旧唐書 於志寧、高季輔、張行成、族孫易之、昌宗

旧唐書

於志寧、高季輔、張行成、族孫易之、昌宗

於志寧

於志寧は、雍州高陵の人であり、周の太師燕文公于謹の曾孫である。父の宣道は、隋の内史舎人であった。志寧は、大業の末に冠氏県長となり、時に山東に群盗が起こったので、官を棄てて郷里に帰った。高祖が関中に入らんとしたとき、群従を率いて長春宮に迎えに出て、高祖はその当時の名声を重んじて、大いに礼遇を加え、銀青光禄大夫を授けた。太宗が渭北道行軍元帥となると、召し出して記室に補し、殷開山らとともに軍謀に参じた。太宗が秦王・天策上将となると、志寧は累ねて天策府従事中郎を授けられ、常に征伐に侍従し、兼ねて文学館学士となった。貞観三年、累遷して中書侍郎となった。太宗が貴臣を内殿に宴したとき、志寧が見えないのを怪しみ、ある者が奏して言うには、「勅命は三品以上を召しておりますが、志寧は三品ではないので、参じないのです」と。太宗は特に命じて宴に預からせ、即座に散騎常侍を加授し、行太子左庶子とした。累ねて黎陽県公に封ぜられた。時に議者が七廟を立て、涼武昭王を始祖としようとし、房玄齢らは皆これに同意した。志寧のみが建議して、武昭王は遠祖であり、王業の基となったものではないので、始祖とすべきではないとした。太宗はまた功臣を代襲刺史としようとしたが、志寧は今古の事情が異なるとして、久安の道ではないと恐れ、上疏して争った。いずれも志寧の議に従った。太宗はそこで志寧に言うには、「古くは太子が生まれると、士がこれを背負い、すぐに輔弼を置いた。昔、成王が幼少のとき、周公・召公が師傅となり、日に正道を聞き、習って性を成した。今、皇太子は既に幼少である。卿は正道をもってこれを輔け、邪僻な心を開かせてはならない。怠ることなく励めば、委ねられたところに応えるであろう。官賞は順序を越えて得られるであろう」と。志寧は承乾がたびたび礼度を欠くのを以て、これを匡救せんと志し、『諫苑』二十巻を撰してこれを諷した。太宗は大いに喜び、黄金十斤・絹三百匹を賜った。十四年、太子詹事を兼ねた。明年、母の憂いにより解任された。まもなく本官に復帰したが、たびたび表を上して喪礼を終えることを請うた。太宗は中書侍郎岑文本を遣わしてその宅に赴き、諭して言うには、「忠孝は併せられない。我が子は人を輔弼に必要とする。卿は抑えて割愛し、私情に従ってはならない」と。志寧は遂に起きて職に就いた。

時に皇太子承乾は、盛んな農期に曲室を営造し、数か月にわたって止まず、行い多く法に背いた。志寧は上書して諫めて言うには、

臣は聞く、倹約を用いることは、実に道を弘める源であり、奢侈に情を恣にするは、乃ち徳を敗る本であると。これにより凌雲概日の宮殿は、戎人これにより譏りを致し、峻宇彫牆は、『夏書』これを以て誡めとする。昔、趙盾は晋を匡し、呂望は周を師とし、或いは節財を以てこれを勧め、或いは厚斂を以てこれを諫め、忠を尽くして国を佐け、誠を竭くして君に奉らざるはなく、実を茂らせて無窮に播き、英声を物聴に被らんことを欲した。皆簡策に著して、美談と為す。今居る東宮は、隋の日に営建したものであり、これを見る者は尚その奢侈を譏り、これを見る者は猶その華美を嘆く。どうしてこの中に更に修造を加え、財帛を日に費やし、土木を停めず、斤斧の工を窮め、磨礱の妙を極めることができようか。かつ丁匠・官奴が内に入るが、近ごろ曾て監視する者がない。これらは或いは兄が国章を犯し、或いは弟が王法に罹り、御苑に往来し、禁闈に出入し、鉗鑿がその身に縁り、槌杵がその手にある。監門は本来非慮を防ぎ、宿衛は不虞に備えるものであるが、直長は既に自ら知らず、千牛はまた見えない。爪牙は外にあり、厮役は内にあり、所司は何を以て自ら安んじ、臣下はどうして懼れなきを得ようか。また鄭・衛の楽は、古く淫声と謂う。昔、朝歌の郷にて、車を回した者は墨翟であり、夾谷の会にて、剣を揮った者は孔丘である。先聖既にこれを非と為し、通賢は将にこれを失と為さんとする。近ごろ宮内に、たびたび鼓声の大楽あり、伎児が入ったまま出ないと聞く。これを聞く者は股慄し、これを言う者は心戦う。往年の口勅を、伏して重ねて尋ね請う。聖旨は慇勤にして、明誡は懇切である。殿下においては、思わざるを得ず、微臣に至っては、懼れなきを得ない。臣は宮闕に駆馳してより、既に歳年を積む。犬馬すら尚恩を知り、木石すら猶感を知る。所有の管見を、敢えて言い尽くさざらんや。もし丹誠を以て鑑みられば、則ち臣に生路あり。もしその旨に忤うを責められば、則ち臣は罪人である。ただ意を悦ばせて容を取るは、蔵孫これを疾疹に方え、顔を犯し耳に逆らうは、『春秋』これを薬石に比す。伏して工匠の作を停め、久役の人を罷め、鄭・衛の音を絶ち、群小の輩を斥けられんことを望む。則ち三善は允かに備わり、万国は貞を作さん。

