旧唐書
志第十七 五行
昔、禹は『河図』『洛書』六十五字を得て、治水の功績があり、よってこれを宝とした。殷の太師箕子が周に入り、武王がその事を訪ねると、乃ち『洪範』九疇の法を陳べ、その第一を五行と曰う。漢が興ると、董仲舒・劉向が『春秋』を治め、災異を論じ、乃ち九疇の説を引き、二百四十二年の行事に附し、一に咎徴天人の変を推し咎めた。班固が漢史を叙し、その説を採りて『五行志』とした。代々の史官、これに因りて纘いだ。今、大端を略挙し、以て変怪の本を明らかにす。
『経』に曰く、「水は潤下と曰い、火は炎上と曰い、木は曲直と曰い、金は従革と曰い、土は爰(ここ)に稼穡とす」と。又曰く、「皇極を建て用う」と。『伝』に曰く、「畋獵時にあらず、飲食享けず、出入節なく、民の農時を奪い、及び奸謀有らば、則ち木は曲直せず。法律を棄て、功臣を逐い、太子を殺し、妾を以て妻と為せば、則ち火は炎上せず。宮室を治むるを好み、台榭を飾り、内に淫乱し、親戚を犯し、父兄を侮れば、則ち稼穡成らず。戦功を好み、百姓を軽んじ、城郭を飾り、辺境を侵せば、則ち金は従革せず。宗廟を簡(おろそか)にし、禱祠せず、祭祀を廃し、天時に逆らえば、則ち水は潤下せず」と。『経』に曰く「五事を用うるに敬す」とは、「貌は恭と曰い、言は従と曰い、視は明と曰い、聴は聡と曰い、思は叡と曰う。恭は肅を作し、従は乂を作し、明は哲を作し、聡は謀を作し、叡は聖を作す」と謂う。又曰く「皇極を建て用う」、「皇其の極有るを建つ」と。『伝』に曰く「貌の恭ならざるは、是れ肅ならざるを謂い、其の咎れは狂、其の罰は恒雨、其の極は凶。時に則ち服妖有り、時に則ち亀孽有り、時に則ち鶏禍有り、時に則ち下体上に生ずる屙有り、時に則ち青眚青祥有り。凡そ草木の類は之を妖と謂い、虫豸の類は之を孽と謂い、六畜は之を禍と謂い、人に及ぶを屙と謂い、甚だしければ則ち異物生ずるを眚と謂い、身外より来るを祥と謂うなり。言の従わざるは、是れ乂ならざるを謂い、其の咎れは僭、其の罰は恒暘、其の極は憂。時に則ち詩妖有り、時に則ち介虫の孽有り、時に則ち犬禍有り、時に則ち口舌の屙有り、時に則ち白眚白祥有り。視の明らかならざるは、是れ哲ならざるを謂い、其の咎れは豫、其の罰は恒燠、其の極は疾。時に則ち草妖有り、時に則ち臝虫の孽有り、時に則ち羊禍有り、時に則ち目屙有り、時に則ち赤眚赤祥有り。聴の聡ならざるは、是れ謀ならざるを謂い、其の咎れは急、其の罰は恒寒、其の極は貧。時に則ち鼓妖有り、時に則ち魚孽有り、時に則ち豕禍有り、時に則ち耳屙有り、時に則ち黒眚黒祥有り。思の叡ならざるは、是れ聖ならざるを謂い、其の咎れは蒙、其の罰は恒風、其の極は凶短折。時に則ち脂夜の妖有り、時に則ち華孽有り、時に則ち牛禍有り、時に則ち心腹の屙有り、時に則ち黄眚黄祥有り。皇の極ならざるは、是れ建たざるを謂い、其の咎れは眊、其の罰は恒陰、其の極は弱。時に則ち射妖有り、時に則ち龍蛇の孽有り、時に則ち馬禍有り、時に則ち下体上に代わる屙有り、時に則ち日月乱行し、星辰逆行す」と。九疇の名数十五、その要は五行・皇極の説にあり、前賢の治乱の変を窮め、天人の際を談ずる所以は、蓋し本これに斯(ここ)に在り。故に先ず其の言を録し、以て事に伝う。京房の『易伝』に曰く、「臣事正しきも、専なれば必ず地震す。其の震は、水に於いては則ち波し、木に於いては則ち揺れ、屋に於いては則ち瓦落つ。大経辟に在りて臣を易うるは、茲に陰動と謂う」と。又曰く、「小人廬を剝(は)ぐ、其の妖山崩るるは、茲に陰陽に乗じ、弱強に勝つと謂う」と。劉向曰く、「金木水土に沴ぐは、地の震うる所以なり」と。『春秋』の災異は、先ず地震・日蝕を書くは、陰の盈つるを悪むなり。
