旧唐書 志第二十八 食貨上

旧唐書

志第二十八 食貨上

先王の制は、地を度りて以て人を居らしめ、その沃瘠を均しくし、その貢賦を差し、蓋し斂むるには必ず道を以てす。量入して以て出と為し、用を節して以て人を愛し、財を度り費を省く、蓋し之を用うるには必ず度有り、是の故に既に庶くして且つ富み、而して教化行わる。周には井田の制有り、秦には阡陌の法有り、二世は閭左を発して海内崩離し、漢武は舟車に税して国用以て竭く。古より国を有ち家を有つ者、興亡盛衰、未だ嘗て此れに由らざるは無し。隋の文帝は周氏の斉を平げたる後に因り、府庫充実し、庶事節儉にして、未だ嘗て虚費せず。開皇の初め、議者は以て漢代の文・景に比し、粟陳み貫朽つるの積有りとす。よう帝即位し、大いに奢靡を縦にし、東西に行幸するを加え、輿駕止まず、四夷を征討し、兵車屡動す。西には沙徼にて律を失い、東には遼・碣にて師を喪い、数年之間に、公私罄竭し、財力既に殫き、国遂に亡ぶ。

高祖は太原に発跡し、晋陽宮留守の庫物に因り、以て軍用を供す。既に京城を平げ、先ず府庫を封じ、賞賜給用、皆節制有り、征斂賦役、務めて寛簡に在り。未だ年を逾えざるに、遂に帝業を成す。其の後財賦を掌る者、世に人あり。開元以前は、事は尚書省に帰し、開元以後は、権は他官に移る。是れ由りて転運使・租庸使・塩鉄使・度支塩鉄転運使・常平鑄錢塩鉄使・租庸青苗使・水陸運塩鉄租庸使・両税使有り、事に随ひ名を立て、沿革一ならず。官を設け職を分ち、賢を選び能を任す、其の人を得れば則ち国家に益有り、其の才に非ざれば則ち黎庶に患を貽す、此れ又知らざる可からざるなり。裴耀卿・劉晏・李巽数君子の如きは、時に便し物を利し、国を富ませ民を安んず、足ら世の法と為すべき者なり。

開元中、御史宇文融有りて策を献じ、籍外の剩田を括り、色役の偽濫及び逃戸に帰首を許し、五年の征賦を免ず。毎丁量りて税一千五百銭し、摂御史を置き、路を分けて隠審を検括す。戸八十余万を得、田も亦之に称し、銭数百万貫を得、玄宗能有りと為し、数年間に抜きて御史中丞・戸部侍郎と為す。融は又河北の王莽河を開く策を画し、田数千頃を溉ぎ、以て稻田を営まんとす、事未だ果さずして融敗る。時に又楊崇礼太府卿と為り、清厳にして善く勾剝し、分寸錙銖、躬親して厭わず。転輸納欠、折估漬損、必ず征送せしむ。天下州県財帛を征すること、四時止まず。老病致仕に及び、其の子慎矜を以て御史と為し、専ら太府の出納を知る。其の弟慎名は又専ら京倉を知り、皆苛刻を以て人を害し、主恩を承けて征責す。又韋堅有り、宇文融・楊慎矜の跡を規り、乃ち江淮に於て租米を転運し、州県の義倉粟を取り、転じて軽貨を市い、富戸を差して船を押させ、若し遅留損壞すれば、皆船戸を征す。関中の漕渠に、広運潭を鑿ちて以て山東の粟を挽き、歳四百万石、帝能有りと為し、又貴盛に至る。又王鉷計を進め、奮身自ら戸口色役使と為り、財貨を征剝し、毎歳銭百億を進め、宝貨之に称す。正額の租庸に非ざれば、便ち百宝大盈庫に入れ、以て人主の宴私賞賜の用に供すと云う。玄宗日に眷之し、数年間亦御史大夫・京兆尹・二十余使を帯ぶるに至る。又楊国忠椒房の勢を藉り、恩幸を承け、四十余使を帯び、其の聴覧を経れば必ず数倍弘益すと云い、又寵貴を見る。太平既に久しく、天下至って安く、人は乱れんと願わず。而して此の数人、詭計を設けて以て之を侵擾し、凡そ二十五人、同じく剝喪を為し、而して人敢えて之を言う者無し。安祿山范陽に反するに及び、両京の倉庫盈溢して名づく可からず。楊国忠計を設け、正庫の物を耗す可からずと称し、乃ち御史崔衆をして河東に於て銭を納め僧・尼・道士を度せしめ、旬日間に銭百万を行わしむ。玄宗巴蜀に幸し、鄭昉剣南に使いし、江陵に於て塩麻を税し以て国に資せんことを請い、官吏を置きて以て之を督む。粛宗霊武に号を建て、後に雲間の鄭叔清を用いて御史と為し、江淮間の豪族富商に率貸及び官爵を売らしめ、以て国用を裨す。徳宗朝河朔及び李希烈を討ち、物力耗竭す。趙贊国計を司り、纖瑣刻剝し、以て国用足らざるは、宜しく下に賦取し以て軍蓄に資すべしと為す。諫官陳京等と更に計策を陳べ、贊は京師居人の屋宅に税し、其の間架の差等に拠りて計入せんことを請う。陳京は又列肆の商賈の資産を籍し、以て分数を以て之を借らんことを請う。宰相同じて欺罔を為し、遂に其の計を行わしむ。中外沸騰し、人怨望を懐く。時に又王公已下及び嘗て方鎮に在りしの家に出家僮及び馬を配し以て征行を助けしむ、公私囂然たり。後又張滂・裴延齢・王涯等、下を剝ぎ上に媚び、此れ皆世の戒めと為すに足る者なり。

先ず是れ興元に京師を克復したる後、府蔵尽く虚しく、諸道初めに進奉有り、以て経費に資し、復時に宣索有り。其の後諸賊既に平ぎ、朝廷事無く、常賦の外、進奉止まず。韋皋剣南に日進有り、李兼江西に月進有り。杜亜揚州・劉贊宣州・王緯李錡浙西、皆競いて進奉を為し、以て恩沢を固む。貢入の奏は、皆臣正税外の方円と白し、亦「羨余」と曰う。節度使或いは密旨と托言し、此れに乗じて官物を盗貿す。諸道に謫罰官吏其の財に入る者有り、祿廩を刻み、津を通じ道に達する者之に税し、蔬を蒔き果を芸する者之に税し、死亡する者之に税す。節度観察交代、或いは期を先んじて税入し以て進奉と為す。然れども十に其二三を献ずるのみ、其の余は没入し、勝げて紀す可からず。此れ節度使の進奉なり。其の後裴肅常州刺史と為り、乃ち貨薪炭案牘を鬻ぎ、百賈の上、皆利を規る。歳余又進奉す。幾も無く、浙東観察使に遷る。天下の刺史進奉は、肅より始まる。劉贊宣州に死し、厳綬判官と為り、軍府の資用を傾けて進奉す。幾も無く、刑部員外郎を拝す。天下の判官進奉は、綬より始まる。習いて以て常と為し、流宕して返るを忘る。

