旧唐書
志第一 礼儀 一
『礼記』に曰く、「人生にして静かなるは、天の性なり。物に感じて動くは、性の欲なり」と。欲は限り極まりなく、禍乱ここより生ず。聖人はその邪放を懼れ、ここに楽を作りてその性を和し、礼を制してその情を検し、俯仰に容有り、周旋矩に中らしむ。故に肆覲の礼立てば、則ち朝廷尊く、郊廟の礼立てば、則ち人情粛しく、冠婚の礼立てば、則ち長幼序有り、喪祭の礼立てば、則ち孝慈著しく、蒐狩の礼立てば、則ち軍旅振い、饗宴の礼立てば、則ち君臣篤し。是れ礼なる者は、品彙の璿衡、人倫の縄墨、これを失う者は辱しめられ、これを得る者は栄え、造物已還、須臾も離るべからざるを知る。五帝の時、これ治の本と為す。帝に類し宗を禋るは、吉礼なり。音を遏み陶瓦は、凶礼なり。瑞を班し覲を肆るは、賓礼なり。苗を誅し鯀を殛つは、軍礼なり。降りて嬪を虞に厘むは、嘉礼なり。故に曰く、五礼五玉を修むるは、堯・舜の事なり。時代猶お淳く、節文尚お簡なり。周公成王に相たり、五礼六楽を制し、各典司有り、その儀大いに備わる。幽・厲道を失い、平王東遷し、周室浸く微く、諸侯法を侮る。男女冠婚の節を失い、『野麕』の刺興り、君臣朝会の期を廃し、践土の譏著し。葬すれば則ち奢儉算無く、軍すれば則ち狙詐仁ならず。数百年の間、礼儀大いに壊る。仲尼衛より魯に返りて、定礼の言有りと雖も、蓋し周公の旧章を挙ぐるのみ、魯邦の乱政を救う無し。仲尼の世、体教已に亡し。秦の燔煬に遭い、遺文殆んど尽きぬ。
漢興り、叔孫通草定し、朝儀を習うに止まる。郊天祀地の文、配祖禋宗の制、拊石鳴球の備物、介丘璧水の盛猷に至っては、語れば則ちこれ有り、遑て措思する無し。世宗儒術を礼重し、屡賢良に訪い、河間古文に博洽し、大いに経籍を搜し、周の旧典有り、始めて『周官』五篇、『士礼』十七篇を得たり。王又諸子の説を鳩集し、礼書一百四十篇と為す。後倉・二戴、これに因りて刪択し、四十九篇を得たり、これ『曲台集礼』、今の『礼記』是なり。然れども数百載旧儀を見ず、諸子の書する所、その意を論ずるに止まる。百家胸臆の説を縦にし、五礼著定の文無し。故に西漢一朝、曲台制無し。上帝を甘泉に郊し、後土を汾陰に祀る。宗廟定主無く、楽懸金石を缺く。巡狩勳・華の典に非ず、封禅陶匏の音に異なり。光武命を受け、始めて儒官に詔して儀注を草定せしめ、経邦の大典、ここに至り粗く備わる。漢末喪乱、又淪没す。衛宏・応仲遠・王仲宣等遺散を掇拾し、条目のみを裁志す。東京の旧典、世聞くこと得ず。晋より梁に至るまで、継いで条纘を令す。鴻生巨儒、綿蕝に鋭思し、江左の学者、彷彿として観るべし。隋氏陳を平げ、寰区一統し、文帝太常卿牛弘に命じ南北の儀注を集め、『五礼』一百三十篇を定む。煬帝広陵に在り、亦学徒を聚め、『江都集礼』を修す。ここに由りて周・漢の制、僅かに遺風有り。
神堯禅を受け、未だ製作に遑あらず、郊廟宴享、悉く隋代の旧儀を用う。太宗皇帝践祚の初め、悉く文教を興し、乃ち中書令房玄齢・秘書監魏征等の礼官学士に詔し、旧礼を修改し、定著して『吉礼』六十一篇、『賓礼』四篇、『軍礼』二十篇、『嘉礼』四十二篇、『凶礼』六篇、『国恤』五篇、総て一百三十八篇、分かって一百巻と為す。玄齢等始めて礼官と述議し、『月令』の䄍祭は、唯だ天宗を祭ると為し、日月以下を謂う。近代五天帝・五人帝・五地祇を䄍すは、皆古典に非ず、今並びにこれを除く。又礼に依れば、人に益有れば則ちこれを祀る。神州は国の托する所、余の八州は則ち義相及ばず。近代九州を通祭す、今八州等八座を除き、唯だ皇地祇及び神州を祭り、以て祀典を正す。又漢建武中封禅し、元封時の故事を用い、泰山を円台上に封じ、四面皆石闕を立て、並びに高さ五丈。方石再累有り、玉牒書を蔵す。石検十枚、四辺にこれを検し、東西各三、南北各二。外に石封を設け、高さ九尺、上に石蓋を加う。