旧唐書 志第七 礼儀七

旧唐書

志第七 礼儀七

臣が聞くに、礼とは、嫌疑を決し、猶豫を定め、同異を別ち、是非を明らかにするものである。天よりくだるものではなく、地より出るものでもなく、人情に基づくのみである。親族には九族あり、服術には六等あり、恩に随ってわず厚を加え、情に称して文を立てる。しかし舅と姨とは、同気たるを同じくするといえども、情を論じ義を度れば、先後実に殊なるものがある。なぜか。舅は母の本族であり、姨は外戚の他族である。母族を求めれば、姨はその中に在らず、経典を考うれば、舅は誠に重しと為す。故にしゅう王は斉を念い、しばしば舅甥の国と称し、秦伯は晋をいだい、実に『渭陽』の詩を切にす。舅に服するは一時に止まるに、姨の為に居喪すること五月、名に循って実を喪い、末を逐って本を棄つ。蓋し古人の情、あるいは未だ達せざる所あり、損益すべき所は、実にここに在るか。『記』に曰く、「兄弟の子は、猶子のごとし。蓋し引いてこれを進むるなり。嫂叔の服せざるは、蓋し推してこれを遠ざくるなり」と。礼に、継父同居すれば、則ちこれがために期服す。未だ嘗て同居せざれば、則ち服せず。従母の夫、舅の妻、この二夫人は相為に服す。或いは曰く、同爨すれば緦麻なりと。然らば則ち継父のいたずらは、並びに骨肉に非ず、服重なるは同爨に由り、恩軽きは異居に在る。故に知る、制服は名に繫がるといえども、亦た恩の厚薄に縁ることを。或いは長年の嫂、孩童の叔に遇い、劬労して鞠養し、情は新生のごとく、飢えを分かち寒さを共にし、契闊して偕老す。譬えば同居の継父、他人の同爨に方べば、情義の深浅、寧ぞ同日に言うべきや。その生に在りては、これを愛すること骨肉に同じくし、その死に及んでは、則ち推してこれを遠ざくという。その本たずを求めれば、深く未だ諭せざる所なり。ごとし推して遠ざくことを是と為すならば、則ち生くるに共に居るべからず。生くるに共に居ることを是と為すならば、則ち死して同行路たるべからず。その生を重んじてその死を軽んじ、その始を厚くしてその終を薄くす、情に称して文を立てる、その義いずくにか在る。且つ事嫂見称せられること、載籍一に非ず。鄭仲虞は則ち恩礼甚だ篤く、顔弘すべは則ち誠を竭くして感を致し、馬援は則ちこれを見れば必ず冠し、孔伋は則ちこれを哭して位を為す。これ並びにみずから教義を践み、仁孝友に深く、その尚ぶ所の旨を察すれば、豈に先覚者に非ずや。但だその時に当たりて、上に哲王無く、礼は下の議する所に非ざれば、に深情を千載に鬱積せしめ、いたおさを万古に蔵せしむ。その来ること久し、豈に惜しまざらんや。今、欽明辰に在り、聖人らる。五礼詳かに洽く、一物遺る無し。猶且つ永く慎終を念い、神を凝らして遐想す。尊卑の序は、煥乎として大いに備わるといえども、喪紀の制は、或いは情理未だ周らざる有りと為し、爰に秩宗に命じ、更に詳かに考正せしむ。臣等、明旨に遵い奉り、類に触れて旁に求め、群経を採摭し、伝記を討論す。或いは兼ねて名実を引き、文無きの礼咸く秩序を正し、惇睦の情畢く挙げ、既往に於ける薄俗を変じ、将来に篤義を垂る。信に六籍の談う能わざる所、百王を超えて独り得る所なり。諸儒の守る所、互いに異同有り、その中を詳かに求め、聖旨を申明す。謹んで按ずるに、かつ祖父母旧服斉衰三月、請う、斉衰五月に加えん。嫡子婦旧服大功、請う、期服に加えん。衆子婦小功、今請う、兄弟子婦と同く大功九月と為さん。嫂叔旧服無し、今請う、小功五月報と服せん。その弟妻及び夫兄も、亦た小功五月。舅服緦麻、請う、従母と同く小功と服せん。

