旧唐書 巻三十八、志第十八 地理一

旧唐書

巻三十八、志第十八 地理一

志第十八 地理一

【序】

王者は黎元を司牧し、天下を方制す。井田を列ねて職貢を底し、県道を分かちて華夷を控う。『皇墳』『帝典』の殊塗、『禹貢』『周官』の異制と雖も、其れ侯を建て土を胙し、瑞を頒ち符を剖き、外に百蛮を湊し、内に九牧を親しむこと、古の元首、皆意有り。然れども子弟封を受くるは、周室竟に衰削を貽し、郡県を以て理と為すは、秦人敗亡を免れず。蓋し徳業浅深有り、制置工拙無し。殷周未だ得と為さず、秦漢未だ非と為さず。実を摭りて言へば、哲後の守成に在るのみ。謹みて前代隆平の時に詳らかにし、今日耗登の数を校へ、諸れ戸籍に存し、以て休期を志す。

昔秦天下を併せ、地を裂きて四十九郡と為し、郡に守尉を置き、御史を以て之を監す。其の地西は洮に臨み、北は沙漠にし、東縈南帯、皆海濱に際す。漢興り、秦郡稍大なるを以て、郡国を析置す。武帝越を斥け胡を攘ひ、土宇弥広し。哀平の季、凡そ郡国百三、県千三百十四、道三十二、侯国二百四十一、而して諸郡に十三部刺史を置き分統す。司隷・并・荊・兗・豫・揚・冀・青・徐・益・交・涼・幽等十三州と謂ふ。漢地東西九千三百二里、南北一万二千三百六十八里。後漢郡国、百五、県道侯国千一百八十六。亦西京の制の如く、十三州刺史を置きて郡守を充つ。其の地広袤、亦前制の如し。

曹魏の時、三分鼎峙し、淮漢の間、鞠として闘壤と為る。太康混一に洎り、尋で胡戎に陷る。南北分争し、何ぞ疆理に暇あらん。三百年の間、廃置一ならず。隋氏陳を平げ、寰区一統するに及び。大業三年、州を改めて郡と為し、亦漢制の如く、司隷・刺史を置き、以て郡守を糾す。大凡そ隋の簿、郡百九十、県一千二百五十五、戸八百九十万七千五百三十六、口四千六百一万九千九百五十六。其の地東西九千三百里、南北一万四千八百十五里。東南皆大海に際し、西は且末に至り、北は五原に至る。隋氏の極盛なり。大業季年に及び、群盗蜂起し、郡県淪陷し、戸口減耗す。高祖命を受くるの初、郡を改めて州と為し、太守並びに刺史と称す。其の縁辺鎮守及び襟帯の地、総管府を置き、以て軍戎を統ぶ。武徳七年に至り、総管府を改めて都督府と為す。

隋季喪乱より、群盗初め附き、権に州郡を置くこと、開皇・大業の間に倍す。貞観元年、悉く併省せしむ。山河形便に始まり、分かちて十道と為す。一に曰く関内道、二に曰く河南道、三に曰く河東道、四に曰く河北道、五に曰く山南道、六に曰く隴右道、七に曰く淮南道、八に曰く江南道、九に曰く剣南道、十に曰く嶺南道。十三年簿を定むるに至り、凡そ州府三百五十八、県一千五百五十一。十四年高昌を平ぐるに至り、又二州六県を増す。北は突厥頡利を殄し、西は高昌を平げ、北は陰山を踰え、西は大漠に抵る。其の地東は海に極まり、西は焉耆に至り、南は林州南境に尽き、北は薛延陀界に接す。凡そ東西九千五百十里、南北一万六千九百十八里。高宗の時、高麗・百済を平げ、遼海已東、皆州と為る。俄にして復叛し、提封に入らず。景雲二年、天下郡県を分かち、二十四都督府を置きて之を統ぶ。議者権重不便を以てし、尋いで亦罷む。

開元二十一年、天下を分かちて十五道と為し、毎道に採訪使を置き、非法を検察す。漢刺史の職の如し。京畿採訪使(京師城内に治す)、都畿(東都城内に治す)、河東(蒲州に治す)、関内(京官を以て遙領す)、河南(汴州に治す)、河北(魏州に治す)、隴右(鄯州に治す)、山南東道(襄州に治す)、山南西道(梁州に治す)、剣南(益州に治す)、淮南(揚州に治す)、江南東道(蘇州に治す)、江南西道(洪州に治す)、黔中(黔州に治す)、嶺南(広州に治す)。又辺境に節度・経略使を置き、四夷を式遏す。凡そ節度使十、経略守捉使三。大凡そ鎮兵四十九万人、戎馬八万余疋。毎歳経費、衣賜は則ち千二十万疋段、軍食は則ち百九十万石、大凡そ千二百十万。開元以前、毎年辺用二百万を過ぎず、天宝中是の数に至る。

安西節度使は西域を撫甯し、亀茲・焉耆・于闐・疏勒の四国を統ぶ。安西都護府の治所は亀茲国城内に在り、戍兵二万四千人、馬二千七百疋、衣賜六十二万疋段を管す。焉耆の治所は安西府の東八百里に在り。于闐は安西府の南二千里に在り。疏勒は安西府の西二千余里に在り。

北庭節度使は突騎施・堅昆・斬啜を防制し、瀚海・天山・伊吾の三軍を管す。北庭節度使の治する所は北庭都護府に在り、兵二万人、馬五千疋、衣賜四十八万疋段を管す。突騎施の牙帳は北庭府の西北三千余里に在り。堅昆は北庭府の北七千里に在り。東北斬啜に去ること千七百里。瀚海軍は北庭府城内に在り、兵一万二千人、馬四千二百疋を管す。天山軍は西州城内に在り、兵五千人、馬五百疋を管す。伊吾軍は伊州の西北三百里甘露川に在り、兵三千人、馬三百疋を管す。

河西節度使は羌胡を断隔す。赤水・大斗・建康・寧寇・玉門・墨離・豆盧・新泉等の八軍、張掖・交城・白亭の三守捉を統ぶ。河西節度使の治は涼州に在り、兵七万三千人、馬一万九千四百疋、衣賜歳百八十万疋段を管す。赤水軍は涼州城内に在り、兵三万三千人、馬一万三千疋を管す。大斗軍は涼州の西二百余里に在り、兵七千五百人、馬二千四百疋を管す。建康軍は甘州の西二百里に在り、兵五千三百人、馬五百疋を管す。寧寇軍は涼州の東北千余里に在り。玉門軍は肅州の西二百里に在り、兵五千二百人、馬六百疋を管す。墨離軍は瓜州の西北千里に在り、兵五千人、馬四百疋を管す。豆盧軍は沙州城内に在り、兵四千三百人、馬四百疋を管す。新泉軍は会州の西北二百余里に在り、兵千人を管す。張掖守捉は涼州の南二里に在り、兵五百人を管す。交城守捉は涼州の西二百里に在り、兵千人を管す。白亭守捉は涼州の西北五百里に在り、兵千七百人を管す。

朔方節度使は、北狄を防禦し、経略・豊安・定遠・西受降城・東受降城・安北都護・振武等の七軍府を統べる。朔方節度使は、霊州に治し、兵六万四千七百人、馬四千三百匹、衣賜二百万匹段を管す。経略軍は、霊州城内に理し、兵二万七百人、馬三千匹を管す。豊安軍は、霊州西の黄河外百八十里に在り、兵八千人、馬千三百匹を管す。安遠城は、霊州東北二百里の黄河外に在り、兵七千人、馬三千匹を管す。西受降城は、豊州北の黄河外八十里に在り、兵七千人、馬千七百匹を管す。安北都護府治は、中受降城の黄河北岸に在り、兵六千人、馬二千匹を管す。東受降城は、勝州東北二百里に在り、兵七千人、馬千七百匹を管す。振武軍は、単于東都護府城内に在り、兵九千人、馬千六百匹を管す。

河東節度使は、朔方と掎角し、以て北狄を禦ぎ、天兵・大同・横野・岢嵐等の四軍、忻・代・嵐の三州、雲中守捉を統べる。河東節度使は、太原府に治し、兵五万五千人、馬一万四千匹、衣賜歳百二十六万匹段、軍糧五十万石を管す。天兵軍は、太原府城内に理し、兵三万人、馬五千五百匹を管す。雲中守捉は、単于府西北二百七十里に在り、兵七千七百人、馬二千匹を管す。大同軍は、代州北三百里に在り、兵九千五百人、馬五千五百匹を管す。横野軍は、蔚州東北一百四十里に在り、兵三千人、馬千八百匹を管す。忻州は、太原府北百八十里に在り、兵七千八百人を管す。代州は、太原府に至ること五百里、兵四千人を管す。嵐州は、太原府西北二百五十里に在り、兵三千人を管す。岢嵐軍は、嵐州北百里に在り、兵一千人を管す。

范陽節度使は、奚・契丹を臨制し、経略・威武・清夷・静塞・恒陽・北平・高陽・唐興・横海等の九軍を統べる。范陽節度使は、幽州に理し、兵九万一千四百人、馬六千五百匹、衣賜八十万匹段、軍糧五十万石を管す。経略軍は、幽州城内に在り、兵三万人、馬五千四百匹を管す。威武軍は、檀州城内に在り、兵一万人、馬三百匹を管す。清夷軍は、媯州城内に在り、兵一万人、馬三百匹を管す。静塞軍は、薊州城内に在り、兵一万六千人、馬五百匹を管す。恒陽軍は、恒州城東に在り、兵三千五百人を管す。北平軍は、定州城西に在り、兵六千人を管す。高陽軍は、易州城内に在り、兵六千人を管す。唐興軍は、莫州城内に在り、兵六千人を管す。横海軍は、滄州城内に在り、兵六千人を管す。

平盧軍節度使は、室韋・靺鞨を鎮撫し、平盧・盧龍の二軍、榆関守捉、安東都護府を統べる。平盧軍節度使治は、営州に在り、兵一万七千五百人、馬五千五百匹を管す。平盧軍は、営州城内に在り、兵一万六千人、馬四千二百匹を管す。盧龍軍は、平州城内に在り、兵一万人、馬三百匹を管す。榆関守捉は、営州城西四百八十里に在り、兵三百人、馬百匹を管す。安東都護府は、営州東二百七十里に在り、兵八千五百人、馬七百匹を管す。

隴右節度使は、以て羌戎に備え、臨洮・河源・白水・安人・振威・威戎・莫門・寧塞・積石・鎮西等の十軍、綏和・合川・平夷の三守捉を統べる。隴右節度使は、鄯州に在り、兵七万人、馬六百匹、衣賜二百五十万匹段を管す。臨洮軍は、鄯州城内に在り、兵一万五千人、馬八千匹を管す。河源軍は、鄯州西百二十里に在り、兵四千人、馬六百五十匹を管す。白水軍は、鄯州西北二百三十里に在り、兵四千人、馬五百匹を管す。安人軍は、鄯州界の星宿川西に在り、兵一万人、馬三百五十匹を管す。振威軍は、鄯州西三百里に在り、兵千人、馬五百匹を管す。威戎軍は、鄯州西北三百五十里に在り、兵千人、馬五十匹を管す。綏和守捉は、鄯州西南二百五十里に在り、兵千人を管す。合川守捉は、鄯州南百八十里に在り、兵千人を管す。莫門軍は、洮州城内に在り、兵五千五百人、馬二百匹を管す。寧塞軍は、廓州城内に在り、兵五百人、馬五十匹を管す。積石軍は、廓州西百八十里に在り、兵七千人、馬三百匹を管す。鎮西軍は、河州城内に在り、兵一万一千人、馬三百匹を管す。平夷守捉は、河州西南四十里に在り、兵三千人を管す。

劍南節度使は、西は吐蕃に抗し、南は蠻獠を撫し、團結營及び松・維・蓬・恭・雅・黎・姚・悉等の八州兵馬、天寶・平戎・昆明・寧遠・澄川・南江等の六軍鎮を統べる。劍南節度使治は、成都府に在り、兵三万九百人、馬二千匹、衣賜八十万匹段、軍糧七十万石を管す。團結營は、成都府城内に在り、兵一万四千人、馬千八百匹を管す。翼州は、兵五百人を管す。茂州は、兵三百人を管す。維州は、兵五百人を管す。天寶軍は、恭州東南九十里に在り、兵千人を管す。柘州は、兵五百人を管す。松州は、兵二千八百人を管す。平戎城は、恭州南八十里に在り、兵千人を管す。雅州は、兵四百人を管す。當州は、兵五百人を管す。黎州は、兵千人を管す。昆明軍は、巂州南に在り、兵五千一百人、馬二百匹を管す。寧遠城は、兵二千人を管す。悉州は、兵五千人を管す。南江郡は、兵三百人を管す。

嶺南五府経略使は、夷獠を綏靜し、経略・清海の二軍、桂管・容管・安南・邕管の四経略使を統べる。五府経略使治は、広州に在り、兵一万五千四百人を管し、軽税本鎮を以て自給す。経略軍は、広州城内に在り、兵五千四百人を管す。清海軍は、恩州城内に在り、兵二千人を管す。桂管経略使は、桂州に治し、兵千人を管す。容管経略使は、容州に治し、兵千一百人を管す。安南経略使は、安南都護府に治し、即ち交州、兵四千二百人を管す。邕管経略使は、兵七百人を管す。

長楽経略使は、福州刺史これを領し、兵千五百人を管す。

東萊守捉は、萊州刺史これを領し、兵千人を管す。東牟守捉は、登州刺史これを領し、兵千人を管す。

至徳の後、中原に兵を用い、刺史は皆軍戎を治め、遂に防禦・團練・制置の名有り。要衝の大郡には、皆節度の額有り;寇盗稍々息むと、則ち以て觀察の號に易ふ。

東都畿汝防禦觀察使。汝州を領し、東都留守之を兼ぬ。

河陽三城節度使。孟州に治し、孟・懷二州を領す。

宣武軍節度使。汴州に治し、汴・宋・亳・潁の四州を管す。

義成軍節度使。滑州に治し、滑・鄭・濮の三州を管す。

忠武軍節度使。許州に治し、許・陳・蔡の三州を管す。

天平軍節度使。鄆州に治し、鄆・齊・曹・棣の四州を管す。

兗海節度使。兗州に治し、兗・海・沂・密の四州を管す。

武甯軍節度使。徐州に治し、徐・泗・濠・宿の四州を管す。

平盧軍節度使。青州に治し、淄・青・登・萊の四州を管す。

陝州節度使。陝州に治し、陝・虢の二州を管す。

潼關防禦鎮國軍使。華州刺史之を領す。

同州防禦長春宮使。同州刺史之を領す。

鳳翔隴節度使。鳳翔府に治し、鳳翔府・隴州を管す。

邠甯節度使。邠州に治し、邠・甯・慶・鄜・坊・丹・延・衍等の州を管す。

涇原節度使。治所は涇州にあり、涇・原・渭・武の四州を管轄する。

朔方節度使。治所は霊州にあり、塩・夏・綏・銀・宥・豊・会・麟・勝・単于府等の州を管轄する。

河中節度使。治所は河中府にあり、蒲・晋・絳・慈・隰等の州を管轄する。

昭義軍節度使。治所は潞州にあり、潞・沢・邢・洺・磁の五州を領する。

河東節度使。治所は太原府にあり、汾・遼・沁・嵐・石・忻・憲等の州を管轄する。

大同軍防禦使。雲州刺史がこれを領し、雲・蔚・朔の三州を管轄する。

魏博節度使。治所は魏州にあり、魏・貝・博・相・澶・衛の六州を管轄する。

義昌軍節度使。治所は滄州にあり、滄・景・徳の三州を管轄する。

成徳軍節度使。治所は恒州にあり、恒・趙・冀・深の四州を領する。

義武軍節度使。治所は定州にあり、易・祁の二州を領する。

幽州節度使。治所は幽州にあり、幽・涿・瀛・莫・檀・薊・平・営・媯・順等の十州を管轄する。

山南西道節度使。治所は興元府にあり、開・通・渠・興・集・鳳・洋・蓬・利・璧・巴・閬・果・金・商等の州を管轄する。

山南東道節度使。治所は襄州にあり、襄・復・均・房・鄧・唐・随・郢等の州を管轄する。元和年中、淮西・蔡州に用兵あり、鄧・唐の二州を分けて別に一節度を立てる。

荊南節度使。治所は江陵府にあり、帰・夔・峡・忠・万・澧・朗等の州を管轄し、親王にこれを領せしむ。

剣南西川節度使。治所は成都府にあり、彭・蜀・漢・眉・嘉・資・簡・維・茂・黎・雅・松・扶・文・龍・戎・翼・邛・巂・姚・柘・恭・当・悉・奉・疊・静等の州を管轄し、親王にこれを領せしむ。

