旧唐書 志第二十九 食貨下

旧唐書

志第二十九 食貨下

武徳八年十二月、水部郎中姜行本が隴州に五節堰を開き、水を引いて運送を通すことを請う。これを許す。永徽元年、薛大鼎が滄州刺史となり、管内に無棣河あり、隋末に埋没廃棄されていた。大鼎がこれを開くことを奏上し、魚塩を海より引く。百姓これを歌いて曰く、「新河得て通ずれば舟楫利あり、直ちに滄海に達して魚塩至る。昔日徒行するも今は駟を騁す、美なるかな薛公の徳滂被せり」と。咸亨三年、関中飢え、監察御史王師順が晋・絳州倉の粟を運びてこれを賑わすことを奏請す。上、運職を委ぬ。河・渭の間に舟楫相継ぎ、渭南に会す。師順より始まるなり。大足元年六月、東都立德坊の南に新潭を穿ち、諸州の租船を安置す。神龍三年、滄州刺史姜師度が薊州の北にて、水を漲らせて溝と為し、奚・契丹の寇に備う。また旧渠を約し、海に傍らって漕を穿ち、号して平虜渠と為し、海難を避けて糧を運ぶ。

開元二年、河南尹李傑が奏す、汴州の東に梁公堰あり、年久しく堰破れ、江淮の漕運通ぜず。汴・鄭の丁夫を発してこれを浚う。功を省きて速やかに成り、公私深く利と為す。十五年正月、将作大匠范安及に令して鄭州河口の斗門を検行せしむ。先に、洛陽人劉宗器が上言し、汜水の旧汴河口を塞ぎ、下流の滎沢界に梁公堰を開き、斗門を置きて淮・汴を通すことを請う。左衛率府胄曹に擢げ拝す。ここに至り、新漕塞がり、行舟通ぜず、宗器を貶す。安及、すなわち河南府・懐・鄭・汴・滑の三万人を発して旧河口を疏決開き、旬日にして畢る。

十八年、宣州刺史裴耀卿が便宜事条を上る。曰く、「江南の戸口稍々広く、倉庫の資とする所は、ただ租庸を出だすのみにて、更に征防無し。水陸遥遠なるに縁り、転運艱辛、功力労るといえども、倉儲益さず。窃かに見るに、毎州の送る租及び庸調等は、本州正二月に上道し、揚州に至り斗門に入るや、即ち水浅に逢い、既に阻礙あり、須らく一月以上を留まる。四月已後に至り、始めて淮を渡り汴に入る。多くは汴河の干浅に属し、また般運停留し、六七月に至りて始めて河口に至る。即ち黄河の水漲に逢い、河に入るを得ず。また須らく一両月を停め、河水の小なるを待ち、始めて河に上るを得。洛に入るや即ち漕路幹浅、船艘隘閙し、般載停滞し、備極めて艱辛なり。江南より東都に至るを計るに、停滞日多く、行く日少なく、糧食既に皆足らず、欠折ここによりて生ず。また江南の百姓は河水に習わず、皆転じて河師水手を雇い、更に損費を為す。伏して見るに国家の旧法、往代の成規、便宜を択び制して、以て長久に垂れんとす。河口元より武牢倉を置き、江南船は黄河に入らず、即ち倉内に便ち貯う。鞏県に洛口倉を置き、黄河より漕洛に入らず、即ち倉内に安置す。爰に河陽倉・柏崖倉・太原倉・永豊倉・渭南倉に及び、節級に便を取る。例皆此の如し。水通ずれば則ち近きに随いて運転し、通ぜざれば即ち且つ倉に納め、遠船を滞さず、久耗を憂えず。曠年長運に比すれば、利便一倍余り有り。今若し且つ武牢・洛口等の倉を置き、江南船の河口に至るや、即ち却って本州に還し、更に其の船を得て運に充てん。並びに減ずる所の脚銭を取り、更に江淮の変造義倉を運び、毎年一二百万石を剩得す。即ち数年之外を望めば、倉廩転た加わる。其の江淮の義倉は、下湿にして久しく貯うるに堪えず。若し船運ぶ可き無くば、三両年色変じ、即ち給貸費散し、公私益無し」と。疏奏すれども省みず。二十一年に至り、耀卿京兆尹と為り、京師雨水稼を害し、穀価踴貴す。玄宗以て耀卿に問う。耀卿奏称して、「昔、貞観・永徽の際、禄廩未だ広からず、毎歳転運、二十万石を過ぎずして便ち足れり。今国用漸く広く、漕運数倍すれども、猶支うる能わず。都より陝に至るまで、河路艱険、既に陸運を用うるも、広く致す由無し。若し能く河漕を兼ね、陸を変じて水と為さば、則ち支うる所余り有り、動もすれば万計に盈つ。且つ江南の租船は、水を候いて始めて進み、呉人は漕挽に便せず、ここにより所在停留す。日月既に淹り、遂に窃盗を生ず。臣、河口に一倉を置き、江東の租米を納め、便ち船を放ちて帰らしめんことを望む。河口より即ち分かちて河・洛に入り、官自ら船を雇い載運す。三門の東に一倉を置く。三門は既に水険なれば、即ち河岸に山を開き、車運十数里。三門の西に又た一倉を置き、毎に運びて倉に至るや、即ち般下し貯納す。水通ずれば即ち運び、水細ければ便ち止む。太原倉より河を溯り、更に停留無く、省く所钜万なり。前漢は関中に都し、年月稍々久しく、及び隋も亦京師に在り、河に縁りて皆旧倉有り、以て国用常に贍えたり」と。上深く其の言を然りとす。二十二年八月に至り、河陰県及び河陰倉・河西柏崖倉・三門東集津倉・三門西塩倉を置く。三門山十八里を開き、以て湍険を避く。江淮より鴻溝を溯り、悉く河陰倉に納む。河陰より含嘉倉に送納し、又た太原倉に送納し、これを北運と謂う。太原倉より渭に浮かび、以て関中を実とす。上大いに悦ぶ。尋いで耀卿を以て黄門侍郎・同中書門下平章事と為し、江淮・河南転運都使を充てしむ。鄭州刺史崔希逸・河南少尹蕭炅を以て副と為す。凡そ三年、七百万石を運び、陸運の傭四十万貫を省く。旧制、東都含嘉倉に江淮の米を積み、大輿に載せて西し、

