舊唐書

巻022

巻022

舊唐書

原文舊唐書

卷二十二

原文卷二十二

志第二 禮儀 二

原文志第二 禮儀 二

隋の文帝の開皇年間、将作大匠の宇文愷が『月令』に依拠して明堂の木製模型を造り献上した。帝は有司に命じて京城の安業里内にその地を区画させたが、まさに建立を崇めようとしたところ、諸儒の議論が定まらず、ついに議論は中止された。煬帝の時、愷は再び明堂の木製模型と議状を献上したが、遷都と工事が重なり、事はまたも成就しなかった。隋代を通じて、季秋の大享は常に雩壇で祭祀を行った。

原文隋文帝開皇中,將作大匠宇文愷依《月令》造明堂木樣以獻。帝令有司于京城安業裏內規兆其地,方欲崇建,而諸儒爭論不定,竟議罷之。煬帝時,愷復獻明堂木樣並議狀,屬遷都興役,事又不就。終於隋代,季秋大享,恆在雩壇設祀。

高祖こうそが禅譲を受けたが、儀礼を創る暇がなかった。太宗が天下を平定し、儒官に命じてその制度を議させた。貞観五年、太子中允の孔穎達は諸儒の立てた議が古制に背くとし、上言して言うには、「臣が謹んで以前の詔勅を尋ねますに、礼部尚書の盧寛、国子助教の劉伯荘らの議に依拠し、『崑崙道から上層に登って天を祭る』と為しております。また後の詔勅を尋ねますに、『左右に閣道を設け、楼に登って祭祀を行う』とあります。臣が六経群書百家諸史を検討しますに、皆、基壇の上を堂と称し、楼の上を観と称し、重楼の上に堂の名があるとは聞きません。『孝経』に云う、『文王を明堂で宗祀す』。明楼、明観とは云わず、その意義は同じです。また明堂は天を法とし、聖王は倹を示され、あるいは蒿を剪って柱とし、茅を葺いて蓋とした。古今で制度が異なるとはいえ、常にそうであるべきではなく、依然として大典に依拠し、ただ質素にあるべきです。それ故に筵は藁や稈を用い、器は陶器や瓢を尊び、繭や栗を用いて誠を貴び、大裘を服して倹を訓えるのです。今もし飛楼に道を架け、綺閣が雲を凌ぐならば、古を考うる文に照らせば、実に疑念を抱かざるを得ません。『郊祀志』を按ずるに、漢の武帝の明堂の制度は、四面に壁がなく、上を茅で覆った。五帝を上座で祭り、後土を下防で祀った。臣は上座こそが基壇の上であり、下防はただ基壇の下であると考えます。既に四壁なしと云うのに、伯荘が何を以て上層で神を祭り、下に五室があると知ったのか、未だ審らかではありません。かつ漢の武帝の為したことは、多く方士の説を用い、経に背き正に反し、師祖とすべきではありません。また盧寛らの議に云う、上層で天を祭り、下堂で政を布き、人と神の位を別にし、事を相い干渉させないようにしたい、と。臣は考えますに、古は大事を敬重し、神と接することに似ていた。それ故に朝覲や祭祀は皆、廟堂で行われた。どうして楼上で祖を祭り、楼下で朝政を見るなどということがありましょうか。閣道で楼に昇れば、道は狭く隘かであり、輦に乗れば神を接するのに敬がなく、歩いて往けば聖躬を労することになります。侍衛が傍らにあり、百司が供奉します。典誥に求めても、全くこのような道理はありません。臣は敢えて愚見を固執して、己の長を求めようとするのではありません。謹んで考えますに、国の大典は慎重でなければなりません。どうか臣の言葉を群臣に下して詳しく議論させてください」。侍中の魏征が議して言うには、「古訓を稽え、旧図を参酌すれば、その上円下方、複廟重屋は、百の慮りが一致し、異なる轍が同じ所に帰する。当塗(魏)が符命を受けても、この礼に遑がなく、典午(晋)が興っても、取るべき則がなかった。裴頠は諸儒の持論が異端蜂起し、是非が入り乱れ、従うべき所を知らず、遂に人を以て言を廃し、ただ一殿に止めた。宋、斉は即ちその旧を仍い、梁、陳はこれに遵って改めなかった。厳かな配享する所はあっても、祭祀は欠けなかったが、典則に求めれば、道は実に弘まっていない。孝は心より生じ、礼は情に縁って立つ。心は極めることができない故に、物を備えてその誠を表し、情は尽くすことができない故に、宮を飾ってその敬を広める。宣尼(孔子)の美しい意図は、ここにあるのではないか。臣らは親しく徳音を奉じ、大議に参ずることを命ぜられ、塵露を竭くす思いで、山海を微かに増すことを考えます。凡そ聖人が作有するものは、意義は時に随うことを重んじ、万物はこれを見るのであり、事は通変に資する。もし蔡邕の説に拠れば、至理は文の繁雑に失い、もし裴頠の為したことに依れば、また質朴簡略に傷つく。情理に求めれば、その中に允当ではない。今の議は、用捨がないわけではない。五室の重屋と為し、上円下方と請う。既に形体に則象があり、また事柄に故実が多い。下室は布政の居を備え、上堂は祭天の所と為し、人神が雑じらず、礼もまたこれに宜しい。その高下広袤の規、几筵尺丈の制は、則ち並びに時に随って法を立て、事に因って宜しきを制す。我より作り起こすのであり、何ぞ必ずしも古に師せん。千載の疑議を廓清し、百王の懿範と為す。泰山の下に、ただ黄帝の法を聞くのみにせず、汶水の上に、独り漢武の図を称するのみにさせない。則ち神明に通じ、庶幾く可俟つべく、民が子の如く来て経始し、日を成さずして完成するであろう」。議はなお決しなかった。

原文高祖受禪,不遑創儀。太宗平定天下,命儒官議其制。貞觀五年,太子中允孔穎達以諸儒立議違古,上言曰:「臣伏尋前敕,依禮部尚書盧寬、國子助教劉伯莊等議,以為'從昆侖道上層祭天'。又尋後敕云:'為左右閣道,登樓設祭。'臣檢六藝群書百家諸史,皆名基上曰堂,樓上曰觀,未聞重樓之上而有堂名。《孝經》云:'宗祀文王於明堂'。不雲明樓、明觀,其義一也。又明堂法天,聖王示儉,或有翦蒿為柱,葺茅作蓋。雖復古今異制,不可恆然,猶依大典,惟在樸素。是以席惟颭秸,器尚陶匏,用繭栗以貴誠,服大裘以訓儉,今若飛樓架道,綺閣淩雲,考古之文,實堪疑慮。按《郊祀志》:漢武明堂之制,四面無壁,上覆以茅。祭五帝於上座,祀後土於下防。臣以上座正為基上,下防惟是基下。既雲無四壁,未審伯莊以何知上層祭神,下有五室?且漢武所為,多用方士之說,違經背正,不可師祖。又盧寬等議云:上層祭天,下堂布政,欲使人神位別,事不相干。臣以古者敬重大事,與接神相似,是以朝覲祭祀,皆在廟堂,豈有樓上祭祖,樓下視朝?閣道升樓,路便窄隘,乘輦則接神不敬,步往則勞勩聖躬。侍衛在旁,百司供奉。求之典誥,全無此理。臣非敢固執愚見,以求己長。伏以國之大典,不可不慎。乞以臣言下群臣詳議。」侍中魏征議曰:「稽諸古訓,參以舊圖,其上圓下方,復廟重屋,百慮一致,異軫同歸。洎當塗膺籙,未遑斯禮;典午聿興,無所取則。裴頠以諸儒持論,異端蜂起,是非舛互,靡所適從,遂乃以人廢言,止為一殿。宋、齊即仍其舊,梁、陳遵而不改。雖嚴配有所,祭享不匱,求之典則,道實未弘。夫孝因心生,禮緣情立。心不可極,故備物以表其誠;情無以盡,故飾宮以廣其敬。宣尼美意,其在茲乎!臣等親奉德音,令參大議,思竭塵露,微增山海。凡聖人有作,義重隨時,萬物斯睹,事資通變。若據蔡邕之說,則至理失于文繁;若依裴頠所為,則又傷於質略。求之情理,未允厥中。今之所議,非無用舍。請為五室重屋,上圓下方,既體有則象,又事多故實。下室備布政之居,上堂為祭天之所,人神不雜,禮亦宜之。其高下廣袤之規,几筵尺丈之制,則並隨時立法,因事制宜。自我而作,何必師古。廓千載之疑議,為百王之懿範。不使泰山之下,惟聞黃帝之法;汶水之上,獨稱漢武之圖。則通乎神明,庶幾可俟,子來經始,成之不日。」議猶未決。

十七年五月、秘書監の顔師古が議して言うには、

原文十七年五月,秘書監顏師古議曰:

明堂の制度は、古昔より始まり、簡牘に求めても、全文は見られない。黄帝に始まり、有虞氏に下り、夏、殷を歴て、周代に至るまで、各々名号を立て、別に規模を創った。衆説は舛駁し、互いに所見を執り、巨儒碩学といえども、詳しく通じた者はない。斐然として章を成すも、裁断を知らない。その指要を究めれば、実に布政の宮である。ただ戦国時代の縦横に、典籍は廃棄され、暴秦の酷烈に、経礼は湮滅した。今存するものは、伝記雑説であり、これを以て準的と為すのは、理実に蕪昧である。然るに『周書』の明堂を叙するものは、その四面を記し、則ち応門、雉門があり、この一堂に拠れば、固より王者の常居である。その青陽、総章、玄堂、太廟及び左个、右个は、四時の次と同じであり、則ち路寝の意義が、明証として足りる。また『文王居明堂』の篇には、弓〓蜀しょくを帯び、高禖に祠る。下九門で磔禳を行って疾疫を防ぎ、梁を置き道を除いて農夫に利し、国に酒あらしめて三族を合わせる、とある。凡そこの等の事は、皆『月令』の文に合致する。その為す所を観れば、皆路寝にあるものである。『戴礼』に、「昔、周公が諸侯を明堂の位で朝した時、天子は斧扆を負って南面して立った。明堂とは、諸侯の尊卑を明らかにするものである」とある。『周官』にもまた云う、「周人の明堂は、九尺の筵を度り、東西九筵、堂は一筵」。その制度に拠れば、即ち大寝である。『屍子』もまた曰く、「黄帝は合宮と曰い、有虞氏は総章と曰い、殷は陽館と曰い、周は明堂と曰う」。これらは皆、路寝の徴であり、別の処ではないことを知る。大戴の説く所は、初めに近郊の言があり、また文王の廟と称し、進退拠る所なく、自ら矛盾している。そもそも扆を負って朝を受け、常に居出入りするのは、既に皋庫の内にあるのであり、何ぞまた郊野にあると云えようか。『孝経伝』に云う「国の陽にある」と、また里数はない。

原文明堂之制,爰自古昔,求之簡牘,全文莫睹。始之黃帝,降及有虞,彌曆夏、殷,迄于周代,各立名號,別創規模。眾說舛駁,互執所見,巨儒碩學,莫有詳通。斐然成章,不知裁斷。究其指要,實布政之宮也。徒以戰國縱橫,典籍廢棄;暴秦酷烈,經禮湮亡。今之所存,傳記雜說,用為准的,理實蕪昧。然《周書》之敘明堂,紀其四面,則有應門、雉門,據此一堂,固是王者之常居耳。其青陽、總章、玄堂、太廟及左個、右個,與四時之次相同,則路寢之義,足為明證。又《文王居明堂》之篇:帶以弓〓蜀,祠于高禖。下九門磔禳以禦疾疫,置梁除道以利農夫,令國有酒以合三族。」凡此等事,皆合《月令》之文。觀其所為,皆在路寢者也。《戴禮》:「昔周公朝諸侯于明堂之位,天子負斧扆南向而立。明堂也者,明諸侯之尊卑也。」《周官》又雲「周人明堂,度九尺之筵,東西九筵,堂一筵。」據其制度,即大寢也。《屍子》亦曰:「黃帝曰合宮,有虞氏曰總章,殷曰陽館,周曰明堂。」斯皆路寢之征,知非別處。大戴所說,初有近郊之言,復稱文王之廟,進退無據,自為矛盾。原夫負扆受朝,常居出入,既在皋庫之內,亦何雲於郊野哉?《孝經傳》雲「在國之陽」,又無里數。

漢の武帝は創建の志を抱き、紳士に諮問したが、議論は紛然として、ついに定説を得ず、汶水のほとりに立って宗祀を行った。これは遠近に拘らず、方位を選ばないことを明らかにしたのである。孝成帝の代には、城南に表を立てて行ったが、その文はあっても、その功は成らなかった。平帝の元始四年、大いに営創を議した。孔牢らは明堂・辟雍・太学は実は一つであり、三つの名があるに過ぎないとした。金襃らはまた経伝に文がなく、同異を分別できないと称した。中興の後、蔡邕が論を作り、また明堂太廟は一物二名であると言った。鄭玄は則ち「国の陽、三里の外」と言い、淳于登はまた「三里の外、七里の内、丙巳の地」と言った。潁容の『釈例』もまた「明堂太廟、凡そ八名有り、その体は一なり」と言う。苟くも同異を立てて、巧説を競い、並びに胸懐より出で、曾て師祖無し。功成りて楽を作り、理定まりて礼を制すことを審らかにすれば、草創は宜しきに従い、質文は変わりて行く。旌旗冠冕は古今同じからず、律度権衡は前後一ならず、時に随うの義、断じて知るべし。仮令周公の旧章と雖も、猶おその可否を択ぶべく、宣尼の彝則も、尚おその闕漏を補わんとす。況んや鄭氏の臆説、淳于の謏聞、株を守るに異ならず、何ぞ柱を膠するに殊ならん。愚謂う、墉雉を出でず、邇く宮闈に接すれば、実に事宜に允り、諒い惑う所無からんと。但だ上は天旨を遵い、祗びて徳音を奉じ、皇代の明堂を作り、永く来葉に范を貽すべし。区区の碎議は、皆略して論ぜず。

