舊唐書

巻026

巻026

舊唐書

原文舊唐書

卷二十六

原文卷二十六

志第六 禮儀六

原文志第六 禮儀六

東都の太廟には、木主を置くべきではない。謹んで典禮を按ずるに、虞主には桑を用い、練主には栗を用い、栗主を重ねて作れば、桑主を埋める。これにより神に二主なく、天に二日なく、土に二王なきが如し。今、東都の太廟は、則天皇后の建てたる所にして、武氏の木主を置く。中宗はその主を去りてその廟を存せしめ、蓋し行幸遷都の所を備えんとす。且つ殷人は屡遷し、前八後五、前後遷都十三度、毎都に別に神主を立てるべからず。議する者或いは云う、「東都の神主は、既に曾て虔奉して礼せり、豈に一朝に廃すべきや」と。且つ虞祭には則ち桑主を立てて虔祀し、練祭には則ち栗主を立てて桑主を埋む、豈に桑主は曾て虔祀せざるを以て、乃ちこれを埋むるや。又、所闕の主は、更に作るべからず、作ること時ならざれば、礼に非ざるなり。

原文東都太廟,不合置木主。謹按典禮。虞主用桑,練主用栗,重作栗主,則埋桑主。所以神無二主,猶天無二日,土無二王也。今東都太廟,是則天皇后所建,以置武氏木主。中宗去其主而存其廟,蓋將以備行幸遷都之所也。且殷人屢遷,前八後五,前後遷都一十三度,不可每都而別立神主也。議者或云:「東都神主,已曾虔奉而禮之,豈可以一朝廢之乎?」且虞祭則立桑主而虔祀,練祭則立栗主而埋桑主,豈桑主不曾虔祀,而乃埋之?又所闕之主,不可更作,作之不時,非禮也。

臣謹んで三代の典禮を詳らかにし、上は高祖こうそ・太宗の制度を稽へ、未だ嘗て両朝を並建し、二主を並饗するの礼有らず。天授の際、祀典変革す。中宗初めて旧物を復す、未だ暇あらずして典章を詳考せず、遂に洛陽らくように於いて宗廟を創る。是れ遷都の制を行ふ、実に建国の儀に非ず。及び西して上都に帰す、因循して未だ廃せず。徳宗嗣統し、墜典克く修まり、東都九廟、復た告饗せず。謹んで『礼記』を按ずるに、仲尼曾子の問いに答えて曰く、「天に二日無く、土に二王無く、嘗・禘・郊・社、尊に二上無し」と。これ以て二主の非礼を明らかにす。陛下は千載の大統を接ぎ、累聖の耿光を揚げ、先王を憲章し、後嗣に法を垂る。況んや宗廟の礼は、至尊至重、経に違ひ祀を黷す、時に不欽と謂ふ。特に望む、三代の令典を択び、高祖・太宗の憲度を守り、神龍の権宜の制を鑒み、建中の矯正の礼に遵ひ、経に依り古に復して、聖明に允属せんことを。伏して太微宮の光皇帝三代・睿宗聖文孝武皇帝の神主は、経義を参考するに、祔饗に合せず。遷置神主の礼に至りては、三代以降、経に明文無し。伏して望む、中書門下に委ね公卿礼官と質正詳定せしめんことを。

原文臣謹詳三代典禮,上稽高祖、太宗之制度,未嘗有並建兩朝、並饗二主之禮。天授之際,祀典變革。中宗初復舊物,未暇詳考典章,遂於洛陽創宗廟。是行遷都之制,實非建國之儀。及西歸上都,因循未廢。德宗嗣統,墜典克修,東都九廟,不復告饗。謹按《禮記》,仲尼答曾子問曰:「天無二日,土無二王,嘗、禘、郊、社,尊無二上。」所以明二主之非禮也。陛下接千載之大統,揚累聖之耿光,憲章先王,垂法後嗣。況宗廟之禮,至尊至重,違經黷祀,時謂不欽。特望擇三代令典,守高祖、太宗之憲度,鑒神龍權宜之制,遵建中矯正之禮,依經復古,允屬聖明。伏乙太微宮光皇帝三代、睿宗聖文孝武皇帝神主,參考經義,不合祔饗。至於遷置神主之禮,三代以降,經無明文。伏望委中書門下與公卿禮官質正詳定。

勅して所司に付す。太常博士王彦威等奏議して曰く、

原文敕付所司。太常博士王彥威等奏議曰:

謹んで国初の故事を按ずるに、両都並びに宗廟を建て、並びに饗祭を行ふの礼無し。伏して『周書』・『召誥』・『洛誥』の説を尋ぬるに、実に豊廟・洛廟を祭告するの文有り、是れ則ち周人は両都並びに宗祧を建て、至れば則ち告饗す。然らば則ち両都皆祖考を祭り、礼祀並びに興る。神龍復辟より、中宗嗣位し、廟既に偕に作られ、饗亦並びに行はる。天宝末、両都傾陷し、神主亡失す。粛宗既に旧物を復す、但だ上都に廟を作り主を作る。その東都の神主は、大暦中始めて人間に於いて之を得、遂に太微宮に寓し、復た祔饗せず。臣等謹んで経伝を按ずるに、王者の制、凡そ居室を建つるに、宗廟を先とし、廟必ず主有り、主必ず廟に在り。是れ則ち廟を両都に立つるは、蓋し古の道を行ふ、主必ず廟に在るは、実に礼経に依る。今謹んで参詳するに、理合升祔すべし。謹んで按ずるに、光皇帝は追王なり、高宗・中宗・睿宗は祧廟の主なり、その神主は合は太廟の西より第一夾室に蔵むべし。景皇帝は始封不遷の祖なり、その神主は合は太廟の西より第一室に蔵むべし。高祖・太宗・玄宗・粛宗・代宗は創業有功親廟の祖なり。伏して准ふるに『江都集礼』、「正廟の主は、太室の中に蔵む」と。『礼記』、「君廟の主は、故有れば則ち聚めて諸れを祖廟に蔵む」と。伏して徳宗以下の神主は未だ作らず、代宗以上の後主は先に亡ぶ、若し本室に帰せば、神主を虚しくす。事は拠る可きと雖も、理或いは未だ安からず。今高祖以下の神主は、併せて合は太祖の廟に蔵むべく、旧に准へて故事に依り饗せず。如し陛下東後に肆覲し、幸を洛陽に移さば、祧主に非ざる自ら、合は本室に帰すべし。その余の闕主は、又当に特作すべく、而して祔饗時祭・禘・祫は儀の如くす。臣又た国家の追王故事を按ずるに、太祖の上に、又た徳明・興聖・懿祖の別廟有り。今の光皇帝神主は、即ち懿祖なり。伏して縁るに東都には先づ前件の廟宇無く、光皇帝神主は今請ふ、権に太廟夾室に祔し、元皇帝の上に居らしむ。如し駕東都に在らば、即ち請ふ、上都の式に准へて別廟を営建し、徳明・興聖・献祖の神主を作り、礼を備へて升祔せしめん。又た太廟夾室に於いて光皇帝神主を奉迎して別廟第四室に帰し、禘・祫は儀の如くす。或ひは問うて曰く、「礼、栗主を作り、桑主を瘞む。漢・魏並びに桑を瘞むの議有り、大暦中亦た孝敬皇帝神主を瘞む、今祔して瘞まざるは、之を如何」と。答えて曰く、「主を作るは神に依る、理に埋む可き無く、漢魏の瘞蔵は、事允愜に非ず。孝敬は尊正統に非ず、廟廃して主独り存す、従ひて瘞蔵するは、情理に葉ふ」と。又た問う、「古者は巡狩すれば、必ず遷主を載す、今東都の主は又た廟に祔す」と。答えて曰く、「古者は師行に遷主を以てす、無ければ則ち主命す、遷祖の主に非ざる自ら、別に出廟の文無し。凡そ邑に宗廟先君の主有るを都と曰ふ、則ち両都の宗廟は、各宜く主有るべし」と。又た問うて曰く、「古者は主を作るは、必ず虞・練に因る、若し主必ず帰祔せば、則ち室虚しき可からず、則ち当に已亡の主を補ひ、当に祔すべき主を創むべし。礼経に説無し、之を如何」と。答えて曰く、「虞・練に主を作るは、礼の正なり。時に非ずして主を作るは、事の権なり。王者は時に遭ひて法と為し、事に因りて制を宜しくす、苟くも其の常無ければ、則ち其の変を思ふ。如し駕或いは東幸し、廟仍虚主あらば、即ち粛宗広徳二年上都に主を作る故事に准へ、特に闕主を作りて祔す。蓋し主は闕く可からず、故に礼は宜に従ふを貴ぶ、『春秋』の義、変じて之を正する者なり」と。臣伏して思う、祖宗の主は、神靈の憑る所、太微に寓し、宗廟に入らず、経に拠り本に復するは、聖明に允属す。

原文謹按國初故事,無兩都並建宗廟、並行饗祭之禮。伏尋《周書》、《召誥》、《洛誥》之說,實有祭告豐廟、洛廟之文,是則周人兩都並建宗祧,至則告饗。然則兩都皆祭祖考,禮祀並興。自神龍復辟,中宗嗣位,廟既偕作,饗亦並行。天寶末,兩都傾陷,神主亡失。肅宗既復舊物,但建廟作主於上都。其東都神主,大曆中始於人間得之,遂寓於太微宮,不復祔饗。臣等謹按經傳,王者之制,凡建居室,宗廟為先,廟必有主,主必在廟。是則立廟兩都,蓋行古之道,主必在廟,實依禮經。今謹參詳,理合升祔。謹按光皇帝是追王,高宗、中宗、睿宗是祧廟之主,其神主合藏於太廟從西第一夾室。景皇帝是始封不遷之祖,其神主合藏於太廟從西第一室。高祖、太宗、玄宗、肅宗、代宗是創業有功親廟之祖。伏准《江都集禮》:「正廟之主,藏於太室之中。」《禮記》:「君廟之主,有故則聚而藏諸祖廟。」伏以德宗之下,神主未作,代宗之上,後主先亡,若歸本室,有虛神主。事雖可據,理或未安。今高祖已下神主,併合藏于太祖之廟,依舊准故事不饗。如陛下肆覲東後,移幸洛陽,自非祧主,合歸本室。其餘闕主,又當特作,而祔饗時祭、禘、祫如儀。臣又按國家追王故事,太祖之上,又有德明、興聖、懿祖別廟。今光皇帝神主,即懿祖也。伏緣東都先無前件廟宇,光皇帝神主今請權祔於太廟夾室,居元皇帝之上。如駕在東都,即請准上都式營建別廟,作德明、興聖、獻祖神主,備禮升祔。又於太廟夾室奉迎光皇帝神主歸別廟第四室,禘、祫如儀。或問曰:「禮,作栗主,瘞桑主。漢、魏並有瘞桑之議,大曆中亦瘞孝敬皇帝神主,今祔而不瘞,如之何?」答曰:「作主依神,理無可埋,漢魏瘞藏,事非允愜。孝敬尊非正統,廟廢而主獨存,從而瘞藏,為葉情理。」又問:「古者巡狩,必載遷主,今東都主又祔於廟。」答曰:「古者師行以遷主,無則主命,自非遷祖之主,別無出廟之文。凡邑有宗廟先君之主曰都,則兩都宗廟,各宜有主。」又問曰:「古者作主,必因虞、練,若主必歸祔,則室不可虛,則當補已亡之主,創當祔之主。禮經無說,如之何?」答曰:「虞、練作主,禮之正也。非時作主,事之權也。王者遭時為法,因事制宜,苟無其常,則思其變。如駕或東幸,廟仍虛主,即准肅宗廣德二年上都作主故事,特作闕主而祔。蓋主不可闕,故禮貴從宜,《春秋》之義,變而正之者。」臣伏思祖宗之主,神靈所憑,寓於太微,不入宗廟,據經復本,允屬聖明。

是に至りて尚書省に下して集議せしむ。而して郎吏の議する所は、彦威と多く同じ。丞郎は則ち各其の見る所を執り、或ひは曰く「神主は合は太微宮に蔵むべし」と;或ひは云う「併せて合は埋瘞すべし」と;或ひは云う「闕主は当に作るべし」と;或ひは云う「輿駕東幸すれば、即ち上都の神主を載して東すべし」と。咸く意を以て言ひ、経に本づかず。竟に紛議以て定まらず、遂に行はれず。

原文至是下尚書省集議,而郎吏所議,與彥威多同。丞郎則各執所見,或曰「神主合藏于太微宮」;或云「併合埋瘞」;或云「闕主當作」;或云「輿駕東幸,即載上都神主而東」。咸以意言,不本經據。竟以紛議不定,遂不舉行。

六年三月、太常博士鄭路らが奏上して言うには、「東都太微宮の神主二十座は、去年二月二十九日に礼院が分析して奏聞を終えました。伏して今月七日勅『この礼は至って重く、典故に従うべきであり、礼官・学官に同議させて奏聞すべし』を奉じます。臣は今、学官らと詳議を終え、謹んで分析を具えて以下の如くします。献祖宣皇帝・宣荘皇后・懿祖光皇帝・光懿皇后・文徳皇后・高宗天皇大帝・則天皇后・中宗大聖大昭孝皇帝・和思皇后・昭成皇后・孝敬皇帝・地敬哀皇后、以前の十二座は、親尽きて迭毀すべきであり、宜しく諸太廟に遷し、興聖廟に祔すべし。禘祫の歳には、乃ち一たびこれを祭る。東都には興聖廟が無く祔すべからず、伏して請う、且く権に太廟の夾室に蔵むることを。未題の神主十四座は、前件の神主は既に題号の文無く、祝告の礼を伸べ難し。今、礼官らと商量し、伏して請う、告遷の日に、但だ旧太微宮内の空閑の地に瘞することを。恭しく事理を酌み、庶幾くは従宜に協わんことを」と。制して可とする。

原文六年三月,太常博士鄭路等奏:「東都太微宮神主二十座,去年二月二十九日禮院分析聞奏訖。伏奉今月七日敕『{{red|此禮至重,須遵典故,宜令禮官、學官同議聞奏}}』者。臣今與學官等詳議訖,謹具分析如後:獻祖宣皇帝、宣莊皇后、懿祖光皇帝、光懿皇后、文德皇后、高宗天皇大帝、則天皇后、中宗大聖大昭孝皇帝、和思皇后、昭成皇后、孝敬皇帝、地敬哀皇后已前十二座,親盡迭毀,宜遷諸太廟,祔於興聖廟。禘祫之歲,乃一祭之。東都無興聖廟可祔,伏請且權藏於太廟夾室。未題神主十四座,前件神主既無題號之文,難伸祝告之禮。今與禮官等商量,伏請告遷之日,但瘞於舊太微宮內空閒之地。恭酌事理,庶協從宜。」制可。