貞観十二年正月二十二日、松・叢二州地震し、人の廬舎を壊す。二十年九月十五日、霊州地震し、声雷の如し。二十三年八月一日、晋州地震し、人の廬舎を壊し、圧死者五十余人。三日、又震う。十一月五日、又震う。永徽元年四月一日、又震う。六月十二日、又震う。高宗侍臣に顧みて謂いて曰く、「朕が政教明らかならずして、晋州の地をして、屡々震動有らしむ」と。侍中張行成曰く、「天は陽なり、地は陰なり。陽は君の象、陰は臣の象。君は転動すべく、臣は安静すべし。今晋州地震し、旬を弥りて休まず、臣将に恐る、女謁用いられ、大臣陰謀す。且つ晋州は、陛下の本封なり、今地屡々震う、尤も其の応を彰わす。伏して願わくは深く思慮を遠くし、以て其の萌を杜がん」と。帝深く然りとす。開元二十二年二月十八日、秦州地震す。是に先立ち、秦州の百姓州西北の地下に殷殷として声有るを聞き、俄かに地震し、廨宇及び居人の廬舎数千間を壊し、地拆けて復合し、震時を経て定まらず、圧死者百余人。玄宗右丞相蕭嵩に令して山川に祭を致さしめ、又倉部員外郎韋伯陽を遣わして往きて宣慰せしめ、損じたる家を存恤せしむ。
至徳元年十一月辛亥朔、河西地震し声有り、地裂け陥ち、廬舎を壊し、張掖・酒泉尤も甚だし。二載六月に至りて始めて止む。大暦二年十一月壬申、京師地震し、声東北より来り、雷の如き者三たび有り。四年二月丙辰夜、京師地震し、声雷の如き者三たび有り。貞元三年十一月己卯夜、京師地震す、是の夕三たびし、巣の鳥皆驚き、人多く室を去る。東都・蒲・陝も亦然り。四年正月朔日、徳宗含元殿に御し朝賀を受く。是日質明、殿階及び欄檻三十余間、故無くして自ら壊れ、甲士死者十余人。其の夜、京師地震す。二日又震う、三日又震う、十八日又震う、十九日又震う、二十日又震う。帝宰臣に謂いて曰く、「蓋し朕が寡徳にして、屡々後土の震驚を致す、但だ政を修めて、以て天譴に答うべきのみ」と。二十三日又震う、二十四日又震う、二十五日又震う、時に金・房州尤も甚だしく、江溢れ山裂け、屋宇多く壊れ、人皆露処す。二月三日壬午に至り、又震う、甲申又震う、乙酉又震う、丙申又震う。三月甲寅、已に震い、己未又震う、庚午又震う、辛未又震う。京師地毛を生じ、或いは白く或いは黄く、長さ尺余なる者有り。五月丁卯、又震う。八月甲辰、又震う、其の声雷の如し。九年四月辛酉、京師又震う、声雷の如し。河中尤も甚だしく、城壘廬舎を壊し、地裂け水湧く。十年四月戊申、又震う。十三年十月乙未日午時、震い東より来り、須臾にして止む。
元和七年八月、京師に地震あり。憲宗侍臣に謂ひて曰く、「昨地震し、草樹皆な揺る。何の祥異ぞや」と。宰臣李絳曰く、「昔周の時地震し、三川竭き、太史伯陽甫周君に謂ひて曰く、『天地の気は、其の序を過ぎざるなり。若し其の序を過ぐれば、人の乱なり。人の政乖錯すれば、則ち上陰陽の気を感ず。陽伏して出づること能はず、陰迫して升ること能はず、ここに地震有り』と。又孔子『春秋』を修むるに、紀す所の災異は、先づ地震・日蝕を挙ぐ。蓋し地は万物を載せ、日は君の象なり。政に感傷有れば、天地眚を見す。之を書して戒めを示し、以て後王を儆す。伏して願はくは、陛下虔恭の誠を体し励み、動くに万物を利し万方を綏んずるを念ひと為し給へば、則ち変異自ら消え、休征致す可し」と。九年三月丙辰、巂州地震し、昼夜八十震にして方に止む。圧死者百余人。大和九年三月乙卯、京師地震す。開成元年二月乙亥夜四更、京師地震し、屋瓦皆な墜つ。戸牖の間に声有り。二年十一月乙丑夜、地南北に微震す。大中三年十月、京師地震し、振武・天徳・霊武・塩・夏等州皆な震ひ、軍鎮の廬舎を壊す。
武徳六年七月二十日、巂州山崩れ、川水咽びて流る。貞観八年七月七日、隴右山崩れ、大蛇屢見す。太宗秘書監虞世南に問ひて曰く、「是れ何の災異ぞや」と。対へて曰く、「春秋の時梁山崩る。晋侯伯宗を召して問ふ。対へて曰く、『国は山川を主とす。故に山崩れ川竭くれば、君之が為に挙せず、服を降し次を出で、幣を祝して以て礼す』と。晋侯之に従ひ、卒に亦害無し。漢文帝九年、斉・楚の地二十九山同日に崩る。文帝令を出だし、郡国に来献せしめず、恵を天下に施す。遠近歓洽し、亦災と為さず。後漢霊帝の時、青蛇御座に見ゆ。晋恵帝の時、大蛇長さ三百歩、市を経て廟に入る。今蛇山沢に見ゆるは、蓋し深山大沢は、実に龍蛇を生ず。亦怪しむに足らず。唯だ徳を修むるは以て変を消す可し」と。上然りとす。十七年八月四日、涼州昌松県鴻池谷に石五有り。青質白文、字を成して曰く「高皇海出多子李元王八十年太平天子李世民千年太子李治書燕山人士楽太国主尚汪譚奨文仁邁千古大王五王六王七王十NO毛才子七仏八菩薩及上果仏田天子文武貞観昌大聖延四方上下治示孝仙戈入為善」と。涼州奏す。其の年十一月三日、使を遣はして之を祭りて曰く、「嗣天子某、祚を鴻業に継ぎ、宇県に君臨し、夙に興き旰に食し、政を忘れず、徳を導き礼を斉ふるも、前修に愧づ。天に成命有り、貞石に瑞を表し、文字昭然たり。歴数唯だ永し。既に高廟の業を旌し、又眇身の祚を錫ふ。皇太子治に迨るも、亦貞符を降し、姓氏を具に紀し、石言に列す。睿漢を仰ぎ瞻れば、空しく大造を銘し、寡薄を惟へば、弥増寅懼す。敢へて大礼に因り、重ねて玉帛を薦げ、上明霊の貺に謝し、以て祗慄の誠を申す」と。