制、これを可とす。

『喪服』を緬尋すれば、母の名はこれ定まり、嫡、継、慈、養、皆その中に在り。惟れ出母の制は、特に出妻の子を言い、己を生むに非ざるを明らかにし、則ち皆服無し。是を以て令に云う、母嫁す、又云う出妻の子。出はその子を言い、以て生む所を著わし、嫁すは即ち母を言い、養、嫡を通包し、俱に当に解任すべく、併せて心喪を合す。その解せざる者は、惟れ継母の嫁ぐ有るのみ。継母は名と為す、正に前妻の子に拠る。嫡は諸孽に於いて、礼に継母の文無し。甲令今既に行わるれば、嗣業理に心制を申すべし。然れども勅を奉り議定し、方に永則を垂れんとす。令に安からざる有れば、亦た須らく釐正すべし。窃かに嫡、継、慈、養は、皆生む所に非ず、並びに行路に同じ。嫁ぐは出に比べ稍軽しといえども、父に於いて終に義絶と為す。継母の嫁ぐは、既に親母に殊なり、慈、嫡義絶すれば、豈に心喪を合すべけんや。望み請う、凡そ生む所に非ざる者、父卒して嫁ぐは、父の後を為す者は服無く、承重に非ざる者は杖期とし、並びに心喪せず、一同継母とせん。情礼に符し、旧章を玷さず。又た心喪の制は、惟れ服屈に施し、杖期の服は、官を解くに応ぜず。而るに令文三年斉斬せいざんも、亦た心喪の例に入れ、杖期官を解くは、又た妻喪の舛有り。又た礼に依れば、庶子その母の為に緦麻三月。既に是れ生む所の母服なれば、例になぞらえて亦た官を解くに合す。令文漏れて言わず、事に於いて終に須らく修附すべし。既に嫡母等嫁ぐと同一の令条なれば、総議して請う改め、理允愜たる者と為さん。文武官九品已上を集めて議するに依う。司衛正卿房仁裕等七百三十六人の議を得、一に司礼の状に依ることを請い、嗣業官を解かず。右金吾衛将軍薛孤呉仁等二十六人の議を得、嗣業官を解くことを請い、司礼の状に同じからず。母は生む所に非ず、出嫁して義絶す。仍って職を解かしむるは、情に縁るを紊す。杖期官を解くは、妻服を甄かず、三年斉斬、あやまって心喪と曰う。庶子母の為に緦麻、その中制を漏す。これ並びに令文の疏舛、理に因襲し難し。房仁裕等の議に依い、総べて修附を加え、不朽に垂れん。その礼及び律疏に関渉有る者も、亦た請う此に准えて改正せん。嗣業は既に嫡母改醮に非ざれば、官を解くに合せず。

詔してこれに従う。

乾は尊く坤は卑く、天は一にして地は二なり、陰陽の位分かれ、夫婦の道これに配す。死喪の威、隆殺の等に至りては、礼経五服の制、斉斬に殊あり、考妣三年の喪、貴賤隔てなし、もって免懐の慈を報い、もって罔極の恩に酬いる所以なり。上古に稽うれば、喪期数無く、中葉に及びて、方に歳年有り。『礼』に云う、「五帝時を殊にし、楽を沿い襲わず、三王代を異にし、礼を襲わず」と。『白虎通』に云う、「質文再変し、正朔三にして復す」と。周公礼を制してより後、孔父経を刊してより以来、爰に厭降の儀を殊にし、もって服紀の節を標す。重軽は俗に従い、斟酌は時に随う。故に知る、礼は天より降らず、地より出ずるに由らず、人に在りて消息し、時に適うの中なるを。春秋諸国、魯最も礼を知る、周公の後、孔子の邦なるが故なり。晋の韓起聘に来たりて言う、「周礼尽く魯に在り」と。斉の仲孫盟に来たりて言う、「魯猶お周礼をる」と。尚お子張高宗の諒陰三年を問い、子思其の子に出母に服するを聴かず、子游同母異父の昆弟の服は大功なりと謂い、子夏合は斉衰の制に従うべしと謂う。此等並びに四科の数、十哲の人、孔門に高歩し、聖訓を親承し、喪事に遇うに及びて、猶お此れを以て疑いを致す、即ち明らかなり、古より以来、のぼ降一ならざることを。三年の制、説者紛然たり。鄭玄は二十七月と為し、王粛は二十五月と為す。又改葬の服、鄭は緦服三月と云い、王は葬を訖て除くべしと云う。又継母出嫁、鄭は皆服すべしと云い、王は継育に従うに於いて、乃ち之が為に服すと云う。又無服の殤、鄭は子生一月、之を哭すること一日と云い、王は哭すること一日を以て服の月にうと云う。鄭・王は経を祖とし伝を宗とし、各々異同有り、荀・摯は古を采り遺を求め、互いに損益を為す。方に知る、聖を去ること漸く遠く、残欠弥多く、故に会礼の家、名を聚訟と為し、寧ぞ定まらんや。而して父在りて母に三年するは、之を行うこと已に四紀を逾え、高宗大帝の代に出で、則天皇后の朝に従わず。大帝御極の辰、中宮献書の日、往時参議し、将に施行すべく、格に編し、之に服すること久し。前王是とする所は、疏して律と為し、後王是とする所は、著して令と為す。何ぞ必ずしも先帝の旨に乖き、人子の情を阻み、純孝の心を虧き、徳義の本に背かん。何か聖化に妨げ有り、何か彝倫に紊れ有りて、而して之に服すること週年を欲し、伯叔母と斉しくし、姑姉妹と同くせんとする。夫れ三年の喪は、白駒の隙を過ぐるが如く、君子親に喪すれば、終身の憂い有り、況んや再周さいしゅうをや。夫れ礼とは、たいなり、履なり、跡を以て之を示す。孝とは、畜なり、養なり、心を以て之に因る。小人は不仁を恥じず、不義を畏れず。之に服すること制有りて、愚人をして企て及ばしめ、之に衰を衣せて、之を見る者をして痛みを摧かしむ。此を以て人を防ぐも、人猶お朝に死して夕に忘るる者有り、此を以て人を制するも、人猶お服を釈して吉に従う者有り。方今漸く古樸に帰し、須らく孝義を敦くし、賢を抑え愚を引き、理は寧戚ねいせきし、稻を食い錦を衣るは、聴くに忍びざる所なり。若し庶事朝儀、一に周礼に依らば、則ち古の人臣君に見ゆるや、公卿大夫は羔雁・珪璧を贄とす、今何の故にか依らざるか。周ののりを用うるや、墨・劓・宮・刖、今何の故に行われざるか。周は則ち侯・甸・男・衛、朝聘数有り、今何の故に行われざるか。周は則ち五十ならざれば仕えず、七十ならざれば朝に入らず、今何の故にか依らざるか。周は則ち井・邑・丘・甸、以て徴税を立て、今何の故に行われざるか。周は則ち三老五等、父死して子及び、今何の故に行われざるか。周は則ち冠冕衣裘、車に乗じて戦い、今何の故に行われざるか。周は則ち分土五更、膠序老を養い、今何の故に行われざるか。諸此の如き例、勝げて述ぶべからず。何ぞ独り孝思の事を愛し、其の母に一年の服を愛せんとする。痛心すべく、慟哭すべき者なり。『詩』に云う、「哀哀たる父母、我を生みて劬労す」と。『礼』に云う、「父の子を親むるや、賢を親しみて無能を下す、母の子を親むるや、賢なれば則ち之を親しみ、無能なれば則ち之を憐れむ」と。阮嗣宗は晋代の英才、方外の高士、母は父に重しと為す。斉斬の升数に拠れば、粗細已に降り、何ぞ忍びて之が服の節制を、周に減ぜんとする。豈に後代の士、尽く古に慚ずるあらんや。古に循うも必ずしも是ならず、今に依るも必ずしも非ならず。又同爨は緦に服す、礼経明らかに義を著す。嫂叔は遠く別れ、諸の路人に同し。之を引きて進め、類に触れて長ず。猶子咸に苴枲を衣し、季父緦麻に服せず、遠きを推すの情余り有り、親を睦ますの義未だ足らず。又母の昆弟、情渭陽に切なり、翟酺は舅の冤を訟え、甯氏は甥の相を宅す、我が出ずるや、義亦殷かなり。従母の尊に同じからずして、遂に小功の服を降す、諸の古礼に依るも、俗情に爽い有り。今舅を貶して姨を宗とす、是れ今を陋しみて古を栄えしむるなり。此れ並びに太宗の制なり、之を行うこと百年なり、輒ち刊復を為さんとす、実に用うるに疑い有り。

