旧唐書
唐の礼制では、四季それぞれの孟月に太廟を享祭し、各室に太牢を用い、季冬の蠟祭の後、辰の日に臘祭として太廟で享祭し、犠牲は時祭と同じを用いる。三年に一度の祫祭は孟冬に行い、五年に一度の禘祭は孟夏に行う。また時祭の日に、太廟西門内の道の南で七祀を修める。すなわち、司命と戸は春に、灶は夏に、門と厲は秋に、行は冬に祀り、中溜は季夏の迎気の日に祀る。もし品物の時新で進御に堪えるものがあれば、所司は先ず太常に送り、尚食と相知り、精好なものを簡択し、滋味が新物と相宜しいものを配する。太常卿が太廟に奉薦し、神主は出さない。仲春に氷を薦めるのもこれと同じである。
漢の丞相韋玄成が五廟を立てることを奏したのに按ずるに、諸侯もまた五廟と同じである。劉子駿が七祖を開くことを議し、邦君は二を降す。鄭司農は玄成の轍を踵ぎ、王子雍は国師の波を揚げ、分塗並駆し、各々相師祖し、咸くその習う所を玩び、同を好み異を悪む。遂いに歴代の祧祀をして、多少参差し、優劣去取、曾て画一なること無からしむ。『伝』に「名位同じからざれば、礼も亦た数を異にす」と称し、『易』に「卑高以て陳べば、貴賤位す」と云う。豈に嫌疑を別ち、微遠を慎み、陵僭を防ぎ、君を尊び佐を卑しめ、陞降舛ること無からしむを貴ぶにあらずや、礼を貴ぶ所の義、茲に在るか。もし天子諸侯、倶に五廟を立てしめば、便ち賤は以て貴に同じくすべく、臣は以て主に濫るべく、名器準無く、冠屨同じく帰し、礼も亦た数を異にすと雖も、義将に安くにか設けん。『戴記』又た称す、「礼に以て多きを貴ぶ者有り、天子七廟、諸侯五廟」と。もし天子五廟ならば、才だ子男と相埒するのみ、以て多きを貴ぶと為すも、何を以てか表わさん。愚以為うらくは、諸侯は高祖以下を立て、太祖と併せて五廟と為し、一国の貴なり。天子は高祖以上を立て、太祖と併せて七廟と為し、四海の尊なり。降殺両を以てす、礼の正なり。前史の所謂「徳厚き者は光を流し、徳薄き者は卑を流す」、此れ其の義なり。伏して惟うに聖祖天に在り、山陵日に有り、祖に祔えて厳配し、大事斯に在り。宜しく七廟に依り、大礼を崇むべし。もし親尽の外に、王業の基づく所の者有らば、殷の玄王、周の后稷の如く、尊びて始祖と為す。倘し其の例無くば、請うらくは三昭三穆、各々神主を置き、太祖一室、考して虚位とせん。将に七百の祚を待ち、遞遷して方に処らんとす、庶幾くは上は晋・宋に依り、傍ら人情に愜わん。
ここにおいて八座奏して曰く、
臣聞く、揖讓受終の後、革命創制の君、何ぞ嘗て親親の義を崇めず、尊尊の道を篤くし、祖宗を虔奉し、郊廟に致敬せざらんや。義闕里に乖き、学秦庭に滅びてより、儒雅既に喪われ、経籍湮殄す。両漢は絶業を纂修し、魏・晋は斯文を敦尚すと雖も、宗廟の制度、典章散逸し、伝うる所に習いて競いて偏説を執り、浅見を執りて異端を起こす。昔より茲に至るまで、多く年代を歴り、其の大略を語れば、両家のみ。鄭玄を祖する者は則ち四廟の制を陳べ、王肅を述ぶる者は則ち七廟の文を引き、貴賤混じて弁ぜず、是非紛れて定まらず。陛下至徳自然、孝思罔極、孺慕匹夫の志を踰え、製作聖人の道を窮めらる。誠に宜しく一代の宏規を定め、万世の彝則と為すべし。臣睿旨を奉述し、往載を討論す。七廟を紀する者は実に多く、四祖を称する者は蓋し寡し。其の得失を校うるに、昭然として見るべし。『春秋穀梁伝』及び『礼記』、『王制』、『祭法』、『礼器』、『孔子家語』、並びに云う、「天子七廟、諸侯五廟、大夫三廟、士二廟」と。『尚書』に曰く、「七世の廟は、以て徳を観るべし」と。孫卿・孔安国・劉歆・班彪父子・孔晁・虞喜・幹宝の徒に至りては、或いは学は碩儒を推し、或いは才は博物を称し、今古を商較し、咸く然りと為す。故に其の文に曰く、「天子三昭三穆、太祖の廟と而して七」と。晋・宋・齊・梁、皆この義に依り、親廟六を立てしは、豈に国あるの茂典、刊すべからざるの休烈に非ずや。もし群経の明文に違い、累代の疑議に従い、子雍の篤論に背き、康成の旧学を尊ばば、則ち天子の礼、下は人臣に逼り、諸侯の制、上は王者に僭す、所謂尊卑序有り、名位同じからざる者に非ざるなり。況んや復た礼は人情に由り、自ら天墜に非ず、大孝は尊親より重きは莫く、厚本は厳配より先なるは莫し。数尽く四廟は、多きを貴ぶの道に非ず、祀七世に逮うは、隆きを加うるの心を得たり。是を知る、徳厚き者は光を流すは、乃ち久しき可きの高義、徳薄き者は卑を流すは、実に易えざるの令範なり。臣等参議す、請うらくは晋・宋の故事に依り、親廟六を立て、其の祖宗の制は、式に旧典を遵わん。庶幾くは宗を承くの道、理定の辰に興り、祖を尊ぶの義、孝治の日に成らん。
制これに従う。ここにおいて太廟を増修し、始めて弘農府君及び高祖の神主を崇祔し、旧四室と併せて六室と為す。
二十三年、太宗崩じ、将に崇祔の礼を行わんとす。礼部尚書許敬宗奏言す、「弘農府君廟は応に迭毀すべし。謹んで旧儀に按ずるに、漢の丞相韋玄成は毀主を瘞埋すと為す。但だ万国の宗饗、従来する所有り、一旦瘞埋せば、事允愜せず。晋の博士范宣は別に廟宇を立て、征西等の主を奉り其中に安置せんことを意欲す。之を瘞埋に方ぶれば、頗る情理に葉い、事典故無く、亦た未だ依るに足らず。又た議者或いは毀主を天府に蔵むと言う。祥瑞の蔵むる所、本より斯の意に非ず。今謹んで准量す、祧の外を去りて、猶お壇墠有り、祈禱の及ぶ所、窃に謂うらくは宜しきに合うと。今時の廟制、古と異なり、基を共にし室を別にし、西方を首と為す。もし西夾の中に在らば、仍って尊位に処り、祈禱すれば則ち祭り、祗享絶えず、諸を旧儀に方ぶれば、情実に安んず可し。弘農府君廟は遠親殺し、旧章に詳拠すれば、礼迭毀に合う。臣等参議す、神主を遷奉し、夾室に蔵む、本情篤教、理に在りて弘なり」と。これに従う。其の年八月庚子、太宗文皇帝の神主、太廟に祔す。