陝に至る三百里、率ね両斛に傭銭千を計う。此れ耀卿の省く所の数なり。明年、耀卿侍中に拝し、而して蕭炅代わる。二十五年、米一百万石を運ぶ。二十九年、陝郡太守李済物、三門山を鑿ちて以て運を通し、三門の巔を辟き、岩険の地を逾え、俾くに索を負いて艦を引き、安流に升らしむ。済物より始まるなり。

天宝三載、韋堅蕭炅に代わり、滻水を以て望春楼の東に広運潭を作り、而して舟を蔵む。是の年、楊釗殿中侍御史を以て水陸運使と為り、韋堅に代わる。先に、米京師に至るや、或いは砂礫糠紕、其の間に雑う。開元初、詔して揚擲して其の虚実を較べしむ。「揚擲」の名、此より始まる。十四載八月、詔して水陸運宜しく一年を停むべし。

天寶以來、楊國忠・王鉷は皆重使を兼ねて天下の権を握った。肅宗の初め、第五琦が始めて錢穀をもって謁見を得た。江・淮に租庸使を分置し、軽貨を買って軍食を救うことを請い、監察御史に拝され、その使となった。乾元元年、度支郎中を加え、まもなく中丞を兼ね、鹽鐵使となった。ここに始めて大いに鹽法を立て、山海の井竈に就き、その鹽を収榷し、監院の官吏を置いた。その旧業戸及び浮人で鹽を業とせんとする者は、その雑役を免じ、鹽鐵使に隷属させた。常戸は租庸の外に横賦なし。人々の税を増さずして、国用は豊かになった。明年、琦は戸部侍郎同平章事となり、詔して兵部侍郎呂諲に代わらせた。寶應元年五月、元載は中書侍郎をもって呂諲に代わった。この時淮・河は兵に阻まれ、飛輓の路絶え、鹽鐵租賦は皆漢水を溯って上った。侍御史穆甯を河南道轉運租庸鹽鐵使とし、まもなく戸部員外を加え、鄂州刺史に遷し、以て東南の貢賦を総べさせた。この時朝議は寇盗未だ戢がず、関東の漕運は宜しく倚辦すべきありとして、遂に通州刺史劉晏を戸部侍郎・京兆尹・度支鹽鐵轉運使とした。鹽鐵が漕運を兼ねるは、晏より始まる。二年、吏部尚書・同平章事に拝し、前の如く使を充てた。晏は始めて鹽利を以て漕傭とし、江淮より渭橋に至るまで、十万斛に率いて七千緡を傭い、綱吏を補ってこれを督めた。丁男を発せず、郡県を労せず、蓋し古より未だこれ有らざるなり。これより歳に米数千万石を運び、淮北より巡院を列置し、能吏を捜択してこれを主とし、広く牢盆を以て商賈を来たらせた。凡そ制置する所は、皆晏より始まる。廣德二年正月、また第五琦に専ら度支鑄錢鹽鐵事を判させた。而して晏は検校戸部尚書として河南及び江淮已来の轉運使となり、及び河南副元帥と計会して汴河を開決した。永泰二年、晏は東道轉運常平鑄錢鹽鐵使となり、琦は関内・河東・劍南三川轉運常平鑄錢鹽鐵使となった。大曆五年、詔して関内・河東・三川轉運常平鹽鐵使を停む。これより晏と戸部侍郎韓滉と分かって関内・河東・山・劍の租庸青苗使を領す。十四年に至り、天下の財賦は皆晏これを掌る。

