卷二十五
漢の丞相韋玄成が五廟を立てることを奏したのに按ずるに、諸侯もまた五廟と同じである。劉子駿が七祖を開くことを議し、邦君は二を降す。鄭司農は玄成の轍を踵ぎ、王子雍は国師の波を揚げ、分塗並駆し、各々相師祖し、咸くその習う所を玩び、同を好み異を悪む。遂いに歴代の祧祀をして、多少参差し、優劣去取、曾て画一なること無からしむ。『伝』に「名位同じからざれば、礼も亦た数を異にす」と称し、『易』に「卑高以て陳べば、貴賤位す」と云う。豈に嫌疑を別ち、微遠を慎み、陵僭を防ぎ、君を尊び佐を卑しめ、陞降舛ること無からしむを貴ぶにあらずや、礼を貴ぶ所の義、茲に在るか。もし天子諸侯、倶に五廟を立てしめば、便ち賤は以て貴に同じくすべく、臣は以て主に濫るべく、名器準無く、冠屨同じく帰し、礼も亦た数を異にすと雖も、義将に安くにか設けん。『戴記』又た称す、「礼に以て多きを貴ぶ者有り、天子七廟、諸侯五廟」と。もし天子五廟ならば、才だ子男と相埒するのみ、以て多きを貴ぶと為すも、何を以てか表わさん。愚以為うらくは、諸侯は高祖以下を立て、太祖と併せて五廟と為し、一国の貴なり。天子は高祖以上を立て、太祖と併せて七廟と為し、四海の尊なり。降殺両を以てす、礼の正なり。前史の所謂「徳厚き者は光を流し、徳薄き者は卑を流す」、此れ其の義なり。伏して惟うに聖祖天に在り、山陵日に有り、祖に祔えて厳配し、大事斯に在り。宜しく七廟に依り、大礼を崇むべし。もし親尽の外に、王業の基づく所の者有らば、殷の玄王、周の后稷の如く、尊びて始祖と為す。倘し其の例無くば、請うらくは三昭三穆、各々神主を置き、太祖一室、考して虚位とせん。将に七百の祚を待ち、遞遷して方に処らんとす、庶幾くは上は晋・宋に依り、傍ら人情に愜わん。
ここにおいて八座奏して曰く、
臣聞く、揖讓受終の後、革命創制の君、何ぞ嘗て親親の義を崇めず、尊尊の道を篤くし、祖宗を虔奉し、郊廟に致敬せざらんや。義闕里に乖き、学秦庭に滅びてより、儒雅既に喪われ、経籍湮殄す。両漢は絶業を纂修し、魏・晋は斯文を敦尚すと雖も、宗廟の制度、典章散逸し、伝うる所に習いて競いて偏説を執り、浅見を執りて異端を起こす。昔より茲に至るまで、多く年代を歴り、其の大略を語れば、両家のみ。鄭玄を祖する者は則ち四廟の制を陳べ、王肅を述ぶる者は則ち七廟の文を引き、貴賤混じて弁ぜず、是非紛れて定まらず。陛下至徳自然、孝思罔極、孺慕匹夫の志を踰え、製作聖人の道を窮めらる。誠に宜しく一代の宏規を定め、万世の彝則と為すべし。臣睿旨を奉述し、往載を討論す。七廟を紀する者は実に多く、四祖を称する者は蓋し寡し。其の得失を校うるに、昭然として見るべし。『春秋穀梁伝』及び『礼記』、『王制』、『祭法』、『礼器』、『孔子家語』、並びに云う、「天子七廟、諸侯五廟、大夫三廟、士二廟」と。『尚書』に曰く、「七世の廟は、以て徳を観るべし」と。孫卿・孔安国・劉歆・班彪父子・孔晁・虞喜・幹宝の徒に至りては、或いは学は碩儒を推し、或いは才は博物を称し、今古を商較し、咸く然りと為す。故に其の文に曰く、「天子三昭三穆、太祖の廟と而して七」と。晋・宋・齊・梁、皆この義に依り、親廟六を立てしは、豈に国あるの茂典、刊すべからざるの休烈に非ずや。もし群経の明文に違い、累代の疑議に従い、子雍の篤論に背き、康成の旧学を尊ばば、則ち天子の礼、下は人臣に逼り、諸侯の制、上は王者に僭す、所謂尊卑序有り、名位同じからざる者に非ざるなり。