舊唐書

巻028

巻028

舊唐書

原文舊唐書

卷二十八

原文卷二十八

志第八 音樂一

原文志第八 音樂一

楽は、太古の聖人が情を治めるための具である。人は血気生知の性を持ち、喜怒哀楽の情がある。情は物に感じて中に動き、声は文を成して外に応ずる。聖王はこれに律度を以て調え、歌頌を以て文めかし、鐘石を以て蕩わせ、弦管を以て播き、然る後に以て精霊を滌い、怨思を祛うことができる。これを邦国に施せば朝廷序し、これを天下に施せば神祇格し、これを賓宴に施せば君臣和し、これを戦陣に施せば士民勇む。

原文樂者,太古聖人治情之具也。人有血氣生知之性,喜怒哀樂之情。情感物而動於中,聲成文而應於外。聖王乃調之以律度,文之以歌頌,蕩之以鐘石,播之以弦管,然後可以滌精靈,可以祛怨思。施之于邦國則朝廷序,施之於天下則神祇格,施之於賓宴則君臣和,施之于戰陣則士民勇。

三五の代、世に厥の官有り、故に虞の廷は干羽の容を振い、周人は弦誦の教を立てたり。蒼精の道喪われ、戦国の塵飛ぶに及び、礼楽は諸侯より出で、《雅》《頌》は衰俗に淪ぶ。斉の竽燕の築は、倶に皦繹の音に非ず;東の缶西の琴は、各哇淫の状を写す。乃ち播鞀漢に入り、師摯弦を寝すに至る。延陵に自鄶の譏有り、孔子《韶》を聞くの歎を起こす。始皇一統に及び、百王を傲視す。鐘鼓秦の宮に満つるも、鄭・衛に非ざるは無く;歌舞漢の廟に陳ぬるも、並びに《咸》《韶》に匪ず。而して九成・六変の容、八佾・四懸の制は、但だ其の数を存するのみで、其の情に達するは罕なり。而して制氏の伝うる所は、形容のみなり。武・宣の世、天子儒を弘め、夜誦の詩を采り、従臣の賦を考へ、朝に蘭殿に吟じ、暮に竹宮に奏し、乃ち協律の官に命じ、始めて礼神の曲を制す。河間の古を好むに属し、遺籍庭に充つ、乃ち《詩頌》を約して楽章を制し、《周官》を体して舞節と為す。此れより相襲い、代々其の辞を易うるも、管磬の音を流すと雖も、《莖》《英》の旨に異なるを恐る。其の後、桑・濮を臥して聴き、《兜離》を雑え、孤竹・空桑は、復た旋宮の義無く;崇牙樹羽は、惟だ備物の儀を陳ぬるのみ。煩手即ち多く、知音蓋し寡し。永嘉の後より、咸・洛は墟と為り、礼壊れ楽崩れ、典章殆んど尽きぬ。江左其の遺散を掇い、尚ほ治世の音有り。而して元魏・宇文は、代々朔漠に雄たり、地は清楽を伝えず、人は各其の旧風を習う。両京の工胥を得ると雖も、亦た四廂の金奏を置く。殊に耳に入るの玩に非ず、空しく楽を作るの名有るのみ。隋の文帝は家世士人にて、鋭く礼楽を興し、祚を践むの始め、太常卿牛弘・祭酒辛彥之に詔して雅楽を増修せしむ。弘伶官を集め、措思曆載して成らず、而して郊廟神に侑するは、黄鐘一調のみなり。開皇九年陳を平げ、始めて江左の旧工及び四懸の楽器を獲、帝廷に令して之を奏せしめ、歎じて曰く「此れ華夏の正声なり、吾が此の挙に非ざれば、世何ぞ得て聞かん」と。乃ち五音を調えて五夏・二舞・登歌・房中等十四調と為し、賓・祭に之を用う。隋氏始めて雅楽有り、因りて清商署を置きて之を掌らしむ。既にして協律郎祖孝孫、京房の旧法に依り、五音十二律を推して六十音と為し、又之を六倍し、三百六十音有り、旋相宮を為し、因りて廟楽を定む。諸儒論難し、竟に施用せず。隋世の雅音は、惟だ清楽十四調のみなり。隋末大乱すと雖も、其の楽猶ほ全し。

原文三五之代,世有厥官,故虞廷振干羽之容,周人立弦誦之教。洎蒼精道喪,戰國塵飛,禮樂出於諸侯,《雅》、《頌》淪於衰俗。齊竽燕築,俱非皦繹之音;東缶西琴,各寫哇淫之狀。乃至播鞀入漢,師摯寢弦。延陵有自鄶之譏,孔子起聞《韶》之歎。及始皇一統,傲視百王。鐘鼓滿于秦宮,無非鄭、衛;歌舞陳於漢廟,並匪《咸》、《韶》。而九成、六變之容,八佾、四懸之制,但存其數,罕達其情。而制氏所傳,形容而已。武、宣之世,天子弘儒,采夜誦之詩,考從臣之賦,朝吟蘭殿,暮奏竹宮,乃命協律之官,始制禮神之曲。屬河間好古,遺籍充庭,乃約《詩頌》而制樂章,體《周官》而為舞節。自茲相襲,代易其辭,雖流管磬之音,恐異《莖》、《英》之旨。其後臥聽桑、濮,雜以《兜離》,孤竹、空桑,無復旋宮之義;崇牙樹羽,惟陳備物之儀。煩手即多,知音蓋寡。自永嘉之後,咸、洛為墟,禮壞樂崩,典章殆盡。江左掇其遺散,尚有治世之音。而元魏、宇文,代雄朔漠,地不傳于清樂,人各習其舊風。雖得兩京工胥,亦置四廂金奏。殊非入耳之玩,空有作樂之名。隋文帝家世士人,銳興禮樂,踐祚之始,詔太常卿牛弘、祭酒辛彥之增修雅樂。弘集伶官,措思曆載無成,而郊廟侑神,黃鐘一調而已。開皇九年平陳,始獲江左舊工及四懸樂器,帝令廷奏之,歎曰:「此華夏正聲也,非吾此舉,世何得聞。」乃調五音為五夏、二舞、登歌、房中等十四調,賓、祭用之。隋氏始有雅樂,因置清商署以掌之。既而協律郎祖孝孫依京房舊法,推五音十二律為六十音,又六之,有三百六十音,旋相為宮,因定廟樂。諸儒論難,竟不施用。隋世雅音,惟清樂十四調而已。隋末大亂,其樂猶全。