建中初、宰相楊炎用事、特に劉晏を悪む。炎は乃ちその権を奪う。詔して曰く、「朕は徴税多門、郡邑凋耗するを以て、群議に聴き、思うに変更有らんとし、時雍を致さんと将し、宜しく古制に遵うべし。その江淮の米、旨に准じて転運して京に入るる者、及び諸軍の糧儲は、宜しく庫部郎中崔河図に権らにこれを領せしむべし。今年夏税以前、諸道の財賦多く京に輸する者、及び鹽鐵の財貨は、江州刺史包佶に委ねて権らにこれを領せしむ。天下の錢穀は、皆金部・倉部に帰す。中書門下に委ねて両司の郎官を簡し、格式に准じて条理せしむ。」まもなく晏を貶して忠州刺史とす。晏既に罷黜せられ、天下の錢穀は尚書省に帰す。既にして出納統ぶる所無く、乃ち復た使を置いてこれを領す。その年三月、韓洄を戸部侍郎とし、度支を判せしめ、金部郎中杜佑に権らに江淮水陸運使を勾当せしむ。炎はまもなく晏を忠州にて殺す。兵興已来、凶荒相属し、京師の米斛万錢、官厨に兼時の食無し。百姓畿甸に在る者は、穀を抜き穂を挼て、以て禁軍に供す。晏の国計を掌るに及び、江淮転運の制を復し、歳に米数十万斛を入れて関中を済す。第五琦に代わって鹽務を領し、その法益々密なり。初年錢六十万を入れ、季年は則ち初めの十倍なり。大曆末、天下の財を通じ、その入る所を計るに、総べて一千二百万貫、而して鹽利は半を過ぐ。李霊耀の乱、河南は皆盗に拠られ、法制を奉ぜず、賦税上供せず、州県益々減ず。晏は羨余を以て相補い、人々に賦を加えず、入る所仍って旧の如し、議者これを称す。その相与に財用の術を商榷する者は、必ず一時の選なり。故に晏没後二十年、韓洄・元琇・裴腆・包佶・盧徴・李衡相継いで財賦を分掌す、晏の門下に出づ。属吏千里の外に在りて、教を奉ずること目前の如し。四方の水旱、及び軍府の繊芥も、先知らざる莫し。その年詔して曰く、「天下の山沢の利は、当に王者に帰すべく、宜しく総べて鹽鐵使に榷せしむべし。」

三年、包佶を左庶子・汴東水陸運鹽鐵租庸使とし、崔縦を右庶子・汴西水陸運鹽鐵租庸使とす。四年、度支侍郎趙贊常平の事を議し、竹・木・茶・漆を尽く税す。茶の税有るは、これに肇る。貞元元年、元琇は御史大夫として鹽鐵水陸運使となる。その年七月、尚書右僕射韓滉を以てこれを統べしむ。滉歿し、宰相竇参これに代わる。五年十二月、度支轉運鹽鐵奏す、「比年揚子より米を運ぶこと、皆縁路の観察使に分配して長綱を差し発遣す。運路既に遠く、実に人を労するを謂う。今請う当使の諸院、自ら綱節級を差して般運し、以て辺食を救わん。」これに従う。八年、詔す、東南の両税財賦は、河南・江淮・嶺南・山南東道より渭橋に至るまで、戸部侍郎張滂これを主とし、河東・劍南・山南西道は、戸部尚書度支使班宏これを主とす。今戸部の領する三川鹽鐵轉運は、これより始まる。その後宏・滂互いに短長有り。宰相趙憬・陸贄その事を以て上聞す、ここに大曆の故事に遵い、劉晏・韓滉の分かつ所の如くす。