周りに石距十八を設け、碑の状の如く、壇を去ること二歩、その下の石跗地に数尺入る。今案ずるに封禅なる者は、本成功を以て上帝に告ぐ。天道は質を貴び、故に槁秸を藉用し、樽は瓦甒を以てす。この法は経誥に在らず、又醇素の道に乖く、定議してこれを除く。近く又案ずるに梁甫は梁陰なり、代わりに山上に壇を設くは、乃ち陰に処するの義に乖く。今禅礼を定め壇位を山北に改む。又皇太子の入学及び太常の山陵を行い、天子の大射、合朔、五兵を太社に陳べ、農隙に武を講じ、皇后を納れて六礼を行い、四孟月に時令を読み、天子の陵に上り、廟に朝し、辟雍にて老を養うの礼は、皆周・隋の闕く所、凡そ二十九条を増多す。余は並びに古礼に准依し、旁らに異代を求め、その善きものを択びてこれに従う。太宗善しと称し、内外に頒ちて行わしむ。
高宗の初め、議者『貞観礼』の節文未だ尽きずと為し、又太尉長孫無忌・中書令杜正倫李義府・中書侍郎李友益・黄門侍郎劉祥道許圉師・太子賓客許敬宗・太常少卿韋琨・太学博士史道玄・符璽郎孔志約・太常博士蕭楚才孫自覚賀紀等に詔し重ねて緝定を加え、勒成して一百三十巻と為す。顕慶三年に至りこれを奏上す。旧礼を増損し、並びに令式と参会して改定し、高宗自らこれが序を為す。時に許敬宗・李義府事を用い、その損益する所、多く希旨に渉り、行用已後の後、学者紛議し、貞観に及ばずと為す。上元三年三月、詔を下し貞観年の礼を依りて定めと為すことを令す。儀鳳二年、又詔し顕慶新修の礼多く事古に師わずと為し、その五礼並びに周礼に依りて事を行わしむ。ここより礼司益々憑准無く、大事有る毎に、皆古今の礼文を参会し、臨時に撰定す。然れども貞観・顕慶二『礼』は、皆行用廃せられず。時に太常卿裴明礼・太常少卿韋万石相次いでその事を参掌し、又前後博士賀敱・賀紀・韋叔夏・裴守真等多く議定す。則天の時、礼官甚だ詳明ならずと為し、特詔して国子博士祝欽明及び叔夏に、儀注有る毎に、皆参定せしむ。叔夏卒したる後、博士唐紹専ら礼儀を知り、博学旧事に詳練し、議者称職と為す。先天二年、紹給事中と為り、武を講ずるに儀を失い、罪を得て誅せらる。その後礼官張星・王琇又元日の儀注乖失を以て、詔し官を免じ家に帰りて学問せしむ。
昊天上帝・五方帝・皇地祇・神州及び宗廟を大祀とし、社稷・日月星辰・先代帝王・嶽鎮海瀆・帝社・先蠶・釈奠を中祀とし、司中・司命・風伯・雨師・諸星・山林川沢の類を小祀とする。大祀は、所司が毎年予め日を定めて奏上し下す。小祀は、ただ牒を所由に移すのみである。もし天子が親しく祭祀を行わないときは、三公が行事を執り行う。もし官が欠けているときは、職事三品以上の者が三公の行事を代行する。大祀は散斎四日、致斎三日。中祀は散斎三日、致斎二日。小祀は散斎二日、致斎一日。散斎の日は、昼間は従前通り政務を執り行い、夜は家の正寝に宿泊し、喪に弔問し疾病を見舞うことを得ず、刑殺の文書を判署せず、罪人を決罰せず、音楽を作さず、穢悪の事に関与しない。致斎はただ祭祀の事を行うことができるのみで、その他は全て断つ。もし大祀であれば、斎官は皆散斎の日に尚書省に集まって誓戒を受け、太尉が誓文を読む。致斎の日は、三公は尚書省に安置され、その他の官は各々本司に、もし皇城内に本司がなければ太常郊社・太廟署に安置される。皆日が出る前に斎所に至る。祭祀の前日に至れば、各々斎所より昼漏上水五刻を以て祠所に向かう。神を接する官は、皆沐浴して明衣を給される。もし天子が親しく祭祀するときは、正殿において致斎の礼を行う。文武の官は袴褶を着用し、殿庭に陪位する。車駕及び斎官が祠祭の所に赴くとき、州県及び金吾は行く路を清め、諸々の凶穢及び縗絰を着ける者を見えざるようにし、哭泣の声が祭所に聞こえるものは一時断ち、事が終われば従前通りとする。斎官が祠所に至れば、太官はただ食を設けるのみである。祭祀が終われば、班序に従って餕を行い、終われば均しく胙を分け、貴き者は重ねず、賤しき者は虚しくしない。中祀以下は、ただ誓戒を受けないのみで、その他は皆大祀の礼と同じである。