高祖こうそ(李淵)が禅譲を受けて即位すると、祖孝孫を吏部郎中に抜擢し、太常少卿に転任させ、次第に親しく重用されるようになった。孝孫はこれにより楽制の制定を奏請した。当時は軍国多事であり、改定創設に手が回らず、楽府ではまだ隋代の旧文を用いていた。武徳九年、初めて孝孫に雅楽の修定を命じ、貞観二年六月にこれを奏上した。太宗は言った、「礼楽の制定は、聖人が物事に縁って教化を施し、節度を定めるものであり、政治の隆盛や衰退は、これによるものだろうか」。御史大夫杜淹が答えて言った、「前代の興亡は、実に楽によるものである。陳が滅びようとする時は『玉樹後庭花』を、斉が滅びようとする時は『伴侶曲』を作った。行路の人がこれを聞けば、悲しみ泣かない者はなく、いわゆる亡国の音である。これを見るに、楽によるものである」。太宗は言った、「そうではない。音声が人を感動させるのは、自然の道理である。だから楽しんでいる者が聞けば喜び、憂いている者が聞けば悲しむ。悲しみ喜びの情は、人の心の中にあり、楽によるものではない。滅びようとする政治の下では、その民は必ず苦しんでいる。苦しい心に感じるから、聞いて悲しむのであって、どうして楽声が哀怨であれば、喜んでいる者を悲しませることができようか。今『玉樹』『伴侶』の曲は、その音声が全て残っている。朕が公のためにこれを奏でよう。公が必ず悲しまないことを知っている」。尚書右丞魏徴が進み出て言った、「古人は言う、『礼云礼云、玉帛云乎哉。楽云楽云、鐘鼓云乎哉』と。楽は人の和合にあり、音調によるものではない」。太宗はこれをよしとした。孝孫はまた奏上した、「陳、梁の旧楽は、呉、楚の音を混用し、周、斉の旧楽は、多く胡戎の伎芸に関わっている。そこで南北を斟酌し、古音を考証して、大唐の雅楽を作る。十二律を以て各々その月に順い、旋相して宮とする。『礼記』に『大楽は天地と和を同じくす』とあるので、十二和の楽を制定し、三十一曲、八十四調に合わせる。円丘を祭るには黄鐘を宮とし、方沢を祭るには林鐘を宮とし、宗廟を祭るには太簇を宮とする。五郊、朝賀、饗宴には、月に随って律を以て宮とする」。初め、隋ではただ黄鐘一宮を用い、七鐘のみを叩き、残る五鐘は虚懸して叩かなかった。孝孫が旋宮の法を立てると、皆鐘を遍く叩き、再び虚懸するものはなくなった。天神を祭るには『豫よ和』の楽を奏し、地祇を祭るには『順和』を奏し、宗廟を祭るには『永和』を奏する。天地、宗廟の登歌には、共に『肅和』を奏する。皇帝が臨軒するには、『太和』を奏する。王公が出入りするには、『舒和』を奏する。皇帝が食挙及び飲酒するには、『休和』を奏する。皇帝が朝を受けるには、『政和』を奏する。皇太子が軒懸出入りするには、『承和』を奏する。元日、冬至に皇帝が礼会登歌するには、『昭和』を奏する。郊廟に俎が入るには、『雍和』を奏する。皇帝が祭享して酌酒し、祝文を読み、福を飲み、胙を受けるには、『壽和』を奏する。五郊で気を迎えるには、各々月律に以てその音を奏する。また郊廟祭享には、『化康』『凱安』の舞を奏する。『周礼』の旋宮の義は、絶えて久しく、当時知る者なく、一朝にして古に復し、ここに始まるのである。孝孫が卒した後、協律郎張文収が再び『三礼』を採り、孝孫はその端緒を創ったが、郊禋に楽を用いることについては、事が周到で備わっていないと言った。詔して文収と太常の礼楽を掌る官らに更に改定させた。そこで『周礼』に依り、昊天上帝を祭るには円鐘を宮とし、黄鐘を角とし、太簇を徴とし、姑洗を羽として、『豫和』の舞を奏する。もし泰山を封ずるには、同じくこの楽を用いる。もし地祇方丘には、函鐘を宮とし、太簇を角とし、姑洗を徴とし、南呂を羽として、『順和』の舞を奏する。梁甫を禅ずるには、同じくこの楽を用いる。祫禘宗廟には、黄鐘を宮とし、大呂を角とし、太簇を徴とし、応鐘を羽として、『永和』の舞を奏する。五郊、日月星辰及び上帝に類するには、黄鐘を宮として、『豫和』の曲を奏する。大蠟、大報には、黄鐘、太簇、姑洗、蕤賓、夷則、無射等の調で『豫和』『順和』『永和』の曲を奏する。明堂、雩には、黄鐘を宮として、『豫和』の曲を奏する。神州、社稷、藉田には、宜しく太簇を宮とし、雨師には姑洗を宮とし、山川には蕤賓を宮として、共に『順和』の曲を奏する。先妣を饗するには、夷則を宮として、『永和』の舞を奏する。大饗宴には、姑洗、蕤賓の二調を奏する。皇帝が郊廟、食挙するには、月律を宮として、共に『休和』の曲を奏する。皇帝が郊廟出入りするには、『太和』の楽を奏し、臨軒出入りするには、『舒和』の楽を奏し、共に姑洗を宮とする。皇帝が大射するには、姑洗を宮として、『騶虞』の曲を奏する。皇太子は『狸首』の曲を奏する。皇太子が軒懸するには、姑洗を宮として、『永和』の曲を奏する。凡そ黄鐘を奏するには、大呂を歌い、太簇を奏するには、応鐘を歌い、姑洗を奏するには、南呂を歌い、蕤賓を奏するには、林鐘を歌い、夷則を奏するには、中呂を歌い、無射を奏するには、夾鐘を歌う。黄鐘蕤賓を宮とするには、その楽は九変し、大呂、林鐘を宮とするには、その楽は八変し、太簇、夷則を宮とするには、その楽は七変し、夾鐘、南呂を宮とするには、その楽は六変し、姑洗、無射を宮とするには、その楽は五変し、中呂、応鐘を宮とするには、その楽は四変する。天子は十二鐘、上公は九、侯伯は七、子男は五、卿は六、大夫は四、士は三である。完成すると、これを奏上した。太宗は善しと称え、そこで等級を加え賜物を頒つこと各々差等があった。