九年、張滂税茶法を立てるを奏す。この後裴延齢専ら度支を判し、鹽鐵と益々殊塗にして理む。十年、潤州刺史王緯これに代わり、硃方にて理む。数年にして李錡これに代わり、鹽院の津堰、改張侵剝し、紀極を知らず。私路の小堰、行人に厚く斂り、多くは錡より始まる。時に鹽鐵轉運には上都留後有り、副使潘孟陽を以てこれを主とす。王叔文朝野に権を傾け、亦鹽鐵副使兼学士として留後となる。

順宗が即位すると、有司が塩法を重ねて奏上し、杜佑を塩鉄転運使に任じて揚州でこれを管轄させた。元和二年三月、李巽がこれを代わった。先に、李錡が判使となって、天下の専売酒と漕運を掌握し、これを操り切り、専ら貢献に努めて寵愛を固めた。朝廷で権力を握る者は皆、利益を私室に蓄積し、国用は日に日に消耗した。李巽が塩鉄使となると、大いにその事を正した。堰埭で先に浙西観察使に属していたものは、全てこれを帰属させた。因循して臨時に設置されたものは、全てこれを罷めた。河陰に敖倉を増設し、桂陽監を設置して平陽の銅山を鋳て銭とした。また奏上して言うには、「江淮、河南、峡内、兗鄆、嶺南の塩法監院は、去年の塩価収入は緡銭七百二十七万であったが、旧法に比べてその評価額を千七百八十余万も水増ししており、実数ではない。今、その数を以て、煮塩以外の分を度支に付してその数を収めさせたい。」塩鉄使の煮塩利益が度支に属するのは、ここに始まる。また程異を揚子留後とした。四月五日、李巽が卒去した。専売管理が興って以来、劉晏のみがその術を得て、李巽はそれに次ぐ。しかし初年の利益は、劉晏の末年と同類であり、末年における利益は、則ち劉晏の三倍であった。旧制では、毎年江淮の米五十万斛を運び、河陰に十万を留め、四十万を渭倉に送った。劉晏が没して後、久しくその数に達せず、ただ李巽が使を執ること三年、升斗の欠けることがなかった。六月、河東節度使李鄘を以てこれを代わった。

五年、李鄘が淮南節度使となり、宣州観察使盧坦を以てこれを代わった。六年、盧坦が奏上し、毎年江淮より運ぶ米四十万石が渭橋に到着するが、近日は大半を欠いており、順次収糴し、逐年に貯備することを請うた。これに従った。盧坦が戸部侍郎に改められ、京兆尹王播を以てこれを代わった。王播は遂に奏上して言うには、「元和五年、江淮、河南、嶺南、峡中、兗鄆等の塩利銭は六百九十八万貫である。改法以前の旧塩利と比量すると、時価四倍の虚估であり、即ちこの銭は一千七百四十余万貫となる。度支に付して収管させたい。」これに従った。その年詔して言うには、「両税の法は、悉く郡国に委ね、初めは極めて民に便であった。ただ法を定める時に、物価を定めなかった。今、度支塩鉄は泉貨を司どり、それぞれ分巡を有し、都会に置かれている。そこで帖職を命じ、四方を巡視させ、簡にして従い易く、権宜に叶うようにしたい。政に弊する所、事に宜しい所があれば、皆挙げて聞かせ、我が憂いを託すことに副わせよ。揚子塩鉄留後を以て江淮以南両税使とし、江陵留後を以て荊衡漢沔東界、彭蠡以南両税使とし、度支山南西道分巡院官を以て三川両税使を充てる。峡内の煎塩五監は先に塩鉄使に属していたが、今は度支に割属させるのが宜しく、便りに山南西道両税使に委ねて兼ねて糶売を知らしめる。」峡内の塩が度支に属するのは、ここに始まる。七年、王播が奏上し、去年の塩利は峡内塩を割いた外、銭六百八十五万を収め、実估に従ったものである。また奏上し、商人が戸部、度支、塩鉄の三司に飛銭することを、「便換」と謂う。八年、崔倰を揚子留後、淮嶺以来両税使とし、崔祝を江陵留後とし、荊南以来両税使とした。十三年正月、王播はまた奏上し、「軍興の時、財用は切実である。近ごろ劉晏が使を領した時は、皆自ら租庸を按置し、州県の善悪、銭穀の利害の物事に至るまで、虚実皆得て知ることができた。今、臣が務を守るのは城中にあり、自ら往くことができない。臣の副使程異をして江淮に出巡させ、その州府の上供銭穀を一切勘問することを請う。」これに従った。閏五月、程異が江淮に至り、銭一百八十五万貫を得て進上した。その年、王播を礼部尚書とし、衛尉卿程異を以てこれを代わった。十四年、程異が卒去し、刑部侍郎柳公綽を以てこれを代わった。長慶初年、王播が再び柳公綽を代わった。四年、王涯が戸部侍郎を以て王播を代わった。敬宗の初め、王播が再び塩鉄使として揚州節度使となった。文宗が即位し、入朝し、宰相を以て使を判らせた。その後、王涯が再び二使を判り、上表して茶山の人に根本を移植させ、旧来の貯積は皆焼き棄てさせることを請うた。天下これを怨んだ。九年、王涯は事に坐して誅された。そして令狐楚が戸部尚書右僕射としてこれを主り、この年茶法が大いに壊れたので、奏上して州県に付し、その租を戸部に入れることを請うた。人々これを喜んだ。開成元年、李石が中書侍郎として茶法収管を判り、貞元の制を復した。三年、戸部尚書同平章事楊嗣復を以てこれを主らせ、前監院の旧事を多く改革した。開成三年より大中壬申に至るまで、凡そ十五年、多く元臣を任じてその務を集めさせた。崔珙は刑部尚書より拝し、杜忭は淮南節度使としてこれを領し、既にして皆公台に登った。薛元賞、李執方、盧弘正、馬植、敬晦の五人、九年の間に相踵いでこれを管轄し、馬植もまたここより相位に居った。