武徳初年、令を定めて、
毎年冬至に、昊天上帝を円丘において祀り、景帝を配する。その壇は京城明徳門外の道の東二里にある。壇の制は四成で、各高さ八尺一寸、下成の広さは二十丈、再成は十五丈、三成は十丈、四成は五丈である。毎回祭祀するときは、昊天上帝及び配帝の位を平座に設け、槁秸を藉とし、器は陶匏を用いる。五方上帝・日月・内官・中官・外官及び衆星は、皆従祀する。その五方帝及び日月七座は、壇の第二等にあり、内五星以下の官五十五座は壇の第三等にあり、二十八宿以下の中官百三十五座は壇の第四等にあり、外官百十二座は壇下の外壝の内にあり、衆星三百六十座は外壝の外にある。その犠牲は、上帝及び配帝には蒼犢二頭を用い、五方帝及び日月には方色の犢各一頭を用い、内官以下には羊豕各九頭を加える。夏至に、皇地祇を方丘において祭り、また景帝を配する。その壇は宮城の北十四里にある。壇の制は再成で、下成は方十丈、上成は五丈である。毎回祭祀するときは、地祇及び配帝の位を壇上に設け、神州及び五嶽・四鎮・四瀆・四海・五方・山林・川沢・丘陵・墳衍・原隰は、皆従祀する。神州は壇の第二等にある。五嶽以下三十七座は、壇下の外壝の内にある。丘陵等三十座は、壝外にある。その犠牲は、地祇及び配帝には犢二頭を用い、神州には黝犢一頭を用い、嶽鎮以下には羊豕各五頭を加える。
孟春の辛の日に、穀を祈り、感帝を南郊において祀り、元帝を配し、犠牲に蒼犢二頭を用いる。孟夏の月に、昊天上帝を円丘において雩祀し、景帝を配し、犠牲に蒼犢二頭を用いる。五方上帝・五人帝・五官は並びに従祀し、方色の犢十頭を用いる。季秋に、五方上帝を明堂において祀り、元帝を配し、犠牲に蒼犢二頭を用いる。五人帝・五官は並びに従祀し、方色の犢十頭を用いる。孟冬に、神州を北郊において祭り、景帝を配し、犠牲に黝犢二頭を用いる。
貞観初年、詔して高祖を円丘及び明堂北郊の祀りに配することを奉じ、元帝は専ら感帝に配し、その余は悉く武徳の制に依る。永徽二年、また太宗を明堂の配祀に奉じ、有司は遂に高祖を五天帝に配し、太宗を五人帝に配した。
顕慶元年、太尉長孫無忌が礼官らと奏議して曰く、
臣ら謹んで方冊を尋ね、歴代の前規を考うるに、明堂を宗祀するには、必ず天帝に配するものである。然るに伏羲五代は、本来五郊に配し、予め堂に入るのは、自ら従祀によるものである。今、太宗を配することを以てとし、理に不安がある。伏して見るに永徽二年七月、詔して明堂を建て、伏して惟うに陛下は天より聖徳を授かり、太宗を追奉し、既に厳配に遵っている。時に高祖は先ず明堂に在り、礼司は惑いを致し、竟に遷祀せず、意のままに儀を定め、遂に便を著して令とした。乃ち太宗皇帝を降して五人帝に配し、雖た復た明堂に在りと雖も、天帝に対越することを得ず、深く明詔の意に乖き、又先典と同じからず。
謹んで案ずるに『孝経』に云う、「孝は厳父より大なるは莫く、厳父は天に配するより大なるは莫し。昔者周公文王を明堂に宗祀して、以て上帝に配す」と。伏して惟うに詔の意は、義はここに在る。今、所司の行う令は甚だ旨を失している。又、漢・魏・晋・宋歴代の礼儀を尋ぬるに、父子同じく明堂に配する義は無い。唯だ『祭法』に云う、「周人は嚳を禘し稷を郊し、文王を祖とし武王を宗とす」と。鄭玄の注に云う、「禘・郊・祖・宗は、祭祀を以て配食するを謂う。禘は昊天を円丘において祭るを謂い、郊は上帝を南郊において祭るを謂い、祖・宗は五帝・五神を明堂において祭るを謂う」と。