永徽四年八月二十日、隕石十八同州馮翊県に有り。光曜き、声雷の如し。上于志寧に問ひて曰く、「此れ何の祥ぞや。当に朕が政の闕有るに由らん」と。対へて曰く、「『春秋』に按ずるに、隕石宋に五、内史過曰く、『是れ陰陽の事にして、吉凶の生ずる所に非ず』と。古より災変は、杳として測る可からず。但だ物の自ら爾るを恐るるのみ。必ずしも人事に関せず。陛下書を発して誡懼し、躬を責めて自ら省みるは、福と為さざる無からん」と。永昌中、華州敷水店西南坡、白昼に飛びて四五里、直ちに赤水に抵る。其の坡上の樹木禾黍、宛然として損無し。則天の時、新豊県東南露台郷、大風雨雹震に因り、山踊り出で、高さ二百尺、池有り周り三頃。池中に龍鳳の形・禾麦の異有り。則天之を休征と為し、名づけて慶山と曰ふ。荊州人俞文俊闕に詣で上書して曰く、「臣聞く、天気和せずして寒暑隔たり、人気和せずして疣贅生じ、地気和せずして堆阜出づと。今陛下女主を以て陽位に居り、剛柔を反易す。故に地気隔塞し、山変じて災と為る。陛下之を慶山と為すも、臣は慶に非ずと為す。誠に宜しく身を側めて徳を修め、以て天譴に答ふべし。然らずんば、恐らくは災禍至らん」と。則天怒り、嶺南に流す。開元十七年四月五日、大風震電し、藍田山開けて百余歩。乾元二年六月、虢州閺郷県界黄河内女媧墓、天宝十三載大雨晦冥に因り、其の所在を失ふ。今年六月一日夜に至り、河濱の人家忽ち風雨の声を聞き、暁に其の墓踊り出づるを見る。上に双柳樹有り、下に巨石二有り。柳各長さ丈余。郡守図画して以て聞す。今号して風陵堆と曰ふ。大暦十三年、郴州黄岑山崩れ震ひ、数百人を圧殺す。建中初、魏州魏県西四十里、忽然として土長ること四五尺数畝。裏人之を駭異す。明年、魏博田悦反す。徳宗河東馬燧・潞州李抱真に命じて之を討たしめ、陘山に営す。幽州朱滔・恒州王武俊兵を帥ひて田悦を救ふ。王師退きて魏県西を保つ。朱滔・武俊・田悦軍を引いて王師と対壘す。三年十一月、朱滔僭りて冀王と称し、武俊趙王と称し、田悦魏王と称す。悦時に壘正に土長の所に当たり、及び僭署して天に告ぐるに、乃ち其の長土に因り壇を為して以て祭る。魏州功曹韋稔『益土頌』を為して以て悦に媚ぶ。馬燧之を聞きて笑ひて曰く、「田悦異常の賊なり」と。
臣聞く、昔より後王、過を聞くを楽むは、興らざる無く、忠諫を拒むは、乱れざる無し。何となれば、過を聞くを楽めば則ち下情通じ、下情通ずれば則ち政缺無く、此れ其の興る所以なり。忠諫を拒めば則ち群議壅ぎ、群議壅げば則ち主孤立す、此れ其の乱るる所以なり。伏して明敕を見るに、文武九品已上に令して直言極諫せしむ。大なる哉徳音、其れ堯・舜の用心、禹・湯の己を責むるなり。
臣が嘗て書を読み、天と人の相関する間を観察し、吉凶の暗黙の符契の兆しを考究すると、感ずれば必ず通じ、その間は甚だ密接である。それ故に政がここに失すれば、変は彼に生じ、また影が形に似、響きが声に赴くが如く、動けば即ち随い、各々類に応ずる。故に『易経』に曰く、「天は象を垂れ、吉凶を現わす、聖人はこれを象る」と。窃かに見るに、夏以来、水気が悖逆し、天下の郡国、多くその災いに罹る。去月二十七日、洛水が暴漲し、百姓を漂損す。謹んで『五行伝』を按ずるに、「宗廟を簡略にし、祭祀を廃すれば、則ち水は潤下せず」と曰う。夫れ王者即位すれば、必ず天地を郊祀し、祖宗を厳かに配し、是の故に鬼神は饗き、多く福助を獲る。陛下が宝極に光臨してより、炎涼を綿歴すれども、郊廟は遅留し、殷薦を得ず、山川は寂寞として、未だ懐柔を議せず。暴水の災いは、殆ど此れに因りて発す。臣また按ずるに、水は陰類にして、臣妾の道なり。陰気盛満すれば、則ち水泉迸溢す。