ここに於いて紛議定まらず。履冰又上疏して曰く、「『礼』:父在りては、母に十一月にして練、十三月にして祥、十五月にして禫、心喪三年。上元中、則天皇后表を上り、父没の服に同じからんことを請う、亦未だ行わるること無し。垂拱年中に至りて、始めて格に編入し、易代の後、俗乃ち通行す。臣開元五年、頻りに旧に仍らんことを請う。恩勅並びに嫂叔舅姨の服も、亦付す所司詳議せしむ。諸司議する所、同異相参す。所司は唯だ斉斬の文を執り、又曰く亦た典礼に合すと。窃に見るに新修の格、猶お垂拱の偽に依り、祖父母安存するに致り、子孫の妻亡没し、下房筵幾、亦た再周を立て、甚だ謂う無きなり。『周易・家人』の卦に拠れば云う、『利女貞、女は内に位を正し、男は外に位を正す。男女正しければ、天地の大義なり。家人に厳君有り、父母之を謂うなり。父父たり、子子たり、兄兄たり、弟弟たり、夫夫たり、婦婦たり、家道正しくして天下正し』と。『礼』:『女室に在りては、父を以て天と為し、嫁に出でては、夫を以て天と為す』と。又:『家に在りては父に従い、嫁に出でては夫に従い、夫死しては子に従う』と。本より自ら専らに尊に抗うの法無し。即ち『喪服四制』に云う、『天に二日無く、土に二王無く、国に二君無く、家に二尊無く、一を以て之を理うるなり。故に父在りて母に周服するは、二尊を避くるなり』と。伏して惟うに陛下は家国を正しく持ち、孝を以て天下を理め、而して宸衷に断ぜず、此の礼を詳正せず、末俗に随い、児女の情を顧念せんとする。臣恐るらくは後代復た婦夫の政を奪うの敗有らんことを」と。