承乾は受け入れなかった。承乾はまた閹官を多く左右に置いた。志寧は上書して諫めて言うには、

臣は聞く、堯は稽古を称し、功は搜揚に著しく、舜は聰明を曰い、績は去悪に彰ると。然りと雖も開元立極し、政を布き方を辨ずるには、英賢を旌賁し、不肖を駆除せざるはない。理乱の本は、皆ここに在る。況や閹宦の徒は、体は全気に非ず、更に階闥に蕃え、宮闈の左右にあり、親近に托けて威権を立て、出納を仮りて禍福を為す。昔、易牙任用されて、変は斉邦に起こり、張讓鈞を執りて、乱は漢室に生じた。伊戾詐を為して、宋国その殃を受け、趙高奸を作して、秦氏その弊を鐘した。これに弘・石が事を用い、京・賈は則ち連首して誅せられ、王・曹が権を掌り、何・竇は則ち踵武して戮せられた。遂に縉紳をして重足せしめ、宰司をして屏気せしめた。然りと雖もその情に順う者は、則ち栄え幼沖に逮び、その意に迕う者は、則ち災い襁褓に及ぶ。爰に高斉が鄴に都すに及び、また閹官に弊わされた。鄧長顒は位は侍中に至り、陳德信は爵は開府に隆く、外には朝政に干し、内には宴私に預かり、宗枝はその吹噓を藉り、重臣はその鼻息を仰いだ。罪は山嶽に積むも、刑書に掛かることなく、功は涓塵無きに、已に鐘鼎に勒せられ、富は金穴を逾え、財は銅山に甚だしい。これにより家は怨嗟を起こし、人は憤嘆を懐いた。骨鯁の士は、語りて聴かれず、謇諤の臣は、言えば必ず斥けられた。斉都の顛覆は、職としてこれに由る。向使、諒直の臣を任じ、佞給の士を退け、趙・魏の地に拠り、漳・滏の兵を擁し、徳を修め仁を行い、政を養い化を施したならば、何ぞ区区たる周室をして敢えて窺覦せしめんや。然りと雖も漸を杜ぎ萌を防ぐは、古人の禍を遠ざくる所以であり、大を以て小に諭すは、先哲の則を取る所である。伏して惟うに、殿下は道は重離に茂く、徳は守器に光り、古始を憲章し、前修を祖述し、休誉を遠く聞こえさせ、英声を遐く暢かにせんと欲される。臣窃かに見るに、寺人一色は、上心を識らず、或いは高班を軽忽し、貴仕を凌轢し、これにより品命は序を失い、綱紀は立たず、通方の人に笑われ、有識の士に譏られんとする。然りと雖も典内の職掌は、唯だ門外にて通伝するに在り、給使の主司は、但だ階闥に縁りて供奉するに在る。今乃ち閣内に往来し、宮中に出入し、行路の人、皆以て怪しむ。伏して君子に狎近し、小人を屏黜し、上は聖心に副い、下は衆望に允ならんことを望む。