原文高祖受禪,擢祖孝孫為吏部郎中,轉太常少卿,漸見親委。孝孫由是奏請作樂。時軍國多務,未遑改創,樂府尚用隋氏舊文。武德九年,始命孝孫修定雅樂,至貞觀二年六月奏之。太宗曰:「禮樂之作,蓋聖人緣物設教,以為撙節,治之隆替,豈此之由?」御史大夫杜淹對曰:「前代興亡,實由於樂。陳將亡也,為《玉樹後庭花》;齊將亡也,而為《伴侶曲》。行路聞之,莫不悲泣,所謂亡國之音也。以是觀之,蓋樂之由也。」太宗曰:「不然,夫音聲能感人,自然之道也。故歡者聞之則悅,憂者聽之則悲,悲歡之情,在於人心,非由樂也。將亡之政,其民必苦,然苦心所感,故聞之則悲耳,何有樂聲哀怨,能使悅者悲乎?今《玉樹》、《伴侶》之曲,其聲具存,朕當為公奏之,知公必不悲矣。」尚書右丞魏徵進曰:「古人稱:『禮云禮云,玉帛云乎哉!樂云樂云,鐘鼓云乎哉!』樂在人和,不由音調。」太宗然之。孝孫又奏:「陳、梁舊樂,雜用吳、楚之音;周、齊舊樂,多涉胡戎之伎。於是斟酌南北,考以古音,作為大唐雅樂。以十二律各順其月,旋相為宮。按《禮記》云『大樂與天地同和』,故制十二和之樂,合三十一曲,八十四調。祭圓丘以黃鐘為宮,方澤以林鐘為宮,宗廟乙太簇為宮。五郊、朝賀、饗宴,則隨月用律為宮。」初,隋但用黃鐘一宮,惟扣七鐘,餘五鐘虛懸而不扣。及孝孫建旋宮之法,皆遍扣鐘,無復虛懸者矣。祭天神奏《豫和》之樂,地祇奏《順和》,宗廟奏《永和》。天地、宗廟登歌,俱奏《肅和》。皇帝臨軒,奏《太和》。王公出入,奏《舒和》。皇帝食舉及飲酒,奏《休和》。皇帝受朝,奏《政和》。皇太子軒懸出入,奏《承和》。元日,冬至皇帝禮會登歌,奏《昭和》。郊廟俎入,奏《雍和》。皇帝祭享酌酒、讀祝文及飲福、受胙,奏《壽和》。五郊迎氣,各以月律而奏其音。又郊廟祭享,奏《化康》、《凱安》之舞。《周禮》旋宮之義,亡絕已久,時莫能知,一朝復古,自此始也。及孝孫卒後,協律郎張文收復采《三禮》,言孝孫雖創其端,至於郊禋用樂,事未周備。詔文收與太常掌禮樂官等更加厘改。於是依《周禮》,祭昊天上帝以圓鐘為宮,黃鐘為角,太簇為徵,姑洗為羽,奏《豫和》之舞。若封太山,同用此樂。若地祇方丘,以函鐘為宮,太簇為角,姑洗為徵,南呂為羽,奏《順和》之舞。禪梁甫,同用此樂。祫禘宗廟,以黃鐘為宮,大呂為角,太簇為徵,應鐘為羽,奏《永和》之舞。五郊、日月星辰及類于上帝,黃鐘為宮,奏《豫和》之曲。大蠟、大報,以黃鐘、太簇、姑洗、蕤賓、夷則、無射等調奏《豫和》、《順和》、《永和》之曲。明堂、雩,以黃鐘為宮,奏《豫和》之曲。神州、社稷、藉田,宜乙太簇為宮,雨師以姑洗為宮,山川以蕤賓為宮,並奏《順和》之曲。饗先妣,以夷則為宮,奏《永和》之舞。大饗宴,奏姑洗、蕤賓二調。皇帝郊廟、食舉,以月律為宮,並奏《休和》之曲。皇帝郊廟出入,奏《太和》之樂,臨軒出入,奏《舒和》之樂,並以姑洗為宮。皇帝大射,姑洗為宮,奏《騶虞》之曲。皇太子奏《狸首》之曲。皇太子軒懸,姑洗為宮,奏《永和》之曲。凡奏黃鐘,歌大呂;奏太簇,歌應鐘;奏姑洗,歌南呂;奏蕤賓,歌林鐘;奏夷則,歌中呂;奏無射,歌夾鐘。黃鐘蕤賓為宮,其樂九變;大呂、林鐘為宮,其樂八變。太簇、夷則為宮,其樂七變。夾鐘、南呂為宮,其樂六變。姑洗、無射為宮,其樂五變。中呂、應鐘為宮,其樂四變。天子十二鐘,上公九,侯伯七,子男五,卿六,大夫四,士三。及成,奏之。太宗稱善,於是加級頒賜各有差。