疏奏未だ報いず。履冰又上奏して曰く、

臣は聞く、夫婦の道は人倫の始めなりと。尊卑は天地に法り、動静は陰陽に合し、陰陽和して天地生成し、夫婦正しくして人倫式序す。家より国を刑(のり)とし、牝鶏晨(あした)に無く、四徳の礼愆あやま(あやま)らず、三従の義ここに在り。即ち『喪服四制』に云う、「天に二日の無く、土に二王の無く、国に二君の無く、家に二尊の無く、以て一にこれを理(おさ)むるなり。故に父在りて母に服するに周(しゅう)を為すは、二尊の無きを見るなり」と。旧儀に准(なぞら)うれば、父在りて母に一週いっしゅう(いっしゅう)にして霊を除き、再周(さいしゅう)にして心喪す。父は必ず三年にして後に娶るは、子の志を達するなり。豈に先聖、生む所に情無からんや、固より家国に意有る者なり。原(たず)ぬるに上元肇年(じょうげんちょうねん)、則天已に潜かに政を秉(と)り、将に僭篡を図り、預(あらかじ)め自ら先を崇めんとす。慈愛の喪を升(のぼ)せんことを請い、以て尊厳の礼に抗せんとす。斉斬(せいざん)の儀は改めずと雖も、而も几筵きえん(きえん)の制遂に同じ。数年之間、未だ通用せず。天皇晏駕し、中宗蒙塵す。垂拱の末、果たして聖母の偽符を行い、載初の元、遂に易代の深釁(しんきん)を啓く。孝和は名は反正すと雖も、韋氏復た晨鳴をなら(なら)う。孝和は意に非ずして暴崩し、韋氏旋(ただち)に制を称す。陛下の英算にこうむ(こうむ)らずんば、宗廟何に由りて克く復せん。『易』に云う、「臣其の君を弑し、子其の父を弑すは、一朝一夕の故に非ず」と。其れこれを謂うか。臣謹んで礼意を尋ぬれば、防杜実に深し。若し早く図りて刊正せずんば、何を以て後に戒を垂れん。是を以て薄(わず)かに礼教を言い、旧章に請い依らんとす。恩勅通明にして、蒙(こうむ)りて所司に付し詳議せしむ。且つ臣の献ずる所は、蓋し夫婦の綱を正さんことを請うなり。豈に母子の道を忘れんや。諸議多く其の本源を討たず。非議する所は、大凡(おおよそ)只だ罔極の恩を論ずるのみ。喪は寧戚(ねいせき)せよと。禽獣は母を識りて父を識らずと。秦書を燔(や)きて後、礼経残欠し、後儒纘集さんしゅう(さんしゅう)す、以て憑むに足らずと。豈に伯叔母の服と同じくすべけんや、豈に姑姊妹の制に等しからんやと。三王礼を相襲(そうしゅう)せず、五帝楽を相沿そうえん(そうえん)せずと。斉斬以て升降足れり、歳年何ぞ忍びて同じからんと。此れ並びに道聴途説の言、未だ先王の旨を習わず、又安んぞ以て経邦理俗の礼を議するに足らんや。臣は経義に拠りて以てこれを明かさんことを請う。云う所の「罔極の恩」とは、春秋祭祀、時に之を思う。君子終身の憂有り、霜露の感有り。豈に一二周の服に止まらんや。故に聖人は朝に死して夕に忘るる有らんことを恐れ、曾(かつ)て鳥獣の若(ごと)くも及ばざらんと為り、中制を立て、賢不肖をして共に文理を成さしむるのみ。云う所の「喪は寧戚せよ」とは、孔子林放の問に答うるなり。至(いた)れば太奢太儉、太易太戚、皆礼中に非ず。いやし(いやし)くも中を得ずんば、名づけて倶に失うと為す。太儉太戚に如かず。毀(やぶ)れて性を滅すは、猶お朝死夕忘にまさ(まさ)れり。此れは喪に臨み哀毀の容を論ずるなり。豈に同宗異姓の服に比せんや。云う所の「禽獣は母を識りて父を識らず」とは、禽獣群居して聚筜(しゅとう)すれども、家国の礼無し。わか(わか)きは親愛其の母を知ると雖も、長じて尊厳其の父を解せず。此れを引きて諭と為せば、則ち亦た禽獣の若(ごと)くも及ばざるか。云う所の「秦書をきて後、礼経残欠し、後儒纘集す、以て憑むに足らず」とは、人間或いは遺逸有りと雖も、豈に家戸到りて之を燔かんや。仮若し尽く燔くとも、苟(いやし)くも信ずべからずんば、則ち墳黄(ふんこう)(すべ)て謬(あやま)り、庠序徒いたずら(いたずら)に立つ。非聖の談、復た云う安くにか属せん。云う所の「伯叔姑姊の服と同じし」とは、伯叔姑姊に筵杖の制、三年の心喪有りや。云う所の「五帝楽を相沿せず、礼を相襲せず」とは、誠に是れ言なり。此れは則天の私を懐(いだ)き禍をつつ(つつ)むの情なり。豈に復た楽を相沿し礼を襲わんや。云う所の「斉斬以て升降足れり」とは、母は斉、父は斬、易(か)うべからざるの礼なり。『三年問』に按ずるに云う、「将に修飾の君子か、三年の喪は、駟の隙を過ぐるが若し、之を遂(お)うれば、則ち是れ窮無し。然らば何を以て周(しゅう)とする。曰く、至親は以て周を断つ。是れ何ぞ。曰く、天地則ち已に易(か)わり、四時則ち已に変ず。其れ天地の間に在る者は、更始せざる莫(な)し。是を以て之にかたど(かたど)るなり。然らば何を以て三年とする。曰く、加重するのみ」と。故に父は加えて再周に至り、父在りて母には三年の心喪を加う。今者還た父没の制に同じくせば、則ち尊厭の律安くにか施さん。『喪服四制』又た曰く、「凡そ礼の大体は、天地を体(たい)し、四時に法り、則ち陰陽、人情に順う。故に之を礼と謂う」と。そし(そし)る者は是れ礼の生ずる所を知らず。徒(いたずら)に礼の制する所を識らざるのみならず、亦た孝子の通義に達せざるを恐る。臣謹んで『孝経』に按じ、以て陛下孝治の至徳要道に合するを明かにし、請う世俗礼を訾るの徒を論ぜん。夫れ至徳は孝悌を謂い、要道は礼楽を謂う。「風を移し俗を易うるは、楽に善きはし。上を安んじ民を治むるは、礼に善きは莫し」と。又た『礼』に「体無きの礼、声無きの楽」有り。『孝経援神契』に按ずるに云う、「天子の孝を就と曰う。就とは之を言う成なり。天子の徳天下におお(おお)い、沢万物に及ぶ。始終成就すれば、則ち其の親安きを獲(え)る。故に就と曰うなり。諸侯の孝を度と曰う。度とは法なり。諸侯国に居り、能く天子の法度を奉じ、危溢きいつ(きいつ)を得ずんば、則ち其の親安きを獲る。故に度と曰うなり。卿大夫の孝を誉と曰う。誉とは之を言う名なり。卿大夫の言行満ち布(し)き、能く悪称無く、誉遐邇かじ(かじ)に達すれば、則ち其の親安きを獲る。故に誉と曰うなり。士の孝を究と曰う。究とは以て明審を義と為す。士始めて朝に升り、親を辞して仕に入る。能く父に資(と)りて君に事うるの礼をつまび(つまび)らかにすれば、則ち其の親安きを獲る。故に究と曰うなり。庶人の孝を畜と曰う。畜とは含畜を義と為す。庶人情を含み朴を受け、躬(みずか)ら耕し力を作(な)し、以て其の徳を畜うれば、則ち其の親安きを獲る。故に畜と曰うなり」と。陛下は韋氏の逆を構うるを以て、中宗禍を降(くだ)す。宸衷哀憤し、えい情卓烈なり。初め一旅の衆無くして、遂に九重の妖を(た)ち、社稷を阽危(てんき)に定め、宗枝を塗炭にすく(すく)う。此れ陛下孝悌の至り、神明に通じ、四海に光り、通ぜざる所無し。諸侯をして其の法度を守らしめ、卿大夫をして其の言行を尽くさしめ、士をして親に資りて君に事わしめ、庶人をして天を用いて地を分かたしむ。此れ陛下の体無きの礼、以て上を安んじ人を理(おさ)むるなり。上元以来、政は武氏に由り、文明の後、法は凶人に在り。宗親を賊害し、良善を誅滅し、勲階歳にかさ(かさ)なり、酺赦年頻(しき)りなり。ねい(ねい)すれば則ち栄華し、正せば則ち遷謫す。神龍・景雲の際、其の事尤も繁く、先天・開元の間、斯の弊都て革(あらた)まる。此れ陛下の声無きの楽、以て風を移し俗を易うるなり。臣前状単略にして、議者未だ臣の懇誠を識らず。謹んで状を具し重ねて進め、請う中書門下に付し商量処分せしめん。臣の言若しとう(とう)ならば、然る後に敢えて側足して軒墀(けんち)に在らん。臣の言忠ならずんば、伏して請う荒裔こうえい(こうえい)に竄跡(さんせき)せん。