中宗即位す。神龍元年正月、享徳廟を改めて旧に依り京太廟と為す。五月、武氏の七廟神主を西京の崇尊廟に遷し、東都に太廟を創置す。太常博士張齊賢建議して曰く、
昔、孫卿子が云うには、「天下を有する者は七代を事とし、一国を有する者は五代を事とする」と。すなわち天子は七廟であり、これは古今の達礼である。故に『尚書』は「七代の廟は以て徳を観るべし」と称し、『祭法』は「王は七廟を立て、一壇一墠を設く」と称し、『王制』は「天子七廟、三昭三穆、太祖の廟と合わせて七なり」と云う。いずれも始封の君を尊び、これを太祖と謂う。太祖の廟は、百代遷さず。祫祭の礼においては、毀廟の主は太祖に陳べ、未だ毀廟せざる主は、皆太祖の室に升り合食する。太祖は東向き、昭は南向き、穆は北向きである。太祖とは、商の玄王、周の后稷がこれである。太祖の外に、更に始祖は無い。但し、商は玄王以後、十四代を経て湯に至りて天下を有し、周は后稷以後、十七代を経て武王に至りて天下を有した。その間の代數は既に遠く、遷廟・親廟は皆太祖の後裔より出でたる故に、合食すること序あり、尊卑差し違わず。その後、漢の高祖が天命を受けたが、始封の祖が無く、即ち高皇帝を以て太祖と為した。太上皇は高帝の父であるが、廟を立てて享祀するも、昭穆の合食の列には在らず、太祖より尊きが故である。魏の武帝が創業し、文帝が天命を受けたが、亦た即ち武帝を以て太祖と為した。その高皇・太皇・外処君等は並びに属尊と為し、昭穆の合食の列には在らざりき。晋の宣帝が創業し、武帝が天命を受けたが、亦た即ち宣帝を以て太祖と為した。その征西・豫章・潁川・京兆府君等は並びに属尊と為し、昭穆の合食の列には在らざりき。これを歴て以降、隋に至るまで、宗廟の制は、この礼改めざりき。故に宇文氏は文皇帝を以て太祖と為し、隋室は武元皇帝を以て太祖と為した。国家は天命を誕受し、累葉重光たり。景皇帝は始めて唐公に封ぜられ、実に太祖たり。中間の代數は既に近く、三昭三穆の内に列する故に、皇家の太廟は唯だ六室のみ有り。その弘農府君・宣帝・光帝は、太祖より尊く、親尽くれば則ち遷し、昭穆の合食の数には在らず。今、皇極再造し、孝思寧からず。二月二十九日の勅を奉ずるに、「七室已下、旧号に依りて尊崇す」と。又、三月一日の勅を奉ずるに、「既に七廟を立てば、須らく始祖を尊崇し、速やかに之を詳にせしむべし」と。伏して礼経を尋ぬるに、始祖は即ち是れ太祖なり、太祖の外に更に始祖は無し。周朝は太祖の外に、周の文王を以て始祖と為すは、礼経に合わず。或いは『白虎通義』を引きて「后稷を始祖と為し、文王を太祖と為し、武王を太宗と為す」と云い、及び鄭玄が『詩・雍』の序に注して「太祖は文王を謂う」と云うを以て説と為す者あり。その義然らず。何となれば、彼は礼の「王者は功有るを祖とし、徳有るを宗とす。周人は文王を祖とし武王を宗とす」に拠りて、故に文王を太祖と謂うのみにして、祫祭に群主を合食する太祖に非ざるなり。今の議者に、或いは涼の武昭王を立てて始祖と為さんと欲する者あり、殊に不可なり。何となれば、昔、商・周において、稷・珣は始封し、湯・武の興隆は、祚は稷・珣より由る。故に稷・珣を以て太祖と為す、即ち皇家の景帝が是れなり。涼の武昭王は勲業未だ広からず、後主は国を失い、土宇伝わらず。景皇の始封は、実に明命の基たり。今、乃ち唐に封ぜられたる盛烈を捨て、西涼の遠構を崇むるは、前に古を考うるに、実に典礼に乖けり。魏氏は曹参を以て太祖と為さず、晋氏は殷王仰を以て太祖と為さず、宋氏は楚の元王を以て太祖と為さず、斉・梁は蕭何を以て太祖と為さず、陳・隋は胡公・楊震を以て太祖と為さざるに、則ち皇家安んぞ涼の武昭王を以て太祖と為すべきか。漢の東京に、大いに郊祀を議し、多くは周が后稷を郊祀するに、漢は当に堯を郊祀すべしと為す。制して公卿に議せしむるに、議者多く同く、帝も亦た然りとす。杜林正議して、独り「周室の興隆は、祚は后稷より由る。漢業は特起し、功は堯に縁らず。祖宗の故事、因循すべき所なり」と為す。竟に林の議に従う。又、伝に称す、「天上を知らんと欲せば、事を長人に問え」と、其の近きを以てす。武徳・貞観の時は、主聖臣賢たり、其の涼の武昭王を去ること蓋し亦た今に近し。当時に立てざるは、必ず立てざるべきが故なり。今、既に年代浸く遠し、方に復た之を立つるは、是れ三祖二宗の意に非ず。実に景皇の職を失いて震怒し、武昭虚位にして答へざらんことを恐る、社稷の福に非ざるなり。宗廟の事は重く、禘祫の礼は崇し、先王は之を以て徳を観る。或いは其の説を知らず、既に灌ぎて往く、孔子は之を観るを欲せず。今、朝命惟新たり、宜しく礼を慎むべく、祭ること神在るが如く、理誣るべからず。請う、勅に准い太廟を加えて七室と為し、宣皇帝を享けて以て七代を備え、其の始祖は別に尊崇有るべからず。
太常博士劉承慶・尹知章また議して云う。