大抵唐の天下を禦ぐるや、両税有り、塩鉄有り、漕運有り、倉廩有り、雑税有り。今其の本末を考へ、其の否臧を叙し、以て『食貨志』と為す。

武徳七年、初めて律令を定む。田を度るの制は、五尺を以て歩と為し、歩二百四十を以て畝と為し、畝百を以て頃と為す。丁男・中男には一頃を給し、篤疾・廃疾には四十畝を給し、寡妻妾には三十畝を給す。若し戸を為す者は二十畝を加ふ。授くる所の田は、十分の二を世業と為し、八を口分と為す。世業の田は、身死すれば則ち戸を承くる者に便ち授く。口分は則ち収めて官に納れ、更に以て人に給す。賦役の法は、毎丁歳に租粟二石を入る。調は則ち郷土の産する所に随ひ、綾・絹・絁各二丈、布は五分の一を加ふ。綾・絹・絁を輸する者は、兼ねて綿三両を調す。布を輸する者は、麻三斤を調す。凡そ丁は、歳に二旬を役す。若し役せざれば、則ち其の傭を収め、毎日三尺。事有りて役を加ふる者は、旬に五日有れば其の調を免じ、三旬なれば則ち租調倶に免ず。正役を通じ、並に五十日を過ぎず。若し嶺南諸州は則ち米を税し、上戸は一石二斗、次戸は八斗、下戸は六斗。若し夷獠の戸は、皆な半輸に従ふ。蕃胡内附する者は、上戸丁税銭十文、次戸五文、下戸は之を免ず。附すること経ること二年なる者は、上戸丁羊二口を輸し、次戸一口、下は三戸共に一口を輸す。凡そ水旱蟲霜災を為すは、十分損すること四已上は租を免じ、六已上は調を免じ、七已上は課役倶に免ず。

凡そ天下の人戸、其の資産を量り、九等と定む。毎三年、県司註定し、州司之を覆す。百戸を以て里と為し、五里を以て郷と為す。四家を以て鄰と為し、五家を以て保と為す。邑に居する者を坊と為し、田野に在る者を村と為す。村坊鄰里、遞に相督察す。士農工商、四人各業す。禄を食むの家は、下人と利を争ふことを得ず。工商雑類は、士伍に預ることを得ず。男女始めて生まるる者を黄と為し、四歳を小と為し、十六を中と為し、二十一を丁と為し、六十を老と為す。毎歳一たび計帳を造り、三年一たび戸籍を造る。州県は五比を留め、尚書省は三比を留む。神龍元年、韋庶人皇后と為り、務めて人に媚を求むるを欲し、表を上りて以て二十二を丁と為し、五十八を老と為さんことを請ふ。制して之に従ふ。韋氏誅せらるるに及び、旧に復す。天宝三年に至り、又た優制を降し、以て十八を中男と為し、二十二を丁と為す。天下の籍始めて四本を造り、京師及び東京尚書省・戸部各一本を貯へ、以て車駕行幸に備へ、載運の費に省く。

凡そ権衡度量の制、度は北方の秬黍中者一黍の広を以て分と為し、十分を寸と為し、十寸を尺と為し、十尺を丈と為す。量は秬黍中者一千二百を容るるを以て龠と為し、二龠を合と為し、十合を升と為し、十升を斗と為す。三升を大升と為し、三斗を大斗と為し、十大斗を斛と為す。権衡は秬黍中者百黍の重を以て銖と為し、二十四銖を両と為し、三両を大両と為し、十六両を斤と為す。鐘律を調べ、晷景を測り、湯薬及び冠冕を合するには、小升小両を用ひて制し、自余公私には大升大両を用ふ。又た山東諸州は、一尺二寸を以て大尺と為し、人間行用す。其の量制、公私又た龠を用ひず、合内の分には則ち抄撮の細有り。

天宝九載二月、勅す、「車軸長さ七尺二寸、面三斤四両、塩斗、量除陌銭毎貫二十文。」是に先だち、開元八年正月、勅す、「頃者庸調憑る所無く、好悪須く准ぶべし。故に作樣を遣はして以て諸州に頒ち、其の好は精を過ぐることを得ず、悪は濫に至ることを得ざらしむ。土に任じて貢を作し、源を防ぐは斯に在り。而るに諸州物を送るに、巧を作して端を生じ、苟くも斤両に副はんことを欲し、遂に則ち其の丈尺を加ふ。五丈を以て疋と為す者に至るは、理甚だ然らず。闊一尺八寸、長さ四丈、文を同じくし軌を共にす。其の事久しく行はる。樣を立つるの時も、亦た此の数を載す。若し両を求めて尺を加ふるは、甚だしきは暮四にして朝三するが如し。宜しく所司に簡閲せしめ、比年の常例に逾ゆる有り、丈尺過多なるは、聞くに奏すべし。」

二十二年五月、勅す、「戸口を定むるの時、百姓商戸に非ざる者は郭外の居宅及び毎丁一牛を除き、貨財の数に将ひ入るることを得ず。其の雑匠及び幕士並びに諸色同類、蕃役有りて征行を免ずるに合ふ者は、一戸の内、四丁已上は此の色役に任ずるも兩人を過ぐるを得ず、三丁已上は一人を過ぐるを得ず。」其の年七月十八日、勅す、「今已後、京兆府関内諸州、応に徴すべき庸調及び資課は、並びに十月三十日を限りて畢へしむ。」天宝三載二月二十五日赦文に至り、「毎載庸調八月に征すは、農功未だ畢らず、恐らくは済辦に難しからん。今已後、延べて九月三十日を以て限と為す。」二十五年三月、勅す、「関輔の庸調、税する所少なからず。既に蠶桑寡く、皆な菽粟に資る。常に賤く糶き貴く買ひ、損費愈深し。又た江淮等は変造の労を苦しみ、河路は転輸の弊を増す。毎に其の運脚を計るに、数倍して銭を加ふ。今歳平和に属し、庶物穣賤し、南畝十千の獲有り、京師水火の饒に同じし。其の余を均くして以て遠費を減じ、其の便に順ひて農を傷つけしめず。今已後、関内諸州の庸調資課は、並びに宜しく時価に準じ粟を変じて米を取り、京に送りて逐要支用すべし。其の路遠くして運送すべからざる者は、宜しく所在に収貯し、便ち近きに随ひ軍糧に充つべし。其の河南・河北水利に通ぜざる有るは、宜しく租を折りて絹を造り、以て関中の調課に代ふべし。所司仍く条件を明かにし、朕が意に称せしめよ。」

天宝元年正月一日赦文、聞く所に依れば百姓の内、戸高く丁多き有りて、苟くも規避を為し、父母見在するに、乃ち別籍異居す。宜しく州県に勘会せしむべし。其の一家の内、十丁已上なる者は、両丁の征行賦役を放つ。五丁已上なる者は、一丁を放つ。即ち同籍共居せしめ、以て風教を敦くすべし。其の侍丁孝假は、差科を免ず。」広徳元年七月、詔す、「一戸の内、三丁に一丁の庸調を放つ。地税は旧に依り毎畝二升を税す。天下の男子、宜しく二十三を以て丁と為し、五十八を以て老と為すべし。」永泰元年五月、京兆麦大いに稔る。京兆尹第五琦奏請す、毎十畝官に一畝を税し、古の什一の税に效はんことを。之に従ふ。二年五月、諸道税地銭使・殿中侍御史韋光裔等諸道より使い還り、銭四百九十万貫を得たり。乾元以来、天下用兵に属し、京師百僚の俸銭減耗す。上即位し、恩を庶僚に推し、公卿に議を下す。或いは税畝苗有る者は、公私鹹く済むとす。乃ち憲官を分遣し、天下の地青苗銭を税し、以て百司の課料に充つ。是に至り、仍く御史大夫を以て税地銭物使と為し、歳を以て常と為し、均しく百官に給す。

