旧唐書
楽は、太古の聖人が情を治めるための具である。人は血気生知の性を持ち、喜怒哀楽の情がある。情は物に感じて中に動き、声は文を成して外に応ずる。聖王はこれに律度を以て調え、歌頌を以て文めかし、鐘石を以て蕩わせ、弦管を以て播き、然る後に以て精霊を滌い、怨思を祛うことができる。これを邦国に施せば朝廷序し、これを天下に施せば神祇格し、これを賓宴に施せば君臣和し、これを戦陣に施せば士民勇む。
三五の代、世に厥の官有り、故に虞の廷は干羽の容を振い、周人は弦誦の教を立てたり。蒼精の道喪われ、戦国の塵飛ぶに及び、礼楽は諸侯より出で、《雅》《頌》は衰俗に淪ぶ。斉の竽燕の築は、倶に皦繹の音に非ず;東の缶西の琴は、各哇淫の状を写す。乃ち播鞀漢に入り、師摯弦を寝すに至る。延陵に自鄶の譏有り、孔子《韶》を聞くの歎を起こす。始皇一統に及び、百王を傲視す。鐘鼓秦の宮に満つるも、鄭・衛に非ざるは無く;歌舞漢の廟に陳ぬるも、並びに《咸》《韶》に匪ず。而して九成・六変の容、八佾・四懸の制は、但だ其の数を存するのみで、其の情に達するは罕なり。而して制氏の伝うる所は、形容のみなり。武・宣の世、天子儒を弘め、夜誦の詩を采り、従臣の賦を考へ、朝に蘭殿に吟じ、暮に竹宮に奏し、乃ち協律の官に命じ、始めて礼神の曲を制す。河間の古を好むに属し、遺籍庭に充つ、乃ち《詩頌》を約して楽章を制し、《周官》を体して舞節と為す。此れより相襲い、代々其の辞を易うるも、管磬の音を流すと雖も、《莖》《英》の旨に異なるを恐る。其の後、桑・濮を臥して聴き、《兜離》を雑え、孤竹・空桑は、復た旋宮の義無く;崇牙樹羽は、惟だ備物の儀を陳ぬるのみ。煩手即ち多く、知音蓋し寡し。永嘉の後より、咸・洛は墟と為り、礼壊れ楽崩れ、典章殆んど尽きぬ。江左其の遺散を掇い、尚ほ治世の音有り。而して元魏・宇文は、代々朔漠に雄たり、地は清楽を伝えず、人は各其の旧風を習う。両京の工胥を得ると雖も、亦た四廂の金奏を置く。殊に耳に入るの玩に非ず、空しく楽を作るの名有るのみ。隋の文帝は家世士人にて、鋭く礼楽を興し、祚を践むの始め、太常卿牛弘・祭酒辛彥之に詔して雅楽を増修せしむ。弘伶官を集め、措思曆載して成らず、而して郊廟神に侑するは、黄鐘一調のみなり。開皇九年陳を平げ、始めて江左の旧工及び四懸の楽器を獲、帝廷に令して之を奏せしめ、歎じて曰く「此れ華夏の正声なり、吾が此の挙に非ざれば、世何ぞ得て聞かん」と。乃ち五音を調えて五夏・二舞・登歌・房中等十四調と為し、賓・祭に之を用う。隋氏始めて雅楽有り、因りて清商署を置きて之を掌らしむ。既にして協律郎祖孝孫、京房の旧法に依り、五音十二律を推して六十音と為し、又之を六倍し、三百六十音有り、旋相宮を為し、因りて廟楽を定む。諸儒論難し、竟に施用せず。隋世の雅音は、惟だ清楽十四調のみなり。隋末大乱すと雖も、其の楽猶ほ全し。
高祖(李淵)が禅譲を受けて即位すると、祖孝孫を吏部郎中に抜擢し、太常少卿に転任させ、次第に親しく重用されるようになった。孝孫はこれにより楽制の制定を奏請した。当時は軍国多事であり、改定創設に手が回らず、楽府ではまだ隋代の旧文を用いていた。武徳九年、初めて孝孫に雅楽の修定を命じ、貞観二年六月にこれを奏上した。太宗は言った、「礼楽の制定は、聖人が物事に縁って教化を施し、節度を定めるものであり、政治の隆盛や衰退は、これによるものだろうか」。御史大夫杜淹が答えて言った、「前代の興亡は、実に楽によるものである。