謹んで『王制』を按ずるに、「天子七廟、昭三穆に在り、太祖の廟と合わせて七なり」と。これは載籍の明文、古今の通制なり。皇唐は前範を稽考し、列辟を詳采し、宗霊を崇建し、斯の典に式遵す。但だ、開基の主、受命の君は、王跡に浅深有り、太祖に遠近有り。湯・文は祚基を稷・珣にし、太祖代遠く、昭穆の上に出でたる故に、七廟全うすべし。若し夏は唐・虞を継ぎ、功は鯀に由らず、漢は秦・項を除き、力は堯に因らず。及び魏・晋経図し、周・隋撥乱するは、皆勲隆近代にあり、祖業遠からず、受命始封の主、昭穆の親を離れず。故に宗祊を肇立し、全制を聞くこと罕なり。夫れ太祖は功を以て建て、昭穆は親を以て崇む。功有れば百代にして遷さず、親尽くれば七葉にして当に毀つ。或いは太祖代浅く、廟数備わらずと為し、更に昭穆の上に、遠く合遷の君を立て、曲く七廟の文に従い、深く迭毀の制に乖く。皇家は千齢啓旦し、百葉重光たり。景皇帝は徳を浚いて唐を基とし、代數猶お近し。号は太祖に崇まるれども、親は尚お昭穆に列し、且つ六室の位に臨み、未だ七代の尊を申さず。是れ太廟当に六なるを知り、未だ七有るに合わざるなり。故に先朝には唯だ宣・光・景・元・神堯・文武の六代親廟有り。大帝登遐し、神主廟室に升祔す。宣後帝は代数当に満つるを以て、礼に准い復た遷す。今、止だ光皇帝已下六代親廟有るのみ。是れ天子の廟数七有るべからざるに非ず、要は太祖に遠近の異有るに由り、故に初め建つるに多少の殊有るなり。敬んで惟うに、三后朝に臨み、代多く儒雅たり。神祊の事重く、礼豈に虚しく存せんや。規模沿うべく、理変革難し。宣皇は既に始祖に非ず、又廟に祖宗の号無し。親尽くれば既に遷す、其の在りて重ねて立つるに合わず。若し礼終わり運往き、建議復た崇むるは、実に『王制』の文に違ひ、先朝の旨に合わず。請う、貞観の故事に依り、三聖の宏規を改めず、六室を光崇し、古議を虧かざらんことを。
時に制令あり、宰相に更に詳定を加えさせしところ、礼部尚書祝欽明等奏言して曰く、「博士三人、自ら両議を分つ。張齊賢は始め太祖と同じくすと為し、更に昭王を祖とするに合わずとし、劉承慶は『王制』の三昭三穆を以て、宣帝を重ねて崇めるに合わずとす。臣等商量して、張齊賢に依り景皇帝を以て太祖と為し、劉承慶に依り六室を尊崇するを請う。」と。制、これに従う。尋いで制あり、孝敬皇帝を以て義宗と為し、太廟に升祔せしむ。その年八月、光皇帝、太祖景皇帝、代祖元皇帝、高祖神堯皇帝、太宗文武聖皇帝、皇考高宗天皇大帝、皇兄義宗孝敬皇帝を東都の太廟に崇祔し、躬ら享献の礼を行ふ。
二年、駕京師に還り、太廟は是より亦七室を崇享し、仍く武氏の崇尊廟を改めて崇恩廟と為す。明年二月、復た崇恩廟に令して一に天授の時の如く享祭せしむ。時に武三思用事し、密かに安楽公主をして中宗に諷せしむるを令し、故に此の制あり。尋いで又特た武氏崇恩廟の斎郎に五品の子を取らしめて充てしむ。太常博士楊孚奏言して曰く、「太廟の斎郎は、承前ただ七品已下の子なり。今崇恩廟の斎郎既に五品の子を取る。即ち太廟の斎郎は何の等級を為すべきや。」と。上曰く、「太廟の斎郎も亦崇恩廟に准じて置け。」と。孚奏して曰く、「崇恩廟は太廟の臣たり。太廟は崇恩廟の君たり。臣を以て君に准ずるは、猶お僭逆たり。君を以て臣に准ずるは、天下疑懼す。孔子曰く、『名正しからざれば則ち言順わず、言順わざれば則ち事成らず、事成らざれば則ち礼楽興らず、礼楽興らざれば則ち刑罰中らず、刑罰中らざれば則ち人手足を措く所無し。故に君子之に名づくる必ず言ふ可し。』伏して願くは邪言に惑うこと無くして、以て乱の始めと為すこと無からんことを。」と。其の事乃ち寝す。崇恩廟は睿宗の践祚に至りて、乃ちこれを廃毀す。
時に太常卿姜皎復た礼官と上表して曰く、「臣聞く、宗を敬ひ祖を尊び、徳を享し恩を崇むるは、必ず名を正し、以て時憲を光らすは、礼なりと。伏して見るに、太廟中に則天皇后が高宗天皇大帝に配し、題して云ふ『天后聖帝武氏』と。伏して尋ぬるに、昔寵秩に居り、親ら顧托を承け、因りて大政を摂し、事乃ち権に従へり。神龍の初め、已に帝号を去る。岑羲等政体に閑ならず、復た帝名を題す。若し又帝号を長く存せしむれば、恐らくは聖朝の通典に非ざらん。夫れ七廟は、高祖神堯皇帝の廟なり。父は昭、子は穆、祖の徳、宗の功、夫れ帝の子、天の孫、乾に乗り震より出づる者に非ざれば、斯に升祔することを得ず。但し皇后の廟に祔し、高宗に配食するは、位号旧章、帝と称するに宜しからず。今山陵日近く、陞祔遥かならず。請ふ、陳告の儀を申し、因りて『聖帝』の字を除き、直ちに題して云ふ『則天皇后武氏』と。」と。詔、これに従ふ。時に既に別に義宗廟を造り、将作大匠韋湊上疏して曰く、「臣聞く、王者体を制するは、是れ規模と曰ふ。規模の興るは、実に古に師ふを資とす。古に師ふの道は、必ず名を正す。惟だ名と実は、固より当に相副ふべし。其れ宗廟に在りては、礼の大なる者、豈に失ふべきや。礼に、功有るを祖とし、徳有るを宗とす。祖宗の廟は、百代毀たず。故に殷の太甲を太宗と曰ひ、太戊を中宗と曰ひ、武丁を高宗と曰ふ。周は文王、武王を宗とす。漢は則ち文帝を太宗と為し、武帝を世宗と為す。其の後代に宗と称する有り、皆方に海内を制し、徳沢宗ぶべくして、昭穆に列し、毀たざるを期す。祖宗の義、亦大ならずや。況や孝敬皇帝は位東宮に止まり、未だ嘗て南面せず。聖道誠に儲副に冠たりと雖も、徳教寰瀛に被らず。廟を立て宗を称するは、恐らくは合体に非ざらん。況や別に寝廟を起こし、昭穆に入らず。諸の祀典に稽へば、何の義を以て宗と称すべきや。而して廟号義宗、之を万代に称す。臣の庸識を以て、窃に不可と謂ふ。望むらくは更に有司に令して詳定せしめ、務むく礼に合はんことを。」と。是に於て太常、本諡「孝敬」を以て廟称と為すを請ふ。これに従ふ。