鄭のこの注を尋ぬれば、乃ち祖・宗を合して一つの祭りと為し、又文・武を共に明堂に在らしめ、連衽して配祀するは、誠に謬りである。故に王肅が駁して曰く、「古えは功有るを祖とし徳有るを宗とす。祖・宗は自ら毀たざるの名にして、明堂に配食するを謂うに非ざるなり。審らかに鄭の義の如くならば、『孝経』は当に文王を明堂に祖祀すと言うべく、宗祀すと言うを得ざるなり。凡そ宗とは尊ぶなり。周人は既に其の廟を祖とし、又其の祀りを尊ぶ。孰れか明堂に祖とするを謂わんや」と。鄭は『孝経』を引きて『祭法』を解くが、周公の本意を暁らず、甚だ仲尼の義旨に非ざるなり。又「武王を宗とす」を解いて云う、「勾芒の類に配する、是れ五神を謂う、位は堂下に在り」と。武王の位を降すは、君の叙を失う。
又案ずるに『六韜』に曰く、「武王紂を伐つに、雪深さ丈余、五車二馬、行くに轍跡無く、詣りて営に謁を求む。武王怪しみて焉に問う。太公対えて曰く、『此れ必ず五方の神なり、来たりて事を受くるのみ』と。遂に其の名を以て召し入れ、各其の職を以て命ず。既にして殷を克つ、風調雨順たり」と。豈に生くる時に職を受け、歿して同じく配する有らんや。尊を降して卑に敵するは、理然らざるなり。故に『春秋外伝』に曰く、「禘・郊・祖・宗・報の五者は、国の典祀なり」と。伝に五者と言う、故に知る各々一事なることを、祖・宗を明堂に合祀するを謂うに非ざるなり。
臣謹んで上は殷・周を考へ、下は貞觀に至り、並びに一代に兩帝同じく明堂に配することなし。南齊の蕭氏は武・明の昆季を以て並びに明堂に配食せしむるも、事乃ち經に據らず、未だ援據に足らず。又武德の時の令を檢すれば、元皇帝を以て明堂に配し、兼ねて感帝に配す。貞觀の初めに至り、情に緣り禮を革め、高祖を奉祀して明堂に配し、世祖を奉遷して專ら感帝に配す。此れ即ち聖朝の故事既に遞遷の典あり、宗廟に法を取り、古の制なり。伏して惟ふに太祖景皇帝は室を周に構へ、絕代の丕業を建て、祚を汾・晉に啓き、曆聖の洪基を創む。德は發生に邁り、道は立極に符す。又世祖元皇帝は鱗を潛にし慶を韞み、道を屈して周に事へ、浚發の靈源を導き、光宅の垂裕を肇む。祖と稱して清廟に在り、萬代遷らず。配祀を停めて、古義に符せんことを請ふ。伏して惟ふに高祖太武皇帝は躬より天命を受け、神州を奄有し、制を創め物を改め、元を體し正に居り、國の始祖たり、抑も舊章有り。昔者炎漢の高帝、當塗の太祖は、皆受命を以て、例並びに天に配す。故實に遵ひ、高祖を圓丘に奉祀して、以て昊天上帝に配せんことを請ふ。伏して惟ふに太宗文皇帝は道上元に格り、功下瀆を清め、率土の塗炭を拯ひ、大造を生靈に協す。詔書に准ひ、明堂に宗祀して、以て上帝に配せんことを請ふ。又武德の故事に依り、兼ねて感帝に配して主と作さんことを請ふ。斯れ乃ち二祖の德隆く、永く廟を遷さず、兩聖の功大なり、各天に配するを得。遠く《孝經》に協ひ、近く詔意を申す。
二年七月、禮部尚書許敬宗と禮官等又奏議す。
祠令及び新禮に據れば、並びに鄭玄の六天の議を用ひ、圓丘に昊天上帝を祀り、南郊に太微感帝を祭り、明堂に太微五帝を祭る。謹んで鄭玄の此の義を按ずるに、唯緯書に據り、所說の六天は皆星象を謂ひ、而して昊天上帝は穹蒼に屬せず。故に《月令》及び《周官》に注し、皆圓丘の祭る昊天上帝を北辰星曜魄寶と謂ふ。又《孝經》の「郊祀後稷以て天に配す」及び明堂の嚴父天に配するは、皆太微五帝と爲す。其の說く所を考ふるに、舛謬特甚だ深し。按ずるに《周易》に云く、「日月天に麗し、百穀草木地に麗す。」又云く、「天に在りて象を成し、地に在りて形を成す。」足らく辰象は天に非ず、草木は地に非ざるを明らかにす。《毛詩傳》に云く、「元氣昊大なれば則ち昊天と稱し、遠く蒼蒼と視れば則ち蒼天と稱す。」此れ則ち蒼昊を體と爲し、星辰の例に入らず。且つ天地各一、是れ兩儀と曰ふ。天尚ほ二無く、焉んぞ六有らんや。是を以て王肅群儒、皆此の義を駁す。又太史の《圓丘圖》を檢すれば、昊天上帝の座の外、別に北辰の座有り、鄭義と異なり。太史令李淳風等の狀を得るに、昊天上帝の圖位は自ら壇上に在り、北辰は自ら第二等に在り、北斗と並列し、星官内座の首と爲り、鄭玄の緯書に據りて說く所と同じからず。此れ乃ち羲和の掌る所、象を觀て圖を製し、推步徵有り、相沿ひて謬らず。