承乾は書を覧めて甚だ悦ばなかった。承乾は嘗て司馭らを駆使し、番を分つことを許さず、また私かに突厥の達哥支を引き入れて宮内に入れた。志寧は上書して諫めて言うには、

臣聞く、上天は蓋し高く、日月以て其の徳を光らす。明君は至聖にして、輔佐以て其の功を賛す。是を以て周の誦は儲位に昇り、毛・畢に匡めらるるを見、漢の盈は震位に居り、黄・綺に資を取る。姬旦は伯禽に法を抗し、賈生は文帝に事を陳ぶ。端士に慇勤ならざるはなく、正人に懇切ならざるはなし。昔、鄧禹は名臣にして、方に審諭の任に居り、疏受は宿望にして、始めて輔導の官を除く。歴代の賢君、太子に丁寧ならざるは莫し。良に地は上嗣に膺り、位は副君に処る。善くば則ち率土其の恩に沾い、悪くば則ち海内其の禍に罹る。近く聞く、僕寺・司馭、爰に駕士・獣医に及び、春の初めより始まり、茲に夏の晩に至るまで、常に内役に居り、分番を放たず。或いは家に尊親有りて、温凊に闕き、或いは室に幼弱有りて、撫養に絶つ。春は則ち其の耕墾を廃し、夏は又其の播殖を妨ぐ。事は存愛に乖き、怨嗟を致すを恐る。且つ突厥の達哥支等は、人面獣心、豈に礼教を以て期すべく、仁信を以て待つべからず。心は則ち忠孝を未だ識らず、言は則ち是非を弁ぜず。之に近づけば英声を損する有り、之を昵すれば盛徳を益する無し。之を引いて閣に入るれば、人皆驚駭す。豈に臣の愚識、独り用て安からざらんや。臣下は殿下の股肱たり、殿下は臣下の君父たり。君父は存撫を以て務めと為し、股肱は匡救を以て心と為す。是を以て苦口の薬を以て身を奉じ、逆耳の言を以て位を安んず。古人は誹謗の木を樹て、以て己が愆を求め、敢諫の鼓を懸け、以て身の過を思う。是に由りて諫に従う主は、鼎祚克く昌え、諫に愎む君は、洪業隳ち墜つ。

承乾は大いに怒り、密かに刺客の張師政・紇干承基を遣わして就きて之を殺さしむ。二人は潜かに其の第に入り、志寧が苫廬に寝処するを見て、竟に忍びずして止む。承乾の敗れたる後、推鞫して具に其の事を知る。太宗、志寧に謂ひて曰く、「公の数へて規諫有るを知る。事隠す所無し」と。深く勉労を加ふ。右庶子の令狐徳棻等は諫書無きを以て、皆従ひて貶責せらる。高宗の皇太子と為るに及び、復た志寧に太子左庶子を授く。未だ幾もせずして侍中に遷る。永徽元年、光禄大夫を加へられ、燕国公に進み封ぜらる。二年、国史を監修す。時に洛陽の人李弘泰、坐して太尉長孫無忌を誣告し、詔して時を待たずして斬決せんことを令す。志寧上疏して諫めて曰く、

伏惟ふに、陛下は情功臣に篤く、恩右戚に隆し。無忌の横に誣告に遭ひ、事並びに是れ虚なるを以て、告人を戮せんと欲し、以て賞罰を明らかにし、一に誣告の路を絶ち、二に勲戚の心を慰めんとす。又た所犯真なりとせば、無忌便ち破家の罪有り、今告妄なりと為せば、弘泰宜しく時を待たずして戮せらるべし。且つ真犯の人は、事罪逆に当たり、誣謀の類は、罪身に及ぶのみ。罪を以て較量すれば、明らかに悪逆に非ず。若し律に依らんと欲せば、秋分を待つに合す。今時は陽和に属し、万物生育す。而して特に行ひて刑罰す。此れ春を傷むと謂ふ。窃かに案ずるに《左伝》声子の曰く、「賞は春夏を以てし、刑は秋冬を以てす」と。天時に順ふなり。又《礼記・月令》に曰く、「孟春の月、孩虫を殺す無かれ。囹圄を省み、桎梏を去り、掠を肆にす無く、獄訟を止めよ」と。又《漢書》董仲舒の曰く、「王者、為す所を欲せば、宜しく其の端を天道に求むべし。天道の大なる者は陰陽に在り。陽は徳と為し、陰は刑と為す。刑は殺を主とし、徳は生を主とす。陽は常に大夏に居り、以て生育養長を事とし、陰は常に大冬に居り、而して空虚不用の処に積む。此を以て天の徳を任せて刑を任せざるを見る」と。伏惟ふに、陛下は聖を纂ぎ祚に昇り、明を継ぎて極を御し、連・胥の絶軌を追ひ、軒・頊の良規を蹈む。挙動をして天時に順はしめ、刑罰をして律令に依らしめ、陰陽之を式序と為し、景宿是に於て靡差し、風雨愆らず、雩禜祀を輟めんと欲す。方今太蔟律を統べ、青陽期に応ず。生長の辰に当たりて、肅殺の令を施す。伏して願はくは暫く聖慮を回らし、古人の言を察せられんことを。倘ひに垂納を蒙らば、則ち生靈幸甚なり。

