し、功を上皇に追い、専ら刑殺を任じて以て威断と為すは、策の失う者と謂うべし。

原文臣聞古之禦天下者,其政有三:王者化之,用仁義也;霸者威之,任權智也;強國脅之,務刑罰也。是以化之不足,然後威之,威之不足,然後刑之。故至於刑,則非王者之所貴矣。況欲光宅天下,追功上皇,專任刑殺以為威斷,可謂策之失者也。

臣伏して睹るに、陛下の聖徳聰明、太古に心を遊ばし、将に宇宙を制静し、黎民を保乂せんとし、号令を発し施すこと、誠慊より出ず。天下の蒼生、聖風を懸望せざる莫く、神化を見んことを冀い、道德を以て政と為し、将に陛下に侍らんとす。臣聞く、聖人出ずれば、必ず驅除有り、蓋し天人の符、休命に応ずるなり。日者東南の微孽、敢えて乱常を謀る。陛下天に順いて行誅し、罪悪咸く伏す、豈に天意陛下の威武の功を彰さんと欲するに非ざらんや!而して執事者天心を察せず、以て人意と為し、其の首乱唱禍を悪み、法合誅屠すべく、奸源を息めんとし、其の党与を窮む。遂に陛下をして大いに詔獄を開かしめ、重ねて厳刑を設け、以て奸を懲らしめ、天下に観せしむ。逆党の親属及び其の交遊、嫌疑に渉る有り、辞相連及し、窮捕考校せざる莫く、枝葉蟠拿す。大なるは或いは流血し、小なるは魑魅に禦う。奸人の熒惑に至りては、険に乗り相誣い、疑似を糾告し、爵賞を冀図し、闕下に叫ぶ者、日に数有り。時に朝廷徨徨として、自ら固むる能わず、海内傾聴し、以て相驚恐す。頼むに陛下仁慈に、其の危懼を憫み、恩詔を賜い、其の大功已上を許し、一切論ずる勿からしむ。人時に泰を獲、生を再造すと謂う。愚臣窃に忻然として以て、陛下の聖明、天の機を得たるを賀す。議者の異見有り、又前図を執り、比者の刑獄、紛紛として復た起るを謂わざるなり。陛下天意を深思せずして、以て休期に順わず、尚以て督察を理と為し、威刑を務めと為し、前者の詔をして、人に信ぜられしめざる。愚臣昧たり、窃に五帝・三王の罪を伐ち人を吊うの意に非ざるを恐る。

原文臣伏睹陛下聖德聰明,遊心太古,將制靜宇宙,保乂黎民,發號施令,出於誠慊。天下蒼生,莫不懸望聖風,冀見神化,道德為政,將侍于陛下矣。臣聞之,聖人出,必有驅除,蓋天人之符,應休命也。日者東南微孽,敢謀亂常。陛下順天行誅,罪惡咸伏,豈非天意欲彰陛下威武之功哉!而執事者不察天心,以為人意,惡其首亂唱禍,法合誅屠,將息奸源,窮其黨與。遂使陛下大開詔獄,重設嚴刑,冀以懲奸,觀於天下。逆党親屬及其交遊,有涉嫌疑,辭相連及,莫不窮捕考校,枝葉蟠拿。大或流血,小禦魑魅。至有奸人熒惑,乘險相誣,糾告疑似,冀圖爵賞,叫于闕下者,日有數矣。于時朝廷徨徨,莫能自固,海內傾聽,以相驚恐。賴陛下仁慈,憫其危懼,賜以恩詔,許其大功已上,一切勿論。人時獲泰,謂生再造。愚臣竊以忻然,賀陛下聖明,得天之機也。不謂議者異見,又執前圖,比者刑獄,紛紛復起。陛下不深思天意,以順休期,尚以督察為理,威刑為務,使前者之詔,不信於人。愚臣昧焉,竊恐非五帝、三王伐罪吊人之意也。

臣がひそかに観察するに、当今天下の百姓は、安寧を思うこと久しい。かつて北胡が塞を侵し、西戎が辺を寇した際には、兵革相屠り、ほぼ十年を経た。関・河より北は、幽・燕へと輸送し、秦・蜀の西は、湟・海へと馳せた。当時、天下は疲弊極まりなかったか。重ねて大兵の後に、凶年に遭い、流離し飢餓し、死喪することほぼ半ばに及んだ。幸い陛下の至聖の徳により、兆民を撫寧し、辺境は安らぎを得、中国は事なく、陰陽大いに順い、年穀累ねて登り、天下の父子、始めて相養うを得たのである。揚州に禍を構えて、ほぼ五十日、しかるに海中は晏然として、微塵も動かず、これ天下の蒸庶が凶乱を厭うにあらざるか。臣はこれをもって占うに、百姓は安寧を思うこと久しいのである。今、陛下は玄黙を務めて疲民を救わず、かえって威刑を任せてその望みを失わせ、察察たるをもって政と為し、寰区を粛理せんと欲する。愚臣暗昧、ひそかに大いに惑う。かつ臣が聞くところによれば、刑は政の末節である。先王は暴を禁じ乱を厘するに、已むを得ずしてこれを用いた。今、天下幸いに安らかで、万物は泰平を思い、陛下は末節の法をもって、平人を察理せんとされる。愚臣は適変随時の義に非ざると思う。近年以来、諸方の告密を見るに、囚人は累百千輩に及ぶ。大抵告ぐるところは、皆揚州を名とし、その窮竟に及べば、百に一つの実もない。陛下は仁恕にして、また法を屈してこれを容れ、傍ら他事を訐るも、また推劾せしめられる。遂に奸臣の党をして、快意相讎せしめ、睚眥の嫌あれば、即ち密有りと称せしめる。一人被告すれば、百人獄に満つ。使者の推捕するや、冠蓋市の如し。あるいは陛下が一人を愛して百人を害すると謂い、天下喁喁として、寧所を知る莫し。