剣南東川節度使。治所は梓州にあり、梓・綿・剣・普・榮・遂・合・渝・瀘等の州を管轄する。

武昌軍節度使。治所は鄂州にあり、鄂・嶽・蘄・黃・安・申・光等の州を管轄する。

淮南節度使。治所は揚州にあり、揚・楚・滁・和・舒・壽・廬等の州を管轄し、親王がこれを領する。

浙江西道節度使。治所は潤州にあり、潤・蘇・常・杭・湖等の州を管轄する。あるいは観察使と為す。

浙江東道節度使。治所は越州にあり、越・衢・婺・溫・台・明等の州を管轄する。あるいは観察使と為す。

福建観察使。治所は福州にあり、福・建・泉・汀・漳等の州を管轄する。

宣州観察使。治所は宣州にあり、宣・歙・池等の州を管轄する。

江南西道観察使。治所は洪州にあり、洪・饒・吉・江・袁・信・虔・撫等の州を管轄する。喪乱の後、時に昇格して節度使と為す。

湖南観察使。治所は潭州にあり、潭・衡・郴・連・道・永・邵等の州を管轄する。

黔中観察使。治所は黔州にあり、涪・溪・思・費・辰・錦・播・施・珍・夷・業・溱・南・巫等の州を管轄する。

嶺南東道節度使。治所は広州にあり、広・韶・循・崗・恩・春・賀・潮・端・藤・康・封・瀧・高・義・新・勤・竇等の州を管轄する。

嶺南西道桂管経略観察使。治所は桂州にあり、桂・昭・蒙・富・梧・潯・龔・郁林・平琴・賓・澄・繡・象・柳・融等の州を管轄する。

邕管経略使。治所は邕州にあり、邕・貴・黨・橫・田・嚴・山・巒・羅・潘等の州を管轄する。

容管経略使。治所は容州にあり、容・辯・白・牢・欽・岩・禺・湯・瀼・古等の州を管轄する。

安南都護節度使。治所は安南府にあり、交・武峨・粵・芝・愛・福祿・長・峰・陸・廉・雷・籠・環・崖・儋・振・瓊・萬安等の州を管轄する。

上元年間以後、河西・隴右の州郡は、悉く吐蕃に陥落した。大中・咸通の間、隴右の遺民が、始めて地図を以て国に帰順し、また節度使を分置した。

秦州節度使。治所は秦州に置き、秦・成・階等の州を管轄した。

涼州節度使。治所は涼州に置き、西・洮・鄯・臨・河等の州を管轄した。

瓜沙節度使。治所は沙州に置き、沙・瓜・甘・肅・蘭・伊・岷・廓等の州を管轄した。乾符の後、天下は乱離し、礼楽征伐は朝廷より出ず。禹跡の九州は、瓜分臠剖され、或いは併合され、或いは分割され、備えて記すべからず。

今、天宝十一載の地理を挙げる。唐土は東は安東府に至り、西は安西府に至り、南は日南郡に至り、北は単于府に至る。南北は前漢の盛時の如く、東は及ばず、西はこれを過ぐ。漢の地は東は楽浪・玄菟に至る(今の高麗・渤海これなり)。今は遼東に在りて、唐土に非ず。漢の境は西は燉煌郡に至る(今の沙州、是れ唐土なり)。また亀茲は、西に於いて漢の盛時を過ぎたるなり。開元二十八年、戸部の計帳に、凡そ郡府三百二十有八、県千五百七十有三。羈縻州郡はこの数に在らず。戸八百四十一万二千八百七十一、口四千八百十四万三千六百九、応受田一千四百四十万三千八百六十二頃一十三畝。未だ両漢の数に盈たずといえども、晋・魏以来、斯れ盛んなり。永泰の後、河朔・隴西は寇盗に淪落す。元和の掌計の臣、嘗て版簿を作れども、二方は戸口を進上せず、詳らかに知るべからず。今ただ武德以来より、備えて廃置の年月を書き、その前代の沿革は、略かに郡邑の端を載す。職方の臣をして、顧問に殆うからしめんがためなり。

十道郡国

関内道一 河南道二

関内道

京師

京師は、秦の咸陽、漢の長安なり。隋の開皇二年、漢の長安故城より東南二十里を移して新都を置く、今の京師これなり。城は東西十八里一百五十歩、南北十五里一百七十五歩。皇城は西北隅に在り、これを西内と謂う。正門は承天と曰い、正殿は太極と曰う。太極の後殿は両儀と曰う。内に別殿・亭・観三十五所あり。京師の西に大明・興慶の二宮あり、これを三内と謂う。東西の両市あり。都内は、南北十四街、東西十一街。街は一百八坊に分かる。坊の広長は、皆三百余歩。皇城の南の大街を朱雀の街と曰い、東の五十四坊は万年県がこれを領し、街西の五十四坊は長安県がこれを領す。京兆尹はその事を総べる。東内は大明宮と曰い、西内の東北に在り、高宗の龍朔二年に置く。正門は丹鳳と曰い、正殿は含元と曰い、含元の後は宣政と曰う。宣政の左右に、中書・門下の二省、弘文・史の二館あり。高宗以後、天子は常に東内に居し、別殿・亭・観三十余所あり。南内は興慶宮と曰い、東内の南の隆慶坊に在り、本来は玄宗が藩王たる時の宅なり。東内より南内に達するに、夾城復道あり、通化門を経て南内に達す。人主の両宮を往来するも、人これを知る莫し。宮の西南隅に、花萼相輝・勤政務本の楼あり。禁苑は皇城の北に在り。苑城は東西二十七里、南北三十里、東は灞水に至り、西は故長安城に連なり、南は京城に連なり、北は渭水に枕す。苑内に離宮・亭・観二十四所あり。漢の長安故城(東西十三里)もまた苑中に隷属す。苑に西南監及び総監を置き、以て種植を掌る。

京兆府

京兆府は、隋の京兆郡、大興・長安・新豊・渭南・鄭・華陰・藍田・鄠・盩厔うちつ・始平・武功・上宜・醴泉・涇陽・雲陽・三原・宜君・同官・華原・富平・万年・高陵の二十二県を領す。武徳元年、雍州と改む。大興を万年と改め、万年を櫟陽と改め、櫟陽を分けて平陵を置き、渭南県を華州に属せしめ、醴泉を分けて温秀県を置き、雲陽を分けて石門県を置く。二年、万年を分けて芷陽県を置き、藍田を分けて白鹿県を置き、涇陽・始平を分けて咸陽県を置き、高陵を分けて鹿苑県を置き、平陵を粟邑県と改め、醴泉を分けて好畤県を置き、盩厔を分けて終南県を置く。三年、白鹿を寧人県と改め、藍田を分けて玉山県を置き、始平を分けて醴泉県を置く。仍く武功・好畤・盩厔・扶風の四県を分けて稷州を置き、温秀・石門の二県を分けて泉州を置く。四年、三原を池陽と改む。五年、復た華州の渭南を以て来属せしむ。六年、池陽を華池県と改む。七年、芷陽を廃して万年県に併入す。貞観元年、鹿苑を廃して高陵県に併入し、寧人・玉山を廃して藍田県に併入し、雲陽を池陽県と改め、華池を三原県と改む。稷州を廃し、武功・好畤・盩厔の三県を以て来属せしむ。八年、粟邑を廃して櫟陽県に併入し、終南を廃して盩厔県に併入し、雲陽を廃して池陽県に併入す。仍く池陽を雲陽県と改む。上宜を廃して岐州の岐陽県に併入す。十七年、宜州を罷め、華原・同官の二県を以て来属せしむ。二十年、又た宜君県を置く。永徽二年、宜君県を廃す。乾封元年、明堂・乾封の二県を置く。咸亨元年、美原県を置く。文明元年、奉天県を置く。天授元年、雍州を京兆郡と改め、其の年旧に復す。二年、始平・武功・奉天・盩厔・好畤等の県を分けて稷州を置き、雲陽・涇陽・醴泉・三原・富平・美原等の県を分けて宜州を置く。大足元年に罷め、鴻・宜・鼎・稷の四州を旧の如く県と為し、始平等十七県を以て還って雍州に隷属せしむ。長安二年、乾封・明堂の二県を廃す。景龍三年、邠州の永寿・商州の安業の二県を以て来属せしむ。景雲元年、復た永寿を邠州に属せしめ、安業を商州に隷せしむ。開元元年、雍州を京兆府と改め、隋の旧名に復す。四年、同州蒲城県を奉先県と改め、仍く京兆府に隷す。天宝元年、京師を西京と為す。七載、貞符県を置く。十一年に廃す。旧領県十八、戸二十万七千六百五十、口九十二万三千三百二十。天宝領県二十三、戸三十六万二千九百二十一、口百九十六万七千一百八十八。府治は京城の光徳坊に在り。東京より八百里。

万年は、隋の大興県。武徳元年、万年と改む。乾封元年、分置して明堂県と為し、永楽坊に治す。長安三年に廃し、復た万年に併合す。天宝七載、咸寧と改め、乾元に旧に復す。

長安は、隋の県。乾封元年、分かれて乾封県と為り、懐直坊に治す。長安三年に廃し、復た長安に併合す。

藍田は、隋の県。

渭南は隋代の県である。武徳元年(六一八)に華州に属し、五年(六二二)に再び雍州に隷属した。天授二年(六九一)に鴻州を置き、渭南県を分割して鴻門県を置き、合わせて渭南・慶山・高陵・櫟陽・鴻門の五県を管轄した。まもなく鴻門県を廃止し、渭南県に戻して併合した。大足元年(七〇一)に鴻州を廃止して雍州に併合した。

昭応は隋代の新豊県で、古い新豊城の北に治所を置いた。垂拱二年(六八六)に慶山県と改称した。神龍元年(七〇五)に再び新豊県となった。天宝二年(七四三)に新豊県と万年県を分割して会昌県を置いた。七載(七四八)に新豊県を廃止し、会昌県を昭応と改称し、温泉宮の西北に治所を置いた。

三原は隋代の県である。武徳四年(六二一)に清谷の南の旧任城に治所を移し、池陽県と改称した。六年(六二三)にまた旧治所に移し、華池県と改称し、あわせて三原県を分置し、北泉州に属させた。貞観元年(六二七)に三原県を廃止し、華池県を三原県と改称して雍州に属させた。九年(六三五)に高祖の献陵を県の東南に置いた。天授元年(六九〇)に鼎州に改属させた。大足元年(七〇一)に京兆府に隷属した。

富平は隋代の県である。天授二年(六九一)に宜州に隷属した。大足元年(七〇一)に州が廃止され、再び雍州に隷属した。景雲二年(七一一)に中宗の定陵を県内に置いた。

櫟陽は陳の万年県である。武徳元年(六一八)に櫟陽と改称した。二年(六一九)に粟邑県を分置した。貞観八年(六三四)に粟邑県を廃止して櫟陽県に併合した。天授三年(六九二)に鴻州に隷属した。大足元年(七〇一)に再び雍州に隷属した。

咸陽は隋代に廃止された県である。武徳二年(六一九)に再び涇陽県を分割して設置した。初めは鮑橋に治所を置き、その年に杜郵に移した。天授二年(六九一)に則天武后がその母の順陵がその界内にあることにより、赤県に昇格させたが、神龍初年(七〇五)に元に戻した。

高陵は隋代の県である。天授二年(六九一)に鴻州に隷属した。大足元年(七〇一)に雍州に戻した。

涇陽は隋代の県である。天授二年(六九一)に鼎州に隷属した。大足元年(七〇一)に雍州に戻した。

醴泉は隋代の寧夷県で、後に廃止された。貞観十年(六三六)に九嵕山に昭陵を置き、これにより雲陽・咸陽の二県を分割して醴泉県を設置した。天授元年(六九〇)に鼎州に改属させた。大足元年(七〇一)に雍州に戻した。宝応二年(七六三)にまた粛宗の建陵を置き、県北の憑山にある。

雲陽は隋代の県である。武徳元年(六一八)に石門県を分置した。三年(六二〇)に石門県に泉州を置き、石門・温秀の二県を管轄した。貞観元年(六二七)に泉州を廃止し、石門県を雲陽県と改称し、雲陽県を池陽県と改称し、ともに雍州に属させた。八年(六三四)に雲陽県を廃止し、池陽県を改めて再び雲陽と名付けた。

興平は隋代の始平県である。天授二年(六九一)に稷州に隷属した。大足元年(七〇一)に雍州に戻した。景龍四年(七一〇)に中宗が金城公主を吐蕃に送る際、ここで別れを告げたため、金城県と改称した。至徳二年(七五七)十月に興平県と改称した。

鄠は隋代の県である。

武功は隋代の県である。武徳三年(六二〇)に雍州の武功・好畤・盩厔・扶風の四県を分割して稷州を置き、後稷が邰に封ぜられた故事に因んで名付けた。その年に郇州の郿・鳳泉の二県を割いて属させた。四年(六二一)にまた岐州の囲川・鳳泉を岐州に属させ、盩厔・好畤・武功の三県を雍州に属させた。天授二年(六九一)に稷州を置き、武功・始平・奉天・盩厔・好畤の五県を管轄した。大足元年(七〇一)に再び雍州に属させた。

好畤は武徳二年(六一九)に醴泉県を分割して設置し、漢代の旧名に因み、雍州に属させた。三年(六二〇)に稷州に改属させた。貞観元年(六二七)に再び雍州に属させた。天授二年(六九一)に再び稷州に隷属させた。大足元年(七〇一)に再び雍州に属させた。

盩厔は隋代の県である。武徳三年(六二〇)に稷州に属した。貞観三年(六二九)に雍州に戻した。天授二年(六九一)に稷州に属した。大足元年(七〇一)に雍州に戻した。天宝元年(七四二)に宜寿県と改称した。至徳二年(七五七)三月十八日に再び盩厔となった。

奉先県は、旧蒲城県であり、同州に属していた。開元四年、橋陵を管轄することにより、京兆府に改められ、さらに奉先県と改称された。十七年、制により官員の待遇は赤県と同様とされた。宝応二年、また玄宗の泰陵を県の東北に設置した。

奉天県は、文明元年、乾陵を管轄するため、醴泉県を分割して設置された。天授二年、稷州に属した。大足元年、雍州に戻された。

華原県は、旧宜州であり、華原、宜君、同官、土門の四県を領していた。貞観十七年、宜州及び土門県を廃止し、華原、同官を雍州に属させた。宜君は坊州に属した。垂拱二年、華原を永安県と改称した。天授二年、また宜州を設置し、永安、同官、富平、美原の四県を領した。大足元年、宜州を廃止し、県は雍州に戻された。神龍元年、再び華原県となった。