況んや復た礼は人情に由り、自ら天墜に非ず、大孝は尊親より重きは莫く、厚本は厳配より先なるは莫し。数尽く四廟は、多きを貴ぶの道に非ず、祀七世に逮うは、隆きを加うるの心を得たり。是を知る、徳厚き者は光を流すは、乃ち久しき可きの高義、徳薄き者は卑を流すは、実に易えざるの令範なり。臣等参議す、請うらくは晋・宋の故事に依り、親廟六を立て、其の祖宗の制は、式に旧典を遵わん。庶幾くは宗を承くの道、理定の辰に興り、祖を尊ぶの義、孝治の日に成らん。
制これに従う。ここにおいて太廟を増修し、始めて弘農府君及び高祖の神主を崇祔し、旧四室と併せて六室と為す。
昔、孫卿子が云うには、「天下を有する者は七代を事とし、一国を有する者は五代を事とする」と。すなわち天子は七廟であり、これは古今の達礼である。故に『尚書』は「七代の廟は以て徳を観るべし」と称し、『祭法』は「王は七廟を立て、一壇一墠を設く」と称し、『王制』は「天子七廟、三昭三穆、太祖の廟と合わせて七なり」と云う。いずれも始封の君を尊び、これを太祖と謂う。太祖の廟は、百代遷さず。祫祭の礼においては、毀廟の主は太祖に陳べ、未だ毀廟せざる主は、皆太祖の室に升り合食する。太祖は東向き、昭は南向き、穆は北向きである。太祖とは、商の玄王、周の后稷がこれである。太祖の外に、更に始祖は無い。但し、商は玄王以後、十四代を経て湯に至りて天下を有し、周は后稷以後、十七代を経て武王に至りて天下を有した。その間の代數は既に遠く、遷廟・親廟は皆太祖の後裔より出でたる故に、合食すること序あり、尊卑差し違わず。その後、漢の高祖が天命を受けたが、始封の祖が無く、即ち高皇帝を以て太祖と為した。太上皇は高帝の父であるが、廟を立てて享祀するも、昭穆の合食の列には在らず、太祖より尊きが故である。魏の武帝が創業し、文帝が天命を受けたが、亦た即ち武帝を以て太祖と為した。その高皇・太皇・外処君等は並びに属尊と為し、昭穆の合食の列には在らざりき。晋の宣帝が創業し、武帝が天命を受けたが、亦た即ち宣帝を以て太祖と為した。その征西・豫章・潁川・京兆府君等は並びに属尊と為し、昭穆の合食の列には在らざりき。これを歴て以降、隋に至るまで、宗廟の制は、この礼改めざりき。故に宇文氏は文皇帝を以て太祖と為し、隋室は武元皇帝を以て太祖と為した。国家は天命を誕受し、累葉重光たり。景皇帝は始めて唐公に封ぜられ、実に太祖たり。中間の代數は既に近く、三昭三穆の内に列する故に、皇家の太廟は唯だ六室のみ有り。その弘農府君・宣帝・光帝は、太祖より尊く、親尽くれば則ち遷し、昭穆の合食の数には在らず。今、皇極再造し、孝思寧からず。二月二十九日の勅を奉ずるに、「七室已下、旧号に依りて尊崇す」と。又、三月一日の勅を奉ずるに、「既に七廟を立てば、須らく始祖を尊崇し、速やかに之を詳にせしむべし」と。伏して礼経を尋ぬるに、始祖は即ち是れ太祖なり、太祖の外に更に始祖は無し。周朝は太祖の外に、周の文王を以て始祖と為すは、礼経に合わず。或いは『白虎通義』を引きて「后稷を始祖と為し、文王を太祖と為し、武王を太宗と為す」と云い、及び鄭玄が『詩・雍』の序に注して「太祖は文王を謂う」と云うを以て説と為す者あり。その義然らず。何となれば、彼は礼の「王者は功有るを祖とし、徳有るを宗とす。