陳が滅びようとする時は『玉樹後庭花』を、斉が滅びようとする時は『伴侶曲』を作った。行路の人がこれを聞けば、悲しみ泣かない者はなく、いわゆる亡国の音である。これを見るに、楽によるものである」。太宗は言った、「そうではない。音声が人を感動させるのは、自然の道理である。だから楽しんでいる者が聞けば喜び、憂いている者が聞けば悲しむ。悲しみ喜びの情は、人の心の中にあり、楽によるものではない。滅びようとする政治の下では、その民は必ず苦しんでいる。苦しい心に感じるから、聞いて悲しむのであって、どうして楽声が哀怨であれば、喜んでいる者を悲しませることができようか。今『玉樹』『伴侶』の曲は、その音声が全て残っている。朕が公のためにこれを奏でよう。公が必ず悲しまないことを知っている」。尚書右丞魏徴が進み出て言った、「古人は言う、『礼云礼云、玉帛云乎哉。楽云楽云、鐘鼓云乎哉』と。楽は人の和合にあり、音調によるものではない」。太宗はこれをよしとした。孝孫はまた奏上した、「陳、梁の旧楽は、呉、楚の音を混用し、周、斉の旧楽は、多く胡戎の伎芸に関わっている。そこで南北を斟酌し、古音を考証して、大唐の雅楽を作る。十二律を以て各々その月に順い、旋相して宮とする。『礼記』に『大楽は天地と和を同じくす』とあるので、十二和の楽を制定し、三十一曲、八十四調に合わせる。円丘を祭るには黄鐘を宮とし、方沢を祭るには林鐘を宮とし、宗廟を祭るには太簇を宮とする。五郊、朝賀、饗宴には、月に随って律を以て宮とする」。初め、隋ではただ黄鐘一宮を用い、七鐘のみを叩き、残る五鐘は虚懸して叩かなかった。孝孫が旋宮の法を立てると、皆鐘を遍く叩き、再び虚懸するものはなくなった。天神を祭るには『豫和』の楽を奏し、地祇を祭るには『順和』を奏し、宗廟を祭るには『永和』を奏する。天地、宗廟の登歌には、共に『肅和』を奏する。皇帝が臨軒するには、『太和』を奏する。王公が出入りするには、『舒和』を奏する。皇帝が食挙及び飲酒するには、『休和』を奏する。皇帝が朝を受けるには、『政和』を奏する。皇太子が軒懸出入りするには、『承和』を奏する。元日、冬至に皇帝が礼会登歌するには、『昭和』を奏する。郊廟に俎が入るには、『雍和』を奏する。皇帝が祭享して酌酒し、祝文を読み、福を飲み、胙を受けるには、『壽和』を奏する。五郊で気を迎えるには、各々月律に以てその音を奏する。また郊廟祭享には、『化康』『凱安』の舞を奏する。『周礼』の旋宮の義は、絶えて久しく、当時知る者なく、一朝にして古に復し、ここに始まるのである。孝孫が卒した後、協律郎張文収が再び『三礼』を採り、孝孫はその端緒を創ったが、郊禋に楽を用いることについては、事が周到で備わっていないと言った。詔して文収と太常の礼楽を掌る官らに更に改定させた。そこで『周礼』に依り、昊天上帝を祭るには円鐘を宮とし、黄鐘を角とし、太簇を徴とし、姑洗を羽として、『豫和』の舞を奏する。もし泰山を封ずるには、同じくこの楽を用いる。もし地祇方丘には、函鐘を宮とし、太簇を角とし、姑洗を徴とし、南呂を羽として、『順和』の舞を奏する。梁甫を禅ずるには、同じくこの楽を用いる。祫禘宗廟には、黄鐘を宮とし、大呂を角とし、太簇を徴とし、応鐘を羽として、『永和』の舞を奏する。五郊、日月星辰及び上帝に類するには、黄鐘を宮として、『豫和』の曲を奏する。大蠟、大報には、黄鐘、太簇、姑洗、蕤賓、夷則、無射等の調で『豫和』『順和』『永和』の曲を奏する。