美原県は、旧宜州土門県であり、貞観十七年に廃止された。咸亨二年、また富平、華原及び同州の蒲城県を割いて設置し、美原県と改称した。天授二年、また宜州に属した。大足元年、雍州に戻された。

同官県は、宜州に属していたが、貞観十七年、雍州に改属した。天授二年、宜州に改属した。大足元年、再び雍州に属した。

華州

華州は、上輔であり、隋の京兆郡の鄭県であった。義寧元年、京兆の鄭県、華陰の二県を割いて華山郡を設置し、後魏の郡名によった。武徳元年、華州と改め、雍州の渭南県を割いて属させた。五年、渭南県を改めて雍州に戻した。垂拱元年、同州の下邽県を割いて属させた。二年、太州と改称した。神龍元年、旧名に復した。天宝元年、華陰郡と改称した。乾元元年、再び華州となった。上元元年十二月、太州と改め、華山を太山とした。宝応元年、再び華州となった。旧領は二県、戸一万八千八百二十三、口八万八千八百三十。天宝領は三県、戸三万三千百八十七、口二十一万三千六百十三。京師の東百八十里にあり、東都まで六百七十里。

鄭県は、隋の県。華陰県は隋の県。垂拱二年、仙掌県と改称した。天授二年、関口に同津県を分置したが、長安年中に廃止された。神龍元年、再び華陰県となった。上元元年、太陰県と改称した。宝応元年、旧名に復した。

下邽県は隋の県。旧来は同州に属していたが、垂拱元年に華州に属した。

同州

同州は、上輔であり、隋の馮翊郡であった。武徳元年、同州と改め、馮翊、下邽、蒲城、朝邑、澄城、白水、郃陽、韓城の八県を領した。三年、朝邑を分割して河濱県を設置し、郃陽を分割して河西県を設置し、澄城を分割して長寧県を設置した。また河西、韓城、郃陽の三県を割き、河西に西韓州を設置した。九年、馮翊を分割して臨沮県を設置した。貞観元年、河濱、臨沮の二県を廃止した。八年、長寧県を廃止し、西韓州を廃して、郃陽、河西の二県を同州に属させた。垂拱元年、下邽県を割いて華州に属させた。開元四年、蒲城県を割いて京兆府に属させた。天宝元年、同州を馮翊郡と改称した。乾元元年、再び同州となった。乾元三年、蒲州を河中府とし、朝邑県を割いて河中府に入れ、河西県を夏陽県と改称し、また河中府に属させた。旧領は九県、戸五万三千三百十五、口二十三万二千十六。天宝領は六県、戸六万九百二十八、口四十万八千七百五。京師の東北二百五十五里にあり、東都まで六百二里。

馮翊県は、隋の県。

郃陽県は、隋の県。武徳三年、西韓州に割属された。貞観八年、再び同州に属した。

白水県は、隋の県。

澄城県は、隋の県。

韓城は隋代の県である。武徳七年、西韓州に割属させた。八年、河西県より西韓州の治所をここに移し、韓城・郃陽・河西の三県を管轄した。貞観八年、西韓州を廃し、韓城等三県を再び同州に属させた。

夏陽は、武徳三年、郃陽を分けてここに河西県を置いた。乾元三年、夏陽となった。

坊州

坊州は上州、隋代の上郡の内部県である。周の天和七年、元皇帝が鄜州の牧となり、ここに馬坊を置いた。武徳二年、鄜州を分けて坊州を置き、馬坊に因んで名付けた。天宝元年、中部と改称した。乾元元年、再び坊州となった。旧領県二、戸七千五百七、口一万一千六百七十一。天宝領県四、戸二万二千四百五十八、口十二万二百八。京師の東北三百四十七里、東都より九百四十八里に在る。

鄜城は隋代の県である。武徳元年、鄜州に属した。二年、坊州に改属した。

中部は、隋代は内部と称した。武徳元年、鄜州に属した。二年、中部と改め、坊州に属した。

宜君は旧来宜州に属した。貞観十七年に廃止され、二十年に再び設置され、雍州に属し、玉華宮を管轄した。永徽二年、再び廃止された。龍朔三年、また中部・同官両県の地を割いて宜君県を再設置し、古い祋祤城の北に治所を置き、坊州に属した。

昇平は、天宝十二年、宜君県を分けて設置した。

丹州

丹州は下州、隋代の延安郡の義川県である。義寧元年、義川に丹陽郡を置いた。武徳元年、丹州と改め、五県を管轄した。二年、州に総管府を置き、北連・北広の二州を管轄した。貞観元年、都督府を廃止した。天宝元年、咸寧郡と改称した。乾元元年、再び丹州となった。旧領県五、戸三千百九十四、口一万七千二十。天宝の戸は一万五千百五、口八万七千六百二十五。京師の東北六百十一里、東都より九百二十里に在る。

義川は隋代の県である。

汾川は隋代の県で、土壁堡に治所を置いた。開元二十二年、現在の場所に移した。

咸寧は隋代の県で、白水川に治所を置いた。景龍二年、長松川に治所を移した。

雲岩は隋代に廃止された県で、武徳元年、再び義川県を分けて設置し、回城堡に治所を置いた。咸亨四年、現在の場所に治所を移した。

門山は隋代に廃止された県で、武徳三年、汾川県を分けて設置し、宋斯堡に治所を置いた。総章二年、庫利川に治所を移した。

鳳翔府

鳳翔府は、隋の扶風郡である。武徳元年、岐州と改め、雍・陳倉・郿・虢・岐山・鳳泉の六県を管轄した。また雍などの三県を割き、圍川県を置いた。その年、圍川を割いて稷州に属させた。貞観元年、稷州を廃し、圍川及び鄜州の麟遊・普潤などの三県を岐州に属させた。七年、また岐陽県を置いた。八年、圍川を扶風県と改め、虢県及び鳳泉を廃した。天授二年、再び虢県を置いた。天宝元年、扶風郡と改めた。至徳二年、粛宗が順化郡より扶風郡に行幸し、天興県を置き、雍県を鳳翔県と改め、ともに城下に治所を置いた。初め陳倉を鳳翔県としたが、後に宝鶏県と改めた。その年十月、両京を回復した。十二月、鳳翔府を置き、西京と号し、成都・京兆・河南・太原と合わせて五京とした。宝応元年、鳳翔県を天興県に併合し、後に京の名を廃した。旧管轄県八、戸二万七千二百八十二、口十万八千三百二十四。天宝管轄県九、戸五万八千四百八十六、口三十八万四百六十三。京師より西三百十五里、東都より一千百七十里。

天興は、隋の雍県である。至徳二年、雍県を分割して天興県を置いた。宝応元年、雍県を廃し、天興県に併合した。

扶風は、武徳三年、岐山県を分割して圍川県を置き、湋川に因んで名とし、俗に訛って「圍」と改めた。四年、圍川を稷州に属させた。貞観元年、扶風県とし、再び岐州に属させた。

宝鶏は、隋の陳倉県である。至徳二年二月十五日、鳳翔県と改め、その月十八日、宝鶏と改めた。

岐陽は、貞観七年、扶風・岐山の二県を割いて置き、二十一年に廃し、永徽五年に再び置いた。

岐山は、隋の県である。武徳元年、治所を張堡に移した。七年、治所を龍尾城に移した。貞観八年、治所を豬驛の南に移し、即ち今の治所である。また虢県を廃して併合した。

郿は隋の県である。義寧二年、県界に郿城郡を置き、郿・鳳泉の二県を管轄した。武徳元年、郡を廃し、郇州を置き、郿県を管轄した。三年、郇州を廃し、稷州に改属させた。七年、岐州に改属させた。

麟遊は、義寧元年、仁寿宮に鳳棲郡及び麟遊県を置いた。その郡は麟遊・上宜・普潤の三県を管轄した。二年、麟遊郡及び霊台県と改め、なお安定郡の鶉觚を割いて属させた。武徳元年、麟遊郡を麟州と改めた。貞観元年、霊台県を廃して麟遊に併合し、また麟州を廃し、普潤・麟遊の二県を岐州に属させ、上宜を雍州に属させ、鶉觚を涇州に属させた。太宗は仁寿宮を九成宮と改めた。普潤は隋の県である。もと麟州に属し、貞観元年に岐州に属した。

虢は隋の県である。貞観八年、廃して岐山県に併合した。天授二年、再び岐山県を分割して虢県を置いた。

邠州

邠州は、上州、隋の北地郡の新平県である。義寧二年、北地郡の新平・三水の二県を割いて新平郡を置いた。武徳元年、豳州と改めた。二年、新平を分割して永寿県を置いた。貞観二年、また新平を分割して宜禄県を置いた。開元十三年、豳を邠と改めた。天宝元年、新平郡と改めた。乾元元年、再び邠州とした。旧管轄県四、戸一万五千五百三十四、口六万四千八百十九。天宝、戸二万二千九百七十七、口十三万五千二百五十。京師より西北四百九十三里、東都より一千百三十二里。

新平は、隋の県である。

三水は、隋の県である。

永寿は、武徳二年、新平を分割して置いた。神龍三年、雍州に改属させた。景龍元年、再び邠州に属した。宜禄は、貞観二年、新平を分割して宜禄県を置いた。後魏の廃県名である。

涇州

涇州は上州、隋の安定郡である。武徳元年、薛仁杲を討ち平らげ、名を改めて涇州とした。天宝元年、再び安定郡となった。乾元元年、再び涇州となった。旧領は五県、戸八千七百七十三、口三万五千九百二十一。天宝の戸は三万一千三百六十五、口十八万六千八百四十九。京師より西北四百九十三里、東都まで一千三百八十七里。

安定は隋の県。

霊台は隋の鶉觚県。天宝元年、霊台と改めた。

良原。

潘原は隋の陰盤県。天宝元年、潘原と改め、県界に潘原の廃県がある。

臨涇は隋の県。

隴州

隴州は上州、隋の扶風郡の汧源県である。義寧二年、隴東郡を置き、五県を領した。武徳元年、隴州と改め、南由県を以て含州に属させた。四年、含州を廃し、再び南由を以て隴州に属させた。天宝元年、汧陽郡と改めた。乾元元年、再び隴州となった。旧領は五県、戸四千五百七十一、口一万八千六百三。天宝の戸は二万四千六百五十二、口十万百四十八。京師より西四百九十六里、東都まで一千三百二十五里。

汧源は隋の県。

汧陽は隋の県。

南由は隋の県。武徳元年、ここに含州を置き、南由一県を領した。四年、含州を廃し、県を隴州に属させた。

呉山は隋の長蛇県。貞観元年、呉山県と改め、槐衙堡に治した。上元元年、治を龍盤城に移した。

華亭は隋の県。垂拱二年、亭州と改めた。神龍元年、旧に復した。

甯州

甯州は上州、隋の北地郡である。義甯元年、安定・羅川・襄楽・彭原・新平・三水の六県を管轄した。二年、安定を分割して帰義県を置き、新平・三水を新平郡に属させた。武徳元年、北地郡を改めて寧州とした。その年、彭原県を彭州に属させた。三年、彭原を分割して豊義県を置き、彭州に属させた。また安定を分割して定平県を置いた。貞観元年、彭州を廃し、彭原・豊義の二県を当州に属させた。なお寧州に都督府を置いた。四年、都督府を廃した。十七年、帰義県を廃した。天宝元年、彭原郡と改称した。乾元元年、再び寧州とした。旧来の管轄県は七、戸数一万五千四百九十一、人口六万六千百三十五。天宝年間の管轄県は六、戸数三万七千百二十一、人口二十二万四千八百三十七。京師より西北四百四十六里、東都まで千三百二十四里。

定安は隋代の県。

彭原は隋代の県。武徳元年、彭州を置き、彭原一県を管轄した。二年、分割して豊義県を置いた。貞観元年、彭州を廃し、県を寧州に属させた。

真寧は隋の羅川県。天宝元年、真寧と改称した。

定平は武徳二年、定安県を分割して置いた。貞観十七年、帰義県を廃し、定平に併合した。

襄楽は隋代の県。

豊義は武徳二年、彭原県を分割して置き、彭州に属した。貞観元年、彭州を廃し、当州に属した。

原州

原州は中州、都督府、隋の平涼郡である。武徳元年、薛仁杲を平定し、原州を置いた。貞観五年、都督府を置き、原・慶・会・銀・亭・達・要の七州を管轄した。十年、亭・達・要の三州を廃し、四州のみを管轄した。天宝元年、平涼郡と改称した。乾元元年、再び原州とした。旧来の管轄県は三、戸数二千四百四十三、人口一万五百十二。天宝年間の管轄県は四、戸数七千三百四十九、人口三万三千百四十六。京師より西北八百里、東都まで千六百四十五里。

平高は隋代の県。

平涼は隋代の県、治所は陽晋川にあった。開元五年、治所を古塞城に移した。

百泉は隋代の県。

蕭関は貞観六年、縁州を置き、突厥の降戸を管轄し、平高県界の他楼城に仮治所を置いた。高宗の時、蕭関に他楼県を置いた。神龍元年、他楼県を廃し、蕭関県を置いた。大中五年、武州を置いた。

慶州

慶州は中州、都督府、隋の弘化郡である。武徳元年、慶州と改称し、合水・楽蟠・三泉・馬嶺・弘化の五県を管轄した。三年、三泉を同川県と改称した。六年、総管府を置き、合水を合川県と改称し、また白馬・蟠交の二県を置いた。七年、総管を都督府と改めた。貞観元年、都督府及び合川県を廃し、なお林州の華池県を割いて当州に属させた。二年、洛源県を置いた。四年、再び都督府及び北永州を置き、洛源を北永州に属させた。五年、また都督府を廃し、慶州を原州都督府に属させた。八年、また廃止された北永州の洛源県を当州に属させた。開元四年、再び都督府を置いた。二十六年、中都督府に昇格した。天宝元年、安化郡と改称した。至徳元年、順化郡と改称した。乾元元年、慶州と改称した。旧来の管轄県は八、戸数七千九百十七、人口三万五千十九。天宝年間の管轄県は十、戸数二万三千九百四十九、人口十二万四千三百三十六。京師より西北五百七十二里、東都まで千四百十里。

安化は、隋の弘化県であり、弘州の故城を治所とした。武徳六年、治所を現在の地に移し、合水県とともに州治にあった。その年、合水を合川県と改称した。貞観元年、合川県を廃して併合した。神龍元年、安化県と改称した。

楽蟠は、義寧元年、合水県を分割して設置した。

合水は、武徳六年、合水を分割して蟠交県を設置した。天宝元年に廃止し、合水に併合した。馬嶺は隋の県であり、天家堡を治所とした。貞観八年、治所を新城に移した。県の西に馬嶺阪があるためである。方渠は景龍元年、馬嶺を分割して設置した。同川は義寧二年、北永州を廃し、寧州彭原を分割して三泉県の故城に設置した。武徳三年、再び同川城を治所とし、同川県と改称した。

洛源は、隋の県である。大業十三年、胡賊に攻め破られ、それにより廃止された。貞観二年、再び設置した。また、延州金城県から北永州の治所をここに移した。八年、北永州が廃止され、再び洛源県を慶州に属させた。

延慶は、武徳六年、合水県を分割して白馬県を設置した。天宝元年、延慶県と改称した。

華池は、隋の旧県である。大業十三年、胡賊に攻め破られ、県は廃止された。武徳四年に再設置し、またここに林州総管府を設置し、永州を管轄した。その林州は華池一県を領した。五年、永州を北永州と改称した。七年、林州総管府を廃止した。貞観元年、林州を廃止し、華池は慶州に属した。