周人は文王を祖とし武王を宗とす」に拠りて、故に文王を太祖と謂うのみにして、祫祭に群主を合食する太祖に非ざるなり。今の議者に、或いは涼の武昭王を立てて始祖と為さんと欲する者あり、殊に不可なり。何となれば、昔、商・周において、稷・珣は始封し、湯・武の興隆は、祚は稷・珣より由る。故に稷・珣を以て太祖と為す、即ち皇家の景帝が是れなり。涼の武昭王は勲業未だ広からず、後主は国を失い、土宇伝わらず。景皇の始封は、実に明命の基たり。今、乃ち唐に封ぜられたる盛烈を捨て、西涼の遠構を崇むるは、前に古を考うるに、実に典礼に乖けり。魏氏は曹参を以て太祖と為さず、晋氏は殷王仰を以て太祖と為さず、宋氏は楚の元王を以て太祖と為さず、斉・梁は蕭何を以て太祖と為さず、陳・隋は胡公・楊震を以て太祖と為さざるに、則ち皇家安んぞ涼の武昭王を以て太祖と為すべきか。漢の東京に、大いに郊祀を議し、多くは周が后稷を郊祀するに、漢は当に堯を郊祀すべしと為す。制して公卿に議せしむるに、議者多く同く、帝も亦た然りとす。杜林正議して、独り「周室の興隆は、祚は后稷より由る。漢業は特起し、功は堯に縁らず。祖宗の故事、因循すべき所なり」と為す。竟に林の議に従う。又、伝に称す、「天上を知らんと欲せば、事を長人に問え」と、其の近きを以てす。武徳・貞観の時は、主聖臣賢たり、其の涼の武昭王を去ること蓋し亦た今に近し。当時に立てざるは、必ず立てざるべきが故なり。今、既に年代浸く遠し、方に復た之を立つるは、是れ三祖二宗の意に非ず。実に景皇の職を失いて震怒し、武昭虚位にして答へざらんことを恐る、社稷の福に非ざるなり。宗廟の事は重く、禘祫の礼は崇し、先王は之を以て徳を観る。或いは其の説を知らず、既に灌ぎて往く、孔子は之を観るを欲せず。今、朝命惟新たり、宜しく礼を慎むべく、祭ること神在るが如く、理誣るべからず。請う、勅に准い太廟を加えて七室と為し、宣皇帝を享けて以て七代を備え、其の始祖は別に尊崇有るべからず。
太常博士劉承慶・尹知章また議して云う。
謹んで『王制』を按ずるに、「天子七廟、昭三穆に在り、太祖の廟と合わせて七なり」と。これは載籍の明文、古今の通制なり。皇唐は前範を稽考し、列辟を詳采し、宗霊を崇建し、斯の典に式遵す。但だ、開基の主、受命の君は、王跡に浅深有り、太祖に遠近有り。湯・文は祚基を稷・珣にし、太祖代遠く、昭穆の上に出でたる故に、七廟全うすべし。若し夏は唐・虞を継ぎ、功は鯀に由らず、漢は秦・項を除き、力は堯に因らず。及び魏・晋経図し、周・隋撥乱するは、皆勲隆近代にあり、祖業遠からず、受命始封の主、昭穆の親を離れず。故に宗祊を肇立し、全制を聞くこと罕なり。夫れ太祖は功を以て建て、昭穆は親を以て崇む。功有れば百代にして遷さず、親尽くれば七葉にして当に毀つ。或いは太祖代浅く、廟数備わらずと為し、更に昭穆の上に、遠く合遷の君を立て、曲く七廟の文に従い、深く迭毀の制に乖く。皇家は千齢啓旦し、百葉重光たり。景皇帝は徳を浚いて唐を基とし、代數猶お近し。号は太祖に崇まるれども、親は尚お昭穆に列し、且つ六室の位に臨み、未だ七代の尊を申さず。是れ太廟当に六なるを知り、未だ七有るに合わざるなり。故に先朝には唯だ宣・光・景・元・神堯・文武の六代親廟有り。大帝登遐し、神主廟室に升祔す。宣後帝は代数当に満つるを以て、礼に准い復た遷す。今、止だ光皇帝已下六代親廟有るのみ。是れ天子の廟数七有るべからざるに非ず、要は太祖に遠近の異有るに由り、故に初め建つるに多少の殊有るなり。敬んで惟うに、三后朝に臨み、代多く儒雅たり。神祊の事重く、礼豈に虚しく存せんや。規模沿うべく、理変革難し。宣皇は既に始祖に非ず、又廟に祖宗の号無し。親尽くれば既に遷す、其の在りて重ねて立つるに合わず。若し礼終わり運往き、建議復た崇むるは、実に『王制』の文に違ひ、先朝の旨に合わず。請う、貞観の故事に依り、三聖の宏規を改めず、六室を光崇し、古議を虧かざらんことを。