大暦四年正月十八日、有司に勅して曰く、「天下の百姓及び王公以下、毎年の税銭を定め、九等に分つ。上上戸は四千文、上中戸は三千五百文、上下戸は三千文。中上戸は二千五百文、中中戸は二千文、中下戸は一千五百文。下上戸は一千文、下中戸は七百文、下下戸は五百文。其の見官は、一品は上上戸に準じ、九品は下下戸に準じ、余の品は並びに此の戸等の税に準依すべし。若し一戸数処に任官するも、亦毎処に品に依りて税を納むべし。其の内外官は、仍だ正員及び占額内闕に据りて税すべし。其の試及び同正員文武官は、税限に在らず。其の百姓に邸店行鋪及び炉冶有り、式に准じ合て本戸二等を加へて税すべき者は、此の税数に依りて勘責し征納すべし。其の寄荘戸は、旧例に准じ八等戸の税に従ひ、寄住戸は九等戸の税に従ふ。百姓に比類すれば、事恐らく均しからず、宜しく各々一等を遞加して税すべし。其の諸色の浮客及び権時に寄住する戸等は、官有る無きを問はず、各所在に於て両等を為して税を収むべし。稍く殷有なる者は八等戸に準じ、余は九等戸に準ず。如し数処に荘田有らば、亦毎処に税すべし。諸道の将士の荘田は、既に防禦の勤労に縁り、百姓の例に同じくすべからず、並びに一切九等に従ひて税を輸すべし」と。其の年十二月、勅して曰く、「今関輔の墾田漸く広く、江淮の転漕常に加はる。一年の儲を計れば、太半の助有り。其の税地に於て、固より軽きに従ふべし。其の京兆来秋の税は、宜しく両等に分ち作し、上下各半とすべし。上等は毎畝税一斗、下等は毎畝税六升。其の荒田は如し能く佃する者は、宜しく今年十月二十九日の勅に准じ、一切毎畝税二升とすべし。仍て京兆尹及び令長に委ね、一一存撫せしめ、朕が意を知らしむべし」と。

建中元年二月、黜陟使を遣はし天下に分行せしむ。其の詔略に曰く、「戸に主客無く、見居を以て簿と為す。人に丁中無く、貧富を以て差と為す。行商する者は、郡県に在りて三十の一を税す。居人の税は、秋夏両つ之を征す。各不便有る者は、三つ之。余の征賦悉く罷め、而して丁額は廃せず。其の田畝の税は、率ね大暦十四年の墾数を以て准と為す。夏税を征するは六月を過ぎず。秋税を征するは十一月を過ぎず。違ふ者は長吏を進退す。黜陟使に令し、各風土の宜しき所、人戸の多少を量りて之を均し、其の賦を定め、尚書度支之を総統せしむ」と。三年五月、淮南節度使陳少游、本道の両税銭毎千に二百を増すことを請ふ。因りて詔して他州悉く之の如くせしむ。八年四月、剣南西川観察使韋皋、税を什二加へて以て官吏に給増するを奏請す。之に従ふ。

元和十五年八月、中書門下奏す、「伏して今年閏正月十七日の勅に准ふ。百僚を令して銭貨の軽重を議せしむ。今群官楊於陵等の議に据るに、『伏して天下の両税榷塩酒利等を請ふ、悉く布帛絲綿を以てし、土の産する物を任じ税に充て、並びに見銭を征せず。則ち物漸く重く、銭漸く軽く、農人賤く匹帛を売るを見免かる』と。伏して群臣の議する所を以てす。事皆至当にして、公私に深く利有り。請ふ商量して度支に付し、諸州府の応に徴すべき両税、上都に供し及び留州留使の旧額に据る。元和十六年已後を起し、並びに端匹斤両の物を改配して税額と為し、大暦已前の租庸課調の如く、銭を計はず、其の折納を令す。人をして定制を知り、供辦常に有らしむ。仍て元和十五年征納の布帛等の估価を約す。其の旧に納むる虚估物は、虚估物に依りて回計するに与し、如し旧に実估物並びに見銭を納むれば、即ち当に端匹斤両の上に於て量りて估価を加へ回計すべし。変法は其の物価を長くするに在り。価長ければ則ち永く公私に利有り。初め雖微かに加饒有るも、法行はれば即ち当に実に就く。旧に比し給用するは、固より利して害せず。仍て条件を作為し処置し、旨符に編入す。其の塩利酒利は、本より榷率を以て銭を計す。両税の名に殊有り、銭額を除去すべからず。中に令して見銭を納むる者有らば、亦請ふ令して時估の匹段を折納せしむ。上既に専ら銭を以て税と為さず、人得以て所産を輸官す。銭貨必ず其の重軽を均し、隴畝自ら蠶織に広からん。時に便し下を恵み、庶く其の宜しきを得ん。其の土絲麻に乏しく、或は地辺塞に連なり、風俗更に異なり、賦入同じからざるも、亦請ふ商量し、所司に委ね裁酌し、便宜に随ひ処置せしむ」と。詔して之に従ふ。大和四年五月、剣南西川宣撫使、諫議大夫崔戎奏す、「詔旨に准ひ西川事条を制置す。今郭釗と商量す。両税銭数内三分、二分は見銭を納め、一分は匹段を折納す。毎二貫に百姓を加饒すること五百文、計ること一十三万四千二百四十三貫文。此に依りて百姓に曉諭し訖る。賊を経る州県は、詔に准ひ三分一分を減放し、計ること銭六万七千六百二十貫文を減ず。賊を経ざる処は、先づ見銭を征す。今三分一分を雑物に折納し、計ること百姓を優饒すること一十三万貫。旧に税薑芋の類有り、毎畝に至りて七八百。征斂時にあらず。今並びに税名を省き、尽く諸処に依りて四限等第と為し、先づ戸帖を与へ、余の一切の名目を勒して停む」と。

高祖即位し、仍て隋の五銖銭を用ふ。武徳四年七月、五銖銭を廃し、開元通宝銭を行ふ。径八分、重二銖四絫、積十文重一両。一千文重六斤四両。仍て銭監を洛・並・幽・益等州に置く。秦王・斉王各々三炉を賜ひ銭を鑄す。右僕射裴寂に一炉を賜ふ。敢て盗鑄する者有らば身死し、家口配没す。五年五月、又桂州に於て監を置く。議者新銭の軽重大小最も折衷し、遠近甚だ之に便すと為す。後盗鑄漸く起こり、而して所在用銭濫悪す。顕慶五年九月、勅して悪銭転た多きを以てし、所在の官私を令して市取を為さしめ、五悪銭を以て一好銭に酬す。百姓悪銭の価賤きを以てし、私自ら之を蔵し、以て官禁の弛むを候ふ。高宗又令して好銭一文を以て悪銭両文を買はしむ。弊仍て息まず。乾封元年封嶽の後に至り、又新銭を改造し、文を「乾封泉宝」と曰す。径一寸、重二銖六分、仍て旧銭と並び行ふ。新銭一文旧銭の十に当る。周年の後、旧銭並びに廃す。