又《史記天官書》等を按ずるに、太微宮に五帝有るは、自ら五精の神、五星の奉ずる所。其の人主の象を以てするを以て、故に之に況へて帝と曰ふ。亦房心の天王の象と爲るが如く、豈天ならんや。《周禮》に云く、「五帝を四郊に兆す。」又云く、「五帝を祀れば則ち百官の誓戒を掌る。」唯五帝と稱し、皆天を言はず。此れ自ら太微の神、本穹昊の祭に非ず。又《孝經》は唯「郊祀後稷」と云ふのみ、別に圓丘を祀るの文無し。王肅等以爲く、郊は即ち圓丘、圓丘は即ち郊、猶ほ王城・京師の名を異にし實を同じくするが如し。經典に符合し、其の義甚だ明らかなり。而るに今鄭說に從ひ、兩祭に分ち、圓丘の外、別に南郊有り、正經を違棄し、理深く未だ允ならず。且つ吏部式を檢すれば、唯南郊陪位有り、更に別に圓丘を載せず。式文は既に王肅に遵ひ、祠令は仍ほ鄭義を行ふ、令・式相乖き、理宜しく改革すべし。
又《孝經》に云く「嚴父は天に配するより大なるは莫し」、下文即ち云く、「周公宗祀文王を明堂にして、以て上帝に配す。」則ち是れ明堂の祀る所、正に天に配するに在り、而るに但だ星官を祭ると爲すは、反つて明義に違ふ。又《月令》を按ずるに、「孟春の月、上帝に穀を祈る。」《左傳》亦云く、「凡そ祀、啓蟄にして郊し、郊して後に耕す。故に郊祀後稷して、以て農事を祈る。」然らば則ち啓蟄に天を郊するは、自ら穀を祈るを以てし、感帝の祭と謂ふは、事甚だ經に據らず。今請ふらくは姬・孔に憲章し、王・鄭を考取し、四郊に氣を迎へ、太微五帝の祀を存し、南郊明堂は、緯書六天の義を廢せん。其の方丘地を祭るの外、別に神州有り、之を北郊と謂ひ、
地を分けて二と爲すは、既に典據無く、理又通ぜず、亦一祀に合せて、以て古義に符せんことを請ふ。仍ほ並びに式令に條附し、永く後則を垂れん。
敬宗等又籩・豆の數を議して曰く、「今の光祿式を按ずるに、天地・日月・嶽鎮・海瀆・先蠶等を祭るは、籩・豆各四。宗廟を祭るは、籩・豆各十二。社稷・先農等を祭るは、籩・豆各九。風師・雨師を祭るは、籩・豆各二。此の式文を尋ぬるに、事深く乖謬す。社稷は天地より多く、貴ばざるに似たり。風雨は日月より少く、又貴ばざるに似たり。且つ先農・先蠶は、俱に中祭と爲り、或は六或は四、理通ぜず。又先農の神は、釋奠より尊し、籩・豆の數、先農乃ち少く、理既に差舛し、因循に難し。謹んで《禮記郊特牲》を按ずるに云く、'籩・豆の薦は、水土の品、敢へて褻味を用ひて多品を貴ばず、神明に交はるの義なり。'此れ即ち祭祀の籩・豆は、多きを以て貴しとす。宗廟の數は、郊を踰ゆべからず。今請ふらくは大祀同じく十二と爲し、中祀同じく十と爲し、小祀同じく八と爲し、釋奠は中祀に准へん。自餘の座に從ふは、並びに舊式に依らんことを請ふ。」詔並びに之を可とす、遂に禮令に附す。
乾封の初め、高宗東封より回り、又詔して舊に依り感帝及び神州を祀らしむ。司禮少常伯郝處俊等奏して曰く、