時に制令あり、宰相に更に詳定を加えさせしところ、礼部尚書祝欽明等奏言して曰く、「博士三人、自ら両議を分つ。張齊賢は始め太祖と同じくすと為し、更に昭王を祖とするに合わずとし、劉承慶は『王制』の三昭三穆を以て、宣帝を重ねて崇めるに合わずとす。臣等商量して、張齊賢に依り景皇帝を以て太祖と為し、劉承慶に依り六室を尊崇するを請う。」と。制、これに従う。尋いで制あり、孝敬皇帝を以て義宗と為し、太廟に升祔せしむ。その年八月、光皇帝、太祖景皇帝、代祖元皇帝、高祖神堯皇帝、太宗文武聖皇帝、皇考高宗天皇大帝、皇兄義宗孝敬皇帝を東都の太廟に崇祔し、躬ら享献の礼を行ふ。
時に太常卿姜皎復た礼官と上表して曰く、「臣聞く、宗を敬ひ祖を尊び、徳を享し恩を崇むるは、必ず名を正し、以て時憲を光らすは、礼なりと。伏して見るに、太廟中に則天皇后が高宗天皇大帝に配し、題して云ふ『天后聖帝武氏』と。伏して尋ぬるに、昔寵秩に居り、親ら顧托を承け、因りて大政を摂し、事乃ち権に従へり。神龍の初め、已に帝号を去る。岑羲等政体に閑ならず、復た帝名を題す。若し又帝号を長く存せしむれば、恐らくは聖朝の通典に非ざらん。夫れ七廟は、高祖神堯皇帝の廟なり。父は昭、子は穆、祖の徳、宗の功、夫れ帝の子、天の孫、乾に乗り震より出づる者に非ざれば、斯に升祔することを得ず。但し皇后の廟に祔し、高宗に配食するは、位号旧章、帝と称するに宜しからず。今山陵日近く、陞祔遥かならず。請ふ、陳告の儀を申し、因りて『聖帝』の字を除き、直ちに題して云ふ『則天皇后武氏』と。」と。詔、これに従ふ。時に既に別に義宗廟を造り、将作大匠韋湊上疏して曰く、「臣聞く、王者体を制するは、是れ規模と曰ふ。規模の興るは、実に古に師ふを資とす。古に師ふの道は、必ず名を正す。惟だ名と実は、固より当に相副ふべし。其れ宗廟に在りては、礼の大なる者、豈に失ふべきや。礼に、功有るを祖とし、徳有るを宗とす。祖宗の廟は、百代毀たず。故に殷の太甲を太宗と曰ひ、太戊を中宗と曰ひ、武丁を高宗と曰ふ。周は文王、武王を宗とす。漢は則ち文帝を太宗と為し、武帝を世宗と為す。其の後代に宗と称する有り、皆方に海内を制し、徳沢宗ぶべくして、昭穆に列し、毀たざるを期す。祖宗の義、亦大ならずや。況や孝敬皇帝は位東宮に止まり、未だ嘗て南面せず。聖道誠に儲副に冠たりと雖も、徳教寰瀛に被らず。廟を立て宗を称するは、恐らくは合体に非ざらん。況や別に寝廟を起こし、昭穆に入らず。諸の祀典に稽へば、何の義を以て宗と称すべきや。而して廟号義宗、之を万代に称す。臣の庸識を以て、窃に不可と謂ふ。望むらくは更に有司に令して詳定せしめ、務むく礼に合はんことを。」と。是に於て太常、本諡「孝敬」を以て廟称と為すを請ふ。これに従ふ。