原文漢武有懷創造,詢於搢紳,言論紛然,終無定據,乃立于汶水之上而宗祀焉,明其不拘遠近,無擇方面。孝成之代,表行城南,雖有其文,厥功靡立。平帝元始四年,大議營創。孔牢等乃以為明堂、辟雍、太學,其實一也,而有三名。金褒等又稱經傳無文,不能分別同異。中興之後,蔡邕作論,復雲明堂太廟,一物二名。鄭玄則曰:「在國之陽,三里之外。」淳於登又云:「三里之外,七里之內,丙巳之地。」潁容《釋例》亦云:「明堂太廟,凡有八名,其體一也。」苟立同異,競為巧說,並出自胸懷,曾無師祖。審夫功成作樂,理定制禮,草創從宜,質文遞變。旌旗冠冕,古今不同,律度權衡,前後不一,隨時之義,斷可知矣。假如周公舊章,猶當擇其可否;宣尼彝則,尚或補其闕漏。況鄭氏臆說,淳于謏聞,匪異守株,何殊膠柱?愚謂不出墉雉,邇接宮闈,實允事宜,諒無所惑。但當上遵天旨,祗奉德音,作皇代之明堂,永貽范于來葉。區區碎議,皆略而不論。

また上表して曰く、「明堂の制、陛下既に徳音を発し、久しく詳議を令す。但だ学者の専固を以てし、人人言を異にし、損益同じからず、是非定まらず。臣愚、五帝の後、両漢以前は、高下方円皆相襲わずと為す。惟だ陛下の聖情創造に在り、即ち大唐の明堂と為し、以て万代に伝うるに足れり。何ぞ必ずしも戸牖の多少を論じ、階庭の広狭を疑わん。若し恣に儒者をして一端を互いに説かしめ、久しく断決無くんば、徒らに盛礼を稽えしむるのみ。昔、漢武、封禅の儀を草せんと欲し、博望諸生、説く所同じからず、孰れ是なるかを知る莫し。唯だ御史大夫倪寛、上を勧めて自ら制度を定めしめ、遂に登封の礼を成せり。臣の愚誠も亦た陛下の繁省を斟酌し、其の節文を為し、謙拒して以て大典を淹らせざらんことを望む」と。尋いで遼海に事有るを以て、未だ営創に暇あらず。

原文又上表曰:「明堂之制,陛下已發德音,久令詳議。但以學者專固,人人異言,損益不同,是非莫定。臣愚以為五帝之後,兩漢已前,高下方圓,皆不相襲。惟在陛下聖情創造,即為大唐明堂,足以傳於萬代,何必論戶牖之多少,疑階庭之廣狹?若恣儒者互說一端,久無斷決,徒稽盛禮,昔漢武欲草封禪儀,博望諸生,所說不同,莫知孰是。唯御史大夫倪寬勸上自定制度,遂成登封之禮。臣之愚誠,亦望陛下斟酌繁省,為其節文,不可謙拒,以淹大典。」尋以有事遼海,未暇營創。

永徽二年七月二日、勅して曰く、「上玄は幽く賛し、崇高にして言わず。皇王は象を提げ、神功に代わりて物を理む。是れ五精徳に降り、爰に帝者の尊に応ずるを知る。九室文を垂れ、用て処天の業を紀す。且つ合宮・霊府は、上代に鴻規を創め、太室・総章は、中葉に茂范を標す。質文制を殊にし、奢倹時を異にすと雖も、然れども其れ天中に立ち、人極を作し、政を布き教を施すは、其の帰一揆なり。朕、下武を嗣ぎ膺け、上烈を丕承し、眷上霊に答うる所以を思い、聿て孝享に遵わんとす。而るに法宮礼を曠くし、明堂構を寝す。今国家四表虞無く、人和し歳稔る。范を作り訓を垂るるは、今なり其の時なり。宜しく所司をして礼官学士等と故事を考核せしめ、得失を詳議し、務めて典礼に依り、明堂を造立せしむべし。庶幾くは曠代の闕文、茲の日に獲申し、心に因り敬を展べ、永く後昆に垂れん。其の明堂制度は、諸曹尚書及び左右丞侍郎・太常・国子秘書官・弘文館学士に令し同共詳議せしめよ」と。

原文永徽二年七月二日,敕曰:「上玄幽贊,崇高而不言;皇王提象,代神功而理物。是知五精降德,爰應帝者之尊;九室垂文,用紀處天之業。且合宮、靈府,創鴻規於上代;太室、總章,標茂范於中葉。雖質文殊制,奢儉異時,然其立天中,作人極,布政施教,其歸一揆。朕嗣膺下武,丕承上烈,思所以答眷上靈,聿遵孝享,而法宮曠禮,明堂寢構。今國家四表無虞,人和歲稔,作範垂訓,今也其時。宜令所司與禮官學士等考核故事,詳議得失,務依典禮,造立明堂。庶曠代闕文,獲申於茲日;因心展敬,永垂於後昆。其明堂制度,令諸曹尚書及左右丞侍郎、太常、國子秘書官、弘文館學士同共詳議。」

ここにおいて太常博士柳宣は仍って鄭玄の義に拠り、明堂の制は五室と為すべしと為す。内直丞孔志約は『大戴礼』及び盧植・蔡邕等の義に拠り、九室と為すべしと為す。曹王友趙慈皓・秘書郎薛文思等各明堂図を造る。諸儒紛争し、互いに同じからず。上初め九室の議を是と為し、乃ち所司に形制及び辟雍門闕等を詳定せしむ。

原文於是太常博士柳宣仍鄭玄義,以為明堂之制,當為五室。內直丞孔志約據《大戴禮》及盧植、蔡邕等義,以為九室。曹王友趙慈皓、秘書郎薛文思等各造明堂圖。諸儒紛爭,互有不同。上初以九室之議為是,乃令所司詳定形制及辟雍門闕等。

明年六月、内より九室様を出だし、仍って更に有司に損益せしむ。有司奏言す。

原文明年六月,內出九室樣,仍更令有司損益之。有司奏言:

内様:堂基三重、毎基階各十二。上基方九雉、八角、高一尺。中基方三百尺、高一筵。下基方三百六十尺、高一丈二尺。上基は黄琮に象り、八角と為し、四面に十二階を安ず。請う、内様に従いて定めと為さん。基の高下は仍って周制に准い高九尺とし、其の方共に司に約し准えて一百四十八尺と作す。中基下基は、望むらくは並びに用いず。又内様:室各々方三筵、四闥・八窓を開く。屋円楣径二百九十一尺。按ずるに季秋大饗五帝、各々一室に在り、商量便ならず。請う、両漢の季秋合饗に依い、総べて太室に於てせん。若し四時迎気の祀は、則ち各々其の方の室に於てせん。其の九室を安置するの制は、明堂故事を増損し、三三相重ぬ。太室は中央に在り、方六丈。其の四隅の室を左右房と謂い、各方二丈四尺。太室の四面に当たり、青陽・明堂・総章・玄堂等の室は、各長六丈、以て太室に応じ、闊二丈四尺、以て左右房に応ず。室間並びに巷を通じ、各広一丈八尺。其の九室並びに巷は堂上に在り、総方一百四十四尺、坤の策に法る。屋円楣・楯・簷は、或いは未だ允ならざるか。請う、鄭玄・盧植等の説に拠り、前梁を以て楣と為し、其の径二百一十六尺、乾の策に法る。円柱旁より九室四隅に出で、各七尺、天を以て七を紀するに法る。柱外余基は、節を司に約し准え面別各余一丈一尺。内様:室別に四闥・八窓、古と同じきを検す。請う、依りて定めと為さん。其の戸は古に依り外に設けて開かず。内様:外に柱三十六有り、毎柱十梁。内に七間有り、柱根以上より梁に至るまで高三丈、梁以上より屋峻起に至るまで、計高八十一尺。上円下方、飛簷規に応ず。請う、内様に依りて定めと為さん。其の屋蓋の形制は、仍って望むらくは『考工記』に拠り四阿と改め、並びに礼に依り重簷を加え、太廟に准え鴟尾を安ぜん。堂四向五色、請う『周礼』白盛に依り便と為さん。其の四向は各々方色に随う。請う、四垣及び四門を施さん。

原文內樣:堂基三重,每基階各十二。上基方九雉,八角,高一尺。中基方三百尺,高一筵。下基方三百六十尺,高一丈二尺。上基象黃琮,為八角,四面安十二階。請從內樣為定。基高下仍請准周制高九尺,其方共作司約准一百四十八尺。中基下基,望並不用。又內樣:室各方三筵,開四闥、八窗。屋圓楣徑二百九十一尺。按季秋大饗五帝,各在一室,商量不便,請依兩漢季秋合饗,總於太室。若四時迎氣之祀,則各于其方之室。其安置九室之制,增損明堂故事,三三相重。太室在中央,方六丈。其四隅之室,謂之左右房,各方二丈四尺。當太室四面,青陽、明堂、總章、玄堂等室,各長六丈,以應太室;闊二丈四尺,以應左右房。室間並通巷,各廣一丈八尺。其九室並巷在堂上,總方一百四十四尺,法坤之策。屋圓楣、楯、簷,或為未允。請據鄭玄、盧植等說,以前梁為楣,其徑二百一十六尺,法乾之策。圓柱旁出九室四隅,各七尺,法天以七紀。柱外餘基,節作司約准面別各餘一丈一尺。內樣:室別四闥、八窗,檢與古同,請依為定。其戶依古外設而不開。內樣:外有柱三十六,每柱十梁。內有七間,柱根以上至梁高三丈,梁以上至屋峻起,計高八十一尺。上圓下方,飛簷應規,請依內樣為定。其屋蓋形制,仍望據《考工記》改為四阿,並依禮加重簷,准太廟安鴟尾。堂四向五色,請依《周禮》白盛為便。其四向各隨方色。請施四垣及四門。

辟雍は、『大戴礼』及び前代の説に按ずるに、辟雍は多く水広・内径の数無し。蔡邕云く「水広二十四丈、外に周る」と。『三輔黄図』云く「水広四周」と、蔡邕と異ならず、仍って云く「水外周堤」と。又張衡『東京賦』称す「舟を造りて梁と為す」と。『礼記・明堂位』・『陰陽録』云く「水左旋して以て天に象る」と。商量す、水広二十四丈は、恐らくは闊に傷つけん。今請う、減じて二十四歩と為し、垣外量り取り周足せしめん。仍って故事に依り舟を造りて梁と為し、其の外周を以て円堤とし、並びに『陰陽』の「水行左旋」の制を取らん。

原文辟雍,按《大戴禮》及前代說,辟雍多無水廣、內徑之數。蔡邕云:「水廣二十四丈,四周於外。」《三輔黃圖》雲「水廣四周」,與蔡邕不異,仍雲「水外周堤」。又張衡《東京賦》稱「造舟為梁」。《禮記·明堂位》、《陰陽錄》云:「水左旋以象天。」商量水廣二十四丈,恐傷於闊,今請減為二十四步,垣外量取周足。仍依故事造舟為梁,其外周以圓堤,並取《陰陽》「水行左旋」之制。

殿垣は、『三輔黄図』に按ずるに、殿垣四周方水内に在り、高く日を蔽わず、殿門殿を去ること七十二歩。今の行事陳設に准うるも、猶恐らくは窄小ならん。其の方垣四門堂を去る歩数は、請う、太廟南門廟基を去る遠近を准え制と為さん。仍って四門八観を立て、太廟門に依り別に各三門を安じ、玄閫を施し、四角に三重の魏闕を造らん。

原文殿垣,按《三輔黃圖》,殿垣四周方在水內,高不蔽日,殿門去殿七十二步。准今行事陳設,猶恐窄小。其方垣四門去堂步數,請准太廟南門去廟基遠近為制。仍立四門八觀,依太廟門別各安三門,施玄閫,四角造三重魏闕。

その後、群儒が紛然として競い、各々異なる議論を執る。尚書左僕射于志寧らは九室を請い、太常博士唐〓〓らは五室を請う。高宗は観徳殿において両議に依って張設せしめ、親しく公卿とともに之を観る。帝曰く、「明堂の礼は、古よりこれ有り。議する者同じからず、未だ果たして営建せず。今両議を設く、公らは何れを以て宜しと為すや」と。工部尚書閻立德対えて曰く、「両議同じからず、倶に典故有り。九室は暗きに似、五室は明らかなるに似たり。取捨の宜しきは、断じて聖慮に在り」と。上は五室を以て便と為し、議また定まらず、ここに由りて且く止む。

原文此後群儒紛競,各執異議。尚書左僕射于志寧等請為九室,太常博士唐〓〓等請為五室。高宗令於觀德殿依兩議張設,親與公卿觀之。帝曰:「明堂之禮,自古有之。議者不同,未果營建。今設兩議,公等以何者為宜?」工部尚書閻立德對曰:「兩議不同,俱有典故。九室似暗,五室似明。取捨之宜,斷在聖慮。」上以五室為便,議又不定,由是且止。