十四年、詔勅して曰く、「殷あつく祖考を薦すすめて、以て功德を崇たっとぶ。比ちかごろ誠潔を加うるも、廟楽未だ称かなわず。宜しく所司に令して故実を詳つまびらかにし、制定して奏聞せしむべし」。八座議して曰く、「七廟観徳、義は宗祀に冠たり。三祖天に在り、式のりは厳配に章あらわる。致敬の情允まことに洽あまねく、大孝の道宜しく宣のべるべし。是を以て八佾具そなわって陳つらなり、粛儀形は綴兆にあり。四懸備そなわって展のべ、鴻徽は雅音に被おおわる。楽を作すの明義を考かんがえ、皇王の令典を択えらぶに、前聖の履ふむ所、茲ここより大なるは莫し。伏して惟おもうに、皇帝陛下、天縦てんしょう感通、率おおむね冥極に由る。孝理昭あきらかに懿うるわしく、光は八埏はっしんに被わり、愛敬純深、百葉ひゃくように追崇す。永く言ことばを錫たまいて祚くらい、斯ここに頌声を弘ひろむ。鐘律音を革あらため、鏗鏘こうそうを饗薦に播ひろめ、羽籥うやく列を成し、蹈厲とうれいを烝嘗しょうじょうに申のぶ。爰ここに典司に詔して、乃ち隆称を加え、声に循したがい実を核ただし、敬つつしみて尊名を闡あきらかにす。窃ひそかに惟うに、皇霊慶を滋しげくし、源を浚さらえて長く委ゆだぬ。燕を吞むの商を生ずるに邁こえ、龍を擾なだめるの漢を肇はじむるを軼こゆ。盛さかんなるは光を九二に韜つつみ、漸ようやく跡を三分に発す。高祖は地を縮め天を補い、区宇を重ねて張り、魂を反かえし骨を肉にくとし、生霊を再造す。恢恢たる帝図、二儀と合して大ならんとし、赫赫たる皇道、七曜と共に斉ひとしく明らかなり。復また聖跡神功と雖も、窺測すべからず。文を経たてとし武を緯よことす、敢えて名言に寄す有らんや。敬みて楽章を備え、式に彝範を昭あきらかにす。皇祖弘農府君・宣簡公・懿王の三廟の楽は、請う《長発》の舞を同じく奏せん。太祖景皇帝廟の楽は、請う《大基》の舞を奏せん。世祖元皇帝廟の楽は、請う《大成》の舞を奏せん。高祖大武皇帝廟の楽は、請う《大明》の舞を奏せん。文徳皇后廟の楽は、請う《光大》の舞を奏せん。七廟の登歌は、請う毎室別に奏せん」。制して之を可ゆるす。二十三年、太尉長孫無忌・侍中于志寧、太宗廟の楽を議して曰く、「《易》に曰く、『先王楽を作して徳を崇び、殷く上帝に薦めて、以て祖考に配す』と。楽名を《崇徳》の舞と請う」。制して之を可す。後に文徳皇后廟に、有司礼に拠りて《光大》の舞を停め、惟《崇徳》の舞を進む。