これに虹蜺紛錯し、暑雨滞淫を加え、時に当たれども恒度を汩し、また陰勝の沴なり。臣恐らくは後庭の近習、或いは中饋の職を離れ、外朝の政を幹する者有らん。伏して願わくは天変を深く思い、その萌を杜絶せられんことを。また春より夏に及び、牛多く病死し、疫気浸淫して、今に未だ息まず。謹んで『五行伝』を按ずるに、「思うこと睿ならざれば、時に則ち牛禍有り」と曰う。意うに万機の事、陛下或いは躬親せられざるか。昔、太戊に異木朝に生じ、伊陟は徳を修むるを戒めて、その妖遂に殄び、高宗に飛雉鼎に雊き、祖己は政事を陳べて、殷道再び興る。これ皆履を視て祥を考し、禍を転じて福となす明鑑なり。晁錯曰く、「五帝はその臣及ばざれば、則ち自らこれを親しむ」と。今朝廷の怪異、多くはあれども、皆仰いで陛下の天光を知る。伏して願わくは徳容を勤めて思い、大化を少しく凝らし、万方を以て念と為し、声色を以て娛とせず、百姓を以て憂と為し、犬馬を以て楽とせず。暫く宵旰を労して、明良を緝め用いられんことを、豈に休ならずや。天下幸甚なり。
臣聞く、三王の朝も、淫亢を免れず、太平の時も、小孽無からず。備禦の道は、その人に存す。若し細微の災いを恬として怪しまず、禍変象を成して駭いてこれを図らば、猶ほ水決して防を繕い、疾困して薬を求むるが如く、復た黽勉すとも、何ぞ救わんや。夫れ災変天に応ずるは、実に人事に係る。故に日蝕には徳を修め、月蝕には刑を修む。若し雨暘或いは愆らば、則ち貌言を咎と為し、雩禜の法は、礼典に在り。今暫く霖雨に逢うや、即ち坊門を閉じ、先聖の明訓を棄て、後来の浅術に遵う。時に偶々中るも、安んぞ神たるに足らんや。蓋し当に屏翳津を収め、豊隆響を戢むるの日なり。豈に一坊一市にして、遂に皇霊を感召し、暫く閉じ暫く開きて、便ち神道を発揮せんと欲せんや。必ず然らず、何ぞ其れ謬れることの甚だしきや。今に至るまで巷議街言、共に坊門を宰相と呼び、風雨を節宣し、陰陽を変理し能うと謂う。夫れ是の如くならば、則ち赫赫たる師尹、便ち虚設と為り、悠悠たる蒼生、復た何をか望まん。
数年已来、公私ともに竭き、戸口減耗す。家に接新の儲無く、国に候荒の蓄無し。陛下都邑を出でず、近く朝市を観れば、則ち率土の人、既に康にして且つ富めりと以為う。閭陌に践み至り、郷亭を視るに及べば、百姓は牛馬の衣を衣、犬彘の食を食い、十室にして九空しく、丁壮は辺塞に尽き、孤孀は溝壑に転じ、猛吏は淫威を以てその毒を奪い、暴征急政を以てその資を破る。馬困すれば斯に跌ち、人窮すれば乃ち詐り、或いは起ちて奸盗と為り、或いは競いて流亡と為り、従いてこれを刑するは、誠に悲しむべし。臣今の甿俗を観るに、率多く軽佻にして、人貧にして奢息まず、法設けて偽止まず。長吏は貪冒し、選挙は私謁す。楽多く繁淫し、器は浮巧を尚ぶ。稼穡の人少なく、商旅の人多し。誠に願わくは坦然として更化し、身を以てこれに先んじ、本を端にし源を澄まし、瑕を滌ぎ穢を蕩せんことを。凋残の後に接しては、宜しくその力役を緩くすべく、久弊の極に当たっては、宜しく法訓敦龐を法とすべし。良牧は風を樹え、賢宰は化を垂れ、十年の外、生聚方に足り、三代の美、庶幾くかく可及ばん。
臣聞く、太子は君の貳、国の本なり。『易』にその卦有り、天にその星有り、今古相循り、率よ茲の道に由る。陛下皇極に登りてより、未だ元良を建てず、器を守り祧を承け、徳を養い業を賛する所以に非ず。離明は曜を輟むべからず、震位は久しく虚しゅうべからず。伏して願わくは早く賢能を択び、以て儲副を光らせ、上は社稷を安んじ、下は黎元を慰められんことを。且つ姻戚の間は、謗議の集まる所、仮令漢帝広国に私無く、元規中書に切讓すとも、天下の人、安んぞ戸説せん。稽疑は患を成し、馮寵は災を生ず、所謂愛するは適足以ってこれを害するなり。至れり武三思等、誠に能くその機務を輟め、清閑を授け、厚禄を以てその身を富まし、蕃錫を以てその意を奨めば、家国俱に泰らかならんこと、豈に優ならずや。