太常博士段瓌ら三十九人の奏議に曰く、

原文太常博士段瑰等三十九人奏議曰:

礼の立てる所は、本づく所は誠敬にあり。廟の設くる所は、実に尊厳に在り。既に誠を薦むと曰うは、則ち宜しく一に統ぶべし。昔、周の東西に廟有りしも、亦た其の由る所を徴すべし。但だ洛を卜するの初めに縁り、既に営建を須い、又以て遷都未だ決せず、因りて両留を議す。其の事情を酌むに、広むるを務むるに匪ず、祭法明らかなり。伏して以うるに、東都太廟は、廃すること已に多時、若し増修を議せば、稍々前訓に乖く。何となれば。東都は始めて寢廟を制するは天后・中宗の朝に在り、事は一時に出づ、貞観・開元の法に非ず、前後因循して廃せざるは、亦た鎬京の文に踵くなり。『記』に曰く、「祭は数うるを欲せず、数うれば則ち煩し」と。天宝の中、両京悉く寇陷と為り、西都の廟貌は故の如く、東都は此れに因りて散亡す。是れ九廟の霊、其の煩祀を歆むるを欲せざるを知るなり。建中に葺かざるより以来、歳年を歴ること弥なり。今若し廟貌惟新ならば、即ち須らく室別に主有るべし。旧主は在りと雖も、大半合祧すべく、必ず几筵をして之を存せしむるは、所謂宜しく祧すべくして祧さざるなり。孔子曰く、「当に七廟五廟たるも、虚主無からしむべし」と、廟は主無きを得ざるを謂うなり。旧主に留去有らば、新廟便ち合せて創添すべし。謹んで『左伝』に按ずるに云く、「祔練して主を作す」と。又た戴聖云く、「虞して而して几筵を立つ」と。若し或いは過時にして之を成せば、便ち是れ凶を以て吉を幹くなり。創添は既に典ならず、虚廟又た儀に非ず。諸の礼文を考うるに、進退守る所無し。或いは曰く「漢は郡国に宗廟を置くこと凡そ百余所、今止だ東西に廟を立つ、何の安からざるか有らん」と。当に漢氏は秦の焚焼の余を承け、典故を識らず、廟制に至りては、率意に行う。比及ぶ元・成二帝の間、貢禹・韋玄成等継出し、果たして正論有り、竟に毀除に従う。足らく以て漢初は礼経に本づかざるを知り、又た安んぞ法を程すべけんや。或いは曰く「几筵は復た設くるを得ず、廟寢は何ぞ修営を妨げん、車駕の時巡を俟ち、便ち合せて載する所の主に於てすべし」と。其の終始を究むるに、又た以て之を論ずるを得。昨者降勅して参詳せしむるは、本と旧主を収めんと欲する為なり。主既に立たずんば、廟何ぞ施すべけん。仮令行幸して九州すと雖も、一一皆廟を立つるか」と。愚以為うらくは、廟は修むべからず、主は宜しく蔵瘞すべし。或いは坎室に就きて瘞し、或いは両階の間に瘞す、此れ乃ち百代常行易からざるの道なり。

原文禮之所立,本於誠敬;廟之所設,實在尊嚴。既曰薦誠,則宜統一。昔周之東西有廟,亦可徵其所由。但緣卜洛之初,既須營建,又以遷都未決,因議兩留。酌其事情,匪務於廣,祭法明矣。伏以東都太廟,廢已多時,若議增修,稍乖前訓。何者?東都始制寢廟於天后、中宗之朝,事出一時,非貞觀、開元之法,前後因循不廢者,亦踵鎬京之文也。《記》曰:「祭不欲數,數則煩。」天寶之中,兩京悉為寇陷,西都廟貌如故,東都因此散亡。是知九廟之靈,不欲歆其煩祀也。自建中不葺之後,彌歷歲年。今若廟貌惟新,即須室別有主。舊主雖在,大半合祧,必几筵而存之,所謂宜祧不祧也。孔子曰,「當七廟五廟,無虛主也」,謂廟不得無主者也。舊主如有留去,新廟便合創添。謹按《左傳》云:「祔練作主。」又戴聖云:「虞而立几筵。」如或過時成之,便是以凶幹吉。創添既不典,虛廟又非儀。考諸禮文,進退無守。或曰「漢于郡國置宗廟凡百餘所,今止東西立廟,有何不安」者。當漢氏承秦焚燒之餘,不識典故,至於廟制,率意而行。比及元、成二帝之間,貢禹、韋玄成等繼出,果有正論,竟從毀除。足知漢初不本於禮經,又安可程法也?或曰「几筵不得復設,廟寢何妨修營,侯車駕時巡,便合於所載之主」者。究其終始,又得以論之。昨者降敕參詳,本為欲收舊主,主既不立,廟何可施?假令行幸九州,一一皆立廟乎?」愚以為廟不可修,主宜藏瘞,或就瘞於坎室,或瘞於兩階間,此乃百代常行不易之道也。

其の年九月勅、「段瓌らの詳議は、東都に廟を立つべからず。李福らの別状は、又た異同有り。国家の制度は、須らく典礼に合すべく、証拠一ならずんば、則ち建立難し。宜しく並びに都省に赴かせて対議せしめ、須らく至当に帰すべし」。

原文其年九月敕:「{{red|段瑰等詳議,東都不可立廟。李福等別狀,又有異同。國家制度,須合典禮,證據未一,則難建立。宜並令赴都省對議,須歸至當。}}」

工部尚書薛元賞らの議、

原文工部尚書薛元賞等議:

伏して建中の時に、公卿が東都の慶廟を修造することを奏請したことを考えるに、当時の議論は、大旨三つあった。一つは、必ずその廟を存置し、その主を備えて立て、時饗の日に、他の官に摂行させるというものである。二つは、廟を建て主を立て、存置するが祭らず、皇輿が時に巡幸するならば、そこで饗えるというものである。三つは、その廟を存置し、その主を一括して埋めるというものである。臣らはその三つの議論を立て、礼経を参酌すると、理として廟を存置すべきであり、主を置くのは合わない。謹んで『礼祭義』を按ずるに、「国を建てる神位は、右に社稷、左に宗廟」とある。『礼記』に云う、「君子宮室を営まんとすれば、宗廟を先とする」と。これにより王者が邦を建て都を設けるには、必ず宗廟・社稷を先にすることを知る。況や周の武王が天命を受け、始めて豊に都し、成王が宅を相し、また洛を卜し、新邑で歳の烝祭を行い、太室で周公を冊命した。故に『書』に曰く、「戊辰、王新邑に在り、歳を烝祭す。王太室に入りて祼す」と。成王はその後また豊に立ち、洛邑を成したが、嘗て久しく処することはなかった。平王に至って、始めて東遷を定めた。則ち周の豊・鎬には、皆宗廟があったことは明らかである。また按ずるに、曾子が「廟に二主あり」と問うた時、夫子は「天に二日無く、土に二王無く、嘗・禘・郊・社、尊ぶに二上無し、未だ其れ礼たるを知らず」と答えた。昔、斉の桓公が二主を作った時、夫子はこれを譏り、偽主と為した。これにより二主を並べて設けるべからざることも、また明らかである。夫れ聖王は社を建てて本を厚くし、廟を立てて祖を尊ぶ。これにより京邑には必ず宗社がある。今、国家は周・秦の両地を定め、東西の両宅と為し、九衢を開いて宮闕を立て、百司を設けて拱衛を厳にし、玄象に法を取り、京師と号す。既に帝宅を厳にす、神位を虚しくするは難し。若し宗廟無くば、何を以て皇都と謂わんや。然れども人に依る者は神、誠に在る者は祀る。誠は外より至るに非ず、必ず中より出づ。理として親敬に合し、以て神明に交わるを用うべし。位は両都に存するに宜しく、廟は偕に立てるべし。誠に二祭に専らにするは難く、主は並べて設くべからず。或いは『礼』に云う「七廟五廟虚主無し」とは、主無くしては不可と謂う所以である。これにより天子巡狩するも、亦た尊ぶ所あり、尚お斎車を飾り、遷主を載せて行く。今若し廟を修して主を埋め、東都太廟と同じく九室皆虚ならば、既に経に違い、須らく其の説を徴すべし。臣復た礼意を探賾し、因って尽くしてこれを論ず。所云う「七廟五廟虚主無し」とは、見饗の廟虚しくすべからざるを謂うなり。今の両都は、雖も各々廟有りと雖も、禘祫饗献は、斯れ皆上京に親奉し、神主几筵は、東廟に虚しく陳ぶべからず。且つ『礼』に云う、「唯だ聖人のみ能く帝を饗え、孝子のみ能く親を饗う」と。昔、漢の韋玄成が郡国の祀りを廃するを議し、亦た曰く、「廟を京師に立て、躬親して事を承け、四海の内、各々其の職を以て来り祭る」と。人情礼意、此くの如く較然たり。二室既に並び居らず、二廟豈に偕に祔せんや。但だ都する国の、見饗の廟は、既に虚室無ければ、則ち経議を通ずるに葉う。又た主を置きて饗えず、以て巡幸を俟たんと欲する者あり。昔、魯が僖公の主を作りし時、虞・練の時に於いてせず、『春秋』これを書いて譏る。合祔の主、其の時に作るに非ざれば、尚お譏らるる所と為る。今若し合祔せざる主を置き、時に因らずして作らば、経に違い礼を越ゆること、此れより甚しきは莫し。豈に九室合饗の主有りて、置きて饗えざるの文有らんや。両廟始めて周公に創り、二主夫子に譏らるる所と為る。古より製作するは、皆周孔を範とす。旧典猶在り、足らく以て明徴すべし。臣が東都の廟は則ち存すべく合し、主は置くべからずと謂う所以なり。今将に廟宇を修建せんとす、誠に典礼に虧けず。其の太微宮中に見在する六主は、請う東都太廟の修造畢るを待ち、礼を具えて西夾室に迎え置き、閟して饗えず、以て陛下の厳祀の敬を彰し、聖朝の尊祖の義を明かにせん。

原文伏以建中時,公卿奏請修建東都慶廟,當時之議,大旨有三:其一曰,必存其廟,備立其主,時饗之日,以他官攝行。二曰,建廟立主,存而不祭,皇輿時巡,則就饗焉。三曰,存其廟,一瘞其主。臣等立其三議,參酌禮經,理宜存廟,不合置主。謹按《禮祭義》曰:「建國之神位,右社稷而左宗廟。」《禮記》云:「君子將營宮室,宗廟為先。」是知王者建邦設都,必先宗廟、社稷。況周武受命,始都于豐,成王相宅,又卜於洛,烝祭歲於新邑,冊周公於太室。故《書》曰:「戊辰,王在新邑,烝祭歲。王入太室祼。」成王厥後復立于豐,雖成洛邑,未嘗久處。逮于平王,始定東遷。則周之豐、鎬,皆有宗廟明矣。又按,曾子問「廟有二主」,夫子對以「天無二日,土無二王,嘗、禘、郊、社,尊無二上,未知其為禮」者。昔齊桓公作二主,夫子譏之,以為偽主。是知二主不可並設,亦明矣。夫聖王建社以厚本,立廟以尊祖,所以京邑必有宗社。今國家定周、秦之兩地,為東西之兩宅,辟九衢而立宮闕,設百司而嚴拱衛,取法玄象,號為京師。既嚴帝宅,難虛神位,若無宗廟,何謂皇都?然依人者神,在誠者祀,誠非外至,必由中出,理合親敬,用交神明。位宜存於兩都,廟可偕立;誠難專於二祭,主不並設。或以《禮》云「七廟五廟無虛主」,是謂不可無主。所以天子巡狩,亦有所尊,尚飾齋車,載遷主以行。今若修廟瘞主,同東都太廟,九室皆虛,既違於經,須徵其說。臣復探賾禮意,因得盡而論之。所云「七廟五廟無虛主」,是謂見饗之廟不可虛也。今之兩都,雖各有廟,禘祫饗獻,斯皆親奉於上京,神主几筵,不可虛陳於東廟。且《禮》云:「唯聖人為能饗帝,孝子為能饗親。」昔漢韋玄成議廢郡國祀,亦曰:「立廟京師,躬親承事,四海之內,各以其職來祭。」人情禮意,如此較然。二室既不並居,二廟豈可偕祔?但所都之國,見饗之廟,既無虛室,則葉通經議者,又欲置主不饗,以俟巡幸。昔魯作僖公之主,不于虞、練之時,《春秋》書而譏之。合祔之主,作非其時,尚為所譏。今若置不合祔之主,不因時而作,違經越禮,莫甚於此。豈有九室合饗之主,而有置而不饗之文?兩廟始創于周公,二主獲譏于夫子。自古製作,皆范周孔,舊典猶在,足可明徵。臣所以言東都廟則合存,主不合置。今將修建廟宇,誠不虧於典禮。其見在太微宮中六主,請待東都建修太廟畢,具禮迎置於西夾室,閟而不饗,式彰陛下嚴祀之敬,以明聖朝尊祖之義。

吏部郎中鄭亞等五人の議:「礼院の奏に拠れば、東都太廟は既に廃されたれば、復た修すべからず、太微宮に見在する神主は、請う寓する所の地に埋めんとす。経訓に乖き、敢えて雷同せず。臣が別に議状を進めて、修祔の主を請う所以は、並びに典礼に依り、兼ねて建中元年の礼儀使顔真卿の奏したる事と同じ。臣と公卿等重ねて議し、皆以て廟は固より修すべく合し、主は埋むべからずと為し、即ち臣等の別状の意と同じ。但だ衆議猶お東西二廟に、各々神主を設くるを疑い、廟に二主の義に渉るを恐れ、廟を修して室を虚くし、太微宮の寓する所の神主を以て夾室の中に蔵めんことを請う。伏して六主の神位は、内に不祧の宗有り、今遷廟の儀を用うるも、猶お礼に合わず。臣等猶お敢えて衆状に署せず、蓋し疑いを闕くが為なり。」

原文吏部郎中鄭亞等五人議:「據禮院奏,以為東都太廟既廢,不可復修,見在太微宮神主,請瘞於所寓之地。有乖經訓,不敢雷同。臣所以別進議狀,請修祔主,並依典禮,兼與建中元年禮儀使顏真卿所奏事同。臣與公卿等重議,皆以為廟固合修,主不可瘞,即與臣等別狀意同。但眾議猶疑東西二廟,各設神主,恐涉廟有二主之義,請修廟虛室,乙太微宮所寓神主藏於夾室之中。伏以六主神位,內有不祧之宗,今用遷廟之儀,猶未合禮。臣等猶未敢署眾狀,蓋為闕疑。」