原文十四年,敕曰:「殷薦祖考,以崇功德,比雖加以誠潔,而廟樂未稱。宜令所司詳諸故實,制定奏聞。」八座議曰:「七廟觀德,義冠于宗祀;三祖在天,式章于嚴配。致敬之情允洽,大孝之道宜宣。是以八佾具陳,肅儀形於綴兆;四懸備展,被鴻徽於雅音。考作樂之明義,擇皇王之令典,前聖所履,莫大於茲。伏惟皇帝陛下,天縱感通,率由冥極。孝理昭懿,光被於八埏;愛敬純深,追崇于百葉。永言錫祚,斯弘頌聲。鐘律革音,播鏗鏘於饗薦;羽籥成列,申蹈厲於烝嘗。爰詔典司,乃加隆稱,循聲核實,敬闡尊名。竊以皇靈滋慶,浚源長委,邁吞燕之生商,軼擾龍之肇漢,盛韜光於九二,漸發跡於三分。高祖縮地補天,重張區宇,反魂肉骨,再造生靈。恢恢帝圖,與二儀而合大;赫赫皇道,共七曜以齊明。雖復聖跡神功,不可得而窺測;經文緯武,敢有寄于名言。敬備樂章,式昭彝範。皇祖弘農府君、宣簡公、懿王三廟樂,請同奏《長發》之舞。太祖景皇帝廟樂,請奏《大基》之舞。世祖元皇帝廟樂,請奏《大成》之舞。高祖大武皇帝廟樂,請奏《大明》之舞。文德皇后廟樂,請奏《光大》之舞。七廟登歌,請每室別奏。」制可之。二十三年,太尉長孫無忌、侍中于志寧議太宗廟樂曰:「《易》曰:『先王作樂崇德,殷薦之上帝,以配祖考。』請樂名《崇德》之舞。」制可之。後文德皇后廟,有司據禮停《光大》之舞,惟進《崇德》之舞。

謹んで按ずるに、《凱安舞》は貞観中に造られたる武舞なり。《貞観礼》及び今礼に准なぞらうれば、但だ郊廟祭享に武舞の楽を奏する時は即ち之を用う。凡そ六変有り。一変は龍興参野に象かたどり、二変は関中を克靖こくせいするに象り、三変は東夏賓服するに象り、四変は江淮寧謐ねいひつなるに象り、五変は獫狁けんいん讋伏しょうふくするに象り、六変は位に復して崇くし、兵還りて旅を振るうに象る。謹んで按ずるに《貞観礼》に、祭享の日武舞は惟六変を作す、亦た周の《大武》の如く、六成にして楽止む。按ずるに楽に人に因りて作る有れば、則ち人に因りて止む。数かずを成すを著あらわすもの有れば、数終わりて即ち止む。行事の賒促しゃそくを取って楽終の早晚と為すべからず。即ち礼の云う三闋・六成・八変・九変是れなり。今礼は武舞六成を奏すれども、数終わりて未だ止まず。既に古に師ならわず、依行すべからず。其の武舞《凱安》は、望むらくは古礼及び《貞観礼》に依り、六成にして楽止まんことを請う。立部伎内の《破陣楽》五十二遍、雅楽に修入するに、只だ両遍有り、名づけて《七徳》と曰う。立部伎内の《慶善楽》七遍、雅楽に修入するに、只だ一遍有り、名づけて《九功》と曰う。《上元舞》二十九遍、今雅楽に入るるに、一も減ずる所無し。毎に見るに祭享の日三献已すでに終わり、《上元舞》猶自なお未だ畢おわらず。今更に《破陣楽》・《慶善楽》を加うれば、兼ねて酌献已後の歌舞更に長からんことを恐る。其の雅楽内の《破陣楽》・《慶善楽》及び《上元舞》の三曲は、並びに望むらくは修改通融し、長短を礼と相称せしめ、久長安ちょうあん穏を冀望す。《破陣楽》は武事に象る有り、《慶善楽》は文事に象る有り。古の六代舞を按ずるに、《雲門》・《大咸》・《大夏》・《大韶》は是れ古の文舞なり。殷の《大濩》・周の《大武》は是れ古の武舞なり。古義に依れば、先儒相伝う、国家揖譲を以て天下を得れば、則ち先ず文舞を奏す。若し征伐を以て天下を得れば、則ち先ず武舞を奏す。望むらくは応用二舞の日、先ず《神功破陣楽》を奏し、次に《功成慶善楽》を奏せんことを請う。先に円丘・方沢・太廟祠享の日に於て勅を奉ずれば、則ち《上元》の舞を用う。臣見行の礼に拠り、天皇の酌献降りて位に復する已後に於て、即ち《凱安》を作し、六変にして楽止まんと欲す。其の《神功破陣楽》・《功成慶善楽》・《上元》の舞の三曲は、修改訖おわるを待ち、以て次第に通融して之を作せば、即ち旧楽と前後相妨破さまたげやぶらざるを得ん。若し有司の摂行事の日も、亦た行事に拠りて通融せんことを請う。

原文謹按《凱安舞》是貞觀中所造武舞,准《貞觀禮》及今禮,但郊廟祭享奏武舞之樂即用之。凡有六變:一變象龍興參野,二變象克靖關中,三變象東夏賓服,四變象江淮寧謐,五變象獫狁讋伏,六變復位以崇,象兵還振旅。謹按《貞觀禮》,祭享日武舞惟作六變,亦如周之《大武》,六成樂止。按樂有因人而作者,則因人而止。如著成數者,數終即止,不得取行事賒促為樂終早晚,即禮云三闋、六成、八變、九變是也。今禮奏武舞六成,而數終未止,既非師古,不可依行。其武舞《凱安》,望請依古禮及《貞觀禮》,六成樂止。立部伎內《破陣樂》五十二遍,修入雅樂,只有兩遍,名曰《七德》。立部伎內《慶善樂》七遍,修入雅樂,只有一遍,名曰《九功》。《上元舞》二十九遍,今入雅樂,一無所減。每見祭享日三獻已終,《上元舞》猶自未畢,今更加《破陣樂》、《慶善樂》,兼恐酌獻已後,歌舞更長。其雅樂內《破陣樂》、《慶善樂》及《上元舞》三曲,並望修改通融,令長短與禮相稱,冀望久長安穩。《破陣樂》有象武事,《慶善樂》有象文事。按古六代舞,有《雲門》、《大咸》、《大夏》、《大韶》,是古之文舞;殷之《大濩》,周之《大武》是古之武舞。依古義,先儒相傳,國家以揖讓得天下,則先奏文舞。若以征伐得天下,則先奏武舞。望請應用二舞日,先奏《神功破陣樂》,次奏《功成慶善樂》。先奉敕於圓丘、方澤、太廟祠享日,則用《上元》之舞。臣據見行禮,欲于天皇酌獻降復位已後,即作《凱安》,六變樂止。其《神功破陣樂》、《功成慶善樂》、《上元》之舞三曲,待修改訖,以次通融作之,即得與舊樂前後不相妨破。若有司攝行事日,亦請據行事通融。

