卷二十六
東都の太廟には、木主を置くべきではない。謹んで典禮を按ずるに、虞主には桑を用い、練主には栗を用い、栗主を重ねて作れば、桑主を埋める。これにより神に二主なく、天に二日なく、土に二王なきが如し。今、東都の太廟は、則天皇后の建てたる所にして、武氏の木主を置く。中宗はその主を去りてその廟を存せしめ、蓋し行幸遷都の所を備えんとす。且つ殷人は屡遷し、前八後五、前後遷都十三度、毎都に別に神主を立てるべからず。議する者或いは云う、「東都の神主は、既に曾て虔奉して礼せり、豈に一朝に廃すべきや」と。且つ虞祭には則ち桑主を立てて虔祀し、練祭には則ち栗主を立てて桑主を埋む、豈に桑主は曾て虔祀せざるを以て、乃ちこれを埋むるや。又、所闕の主は、更に作るべからず、作ること時ならざれば、礼に非ざるなり。
臣謹んで三代の典禮を詳らかにし、上は高祖・太宗の制度を稽へ、未だ嘗て両朝を並建し、二主を並饗するの礼有らず。天授の際、祀典変革す。中宗初めて旧物を復す、未だ暇あらずして典章を詳考せず、遂に洛陽に於いて宗廟を創る。是れ遷都の制を行ふ、実に建国の儀に非ず。及び西して上都に帰す、因循して未だ廃せず。徳宗嗣統し、墜典克く修まり、東都九廟、復た告饗せず。謹んで『礼記』を按ずるに、仲尼曾子の問いに答えて曰く、「天に二日無く、土に二王無く、嘗・禘・郊・社、尊に二上無し」と。これ以て二主の非礼を明らかにす。陛下は千載の大統を接ぎ、累聖の耿光を揚げ、先王を憲章し、後嗣に法を垂る。況んや宗廟の礼は、至尊至重、経に違ひ祀を黷す、時に不欽と謂ふ。特に望む、三代の令典を択び、高祖・太宗の憲度を守り、神龍の権宜の制を鑒み、建中の矯正の礼に遵ひ、経に依り古に復して、聖明に允属せんことを。伏して太微宮の光皇帝三代・睿宗聖文孝武皇帝の神主は、経義を参考するに、祔饗に合せず。遷置神主の礼に至りては、三代以降、経に明文無し。伏して望む、中書門下に委ね公卿礼官と質正詳定せしめんことを。
勅して所司に付す。太常博士王彦威等奏議して曰く、
是に至りて尚書省に下して集議せしむ。而して郎吏の議する所は、彦威と多く同じ。丞郎は則ち各其の見る所を執り、或ひは曰く「神主は合は太微宮に蔵むべし」と;或ひは云う「併せて合は埋瘞すべし」と;或ひは云う「闕主は当に作るべし」と;或ひは云う「輿駕東幸すれば、即ち上都の神主を載して東すべし」と。咸く意を以て言ひ、経に本づかず。竟に紛議以て定まらず、遂に行はれず。
六年三月、太常博士鄭路らが奏上して言うには、「東都太微宮の神主二十座は、去年二月二十九日に礼院が分析して奏聞を終えました。伏して今月七日勅『この礼は至って重く、典故に従うべきであり、礼官・学官に同議させて奏聞すべし』を奉じます。臣は今、学官らと詳議を終え、謹んで分析を具えて以下の如くします。献祖宣皇帝・宣荘皇后・懿祖光皇帝・光懿皇后・文徳皇后・高宗天皇大帝・則天皇后・中宗大聖大昭孝皇帝・和思皇后・昭成皇后・孝敬皇帝・地敬哀皇后、以前の十二座は、親尽きて迭毀すべきであり、宜しく諸太廟に遷し、興聖廟に祔すべし。禘祫の歳には、乃ち一たびこれを祭る。東都には興聖廟が無く祔すべからず、伏して請う、且く権に太廟の夾室に蔵むることを。未題の神主十四座は、前件の神主は既に題号の文無く、祝告の礼を伸べ難し。今、礼官らと商量し、伏して請う、告遷の日に、但だ旧太微宮内の空閑の地に瘞することを。恭しく事理を酌み、庶幾くは従宜に協わんことを」と。制して可とする。
太常博士段瓌ら三十九人の奏議に曰く、