五年正月、玄宗将に東都に行幸せんとし、而して太廟の屋壊る。乃ち七廟の神主を太極殿に奉る。玄宗素服して正殿を避け、朝を輟むこと三日、親ら神主に謁して太極殿に在り、而して後発して東都に幸す。乃ち有司に勅して太廟を修めしむ。明年、廟成る。玄宗京に還り、親祔の礼を行ふ。時に有司儀注を撰す。祔祭の日に車駕宮中より発すと為すに、玄宗宋璟、蘇頲に謂ひて曰く、「祭は必ず先づ斎す、是れ心を斉うる所以なり。儀注に据れば、祭の日大明宮より発し、又以て質明に事を行ふ。縦ひ星を侵して発すと雖も、猶お辰を移して方に到らん。質明の礼、其れ及ぶべきか。又朕斎宮に宿さず、即ち正殿に安んずるは、情敢へざる所なり。廟所に於て斎宮を設け、五日に行宮に赴きて宿斎し、六日質明に事を行ふに宜し。庶くは礼に合はん。」と。璟等聖情の深至なるを称し、請ふ即ち奉行せんことを。詔して有司に儀注を改定せしむ。六日、玄宗斎宮より自ら歩みて太廟に詣り、東門より入り、立位に就く。楽九成を奏し、阼階より陞り、祼献の礼を行ふ。睿宗室に至り、俯伏して鳴咽す。侍臣涕を流さざる莫し。
河南府の人孫平子が闕に詣でて上言した。「中宗孝和皇帝は既に大統を承けた以上、別廟に遷すのは相応しくない。」玄宗は宰相に命じて平子を召し、礼官と対決させ可否を定めさせたが、太常博士蘇獻らは固執して前議を守った。平子は弁舌に優れ、引くところは皆経典に根拠があり、献らは屈服させることができなかった。時に蘇頲が政事を知り、献はその従祖の兄であったので、頗る党してこれを助け、平子の議は遂に行われることがなかった。平子は論を尽くして止まず、遂に平子を康州都城尉に貶し、仍って使いを差して任地まで送り届けさせ、東西に行くことを許さなかった。平子が任に就くと、間もなく卒した。時に平子を貶したとはいえ、議者は深くその言を是とした。十年正月に至り、制を下して曰く、「朕聞く、王者は時に乗じて教えを設け、事に因りて礼を制し、沿革は宜に従うを本とし、取捨は会に適うを先とす。故に損益の道殊なり、質文の用斯に異なる。且つ夫れ至徳を孝と謂うは、以て神明に通ずる所以なり。大事を祀と謂うは、以て宗廟に虔にする所以なり。国家は紀を握り曆を命じ、重光累盛、四方これに由りて継明し、七代以て徳を観るべし。朕は丕業を嗣ぎ守り、睿図を祗奉し、聿に昭事を懐い、祀を恤わざること無し。嘗て古典を覧み、旧制に諸うに、遠くは夏・殷事異なり、近くは漢・晋道殊なり。礼文の一ならざるといえども、固より厳敬の二無きなり。朕以爲う、愛を立つるは親より始め、人を教えて睦ましむるなり。敬を立つるは長より始め、人を教えて順ならしむるなり。是れ朕の礼に率い、情に縁るを知る。或いは道の存するを以て教え、或いは礼の時に従いて変ずる。将に宜に因りて制を創んとす。豈に古に沿いて今を限らんや。況んや恩は降殺に従いて疏となり、廟は遷毀に従いて廢す。古訓を式瞻すれども、礼は則ち違わず。而して永く孝思を言えば、情未だ足らざる所あり。享嘗は則ち止む。豈に崇を愛して礼備わるや。祷り有りて祭るは、徳盛にして流れ永きに非ず。其の祧室は宜しく正室に列すべし。親にして尽きず、遠くして禰せず、廟は貌を以て存し、宗は猶お尊立す。俾くは四時に式薦し、毀主に間わず。百代靡遷し、始廟に匪惟るのみに非ず。所謂る変えて礼に合し、動いて中を得る。厳配の典克く崇く、肅雍の美茲に在り。又兄弟継及は、古に明文有り。今中宗の神主、猶お別処に居す。故実を詳求すれば、当に寧んぜざるべし。正廟に移就し、以て大典を章すべし。仍って九室を創立す。宜しく所司に令して日を択び、告啓して移遷せしむべし。」
十一年春、玄宗は京師に還り、制を下して曰く、「宗廟を崇建することは、礼の大なる者なり。聿に孝饗を追うは、徳至る莫きなり。今宗は以て尊を立て、親に遷序無く、永く厳配を惟い、蠲潔を用いて致す。棟宇式に崇く、祼奠斯に授く。顧みるに此の薄徳、禋祀を承くるを得て、躬せず親せずんば、何を以て誠敬を展さん。宜しく八月十九日を用い、祗て九室に見ゆべし。」ここに於いて宣皇帝を追尊して献祖と為し、復た正室に列し、光皇帝を懿祖と為し、並びに中宗の神主を太廟に還し奉った。将に親祔せんとし、雨に会して止む。乃ち所司に命じて事を行わしめた。その京師の中宗旧廟は、便ちこれを毀拆した。東都の旧廟は、始めて孝敬の神主を移して祔せしめた。その従善裏の孝敬旧廟も、亦た令して毀拆せしめた。二十一年、玄宗は又特令して肅明皇后の神主を遷し、睿宗の室に祔せしめ、仍って旧儀の坤廟を以て肅明観と為した。
《王制》に「天子七廟、三昭三穆、太祖の廟と而して七」とある。又《礼器》に云う、「多きを以て貴しと為す者有り、天子七廟」と。又《伊尹》に曰く、「七代の廟は、以て徳を観るべし」と。これ経典の明証なり。七廟の外は、則ち曰く、「祧を去りて壇と為し、壇を去りて墠と為す」と。故に歴代の儒者は、迭毀の礼を制し、皆親尽きて宜しく毀すべしとす。伏して惟うに、太宗文皇帝は七代の祖、高祖神堯皇帝は国朝首祚にして万葉の承くる所、太祖景皇帝は天に命を受け、始めて唐に封ぜられ、元本皆毀さざるの典に在り。代祖元皇帝は地開統に非ず、親七廟の外に在り。代宗皇帝の升祔する日有り、元皇帝の神主は、礼合わしく祧遷すべし。或る議者は祖宗の名を以て、迭毀するに難しとす。昔漢朝は古に近く、敢えて私を以て公を滅ぼさず。故に前漢十二帝、祖宗と為る者は四のみ。後漢に至りて漸く経意に違い、子孫は推美を以て先とす。光武已下より、皆廟号有り。則ち祖宗の名、建てざる莫し。安帝は讒を信じ、大臣を害し、太子を廃す。及び崩ずるに、上宗の奏無く、後建武以来毀する者無く、因りて陵号を以て宗と称す。桓帝に至りて徳を失うも、尚お宗号有り。故に初平中、左中郎蔡邕は和帝以下、功德殊なること無くして過差有り、宗と為すべからずとす。余宗に非ざる者は、三代を追尊し、皆奏してこれを毀せしむ。是れ功有るを祖とし、徳有るを宗とす。至公の義を存し、其の人に非ざれば居らざるを知る。蓋し三代立礼の本なり。東漢已来、則ち此の道衰えたり。魏の明帝は自ら烈祖と称す。論者以て逆に自ら祖宗と称すと為す。故に近代此の名は悉く廟号と為り、子孫践祚して先王を祖宗とせざる者無し。此を以て之を明らかにすれば、則ち両字を独り拠りて祧遷に合わざるの証と為すことを得ず。仮令百代を伝祚すとも、豈に上りて百代を崇めて孝と為さんや。請う、三昭三穆の義に依り、永く通典と為さんことを。