夫れ爵賞は、君の重柄なり。『伝』に曰く、「惟だ名と器は、人に仮すべからず」と。頃より官賞、頗る亦乖謬し、大勳未だ人聴に満たずして、高秩已に朝倫を越え、天の功を貪り、以て己が力と為す。秘書監鄭普思・国子祭酒葉靜能は、或いは小道を挟みて硃紫に登り、或いは浅術に因りて銀黄を取る。既に国経を虧き、実に天道に悖る。『書』に曰く、「理を未だ乱れざるに制し、邦を未だ危うからざるに保つ」と。此れ誠に理乱安危の時なり。伏して願わくは祖宗の丕烈を欽み、王業の艱難を傷み、佞人を遠ざけ、有徳を親しみ、乳保の愛、妃主の家、時に接見し、媟瀆せしむること無からんことを。
凡そ此の数者は、当今の急務、唯だ陛下留神して採納せられ、永く康寧を保たれんことを。
疏奏すれども省みられず。
右僕射唐休璟、霖雨の害を以て、咎は主司に在りとし、上表して曰く、「臣聞く、天はその工を運らし、人これに代わって理と為し、神はその化を行い、政はこれに資して和と為す。その理を得れば則ち陰陽以て調い、その和を失えば則ち災沴斯に作る。故に才を挙げて授くるは、帝唯だその難しとし、道を邦に論ずるは、官必ずしも備わらず。頃より中夏より、首秋に及び、郡国水災、屡人害と為る。夫れ水は陰気なり、臣実にこれを主る。臣右枢の職に忝くし、この陰沴を致し、その気を調理すること能わずして、乃ちその官に曠居す。運は堯年に属すれども、則ち治水の用無く、位は殷相に侔うれども、且つ川を済うるの功闕く。猶ほ明刑を負い、坐して皇譴を逃る。皇恩棄てずと雖も、その天を如何せん。昔、漢家の故事、丞相は天災を以て免職せり。臣窃かに聖時に遇う、豈敢えて顔を塤めて位に居らんや。乞う所任を解き、私門に待罪し、冀わくは陰咎の征を移し、復た夜行の眚を免れんことを。
天宝十載、広陵郡に大風海潮を架し、江口の大小船数千艘を淪す。十三載秋、京城連月澍雨し、秋稼を損ず。
九月、坊市の北門を閉ざし、井戸を蓋い、婦人の街市への入場を禁じ、玄冥大社を祭り、門に禜を行ふ。京城の坊市の牆宇、崩壊して殆ど尽きんとす。東方の瀍水・洛水が堤防の穴を溢れ、十九坊を沖壊す。上元二年、京師は七月より霖雨あり、八月尽きて方に止む。京城の宮寺廬舍多く壞れ、街市の溝渠中に漉して小魚を得たり。永泰元年、先づ旱魃あり後ち水害あり。九月、大雨、平地に水数尺、溝河漲溢す。時に吐蕃京畿を寇すも、水の故を以て、自ら潰えて去る。二年夏、洛陽に大雨あり、水二十餘坊及び寺観廨舍を壞す。河南数十州大水あり。大暦四年秋、大雨あり。是の歳、四月より霖澍あり、九月に至る。京師の米一斗八百文、官は太倉の米を出だし賤く糶して饑人を救ふ。京城は坊市の北門を閉ざし、門に土台を置き、台上に壇及び黄幡を置きて晴を祈る。秋末に方に止む。五年夏、復た大雨あり、京城饑饉す、太倉の米を出だし価を減じて人を救ふ。十二年秋、大雨あり。是の歳、春夏旱魃あり、秋八月の雨に至り、河南特に甚だしく、平地深さ五尺、河決し、田稼を漂溺す。
貞観二年六月、京畿旱魃あり、蝗が稼を食ふ。太宗苑中に在りて蝗を掇ひ、之を呪ひて曰く、「人は穀を以て命と為す、而るに汝之を害す、是れ吾が民を害するなり。百姓に過有らば、予一人に在り、汝若し霊通有らば、但だ我を食らひ、吾が民を害すること無かれ」と。将に之を吞まんとす、侍臣上疾を致すを恐れ、遽かに諫めて之を止む。上曰く、「冀ふ所は災を朕が躬に移すに在り、何の疾をか避けん」と。遂に之を吞む。是の歳蝗患と為らず。開元四年五月、山東に螟蝗ありて稼を害す、御史を分遣して捕へて之を埋む。汴州刺史倪若水御史を拒み、執奏して曰く、「蝗は天災なり、自ら徳を修むるに宜し。劉聰の時、除く既に得ず、害を為すこと滋く深し」と。宰相姚崇牒を以て之に報じて曰く、「劉聰は偽主なり、徳妖に勝たず、今日の聖朝、妖徳に勝たず。古の良守、蝗蟲境を避く、若し徳を修むれば免る可しと為さば、彼豈に徳無くして然らしむるや。今坐して苗を食らふを見、忍びて救はざれば、此に因りて饑饉せんこと、将に何を以てか安からん」と。卒に行ひ埋瘞の法、蝗十四萬を獲、乃ち之を汴河に投ず、流るる者数ふるに勝へず。朝議喧然たり、上復た以て崇に問ふ、崇対へて曰く、「凡そ事経に違ひて道に合ひ、道に反して権に適ふ者有り、彼の庸儒以て之を知るに足らず。縦ひ除くこと尽さずと雖も、猶ほ之を養ひて災を成すに勝れり」と。帝曰く、「蟲を殺すこと太多れば、和気を傷く有らん、公其れ之を思へ」と。崇曰く、「若し人を救ひ蟲を殺して禍を致さば、臣甘心する所なり」と。