疏奏す。帝之に従ふ。是の時、衡山公主、長孫氏に出降せんと欲す。議者、時既に公除すと以て、吉礼を行ふに合すとす。志寧上疏して曰く、

臣聞く、明君歴を馭するは、献替の臣を俟つに当たり、聖主図を握るは、必ず塩梅の佐を資す。是を以て堯は四岳に詢ひ、景化区中に洽し、舜は五臣を任じ、懿徳無外に被る。左に記言の史有り、右に記事の官を立て、大小咸く書き、善悪俱に載す。簡牘に懲勸を著し、人倫に褒貶を垂れ、万古の範囲と為り、千齢の龜鏡と作る。伏して見るに、衡山公主出降し、今秋を就けて礼を成さんと欲す。窃かに按ずるに《礼記》に云く、「女十五にして笄し、二十にして嫁す。故有れば、二十三にして嫁す」と。鄭玄云く、「故有るは、喪に遭ふを謂ふ」と。固より知る、須らく三年を終ふべしと。《春秋》に云く、「魯の莊公、齊に如きて幣を納る」と。杜預云く、「母喪未だ再期せずして婚を図る。二伝礼を失ふを譏せず。故明らかなり」と。此れ即ち史策に具載し、是非歴然たり。聖情に断じて、臣下に問ふを待たず。其れ議有る者云く、「制に准へば、公除の後、須らく並びに吉に従ふべし」と。此れ漢文其の儀を創製し、天下の百姓の為なり。公主に至りては、服は是れ斬縗なり。縦ひ服例に随ひて除くとも、情例に随ひて改むるに宜しからず。心喪の内、方に復た婚を成すは、礼経に違ふのみに非ず、亦た人情不可なり。伏惟ふに、陛下は宝位に嗣ぎ膺り、万方を臨統し、理は宜しく羲・軒に継ぎ美しく、湯・禹に斉しく芳ばしむべく、仁孝を弘奨するの日、名教を敦崇するの秋なり。此事行ふに苦難なれば、猶須らく抑へて礼を守るべし。況んや行ふに甚だ易きに於てをや、何ぞ容れ廢して譏を受けん。此の理は識有る者の共に知る所、愚臣の説を仮るに非ず。伏して願はくは高宗の令軌に遵ひ、孝文の権制を略し、国家法に虧く無く、公主情礼を得て畢らんことを。

是に於て詔して公主に三年服闋を待ち、然る後に礼を成さしむ。其の年、尚書左僕射・同中書門下三品を拝す。三年、本官を以て兼ねて太子少師と為る。

顯慶元年、太子太傅に遷る。嘗て右僕射張行成、中書令高季輔と共に賜地を蒙る。志寧奏して曰く、「臣は関右に居り、代々箕裘を襲い、周魏以来、基址墜ちず。行成等は新たに莊宅を営み、尚ほ田園少なし。臣に於いては余り有り、乞うらくは私に譲ることを申さしめん」と。帝其の意を嘉し、乃ち行成及び季輔に分賜す。四年、表を上して致仕を請う。尚書左僕射を解くことを聴し、太子太師を拝し、仍として同中書門下三品とす。高宗の将に王庶人を廃せんとす。長孫無忌、褚遂良は正を執りて従わず、而して李勣、許敬宗は密かに申し勧請す。志寧独り言無くして両端を持す。許敬宗の長孫無忌を推鞫する詔獄に及び、因りて志寧を誣構し無忌に党附すとす。是に坐して免職し、尋いで栄州刺史に降授す。麟德元年、累ねて転じて華州刺史となり、年老いて致仕を請う。之を許す。二年、家に卒す。年七十八。幽州都督を贈り、謚して定と曰う。上元三年、其の左光禄大夫、太子太師を追復す。志寧は雅に賓客を愛し、接引して倦きを忘る。後進の文筆の士、影附せざる無し。然れども亦た能く薦達する所無し。議者は此を以て之を少くす。前後格式律令、《五経義疏》の撰に預かり、及び礼を修め、史を修む等の功、賞賜勝て計ふ可からず。集二十巻有り。子立政、太僕少卿。志寧玄孫休烈、休烈子益、自ら伝有り。

