卷二十二
隋の文帝の開皇年間、将作大匠の宇文愷が『月令』に依拠して明堂の木製模型を造り献上した。帝は有司に命じて京城の安業里内にその地を区画させたが、まさに建立を崇めようとしたところ、諸儒の議論が定まらず、ついに議論は中止された。煬帝の時、愷は再び明堂の木製模型と議状を献上したが、遷都と工事が重なり、事はまたも成就しなかった。隋代を通じて、季秋の大享は常に雩壇で祭祀を行った。
十七年五月、秘書監の顔師古が議して言うには、
明堂の制度は、古昔より始まり、簡牘に求めても、全文は見られない。黄帝に始まり、有虞氏に下り、夏、殷を歴て、周代に至るまで、各々名号を立て、別に規模を創った。衆説は舛駁し、互いに所見を執り、巨儒碩学といえども、詳しく通じた者はない。斐然として章を成すも、裁断を知らない。その指要を究めれば、実に布政の宮である。ただ戦国時代の縦横に、典籍は廃棄され、暴秦の酷烈に、経礼は湮滅した。今存するものは、伝記雑説であり、これを以て準的と為すのは、理実に蕪昧である。然るに『周書』の明堂を叙するものは、その四面を記し、則ち応門、雉門があり、この一堂に拠れば、固より王者の常居である。その青陽、総章、玄堂、太廟及び左个、右个は、四時の次と同じであり、則ち路寝の意義が、明証として足りる。また『文王居明堂』の篇には、弓〓蜀を帯び、高禖に祠る。下九門で磔禳を行って疾疫を防ぎ、梁を置き道を除いて農夫に利し、国に酒あらしめて三族を合わせる、とある。凡そこの等の事は、皆『月令』の文に合致する。その為す所を観れば、皆路寝にあるものである。『戴礼』に、「昔、周公が諸侯を明堂の位で朝した時、天子は斧扆を負って南面して立った。明堂とは、諸侯の尊卑を明らかにするものである」とある。『周官』にもまた云う、「周人の明堂は、九尺の筵を度り、東西九筵、堂は一筵」。その制度に拠れば、即ち大寝である。『屍子』もまた曰く、「黄帝は合宮と曰い、有虞氏は総章と曰い、殷は陽館と曰い、周は明堂と曰う」。これらは皆、路寝の徴であり、別の処ではないことを知る。大戴の説く所は、初めに近郊の言があり、また文王の廟と称し、進退拠る所なく、自ら矛盾している。そもそも扆を負って朝を受け、常に居出入りするのは、既に皋庫の内にあるのであり、何ぞまた郊野にあると云えようか。『孝経伝』に云う「国の陽にある」と、また里数はない。
漢の武帝は創建の志を抱き、紳士に諮問したが、議論は紛然として、ついに定説を得ず、汶水のほとりに立って宗祀を行った。これは遠近に拘らず、方位を選ばないことを明らかにしたのである。孝成帝の代には、城南に表を立てて行ったが、その文はあっても、その功は成らなかった。平帝の元始四年、大いに営創を議した。孔牢らは明堂・辟雍・太学は実は一つであり、三つの名があるに過ぎないとした。金襃らはまた経伝に文がなく、同異を分別できないと称した。中興の後、蔡邕が論を作り、また明堂太廟は一物二名であると言った。鄭玄は則ち「国の陽、三里の外」と言い、淳于登はまた「三里の外、七里の内、丙巳の地」と言った。潁容の『釈例』もまた「明堂太廟、凡そ八名有り、その体は一なり」と言う。苟くも同異を立てて、巧説を競い、並びに胸懐より出で、曾て師祖無し。功成りて楽を作り、理定まりて礼を制すことを審らかにすれば、草創は宜しきに従い、質文は変わりて行く。旌旗冠冕は古今同じからず、律度権衡は前後一ならず、時に随うの義、断じて知るべし。仮令周公の旧章と雖も、猶おその可否を択ぶべく、宣尼の彝則も、尚おその闕漏を補わんとす。況んや鄭氏の臆説、淳于の謏聞、株を守るに異ならず、何ぞ柱を膠するに殊ならん。愚謂う、墉雉を出でず、邇く宮闈に接すれば、実に事宜に允り、諒い惑う所無からんと。但だ上は天旨を遵い、祗びて徳音を奉じ、皇代の明堂を作り、永く来葉に范を貽すべし。区区の碎議は、皆略して論ぜず。
また上表して曰く、「明堂の制、陛下既に徳音を発し、久しく詳議を令す。但だ学者の専固を以てし、人人言を異にし、損益同じからず、是非定まらず。臣愚、五帝の後、両漢以前は、高下方円皆相襲わずと為す。惟だ陛下の聖情創造に在り、即ち大唐の明堂と為し、以て万代に伝うるに足れり。何ぞ必ずしも戸牖の多少を論じ、階庭の広狭を疑わん。若し恣に儒者をして一端を互いに説かしめ、久しく断決無くんば、徒らに盛礼を稽えしむるのみ。昔、漢武、封禅の儀を草せんと欲し、博望諸生、説く所同じからず、孰れ是なるかを知る莫し。唯だ御史大夫倪寛、上を勧めて自ら制度を定めしめ、遂に登封の礼を成せり。臣の愚誠も亦た陛下の繁省を斟酌し、其の節文を為し、謙拒して以て大典を淹らせざらんことを望む」と。尋いで遼海に事有るを以て、未だ営創に暇あらず。