懐安は、開元十年、逃亡戸を検括して設置し、それにより懐安と名付けた。

芳池州都督府は、慶州懐安県界に寄寓し、小州十を管轄する:静、獯、王、濮、林、尹、位、長、宝、寧、いずれも党項野利氏の種落である。

安定州都督府は慶州界に寄寓し、小州七を管轄する:党、橋、烏、西戎州、野利州、米州、還州。

安化州都督府は慶州界に寄寓し、小州七を管轄する:永利州、威州、旭州、莫州、西滄州、儒州、琮州。

鄜州

鄜州は、上州、隋の上郡である。武徳元年、鄜州と改称し、洛交・洛川・三川・伏陸・内部・鄜城の六県を領した。二年、内部・鄜城を坊州に属させた。三年、直羅県を設置した。貞観二年、都督府を設置した。六年、また大都督府と改称した。九年、再び都督府に戻した。天宝元年、洛交郡と改称した。乾元元年、再び鄜州に戻した。旧領県五、戸一千七百三、口五万一千二百一十六。天宝時、戸二万三千四百八十三、口十五万三千七百十四。京師の東北五百里にあり、東都まで九百二十五里。

洛交は、隋の県である。

洛川は、隋の県である。

三川は、隋の県である。華池水・黒水・洛水の三水が会同するため、この名がある。

直羅県は、武徳三年に三川県・洛交県を分割し直羅城に設置した。城が羅水に臨み、その川が平直であることによる。

甘泉県は、武徳元年に洛交県を分割して伏陸県を設置した。天宝元年に甘泉県と改称した。

延州

延州は、中州、都督府。隋の延安郡である。武徳元年に延州総管府と改め、膚施・豊林・延川の三県を領し、南平・北武・東夏の三州を管轄した。四年にさらに丹・広・達の三州を管轄した。貞観元年に都督府を廃止した。開元二年に都督府を再設置し、丹・綏・渾等の州を領した。天宝元年に延安郡と改称した。乾元元年に再び延州となった。旧領県九、戸九千三百四、口一万四千百七十六。天宝時、戸一万八千九百五十四、口十万四十。京師の東北六百三十一里にあり、東都まで一千百五十一里。

膚施県は、隋の県。豊林・金明の二県を分割して設置した。延長県は隋で廃止された県。武徳二年にここに北連州を再設置し、義郷・斉明の二県を領した。貞観二年に北連州及び義郷・斉明の二県を廃止し、延安県に併合した。広徳二年に延長県と改称した。

臨真県は、隋の県。武徳初年に東夏州に属した。貞観二年に州が廃止され当州に属した。

敷政県は、隋の因城県。武徳二年に治所を金城鎮に移し、金城県と改称した。また界内に永州を設置し、金城・洛盤・新昌・土塠の四県を領した。貞観四年に永州を洛源県に移した。八年に洛盤等の三県を廃止し、金城県に併合し、延州に属した。天宝元年に金城県を敷政県と改称した。

金明県は、隋で廃止された県。武徳二年に北武州を設置し、開遠・金義・崇徳・永定・安義の五県を領した。また膚施県を分割して金明県を設置した。貞観二年に北武州を廃止し、開遠等の五県を金明県に併合した。

豊林県は、隋の旧県。武徳四年にここに僑置して雲州及び雲中・楡林・竜泉の三県を置いた。八年に雲州及び三県を廃止し、竜泉県を臨真県に併合し、雲中・楡林の二県を豊林県に併合した。

延水県は、武徳二年に延川県を分割して西和州を設置し、安人・修文・桑原の三県を領した。貞観二年に西和州を廃止し、修文・桑原の二県を安人県に併合し、北基州に属させた。八年に北基州を廃止して延川県に併合した。二十三年に弘風県と改称した。神龍元年に延水県と改称した。

延川県は、隋の旧県。武徳二年に南平州を設置し、義門県を領した。四年に南平州及び県を廃止し、延川県に併合した。

延昌県は、武徳二年に北平州を設置した。貞観三年に廃止し、十年に廃州の地に罷交県を設置した。天宝元年に延昌県と改名した。

渾州は延安郡界に寄治し、延州節度使に隷属する。

綏州

綏州は、下州。隋の雕陰郡である。武徳三年に延州豊林県に綏州総管府を設置し、西和・南平・北基・銀・雲・貞・上・殄・北吉・匡・竜等の十一州を領した。その綏州は上・大斌・城平・綏徳・延福の五県を領した。六年に治所を延州延川県界に移した。七年にまた治所を城平県界の魏平廃城に移した。貞観二年に梁師都を平定し、都督府を廃止し、州治を上県に移した。天宝元年に上郡と改称した。乾元元年に再び綏州となった。旧領県五、戸三千百六十三、口一万六千百二十九。天宝時、戸一万八百六十七、口八万九千百十一。京師の東北一千里にあり、東都まで一千八百十九里。

龍泉は、隋代には上縣と称した。天寶元年に龍泉と改めた。

延福は、隋代の縣である。武德六年に北吉州を置き、歸義・洛陽の二縣を管轄し、羅州は石羅・開善・萬福の三縣を管轄し、匡州は安定・源泉の二縣を管轄した。貞觀二年に、三州及びその縣は全て廃止され、その地は延福に併合された。

綏德は、隋代に廃止された縣である。武德二年に再び設置した。六年に、また分置して雲州を置き、信義・淳義の二縣を管轄し、龍州は風郷・義良の二縣を管轄した。貞觀二年に、二州及びその縣は共に廃止され、その地は綏德に併合された。

城平は、隋代の舊縣である。武德三年に、また魏平縣を設置し、南平州に属させた。また魏州を置き、安故・安泉の二縣を管轄した。七年に、また魏平城中に綏州総管府及び大斌縣を置いた。貞觀二年に、南平州・魏州及び魏平・安故・安泉の三縣を廃止し、綏州の治所を上縣に移し、大斌縣の治所を現在の場所に移した。

大斌は、武德七年に設置し、魏平に治所を置いた。貞觀二年に、治所を現在の場所に移した。

銀州

銀州は、下州。隋代の雕陰郡の儒林縣である。貞觀二年に、梁師都を平定して銀州を設置し、これは隋代の舊名である。天寶元年に、銀川郡と改めた。乾元元年に、再び銀州とした。舊領縣四、戸一千四百九十五、口七千七百二。天寶年間の戸は七千六百二、口は四萬五千五百二十七。京師より東北一千一百三十里、東都より一千五百七十九里。

儒林は、隋代の舊縣である。

撫寧は、隋代の縣である。貞觀二年に、綏州に属した。八年に、銀州に改属し、龍泉川に治所を置いた。開元二年に、現在の場所に移した。

真郷は、隋代の縣である。

開光は、隋代の縣である。貞觀二年に、綏州に属した。八年に、柘州に改属した。十三年に、柘州が廃止され、銀州に来属した。

靜邊州は、都督府。舊治は銀川郡の界内にあり、小州十八を管轄した。

歸徳州は、銀州界内に寄治し、降附した党項羌を処置した。

夏州

夏州は、都督府。隋代の朔方郡である。貞觀二年に、梁師都を討伐平定し、夏州都督府と改め、夏・綏・銀の三州を管轄した。その夏州は、徳靜・巌緑・寧朔・長澤の四縣を管轄した。その年に、巌緑を朔方縣と改めた。七年に、徳靜縣に長州都督府を置いた。八年に、北開州を化州と改めた。十三年に、化州及び長州を廃止し、徳靜・長澤の二縣を夏州に来属させた。天寶元年に、朔方郡と改めた。乾元元年に、再び夏州とした。舊領縣四、戸二千三百二十三、口一萬二百八十六。天寶年間の戸は九千二百一十三、口は五萬三千一百四。京師より東北一千一百一十里、東都より一千六百八十里。

朔方は、隋の岩緑県である。貞観二年に朔方県と改めた。永徽五年に分置して寧朔県を置き、長安二年に廃した。開元四年にまた置き、九年にまた廃し、還って朔方に併入した。

徳静は、隋の県である。貞観七年に北開州に属した。八年に北開州を化州と改めた。十三年に化州を廃し、県を夏州に属させた。

寧朔は、隋の県である。武徳六年にここに南夏州を置いた。貞観二年に廃した。

長沢は、隋の県である。貞観七年に長州都督府を置いた。十三年に長州を廃し、県は夏州に還属した。

雲中都督府は、党項の部落であり、朔方県界に寄寓し、小州五つを管轄する:舍利州、思璧州、阿史那州、綽部州、白登州。戸一千四百三十、口五千六百八十一。

呼延州都督府は、党項の部落であり、朔方県界に寄寓し、小州三つを管轄する:賀魯州、那吉州、𨁂跌州。戸一百五十五、口六百五。

桑乾都督府は、朔方県界に寄寓し、小州四つを管轄する:鬱射州、藝失州、畢失州、叱略州。戸二百七十四、口一千三百二十三。

定襄都督府は、寧朔県界に寄治し、小州四つを管轄する:阿德州、執失州、蘇農州、拔延州。戸四百六十、口一千四百六十三。

達渾都督府は、延陀の部落であり、寧朔県界に寄寓し、小州五つを管轄する:姑衍州、歩訖若州、奚彈州、鶻州、低粟州。戸一百二十四、口四百九十五。

安化州都督府は、朔方県界に寄寓する。戸四百八十三、口二千五十三。

寧朔州都督府は、朔方県界に寄寓する。戸三百七十四、口二千二十七。

僕固州都督府は、朔方県界に寄寓する。戸一百二十二、口六百七十三。

霊州

霊州は、大都督府であり、隋の霊武郡である。武徳元年に霊州総管府と改め、回楽・弘静・懐遠・霊武・鳴沙の五県を領した。二年に鳴沙県を西会州に属させた。貞観四年に回楽県に回州・環州の二州を置き、ともに霊武都督府に属した。十三年に回・環の二州を廃し、霊州都督は霊・填の二州に入った。二十年に鉄勒が帰附し、州界に皋蘭・高麗・祁連の三州を置き、ともに霊州都督府に属した。永徽元年に皋蘭等の三州を廃した。調露元年にまた魯・麗・塞・含・依・契等の六州を置き、総べて六胡州とした。開元初年に廃し、また東皋蘭・燕然・燕山・鶏田・鶏鹿・燭龍等の六州を置き、ともに霊州界に寄寓し、霊州都督府に属した。天宝元年に霊州を霊武郡と改めた。至徳元年七月に粛宗が霊武に即位し、大都督府に昇格した。乾元元年にまた霊州となった。旧領県五、戸四千六百四十、口二万一千四百六十二。天宝領県六、戸一万一千四百五十六、口五万三千一百六十三。京師西北一千二百五十里に在り、東都まで二千里。

回楽は、隋の県であり、郭下にある。武徳四年に分置して豊安県を置き、回州に属した。十三年に州が廃され、回東に併入した。

鳴沙は、隋代の県である。武徳二年、西会州を設置し、この県をその管轄に属させた。貞観六年、西会州を廃止し、環州を設置した。九年、環州を廃止し、県は霊州に属した。神龍二年、廃止された豊安城に治所を移した。

霊武は、隋代の県である。

懐遠は、隋代の県である。境界内に隋代の五原郡があった。武徳元年、豊州と改め、九原県を管轄した。六年、州と県はともに廃止されて懐遠県に編入された。儀鳳年間中、再び新城を築いた。県内には塩池が三か所ある。

保静は、隋代の弘静県である。神龍元年、安静と改称した。至徳元年、保静と改称した。

温池は、神龍元年に設置された。

燕然州は、回楽県の境界内に仮の治所を置き、突厥の九姓部落が居住する所である。戸数は百九十、人口は九百七十八。

鶏鹿州は、回楽県の境界内に仮の治所を置き、突厥の九姓部落が居住する所である。戸数は百三十二、人口は五百五十六。

鶏田州は、回楽県の境界内に仮の治所を置き、突厥の九姓部落が居住する所である。戸数は百四、人口は四百六十九。

東皋蘭州は、鳴沙の境界内に仮の治所を置き、九姓が居住する所である。戸数は千三百四十二、人口は五千百八十二。

燕山州は、温池県の境界内にあり、これも九姓が居住する所である。戸数は四百三十、人口は二千百七十六。

燭龍州は、温池の境界内にあり、これも九姓が居住する所である。戸数は百十七、人口は三百五十三。

塩州

塩州は、下州。隋代の塩川郡である。武徳元年、塩州と改め、五原・興寧の二県を管轄した。その年、州および県の治所を霊州に仮置きした。四年、興寧を廃止して五原県に編入した。貞観元年、塩州の五原県を廃止して霊州に編入した。二年、梁師都を平定し、再び旧城に塩州および五原・興寧の二県を設置し、夏州都督府に隷属させた。その年、霊州都督府と改称した。天宝元年、五原郡と改称した。乾元元年、塩州と改称した。永泰元年十一月、都督府に昇格した。元和八年、夏州に隷属した。旧来の管轄県は二、戸数は九百三十二、人口は三千九百六十九。天宝年間の戸数は二千九百二十九、人口は一万六千六百六十五。京師の西北一千一百里にあり、東都まで二千十里である。

五原は、隋代の県である。武徳元年、治所を霊州に仮置きした。貞観元年に廃止され、二年に再設置された。

興寧は、龍朔三年に設置された。

豊州

豊州は下州、隋の文帝が設置し、後に廃止された。貞観四年、突厥が降伏・帰附したため、豊州都督府を設置し、県を管轄せず、蕃戸のみを管轄した。十一年に廃止し、その地は霊州に編入された。二十三年、再び豊州と改めた。天宝元年、九原郡と改称した。乾元元年、再び豊州となった。管轄する県は二、戸数二千八百十三、人口九千六百四十一。京師から北へ二千二百六里、東都から三千四十四里の地にある。

九原県は、永徽四年に設置された。

永豊県は、隋代の県である。武徳六年に廃止され、永徽元年に再設置された。

会州

会州は上州、隋代の会寧鎮である。武徳二年、李軌を討伐平定し、西会州を設置した。天宝元年、会寧郡と改称した。乾元元年、再び会州となった。永泰元年、上州に昇格し、管轄する県は二、戸数四千五百九十四、人口二万六千六百六十二。京師から一千一百里、東都から二千一百里の地にある。

会寧県は、隋代の涼川県である。武徳二年、会寧と改称した。

烏蘭県は、後周の県で、会寧関の東南四里の地に設置されていた。天授二年、関の東北七里の地に移転した。

宥州

宥州は、調露初年に六胡州であった。長安四年、匡州と長州の二州に統合された。神龍三年、蘭池都督府を設置し、引き続き六県を設置してこれに隷属させた。開元十年、再び魯州・麗州・契州・塞州の四州に分割された。十一年、康待賓を平定した後、その民を河南・江淮の地に移した。十八年、再び匡州・長州の二州となった。二十六年、江淮から胡戸を帰還させ、ここに宥州及び延恩・懐徳・帰仁の三県を設置した。天宝元年、寧朔郡と改称した。至徳二年、再び懐徳郡都督府と改めた。乾元元年、再び宥州となった。宝応年間以後に廃止された。元和九年、再び経略軍の地に宥州を設置し、郭下に延恩県を置いた。十五年、治所を長沢県に移したが、吐蕃に破壊された。長慶四年、夏州節度使李祐が再設置した。管轄する県は三、戸数七千八十三、人口三万二千六百五十二。京師から二千一百里、東都から三千一百九十里の地にある。