太学博士直弘文館鄭遂等七人の議曰く:「夫れ国の大事を論ずるは、必ず正を本とし経を根として、以て中道に臻らしむ。聖朝は広孝を以て先と為し、礼を得るを以て貴しと為す。而して臣下敢えて経を以て対えざらんや。三論六故は、既に前議に詳かなり。再び天問を捧げて、諸家の説を陳べ、典訓に求め、大中を考うるに、廟には必修の文有り、主には置くべき理無し。何となれば、正経正史、両都の廟は徴すべし。『礼』に称す『天子太廟の処を卜せず』、『日を択び国を建つるの地を卜すれば、則ち宗廟知るべし』と。則ち廟を廃するの説は、恐らく廃すに宜しきに非ざるなり。謹んで『詩』・『書』・『礼』の三経及び漢朝の両史を按ずるに、両都並びに廟を設け、而して主を載するの制は、久しく已に行わる。敢えて明徴せずして文飾を去り、経文を援拠し、前見を易えず。東都太廟は、修崇に合すべく務め、而して旧主は当に埋むべく、太微宮の蔵する所に請う。皇帝洛に事有らば、則ち斎車を奉じて主を載せて行く。」

原文太學博士直弘文館鄭遂等七人議曰:「夫論國之大事,必本乎正而根乎經,以臻于中道。聖朝以廣孝為先,以得禮為貴,而臣下敢不以經對。三論六故,已詳於前議矣。再捧天問,而陳乎諸家之說,求於典訓,考乎大中,廟有必修之文,主無可置之理。何則?正經正史,兩都之廟可徵。《禮》稱『天子不卜處太廟』,『擇日卜建國之地,則宗廟可知』。則廢廟之說,恐非所宜廢。謹按《詩》、《書》、《禮》三經及漢朝兩史,兩都並設廟,而載主之制,久已行之。敢不明徵而去文飾,援據經文,不易前見,東都太廟,合務修崇,而舊主當瘞,請于太微宮所藏之所。皇帝有事于洛,則奉齋車載主以行。」

太常博士顧德章議曰く:

原文太常博士顧德章議曰:

礼は情に縁るとはいえ、その要を明らかにするには、実に中を得ることが肝要であり、必ずや礼を過ぎて多くを求めれば、却って誠敬を損なうことになる。伏して考えるに、神龍の頃、天命は帰すところあり、武氏の廟を長安ちょうあんに移し、その地に太廟を置き、天宝の初めに至って復したが、都を建てることはしなかった。しかるに議を設けて言うには、「中宗は東都に廟を立てたが、旧典に背くところはない」と。その意を徴すれば、また誤りではないか。また「東都の太廟は、睿宗・玄宗に至るまで、なお奉じて改めなかった」という。これはかつて尊奉したことに縁り、軽々しく廃することを敢えてしなかったのである。今は既に廃して久しいのに、なお挙げられざる典に従おうとしている。また「貞観の初めは、草創で暇がなかったとはいえ、どうしてこの事を開元の法でないと言えようか」という。謹んで按ずるに、定めた『開元六典勅』に曰く、「政を聴く暇に、古今を錯綜し、法を『周官』に取り、『唐典』を作す。その本末を覧れば、千載一遇なり。『春秋』は考古の法を謂う。行うこと久しきべき、然りと言わざるべけんや」と。この時、東都太廟は現存しており、『六典』は両都の宮闕を序し、西都は太廟の位を具え、東都は存するも論ぜず、事が一時に出たことを明らかにしている。どうして「開元の法」と言えようか。また三代の礼楽は、周より盛んなるはない。先の議論の時、便宜上大小を問わず周に法を取り、遷都して廟を立てた。今廟を立てるのに遷都によらないなら、何の美を以て師とすることができないのか。また「国を建て神位を定めるには、右に社稷、左に宗廟とし、君子宮室を営まんとすれば、宗廟を先にする」という。謹んで『六典』を按ずるに、永昌年中、則天武后は東都を神都とした。その後次第に営構を加え、宮室百司、ここに備わった。今の宮室百司は、武氏が改命して備えたものである。上都には既に国を建て宗廟を立てているので、この言葉を引き合いに出すのは適切でない。また「東都洛陽では孝宣帝ら五帝を祭り、長安では孝成帝ら三帝を祭る」という。これを以て廟を置く例とすれば、大いに誤りである。漢代には両処に廟があり、祭る帝はそれぞれ別であった。今東都に廟を建て神主を作り、上都と全く同じにするのは、一概に論じて甚だしく誤っている。また「今もし東洛に再び太廟を置けば、有司は同日に侍祭することになり、これを数とすれば、実に未だ解せざるところである」という。謹んで天宝三載の詔を按ずるに、「頃、四時に太廟に事あるごとに、両京同日であった。今後は、両京それぞれ別に日を選ぶべし」と。祀典に載っており、詳しく知ることができる。かつ廟を立て主を作るのは、神を祭るためである。存するも祀らずと言うのは、いずれの経典によるのか。「七廟五廟に虚主無し」と当たるのに、虚廟を立てようとするのは、いずれの法典によるのか。前に廟貌故の如しと称したのは、建中の中頃を指し、既にあるものを以て言い、国の先と為したのである。前に非時に主を作らずと述べたのは、現に神主がある場合、非時に作るべからざるを謂うのである。江左の至徳の際のように、主が共に散亡した場合は、例に拘ることはできない。あるいは「廃した主の瘞埋は、太微宮に請う」という。謹んで天宝二年の勅を按ずるに、「古の礼を制するに、祭は質明を用い、義は尚幽に取るを兼ね、情は実に既没に縁る。我が聖祖は澹然として在し、道の法と為し、既に尽き有る期を殊にす、宜しく事生の礼を展ぶべし。今後は、聖祖宮に昭告あるごとに、宜しく卯時を用いるを改むべし」と。今主を宮所に瘞めんとすれば、この勅と全く乖く。また「主は瘞むべからず、夾室に蔵むるを請う」という。謹んで前代の主を蔵むることを按ずるに、頗る異同がある。夾室に至っては、宜しく昭穆を序するに用いるべきである。今廟主が共に礼に中らずば、則ち禘祫の文は無い。また「君子宮室を営まんとすれば、宗廟を以て先とす、則ち国を建て宮室を営みて宗廟必ず設く。東都に既に宮室有りて、太廟営まざるべからず」という。凡そこれを論ずれば、その義は勝っている。しかし西周・東漢は、共に両都と称し、それぞれ宗廟有るの証は、経史に昭然としており、また揚榷に極思するを得る。『詩』に曰く、「その縄は則ち直く、板を縮めて以て載せ、廟を作ること翼翼たり」と。『大雅』の「瓜瓞」は、豊の廟の作を言う。また曰く、「于穆しき清廟、肅雍として顯相たり」と。洛邑既に成りて、以て文王の祀を率いる。この『詩』は洛の廟を言う。『書』に曰く、「成王既に洛に至り、烝祭の歳、文王に騂牛一」と。また曰く「太室に裸す」と。康王また豊に居り、「畢公を命じて東郊を保釈せしむ」と。豈に廟無くして烝祭すべく、都に非ずして保釈を設けんや。則ち『書』は東西の廟である。後漢の洛を卜するに及び、西京の廟も亦存す。建武二年、洛陽に廟を立て、成帝・哀帝・平帝の三帝は西京に祭る。十八年、親ら長安に幸し、禘礼を行い、当時五室は洛都に列し、三帝は京廟に留まり、行幸の歳、合食の期と相会し、斎車を奉ぜず、又安んぞ以てこの礼を成すべけんや。則ち知る、両廟は周人の成法、主を載せて行くは漢家の通制。あるいは一都の廟を虚すべきに当たらずと為し、「七廟無虚主」の文を引く。『礼』は一都の廟、室に虚主無きを言うのであって、両都各廟にして虚すべからざるを為すのではない。既に出徴の辞を聯ね、更に主を載せるの意を明らかにし、事に因りて言い、理実に相統び、詩人の如く断章して義を取るべからざるなり。古人の神を求むる所は一ならず、神を奉ずる意は二ならず、故に桑主を廃し、重ねて栗主を作り、既に事これを理めて、以てその一を明らかにするのである。あるいは又『左氏伝』の郿を築く凡例を引き、「宗廟先君の主有るを都と曰う」と謂い、主を建てるの論を立てる。按ずるに魯の荘公二十八年冬、郿を築く、『左伝』は築くに凡例を発し、『穀梁』は藪沢の利に因るを譏り、『公羊』は凶年造邑の嫌を避くると称す。三伝異同、左氏は短なり。何となれば、春秋二百年の間、魯凡そ二十四邑を城す、唯だ郿一邑のみ築くを称し、その二十三邑は、豈に皆宗廟先君の主有らんや;これを執りて主を建つるの端と為すは、又通論に非ず。あるいは又曰く、「廃主の瘞むる所、何を以て太微宮の蔵むる所に在る;宜しく故を捨て新に依るべし、前に已に列せり」と。按ずるに主を瘞むる位に三あり:或いは北牖の下に在り、或いは西階の間に在り、廟の事なり。その立つべからざる主は、但だその以てする所に随いて之を瘞む。主を立つべき廟に瘞むるは、斯れ然らず。在所を以て言えば、則ち太微宮の蔵むる所は、漢の寝園と異ならず。歴代以降、一都を建つる者多く、両都の者少なし。今国家東西の宅を崇め、厳奉の典を極むるに、各廟を以て疑いと為し、建都の故事を合わして、以て相質正すれば、即ち周・漢是れなり。今詳議の徴する所を詳らかにし、その年代を究めれば、率皆一都の時なり。豈に擬議すべく、亦孰か敢えてその間に献酬せん。経旨を詳らかに考うれば、古人の寝を謀るは必ず廟に及び、寝を設けて廟を立てざる者は無し。国家隋氏の弊を承け、草創未だ暇あらず、後に垂拱に建つと雖も、事に合う所有り。その後干戈寧戢の歳、文物大備の朝に当たり、十一聖を歴て、之を廃するを議せず。豈に事は一時に出ずと雖も、廟は立つべき理有り、而して一一革すべからざるを以てならんや。今洛都の制、上は宮殿楼観より、下は百辟の司に及び、西京と異ならず。鑾輿の至るや、厮役の賤に至るまで、必ずその理むる所に帰す。豈に先帝の主のみ、独りその安んずる所無からんや。時に当たり、虞主尚お瘞めらる、廃主宜しく然るべし。あるいは馬融・李舟の二人、「寝は偕立に傷無く、廟は暫虚に妨げ無し」と称するを以て、是れ則ち馬融・李舟、宣尼に法すべしと為す。これを以て擬議すれば、乖当則ち深し。あるいは称して「凡そ邑に宗廟先君の主有るを都と曰い、無きを邑と曰い、邑を築くを曰い、都を城すを曰う」と。謹んで春秋二百四十年の間を按ずるに、惟だ郿一邑のみ築くを称す。郎・費の類を城する如きは、各おの因む所有り、或いは他を防ぎ、或いは自ら固む、之を尽く宗廟有りと謂うは、理則ち極めて非なり。あるいは称して「聖主に復古の功有り、簡冊に考文の美有り、五帝楽を同じくせず、三王礼を同じくせず、時に遭いて法と為し、事に因りて制を宜しくす」と。此れ則ち必ず作す有為、有司の事に非ず。もし有司の職と為せば、但だ一一経に据わるべし;礼を変えて時に従うは、則ち須らく明詔を俟つべし。凡そ修めざるの証、略して七条有り:廟立つは遷に因る、一なり;已に廃して挙げず、二なり;廟虚すべからず、三なり;非時に主を作らず、四なり;合せて遷主を載せて行く、五なり;尊に二上無し、六なり;『六典』書せず、七なり。謹んで文王豊に遷り廟を立て、武王鎬に遷り廟を立て、成王洛に遷り廟を立てたことを按ずるに、今東都遷に因らずして廟を立てんと欲するは、是れ遷に因りて廟を立つるに違うなり。謹んで『礼記』に曰く、「凡そ祭、其れ之を廃する有らば、敢えて挙ぐる莫し。其れ之を挙ぐる有らば、敢えて廃する莫し」と。今東都太廟、廃すること已に八朝、若し果たして之を立てば、是れ已に廃して挙げざるに違うなり。謹んで『礼記』に曰く、「当に七廟五廟虚主無かるべし」と。今虚廟を立てんと欲するは、是れ廟虚すべからざるに違うなり。謹んで『左伝』に曰く、「丁丑、僖公の主を作す。時にあらざるを書すなり」と。『記』又曰く、「時を過ぎて祭せざるは、礼なり」と。礼に合うの祭、時を過ぐるも猶お廃す、礼に非ざるの主、作すべけんや。今非時に主を作らんと欲するは、是れ非時に主を作らざるに違うなり。謹んで『曾子問』に曰く、「古者は師行に遷廟の主を行かすや。孔子曰く、天子巡狩するは、必ず遷廟の主を行かし、斎車に載す、言う必ず尊有るなり。今や七廟の主を取りて以て行くは、則ち之を失うなり」と。皇氏云く、「遷廟の主は、遷す一室の主を載すなり」と。今群廟の主を載せて行かんと欲するは、是れ遷主を載せるに違うなり。謹んで『礼記』に曰く、「天に二日無く、土に二王無し。嘗・禘・郊・社、尊に二上無し」と。今両都に廟を建て主を作らんと欲するは、是れ尊に二上無きに違うなり。謹んで『六典』は両都の宮闕及び廟宇を序す、この時東都に廟有るも載せず、是れ『六典』書せざるに違うなり。遍く書伝を考うるに、並びに修むるに合わず。浸く武徳・貞観の中、作法範を垂るるの日、文物大備し、儒彦畢く臻る、若し修営すべくんば、議及ばざるべからず。『記』に曰く、楽は天作り、礼は地制す。天の体は動なり。地の体は止なり」と。此れ楽は作すべく、礼は変じ難きを明らかにす。伏して惟うに陛下は誠明以て物を載せ、荘敬以て天を禦し、孝方に祖宗に切にして、事乃ち根本に求む。再び議を集めしめ、長する所を定めしむ。臣実に職司たり、敢えて条白して以て対せざらんや。