原文臣竊觀當今天下百姓,思安久矣。曩屬北胡侵塞,西戎寇邊,兵革相屠,向曆十載。關、河自北,轉輸幽、燕;秦、蜀之西,馳騖湟、海。當時天下疲極矣!重以大兵之後,屬遭凶年,流離饑餓,死喪略半。幸賴陛下以至聖之德,撫寧兆人,邊境獲安,中國無事,陰陽大順,年穀累登,天下父子,始得相養矣。揚州構禍,殆有五旬,而海中晏然,纖塵不動,豈非天下蒸庶厭凶亂哉?臣以此卜之,百姓思安久矣。今陛下不務玄默,以救疲民,而又任威刑以失其望,欲以察察為政,肅理寰區。愚臣暗昧,竊有大惑。且臣聞刑者,政之末節也。先王以禁暴厘亂,不得已而用之。今天下幸安,萬物思泰,陛下乃以末節之法,察理平人,愚臣以為非適變隨時之義也。頃年以來,伏見諸方告密。囚累百千輩。大抵所告,皆以揚州為名,及其窮竟,百無一實。陛下仁恕,又屈法容之,傍訐他事,亦為推劾。遂使奸臣之党,快意相讎,睚眥之嫌,即稱有密。一人被告,百人滿獄。使者推捕,冠蓋如市。或謂陛下愛一人而害百人,天下喁喁,莫知寧所。

臣が聞くところによれば、聖人に非ざれば、外患無くば必ず内憂有り、物理自然のなりである。臣は古遠を以て言うことを敢えず、隋を指して説くことを請う。臣が長老の云うところを聞けば、隋の末世、天下は猶平らかであった。煬帝は恭しからず、威武を窮毒し、皇極に居ることを厭い、自ら元戎を総べ、百万の師を以て、遼海に兵を観し、天下始めて騒然とした。遂に楊玄感をして不臣の勢を挟み、大盗の心を有らしめ、人謀に因りて、皇業を窃まんと欲せしめた。中夏に兵を称し、将に洛陽らくようを拠らんとするに及んで、哮寔の勢宇宙を傾けた。然るに乱未だ月を逾えずして、頭足異処す。何となれば、天下の弊、未だ土崩せず、蒸人の心、猶楽業を望んだからである。煬帝は悟らず、人機を暗忽にした。自ら元悪既に誅せられ、天下に巨猾無しと為し、皇極の任は、刑罰を以てこれを理すべしとした。遂に兵部尚書樊子蓋をして専ら屠戮を行わしめ、党与を大いに窮め、海内の豪士、殃に罹らざる無からしめた。遂に人を殺すこと麻の如く、血を流して沢と成し、天下靡然として乱を為さんと思った。ここにおいて蕭銑・朱粲は荊南より起り、李密・竇建徳は河北に乱れた。四海雲の如く揺れ、遂に並び起って隋族を亡ぼした。豈に哀しまざらんや。長老今に至るまでこれを談じ、委曲かくの如し。

原文臣聞自非聖人,不有外患,必有內憂,物理自然也。臣不敢以古遠言之,請指隋而說。臣聞長老云:隋之末世,天下猶平。煬帝不恭,窮毒威武,厭居皇極,自總元戎,以百萬之師,觀兵遼海,天下始騷然矣。遂使楊玄感挾不臣之勢,有大盜之心,欲因人謀,以竊皇業。及稱兵中夏,將據洛陽,哮寔之勢傾宇宙矣。然亂未逾月,而頭足異處。何者?天下之弊,未有土崩,蒸人之心,猶望樂業。煬帝不悟,暗忽人機。自以為元惡既誅,天下無巨猾也,皇極之任,可以刑罰理之。遂使兵部尚書樊子蓋專行屠戮,大窮黨與,海內豪士,無不罹殃。遂至殺人如麻,流血成澤,天下靡然思為亂矣。於是蕭銑、硃粲起于荊南,李密、竇建德亂于河北。四海雲搖,遂並起而亡隋族矣。豈不哀哉!長老至今談之,委曲如是。

三代夏・殷の興亡を観、以下秦・漢・魏・晋の理乱に至るまで、皆毒刑を以て敗壊に致したものでないものはない。大獄一たび起これば、濫れ無からざるを得ない。何となれば、刀筆の吏は大方を識ること寡く、断獄の能者は、急刻に名在り。文深く網密なれば、則ち共に至公と称し、爰に人主に及んでも、またその法を奉ずると謂う。ここにおいて利は人を殺すに在り、害は平恕に在り、故に獄吏は相誡めて、殺を以て詞とす。人を憎むに非ざるなり、己に利有るが故である。故に上は人主の旨を希い、栄身の利を図る。利に徇うこと既に多ければ、則ち濫れ無からざるを得ず、濫れて良善に及べば、則ち淫刑逞しくなる。人情、自らその身を愛さざるは莫し、陛下これを以て察せられよ、豈に濫れ無からんや。冤人籲嗟し、和気を感傷す。和気悖乱すれば、群生癘疫す。水旱これに随い、則ち凶年有り。人既に業を失えば、則ち禍乱の心怵然として生ず。近頃亢陽候に愆り、雲して雨らず、農夫耒を釈き、嗷嗷と瞻望す。豈に陛下の聖徳有りて人に降沢せざるに由らざらんや。儻し旱遂に春を過ぎ、時種に廃すれば、今年の稼穡、必ず損有らん。陛下天意を敬承し、以て人を沢恤せざらんや。臣が聞くところによれば、古の明王は刑罰を重慎した、蓋しこれを懼れたからである。『書』に云わざるか、「其れ不辜を殺すに与するよりは、寧ろ不経を失え」と。陛下奈何ぞ堂堂の聖を以て、猶強国の威を務めんとされる。愚臣ひそかに陛下の取らざる所と為す。

原文觀三代夏、殷興亡,已下至秦、漢、魏、晉理亂,莫不皆以毒刑而致敗壞也。夫大獄一起,不能無濫。何者?刀筆之吏,寡識大方,斷獄能者,名在急刻。文深網密,則共稱至公,爰及人主,亦謂其奉法。於是利在殺人,害在平恕,故獄吏相誡,以殺為詞。非憎於人也,而利在己。故上以希人主之旨,以圖榮身之利。徇利既多,則不能無濫,濫及良善,則淫刑逞矣。夫人情莫不自愛其身,陛下以此察之,豈非無濫矣!冤人籲嗟,感傷和氣;和氣悖亂,群生癘疫;水旱隨之,則有凶年。人既失業,則禍亂之心怵然而生矣。頃來亢陽愆候,雲而不雨,農夫釋耒,瞻望嗷嗷,豈不由陛下之有聖德而不降澤於人也?儻旱遂過春,廢于時種,今年稼穡,必有損矣。陛下可不敬承天意,以澤恤人?臣聞古者明王重慎刑罰,蓋懼此也。《書》不雲乎,「與其殺不辜,寧失不經。」陛下奈何以堂堂之聖,猶務強國之威。愚臣竊為陛下不取。