礼の立てる所は、本づく所は誠敬にあり。廟の設くる所は、実に尊厳に在り。既に誠を薦むと曰うは、則ち宜しく一に統ぶべし。昔、周の東西に廟有りしも、亦た其の由る所を徴すべし。但だ洛を卜するの初めに縁り、既に営建を須い、又以て遷都未だ決せず、因りて両留を議す。其の事情を酌むに、広むるを務むるに匪ず、祭法明らかなり。伏して以うるに、東都太廟は、廃すること已に多時、若し増修を議せば、稍々前訓に乖く。何となれば。東都は始めて寢廟を制するは天后・中宗の朝に在り、事は一時に出づ、貞観・開元の法に非ず、前後因循して廃せざるは、亦た鎬京の文に踵くなり。『記』に曰く、「祭は数うるを欲せず、数うれば則ち煩し」と。天宝の中、両京悉く寇陷と為り、西都の廟貌は故の如く、東都は此れに因りて散亡す。是れ九廟の霊、其の煩祀を歆むるを欲せざるを知るなり。建中に葺かざるより以来、歳年を歴ること弥なり。今若し廟貌惟新ならば、即ち須らく室別に主有るべし。旧主は在りと雖も、大半合祧すべく、必ず几筵をして之を存せしむるは、所謂宜しく祧すべくして祧さざるなり。孔子曰く、「当に七廟五廟たるも、虚主無からしむべし」と、廟は主無きを得ざるを謂うなり。旧主に留去有らば、新廟便ち合せて創添すべし。謹んで『左伝』に按ずるに云く、「祔練して主を作す」と。又た戴聖云く、「虞して而して几筵を立つ」と。若し或いは過時にして之を成せば、便ち是れ凶を以て吉を幹くなり。創添は既に典ならず、虚廟又た儀に非ず。諸の礼文を考うるに、進退守る所無し。或いは曰く「漢は郡国に宗廟を置くこと凡そ百余所、今止だ東西に廟を立つ、何の安からざるか有らん」と。当に漢氏は秦の焚焼の余を承け、典故を識らず、廟制に至りては、率意に行う。比及ぶ元・成二帝の間、貢禹・韋玄成等継出し、果たして正論有り、竟に毀除に従う。足らく以て漢初は礼経に本づかざるを知り、又た安んぞ法を程すべけんや。或いは曰く「几筵は復た設くるを得ず、廟寢は何ぞ修営を妨げん、車駕の時巡を俟ち、便ち合せて載する所の主に於てすべし」と。其の終始を究むるに、又た以て之を論ずるを得。昨者降勅して参詳せしむるは、本と旧主を収めんと欲する為なり。主既に立たずんば、廟何ぞ施すべけん。仮令行幸して九州すと雖も、一一皆廟を立つるか」と。愚以為うらくは、廟は修むべからず、主は宜しく蔵瘞すべし。或いは坎室に就きて瘞し、或いは両階の間に瘞す、此れ乃ち百代常行易からざるの道なり。
其の年九月勅、「段瓌らの詳議は、東都に廟を立つべからず。李福らの別状は、又た異同有り。国家の制度は、須らく典礼に合すべく、証拠一ならずんば、則ち建立難し。宜しく並びに都省に赴かせて対議せしめ、須らく至当に帰すべし」。
工部尚書薛元賞らの議、
伏して建中の時に、公卿が東都の慶廟を修造することを奏請したことを考えるに、当時の議論は、大旨三つあった。一つは、必ずその廟を存置し、その主を備えて立て、時饗の日に、他の官に摂行させるというものである。二つは、廟を建て主を立て、存置するが祭らず、皇輿が時に巡幸するならば、そこで饗えるというものである。三つは、その廟を存置し、その主を一括して埋めるというものである。臣らはその三つの議論を立て、礼経を参酌すると、理として廟を存置すべきであり、主を置くのは合わない。謹んで『礼祭義』を按ずるに、「国を建てる神位は、右に社稷、左に宗廟」とある。『礼記』に云う、「君子宮室を営まんとすれば、宗廟を先とする」と。これにより王者が邦を建て都を設けるには、必ず宗廟・社稷を先にすることを知る。況や周の武王が天命を受け、始めて豊に都し、成王が宅を相し、また洛を卜し、新邑で歳の烝祭を行い、太室で周公を冊命した。故に『書』に曰く、「戊辰、王新邑に在り、歳を烝祭す。王太室に入りて祼す」と。成王はその後また豊に立ち、洛邑を成したが、嘗て久しく処することはなかった。