五年正月、玄宗将に東都に行幸せんとし、而して太廟の屋壊る。乃ち七廟の神主を太極殿に奉る。玄宗素服して正殿を避け、朝を輟むこと三日、親ら神主に謁して太極殿に在り、而して後発して東都に幸す。乃ち有司に勅して太廟を修めしむ。明年、廟成る。玄宗京に還り、親祔の礼を行ふ。時に有司儀注を撰す。祔祭の日に車駕宮中より発すと為すに、玄宗宋璟、蘇頲に謂ひて曰く、「祭は必ず先づ斎す、是れ心を斉うる所以なり。儀注に据れば、祭の日大明宮より発し、又以て質明に事を行ふ。縦ひ星を侵して発すと雖も、猶お辰を移して方に到らん。質明の礼、其れ及ぶべきか。又朕斎宮に宿さず、即ち正殿に安んずるは、情敢へざる所なり。廟所に於て斎宮を設け、五日に行宮に赴きて宿斎し、六日質明に事を行ふに宜し。庶くは礼に合はん。」と。璟等聖情の深至なるを称し、請ふ即ち奉行せんことを。詔して有司に儀注を改定せしむ。六日、玄宗斎宮より自ら歩みて太廟に詣り、東門より入り、立位に就く。楽九成を奏し、阼階より陞り、祼献の礼を行ふ。睿宗室に至り、俯伏して鳴咽す。侍臣涕を流さざる莫し。
河南府の人孫平子が闕に詣でて上言した。「中宗孝和皇帝は既に大統を承けた以上、別廟に遷すのは相応しくない。」玄宗は宰相に命じて平子を召し、礼官と対決させ可否を定めさせたが、太常博士蘇獻らは固執して前議を守った。平子は弁舌に優れ、引くところは皆経典に根拠があり、献らは屈服させることができなかった。時に蘇頲が政事を知り、献はその従祖の兄であったので、頗る党してこれを助け、平子の議は遂に行われることがなかった。平子は論を尽くして止まず、遂に平子を康州都城尉に貶し、仍って使いを差して任地まで送り届けさせ、東西に行くことを許さなかった。平子が任に就くと、間もなく卒した。時に平子を貶したとはいえ、議者は深くその言を是とした。十年正月に至り、制を下して曰く、「朕聞く、王者は時に乗じて教えを設け、事に因りて礼を制し、沿革は宜に従うを本とし、取捨は会に適うを先とす。故に損益の道殊なり、質文の用斯に異なる。且つ夫れ至徳を孝と謂うは、以て神明に通ずる所以なり。大事を祀と謂うは、以て宗廟に虔にする所以なり。国家は紀を握り曆を命じ、重光累盛、四方これに由りて継明し、七代以て徳を観るべし。朕は丕業を嗣ぎ守り、睿図を祗奉し、聿に昭事を懐い、祀を恤わざること無し。嘗て古典を覧み、旧制に諸うに、遠くは夏・殷事異なり、近くは漢・晋道殊なり。礼文の一ならざるといえども、固より厳敬の二無きなり。朕以爲う、愛を立つるは親より始め、人を教えて睦ましむるなり。敬を立つるは長より始め、人を教えて順ならしむるなり。是れ朕の礼に率い、情に縁るを知る。或いは道の存するを以て教え、或いは礼の時に従いて変ずる。将に宜に因りて制を創んとす。豈に古に沿いて今を限らんや。況んや恩は降殺に従いて疏となり、廟は遷毀に従いて廢す。古訓を式瞻すれども、礼は則ち違わず。而して永く孝思を言えば、情未だ足らざる所あり。享嘗は則ち止む。豈に崇を愛して礼備わるや。祷り有りて祭るは、徳盛にして流れ永きに非ず。其の祧室は宜しく正室に列すべし。親にして尽きず、遠くして禰せず、廟は貌を以て存し、宗は猶お尊立す。俾くは四時に式薦し、毀主に間わず。百代靡遷し、始廟に匪惟るのみに非ず。所謂る変えて礼に合し、動いて中を得る。厳配の典克く崇く、肅雍の美茲に在り。又兄弟継及は、古に明文有り。今中宗の神主、猶お別処に居す。故実を詳求すれば、当に寧んぜざるべし。正廟に移就し、以て大典を章すべし。仍って九室を創立す。宜しく所司に令して日を択び、告啓して移遷せしむべし。」