明堂、雩には、黄鐘を宮として、『豫和』の曲を奏する。神州、社稷、藉田には、宜しく太簇を宮とし、雨師には姑洗を宮とし、山川には蕤賓を宮として、共に『順和』の曲を奏する。先妣を饗するには、夷則を宮として、『永和』の舞を奏する。大饗宴には、姑洗、蕤賓の二調を奏する。皇帝が郊廟、食挙するには、月律を宮として、共に『休和』の曲を奏する。皇帝が郊廟出入りするには、『太和』の楽を奏し、臨軒出入りするには、『舒和』の楽を奏し、共に姑洗を宮とする。皇帝が大射するには、姑洗を宮として、『騶虞』の曲を奏する。皇太子は『狸首』の曲を奏する。皇太子が軒懸するには、姑洗を宮として、『永和』の曲を奏する。凡そ黄鐘を奏するには、大呂を歌い、太簇を奏するには、応鐘を歌い、姑洗を奏するには、南呂を歌い、蕤賓を奏するには、林鐘を歌い、夷則を奏するには、中呂を歌い、無射を奏するには、夾鐘を歌う。黄鐘蕤賓を宮とするには、その楽は九変し、大呂、林鐘を宮とするには、その楽は八変し、太簇、夷則を宮とするには、その楽は七変し、夾鐘、南呂を宮とするには、その楽は六変し、姑洗、無射を宮とするには、その楽は五変し、中呂、応鐘を宮とするには、その楽は四変する。天子は十二鐘、上公は九、侯伯は七、子男は五、卿は六、大夫は四、士は三である。完成すると、これを奏上した。太宗は善しと称え、そこで等級を加え賜物を頒つこと各々差等があった。
十四年、詔勅して曰く、「殷(あつ)く祖考を薦(すす)めて、以て功德を崇(たっと)ぶ。比(ちか)ごろ誠潔を加うるも、廟楽未だ称(かな)わず。宜しく所司に令して故実を詳(つまび)らかにし、制定して奏聞せしむべし」。八座議して曰く、「七廟観徳、義は宗祀に冠たり。三祖天に在り、式(のり)は厳配に章(あらわ)る。致敬の情允(まこと)に洽(あまね)く、大孝の道宜しく宣(の)べるべし。是を以て八佾具(そな)わって陳(つら)なり、粛儀形は綴兆にあり。四懸備(そな)わって展(の)べ、鴻徽は雅音に被(おお)わる。楽を作すの明義を考(かんが)え、皇王の令典を択(えら)ぶに、前聖の履(ふ)む所、茲(ここ)より大なるは莫し。伏して惟(おも)うに、皇帝陛下、天縦(てんしょう)感通、率(おおむ)ね冥極に由る。孝理昭(あきらか)に懿(うるわ)しく、光は八埏(はっしん)に被(おお)わり、愛敬純深、百葉(ひゃくよう)に追崇す。永く言(ことば)を錫(たま)いて祚(くら)い、斯(ここ)に頌声を弘(ひろ)む。鐘律音を革(あらた)め、鏗鏘(こうそう)を饗薦に播(ひろ)め、羽籥(うやく)列を成し、蹈厲(とうれい)を烝嘗(しょうじょう)に申(の)ぶ。爰(ここ)に典司に詔して、乃ち隆称を加え、声に循(したが)い実を核(ただ)し、敬(つつし)みて尊名を闡(あきら)かにす。窃(ひそか)に惟うに、皇霊慶を滋(しげ)くし、源を浚(さら)えて長く委(ゆだ)ぬ。燕を吞むの商を生ずるに邁(こ)え、龍を擾(なだ)めるの漢を肇(はじ)むるを軼(こ)ゆ。盛(さか)んなるは光を九二に韜(つつ)み、漸(ようや)く跡を三分に発す。高祖は地を縮め天を補い、区宇を重ねて張り、魂を反(かえ)し骨を肉(にく)とし、生霊を再造す。恢恢たる帝図、二儀と合して大ならんとし、赫赫たる皇道、七曜と共に斉(ひと)しく明らかなり。復(また)聖跡神功と雖も、窺測すべからず。文を経(たて)とし武を緯(よこ)とす、敢えて名言に寄す有らんや。敬(つつし)みて楽章を備え、式(のり)に彝範を昭(あきら)かにす。