かつ愚人は安ければ則ち生を楽しみ、危ければ則ち変を思う。故に事に禍を招く有り、法に奸を起す有り。儻し大獄未だ休まず、支党日に広まり、天下疑惑し、相い無辜を恐るれば、人情の変、察せざるべからず。昔、漢武帝の時、巫蠱の獄起こり、江充詐を行い、京師に乱を作し、太子の奔走に至り、兵宮闕に交わり、無辜の害せられる者万千数を以て数う。当時、劉宗幾くんと覆滅せんとしたが、武帝が壺関の三老の上書を得て、幡然として感悟し、江充の三族を夷し、余獄は論ぜず、天下稍く以て安んずるを得た。臣、書を読みて此に至り、未だ嘗て戾太子の為に涕を流さざるはない。古人云う、「前事忘れざれば、後事の師なり」と。伏して願わくは陛下これを念わんことを。今、臣は湯鑊の罪を避けず、螻蟻の命を以て、軽く宸厳に触る。臣は死を悪みて生を貪らざるに非ざるなり、誠に陛下の恩遇に負い、微命を以て聰明を蔽塞するも、また敢えて陛下に厳刑を頓息せしめんと欲するに非ず、恤刑に望むのみである。三事大夫と与に、その可否を図らんことを乞う。往く者は諫むべからず、来たる者は猶追うべし。臣微なるを以てその奏を忽せざらんことを、天下幸甚なり。

原文且愚人安則樂生,危則思變。故事有招禍,法有起奸。倘大獄未休,支黨日廣,天下疑惑,相恐無辜,人情之變,不可不察。昔漢武帝時巫蠱獄起,江充行詐,作亂京師,至使太子奔走,兵交宮闕,無辜被害者以萬千數。當時劉宗幾覆滅矣,賴武帝得壺關三老上書,幡然感悟,夷江充三族,餘獄不論,天下少以安耳。臣讀書至此,未嘗不為戾太子流涕也。古人云:「前事不忘,後事之師。」伏願陛下念之。今臣不避湯鑊之罪,以螻蟻之命,輕觸宸嚴。臣非不惡死而貪生也,誠以負陛下恩遇,以微命蔽塞聰明,亦非敢欲陛下頓息嚴刑,望在恤刑耳。乞與三事大夫,圖其可否。夫往者不可諫,來者猶可追,無以臣微而忽其奏,天下幸甚。

疏奏して省みられず。

原文疏奏不省。

時に司刑少卿徐有功は常に酷吏の奏する所を駁し、毎日これと廷争して得失を論じ、冤濫を雪ぐことを以てし、これにより全済せられる者また勝えず数う、語は『有功伝』に在り。俊臣・弘義等の誅せられるに及び、刑獄稍く息む。前後の宰相王及善・姚元崇・朱敬則等、皆言うに、垂拱以来身死し家破るる者は、皆是れ枉濫なりと、則天も頗る覚悟す。ここにおいて監察御史魏靖上言して曰く。

原文時司刑少卿徐有功常駁酷吏所奏,每日與之廷爭得失,以雪冤濫,因此全濟者亦不可勝數,語在《有功傳》。及俊臣、弘義等伏誅,刑獄稍息。前後宰相王及善、姚元崇、硃敬則等,皆言垂拱已來身死破家者,皆是枉濫,則天頗亦覺悟。於是監察御史魏靖上言曰:

臣が聞くに、国の綱紀は生殺(生かすことと殺すこと)にある。その周興・来俊臣・丘神勣・万国俊・王弘義・侯思止・郭弘霸・李敬仁・彭先覚・王徳寿・張知黙らは、まさに堯の時代の四凶である。愚かで暴虐な振る舞いをほしいままにし、虐げと毒を含んだ行いを縦にし、在位する者を仇敵のように嫉み、朝廷の臣下に対して安んじて残忍なことを行い、罪は情実によって加えられ、刑罰は意のままに改められた。その当時は、囚人が牢獄に満ちて市のようであり、朝廷は目を伏せるばかりであった。やがて白日の下に隠れず、冤罪の魂も託すところがあり、悪を行えばその報いがあり、禍は淫らな者を懲らしめるもので、厳然たる天の刑罰を具現し、乱の首謀者を懲らしめる。ひそかに見るに、来俊臣が極刑に処せられたのは、彼が善良な者を羅織し、忠賢な者を陥れて殺害したためであり、財産を没収して将来を戒め、公然と殺戮して天下に謝罪するためである。臣はまた道で聞くところによれば、上は聖主から、傍らは貴臣に至るまで、皆はっきりと羅織の事があることを知っていた。俊臣が死んだ後、推問した者が功績を得、胡元礼は超えて昇進し、裴談は顕著に官職を授かり、朝廷内外で慶賀が称えられ、朝廷はようやく安泰となった。その党を破った者は、賞を時を過ぎずに与えることができた。彼らに陥れられた者は、どうして何年も滞らせておくことができようか。しかも反逆の徒と称するには、反逆の状況を得なければならない。ただ一片の言葉に拠るだけで、すぐに刑の執行を請い、拷問を妄りに加え、自白の答弁に限りはなかった。故に徐有功は寛大公平であるために忌み嫌われ、斛瑟羅は妓女のために拘束され、朝廷内外に皆知られており、枉げられた者と正しい者がここにある。これを例として借りれば、その他のことは詳らかである。臣はまた聞く、郭弘霸は自ら刺して快哉を叫び、万国俊は遮られて急に死んだ。霍献可は臨終に、膝が項に拳り、李敬仁は死に臨んで、舌が臍に至った。皆、多くの鬼が庭に満ち、群妖が道を横切り、徴が集まって応じるのは、響きが声に随うようであった。人々の謡いに備わっており、虚説ではない。伯有が昼間に現れることと、ほとんど異ならない。これもまた羅織の一つの証拠である。臣は至って愚かで、大体を識らず、もし平反する者を数人置き、衆人で共に詳しく覆審して来俊臣らが推問した大獄を、鄧艾が今日に申し開きを得、孝婦が昔のように濫りに罪を負わないようにし、恩沢が一流れとなれば、天下は幸いである。