初めに、開元通宝の銭文は、給事中欧陽詢が文辞を撰し書したもので、当時その巧みさを称えられた。その字は八分と隷書の体を含み、その文は先ず上、次に下、次に左、次に右の順に読む。上から左へ回環して読んでも、その意味も通じる。世間ではこれを開通元宝銭と呼んだ。そして新銭を鋳造するに当たり、却って世間の呼称に合わせ、「乾」の字を縦に、「封」の字を左に置いた。やがて銭文の誤りに気づき、また改鋳のため、商売が滞り、米や布帛の価格が上昇したので、旧銭を用いることに戻す議論がなされた。二年正月、詔を下して言う、「貨幣の興りは、その由来久しい。まことに古今の重要なものとして、公私の宝用たる。年月が経つにつれ、偽物や濫悪銭が起こったので、乾封の号を採り、新銭を改鋳した。静かに考えるに、これはよろしくなかろう。高祖は乱を撥ねて反正し、軌模を創始された。太宗は極を立てて天を承け、何も改作されなかった。今、旧を廃し新を造るは、先帝の御旨に背く恐れがある。その開元通宝は、宜しく旧に従い施行し、万代の法とすべし。乾封新鋳の銭は、所司に貯蔵納めさせ、これ以上鋳造せしめない。なお天下に炉を置く所は、皆開元通宝銭を鋳造せしめよ」。その後、私鋳は更に増え、銭は再び濫悪となった。

高宗は嘗て殿上に臨み侍臣に謂って言った、「銭の用は、行わるること既に久しく、公私の要便、これに甚だしきはない。近頃、州県が検査を存ぜず、私鋳が過多であると聞く。聞くところによれば、荊・潭・宣・衡の地では、犯法が特に甚だしい。遂には船や筏を江中に泊めて(私鋳し)、管轄の官人が発覚できないという有様である。今後は厳しく禁断し、各地で悪銭を追い徴収し、一二年の間に使い尽くさせよ」。当時は禁令があったが、奸悪濫悪は止まなかった。儀鳳四年四月、東都に遠年の糙米及び粟を出させ、市に就いて売り出し、一斗ごとに悪銭百文を納めさせた。その悪銭は少府・司農に相知らせ、即座に鋳潰させた。その厚み重さ径が斤両に合うものは、使用に任せた。当時、米粟が次第に高騰し、議論する者は、銭の鋳造が次第に増えたので、銭が安く物が高いのだと言った。そこで権宜的に少府監の銭鋳造を停止したが、間もなく旧に復した。則天武后の長安年間、また様銭を市中に掲示し、百姓に様に依って銭を使わせた。間もなくまた選別が困難となり、取引が滞った。また勅を降して、鉄錫・銅蕩・穿穴(穴の開いたもの)でないものは、皆使用を許した。熟銅・排斗・沙澀・厚大のものは、皆選別してはならないとした。これより盗鋳が蜂起し、濫悪銭は益々多くなった。江淮の南では、盗鋳する者が陂湖・巨海・深山の中に赴き、波濤険峻、人跡稀な所で、州県は禁令を及ぼせなかった。神龍・先天の頃に至っては、両京で用いる銭は特に濫悪であった。その郴・衡の私鋳小銭は、僅かに輪郭があり、また鉄錫五銖の類も、使用に堪えた。遂には錫を買い熔かし、銭型で挟み、瞬く間に千百となり、すぐに持ち出して使う有様であった。

開元五年、車駕が東都に行幸した際、宋けいが政事を知り、一切の悪銭を禁断するよう奏請した。六年正月、また天下の悪銭を切断し、二銖四絫銭を行わせた。使用に堪えないものは、皆熔かして再鋳造させた。二月にまた勅して言う、「古、万方の貨を聚め、九府の法を設け、以て天下を通じ、以て生人を便にす。若し軽重中を得ば、則ち利知るべし。若し真偽相雑はば、則ち官其の守を失ふ。頃者、銭を用ふるに、此の道を論ぜず。深く貧窶の日々に困しむを恐れ、奸豪の歳々に滋さんことを恐る。是を以て旧章を申明し、諸様を懸設し、其の人安く俗阜かにして、禁止令行はんことを欲す」。当時、江淮の銭は特に濫悪で、官炉・偏炉・稜銭・時銭など数種類あった。璟は監察御史蕭隠之を江淮使に充てて派遣した。隠之は戸ごとに銭を出させるよう命じ、務めて督責を加えた。百姓は上青銭(良質の青銅銭)を悪銭として納め、小悪銭は或いは江湖に沈めて、罪を免れようとした。そこで市井が通じず、物価が騰貴し、その噂は京師にまで流れた。隠之は貶官され、璟はこれにより罷相し、張嘉貞が政事を知ることとなった。嘉貞はその禁令を緩め、人々はようやく安堵した。

開元二十二年、中書侍郎張九齢が初めて政事を知り、銭鋳造を禁じないよう奏請した。玄宗は百官に詳議させた。黄門侍郎裴耀卿・李林甫、河南少尹蕭炅らは皆言う、「銭は通貨たり、国の権たり。是を以て歴代之を禁じ、以て奸濫を絶つ。今若し一たび此の門を啓かば、只だ小人の農を棄て利を逐ひ、而して濫悪更に甚だしく、事に便ならざるを恐る」。左監門録事参軍劉秩が議を上って言う。

謹んで今月二十一日の勅を奉る。銭鋳を禁ぜずんばと欲し、百僚に詳議して可否を令せんとするものなり。夫れ銭の興り、其の来尚し。将に軽重を平らげ本末を権衡せんとす。斉桓公其の術を得て国以て覇たり。周景王其の道を失ひて人用弊る。諸の載籍を考うるに、国の興衰、実に是に係る。陛下、古を変じて以て今を済はんと思し、経に反して以て道に合はんと欲し、而して即ち改作せず、芻蕘に之を詢ふ。臣雖だ蠢愚、敢へて其の聞見を薦めざらんや。古、珠玉を以て上幣と為し、黄金を以て中幣と為し、刀布を以て下幣と為す。管仲曰く、「夫れ三幣は、之を握れば則ち暖に補ふ有るに非ず、之を捨てれば則ち飽に損ふ有るに非ず。先王は以て財物を守り、以て人事を禦ひ、而して天下を平らぐ」。是を以て之を命じて衡と曰ふ。衡とは、物をして一たび高く一たび下らしめ、常有るを得ざらしむるなり。故に之を与ふるは君に在り、之を奪ふは君に在り、之を貧しくするは君に在り、之を富ますは君に在り。是を以て人君を戴くこと日月の如く、君に親しむこと父母の如し。此の術を用ふるなり。是れ人主の権なり。

今の銭は、即ち古の下幣なり。陛下若し之を捨てて人に任せば、則ち上は以て下を禦ふこと無く、下は以て上に事ふること無し。其の不可なること一なり。夫れ物賤しければ則ち農を傷つけ、銭軽ければ則ち賈を傷つく。故に善く国を為す者は、物の貴賤、銭の軽重を観る。夫れ物重ければ則ち銭軽し。銭軽きは物多きに由る。多ければ則ち法を作りて之を収め少なくし、少なければ則ち重し。重ければ則ち法を作りて之を布き軽くす。軽重の本、必ず是に由る。奈何ぞ而して人に仮らんや。其の不可なること二なり。夫れ銭を鋳るに鉛鉄を雑へざれば則ち利無く、鉛鉄を雑ふれば則ち悪し。悪しきを重く禁ぜざれば、以て懲息に足らず。且つ方今其の私鋳の路を塞ぐも、人猶ほ死を冒して以て之を犯す。況んや其の源を啓きて人の令に従はんことを欲するにおいてをや。是れ陷阱を設けて之を誘ひ入るるなり。其の不可なること三なり。夫れ人に銭鋳を許せば、利無ければ則ち人鋳せず、利有れば則ち南畝を去る者衆し。南畝を去る者衆ければ則ち草墾らず。草墾らざれば、又寒餒に隣す。其の不可なること四なり。夫人富溢れば則ち賞を以て勧むべからず、貧餒れば則ち威を以て禁ずべからず。法令行はれず、人の理まらざるは、皆貧富の斉しからざるに由るなり。若し其の銭鋳を許さば、則ち貧者は必ず能はざるべし。臣恐らくは貧者は弥貧にして富室に服役し、富室は之に乗じて益々恣にせんことを。昔、漢文の時、呉王濞は諸侯なりしも、富天子に埒せり。鄧通は大夫なりしも、財王者に侔せり。此れ皆銭鋳の致す所なり。必ずや其の私鋳を許さんと欲せば、是れ人に利権を与へて其の柄を捨つるなり。其の不可なること五なり。