原文夫禮雖緣情,將明厥要,實在得中,必過禮而求多,則反虧於誠敬。伏以神龍之際,天命有歸,移武氏廟于長安,即其地而置太廟,以至天寶初復,不為建都。而設議曰:「中宗立廟於東都,無乖舊典。」徵其意,不亦謬乎?又曰「東都太廟,至於睿宗、玄宗,猶奉而不易」者。蓋緣嘗所尊奉,不敢輒廢也。今則廢已多時,猶循莫舉之典也。又曰「雖貞觀之始,草創未暇,豈可謂此事非開元之法」者。謹按定《開元六典敕》曰:「{{red|聽政之暇,錯綜古今,法以《周官》,作為《唐典》。覽其本末,千載一朝。《春秋》謂考古之法也。行之可久,不曰然歟?}}」此時東都太廟見在,《六典》序兩都宮闕,西都具太廟之位,東都則存而不論,足明事出一時,又安得曰「開元之法」也?又三代禮樂,莫盛于周。昨者論議之時,便宜細大,取法于周,遷而立廟。今立廟不因遷,何美之而不能師之也?又曰「建國神位,右社稷而左宗廟,君子將營宮室,宗廟為先」者。謹按《六典》,永昌中則天以東都為神都。爾後漸加營構,營室百司,於是備矣。今之宮室百司,乃武氏改命所備也。上都已建國立宗廟,不合引言。又曰:「東都洛陽祭孝宣等五帝,長安祭孝成等三帝」。以此為置廟之例,則大非也。當漢兩處有廟,所祭之帝各別。今東都建廟作主,與上都盡同,概而論之,失之甚者。又曰「今或東洛復太廟,有司同日侍祭,以此為數,實所未解」者。謹按天寶三載詔曰:「頃四時有事於太廟,兩京同日。自今已後,兩京各宜別擇日。」載在祀典,可得而詳。且立廟造主,所以祭神,而曰存而勿祀,出自何經?「當七廟五廟無虛主」,而欲立虛廟,法于何典?前稱廟貌如故者,即指建中之中,就有而言,以為國之先也。前以非時不造主者,謂見有神主,不得以非時而造也。若江左至德之際,主並散亡,不可拘以例也。或曰「廢主之瘞,請在太微宮」者。謹按天寶二年敕曰:「古之制禮,祭用質明,義兼取于尚幽,情實緣於既沒。我聖祖澹然當在,為道之法,既殊有盡之期,宜展事生之禮。自今已後,每至聖祖宮有昭告,宜改用卯時」者。今欲以主瘞于宮所,即與此敕全乖。又曰「主不合瘞,請藏夾室」者。謹按前代藏主,頗有異同。至如夾室,宜用以序昭穆也。今廟主俱不中禮,則無禘祫之文。又曰「君子將營宮室,以宗廟為先,則建國營宮室而宗廟必設。東都既有宮室,而太廟不合不營」。凡以論之,其義斯勝。而西周、東漢,並曰兩都,其各有宗廟之證,經史昭然,又得以極思於揚榷。《詩》曰:「其繩則直,縮板以載,作廟翼翼。」《大雅》「瓜瓞」,言豐廟之作也。又曰:「于穆清廟,肅雍顯相。」洛邑既成,以率文王之祀。此《詩》言洛之廟也。《書》曰:「成王既至洛,烝祭歲,文王騂牛一。」又曰「裸於太室」,康王又居豐,「命畢公保釐東郊。」豈有無廟而可烝祭,非都而設保釐?則《書》東西之廟也。逮于後漢卜洛,西京之廟亦存。建武二年,於洛陽立廟,而成、哀、平三帝祭於西京。一十八年,親幸長安,行禘禮,當時五室列於洛都,三帝留於京廟,行幸之歲,與合食之期相會,不奉齋車,又安可以成此禮?則知兩廟周人成法,載主以行,漢家通制。或以當虛一都之廟為不可,而引「七廟無虛主」之文。《禮》言一都之廟,室不虛主,非為兩都各廟而不可虛也。既聯出徵之辭,更明載主之意,因事而言,理實相統,非如詩人更可斷章以取義也。古人求神之所非一,奉神之意無二,故廢桑主,重作栗主,既事理之,以明其一也。或又引《左氏傳》築郿凡例,謂「有宗廟先君之主曰都」,而立建主之論。按魯莊公二十八年冬,築郿,《左傳》為築發凡例,《穀梁》譏因藪澤之利,《公羊》稱避凶年造邑之嫌。三傳異同,左氏為短。何則?當春秋二百年間,魯凡城二十四邑,唯郿一邑稱築,其二十三邑,豈皆有宗廟先君之主乎;執此為建主之端,又非通論。或又曰:「廢主之瘞,何以在於太微宮所藏之所;宜舍故依新,前已列矣。」按瘞主之位有三:或於北牖之下,或在西階之間,廟之事也。其不當立之主,但隨其所以瘞之。夫主瘞乎當立之廟,斯不然矣。以在所而言,則太微宮所藏之所,與漢之寢園無異。歷代以降,建一都者多,兩都者少。今國家崇東西之宅,極嚴奉之典,而以各廟為疑,合以建都故事,以相質正,即周、漢是也。今詳議所徵,究其年代,率皆一都之時,豈可以擬議,亦孰敢獻酬於其間?詳考經旨,古人謀寢必及於廟,未有設寢而不立廟者。國家承隋氏之弊,草創未暇,後雖建於垂拱,而事有所合。其後當干戈寧戢之歲,文物大備之朝,歷於十一聖,不議廢之。豈不以事雖出於一時,廟有合立之理,而不可一一革也。今洛都之制,上自宮殿樓觀,下及百辟之司,與西京無異。鑾輿之至也,雖廝役之賤,必歸其所理也。豈先帝之主,獨無其所安乎?時也,虞主尚瘞,廢主宜然。或以馬融、李舟二人稱「寢無傷於偕立,廟不妨於暫虛」,是則馬融、李舟,可法于宣尼矣。以此擬議,乖當則深。或稱「凡邑有宗廟先君之主曰都,無曰邑,邑曰築,都曰城」者。謹按春秋二百四十年間,惟郿一邑稱築。如城郎、費之類,各有所因,或以他防,或以自固,謂之盡有宗廟,理則極非。或稱「聖主有復古之功,簡冊有考文之美,五帝不同樂,三王不同禮,遭時為法,因事制宜」。此則必作有為,非有司之事也。如有司之職,但合一一據經;變禮從時,則須俟明詔也。凡不修之證,略有七條:廟立因遷,一也;已廢不舉,二也;廟不可虛,三也;非時不造主,四也;合載遷主行,五也;尊無二上,六也;《六典》不書,七也。謹按文王遷豐立廟,武王遷鎬立廟,成王遷洛立廟,今東都不因遷而欲立廟,是違因遷立廟也。謹按《禮記》曰:「凡祭,有其廢之,莫敢舉也。有其舉之,莫敢廢也。」今東都太廟,廢已八朝,若果立之,是違已廢不舉也。謹按《禮記》曰:「當七廟五廟無虛主。」今欲立虛廟,是違廟不可虛也。謹按《左傳》:「丁丑,作僖公主。書不時也。」《記》又曰:「過時不祭,禮也。」合禮之祭,過時猶廢,非禮之主,可以作乎?今欲非時作主,是違非時不作主也。謹按《曾子問》:「古者師行以遷廟主行乎?孔子曰:天子巡狩,必以遷廟主行,載于齋車,言必有尊也。今也取七廟之主以行,則失之矣。」皇氏云:「遷廟主者,載遷一室之主也。」今欲載群廟之主以行,是違載遷之主也。謹按《禮記》曰:「天無二日,土無二王。嘗、禘、郊、社,尊無二上也。」今欲兩都建廟作主,是違尊無二上也。謹按《六典》序兩都宮闕及廟宇,此時東都有廟不載,是違《六典》不書也。遍考書傳,並不合修。浸以武德、貞觀之中,作法垂範之日,文物大備,儒彥畢臻,若可修營,不應議不及矣。《記》曰:樂由天作,禮以地制。天之體,動也。地之體,止也。」此明樂可作,禮難變也。伏惟陛下誠明載物,莊敬禦天,孝方切於祖宗,事乃求于根本。再令集議,俾定所長。臣實職司,敢不條白以對。

徳章はまた中書門下及び礼院に上申した詳議の二つの状があり、ともに後ろに載せている。その一つは、

原文德章又有上中書門下及禮院詳議兩狀,並同載於後。其一曰:

伏して見るに八月六日の勅、東都の太廟を修めんと欲し、会議して事を議せしむ。この時すでに議状あり、礼に准うれば更に修むるに合わず。尚書丞郎以下三十八人、皆同じく状に署す。徳章の官は礼寺に在り、実に司存を忝うす。聖上の厳禋敬事の時に当たり、相公の古を尚び華を黜する日に会し、もし国の祀典に乖き、礼文に違うことあらば、ただ曠官に責を受くるのみならず、窃かに明代に恥を貽すを懼る。ここをもって勤勤懇懇、言わずしてまた言わんとするなり。昨者の異同の意は、尽く指陳すべし。一には都の名有れば、便ち廟を立つるに合うとし、次には廟宇を崇修し、以て時巡を候わんと欲す。深く知らず、廟は虚たるに合わず、主はただ一を載すのみなることを。謹んで按ずるに貞観九年の詔に曰く、「太原の地、王業を肇基す。事は豊・沛はいに均しく、義は宛・譙に等し。礼を約して言えば、須らく廟を立つるを議すべし。」時に秘書監顔師古議して曰く、「臣、傍らに祭典を観、遍く礼経を考うるに、宗廟は皆京師に在り、下土に別に置かず。昔、周の豊・鎬は、実に遷都なり。乃ち事に因りて便ち営むのみ、一時に別に立つと云うに非ず。」太宗その奏を許し、即日にして停む。これに由りて言えば、太原に豈に都号無からんや。太原爾の時猶お廃す、東都の立たざるを知るべし。かつ廟室惟新なれば、即ち須らく主有るべし。主既に蔵瘞せば、虚に非ずして何ぞ。これ都あれば廟を立つとの言、攻めずして自ら破るるなり。また按ずるに『曾子問』に曰く、「古者は師行するに、必ず遷廟の主を以て行くか。孔子曰く、天子巡狩するに、必ず遷廟の主を以て行く。斎車に載す。必ず尊ぶ有るを言うなり。今や七廟の主を取りて以て行くは、則ち失えり。」皇氏云く、「遷廟主とは、ただ新たに遷したる一室の主を載すのみ。」未だ祧せざるの主は、載行するの文無し。仮に時巡を候わんとすれば、自ら一室を修営すべし。九室を構えんと議するは、何に依憑するか。夫れ宗廟は、尊事なり、重事なり。至尊至重、安んぞ疑文を以て論を定むべけんや。言苟も経に経ざれば、則ち擅議と為す。近き者勅旨、凡そ事を議するに、皆須らく一一経に据うべし。若し経文無ければ、史を以て証と任す。もし或いは経史皆据うる所無ければ、率意して言うを得ず。則ち廟を東都に立つるは、正に経史に据うる所無し。果たして臆説に従わば、前後相違する無からんや。『書』に曰く、「三人占えば、則ち二人の言に従う。」会議する者四十八人、同じくする所の者は六七人のみ。夫れ二三の喩えに比ぶれば、又何ぞ其れ多きや。夫れ堯・舜の帝と為る、今に至るまで詠称する者は、他術異智有るに非ず。賢臣を以て輔翼し、能く古道を順考するを以てなり。故に堯の書に「若し古の帝堯を稽う」と曰う。『孔氏伝』に曰く、「能く古道を順考す。」傅説の殷の君を佐くるも、亦た曰く「事古に師せずんば、説の聞く所に匪ず。」古道に考うること既に前の如く、国章に験すこと又た此の如し。典実を求めんとすれば、諸を易うる無し。伏して希わくは必ず正経を本とし、稍々浮議を抑え、皋・夔の古道に踵き、周・孔の遺文を法とせば、則ち天下の貞を守るの儒、実に幸甚とする所なり。その余は已に前議に具す。

原文伏見八月六日敕,欲修東都太廟,令會議事。此時已有議狀,准禮不合更修。尚書丞郎已下三十八人,皆同署狀。德章官在禮寺,實忝司存,當聖上嚴禋敬事之時,會相公尚古黜華之日,脫國之祀典,有乖禮文,豈唯受責於曠官,竊懼貽恥於明代。所以勤勤懇懇,將不言而又言也。昨者異同之意,盡可指陳。一則以有都之名,便合立廟;次同欲崇修廟宇,以候時巡。殊不知廟不合虛,主惟載一也。謹按貞觀九年詔曰:「太原之地,肇基王業,事均豐、沛,義等宛、譙,約禮而言,須議立廟。」時秘書監顏師古議曰:「臣傍觀祭典,遍考禮經,宗廟皆在京師,不於下土別置。昔周之豐、鎬,實為遷都,乃是因事便營,非云一時別立。」太宗許其奏,即日而停。由是而言,太原豈無都號,太原爾時猶廢,東都不立可知。且廟室惟新,即須有主,主既藏瘞,非虛而何?是有都立廟之言,不攻而自破矣。又按《曾子問》曰:「古者師行,必以遷廟主行乎?孔子曰:天子巡狩,必以遷廟主行,載于齋車,言必有尊也。今也取七廟之主以行,則失矣。」皇氏云:「遷廟主者,惟載新遷一室之主也。」未祧之主,無載行之文。假使候時巡,自可修營一室,議構九室,有何依憑?夫宗廟,尊事也,重事也,至尊至重,安得以疑文定論。言苟不經,則為擅議。近者敕旨,凡以議事,皆須一一據經。若無經文,任以史證。如或經史皆不據者,不得率意而言。則立廟東都,正經史無據,果從臆說,無乃前後相違也。《書》曰:「三人占,則從二人之言。」會議者四十八人,所同者六七人耳,比夫二三之喻,又何其多也!夫堯、舜之為帝,迄今稱詠之者,非有他術異智者也,以其有賢臣輔翼,能順考古道也。故堯之書曰「若稽古帝堯。」《孔氏傳》曰:「能順考古道。」傳說佐殷之君,亦曰「事不師古,匪說攸聞。」考之古道既如前,驗以國章又如此,將求典實,無以易諸。伏希必本正經,稍抑浮議,踵皋、夔之古道,法周、孔之遺文,則天下守貞之儒,實所幸甚。其餘已具前議。

その二は、

原文其二曰:

夫れ宗廟の設けは、誠敬を主とす。旋って典礼を観れば、貳すれば則ち誠に非ず。ここをもって遷都に因らざれば、則ち別に廟宇を立たず。『記』に曰く、「天に二日無く、土に二王無く、嘗・禘・郊・社、尊に二上無し。」又た曰く、「凡そ祭、其れ之を廃する有らば、挙ぐるを敢えてせず。其れ之を挙ぐる有らば、廃するを敢えてせず。」則ち東都太廟は、廃すること已に多時、若し増修を議せば、稍々前志に違う。何となれば、聖暦・神龍の際、武后始めて明辟に復し、中宗其の廟を取りて太廟に易置す。本より人心を権に固めんと欲するのみ、経久の制に非ざるなり。伏して以て、存する所の神主は、既に祧蔵を請う。今廟室惟新なれば、即ち須らく主有るべし。神主は時に非ざれば造らず、廟寢又た虚の議無し。もし修復して以て時巡を俟たんとすれば、惟だ一主を載す。方冊に備わり、得て詳かにすべし。又た経中の義を引きて数等有り、或いは弟子の語、或いは他人の言なり。今廟は虚たるべからず、尊に二上無く、時に非ざれば主を造らず、一主を載して行うに合うは、皆大聖祖及び宣尼の親しく発明する所、常の据えに比ぶれば、同じき塗に不可なり。又た丘明『春秋』を修むるに、悉く君子を以て褒貶を定む。陳泄の忠を以て罪を得、晋文の臣を以て君を召すに至りては、此の数条に於いて、復た君子を称せず。得失を評せんと将て、特ち宣尼を以て之を断つ。『伝』に曰く、「危疑の理は、須らく聖言を以て明にすべし。」或いは東都は他の都と同じからず、地に壇社宮闕有り、権に葺かんと議すれば、是に似て妨げ無からんとす。此れは意懐に酌むのみ、経据と曰うに非ず。但だ遍く今古を討つも、壇社に廟を立つるの証無し。用いて以て説と為せば、実に未だ安からず。謹んで上は殷・周より、傍ら故実を稽うるに、遷都に因るの外、別に廟を立つるの文無し。