原文臣聞國之綱紀,在乎生殺。其周興、來俊臣、丘神勣、萬國俊、王弘義、侯思止、郭弘霸、李敬仁、彭先覺、王德壽、張知默者,即堯年四凶矣。恣騁愚暴,縱虐含毒,讎嫉在位,安忍朝臣,罪逐情加,刑隨意改。當其時也,囚囹如市,朝廷以目。既而素虛不昧,冤魂有托,行惡其報,禍淫可懲,具嚴天刑,以懲亂首。竊見來俊臣身處極法者,以其羅織良善,屠陷忠賢,籍沒以勸將來,顯戮以謝天下。臣又聞之道路,上至聖主,傍洎貴臣,明明知有羅織之事矣,俊臣既死,推者獲功,胡元禮超遷,裴談顯授,中外稱慶,朝廷載安。破其黨者,即能賞不逾時;被其陷者,豈可淹之累歲。且稱反徒,須得反狀。惟據片辭,即請行刑,拷楚妄加,款答何限。故徐有功以寬平而見忌,斛瑟羅以妓女而受拘,中外具知,枉直斯在,藉以為喻,其餘可詳。臣又聞之,郭弘霸自刺而唱快,萬國俊被遮而遽亡。霍獻可臨終,膝拳于項;李敬仁將死,舌至於臍。皆眾鬼滿庭,群妖橫道,惟徵集應,若響隨聲。備在人謠,不為虛說,伯有晝見,殆無以過。此亦羅織之一據也。臣以至愚,不識大體,儻使平反者數人,眾共詳覆來俊臣等所推大獄,庶鄧艾獲申於今日,孝婦不濫于昔時,恩渙一流,天下幸甚。

上疏が奏上され、制令して来俊臣・丘神勣らが推問して身死し籍没した者を記録させ、三司に重ねて推勘させ、冤罪や濫りがある者は、皆雪冤して免ずるように命じた。

原文疏奏,制令錄來俊臣、丘神勣等所推鞫人身死籍沒者,令三司重推勘,有冤濫者,並皆雪免。

中宗神龍元年、制を以て故司僕少卿徐有功は、法を執り行って平恕であったため、越州都督を追贈し、特に一子に官職を授けた。また丘神勣・来子珣・万国俊・周興・来俊臣・魚承曄・王景昭・索元礼・傅遊芸・王弘義・張知黙・裴籍・焦仁亶・侯思止・郭霸・李敬仁・皇甫文備・陳嘉言・劉光業・王徳寿・王処貞・屈貞筠・鮑思恭の二十三人は、垂拱年間以来共に枉げ濫りに人を殺したため、所有の官爵を、皆追奪するよう命じた。天下は慶賀を称えた。時に既に改易し、制は全て貞観・永徽の故事に依った。中書令韋安石・礼部侍郎祝欽明・尚書右丞蘇瑰・兵部郎中狄光嗣らに勅して、『垂拱格』以後から神龍元年に至るまでの制勅を刪定し、『散頒格』七巻とした。また旧式を刪補し、二十巻として、天下に頒布した。景雲初年、睿宗はまた戸部尚書岑羲・中書侍郎陸象先・右散騎常侍さんきじょうじ徐堅・右司郎中唐紹・刑部員外郎邵知与・刪定官大理寺丞陳義海・右衛長史張処斌・大理評事張名播・左衛率府倉曹参軍羅思貞・刑部主事閻義顓の凡そ十人に勅して、格・式・律・令を刪定させた。太極元年二月に奏上し、名を『太極格』とした。

原文中宗神龍元年,制以故司僕少卿徐有功,執法平恕,追贈越州都督,特授一子官。又以丘神勣、來子珣、萬國俊、周興、來俊臣、魚承曄、王景昭、索元禮、傅遊藝、王弘義、張知默、裴籍、焦仁亶、侯思止、郭霸、李敬仁、皇甫文備、陳嘉言、劉光業、王德壽、王處貞、屈貞筠、鮑思恭二十三人,自垂拱已來並枉濫殺人,所有官爵,並令追奪。天下稱慶。時既改易,制盡依貞觀、永徽故事。敕中書令韋安石、禮部侍郎祝欽明、尚書右丞蘇瑰、兵部郎中狄光嗣等,刪定《垂拱格》後至神龍元年已來制敕,為《散頒格》七卷。又刪補舊式,為二十卷,頒於天下。景雲初,睿宗又敕戶部尚書岑羲、中書侍郎陸象先、右散騎常侍徐堅、右司郎中唐紹、刑部員外郎邵知與、刪定官大理寺丞陳義海、右衛長史張處斌、大理評事張名播、左衛率府倉曹參軍羅思貞、刑部主事閻義顓凡十人,刪定格、式、律、令。太極元年二月奏上,名為《太極格》。

開元初年、玄宗は黄門監盧懐慎・紫微侍郎兼刑部尚書李乂・紫微侍郎蘇頲・紫微舍人呂延祚・給事中魏奉古・大理評事高智静・同州韓城県丞侯郢璡・瀛州司法参軍閻義顓らに勅して、格・式・令を刪定させ、三年三月に奏上し、名を『開元格』とした。六年、玄宗はまた吏部侍郎兼侍中宋璟・中書侍郎蘇頲・尚書左丞盧従願・吏部侍郎裴漼慕容珣・戸部侍郎楊滔・中書舍人劉令植・大理司直高智静・幽州司功参軍侯郢璡ら九人に勅して、律・令・格・式を刪定させ、七年三月に奏上した。律・令・式は仍って旧名のままとし、格を『開元後格』といった。十九年、侍中裴光庭・中書令蕭嵩は、また格後の制勅が行用された後、格文と頗る相違し、事に便ならずとして、司に奏して刪撰させ『格後長行敕』六巻とし、天下に頒布した。二十二年、戸部尚書李林甫はまた詔を受けて格令を改修した。林甫が中書令に遷ると、乃ち侍中牛仙客・御史中丞王敬従と、明法の官である前左武衛冑曹参軍崔見・衛州司戸参軍直中書陳承信・酸棗尉直刑部俞元杞らと共に、旧格・式・律・令及び勅を加えて刪緝し、総七千二十六条とした。その内一千三百二十四条は事に要せず、併せて刪除した。二千一百八十条は文に随って損益し、三千五百九十四条は仍って改めず。総じて律十二巻、『律疏』三十巻、『令』三十巻、『式』二十巻、『開元新格』十巻を成した。また『格式律令事類』四十巻を撰し、類を以て相従い、省覧に便ならしめた。二十五年九月に奏上し、尚書都省に五十本を写させ、使者を発して天下に散らすよう勅した。その年、刑部が獄を断じたところ、天下の死罪はただ五十八人だけであった。大理少卿徐嶠が上言して言うには、大理獄院は、由来相伝えて殺気が盛ん過ぎ、鳥雀が棲まなかったが、この時に至って鵲がその樹に巣を作った。ここにおいて百官は幾らか刑措に至ったとして、上表して賀を陳べた。玄宗は宰相が政務を処理し、法官が平允であった功績により、仙客を邠国公に封じ、林甫を晋国公に封じ、刑部大理の官に共に帛二千匹を賜った。