平王に至って、始めて東遷を定めた。則ち周の豊・鎬には、皆宗廟があったことは明らかである。また按ずるに、曾子が「廟に二主あり」と問うた時、夫子は「天に二日無く、土に二王無く、嘗・禘・郊・社、尊ぶに二上無し、未だ其れ礼たるを知らず」と答えた。昔、斉の桓公が二主を作った時、夫子はこれを譏り、偽主と為した。これにより二主を並べて設けるべからざることも、また明らかである。夫れ聖王は社を建てて本を厚くし、廟を立てて祖を尊ぶ。これにより京邑には必ず宗社がある。今、国家は周・秦の両地を定め、東西の両宅と為し、九衢を開いて宮闕を立て、百司を設けて拱衛を厳にし、玄象に法を取り、京師と号す。既に帝宅を厳にす、神位を虚しくするは難し。若し宗廟無くば、何を以て皇都と謂わんや。然れども人に依る者は神、誠に在る者は祀る。誠は外より至るに非ず、必ず中より出づ。理として親敬に合し、以て神明に交わるを用うべし。位は両都に存するに宜しく、廟は偕に立てるべし。誠に二祭に専らにするは難く、主は並べて設くべからず。或いは『礼』に云う「七廟五廟虚主無し」とは、主無くしては不可と謂う所以である。これにより天子巡狩するも、亦た尊ぶ所あり、尚お斎車を飾り、遷主を載せて行く。今若し廟を修して主を埋め、東都太廟と同じく九室皆虚ならば、既に経に違い、須らく其の説を徴すべし。臣復た礼意を探賾し、因って尽くしてこれを論ず。所云う「七廟五廟虚主無し」とは、見饗の廟虚しくすべからざるを謂うなり。今の両都は、雖も各々廟有りと雖も、禘祫饗献は、斯れ皆上京に親奉し、神主几筵は、東廟に虚しく陳ぶべからず。且つ『礼』に云う、「唯だ聖人のみ能く帝を饗え、孝子のみ能く親を饗う」と。昔、漢の韋玄成が郡国の祀りを廃するを議し、亦た曰く、「廟を京師に立て、躬親して事を承け、四海の内、各々其の職を以て来り祭る」と。人情礼意、此くの如く較然たり。二室既に並び居らず、二廟豈に偕に祔せんや。但だ都する国の、見饗の廟は、既に虚室無ければ、則ち経議を通ずるに葉う。又た主を置きて饗えず、以て巡幸を俟たんと欲する者あり。昔、魯が僖公の主を作りし時、虞・練の時に於いてせず、『春秋』これを書いて譏る。合祔の主、其の時に作るに非ざれば、尚お譏らるる所と為る。今若し合祔せざる主を置き、時に因らずして作らば、経に違い礼を越ゆること、此れより甚しきは莫し。豈に九室合饗の主有りて、置きて饗えざるの文有らんや。両廟始めて周公に創り、二主夫子に譏らるる所と為る。古より製作するは、皆周孔を範とす。旧典猶在り、足らく以て明徴すべし。臣が東都の廟は則ち存すべく合し、主は置くべからずと謂う所以なり。今将に廟宇を修建せんとす、誠に典礼に虧けず。其の太微宮中に見在する六主は、請う東都太廟の修造畢るを待ち、礼を具えて西夾室に迎え置き、閟して饗えず、以て陛下の厳祀の敬を彰し、聖朝の尊祖の義を明かにせん。
太学博士直弘文館鄭遂等七人の議曰く:「夫れ国の大事を論ずるは、必ず正を本とし経を根として、以て中道に臻らしむ。聖朝は広孝を以て先と為し、礼を得るを以て貴しと為す。而して臣下敢えて経を以て対えざらんや。三論六故は、既に前議に詳かなり。再び天問を捧げて、諸家の説を陳べ、典訓に求め、大中を考うるに、廟には必修の文有り、主には置くべき理無し。何となれば、正経正史、両都の廟は徴すべし。『礼』に称す『天子太廟の処を卜せず』、『日を択び国を建つるの地を卜すれば、則ち宗廟知るべし』と。則ち廟を廃するの説は、恐らく廃すに宜しきに非ざるなり。謹んで『詩』・『書』・『礼』の三経及び漢朝の両史を按ずるに、両都並びに廟を設け、而して主を載するの制は、久しく已に行わる。敢えて明徴せずして文飾を去り、経文を援拠し、前見を易えず。東都太廟は、修崇に合すべく務め、而して旧主は当に埋むべく、太微宮の蔵する所に請う。皇帝洛に事有らば、則ち斎車を奉じて主を載せて行く。」