ここに於いて元皇帝を西夾室に祧し、代宗の神主を祔せしめた。
礼経に『祖は功有り、宗は徳有り』とあり、皆毀せざる名なり。惟だ三代之を行ふ。漢、魏已降、祖宗と曰ふと雖も、親尽くれば則ち遷し、功無くば亦毀す、古の道を行ふを得ず。昔、夏后氏十五代、顓頊を祖とし禹を宗とす。殷人十七代、契を祖とし湯を宗とす。周人三十六王、后稷を以て太祖と為し、文王を祖とし武王を宗とす。聖唐は徳厚く流れ広く、遠く殷、周に法り、景皇帝を奉じて太祖と為し、高祖を祖とし太宗を宗とす、皆百代遷さざるの典に在り。故に代宗升祔して、代祖を遷す。徳宗升祔して、高宗を遷す。今、順宗升祔し、中宗は三昭三穆の外に在り、之を親尽くると謂ひ、太廟の夾室に遷す、礼則ち然り。或る諫むる者は則天太后の革命、中宗復して之を興すを以て、遷蔵の例に在らずと為す、臣窃に未だ諭せず。昔、高宗晏駕し、中宗遺詔を奉じ、儲副より元后に陟る。則天太后朝に臨み、廃して盧陵王と為す。聖暦元年、太后詔して復た皇太子に立つ。太后の聖寿延長に属し、下に御する日久しく、奸臣命を擅にし、其の紀度を紊す。敬暉、桓彦範等の五臣、倶に唐の旧臣、王室を匡輔し、中宗を翊けて大統を承く。此れ乃ち子父の業を継ぐ、是れ中宗之を得て且つ之を失ふ。母子に位を授く、是れ中宗之を失ひて復た之を得る。二十年の間、再び皇太子と為り、復た皇帝の位を践む、之を失ふは己に在り、之を得るは己に在り、革命中興の義殊なるを謂ふ可し。又周、漢の例を以て之を推すに、幽王犬戎に滅ぼされ、平王東遷す、周は平王を以て中興不遷の廟と為さず、其の例一なり。漢の呂后権を専らにし、産、祿政を秉る、文帝代邸より之を立て、漢は文帝を以て中興不遷の廟と為さず、其の例二なり。霍光宣帝を輔け、基業を再び盛んにす、而も宣帝を以て不遷の廟と為さず、其の例三なり。伏して中宗孝和皇帝は、聖上に於て六代の伯祖、尊は正統に非ず、廟亦親尽く。爰に周、漢の故事に及び、是れ中興の功徳有る主と同じからず、夾室に奉遷するは、固より疑無し。
是の月二十四日、礼儀使杜黄裳奏して曰く、「順宗皇帝の神主已に太廟に升祔し、告祧の後、即ち遞遷に合す。中宗皇帝の神主、今三昭三穆の外に在り、礼に准へて合は太廟の西より第一の夾室に遷す、禘祫の日に至る毎に、合食すること常の如し」と。是に於て中宗の神主を西夾室に祧し、順宗の神主を祔す。
有司先づ是に山陵将に畢らんとすと以て、廟を遷すの礼を議す。有司中宗を以て中興の君と為し、百代不遷の位に当る。宰臣史官蔣武を召して之を問ふ、武対へて曰く、「中宗は弘道元年に高宗の柩前に於て即位し、時春秋已に壮なり。母后の篡奪に及び、神器潜に移る。其の後張柬之等の同謀に頼り、国祚再び復す。此れ反正に同じ、恐らく中興の君と号す可からず。凡そ我に非ずして之を失ひ、我より之を復するを中興と謂ふ、漢の光武、晋の元帝是なり。我より之を失ひ、人に因りて之を復する、晋の孝惠、孝安是なり。今中宗は惠、安の二帝の事に同じ、即ち不遷の主と為す可からず」と。有司又云ふ、「五王に社稷を再安するの功有り、今若し中宗の廟を遷さば、則ち五王永く配享の例を絶つ」と。武曰く、「凡そ配享の功臣は、禘祫の年に至る毎に方に太廟に合食し、居常には即ち享礼無し。今中宗の神主を遷し、而して禘祫の年には、毀廟の主並びに太廟に陳ぶ、此れ五王の配食と同じく、前時と一なり」と。有司答ふる能はず。
十五年四月、礼部侍郎李建奏して大行皇帝の諡を上りて聖神章武孝皇帝と曰ひ、廟号を憲宗とす。是に先立ち、河南節度使李夷簡上議して曰く、「王者は功有るを祖とし、徳有るを宗とす。大行皇帝寇逆を戡翦し、累ね武功有り、廟号合は祖と称す可し。陛下正に宸断に決す可く、齷齪たる書生を信ずる無かれ」と。遂に詔して公卿と礼官を下し、其の可否を議せしむ。太常博士王彦威奏議して、「大行の廟号、祖と称すに宜しからず、宗と称すに宜し」と。之に従ふ。其の月、礼部奏す、「貞観の故事に准へば、遷廟の主は、夾室の西壁南北三間に蔵む。第一間は代祖の室、第二間は高宗の室、第三間は中宗の室なり。伏して山陵の日近く、睿宗皇帝の祧遷期有るを以て、夾室西壁の三室の外、室を置く処無し。《江都集礼》に准へば、『古へ遷廟の主は、太室北壁の中に蔵む』と。今請ふらくは、夾室の北壁に於て、西を以て上と為し、睿宗皇帝の神主の石室を置かん」と。制して之に従ふ。