之に従う。

原文從之。

三年七月、上九成宮咸亨殿に在りて宴集し、韓王元嘉・霍王元軌及び南北軍将軍等有り。楽作おこり、太常少卿韋万石奏して称す、「《破陣楽舞》は、是れ皇祚発跡の由る所、宗祖の盛烈を宣揚し、之を後に伝えて、永永窮きわまり無からしむるものなり。天皇四海に臨馭してより、寝やめて作さず。既に聖情感愴かんそうするに縁り、群下敢えて関言する無し。臣楽司に忝かたじけなく職し、廃缺を懼おそる。礼に依れば、祭の日、天子親みずから干戚を総すべて以て先祖の楽を舞い、天下と之を同じく楽しましむ。今《破陣楽》久しく廃し、群下称述する所無く、将はた何を以てか孝思の情を発せん」。上矍然きゃくぜんとして容かおを改め、俯うつむいて所請を遂したがう。制有りて楽舞を奏せしむ。既に畢り、上欷歔ききょ感咽し、涕泗ていし交流す。臣下悲涙し、仰ぎ視る能あたわず。久しうして、顧みて両王に謂いて曰く、「此の楽を見ず、三十年を垂なんなんとす。乍たちまち此れを観聴し、実に深く哀感す。往日を追思すれば、王業艱難勤苦此の若ごとし。朕今洪業を嗣つぎ守る、武功を忘るるべけんや。古人云う、『富貴驕奢と期せず、驕奢自ずから至る』と。朕謂う、時に此の舞を見て、以て自ら誡勖かいきくし、盈満の過ち無からんことを冀こいねがう。楽しみて奏陳する為に非ざるなり」。侍宴の群臣咸みな万歳を呼ぶ。

原文三年七月,上在九成宮咸亨殿宴集,有韓王元嘉、霍王元軌及南北軍將軍等。樂作,太常少卿韋萬石奏稱:「《破陣樂舞》者,是皇祚發跡所由,宣揚宗祖盛烈,傳之於後,永永無窮。自天皇臨馭四海,寢而不作,既緣聖情感愴,群下無敢關言。臣忝職樂司,廢缺是懼。依禮,祭之日,天子親總干戚以舞先祖之樂,與天下同樂之也,今《破陣樂》久廢,群下無所稱述,將何以發孝思之情?」上矍然改容,俯遂所請,有制令奏樂舞。既畢,上欷歔感咽,涕泗交流,臣下悲淚,莫能仰視。久之,顧謂兩王曰:「不見此樂,垂三十年,乍此觀聽,實深哀感。追思往日,王業艱難勤苦若此,朕今嗣守洪業,可忘武功?古人云:『富貴不與驕奢期,驕奢自至。』朕謂時見此舞,以自誡勖,冀無盈滿之過,非為歡樂奏陳之耳。」侍宴群臣咸呼萬歲。

玄宗は在位多年にして、音楽を善くし、若し宴設酺會あれば、即ち勤政樓に御す。先一日、金吾が駕仗を引き、北衙四軍の甲士、未だ明けざるに仗を陳べ、衛尉は張設し、光祿は食を造る。明け候うて、百僚朝し、侍中進みて中嚴外辦し、中官素扇し、天子簾を開きて朝を受く。禮畢すれば、又た素扇し簾を垂れ、百僚常參供奉官・貴戚・二王后・諸蕃酋長、食を謝して坐に就く。太常の大鼓、藻繪錦の如く、樂工齊しく撃てば、聲城闕を震わす。太常卿雅樂を引き、每色數十人、南より魚貫して進み、樓下に列す。鼓笛雞婁、庭に充ちて考撃す。太常樂立部伎・坐部伎、點に依り鼓舞し、間に胡夷の伎を以てす。日旰なれば、即ち內閑廄より蹀馬三十匹を引き、《傾杯樂曲》と為し、首を奮い尾を鼓し、縱橫に節に応ず。又た三層の板床を施し、馬に乗りて上り、抃轉すること飛ぶが如し。又た宮女數百人をして帷より出でて雷鼓を撃たしめ、《破陣樂》・《太平樂》・《上元樂》と為す。太常の積習と雖も、皆其の妙に如かず。若し《聖壽樂》は、則ち身を回して衣を換え、字を作ること畫の如し。又た五坊使が大象を引きて場に入り、或いは拜し或いは舞い、容を動かし鼓を振い、音律に中り、竟日にして退く。玄宗又た聽政の暇に、太常樂工の子弟三百人を教えて絲竹の戲と為し、音響齊しく發すれば、一聲誤る有らば、玄宗必ず覺えて之を正す。號して皇帝弟子と為し、又た梨園弟子と云い、院を置くこと禁苑の梨園に近きを以てす。太常又た別教院有り、供奉の新曲を教う。太常每に淩晨、鼓笛亂發すること太樂署に於てす。別教院の廩食常に千人、宮中に居るは宜春院なり。玄宗又た新曲四十餘を製し、又た新に樂譜を製す。每に初年の望夜、又た勤政樓に御し、燈を觀て樂を作し、貴臣戚里、樓を借りて觀望す。夜闌なれば、太常樂府縣の散樂畢り、即ち宮女を遣わして樓前に於て架を縛り出で眺め、歌舞を以て之を娛ます。若し繩戲竿木は、詭異巧妙、固より其の比無し。天寶十五載、玄宗西に幸し、祿山其の逆党を遣わして京師の樂器樂伎衣を載せ盡く洛城に入る。尋いで肅宗兩京を克復し、將に大體を行わんとし、禮物盡く闕く。禮儀使太常少卿于休烈をして屬吏と東京留臺に領せしめ、朝廷に赴かしむ。詔して錢を給し、休烈をして伎衣及び大舞等の服を造らしむ。是に於て樂工二舞始めて備わる。