太常博士顧德章議曰く:
徳章はまた中書門下及び礼院に上申した詳議の二つの状があり、ともに後ろに載せている。その一つは、
伏して見るに八月六日の勅、東都の太廟を修めんと欲し、会議して事を議せしむ。この時すでに議状あり、礼に准うれば更に修むるに合わず。尚書丞郎以下三十八人、皆同じく状に署す。徳章の官は礼寺に在り、実に司存を忝うす。聖上の厳禋敬事の時に当たり、相公の古を尚び華を黜する日に会し、もし国の祀典に乖き、礼文に違うことあらば、ただ曠官に責を受くるのみならず、窃かに明代に恥を貽すを懼る。ここをもって勤勤懇懇、言わずしてまた言わんとするなり。昨者の異同の意は、尽く指陳すべし。一には都の名有れば、便ち廟を立つるに合うとし、次には廟宇を崇修し、以て時巡を候わんと欲す。深く知らず、廟は虚たるに合わず、主はただ一を載すのみなることを。謹んで按ずるに貞観九年の詔に曰く、「太原の地、王業を肇基す。事は豊・沛に均しく、義は宛・譙に等し。礼を約して言えば、須らく廟を立つるを議すべし。」時に秘書監顔師古議して曰く、「臣、傍らに祭典を観、遍く礼経を考うるに、宗廟は皆京師に在り、下土に別に置かず。昔、周の豊・鎬は、実に遷都なり。乃ち事に因りて便ち営むのみ、一時に別に立つと云うに非ず。」太宗その奏を許し、即日にして停む。これに由りて言えば、太原に豈に都号無からんや。太原爾の時猶お廃す、東都の立たざるを知るべし。かつ廟室惟新なれば、即ち須らく主有るべし。主既に蔵瘞せば、虚に非ずして何ぞ。これ都あれば廟を立つとの言、攻めずして自ら破るるなり。また按ずるに『曾子問』に曰く、「古者は師行するに、必ず遷廟の主を以て行くか。孔子曰く、天子巡狩するに、必ず遷廟の主を以て行く。斎車に載す。必ず尊ぶ有るを言うなり。今や七廟の主を取りて以て行くは、則ち失えり。」皇氏云く、「遷廟主とは、ただ新たに遷したる一室の主を載すのみ。」未だ祧せざるの主は、載行するの文無し。仮に時巡を候わんとすれば、自ら一室を修営すべし。九室を構えんと議するは、何に依憑するか。夫れ宗廟は、尊事なり、重事なり。至尊至重、安んぞ疑文を以て論を定むべけんや。言苟も経に経ざれば、則ち擅議と為す。近き者勅旨、凡そ事を議するに、皆須らく一一経に据うべし。若し経文無ければ、史を以て証と任す。もし或いは経史皆据うる所無ければ、率意して言うを得ず。則ち廟を東都に立つるは、正に経史に据うる所無し。果たして臆説に従わば、前後相違する無からんや。『書』に曰く、「三人占えば、則ち二人の言に従う。」会議する者四十八人、同じくする所の者は六七人のみ。夫れ二三の喩えに比ぶれば、又何ぞ其れ多きや。夫れ堯・舜の帝と為る、今に至るまで詠称する者は、他術異智有るに非ず。賢臣を以て輔翼し、能く古道を順考するを以てなり。故に堯の書に「若し古の帝堯を稽う」と曰う。『孔氏伝』に曰く、「能く古道を順考す。」傅説の殷の君を佐くるも、亦た曰く「事古に師せずんば、説の聞く所に匪ず。」古道に考うること既に前の如く、国章に験すこと又た此の如し。典実を求めんとすれば、諸を易うる無し。伏して希わくは必ず正経を本とし、稍々浮議を抑え、皋・夔の古道に踵き、周・孔の遺文を法とせば、則ち天下の貞を守るの儒、実に幸甚とする所なり。その余は已に前議に具す。
その二は、