大中五年二月、戸部侍郎裴休を塩鉄転運使とした。明年八月、本官のまま平章事とし、前の如く使を判らせた。初め、漕米は年に四十万斛であったが、渭倉に至り得るものは、十に三四に過ぎなかった。漕吏は狡猾で貪り、百方に渡って損害を出し、官舟の沈没は、多い年には七十余隻に至った。河沿いの奸悪な犯人は、大いに劉晏の法を乱した。裴休は僚属をしてこれを査察させ、河次の県令に委ねてこれを監督させた。江津より渭に至るまで、四十万斛の運賃を以て、緡銭二十八万と計算し、悉くこれを漕吏に帰属させた。巡院の胥吏は、侵奪することができなかった。これを挙げて法とし、凡そ十事、これを奏上した。六年五月、また税茶の法を立て、凡そ十二条、これを陳奏した。上大いに悦んだ。詔して言うには、「裴休は利を興し害を除き、深く奉公の心を見る。」その奏を悉く許可した。ここにより三年間漕米が渭濱に至り、積み上げて一百二十万斛、升合の沈棄もなかった。

武徳元年九月四日、社倉を置く。その月二十二日に詔して曰く、「特に農圃を建て、もとより耕耘を督め、思うに斉民をして、既に康にして且つ富ましめんとす。鐘庾の量、冀くは水火の如くならん。宜しく常平監官を置き、以て天下の貨を均すべし。市肆騰踊すれば、則ち減価して出だし、田穡豊羨すれば、則ち増糴して収む。庶くは公私をして倶に済わしめ、家給人足ならしめ、兼併を抑止し、壅滯を通宣せん」と。至る五年十二月、常平監官を廃す。貞観二年四月、尚書左丞戴冑上言して曰く、「水旱凶災は、前聖の免れざる所なり。国に九年の儲畜無きは、『礼経』の明らかに誡むる所なり。今喪乱の後、戸口凋残し、毎歳租を納むるも、未だ倉廩を実たず。時に随い出給して、才だ当年を供するのみ。若し凶災有らば、将に何を以て賑恤せんや。故に隋の開皇制を立て、天下の人、節級をして粟を輸せしめ、多く社倉と為し、終に文皇に至り、饑饉無きを得たり。大業中年に及び、国用足らず、並びに社倉の物を貸し、以て官費に充つ。故に末塗に至り、支給する無し。今請う、王公以下より、爰に衆庶に及び、墾田稼穡の頃畝を計り、秋熟に至り、其の見在する苗に准えて以て理に勸課し、尽く粟を出ださしむ。稻麥の郷も、亦此の税に同じ。各々所在に納め、義倉と為すを言わん。若し年穀登らず、百姓饑饉せば、当の州県に於いて、便に随い取給すべし」と。太宗曰く、「既に百姓の為に預め儲貯を作し、官挙げて掌り、以て凶年に備うるは、朕の須うる所に非ず、横に賦斂を生ず。人を利するの事、深く是れ嘉す可し。宜しく所司に下し、条制を立て議せしむべし」と。戸部尚書韓仲良奏す、「王公以下墾田、畝に二升を納む。其の粟麥粳稻の属、各々土地に依る。之を州県に貯え、以て凶年に備う」と。之を可とす。是より天下州県、始めて義倉を置き、毎に饑饉有れば、則ち倉を開き賑給す。高宗・則天に至るまで、数十年の間、義倉は雑用を許さず。其の後公私窘迫し、漸く義倉を貸して支用す。中宗神龍の後より、天下の義倉費用尽きんと向かう。