武宗昭肅皇帝を廟に祔し、併せて祧遷すべき者あり。伏して以て、敬宗・文宗・武宗兄弟相及ぶより已に三朝を歴たり。昭穆の位、承前と異なる所あり。疑わしむべき所は、その事四つ有り。一には、兄弟昭穆同位にして、相い後と為さず。二には、已に祧したる主、復た旧廟に入る。三には、廟数有限にして、後なき主は、則ち宜しく別廟に出置くべし。四には、兄弟既に相い後と為さず、昭は父道と為し、穆は子道と為す。則ち昭穆同班にして、異位に合わず。『春秋』に拠れば、「文公二年、僖公を躋す」。何休云う、躋は升なり、西上を謂うなり。恵公と荘公は当に同く南面西上すべく、隠・桓と閔・僖は当に同く北面西上すべしと。孔穎達も亦た此の義を引きて経を釈す。又た賀循云う、「殷の盤庚は、陽甲を序せず。漢の光武は、上に元帝を継ぐ」。晋の元帝・簡文、皆な此の義を用いてこれを毀つ。蓋し昭穆位同じくして、二廟を兼ねて毀つべからざる故なり。『尚書』に曰く、「七代の廟は、以て徳を観るべし」。且つ殷家兄弟相及ぶこと、四帝に至りて祖禰に及ばざる有り。何ぞ更に七代を言うことを容れん、理に於いて無し。二には、今已に兄弟相及び、同じく一代と為す。前の失いを矯めば、則ち代宗神主を太廟に復祔するに合す。或いは已に祧したる主は、更に太廟に入るに合せずと疑う者あり。按ずるに、晋代元・明の時、已に豫章・潁川を遷す。簡文即位に及びて、乃ち元帝の子なり。故に豫章・潁川の二神主を廟に復す。又た国朝中宗已に太廟に祔す。開元四年に至りて、乃ち別廟に出置く。十年に至りて、九廟を置き、中宗神主復た太廟に祔す。則ち已に遷して復た入るるも、亦た疑う無かるべし。三には、廟に定数有り、後なき主は、別廟に出置く。按ずるに、魏・晋の初め多く廟を同じくす。蓋し上古清廟一宮を取る、神祇を尊遠するの義なり。自ら後、晋武の立てし廟は、七主と云うと雖も、実は六代なり。蓋し景・文廟を同じくする故なり。又た按ずるに、魯は姜嫄・文王の廟を立て、昭穆を計らず。以て功德を尊尚するなり。晋元帝は上に武帝を継ぐ。而して恵・懐・湣の三帝、時に賀循等諸儒議し、以て別に廟を立て、親遠義疏、都邑遷異、理に於いて嫌い無しと為す。今文宗棄代すること纔かに六七年、武宗甫邇に復土す。遽かに別廟に移し、祖宗に歯せず。有司に在りて、議する所に宜しからず。四には、廟の室を添置す。按ずるに『礼論』、晋の太常賀循云う、「廟は以て主を容るるを限と為し、常数を拘わず」。故に晋武帝の時、廟に七主六代有り。元帝・明帝に至りて、廟皆な十室なり。成・康・穆の三帝に及びて、皆な十一室に至る。自ら後、故を遷し新に祔すと雖も、大抵七代を以て准と為し、室数を限らず。伏して以て、江左の大儒、賾を通じ奥を睹す。事に明徴有り、固より施行すべし。今若し是の議を行わず、更に迭毀を以て制と為さば、則ち当に上は高曾未だ尽さざるの親に及ばず、下は臣子恩義の道を忍ぶ有らん。今古今を備え討ち、経史を参校し、上は代宗神主を太廟に復するを請い、以て高曾の親を存す。下は敬宗・文宗・武宗を同じく一代と為し、太廟東間に両室を添置し、九代十一室の制を定め、以て臣子恩敬の義を全うし、大順の宜に協い、変礼の正を得、古今の紛互を折り、群疑の杓指を立つ。俾くは心に因り孝を広め、永く皇明に燭せしめ、徳を昭かにし神に事え、聖代に虧け無からしめん。
勅して曰く、「宗廟の事重し、実に参詳を資す。宜しく尚書省・両省・御史臺四品以上の官・大理卿・京兆尹等をして集議して以て聞かしむべし」。尚書左丞鄭涯等奏議して曰く、「夫れ礼経は則を垂る、厳配より重きは莫し。必ず損益の道を参にし、則ち典礼の文に合す。況や明徴有り、是れ折衷を資す。伏して敬宗・文宗・武宗三朝嗣位より、皆な兄弟を以てす。前に代を考うるに、理に顕据有り。今謹しく礼院の奏する所を詳にし、併せて上は古文に稽え、旁ら史氏を摭り、通変に協い、允に宜を得たりと謂う。臣等商議し、礼官の議する所に依ることを請う」。之に従う。
黄巢長安を犯し、僖宗狄を避けて成都府に在り。中和元年夏四月、有司太祖已下十一室を享することを請う。詔して公卿にその儀を議せしむ。太常卿牛叢、儒者と同くその事を議す。或いは曰く、「王者巡狩するに、遷廟主を以て行く。遷廟の主無きが如きは、則ち祝幣帛皮珪を奉り祖禰に告げ、遂に奉りて出だし、齋車に載せ、毎に舍奠す。今巡狩に非ず、是れ宗廟を失守するなり。夫れ宗廟を失守すれば、則ち当に宗廟の事を罷むべし」。叢之を疑う。将作監王儉・太子賓客李匡乂・虞部員外郎袁皓、建議同異有り。左丞崔厚太常卿と為るに及び、遂に行廟を立てるを議す。玄宗蜀に幸する時の道宮玄元殿の前を以て、幄幕を架して十一室と為す。又た神主無く、神版位を題して事を行ふ。礼に達する者は之を非とし、以て止むる可しと為す。明年、乃ち特た神主を造りて以て行廟に祔す。
臣が謹んで按ずるに、三太后は憲宗・穆宗の后である。二帝は既に太廟に祔せられており、三后が別廟を立てる所以は、太廟に入れることができないからである。帝が在位中に皇后が別廟を立てる場合とは異なる。今、有司が誤って王彦威の『曲臺礼』を用い、別廟の太后を太廟で禘祭することは、甚だしく道理に背いている。臣が事体を究めるに、五つの不可がある。