左散騎常侍元行沖が奏議して曰く、「天地の性、人最も霊なるは、蓋し智を以て萬物に周し、惟だ睿を以て聖を作し、貴賤を明らかにし、尊卑を辨じ、嫌疑を遠ざけ、情理を分つが故なり。是を以て古の聖人、性を征し本を識り、情に縁りて制服を制す。申す有り厭う有り。天父・天夫、故に斬衰三年、情理俱に盡くる者は、心に因り極を立つるなり。生ずれば則ち體を齊しくし、死すれば則ち穴を同じくし、陰陽に比して配合し、兩儀に同じくして化を成す。而るに妻喪は杖期、情禮俱に殺する者は、蓋し嫌疑を遠ざけ、乾道を尊ぶが故なり。父は嫡子の為に三年斬衰し、而して職を去らざる者は、蓋し祖を尊び嫡を重んじ、禮を崇めて情を殺するなり。父に事うるを以て君に事うるに資し、孝は父を嚴にするより大なるは莫し。故に父在りては、母の為に職を罷め齊周して心喪三年、之を尊厭と謂うは、則ち情は申して禮は殺するなり。斯の制は、以て飛走に異なり、華夷に別つべし。羲・農・堯・舜、之を易うる莫し。文・武・周・孔、同じく尊ぶ所なり。今若し尊厭の重きを捨て、嚴父の義を虧き、純素の嫌を略し、非聖の責を貽すは、則ち事古に師せず、名教を傷つくる有り。姨は從母の名を兼ね、即ち母の女黨にして、舅服に加うるに、理存す。嫂叔服せざるは、嫌疑を避くるなり。若し同爨の緦を引きて、推遠の跡を忘るるに以てせば、既に前聖に乖き、亦た從い難しと謂うべし。謹みて詳らかに三者の疑をし、並びに古に依るを請うて當たるべし。」と。是より百僚議意決せず。