十一年春、玄宗は京師に還り、制を下して曰く、「宗廟を崇建することは、礼の大なる者なり。聿に孝饗を追うは、徳至る莫きなり。今宗は以て尊を立て、親に遷序無く、永く厳配を惟い、蠲潔を用いて致す。棟宇式に崇く、祼奠斯に授く。顧みるに此の薄徳、禋祀を承くるを得て、躬せず親せずんば、何を以て誠敬を展さん。宜しく八月十九日を用い、祗て九室に見ゆべし。」ここに於いて宣皇帝を追尊して献祖と為し、復た正室に列し、光皇帝を懿祖と為し、並びに中宗の神主を太廟に還し奉った。将に親祔せんとし、雨に会して止む。乃ち所司に命じて事を行わしめた。その京師の中宗旧廟は、便ちこれを毀拆した。東都の旧廟は、始めて孝敬の神主を移して祔せしめた。その従善裏の孝敬旧廟も、亦た令して毀拆せしめた。二十一年、玄宗は又特令して肅明皇后の神主を遷し、睿宗の室に祔せしめ、仍って旧儀の坤廟を以て肅明観と為した。
《王制》に「天子七廟、三昭三穆、太祖の廟と而して七」とある。又《礼器》に云う、「多きを以て貴しと為す者有り、天子七廟」と。又《伊尹》に曰く、「七代の廟は、以て徳を観るべし」と。これ経典の明証なり。七廟の外は、則ち曰く、「祧を去りて壇と為し、壇を去りて墠と為す」と。故に歴代の儒者は、迭毀の礼を制し、皆親尽きて宜しく毀すべしとす。伏して惟うに、太宗文皇帝は七代の祖、高祖神堯皇帝は国朝首祚にして万葉の承くる所、太祖景皇帝は天に命を受け、始めて唐に封ぜられ、元本皆毀さざるの典に在り。代祖元皇帝は地開統に非ず、親七廟の外に在り。代宗皇帝の升祔する日有り、元皇帝の神主は、礼合わしく祧遷すべし。或る議者は祖宗の名を以て、迭毀するに難しとす。昔漢朝は古に近く、敢えて私を以て公を滅ぼさず。故に前漢十二帝、祖宗と為る者は四のみ。後漢に至りて漸く経意に違い、子孫は推美を以て先とす。光武已下より、皆廟号有り。則ち祖宗の名、建てざる莫し。安帝は讒を信じ、大臣を害し、太子を廃す。及び崩ずるに、上宗の奏無く、後建武以来毀する者無く、因りて陵号を以て宗と称す。桓帝に至りて徳を失うも、尚お宗号有り。故に初平中、左中郎蔡邕は和帝以下、功德殊なること無くして過差有り、宗と為すべからずとす。余宗に非ざる者は、三代を追尊し、皆奏してこれを毀せしむ。是れ功有るを祖とし、徳有るを宗とす。至公の義を存し、其の人に非ざれば居らざるを知る。蓋し三代立礼の本なり。東漢已来、則ち此の道衰えたり。魏の明帝は自ら烈祖と称す。論者以て逆に自ら祖宗と称すと為す。故に近代此の名は悉く廟号と為り、子孫践祚して先王を祖宗とせざる者無し。此を以て之を明らかにすれば、則ち両字を独り拠りて祧遷に合わざるの証と為すことを得ず。仮令百代を伝祚すとも、豈に上りて百代を崇めて孝と為さんや。請う、三昭三穆の義に依り、永く通典と為さんことを。
ここに於いて元皇帝を西夾室に祧し、代宗の神主を祔せしめた。
勅して曰く、「宗廟の事重し、実に参詳を資す。宜しく尚書省・両省・御史臺四品以上の官・大理卿・京兆尹等をして集議して以て聞かしむべし」。尚書左丞鄭涯等奏議して曰く、「夫れ礼経は則を垂る、厳配より重きは莫し。必ず損益の道を参にし、則ち典礼の文に合す。況や明徴有り、是れ折衷を資す。伏して敬宗・文宗・武宗三朝嗣位より、皆な兄弟を以てす。前に代を考うるに、理に顕据有り。今謹しく礼院の奏する所を詳にし、併せて上は古文に稽え、旁ら史氏を摭り、通変に協い、允に宜を得たりと謂う。臣等商議し、礼官の議する所に依ることを請う」。之に従う。