夫れ宗廟の設けは、誠敬を主とす。旋って典礼を観れば、貳すれば則ち誠に非ず。ここをもって遷都に因らざれば、則ち別に廟宇を立たず。『記』に曰く、「天に二日無く、土に二王無く、嘗・禘・郊・社、尊に二上無し。」又た曰く、「凡そ祭、其れ之を廃する有らば、挙ぐるを敢えてせず。其れ之を挙ぐる有らば、廃するを敢えてせず。」則ち東都太廟は、廃すること已に多時、若し増修を議せば、稍々前志に違う。何となれば、聖暦・神龍の際、武后始めて明辟に復し、中宗其の廟を取りて太廟に易置す。本より人心を権に固めんと欲するのみ、経久の制に非ざるなり。伏して以て、存する所の神主は、既に祧蔵を請う。今廟室惟新なれば、即ち須らく主有るべし。神主は時に非ざれば造らず、廟寢又た虚の議無し。もし修復して以て時巡を俟たんとすれば、惟だ一主を載す。方冊に備わり、得て詳かにすべし。又た経中の義を引きて数等有り、或いは弟子の語、或いは他人の言なり。今廟は虚たるべからず、尊に二上無く、時に非ざれば主を造らず、一主を載して行うに合うは、皆大聖祖及び宣尼の親しく発明する所、常の据えに比ぶれば、同じき塗に不可なり。又た丘明『春秋』を修むるに、悉く君子を以て褒貶を定む。陳泄の忠を以て罪を得、晋文の臣を以て君を召すに至りては、此の数条に於いて、復た君子を称せず。得失を評せんと将て、特ち宣尼を以て之を断つ。『伝』に曰く、「危疑の理は、須らく聖言を以て明にすべし。」或いは東都は他の都と同じからず、地に壇社宮闕有り、権に葺かんと議すれば、是に似て妨げ無からんとす。此れは意懐に酌むのみ、経据と曰うに非ず。但だ遍く今古を討つも、壇社に廟を立つるの証無し。用いて以て説と為せば、実に未だ安からず。謹んで上は殷・周より、傍ら故実を稽うるに、遷都に因るの外、別に廟を立つるの文無し。
制して曰く、「古より礼を議するは、皆人情を酌む。必ず稷嗣の幾を知り、賈生の識達る有りて、方に大政を発揮し、皇猷を潤色すべし。その他の管窺は、蓋し数うるに足らず。公卿の議は、実に施行すべく、徳章の陳ぶる所は、最も浅近なり。豈に苟くも独見を申し、妄りに異同有らんや。事は中を酌むを貴び、理は衆に従うに宜し。宜しく有司に令して日を択び太廟を修崇せしめ、留守李石を以て使と充て勾当せしむべし。」六年三月、日を択ぶこと既に定まり、礼官既に行わんとす。旋って武宗の登遐に以て、其の事遂に寝す。宣宗即位し、竟に太微宮の神主を迎えて東都太廟に祔し、禘祫の礼、尽く神主を出して太祖の前に合食せしむ。
『貞観礼』に、祫享には功臣を廟庭に配享し、禘享には則ち配せず。当時の令文に、祫禘の日には功臣並びに配享を得。貞観十六年、将に禘祭を行わんとす。有司礼官学士等を集めて議せんことを請う。太常卿韋挺等一十八人議して曰く、「古の王者は、四海を富有すと雖も、朝夕に宗廟に上膳せず。其の礼過ぐるを患うるなり。故に曰く、『春秋祭祀し、時に之を思う。』臣に大功有りて祿を享くるに至りては、其の後孝子礼に率い、潔粢豊盛、礼・祀・烝・嘗、四時に輟まず、国家大祫するに、又た配するを得。以て其の勲を昭明にし、其の徳を尊顕し、以て嗣臣を勧むるなり。其の禘及び時享には、功臣皆応に預かるべからず。故に周礼六功の官は、皆大烝に配するのみ。先儒皆大烝を取って祫祭と為す。高堂隆・庾蔚之等多く鄭学に遵い、未だ将に時享と為さんとせず。又た漢・魏の祫祀は、皆十月に在り。晋朝の礼官、孟秋の殷祭を用いんと欲す。左僕射孔安国啓弾し、坐して免るる者一ならず。梁初誤って功臣を禘す。左丞何佟之駁議し、武帝允して依り行う。降りて周・齊に洎るまで、俱に此の礼を遵う。窃かに五年再殷は、諸の天道に合い、一大一小は、通人の雅論なり。小なれば則ち人臣預からず、大なれば則ち兼ねて功臣に及ぶ。今礼禘に功臣無しは、誠に礼易うべからざるを謂うなり。」乃ち詔して令を改め礼に従わしむ。開元中に至り礼を改修し、復た令して禘祫俱に功臣を以て配饗せしむ。