乾封二年二月に至り、詳議略く定まり、乃ち詔を下して曰く、「朕は寡薄を以て、忝くも丕緒を承く。二聖の遺訓を奉じ、億兆を撫して以て初臨し、朽を馭するに兢きて懐い、溝を推するを念う。而して上玄は祐を垂れ、宗社は休を降し、歳稔り時和し、人殷く俗阜し。車書混一し、文軌大同す。玉を検め金を泥し、中に升りて禅に告げ、百蛮は贄を執り、万国は庭に来たり、朝野倶に娛しみ、華夷胥に悦ぶ。但だ郊禋厳配と為すに、未だ太室に安からず、布政施行するも、猶お合宮を闕く。朕の日に昃て疲れを忘れ、中宵に寝を輟むる所以は、墳籍を討論し、群言を錯綜し、三代の精微を采り、九皇の至賾を探り、前載を斟酌し、明堂を製造せんが為なり。棟宇方円の規は、故実を兼ぬと雖も、度筵陳俎の法は、独り財成を運らす。内外に宣べ、博く考へ詳しく議し、其の長短を求め、冀くは異聞を広めんとす。而して鴻生碩儒は、倶に尽善と称し、搢紳士子は、並びに該通を奏す。此の宏模を創るは、我より古を作す。心に因りて既に展べ、情礼獲て伸ぶ、永く宗祀を言う、良く深く感慰す。宜しく有司に命じ、時に起作し、務め折中に従い、朕が意に称せしむべし」と。ここに於て大いに天下を赦し、元を改めて総章と為し、万年を分けて明堂県を置く。明年三月、又規制の広狭を具えて、詔を下して曰く、

原文至乾封二年二月,詳宜略定,乃下詔曰:「朕以寡薄,忝承丕緒。奉二聖之遺訓,撫億兆以初臨,馭朽兢懷,推溝在念。而上玄垂祐,宗社降休,歲稔時和,人殷俗阜。車書混一,文軌大同。檢玉泥金,升中告禪,百蠻執贄,萬國來庭,朝野俱娛,華夷胥悅。但為郊禋嚴配,未安太室,布政施行,猶闕合宮。朕所以日昃忘疲,中宵輟寢,討論墳籍,錯綜群言,采三代之精微,探九皇之至賾,斟酌前載,製造明堂。棟宇方圓之規,雖兼故實;度筵陳俎之法,獨運財成。宣諸內外,博考詳議,求其長短,冀廣異聞。而鴻生碩儒,俱稱盡善,搢紳士子,並奏該通。創此宏模,自我作古。因心既展,情禮獲伸,永言宗祀,良深感慰。宜命有司,及時起作,務從折中,稱朕意焉。」於是大赦天下,改元為總章,分萬年置明堂縣。明年三月,又具規制廣狹,下詔曰:

合宮に朔を聴くは、皇軒の茂範を闡く;霊府通和するは、帝勲の景化を敷く。殷人の陽館は、青珪礼を備え;姫氏の玄堂は、彤璋献を合す。運は驪り翰に殊なり、時は質文に変ると雖も、天中に立ち、皇極を建て、物に軌し教を施すに至りては、其の帰一揆なり。図を汶上に考うるも、僅かに公玉の儀を存し;室を圭躔に度るも、才だ中元の制を紀す。炎精の駕に墜つに属し、睿宮の籥を毀ち、四海は沸鼎に淪し、九土は塗原に陷る。高祖太武皇帝は鉞を唐郊に杖ち、鈐を雍野に収め、祥符を蒼水に納れ、霊命を丕山に受く。飛沈沫を泳ぎ、動植源に遊ぶ。太宗文皇帝は盟津に誓いを光らし、降火に協して壇に登り;豊谷に蛇を断ち、屯雲に応じて旅を鞠む。金を封じて嶺に貸し、累聖の鴻勳を昭かにし;石を勒して丸都に成し、文考の先志を成す。固より以て明堂に化を作し、太室に庸を顕わすべし。傍らに八柱を羅し、周りに四門を建て、木工琢まず、土事文無く、豊約折衷し、経始亟めず、闕文斯く備わり、大礼聿く修まる。

原文合宮聽朔,闡皇軒之茂範;靈府通和,敷帝勳之景化。殷人陽館,青珪備禮;姬氏玄堂,彤璋合獻。雖運殊驪翰,時變質文,至於立天中,建皇極,軌物施教,其歸一揆。考圖汶上,僅存公玉之儀;度室圭躔,才紀中元之制。屬炎精墜駕,睿宮毀籥,四海淪於沸鼎,九土陷於塗原。高祖太武皇帝杖鉞唐郊,收鈐雍野,納祥符于蒼水,受靈命於丕山。飛沈泳沫,動植遊源。太宗文皇帝盟津光誓,協降火而登壇;豐谷斷蛇,應屯雲而鞠旅。封金貸嶺,昭累聖之鴻勳;勒石丸都,成文考之先志。固可以作化明堂,顯庸太室。傍羅八柱,周建四門,木工不琢,土事無文,豐約折衷,經始勿亟,闕文斯備,大禮聿修。

其の明堂院は毎面三百六十歩、當中に堂を置く。『周易』に按ずるに、乾の策二百一十有六、坤の策一百四十有四、総じて三百六十と成る、故に方三百六十歩。當中に堂を置き、二儀の中に処り、三才の本を定め、茲の一宇を構え、此の万方に臨む。院を降りて毎面三門、同じく一宇と為し、五間に徘徊す。『尚書』に按ずるに、一期に四時有り、故に四面各一所門を開く;毎時に三月有り、故に毎一所に三門を開く;一期に十有二月有り、故に周回総じて十二門。所以に面別に一門、茲の四序に応じ、既に一時にして三月を統ぶ、故に一舍に於て三門を置く。又『周易』に三は陽数、二は陰数、合して五と為す、所以に毎門舍五間。院の四隅各々重楼を置き、其の四墉各々本方の色に依る。『淮南子』に按ずるに、地に四維有り、故に四楼。又『月令』に按ずるに、水・火・金・木・土五方各々色を異にす、故に其の牆各々本方の色に依る。

原文其明堂院每面三百六十步,當中置堂。按《周易》乾之策二百一十有六,坤之策一百四十有四,總成三百六十,故方三百六十步。當中置堂,處二儀之中,定三才之本,構茲一宇,臨此萬方。自降院每面三門,同為一宇,徘徊五間。按《尚書》,一期有四時,故四面各一所開門;每時有三月,故每一所開三門;一期十有二月,故周回總十二門。所以面別一門,應茲四序,既一時而統三月,故於一舍而置三門。又《周易》三為陽數,二為陰數,合而為五,所以每門舍五間。院四隅各置重樓,其四墉各依本方色。按《淮南子》,地有四維,故四樓。又按《月令》,水、火、金、木、土五方各異色,故其牆各依本方之色。

基は八面、八方を象る。『周礼』に「黄琮地を礼す」と。鄭玄注す:琮は八方の玉、以て地形を象る、故に以て地を祀る。則ち地形八方なるを知る。又『漢書かんじょ』に按ずるに、武帝八觚の壇を立て以て地を祀る。地に登るの壇、形地に象る、故に八方の基と為し、以て地形を象らしむ。基の高さ一丈二尺、径二百八十尺。『漢書』に按ずるに、陽は六律と為し、陰は六呂と為す。陽と陰合う、故に高さ一丈二尺。又『周易』に按ずるに、三は陽数、八は陰数。三八相乘じ、二百四十尺を得。『漢書』に按ずるに、九会の数四十有り、合して二百八十と為す、所以に基径二百八十尺。故に以て天地の和を通交し、陰陽の数を錯綜す。以て陽は独り運ばず、陰和を資り以て助成するを明らかにし;陰は孤行せず、陽唱を待ちて方に応ずるを明らかにす。陰陽両順し、天地咸く亨れば、則ち百宝斯く興り、九疇攸く序づく。基は毎面三階、周回十二階、毎階二十五級と為す。『漢書』に按ずるに、天に三階有り、故に毎面三階;地に十二辰有り、故に周回十二階。又『文子』に按ずるに、凡より聖に至るに、二十五等有り、故に毎階二十五級。所以に符星に応じて階を設け、台耀に法り以て陛を疏にし、上は霄漢の儀に擬え、下は地辰の数を則る。又茲の重級を列ね、用て聖凡に准う。皇極の高居を象り、庶類に俯して臨耀す。

原文基八面,象八方。按《周禮》「黃琮禮地」。鄭玄注:琮者,八方之玉,以象地形,故以祀地。則知地形八方。又按《漢書》,武帝立八觚壇以祀地。登地之壇,形象地,故令為八方之基,以象地形。基高一丈二尺,徑二百八十尺。按《漢書》,陽為六律,陰為六呂。陽與陰合,故高一丈二尺。又按《周易》,三為陽數,八為陰數。三八相乘,得二百四十尺。按《漢書》,九會之數有四十,合為二百八十,所以基徑二百八十尺。故以交通天地之和,錯綜陰陽之數。以明陽不獨運,資陰和以助成;陰不孤行,待陽唱而方應。陰陽兩順,天地咸亨,則百寶斯興,九疇攸序。基每面三階,周回十二階,每階為二十五級。按《漢書》,天有三階,故每面三階;地有十二辰,故周回十二階。又按《文子》,從凡至聖,有二十五等,故每階二十五級。所以應符星而設階,法台耀以疏陛,上擬霄漢之儀,下則地辰之數。又列茲重級,用准聖凡。象皇極之高居,俯庶類而臨耀。

基壇の上に一堂を設け、その屋根は円形である。『道德經』に拠れば、天は一を得て清く、地は一を得て寧らかであり、侯王は一を得て天下の正となる。また曰く、道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は萬物を生ず。また『漢書』に拠れば、太極の元気は、三を含んで一となる。また曰く、天子は四海を家とする。故に一堂を置いて元気を象り、併せて四海を家とする意味を取る。また『周禮』に拠れば、「蒼璧をもって天を礼す」とある。鄭玄の注に、璧は円形にして天を象る。故に屋根を円形とする。堂は各面九間あり、各々広さ一丈九尺である。『尚書』に拠れば、地に九州あり、故に九間を立てる。また『周易』に拠れば、陰の数は十であるから、間を別けて一丈九尺とし、以て厚き地を規模し、陰陽を準則とし、二気を法として基を通じ、九州を一堂に置く。堂の周囲に十二門あり、各門の高さ一丈七尺、広さ一丈三尺である。『禮記』に拠れば、一年に十二月あり、故に十二門を置く。また『周易』に拠れば、陰の数は十、陽の数は七であるから、高さ一丈七尺とする。また曰く、陽の数は五、陰の数は八であるから、広さ一丈三尺とする。以て此の玉燭を調え、彼の金輝に応じ、二気を叶えて循環せしめ、四序を逐って節を迎える。堂の周囲に二十四の窓あり、高さ一丈三尺、広さ一丈一尺、二十三の櫺、二十四の明かり取りである。『史記しき』に拠れば、天に二十四気あり、故に二十四の窓を置く。また『書經』に拠れば、一年十二月、閏を象るを併せて、故に高さ一丈三尺とする。また『周易』に拠れば、天の数は一、地の数は十であるから、広さ一丈一尺とする。また天の数は九、地の数は十、四時を併せて二十三となるから、二十三の櫺とする。また『周易』に拠れば、八純卦の本体は、二十四爻を合わせるから、二十四の明かり取りがある。窓を列ね窓を疎らにし、風候の気を象り、遠く天地の数を周らしめ、曲く陰陽の和に準ずる。

原文基之上為一堂,其宇上圓。按《道德經》:天得一以清,地得一以甯,侯王得一以為天下貞。又曰:道生一,一生二,二生三,三生萬物。又按《漢書》:太極元氣,函三為一。又曰:天子以四海為家。故置一堂以象元氣,並取四海為家之義。又按《周禮》,「蒼璧禮天」。鄭玄注:璧圓以象天。故為宇上圓。堂每面九間,各廣一丈九尺。按《尚書》,地有九州,故立九間。又按《周易》,陰數十,故間別一丈九尺,所以規模厚地,準則陰陽,法二氣以通基,置九州於一宇。堂周回十二門,每門高一丈七尺,闊一丈三尺。按《禮記》,一歲有十二月,所以置十二門。又按《周易》,陰數十,陽數七,故高一丈七尺;又曰陽數五,陰數八,故闊一丈三尺。所以調茲玉燭,應彼金輝,葉二氣以迴圈,逐四序而迎節。堂周回二十四窗,高一丈三尺,闊一丈一尺,二十三櫺,二十四明。按《史記》,天有二十四氣,故置二十四窗。又按《書》,一年十二月,並象閏,故高一丈三尺。又按《周易》,天數一,地數十,故闊一丈一尺;又天數九,地數十,並四時成二十三,故二十三櫺。又按《周易》,八純卦之本體,合二十四爻,故有二十四明。列牖疏窗,象風候氣,遠周天地之數,曲准陰陽之和。

堂の中心に八柱あり、各々長さ五十五尺である。『河圖』に拠れば、八柱天を承く、故に八柱を置く。また『周易』に拠れば、大衍の数は五十有五であるから、長さ五十五尺とする。此の八柱を聳えさせ、彼の九間を承け、数は大衍の規に該り、形は立極の制に符する。且つ柱は陰の数であり、天は実に陽の元である。柱は陰気を以て上昇し、天は陽和を以て下降する。固より陰陽の交泰であり、乃ち天地の相承である。堂心の外に、四柱を置いて四輔とする。『漢書』に拠れば、天に四輔星あり、故に四柱を置いて四星を象る。内に八柱を以て天を承け、外に四輔を象って化を明らかにし、上は交わり下は泰なり、表裏相い成り、台耀を叶えて輝きを分かち、編珠に契って極を拱す。八柱四輔の外、第一重に二十柱あり。『周易』に拠れば、天の数は五、地の数は十、五行の数を併せて二十となるから、二十柱を置く。二儀を体して数を立て、五位を叶えて規を裁ち、式は立極の功に符し、允に剛柔の道に応ず。八柱四輔の外、第二重に二十八柱あり。『史記』に拠れば、天に二十八宿あり、故に二十八柱がある。以て則ち乾圖を仰ぎ、上は景宿に符し、編珠を考えて度を紀し、列宿を観て時を迎える。八柱四輔の外、第三重に三十二柱あり。『漢書』に拠れば、八節・八政・八風・八音あり、四八三十二柱である。風を調え節を禦し、萬物資りて以って化成す。政を布き音を流し、九区仰いで以って則を貽す。外面周囲に三十六柱あり。『漢書』に拠れば、一期三十六旬であるから、これを法として三十六柱を置く。以て歳時を象りて用を致し、寒暑に順って微を通じ、璿璣の度は愆ることなく、玉曆の期は永く契る。八柱の外、修短総べて三等あり。『周易』に拠れば、天・地・人は三才であるから、柱の長短を三等に置く。以て三才を擬えて位を定め、高下相い形り、萬物を体して生を資け、長短兼ねて運ぶ。八柱の外、都合一百二十柱あり。『禮記』に拠れば、天子は三公・九卿・二十七大夫・八十一元士を置き、合せて一百二十となる。是を以て一百二十柱を置く。職を分かち官を設け、化を翊けるは多士に資り、物を開き務を成すは、春廈を構うるに群材に藉る。其の上の欄干周囲に二百四柱あり。『周易』に拠れば、坤の策は一百四十有四、また『漢書』に拠れば、九会の数は六十あり、故に二百四柱を置く。以て坤策の玄妙を采り、甲乙の精微を法とし、環回は辰象の規に契い、結構は陰陽の数に准ず。また基は地を象るから、故に策を坤元に叶え、柱は各々方に依り、復た甲子を規模する。