臣が謹んで按ずるに、三太后は憲宗・穆宗の后である。二帝は既に太廟に祔せられており、三后が別廟を立てる所以は、太廟に入れることができないからである。帝が在位中に皇后が別廟を立てる場合とは異なる。今、有司が誤って王彦威の『曲臺礼』を用い、別廟の太后を太廟で禘祭することは、甚だしく道理に背いている。臣が事体を究めるに、五つの不可がある。
『曲臺礼別廟皇后禘祫于太廟儀注』に云う、「内常侍が別廟皇后の神主を奉じ、廟庭に入れて置き、赤黄の褥位に置く。『某諡皇后禘祫祔享太廟』と奏し、然る後に神主を昇らせる」と。今、即ち「某諡太皇太后」と奏せねばならぬ。且つ太廟中の皇后神主は二十一室あり、今忽ち太皇太后を昭穆の列に入れることは、二つの不可である。
若し但だ「某諡皇后」と云うならば、則ち題する所と全く異なり、神は何に依憑するのか。これ三つの不可である。
『古今礼要』に云う、「旧典に、周は姜嫄の別廟を立て、四時の祭薦及び禘祫を七廟に於いて行い、皆祭った。惟だ太祖廟に入らず、別に配した。魏の文思甄后(明帝の母)の廟及び寝は、姜嫄の廟に依り、四時及び禘は皆諸廟と同じくした」と。これは旧礼の明文であり、以て証と為すべきである。今、別廟の太后を太廟で禘祫することは、四つの不可である。
礼部員外郎楊仲昌議して曰く、『謹んで『礼』に按ずるに、『夫れ祭は煩はしきを欲せず。煩はしければ則ち黷す。亦簡なるを欲せず。簡なれば則ち怠る』と。又鄭玄云ふ、『人生は尚褻食す。鬼神は則ち然らず。神農の時、黍稷有りと雖も、猶ほ未だ酒醴有らず。後聖の醴酪を作すに及びて、猶ほ玄酒を存し、古を忘れざるを求む』と。『春秋』に曰く、『蘋蘩・蘊藻の菜、潢汙行潦の水は、王公に羞する可く、鬼神に薦む可し』と。又曰く、『大羹は和せず、粢食は鑿かず』と。此れ君人たる者、国を有ちて先を奉り、神を敬ひ厳に享くるは、豈に肥濃を以て尚しと為さんや。将に儉約を以て誠を表さんとす。則ち陸海の物、鮮肥の類は、既に礼文の情に乖き、而して作者の法を変じ、皆祭用に充つるは、詳らかにす可きに非ざるなり。『易』に曰く、『樽酒簋貳、缶を用ひ、約を牖より納る』と。此れ祭は簡易を存するを明かにして、繁奢に在らざるなり。是を以て一樽の酒、貳簋の奠は、明祀と為すなり。抑又之を聞く、夫れ義は以て礼を出だし、礼は以て政を体す。違へば則ち紊る有り。是を不経と称す。肥濃を薦むれば則ち褻味登る有り。籩爵を加ふれば則ち事古に師はざるなり。其れ別に行ひて新制するに与るよりは、寧ろ謹みて旧章を守らんや』と。時に太子賓客崔沔・戸部郎中楊伯成・左衛兵曹劉秩等、皆建議して以て旧礼に請ふべく、改易す可からずと為す。是に於て宰臣等、沔・述等の議を具して以て奏す。玄宗曰く、『朕祖宗の休徳を承け、享祀粢盛に至りては、実に豊潔を思い、礼物の具は、諒くは忠を昭かにするに在り。其の芳潔ならずして法制に応ぜざる者は、亦用ふ可からず』と。是を以て更に太常に命じて品味を量り加へしむ。韋縚又奏す、『請ふらくは毎室に籩・豆各六を加へ、毎四時異品を以て、当時の新果及び珍羞と同く薦めん』と。則ち之を可とす。又酌献の酒爵、玄宗は龠升一升を用ふるを令す。古義に合して、多少適中たり。是より常に行ふに依る。