陛下がもし必ず銭の重さを以て本を傷つけ、工費がかかって利が少ないとお考えならば、臣はその失策を述べて、愚かな計略を献じたい。そもそも銭が重いのは、人が日に日に以前より増えているのに、炉の数が旧来のまま増えないからである。また公銭が重く、銅の価格とほぼ等しいので、盗鋳する者が重い銭を破って軽い銭を作る。銭が軽くなれば、禁令が緩ければ流通し、禁令が厳しければ止まり、止まれば捨てられる。これが銭が少ない所以である。銭を鋳造するのに用が足りないのは、銅が高いことにあり、銅が高いのは、用いる者が多いからである。銅は、兵器としては鉄に及ばず、器物としては漆に及ばない。これを禁じても害はない。陛下はなぜ人に対して禁じられないのか。人に対して禁じれば、銅は用いるところがなくなり、銅はますます安くなり、銭の用は足りるようになる。銅が下に広まらなければ、盗鋳する者は鋳造する理由がなくなり、公銭は破られず、人は死刑に犯さず、銭はまた日に日に増え、末業もまた利益を得る。これは一挙にして四つの美を兼ねるものである。どうか陛下に熟慮していただきたい。

当時、公卿群官は皆、不便であると建議した。事は既に行われず、ただ郡県に命じて悪銭を厳しく断つことだけを命じた。

天宝の初めに至ると、両京で用いる銭はやや良くなり、米粟は豊かで安かった。数年後、次第にまた濫悪となり、府県は良い銭に値段を加えて交換することを許さず、良いものも悪いものも通用させた。富商や奸人は、次第に良い銭を収集し、密かに江淮の南へ持ち運び、一銭の貨で私鋳の悪銭五文を得て、官銭と偽り、京へ持ち込んで私用した。京城の銭は日に日に細かく悪くなり、鵝眼・鉄錫・古文・綖環の類は、一貫の重さが三四斤を超えなかった。十一載二月、詔を下して言う、「銭貨の用は、有無を通じさせるためであり、軽重の権は、逾越を禁ずるためである。故に周は九府の法を立て、漢は三官の制を備えた。永く適便を言えば、必ず従宜にある。聞くところによれば、京師で行用する銭は、甚だ多く濫悪であり、懲革を資するには、その訛謬を絶つべきである。しかし安人は存養に在り、化俗は変通を期す。法がもし寛に従えば、事は持久に堪える。宜しく所司に令して即ち銭数十万貫を出し、両市に分け、百姓の間で交易所用の銭で久しく行用に堪えないものは、官がこれを換え取るべし。なお一月の日限を設けて使い尽くさせる。庶幾くば単貧に患いなく、商旅必ず通ぜん。その期限を過ぎて違犯する者は、一事以上、並びに条件を以て処分する。」この時、京城の百姓は久しく悪銭を用いていたので、制が下った後、甚だ驚き騒いだ。時にまた龍興観の南街に場を開き、左蔵庫内の排闘銭を出し、市人が博換することを許した。貧弱者はまた順番を争って得られなかった。やがてまた宣勅があり、鉄錫・銅沙・穿穴・古文を除き、その余は並びに旧来の通り行用を許し、久しくしてようやく定まった。

乾元元年七月、詔して言う、「銭貨の興りは、その来ること久しく、代々に沿革があり、時に重軽がある。周は九府を興し、実に流泉の利を啓き、漢は五銖を造り、また改鋳の法を弘めた。必ず大小兼ねて適し、母子相権からしめる。事が公私に益あり、理は通変に循うべきである。ただ干戈未だ息まず、帑蔵猶虚しい。卜式は軍を助ける誠を献じ、弘羊は国を富ます算を興す。静かに法を立てることを言えば、諒らかに人の便に在る。御史中丞第五琦が奏請して銭を改め、一を以て十に当て、別に新たに鋳造し、旧銭を廃さず、三官の資を実にし、十倍の利を収め用いんことを冀う。所謂人を擾さず、古に経有りというものなり。宜しく諸監に職して別に一当十の銭を鋳造し、文を「乾元重宝」とすべし。その開元通宝は旧来の通り行用する。請うところの采鋳捉搦処置は、即ち条件を以て聞奏せよ。」二年三月、琦が入って相となり、また重輪乾元銭を更に鋳造することを請い、一を以て五十に当て、二十斤で一貫とする。詔してこれを可とした。ここにおいて新銭と乾元・開元通宝銭の三品が並行した。間もなく穀価が騰貴し、米一斗が七千に至り、餓死者が道に枕を並べた。そこで旧開元銭を引き上げて一を以て十に当て、乾元銭を減じて一を以て三十に当てた。人は銭価の定まらないことを厭い、民間では引き上げ加価銭を虚銭とした。長安城中では、競って盗鋳し、寺観の鐘や銅像を多く壊して銭とした。奸人や豪族で禁を犯す者が絶えなかった。京兆尹鄭叔清がこれを擒捕し、少しも容赦せず、数ヶ月の間に打ち殺した者が八百余人に及んだ。人はますます頼るものなくなる。

上元元年六月、詔して言う、「時に因りて制を立て、頃に新銭を議し、且つは権に従うものであり、経久でないことを知る。聞くところによれば、官炉の外に、私鋳が甚だ多く、小銭を併呑し、逾濫して弊となる。罪に抵する者は多いが、奸を禁ずることは未だ絶えない。況や物価は益々上がり、人心安からず。事は変通を藉り、折衷を期す。その重棱五十価銭は、宜しく三十文に減じて行用すべし。その開元旧時銭は、宜しく一を以て十文に当てて行用すべし。その乾元十当銭は、宜しく前の通り行用すべし。なお京中及び畿県内にこの処分に依らしめ、諸州は進止を待て。」七月に勅す、「重棱五十価銭は、先に畿内に令して三十価に減じて行う。その天下諸州は、並びに宜しくこれに准うべし。」宝応元年四月、乾元銭を行い、一を以て二に当てることを改め、乾元重棱小銭もまた一を以て二に当て、重棱大銭は一を以て三に当てる。間もなくまた乾元大小銭を行い、並びに一を以て一に当てることを改める。その私鋳の重棱大銭は、行用の限りに在らず。