七年八月に至り、敕を下して曰く、「周公禮を制す、當に歴代に刊すべからず。況んや子夏《傳》を作すは、乃ち孔門の受くる所なり。格條の内に、父在りて母の為に齊衰三年有り。此れ為す有りて為すなり。尊厭の義に非ず。其の改作するに與るは、古に師するに如かず。諸の服紀宜しく一に《喪服》の文に依るべし。」と。是より卿士の家、父在りて母の為に行う服同じからず。或いは既に周して禫し、禫服六十日にして服を釋し、心喪三年する者有り。或いは既に周して禫服終三年する者有り。或いは上元の制に依り、齊衰三年する者有り。時に議者は是非紛然たり。元行沖人に謂いて曰く、「聖人厭降の禮を制す。豈に母恩の深きを知らざらんや。祖を尊び禰を貴ぶを以てし、其の禽獸を遠く別ち、夷狄に近く異ならしめんと欲するが故なり。人情は易く搖ぐ。淺識の者衆し。一たび其の度を紊せば、其れ止むべけんや。」と。二十年、中書令蕭すう學士と與に五禮を改修定し、又議して上元の敕に依り、父在りて母の為に齊衰三年を以て定と為すを請う。及び禮を頒つに及びて、乃ち一に行うに依る。

二十三年、藉田の禮畢りて、制を正して曰く、「服制の紀、或いは通ぜざる所有らば、宜しく禮官學士をして詳議して奏聞せしむべし。」と。太常卿韋縚奏して曰く、「謹みて按ずるに《儀禮喪服》、舅は緦麻三月。從母は小功五月。《傳》に曰く、小功と為す可きは、名を以て加うるなり。堂姨舅・舅母は、恩の及ばざる所なり。外祖父母は小功五月。《傳》に曰く、何を以て小功と為す、尊を以て加うるなり。舅は緦麻三月、並びに情親にして服屬疏なる者なり。外祖は正尊にして、從母の服に同じ。姨舅は一等、服は則ち輕重殊有り。堂姨舅は親即ち未だ疏ならずと雖も、恩絕えて相為に服せず。親舅母は外族を承くるに來たり、同爨の禮を加えず。竊に古意猶お未だ暢ならざる所有るを以てす。且つ外祖を小功と為すは、此れ則ち正尊情甚だ親にして服屬疏なる者なり。請う大功九月に加え至らん。姨舅は儕類、親既に別無く、服宜しく齊等すべし。請う舅を小功五月に加え至らん。堂姨舅は疏降一等、親舅母は服に從うの例、先ず制服の文無し。並びに望むらくは袒免に加え至らん。臣聞く、禮は以て情を飾り、服は義制に從う。或いは沿あらた有り、損益明らかにす可し。事體既に大なり、理詳審を資す。望むらくは尚書省に付し衆官吏を集めて詳議せしめ、務めて折衷に從い、永く典則と為さんことを。」と。

ここにおいて太子賓客崔沔建議して曰く、「竊に聞く、大道既に隱れ、天下家と為る。聖人之に因り、然る後に禮を製す。禮教の設くるは、本と家を正す為なり。家道正しくして天下定まる。正家の道は、以て貳すべからず。総べて一を定めて議し、理は本宗に帰す。父は以て尊崇し、母は以て厭降す。豈に愛敬を忘れんや。宜しく倫序を存すべし。是を以て内に齊斬有り、外服皆緦麻、尊名の加うる所は、一等を過ぎず。此れ先王易えざるの道なり。前聖の志す所、後賢の傳うる所、其の来ること久し。昔、辛有伊川に適きて、髮を被りて野に祭る者を見て曰く、『百年に及ばず、此れ其れ戎か。其の禮先ず亡びん。』と。貞觀禮を修するに、時に舊章を改め、漸く渭陽の恩を廣くし、洙・泗の典に遵わず。及び弘道の後、唐隆の間、國命再び外族に移る。禮亡ぶの徵兆、儻は斯に見るか。天人の際、誡めざるべけんや。開元初、補闕盧履冰嘗て狀を進めて喪服の輕重を論じ、敕して僉議せしむ。時に群議紛拏し、各々積習に安んず。太常禮部、舊定に依るを奏す。陛下稽古の思を運らし、獨斷の明を發し、開元八年に至り、特ち別敕を降し、一に古禮に依る。事故實に符し、人方に向うを知り、式固く宗盟し、社稷の福なり。更に異議を圖るは、竊に未だ詳らかならざる所なり。願わくは八年の明旨を守り、以て萬代の成法と為さんことを。」と。