旧儀によれば、天宝八年閏六月六日の勅文に、「禘祫の礼は序位を存するためにあり、質文の変は時に従うことを取る。国家は仙宗を本とし、聖祖を承けて業とし、重熙累盛にして既に無疆の休を賜わり、合享して神に登り、不易の典を弘めんと思う。今より以後、毎たび禘祫には並びに太清宮聖祖の前に位を設けて序正し、上は陟配の礼を明らかにして玄象を欽若し、下は虔祭の誠を尽くして至道に違わざらしむ。比来、毎たび禘祫に縁り、時享は則ち停む。事は宜に従うに適すと雖も、礼は必備に虧くことある。已後、毎たび禘祫に縁り、其の常享は素饌を以てし、三焚香を以て三献に代えよ」とある。
今年十月、太廟に祫享し、併せて遷廟の献祖・懿祖二神主を饗う。《春秋》の義によれば、毀廟の主は太祖に陳べ、未だ毀廟せざるの主は皆太祖に升り合食す。太祖の位は西に在りて東に向かい、其の下の子孫は昭穆相対し、南北を別つ。初め毀廟遷主享まざるの文無し。是の礼を徴するに、周室より自りしも、而して国朝の祀典は周と異なるべし。且つ周は后稷を以て天に配し、始封の祖と為し、而下に乃ち廟を立つ。廟毀れ主遷るは皆太祖の後に在り。禘祫の時、太廟の太祖に先だつこと無し。正に太祖東向の位を全うして其の尊を疑わず。然れども今年十月太廟に祫饗するに、伏して魏・晋の旧制を据えて比と為し、則ち別廟を構築すべし。東晋は征西等四府君を以て別廟と為し、禘祫の時に至りては、則ち太廟に於いて正に太祖の位を以て其の尊を申べ、別廟に高皇・太皇・征西等四府君を祭りて以て其の親を叙す。伏して国家若し此の義を用うれば、則ち宜しく別に献祖・懿祖の為に廟を立て、禘祫に之を祭りて以て其の親を重んずべし。則ち太祖は太廟に於いて遂に東向に居りて以て其の尊を全うすべし。伏して徳明・興聖二皇帝は曩に廟を立て、禘祫の時に至りては常用して饗礼す。今は則ち別廟の制に就き、興聖廟に蔵祔するを宜しと為すべし。
勅して尚書省の百僚に下し集議せしむ。礼儀使太子少師顔真卿議して曰く、「議する者或いは云う、献祖・懿祖は親遠く廟遷り、祫享すべからず、宜しく永く西夾室に閟すべし。又た議する者云う、二祖は宜しく同く祫享し、太祖に於いて並びに昭穆し、而して太祖東向の位を空うすべし。又た議する者云う、二祖若し同く袷享せば、即ち太祖の位永く正しきを得ず、宜しく二祖の神主を奉遷して徳明皇帝廟に祔蔵すべし。臣伏して三議倶に未だ允ならずと為す。且つ礼経は残欠し、既に明据無く、儒者は能く義類を方び、其の中を斟酌すれば、則ち挙げて之を行うべく、蓋し正に協うなり。伏惟うに太祖景皇帝は受命始封の功を以て、百代遷らざるの廟に処り、天に配し崇めて享け、是れ極めて尊厳なり。且つ禘祫の時に至りては、暫く昭穆の位に居り、己を屈して孝を申べ、祖宗を敬奉し、歯族の礼に縁り、先を尊ぶの道を広む。此れ実に太祖の明神烝烝たるの本意にして、亦た以て天下に化被し、孝悌に率循せしむる所以なり。晋の蔡謨等の議に依り、十月祫享の日に至りて献祖の神主を奉じて東向の位に居らしめ、懿祖・太祖より諸祖宗に洎るまで、左昭右穆の列に遵うべし。此れ国家の本を重んじ順を尚ぶの明義を彰かにし、足ら以て万代不易の令典と為すべし。又た議する者は二祖の神主を徳明皇帝廟に奉じて、祫祭の礼を行わんことを請う。夫れ祫は合なり。故に《公羊伝》に云う、『大事とは何ぞや、祫なり』と。若し祫祭を太廟に陳べずして徳明廟に享くれば、是れ乃ち分食なり。豈に合食と謂わんや。名実相い乖き、深く礼意を失う。固より行うべからず」と。
八年正月二十三日、太子左庶子李嶸等七人議して曰く、
吏部郎中柳冕等十二人の議に曰く、