延恩県は、開元二十六年、廃止された匡州を以て設置され、後に州に随って移転した。

帰仁県は、旧蘭池州の長泉県である。開元二十六年、帰仁県を設置した。

懐徳県は、開元二十六年、廃止された塞門県を以て設置された。

勝州

勝州は下州、都督府。隋が勝州を設置し、大業年間に榆林郡となった。武徳年間、梁師都を平定し、再び勝州を設置した。天宝元年、再び榆林郡となった。乾元元年、再び勝州となった。管轄する県は二、戸数四千百八十七、人口二万九百五十二。京師から一千八百三十里、東都から一千九百五里の地にある。

榆林は、隋の旧地である。

河濱は、隋の榆林郡の地である。貞観三年、雲州を河濱に置き、これにより河濱県を置いた。四年、威州と改めた。八年に廃止し、河濱は勝州に属した。

麟州

麟州は、下州である。天宝元年、王忠嗣が勝州の連穀・銀城の両県を割いて麟州を置くことを奏請し、その年に新秦郡と改めた。乾元元年、再び麟州となり、三県を領し、戸二千四百二十八、口一万九百三。京師から一千四百四十里、東都から一千九百五里。

新秦は、天宝元年に連穀・銀城の二県の地を分けて置いた。

連穀は、旧来は勝州に属し、天宝元年に麟州に属した。

銀城は、旧来は勝州に属し、天宝元年に麟州に属した。

安北大都護府

安北大都護府は、開元十年に豊・勝の二州の境界を分けて瀚海都護府を置いた。総章年中に安北大都護府と改めた。北は陰山まで七十里、回紇の境界まで七百里。旧来は一県を領し、戸二千六、口七千四百九十八。京師から二千七百里、東都から二千九百里。黄河の北にある。

陰山は、天宝元年に置かれた。

河南道

東都

東都は、周の王城であり、平王が東遷して都とした所である。故城は今の苑内の東北隅にあり、赧王以後および東漢・魏文・晉武は、皆今の故洛城に都した。隋の大業元年、故洛城の西十八里に移して新都を置き、これが今の都城である。北は邙山に拠り、南は伊闕に対し、洛水が都を貫き、河漢の象がある。都城は南北十五里二百八十歩、東西十五里七十歩、周囲六十九里三百二十歩。都内は縦横各十街あり、街は一百三坊・二市に分かれる。各坊は縦横三百歩、東西二門を開く。

宮城は、都城の西北隅にある。城の東西四里一百八十歩、南北二里一十五歩。宮城には隔城が四重ある。正門を応天といい、正殿を明堂という。明堂の西に武成殿があり、すなわち正衙で政務を聴く所である。宮内には別殿・台・館三十五所がある。上陽宮は、宮城の西南隅にある。南は洛水に臨み、西は谷水に拒み、東は宮城に即き、北は禁苑に連なる。宮内の正門・正殿は皆東に向かい、正門を提象といい、正殿を観風という。その内には別殿・亭・観九所がある。上陽宮の西、谷水を隔てて西上陽宮があり、虹梁が谷に跨ぎ、行幸往来する。皆、高宗の龍朔以後に置かれた。禁苑は、都城の西にある。東は宮城に抵り、西は九曲に臨み、北は邙阜を背にし、南は飛仙に距る。苑城の東面十七里、南面三十九里、西面五十里、北面二十里。苑内には離宮・亭・観一十四所がある。

河南府

河南府は、隋の河南郡である。武徳四年、王世充を討ち平らげ、洛州総管府を置き、洛・鄭・熊・穀・すう・管・伊・汝・魯の九州を領した。洛州は河南・洛陽・偃師・鞏・陽城・緱氏・嵩陽・陸渾・伊闕などの九県を領した。その年の十一月、総管府を廃し、陝東道大行台を置いた。九年、行台を廃し、洛州都督府を置き、洛・懷・鄭・汝の四州を領し、暫く府に尚書省を置いた。貞観元年、穀州の新安を割いて来属させた。七年、また穀州の寿安を割いて来属させた。八年、治所を河南県の宣範坊に移した。十八年、都督府を廃し、緱氏・嵩陽の二県を省いた。顕慶二年、東都を置き、官員は雍州に準じた。この年、穀州を廃し、福昌・長水・永寧・澠池の四県、及び懐州の河陽・済源・温・王屋、鄭州の汜水を来属させた。龍朔二年、また許州の陽翟、鄭州の密県、絳州の垣県を来属させた。乾封元年、垣県を絳州に隷属させた。咸亨四年、また柏崖・大基の二県を置いた。その年、柏崖県を省いた。上元元年、再び緱氏県を置いた。永淳元年、再び嵩陽県を置いた。光宅元年、東都を神都と改めた。垂拱四年、永昌県を置いた。載初元年、武臨県を置いた。天授元年、武泰県を置き、まもなく廃止した。なお鄭州の滎陽けいよう・武泰を改めて来属させた。三年、来廷県を置いた。神龍元年、神都を改めて再び東都とし、永昌・来廷の二県を廃し、武泰・滎陽を改めて鄭州に還した。先天元年、伊闕県を置いた。開元元年、洛州を河南府と改めた。二十二年、河陰県を置いた。天宝元年、東都を東京と改めた。天宝年間、領県二十六、戸十九万四千七百四十六、口百十八万三千九十三。西京の東八百五十里にある。

河南は、隋の旧県である。武徳四年、暫く司隷台に治所を置いた。貞観元年、治所を大理寺に移した。貞観二年、治所を金墉城に移した。六年、治所を都内の毓徳坊に移した。垂拱四年、河南・洛陽を分けて永昌県を置き、都内の道徳坊に治所を置いた。永昌元年、河南を合宮県と改めた。神龍元年、再び河南県とし、永昌県を廃した。三年、再び合宮県とした。景龍元年、再び河南県とした。

洛陽は、隋の旧県である。武徳四年、暫く大理寺に治所を置いた。貞観元年、治所を金墉城に移した。六年、治所を都内の毓徳坊に移した。垂拱四年、分けて永昌県を置いた。天授三年、また分けて来廷県を置き、都内の従善坊に治所を置いた。龍朔元年、来廷県を廃した。神龍二年十一月、洛陽を永昌県と改めた。唐隆元年七月、再び洛陽とした。

偃師は、隋の県である。

鞏は、隋の県である。

緱氏は、隋の県である。貞観十八年に省いた。上元二年七月に再び置き、孝敬陵を管轄し、旧県の治所は西北の澗の南にあった。上元年間中、再び治所を通穀の北に置き、今の治所はこれである。

告成は、隋の陽城県である。武徳四年、陽城・嵩陽・陽翟を割いて康城県を置き、また嵩州を置き、陽城に治所を置いた。貞観元年、陽翟を割いて許州に隷属させた。三年、嵩州及び康城県を省き、陽城・嵩陽を洛州に属させた。登封元年、嵩山に祭祀を行おうとして、告成県と改めた。

登封は、隋の嵩陽県である。貞観十七年に省いた。永淳元年七月、再び置いた。二年、また廃した。光宅元年、また置いた。登封元年十二月、登封県と改めた。神龍元年二月、嵩陽と改めた。二年十一月、再び登封とした。

陸渾は、隋の県である。

伊闕は、隋の県である。

伊陽は、先天元年十二月、陸渾県を割いて置いた。

寿安は、隋の県である。義寧元年、治所を九曲城に移し、熊州に属した。貞観七年、今の治所に移し、洛州に属した。長安四年、興泰宮を立て、分けて興泰県を置いた。神龍元年に廃し、寿安に併合した。

新安は、隋の県である。義寧二年、新安郡を置いた。武徳元年、穀州と改め、新安・澠池・東垣の三県を領した。四年、東垣を省いて新安に併入した。貞観元年、穀州の治所を澠池に移し、新安は廃州の城に移り、洛州に改属した。顕慶二年十二月、穀州を廃し、福昌・新安・澠池・永寧、及び懐州の河陽・済源・温・王屋、鄭州の汜水を併せて洛州に隷属させた。

福昌は、隋の宜陽県である。義寧二年、宜陽郡を置き、宜陽・澠池・永寧の三県を領した。また新安県に新安郡を置き、新安一県を領した。武徳元年、宜陽郡を熊州と改め、新安を穀州と改め、熊州の澠池を割きまた東垣県を置いてこれに属させ、なお熊州の宜陽を福昌県と改めた。三年、熊州の永寧を割いて函州を置いた。四年、東垣県を省いた。八年、函州を廃し、再び永寧を熊州に属させた。貞観元年、熊州を省き、永寧を穀州に属させ、寿安を洛州に属させた。顕慶二年、穀州を廃し、福昌は洛州に隷属した。

澠池は、隋の旧県で、大塢城に治所を置いた。貞観元年、穀州の治所をここに移し、福昌・澠池・永寧の三県を領した。三年、県は南の双橋に移った。その年、穀州はまた治所を双橋に移した。六年、また治所を福昌に移した。顕慶二年十二月、穀州を廃し、澠池は洛州に隷属した。

長水は、隋の長澤縣である。義寧元年に長水と改めた。武德元年、虢州に属した。貞觀元年、穀州に属した。顯慶二年、洛州に隷属した。

永寧は、隋の熊耳縣の治所であった。義寧二年、永寧縣を置き、永固城に治所を置き、宜陽郡に属した。武德元年、熊州に改属した。三年、治所を同軌城に移し、函州に改属した。八年、再び熊州に属した。貞觀元年、穀州に改属した。十四年、現在の地に移った。十七年、治所を鹿橋に移した。顯慶元年、穀州が廃止され、洛州に改めて隷属した。

密は、隋の縣である。武德三年、密州を置いた。四年に廃止し、縣は鄭州に属した。龍朔二年、洛州に割属した。

河清は、咸亨四年に河南・洛陽・新安・王屋・濟源・河陽を分けて大基縣を置いた。先天元年、河清と改めた。

潁陽は、載初元年に河南・伊闕・嵩陽の三縣を分けて武臨縣を置いた。開元十五年、潁陽と改めた。

河陽、氾水、溫、河陰、以上の縣は、會昌三年に孟州に割属し、陽翟は許州に還し、濟源は懷州に還し、王屋は懷州に還した。

孟州

孟州は、上州であり、本来は河南府の河陽縣で、もと懷州に属した。顯慶二年、河南府に割属した。城は大河に臨み、長橋が水に架かり、古くは険要の地と称された。乾元年中、史思明が再び洛陽を陥落させた時、太尉李光弼が重兵をもって河陽を守った。雍王が賊を平定した後、観軍容使魚朝恩を留めて河陽を守らせ、そこで河南府の河陽・河清・濟源・溫の四縣の租税を河陽三城使の収入とした。河南尹はただその縣の名目を総領するのみであった。まもなくまた氾水の軍賦をこれに隷属させた。會昌三年九月、中書門下が上奏した。「河陽五縣は、艱難(安史の乱)以来、河陽三城使に割属している。その租賦・色役はすべて河陽に帰し、河南尹はただ総管の名目だけである。これを一統に帰属させ、定制とすべきである。すでに雄鎮であり、三城を十分に壮健にする。その河陽を孟州に昇格させることを望み、なお望州とし、河陽等五縣を望縣に改める。」まもなく勅があり、河陰を孟州に割属させ、河清は河南府に還した。当時、河陽節度使は懷州を治所としていた。會昌四年、また澤州を割いて河陽節度使に隷属させ、なお治所を孟州に移し、戸口籍帳は河南府に入れた。

河陽は、隋の縣である。武德四年、隋の河陽宮に盟州を置き、河陽・集城・溫の三縣を領した。八年、盟州を廃止し、集城を省いて河陽縣に併合し、河陽・溫を懷州に属させた。顯慶二年、河陽・溫を洛州に属させた。

氾水は、隋の縣である。武德四年、分置して成皋縣を置いた。貞觀元年、省いて氾水に併合し、鄭州に属した。顯慶二年、洛州に割属し、なお治所を武牢城に移した。垂拱四年、廣武と改めた。神龍元年、再び氾水とした。開元二十九年、治所を武牢に移した。成皋府は縣の北にある。

河陰は、開元二十年に氾水・滎澤の二縣を分けて置き、河陰倉を管轄した。

溫は、もと懷州に属した。顯慶二年、洛州に割属した。

濟源は、隋の舊縣である。武德二年、西濟州を置き、また分置して飀陽・蒸川・邵原の三縣を置いた。四年、西濟州及び邵原・蒸川・陽の三縣を廃止して濟源に併合し、懷州に改めて隷属させた。

鄭州

鄭州は、隋の滎陽郡である。武德四年、王世充を平定し、武牢に鄭州を置き、氾水・滎陽・滎澤・成皋・密の五縣を領した。その年、また管城縣に管州を置き、管城・須水・圃田・清池の四縣を領した。貞觀元年、管州及び須水・清池の二縣を廃止し、廃止した管州の陽武・新鄭の四縣を鄭州に属させた。七年、武牢から鄭州の治所を管城に移した。舊領縣八、戸一萬八千七百九十三、口九萬三千九百三十七。天寶領縣七、戸七萬六千六百九十四、口三十六萬七千八百八十一。京師まで一千一百五里、東都まで二百七十里。

管城は、郭下であり、隋代の旧県である。

滎陽は、隋代の県である。天授二年に分置して武泰県とし、洛州に隷属させ、また滎陽を武泰と改めた。萬歳通天元年に、再び滎陽とし、まもなくまた武泰とした。神龍年間に復した。

滎澤は、隋代の旧県である。

新鄭は、隋代の旧県である。

中牟は、隋代の圃田県である。武徳元年に、中牟と改め、汴州に属した。龍朔二年に、鄭州に改属した。

原武は、隋代の旧県である。

陝州

陝州は、大都督府であり、隋代の河南郡の陝県である。義寧元年に、弘農郡を置き、陝・崤・桃林・長水の四県を領した。二年に、崤県を廃した。武徳元年に、陝州総管府と改め、陝・鼎・熊・函・穀の五州を管轄し、また長水県を割いて虢州に属させた。その年、再び崤県を立てた。二年に、再び崤県を割いて函州に属させた。三年に、また南韓州・嵩州を置き、ともに陝府に属させた。四年に、東都が平定されると、熊・穀・嵩の三州を割いて洛州総管府に属させた。その年、洛州総管を廃し、再び熊・穀・嵩の三州を陝府に属させた。また南韓州を廃して洛州に併合した。八年に、函州を廃し、崤県を陝州に属させた。貞観元年に、都督府を廃し、また廃止された芮州の芮城・河北の二県を陝州に属させた。十四年に、崤県を峽石県と改めた。大足元年に、絳州の夏県を割いて陝州に属させたが、まもなくまた絳州に戻した。天宝元年に、陝郡と改め、軍を置いた。至徳二載十月に、両京を回復した。乾元元年に、再び陝州とし、蒲州の解・安邑、絳州の夏県を割いて陝州に属させた。また安邑を虞邑と改めた。広徳元年十月に、吐蕃が京師を侵犯し、車駕が陝州に幸すると、陝を大都督府とした。天祐初め、昭宗が洛陽に遷都し、陝州に駐蹕すると、興徳府と改め、県の等級を畿赤とした。哀帝が即位すると、興徳府を廃し、再び大都督府とした。旧領は五県、戸二万一千百七十一、口八万一千九百十九。天宝時の領県は七、戸三万九百五十、口十七万二百三十八。京師より東四百九十里、東都より三百三十里。

陝は、郭下である。隋代の県。

峽石は、隋代の崤県である。義寧二年に廃止された。武徳元年に、再び置いた。二年に、割いて函州に属させた。三年に、石隖から鴨橋に治所を移した。八年に、陝州に改属した。十四年に、峽石隖に治所を移し、それにより峽石県と改めた。