職方郎中韋述議して曰く、

天は万物を生じ、惟れ人最も霊なり。それ故に尊を尊び親を親しみ、生を別ち類を分け、存するには則ち其の愛敬を尽くし、没するには則ち其の哀戚を尽くす。情に縁りて服を制し、事を考へて言を立て、往聖討論し、亦已に勤めたり。上は高祖より、下は玄孫に至り、及び其の身に及ぶ、之を九族と謂ふ。近きよりして遠きに及び、情に称して文を立て、其の軽重を差し、遂に五服と為す。或は義を以て降し、或は名を以て加ふる有りと雖も、教ふる所従ひ、理は等を踰えず。百王易へず、三代知る可く、日月同じく懸り、咸仰ぐ所なり。微言既に絶えてより、大義復た乖き、文質遷る有りと雖も、必ず此の制を遵ふ。謹んで按ずるに《儀礼・喪服伝》に曰く「外親の服は皆緦麻なり」と。鄭玄謂ふ「外親は異姓なり。正服は緦麻を過ぎず」と。外祖父母は小功五月、尊を以て加ふるなり。従母は小功五月、名を以て加ふるなり。舅甥外孫・中外昆弟は本服に依りて緦麻三月。若し匹敵を以てせば、外祖は則ち祖なり、舅は則ち伯叔父の別なり。姨舅伯叔は則ち父母の恩殊ならず、而して独り外氏に殺す、聖人の心、良に以て有るなり。《喪服伝》に曰く「禽獣は母を知りて父を知らず」と。野人は曰く、父母何ぞ算せん。都邑の士は則ち尊祢を知る。大夫及び学士は則ち尊祖を知る。諸侯は其の太祖に及び、天子は其の始祖に及ぶ。聖人は天道を究めて祖祢に厚くし、姓族を系して其の子孫を親しみ、近くは則ち其の賢愚を別ち、遠くは則ち禽獣に異なり。此れに由りて言へば、母党は本族に比し、同じく貫く可からざる明らかなり。且つ家に二尊無く、喪に二斬無し、人の奉ずる所、貳ふ可からず。特り大宗に重きは、其の小宗を降す。人の後たる者は、其の父母の服を減ず。女子出嫁は、其の本家の喪を殺す。蓋し存する所は遠く、抑ふる所は私なり。今若し外祖及び舅に更に一等を加へ、堂舅及び姨を服紀の内に列すれば、則ち中外の制、相去ること幾何ぞ。礼を廃して情に徇ひ、務むる所は末なり。古の製作者は人情の易く動くを知り、礼の将に漸く失はんことを恐れ、其の同異を別ち、軽重相懸け、後来の人をして永く相雑へざらしめんと欲す。微旨斯に在り、豈に徒然ならんや。且つ五服には上殺の義有り、必ず源本を循り、方に条流に及ぶ。伯叔父母は本服大功九月、従父昆弟も亦た大功九月、並びに上祖より出づるを以て、其の服は祖を過ぐるを得ず。従祖祖父母・従祖父母・従祖昆弟は皆小功五月、曾祖より出づるを以て、服は曾祖を過ぐるを得ず。族祖祖父母・族祖父母・族祖昆弟は皆緦麻三月、其の高祖より出づるを以て、其の服は高祖を過ぐるを得ず。堂舅姨は既に外曾祖より出づ、若し之が為に制服せば、則ち外曾祖父母及び外伯叔祖父母も亦た宜しく制服す可し。外祖を大功九月に加へ至らば、則ち外曾祖は小功に合し、外高祖は緦麻に合す。若し此れを挙げて彼を捨てば、事は則ち均しからず。親を棄てて疏を録すれば、理は則ち順はざるなり。推し広むれば、是れ本族と異ならざるなり。服は皆報有り、則ち堂外甥・外曾孫・姪女の子は皆須く制服す可し。聖人豈に其の骨肉を薄くし、其の恩愛に背かんや。情の親き者は、服制乃ち軽し、蓋し公に本づく者は私に薄く、其の大なる者を存する者は細を略す、義に断ずる所有り、已むを得ざるなり。苟くも加ふ可くんば、亦た減ず可し、往聖を得て非とし、則ち礼経を得て隳す可し。先王の制、之を彝倫と謂ひ、奉じて周旋し、猶ほ失墜を恐る。一たび其の序を紊れば、庸ぞ止む可けんや。且つ旧章淪胥し、日の久しきに為る。存する所幾ばくも無く、又た之を棄てんと欲す。未だ達せずと曰ふと雖も、其の可なるを知らず。請ふ《儀礼・喪服》に依りて定めんと。