ここにおいて太常博士柳宣は仍って鄭玄の義に拠り、明堂の制は五室と為すべしと為す。内直丞孔志約は『大戴礼』及び盧植・蔡邕等の義に拠り、九室と為すべしと為す。曹王友趙慈皓・秘書郎薛文思等各明堂図を造る。諸儒紛争し、互いに同じからず。上初め九室の議を是と為し、乃ち所司に形制及び辟雍門闕等を詳定せしむ。
明年六月、内より九室様を出だし、仍って更に有司に損益せしむ。有司奏言す。
内様:堂基三重、毎基階各十二。上基方九雉、八角、高一尺。中基方三百尺、高一筵。下基方三百六十尺、高一丈二尺。上基は黄琮に象り、八角と為し、四面に十二階を安ず。請う、内様に従いて定めと為さん。基の高下は仍って周制に准い高九尺とし、其の方共に司に約し准えて一百四十八尺と作す。中基下基は、望むらくは並びに用いず。又内様:室各々方三筵、四闥・八窓を開く。屋円楣径二百九十一尺。按ずるに季秋大饗五帝、各々一室に在り、商量便ならず。請う、両漢の季秋合饗に依い、総べて太室に於てせん。若し四時迎気の祀は、則ち各々其の方の室に於てせん。其の九室を安置するの制は、明堂故事を増損し、三三相重ぬ。太室は中央に在り、方六丈。其の四隅の室を左右房と謂い、各方二丈四尺。太室の四面に当たり、青陽・明堂・総章・玄堂等の室は、各長六丈、以て太室に応じ、闊二丈四尺、以て左右房に応ず。室間並びに巷を通じ、各広一丈八尺。其の九室並びに巷は堂上に在り、総方一百四十四尺、坤の策に法る。屋円楣・楯・簷は、或いは未だ允ならざるか。請う、鄭玄・盧植等の説に拠り、前梁を以て楣と為し、其の径二百一十六尺、乾の策に法る。円柱旁より九室四隅に出で、各七尺、天を以て七を紀するに法る。柱外余基は、節を司に約し准え面別各余一丈一尺。内様:室別に四闥・八窓、古と同じきを検す。請う、依りて定めと為さん。其の戸は古に依り外に設けて開かず。内様:外に柱三十六有り、毎柱十梁。内に七間有り、柱根以上より梁に至るまで高三丈、梁以上より屋峻起に至るまで、計高八十一尺。上円下方、飛簷規に応ず。請う、内様に依りて定めと為さん。其の屋蓋の形制は、仍って望むらくは『考工記』に拠り四阿と改め、並びに礼に依り重簷を加え、太廟に准え鴟尾を安ぜん。堂四向五色、請う『周礼』白盛に依り便と為さん。其の四向は各々方色に随う。請う、四垣及び四門を施さん。
辟雍は、『大戴礼』及び前代の説に按ずるに、辟雍は多く水広・内径の数無し。蔡邕云く「水広二十四丈、外に周る」と。『三輔黄図』云く「水広四周」と、蔡邕と異ならず、仍って云く「水外周堤」と。又張衡『東京賦』称す「舟を造りて梁と為す」と。『礼記・明堂位』・『陰陽録』云く「水左旋して以て天に象る」と。商量す、水広二十四丈は、恐らくは闊に傷つけん。今請う、減じて二十四歩と為し、垣外量り取り周足せしめん。仍って故事に依り舟を造りて梁と為し、其の外周を以て円堤とし、並びに『陰陽』の「水行左旋」の制を取らん。
殿垣は、『三輔黄図』に按ずるに、殿垣四周方水内に在り、高く日を蔽わず、殿門殿を去ること七十二歩。今の行事陳設に准うるも、猶恐らくは窄小ならん。其の方垣四門堂を去る歩数は、請う、太廟南門廟基を去る遠近を准え制と為さん。仍って四門八観を立て、太廟門に依り別に各三門を安じ、玄閫を施し、四角に三重の魏闕を造らん。
その後、群儒が紛然として競い、各々異なる議論を執る。尚書左僕射于志寧らは九室を請い、太常博士唐〓〓らは五室を請う。高宗は観徳殿において両議に依って張設せしめ、親しく公卿とともに之を観る。帝曰く、「明堂の礼は、古よりこれ有り。議する者同じからず、未だ果たして営建せず。今両議を設く、公らは何れを以て宜しと為すや」と。工部尚書閻立德対えて曰く、「両議同じからず、倶に典故有り。九室は暗きに似、五室は明らかなるに似たり。取捨の宜しきは、断じて聖慮に在り」と。上は五室を以て便と為し、議また定まらず、ここに由りて且く止む。