原文開元初,玄宗敕黃門監盧懷慎、紫微侍郎兼刑部尚書李乂、紫微侍郎蘇頲、紫微舍人呂延祚、給事中魏奉古、大理評事高智靜、同州韓城縣丞侯郢璡、瀛州司法參軍閻義顓等,刪定格、式、令,至三年三月奏上,名為《開元格》。六年,玄宗又敕吏部侍郎兼侍中宋璟、中書侍郎蘇頲、尚書左丞盧從願、吏部侍郎裴漼慕容珣、戶部侍郎楊滔、中書舍人劉令植、大理司直高智靜、幽州司功參軍侯郢璡等九人,刪定律、令、格、式,至七年三月奏上。律、令、式仍舊名,格曰《開元後格》。十九年,侍中裴光庭、中書令蕭嵩,又以格後制敕行用之後,頗與格文相違,於事非便,奏令所司刪撰《格後長行敕》六卷,頒於天下。二十二年,戶部尚書李林甫又受詔改修格令。林甫遷中書令,乃與侍中牛仙客、御史中丞王敬從,與明法之官前左武衛胄曹參軍崔見、衛州司戶參軍直中書陳承信、酸棗尉直刑部俞元杞等,共加刪緝舊格、式、律、令及敕,總七千二十六條。其一千三百二十四條於事非要,並刪之。二千一百八十條隨文損益,三千五百九十四條仍舊不改。總成律十二卷,《律疏》三十卷,《令》三十卷,《式》二十卷,《開元新格》十卷。又撰《格式律令事類》四十卷,以類相從,便於省覽。二十五年九月奏上,敕于尚書都省寫五十本,發使散於天下。其年刑部斷獄,天下死罪惟有五十八人。大理少卿徐嶠上言:大理獄院,由來相傳殺氣太盛,鳥雀不棲,至是有鵲巢其樹。於是百僚以幾至刑措,上表陳賀。玄宗以宰相變理、法官平允之功,封仙客為邠國公,林甫為晉國公,刑部大理官共賜帛二千匹。

明慶より先天に至る六十年の間、高宗は寛仁にして、政は宮閫に帰す。則天の女主は猜忌にして、殺戮に果敢なり、宗枝の大臣は酷吏に鍛えられ、宗社を移易するに至り、幾くんぞ李氏を亡ぼさんとす。神龍の後、後族政を幹き、景雲継ぎ立ち、帰妹権を怙う。開元の際、刑政賞罰は宸極に断じ、四十余年、太平と謂うべし。及び塚臣邪を懐き、辺将内に侮り、乗輿巴・蜀に幸し、儲副朔方に立ち、未だ年を逾えずして、載せて京邑を収む、書契以来、宗社を克復すること斯くの如く速きは未だ有らず。而して両京の衣冠、多く脅従せられ、是に至り相率いて闕下に待罪す。而して執事者は務めて峻刑を以て威を取らんと欲し、尽く其の族を誅し、以て天下に令せんとす。議久しく定まらず、竟に三司使を置き、御史大夫兼京兆尹李峴・兵部侍郎呂諲・戸部侍郎兼御史中丞崔器・刑部侍郎兼御史中丞韓択木・大理卿厳向等五人を以て之と為す。初め、西京の文武官陸大鈞等賊に陥ち来帰す、崔器儀を草し、尽く冠を免き徒跣せしめ、膺を撫でて号泣せしめ、金吾府県の人吏を以て之を囲み、朝に於いて謝罪せしめ、収めて大理京兆府の獄に付し之を繫ぐ。及び陳希烈等大臣の至る者数百人、又た朝堂に徒跣せしむること初めの如く、宰相苗晋卿・崔円・李麟等百僚をして同視せしめ、以て棄辱と為し、詔を宣して以て之を責む。朝廷又た罪を負う者衆く、獄中に容れず、乃ち楊国忠の宅を賜いて之を鞫く。器・諲多く旨を希い深刻にし、而して択木は是非無く、独り李峴之に力争し、乃ち推す所の罪を六等と定め、百僚を集めて尚書省に議す。粛宗方に刑名を用い、公卿但だ唯唯として署名するのみ。是に於いて河南尹達奚珣等三十九人、以て罪重しと為し、従と共に棄つ。珣等十一人、子城西に於いて伏誅す。陳希烈・張垍・郭納・独孤朗等七人、大理寺獄に於いて自尽を賜う。達奚摯・張岯・李有孚・劉子英・冉大華二十一人、京兆府門に於いて重杖を決して死す。大理卿張均は独柳樹下の刑人の処に引き至り、死を免じて合浦郡に配流す、而して達奚珣・韋恆は乃ち腰斬に至る。是に先立ち、慶緒相州に至り、史思明・高秀岩等皆款を送りて命を請う、粛宗各々復位を令し、便ち管する所を領せしむ、是に至り自安せずして懼れ、各々其の党を率いて叛く。其の後三司刑を用い、連年定まらず、流貶相継ぐ。及び王璵相と為り、素より物議を聞き、詔を下すことを請う、今より已後、三司推勘未だ畢らざる者は一切放免せよと、大いに人望を収む。後蕭華魏州を抜きて国に帰り、嘗て朝に於いて話して云う、「初め河北の官、国家の詔を宣し陳希烈等の脅従官一切問わず、各々復位を令するを聞き、聞く者帰国の遅きを悔い、挙措自ら失う。及び後希烈等の死を聞き、皆相賀いて計を得たりとし、敢えて帰る者無し。是に於いて河北の将吏、人々益々堅く、大兵解けず。」