高宗永徽二年六月、勅す、「義倉地に据りて税を収むるは、実に労煩なり。宜しく戸を率いて粟を出ださしむべし。上上戸五石、余は各々差有り」と。六年、京東西の二市に常平倉を置く。明慶二年十二月、京常平倉に常平署官員を置く。開元二年九月、勅す、「天下諸州、今年稍々熟し、穀価全く賤し。或は農を傷つるを慮う。常平の法、古より之を行い、宜しく諸州に時価に三両銭を加えて糴わしめ、抑斂することを得ず。仍って交相付領し、懸欠を許す勿れ。蠶麥時熟すれば、穀米必ず貴し。即ち減価して出糶せしむ。豆穀等貯むるに堪うるもの、熟するも亦此に准ず。時に出入し、務めて人を利するに在り。其の常平の須うる所の銭物、宜しく所司に支料せしめて奏聞せしむべし」と。四年五月二十一日、詔す、「諸州県の義倉、本より饑年の賑給に備う。近年已来、毎三年一度、百姓の義倉糙米を以て、遠く京に赴き納め、仍って百姓に私に脚銭を出ださしむ。自今已後、更に義倉を変造することを得ず」と。七年六月、勅す、「関内、隴右、河南、河北の五道、及び荊、揚、襄、夔、綿、益、彭、蜀、漢、劍、茂等の州、並びに常平倉を置く。其の本は上州三千貫、中州二千貫、下州一千貫」と。十六年十月、勅す、「今歳より普く熟し、穀価至って賤し。必ずや農を傷つるを恐る。銭を加えて収糴し、以て倉廩を実たしめ、縦え水旱に逢うも、阻饑を慮うること無からしめ、公私の間、或は亦便たりと為さん。宜しく所在に常平本銭及び当処の物を以て、各々時価の上に量りて三銭を加え、百姓糶易する者有れば、為に収糴せよ。事須らく両和すべく、数に限ることを得ず。配糴訖り、具に所用の銭物及び所糴の物数を、所司に申せ。仍って上佐一人をして専ら勾当せしめよ」と。

天寶六載三月、太府少卿張瑄奏す、「四載五月並びに五載三月の勅節文に准え、至貴の時は賤価を以て出糶し、賤の時は加価を以て収糴す。若し百姓銭物を未だ辦まざる者は、開元二十年七月の勅に任せ准え、事を量りて賒糶し、粟麥熟する時に至り征納せしむ。臣使司商量す、且く旧を糶き新を糴む、別用に同じからず。其の賒糶する者は、銭を納むる日に至り若し粟麥雑種等の時価甚だ賤しければ、恐らくは更に回易艱辛ならん。請う、加価して便ち与に折納せしめん」と。廣德二年正月、第五琦奏す、「毎州常平倉及び庫使司、商量して本銭を置き、当処の米物時価に随い、賤ければ則ち加価して収糴し、貴ければ則ち減価して糶売せしむ」と。