顕慶の新礼は、感帝の祭祀を廃し、祈穀と改めた。昊天上帝には、高祖太武皇帝を配する。旧礼を検すると、感帝には世祖元皇帝を配していた。今、勅を奉じて旧に仍り祈穀を感帝に復し、高祖太武皇帝を神州に配する。また高祖は新礼に依り既に円丘の昊天上帝及び方丘の皇地祇に配されている。若し更に感帝・神州に配するならば、恐らくは古礼に背くことあらん。按ずるに『礼記・祭法』に云う、「有虞氏は黄帝を禘し嚳を郊し、夏後氏も亦た黄帝を禘し鯀を郊し、殷人は嚳を禘し冥を郊し、周人は嚳を禘し稷を郊す」と。鄭玄の注に云う、「禘とは円丘に於いて昊天を祭るを謂う。南郊に於いて上帝を祭るを郊と曰う」と。又た『三礼義宗』を按ずるに、「夏正に天を郊する者は、王者各々其の出づる帝を南郊に祭る」と云い、即ち『大伝』の所謂「王者は其の祖の自ら出づる所を禘し、其の祖を以て之に配す」是れなり。此れは禘には遠祖を須い、郊には始祖を須う。今若し禘・郊同じく一祖を用うれば、恐らくは典礼に据る所無からん。其の神州の十月に祭るは、十月は陰を用うる事なれば、故に此の時に之を祭る。依って検するに更に故実無し。按ずるに『春秋』に「啓蟄にして郊す」とあり、鄭玄の注『礼』に云う、「三王の郊は、一に夏正を用う」と。又た『三礼義宗』に云う、「神州を祭る法は、正月に北郊に祀る」と。請う、典礼に依り、正月に祭らんことを。請う、奉常博士及び司成博士等を集めて総議し定めて奏聞せしめん。其の霊台・明堂は、書礼を検するに鄭玄の義を用い、仍って五方帝を祭り、新礼は王粛の義を用う。
又た詔を下して鄭玄の義に依り五天帝を祭らしめ、其の雩及び明堂は、並びに勅に准じて祭祀す。是に於いて奉常博士陸遵楷・張統師・権無二・許子儒等議して称す、「北郊の月は、古より明文無し。漢の光武、正月辛未に始めて北郊を建つ。咸和中の議、北郊同じく正月を用う。然れども皆指拠無し。武徳以来の礼令は即ち十月を用う。是れ陰を用うる事なれば、故に時に於いて之を祭るなり。請う、旧に依り十月に致祭せん」。
乾封二年十二月、詔して曰く、
夫れ命を受けて天を承け、至敬を明祀に崇ぶ。図を膺け籙を纂ぎ、大孝を厳配に昭らかにす。是を以て鰷鱨を清廟に薦え、振鷺を西雍に集め、『雅』・『頌』を太師に宣べ、粛恭を考室に明らかにす。用て能く配天の盛業を紀し、積徳の鴻休を嗣ぎ、永く英声を播き、長く称首と為る。周京道喪え、秦室政乖れ、礼楽淪亡し、典経残滅す。遂に漢朝の博士をして、空しく六宗の文を説かしめ、晋代の鴻儒をして、争って七祀の議を陳わしむ。或いは昊天を五帝と同じくし、感帝を五行に分つ。此れより以降、遞に相い祖述し、異論紛紜として、是非定まらず。
朕以て寡薄を以て、丕緒を嗣ぎ膺け、粛かに禋祀を承け、明発に懐を載せ、虔しく宗祧を奉り、寤寐に興感す。毎に惟うに宗廟の重き、尊配の儀、旧章を革めんことを思い、以て誠敬を申さんとす。高祖太武皇帝は運を撫で期に膺け、業を創え統を垂れ、庶類を塗炭に拯い、懐生を仁寿に寘く。太宗文皇帝は徳光りて聖に斉しく、道極まりて神に幾し、鋭を執り堅を被り、風に櫛り雨に沐し、形を労して以て百姓を安んじ、己を屈して以て四方を済わし、沢は区中に被り、恩は海外に覃く。乾坤の交泰する所以、品物の咸亨する是なり。玄闕を掩いて疆を開き、青丘を指して鎮と作す。巍巍蕩蕩として、名く可き無し。『礼』に曰く、「人を化するの道は、礼に急なるは莫し。礼に五経有り、祭に重きは莫し。祭とは、物自ら外より至るに非ず、自ら内に心より生ずるなり。是を以て惟だ賢者のみ能く祭の義を尽くす」と。況んや祖功宗徳、道は百王に冠たり。聖を尽くし神を窮め、業は千古に高し。今より以後、円丘・五方・明堂・感帝・神州等の祠を祭るに、高祖太武皇帝・太宗文皇帝を崇めて配し、仍って昊天上帝及び五帝を総べて明堂に祭らん。庶幾くは心に因りて敬を致し、虔誠を展ぶることを獲、宗祀天に配し、永く鴻烈を光らしめん。