礼部員外郎楊仲昌議して曰く「謹んで按ずるに《儀礼》に曰く『外服は皆緦なり』と。又た曰く『外祖父母は尊を以て加へ、従母は名を以て加へ、並びに小功五月と為す』と。其の舅を緦と為すは、鄭文貞公魏徴已に議して従母の例に同じくし、小功五月に加へ至り訖る。今の加ふる所、豈に前の旨に異ならんや。文貞賢なりと雖も、周・孔聖なり、賢を以て聖を改めば、後学何に従はん。堂舅姨・堂舅母を並びに袒免に昇せば、則ち何を以て礼経を祖述せん。若し外祖父母を大功に加へ至らば、則ち豈に外孫に報を加ふること無からんや。若し外孫報の為に、服大功せば、則ち本宗の庶孫、何ぞ同等にして相浅からんや。儻し必ず是の如くせば、深く便ならざる所なり。窃に内外乖序し、親疏倫を奪ひ、情の沿ふ所、何の至らざる所無からんことを恐る、理必然なり。昔し子路に姉の喪有りて除かず、孔子之を問ふ、子路対へて曰く『吾兄弟寡くして忍びず』と。子曰く『先王礼を制す、道を行ふの人皆忍びず』と。子路聞きて之を除く。此れ則ち聖人言に因りて以て訓を立て、事を援りて情を抑ふるの明例なり。礼云はざる乎、礼を軽く議ふこと無かれと。明らかに天地に蟠り、彼の日月に並び、賢者之に由る、安んぞ敢へて小に損益有らんや。況んや夫れ《喪服》の紀は、先王の大猷、奉じて周旋し、以て人道を匡ふ。一辞寧く措き、千載是れ遵ひ、異端に渉る、豈に弘教と曰はんや。伏して望む各正礼に依りて、以て儒風を厚くせんことを。太常の所謂增加は、愚見以て不可と為す」と。又た戸部郎中楊伯成・左監門録事参軍劉秩並びに是の議に同じ、沔等と略同じ。議を奏す、上又た手勅して侍臣等に曰く「朕以爲らく、親姨舅既に小功を服すれば、則ち舅母は舅に於いて三年の服有り、服は是れ我を受けて厚くし、服を以て情を制す、則ち舅母の服は、全く舅に降すを得ず、宜しく緦麻を服す可し。堂姨舅は古今未だ制服せず、朕九族を惇睦せんと思ひ、引きて之を親しむ、宜しく袒免を服す可し。又た鄭玄《礼記》に注して云く『同爨緦なり』と、若し堂姨舅を同爨に比せば、親は則ち厚し。又た《喪服伝》に云く『外親の服は皆緦なり』と、是れ亦た堂姨舅に隔てず。若し服する所本を過ぐるを得ずして、須らく外曾祖父母及び外伯叔祖父母の為に制服せんとせば、亦た何ぞ傷かん。是れ皆親親敦本の意、卿等更に熟く之を詳にせよ」と。

侍中裴耀卿・中書令張九齢・礼部尚書李林甫らが奏上して言うには、「外族の親は、礼において厭降することなし。外甥が既に舅母のために喪服を着るならば、舅母もまたこれに報いて喪服を着るべきである。夫の外甥が既に報服を着るならば、夫の姨舅と類を同じくするのであり、外甥の妻は、喪服を着ないわけにはいかない。増やすところは甚だ広く、引き合いに出すところは次第に疎遠となる。微臣ら愚昧にして、なお理解しがたいところがある」。玄宗はまた手製をもって答えて言うには、「従服には六つあり、これはその一つである。降殺の制は、礼に明文がない。これらは皆、自らの身から親族を率いて、これをもって喪服を定める。存するものと抑えるものとは、全て推恩によるものである。朕の心情に安んじられないところがあるので、詳しく議するよう命じたのであり、軽率に古を変えようと欲し、異なることを示そうとしたのではない。卿らは『外族の親は、礼において厭降することなく、報服の制は、引き合いに出すところが甚だ疎遠である』という。そもそも姨舅とは、属従の中で最も近いものであり、親しさをもって言えば、姑伯と匹敵するものである。どうして引き合いに出すところが疎遠でありながら、親しい者の喪服を降格させることがあろうか。また、婦は夫に従う者である。夫の姨舅に対して、夫が既に喪服を着るならば、夫に従って喪服を着るのは、これによって親族を睦まじくするためである。実に不肖の者に及ばせ、賢い者に俯して従わせようと欲するのである。卿らはよく熟考すべきである」。耀卿らが奏上して言うには、「陛下は至仁の徳を体し、推恩の道を広め、弘く引き入れ進めて、睦親を示そうとされ、再び徳音を発し、更に詳しく議するよう命じられた。臣らが『大唐新礼』を按ずるに、親舅は小功に加えられ、従母と喪服を同じくする。これは当時の特命であり、軽重によって次第に増すのではなく、本宗に参じさせまいとし、礼の変更を慎重にしたものである。今、聖制は親姨舅を小功とし、更に舅母を緦麻とし、堂姨舅を袒免などの喪服と定め、『新礼』に類を取って、将来に示し、物情に通じ、我より則を作す。群儒の風議は、徒らに留まるのみである。併せて制に准じて施行することを望む」。制はこれに従った。天宝六載正月、出嫁した母は終わりまで三年の喪に服すべきである。