大曆四年正月、関内道鑄錢等使・戸部侍郎第五琦が上言し、絳州の汾陽・銅原両監において、五炉を増設して銭を鋳造することを請い、これを許した。

建中元年九月、戸部侍郎韓洄が上言して言う、「江淮の銭監は、毎年合わせて銭四万五千貫を鋳造し、京師に輸送するが、工費と運送の費用を計算すると、毎貫銭二千文を計上する。これは元手が利益の倍である。今、商州には紅崖冶があり、銅の産出がますます多く、また洛源監があるが、久しく廃れて管理されていない。工を増やして山を穿ち銅を採り、洛源銭監を興し、十炉を設置して銭を鋳造することを請う。年間で銭七万二千貫を産出する計算であり、工費と運送の費用を計算すると、貫あたり銭九百文である。そうすれば利益が元手を上回る。その江淮の七監は、全て停止廃止することを請う。」これを従う。貞元九年正月、張滂が奏上して言う、「諸州府の公私諸色の銅器雑物等の鋳造について。伏して考えるに、国家の銭は少なく、損失する門戸が多い。商売をする者どもが、ひそかに銭を溶かして鋳造する。銭一千文は銅六斤となり、器物を造れば、一斤の値は六百余文である。利益が既に厚いので、溶かして鋳造する者が遂に多く、江淮の間では、銭は実に減耗している。伏して請う、以前の勅文に準拠し、鏡を鋳造する以外は、一切禁断すること。」元和三年五月、塩鉄使李巽が上言して言う、「湖南院の申し出を得た。郴州平陽、高亭両県の境界に、平陽冶及び馬跡、曲木等の古い銅坑があり、およそ二百八十余井ある。官を派遣して検査したところ、実に銅錫がある。今、郴州の旧桂陽監に炉二所を設置し、銅を採って銭を鋳造することを請う。一日に約二十貫、一年で鋳成すること七千貫の計算であり、人々に益がある。」これを従う。その年の六月、詔して言う、「泉貨の法は、道理は流通にある。もし銭がどこかで滞れば、貨物はますます安くなる。故に銭を蔵する者は人の急を乗じることができ、貨物を保有する者は必ず己の資産を損なう。今、銭令を定めて滞蔵を出させ、鼓鑄を加えて流通布施を助け、商旅に禁を知らしめ、農桑を安んじさせたい。道理は時を救うことに切実であり、心情は利益を欲するものではない。もし改革に漸進がなければ、恐らく人は互いに驚くだろう。天下の商賈で先に現銭を蓄えている者は、所在の長吏に委ね、貨物を買い取らせよ。官中では軽々しく程限を設け、商人を逼迫してはならず、その貨物取引に任せ、便宜を得させることを求める。一年後の計算では、この法が遍く行き渡るであろう。朕は別に新規を立て、蓄銭の禁令を設ける。だから先に告示し、方円(融通)を許すのは、他時に法を行っても寛容にしないという意図である。また、天下に銀の山があるところには、必ず銅鉱がある。銅は鼓鑄に資することができるが、銀は生民に益がない。その軽重を権衡し、条規を専一にする。天下の五嶺以北で、現在銀坑を採掘しているところは、全て禁断すべきである。恐らく所在の坑戸は失業を免れないであろうから、各々本州府の長吏に委ねて勧課し、銅を採らせ、官中の鋳作を助けさせよ。なお塩鉄使に条流を委ねて聞奏せしめよ。」

四年閏三月、京城では時用の銭で毎貫の頭(最初の部分)から二十文を除き、陌内に欠銭や鉛錫銭などがある場合、貞元九年三月二十六日の勅に準じて、「陌内の欠銭は、法として禁断すべきであるが、取り締まりを慮るに、あるいはまた奸を生じるかもしれない。人をして従い易くし、煩わさないことに切実である。今以後、取引で欠陌銭を用いる者があったら、宜しくただ本行頭及び居停主人、牙人等に検査させて官に送らせよ。もし容隠する者があれば、兼ねて売物の代金を受け取る人に糾告を許す。その行頭、主人、牙人は、重く科罪を加える。府県の所由祗承人等は、並びに干渉する必要はない。もし売買によるのでなく、自ら銭を街衢で行く者は、一切問わない。」その年の六月、勅して、「五嶺以北の全ての銀坑は、以前のまま任せて百姓に開採させ、現銭が嶺を出ることを禁ずる。」

六年二月、制して、「公私の交易で、十貫銭以上は、即ち必ず匹段を兼用しなければならない。度支塩鉄使及び京兆尹に委ねて、即座に分数を具えて、条流を聞奏せしめよ。茶商等の公私便換による現銭は、並びに禁断しなければならない。」その年の三月、河東節度使王鍔が奏請して、当管蔚州界に炉を加えて設置し銅銭を鋳造し、管内の錫銭を廃止したいと。これを許し、なお五炉まで加えることを命じた。七年五月、戸部王紹、度支盧坦、塩鉄王播等が奏上して言う、「伏して考えるに、京都の時用は多く現銭を重んじるが、官中の支計は、近ごろ殊に少ない。これは比来商人の便換を許さないことによるのであって、これによって家に滞蔵があり、だから物価が転じて高く、銭が多く出ないのである。臣等今商量し、伏して請う、商人に三司で任意に現銭に便換することを許し、一切旧来の禁約のままとすることを。伏して考えるに、比来諸司諸使等には、あるいは商人に便する者がおり、銭が多く城中に留まり、時々収貯し、私室に積蔵して、再び流通しない。伏して請う、今以後、厳しく禁約を加えることを。」これを従う。八年四月、勅して、「銭重貨軽を以て、内庫の銭五十万貫を出し、両市に布帛を買い取らせ、毎端匹の估価に十分の一を加える。」

十二年正月、勅して、「泉貨の設置は、故に常規があり、重軽を適宜にし、斂散に節度があることを資するためであり、必ず共変を通じて、人に利するのである。今、繒帛が転じて賤く、公私ともに弊害がある。宜しく現銭五十万貫を出し、京兆府に要便の地を選んで場を開き、市価に依って交易せしめよ。清廉剛直な官吏を選び、切に勾当せしめよ。なお各々本司に委ね、先に処置条件を作って聞奏せしめよ。必ず事が経久に堪え、法が通行できるようにせよ。」また勅して、「近日、布帛が転じて軽く、現銭が漸く少ない。皆、所在で壅塞し、流通できないことによる。宜しく京城内の文武官僚から、品秩の高下を問わず、並びに公、郡、県主、中使等、下は士庶、商旅、寺観、坊市に至るまで、所有する私貯の現銭は、並びに五千貫を超えてはならない。もしこれを超える者があれば、勅が出た後から、一ヶ月の期限を限って、市場で別の物を買い取って貯蔵することを許す。もし銭数が多く、処置が完了しない場合は、期限内に地界の州県に陳状し、さらに期限を請うことを任せる。たとえこのような場合でも、二ヶ月を超えてはならない。もし一家内に別に宅舍店鋪等があり、そこに貯蔵する銭は、必ずこの数に計上しなければならない。その兄弟で本来別居し、かつて財産分与した者は、この限りではない。もし期限満了後に違犯する者があれば、白身人等は、宜しく所司に付し、痛杖一頓を決して処死する。その文武官及び公主等は、並びに有司に委ねて聞奏し、重く科貶する。戚属中使も、名銜を具えて聞奏する。その余剰貯蔵の銭は、多少を限らず、並びに強いて官に納めさせる。数内の五分の一を取って賞銭に充てるが、五千貫に止める。このほか察獲され、及び人が論告した場合も、重く科処し、並びに告者に量って給与する。」時に京師の里閭区肆に積もるものは、多く方鎮の銭であり、王鍔、韓弘、李惟簡のもので、少ない者でも五十万貫に下らない。ここにおいて競って第屋を買ってその銭を変え、多い者は竟に裏巷の賃貸料を払ってその代価を帰した。そして高資の大賈は、多く左右軍の官銭を名目として依倚し、府県は窮めて検証することができず、法は遂に行われなかった。