儀鳳二年七月、太常少卿韋万石奏して曰く、「明堂の大享は、古礼鄭玄の義に准ずれば五天帝を祀り、王粛の義に准ずれば五行帝を祀る。『貞観礼』は鄭玄の義に依り五天帝を祀り、顕慶以来新修の礼は昊天上帝を祀る。乾封二年の勅を奉じて五帝を祀り、又た制を奉じて兼ねて昊天上帝を祀る。伏して上元三年三月の勅を奉ずれば、五礼並びに貞観年の礼を以て定めと為す。又た去年の勅を奉ずれば、並びに周礼に依り事を行えと。今、楽を用うるに須らく祀る所の神を定むべし。未だ審らかにせず、古礼及び『貞観礼』に依るか、復た見行の礼に依るか」と。時に高宗及び宰臣並びに断ずる能わず、依違して久しく決せず。尋いで又た詔して尚書省及び学者に詳議せしむるも、事仍って定まらず。此れより明堂の大享は、兼ねて貞観・顕慶の二『礼』を用う。
則天朝に臨み、垂拱元年七月、有司円丘・方丘及び南郊・明堂の厳配の礼を議す。成均助教孔玄義奏議して曰く、
謹んで按ずるに『孝経』に云う、「孝は厳父より大なるは莫し。厳父は天に配するより大なるは莫し」と。配する尊大なるは、昊天是れなり。物の大なるは、天に若くは莫し。父を推して天に比し、之と相配するは、孝を行うの大、此れに過ぐるは莫し。以て尊配の極を明らかにす。又た『易』に云う、「先王楽を作して徳を崇び、殷かに之を上帝に薦めて、以て祖考に配す」と。鄭玄注す、「上帝は天帝なり」と。故に知る、昊天の祭は、祖考を合して並びに配するなり。請う、太宗文武聖皇帝・高宗天皇大帝を奉じて昊天上帝に円丘に配せん。義は『孝経』・『周易』の文に符す。神堯皇帝は王業を肇基し、天に応じ人に順う。請う、感帝に南郊に配せん。義は『大伝』の文に符す。又た『祭法』に云う、「文王を祖とし武王を宗とす。祖は始なり。宗は尊なり。祭を名づけて尊始と為す所以は、一祭の中に此の二義有るを明らかにす。又た『孝経』に云う、「文王を明堂に宗祀す」と。文王を祖と云いながら宗と云うは、亦た武王の義を通ずるなり。故に明堂の祭は、祖考を以て配す。請う、太宗文武聖皇帝・高宗天皇大帝を奉じて明堂に配祭せん。義は『周易』及び『祭法』の文に符す。
太子右諭徳沈伯儀曰く、
謹んで『礼記』を按ずるに、「有虞氏は黄帝を禘し嚳を郊し、顓頊を祖とし堯を宗す。夏后氏は黄帝を禘し鯀を郊し、顓頊を祖とし禹を宗す。殷人は嚳を禘し冥を郊し、契を祖とし湯を宗す。周人は嚳を禘し稷を郊し、文王を祖とし武王を宗す」とある。鄭玄の注に云う、「禘・郊・祖・宗とは、祭祀して配食することを謂う。禘とは昊天を円丘で祭ることを謂い、上帝を南郊で祭ることを郊と曰い、五帝・五神を明堂で祭ることを祖・宗と曰う」と。伏して厳配の文を尋ぬれば、ここに最も詳備なり。虞・夏は則ち顓頊を退けて嚳を郊し、殷人は則ち契を捨てて冥を郊す。去取既に多し。前後乖次す。礼の序を得るは、周に尚ぶ莫し。嚳を禘し稷を郊し、二王に間わず;明堂に宗祀し、始めて両配を兼ぬ。皆文王・武王父子殊別を以てし、文王を父と為し、上は五帝を主とし;武王は父に対し、下は五神に配す。『孝経』に曰く、「父を厳にするは天に配するより大なるは莫し、則ち周公其の人なり。昔者周公文王を明堂に宗祀し、以て上帝に配す」と。武王を厳にして天に配するを言わざれば、則ち武王明堂に在りと雖も、理未だ配祭に斉しからず;既に宗祀と称すれば、義独り尊厳を主とす。両祭同じくすと雖も、終に一主と為る。故に『孝経緯』に曰く「後稷は天地の主と為り、文王は五帝の宗と為る」と。必ずや一神両祭の便を若しば、則ち五祭十祠、薦献頻繁にして、礼数に虧く。此れ則ち神に二主無きの道、礼一配を崇むるの義なり。窃かに貞観・永徽を尋ぬれば、共に専配を尊び;顓慶の後、始めて兼尊を創む。必ずや古に順いて行わば、実に周に従うを美と為すと謂うべし。高祖神堯皇帝は円丘・方沢に配せんことを請い、太宗文武聖皇帝は南郊・北郊に配せんことを請う。高宗天皇大帝は徳九皇に邁り、功万宇を開き、礼を制し楽を作し、禅を告げ中に升り、率土共に休し、普天同しく頼む。窃かに惟うに、莫大の孝は、理当に五天を総配すべし。
鳳閣舎人元万頃・範履冰等議して曰く、