合宮に朔を聴くは、皇軒の茂範を闡く;霊府通和するは、帝勲の景化を敷く。殷人の陽館は、青珪礼を備え;姫氏の玄堂は、彤璋献を合す。運は驪翰に殊なり、時は質文に変ると雖も、天中に立ち、皇極を建て、物に軌し教を施すに至りては、其の帰一揆なり。図を汶上に考うるも、僅かに公玉の儀を存し;室を圭躔に度るも、才だ中元の制を紀す。炎精の駕に墜つに属し、睿宮の籥を毀ち、四海は沸鼎に淪し、九土は塗原に陷る。高祖太武皇帝は鉞を唐郊に杖ち、鈐を雍野に収め、祥符を蒼水に納れ、霊命を丕山に受く。飛沈沫を泳ぎ、動植源に遊ぶ。太宗文皇帝は盟津に誓いを光らし、降火に協して壇に登り;豊谷に蛇を断ち、屯雲に応じて旅を鞠む。金を封じて嶺に貸し、累聖の鴻勳を昭かにし;石を勒して丸都に成し、文考の先志を成す。固より以て明堂に化を作し、太室に庸を顕わすべし。傍らに八柱を羅し、周りに四門を建て、木工琢まず、土事文無く、豊約折衷し、経始亟めず、闕文斯く備わり、大礼聿く修まる。
其の明堂院は毎面三百六十歩、當中に堂を置く。『周易』に按ずるに、乾の策二百一十有六、坤の策一百四十有四、総じて三百六十と成る、故に方三百六十歩。當中に堂を置き、二儀の中に処り、三才の本を定め、茲の一宇を構え、此の万方に臨む。院を降りて毎面三門、同じく一宇と為し、五間に徘徊す。『尚書』に按ずるに、一期に四時有り、故に四面各一所門を開く;毎時に三月有り、故に毎一所に三門を開く;一期に十有二月有り、故に周回総じて十二門。所以に面別に一門、茲の四序に応じ、既に一時にして三月を統ぶ、故に一舍に於て三門を置く。又『周易』に三は陽数、二は陰数、合して五と為す、所以に毎門舍五間。院の四隅各々重楼を置き、其の四墉各々本方の色に依る。『淮南子』に按ずるに、地に四維有り、故に四楼。又『月令』に按ずるに、水・火・金・木・土五方各々色を異にす、故に其の牆各々本方の色に依る。
基は八面、八方を象る。『周礼』に「黄琮地を礼す」と。鄭玄注す:琮は八方の玉、以て地形を象る、故に以て地を祀る。則ち地形八方なるを知る。又『漢書』に按ずるに、武帝八觚の壇を立て以て地を祀る。地に登るの壇、形地に象る、故に八方の基と為し、以て地形を象らしむ。基の高さ一丈二尺、径二百八十尺。『漢書』に按ずるに、陽は六律と為し、陰は六呂と為す。陽と陰合う、故に高さ一丈二尺。又『周易』に按ずるに、三は陽数、八は陰数。三八相乘じ、二百四十尺を得。『漢書』に按ずるに、九会の数四十有り、合して二百八十と為す、所以に基径二百八十尺。故に以て天地の和を通交し、陰陽の数を錯綜す。以て陽は独り運ばず、陰和を資り以て助成するを明らかにし;陰は孤行せず、陽唱を待ちて方に応ずるを明らかにす。陰陽両順し、天地咸く亨れば、則ち百宝斯く興り、九疇攸く序づく。基は毎面三階、周回十二階、毎階二十五級と為す。『漢書』に按ずるに、天に三階有り、故に毎面三階;地に十二辰有り、故に周回十二階。又『文子』に按ずるに、凡より聖に至るに、二十五等有り、故に毎階二十五級。所以に符星に応じて階を設け、台耀に法り以て陛を疏にし、上は霄漢の儀に擬え、下は地辰の数を則る。又茲の重級を列ね、用て聖凡に准う。皇極の高居を象り、庶類に俯して臨耀す。
基壇の上に一堂を設け、その屋根は円形である。『道德經』に拠れば、天は一を得て清く、地は一を得て寧らかであり、侯王は一を得て天下の正となる。また曰く、道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は萬物を生ず。また『漢書』に拠れば、太極の元気は、三を含んで一となる。また曰く、天子は四海を家とする。故に一堂を置いて元気を象り、併せて四海を家とする意味を取る。また『周禮』に拠れば、「蒼璧をもって天を礼す」とある。鄭玄の注に、璧は円形にして天を象る。故に屋根を円形とする。堂は各面九間あり、各々広さ一丈九尺である。『尚書』に拠れば、地に九州あり、故に九間を立てる。また『周易』に拠れば、陰の数は十であるから、間を別けて一丈九尺とし、以て厚き地を規模し、陰陽を準則とし、二気を法として基を通じ、九州を一堂に置く。堂の周囲に十二門あり、各門の高さ一丈七尺、広さ一丈三尺である。『禮記』に拠れば、一年に十二月あり、故に十二門を置く。また『周易』に拠れば、陰の数は十、陽の数は七であるから、高さ一丈七尺とする。また曰く、陽の数は五、陰の数は八であるから、広さ一丈三尺とする。以て此の玉燭を調え、彼の金輝に応じ、二気を叶えて循環せしめ、四序を逐って節を迎える。堂の周囲に二十四の窓あり、高さ一丈三尺、広さ一丈一尺、二十三の櫺、二十四の明かり取りである。『史記』に拠れば、天に二十四気あり、故に二十四の窓を置く。また『書經』に拠れば、一年十二月、閏を象るを併せて、故に高さ一丈三尺とする。また『周易』に拠れば、天の数は一、地の数は十であるから、広さ一丈一尺とする。また天の数は九、地の数は十、四時を併せて二十三となるから、二十三の櫺とする。また『周易』に拠れば、八純卦の本体は、二十四爻を合わせるから、二十四の明かり取りがある。窓を列ね窓を疎らにし、風候の気を象り、遠く天地の数を周らしめ、曲く陰陽の和に準ずる。