原文堂心八柱,各長五十五尺。按《河圖》,八柱承天,故置八柱。又按《周易》,大衍之數五十有五,故長五十五尺。聳茲八柱,承彼九間,數該大衍之規,形符立極之制。且柱為陰數,天實陽元,柱以陰氣上升,天以陽和下降,固陰陽之交泰,乃天地之相承。堂心之外,置四柱為四輔。按《漢書》,天有四輔星,故置四柱以象四星。內以八柱承天,外象四輔明化,上交下泰,表裏相成,葉台耀以分輝,契編珠而拱極。八柱四輔之外,第一重二十柱。按《周易》,天數五,地數十,並五行之數合而為二十,故置二十柱。體二儀而立數,葉五位以裁規,式符立極之功,允應剛柔之道。八柱四輔之外,第二重二十八柱。按《史記》,天有二十八宿,故有二十八柱。所以仰則乾圖,上符景宿,考編珠而紀度,觀列宿以迎時。八柱四輔之外,第三重三十二柱。按《漢書》,有八節、八政、八風、八音,四八三十二柱。調風禦節,萬物資以化成;布政流音,九區仰而貽則。外面周回三十六柱。按《漢書》,一期三十六旬,故法之以置三十六柱。所以象歲時而致用,順寒暑以通微,璿璣之度無愆,玉曆之期永契。八柱之外,修短總有三等。按《周易》,天、地、人為三才,故置柱長短三等。所以擬三才以定位,高下相形;體萬物以資生,長短兼運。八柱之外,都合一百二十柱。按《禮記》,天子置三公、九卿、二十七大夫、八十一元士,合為一百二十,是以置一百二十柱。分職設官,翊化資於多士;開物成務,構春廈藉於群材。其上檻周回二百四柱。按《周易》,坤之策一百四十有四,又《漢書》,九會之數有六十,故置二百四柱。所以采坤策之玄妙,法甲乙之精微,環回契辰象之規,結構准陰陽之數。又基以象地,故葉策於坤元;柱各依方,復規模於甲子。

重楣は二百十六條。『周易』によれば、乾の策は二百十六であるから、二百十六條を置く。これによって『易』の象を規模し、乾元の法を擬し、大衍の深玄に応じ、神策の至数に叶う。大小の節級拱は、総計六千三百四十五。『漢書』によれば、会月の数は六千三百四十五であるから、六千三百四十五枚を置く。これによって遠く三統の文を採り、傍ら会月の数に符し、金儀に契って節を調え、璿暦に偶って時を和す。重幹は四百八十九枚。『漢書』によれば、章月は二百三十五、閏月周回は二百五十四、総じて四百八十九となるから、四百八十九枚を置く。これによって履端の奥義を法とし、挙正の芳猷を象り、暦象を規模し、章・閏を発明する。下璟は七十二枚。『易緯』によれば、七十二候があるから、七十二枚を置く。これによって芳節を式模し、貞候を規取り、昌暦に至和を契し、休期に神数を偶す。上璟は八十四枚。『漢書』によれば、九会の数は七十八。また『荘子』によれば、六合の外は、聖人は存して論ぜず。司馬彪の注に、天地四方を六合という。総じて八十四となるから、八十四枚を置く。これによって二儀を模範し、六合を包羅し、陰陽の数を准会し、気候の源を周通する。枅は六十枚。『漢書』によれば、太歳を推す法に六十があるから、六十枚を置く。これによって歴数を兼該し、陰陽を包括し、甲乙の深微を採り、辰子の玄奥を窮む。連栱は三百六十枚。『周易』によれば、当期の日は三百六十であるから、三百六十枚を置く。これによって周天の度に叶い、当期の日に准え、平分に順って歳を成し、晷き運に応じて循環する。小梁は六十枚。『漢書』によれば、六十甲子があるから、六十枚を置く。この虹梁を構え、遥かに鳳暦を規し、傍らに四宇の制を竦め、遥かに六甲の源に符す。〓牽は二百二十八枚。『漢書』によれば、章中は二百二十八であるから、二百二十八枚を置く。これによって長暦の規に応じ、中月の度を象り、広く陰陽の数を綜べ、傍ら寒暑の和を通す。方衡は一十五重。『尚書』によれば、五行の生数は一十有五であるから、十五重を置く。棟を結び間を分ち、五行に法って秘を演じ;楹を疏にし構を疊し、生数に叶って規を成す。南北の大樑は二根。『周易』によれば、太極は両儀を生ずるから、二大樑を置く。乾坤を軌範し、天地を模擬し、玄黄の合徳を象り、覆載を表して生成す。陽馬は三十六道。『易緯』によれば、三十六節があるから、三十六道を置く。これによってこの嘉節を顕し、この貞辰に契い、六気を分けて陰陽を燮え、四象を環らして風雨を調う。椽は二千九百九十根。『漢書』によれば、月法は二千三百九十二、通法は五百九十八、共に二千九百九十となる。これによって推歩の規に偶い、通法の数に合す。ここに疏椽が宇を構うれば、則ち大壮の架斯く隆く、月を積みて年を成せば、則ち会暦の規爽い無きを知る。大梠は両重、重別に三十六條、総計七十二。『淮南子』によれば、太平の時は五日に一風、一年に七十二風あるから、七十二條を置く。これによって瑞暦を通規し、祥風に叶数し、遥かに淳俗の年に符し、遠く休徴の契を則る。飛簷椽は七百二十九枚。『漢書』によれば、子より午に至るまで、その数七百二十九であるから、七百二十九枚を置く。これによって辰象の宏模を採り、周天の至数を法とす。且つ午は陰の本、子は実に陽の源、子午時に分かれば、則ち生成の道自ずから著しく;陰陽徳を合せば、則ち覆載の義茲に隆し。

原文重楣,二百一十六條。按《周易》,乾之策二百一十有六,故置二百一十六條。所以規模《易》象,擬法乾元,應大衍之深玄,葉神策之至數。大小節級拱,總六千三百四十五。按《漢書》,會月之數,六千三百四十五,故置六千三百四十五枚。所以遠采三統之文,傍符會月之數,契金儀而調節,偶璿曆以和時。重幹,四百八十九枚。按《漢書》,章月二百三十五,閏月周回二百五十四,總成四百八十九,故置四百八十九枚。所以法履端之奧義,象舉正之芳猷,規模曆象,發明章、閏。下璟,七十二枚。按《易緯》,有七十二候,故置七十二枚。所以式模芳節,取規貞候,契至和於昌曆,偶神數於休期。上璟,八十四枚。按《漢書》,九會之數有七十八。又按《莊子》:六合之外,聖人存而不論。司馬彪注:天地四方為六合。總成八十四,故置八十四枚。所以模範二儀,包羅六合,准會陰陽之數,周通氣候之源。枅,六十枚。按《漢書》,推太歲之法有六十,故置六十枚。所以兼該歷數,包括陰陽,采甲乙之深微,窮辰子之玄奧。連栱,三百六十枚。按《周易》,當期之日,三百有六十,故置三百六十枚。所以葉周天之度,准當期之日,順平分而成歲,應晷運以迴圈。小梁,六十枚。按《漢書》,有六十甲子,故置六十枚。構此虹梁,遐規鳳曆,傍竦四宇之制,遙符六甲之源。〓牽,二百二十八枚。按《漢書》,章中二百二十八,故置二百二十八枚。所以應長曆之規,象中月之度,廣綜陰陽之數,傍通寒暑之和。方衡,一十五重。按《尚書》,五行生數一十有五,故置十五重。結棟分間,法五行而演秘;疏楹疊構,葉生數以成規。南北大樑,二根。按《周易》太極生兩儀,故置二大樑。軌範乾坤,模擬天地,象玄黃之合德,表覆載以生成。陽馬,三十六道。按《易緯》,有三十六節,故置三十六道。所以顯茲嘉節,契此貞辰,分六氣以燮陰陽,環四象而調風雨。椽,二千九百九十根。按《漢書》,月法二千三百九十二,通法五百九十八,共成二千九百九十。所以偶推步之規,合通法之數。是知疏椽構宇,則大壯之架斯隆,積月成年,則會曆之規無爽。大梠,兩重,重別三十六條,總七十二。按《淮南子》,太平之時,五日一風,一年有七十二風,故置七十二條。所以通規瑞曆,葉數祥風,遙符淳俗之年,遠則休征之契。飛簷椽,七百二十九枚。按《漢書》,從子至午,其數七百二十九,故置七百二十九枚。所以采辰象之宏模,法周天之至數。且午為陰本,子實陽源,子午分時,則生成之道自著;陰陽合德,則覆載之義茲隆。

堂簷の径は二百八十八尺。『周易』によれば、乾の策は二百十六、『易緯』に雲う、年に七十二候あり、合せて二百八十八となるから、径を二百八十八尺とする。これによって乾策を仰ぎ叶え、遠く貞候を承け、和気に順って序を調え、円蓋を擬して照臨す。堂上の棟は、基の上面より去ること九十尺。『周易』によれば、天の数は九、地の数は十、九を以て十に乗ずれば、数は九十に当たるから、基の上面より去ること九十尺とする。これによって上は円清に法り、下は方載に儀し、陰陽の至数に契い、交泰の貞符に叶う。またこの天の九を以て、地の十に乗ずれば、陽唱えて陰和するを象り、乾施して坤成するを法とす。簷は、地より去ること五十五尺。『周易』によれば、大衍の数は五十有五であるから、地より去ること五十五尺とする。これによって大『易』の嘉数を擬し、惟神の至賾を通じ、万象に道合し、三才に理貫す。上は清陽の玉葉を以て之を覆う。『淮南子』によれば、清陽は天と為す、清陽の色を合する。

原文堂簷,徑二百八十八尺。按《周易》,乾之策二百一十六,《易緯》雲,年有七十二候,合為二百八十八,故徑二百八十八尺。所以仰葉乾策,遠承貞候,順和氣而調序,擬圓蓋以照臨。堂上棟,去基上面九十尺。按《周易》,天數九,地數十,以九乘十,數當九十,故去基上面九十尺。所以上法圓清,下儀方載,契陰陽之至數,葉交泰之貞符。又以茲天九,乘於地十,象陽唱而陰和,法乾施而坤成。簷,去地五十五尺。按《周易》,大衍之數五十有五,故去地五十五尺。所以擬大《易》之嘉數,通惟神之至賾,道合萬象,理貫三才。上以清陽玉葉覆之。按《淮南子》,清陽為天,合以清陽之色。

詔が下された後も、なお群議決せず。高宗の世の終わりまで、創立することができなかった。

原文詔下之後,猶群議未決。終高宗之世,未能創立。

則天が朝に臨むと、儒者が屡々上言して明堂の創建を請うた。則天は高宗の遺意を以て、乃ち北門学士とその制を議し、群言を聴かなかった。垂拱三年の春、東都の乾元殿を毀ち、その地に就いて之を創る。四年正月五日、明堂成る。凡そ高さ二百九十四尺、東西南北各三百尺。三層あり:下層は四時を象り、各おの随う方色;中層は十二辰に法り、円蓋、蓋の上に盤る九龍之を捧ぐ;上層は二十四気に法り、亦円蓋。亭中に巨木十囲あり、上下通貫し、栭・櫨LR・勣、之を本と為すに藉り、鉄索を以て之を亙す。蓋は鸞鷟と為し、黄金を以て之を飾り、勢い飛翥するが若し。木を刻んで瓦と為し、夾紵を以て之を漆す。明堂の下に鉄渠を施し、以て辟雍の象と為す。号して万象神宮と曰う。因って河南県を改めて合宮県と為す。詔して曰く:

原文則天臨朝,儒者屢上言請創明堂。則天以高宗遺意,乃與北門學士議其制,不聽群言。垂拱三年春,毀東都之乾元殿,就其地創之。四年正月五日,明堂成。凡高二百九十四尺,東西南北各三百尺。有三層:下層象四時,各隨方色;中層法十二辰,圓蓋,蓋上盤九龍捧之;上層法二十四氣,亦圓蓋。亭中有巨木十圍,上下通貫,栭、櫨LR、勣,藉以為本,亙之以鐵索。蓋為鸞鷟,黃金飾之,勢若飛翥。刻木為瓦,夾紵漆之。明堂之下施鐵渠,以為辟雍之象。號萬象神宮。因改河南縣為合宮縣。詔曰:

黃軒が曆を禦し、万方を合宮に朝す;丹陵が符を握り、四岳を衢室に諮る。有虞は瑞を輯め、総章の号既に存す;大禹は珪を錫し、重屋の名攸に建つ。殷人は命を受け、陽館を置き以て方を弁ず;周室は図を凝らし、明堂を立て以て野を経る。用て能く三極を範囲し、五神を幽賛し、尊祖の懐を展べ、宗祀の典を申す。爰に漢・魏よりし、迨びて周・隋に及ぶも、経始の制は興るも、修広の規は未だ備わらず。朕は庸昧を以て、虔しく厚托を膺け、綴衣の夕に寄せられ、仍幾の前に顧みらる。伏して惟うに、高宗往年、已に陽館に意を属せし故に、京輔の県、預め明堂の名を紀し;改元の期、先ず総章の号を著す。朕は乾封の際、已に表を奉り上塵すと雖も、宸心に簡ぶるも、未だ栄構に遑あらず。今、鼎郊の勝壤、圭邑の奥区、天地の中に処り、陰陽の序に順い、舟車是に湊り、貢賦攸に均し、爰に子来の功を藉り、式に奉先の旨を遵う。

原文黃軒禦曆,朝萬方于合宮;丹陵握符,咨四岳於衢室。有虞輯瑞,總章之號既存;大禹錫珪,重屋之名攸建。殷人受命,置陽館以辨方;周室凝圖,立明堂以經野。用能範圍三極,幽贊五神,展尊祖之懷,申宗祀之典。爰從漢、魏,迨及周、隋、經始之制雖興,修廣之規未備。朕以庸昧,虔膺厚托,受寄於綴衣之夕,荷顧於仍幾之前。伏以高宗往年,已屬意于陽館,故京輔之縣,預紀明堂之名;改元之期,先著總章之號。朕于乾封之際,已奉表上塵,雖簡宸心,未遑榮構。今以鼎郊勝壤,圭邑奧區,處天地之中,順陰陽之序,舟車是湊,貢賦攸均,爰藉子來之功,式遵奉先之旨。

そもそも明堂とは、天子が宗廟祭祀を行う殿堂であり、諸侯を朝見させる場所である。乾坤の奥義を開示し、気象の運行を模倣するものであるから、災害を生ぜず、禍乱を起こさないようにすることができる。この盛大な功業を顧みれば、まことに美しいことではないか。近ごろの碩学や礼官は、それぞれ異なる説を執り、皆、明堂は三里の外、七里の内に置き、都の南の明るい地にあるべきだとしている。今、宮廷に近接しているため、神霊を汚す恐れがあり、確かに政務を布く場所ではあるが、宗祀を行う場所としては適さない。朕は丙巳の地(南東)を選んだが、宮室から遠く離れており、毎月の居住地として、時に応じて祭祀を行い、常に文物を整えるのは煩労が多く、朕の考えでは、まさに適切とは言えない。そこで今、紫掖(宮中)に基を定め、彤闈(宮門)に堂宇を開き、経営を始めて興し、完成は一日ではあるまい。ただ、天地を敬い事えることによって、神明の徳が顕れるのであり、祖宗を尊び祀ることによって、厳粛な恭順の志が発揮されるのである。もし単に政務を布くためだけなら、扆(屏風)を背にして民に臨むのであり、茅葺きの屋根に土の階段で、適当に済ませばよい。どうして必ず百姓の力を労して、九筵の広さを設けて統治する必要があろうか。まことに、蘋や蘩を手に取り、宗廟を虔しく奉るためである。時代は変遷し、誰も従うべき先例がない。我より古を作し、事に適するようにする。今、上堂を厳粛な配祀の場所とし、下堂を政務を布く居所とし、礼の教えを広く敷き、誠敬の心を示す。来年正月一日、明堂において三聖を宗祀し、上帝に配祀すべし。礼官・博士・学士・内外の礼に明るい者に命じ、儀礼を詳細に定め、必ず典拠に従い、速やかに奏上せよ。

原文夫明堂者,天子宗祀之堂,朝諸侯之位也。開乾坤之奧策,法氣象之運行,故能使災害不生,禍亂不作。眷言盛烈,豈不美歟!比者鴻儒禮官,所執各異,鹹以為明堂者,置之三里之外,七里之內,在國陽明之地。今既俯邇宮掖,恐黷靈祇,誠乃布政之居,未為宗祀之所。朕乃為丙巳之地,去宮室遙遠,每月所居,因時饗祭,常備文物,動有煩勞,在於朕懷,殊非所謂。今故裁基紫掖,辟宇彤闈,經始肇興,成之匪日。但敬事天地,神明之德乃彰;尊祀祖宗,嚴恭之志方展。若使惟云布政,負扆臨人,則茅宇土階,取適而已,豈必勞百姓之力,制九筵而禦哉!誠以獲執蘋蘩,虔奉宗廟故也。時既沿革,莫或相遵,自我作古,用適於事。今以上堂為嚴配之所,下堂為布政之居,光敷禮訓,式展誠敬。來年正月一日,可于明堂宗祀三聖,以配上帝。宜令禮官、博士、學士、內外明禮者,詳定儀禮,務從典要,速以奏聞。

永昌元年正月元日、初めて親しく明堂で饗宴を行い、大赦して改元した。その月四日、明堂に臨んで政務を布き、九条を頒布して百官を訓戒した。文は多く載せない。翌日、また明堂に臨み、群臣を饗応し、縑纁を賜うこと差等あり。明堂が完成して後、東都の婦人及び諸州の父老を入観させ、兼ねて酒食を賜い、久しくしてやむ。吐蕃及び諸夷は明堂の完成により、また各々使者を遣わして来賀した。載初元年冬正月庚辰朔、冬至、再び親しく明堂で饗宴を行い、大赦して改元し、周の暦を用いた。翌日、群後(諸侯)に対して政務を布いた。その年二月、則天武后はまた明堂に臨み、三教を大いに開いた。内史邢文偉が『孝経』を講じ、侍臣及び僧・道士等に命じて順次論議させ、日が西に傾いてやんだ。

原文永昌元年正月元日,始親享明堂,大赦改元。其月四日,禦明堂布政,頒九條以訓於百官。文多不載。翌日,又禦明堂,饗群臣,賜縑纁有差。自明堂成後,縱東都婦人及諸州父老入觀,兼賜酒食,久之乃止。吐蕃及諸夷以明堂成,亦各遣使來賀。載初元年冬正月庚辰朔,日南至,復親饗明堂,大赦改元,用周正。翼日,布政於群後。其年二月,則天又禦明堂,大開三教。內史邢文偉講《孝經》,命侍臣及僧、道士等以次論議,日昃乃罷。

天授二年正月乙酉、冬至、親しく明堂を祀り、天地を合祭し、周の文王及び武氏の先考・先妣を配祀し、百神を従祀させ、壇位に次第に席を布いて祀った。ここにおいて春官郎中韋叔夏が奏上して言うには、「謹んで按ずるに、明堂の大享は、ただ五帝を祀るのみである。故に『月令』に云う、'是の月、大いに帝を享く'と。則ち『曲礼』の云う'大享は卜を問わず'、鄭玄の注に'五帝を遍く明堂に祭り、適(主)として卜せざるを謂う'とあるはこれである。また『祭法』に按ずるに、'文王を祖とし武王を宗とす'と。鄭玄の注に云う、'五帝・五神を明堂に祭るを祖・宗と曰う'と。故に『孝経』に云う、'文王を明堂に宗祀し、以て上帝に配す'と。これらの諸文に拠れば、明堂の正礼は、ただ五帝を祀り、祖宗及び五帝・五官神等を配祀するのみで、その外の余神は、皆預かるに合わない。伏して惟うに、陛下は追遠の情深く、崇禋の志切にして、明堂の祭祀に、昊天上帝・皇地祇を加え、重ねて先帝・先後を配享される。これは前代の王者の欠けた典を補い、厳粛な配祀の虔誠を弘めるものである。以前、神都の郊壇が未だ建てられなかったため、明堂の下において広く衆神を祭ったのは、義は一時の権宜に出たものであり、不刊の礼ではない。謹んで礼経に按ずるに、その内官・中官・五嶽・四瀆の諸神は、皆二至(冬至・夏至)に従祀すべきである。明堂で総べて奠することは、事経に合わない。されば宗祀配天の親なる祭祀に、雑然と小神を同じくして薦めることは、厳敬の道において、理に不安がある。請う、毎歳元日には、ただ天地の大神を祀り、帝后を配祀するのみとし、その五嶽以下は、礼に依って冬・夏の二至に、方丘・円丘に従祀させ、煩雑・汚濁を避けたい」。これに従った。時に則天武后はまた明堂の後に天堂を造り、以て仏像を安置し、高さ百余尺。初めて建構を起こすと、大風に振り倒された。間もなくまた重ねて営み、その工事は未だ畢わらず。證聖元年正月丙申の夜、仏堂が災いに遭い、延焼して明堂に及び、曙に至り、二堂ともに尽きた。直後にまた雲無くして雷鳴り、西北より起こる。則天武后は躬を責め正殿を避けようとした。宰相姚璹が言うには、「これは実に人火であり、天災ではない。成周の宣榭に至っては、卜代は長く逾え、漢の武帝の建章宮は、盛徳は弥いよいよ永い。今の明堂は政務を布く所であり、宗祀の場所ではない」。則天武后は端門に臨んで酺宴を観覧し、詔を下して文武九品以上に命じ、各々封事を上らせ、極言して隠す所無からしめた。左拾遺劉承慶が上疏して言うには:

原文天授二年正月乙酉,日南至,親祀明堂,合祭天地,以周文王及武氏先考、先妣配,百神從祀,並於壇位次第布席以祀之。於是春官郎中韋叔夏奏曰:「謹按明堂大享,唯祀五帝。故《月令》云:'是月也,大享帝。'則《曲禮》所雲'大享不問卜',鄭玄注雲'謂遍祭五帝於明堂,莫適卜'是也。又按《祭法》云:'祖文王而宗武王。'鄭玄注云:'祭五帝、五神於明堂曰祖、宗。'故《孝經》云:「宗祀文王於明堂,以配上帝。'據此諸文,明堂正禮,唯祀五帝,配以祖宗及五帝、五官神等,自外餘神,並不合預。伏惟陛下追遠情深,崇禋志切,於明堂祀,加昊天上帝、皇地祇,重之以先帝、先後配享,此乃補前王之闕典,弘嚴配之虔誠。往以神都郊壇未建,乃於明堂之下,廣祭眾神,蓋義出權時,非不刊之禮也。謹按禮經:其內官、中官、五嶽、四瀆諸神,併合從祀於二至。明堂總奠,事乃不經。然則宗祀配天之親,雜與小神同薦,于嚴敬之道,理有不安。望請每歲元日,惟祀天地大神,配以帝后。其五嶽以下,請依禮于冬、夏二至,從祀方丘、圓丘,庶不煩黷。」從之。時則天又於明堂後造天堂,以安佛像,高百餘尺。始起建構,為大風振倒。俄又重營,其功未畢。證聖元年正月丙申夜,佛堂災,延燒明堂,至曙,二堂並盡。尋時又無雲而雷,起自西北。則天欲責躬避正殿。宰相姚璹曰:「此實人火,非是天災。至如成周宣榭,卜代逾長;漢武建章,盛德彌永。今明堂是布政之所,非宗祀也。」則天乃禦端門觀酺宴,下詔令文武九品已上各上封事,極言無有所隱。左拾遺劉承慶上疏曰:

臣聞く、古より帝王は皆、美事と悪事があり、吉兆はその徳を昭かにし、災変はその過ちを知らしめる、天道の常理、王者の常事である。されば吉兆が屡々至っても、功を誇って自ら満足すべきではなく、災変が忽然と降っても、軽んじて忽せにし驚かぬべきではない。故に殷の高宗は桑と穀が朝廷に生じたことを畏れて自ら省み、妖は徳に勝たず、遂に中興の功を立てた。辛紂は雀が大鳥を生んだことを恃んで福を自ら盈みたし、祥は驕りに勝たず、終に傾亡の禍に至った。故に災変の生ずるは、将に明主を覚悟させ、大業を扶持し、盛んにして衰えざらしめるためであることを知る。理として神の心を畏れ敬い、天の誡めに驚き懼れ、身を飭ととのえ事を正し、業業兢兢として、則ち凶去って吉来り、禍を転じて福と為すべきである。昔、殷の湯は身を禱って雨を降らせ、周の成王は事を省みて風を反らせ、宋の公は熒惑の災いを憂えて三舎の寿に応じ、殷の高宗は雊鼎の異を懲りて百年の福を享けた、これがその類である。

原文臣聞自古帝王,皆有美惡,休祥所以昭其德,災變所以知其咎,天道之常理,王者之常事。然則休祥屢臻,不可矜功而自滿;災變奄降,不可輕忽而靡驚。故殷宗以桑穀生朝,懷懼而自省,妖不勝德,遂立中興之功;辛紂以雀生大鳥,恃福而自盈,祥不勝驕,終至傾亡之禍。故知災變之生,將以覺悟明主,扶持大業,使盛而不衰。理須祗畏神心,驚懼天誡,飭身正事,業業兢兢,則凶往而吉來,轉禍而為福。昔殷湯禱身而降雨,成王省事以反風,宋公憂熒惑之災,而應三舍之壽,高宗懲雊鼎之異,而享百年之福,此其類也。