皇祖弘農府君・宣簡公・懿王の三廟の楽は、請う《長発》の舞を同じく奏せん。太祖景皇帝廟の楽は、請う《大基》の舞を奏せん。世祖元皇帝廟の楽は、請う《大成》の舞を奏せん。高祖大武皇帝廟の楽は、請う《大明》の舞を奏せん。文徳皇后廟の楽は、請う《光大》の舞を奏せん。七廟の登歌は、請う毎室別に奏せん」。制して之を可(ゆる)す。二十三年、太尉長孫無忌・侍中于志寧、太宗廟の楽を議して曰く、「《易》に曰く、『先王楽を作して徳を崇(たっと)び、殷(あつ)く上帝に薦(すす)めて、以て祖考に配す』と。楽名を《崇徳》の舞と請う」。制して之を可す。後に文徳皇后廟に、有司礼に拠りて《光大》の舞を停め、惟(ただ)《崇徳》の舞を進む。
謹んで按ずるに、《凱安舞》は貞観中に造られたる武舞なり。《貞観礼》及び今礼に准(なぞら)うれば、但だ郊廟祭享に武舞の楽を奏する時は即ち之を用う。凡そ六変有り。一変は龍興参野に象(かたど)り、二変は関中を克靖(こくせい)するに象り、三変は東夏賓服するに象り、四変は江淮寧謐(ねいひつ)なるに象り、五変は獫狁(けんいん)讋伏(しょうふく)するに象り、六変は位に復して崇(たか)くし、兵還りて旅を振るうに象る。謹んで按ずるに《貞観礼》に、祭享の日武舞は惟(ただ)六変を作す、亦た周の《大武》の如く、六成にして楽止む。按ずるに楽に人に因りて作る有れば、則ち人に因りて止む。数(かず)を成すを著(あらわ)すもの有れば、数終わりて即ち止む。行事の賒促(しゃそく)を取って楽終の早晚と為すべからず。即ち礼の云う三闋・六成・八変・九変是れなり。今礼は武舞六成を奏すれども、数終わりて未だ止まず。既に古に師(なら)わず、依行すべからず。其の武舞《凱安》は、望むらくは古礼及び《貞観礼》に依り、六成にして楽止まんことを請う。立部伎内の《破陣楽》五十二遍、雅楽に修入するに、只だ両遍有り、名づけて《七徳》と曰う。立部伎内の《慶善楽》七遍、雅楽に修入するに、只だ一遍有り、名づけて《九功》と曰う。《上元舞》二十九遍、今雅楽に入るるに、一も減ずる所無し。毎に見るに祭享の日三献已(すで)に終わり、《上元舞》猶自(なお)未だ畢(おわ)らず。今更に《破陣楽》・《慶善楽》を加うれば、兼ねて酌献已後の歌舞更に長からんことを恐る。其の雅楽内の《破陣楽》・《慶善楽》及び《上元舞》の三曲は、並びに望むらくは修改通融し、長短を礼と相称せしめ、久長安穏を冀望す。《破陣楽》は武事に象る有り、《慶善楽》は文事に象る有り。古の六代舞を按ずるに、《雲門》・《大咸》・《大夏》・《大韶》は是れ古の文舞なり。殷の《大濩》・周の《大武》は是れ古の武舞なり。古義に依れば、先儒相伝う、国家揖譲を以て天下を得れば、則ち先ず文舞を奏す。若し征伐を以て天下を得れば、則ち先ず武舞を奏す。望むらくは応用二舞の日、先ず《神功破陣楽》を奏し、次に《功成慶善楽》を奏せんことを請う。先に円丘・方沢・太廟祠享の日に於て勅を奉ずれば、則ち《上元》の舞を用う。臣見行の礼に拠り、天皇の酌献降りて位に復する已後に於て、即ち《凱安》を作し、六変にして楽止まんと欲す。其の《神功破陣楽》・《功成慶善楽》・《上元》の舞の三曲は、修改訖(おわ)るを待ち、以て次第に通融して之を作せば、即ち旧楽と前後相妨破らざるを得ん。若し有司の摂行事の日も、亦た行事に拠りて通融せんことを請う。
之に従う。
