卷二十八
楽は、太古の聖人が情を治めるための具である。人は血気生知の性を持ち、喜怒哀楽の情がある。情は物に感じて中に動き、声は文を成して外に応ずる。聖王はこれに律度を以て調え、歌頌を以て文めかし、鐘石を以て蕩わせ、弦管を以て播き、然る後に以て精霊を滌い、怨思を祛うことができる。これを邦国に施せば朝廷序し、これを天下に施せば神祇格し、これを賓宴に施せば君臣和し、これを戦陣に施せば士民勇む。
三五の代、世に厥の官有り、故に虞の廷は干羽の容を振い、周人は弦誦の教を立てたり。蒼精の道喪われ、戦国の塵飛ぶに及び、礼楽は諸侯より出で、《雅》《頌》は衰俗に淪ぶ。斉の竽燕の築は、倶に皦繹の音に非ず;東の缶西の琴は、各哇淫の状を写す。乃ち播鞀漢に入り、師摯弦を寝すに至る。延陵に自鄶の譏有り、孔子《韶》を聞くの歎を起こす。始皇一統に及び、百王を傲視す。鐘鼓秦の宮に満つるも、鄭・衛に非ざるは無く;歌舞漢の廟に陳ぬるも、並びに《咸》《韶》に匪ず。而して九成・六変の容、八佾・四懸の制は、但だ其の数を存するのみで、其の情に達するは罕なり。而して制氏の伝うる所は、形容のみなり。武・宣の世、天子儒を弘め、夜誦の詩を采り、従臣の賦を考へ、朝に蘭殿に吟じ、暮に竹宮に奏し、乃ち協律の官に命じ、始めて礼神の曲を制す。河間の古を好むに属し、遺籍庭に充つ、乃ち《詩頌》を約して楽章を制し、《周官》を体して舞節と為す。此れより相襲い、代々其の辞を易うるも、管磬の音を流すと雖も、《莖》《英》の旨に異なるを恐る。其の後、桑・濮を臥して聴き、《兜離》を雑え、孤竹・空桑は、復た旋宮の義無く;崇牙樹羽は、惟だ備物の儀を陳ぬるのみ。煩手即ち多く、知音蓋し寡し。永嘉の後より、咸・洛は墟と為り、礼壊れ楽崩れ、典章殆んど尽きぬ。江左其の遺散を掇い、尚ほ治世の音有り。而して元魏・宇文は、代々朔漠に雄たり、地は清楽を伝えず、人は各其の旧風を習う。両京の工胥を得ると雖も、亦た四廂の金奏を置く。殊に耳に入るの玩に非ず、空しく楽を作るの名有るのみ。隋の文帝は家世士人にて、鋭く礼楽を興し、祚を践むの始め、太常卿牛弘・祭酒辛彥之に詔して雅楽を増修せしむ。弘伶官を集め、措思曆載して成らず、而して郊廟神に侑するは、黄鐘一調のみなり。開皇九年陳を平げ、始めて江左の旧工及び四懸の楽器を獲、帝廷に令して之を奏せしめ、歎じて曰く「此れ華夏の正声なり、吾が此の挙に非ざれば、世何ぞ得て聞かん」と。乃ち五音を調えて五夏・二舞・登歌・房中等十四調と為し、賓・祭に之を用う。隋氏始めて雅楽有り、因りて清商署を置きて之を掌らしむ。既にして協律郎祖孝孫、京房の旧法に依り、五音十二律を推して六十音と為し、又之を六倍し、三百六十音有り、旋相宮を為し、因りて廟楽を定む。諸儒論難し、竟に施用せず。隋世の雅音は、惟だ清楽十四調のみなり。隋末大乱すと雖も、其の楽猶ほ全し。
謹んで按ずるに、《凱安舞》は貞観中に造られたる武舞なり。《貞観礼》及び今礼に准うれば、但だ郊廟祭享に武舞の楽を奏する時は即ち之を用う。凡そ六変有り。一変は龍興参野に象り、二変は関中を克靖するに象り、三変は東夏賓服するに象り、四変は江淮寧謐なるに象り、五変は獫狁讋伏するに象り、六変は位に復して崇くし、兵還りて旅を振るうに象る。謹んで按ずるに《貞観礼》に、祭享の日武舞は惟六変を作す、亦た周の《大武》の如く、六成にして楽止む。按ずるに楽に人に因りて作る有れば、則ち人に因りて止む。数を成すを著すもの有れば、数終わりて即ち止む。行事の賒促を取って楽終の早晚と為すべからず。即ち礼の云う三闋・六成・八変・九変是れなり。