八月四日、勅して河南・河北の検校捕蝗使狄光嗣・康瓘・敬昭道・高昌・賈彥璿等、宜しく蟲尽きて禾を刈り将に畢らんとするを待ち、即ち京に入り事を奏すべし。諫議大夫韓思復上言して曰く、「伏して聞く、河北の蝗蟲、頃日ますます熾んにして、経歴する所、苗稼都く尽きたりと。臣望み奉るに、陛下咎を省み躬を責め、使を発して宣慰し、不急の務を損じ、至冗の人を去り、上下同心にし、君臣一徳にして、此の至誠を持ち、以て休咎に答へんことを。前後の捕蝗使並びに之を停めんことを望む」と。上符疏を出だし中書姚崇に付す、乃ち思復をして山東に往きて蟲災の所を検視せしめ、還りて、具さに以て聞かしむ。二十五年、貝州に蝗苗を食らふ、白鳥数萬有り、群飛して蝗を食らひ、一夕にして尽くす。明年、榆林関に虸蚄苗を食らふ、群雀来たりて食らひ、数日にして尽くす。
天宝三載、貴州に紫蟲苗を食らふ、時に赤鳥群飛し、東北より来たりて之を食らふ。広徳元年秋、虸蚄苗を食らふ、関西特に甚だしく、米一斗千錢。興元元年秋、関輔大蝗あり、田稼食ひ尽くされ、百姓饑へ、蝗を捕へて食と為し、蒸し曝し、颺足翅を去りて之を食らふ。明年夏、蝗特に甚だしく、東海より西は河・隴に尽きるまで、群飛して天を蔽ひ、旬日止まず。経行する所、草木牛畜の毛、孑遺有ること靡し。関輔已東、穀大いに貴く、餓饉道に枕す。京師大乱の後、李懐光河中に拠り、諸軍進討す、国用罄竭す。衣冠の家、多く殍殕する者有り。旱魃甚だしく、灞水将に竭きんとし、井皆水無し。有司奏す、国用裁す可く七旬を支ふるに足ると。徳宗膳を減じ、正殿に禦せず。百司不急の費、皆之を減ず。元和元年夏、鎮・冀に蝗あり、稼を害す。長慶三年秋、洪州旱魃あり、螟蝗八萬頃の稼を害す。大和元年秋、旱魃あり、選挙を罷む。開成二年、河南・河北旱魃あり、蝗稼を害す。京師旱魃特に甚だしく、市を徙し、坊の南門を閉づ。四年六月、天下旱魃あり、蝗田を食らひ、禱祈効無く、上憂ひ色に形はる。宰臣曰く、「星官天時に当に爾るべしと奏す、乞ふらくは過ぎて聖慮を労すること無かれ」と。文宗懍然として容を改め曰く、「朕天下の主と為り、徳人に及ばず、此の災旱を致す。今又彗星上に謫見す、若し三日内に雨無からば、当に退きて南内に帰り、卿等自ら賢明の君を選び以て天下を安んぜよ」と。宰臣嗚咽流涕して已む能はず。是の歳、河南府界に黒蟲苗を食らふ。河南・河北に蝗あり、稼を害すること都く尽くす。鎮・定等州、田稼既に尽き、野草樹葉細枝に至るまで亦尽くす。会昌元年、山南の鄧・唐等州に蝗あり、稼を害す。
貞元七年、蘇州火災あり。十九年四月、家令寺火災あり。二十年四月、開業寺火災あり。元和四年、御史台舍火災あり。七年、鎮州の甲仗庫十三間災あり、節度使王承宗主守を殺し、坐して死者百餘人。承宗方に天軍を拒ぎ、而して兵仗災に焚かるるは、天意悪を嫉むなり。十年四月、河陰転運院火災あり。十一月、献陵の寢宮永巷火災あり。十一年十二月、未央宮及び飛龍草場火災あり、皆王承宗・李師道兵を用ふることを撓まんと謀り、陰かに盗を遣はして火を縱く也。時に李師道鄆州に宮殿を起し、僭乱を謀らんと欲す。既に成るも、是の歳災に為りて並びに尽くす、俄にして族滅す。大和元年十月甲辰、昭徳宮火災あり、延焼して宣政殿の東垣及び門下省に至り、晡時に方に息む。八年十二月、昭成宮火災あり。九年六月乙亥朔、西市火災あり。会昌三年六月、萬年県の東市火災あり、屋宇貨財を燒くこと其の数を知らず。又西内の神龍宮火災あり。大順二年七月、汴州の相国寺佛閣災あり。是の日の晚、微雨あり、震電す、寺僧赤塊の三門楼の藤網の中に在るを見る、周りに一匝して而して火作る。良久くして、赤塊北に飛び、前殿を越えて佛閣の網中に飛び入り、三門の如く周り繞りて轉じて火作る。是の如く三日止まず、訖に灰燼と為る。