三年七月、上九成宮咸亨殿に在りて宴集し、韓王元嘉・霍王元軌及び南北軍将軍等有り。楽作(おこ)り、太常少卿韋万石奏して称(もう)す、「《破陣楽舞》は、是れ皇祚発跡の由る所、宗祖の盛烈を宣揚し、之を後に伝えて、永永窮(きわま)り無からしむるものなり。天皇四海に臨馭してより、寝(や)めて作さず。既に聖情感愴(かんそう)するに縁り、群下敢えて関言する無し。臣楽司に忝(かたじけな)く職し、廃缺を懼(おそ)る。礼に依れば、祭の日、天子親(みずか)ら干戚を総(す)べて以て先祖の楽を舞い、天下と之を同じく楽しましむ。今《破陣楽》久しく廃し、群下称述する所無く、将(は)た何を以てか孝思の情を発せん」。上矍然(きゃくぜん)として容(かお)を改め、俯(うつむ)いて所請を遂(したが)う。制有りて楽舞を奏せしむ。既に畢(おわ)り、上欷歔(ききょ)感咽し、涕泗(ていし)交流す。臣下悲涙し、仰ぎ視る能(あた)わず。久しうして、顧みて両王に謂いて曰く、「此の楽を見ず、三十年を垂(なんな)んとす。乍(たちま)ち此れを観聴し、実に深く哀感す。往日を追思すれば、王業艱難勤苦此の若(ごと)し。朕今洪業を嗣(つ)ぎ守る、武功を忘るるべけんや。古人云う、『富貴驕奢と期せず、驕奢自ずから至る』と。朕謂う、時に此の舞を見て、以て自ら誡勖(かいきく)し、盈満の過ち無からんことを冀(こいねが)う。楽しみて奏陳する為に非ざるなり」。侍宴の群臣咸万歳を呼ぶ。
玄宗は在位多年にして、音楽を善くし、若し宴設酺會あれば、即ち勤政樓に御す。先一日、金吾が駕仗を引き、北衙四軍の甲士、未だ明けざるに仗を陳べ、衛尉は張設し、光祿は食を造る。明け候うて、百僚朝し、侍中進みて中嚴外辦し、中官素扇し、天子簾を開きて朝を受く。禮畢すれば、又た素扇し簾を垂れ、百僚常參供奉官・貴戚・二王后・諸蕃酋長、食を謝して坐に就く。太常の大鼓、藻繪錦の如く、樂工齊しく撃てば、聲城闕を震わす。太常卿雅樂を引き、每色數十人、南より魚貫して進み、樓下に列す。鼓笛雞婁、庭に充ちて考撃す。太常樂立部伎・坐部伎、點に依り鼓舞し、間に胡夷の伎を以てす。日旰なれば、即ち內閑廄より蹀馬三十匹を引き、《傾杯樂曲》と為し、首を奮い尾を鼓し、縱橫に節に応ず。又た三層の板床を施し、馬に乗りて上り、抃轉すること飛ぶが如し。又た宮女數百人をして帷より出でて雷鼓を撃たしめ、《破陣樂》・《太平樂》・《上元樂》と為す。太常の積習と雖も、皆其の妙に如かず。若し《聖壽樂》は、則ち身を回して衣を換え、字を作ること畫の如し。又た五坊使が大象を引きて場に入り、或いは拜し或いは舞い、容を動かし鼓を振い、音律に中り、竟日にして退く。玄宗又た聽政の暇に、太常樂工の子弟三百人を教えて絲竹の戲と為し、音響齊しく發すれば、一聲誤る有らば、玄宗必ず覺えて之を正す。號して皇帝弟子と為し、又た梨園弟子と云い、院を置くこと禁苑の梨園に近きを以てす。太常又た別教院有り、供奉の新曲を教う。太常每に淩晨、鼓笛亂發すること太樂署に於てす。別教院の廩食常に千人、宮中に居るは宜春院なり。玄宗又た新曲四十餘を製し、又た新に樂譜を製す。每に初年の望夜、又た勤政樓に御し、燈を觀て樂を作し、貴臣戚里、樓を借りて觀望す。夜闌なれば、太常樂府縣の散樂畢り、即ち宮女を遣わして樓前に於て架を縛り出で眺め、歌舞を以て之を娛ます。若し繩戲竿木は、詭異巧妙、固より其の比無し。天寶十五載、玄宗西に幸し、祿山其の逆党を遣わして京師の樂器樂伎衣を載せ盡く洛城に入る。尋いで肅宗兩京を克復し、將に大體を行わんとし、禮物盡く闕く。禮儀使太常少卿于休烈をして屬吏と東京留臺に領せしめ、朝廷に赴かしむ。詔して錢を給し、休烈をして伎衣及び大舞等の服を造らしむ。是に於て樂工二舞始めて備わる。