原文自明慶至先天六十年間,高宗寬仁,政歸宮閫。則天女主猜忌,果于殺戮,宗枝大臣,鍛于酷吏,至於移易宗社,幾亡李氏。神龍之後,後族幹政,景雲繼立,歸妹怙權。開元之際,刑政賞罰,斷於宸極,四十餘年,可謂太平矣。及塚臣懷邪,邊將內侮,乘輿幸于巴、蜀,儲副立于朔方,曾未逾年,載收京邑,書契以來,未有克復宗社若斯之速也。而兩京衣冠,多被脅從,至是相率待罪闕下。而執事者務欲峻刑以取威,盡誅其族,以令天下。議久不定,竟置三司使,以御史大夫兼京兆尹李峴、兵部侍郎呂諲、戶部侍郎兼御史中丞崔器、刑部侍郎兼御史中丞韓擇木、大理卿嚴向等五人為之。初,西京文武官陸大鈞等陷賊來歸,崔器草儀,盡令免冠徒跣,撫膺號泣,以金吾府縣人吏圍之,於朝謝罪,收付大理京兆府獄系之。及陳希烈等大臣至者數百人,又令朝堂徒跣如初,令宰相苗晉卿、崔圓、李麟等百僚同視,以為棄辱,宣詔以責之。朝廷又以負罪者眾,獄中不容,乃賜楊國忠宅鞫之。器、諲多希旨深刻,而擇木無所是非,獨李峴力爭之,乃定所推之罪為六等,集百僚尚書省議之。肅宗方用刑名,公卿但唯唯署名而已。於是河南尹達奚珣等三十九人,以為罪重,與從共棄。珣等十一人,於子城西伏誅。陳希烈、張垍、郭納、獨孤朗等七人,於大理寺獄賜自盡。達奚摯、張岯、李有孚、劉子英、冉大華二十一人,於京兆府門決重杖死。大理卿張均引至獨柳樹下刑人處,免死配流合浦郡,而達奚珣、韋恆乃至腰斬。先是,慶緒至相州,史思明、高秀岩等皆送款請命,肅宗各令復位,便領所管,至是懼不自安,各率其黨叛。其後三司用刑,連年不定,流貶相繼。及王璵為相,素聞物議,請下詔自今已後,三司推勘未畢者,一切放免,大收人望。後蕭華拔魏州歸國,嘗話於朝云:「初河北官聞國家宣詔放陳希列等脅從官一切不問,各令復位,聞者悔歸國之晚,舉措自失。及後聞希烈等死,皆相賀得計,無敢歸者。於是河北將吏,人人益堅,大兵不解。」

後に毛若虚・敬羽の流有り、皆深く酷く割剥し、驟に権柄を求め、人を殺して以て刑を逞しうし、厚く斂めて以て国を資す。六七年の間、大獄相継ぎ、州県の内、多くは貶降の人なり。粛宗復た三司の濫るる多きを聞き、嘗て悔いて云う、「朕三司に誤らる、深く之を恨む。」及び弥留の際、元載を以て相と為し、乃ち天下の流降人等一切放帰すと詔す。

原文後有毛若虛、敬羽之流,皆深酷割剝,驟求權柄,殺人以逞刑,厚斂以資國。六七年間,大獄相繼,州縣之內,多是貶降人。肅宗復聞三司多濫,嘗悔云:「朕為三司所誤,深恨之。」及彌留之際,以元載為相,乃詔天下流降人等一切放歸。

代宗宝応元年、回紇史朝義と戦い、勝ち、其の将士の妻子老幼四百八十人を擒う。上婦人は雖も賊家の口と為るも、皆是れ良家の子女、賊に逼略せられ、惻然として之を湣み、万年県に令して勝業仏寺に安置し、糧料を給す。若し親属認むる者有らば、任せて之を還すべし、如し親族無き者は、其の適する所に任せ、仍て糧を給して遞過せしむ。是に於いて人情感戴忻悦せざる莫し。大暦十四年六月一日、徳宗丹鳳楼に禦し大赦す。赦書の節文、「律・令・格・式の条目不だ折衷せざる者は、中書門下に委ね理識通明の官を簡択し共に刪定せしむ。至德已来の制勅、或いは人の奏請に因り、或いは事に臨み頒行し、差互同じからず、人をして疑惑せしむ、中書門下刪定官と詳決し、久長に行用に堪うるを取って、格条に編入す。」三司使は、式に准じて御史中丞・中書舎人・給事中各一人を以て之と為し、毎日朝堂に於いて詞を受け、推勘処分す。建中二年、刪定格令使並びに三司使を罷む。是に先立ち、中書門下を以て刪定格令使に充て、又た給事中・中書舎人・御史中丞を以て三司使と為す。是に至り中書門下奏請して旧に復し、刑部・御史台・大理寺を以て之と為す。其の格令は刑部に委ねて刪定せしむ。元和四年九月勅、「刑部大理決断系囚、過ぎて淹遅と為り、是れ奸幸を長ず。今より已後、大理寺検断、二十日を過ぐるを得ず、刑部覆下、十日を過ぐるを得ず。如し刑部覆に異同有らば、寺司重く加うるに十五日を過ぐるを得ず、省司量り覆うるに本日を過ぐるを得ず。如し牒外の州府の節目及び京城内に於いて勘する有らば、本推即日に報ず。牒到後の日数を計り、勘せらるる司卻って報ずるに五日を過ぐるを得ず。仍て刑部に令して遣牒及び報牒の月日を具し、牒報都省及び分察使にし、各々勅文に准じて勾挙糾訪せしむ。」

原文代宗寶應元年,回紇與史朝義戰,勝,擒其將士妻子老幼四百八十人。上以婦人雖為賊家口,皆是良家子女,被賊逼略,惻然湣之,令萬年縣於勝業佛寺安置,給糧料。若有親屬認者,任還之;如無親族者,任其所適,仍給糧遞過。於是人情莫不感戴忻悅。大曆十四年六月一日,德宗禦丹鳳樓大赦。赦書節文:「律、令、格、式條目有未折衷者,委中書門下簡擇理識通明官共刪定。自至德已來制敕,或因人奏請,或臨事頒行,差互不同,使人疑惑,中書門下與刪定官詳決,取堪久長行用者,編入格條。」三司使,准式以御史中丞、中書舍人、給事中各一人為之,每日於朝堂受詞,推勘處分。建中二年,罷刪定格令使並三司使。先是,以中書門下充刪定格令使,又以給事中、中書舍人、御史中丞為三司使。至是中書門下奏請復舊,以刑部、御史臺、大理寺為之。其格令委刑部刪定。元和四年九月敕:「刑部大理決斷系囚,過為淹遲,是長奸幸。自今已後,大理寺檢斷,不得過二十日,刑部覆下,不得過十日。如刑部覆有異同,寺司重加不得過十五日,省司量覆不得過本日。如有牒外州府節目及於京城內勘,本推即日以報。牒到後計日數,被勘司卻報不得過五日。仍令刑部具遣牒及報牒月日,牒報都省及分察使,各准敕文勾舉糾訪。」