建中元年七月、勅す、「夫れ常平とは、常に穀価をして一の如くならしめ、大豊も之が為に減ぜず、大儉も之が為に加えず。災荒に遇うも、人菜色無からしむ。自今已後、忽ち米価貴しき時は、宜しく官米十万石、麥十万石を量り出だし、毎日量りて両市の行人に付し下価を以て糶貨せしむべし」と。三年九月、戸部侍郎趙贊上言して曰く、「伏して旧制を以みるに、倉を置き粟を儲く、名づけて常平と曰う。軍興已来、此の事闕廢し、或は凶荒流散に因り、餓死相食する者、勝げて紀す可からず。古の平准の法は、万室の邑をして必ず万鐘の蔵有らしめ、千室の邑をして必ず千鐘の蔵有らしめ、春は以て耕に奉じ、夏は以て耘に奉ず。大賈富家有りと雖も、吾人のを豪奪するを得ざるは、蓋し能く軽重の法を行えばなり。陛下登極より以来、許して京城両市に常平を置き、官塩米を糴む。頻年少雨を経ると雖も、米価未だ騰貴せず。此れ乃ち即ち自ら明驗なり。実に推し広むるを要す。軍興の時に当たり、承平と或は異なり、事須らく兼ねて布帛を儲え、以て時須に備うべし。臣今商量す、請う両都並びに江陵、成都、揚、汴、蘇、洪等の州府に於いて、各々常平を置き、軽重本銭、上は百万貫に至り、下は数十万貫に至り、其の宜しきに随い、多少を量り定む。唯だ斛斗疋段絲麻等を貯え、物貴ければ則ち下価を以て出売し、物賤ければ則ち加価を以て収糴す。其の軽重を権え、以て疲人を利せん」と。之に従う。贊是より諸道の津要都会の所を条奏し、皆吏を置き、商人の財貨を閲す。銭を計る毎貫二十を税し、天下の出す所の竹、木、茶、漆、皆十一を税し、以て常平本に充つ。時に国用稍々広く、常賦足らず、税する所も亦時に随いて尽き、終に常平本と為す能わず。

貞元八年十月、勅す。「諸軍鎮の和糴貯備は、合わせて三十三万石、価の外に、更に量りて優饒を与えよ。その粟及び麻は、米の数に拠り準じて虚価を折り、直に度支に委ね、江淮の運脚銭を停めて之を充て、並びに綾絹・糸綿を支給し、折估せしむることなかれ。所糴の粟等は、本道節度使・監軍に委ねて同勾当とし別に貯え、特勅を承らざれば、給用すべからず。」

十四年六月、詔して米価稍高きを以て、度支に官米十万石を出し、両街に於いて賤糶せしむ。その年九月、歳饑を以て、太倉粟三十万石を出して糶す。是歳冬、河南府穀貴人流、含嘉倉粟七万石を以て出糶せしむ。十五年二月、久旱歳饑を以て、太倉粟十八万石を出し、諸県に於いて賤糶す。

元和元年正月、制す。「歳時に豊歉有り、穀価に重軽有り、水旱の虞を備えんと将するは、聚斂の術を権るに在り。応に天下州府の每年に税する地子数の内、宜しく十分を二分に取り、均しく常平倉及び義倉に充て、仍て各逐穩便に収貯し、時に従い出糶し、務めて人を救うに在り、賑貸の宜き所は、速やかに奏せよ。」

六年二月、制す。「聞く所に拠れば、京畿の内、旧穀已に尽き、宿麦未だ登らず、宜しく常平・義倉粟二十四万石を以て百姓に貸借すべし。諸道州府に糧種乏少の処有らば、亦所在の官長に委ね、常平・義倉米を以て借貸せしむ。淮南・浙西・宣歙等道の、元和二年四月賑貸は、並びに停征す。容して豊年に至り、然る後に填納せしむ。」