重楣は二百十六條。『周易』によれば、乾の策は二百十六であるから、二百十六條を置く。これによって『易』の象を規模し、乾元の法を擬し、大衍の深玄に応じ、神策の至数に叶う。大小の節級拱は、総計六千三百四十五。『漢書』によれば、会月の数は六千三百四十五であるから、六千三百四十五枚を置く。これによって遠く三統の文を採り、傍ら会月の数に符し、金儀に契って節を調え、璿暦に偶って時を和す。重幹は四百八十九枚。『漢書』によれば、章月は二百三十五、閏月周回は二百五十四、総じて四百八十九となるから、四百八十九枚を置く。これによって履端の奥義を法とし、挙正の芳猷を象り、暦象を規模し、章・閏を発明する。下璟は七十二枚。『易緯』によれば、七十二候があるから、七十二枚を置く。これによって芳節を式模し、貞候を規取り、昌暦に至和を契し、休期に神数を偶す。上璟は八十四枚。『漢書』によれば、九会の数は七十八。また『荘子』によれば、六合の外は、聖人は存して論ぜず。司馬彪の注に、天地四方を六合という。総じて八十四となるから、八十四枚を置く。これによって二儀を模範し、六合を包羅し、陰陽の数を准会し、気候の源を周通する。枅は六十枚。『漢書』によれば、太歳を推す法に六十があるから、六十枚を置く。これによって歴数を兼該し、陰陽を包括し、甲乙の深微を採り、辰子の玄奥を窮む。連栱は三百六十枚。『周易』によれば、当期の日は三百六十であるから、三百六十枚を置く。これによって周天の度に叶い、当期の日に准え、平分に順って歳を成し、晷運に応じて循環する。小梁は六十枚。『漢書』によれば、六十甲子があるから、六十枚を置く。この虹梁を構え、遥かに鳳暦を規し、傍らに四宇の制を竦め、遥かに六甲の源に符す。〓牽は二百二十八枚。『漢書』によれば、章中は二百二十八であるから、二百二十八枚を置く。これによって長暦の規に応じ、中月の度を象り、広く陰陽の数を綜べ、傍ら寒暑の和を通す。方衡は一十五重。『尚書』によれば、五行の生数は一十有五であるから、十五重を置く。棟を結び間を分ち、五行に法って秘を演じ;楹を疏にし構を疊し、生数に叶って規を成す。南北の大樑は二根。『周易』によれば、太極は両儀を生ずるから、二大樑を置く。乾坤を軌範し、天地を模擬し、玄黄の合徳を象り、覆載を表して生成す。陽馬は三十六道。『易緯』によれば、三十六節があるから、三十六道を置く。これによってこの嘉節を顕し、この貞辰に契い、六気を分けて陰陽を燮え、四象を環らして風雨を調う。椽は二千九百九十根。『漢書』によれば、月法は二千三百九十二、通法は五百九十八、共に二千九百九十となる。これによって推歩の規に偶い、通法の数に合す。ここに疏椽が宇を構うれば、則ち大壮の架斯く隆く、月を積みて年を成せば、則ち会暦の規爽い無きを知る。大梠は両重、重別に三十六條、総計七十二。『淮南子』によれば、太平の時は五日に一風、一年に七十二風あるから、七十二條を置く。これによって瑞暦を通規し、祥風に叶数し、遥かに淳俗の年に符し、遠く休徴の契を則る。飛簷椽は七百二十九枚。『漢書』によれば、子より午に至るまで、その数七百二十九であるから、七百二十九枚を置く。これによって辰象の宏模を採り、周天の至数を法とす。且つ午は陰の本、子は実に陽の源、子午時に分かれば、則ち生成の道自ずから著しく;陰陽徳を合せば、則ち覆載の義茲に隆し。
堂簷の径は二百八十八尺。『周易』によれば、乾の策は二百十六、『易緯』に雲う、年に七十二候あり、合せて二百八十八となるから、径を二百八十八尺とする。これによって乾策を仰ぎ叶え、遠く貞候を承け、和気に順って序を調え、円蓋を擬して照臨す。堂上の棟は、基の上面より去ること九十尺。『周易』によれば、天の数は九、地の数は十、九を以て十に乗ずれば、数は九十に当たるから、基の上面より去ること九十尺とする。これによって上は円清に法り、下は方載に儀し、陰陽の至数に契い、交泰の貞符に叶う。またこの天の九を以て、地の十に乗ずれば、陽唱えて陰和するを象り、乾施して坤成するを法とす。簷は、地より去ること五十五尺。『周易』によれば、大衍の数は五十有五であるから、地より去ること五十五尺とする。これによって大『易』の嘉数を擬し、惟神の至賾を通じ、万象に道合し、三才に理貫す。上は清陽の玉葉を以て之を覆う。『淮南子』によれば、清陽は天と為す、清陽の色を合する。