陛下が天を承けて物を理め、至道をもって神に事えてより、美しい瑞祥・嘉祥が重なって至り、臣が述べ尽くせぬほどである。先日、人火による変が生じ、神宮を損ない、聖心を驚かせ惕おそれさせ、黎庶を震動させた。臣謹んで『左伝』に按ずるに、「人火を火と曰い、天火を災と曰う」と。人火は人によって起こる故に、火の体を指して称し、天火は何より起こるか知れぬ故に、直ちに災う所を以て言う。その名は異なれど、害を為すことは別ではない。また『漢書・五行志』に曰く、「火が性を失えば則ち上より降り、及び濫焰妄りに起こり、宗廟を災いし、宮館を焼く」と。上より降るは、所謂天火、濫焰妄りに起こるは、所謂人火。その来りは異なれど、患いを為すことは実に同じである。王者の挙措営為は、必ず幽顕に関わる。幽は天道、顕は人事、幽顕の跡通じ、天人の理合う。今、工匠が宿あらかじめ火を蔵し、元より放燎の心無く、明堂は教化の宮、また延火の所ではない。孽煨(わざわいの火種)潜かに扇がれ、倏忽しゅくこつとして災いと成る。雖も人によるとはいえ、また神理に関わる。臣愚かには、火の発するや先ず麻主(柱?)より始まり、後に総章に及んだのは、意、将に営む所の仏舎(天堂)を恐らくは労して益無からんとするにあると思われる。ただその教えを崇めること、即ち是れ津梁(渡し船・橋)である。何ぞ紺宮(仏寺)を仮かり、言いて汲引(導き)を存するを要せん。既に明堂の後に僻へき在し、又前に牲牢の筵(宴席)に逼せまり、兼ねてその構え崇大にして、功多くして畢おえ難し。像を立て法を弘むるは、本より黎元を利益せんと擬するも、財を傷そこない人を役するは、却って且つ家国を煩労す。承前、大風木を摧くだき、天誡已に顕れ、今者、毒焰冥くらく熾さかんにし、人孽復た彰あきらかなり。聖人の動作は、必ず天人の助けを仮る。一たび功役を興せば、二者倶に違い、その応しるし昭然として、殆ほとんど将に此れに縁よらんとす。

原文自陛下承天理物,至道事神,美瑞嘉祥,洊臻狎委,非臣所能盡述。日者變生人火,損及神宮,驚惕聖心,震動黎庶。臣謹按《左傳》曰:「人火曰火,天火日災。」人火因人而興,故指火體而為稱;天火不知何起,直以所災言之。其名雖殊,為害不別。又《漢書·五行志》曰:「火失性則自上而降,及濫焰妄起,災宗廟,燒宮館。」自上而降,所謂天火;濫焰妄起,所謂人火。其來雖異,為患實同。王者舉措營為,必關幽顯。幽為天道,顯為人事,幽顯跡通,天人理合。今工匠宿藏其火,本無放燎之心:明堂教化之宮,復非延火之所。孽煨潛扇,倏忽成災,雖則因人,亦關神理。臣愚以為火發既先從麻主,後及總章,意將所營佛舍,恐勞而無益。但崇其教,即是津梁,何假紺宮,言存汲引?既僻在明堂之後,又前逼牲牢之筵,兼以厥構崇大,功多難畢。立像弘法,本擬利益黎元,傷財役人,卻且煩勞家國。承前大風摧木,天誡已顯;今者毒焰冥熾,人孽復彰。聖人動作,必假天人之助,一興功役,二者俱違,厥應昭然,殆將緣此。

臣は思うに、明堂は正陽の位にして、至尊の居所であり、礼を展べ常を班ち、化を崇め政を立て、玉帛の朝会、神霊の依憑する所である。これを営むは大功と曰うべく、これを損ずるは実に軽き事に非ず。既に厳禋の所を失い、また孝理の情を傷つけん。陛下は昨明制を降し、なお寅畏の旨を申し給う。群僚は理として兢畏震悚し、勉めて司存すべく、豈に恩を承けて楽に耽り、安然として酺宴すべきや。また下人は聖徳を感荷し、変を睹て憎惶し、神体克く寧んずるは、豈に深く悦ばざらんや。但だ火気初めて止まり、尚多く驚懼し、余憂未だ息まず、遽かに以て歓事を以てこれを遏む。臣は憂喜相争い、情理を傷つくると恐る。故に伝に曰く、「憂うべきにして楽を為すは、憂いを取るの道なり」と。また古に火ある者は、四墉を祭る。四墉は積陰の気なり、これを祈りて以て火災を禳う。火は陽の気なり、歓楽は陽事なり、火気方に勝つ、復た陽事を興すべからず。臣聞く、災変の興るは、至聖も免れず、其の徳を聿修すれば、来患禳うべしと。陛下は制を垂れて博く訪い、至理を陳ぶるを許し給う。而して左史張鼎は「今既に火流れて王屋す、弥に大周の祥を顕わす」と以為い、通事舎人逢敏は奏称して、「弥勒の初めて仏道を成す時、天魔有りて宮を焼き、七宝台須臾にして散壊す」と。斯れ実に諂妄の邪言にして、実に君臣の正論に非ず。王化を晻昧し、万機に益無し。夫れ天道は高しと雖も、其の察すること弥近く、神心は寂しと雖も、其の聴くこと弥聡し。皇王に交際し、事影響に均し。今大風烈火、譴告相仍う、実に天人丁寧に、聖主を匡諭し、便ち鴻基盆固にして、天祿永終の意なり。伏して願わくは、陛下乾乾として慮に在り、翼翼として懐と為し、巨川に渉るが若く、大祭を承くるが如く、其の災を致すの理を審らかにし、其の眚を降すの由を詳らかにし、天人の心を瞢かずして、不急の役を興さしめ給わんことを。則ち兆人頼みを蒙り、福祿窮まり無からん、幸甚幸甚。

原文臣以為明堂是正陽之位,至尊所居,展禮班常,崇化立政,玉帛朝會,神靈依憑。營之可曰大功,損之實非輕事,既失嚴禋之所,復傷孝理之情。陛下昨降明制,猶申寅畏之旨,群僚理合兢畏震悚,勉力司存,豈合承恩耽樂,安然酺宴?又下人感荷聖德,睹變憎惶,神體克寧,豈非深悅。但以火氣初止,尚多驚懼,餘憂未息,遽以歡事遏之。臣恐憂喜相爭,傷於情理。故傳曰:「可憂而為樂,取憂之道。」又古者有火,祭四墉。四墉,積陰之氣,祈之以禳火災。火,陽之氣,歡樂陽事,火氣方勝,不可復興陽事。臣聞災變之興,至聖不免,聿修其德,來患可禳。陛下垂制博訪,許陳至理。而左史張鼎以為「今既火流王屋,彌顯大周之祥」,通事舍人逢敏奏稱,「當彌勒初成佛道時,有天魔燒宮,七寶台須臾散壞。」斯實諂妄之邪言,實非君臣之正論。晻昧王化,無益萬機。夫天道雖高,其察彌近;神心雖寂,其聽彌聰。交際皇王,事均影響。今大風烈火,譴告相仍,實天人丁甯,匡諭聖主,便鴻基盆固,天祿永終之意也。伏願陛下乾乾在慮,翼翼為懷,若涉巨川,如承大祭,審其致災之理,詳其降眚之由,無瞢天人之心,而興不急之役。則兆人蒙賴,福祿靡窮,幸甚,幸甚。

則天は尋いで旧規制に依りて明堂を重ねて造らしむ。凡そ高さ二百九十四尺、東西南北広さ三百尺。上に宝鳳を施し、俄かに火珠を以てこれに代う。明堂の下、圜く鉄渠を施し、以て辟雍の象と為す。天冊万歳二年三月、重ねて明堂を造り成し、号して通天宮と為す。四月朔日、また親享の礼を行い、大赦し、元を改めて万歳通天と為す。翼日、則天は通天宮の端扆殿に御し、有司に命じて時令を読み、政を群後に布かしむ。其の年、銅を鋳て九州鼎と為す。既に成り、明堂の庭に置き、各方位に依りて列す。神都鼎は高さ一丈八尺、一千八百石を受く。冀州鼎は名を武興とし、雍州鼎は名を長安ちょうあんとし、兗州は名を日観とし、青州は名を少陽とし、徐州は名を東原とし、揚州は名を江都とし、荊州は名を江陵とし、梁州は名を成都とす。其の八州鼎は高さ一丈四尺、各一千二百石を受く。司農卿宗晋卿を九鼎使と為し、総べて銅五十六万七百十二斤を用う。鼎上に本州の山川物産の像を図写し、仍ち工書の人著作郎賈膺福・殿中丞薛昌容・鳳閣主事李元振・司農録事鐘紹京等に分かちてこれを題せしめ、左尚方署令曹元廓に図画せしむ。鼎成る、玄武門外より曳き入れ、宰相・諸王に令して南北衙の宿衛兵十余万人を率い、並びに仗内の大牛・白象を以て共にこれを曳かしむ。則天自ら『曳鼎歌』を作り、相に唱和せしむ。其の時また大儀鐘を造らんとし、天下の三品の金を斂むるも、竟に成らず。九鼎初めて成る、黄金千両を以てこれを塗らんと欲す。納言姚璹曰く、「鼎は神器なり、質樸を貴び、別に浮飾を為すを仮る無し。臣其の状を観るに、光五彩有りて輝煥錯雑其の間す、豈に金色を待ちて以て炫耀を為さんや」と。乃ち止む。其の年九月、また大いに通天宮に享す。契丹破滅し、九鼎初めて成るを以て、大赦す。元を改めて神功と為す。

原文則天尋令依舊規制重造明堂,凡高二百九十四尺,東西南北廣三百尺。上施寶鳳,俄以火珠代之。明堂之下,圜饒施鐵渠,以為辟雍之象。天冊萬歲二年三月,重造明堂成,號為通天宮。四月朔日,又行親享之禮,大赦,改元為萬歲通天。翼日,則天禦通天宮之端扆殿,命有司讀時令,布政於群後。其年,鑄銅為九州鼎,既成,置於明堂之庭,各依方位列焉。神都鼎高一丈八尺,受一千八百石。冀州鼎名武興,雍州鼎名長安,兗州名日觀,青州名少陽,徐州名東原,揚州名江都,荊州名江陵,梁州名成都。其八州鼎高一丈四尺,各受一千二百石。司農卿宗晉卿為九鼎使,都用銅五十六萬七百一十二斤。鼎上圖寫本州山川物產之像,仍令工書人著作郎賈膺福、殿中丞薛昌容、鳳閣主事李元振、司農錄事鐘紹京等分題之,左尚方署令曹元廓圖畫之。鼎成,自玄武門外曳入,令宰相、諸王率南北衙宿衛兵十余萬人,並仗內大牛、白象共曳之。則天自為《曳鼎歌》,令相唱和。其時又造大儀鐘,斂天下三品金,竟不成。九鼎初成,欲以黃金千兩塗之。納言姚璹曰:「鼎者神器,貴于質樸,無假別為浮飾。臣觀其狀,光有五彩輝煥錯雜其間,豈待金色為之炫耀?」乃止。其年九月,又大享於通天宮。以契丹破滅,九鼎初成,大赦。改元為神功。

聖暦元年正月、また親享及び朝賀を受く。尋いで制す:每月一日に明堂に於いて告朔の礼を行わしむ。司礼博士辟閭仁諝奏議して曰く:

原文聖曆元年正月,又親享及受朝賀。尋制:每月一日於明堂行告朔之禮。司禮博士辟閭仁諝奏議曰:

謹んで経史の正文を按ずるに、天子の每月告朔の事無し。惟だ『礼記・玉藻』に云く、「天子は朔を南門の外に聴く」と。『周礼・天官・太宰』に、「正月の吉、政を邦国都鄙に布く」と。幹宝注に云く、「周正建子の月、告朔の日なり」と。此れ即ち『玉藻』の聴朔なり。今毎歳首元日、通天宮に於いて朝を受け、時令を読み、政事を布く。京官九品以上・諸州朝集使等咸に庭に列す。此れ則ち聴朔の礼畢りて、『周礼』・『玉藻』の文に合す。而して鄭玄『玉藻』「聴朔」を注し、秦制月令に五帝五官の事有りを以て、遂に云く、「凡そ朔を聴くには、必ず特牲を以て其の時帝及び其の神に告げ、文王・武王を以て配す」と。此れ鄭注の誤りなり。故に漢魏より今に至るまで之を用いる者莫し。按ずるに『月令』に云く「其の帝太昊、其の神勾芒」とは、時令を宣布し、下人に告示し、其の令詞に其の帝其の神と云うのみ。以て敬授の文と為し、人をして其の時に奉りて其の業を務めしめんと欲するなり。每月令有り、故に之を『月令』と謂う。天子が月朔日に祖を以て帝に配して察告するを謂うに非ず。其の每月告朔は、諸侯の礼なり。故に『春秋左氏伝』に曰く、「公既に朔を視し、遂に観台に登る」と。又鄭玄『論語』を注して云く、「礼、人君は每月廟に告朔し、祭有りて之を朝享と謂う。魯は文公より始めて朔を視さず」と。是れ諸侯の礼なること明らかなり。今王者之を行うは、聞く所に非ず。按ずるに鄭の所謂其の帝に告ぐるは即ち太昊等の五人帝、其の神は即ち重黎等の五行官なり。雖並びに功人に施し、祀典に列すと雖も、天子の每月拝祭告朔の文無し。臣等謹んで『礼論』及び『三礼義宗』・『江都集礼』・『貞観礼』・『顕慶礼』及び祠令を検するに、並びに天子の每月告朔の事無し。若し代に明堂無きを以て、故に告朔の礼無しと為すならば、則ち『江都集礼』・『貞観礼』・『顕慶礼』及び祠令に、五方上帝を明堂に祀ることを著すは、即ち『孝経』「文王を明堂に宗祀す」なり。此れ則ち明堂無くして其の享祭を著す、何を以て告朔独り其の文を闕くや。若し君に明堂有れば即ち告朔に合すと為すならば、則ち周・秦に明堂有り。而して経典の正文に、天子の每月告朔の事無し。臣等歴観今古、博く載籍を考うるに、既に其の礼無し、非を習うべからず。望むらくは請う、每月一日の告朔の祭を停め、以て国経を正さんことを。窃かに以て、天子の尊にして諸侯の礼を用うるは、所謂朔を頒ち諸侯に令して奉りて而行わしむの義に非ざるなり。