原文玄宗在位多年,善音樂,若宴設酺會,即禦勤政樓。先一日,金吾引駕仗北衙四軍甲士,未明陳仗,衛尉張設,光祿造食。候明,百僚朝,侍中進中嚴外辦,中官素扇,天子開簾受朝。禮畢,又素扇垂簾,百僚常參供奉官、貴戚、二王后、諸蕃酋長,謝食就坐。太常大鼓,藻繪如錦,樂工齊擊,聲震城闕。太常卿引雅樂,每色數十人,自南魚貫而進,列於樓下。鼓笛雞婁,充庭考擊。太常樂立部伎、坐部伎依點鼓舞,間以胡夷之伎。日旰,即內閑廄引蹀馬三十匹,為《傾杯樂曲》,奮首鼓尾,縱橫應節。又施三層板床,乘馬而上,抃轉如飛。又令宮女數百人自帷出擊雷鼓,為《破陣樂》、《太平樂》、《上元樂》。雖太常積習,皆不如其妙也。若《聖壽樂》,則回身換衣,作字如畫。又五坊使引大象入場,或拜或舞,動容鼓振,中於音律,竟日而退。玄宗又於聽政之暇,教太常樂工子弟三百人為絲竹之戲,音響齊發,有一聲誤,玄宗必覺而正之。號為皇帝弟子,又云梨園弟子,以置院近于禁苑之梨園。太常又有別教院,教供奉新曲。太常每淩晨,鼓笛亂發于太樂署。別教院廩食常千人,宮中居宜春院。玄宗又製新曲四十餘,又新製樂譜。每初年望夜,又禦勤政樓,觀燈作樂,貴臣戚里,借看樓觀望。夜闌,太常樂府縣散樂畢,即遣宮女于樓前縛架出眺,歌舞以娛之。若繩戲竿木,詭異巧妙,固無其比。天寶十五載,玄宗西幸,祿山遣其逆党載京師樂器樂伎衣盡入洛城。尋而肅宗克復兩京,將行大體,禮物盡闕。命禮儀使太常少卿于休烈使屬吏與東京留臺領,赴於朝廷。詔給錢,使休烈造伎衣及大舞等服,於是樂工二舞始備矣。