六年九月、富平県人梁悦、父の為に仇人秦果を殺し、県に投じて罪を請う。勅、「復讐人を殺すは、固より彝典有り。其の冤を申し罪を請い、死を視ること帰するが如きを以て、自ら公門に詣い、天性より発す。節を徇わんと志し、本より生を求むるの心無く、経に失わずんば寧ろしとし、特に死を減ずるの法に従う。宜しく一百を決し、循州に配流すべし。」職方員外郎韓愈議を献じて曰く。

原文六年九月,富平縣人梁悅,為父殺仇人秦果,投縣請罪。敕:「復仇殺人,固有彝典。以其申冤請罪,視死如歸,自詣公門,發於天性。志在徇節,本無求生之心,寧失不經,特從減死之法。宜決一百,配流循州。」職方員外郎韓愈獻議曰:

謹んで今月五日付の詔勅を拝受する。復讐については、礼経に拠れば義は天と異ならず、法令を徴すれば人を殺す者は死す、とある。礼と法の二事は、いずれも王者の教えの端緒であり、この異同がある以上、必ず論議を待つべきである。宜しく都省に命じて集議させ、奏聞すべきである、とのこと。謹んで考えるに、子が父の仇を復することは、『春秋』に見え、『礼記』に見え、また『周官』に見え、また諸子史に見えて、数え切れず、非としてこれを罪とするものはない。最も律において詳しくすべきであるが、律にはその条項がない。これは欠文ではない。おそらく、復讐を許さなければ孝子の心を傷つけ、先王の訓えに背き、復讐を許せば人は法に倚って専殺し、その端緒を禁じ止める術がなくなるからであろう。律は聖人に本づくとはいえ、これを執り行うのは有司である。経が明らかにしているのは、有司を制することである。経においてその義を丁寧にし、律においてその文を深く没しているのは、その意は法吏に法によって一断させ、経術の士に経を引きいて議せしめんとするためである。『周官』に曰く、「凡そ人を殺して義なる者は、仇とすべからず、仇とすれば則ち死す」と。義とは宜しきなり、人を殺してその宜しきを得ざる者は、子復讐すべし、と明らかにしている。これは百姓の相仇するものである。『公羊伝』に曰く、「父誅せられざれば、子復讐すべし」と。誅せられざるとは、罪誅に当たらずという。また『周官』に曰く、「凡そ仇讐を報ずる者は、士に書し、これを殺すも罪なし」と。復讐せんとすれば、必ず先ず官に言上すれば、罪なしというのである。今、陛下は典章に意を垂れ、定制を立てんと思し召され、有司の職守を惜しみ、孝子の心を憐れみ、自ら専断せず、群下に議を訪ねられた。臣愚かならんや、復讐の名は同じといえども、その事は各々異なる。あるいは百姓が相仇するもので、『周官』の称えるところで、今に議すべきものあり。あるいは官吏に誅せられるもので、『公羊』の称えるところで、今に行うべからざるものあり。また『周官』の称えるところで、復讐せんとし、先ず士に告げれば罪なしというもの。もし孤稚羸弱の者が、微かな志を抱いて敵人の隙を伺い、官に自ら言上できぬ恐れがあるならば、今に断ずることはできない。されば殺すことと赦すことは、一例にすべからず。宜しくその制を定めて曰く、凡そ父の仇を復する者あれば、事発したならば、その事由を具えて、尚書省に下して集議奏聞せしめ、その宜しきを酌んでこれを処すれば、経と律ともにその旨を失わないであろう。

原文伏奉今月五日敕:復仇,據禮經則義不同天,征法令則殺人者死。禮法二事,皆王教之端,有此異同,必資論辯,宜令都省集議聞奏者。伏以子復父仇,見於《春秋》,見於《禮記》,又見於《周官》,又見於諸子史,不可勝數,未有非而罪之者也。最宜詳於律,而律無其條,非闕文也。蓋以為不許復仇,則傷孝子之心,而乖先王之訓;許復仇,則人將倚法專殺,無以禁止其端矣。夫律雖本于聖人,然執而行之者,有司也。經之所明者,制有司也。丁甯其義於經,而深沒其文於律者,其意將使法吏一斷於法,而經術之士,得引經而議也。《周官》曰:「凡殺人而義者,令勿仇,仇之則死。」義,宜也,明殺人而不得其宜者,子得復仇也。此百姓之相仇者也。《公羊傳》曰:「父不受誅,子復仇可也。」不受誅者,罪不當誅也。又《周官》曰:「凡報仇讎者,書於士,殺之無罪。」言將復仇,必先言於官,則無罪也。今陛下垂意典章,思立定制。惜有司之守,憐孝子之心,示不自專,訪議群下。臣愚以為復仇之名雖同,而其事各異。或百姓相仇,如《周官》所稱,可議於今者;或為官吏所誅,如《公羊》所稱,不可行於今者。又《周官》所稱,將復仇,先告於士則無罪者。若孤稚羸弱,抱微志而伺敵人之便,恐不能自言於官,未可以為斷於今也。然則殺之與赦,不可一例。宜定其制曰:凡有復父仇者,事發,具其事由,下尚書省集議奏聞。酌其宜而處之,則經律無失其指矣。

元和十三年八月、鳳翔節度使鄭余慶らが『格後勅』三十巻を詳定し、右司郎中崔郾ら六人が修訂して上進した。その年、刑部侍郎許孟容・蔣乂らが詔を奉じて刪定し、また三十巻に勒成した。刑部侍郎劉伯芻らが考定し、旧巻の如くとした。

原文元和十三年八月,鳳翔節度使鄭余慶等詳定《格後敕》三十卷,右司郎中崔郾等六人修上。其年,刑部侍郎許孟容、蔣乂等奉詔刪定,復勒成三十卷。刑部侍郎劉伯芻等考定,如其舊卷。