原文謹按經史正文,無天子每月告朔之事。惟《禮記·玉藻》云:「天子聽朔于南門之外。」《周禮·天官·太宰》:「正月之吉,布政于邦國都鄙。」幹寶注云:「周正建子之月,告朔日也。」此即《玉藻》之聽朔矣。今每歲首元日,於通天宮受朝,讀時令,布政事,京官九品以上、諸州朝集使等咸列於庭,此則聽朔之禮畢,而合于《周禮》、《玉藻》之文矣。而鄭玄注《玉藻》「聽朔」,以秦制月令有五帝五官之事,遂云:「凡聽朔,必特牲告其時帝及其神,配以文王、武王。」此鄭注之誤也。故漢魏至今莫之用。按《月令》雲「其帝太昊,其神勾芒」者,謂宣佈時令,告示下人,其令詞雲其帝其神耳。所以為敬授之文,欲使人奉其時而務其業。每月有令,故謂之《月令》,非謂天子月朔日以祖配帝而察告之。其每月告朔者,諸候之禮也。故《春秋左氏傳》曰:「公既視朔,遂登觀台。」又鄭注《論語》云:「禮,人君每月告朔於廟,有祭謂之朝享。魯自文公始不視朔。」是諸候之禮明矣。今王者行之,非所聞也。按鄭所謂告其帝者即太昊等五人帝,其神者即重黎等五行官。雖並功施於人,列在祀典,無天子每月拜祭告朔之文。臣等謹檢《禮論》及《三禮義宗》、《江都集禮》、《貞觀禮》、《顯慶禮》及祠令,並無天子每月告朔之事。若以為代無明堂,故無告朔之禮,則《江都集禮》、《貞觀禮》、《顯慶禮》及祠令,著祀五方上帝於明堂,即《孝經》「宗祀文王於明堂」也。此則無明堂而著其享祭,何為告朔獨闕其文?若以君有明堂即合告朔,則周、秦有明堂,而經典正文,無天子每月告朔之事。臣等曆觀今古,博考載籍,既無其禮,不可習非。望請停每月一日告朔之祭,以正國經。竊以天子之尊,而用諸侯之禮,非所謂頒告朔、令諸侯、使奉而行之之義也。

鳳閣侍郎王方慶また奏議して曰く:

原文鳳閣侍郎王方慶又奏議曰:

謹んで按ずるに、明堂は天子が政を布く宮殿である。およそ天気に順い、万物を統べ、両儀に法って動き、徳を四海に被らせる所以のものである。夏は世室と曰い、殷は重屋と曰い、周は明堂と曰う。これ三代の名である。明堂は天子の太廟であり、その祖を宗祀して上帝に配する所以のものである。東を青陽と曰い、南を明堂と曰い、西を総章と曰い、北を玄堂と曰い、中を太室と曰う。五つの名があるが、明堂を主とする。漢代の博学で儒学に通じた者は、皆明堂と太廟とを同一のものとした。漢の左中郎将蔡邕が議を立てたのも、また然りと為した。その宗祀を取れば、則ち清廟と謂い、その正室を取れば、則ち太室と謂い、その向陽を取れば、則ち明堂と謂い、その学を建てるを取れば、則ち太学と謂い、その圜水を取れば、則ち辟雍と謂う。名は異なるも事は同じく、古の制である。天子は孟春正月の上辛の日に、南郊において十二月の政を総受し、還って祖廟に蔵し、月毎に一政を取り明堂に班布する。諸侯は孟春の月に、天子に朝して十二月の政を受け、祖廟に蔵し、月毎に一政を取りて之を行なう。およそ陰陽を和し、天道に順う所以である。此くの如くすれば則ち禍乱作らず、災害生ぜざるなり。故に仲尼は美として之を称えて曰く、「明王の孝を以て天下を理むるなり」と。人君が其の礼を以て廟に告ぐるを、則ち告朔と謂い、此の月の政を聴視するを、則ち視朔と謂い、亦た聴朔と曰う。三つの名有りと雖も、其の実は一なり。

原文謹按明堂,天子布政之宮也。蓋所以順天氣,統萬物,動法於兩儀,德被于四海者也。夏曰世室,殷曰重屋,姬曰明堂,此三代之名也。明堂,天子太廟,所以宗祀其祖,以配上帝。東曰青陽,南曰明堂,西曰總章,北曰玄堂,中曰太室。雖有五名,而以明堂為主。漢代達學通儒,鹹以明堂、太廟為一。漢左中郎將蔡邕立議,亦以為然。取其宗祀,則謂之清廟;取其正室,則謂之太室;取其向陽,則謂之明堂;取其建學,則謂之太學;取其圜水,則謂之辟雍。異名而同事,古之制也。天子以孟春正月上辛日,於南郊總受十二月之政,還藏于祖廟,月取一政班於明堂。諸侯孟春之月,朝于天子,受十二月之政藏于祖廟,月取一政而行之。蓋所以和陰陽、順天道也。如此則禍亂不作,災害不生矣。故仲尼美而稱之曰:「明王之以孝理天下也。」人君以其禮告廟,則謂之告朔;聽視此月之政,則謂之視朔,亦曰聽朔。雖有三名,其實一也。

今、礼官の議に称して「経史の正文に天子の毎月告朔の事無し」と為す。臣謹んで《春秋》を按ずるに、「文公六年閏十月、告朔せず」と。《穀梁伝》に曰く、「閏は月に附する余日なり、天子は以て告朔せず」と。《左氏伝》に云う、「閏月に告朔せざるは、礼に非ざるなり。閏は以て時を正し、時は以て事を作し、事は以て生を厚くす。生人の道、是に於いて在り。閏朔を告げざるは、時政を棄つるなり」と。臣は此の文に拠れば、則ち天子も閏月に告朔すと為す。寧ぞ他月にして其の礼を廃する者あらんや。博く経籍を考うるに、其の文甚だ著し。何を以て之を明らかにせん。《周礼・太史》の職に云う、「朔を邦国に頒告す。閏月は、王に門に居して終月するを告ぐ」と。又《礼記・玉藻》に云う、「閏月は則ち門の左扉を合せ、其の中に立つ」と。並びに是れ天子の閏月に行なう告朔の事なり。

原文今禮官議稱「經史正文無天子每月告朔之事」者。臣謹按《春秋》:「文公六年閏十月,不告朔。」《谷梁傳》曰:「閏,附月之余日,天子不以告朔。」《左氏傳》云:「閏月不告朔,非禮也。閏以正時,時以作事,事以厚生,生人之道,於是乎在矣。不告閏朔,棄時政也。」臣據此文,則天子閏月亦告朔矣。寧有他月而廢其禮者乎?博考經籍,其文甚著。何以明之?《周禮·太史》職云:「頒告朔于邦國。閏月,告王居門終月。」又《禮記·玉藻》云:「閏月則合門左扉,立於其中。」並是天子閏月而行告朔之事也。

礼官又た称して、「《玉藻》に『天子は南門の外にて朔を聴く』。《周礼・天官・太宰》に『正月の吉に、政を邦国都鄙に布く』。幹宝の注に云う、『周正建子の月は、告朔の日なり』。此れ即ち《玉藻》の聴朔なり。今、毎歳首の元日、通天宮にて朝を受け、時令を読み、政事を布く。京官九品以上、諸州の朝集使等咸に庭に列す。此れ聴朔の礼畢りて、《周礼》、《玉藻》の文に合するなり。《礼論》及び《三礼義宗》、《江都集礼》、《貞観礼》、《顕慶礼》並びに祠令に、王者の告朔の事無し」と為す。臣謹んで《玉藻》に按ずるに、「玄冕にして東門の外にて日を朝し、南門の外にて朔を聴く」と云う。鄭玄の注に云う、「日を朝するは、春分の時なり。東門、南門は、皆な国門を謂う。明堂は国の陽に在り、毎月其の時の堂に就きて朔を聴き、事卒りて、路寝に反り宿る。凡そ朔を聴くには、必ず特牲を以て其の時の帝及び其の神に告げ、文王、武王を以て配す」と。臣謂う、今の歳首元日、通天宮にて朝を受け、時令を読み及び政を布くは、自是れ古礼の孟春上辛に、十二月の政を受け祖廟に蔵するの礼なる耳。而して月毎に一政を取り、明堂に班するは、其の義昭然たりと雖も、猶ほ未だ行なわれず。即ち礼官の言う如くせば、遂に其の事を闕く。

原文禮官又稱:「《玉藻》,'天子聽朔于南門之外。'《周禮·天官·太宰》,'正月之吉,布政于邦國都鄙。'幹寶注雲,'周正建子之月,告朔日也。'此即《玉藻》之聽朔矣。今每歲首元日,通天宮受朝,讀時令,布政事,京官九品以上、諸州朝集使等咸列於庭,此聽朔之禮畢,而合于《周禮》、《玉藻》之文矣。《禮論》及《三禮義宗》、《江都集禮》、《貞觀禮》、《顯慶禮》及祠令,無王者告朔之事者。臣謹按《玉藻雲》:「玄冕而朝日於東門之外,聽朔于南門之外。」鄭注云:「朝日,春分之時也。東門、南門,皆謂國門也。明堂在國之陽,每月就其時之堂而聽朔焉,卒事,反宿于路寢。凡聽朔,必以特牲告其時帝及其神,配以文王、武王。」臣謂今歲首元日,通天宮受朝,讀時令及布政,自是古禮孟春上辛,受十二月之政藏于祖廟之禮耳,而月取一政,班於明堂,其義昭然,猶未行也。即如禮官所言,遂闕其事。

臣又た《礼記・月令》を按ずるに、天子が毎月青陽、明堂、総章、玄堂に居するは、即ち是れ毎月告朔の事なり。先儒の旧説に、天子の行なう事、一年に十八度明堂に入る:大享は卜を問わず、一入なり;毎月告朔、十二入なり;四時に気を迎う、四入なり;巡狩の年、一入なり。今、礼官が義を立てるに、王は惟だ歳首の一入のみと為す。先儒と既に異なり、臣は敢えて同じくせず。鄭玄云う、「凡そ朔を聴くには其の帝に告ぐ」と。臣愚かに以為う、告朔の日は、則ち五方上帝の一帝なり。春は則ち霊威仰、夏は則ち赤熛怒、秋は則ち白招拒、冬は則ち葉光紀、季月は則ち含樞紐なり。並びに始祖を以て之に配す。人帝及び神は、祀典に列し、亦た其の月に於いて享祭す。魯は文公より始めて朔を視ず。子貢其の礼廃れたるを見て、其の羊を去らんと欲す。孔子は羊存すれば猶ほ其の礼を識る可く、羊亡すれば其の礼遂に廃せんと為し、故に云う、「爾は其の羊を愛す、我は其の礼を愛す」と。

原文臣又按《禮記·月令》,天子每月居青陽、明堂、總章、玄堂,即是每月告朔之事。先儒舊說,天子行事,一年十八度入明堂:大享不問卜,一入也;每月告朔,十二入也;四時迎氣,四入也;巡狩之年,一入也。今禮官立義,王惟歲首一入耳,與先儒既異,臣不敢同。鄭玄云:「凡聽朔告其帝。」臣愚以為告朔之日,則五方上帝之一帝也。春則靈威仰,夏則赤熛怒,秋則白招拒,冬則葉光紀,季月則含樞紐也,並以始祖而配之焉。人帝及神,列在祀典,亦於其月而享祭之。魯自文公始不視朔,子貢見其禮廢,欲去其羊,孔子以羊存猶可識其禮,羊亡其禮遂廢,故云:「爾愛其羊,我愛其禮。」

漢は秦の学を滅ぼすを承け、諸事草創、明堂、辟雍、其の制遂に闕く。漢の武帝封禅し、始めて泰山に明堂を造る。既に京師に立たず、所以に告朔の事無し。漢の平帝元始の中に至り、王莽政を輔け、幾くにか古に復せんとし、乃ち明堂、辟雍を建つ。帝明堂に祫祭し、諸侯王、列侯、宗室子弟九百余人助祭畢りて、皆な戸を益し、爵及び金帛を賜い、秩を増し、吏を補す各差有り。漢末喪乱、尚ほ其の礼を伝う。爰に後漢に至り、祀典仍り存す。明帝永平二年、明堂に於いて五帝を郊祀し、光武を以て配し、祭牲各一犢、楽を奏すること南郊の如し。董卓西に移り、載籍湮滅し、告朔の礼、此に於いて墜つ。晋の末に及び、其の馬郊に生じ、礼楽衣冠、地を掃いて総て尽くす。元帝江を過ぐ、是を狼狽と称し、礼楽制度、南遷すること蓋し寡く、彝曲残欠し、復た旧章無く、軍国の資と為す所、事に臨みて之を議す。既に明堂を闕く、寧ぞ告朔を論ぜん。宋朝の何承天其の文を纂集し、以て《礼論》と為す。編次を加うと雖も、事は則ち闕如たり。梁代の崔霊恩《三礼義宗》を撰す、更に異文無し。《貞観》、《顕慶礼》及び祠令が告朔を言わざるは、蓋し歴代伝わらず、其の文遂に闕くを為し、各由緒有り、以て依拠に足らず。今、礼官引きて明証と為す、臣に在りて誠に疑有り。

原文漢承秦滅學,庶事草創,明堂、辟雍,其制遂闕。漢武帝封禪,始造明堂於太山,既不立于京師,所以無告朔之事。至漢平帝元始中,王莽輔政,庶幾復古,乃建明堂、辟雍焉。帝祫祭於明堂,諸侯王、列侯、宗室子弟九百餘人助祭畢,皆益戶、賜爵及金帛、增秩、補吏各有差。漢末喪亂,尚傳其禮。爰至後漢,祀典仍存。明帝永平二年,郊祀五帝於明堂,以光武配,祭牲各一犢,奏樂如南郊。董卓西移,載籍湮滅,告朔之禮,於此而墜。暨于晉末,其馬生郊,禮樂衣冠,掃地總盡。元帝過江,是稱狼狽,禮樂制度,南遷蓋寡,彝曲殘缺,無復舊章,軍國所資,臨事議之。既闕明堂,寧論告朔。宋朝何承天纂集其文,以為《禮論》,雖加編次,事則闕如。梁代崔靈恩撰《三禮義宗》,更無異文。《貞觀》、《顯慶禮》及祠令不言告朔者,蓋為歷代不傳,其文遂闕,各有由緒,不足依據。今禮官引為明證,在臣誠實有疑。