高季輔

高季輔は、德州蓚県の人なり。祖父表は、魏の安德太守。父衡は、隋の万年令。季輔は少くして学を好み、兼ねて武芸を習う。母の喪に居り孝を以て聞こゆ。兄元道は、隋に仕えて汲県令と為る。武徳初、県人の城を翻して賊に従うに、元道害せらる。季輔其の党を率いて出でて斗い、竟に其の兄を殺せる者を擒げ斬り、首を持ちて以て墓に祭る。甚だ士友に称せらる。是に由りて群盗多く之に帰附し、衆数千に至る。尋いで武陟の人李厚德と衆を率いて来降し、陟州総管府戸曹参軍を授く。貞観初、擢て監察御史に拝し、多く弾糾する所有り、権要を避けず。累ねて転じて中書舎人と為る。

時に太宗数たび近臣を召し、時政の損益を指陳せしむ。季輔封事五条を上る。其の略に曰く、

陛下は九州を平定し、四海に富み、徳は邃古を超え、道は前烈に高し。時已に平らぎ、功已に成る。然るに刑典措かざるは、何ぞや。良に謀猷の臣、簡易の政を弘めず、台閣の使、経遠の道に昧きに由る。憲を執る者は深刻を以て奉公と為し、官に当たる者は下を侵すを以て国を益すと為す。坦平恕の懐有ること無く、聖明の旨に副わず。官を設け職を分つに至りては、各々司存有り。尚書八座は、責成斯に在り、王者の契を司る、義茲に属す。伏して願わくは方に随ひて訓誘し、各々其の職を揚げしめよ。仍た須らく温厚の人を擢て、清潔の吏を升し、樸素を惇くし、澆浮を革め、先ず之を敬譲に以てし、之を好悪に示し、家に孝慈を識らしめ、人に廉恥を知らしめよ。丑言過行は、郷閭に嗤わるるを見、義を忘れ私に暱するは、親族に擯せらるるを取らしめ、其の利慾の心を杜ち、清淨の化を以て載せよ。自然に家肥え国富み、気和ぎ物阜し。礼節は是に於いて競ひ興り、禍乱何を由てか作らん。

又曰く、

窃かに聖躬を見るに、毎に節儉を存す。而して凡そ諸の営繕、工徒未だ息まず。正丁正匠は、駆使に供せず、和雇和市は、労費無きに非ず。人主の欲する所、何事か成らざらん。猶願わくは其の財を愛して殫くすこと無く、其の力を惜しんで竭きしむること無からんことを。今畿内数州は、実に邦本と為す。地狭く人稠し、耕植博からず。菽粟賤しと雖も、儲蓄未だ多からず。特だ優矜すべく、令えて休息を得しむべし。本を強くし枝を弱くすは、古より常の事なり。関、河の外は、徭役全く少く、帝京、三輔は、差科一に非ず。江南、河北は、弥だ優閒なり。須らく差等を為し、其の労逸を均すべし。

又曰く、

今公主の室は、封邑以て資用を給するに足り、勳貴の家は、俸禄以て器服を供するに足る。乃ち慼慼として儉約に在り、汲汲として華侈に在り、放息出挙し、什一を追求す。公侯尚ほ利を求む、黎庶豈に其の非を覚えざらんや。錐刀必ず競ふは、実に此に由る。朝風を黷す有り、謂う宜しく懲革すべしと。

又曰く、

仕は応務を以て代耕と為す。外官卑品は、猶未だ禄を得ず。既に郷家を離るれば、理必ず貧匱す。但だ妻子の恋は、賢達猶其の懐を累はし、飢寒の切は、夷、惠も其の行を全うすること罕なり。政を為すの道は、期す易従に在り。若し其の匱乏を恤れず、唯だ其の清勤を責めんと欲せば、凡そ末品に在りては、中庸の者多し。止む無く恐る、巡察歳去り、輶軒軌を継ぐも、其の侵漁を粛する能わず、何を以てか其の政術を求めん。今戸口漸く殷く、倉廩已に実る。禄を斟量して給し、養親を得しめよ。然る後に厳科を以て督め、其の報効を責むれば、則ち庶官力を畢くし、物議斯に允ならん。

又曰く、

窃かに密王元曉等を見るに、倶に懿親なり。陛下の友愛の懐、義古昔に高し。車服を分ち、籓維に委ぬ。須らく礼儀に依り、以て瞻望に副うべし。比に帝子の諸叔を拝するを見るに、諸叔も亦た答拝す。王爵既に同じく、家人の礼有り。豈に此の如く昭穆を顛倒せんや。伏して願わくは一たび訓誡を垂れ、永く彝則に循わんことを。