謹んで按ずるに凱樂は、鼓吹の歌曲なり。《周官大司樂》に「王師大獻すれば、則ち凱樂を奏す」と。注に云く「功を獻ぐるの樂なり」と。又た《大司馬》の職に「師功有れば、則ち凱樂を社に獻ぐ」と。注に云く「兵樂を凱と曰う」と。《司馬法》に曰く「意を得れば則ち凱樂す、喜びを示す所以なり」と。《左氏傳》に晉文公の楚に勝ち、旅を振い凱入するを載す。魏・晉已來鼓吹の曲章、多く當時の戰功を述ぶ、是れ則ち歴代獻捷、必ず凱歌有り。太宗東都を平げ、宋金剛を破り、其の後蘇定方賀魯を執り、李勣高麗を平ぐるに、皆軍容を備え凱歌して京師に入る。謹んで《貞觀》・《顯慶》・《開元禮》の書を檢するに、並びに儀注無し。今古今を參酌し、其の陳設及び歌曲を奏するの儀を後に備う。凡そ將を命じて征討し、大功有りて俘馘を獻ぐる者、其の日神策兵衛を東門外に備え、俘を獻ぐる常儀の如し。其の凱樂は鐃吹二部を用い、笛・篳篥・簫・笳・鐃・鼓、每色二人、歌工二十四人。樂工等馬に乗り樂器を執り、次第に陳列し、鹵簿の式の如し。鼓吹令丞前導し、兵馬俘馘の前に於て分行す。將に都門に入らんとするに、鼓吹振作し、迭りに《破陣樂》等四曲を奏す。《破陣樂》・《應聖期》の兩曲は、太常舊に辭有り。《賀朝歡》・《君臣同慶樂》は、今撰び補う。《破陣樂》「律を受けて元首に辭し、相將いて叛臣を討つ。咸く《破陣樂》を歌い、共に太平の人を賞す」。《應聖期》「聖德昌運を期し、雍熙萬宇清し。乾坤化育を資け、海嶽共に休明なり。土を辟き耕稼を忻び、戈を銷して兵を偃ぐ。殊方帝澤を歌い、贄を執りて昇平を賀す」。《賀朝歡》「四海皇風被わり、千年德水清し。戎衣更に著けず、今日功の成るを告ぐ」。《君臣同慶樂》「主聖昌曆を開き、臣忠大猷を奏す。君偃革の後を見よ、便ち是れ太平の秋なり」。行きて太社及び太廟の門に至るを候い、工人馬を下り、門外に陳列す。按ずるに《周禮大司樂》の注に云く「祖に獻ぐ」と。《大司馬》に云く「先ず凱樂を社に獻ぐ」と。謹んで禮儀を詳しくすれば、則ち社廟の中に、樂を奏するに似合う。伏して尊嚴の地を以て、鐃吹嘩歡すは、既に明文無く、或いは肅敬に乖く。今請うらくは並びに門外に陳設し、歌曲を奏せず。告獻の禮畢るを候い、復た導引し儀の如く曲を奏す。皇帝の御する樓前の兵仗旌門外二十歩に至り、樂工皆馬を下り徐行前進す。兵部尚書介冑し鉞を執り、旌門內中路に於て前導す。《周禮》「師功有れば、則ち大司馬左に律を執り、右に鉞を秉り、以て凱樂に先んず」と。注に云く「律は軍聲を聽く所以、鉞は將威を為す所以なり」と。今律を吹き聲を聽くは、其の術久しく廢れり、惟うらくは鉞を秉りて、禮文を存せんことを請う。次に協律郎二人、公服して麾を執り、亦た門下に於て分導す。鼓吹令・丞樂工等を引き位に至り立定す。太常卿樂工の前に於て跪き、具官臣某奏事し、凱樂を奏せんことを請う。協律郎麾を挙ぐれば、鼓吹大いに振作し、遍く《破陣樂》等四曲を奏す。樂闋すれば、協律郎麾を偃し、太常卿又た跪きて凱樂畢るを奏す。兵部尚書・太常卿退く。樂工等並びに旌門外に出で訖り、然る後に俘馘を引き入れて獻げ及び賀を稱すること別儀の如し。別に獻俘馘の儀注有り。俘囚引き出さるるを俟って方に退く。請うらくは宣付して當司にせしめ、新禮に編入し、仍た樂工をして教習せしむ。

原文謹按凱樂,鼓吹之歌曲也。《周官大司樂》:「王師大獻,則奏凱樂。」注云:「獻功之樂也。」又《大司馬》之職,「師有功,則凱樂獻於社。」注云:「兵樂曰凱。」《司馬法》曰:「得意則凱樂,所以示喜也。」《左氏傳》載晉文公勝楚,振旅凱入。魏、晉已來鼓吹曲章,多述當時戰功,是則歷代獻捷,必有凱歌。太宗平東都,破宋金剛,其後蘇定方執賀魯,李勣平高麗,皆備軍容凱歌入京師。謹檢《貞觀》、《顯慶》、《開元禮》書,並無儀注。今參酌今古,備其陳設及奏歌曲之儀如後。凡命將征討,有大功獻俘馘者,其日備神策兵衛於東門外,如獻俘常儀。其凱樂用鐃吹二部,笛、篳篥、簫、笳、鐃、鼓,每色二人,歌工二十四人。樂工等乘馬執樂器,次第陳列,如鹵簿之式。鼓吹令丞前導,分行於兵馬俘馘之前。將入都門,鼓吹振作,迭奏《破陣樂》等四曲。《破陣樂》、《應聖期》兩曲,太常舊有辭。《賀朝歡》、《君臣同慶樂》,今撰補之。《破陣樂》:「受律辭元首,相將討叛臣。咸歌《破陣樂》,共賞太平人。」《應聖期》:「聖德期昌運,雍熙萬宇清。乾坤資化育,海嶽共休明。辟土忻耕稼,銷戈遂偃兵。殊方歌帝澤,執贄賀昇平。」《賀朝歡》:「四海皇風被,千年德水清。戎衣更不著,今日告功成。」《君臣同慶樂》:「主聖開昌曆,臣忠奏大猷。君看偃革後,便是太平秋。」候行至太社及太廟門,工人下馬,陳列於門外。按《周禮大司樂》注云:「獻于祖。」《大司馬》云:「先凱樂獻於社。」謹詳禮儀,則社廟之中,似合奏樂。伏以尊嚴之地,鐃吹嘩歡,既無明文,或乖肅敬。今請並於門外陳設,不奏歌曲。候告獻禮畢,復導引奏曲如儀。至皇帝所御樓前兵仗旌門外二十步,樂工皆下馬徐行前進。兵部尚書介胄執鉞,於旌門內中路前導。《周禮》:「師有功,則大司馬左執律,右秉鉞,以先凱樂。」注云:「律所以聽軍聲,鉞所以為將威。」今吹律聽聲,其術久廢,惟請秉鉞,以存禮文。次協律郎二人,公服執麾,亦于門下分導。鼓吹令、丞引樂工等至位立定。太常卿于樂工之前跪,具官臣某奏事,請奏凱樂。協律郎舉麾,鼓吹大振作,遍奏《破陣樂》等四曲。樂闋,協律郎偃麾,太常卿又跪奏凱樂畢。兵部尚書、太常卿退。樂工等並出旌門外訖,然後引俘馘入獻及稱賀如別儀。別有獻俘馘儀注。俟俘囚引出方退。請宣付當司,編入新禮,仍令樂工教習。