貞観の初め、白鵲が殿庭の槐樹に巣を作り、その巣は合歓の如く腰鼓の形を成し、左右の者が賀した。太宗は言う、「朕は常に隋文帝が祥瑞を好んで言うのを笑う。瑞は賢を得るにあり、白鵲の子が何事に益せんや」と。命じてこれを掻き落とし、野に送らしめた。高宗の文明の後、天下頻りに雌雉が雄に化すを奏し、或いは半ば化し未だ化さざるものあり、併せてこれを献ずるは、則天の朝に臨む兆なり。調露元年、突厥の温傅等未だ叛かざる時、鳴鵽の群れ塞に入り飛び来たり、相継いで野を蔽い、辺人は相驚きて言う、「突厥雀南に飛ぶは、突厥の塞を犯す兆なり」と。二年の正月に至り、還た復た北に飛び、霊夏の已北に至り、悉く地に墜ちて死す。これを視るに、皆な頭無し。裴行儉、右史の苗神客に問うて曰く、「鳥獣の祥、乃ち人事に応ずるは、何ぞや」と。対えて曰く、「人は最も霊なりと雖も、而も稟性含気、万類と同じきを以て、故に吉凶彼に兆し、而して禍福此に応ず。聖王命を受くれば、龍鳳嘉瑞と為るは、和気同じきなり。故に漢祖蛇を斬りて秦の必ず亡ぶるを験し、仲尼麟を感じて己の将に死せんとするを知る。夷羊牧に在りて、殷紂已に滅ぶ。瞿〓鵒来たりて巣くい、魯昭出奔す。鼠端門に舞い、燕剌誅死す。大鳥飛び集まり、昌邑以て敗る。是の故に君子は虔恭寅畏し、動くに必ず義を思い、幽独に在りと雖も、大事を承くるが如くし、神明の照臨するを知り、患難の己に及ぶを懼る。雉鼎耳に昇れば、殷宗側身して以て徳を修め、鵩坐隅に止まれば、賈生賦を作して以て命を叙す。卒に以て患無きに至るは、徳妖に勝るなり」と。
永徽の中、黒歯常之河源軍を戍す。狼三頭有り、白昼軍門に入り、これを射て斃す。常之懼れ、代を求む。将軍李謹常之の軍に代わり、月余にして卒す。先天の初め、洛陽市の人一羊を牽き、左脇下に人手有り、長さ尺許、これを以て乞食す。開元二年、韶州鼠禾を害し、千万群を為す。三年、熊有りて白昼広陵城に入り、月余、都督李処鑒卒す。永泰二年十一月、乾陵に赤兔見ゆ。
貞観の中、汾州言う、青龍見ゆ、物を吐きて空中に在り、光明有りて火の如し。地に墜ち、地陥る。これを掘れば玄金を得、広さ尺、長さ七寸。大足元年、虔州別駕六眼の亀を得、一夕にして失す。神龍の中、渭河に蛤蟆有り、大さ一石鼎の如く、里人聚まって観る、数日にして失す。是の歳、大水京城数百家を漂溺し、商州水城門に入り、襄陽水樹杪に至る。先天二年六月、西京朝堂の磚階、故無くして自ら壊る。磚の下に大蛇長さ丈余有り、蛤蟆盤の如く大、面目赤くして火の如く、相向かって闘う。俄にして蛇大樹に入り、蛤蟆草に入る。其の年七月三日、玄宗竇懐貞・岑羲等十七家を誅す。開元四年六月、郴州馬嶺山の下、白蛇長さ六七尺有り、黒蛇長さ丈余有り。両蛇闘い、白蛇黒蛇を吞み、粗き処に至り、口眼血を流し、黒蛇の頭白蛇の腹を穿ちて出づ、俄にして倶に死す。旬日内桂陽大雨し、山水暴溢し、五百家を漂し、三百余人を殺す。
天宝の中、洛陽に巨蛇有り、高さ丈余、長さ百尺、芒山の下より出づ。胡僧無畏これを見て、歎じて曰く、「此れ水を決して洛城に注がんと欲す」と。即ち天竺の法を以てこれを咒し、数日にして蛇死す。禄山の洛を陥す兆なり。李揆相と為る前一月、大蛤蟆床の如く有り、室の中に見え、俄にして所在を失す。占う者は以て蟆は天使なりと為し、福慶の事有りとす。乾元二年九月、通州三岡県の放生池の中、日気下照し、水騰波湧き上がり、黄龍躍り出で、高さ丈余、又た龍の旁数処に於て、明珠浮び出づ。大暦八年、京師金天門外の水渠に毛亀を獲る。貞元三年、李納毛亀を献ず。元和七年四月、舒州桐城県に黄・青・白三龍各一有り、風雷を翼びて梅天陂より起り、約す高さ二百尺、凡そ六里、浮塘坡に降る。九年四月、道州二青龍江の中に見ゆ。大和二年六月七日、密州卑産山の北面に龍見ゆ。初め、赤龍西より来たり、続いて青龍・黄龍南より来たり、後に白龍・黒龍山北より来たり、並びに形状分明なり。申より戌に至り、方に散ず。
天宝の初め、臨川郡の人李嘉胤の居る柱上に芝草生じ、状天尊像の如し、太守張景夫柱を抜きて以て献ず。上元二年七月甲辰、延英殿の御座に白芝生じ、一茎三花。粛宗『玉霊芝詩』三篇を制し、群臣皆な賀す。占いて曰く、「白芝は喪を主る」と。明年、上皇・粛宗倶に崩ず。二年九月、含輝院に金芝生ず。永泰二年二月、京城の槐樹に虫葉を食う有り、其の形蠶に類す。其の年六月、太廟第二室に芝草生ず。大暦四年三月、潤州上元県に芝草生じ、一茎四葉、高さ七寸。八年、廬州廬江県に紫芝生じ、高さ一丈五尺。九年九月、晋州神山県慶唐観の檜樹已に枯れて重ねて栄ゆ。十二年五月甲子、成都府の人郭遠、樵りに因りて瑞木一茎を獲、文有りて「天下太平」の四字と曰う。其の年十一月、蔡州汝陽県に芝草生じ、紫茎黄蓋。興元元年八月、亳州真源県大空寺の僧院の李樹、種くるより十四年、纔かに長さ一丈八尺、今春枝忽ち上に聳え、高さ六尺、周囲蓋に似て、九尺余。又た先天太后の墓の槐樹上に霊泉漏れ出づ。今年六月、其の上に雲気五色有り、又た黄龍再び泉上に見ゆ。元和十一年十二月雷し、桃李倶に花く。長慶三年十二月、水氷らず、草萌芽す、正二月の候の如し。