書奏す。太宗善しと称す。十七年、太子右庶子を授く。又上疏して時政の得失を切諫す。特だ鐘乳一剤を賜い、曰く、「薬石の言を進む。故に薬石を以て相報す」と。十八年、銀青光禄大夫を加え、兼ねて吏部侍郎と為る。凡そ銓叙する所、時に允当と称す。太宗嘗て金背鏡一面を賜い、以て其の清鑑を表す。二十二年、中書令に遷り、兼ねて検校吏部尚書、監修国史と為り、爵を蓚県公に賜う。永徽二年、光禄大夫を授け、侍中を行い、兼ねて太子少保と為る。風疾を以て家に廢す。乃ち其の兄虢州刺史季通を召して宗正少卿と為し其の疾を視せしめ、又屢たび中使を降し、其の進食を観、其の増損を問う。尋いで卒す。年五十八。帝之が為に挙哀し、朝を廢すること三日、開府儀同三司、荊州都督を贈り、謚して憲と曰う。

子正業、仕えて中書舎人に至る。上官儀と善しと坐し、嶺外に配流す。

張行成

張行成は定州義豊の人である。若くして河間の劉炫に師事し、勤学して倦むことがなかった。劉炫は門人に言った、「張子は体局方正にして、廊廟の才なり」と。大業の末、孝廉に察挙され、謁者台散従員外郎となった。王世充が僭号すると、度支尚書に任じた。世充が平定されると、隋代の官資により宋州谷熟尉に補された。また制挙乙科に応じ、雍州富平県主簿に任じられ、治績に能名があった。任期が満ちると、殿中侍御史に補された。糾劾に権戚を避けず、太宗はその才能を認め、房玄齢に言った、「古今の用人を観るに、必ず媒介による。行成の如き者は、朕自ら挙げたもので、先容はない」と。太宗がかつて山東人と関中人について言及し、意に同異があった時、行成はちょうど侍宴しており、跪いて奏上した、「臣は聞く、天子は四海を以て家と為す、東西を以て限りとすべからず。もしこのようであれば、人に益々狭きを示すことになります」と。太宗はその言葉を善しとし、名馬一匹、銭十万、衣一襲を賜った。これより後、大政がある度に、常に議に預かった。累遷して給事中となった。太宗がかつて軒に臨んで侍臣に言った、「朕が恣に情慾に耽らず、当年の楽しみを取らず、節を励まし苦心し、宮室を卑くし食を菲くする所以は、正に蒼生の為である。我は人主として、将相の事を兼ねて行う、これは公等の名を奪うことではあるまいか。昔、漢高祖は蕭何・曹参・韓信・彭越を得て、天下は寧宴となり、舜・禹・湯・武は稷・契・伊尹・呂尚を有し、四海は乂安であった。この事を朕は併せ兼ねている」と。行成は退いて上書して諫めた、「隋が道を失い、天下が沸騰した。陛下は乱を撥ねて反正し、生人を塗炭より拯い上げられた。どうして周・漢の君臣と比べられようか。陛下の聖徳は光を含み、規模は弘遠である。文武の功烈は、実に将相を兼ねている。どうして臨朝して衆に対し、これと較量し、万乗の至尊を以て、臣下と功を争われましょうか。臣は聞く、『天何ぞ言わんや、四時行わる』と。また聞く、『汝惟だ矜らず、天下汝と能を争う莫し』と。臣は枢近に備員し、敢えて献替の事を知るに非ず、輒て狂直を陳べ、伏して菹醢を待つ」と。太宗は深くこれを納れた。刑部侍郎・太子少詹事に転じた。太宗が東征した時、皇太子が定州で国を監した。