原文夫宗廟之設,主於誠敬,旋觀典禮,貳則非誠。是以匪因遷都,則不別立廟宇。《記》曰:「天無二日,土無二王,嘗、禘、郊、社,尊無二上。」又曰:「凡祭,有其廢之,莫敢舉也。有其舉之,莫敢廢也。」則東都太廟,廢已多時,若議增修,稍違前志。何者?聖曆、神龍之際,武后始復明辟,中宗取其廟易置太廟焉,本欲權固人心,非經久之制也。伏以所存神主,既請祧藏,今廟室惟新,即須有主。神主非時不造,廟寢又無虛議,如修復以俟時巡,惟載一主,備在方冊,可得而詳。又引經中義有數等,或是弟子之語,或是他人之言。今廟不可虛,尊無二上,非時不造主,合載一主行,皆大聖祖及宣尼親所發明者,比之常據,不可同塗。又丘明修《春秋》,悉以君子定褒貶,至陳泄以忠獲罪,晉文以臣召君,於此數條,不復稱君子,將評得失,特以宣尼斷之。《傳》曰:「危疑之理,須聖言以明也。」或以東都不同他都,地有壇社宮闕,欲議權葺,似是無妨。此則酌於意懷,非曰經據也。但以遍討今古,無有壇社立廟之證,用以為說,實所未安。謹按上自殷、周,傍稽故實,除因遷都之外,無別立廟之文。

制して曰く、「古より礼を議するは、皆人情を酌む。必ず稷嗣の幾を知り、賈生の識達る有りて、方に大政を発揮し、皇猷を潤色すべし。その他の管窺は、蓋し数うるに足らず。公卿の議は、実に施行すべく、徳章の陳ぶる所は、最も浅近なり。豈に苟くも独見を申し、妄りに異同有らんや。事は中を酌むを貴び、理は衆に従うに宜し。宜しく有司に令して日を択び太廟を修崇せしめ、留守李石を以て使と充て勾当せしむべし。」六年三月、日を択ぶこと既に定まり、礼官既に行わんとす。旋って武宗の登遐に以て、其の事遂に寝す。宣宗即位し、竟に太微宮の神主を迎えて東都太廟に祔し、禘祫の礼、尽く神主を出して太祖の前に合食せしむ。

原文制曰:「{{red|自古議禮,皆酌人情。必稷嗣知幾,賈生達識,方可發揮大政,潤色皇猷,其他管窺,蓋不足數。公卿之議,實可施行,德章所陳,最為淺近,豈得苟申獨見,妄有異同?事貴酌中,理宜從眾。宜令有司擇日修崇太廟,以留守李石充使勾當。}}」六年三月,擇日既定,禮官既行,旋以武宗登遐,其事遂寢。宣宗即位,竟迎太微宮神主祔東都太廟,禘祫之禮,盡出神主合食于太祖之前。

『貞観礼』に、祫享には功臣を廟庭に配享し、禘享には則ち配せず。当時の令文に、祫禘の日には功臣並びに配享を得。貞観十六年、将に禘祭を行わんとす。有司礼官学士等を集めて議せんことを請う。太常卿韋挺等一十八人議して曰く、「古の王者は、四海を富有すと雖も、朝夕に宗廟に上膳せず。其の礼過ぐるを患うるなり。故に曰く、『春秋祭祀し、時に之を思う。』臣に大功有りて祿を享くるに至りては、其の後孝子礼に率い、潔粢豊盛、礼・祀・烝・嘗、四時に輟まず、国家大祫するに、又た配するを得。以て其の勲を昭明にし、其の徳を尊顕し、以て嗣臣を勧むるなり。其の禘及び時享には、功臣皆応に預かるべからず。故に周礼六功の官は、皆大烝に配するのみ。先儒皆大烝を取って祫祭と為す。高堂隆・庾蔚之等多く鄭学に遵い、未だ将に時享と為さんとせず。又た漢・魏の祫祀は、皆十月に在り。晋朝の礼官、孟秋の殷祭を用いんと欲す。左僕射孔安国啓弾し、坐して免るる者一ならず。梁初誤って功臣を禘す。左丞何佟之駁議し、武帝允して依り行う。降りて周・齊に洎るまで、俱に此の礼を遵う。窃かに五年再殷は、諸の天道に合い、一大一小は、通人の雅論なり。小なれば則ち人臣預からず、大なれば則ち兼ねて功臣に及ぶ。今礼禘に功臣無しは、誠に礼易うべからざるを謂うなり。」乃ち詔して令を改め礼に従わしむ。開元中に至り礼を改修し、復た令して禘祫俱に功臣を以て配饗せしむ。

原文《貞觀禮》,祫享,功臣配享于廟庭,禘享則不配。當時令文,祫禘之日,功臣並得配享。貞觀十六年,將行禘祭,有司請集禮官學士等議,太常卿韋挺等一十八人議曰:「古之王者,富有四海,而不朝夕上膳於宗廟者,患其禮過也。故曰:『春秋祭祀,以時思之。』至於臣有大功享祿,其後孝子率禮,潔粢豐盛,禮、祀、烝、嘗,四時不輟,國家大祫,又得配焉。所以昭明其勳,尊顯其德,以勸嗣臣也。其禘及時享,功臣皆不應預。故周禮六功之官,皆配大烝而已。先儒皆取大烝為祫祭。高堂隆、庾蔚之等多遵鄭學,未有將為時享。又漢、魏祫祀,皆在十月,晉朝禮官,欲用孟秋殷祭,左僕射孔安國啟彈,坐免者不一。梁初誤禘功臣,左丞何佟之駁議,武帝允而依行。降洎周、齊,俱遵此禮。竊以五年再殷,合諸天道,一大一小,通人雅論,小則人臣不預,大則兼及功臣。今禮禘無功臣,誠謂禮不可易。」乃詔改令從禮。至開元中改修禮,復令禘祫俱以功臣配饗焉。

高宗上元三年十月、太廟に祫享を行わんとす。時に議する者、『礼緯』に「三年一祫、五年一禘」とあり、『公羊伝』に「五年にして再び殷祭す」と云うを以て、議交錯して断決する能わず。太学博士史璨等議して曰く、「『礼記正義』に引く鄭玄の『禘祫志』に按ずるに、『春秋』に、僖公三十三年十二月薨ず。文公二年八月丁卯、太廟に大享す。『公羊伝』に云う、大享とは何ぞや、祫なりと。是れ三年の喪畢りて、新君の二年に当に祫すべく、明年に当に群廟に禘すべし。僖公・宣公八年に皆禘有り、則ち後禘前禘を去ること五年なり。此を以て之を定むれば、則ち新君二年祫し、三年禘す。爾より已後、五年にして再び殷祭す、則ち六年に当に祫し、八年に当に禘す。又た昭公十年、斉帰薨ず、十三年に至りて喪畢りて当に祫すべし、平丘の会の為に、冬、公晋に如く。十四年に至りて祫し、十五年禘す、『伝』に『武宮に事有り』と云う是れなり。十八年に至りて祫し、二十年禘す。二十三年祫し、二十五年禘す。昭公二十五年『襄宮に事有り』と云う是れなり。上に云う如く、則ち禘已後に三年を隔てて祫し、已後に二年を隔てて禘す。此れ則ち礼経に合し、『伝』の義に違わず」と。此より璨等の議に依りて定めと為す。

原文高宗上元三年十月,將祫享於太廟。時議者以《禮緯》「三年一祫,五年一禘」、《公羊傳》云「五年而再殷祭」,議交互莫能斷決。太學博士史璨等議曰:「按《禮記正義》引鄭玄《禘祫志》云:『《春秋》:僖公三十三年十二月薨。文公二年八月丁卯,大享於太廟。《公羊傳》云:大享者何?祫也。』是三年喪畢,新君二年當祫,明年當禘於群廟。僖公、宣公八年皆有禘,則後禘去前禘五年。以此定之,則新君二年祫,三年禘。自爾已後,五年而再殷祭,則六年當祫,八年當禘。又昭公十年,齊歸薨,至十三年喪畢當祫,為平丘之會,冬,公如晉。至十四年祫,十五年禘《傳》云『有事于武宮』是也。至十八年祫,二十年禘。二十三年祫,二十五年禘。昭公二十五年『有事于襄宮』是也。如上所云,則禘已後隔三年祫,已後隔二年禘。此則有合禮經,不違《傳》義。」自此依璨等議為定。

禘祫の二礼、倶に殷祭と為し、祫は祖廟に合食するを謂い、禘は尊卑を諦序するを謂う。先君の下に逮うるの慈を申べ、群嗣の親を奉ずるの孝を成し、事常の享に異なり、時に之を行ふ。然れども祭は数を欲せず、数なれば則ち黷なり、亦た疏を欲せず、疏なれば則ち怠なり。故に王者諸の天道に法り、祀典を制す。烝嘗は時に象り、禘祫は閏の如し。五歳再閏、天道大成し、宗廟之に法り、再び殷祭する者なり。謹んで『礼記・王制』・『周官・宗伯』、鄭玄の注解、高堂の議する所に按ずるに、並びに「国君嗣位し、三年喪畢りて、太祖に祫す。明年群廟に禘す。爾より已後、五年再殷、一祫一禘す」と云う。漢・魏の故事、貞観実録、並びに此の礼を用う。又た『礼緯』及び『魯礼禘祫注』に按ずるに、三年一祫、五年一禘、所謂五年にして再び殷祭すと云う。又た『白虎通』及び『五経通義』・許慎『異義』・何休『春秋』・賀循『祭議』に按ずるに、並びに三年一禘と云う。何ぞや、三年一閏、天道小備し、五年再閏、天道大備するを以てなりと為す。此れ則ち五年再殷、其の数を通計すれば、一祫一禘、迭りに相乗ずるなり。今太廟の禘祫、各々数年を数え、両岐倶に下り、相い通計せず。或いは比年頻りに合し、或いは同歳再び序し、或いは一禘の後、並びに再祫と為し、或いは五年の内、驟かに三殷有り。天に法り閏に象るの期、既に其の度に違ひ、五歳再殷の制、数又た同じからず。之を礼文に求めれば、頗る乖失す。説く者或いは云く、「禘祫の二礼、大小倶ならず、祭名殊有り、年数相い舛る。祫は三紀を以てし、小に抵りて合し、禘は五を以て断ち、十に至りて周る。茲の参差有り、以て通計し難し」と。窃かに三祫五禘の説、本『礼緯』に出づ、五歳再殷の数、同じく其の篇に在り、二文を通会すれば、相い詭するに非ざるなり。蓋し禘後に祫を置くに、二周半有り、全数を挙げて之を三年と謂う、譬えば三年一閏、只だ三十二月を用うるが如し。其の禘祫異称するは、各々四時に随い、秋冬を祫と為し、春夏を禘と為す。祭名異なると雖も、殷と為すは則ち同じ、譬えば礿・祠・烝・嘗、其の体一なるが如し。鄭玄は祫大禘小と謂い、伝に或いは祫小禘大と謂う、肆陳の間、或いは増減有り、通計の義、初め異同無し。蓋し閏に象るの法、相伝へ久し。惟だ晋代陳舒に三年一殷の議有り、五年・八年より又た十一・十四、其の議文の引く所を尋ぬれば、亦た閏に象るを以て言と為す。且つ六歳再殷、何ぞ閏に象ると名づけん、五年一禘、又た奚に施さん、矛盾の説、固より憑み難し。夫れ天に法るの度を以てすれば、既に指帰有り、古を稽ふるの理、茲の如く昭著なり。禘祫の二祭、通計明らかなり。今請う、開元二十七年己卯四月禘を以てし、辛巳年十月祫に至り、甲申年四月又た禘に至り、丙戌年十月又た祫に至り、己丑年四月又た禘に至り、辛卯年十月又た祫に至る。此より五年再殷、周りて復た始む。又た禘祫の説、唯一家に非ず、五歳再殷の文、既に相い師う、天に法り閏に象るの理、大抵亦た同じ。而して禘後に祫を置くに、或いは近く或いは遠く、盈縮の度、二法有り、鄭玄の宗ふる高堂は則ち先三にして後二、徐邈の議は則ち先二にして後三。謹んで鄭氏の注する所に按ずるに、先三の法、三祫五禘の文を約し、三歳五年の位を存す。甲年既に禘し、丁年当に祫すべく、己年又た禘し、壬年又た祫し、甲年又た禘し、丁年又た祫す、周りて復た始め、此を以て相い承く。祫後禘を去ること十有八月にして近く、禘後祫を去ること三十二月にして遥かに、分析均しからず、算に粗なり。仮令異端を攻むるに、祫を秋に置かば、則ち三十九月を前と為し、二十一月を後と為し、小に愈る有ると雖も、其の間尚ほ偏れり。窃かに本文に据るに、皆閏に象ると云う、二閏相い去れば、則ち平分せり。両殷の序、何ぞ等しからざる耶。且つ又た三年の言、本全数を挙ぐ、二周半、実に三年に准え、此に於て祫を置けば、文に違わず、何ぞ必ずしも隔三正に拘滞せん。蓋し千慮一失、通儒の蔽なり。徐氏の議、是れと異なり、研核周審、最も憑む可し。二禘相い去ること、月六十と為し、中を分かち三十、一祫を置かんと為す。若し甲年夏禘し、丙年冬祫せば、閏法に象る有り、毫釐偏らず。三年一祫の文、既に乖越無く、五歳再殷の制、疏数均しき有り。諸の儒に校するに、義実に長久なり。今請う、依據して以て二殷を定め、祭月を預推し、周りて復た始めん。