謹んで按ずるに凱樂は、鼓吹の歌曲なり。《周官大司樂》に「王師大獻すれば、則ち凱樂を奏す」と。注に云く「功を獻ぐるの樂なり」と。又た《大司馬》の職に「師功有れば、則ち凱樂を社に獻ぐ」と。注に云く「兵樂を凱と曰う」と。《司馬法》に曰く「意を得れば則ち凱樂す、喜びを示す所以なり」と。《左氏傳》に晉文公の楚に勝ち、旅を振い凱入するを載す。魏・晉已來鼓吹の曲章、多く當時の戰功を述ぶ、是れ則ち歴代獻捷、必ず凱歌有り。太宗東都を平げ、宋金剛を破り、其の後蘇定方賀魯を執り、李勣高麗を平ぐるに、皆軍容を備え凱歌して京師に入る。謹んで《貞觀》・《顯慶》・《開元禮》の書を檢するに、並びに儀注無し。今古今を參酌し、其の陳設及び歌曲を奏するの儀を後に備う。凡そ將を命じて征討し、大功有りて俘馘を獻ぐる者、其の日神策兵衛を東門外に備え、俘を獻ぐる常儀の如し。其の凱樂は鐃吹二部を用い、笛・篳篥・簫・笳・鐃・鼓、每色二人、歌工二十四人。樂工等馬に乗り樂器を執り、次第に陳列し、鹵簿の式の如し。鼓吹令丞前導し、兵馬俘馘の前に於て分行す。將に都門に入らんとするに、鼓吹振作し、迭りに《破陣樂》等四曲を奏す。《破陣樂》・《應聖期》の兩曲は、太常舊に辭有り。《賀朝歡》・《君臣同慶樂》は、今撰び補う。《破陣樂》「律を受けて元首に辭し、相將いて叛臣を討つ。咸く《破陣樂》を歌い、共に太平の人を賞す」。《應聖期》「聖德昌運を期し、雍熙萬宇清し。乾坤化育を資け、海嶽共に休明なり。土を辟き耕稼を忻び、戈を銷して兵を偃ぐ。殊方帝澤を歌い、贄を執りて昇平を賀す」。《賀朝歡》「四海皇風被わり、千年德水清し。戎衣更に著けず、今日功の成るを告ぐ」。《君臣同慶樂》「主聖昌曆を開き、臣忠大猷を奏す。君偃革の後を見よ、便ち是れ太平の秋なり」。行きて太社及び太廟の門に至るを候い、工人馬を下り、門外に陳列す。按ずるに《周禮大司樂》の注に云く「祖に獻ぐ」と。《大司馬》に云く「先ず凱樂を社に獻ぐ」と。謹んで禮儀を詳しくすれば、則ち社廟の中に、樂を奏するに似合う。伏して尊嚴の地を以て、鐃吹嘩歡すは、既に明文無く、或いは肅敬に乖く。今請うらくは並びに門外に陳設し、歌曲を奏せず。告獻の禮畢るを候い、復た導引し儀の如く曲を奏す。皇帝の御する樓前の兵仗旌門外二十歩に至り、樂工皆馬を下り徐行前進す。兵部尚書介冑し鉞を執り、旌門內中路に於て前導す。《周禮》「師功有れば、則ち大司馬左に律を執り、右に鉞を秉り、以て凱樂に先んず」と。注に云く「律は軍聲を聽く所以、鉞は將威を為す所以なり」と。今律を吹き聲を聽くは、其の術久しく廢れり、惟うらくは鉞を秉りて、禮文を存せんことを請う。次に協律郎二人、公服して麾を執り、亦た門下に於て分導す。鼓吹令・丞樂工等を引き位に至り立定す。太常卿樂工の前に於て跪き、具官臣某奏事し、凱樂を奏せんことを請う。協律郎麾を挙ぐれば、鼓吹大いに振作し、遍く《破陣樂》等四曲を奏す。樂闋すれば、協律郎麾を偃し、太常卿又た跪きて凱樂畢るを奏す。兵部尚書・太常卿退く。樂工等並びに旌門外に出で訖り、然る後に俘馘を引き入れて獻げ及び賀を稱すること別儀の如し。別に獻俘馘の儀注有り。俘囚引き出さるるを俟って方に退く。請うらくは宣付して當司にせしめ、新禮に編入し、仍た樂工をして教習せしむ。