これは行成の本邑である。太子は行成に言った、「今、公に衣錦して郷に還らしむ」と。ここにおいて有司に命じてその先祖の墓を祀らせた。行成はこれにより郷人の魏唐卿・崔寶權・馬龍駒・張君劼等を推薦した。皆学行が著聞であり、太子は召見したが、その老いて職に任じられないとして、皆厚く賜与して遣わした。太子はまた行成を行在所に詣らせた。太宗はこれを見て甚だ悦び、馬二匹、縑三百匹を賜った。車駕が京に還ると、河南巡察大使となった。還って、旨に叶い、本官のまま尚書左丞を兼ねて検校した。この年、太宗が霊州に幸した時、太子は従うべきであったが、行成は上疏して言った、「伏して承るに皇太子が霊州に従幸されると。臣愚かには、皇太子が春宮に徳を養い、日月未だ幾ばくもなく、華夷遠邇、嘉音を佇み聴いていると考えます。もしこれにより国を監し、百僚に接対し、庶務を決断し、政理を明習させれば、既に京師の重鎮たり、且つ四方に盛徳を示すことになります。私愛に出陪するよりは、公道に俯従する方が如何でしょうか」と。太宗は忠と認め、位を進めて銀青光禄大夫とした。二十三年、侍中に遷り、刑部尚書を兼ねた。太宗が崩じると、高季輔と共に高宗の太極殿梓宮前での即位に侍した。まもなく北平県公に封ぜられ、国史を監修した。時に晋州で地震が連続し、雷のような音があった。高宗が行成に問うた。行成は答えて言った、「天は陽なり、地は陰なり。陽は君の象、陰は臣の象。君は転動すべく、臣は安静すべきです。今、晋州で地動し、十日を過ぎても止まない。天道は玄邈として、窺算測り難いとはいえ、人事を較量すれば、昭然として戒めをなしています。恐らくは女謁が事を用い、大臣が陰謀をなしているのでしょう。徳を修めて災を禳うは、陛下に在ります。且つ陛下は本封が晋であり、今、晋州で地震するのは、下に征応があるのであって、豈に徒然たるものでありましょうか。伏して深く思い遠く慮り、未萌を杜かられることを願います」と。二年八月、尚書左僕射に拝された。まもなく太子少傅を加授された。四年、三月より雨なく五月に至り、再び表を抗して致仕を請うた。高宗は手製で答えて言った、「密雲雨らず、遂に旬月を淹す。これは朕の寡徳にして、宰臣の咎に非ず。実に万方の責を甘んじ、用いて六事の過を陳ぶ。策免の科は、義、罪己に乖く。今、表を断つことを敕し、復た辞する勿れ」と。宮女と黄金器物を賜った。固く骸骨を乞うたので、高宗は言った、「公は我が故旧腹心なり、奈何ぞ我を捨てて去らんとするのか」と。ここにおいて愴然として流涕した。行成は已むを得ず、復た起きて視事した。九月、尚書省にて卒した。時に六十七歳。高宗はこれを哭して甚だ哀しみ、朝を三日間輟め、九品以上の官に命じてその邸に就いて哭させた。殯に臨む比、中使三度至り、内衣服を賜い、尚宮に命じて家に宿り、殯斂を視させた。開府儀同三司・并州都督を追贈した。所司に礼を備えて冊命し、少牢を以て祭り、賻として絹布八百段・米粟八百石を賜い、東園秘器を賜り、謚して定といった。弘道元年、詔して行成を以て高宗廟庭に配享せしめた。子の洛客が嗣ぎ、官は雍州渭南令に至った。