長慶元年五月、御史中丞牛僧孺が奏上した。「天下の刑獄は、淹滞に苦しんでいる。程限を立てることを請う。大事は、大理寺が三十五日の限りで詳断を終え、刑部に申し、三十日の限りで聞奏する。中事は、大理寺三十日、刑部二十五日。小事は、大理寺二十五日、刑部二十日。一状の犯人が十人以上、断ずる罪が二十件以上を大とし、犯人六人以上、断罪十件以上を中とし、犯人五人以下、断罪十件以下を小とする。もし抵する罪状および結ぶ刑名がともに同じならば、人数が甚だ多くとも、同一人の例とする。違反した者は罪に差がある。」二年四月、刑部員外郎孫革が奏上した。「京兆府雲陽県の人張蒞が、羽林官騎康憲の銭米を負っている。憲がこれを徴収すると、蒞は酔った勢いで憲を引き摺り、氣息将に絶えんとした。憲の子買得、年十四、その父を救わんとした。蒞が角牴の力人であるため、敢えて解きほぐすことができず、遂に木鍤を持って蒞の首を撃ち、血を見せ、後三日にして死に至らしめた。律に准えば、父が人に毆たれ、子が往きて救い、その人を撃ち折傷すれば、凡闘より三等を減ず。死に至る者は、常律に依る。即ち買得が父の難を救うのは性孝にして暴にあらず、張蒞を撃つのは心切にして凶にあらず。髫丱の歳に、父子の親を正す、聖化の加うる所でなければ、童子どうしてここに及ぶことができようか。『王制』は五刑の理を称え、必ず父子の親を原としてこれを権え、浅深の量を慎んで測りてこれを別つ。『春秋』の義は、心を原として罪を定む。周書の訓えるところは、諸罰に権あり。今、買得は生まれながら皇風を被り、幼くして至孝に符し、哀矜の宥しは、伏して聖慈に在り。臣の職は刑を讞するに当たり、善悪を分かつに合う。」詔勅。「康買得はなお童年に在りて、能く子道を知る。人を殺して死に当たるといえども、父のためは哀れむべし。もし沈命の科に従えば、恐らくは原情の義を失わん。宜しく法司に付し、死罪一等を減ずべし。」

原文長慶元年五月,御史中丞牛僧孺奏:「天下刑獄,苦於淹滯,請立程限。大事,大理寺限三十五日詳斷畢,申刑部,限三十日聞奏。中事,大理寺三十日,刑部二十五日。小事,大理寺二十五日,刑部二十日。一狀所犯十人以上,所斷罪二十件以上,為大。所犯六人以上,所斷罪十件以上,為中。所犯五人以下,所斷罪十件以下,為小。其或所抵罪狀並所結刑名並同者,則雖人數甚多,亦同一人之例。違者罪有差。」二年四月,刑部員外郎孫革奏:「京兆府雲陽縣人張蒞,欠羽林官騎康憲錢米。憲征之,蒞承醉拉憲,氣息將絕。憲男買得,年十四,將救其父。以蒞角牴力人,不敢捴解,遂持木鍤擊蒞之首見血,後三日致死者。准律,父為人所毆,子往救,擊其人折傷,減凡鬥三等。至死者,依常律。即買得救父難是性孝,非暴;擊張蒞是心切,非凶。以髫丱之歲,正父子之親,若非聖化所加,童子安能及此?《王制》稱五刑之理,必原父子之親以權之,慎測淺深之量以別之。《春秋》之義,原心定罪。周書所訓,諸罰有權。今買得生被皇風,幼符至孝,哀矜之宥,伏在聖慈。臣職當讞刑,合分善惡。」敕:「康買得尚在童年,能知子道,雖殺人當死,而為父可哀。若從沉命之科,恐失原情之義,宜付法司,減死罪一等。」

大和七年十二月、刑部が奏上した。「先に詔勅を奉じて、前大理丞謝登の『新編格後勅』六十巻を詳定せよとのこと。臣らは謝登の進めたものに拠り、諸理例を詳らかにし、格式を参酌した。あるいは事が久要に非ず、恩が一時に出るもの、あるいは前後差殊あるもの、あるいは書写錯誤あるものは、並びに落下及び改正を終えた。繁を去り要を挙げ、司を分ち門を列ね、都で五十巻とした。謹んで宣下施行を請う。」これを可とした。八年四月、詔して応に軽罪を犯す人は、情状巨蠹にして法の原ゆるし難きものを除き、その他の過誤罪愆及び尋常の公事違犯には、鞭背してはならない、と。太宗の故事に遵うのである。俄にして京兆尹韋長が奏上した。「京師は浩穰にして、奸豪の聚まる所である。終日懲罰しても、抵犯なお多く、少しでも寛容すれば、即ち禁戢し難い。もし恭しく勅旨を守れば、則ち以て肅清するなく、もし事に臨んで刑を用いれば、則ち詔使に違う。伏して望むらくは、前に依り軽重に据えて処置することを許されたい。」これに従った。

原文大和七年十二月,刑部奏:「先奉敕詳定前大理丞謝登《新編格後敕》六十卷者。臣等據謝登所進,詳諸理例,參以格式,或事非久要,恩出一時,或前後差殊,或書寫錯誤,並已落下及改正訖。去繁舉要,列司分門,都為五十卷。伏請宣下施行。」可之。八年四月,詔應犯輕罪人,除情狀巨蠹,法所難原者,其他過誤罪愆,及尋常公事違犯,不得鞭背。遵太宗之故事也。俄而京兆尹韋長奏:「京師浩穰,奸豪所聚。終日懲罰,抵犯猶多,小有寬容,即難禁戢。若恭守敕旨,則無以肅清;若臨事用刑,則有違詔使。伏望許依前據輕重處置。」從之。

開成四年、両省が『刑法格』十巻を詳定し、勅令して施行した。

原文開成四年,兩省詳定《刑法格》一十卷,敕令施行。

会昌元年九月、庫部郎中・知制誥紇幹泉らが奏上した。「刑部の奏に准えば、贓を犯した官五品以上は、死刑に抵するに合い、獄官令に准じて家に死することを請う。謹んで永く定格と為すことを請う。」これを従った。大中五年四月、刑部侍郎劉彖らが勅を奉じて『大中刑法総要格後勅』六十巻を修し、貞観二年六月二十日より、大中五年四月十三日に至る、凡そ二百二十四年の雑勅を、都計六百四十六門、二千百六十五条とした。七年五月、左衛率倉曹参軍張戣が『大中刑法統類』十二巻を進め、勅して刑部に詳定させ奏行した。

原文會昌元年九月,庫部郎中、知制誥紇幹泉等奏:「准刑部奏,犯贓官五品已上,合抵死刑,請准獄官令死於家者,伏請永為定格。」從之。大中五年四月,刑部侍郎劉〓彖等奉敕修《大中刑法總要格後敕》六十卷,起貞觀二年六月二十日,至大中五年四月十三日,凡二百二十四年雜敕,都計六百四十六門,二千一百六十五條。七年五月,左衛率倉曹參軍張戣進《大中刑法統類》一十二卷,敕刑部詳定奏行之。