霊宝は、隋代の桃林県である。天宝元年に、宝符を掘り得たことにより、霊宝県と改めた。

芮城は、隋代の県である。武徳二年に、芮州を置き、芮城・河北の二県を領した。貞観元年に、芮州を廃し、芮城・河北を陝州に属させた。

平陸は、隋代の河北県である。義寧元年に、安邑郡を置き、県はこれに属した。天宝三載に、太守李斉物が三門を開削したとき、石の下から戟を得、大刃に「平陸」の篆字があったため、平陸県と改めた。

安邑は、隋代は虞州であり、郭下に安邑県を置き、安邑・解・夏・桐郷の四県を領した。貞観十七年に、虞州及び桐郷県を廃し、安邑・解県を蒲州に属させ、夏県を絳州に属させた。乾元元年に、割いて陝州に属させ、安邑を虞邑と改めた。大暦四年に、再び安邑県とした。

夏県は、旧くは虞州に属した。貞観十七年に、絳州に改属した。乾元元年に、陝州に改属した。

安邑、夏縣は、天寶の後、管轄する戸数一万八千五百を加えた。

虢州

虢州は望州、漢代の弘農郡である。隋は郡を廃して弘農県とし、陝州に属した。隋末に再び郡を置いた。義寧元年、鳳林郡と改め、なお盧氏に虢郡を置いた。武德元年、虢州と改め、鳳林を鼎州と改めた。貞観八年、鼎州を廃し、虢州を現在の治所に移し、河南道に属した。開元初め、巡按の便により、河東道に属した。天寶元年、弘農郡と改めた。乾元元年、再び虢州とし、弘農を緊県とし、盧氏、硃陽、玉城を望県とした。天寶年間に領した県は六、戸二万八千二百四十九、口八万八千四十五。西は京師まで四百三十里、東は東都まで五百五十三里。

弘農は漢代の県、隋に廃された。大業三年、現在の湖城県の西一里に置き、まもなく郡に従って弘農川に移った。神龍元年、「弘」を「恆」と改めた。開元十六年、再び弘農とし、州の治所である。

閿郷ぶんきょうは隋代の県。

湖城は漢代の湖県、後に「城」の字を加えた。乾元元年、天平県と改めた。大曆四年、再び湖城とした。

硃陽は隋代の県。

玉城は隋代の県、盧氏を分けて置いた。

盧氏は隋代の県。

汝州

汝州は望州、隋の襄城郡である。武德四年、王世充を平定し、伊州と改め、承休、梁、郟城の三県を領した。貞観元年、廃止された魯州の魯山県を属させた。その年、梁県を省き、なお承休を梁県と改めた。八年、伊州を汝州と改め、梁、郟城、魯山の三県を領した。證聖元年、武興県を置いた。先天元年、臨汝県を置いた。開元二十六年、仙州の葉県を属させた。天寶元年、許州の襄城を属させ、なお臨汝郡と改めた。乾元元年、再び汝州とした。旧領県三、戸三千八百八十四、口一万七千五百三十四。天寶年間に領した県は七、戸六万九千三百七十四、口二十七万三千七百五十六。京師の東九百八十二里、東都まで百八十里。

梁は隋の承休県。貞観元年、梁県と改めた。

郟城は隋代の旧県。

魯山は隋代の旧県。武德四年、県に魯州を置き、魯山、LM陽の二県を領した。貞観元年、州を廃し、なおLM陽県を置き、魯山県を伊州に属させた。八年、伊州を汝州と改めた。

葉は隋代の県。武德四年、葉州を置いた。五年に廃し、県は許州に属した。開元四年、仙州を置き、葉、襄城、方城、西平、舞陽の五県を領した。二十六年、仙州を廃し、葉を汝州に属させ、襄城、舞陽を許州に属させ、方城は唐州に還し、西平は豫州に属させた。

襄城は隋の旧県である。武徳元年、ここに汝州を置き、襄城・汝墳・期城の三県を管轄した。貞観元年、汝州及び汝墳・期城の二県を廃し、襄城を許州に属させた。開元四年、仙州に属した。二十六年、許州に還属した。その年、汝州に改属した。

龍興は、証聖元年に郟城・魯山を分けて武興県を置いた。神龍元年、中興県と改称した。その年、また龍興と改めた。

臨汝は先天元年に設置された。貞元八年、梁県西界の二郷をこれに加え、併せて県治を石壕駅に移した。

許州

許州は望で、隋の潁川郡である。武徳四年、王世充を平定し、許州と改め、長社・長葛・許昌・繁昌・黄台・㶏強・臨潁の七県を管轄した。貞観元年、黄台・繁昌・㶏強の三県を廃し、洧州の扶溝・鄢陵、汝州の襄城、嵩州の陽翟、北灃の葉県を属させた。十三年、都督府を設置し、許・唐・陳・潁の四州を管轄し、許州は長社・長葛・許昌・鄢陵・扶溝・臨潁・襄城・陽翟・葉の九県を管轄した。十六年、都督府を廃止した。顕慶二年、陽翟を割いて洛州に属させた。開元四年、葉・襄城を割いて仙州を置いた。二十六年、仙州が廃止され、葉・襄城・陽翟が属してきた。その年、また葉・襄城を汝州に属させた。二十八年、また襄城を属させた。この年、また葉を汝州に属させた。天宝元年、潁川郡と改称した。乾元元年、再び許州となった。長慶三年、溵州を廃して郾城県とし、許州に属させた。旧管轄県九、戸一万五千七百十五、口七万二千二百二十九。天宝管轄県七、戸七万三千二百四十七、口四十八万七千八百六十四。京師より東一千二百里、東都まで四百里。

長社は郭下である。隋の潁川県。武徳四年、長社と改め、旧名を取った。

長葛は隋が許昌県を分けて設置し、旧名を取った。

許昌は旧県である。

鄢陵は隋に洧州を置き、後に廃して県とし、許州に属した。

扶溝は隋の県。武徳四年、北陳州を置いた。その年、州が廃止され、県は洧州に属した。九年、洧州が廃止され、属してきた。

臨潁は隋の旧県。建中二年、溵州に属した。貞元元年、州が廃止され属してきた。

舞陽は漢の県で、治所は古城内にあり、仙州に属した。開元二十六年、許州に属した。元和十三年、治所を呉城鎮に移した。

郾城は本来豫州に属した。長慶元年に属してきた。

汴州

汴州は上で、隋の滎陽郡の浚儀県である。武徳四年、王世充を平定し、汴州総管府を置き、汴・洧・杞・陳の四州を管轄し、浚儀・新裏・小黄・開封・封丘等の五県を管轄した。七年、都督府と改称した。開封・小黄・新裏の三県を廃して浚儀に併合し、また廃止された杞州の雍丘・陳留、管州の中牟、洧州の尉氏を属させた。龍朔二年、中牟を鄭州に属させた。延和元年、再び開封県を置いた。天宝元年、汴州を陳留郡と改称した。乾元元年、再び汴州となった。建中二年、その羅城を築いた。旧管轄県五:浚儀・雍丘・陳留・中牟・尉氏、戸五万七千七百一、口八万二千八百七十九。天宝管轄県六、戸十万九千八百七十六、口五十七万七千五百七。京師より東一千三百五十里、東都まで四百一里。

浚儀は古い県であり、隋代に設置され、現在の県の北三十里にあったが、李密に陥落された。県人王要漢が豪族を率いて汴州の内に県を置き、要漢自ら県令となった。義寧元年、県に再び汴州を置き、要漢を刺史とした。武徳四年、県を州の北の羅城の内に移した。貞観元年、州の西一里に移した。延和元年六月、浚儀の十四郷を割いて開封県を分置した。

開封は漢代の県であり、現在の県の南五十里にあった。貞観元年に廃止され、浚儀に併合された。延和元年六月、浚儀を分割して再び設置し、ともに城郭の下にあった。

尉氏は隋代の県であり、潁川郡に属した。武徳四年、県に洧州を置き、尉氏・扶溝・康陰・新汲・鄢陵・宛陵・帰化の七県を管轄した。貞観元年、洧州及び康陰・宛陵・新汲・帰化の四県を廃止し、扶溝・鄢陵を許州に属させ、尉氏を汴州に属させた。

陳留は隋代の県であり、汴州に属した。武徳四年、杞州に属した。貞観元年、杞州を廃止し、陳留は汴州に属した。

封丘は隋代の県である。

雍丘は隋代の県である。武徳四年、県に杞州を置き、雍丘・陳留・圉城・襄邑・外黄・済陽の六県を管轄し、仮に州内の倉院に設置した。貞観元年、杞州及び済陽・囲城・外黄の三県を廃止し、襄邑を宋州に属させ、陳留・雍丘を汴州に属させ、県を廃止された杞州に移した。

蔡州

蔡州は上州、隋代の汝南郡である。武徳四年四月、王世充を平定し、豫州総管府を置き、豫・道・輿・息・舒の五州を管轄した。豫州は安陽・平輿・真陽・呉房・上蔡の五県を管轄した。七年、都督府に改め、輿・道・舒・息の四州を廃止した。貞観元年、都督府を廃止し、平輿・新蔡の二県を廃止し、再び道州の郾城、息州の新息、朗州の朗山、舒州の褒信・新蔡の五県を管轄に加えた。天授三年、また平輿・西平の両県を置いた。開元四年、西平を仙州に属させた。二十六年、仙州を廃止し、再び西平を管轄に加えた。天宝元年、汝南郡に改めた。乾元元年、再び豫州とした。宝応元年、蔡州に改めた。旧管轄県十、戸一万二千百八十二、口六万四百十五。天宝管轄県十一、戸八万七百六十一、口四十六万二百五。京師まで千五百四十里、東都まで六百七十里。

汝陽は隋代の旧県である。城郭の下に治所がある。

朗山は漢代の安昌県であり、隋代に朗山に改めた。

遂平は隋代の呉房県である。元和十二年、文城柵で呉元済を討伐する際、行呉房県を置き、仮に溵州に属させた。賊が平定され、遂平県に改め、唐州に属させた。長慶元年、再び蔡州に属させた。

郾城は隋代の旧県である。武徳四年、ここに道州を置き、郾城・邵陵・北武・西平の四県を管轄した。貞観元年、道州及び北武・邵陵・西平の三県を廃止し、郾城を豫州に属させた。本来は溵水の南に治所があった。開元十一年、大水のため、治所を溵水の北に移した。元和十二年、県に溵州を置いた。長慶元年、溵州を廃止し、郾城を許州に属させた。

上蔡は隋代の県である。

新蔡は隋代の旧県である。武徳四年、ここに舒州を置き、新蔡・褒信の二県を管轄した。貞観元年、舒州を廃止し、新蔡は豫州に属した。

褒信は後漢の県である。

新息は、隋代の県である。武徳四年、県に息州を置き、新息・淮川・長陵の三県を管轄した。貞観元年、息州及び淮川・長陵の二県を廃止し、新息を豫州に属させた。

平輿は、隋代に設置された。貞観元年に廃止され、天授二年に再設置された。

西平は、漢代の県である。貞観元年に廃止された。天授二年に再設置された。元和十二年、溵州に属した。州が廃止されると、蔡州に属した。

真陽は、漢代の慎陽県であり、隋代に真陽となった。載初元年、淮陽と改称された。神龍元年に元に戻った。

滑州

滑州は、望州であり、隋代の東郡である。武徳元年、滑州と改称された。これは城に古い滑台があるためである。二年、賊軍に陥落した。王世充を平定した後、再設置され、白馬・衛南・韋城・匡城・霊昌・長垣の七県を管轄した。八年、長垣県を廃止して匡城に併合し、廃止された東梁州の酸棗県を当州に属させた。天宝元年、霊昌郡と改称された。乾元元年、再び滑州となった。旧管轄県七、戸一万三千七百三十八、口六万四千九百六十。天宝時、戸七万一千九百八十三、口四十二万二千七百九十。京師から一千四百四十里、東都まで五百三十里。

白馬は、州治所在の県である。漢代の県。衛南は隋代の楚丘県。後に曹州に楚丘があるため、衛南県と改称され、古い楚丘城に治所を置いた。儀鳳元年、西北の河に臨む新城に治所を移した。永昌元年、また楚丘城の南に移した。

韋城は、隋代に白馬県を分割して設置され、古城である韋氏の国の城に置かれた。

匡城は、漢代の長垣県であり、隋代に匡城と改称された。

胙城は、漢代の南燕県であり、隋代に胙城と改称され、滑州に属した。

酸棗は、漢代の県である。

霊昌は、隋代に酸棗県を分割して設置された。霊昌とは、黄河の渡し場の名である。

陳州

陳州は、上州であり、隋代の淮陽郡である。武徳元年、房憲伯を討伐平定し、陳州と改称し、宛丘・箕城・扶楽・太康・新平の五県を管轄した。貞観元年、扶楽・箕城・新平の三県を廃止し、また沈州の項城・溵水の二県を当州に属させた。長寿元年、武城県を設置した。証聖元年、光武県を設置した。天宝元年、陳州を淮陽郡と改称した。乾元元年、再び陳州となった。旧管轄県四、戸六千三百六十七、口三万九百六十一。天宝時管轄県六、戸六万六千四百四十二、口四十万二千四百八十六。京師から一千五百二十里、東都まで七百一十七里。

宛丘は州治所在の県である。隋代の県。

太康は漢代の陽夏県であり、隋代に太康と改称した。これは県の東に太康城があったためである。

項城は隋代の旧県である。武徳四年、ここに沈州を設置し、項城・潁東・鮦陽・南頓・溵水の五県を管轄した。貞観元年、沈州を廃止し、県を陳州に属させた。

溵水は漢代の汝陽県である。溵水と改称された。建中二年、溵州に属した。興元元年、溵州を廃止し、県は陳州に属した。

南頓は隋代の県である。武徳六年、項城に併合された。証聖元年、項城を分割して光武県を設置した。これは県に光武廟があったためである。景雲元年、南頓と改め、古い名前に復した。

西華は漢代の県である。武徳元年、箕城県と改称された。貞観元年、宛丘に併合された。長寿元年、宛丘を分割して武城県を設置した。これは県がもと楚の武王が築いた城であったためである。神龍元年、再び箕城となった。景雲元年、西華と改め、古い名前に復した。

亳州

亳州は望州であり、隋代の譙郡である。武徳四年、王世充を平定し、亳州と改め、譙・城父・谷陽・鹿邑・酂の五県を管轄した。五年、総管府を設置し、譙・亳・宋・北荊・潁・沈の六州を管轄した。七年、都督府と改称した。貞観元年、都督府を廃止したが、亳州は変更しなかった。十七年、譙州を廃止し、臨渙・永城・山桑の三県を当州に属させた。天宝元年、譙郡と改称した。乾元元年、再び亳州となった。旧来の管轄県は八、戸数五千七百九十、人口三万三千百七十七。天宝年間の戸数は八万八千九百六十、人口六十七万五千百二十一。京師までの距離は一千七百里、東都までの距離は八百九十八里。

譙県は州城の郭下である。貞観十七年、古い譙城から州城に移転して設置された。

酂県は漢代の県である。隋代は沛郡に属した。武徳四年、亳州に属するよう改めた。開元二十六年、汴城の垣陽驛に移転して設置した。

城父は隋代の旧県である。

鹿邑は隋代の旧県である。

真源は漢代の苦県である。隋代は谷陽であった。乾封元年、真源と改称した。載初元年、仙源と改称した。神龍元年、再び真源となった。老子祠がある。

臨渙は隋代に譙州を設置し、四県を管轄した。貞観十七年に廃止し、臨渙・永城・山桑を亳州に属させ、蘄県を徐州に属させた。県の治所はもと銍城にあったが、十七年に廃止された譙州の治所に移転した。元和九年、宿州に割属した。