今礼は武舞六成を奏すれども、数終わりて未だ止まず。既に古に師わず、依行すべからず。其の武舞《凱安》は、望むらくは古礼及び《貞観礼》に依り、六成にして楽止まんことを請う。立部伎内の《破陣楽》五十二遍、雅楽に修入するに、只だ両遍有り、名づけて《七徳》と曰う。立部伎内の《慶善楽》七遍、雅楽に修入するに、只だ一遍有り、名づけて《九功》と曰う。《上元舞》二十九遍、今雅楽に入るるに、一も減ずる所無し。毎に見るに祭享の日三献已に終わり、《上元舞》猶自未だ畢らず。今更に《破陣楽》・《慶善楽》を加うれば、兼ねて酌献已後の歌舞更に長からんことを恐る。其の雅楽内の《破陣楽》・《慶善楽》及び《上元舞》の三曲は、並びに望むらくは修改通融し、長短を礼と相称せしめ、久長安穏を冀望す。《破陣楽》は武事に象る有り、《慶善楽》は文事に象る有り。古の六代舞を按ずるに、《雲門》・《大咸》・《大夏》・《大韶》は是れ古の文舞なり。殷の《大濩》・周の《大武》は是れ古の武舞なり。古義に依れば、先儒相伝う、国家揖譲を以て天下を得れば、則ち先ず文舞を奏す。若し征伐を以て天下を得れば、則ち先ず武舞を奏す。望むらくは応用二舞の日、先ず《神功破陣楽》を奏し、次に《功成慶善楽》を奏せんことを請う。先に円丘・方沢・太廟祠享の日に於て勅を奉ずれば、則ち《上元》の舞を用う。臣見行の礼に拠り、天皇の酌献降りて位に復する已後に於て、即ち《凱安》を作し、六変にして楽止まんと欲す。其の《神功破陣楽》・《功成慶善楽》・《上元》の舞の三曲は、修改訖るを待ち、以て次第に通融して之を作せば、即ち旧楽と前後相妨破らざるを得ん。若し有司の摂行事の日も、亦た行事に拠りて通融せんことを請う。
之に従う。
玄宗は在位多年にして、音楽を善くし、若し宴設酺會あれば、即ち勤政樓に御す。先一日、金吾が駕仗を引き、北衙四軍の甲士、未だ明けざるに仗を陳べ、衛尉は張設し、光祿は食を造る。明け候うて、百僚朝し、侍中進みて中嚴外辦し、中官素扇し、天子簾を開きて朝を受く。禮畢すれば、又た素扇し簾を垂れ、百僚常參供奉官・貴戚・二王后・諸蕃酋長、食を謝して坐に就く。太常の大鼓、藻繪錦の如く、樂工齊しく撃てば、聲城闕を震わす。太常卿雅樂を引き、每色數十人、南より魚貫して進み、樓下に列す。鼓笛雞婁、庭に充ちて考撃す。太常樂立部伎・坐部伎、點に依り鼓舞し、間に胡夷の伎を以てす。日旰なれば、即ち內閑廄より蹀馬三十匹を引き、《傾杯樂曲》と為し、首を奮い尾を鼓し、縱橫に節に応ず。又た三層の板床を施し、馬に乗りて上り、抃轉すること飛ぶが如し。又た宮女數百人をして帷より出でて雷鼓を撃たしめ、《破陣樂》・《太平樂》・《上元樂》と為す。太常の積習と雖も、皆其の妙に如かず。若し《聖壽樂》は、則ち身を回して衣を換え、字を作ること畫の如し。又た五坊使が大象を引きて場に入り、或いは拜し或いは舞い、容を動かし鼓を振い、音律に中り、竟日にして退く。玄宗又た聽政の暇に、太常樂工の子弟三百人を教えて絲竹の戲と為し、音響齊しく發すれば、一聲誤る有らば、玄宗必ず覺えて之を正す。號して皇帝弟子と為し、又た梨園弟子と云い、院を置くこと禁苑の梨園に近きを以てす。太常又た別教院有り、供奉の新曲を教う。太常每に淩晨、鼓笛亂發すること太樂署に於てす。別教院の廩食常に千人、宮中に居るは宜春院なり。玄宗又た新曲四十餘を製し、又た新に樂譜を製す。每に初年の望夜、又た勤政樓に御し、燈を觀て樂を作し、貴臣戚里、樓を借りて觀望す。夜闌なれば、太常樂府縣の散樂畢り、即ち宮女を遣わして樓前に於て架を縛り出で眺め、歌舞を以て之を娛ます。若し繩戲竿木は、詭異巧妙、固より其の比無し。天寶十五載、玄宗西に幸し、祿山其の逆党を遣わして京師の樂器樂伎衣を載せ盡く洛城に入る。尋いで肅宗兩京を克復し、將に大體を行わんとし、禮物盡く闕く。禮儀使太常少卿于休烈をして屬吏と東京留臺に領せしめ、朝廷に赴かしむ。詔して錢を給し、休烈をして伎衣及び大舞等の服を造らしむ。是に於て樂工二舞始めて備わる。