大和七年、御史台が奏上した。「伏して大和三年十一月十八日の赦文に準ずれば、天下において両税以外に妄りに科配を加えてはならず、その擅かに雑榷率を加えることは一切停止すべきであり、御史台に厳しく察訪させる旨を命じている。臣は先ごろ嶺南道が擅かに竹綀場を設置し、税法が極めて重く、人を害することが甚だ深かったことにより、伏して請う。今後より以後、諸道において大和三年に赦文に準じて停止した両税以外の科配雑榷率等を復して設置する者は、仰せの勅が到着後十日以内に、具に復置の事由を聞奏し、なお台司に申し上げること。毎に郎官御史が出使するときは、便ち厳しく察訪させること。もしこのようなことがあれば、本判官を重く懲責し、長吏は奏して進止を聴くこと。」これを従った。九年十二月、左僕射令狐楚が新置の榷茶使の額について奏上した。「伏して江淮間数年以來、水旱疾疫により凋傷甚だしく、愁歎未だ平らかでない。今夏及び秋、稍々豊作である。まさに恵恤を施し、各々安存させるべきである。先ごろ忽ち榷茶を奏したのは、実に政を蠹むものである。これは王涯が破滅せんとするに当たり、怨怒が帰すべきところである。どうして百姓に茶樹を官場の中に移植させ、茶葉を官場の中で摘み造らせることがあろうか。児戯に同じく、人情に近からず。当時は恩権があったため、敢えて沮議する者なく、朝班は相顧みて色を失い、道路では目を以て声を呑んだ。今、宗社が霊を降し、奸凶ことごとく戮され、聖明が佑を垂れ、黎庶各々安んずる。微臣は天恩を蒙り、兼ねて使務を授けられ、官銜の内に、なおこの名を帯び、俯仰驚くが若く、夙宵愧を知る。伏して特に聖聴を回し、愚誠を下鑒し、速やかに宰臣に委せて、この使額を除かれることを乞う。国家の用が或いは欠け、山沢の利に遺すところがあるならば、臣に条流することを許し、続けて具に奏聞する。采造が及ぼんと欲し、妨廢を虞とする。前月二十一日内殿にて奏封の次、鄭覃が臣と共に論じ終えた。伏して聖慈に早く処分を賜わり、一に旧法に依り、新条を用いないことを望む。ただ納榷の時に、須らく節級に価を加え、商人が転抬すれば、必ず稍々貴くなるであろう。これ即ち銭は万国より出で、利は有司に帰し、既に茶商を害せず、又茶戸を擾さず。上は以て陛下の人を愛する徳を彰し、下は以て微臣の国を憂うる心を竭くす。遠近伝聞すれば、必ず咸よろこぶであろう。」詔してこれを可とした。先に、塩鉄使王涯が表を上して茶山の人に根本を移植させ、旧来の貯積をことごとく焚棄させることを請い、天下これを怨んだ。ここに至り楚がこれを主としたため、奏して罷めたのである。

開成二年十二月、武寧軍節度使薛元賞が奏上した。「泗口の税場は、経過する衣冠商客の金銀・羊馬・斛斗・見銭・茶塩・綾絹等、一物以上ことごとく税するものである。今商量するに、その雑税は並びに停絶を請う。」詔してこれを許した。

大中六年正月、塩鉄転運使裴休が奏上した。「諸道の節度使・観察使が、店を置いて茶商を停め上らせ、毎斤ごとに搨地銭を収め、並びに経過する商人に税することは、甚だ法理に乖いている。今、横税を厘革し、以て舟船を通じ、商旅既に安んずれば、課利自ずから厚くなることを請う。今また正税の茶商は、多く私販の茶人にその利を侵奪されている。今、強幹の官吏をして、先ず出茶の山口及び廬・寿・淮南の界内において、把捉を布置し、曉諭招收し、量りに半税を加え、陳首の帖子を与え、その所在において公行せしめ、ここより通流し、更に苛奪なからしめることを請う。冀うところは窮困を招恤し、下は奸欺を絶ち、私販する者に法を犯す憂いを免れさせ、正税する者に利を失う歎きなからしめることである。根本を尋究せんと欲すれば、須らく綱条を挙ぐべし。」勅旨、奏に依ることを命じた。その年四月、淮南及び天平軍節度使並びに浙西観察使が、皆軍用困竭し、伏して且つ旧に依り茶を税することを賜わることを乞うと奏上した。勅旨、「裴休の条流する茶法は、事極めて精詳であり、制置の初め、理須らく画一である。並びに宜しく今年正月二十六日の勅の処分に準ずべし。」

建中三年、初めて酒を榷し、天下悉く官に醸させしむ。斛ごとに直三千を収む。米賤しといえども、二千を減ずることを得ず。州県に委ねて綜領せしむ。醨薄私醸は、罪差あり。京師は王者の都なるを以て、特にその榷を免ず。元和六年六月、京兆府が奏上した。「榷酒銭は正酒戸を出だす以外は、一切両税青苗に随い、貫に据りて均率す。」これを従った。会昌六年九月の勅、「揚州等八道州府に、榷麹を置き、並びに官店を置きて酒を沽い、百姓に代わって榷酒銭を納め、並びに資助軍用に充て、各々榷許の限あり。揚州・陳許・汴州・襄州・河東の五処は榷麹し、浙西・浙東・鄂嶽の三処は官沽酒を置く。聞くところによれば、私酤を禁止すること厳酷に過ぎ、一人違犯すれば、数家に連累し、閭裏の間、咨怨を免れない。宜しく今以後より、もし人私かに酒を沽い及び私麹を置く者有れば、但だ罪は一身に止まることを許し、並びに所由の容縦は、任せて罪に据りて処分すべし。郷井の内、情を知らざるは、並びに追擾すべからず。その犯すところの人は、任用重典に任せ、兼ねて家産を没入すべからず。」