天子たる天命を受けた君、諸侯たる始封の祖は、皆太祖である。故に天子といえども必ず尊ぶべきものあり、ここに太祖を尊ぶのである。故に諸侯といえども必ず先んずべきものあり、またここに太祖を尊ぶのである。故に太祖以下は、親尽して毀つ。秦が学を滅ぼし、漢が礼に及ばず、昭穆を列せず、迭毀を建てず。晋はこれを失い、宋はこれに因った。ここに五廟の制に違うことあり、ここに太祖の位を虚位とすることあり。昭穆を列せざるは、人に序あることを示す所以に非ず。迭毀を建てざるは、人に殺(差等)あることを示す所以に非ず。五廟の制に違うは、人に別あることを示す所以に非ず。太祖の位を虚位とするは、人に尊あることを示す所以に非ず。これ礼の廃する由りである。『礼』を按ずるに、「父は士たり、子は天子たり、祭りは天子を以てし、葬は士を以てす」と。今、献祖は祧なり、懿祖もまた祧なり、唐は未だ天命を受けざる時は、猶士の礼である。ここに高祖・太宗は天子の礼を以てこれを祭り、敢えて太祖の位を以てこれを易えず。今これを易えるは、先王の序を乱すことにはならぬか。昔、周は天下を有ち、太王・王季を追王して天子の礼を以てし、その祭りに及んでは、親尽してこれを毀った。漢は天下を有ち、太上皇を尊んで天子の礼を以てし、その祭りに及んでは、親尽してこれを毀った。唐は天下を有ち、献・懿二祖を追王して天子の礼を以てし、その祭りに及んでは、親尽してこれを毀つべきである。則ち太祖の位を代えるべからざること明らかなり。また『周礼』を按ずるに、先公の祧あり、先王の祧あり。先公の遷主は、後稷の廟に蔵む、これは周が未だ天命を受けざる時の祧であろうか。先王の遷主は、文王の廟に蔵む、これは周が既に天命を受けた時の祧であろうか。故に二つの祧あり、廟を異にする所以である。今、献祖以下の祧は、猶先公の如し。太祖以下の祧は、猶先王の如し。請うらくは、別廟を築きて二祖を居らしめ、則ち周の礼を行い、古の道に復せん。故に漢の礼は、周に因り、魏の礼は、漢に因り、隋の礼は、魏に因る。皆三廟を立て、二つの祧あり。また南陽に私廟四つを立てたが、これも後漢の制である。人の子たるもの、大宗に事えてその私親を降すと為し、故に私廟は本宗を奉ずる所以であり、太廟は正統を尊ぶ所以である。古今時を異にし、文質礼を異にするといえども、礼の情に右い、礼の本を問う者は、その変を通じ、酌んでこれを行わざるはない。故に上はその崇を致せば、則ち太祖は上に属して尊く、下はその殺を尽くせば、則ち祧主は下に親尽し、中はその中に処すれば、則ち王者は中に主祧するのである。
工部郎中張薦等の議に曰く、
司勳員外郎裴樞が議して曰く、
礼において必ず宗子を立てるのは、おそらくその族人を収めるためであり、東向きの主もまたこれと同じである。もし遠廟に合祀するならば、中に一つの隔たりがあることになり、上に等しく倫理に合わない。西の位が常に空であるならば、太祖は永遠に昭穆に厭われることになり、異なる廟で別に祭るならば、祫饗は何を主として合食するのか。永遠に姜嫄に比べて閉ざすならば、祥禖を推して事がなくなる。《礼》に云う、「親を親しむ故に祖を尊び、祖を尊ぶ故に宗を敬い、宗を敬う故に族を収める、これによって宗廟は厳かであり、社稷は重い」と。この言葉によって言えば、太祖の上にさらに追尊の祖があるならば、親を親しみ祖を尊ぶ義は、おそらく乖離しているのではないか。太廟の外に軽々しく別祭の廟を置くならば、宗廟はおそらく厳かでなく、社稷はおそらく重くないのではないか。かつ漢の丞相韋玄成は園に瘞することを請い、晋の徴士虞喜は廟の両階の間に瘞することを請うた。喜はまた左氏の説を引き、古の先王は日ごとに祖考を祭り、月ごとに曾高を祀り、時に二祧に及び、歳ごとに壇墠に及び、終に禘は郊宗石室に及ぶと。