原文禘祫二禮,俱為殷祭,祫為合食祖廟,禘謂諦序尊卑。申先君逮下之慈,成群嗣奉親之孝,事異常享,有時行之。然而祭不欲數,數則黷;亦不欲疏,疏則怠。故王者法諸天道,制祀典焉。烝嘗象時,禘祫如閏。五歲再閏,天道大成,宗廟法之,再為殷祭者也。謹按《禮記·王制》、《周官·宗伯》,鄭玄注解,高堂所議,並云「國君嗣位,三年喪畢,祫于太祖。明年禘於群廟。自爾已後,五年再殷,一祫一禘。」漢、魏故事,貞觀實錄,並用此禮。又按《禮緯》及《魯禮禘祫注》云,三年一祫,五年一禘,所謂五年而再殷祭也。又按《白虎通》及《五經通義》、許慎《異義》、何休《春秋》、賀循《祭議》,並云三年一禘。何也?以為三年一閏,天道小備,五年再閏,天道大備故也。此則五年再殷,通計其數,一祫一禘,迭相乘矣。今太廟禘祫,各自數年,兩岐俱下,不相通計。或比年頻合,或同歲再序,或一禘之後,並為再祫,或五年之內,驟有三殷。法天象閏之期,既違其度;五歲再殷之制,數又不同。求之禮文,頗為乖失。說者或云:「禘祫二禮,大小不侔,祭名有殊,年數相舛。祫以三紀,抵小而合;禘以五斷,至十而周。有茲參差,難以通計。」竊以三祫五禘之說,本出《禮緯》,五歲再殷之數,同在其篇,會通二文,非相詭也。蓋以禘後置祫,二周有半,舉以全數,謂之三年,譬如三年一閏,只用三十二月也。其禘祫異稱,各隨四時,秋冬為祫,春夏為禘。祭名雖異,為殷則同,譬如礿、祠、烝、嘗,其體一也。鄭玄謂祫大禘小,傳或謂祫小禘大,肆陳之間,或有增減,通計之義,初無異同。蓋象閏之法,相傳久矣。惟晉代陳舒有三年一殷之議,自五年、八年又十一、十四,尋其議文所引,亦以象閏為言。且六歲再殷,何名象閏?五年一禘,又奚所施?矛盾之說,固難憑也。夫以法天之度,既有指歸,稽古之理,若茲昭著。禘祫二祭,通計明矣。今請以開元二十七年己卯四月禘,至辛巳年十月祫,至甲申年四月又禘,至丙戌年十月又祫,至己丑年四月又禘,至辛卯年十月又祫。自此五年再殷,周而復始。又禘祫之說,非唯一家,五歲再殷之文,既相師矣,法天象閏之理,大抵亦同。而禘後置祫,或近或遠,盈縮之度,有二法焉:鄭玄宗高堂,則先三而後二;徐邈之議,則先二而後三。謹按鄭氏所注,先三之法,約三祫五禘之文,存三歲五年之位。以為甲年既禘,丁年當祫,己年又禘,壬年又祫,甲年又禘,丁年又祫,周而復始,以此相承。祫後去禘,十有八月而近,禘後去祫,三十二月而遙,分析不均,粗於算矣。假如攻乎異端,置祫於秋,則三十九月為前,二十一月為後,雖小有愈,其間尚偏。竊據本文,皆云象閏,二閏相去,則平分矣。兩殷之序,何不等耶?且又三年之言,本舉全數,二周有半,實准三年,於此置祫,不違文矣,何必拘滯隔三正乎?蓋千慮一失,通儒之蔽也。徐氏之議,有異於是,研核周審,最為可憑。以為二禘相去,為月六十,中分三十,置一祫焉。若甲年夏禘,丙年冬祫,有象閏法,毫釐不偏。三年一祫之文,既無乖越;五歲再殷之制,疏數有均。校之諸儒,義實長久。今請依據以定二殷,預推祭月,周而復始。

礼部員外郎崔宗之、太常に駁下し、更に詳議せしむ。令して集賢学士陸善経等をして更に詳核せしむ。善経亦た其の議を允と為す。是に於て太常卿韋縚奏して曰く、「礼に禘祫有り、倶に殷祭と称す、二法更用し、鱗次相承く。或いは云う五歳再殷、一禘一祫。或いは云う三年一祫、五年一禘。天に法り閏に象る、大趣皆同じ。皆太廟の禘祫を以てし、年を計るに差有り、経伝に考うるに、微かに乖る所有り。頃に四月に在りて、既に禘享を行い、今孟冬を指して、又た祫儀を申べ、合食の礼頻り、恐らくは先典に違わん。伏して惟うに、陛下能事畢挙し、旧物咸甄り、宗祏祗慎の時、経訓申明の日。臣等忝くも礼を持するに在り、職司討論、輒ち旧文に据りて、其の倫序を定む。請う、今年の夏禘を以てし、便ち殷祭の源と為し、此より已後、禘・祫相代わり、五年再殷、周りて復た始めん。其の今年の冬祫は、礼に准じて停むるに合う、望むらくは令して所司但だ時享を行い、即ち厳禋黷せず、庶幾くは旧儀に合わん」と。制して之に従う。

原文禮部員外郎崔宗之駁下太常,令更詳議,令集賢學士陸善經等更加詳核,善經亦以其議為允。於是太常卿韋縚奏曰:「禮有禘祫,俱稱殷祭,二法更用,鱗次相承。或云五歲再殷,一禘一祫。或云三年一祫,五年一禘。法天象閏,大趣皆同。皆以太廟禘祫,計年有差,考于經傳,微有所乖。頃在四月,已行禘享,今指孟冬,又申祫儀,合食禮頻,恐違先典。伏以陛下能事畢舉,舊物咸甄,宗祏祗慎之時,經訓申明之日。臣等忝在持禮,職司討論,輒據舊文,定其倫序。請以今年夏禘,便為殷祭之源,自此之後,禘、祫相代,五年再殷,周而復始。其今年冬祫,准禮合停,望令所司但行時享,即嚴禋不黷,庶合舊儀。」制從之。

旧儀によれば、天宝八年閏六月六日の勅文に、「禘祫の礼は序位を存するためにあり、質文の変は時に従うことを取る。国家は仙宗を本とし、聖祖を承けて業とし、重熙累盛にして既に無疆の休を賜わり、合享して神に登り、不易の典を弘めんと思う。今より以後、毎たび禘祫には並びに太清宮聖祖の前に位を設けて序正し、上は陟配の礼を明らかにして玄象を欽若し、下は虔祭の誠を尽くして至道に違わざらしむ。比来、毎たび禘祫に縁り、時享は則ち停む。事は宜に従うに適すと雖も、礼は必備に虧くことある。已後、毎たび禘祫に縁り、其の常享は素饌を以てし、三焚香を以て三献に代えよ」とある。

原文舊儀,天寶八年閏六月六日敕文:「{{red|禘祫之禮,以存序位,質文之變,蓋取隨時。國家系本仙宗,業承聖祖,重熙累盛,既錫無疆之休,合享登神,思弘不易之典。自今已後,每禘祫並于太清宮聖祖前設位序正,上以明陟配之禮,欽若玄象,下以盡虔祭之誠,無違至道。比來每緣禘祫,時享則停,事雖適於從宜,禮或虧於必備。已後每緣禘祫,其常享以素饌,三焚香以代三獻。}}」

今年十月、太廟に祫享し、併せて遷廟の献祖・懿祖二神主を饗う。《春秋》の義によれば、毀廟の主は太祖に陳べ、未だ毀廟せざるの主は皆太祖に升り合食す。太祖の位は西に在りて東に向かい、其の下の子孫は昭穆相対し、南北を別つ。初め毀廟遷主享まざるの文無し。是の礼を徴するに、周室より自りしも、而して国朝の祀典は周と異なるべし。且つ周は后稷を以て天に配し、始封の祖と為し、而下に乃ち廟を立つ。廟毀れ主遷るは皆太祖の後に在り。禘祫の時、太廟の太祖に先だつこと無し。正に太祖東向の位を全うして其の尊を疑わず。然れども今年十月太廟に祫饗するに、伏して魏・晋の旧制を据えて比と為し、則ち別廟を構築すべし。東晋は征西等四府君を以て別廟と為し、禘祫の時に至りては、則ち太廟に於いて正に太祖の位を以て其の尊を申べ、別廟に高皇・太皇・征西等四府君を祭りて以て其の親を叙す。伏して国家若し此の義を用うれば、則ち宜しく別に献祖・懿祖の為に廟を立て、禘祫に之を祭りて以て其の親を重んずべし。則ち太祖は太廟に於いて遂に東向に居りて以て其の尊を全うすべし。伏して徳明・興聖二皇帝は曩に廟を立て、禘祫の時に至りては常用して饗礼す。今は則ち別廟の制に就き、興聖廟に蔵祔するを宜しと為すべし。

原文今年十月,祫享太廟,併合饗遷廟獻祖、懿祖二神主。《春秋》之義,毀廟之主,陳于太祖,未毀廟之主,皆升合食于太祖。太祖之位,在西而東向,其下子孫,昭穆相對,南北為別,初無毀廟遷主不享之文。徵是禮也,自于周室,而國朝祀典,當與周異。且周以後稷配天,為始封之祖,而下乃立廟。廟毀主遷,皆在太祖之後。禘祫之時,無先于太廟太祖者。正太祖東向之位,全其尊而不疑。然今年十月祫饗太廟,伏請據魏、晉舊制為比,則構築別廟。東晉以征西等四府君為別廟,至禘祫之時,則于太廟正太祖之位以申其尊,別廟祭高皇、太皇、征西等四府君以敘其親。伏以國家若用此義,則宜別為獻祖、懿祖立廟,禘祫祭之,以重其親;則太祖于太廟遂居東向,以全其尊。伏以德明、興聖二皇帝,曩立廟,至禘祫之時,常用饗禮,今則別廟之制,使就興聖廟藏祔為宜。

勅して尚書省の百僚に下し集議せしむ。礼儀使太子少師顔真卿議して曰く、「議する者或いは云う、献祖・懿祖は親遠く廟遷り、祫享すべからず、宜しく永く西夾室に閟すべし。又た議する者云う、二祖は宜しく同く祫享し、太祖に於いて並びに昭穆し、而して太祖東向の位を空うすべし。又た議する者云う、二祖若し同く袷享せば、即ち太祖の位永く正しきを得ず、宜しく二祖の神主を奉遷して徳明皇帝廟に祔蔵すべし。臣伏して三議倶に未だ允ならずと為す。且つ礼経は残欠し、既に明据無く、儒者は能く義類を方び、其の中を斟酌すれば、則ち挙げて之を行うべく、蓋し正に協うなり。伏惟うに太祖景皇帝は受命始封の功を以て、百代遷らざるの廟に処り、天に配し崇めて享け、是れ極めて尊厳なり。且つ禘祫の時に至りては、暫く昭穆の位に居り、己を屈して孝を申べ、祖宗を敬奉し、歯族の礼に縁り、先を尊ぶの道を広む。此れ実に太祖の明神烝烝たるの本意にして、亦た以て天下に化被し、孝悌に率循せしむる所以なり。晋の蔡謨等の議に依り、十月祫享の日に至りて献祖の神主を奉じて東向の位に居らしめ、懿祖・太祖より諸祖宗に洎るまで、左昭右穆の列に遵うべし。此れ国家の本を重んじ順を尚ぶの明義を彰かにし、足ら以て万代不易の令典と為すべし。又た議する者は二祖の神主を徳明皇帝廟に奉じて、祫祭の礼を行わんことを請う。夫れ祫は合なり。故に《公羊伝》に云う、『大事とは何ぞや、祫なり』と。若し祫祭を太廟に陳べずして徳明廟に享くれば、是れ乃ち分食なり。豈に合食と謂わんや。名実相い乖き、深く礼意を失う。固より行うべからず」と。

原文敕下尚書省百僚集議。禮儀使太子少師顏真卿議曰:「議者或云獻祖、懿祖親遠廟遷,不當祫享,宜永閟西夾室。又議者云二祖宜同祫享,于太祖並昭穆,而空太祖東向之位。又議者云,二祖若同袷享,即太祖之位永不得正,宜奉遷二祖神主祔藏于德明皇帝廟。臣伏以三議俱未為允。且禮經殘缺,既無明據,儒者能方義類,斟酌其中,則可舉而行之,蓋協於正也。伏惟太祖景皇帝以受命始封之功,處百代不遷之廟,配天崇享,是極尊嚴。且至禘祫之時,暫居昭穆之位,屈己申孝,敬奉祖宗,緣齒族之禮,廣尊先之道,此實太祖明神烝烝之本意,亦所以化被天下,率循孝悌也。請依晉蔡謨等議,至十月祫享之日奉獻祖神主居東向之位,自懿祖、太祖洎諸祖宗,遵左昭右穆之列。此有彰國家重本尚順之明義,足為萬代不易之令典也。又議者請奉二祖神主于德明皇帝廟,行祫祭之禮。夫祫,合也。故《公羊傳》云:『大事者何?祫也。』若祫祭不陳於太廟而享於德明廟,是乃分食也,豈謂合食乎?名實相乖,深失禮意,固不可行也。」

八年正月二十三日、太子左庶子李嶸等七人議して曰く、

原文八年正月二十三日,太子左庶子李嶸等七人議曰:

『王制』に曰く、「天子七廟、三昭三穆、太祖と合わせて七なり」と。これは周の制度である。七とは、太祖および文王・武王の祧(遠祖の廟)と、親廟四つを合わせたものである。太祖は後稷である。殷では六廟、契および湯と二昭二穆である。夏では五廟、太祖はなく、禹と二昭二穆のみである。晋朝の博士孫欽の議に云う、「王者が天命を受けた太祖および諸侯が始めて封ぜられた君、それ以前の神主は、数え上げて五代を過ぎればその廟を毀ち、禘祫(大祭)には及ばない。禘祫が及ぶのは、天命を受けた太祖以後で、順次毀廟された神主が二つの祧に昇って蔵められたものである。たとえ百代であっても、禘祫はこれに及ぶ」と。伏して考えるに、献祖・懿祖の二祖は、太祖以前の親尽(親等が尽きる)の主である。三代以降の制度に擬すれば、禘祫は及ばないのである。代祖の神主は、太祖以下の毀廟の主であり、『公羊伝』に所謂「既に毀廟の主、太祖に陳ぶ」というものである。謹んで按ずるに、漢の永光四年の詔、郡国の廟および親尽の祖を廃することを議し、丞相韋玄成が太上・孝恵の廟を議し、皆親尽にして毀つべしとし、太上廟の主は園に瘞(埋め)るべく、孝恵の主は太祖廟に遷すべしと奏し、可とされた。太上は、太祖以前の主と同じであり、園に瘞るのは、禘祫が及ばないからであり、これが今の献・懿二祖に比すべきものである。孝恵が太祖廟に遷されたのは、太祖以下の子孫であることを明らかにし、禘祫が及ぶことを同じくするためであり、これが今の代祖元皇帝の神主に比すべきものである。魏・晋より宋・斉・陳・隋に相承し、始めて天命を受けた君は皆廟を立て、太祖の位を虚位とした。太祖以後七代目の君に至ると、太祖が東向(東を向く尊位)の位となり、七廟が成るのである。太祖以前の主については、魏の明帝は処士の主を遷して園邑に置き、歳時令丞に奉薦させたが、これは世数がまだ近いからである。東晋の明帝が崩ずると、征西等の三祖を西除(西の階)に遷入し、これを祧と名付け、遠廟に准えた。康帝が崩じ、穆帝が立つと、京兆(の神主)を西除に遷入し、同じく祧と謂い、前の礼の如くし、共に禘祫は及ばなかった。国朝(唐)は始め四廟を饗し、宣皇帝・光皇帝および太祖・世祖の神主を廟に祔した。貞観九年、高祖を太廟に祔せんとし、朱子奢が礼に准えて七廟を立てることを請い、その三昭三穆、各々神主を置くべしとし、太祖は晋宋以来の故事に依り、その位を虚位とし、順次遷されるのを待って東向の位に処すべしとした。ここに始めて弘農府君および高祖を六室に祔し、太祖の位を虚位として禘祫を行った。二十三年、太宗が廟に祔せられると、弘農府君は西夾室に蔵められた。文明元年、高宗が廟に祔せられると、始めて宣皇帝を西夾室に遷した。開元十年、玄宗は特に九廟を立て、ここに宣皇帝を追尊して献祖とし、再び正室に列し、光皇帝を懿祖として、九室を備えた。禘祫はなお太祖の位を虚位とした。祝文は三祖に対して臣と称せず、全廟の数であることを明らかにしたのみである。至徳二載、克復の後、新たに九廟の神主を作り、遂に弘農府君の神主を作らず、禘祫が及ばないことを明らかにしたのである。宝応二年、玄宗・粛宗を廟に祔し、献・懿二祖を西夾室に遷し、始めて太祖を以て東向の位に当て、献・懿二祖を太祖以前の親尽の神主とし、礼に准えて禘祫は及ばず、凡そ十八年であった。建中二年十月、祫饗を行わんとし、礼儀使顔真卿が状を奏して、献・懿二祖の神主を出して行事すべく、その布位の次第および東面の尊位は、東晋の蔡謨等の議に准えて定むべしと請うた。ここに献祖を以て東向に当て、懿祖を昭位の南向に、太祖を穆位の北向に、次いで左昭右穆に陳列して行事した。しかして蔡謨の当時、その議はあれども、事は竟に行われず、我が唐の廟祧、どうしてこれを准とすべきであろうか。嶸、伏して考えるに、嘗・禘・郊・社は、尊無二上であり、瘞毀遷蔵は、礼に義断がある。献・懿を親尽の主とし、太祖が既に東向の尊に当たる以上、一朝に改移することは、実に典故に非ず。謂うらくは、先朝の故事に復し、献・懿の神主を西夾室に蔵め、『祭法』に所謂「遠廟を祧と為し、祧を去れば壇と為し、壇を去れば墠と為す。壇・墠に禱あれば則ち祭り、禱なければ乃ち止む」に類すべし。太祖は既に天地に昭配し、位は東向の尊に当たる。上は貞観の首制を守り、中は開元の成規を奉じ、下は宝応の厳式に遵い、経義に符合し、旧章を失わざらんことを庶幾う。

原文《王制》:「天子七廟,三昭三穆,與太祖而七。」周制也。七者,太祖及文王、武王之祧,與親廟四也。太祖,後稷也。殷則六廟,契及湯與二昭二穆。夏則五廟,無太祖,禹與二昭二穆而已。晉朝博士孫欽議云:「王者受命太祖及諸侯始封之君,其已前神主,據已上數過五代即毀其廟,禘祫不復及也。禘祫所及者,謂受命太祖之後,迭毀主升藏於二祧者也。雖百代,禘祫及之。」伏以獻、懿二祖,太祖以前親盡之主也。擬三代以降之制,則禘祫不及矣。代祖神主,則太祖已下毀廟之主,則《公羊傳》所謂「已毀廟之主,陳于太祖」者是也。謹按漢永光四年詔,議罷郡國廟及親盡之祖,丞相韋玄成議太上、孝惠廟,皆親盡宜毀,太上廟主宜瘞於園,孝惠主遷于太祖廟。奏可。太上,同太祖已前之主,瘞於園,禘祫不及故也,則今獻、懿二祖之比也。孝惠遷于太祖廟,明太祖已下子孫,同禘祫所及,則今代祖元皇帝神主之比也。自魏、晉及宋、齊、陳、隋相承,始受命之君皆立廟,虛太祖之位。自太祖之後至七代君,則太祖東向位,乃成七廟。太祖以前之主,魏明帝則遷處士主置於園邑,歲時使令丞奉薦,世數猶近故也。至東晉明帝崩,以征西等三祖遷入西除,名之曰祧,以准遠廟。至康帝崩,穆帝立,於是京兆遷入西除,同謂之祧,如前之禮,並禘祫所不及。國朝始饗四廟,宣、光並太祖、世祖神主祔於廟。貞觀九年,將祔高祖于太廟,朱子奢請准禮立七廟,其三昭三穆,各置神主。太祖,依晉宋以來故事,虛其位,待遞遷方處之東向位。於是始祔弘農府君及高祖為六室,虛太祖之位而行禘祫。至二十三年,太宗祔廟,弘農府君乃藏於西夾室。文明元年,高宗祔廟,始遷宣皇帝于西夾室。開元十年,玄宗特立九廟,於是追尊宣皇帝為獻祖,復列於正室,光皇帝為懿祖,以備九室。禘祫猶虛太祖之位。祝文于三祖不稱臣,明全廟數而已。至德二載克復後,新作九廟神主,遂不造弘農府君神主,明禘祫不及故也。至寶應二年,祔玄宗、肅宗於廟,遷獻、懿二祖於西夾室,始以太祖當東向位,以獻、懿二祖為是太祖以前親盡神主,准禮禘祫不及,凡十八年。至建中二年十月,將祫饗,禮儀使顏真卿狀奏:合出獻、懿二祖神主行事,其布位次第及東面尊位,請准東晉蔡謨等議為定。遂以獻祖當東向,以懿祖于昭位南向,以太祖于穆位北向,以次左昭右穆,陳列行事。且蔡謨當時雖有其議,事竟不行,而我唐廟祧,豈可為准?嶸伏以嘗、禘、郊、社,尊無二上,瘞毀遷藏,禮有義斷。以獻、懿為親盡之主,太祖已當東向之尊,一朝改移,實非典故。謂宜復先朝故事,獻、懿神主藏於西夾室,以類《祭法》所謂「遠廟為祧,去祧為壇,去壇為墠,壇、墠有禱則祭,無禱乃止。」太祖既昭配天地,位當東向之尊。庶上守貞觀之首制,中奉開元之成規,下遵寶應之嚴式,符合經義,不失舊章。

吏部郎中柳冕等十二人の議に曰く、

原文吏部郎中柳冕等十二人議曰:

天子たる天命を受けた君、諸侯たる始封の祖は、皆太祖である。故に天子といえども必ず尊ぶべきものあり、ここに太祖を尊ぶのである。故に諸侯といえども必ず先んずべきものあり、またここに太祖を尊ぶのである。故に太祖以下は、親尽して毀つ。秦が学を滅ぼし、漢が礼に及ばず、昭穆を列せず、迭毀を建てず。晋はこれを失い、宋はこれに因った。ここに五廟の制に違うことあり、ここに太祖の位を虚位とすることあり。昭穆を列せざるは、人に序あることを示す所以に非ず。迭毀を建てざるは、人に殺(差等)あることを示す所以に非ず。五廟の制に違うは、人に別あることを示す所以に非ず。太祖の位を虚位とするは、人に尊あることを示す所以に非ず。これ礼の廃する由りである。『礼』を按ずるに、「父は士たり、子は天子たり、祭りは天子を以てし、葬は士を以てす」と。今、献祖は祧なり、懿祖もまた祧なり、唐は未だ天命を受けざる時は、猶士の礼である。ここに高祖・太宗は天子の礼を以てこれを祭り、敢えて太祖の位を以てこれを易えず。今これを易えるは、先王の序を乱すことにはならぬか。昔、周は天下を有ち、太王・王季を追王して天子の礼を以てし、その祭りに及んでは、親尽してこれを毀った。漢は天下を有ち、太上皇を尊んで天子の礼を以てし、その祭りに及んでは、親尽してこれを毀った。唐は天下を有ち、献・懿二祖を追王して天子の礼を以てし、その祭りに及んでは、親尽してこれを毀つべきである。則ち太祖の位を代えるべからざること明らかなり。また『周礼』を按ずるに、先公の祧あり、先王の祧あり。先公の遷主は、後稷の廟に蔵む、これは周が未だ天命を受けざる時の祧であろうか。先王の遷主は、文王の廟に蔵む、これは周が既に天命を受けた時の祧であろうか。故に二つの祧あり、廟を異にする所以である。今、献祖以下の祧は、猶先公の如し。太祖以下の祧は、猶先王の如し。請うらくは、別廟を築きて二祖を居らしめ、則ち周の礼を行い、古の道に復せん。故に漢の礼は、周に因り、魏の礼は、漢に因り、隋の礼は、魏に因る。皆三廟を立て、二つの祧あり。また南陽に私廟四つを立てたが、これも後漢の制である。人の子たるもの、大宗に事えてその私親を降すと為し、故に私廟は本宗を奉ずる所以であり、太廟は正統を尊ぶ所以である。古今時を異にし、文質礼を異にするといえども、礼の情に右したがい、礼の本を問う者は、その変を通じ、酌んでこれを行わざるはない。故に上はその崇を致せば、則ち太祖は上に属して尊く、下はその殺を尽くせば、則ち祧主は下に親尽し、中はその中に処すれば、則ち王者は中に主祧するのである。

原文天子受命之君,諸侯始封之祖,皆為太祖。故雖天子,必有尊也,是以尊太祖焉;故雖諸侯,必有先也,亦以尊太祖焉。故太祖已下,親盡而毀。洎秦滅學,漢不及禮,不列昭穆,不建迭毀。晉失之,宋因之。於是有違五廟之制,於是有虛太祖之位。夫不列昭穆,非所以示人有序也;不建迭毀,非所以示人有殺也;違五廟之制,非所以示人有別也;虛太祖之位,非所以示人有尊也。此禮之所由廢。按《禮》:「父為士,子為天子,祭以天子,葬以士。」今獻祖祧也,懿祖亦祧也,唐未受命,猶士禮也。是故高祖、太宗以天子之禮祭之,不敢以太祖之位易之。今而易之,無乃亂先王之序乎?昔周有天下,追王太王、王季以天子之禮,及其祭也,親盡而毀之。漢有天下,尊太上皇以天子之禮,及其祭也,親盡而毀之。唐有天下,追王獻、懿二祖以天子之禮,及其祭也,親盡而毀之。則不可代太祖之位明矣。又按《周禮》有先公之祧,有先王之祧。先公之遷主,藏乎後稷之廟,其周未受命之祧乎?先王之遷主,藏乎文王之廟,其周已受命之祧乎?故有二祧,所以異廟也。今獻祖已下之祧,猶先公也;太祖已下之祧,猶先王也。請築別廟以居二祖,則行周之禮,復古之道。故漢之禮,因于周也;魏之禮,因於漢也;隋之禮,因于魏也。皆立三廟,有二祧。又立私廟四於南陽,亦後漢制也。以為人之子,事大宗降其私親,故私廟所以奉本宗也。太廟所以尊正統也。雖古今異時,文質異禮,而右禮之情,與問禮之本者,莫不通其變,酌而行之。故上致其崇,則太祖屬尊乎上矣;下盡其殺,則祧主親盡於下矣;中處其中,則王者主祧於中矣。

工部郎中張薦等の議に曰く、

原文工部郎中張薦等議曰:

昔、殷・周は稷・珣を以て始封と為し、遷さざる祖と為し、其の毀廟の主は、皆稷・珣の後なり、是を以て昭・穆合祭し、尊卑差なし。夏后氏の如きは禹を以て始封と為し、遂に遷さざる祖と為す。故に夏五廟は、禹と二昭二穆のみ。此に拠れば則ち鯀の親尽き、其の主已に遷る。左氏既に『禹は鯀に先んぜず』と称す、足らく以て遷廟の主、中に始封祖に尊きに属するも、亦た合食の位に在るを明らかにす。又た晋・宋・齊・梁・北齊・周・隋の史に拠れば、其の太祖已下、並びに禘祫に同じ、未だ嘗て遷毀の主を限断せず。伏して以て南北八代、碩學巨儒無きに非ず、宗廟の大事、議必ず精博、史冊に験するに、其の禮僉に同じ。又た詳らかに魏・晉・宋・齊・梁・北齊・周・隋の故事、及び《貞觀》、《顯慶》、《開元禮》の述ぶる所、禘袷並びに東向を虚す。既に行わるること已久しく、実に群情の安んずる所なり。且つ太祖清廟第一の室に処り、其の神主百代遷らず、永く烝嘗を歆け、上は天地に配し、郊廟に於いて正しからざること無し。若し禘・祫の時に至りては、暫く昭穆の列に居り、己を屈して孝を申べ、以て祖禰に奉ずるは、豈に伯禹の烝烝として鯀を敬うの道に非ずや?亦是れ魏・晉及び周・隋の太祖、敢えて卑を以て尊を厭わざるの義なり。議者或いは二祖を興聖廟に遷し、及び別に築室を置き、禘祫の年に至りて之を饗せんことを請う。夫れ祫は合なり。此れ乃ち食を分つ、殊に禮意に乖く。又た西夾室に蔵し、永く祀に及ばざらんと欲す、漢代の瘞園に異ならず、尤も不可なり。輒ち敢えて正経を徴据し、旧史を考論し、献・懿二祖と太祖とを奉じて並びに昭穆の位に従い、而して東向を虚さんことを請う。

原文昔殷、周以稷、珣始封,為不遷之祖,其毀廟之主,皆稷、珣之後,所以昭、穆合祭,尊卑不差。如夏后氏以禹始封,遂為不遷之祖。故夏五廟,禹與二昭二穆而已。據此則鯀之親盡,其主已遷。左氏既稱『禹不先鯀』,足明遷廟之主,中屬尊于始封祖者,亦在合食之位矣。又據晉、宋、齊、梁、北齊、周、隋史,其太祖已下,並同禘祫,未嘗限斷遷毀之主。伏以南北八代,非無碩學巨儒,宗廟大事,議必精博,驗於史冊,其禮僉同。又詳魏、晉、宋、齊、梁、北齊、周、隋故事,及《貞觀》、《顯慶》、《開元禮》所述,禘袷並虛東向。既行之已久,實群情所安。且太祖處清廟第一之室,其神主雖百代不遷,永歆烝嘗,上配天地,於郊廟無不正矣。若至禘、祫之時,暫居昭穆之列,屈己申孝,以奉祖禰,豈非伯禹烝烝敬鯀之道歟?亦是魏、晉及周、隋之太祖,不敢以卑厭尊之義也。議者或欲遷二祖於興聖廟,及請別置築室,至禘祫年饗之。夫祫,合也。此乃分食,殊乖禮意。又欲藏於西夾室,永不及祀,無異漢代瘞園,尤為不可。輒敢徵據正經,考論舊史,請奉獻、懿二祖與太祖並從昭穆之位,而虛東向。