十四年六月、勅す、「諸軍諸使に属すべき者にして、更に時用の銭毎貫二十文を除き、足陌内に欠銭及び鉛錫銭有るを犯す者は、宜しく京兆府に枷項して収禁せしめ、本軍本使府司に牒報し、人就して軍及び看決二十せしむべし。情状容れ難く、復た違拒有る者は、仍て府司に聞奏せしむべし」と。十五年八月、中書門下奏す、「伏して群官の議する所の銭を鑄るを准へ、或いは市間の銅物を収め、州郡に令して銭を鑄らしむるを請ふ。開元以前に當り、未だ鹽鐵使を置かず、亦た州郡に令して勾當鑄造せしむ。今若し兩稅盡く匹段を納め、或は兼ねて通用の見銭を要するを慮る。諸道の公私の銅器を、各所在の節度・團練・防禦・經略使に納めしめ、便ち元勅に據り價直を給與し、並びに兩稅に折らしめんと欲す。仍て本處の軍人に熔鑄せしむ。其の鑄本は、留州留使の年支未用物を以て充つるを請ふ。鑄る所の銭は便ち軍府・州・縣の公用に充つ。當處の軍人は、自ら糧賜有り、亦た本を較べて省く。資る所は眾力、並びに收むるは眾銅、天下並びに功を爲し、速かに時用を濟す。一年を待ちて鑄器物盡き、則ち停む。其の州府に銅鉛を出し以て爐を開く處有るは、具に有司に申し、便ち諸監冶の例に同じくし、每年本と充て鑄らしむ。其の銅器を收市する期限、並びに銅物を鑄造買賣するを禁ずる等は、議定を待ちて便ち有司に條流して聞奏せしむ。其の上都の銭を鑄り及び銅器を收むるは、續いて處分す。將に頒行せんと欲す、尚周慮に資す。中書門下兩省・御史臺並びに諸司の長官に商量せしめ、重ねて議して聞奏せしむるを請ふ」と。之に從ふ。

長慶元年九月、勅を下して曰く、「貨幣の意義は、流通を重んずるにある。聞くところによれば、近ごろ銭を用いるに当たり、各地で除陌の率が一様でないという。人に禁を犯させ必ず犯させるよりは、むしろ俗に従って適宜とし、交易往来には、必ず守り得るようにせよ。内外公私の給用銭は、今後より、宜しく毎貫一例として八十文を除墊し、九百二十文をもって貫を成し、さらに加除及び陌内の欠少があってはならない」と。大和三年六月、中書門下が奏上して曰く、「元和四年閏三月の勅に準ずれば、鉛錫銭のあるものは、併せて官に納めるべきであり、もし人が一銭を糾発すれば、百銭を賞する者である。当時の勅条は、峻切を貴んだが、今事実を詳らかにすれば、必ず行い得ない。ただ一銭を告げて百銭を賞するごときは、則ち人が一百貫の錫銭を告げれば、須らく一万貫の銅銭を賞すべく、これを持って行えば、事に際限がない。今請う、鉛錫銭をもって交易する者は、一貫以下は、州府の常行に準じて脊杖二十を決し、十貫以下は、六十を決し、三年に徒し、十貫を過ぎる以上は、所在に衆を集めて決殺せよ。その鉛錫銭を受けて交易する者も、亦此に準じて処分せよ。その鉛錫銭を用いる者は、仍お官に納めよ。その能く糾告する者は、毎一貫に五千文を賞し、貫に満たざる者は、此に準じて賞を計い、累ねて三百千に至れば、仍お且つ当処の官銭を取って給付せよ。その犯人の罪死せざる者は、家資を征納して、賞銭を充填せよ」と。之を可とした。四年十一月、勅を下して曰く、「応に私に現銭を貯むる家は、合貯すべき数を除く外、一万貫より十万貫までは、一周年を限りに処置を畢え、十万貫より二十万貫以下は、二周年を限りに処置を畢えよ。もし期限を守らず、安然として蓄積し、本限を過ぐれば、即ち人に糾告を任せ、及び所由に覚察せしめよ。その犯家の銭は、併せて元和十二年の勅に準じて官に納め、数に据り五分の一を取って賞に充てよ。糾告人の賞銭は、数五千貫に止む。応に銭法を犯す人の色目決断科貶は、併せて元和十二年の勅に準じて処分せよ。その所由の覚察も、亦半ばを量りて賞せよ」と。事竟に行われず。五年二月、塩鉄使が奏上して曰く、「湖南管內諸州の百姓が私に鑄造して到れる銭。伏して衡・道数州は、嶺南に連接し、山洞深邃にして、百姓は監司の銭様に模を依り、競いて脆惡の奸銭を鑄造して到り、轉た賤價を將て博易し、好銭と相和して行用す。その江西・鄂岳・桂管の濫銭を鑄るは、併せて本道觀察使に委ねて條流し禁絶せんことを請う」と。敕旨、宜しく依れとす。

会昌六年二月、勅す。「諸道において佛像・鐘磬等を鼓鑄して新錢を造ることは、既に次第あり、須らく舊錢をして流布せしむべし。絹帛の價稍増す。文武百僚の俸料は、宜しく三月一日より起算し、並びに見錢を給すべし。その一半は先づ虛估の匹段を給し、估價に對して支給すべし」と。勅す。「比來、錢重く幣輕きを緣り、生人坐して困す。今鼓鑄を加ふるは、必ず流行に在り。通變して時を救ふは、此より切なるは莫し。宜しく先甲の令を申して、以て貨を居むるの徒を誡むべし。京城及び諸道は、今年十月以後より起算し、公私行用に並びに新錢を取るべく、その舊錢は權て三數年を停む。もし違犯有らば、鉛錫の惡錢を用ふるの例に同じくして科斷し、その舊錢は並びに官に納むべし」と。事竟に行はれず。

開元元年十一月、河中尹姜師度は安邑の鹽池が次第に涸れるを以て、師度は開拓し水道を疏決し、鹽屯を置き、公私大いに其の利を収む。其の年十一月五日、左拾遺劉彤上表して曰く、「臣聞く、漢の孝武政を為すに、廊馬三十萬、後宮數萬人、外には戎夷を討ち、内には宮室を興し、殫費の甚だしきは、實に百當今に當たる。而るに古は費多くして貨餘有り、今は用少なくして財足らず、何ぞや。豈に古は山澤を取り、今は貧民を取るに非ずや。山澤を取れば、則ち公利厚くして人農に歸す。貧民を取れば、則ち公利薄くして人其の業を去る。故に先王法を作すや、山海に官有り、虞衡に職有り、輕重に術有り、禁發に時有り。一には農を專にし、二には國を饒にす、人を濟ふ盛事なり。臣實に今を疑ふ。夫れ海を煮て鹽と為し、山を采りて錢を鑄し、木を伐りて室と為す。農餘の輩、寒くして衣無く、饑えて食無く、傭賃自ら資する者は、窮苦の流なり。若し能く山海の厚利を以て、農の餘人を資し、厚斂重徭を以て、窮苦の子を免かしむれば、所謂有餘を損じて不足を益する、帝王の道、然りと謂はざる可けんや。臣願はくは陛下鹽鐵木等の官を詔して利を収め興し、人に貿遷せしめよ。則ち數年に及ばずして、府に餘儲有らん。然る後に寬貸の令を下し、窮獨の徭を蠲ち、以て群生を惠み、以て荒服を柔ぐべし。戎狄・猾夏と雖も、堯・湯の水旱と雖も、虞ふに足らざるなり。天に奉じて變に適するは、惟だ陛下の之を行ふに在り。」上宰臣をして其の可否を議せしむ。鹹に鹽鐵の利は、甚だ國用に益するを以てす。遂に將作大匠姜師度・戶部侍郎強循をして俱に御史中丞を攝らしめ、諸道按察使と與に海内鹽鐵の課を檢責せしむ。「比に使人をして勾當せしむるに、此の外更に別に求むること無し。外に在りて細かに委知せず、聞くに稱して侵刻有りとす。宜しく本州刺史上佐一人をして檢校せしめ、令式に依りて稅を収むべし。若し落帳欺沒有らば、仍て按察使をして糾覺奏聞せしむ。其の姜師度は蒲州鹽池を除く以外、自餘の處更に巡檢を須ひず。」