『曲臺礼』に云う、「別廟の皇后は、禘祫に際して太廟に於いて、祖姑の下に祔する」と。これは皇后が先に崩じ、既に神主が造られ、夫が帝位にある場合、例えば昭成・粛明・元献・昭徳の類である。昭成・粛明の崩御の時は、睿宗が在位していた。元献の崩御の時は、玄宗が在位していた。昭徳の崩御の時は、粛宗が在位していた。四后は太廟に本室がなかったので、別廟を創建し、太廟で合食する主となるべきであったから、禘祫の時に奉じて入饗したのである。その神主にはただ「某諡皇后」と題し、後に太廟に本室ができれば即ち遷祔すべきことを明らかにし、帝が在位中であったから、皇后が暫く別廟を立てたのである。元来は太廟で合食する祖であるから、禘祫の時に昇るのであり、太廟に位がなかったから、祖姑の下に祔したのである。今、恭僖・貞献の二太后は、皆穆宗の后である。恭僖は会昌四年に神主を造り、穆宗廟室に合祔すべきであった。時に穆宗廟には既に武宗の母である宣懿皇后の神主が祔せられていたので、恭僖のために別に廟を立て、その神主には直に「皇太后」と題した。これは終に別廟に安んじ、太廟に入らないことを明らかにしたのである。貞献太后は大中元年に神主を作り、別廟を立て、その神主も「太后」と題され、恭僖と意義を同じくする。孝明は咸通五年に神主を作り、憲宗廟室に合祔すべきであった。憲宗廟には既に穆宗の母である懿安皇后が祔せられていたので、孝明もまた別に廟を立てた。これは懿宗の祖母であるから、その主を「太皇太后」と題した。恭僖・貞献とも同じく、帝が在位中に后が先に神主を作った例である。今、別廟の太后の神主を以て、禘祭に太廟に昇って饗けることは、一つの不可である。
『曲臺礼別廟皇后禘祫于太廟儀注』に云う、「内常侍が別廟皇后の神主を奉じ、廟庭に入れて置き、赤黄の褥位に置く。『某諡皇后禘祫祔享太廟』と奏し、然る後に神主を昇らせる」と。今、即ち「某諡太皇太后」と奏せねばならぬ。且つ太廟中の皇后神主は二十一室あり、今忽ち太皇太后を昭穆の列に入れることは、二つの不可である。
若し但だ「某諡皇后」と云うならば、則ち題する所と全く異なり、神は何に依憑するのか。これ三つの不可である。
『古今礼要』に云う、「旧典に、周は姜嫄の別廟を立て、四時の祭薦及び禘祫を七廟に於いて行い、皆祭った。惟だ太祖廟に入らず、別に配した。魏の文思甄后(明帝の母)の廟及び寝は、姜嫄の廟に依り、四時及び禘は皆諸廟と同じくした」と。これは旧礼の明文であり、以て証と為すべきである。今、別廟の太后を太廟で禘祫することは、四つの不可である。
謹んで『礼記』祭統篇に按ずるに、『凡そ天の生じ、地の長ずる所のもの、もし薦むべきものあれば、咸く在らざるは莫し。水草陸海の物、三牲八簋、昆蟲の異、草木の実、陰陽の物、皆備へて薦む』と曰う。聖人は孝子の情深きを知り、而して物類の限り無きを以て、故に之が為に節制を為し、祭に常礼有らしめ、物に其の品有らしめ、器に其の数有らしむ。上は天子より、下は公卿に至るまで、貴賤差降有りて、相逾越する無く、百代常に行うて易えざるの道なり。又『周礼』膳夫に按ずるに、『王の食飲膳羞を掌る。食用は六穀、膳用は六牲、飲用は六清、羞用は百二十品、珍用は八物、醤用は百二十甕』と、則ち祭祀の物と、豊省本より殊なり。『左伝』に曰く、『享は以て恭儉を訓え、宴は以て慈恵を示す。恭儉は以て礼を行い、慈恵は以て政を布く』と。又曰く、『享には体薦有り、宴には折俎有り』。杜預曰く、『享には体薦有り、爵盈ちて飲まず、豆乾きて食わず。宴は則ち相与に之を食う』と。享と宴と、猶且つ文を異にするを、祭奠の陳ぶる所、固より同じからず。又『周礼』に按ずるに、籩人・豆人は、各々四籩・四豆の実を掌り、祭祀と賓客とに供す。用いる所各々殊なり。此の数文に拠れば、祭奠は常時と同からず、其の来ること久し。且つ人の嗜好は、本憑準無く、宴私の饌は、時と共に移り遷る。故に聖人は一切古に同帰し、平生の嗜む所の難きも、礼に非ざれば亦薦めず。平生の悪む所も、是れ礼なれば即ち去たず。『楚語』に曰く、『屈到は芰を嗜む。疾有りて、宗老を召して属して曰く、我を祭るには必ず芰を以てせよ。及び卒す。宗老将に芰を薦めんとす。屈建命じて之を去らしめて曰く、祭典に之れ有り。国君には牛享有り、大夫には羊饋有り、士には豚犬の奠有り、庶人には魚炙の薦有り。籩豆脯醢は、則ち上下之に安んず。珍異を羞れず、庶侈を陳べず、私欲を以て国の典を幹さず』。遂に用いず』と。此れは礼外の食にして、前賢敢へて薦めざるなり。今甘旨の物、肥濃の味を取らんと欲し、所有する所に随ひて皆祭用に充てんとすれば、苟も旧制を逾ゆれば、其れ何ぞ限らん。籩豆加はる有りと雖も、豈に備ふることを得んや。『伝』に曰く、『大羹は致さず、粢食は鑿かず、其の儉を昭かにす』と。『書』に曰く、『黍稷は馨しからず、明徳惟れ馨し』と。神に事うるは虔誠に在りて、厭飫を求めず。三年に一たび禘し、黷せんと欲せず。三献にして終はり、礼成る有り。『風』に『采蘋』『采蘩』有り、『雅』に『行葦』『泂酌』有り、忠信を守りて、神其れ諸れを舎てんや。若し今の珍饌を以て、平生の習ふ所、神を求むるに方無くんば、何ぞ必ずしも古に師ふ。簠簋は去るべくして、盤盂杯案は当に御するに在るべし。『韶』『頀』は息むべくして、箜篌笛笙は当に奏するに在るべし。凡そ此の流は、皆正しき物に非ず。或は近代に興り、或は蕃夷に出づ。耳目の娛は、本則象無し。之を宗廟に用うれば、後嗣何をか観ん。永式たらんと欲すれば、恐らく未だ可ならざるべし。且つ漢已降より、諸陵皆寢宮有り。歳時朔望に、常饌を以て薦む。此れ既に常行にして、亦至孝の情を尽すに足る。宗廟の正礼は、宜しく仍て典故にし、情に率ひて変革するは、人情の難き所なり。又旧制に按ずるに、一升を爵と曰ひ、五升を散と曰ふ。『礼器』に称す、『宗廟の祭は、貴き者は爵を以て献じ、賤き者は散を以て献ず』と。此れ貴きは小を貴び、賤きは大を賤しむるを明かにして、之に節儉を示す。又『国語』に按ずるに、観射父曰く、『郊禘は繭栗を過ぎず、蒸嘗は把握を過ぎず』と。夫れ神は、精明を以て人に臨む者なり。求むるは物を備ふるに在りて、豊大を求めず。苟も礼を失はば、多くと雖も何をか為さん。豈に先王の遺法を舎て、一時の尚ふ所に徇ひ、礼経を廃棄し、以て流欲に従はんや。冠を裂き冕を毀ちて、将に何にか之を用いん。且つ君子は礼を以て人を愛し、苟も合するを求めず。況んや宗廟に在りて、敢えて旧章を忘れんや。古制に依るを請ふ。庶幾くは久しきを経ん。