永城は隋代の県で、譙州に属した。貞観十七年に廃止され、亳州に属した。旧治は馬浦城の東北三里にあった。武徳五年、馬浦城に移転して設置した。

蒙城は隋代の山桑県で、譙州に属した。州が廃止されると、亳州に属した。天宝元年、蒙城と改称した。

潁州

潁州は中州である。漢代は汝南郡であった。隋代に汝陰郡となった。武徳四年(621年)、王世充を平定し、汝陰県の西北十里に信州を設置し、汝陰・清丘・永安・高唐・永東などの六県を管轄した。六年(623年)、潁州と改称し、現在の治所に移転し、高唐・永楽・永安の三県を廃止した。貞観元年(627年)、清丘県を廃止した。八年(634年)、また廃止された渦州の下蔡県を管轄に加えた。天宝元年(742年)、汝陰郡と改称した。乾元元年(758年)、再び潁州となった。長慶二年(822年)、潁州を滑鄭節度使の管轄に属させた。旧来の管轄県は三、戸数二千九百五、人口一万四千百八十五。天宝年間の管轄県は四、戸数三万七百七、人口二十万二千八百九十。京師(長安)までの距離は一千八百二十里、東都(洛陽)までの距離は九百六十里。

汝陰県は州治の城下である。漢代の県。

潁上県は、隋代に古鄭城に治所を設置した。武徳四年(621年)、現在の治所に移転した。

下蔡県は隋代の旧県である。武徳四年(621年)、県に渦州を設置し、下蔡県はこれに属した。八年(625年)、州が廃止され、県は潁州に属した。

沈丘県は、古くは寝丘といい、隋代まで改称されなかった。神龍二年(706年)、沈丘と改称した。

宋州

宋州は望州である。隋代の梁郡であった。武徳四年(621年)、王世充を平定し、宋州を設置し、宋城・寧陵・柘城・穀熟・下邑・碭山・虞城の七県を管轄した。同年、虞城県を東虞州に属させた。五年(622年)、東虞州を廃止し、再び虞城県を管轄に加えた。貞観元年(627年)、杞州を廃止し、襄邑県を管轄に加え、同時に柘城県を廃止した。十七年(643年)、廃止された戴州の単父県・楚丘県を管轄に加えた。永淳元年(682年)、また柘城県を設置した。天宝元年(742年)、宋州を睢陽郡と改称した。乾元元年(758年)、再び宋州となった。旧来の管轄県は七、戸数一万一千三百三、人口六万一千七百二十。天宝年間の管轄県は十、戸数十二万四千二百六十八、人口八十九万七千四十一。京師(長安)までの距離は一千五百四十里、東都(洛陽)までの距離は七百八十里。

宋城県は州治の城下である。古睢陽城を治所とする。漢代の睢陽県で、隋代に宋城と改称した。

襄邑県は隋代に設置された。武徳二年(619年)、杞州に属した。貞観元年(627年)、宋州に属した。

寧陵県は漢代の県で、長く廃止されていた。隋代に特に設置された。貞観元年(627年)、柘城県を併合した。

虞城県は、隋代に下邑県を分割して設置された。武徳四年(621年)、宋州に属した。同年、県に東虞州を設置した。五年(622年)、州が廃止され、県は宋州に属した。

碭山県は、旧安陽県であり、隋代に碭山と改称し、宋州に属した。

下邑県は漢代の県である。

穀熟県は漢代の県である。武徳二年(619年)、県に南穀州を設置した。四年(621年)、州が廃止され、県は宋州に属した。

単父は古邑なり。隋は県に戴州を置く。大業に廃す。武徳五年、再び戴州を置く。貞観十七年、戴州廃し、県は宋州に属す。

楚丘は治所、古の巳氏城にして、戴州に属す。貞観十七年、宋州に属す。

柘城は秦の県、久しく廃す。隋に再び置く。貞観初めに廃す。永淳元年、谷熟・寧陵を分けて再び置く。

曹州

曹州は上州、隋の済陰郡なり。武徳四年、曹州と改め、済陰・定陶・冤句・離狐・乗氏を領し、併せて蒙沢・普陽等七県を置く。其の年、普陽県を省く。五年、廃梁州の考城を以て来属す。貞観元年、定陶・蒙沢の二県を省き済陰に併入す。十七年、廃載州の成武を以て来属す。天宝元年、曹州を済陰郡と改む。乾元元年、再び曹州と為す。旧領県五、戸九千二百四十四、口五万四千九百八十一。天宝領県六、戸十万三百五十二、口七十一万六千八百四十八。京師の東北一千四百五十三里に在り、東都の東北六百五十七里に至る。

済陰は郭下なり。隋の県。

考城は隋の旧なり。武徳四年、県に梁州を置き、考城県を領す。五年、州廃し、県を以て曹州に属す。

冤句は漢の県。武徳四年、県の西界を分けて済陽県を置き、杞州に属す。貞観元年、済陽を廃し、冤句に併入す。

乗氏は漢の県、春秋の重丘の地なり。

南華は漢の離狐県、累代改めず。天宝元年、南華と改む。

成武は漢の県。隋は戴州に属す。州廃し、曹州に属す。

濮州

濮州は上州、隋の東平郡の鄄城県なり。武徳四年、濮州を置き、鄄城・廩城・雷沢・臨濮・昆吾・濮陽・永定・安丘・長城の九県を領す。五年、安丘・長城の二県を廃す。八年、昆吾・永定・廩城の三県を廃す。貞観八年、済州の範県を割いて来属す。天宝元年、濮陽郡と改む。乾元元年、再び濮州と為す。旧領県五、戸八千六百二十八、口四万四千百三十五。天宝、戸五万七千七百八十一、口四十万六百四十八。京師の東北一千五百七十里に在り、東都に至る七百三十五里。

鄄城は古県。後漢は県に兗州を置く。武徳四年、分けて永定県を置く。八年、鄄城に併入す。

濮陽は隋の旧なり。武徳四年、分けて昆吾県を置く。八年に省き、濮陽に併入す。

範縣は漢代の県である。武徳二年(六一九年)、範州を設置し、州治を昆吾城に置く。五年(六二二年)、州が廃止され、県は済州に属した。貞観八年(六三四年)、濮州に改属した。

雷澤は漢代の県である。武徳四年(六二一年)、分置して廩城県を置く。貞観八年(六三四年)、廩城県を廃止して雷澤県に併合した。

臨濮は、武徳四年(六二一年)、雷澤県を分割して設置した。五年(六二二年)、長城県を廃止して併合した。

鄆州

鄆州は上州。隋の東平郡の須昌県であった。武徳四年(六二一年)、徐圓朗を平定し、鄆城に鄆州を置き、鄆城・須昌・宿城・钜野・乗丘の五県を管轄した。また、廃止された寿州の寿張県を属させた。同年、総管府を設置し、鄆・濮・兗・戴・曹の五州を管轄した。貞観元年(六二七年)、都督府を廃止し、なおも钜野県を戴州に属させた。また宿城・乗丘の二県を廃止した。八年(六三四年)、州治を鄆城から須昌に移した。景龍元年(七〇七年)、再び宿城県を設置した。天宝元年(七四二年)、鄆州を東平郡と改称した。乾元元年(七五八年)、再び鄆州となった。旧領県は三:須昌・鄆城・寿張。戸数四千百四十一、口数二万一千六百九十二。天宝年間の領県は五、戸数四万四千二百九十九、口数二十八万四千五百三十。天宝十三載(七五四年)、済州を廃止し、その管轄していた五県をすべて鄆州に併合した。済州の旧領県は五、戸数六千九百五、口数三万四千五百十。天宝年間の戸数は三万八千七百四十九、口数は二十一万六千九百七十九で、これらを鄆州に併合した。京師から東北へ一千六百九十七里、東都から東北へ九百七十三里の地にある。現在の領県は十。

寿張は隋代の県である。武徳四年(六二一年)、県に寿州を設置し、寿張・寿良の二県を管轄した。五年(六二二年)、寿州を廃止し、寿良県を廃して寿張県に併合し、鄆州に属させた。

鄆城は漢代の寿良県である。隋代に万安県と改称し、なおも県に鄆州を設置した。まもなく万安を鄆城と改称した。貞観八年(六三四年)、鄆州の治所を須昌県に移した。

钜野は漢代の県である。隋代に県から州に昇格した。まもなく廃止され、戴州に属した。貞観十七年(六四三年)、戴州が廃止され、钜野県は鄆州に属することとなった。

須昌は州治の城下である。漢代の県で、故城は現在の鄆州の東南三十二里にある。隋代は故城に宿城県を置き、なおも現在の場所に須昌県を設置した。貞観八年(六三四年)、州治が鄆城から須昌県に移された。後に宿城県を廃止した。景雲三年(七一二)十二月、再び須昌県を分割して宿城県を設置した。貞元四年(七八八年)、宿城県を東平県と改称し、州治の城下に移した。大和四年(八三〇年)、天平県と改称した。六年(八三二年)七月、天平県を廃止して須昌県に併合した。

盧県は漢代からの旧県である。隋代に済北郡を設置した。武徳四年(六二一年)、済州と改称し、盧・平陰・長清・東阿・陽穀・範の六県を管轄した。また昌城・済北・穀城・孝感・冀丘・美政の六県を設置した。六年(六二三年)、美政・孝感・穀城・冀丘・昌城の五県を廃止した。八年(六二五年)、範県を分割して濮州に属させた。貞観元年(六二七年)、また済北県を廃止して長清県に併合した。天宝元年(七四二年)、済陽郡と改称した。乾元元年(七五八年)、再び済州となった。十三載(七五四年)六月一日、済州を廃止し、盧・長清・平陰・東阿・陽穀の五県をすべて鄆州に併合した。

平陰は漢代の肥城県である。隋代に平陰となり、済州に属した。天宝十三載(七五四年)、州が廃止され、県は鄆州に属した。大和六年(八三二年)、東阿県に併合された。開成二年(八三七年)七月、節度使王源中が上奏して平陰県を設置した。

東阿は漢代の県である。隋代は済州に属した。州が廃止されると、鄆州に属した。

陽穀は隋代に設置され、県内にある陽穀台の名を取って名付けられ、済州に属した。州が廃止されると、鄆州に属した。

中都は漢代の平陸県で、本来の治所は殷密城にあり、現在の治所の西三十九里にある。天宝元年(七四二年)、中都と改称し、現在の治所に移した。

泗州

泗州は中州、隋の下邳郡である。武徳四年に泗州を置き、宿預・徐城・淮陽の三県を領した。貞観元年に淮陽県を廃して宿預に併合し、廃止された邳州の下邳、廃止された連州の漣水を当州に属させた。八年にまた廃止された仁州の虹県を当州に属させた。総章元年に海州の沐陽を割いて当州に属させた。咸亨五年に沐陽は海州に戻した。長安四年に臨淮県を置いた。開元二十三年に宿預から治所を臨淮に移した。天宝元年に臨淮郡と改称した。乾元元年に再び泗州となった。旧来の領県は五、戸二千二百五十、口二万六千九百二十。宿豫・漣水・徐城・虹・下邳を領した。天宝時の領県は六、戸三万七千五百二十六、口二十万五千九百五十九。現在の領県は三:臨淮・漣水・徐城。その虹県は宿州に割属し、宿預・下邳は徐州に属する。

臨淮県は、長安四年に徐城県の南境の二郷を割き、沙熟淮口に臨淮県を置いた。開元二十三年に治所を城下に移した。

漣水県は隋代の県である。武徳四年に漣州を置き、同時に金城県を分置した。貞観元年に漣州を廃止し、併せて金城県を廃し、県を泗州に属させた。総章元年に楚州と改称した。咸亨五年に泗州に戻して属させた。

徐城県は漢代の徐県である。隋代に徐城県となり、泗州に属し、大徐城に治した。開元二十五年に臨淮県の地に移った。

海州

海州は中州、隋の東海郡である。武徳四年に海州総管府を置き、海・漣・環・東楚の四州を領した。海州は朐山・龍沮・新楽・曲陽・沐陽・厚丘・懐仁・利城・祝其の九県を領した。六年に新楽を祝其と改めた。七年に東楚州を揚府に属させ、また沂州を当府に属させた。八年に環州及び龍沮・祝其・曲陽・厚丘・利城の六県を廃止し、なお廃止された環州の東海を当州に属させた。九年に漣州を廃止した。貞観元年に都督府を廃止した。天宝元年に海州を東海郡とした。乾元元年に再び海州となった。旧来の領県は四:朐山・東海・沐陽・懐仁、戸八千九百九十九、口四万三千六百九十三。天宝時、戸二万八千五百四十九、口十八万四千九。京師より東二千五百七十里、東都まで一千七百五十四里。

朐山県は城下である。漢代の朐県で、後に「山」の字を加えた。

東海県は漢代の贛楡県である。武徳四年に環州を置き、東海・青山・石城・贛楡の四県を領した。八年に環州を廃止し、なお青山等の三県を廃して東海県に併合し、海州に属させた。県は鬱州に治し、四面を海に囲まれる。

沐陽県は漢代の厚丘県である。後魏で沐陽と改めた。

懐仁県は後魏に置かれた。

兗州

兗州は上州、都督府、隋の魯郡である。武徳五年に徐円朗を平定し、兗州を置き、任城・瑕丘・平陸・龔丘・曲阜・鄒・泗水の七県を領した。貞観元年に曲阜県を廃した。その年、また東泰州を廃し、博城県を当州に属させた。八年に再び曲阜県を置いた。十四年に都督府を置き、兗・泰・沂の三州を管轄した。十七年に廃止された戴州の金郷・方輿を当州に属させた。長安四年に萊蕪県を置いた。天宝元年に兗州を魯郡と改称した。乾元元年に再び兗州となった。旧来の領県は八、戸九千三百六十六、口一万五千四百二十八。天宝時の領県は十一、戸八万八千九百八十七、口五十八万六百八。中都は鄆州に割属した。京師より東一千八百四十三里、東都まで一千七十里。

瑕丘県は城下である。宋が魯の瑕邑の故治に兗州を置き、隋はこれにより瑕丘県を置いた。

曲阜県は隋代の県である。貞観元年に廃止し、八年に再び置いた。

乾封県は隋代の博城県である。武徳五年に県に東泰州を置き、博城・梁父・嬴・肥城・岱の六県を領した。貞観元年に東泰州を廃止し、梁父・嬴の二県を廃して博城に併合した。なお博城を兗州に属させ、併せて肥城を廃した。乾封元年、高宗が泰山に封禅し、乾封県と改めた。総章元年に再び博城となった。神龍元年にまた乾封となった。

泗水は、漢代の卞縣である。隋代に汶陽縣を分けて卞縣古城に泗水縣を置いた。

鄒は、古の邾國であり、魯の穆公が鄒と改めた。

任城は、漢代の縣である。北齊が縣に高平郡を置いた。隋代に廃止し、縣は兗州に属した。

龔丘は、北齊の平原縣であり、隋代に龔丘と改めた。

金鄉は、後漢の縣である。武德四年、縣に金州を置き、方輿・金鄉の二縣を領した。五年、金州を戴州と改めた。貞觀十七年、州は廃止され、金鄉・方輿は兗州に属し、單父・楚丘は宋州に属し、成武は曹州に属し、钜野は鄆州に属した。

魚台は、漢代の方輿縣である。隋代は戴州に属した。貞觀十七年、戴州が廃止され、縣は兗州に編入された。寶應元年、魚台と改めた。城北に魯公の觀魚台があるためである。

萊蕪は、漢代の縣で、晉代に廃止された。後魏が古城に嬴縣を置いた。貞觀初年、廃止されて博城縣に編入された。長安四年、廃止された嬴縣の地に萊蕪縣を置いた。元和十五年、乾封縣に併合されたが、まもなく再び設置され、兗州に属した。