玄宗初めに即位し、東都白馬寺の鉄像の頭故無くして自ら殿門外に落つ。後姚崇政を秉り、僧恵范の太平に附いて政を乱すを以て、僧尼を汰し、父母に拝せしめ、午後院を出でざらしむ。其の法頗る峻し。大暦十三年二月、太僕寺の廨に仏堂有り、堂内の小脱空金剛の左臂上に忽ち黒汗滴り下る有り、紙を以てこれを承くれば、色即ち血なり。明年五月、代宗崩ず。
隋の末に謡があり、『桃李子、洪水楊山を繞る』と云う。煬帝は李氏に受命の符有りと疑い、故に李金才を誅す。後に李密は洛口倉を拠りて以て其の讖に応ず。隋の文帝の時、長安故城の東南より唐興村に移して新都を置く、今の西内承天門は正に唐興村の門に当たる。今に大槐樹有り、柯枝森鬱として、即ち村門の樹なり。有司は行列正しからずとして、将に之を去らんとす、文帝曰く、『高祖嘗て此の樹下に坐せり、去るべからず』と。調露年中、高宗は嵩山を封ぜんと欲し、累ねて儀注を草すも、事有りて行はれず。謡有りて曰く、『登るを得ざるを畏れず、但だ登るを得ざるを恐る。三度兵馬を徴し、旁道打ちて騰騰たり』と。高宗は山下に至りて疾に遭い、還宮して崩ず。永徽の末、里歌に『桑條韋也』『女時韋也』の楽有り。及び神龍年中、韋后は用事し、鄭愔は『桑條歌』十篇を作りて之を上る。龍朔年中、俗中の飲酒令に曰く、『子母去離し、連台龍抝倒す』と。俗に杯盤を子母と謂い、又盤を台と名づく、即ち中宗の房州に廃せらるるの応なり。時に里歌に『突厥塩』有り、及び則天は尚書閻知微を遣わして武延秀を送り、知微を立てて可汗と為し、之を挟みて入寇す。如意の初、里歌に云く、『黄麞黄麞草裏に蔵れ、彎弓爾を射て傷つく』と。後に契丹の李万栄叛き、営州を陥とす、則天は総管曹仁師・王孝傑等に将兵百万を将いて之を討たしむ、黄麞穀に大敗し、契丹は勝に乗じて趙郡に至る。垂拱已後、東都に『契苾児歌』有り、皆淫豔の詞なり。後に張易之兄弟に内嬖有り、易之の小字は契苾なり。元和の小児謡に云く、『打麦打麦三三三』、乃ち身を転じて曰く、『舞い了ぬ』と。及び武元衡は盗の害する所と為る、是れ元和十年六月三日なり。
『五行伝』の所謂る詩妖は、皆此の類なり。
上元年中に服令を為し、九品已上は刀礪等の袋を佩き、紛帨は魚形と為し、帛を結びて之を作り、魚は鯉に像るは、強きの意なり。則天の時此の制遂に絶え、景雲後又之を佩く。
張易之は母の阿臧の為に七宝帳を為し、魚龍鸞鳳の形有り、仍て象床・犀簟を為す。則天は鳳閣侍郎李迥秀に命じて之に妻せしむ、迥秀は已むを得ず、然れども心其の老いを悪み、之を薄くす。阿臧怒り、迥秀を出して定州刺史と為す。
中宗の女安楽公主は、尚方の織成せる毛裙有り、百鳥の毛を合せ、正しく看れば一色、旁より看れば一色、日中は一色、影中は一色、百鳥の状、並びに裙中に見ゆ。凡そ両腰を造り、一は韋氏に献ず、価百万を計る。又尚方に令して百獣の毛を取らしめて韉面と為し、之を視れば各本獣の形を見る。韋后は又鳥毛を集めて韉面と為す。安楽初めて武延秀に出降す、蜀川は単糸碧羅籠裙を献じ、金を縷りて花鳥と為し、細きこと糸髪の如く、鳥子の大さ黍米の如く、眼鼻嘴甲俱に成り、目明らかなる者方に之を見る。安楽公主の毛裙を作るより、百官の家多く之に效ふ。江嶺の奇禽異獣の毛羽、之を采ること殆んど尽きぬ。開元の初、姚崇・宋璟執政し、屡に奢靡を以て諫め、玄宗悉く宮中に命じて奇服を出さしめ、之を殿廷に焚き、士庶に錦繡珠翠の服を許さず。是より採捕漸く息み、風教日々に淳し。
韋庶人の妹七姨は、将軍馮太和に嫁ぎ、権人主に傾き、嘗て豹頭枕を以て邪を辟き、白沢枕を以て魅を辟き、伏熊枕を以て男を宜しむ。太和死す。再び嗣虢王に嫁ぐ。及び玄宗韋后を誅すに及び、虢王は七姨の首を斬りて以て献ず。