礼部員外郎楊仲昌議して曰く、『謹んで『礼』に按ずるに、『夫れ祭は煩はしきを欲せず。煩はしければ則ち黷す。亦簡なるを欲せず。簡なれば則ち怠る』と。又鄭玄云ふ、『人生は尚褻食す。鬼神は則ち然らず。神農の時、黍稷有りと雖も、猶ほ未だ酒醴有らず。後聖の醴酪を作すに及びて、猶ほ玄酒を存し、古を忘れざるを求む』と。『春秋』に曰く、『蘋蘩・蘊藻の菜、潢汙行潦の水は、王公に羞する可く、鬼神に薦む可し』と。又曰く、『大羹は和せず、粢食は鑿かず』と。此れ君人たる者、国を有ちて先を奉り、神を敬ひ厳に享くるは、豈に肥濃を以て尚しと為さんや。将に儉約を以て誠を表さんとす。則ち陸海の物、鮮肥の類は、既に礼文の情に乖き、而して作者の法を変じ、皆祭用に充つるは、詳らかにす可きに非ざるなり。『易』に曰く、『樽酒簋貳、缶を用ひ、約を牖より納る』と。此れ祭は簡易を存するを明かにして、繁奢に在らざるなり。是を以て一樽の酒、貳簋の奠は、明祀と為すなり。抑又之を聞く、夫れ義は以て礼を出だし、礼は以て政を体す。違へば則ち紊る有り。是を不経と称す。肥濃を薦むれば則ち褻味登る有り。籩爵を加ふれば則ち事古に師はざるなり。其れ別に行ひて新制するに与るよりは、寧ろ謹みて旧章を守らんや』と。時に太子賓客崔沔・戸部郎中楊伯成・左衛兵曹劉秩等、皆建議して以て旧礼に請ふべく、改易す可からずと為す。是に於て宰臣等、沔・述等の議を具して以て奏す。玄宗曰く、『朕祖宗の休徳を承け、享祀粢盛に至りては、実に豊潔を思い、礼物の具は、諒くは忠を昭かにするに在り。其の芳潔ならずして法制に応ぜざる者は、亦用ふ可からず』と。是を以て更に太常に命じて品味を量り加へしむ。韋縚又奏す、『請ふらくは毎室に籩・豆各六を加へ、毎四時異品を以て、当時の新果及び珍羞と同く薦めん』と。則ち之を可とす。又酌献の酒爵、玄宗は龠升一升を用ふるを令す。古義に合して、多少適中たり。是より常に行ふに依る。
後漢の世祖光武皇帝は原陵に葬る。其の子孝明帝追思して已まず。永平元年、乃ち諸侯王・公卿を率ひ、正月に原陵に朝し、親しく先后陰氏の妝奩篋笥を奉りて悲慟す。左右の侍臣、嗚咽せざる莫し。梁の武帝の父丹陽尹順之は、追尊して太祖文帝と為す。先づ丹徒に葬り、亦建陵と尊ぶ。武帝大位に即きたる後、大同十五年、亦建陵に朝す。紫雲有りて陵上を廕覆し、食する頃にして方に滅す。梁主は単衣を著し介幘し、次を設けて拝し、陵を望みて流哭す。泪の沾る所、草皆変色す。陵傍に枯泉有り、時に至りて水流れ香潔なり。因りて侍臣に謂ひて曰く、『陵陰の石虎は、陵と倶に創ること二百餘年、恨むらくは小なり。更に碑石柱麟を造り、並びに二陵中道の門を三闥と為す可し。園陵の職司には、並びに一級を賜ふ』と。諸陵に奉辞し、哭踊して拝す。周の太祖文帝は成陵に葬る。其の子明帝初めに立ち、元年十二月、成陵に謁す。
高祖神堯皇帝は献陵に葬られた。貞観十三年正月乙巳の日、太宗は献陵に朝拝した。この日の前日、宿衛が黄麾仗を設けて陵寢の周囲を警衛し、この日が明けると、七廟の子孫及び諸侯百官、蕃夷の君長らは皆、司馬門の内に陪列した。皇帝は小次に至り、輿より降りて履を納め、闕門において哭し、西面して再拝し、慟哭して起き上がることができなかった。礼が終わると、服を改めて寢宮に入り、自ら饌を執り、高祖及び先后の服御の物を閲視し、床前に匍匐して悲慟した。左右の侍御者は皆、歔欷した。初め、甲辰の夜、大雨雪が降った。皇帝が陵院に入り、悲号哽咽すると、百官も哀慟し、この時雪はますます甚だしく、寒風が暴れ起き、蒼雲が山陵の上より出で、俄かに流布して、天地は晦冥となった。礼が終わり、皇帝が寢宮より出で、歩いて司馬門の北を過ぎ、泥の中を二百余歩行くと、ここに至って風静まり雪止み、雲気は歇滅し、天色は開霽した。観る者は窃かに議して、孝感の致すところと為した。この日、三原県及び従官衛士等を曲赦し、大辟以下の罪は、既に発覚したもの、未だ発覚せざるもの、皆その罪を釈した。民の一年の租賦を免じた。八十歳以上の者、及び孝子順孫、義夫節婦、鰥寡孤独、篤疾ある者には、賜物をそれぞれ差等有り。宿衛陵邑の中郎将、衛士の斎員及び三原令以下には、各々爵一級を賜うた。丁未の日、献陵より至る。己酉の日、太極殿に朝す。庚子の日、群臣を会し、『功成慶善』及び『破陣』の楽を奏す。
玄宗開元十七年十一月丙申、親しく橋陵を謁す。皇帝は陵を望み涕泣し、左右並びに哀感す。奉先県を赤県と同様に進め、その管する万三百戸を以て陵寢に供え、三府の兵馬を以て衛に供え、県内の大辟罪以下の者を曲赦す。戊戌、定陵を謁す。己亥、献陵を謁す。壬寅、昭陵を謁す。己巳、乾陵を謁す。戊申、車駕宮に還る。天下に大赦し、流移人は並びに放還し、左降官は近き処に移し、百姓は今年の地税の半を出さず。各陵ごとに側近の六郷を取って陵寢に供えしむ。皇帝初めて橋陵に至り、質明、柏樹に甘露降り、曙後祥煙空に遍し。皇帝昭陵を謁す、陪葬の功臣尽く来たりて饗を受け、鳳吹き釭釭として、神祇の集まる所の若し。陪位の文武百官は皆、先聖の歎息、功臣の蹈舞の声を聞き、皆至孝の感ずる所と為す。天宝二年八月、制す:「自今已後、毎に九月一日に至るごとに、衣を陵寢に薦む。」十三載、献、昭、乾、定、橋の五陵の署を台と改め、その署令を台令と改め、旧より一級を加う。