族孫の易之・昌宗

行成の族孫に易之・昌宗あり。易之の父は希臧、雍州司戸なり。易之は初め門蔭により、累遷して尚乗奉御となり、年二十余、白皙にして姿容美しく、音律歌詞に長ず。則天臨朝の時、通天二年、太平公主が易之の弟昌宗を薦めて禁中に入侍せしめ、既にして昌宗が天后に啓して曰く、「臣の兄易之は器用臣に過ぎ、兼ねて合煉を工みます」と。即ち召見を命じ、甚だ悦ぶ。ここにより兄弟ともに宮中に侍し、皆粉を傅き朱を施し、錦繡の服を衣て、ともに辟陽の寵を承く。俄かに昌宗を雲麾将軍・行左千牛中郎将とし、易之を司衛少卿とす。第一区・物五百段・奴婢駝馬等を賜う。信宿して、昌宗に銀青光禄大夫を加え、防閣を賜い、京官と同じく朔望朝参せしむ。仍て希臧に襄州刺史を贈り、母韋氏阿臧を太夫人に封じ、尚宮をして宅に至り問訊せしめ、仍て詔して尚書李迥秀に私に阿臧に侍せしむ。武承嗣・三思・懿宗・宗楚客・宗晉卿その門庭に候し、鞭轡を執り争い、易之を五郎、昌宗を六郎と呼ぶ。俄かに昌宗に左散騎常侍を加う。聖暦二年、控鶴府官員を置き、易之を控鶴監・内供奉とし、余官はもとの如し。久視元年、控鶴府を奉宸府と改め、また易之を奉宸令とし、辞人閻朝隠・薛稷・員半千を引きて並びに奉宸供奉とす。毎に宴集に因りては、則ち公卿を嘲戯して笑楽と為さしむ。若し内殿の曲宴あらば、則ち二張・諸武侍坐し、樗蒲笑謔し、賜与算無し。時に諛佞の者奏して云く、昌宗は王子晉の後身なりと。乃ち羽衣を被らしめ、簫を吹き、木鶴に乗り、庭に楽を奏して、子晉の空に乗ずるが如くせしむ。辞人皆詩を賦してこれを美とし、崔融その絶唱と為り、その句に「昔浮丘伯に遇い、今丁令威に同じ。中郎才貌是れ、蔵史姓名非なり」とあり。天后美少年を選びて左右奉宸供奉と為すを令す。右補闕朱敬則諫めて曰く、「臣聞く、志は満たすべからず、楽は極むべからず。嗜欲の情は、愚智皆同じくし、賢者はこれを節して過度ならしめざるは、則ち前聖の格言なり。陛下の内寵、既に薛懐義・張易之・昌宗あり、固より足るべし。近く聞く、上舎奉御柳模自ら言う、子良賓潔白にして鬚眉美しく、左監門衛長史侯祥雲陽道壮偉にして、薛懐義に過ぎ、専ら自ら進みて奉宸内供奉に堪えんと欲すと。礼無く儀無く、朝聴に溢る。臣愚職諫諍に在り、奏せざるを得ず」と。則天これを労して曰く、「卿の直言にあらざれば、朕このことを知らず」と。彩百段を賜う。昌宗の醜声外に聞こゆるを以て、美事を以てその跡を掩わんと欲し、乃ち詔して昌宗に内に『三教珠英』を撰せしむ。乃ち文学の士李嶠・閻朝隠・徐彦伯・張説・宋之問・崔湜・富嘉謨等二十六人を引き、門を分ちて撰集す。一千三百巻を成し、上る。昌宗に司僕卿を加え、鄴国公に封じ、易之を麟台監とし、恒国公に封じ、各実封三百戸。俄かに昌宗を春官侍郎と改む。易之・昌宗皆粗く文を属する能くし、詔に応じ詩を和するは、則ち宋之問・閻朝隠これを代作す。則天春秋高く、政事多く易之兄弟に委ぬ。中宗皇太子と為る。太子の男邵王重潤及び女弟永泰郡主窃に二張の専政を言う。易之則天に訴え、太子に付して自ら鞫問処置せしむ。太子並びに自ら縊殺す。又御史大夫魏元忠嘗て二張の罪を奏す。易之懼れて自ら安からず、乃ち誣って元忠と司礼丞高戩を奏して云く、「天子老いたり、当に太子を挟みて耐久の朋と為すべし」と。則天曰く、「汝何を以てこれを知る」と。易之曰く、「鳳閣舎人張説証と為す」と。翌日、則天元忠及び説を召して廷に詰う。皆妄り。則天尚ほ二張の故を以て、元忠を逐いて高要尉と為し、張説を長流して欽州とす。長安二年、易之贓賂事発し、御史台に劾せられて獄に下る。兄司府少卿昌儀・司礼少卿同休皆貶黜せらる。及び則天長生院に臥疾す。宰臣進見を得ること希なり。唯易之兄弟側に侍し、禍変己に及ぶを恐れ、乃ち朋党を引用し、陰にこれが備えを為す。人その事を路に榜する有り。左台御史中丞宋けいこれを按ずるを請う。則天陽に許し、尋ち宋璟を敕して幽州に使い都督屈突仲翔を按ぜしめ、司礼卿崔神慶にこれを鞫せしむ。神慶旨に希い昌宗兄弟を雪ぐ。

神龍元年正月、則天病甚だし。是の月二十日、宰臣崔玄暐・張柬之等羽林兵を起こして太子を迎え、玄武門に至り、関を斬って入り、易之・昌宗を迎仙院に誅し、並びに首を梟して天津橋の南にす。則天上陽宮に遜居す。易之の兄昌期、岐・汝二州刺史を歴任し、所在苛猛暴横なり。是日亦同じく梟首す。朝官房融・崔神慶・崔融・李嶠・宋之問・杜審言・沈佺期・閻朝隠等皆二張に坐して竄逐せられ、凡そ数十人。

史臣曰く

史臣曰く、燕公の儲皇を輔導し、高侍中の理行を敷陳し、張北平の陰沴を斥言するは、皆人の言い難き者なり。苟も金玉の貞度、松筠の挺操に非ざれば、安んぞ能く人主の意を咈え、苦口の忠を献ぜん。宜しくその道を岩廊に論じ、克く終に顕盛を終うべし。古の所謂能く義を以て主の失を匡う、三君これ有り。

賛して曰く、猗歟なるかな於公、両宮に献替す。前修克く継ぎ、嗣徳弥隆し。高は薬剤に酬い、張は宸衷に感ず。君臣の義、斯れ始終と為る。

原本を確認する(ウィキソース):旧唐書 巻078