詔が下された後も、なお群議決せず。高宗の世の終わりまで、創立することができなかった。
黃軒が曆を禦し、万方を合宮に朝す;丹陵が符を握り、四岳を衢室に諮る。有虞は瑞を輯め、総章の号既に存す;大禹は珪を錫し、重屋の名攸に建つ。殷人は命を受け、陽館を置き以て方を弁ず;周室は図を凝らし、明堂を立て以て野を経る。用て能く三極を範囲し、五神を幽賛し、尊祖の懐を展べ、宗祀の典を申す。爰に漢・魏よりし、迨びて周・隋に及ぶも、経始の制は興るも、修広の規は未だ備わらず。朕は庸昧を以て、虔しく厚托を膺け、綴衣の夕に寄せられ、仍幾の前に顧みらる。伏して惟うに、高宗往年、已に陽館に意を属せし故に、京輔の県、預め明堂の名を紀し;改元の期、先ず総章の号を著す。朕は乾封の際、已に表を奉り上塵すと雖も、宸心に簡ぶるも、未だ栄構に遑あらず。今、鼎郊の勝壤、圭邑の奥区、天地の中に処り、陰陽の序に順い、舟車是に湊り、貢賦攸に均し、爰に子来の功を藉り、式に奉先の旨を遵う。
そもそも明堂とは、天子が宗廟祭祀を行う殿堂であり、諸侯を朝見させる場所である。乾坤の奥義を開示し、気象の運行を模倣するものであるから、災害を生ぜず、禍乱を起こさないようにすることができる。この盛大な功業を顧みれば、まことに美しいことではないか。近ごろの碩学や礼官は、それぞれ異なる説を執り、皆、明堂は三里の外、七里の内に置き、都の南の明るい地にあるべきだとしている。今、宮廷に近接しているため、神霊を汚す恐れがあり、確かに政務を布く場所ではあるが、宗祀を行う場所としては適さない。朕は丙巳の地(南東)を選んだが、宮室から遠く離れており、毎月の居住地として、時に応じて祭祀を行い、常に文物を整えるのは煩労が多く、朕の考えでは、まさに適切とは言えない。そこで今、紫掖(宮中)に基を定め、彤闈(宮門)に堂宇を開き、経営を始めて興し、完成は一日ではあるまい。ただ、天地を敬い事えることによって、神明の徳が顕れるのであり、祖宗を尊び祀ることによって、厳粛な恭順の志が発揮されるのである。もし単に政務を布くためだけなら、扆(屏風)を背にして民に臨むのであり、茅葺きの屋根に土の階段で、適当に済ませばよい。どうして必ず百姓の力を労して、九筵の広さを設けて統治する必要があろうか。まことに、蘋や蘩を手に取り、宗廟を虔しく奉るためである。時代は変遷し、誰も従うべき先例がない。我より古を作し、事に適するようにする。今、上堂を厳粛な配祀の場所とし、下堂を政務を布く居所とし、礼の教えを広く敷き、誠敬の心を示す。来年正月一日、明堂において三聖を宗祀し、上帝に配祀すべし。礼官・博士・学士・内外の礼に明るい者に命じ、儀礼を詳細に定め、必ず典拠に従い、速やかに奏上せよ。
臣聞く、古より帝王は皆、美事と悪事があり、吉兆はその徳を昭かにし、災変はその過ちを知らしめる、天道の常理、王者の常事である。されば吉兆が屡々至っても、功を誇って自ら満足すべきではなく、災変が忽然と降っても、軽んじて忽せにし驚かぬべきではない。故に殷の高宗は桑と穀が朝廷に生じたことを畏れて自ら省み、妖は徳に勝たず、遂に中興の功を立てた。辛紂は雀が大鳥を生んだことを恃んで福を自ら盈たし、祥は驕りに勝たず、終に傾亡の禍に至った。故に災変の生ずるは、将に明主を覚悟させ、大業を扶持し、盛んにして衰えざらしめるためであることを知る。理として神の心を畏れ敬い、天の誡めに驚き懼れ、身を飭え事を正し、業業兢兢として、則ち凶去って吉来り、禍を転じて福と為すべきである。昔、殷の湯は身を禱って雨を降らせ、周の成王は事を省みて風を反らせ、宋の公は熒惑の災いを憂えて三舎の寿に応じ、殷の高宗は雊鼎の異を懲りて百年の福を享けた、これがその類である。