司勳員外郎裴樞が議して曰く、

原文司勳員外郎裴樞議曰:

礼において必ず宗子を立てるのは、おそらくその族人を収めるためであり、東向きの主もまたこれと同じである。もし遠廟に合祀するならば、中に一つの隔たりがあることになり、上に等しく倫理に合わない。西の位が常に空であるならば、太祖は永遠に昭穆に厭われることになり、異なる廟で別に祭るならば、祫饗は何を主として合食するのか。永遠に姜嫄に比べて閉ざすならば、祥禖を推して事がなくなる。《礼》に云う、「親を親しむ故に祖を尊び、祖を尊ぶ故に宗を敬い、宗を敬う故に族を収める、これによって宗廟は厳かであり、社稷は重い」と。この言葉によって言えば、太祖の上にさらに追尊の祖があるならば、親を親しみ祖を尊ぶ義は、おそらく乖離しているのではないか。太廟の外に軽々しく別祭の廟を置くならば、宗廟はおそらく厳かでなく、社稷はおそらく重くないのではないか。かつ漢の丞相韋玄成は園に瘞することを請い、晋の徴士虞喜は廟の両階の間に瘞することを請うた。喜はまた左氏の説を引き、古の先王は日ごとに祖考を祭り、月ごとに曾高を祀り、時に二祧に及び、歳ごとに壇墠に及び、終に禘は郊宗石室に及ぶと。これは郊宗の上にさらに石室の祖があることを謂い、これが最も近い。ただ当時の議は石室の居所について、未だ準拠がなかった。喜は夾室の中に請うたが、愚かには石室は拠り所とすべきであるが、それを処する道は未だ安らかでないと思う。何となれば、夾室とは太祖の下の毀主を居らせることを謂い、太祖の上の蔵主を安んずるものではない。卑しいものが正位に処し、尊いものが傍らに居ることはない。理を考へ心に即せば、おそらく允協ではないと恐れる。今もし園寢に石室を建て、神主を遷して以て永く安んじ、漢・晋の旧章を採り、なお禘袷の一祭に従い、古礼の残欠を修め、国朝の典故と為し、おそらく《春秋》の変礼の正しき、動きて中る者であろうか。

原文禮之必立宗子者,蓋為收其族人,東向之主,亦猶是也。若祔於遠廟,無乃中有一間,等上不倫。西位常虛,則太祖永厭于昭穆;異廟別祭,則祫饗何主乎合食?永閟比于姜嫄,則推祥禖而無事。《禮》云:「親親故尊祖,尊祖故敬宗,敬宗故收族,所以宗廟嚴,社稷重。」由是言也,太祖之上復有追尊之祖,則親親尊祖之義,無乃乖乎?太廟之外,輕置別祭之廟,則宗廟無乃不嚴,社稷無乃不重乎?且漢丞相韋玄成請瘞于園,晉徵士虞喜請瘞於廟兩階之間。喜又引左氏說,古者先王日祭于祖考,月祀于曾高,時享及二祧,歲祫及壇墠,終禘及郊宗石室。是謂郊宗之上,復有石室之祖,斯最近矣。但當時議所居石室,未有准的。喜請於夾室中,愚以為石室可據,所以處之之道未安。何者?夾室謂居太祖之下毀主,非是安太祖之上藏主也。未有卑處正位,尊在傍居。考理即心,恐非允協。今若建石室於園寢,遷神主以永安,采漢、晉之舊章,仍禘袷之一祭,修古禮之殘缺,為國朝之典故,庶乎《春秋》變禮之正,動也中者焉。

考功員外郎陳京議して曰く、

原文考功員外郎陳京議曰:

京は先に太常博士として、既に建中二年九月四日に、祫饗の際の献祖・懿祖の二祖を安置すべき位置について奏議し、百官に下して広く疑義を採ることを請うた。その時、禮儀使の顏真卿はこれにより上状し、京の議と異なり、京の議は行われなかった。拝見するに、去年十一月二十八日に下された詔は太常卿裴郁の上奏によるもので、おおよそ京の議と合致する。伏して考えるに、興聖皇帝は献祖の曾祖、懿祖の高祖にあたる。曾孫を以て曾祖・高祖の廟に祔列すること、これ礼の不可とするところであろうか。実に人情の大いに順うところである。

原文京前為太常博士,已于建中二年九月四日,奏議祫饗獻、懿二祖所安之位,請下百僚博采所疑。其時禮儀使顏真卿因是上狀,與京議異,京議未行。伏見去年十一月二十八日詔下太常卿裴郁所奏,大抵與京議相會。伏以興聖皇帝,同獻祖之曾祖,懿祖之高祖。夫以曾孫祔列于曾、高之廟,豈禮之不可哉?實人情之大順也。

京兆少尹の韋武が議して曰く。

原文京兆少尹韋武議曰:

およそ三年に一度は祫祭を行い、五年に一度は禘祭を行う。祫祭のときは群廟の神主を大いに合わせ、禘祭のときは各々その祧廟の順序に従う。謂うところは、神主が遷されること愈々遠く、祧室が既に修められたならば、当に袷祭を行う歳には、当に献祖を東向きの位置に居らせ、而して懿祖はその昭穆の順序に従わせ、以て最も親しいところを極める。もし禘礼を行うならば、則ち太祖は再び西の筵に在り、以て衆主をその左右に列ねる。是れ則ち太祖に対しては降屈せず、献祖に対しては厭卑すること無し。礼を考へ情に酌み、此れを行うを当とすと謂ふ。

原文凡三年一祫,五年一禘。祫則群廟大合,禘則各序其祧。謂主遷彌遠,祧室既修,當袷之歲,當以獻祖居於東向,而懿祖序其昭穆,以極所親。若行禘禮,則太祖復筵于西,以眾主列其左右。是則于太祖不為降屈,于獻祖無所厭卑。考禮酌情,謂當行此為勝。

同官縣の尉仲子陵が議して曰く、

原文同官縣尉仲子陵議曰:

今、儒者は『子たとえ齊聖たりとも、父の食に先んぜず』の語を援用し、既に祧(遷廟)せられた献祖を、仮に東向(太祖の位)に居らせ、天に配する太祖を、昭穆の位に屈せしめんと欲するが、これは甚だ通ぜざるなり。そもそも左氏の『先んじて食せず』の言は、ただ文公の逆祀を正さんとするに過ぎず、儒者安んぞ知らんや、夏后氏の廟数未だ足らざる時に当たりて、禹が鯀に先んぜずと言えるを。且つ漢の禘・祫は、蓋し徴すに足らず。魏・晋已降、太祖は皆近く、是れ太祖の上には、皆遷主有り。歴代の疑う所、或いは『閟宮』の詩を引きて永く閟(閉)じ、或いは虞主の義に因りて園に瘞(埋)め、或いは遠廟を祧と為すを縁りて宮を築き、或いは太祖実に卑くして位を虚しと為すを言う。ただ東晋の蔡謨、左氏の『先んじて食せず』を憑みて説と為し、征西将軍をして東向せしめんと欲す。数者を均しくするに、此れ最も安からず。且つ蔡謨の此の議は、晋に行われしに非ず。前に有司、謨の改築の言に本づかず、征西東向の一句を取りて万代の法と為すは、此れ甚だ不可なるなり。臣又これを思うに、永く閟し園に瘞むれば、則ち臣子の心安からざる所有り。仮に正位を虚しと為せば、則ち太祖の尊厳時に定まる無し。則ち別に一室を築くは、義やや安んずべし。且つ興聖の献祖に対するは、乃ち曾祖なり。昭穆序有り、饗祀時を以てす。伏して献・懿二祖を奉じて徳明・興聖廟に遷すを請う。此れ其の大順なり。或いは祫は合なりと為し、今二祖別廟は、是れ食を分つなり、何の合たるを為さんとす。臣以為うらくは、徳明・興聖の二廟は、禘祫の年毎に、亦皆饗薦せらる。是れ亦食を分つなり、何ぞ二祖を疑わんや。

原文今儒者乃援「子雖齊聖,不先父食」之語,欲令已祧獻祖,權居東向,配天太祖,屈居昭穆,此不通之甚也。凡左氏『不先食』之言,且以正文公之逆祀,儒者安知非夏後廟數未足之時,而言禹不先鯀乎!且漢之禘、祫,蓋不足徵。魏、晉已還,太祖皆近,是太祖之上,皆有遷主。歷代所疑,或引《閟宮》之詩而永閟,或因虞主之義而瘞園,或緣遠廟為祧以築宮,或言太祖實卑而虛位。惟東晉蔡謨憑左氏「不先食」以為說,欲令征西東向。均之數者,此最不安。且蔡謨此議,非晉所行。前有司不本謨改築之言,取征西東向之一句為萬代法,此共不可甚也。臣又思之,永閟瘞園,則臣子之心有所不安;權虛正位,則太祖之尊無時而定。則別築一室,義差可安。且興聖之于獻祖,乃曾祖也,昭穆有序,饗祀以時。伏請奉獻、懿二祖遷於德明、興聖廟,此其大順也。或以祫者合也,今二祖別廟,是分食也,何合之為?臣以為德明、興聖二廟,每禘祫之年,亦皆饗薦,是亦分食,奚疑于二祖乎?

その月二十七日、吏部郎中柳冕が『禘祫義證』を上奏し、凡そ一十四道、以て顧問に備え、並びに議を奏して聞かしむ。三月十二日に至り、祠部が郁等の議状を奏す。

原文其月二十七日,吏部郎中柳冕上《禘祫義證》,凡一十四道,以備顧問,並議奏聞。至三月十二日,祠部奏郁等議狀。

至十一年七月十二日、勅す。「于頎等の議状、請う所各殊なり、理討論に在り、精当を求めて用うべし。宜しく尚書省に令して百僚と国子監の儒官とを会し、旧状を切磋し、可否を定め、仍て司を委ねて事件を具して聞奏せしむべし。」と。

原文至十一年七月十二日,敕:「{{red|于頎等議狀,所請各殊,理在討論,用求精當。宜令尚書省會百僚與國子監儒官,切磋舊狀,定可否,仍委所司具事件聞奏。}}」其月二十六日,左司郎中陸淳奏曰:「臣尋七年百僚所議,雖有一十六狀,總其歸趣,三端而已。于頎等一十四狀,並云復太祖之位。張薦狀則云並列昭穆,而虛東饗之位。韋武狀同云當祫之歲,獻祖居於東向,行禘之禮,太祖復筵于西。謹按禮經及先儒之說,復太祖之位,位既正也,義在不疑。太祖之位既正,懿、獻二主,當有所歸。詳考十四狀,其意有四:一曰藏諸夾室,二曰置之別廟,三曰遷於園寢,四曰祔於興聖。藏諸夾室,是無饗獻之期,異乎周人藏於二祧之義,禮不可行也。置之別廟,始于魏明之說,實非《禮經》之文。晉義熙九年,雖立此義,已後亦無行者。遷於園寢,是亂宗廟之儀,既無所憑,殊乖經意,不足徵也。惟有祔於興聖之廟,禘祫之歲乃一祭之,庶乎亡於禮者之禮,而得變之正也。」

「禘祭と祫祭の礼は、祭祀の中でも重要なものであり、先に多くの議論があったが、なお詳しく精確ではない。宜しく百官に命じて会議させ、その結果を聞かせるべきである。」

原文十九年三月,給事中陳京奏:「禘是大合祖宗之祭,必尊太祖之位,以正昭穆。今年遇禘,伏恐須定向來所議之禮。」敕曰:「{{red|禘祫之禮,祭之大者,先有眾議,猶未精詳,宜令百僚會議以聞。}}」時左僕射姚南仲等獻議狀五十七封,詔付都省再集百僚議定聞奏。戶部尚書王紹等五十五人奏議:「請奉遷獻祖、懿祖神主祔德明、興聖廟,請別增兩室奉安神主。緣二十四日禘祭,修廟未成,請於德明、興聖廟垣內權設幕屋為二室,暫安神主。候增修廟室成,准禮遷祔神主入新廟。每至禘祫年,各於本室行饗禮。」從之。是月十五日,遷獻祖、懿祖神主權祔德明、興聖廟之幕殿。二十四日,饗太廟。自此景皇帝始居東向之尊,元皇帝已下依左昭右穆之列矣。二祖新廟成,敕曰:「{{red|奉遷獻祖、懿祖神主,正太祖景皇帝之位,虔告之禮,當任重臣。宜令檢校司空平章事杜佑攝太尉,告太清宮;門下侍郎平章事崔損攝太尉,告太廟。}}」又詔曰:「{{red|國之大事,式在明禋。王者孝饗,莫重於禘祭,所以尊祖而正昭穆也。朕承列聖之休德,荷上天之睠命,虔奉牲幣,二十五年。永惟宗廟之位,禘嘗之序,夙夜祗栗,不敢自專。是用延訪公卿,稽參古禮,博考群議,至於再三。敬以令辰,奉遷獻祖宣皇帝神主、懿祖光皇帝神主,祔於德明、興聖皇帝廟。太祖景皇帝正東向之位。宜令所司循禮,務極精嚴,祗肅祀典,載深感惕。咨爾中外,宜悉朕懷。}}」

旧儀に依れば、高祖の廟には、開府儀同三司淮安王李神通、礼部尚書河間王李孝恭、陝東道大行台右僕射鄖国公殷開山、吏部尚書渝国公劉政会を配饗す。太宗の廟には、司空しくう梁国公房玄齢、尚書右僕射萊国公杜如晦、尚書左僕射申国公高士廉を配饗す。高宗の廟には、司空英国公李勣、尚書左僕射北平県公張行成、中書令高唐県公馬周を配饗す。中宗の廟には、侍中平陽郡王敬暉、侍中扶陽郡王桓彦範、中書令南陽郡王袁恕己を配饗す。睿宗の廟には、太子太傅許国公蘇瓌、尚書左丞相徐国公劉幽求を配饗す。

原文舊儀,高祖之廟,則開府儀同三司淮安王神通、禮部尚書河間王孝恭、陝東道大行台右僕射鄖國公殷開山、吏部尚書渝國公劉政會配饗。太宗之廟,則司空梁國公房玄齡、尚書右僕射萊國公杜如晦、尚書左僕射申國公高士廉配饗。高宗之廟,則司空英國公李勣、尚書左僕射北平縣公張行成、中書令高唐縣公馬周配饗。中宗之廟,則侍中平陽郡王敬暉、侍中扶陽郡王桓彥范、中書令南陽郡王袁恕己配享。睿宗之廟,則太子太傅許國公蘇瑰、尚書左丞相徐國公劉幽求配饗。