これは郊宗の上にさらに石室の祖があることを謂い、これが最も近い。ただ当時の議は石室の居所について、未だ準拠がなかった。喜は夾室の中に請うたが、愚かには石室は拠り所とすべきであるが、それを処する道は未だ安らかでないと思う。何となれば、夾室とは太祖の下の毀主を居らせることを謂い、太祖の上の蔵主を安んずるものではない。卑しいものが正位に処し、尊いものが傍らに居ることはない。理を考へ心に即せば、おそらく允協ではないと恐れる。今もし園寢に石室を建て、神主を遷して以て永く安んじ、漢・晋の旧章を採り、なお禘袷の一祭に従い、古礼の残欠を修め、国朝の典故と為し、おそらく《春秋》の変礼の正しき、動きて中る者であろうか。
考功員外郎陳京議して曰く、
京兆少尹の韋武が議して曰く。
同官縣の尉仲子陵が議して曰く、
今、儒者は『子たとえ齊聖たりとも、父の食に先んぜず』の語を援用し、既に祧(遷廟)せられた献祖を、仮に東向(太祖の位)に居らせ、天に配する太祖を、昭穆の位に屈せしめんと欲するが、これは甚だ通ぜざるなり。そもそも左氏の『先んじて食せず』の言は、ただ文公の逆祀を正さんとするに過ぎず、儒者安んぞ知らんや、夏后氏の廟数未だ足らざる時に当たりて、禹が鯀に先んぜずと言えるを。且つ漢の禘・祫は、蓋し徴すに足らず。魏・晋已降、太祖は皆近く、是れ太祖の上には、皆遷主有り。歴代の疑う所、或いは『閟宮』の詩を引きて永く閟(閉)じ、或いは虞主の義に因りて園に瘞(埋)め、或いは遠廟を祧と為すを縁りて宮を築き、或いは太祖実に卑くして位を虚しと為すを言う。ただ東晋の蔡謨、左氏の『先んじて食せず』を憑みて説と為し、征西将軍をして東向せしめんと欲す。数者を均しくするに、此れ最も安からず。且つ蔡謨の此の議は、晋に行われしに非ず。前に有司、謨の改築の言に本づかず、征西東向の一句を取りて万代の法と為すは、此れ甚だ不可なるなり。臣又これを思うに、永く閟し園に瘞むれば、則ち臣子の心安からざる所有り。仮に正位を虚しと為せば、則ち太祖の尊厳時に定まる無し。則ち別に一室を築くは、義やや安んずべし。且つ興聖の献祖に対するは、乃ち曾祖なり。昭穆序有り、饗祀時を以てす。伏して献・懿二祖を奉じて徳明・興聖廟に遷すを請う。此れ其の大順なり。或いは祫は合なりと為し、今二祖別廟は、是れ食を分つなり、何の合たるを為さんとす。臣以為うらくは、徳明・興聖の二廟は、禘祫の年毎に、亦皆饗薦せらる。是れ亦食を分つなり、何ぞ二祖を疑わんや。
その月二十七日、吏部郎中柳冕が『禘祫義證』を上奏し、凡そ一十四道、以て顧問に備え、並びに議を奏して聞かしむ。三月十二日に至り、祠部が郁等の議状を奏す。
至十一年七月十二日、勅す。「于頎等の議状、請う所各殊なり、理討論に在り、精当を求めて用うべし。宜しく尚書省に令して百僚と国子監の儒官とを会し、旧状を切磋し、可否を定め、仍て司を委ねて事件を具して聞奏せしむべし。」と。
「禘祭と祫祭の礼は、祭祀の中でも重要なものであり、先に多くの議論があったが、なお詳しく精確ではない。宜しく百官に命じて会議させ、その結果を聞かせるべきである。」
旧儀に依れば、高祖の廟には、開府儀同三司淮安王李神通、礼部尚書河間王李孝恭、陝東道大行台右僕射鄖国公殷開山、吏部尚書渝国公劉政会を配饗す。太宗の廟には、司空梁国公房玄齢、尚書右僕射萊国公杜如晦、尚書左僕射申国公高士廉を配饗す。高宗の廟には、司空英国公李勣、尚書左僕射北平県公張行成、中書令高唐県公馬周を配饗す。中宗の廟には、侍中平陽郡王敬暉、侍中扶陽郡王桓彦範、中書令南陽郡王袁恕己を配饗す。睿宗の廟には、太子太傅許国公蘇瓌、尚書左丞相徐国公劉幽求を配饗す。