陛下が天を承けて物を理め、至道をもって神に事えてより、美しい瑞祥・嘉祥が重なって至り、臣が述べ尽くせぬほどである。先日、人火による変が生じ、神宮を損ない、聖心を驚かせ惕れさせ、黎庶を震動させた。臣謹んで『左伝』に按ずるに、「人火を火と曰い、天火を災と曰う」と。人火は人によって起こる故に、火の体を指して称し、天火は何より起こるか知れぬ故に、直ちに災う所を以て言う。その名は異なれど、害を為すことは別ではない。また『漢書・五行志』に曰く、「火が性を失えば則ち上より降り、及び濫焰妄りに起こり、宗廟を災いし、宮館を焼く」と。上より降るは、所謂天火、濫焰妄りに起こるは、所謂人火。その来りは異なれど、患いを為すことは実に同じである。王者の挙措営為は、必ず幽顕に関わる。幽は天道、顕は人事、幽顕の跡通じ、天人の理合う。今、工匠が宿火を蔵し、元より放燎の心無く、明堂は教化の宮、また延火の所ではない。孽煨(わざわいの火種)潜かに扇がれ、倏忽として災いと成る。雖も人によるとはいえ、また神理に関わる。臣愚かには、火の発するや先ず麻主(柱?)より始まり、後に総章に及んだのは、意、将に営む所の仏舎(天堂)を恐らくは労して益無からんとするにあると思われる。ただその教えを崇めること、即ち是れ津梁(渡し船・橋)である。何ぞ紺宮(仏寺)を仮り、言いて汲引(導き)を存するを要せん。既に明堂の後に僻在し、又前に牲牢の筵(宴席)に逼り、兼ねてその構え崇大にして、功多くして畢え難し。像を立て法を弘むるは、本より黎元を利益せんと擬するも、財を傷い人を役するは、却って且つ家国を煩労す。承前、大風木を摧き、天誡已に顕れ、今者、毒焰冥く熾んにし、人孽復た彰かなり。聖人の動作は、必ず天人の助けを仮る。一たび功役を興せば、二者倶に違い、その応昭然として、殆ど将に此れに縁らんとす。
臣は思うに、明堂は正陽の位にして、至尊の居所であり、礼を展べ常を班ち、化を崇め政を立て、玉帛の朝会、神霊の依憑する所である。これを営むは大功と曰うべく、これを損ずるは実に軽き事に非ず。既に厳禋の所を失い、また孝理の情を傷つけん。陛下は昨明制を降し、なお寅畏の旨を申し給う。群僚は理として兢畏震悚し、勉めて司存すべく、豈に恩を承けて楽に耽り、安然として酺宴すべきや。また下人は聖徳を感荷し、変を睹て憎惶し、神体克く寧んずるは、豈に深く悦ばざらんや。但だ火気初めて止まり、尚多く驚懼し、余憂未だ息まず、遽かに以て歓事を以てこれを遏む。臣は憂喜相争い、情理を傷つくると恐る。故に伝に曰く、「憂うべきにして楽を為すは、憂いを取るの道なり」と。また古に火ある者は、四墉を祭る。四墉は積陰の気なり、これを祈りて以て火災を禳う。火は陽の気なり、歓楽は陽事なり、火気方に勝つ、復た陽事を興すべからず。臣聞く、災変の興るは、至聖も免れず、其の徳を聿修すれば、来患禳うべしと。陛下は制を垂れて博く訪い、至理を陳ぶるを許し給う。而して左史張鼎は「今既に火流れて王屋す、弥に大周の祥を顕わす」と以為い、通事舎人逢敏は奏称して、「弥勒の初めて仏道を成す時、天魔有りて宮を焼き、七宝台須臾にして散壊す」と。斯れ実に諂妄の邪言にして、実に君臣の正論に非ず。王化を晻昧し、万機に益無し。夫れ天道は高しと雖も、其の察すること弥近く、神心は寂しと雖も、其の聴くこと弥聡し。皇王に交際し、事影響に均し。今大風烈火、譴告相仍う、実に天人丁寧に、聖主を匡諭し、便ち鴻基盆固にして、天祿永終の意なり。伏して願わくは、陛下乾乾として慮に在り、翼翼として懐と為し、巨川に渉るが若く、大祭を承くるが如く、其の災を致すの理を審らかにし、其の眚を降すの由を詳らかにし、天人の心を瞢かずして、不急の役を興さしめ給わんことを。則ち兆人頼みを蒙り、福祿窮まり無からん、幸甚幸甚。
謹んで経史の正文を按ずるに、天子の每月告朔の事無し。惟だ『礼記・玉藻』に云く、「天子は朔を南門の外に聴く」と。『周礼・天官・太宰』に、「正月の吉、政を邦国都鄙に布く」と。幹宝注に云く、「周正建子の月、告朔の日なり」と。此れ即ち『玉藻』の聴朔なり。今毎歳首元日、通天宮に於いて朝を受け、時令を読み、政事を布く。京官九品以上・諸州朝集使等咸に庭に列す。此れ則ち聴朔の礼畢りて、『周礼』・『玉藻』の文に合す。而して鄭玄『玉藻』「聴朔」を注し、秦制月令に五帝五官の事有りを以て、遂に云く、「凡そ朔を聴くには、必ず特牲を以て其の時帝及び其の神に告げ、文王・武王を以て配す」と。此れ鄭注の誤りなり。故に漢魏より今に至るまで之を用いる者莫し。按ずるに『月令』に云く「其の帝太昊、其の神勾芒」とは、時令を宣布し、下人に告示し、其の令詞に其の帝其の神と云うのみ。以て敬授の文と為し、人をして其の時に奉りて其の業を務めしめんと欲するなり。每月令有り、故に之を『月令』と謂う。天子が月朔日に祖を以て帝に配して察告するを謂うに非ず。其の每月告朔は、諸侯の礼なり。故に『春秋左氏伝』に曰く、「公既に朔を視し、遂に観台に登る」と。又鄭玄『論語』を注して云く、「礼、人君は每月廟に告朔し、祭有りて之を朝享と謂う。