徐州

徐州は、上州であり、隋代の彭城郡である。武德四年、王世充を平定し、徐州総管府を置き、徐・邳・泗・鄫・沂・仁の六州を管轄した。徐州は彭城・蕭・沛・豐・滕・符離・諸陽の七縣を領した。貞觀元年、諸陽縣を廃止して符離に編入した。二年、鄫・邳の二州を廃し、なお譙州を属州とした。七年、沂州を海州都督に属させた。八年、仁州を廃止して譙州に編入した。その徐州都督は、徐・泗・譙の三州を管轄した。十七年、都督府を廃止した。廃止された譙州の蘄縣を属縣とした。天寶元年、徐州を彭城郡と改めた。乾元元年、再び徐州とした。旧領縣六、戸八千百六十二、口四万五千五百三十七。天寶領縣七、戸六万五千百七十、口四十七万八千六百七十六。京師より東二千六百里、東都まで一千二百五十七里。

彭城は、漢代の彭城郡の治所である。

蕭は、漢代の縣である。隋代は龍城縣となり、まもなく蕭と改めた。

豐は、漢代の縣である。北齊が永昌郡を置き、まもなく廃して豐縣とした。

沛は、漢代の縣で、隋代に廃止された。武德年間に再び設置した。

滕縣は、古の滕國であり、隋代に縣を置いた。

宿遷は、晉代の宿預縣であり、元魏が縣に徐州を置いた。州が彭城縣に移ると、泗州に隷属し、寶應元年、代宗の諱に触れるため、「預」を「遷」と改め、なお徐州に隷属させた。

下邳は、漢代の下邳郡である。元魏の時に東徐州を置き、周が邳州と改め、隋が廃した。武徳四年、邳州を復活させ、下邳・郯・良城の三県を領した。貞観元年、邳州を廃し、併せて郯・良城の二県を省き、下邳を泗州に属させた。元和年中、再び徐州に属した。

宿州

宿州は、上州であり、徐州の符離県である。元和四年正月の勅により、徐州の符離に宿州を置き、併せて徐州の蘄県、泗州の虹県を割いた。九年、また亳州の臨渙等三県を割いて宿州に属させた。大和三年、徐泗観察使崔群が宿州の廃止を奏上し、四県はそれぞれ本来の所属に帰した。七年の勅に至り、元和四年正月の勅に準じて、宿州を埇橋に復置すべきであるとした。これは徐州の南境、汴水上にあり、舟車の要衝に当たる。旧来割いた四県は、従前通り属させる。州は新置であり、元和以来、戸口は計上されていない。

符離は、漢代の県である。隋は朝解城に治所を置いた。貞観元年、治所を竹邑城に移した。元和四年正月、宿州を置き、引き続き上州とした。

虹は、漢代の県である。隋は夏丘県と称し、武徳四年、仁州に属した。その年、古虹城に虹県を分置し、仁州に属させた。六年、夏丘県を廃した。貞観八年、仁州を廃し、虹県を泗州に属させ、治所を夏丘故城に移した。元和四年、割いて宿州に属させた。

蘄は、漢代の県である。後魏は「城」を加えて蘄城県と称した。隋は「城」の字を除き、北譙州に属した。貞観十七年、譙州を廃し、徐州に属した。旧治は穀城にあり、顕慶元年、現在の場所に移した。元和四年、割いて宿州に属させた。

臨渙は、隋代の旧県である。譙州に属した。州が廃されると、亳州に隷属した。大和元年、割いて宿州に属させた。

沂州

沂州は、中州であり、漢代の東海郡の琅邪県である。武徳四年、徐圓朗を平定し、沂州を置き、費・臨沂・顓臾の三県を領した。また蘭山・臨沐・昌楽の三県を置いた。六年、蘭山・臨沐・昌楽の三県を省いて臨沂に併入した。貞観元年、顓臾を省いて費県に併入した。その年、鄫州を省き、承県を沂州に属させた。八年、また莒州を省き、新泰・沂水の二県を沂州に属させた。天宝元年、琅邪郡と改称した。乾元元年、沂州に復した。旧領県五、戸四千六百五十二、口二万三千九百。天宝の戸は三万三千五百十、口は十九万五千七百三十七。京師より東二千二百五十四里、東都より一千四百三十里。

臨沂は、漢代の県で、州の治所である。後魏は郯郡を置き、また北徐州と改称し、いずれもこの県にあった。後周は沂州を置いた。

承は、漢代の県で、隋の蘭陵県である。武徳四年、鄫州を置き、蘭陵をこれに隷属させ、引き続き承県と改称し、別に蘭陵・鄫城の二県を置いて鄫州に属させた。貞観元年、鄫州と二県はともに廃され、承県を沂州に属させた。

費は、漢代の県である。春秋時代の費国。

新泰は、漢代の東新泰県で、晋が「東」の字を除いた。武徳五年、莒州に属した。貞観八年、莒州が廃され、県は沂州に属した。

沂水は、漢代の東莞県である。隋は東安県と改め、まもなく沂水と改めた。武徳五年、県に莒州を置き、沂水・新泰・莒の三県を領した。貞観八年、莒州を省き、県は密州に属し、沂水・新泰は沂州に属した。

密州

密州は中州、隋の高密郡である。武徳五年に密州と改め、諸城・安丘・高密の三県を管轄した。貞観八年に莒州を廃し、莒県を管轄下に置いた。天宝元年に高密郡と改称した。乾元元年に再び密州となった。旧来の管轄県は四、戸数三千五百八十、人口二万八千五百九十三。天宝年間の戸数は二万八千二百九十二、人口十四万六千五百二十四。京師より東南二千五百三十里、東都より東一千八百六十九里に在る。

諸城は州の治所で、本来は漢の東武県城である。隋代に廃された高密郡城に移転し、それにより諸城と改称した。

輔唐は漢の安丘県で、北海郡に属した。乾元二年、刺史殷仲卿が故昌安城に治所を移すことを奏請し、それにより輔唐と改称した。

高密は漢代の県である。隋末の大乱で廃された。武徳三年、義城堡に高密県を設置した。六年、高密・膠西の両県を併せ、故夷安城に移転した。この城は旧高密県である。ここに膠西県を廃した。

莒は漢代の県で、東海郡に属した。武徳五年、県に莒州を設置した。州が廃されると、県は密州に属した。

斉州

斉州は上州、漢の済南郡、隋の斉郡である。武徳元年に斉州と改め、歴城・山茌・祝阿・源陽・臨邑の五県を管轄した。二年に総管府を設置し、斉・鄒・東泰・譚・淄・済の六州を管轄した。貞観元年に都督府及び譚州を廃し、源陽県を省いた。また廃された譚州の平陵・臨済・亭山・章丘の四県を管轄下に置いた。七年に再び都督府を設置し、斉・青・淄・萊・密の五州を管轄した。天宝元年に臨淄郡と改称した。五載に済南郡となった。乾元元年に再び斉州となった。旧来の管轄県は八、戸数一万一千五百九十三、人口六万一千七百七十一。天宝年間の戸数は六万二千四百八十五、人口三十六万五千九百七十二。京師より東北二千六十九里、東都より東北一千二百四十四里に在る。現在管轄する県は六、併せて三県である。

歴城は漢代の県で、済南郡に属した。旧志に平陵県がある。貞観十七年、斉王祐が兵を起こした際、平陵人は従わず、そこで全節と改称した。元和十年正月、戸口が凋残したため、全節を歴城県に併合した。

章丘は漢の陽丘県である。隋代に章丘となった。武徳二年、平陵県に譚州を設置し、平陵・亭山・章丘・営城の四県を管轄した。八年、営城を廃して平陵に併合し、また廃された鄒州の臨済を管轄下に置いた。貞観元年、譚州を廃して平陵県とし、斉州に属させ、章丘もまた管轄下に置いた。

亭山は隋代の県である。元和十五年、戸口が凋残したため、章丘県に併合し、ここに亭山を廃した。

臨邑は漢代の県である。武徳元年、譚州に属した。州が廃されると管轄下に置かれた。

長清は隋代に設置され、済州に属した。貞観十七年に斉州に属した。旧志に豊斉県がある。古の山茌邑である。天宝元年に豊斉と改称した。元和十五年、戸口が凋残したため、長清県に併合した。

禹城は漢の祝阿県である。天宝元年、禹城とし、県の西に禹息故城があるためである。

臨済は漢の菅県である。隋代に朝陽県となり、まもなく臨済県と改称した。武徳元年、県に鄒州を設置し、臨済・蒲台・高苑・長山・鄒平の五県を管轄した。八年に鄒州を廃し、県は譚州に属した。州が廃されると、斉州に属した。

青州

青州は上州、隋の北海郡である。武徳四年、青州総管府を置き、青・濰・登・牟・莒・密・萊・乗の八州を管轄した。青州は益都・臨朐・臨淄・般陽・楽安・時水・安平の七県を領した。八年、乗・濰・牟・登の四州を廃し、廃止された濰州の北海、廃止された乗州の千乗・寿光・博昌を当州に属させ、般陽・楽安・時水・安平の四県を廃止した。貞観元年、都督府を廃止した。天宝元年、青州を北海郡と改称した。乾元元年、再び青州となった。旧来の領県は七、戸一万六百五十八、口五万六千三百十七。天宝年間の戸は七万三千百四十八、口四十万二千七百四。京師より東北二千二百五十里、東都より一千五百七里。

益都は漢代の県。現在の寿光県の南十里にある故益都城がこれである。北斉は青州城北門外に移して治所とした。

臨淄は漢代の県、古斉国の城に治所を置いた。長く廃されていたが、隋が再び置いた。

博昌は漢代の県、故郡城に治所を置いた。楽安は隋代の県。武徳二年、乗州に属した。州が廃止されると、青州に属した。総章二年、現在の地に治所を移した。

寿光は漢代の県。隋は治所を博昌県に移した。初め乗州に属し、州が廃止されると当州に属した。

千乗は漢代の千乗国、後漢は楽安郡と改めた。宋・斉で廃され、隋が千乗県を置いた。武徳二年、県に乗州を置き、千乗・博昌・寿光・新河の五県を領した。六年、新河県を廃止した。八年、乗州が廃止され、千乗等の県は青州に隷属した。

臨朐は漢代の県。隋は逢山県とし、まもなく再び臨朐とし、北海郡に属した。

北海は漢代の平寿県。隋は北海郡を置いた。開皇三年に郡を廃し、廃郡城に下密県を置いた。大業二年、北海県と改めた。武徳二年、県に濰州を置き、北海・連水・平寿・華池・城都・下密・東陽・寒水・訾亭・濰水・汶陽・膠東・営丘・華宛・昌安・都昌・城平の十七県を領した。六年、北海・営丘・下密の三県のみを残し、他の十四県は全て廃止した。八年、濰州を廃止し、さらに営丘・下密の二県を廃し、北海を青州に属させた。

淄州

淄州は上州、隋の斉郡の淄川県である。武徳四年、淄州を置き、淄川・長白・萊蕪の三県を領した。六年、長白・萊蕪の二県を廃止した。八年、また廃止された鄒州の長山・高苑・蒲台の三県を当州に属させた。天宝元年、再び淄川郡となった。乾元元年、再び淄州となった。景龍元年、高苑を分けて済陽県を置き、また高苑に併合した。また蒲台を割いて当州に隷属させたが、後に棣州に割属した。旧来の領県は五、戸六千三百二十三、口三万四千四百二十五。天宝年間の戸は四万二千七百三十七、口二十万三千八百二十一。京師より東北二千百三十三里、東都より東北一千四百二十五里。現在管轄する県は四、済陽は高苑に併入した。

淄川は郭下。漢代の般陽県。武徳初年、淄州に属した。

長山は漢代の於陵県。武徳初年、鄒州に属した。州が廃止されると、淄州に属した。

高苑は隋が置いた。初め鄒州に属し、州が廃止されると当州に属した。景龍元年、分置して済陽県を置いた。元和十五年、高苑に併入した。

鄒平は漢代の県。北斉は平原県とした。隋は治所を漢代の鄒平故城に移し、よって鄒平と改めた。初め譚州に属し、州が廃止されると当州に属した。

棣州

棣州は後漢の楽安郡に当たる。隋の渤海郡の厭次県である。武徳四年、棣州を置き、陽信・楽陵・滳河・厭次の四県を領し、治所を陽信に置く。六年、滄州に併合される。貞観十七年、再び楽陵県に棣州を置き、厭次・滳河・陽信の三県を領し、また淄州の蒲台を割いて隷属させた。しかし楽陵は滄州に属する。天宝元年、楽安郡と改称する。上元元年、再び棣州となる。五県を領し、戸三万九千百五十、口二十三万八千百五十九。京師の東北二千二百十里、東都の東北千三百七十里に在る。

厭次(郭下)。漢の富平県である。隋は滄州に属す。武徳四年、棣州に改属する。六年、棣州を廃し、再び滄州に隷属する。貞観十七年、再び棣州を置き、厭次は還って属す。

滳河は隋の県である。

陽信は漢の県で、渤海郡に属す。貞観十七年、棣州に改属する。

蒲台は漢の漯沃県である。淄州に隷属する。割いて棣州に属させる。

渤海は垂拱四年、蒲台・厭次を分けて置く。

萊州

萊州は中州で、漢の東萊郡であり、隋もこれに因る。武徳四年、綦順を討平し、萊州を置き、掖・膠水・即墨・盧郷・昌陽・曲城・當利・曲台・膠東の九県を領す。六年、曲城・當利・曲台・膠東の四県を廃す。貞観元年、盧郷を廃し、登州の文登と廃止された牟州の黄を割いて属させる。麟徳元年、牟平県を置く。如意元年、黄県・文登・牟平を割いて登州を置く。天宝元年、萊州を東萊郡と改称する。乾元元年、再び萊州となる。旧領は六県:掖・黄・文登・昌陽・即墨・膠水、戸一万千五百六十八、口六万三千三百九十六。天宝領は四県、戸二万六千九百九十八、口七万一千五百。京師の東北二千五百九十九里、東都より千八百五十二里に在る。

掖は州治で、漢の東萊郡である。隋に掖県を置き、萊州に属す。

昌陽は漢の県で、古昌陽城に置かれる。永徽元年、古県の西北二十三里に移す。

膠水は漢の膠東国の地である。隋に古光州に県を置き、これに因って膠水と改名する。

即墨は漢の不其邑である。隋に即墨県を置く。

登州

登州は、漢の東萊郡の黄県である。如意元年、分けて登州を置き、文登・牟平・黄の三県を領し、牟平を治所とする。神龍三年、黄県を蓬萊県と改め、州治を蓬萊に移す。天宝元年、登州を東牟郡とする。乾元元年、再び登州となる。天宝領は四県、戸二万二百九十八、口十万八千九百。京師の東三千百五十里、東都より二千七十一里に在る。

蓬萊は、漢の黄県で、萊州に属す。如意元年、県に登州を置く。神龍三年、蓬萊と改め、今の地に移す。

牟平は、麟徳二年に文登を分割して設置し、萊州に属した。如意元年に登州を設置し、治所を牟平に置いた。神龍三年に治所を蓬萊県に移した。

文登は、隋代の旧県である。武徳四年に登州を設置し、文登・観陽の二県を管轄した。六年に観陽を牟州に属させ、また清陽・廓定の二県を設置して登州に属させた。貞観元年に登州および清陽・廓定の二県はともに廃止され、その地は文登県に編入された。

黄は、旧県である。神龍三年に蓬萊県と改称し、登州に属させ、州の治所とした。先天元年に、また蓬萊を分割して黄県を設置した。