貞元十六年十二月、史牟が奏上して言う、「澤州・潞州・鄭州などは多くは末塩である。禁断を請う」と。これに従う。元和五年正月、度支が奏上して言う、「鄜州・邠州・涇原の諸将兵は、当該地の百姓の例と同じく、烏池・白池両池の塩を食することを請う」と。六年閏十二月、度支の盧坦が奏上して言う、「河中両池の顆塩は、勅文においてただ京畿・鳳翔・陝州・虢州・河中・澤州・潞州・河南・許州・汝州など十五州の境界内でのみ売買することを許されている。近来は因循して、さらに興州・鳳州・文州・成州など六州を越えている。臣は移牒して詰問したところ、山南西道観察使からの報告を得た。その果州・閬州両州の塩は、本来の土着の戸人および巴南の諸郡が買い入れ、また当該軍の兵馬に供給しているが、なお不足がある。もし数州を兼ねれば、自然に欠乏する。また興元府の諸耆老の状申訴を得た。臣は今考えをめぐらし、河中の塩は六州の境界内に置いて売買することを請う」と。これに従う。十年七月、度支使の皇甫鎛が奏上し、峡内四監・剣南東西川・山南西道の塩の価格を加増し、もって軍需供給の利とすることとした。これに従う。十三年、塩鉄使の程異が奏上して言う、「諸州府が先に請うて置いた茶塩店の収税についてである。謹んで今年正月一日の赦文を拝察するに、諸州府が用兵以来、あるいは権宜的に職名を置き、あるいは擅かに科配を加えたことを慮り、事が常の制度でないものは、一切禁断するというものである。謹んで考えるに、茶塩の専売税は、本来財賦を資とし、軍鎮を贍済するものであり、蓋し権宜に従ったものである。先の兵乱が止んで以来、自ら停めるべきであったが、事が久しくなり実に重い徴税となっている。諸道が先に置いた店および諸色の銭物を収めたものは、擅かに加えたものではないが、しかも常の制度ではない。謹んで赦文に準じて停止することを請う」と。これに従う。

十四年三月、鄆州・青州・兗州の三州にそれぞれ榷塩院を置く。

長慶元年三月、勅す、「河朔は初めて平定し、人々は徳沢を希う。しばらくは寛泰を務め、これらをして安寧を得しめよ。河北の榷塩法はしばらく権宜的に停止せよ。なお度支に鎮冀・魏博等道の節度使と審察商量させ、もし課利銭の数を約計して分付し、榷塩院に任せても、また穏便に任せよ」と。天宝末の兵乱以来、河北の塩法は羈縻するのみであった。元和年中に至り、皇甫鎛が税塩院を置くことを奏上し、江・淮両池の専売の利と同じくしたので、人々は禁を犯すことを苦しみ、戎鎮もまた頻りに上訴した。故にこの命があった。その月、塩鉄使の王播が奏上して言う、「揚州・白沙の両処の納榷場は、請うて旧に従って院とせよ」と。また奏上して言う、「諸道の塩院が塩を商人に売り渡すに、請うて毎斗五十文を加え、旧来の三百文の価格を通じて三百五十文とせよ。諸処の煎塩停場に小舗を置いて塩を売るに、毎斗二十文を加え、旧来の一百九十文の価格を通じて二百十文とせよ」と。また奏上して言う、「管下の煎塩戸および塩商、並びに諸塩院停場の官吏の所由などについて、前後の制勅において、両税以外には差役追擾を許さない。今請うてさらに違越する者があれば、県令・刺史を貶黜し俸給を罰する」と。これに従う。二年五月、詔して曰く、「兵革は初めて寧んずるも、また専売管理を資とす。しかし里巷が重く困窮するならば、これを蠲除すべし。聞くところによれば、淄青・兗・鄆の三道では、往来の糶塩価銭を近く取りて七十万貫に及び、軍資の給費は優に贍って余りがある。塩鉄使が収管して以来、軍府は頓にその利を絶たれた。遂に行陣を経る者には停糧の怨みがあり、隴畝に服する者には加税の嘆きがあり、塩禁を犯す者は鞭撻の刑に困しめられ、生業を営む者は蠶醬の具に乏しい。県官は利を受けるといえども、郡府はますます空しくなる。人をして安寧を得しめ、我は節用に因らん。塩鉄は先に淄青・兗・鄆等道の管内に小舗を置いて塩を売り、巡院が専売税を納めていたが、今年五月一日以後より、一切並びに停止せよ。なお各々本道に委せて、比来の節度使が自ら収管して軍府の逐急の用度に充て、及び管内の貧下の百姓の両税銭数を均しく減ずることを約校せしめよ。年終に至り、各々糶塩によって得たる銭並びに均減したる両税を具して奏聞せよ」と。

安邑・解県の両池には、旧来榷塩使を置き、なお各々別に院官を置いた。元和三年七月、また安邑・解県両池留後を以て榷塩使とする。先に、両池の塩務は度支に隷属し、その職は諸道の巡院と同等であった。貞元十六年、史牟が金部郎中として池務を主管し、諸院と同列であることを恥じて、遂に使の官額を置くことを奏上した。二十一年、塩鉄・度支が一使に合わされ、杜佑が兼ねて領した。佑は度支が既に使と称する以上、その管轄下にさらに使の名があってはならないと考え、遂に東渭橋使とともに奏上してこれを罷めた。ここに至り、裴均が池務を主管し、職務が転じて繁劇となったので、またこの請いがあった。大和三年四月、勅して安邑・解県両池の専売税を、実銭一百万貫を以て定額と定める。大中二年正月に至り、勅してただ匹段の精好なるものを取るべく、必ずしも旧額の銭数を計らなくてよいとする。大中年中に及び、度支が専売税利一百二十一万五千余貫を納めたと奏上する。

女塩池は解県にあり、朝邑小池は同州にあり、鹵池は京兆府奉先県にある。並びに禁断して専売としない。烏池は塩州にあり、旧来榷税使を置いた。長慶元年三月、勅して烏池の毎年の糶塩収博榷米を、一十五万石を以て定額とする。温池は、大中四年三月、河隴を収復したことにより、勅令して度支に収管させた。温池の塩はなお霊州分巡院官を差して勾当させる。六年三月に至り、勅令して威州に割属させ、榷税使を置く。新たに制置した縁故により、専売税の定額は未だ立てていない。胡落池は豊州の界にあり、河東供軍使が収管する。毎年采塩約一万四千余石、振武・天徳の両軍及び営田水運の官健に供給する。大中四年より党項が叛擾し、饋運が通じなくなったので、供軍使が権宜的に河東の白池塩を市って供食することを請うた。その白池は河東節度使に属し、度支の管轄下にはない。初め、玄宗以前にも、また塩池使があった。景雲四年三月、蒲州刺史が関内塩池使を充てる。先天二年九月、強循が豳州刺史を除され、塩池使を充てる。これは塩州の池である。開元十五年五月、兵部尚書蕭すうが関内塩池使を除される。これは朔方節度が常に塩池使を帯びるものである。