魯は文公より始めて朔を視さず」と。是れ諸侯の礼なること明らかなり。今王者之を行うは、聞く所に非ず。按ずるに鄭の所謂其の帝に告ぐるは即ち太昊等の五人帝、其の神は即ち重黎等の五行官なり。雖並びに功人に施し、祀典に列すと雖も、天子の每月拝祭告朔の文無し。臣等謹んで『礼論』及び『三礼義宗』・『江都集礼』・『貞観礼』・『顕慶礼』及び祠令を検するに、並びに天子の每月告朔の事無し。若し代に明堂無きを以て、故に告朔の礼無しと為すならば、則ち『江都集礼』・『貞観礼』・『顕慶礼』及び祠令に、五方上帝を明堂に祀ることを著すは、即ち『孝経』「文王を明堂に宗祀す」なり。此れ則ち明堂無くして其の享祭を著す、何を以て告朔独り其の文を闕くや。若し君に明堂有れば即ち告朔に合すと為すならば、則ち周・秦に明堂有り。而して経典の正文に、天子の每月告朔の事無し。臣等歴観今古、博く載籍を考うるに、既に其の礼無し、非を習うべからず。望むらくは請う、每月一日の告朔の祭を停め、以て国経を正さんことを。窃かに以て、天子の尊にして諸侯の礼を用うるは、所謂朔を頒ち諸侯に令して奉りて而行わしむの義に非ざるなり。
鳳閣侍郎王方慶また奏議して曰く:
謹んで按ずるに、明堂は天子が政を布く宮殿である。およそ天気に順い、万物を統べ、両儀に法って動き、徳を四海に被らせる所以のものである。夏は世室と曰い、殷は重屋と曰い、周は明堂と曰う。これ三代の名である。明堂は天子の太廟であり、その祖を宗祀して上帝に配する所以のものである。東を青陽と曰い、南を明堂と曰い、西を総章と曰い、北を玄堂と曰い、中を太室と曰う。五つの名があるが、明堂を主とする。漢代の博学で儒学に通じた者は、皆明堂と太廟とを同一のものとした。漢の左中郎将蔡邕が議を立てたのも、また然りと為した。その宗祀を取れば、則ち清廟と謂い、その正室を取れば、則ち太室と謂い、その向陽を取れば、則ち明堂と謂い、その学を建てるを取れば、則ち太学と謂い、その圜水を取れば、則ち辟雍と謂う。名は異なるも事は同じく、古の制である。天子は孟春正月の上辛の日に、南郊において十二月の政を総受し、還って祖廟に蔵し、月毎に一政を取り明堂に班布する。諸侯は孟春の月に、天子に朝して十二月の政を受け、祖廟に蔵し、月毎に一政を取りて之を行なう。およそ陰陽を和し、天道に順う所以である。此くの如くすれば則ち禍乱作らず、災害生ぜざるなり。故に仲尼は美として之を称えて曰く、「明王の孝を以て天下を理むるなり」と。人君が其の礼を以て廟に告ぐるを、則ち告朔と謂い、此の月の政を聴視するを、則ち視朔と謂い、亦た聴朔と曰う。三つの名有りと雖も、其の実は一なり。
今、礼官の議に称して「経史の正文に天子の毎月告朔の事無し」と為す。臣謹んで《春秋》を按ずるに、「文公六年閏十月、告朔せず」と。《穀梁伝》に曰く、「閏は月に附する余日なり、天子は以て告朔せず」と。《左氏伝》に云う、「閏月に告朔せざるは、礼に非ざるなり。閏は以て時を正し、時は以て事を作し、事は以て生を厚くす。生人の道、是に於いて在り。閏朔を告げざるは、時政を棄つるなり」と。臣は此の文に拠れば、則ち天子も閏月に告朔すと為す。寧ぞ他月にして其の礼を廃する者あらんや。博く経籍を考うるに、其の文甚だ著し。何を以て之を明らかにせん。《周礼・太史》の職に云う、「朔を邦国に頒告す。閏月は、王に門に居して終月するを告ぐ」と。又《礼記・玉藻》に云う、「閏月は則ち門の左扉を合せ、其の中に立つ」と。並びに是れ天子の閏月に行なう告朔の事なり。
礼官又た称して、「《玉藻》に『天子は南門の外にて朔を聴く』。《周礼・天官・太宰》に『正月の吉に、政を邦国都鄙に布く』。幹宝の注に云う、『周正建子の月は、告朔の日なり』。此れ即ち《玉藻》の聴朔なり。今、毎歳首の元日、通天宮にて朝を受け、時令を読み、政事を布く。京官九品以上、諸州の朝集使等咸に庭に列す。此れ聴朔の礼畢りて、《周礼》、《玉藻》の文に合するなり。《礼論》及び《三礼義宗》、《江都集礼》、《貞観礼》、《顕慶礼》並びに祠令に、王者の告朔の事無し」と為す。臣謹んで《玉藻》に按ずるに、「玄冕にして東門の外にて日を朝し、南門の外にて朔を聴く」と云う。鄭玄の注に云う、「日を朝するは、春分の時なり。東門、南門は、皆な国門を謂う。明堂は国の陽に在り、毎月其の時の堂に就きて朔を聴き、事卒りて、路寝に反り宿る。凡そ朔を聴くには、必ず特牲を以て其の時の帝及び其の神に告げ、文王、武王を以て配す」と。臣謂う、今の歳首元日、通天宮にて朝を受け、時令を読み及び政を布くは、自是れ古礼の孟春上辛に、十二月の政を受け祖廟に蔵するの礼なる耳。而して月毎に一政を取り、明堂に班するは、其の義昭然たりと雖も、猶ほ未だ行なわれず。即ち礼官の言う如くせば、遂に其の事を闕く。