謹んで按ずるに凱樂は、鼓吹の歌曲なり。《周官大司樂》に「王師大獻すれば、則ち凱樂を奏す」と。注に云く「功を獻ぐるの樂なり」と。又た《大司馬》の職に「師功有れば、則ち凱樂を社に獻ぐ」と。注に云く「兵樂を凱と曰う」と。《司馬法》に曰く「意を得れば則ち凱樂す、喜びを示す所以なり」と。《左氏傳》に晉文公の楚に勝ち、旅を振い凱入するを載す。魏・晉已來鼓吹の曲章、多く當時の戰功を述ぶ、是れ則ち歴代獻捷、必ず凱歌有り。太宗東都を平げ、宋金剛を破り、其の後蘇定方賀魯を執り、李勣高麗を平ぐるに、皆軍容を備え凱歌して京師に入る。謹んで《貞觀》・《顯慶》・《開元禮》の書を檢するに、並びに儀注無し。今古今を參酌し、其の陳設及び歌曲を奏するの儀を後に備う。凡そ將を命じて征討し、大功有りて俘馘を獻ぐる者、其の日神策兵衛を東門外に備え、俘を獻ぐる常儀の如し。其の凱樂は鐃吹二部を用い、笛・篳篥・簫・笳・鐃・鼓、每色二人、歌工二十四人。樂工等馬に乗り樂器を執り、次第に陳列し、鹵簿の式の如し。鼓吹令丞前導し、兵馬俘馘の前に於て分行す。將に都門に入らんとするに、鼓吹振作し、迭りに《破陣樂》等四曲を奏す。《破陣樂》・《應聖期》の兩曲は、太常舊に辭有り。《賀朝歡》・《君臣同慶樂》は、今撰び補う。《破陣樂》「律を受けて元首に辭し、相將いて叛臣を討つ。咸く《破陣樂》を歌い、共に太平の人を賞す」。《應聖期》「聖德昌運を期し、雍熙萬宇清し。乾坤化育を資け、海嶽共に休明なり。土を辟き耕稼を忻び、戈を銷して兵を偃ぐ。殊方帝澤を歌い、贄を執りて昇平を賀す」。《賀朝歡》「四海皇風被わり、千年德水清し。戎衣更に著けず、今日功の成るを告ぐ」。《君臣同慶樂》「主聖昌曆を開き、臣忠大猷を奏す。君偃革の後を見よ、便ち是れ太平の秋なり」。行きて太社及び太廟の門に至るを候い、工人馬を下り、門外に陳列す。按ずるに《周禮大司樂》の注に云く「祖に獻ぐ」と。《大司馬》に云く「先ず凱樂を社に獻ぐ」と。謹んで禮儀を詳しくすれば、則ち社廟の中に、樂を奏するに似合う。伏して尊嚴の地を以て、鐃吹嘩歡すは、既に明文無く、或いは肅敬に乖く。今請うらくは並びに門外に陳設し、歌曲を奏せず。告獻の禮畢るを候い、復た導引し儀の如く曲を奏す。皇帝の御する樓前の兵仗旌門外二十歩に至り、樂工皆馬を下り徐行前進す。兵部尚書介冑し鉞を執り、旌門內中路に於て前導す。《周禮》「師功有れば、則ち大司馬左に律を執り、右に鉞を秉り、以て凱樂に先んず」と。注に云く「律は軍聲を聽く所以、鉞は將威を為す所以なり」と。今律を吹き聲を聽くは、其の術久しく廢れり、惟うらくは鉞を秉りて、禮文を存せんことを請う。次に協律郎二人、公服して麾を執り、亦た門下に於て分導す。鼓吹令・丞樂工等を引き位に至り立定す。太常卿樂工の前に於て跪き、具官臣某奏事し、凱樂を奏せんことを請う。協律郎麾を挙ぐれば、鼓吹大いに振作し、遍く《破陣樂》等四曲を奏す。樂闋すれば、協律郎麾を偃し、太常卿又た跪きて凱樂畢るを奏す。兵部尚書・太常卿退く。樂工等並びに旌門外に出で訖り、然る後に俘馘を引き入れて獻げ及び賀を稱すること別儀の如し。別に獻俘馘の儀注有り。俘囚引き出さるるを俟って方に退く。請うらくは宣付して當司にせしめ、新禮に編入し、仍た樂工をして教習せしむ。