陛下明堂を肇建し、聿に古典に遵い、告朔の礼、猶ほ旧間を闕く。古を欽若稽い、須らく補葺すべし。若し毎月明堂に於いて政を聴かば、事亦た煩数なり。孟月に朔を視るは、恐らく廃す可からず。

原文陛下肇建明堂,聿遵古典,告朔之禮,猶闕舊間,欽若稽古,應須補葺。若每月聽政於明堂,事亦煩數,孟月視朔,恐不可廢。

帝はまた奉常に命じて多くの儒者を広く集めさせ、王方慶・仁諝の上奏を取り上げ、得失を議定させた。当時の大儒である成均博士の呉揚吾・太学博士の郭山惲が言うには、「臣ら謹んで『周礼』・『礼記』及び『三伝』を按ずるに、いずれも天子の告朔の礼がある。天子が諸侯に告朔を頒つのは、秦の政が『詩』・『書』を焚滅したことにより、これによって告朔の礼は廃れた。今、明堂が初めて建てられ、総章が新たに立てられ、百王の絶えた軌跡を継ぎ、万代の大法を樹てようとしており、上は厳かに祖宗を配祀し、下は謹んで人時に授け、人をして礼楽を知らしめ、道を中和に適わせ、災害を生ぜず、禍乱を作さないようにしようとしている。今もし因循して朔を頒つならば、毎月これに従って行い、礼は時に随うことを貴び、事は沿革を須う。王方慶の議に依り、四時の孟月の日及び季夏に明堂で告朔の礼を修復し、以て天下に頒つことを望む。その帝及び神も、また方慶に依って鄭玄の義を用い、五時帝を明堂上に告げることを請う。そうすれば厳配の道は神明に通じ、至孝の徳は四海に光るであろう。」詔してこれに従った。

原文上又命奉常廣集眾儒,取方慶、仁諝所奏,議定得失。當時大儒成均博士吳揚吾、太學博士郭山惲曰:「臣等謹按《周禮》、《禮記》及《三傳》,皆有天子告朔之禮。夫天子頒告朔于諸侯,秦政焚滅《詩》、《書》,由是告朔禮廢。今明堂肇建,總章新立,紹百王之絕軌,樹萬代之鴻規,上以嚴配祖宗,下以敬授人時,使人知禮樂,道適中和,災害不生,禍亂不作。今若因循頒朔,每月依行,禮貴隨時,事須沿革。望依王方慶議,用四時孟月日及季夏於明堂修復告朔之禮,以頒天下。其帝及神,亦請依方慶用鄭玄義,告五時帝於明堂上。則嚴配之道,通於神明;至孝之德,光于四海。」制從之。

長安四年、初めて「元日に明堂で受朝し、時令を読むことを停める」と制した。中宗が即位し、神龍元年九月、親しく明堂を享し、天地を合祭し、高宗を以て配した。礼が終わると、京師を曲赦した。明年、駕が京に入り、季秋の大享に就き、再び円丘に就いて事を行い、睿宗の世に至るまで続いた。

原文長安四年,始制:「元日明堂受悲,停讀時令。」中宗即位,神龍元年九月,親享明堂,合祭天地,以高宗配。禮畢,曲赦京師。明年駕入京,于季秋大享,復就圓丘行事,迄于睿宗之世。

開元二年八月、太子賓客の薛謙光が『九鼎銘』を献じた。その『蔡州鼎銘』は、天后が御撰し、曰く「羲・農が首出し、軒・昊が期を膺け、唐・虞が踵を継ぎ、湯・禹が時に乗ず。天地光宅し、域中雍熙す。上天降鑑し、方に隆基を建つ。」紫微令の姚崇が奏して言うには、「聖人が運を啓き、吉兆必ず顕わる。請うらくは史館に宣付せられん。」詔してこれに従った。五年正月、東都に幸し、将に大享の礼を行わんとした。太常少卿の王仁忠・博士の馮宗陳貞節らが議し、武氏の造った明堂は典制に乖いているとして、奏議して言うには、

原文開元二年八月,太子賓客薛謙光獻《九鼎銘》。其《蔡州鼎銘》,天后禦撰,曰:「羲、農首出,軒、昊膺期。唐、虞繼踵,湯、禹乘時。天地光宅,域中雍熙。上天降鑒,方建隆基。」紫微令姚崇奏曰:「聖人啟運,休兆必彰。請宣付史館。」從之。五年正月,幸東都,將行大享之禮。太常少卿王仁忠、博士馮宗陳貞節等議,以武氏所造明堂,有乖典制,奏議曰:

明堂の建つことは、その由来遠い。天が象を垂れ、聖人がこれを則る。蒿柱茅簷の規、上円下方の制、大数を考うるに、三七の間を踰えず、方中に定むれば、必ず丙巳の地に居るは、豈に房心の政を布く所を得、太微上帝の宮に当たるを得ざらんや。故に仰いで葉い俯いて従い、名を正し位を定め、人神雑わらず、各々その序を司れば、則ち嘉応響いて至り、太和を保合す。

原文明堂之建,其所從來遠矣!自天垂象,聖人則之。蒿柱茅簷之規,上圓下方之制,考之大數,不逾三七之間,定之方中,必居丙巳之地者,豈非得房心布政之所,當太微上帝之宮乎?故仰葉俯從,正名定位,人神不雜,各司其序,則嘉應響至,保合太和。

昔、漢氏が秦を承け、経籍の道息み、旁らに湮墜を求め、詳しく究め難く明らかならず。孝武の初め、長安城南に明堂を立てんと議し、竇太后の儒術を好まざるに遭い、事乃ち中廃す。孝成の代、また城南に立てんと欲し、その制度を議するも、之を能く決する者なし。孝平の元始四年に至り、初めて南郊に創造し、以て厳配を申べしむ。光武の中元元年、国城の南に立てる。魏・晋より梁朝に至るまで、規制或いは殊なるも、而して居る所の地は、常に丙巳を取るは、これ百王易えざるの道なり。

原文昔漢氏承秦,經籍道息,旁求湮墜,詳究難明。孝武初,議立明堂于長安城南,遭竇太后不好儒術,事乃中廢。孝成之代,又欲立于城南,議其制度,莫之能決。至孝平元始四年,始創造於南郊,以申嚴配。光武中元元年,立于國城之南。自魏、晉迄于梁朝,雖規制或殊,而所居之地,常取丙巳者,斯蓋百王不易之道也。

高宗天皇大帝は平の運を纂承し、樸素の風を崇め、四夷来賓し、九有咸く乂う。永徽三年、礼官学士に詔して明堂の制度を議せしむるも、群儒紛競し、各々異端を執り、久しく決せず、因って遂に止むるは、何ぞや。財足らず力堪えずと謂うに非ず。将に周・孔既に遥かで、礼経且つ紊れ、事古に師らず、或いは天心に爽い、用いて程と作し難く、神祐を孚かさざらんとす。則天太后は禁闈の政を総べ、軒台の威を藉り、皇室中圮の期に属し、和熹の権に従うの制を躡む。乾元大殿・承慶小寢を以て、正陽亭午の地に当たり、実に先聖の聴断の宮なりと為す。順を表し端闈を端め、精を儲け営室し、爰に朝享より従い、未だ嘗て臨禦せず。乃ち工徒を起こし、挽いて摧覆せしむ。既に毀ちたる後、雷声隠然たり、衆庶これを聞き、或いは以て神霊感動の象と為す。ここにおいて土木の麗を増し、府庫の饒に因り、南街北闕に天枢大儀の制を建て、乾元の遺趾に重閣層楼の業を興す。煙焰日を蔽い、梁柱雲を排し、人は斯に労を告げ、天は実に誡を貽す。煨燼甫爾にして、遽かに修復を加う。況んや地丙巳に殊なり、霊心に答えず、跡膺期に匪ず、乃ち厳配を申ぶ。事彝典に昧く、神昭格せず。これその不可なる者一なり。また明堂の制は、木を鏤まず、土を文めず。今、体式宜しきに乖き、経に違ひ礼を紊し、雕鐫の及ぶ所、侈を窮くし麗を極む。これその不可なる者二なり。高明爽塏は、事虔敬に資す。宮掖に密邇し、何を以て天を祈らん。人神雑擾し、物に放つべからず。これその不可なる者三なり。況んや両京の上都は、万方則を取るに、而して天子陽の位に当たるを闕き、聴政便殿の中に居る。職司その憂いを其れす、豈に黙黙たるを容れんや。当に須らく歴の計を審かに考へ、煩省の宜を択び、便ならざる者は事を量りて改修し、因むべき者は宜に随ひて適用し、彼の明堂の号を削り、乾元の名を克復し、則ち当寧偏ること無く、人その旧を識らん。

原文高宗天皇大帝纂承平之運,崇樸素之風,四夷來賓,九有鹹乂。永徽三年,詔禮官學士議明堂制度,群儒紛競,各執異端,久之不決,因而遂止者,何也?非謂財不足、力不堪也。將以周、孔既遙,禮經且紊,事不師古,或爽天心,難用作程,神不孚祐者也。則天太后總禁闈之政,藉軒台之威,屬皇室中圮之期,躡和熹從權之制。以為乾元大殿,承慶小寢,當正陽亭午之地,實先聖聽斷之宮。表順端闈,儲精營室,爰從朝享,未始臨禦。乃起工徒,挽令摧覆。既毀之後,雷聲隱然,眾庶聞之,或以為神靈感動之象也。於是增土木之麗,因府庫之饒,南街北闕,建天樞大儀之制;乾元遺趾,興重閣層樓之業。煙焰蔽日,樑柱排雲,人斯告勞,天實貽誡。煨燼甫爾,遽加修復。況乎地殊丙巳,未答靈心,跡匪膺期,乃申嚴配。事昧彝典,神不昭格。此其不可者一也。又明堂之制,木不鏤,土不文。今體式乖宜,違經紊禮,雕鐫所及,窮侈極麗。此其不可者二也。高明爽塏,事資虔敬,密邇宮掖,何以祈天?人神雜擾,不可放物。此其不可者三也。況兩京上都,萬方取則,而天子闕當陽之位,聽政居便殿之中,職司其憂,豈容沉默。當須審考曆之計,擇煩省之宜,不便者量事改修,可因者隨宜適用,削彼明堂之號,克復乾元之名,則當寧無偏,人識其舊矣。

詔して所司に詳議して奏聞せしむ。

原文詔令所司詳議奏聞。

刑部尚書の王志愔らが奏議し、皆この堂の置かれたるは実に典制に乖き、多く改削を請い、旧に依りて乾元殿を造らんとす。乃ち詔して曰く、「古の皇綱を操り大象を執る者は、何ぞ嘗て上は天道を稽へず、下は人極に順はず、或いは変通して時に随ひ、爰に損益して務を成さんや。且つ衢室創制し、堂を筵を以て度り、之を用いて礼神するは、是れ孝享を光し、之を用いて布政するは、蓋し視朔を称す。先王の人倫を厚くし天地を感ずる所以なり。少陽位有り、上帝斯に歆む。此れ則ち神は黷せざるを貴び、礼は至敬に殷し。今の明堂は、宮掖に俯鄰す。此の厳祀は、肅恭に異なり。苟も憲章に非ずんば、将に何を以て物を軌せん。是れ由りて礼官博士・公卿大夫、広く群議に参じ、前古に欽若し、露寝の式を存すべく、用いて辟雍の号を罷むべし。乾元殿と改むべく、臨禦する毎に正殿の礼に依るべし。」ここより駕東都に在り、常に元日冬至に乾元殿にて朝賀を受く。季秋の大享祀は、旧に依りて円丘にて事を行ふ。十年、再び乾元殿を題して明堂と為すも、享祀の礼を行はず。二十五年、駕西京に在り、詔して将作大匠の康紵素をして東都に往きて之を毀たしむ。紵素は毀拆人を労するを以て、乃ち奏請して且く上層を拆ち、旧制より九十五尺卑くす。又柱心木を去り、平座上に八角楼を置き、楼上に八龍有り、身を騰して火珠を捧ぐ。又旧制より小さく、周圍五尺、真瓦を以て覆ひ、其の永逸を取る。旧に依りて乾元殿と為す。

原文刑部尚書王志愔等奏議,鹹以此堂所置,實乖典制,多請改削,依舊造乾元殿。乃下詔曰:「古之操插皇綱、執大象者,何嘗不上稽天道,下順人極,或變通以隨時,爰損益以成務。且衢室創制,度堂以筵,用之以禮神,是光孝享,用之以布政,蓋稱視朔,先王所以厚人倫、感天地者也。少陽有位,上帝斯歆,此則神貴於不黷,禮殷於至敬。今之明堂,俯鄰宮掖,此之嚴祀,有異肅恭,苟非憲章,將何軌物?由是禮官博士、公卿大夫,廣參群議,欽若前古,宜存露寢之式,用罷辟雍之號。可改為乾元殿,每臨禦宜依正殿禮。」自是駕在東都,常以元日冬至於乾元殿受朝賀。季秋大享祀,依舊於圓丘行事。十年,復題乾元殿為明堂,而不行享祀之禮。二十五年,駕在西京,詔將作大匠康紵素往東都毀之。紵素以毀拆勞人,乃奏請且拆上層,卑於舊制九十五尺。又去柱心木,平座上置八角樓,樓上有八龍,騰身捧火珠。又小於舊制,周圍五尺,覆以真瓦,取其永逸。依舊為乾元殿。