臣又た《礼記・月令》を按ずるに、天子が毎月青陽、明堂、総章、玄堂に居するは、即ち是れ毎月告朔の事なり。先儒の旧説に、天子の行なう事、一年に十八度明堂に入る:大享は卜を問わず、一入なり;毎月告朔、十二入なり;四時に気を迎う、四入なり;巡狩の年、一入なり。今、礼官が義を立てるに、王は惟だ歳首の一入のみと為す。先儒と既に異なり、臣は敢えて同じくせず。鄭玄云う、「凡そ朔を聴くには其の帝に告ぐ」と。臣愚かに以為う、告朔の日は、則ち五方上帝の一帝なり。春は則ち霊威仰、夏は則ち赤熛怒、秋は則ち白招拒、冬は則ち葉光紀、季月は則ち含樞紐なり。並びに始祖を以て之に配す。人帝及び神は、祀典に列し、亦た其の月に於いて享祭す。魯は文公より始めて朔を視ず。子貢其の礼廃れたるを見て、其の羊を去らんと欲す。孔子は羊存すれば猶ほ其の礼を識る可く、羊亡すれば其の礼遂に廃せんと為し、故に云う、「爾は其の羊を愛す、我は其の礼を愛す」と。
陛下明堂を肇建し、聿に古典に遵い、告朔の礼、猶ほ旧間を闕く。古を欽若稽い、須らく補葺すべし。若し毎月明堂に於いて政を聴かば、事亦た煩数なり。孟月に朔を視るは、恐らく廃す可からず。
帝はまた奉常に命じて多くの儒者を広く集めさせ、王方慶・仁諝の上奏を取り上げ、得失を議定させた。当時の大儒である成均博士の呉揚吾・太学博士の郭山惲が言うには、「臣ら謹んで『周礼』・『礼記』及び『三伝』を按ずるに、いずれも天子の告朔の礼がある。天子が諸侯に告朔を頒つのは、秦の政が『詩』・『書』を焚滅したことにより、これによって告朔の礼は廃れた。今、明堂が初めて建てられ、総章が新たに立てられ、百王の絶えた軌跡を継ぎ、万代の大法を樹てようとしており、上は厳かに祖宗を配祀し、下は謹んで人時に授け、人をして礼楽を知らしめ、道を中和に適わせ、災害を生ぜず、禍乱を作さないようにしようとしている。今もし因循して朔を頒つならば、毎月これに従って行い、礼は時に随うことを貴び、事は沿革を須う。王方慶の議に依り、四時の孟月の日及び季夏に明堂で告朔の礼を修復し、以て天下に頒つことを望む。その帝及び神も、また方慶に依って鄭玄の義を用い、五時帝を明堂上に告げることを請う。そうすれば厳配の道は神明に通じ、至孝の徳は四海に光るであろう。」詔してこれに従った。
明堂の建つことは、その由来遠い。天が象を垂れ、聖人がこれを則る。蒿柱茅簷の規、上円下方の制、大数を考うるに、三七の間を踰えず、方中に定むれば、必ず丙巳の地に居るは、豈に房心の政を布く所を得、太微上帝の宮に当たるを得ざらんや。故に仰いで葉い俯いて従い、名を正し位を定め、人神雑わらず、各々その序を司れば、則ち嘉応響いて至り、太和を保合す。
詔して所司に詳議して奏聞せしむ。
刑部尚書の王志愔らが奏議し、皆この堂の置かれたるは実に典制に乖き、多く改削を請い、旧に依りて乾元殿を造らんとす。乃ち詔して曰く、「古の皇綱を操り大象を執る者は、何ぞ嘗て上は天道を稽へず、下は人極に順はず、或いは変通して時に随ひ、爰に損益して務を成さんや。且つ衢室創制し、堂を筵を以て度り、之を用いて礼神するは、是れ孝享を光し、之を用いて布政するは、蓋し視朔を称す。先王の人倫を厚くし天地を感ずる所以なり。少陽位有り、上帝斯に歆む。此れ則ち神は黷せざるを貴び、礼は至敬に殷し。今の明堂は、宮掖に俯鄰す。此の厳祀は、肅恭に異なり。苟も憲章に非ずんば、将に何を以て物を軌せん。是れ由りて礼官博士・公卿大夫、広く群議に参じ、前古に欽若し、露寝の式を存すべく、用いて辟雍の号を罷むべし。乾元殿と改むべく、臨禦する毎に正殿の礼に依るべし。」ここより駕東都に在り、常に元日冬至に乾元殿にて朝賀を受く。季秋の大享祀は、旧に依りて円丘にて事を行ふ。十年、再び乾元殿を題して明堂と為すも、享祀の礼を行はず。二十五年、駕西京に在り、詔して将作大匠の康紵素をして東都に往きて之を毀たしむ。紵素は毀拆人を労するを以て、乃ち奏請して且く上層を拆ち、旧制より九十五尺卑くす。又柱心木を去り、平座上に八角楼を置き、楼上に八龍有り、身を騰して火珠を捧ぐ。又旧制より小さく、周圍五尺、真瓦を以て覆ひ、其の永逸を取る。旧に依りて乾元殿と為す。