伏して惟うに、高祖神堯皇帝は乾を鑿ち象を構え、土を辟き基を開く。太宗文武聖皇帝は統を紹ぎ元を披き、機に循き極を闡く。高宗天皇大帝は祖宗の大業を弘め、文武の宏規を廓う。三聖重光し、千年旦に接す。神功睿徳は、図牒に罄きて称え難く;盛烈鴻猷は、古今を超えて擬す莫し。豈徒に錙銖堯・舜、糠粃殷・周のみならんや!謹んで案ずるに、見行の礼、昊天上帝等祠五所は、皆高祖神堯皇帝・太宗文武皇帝を奉じて兼配す。今議者は『祭法』・『周易』・『孝経』の文を引き、古に稽るの辞近しと雖も、心に因るの旨を殊に失う。但だ子の父に事うる、臣の君に事うるは、孝以て志を成し、忠にして美に順う。窃かに兼配の礼は、特に関聖の懐を稟き、爰に前規に訓を取り、遂に大孝に情を申すと為す。『詩』に云く、「昊天成命有り、二後之を受く」と。『易』に曰く、「殷に上帝に薦く、以て祖考に配す」と。敬って其の旨を尋ぬれば、本より斯の義に合す。今若し遠く遺文を摭り、近く成典に乖き、常に拘りて変ぜず、滞りを守りて通ぜず、便ち是れ臣君を黜し、遽かに郊丘の位を易え、下上に非し、弓剣の心に遵わず。豈に以て太后哀感の誠を申し、皇帝孝思の徳に徇わんとする所以ならんや!終を慎み遠きを追うは、良に宜しからずと謂うべし。父を厳にして天に配するは、寧く当に是の若くならんや?伏して見行の礼に据るに、高祖神堯皇帝・太宗文武聖皇帝は、今既に先ず五祠に配す。理当に旧に依りて改むること無し。高宗天皇大帝は尊斉しく魄を曜し、邃に等しく枢を含み、三葉の宏基を闡き、万代の鴻業を開く。規を重ね矩を畳み、功烈に在りて差無し;帝に享え天に郊す、豈に祀配に別有らんや。請う、高宗天皇大帝を奉じて歴ね五祠に配せん。
制して万頃の議に従う。是より郊丘諸祠皆三祖を以て配す。
則天の革命に及び、天冊万歳元年、号を加えて天冊金輪大聖皇帝と為し、親しく南郊に享え、天地を合祭す。武氏の始祖周文王を追尊して始祖文皇帝と為し、後考応国公を追尊して無上孝明高皇帝と為し、亦た二祖を以て同配し、乾封の礼の如くす。其の後長安年又た親しく南郊に享え、天地及び諸郊丘を合祭し、並びに以て配す。
中宗即位し、神龍元年九月、親しく昊天上帝を東都の明堂に享え、高宗天皇大帝を以て配し、其の儀亦た乾封故事に依る。景龍三年十一月に至り、親しく南郊を祀らんとし、初め将に儀注を定めんとす。国子祭酒祝欽明旨に希い上言して后亦た合して助祭すべしとし、遂に奏議して曰く、「謹んで『周礼』を按ずるに、'天神を祀と曰い、地祇を祭と曰い、宗廟を享と曰う'。又『内司服』に、'職掌王后の六服、凡そ祭祀、后の衣服を供す'。又『祭統』に曰く、'夫れ祭は、必ず夫婦親しく之れをす'と。此れ諸文に据れば、即ち知る、皇后合して皇帝を助け天神を祀り地祇を祭るは明らかなり。望むらくは別に助祭の儀注を修め同しく進めんことを請う」と。上、宰相をして礼官と議し其の事を詳にせしむ。太常博士唐紹・蒋欽緒建議して云く、「皇后南郊に助祭するは、礼に合わず。但だ欽明の執る所は、是れ宗廟を祭るの礼にして、天地を祭るの礼に非ず。漢・魏・晋、及び後魏・斉・梁・隋等歴代の史籍を按ずるに、興王令主、天に郊し地を祀る、代々其の礼有り、史闕書せず、並びに皇后助祭の事を見ず。又高祖神堯皇帝・太宗文武聖皇帝・高宗天皇大帝南郊に天を祀るに、並びに皇后助祭の礼無し」と。尚書右僕射韋巨源又た欽明の議に協同し、上遂に皇后を以て亜献と為し、仍た大臣李嶠等の女を補い齋娘と為し、籩豆を執らしむ。
時に十一月十三日乙丑、冬至、陰陽人盧雅・侯藝等奏請して冬至を促し十二日甲子に就きて以て吉会と為さんとす。時に右台侍御史唐紹奏して曰く、「礼の以て冬至に円丘を南郊に祀り、夏至に方沢を北郊に祭る所以は、其の日行の躔次、南北の際に極まるを以てなり。日北極は当に晷度半を循り、日南極は当に晷度環周す。是の日一陽爻生じ、天地交際の始めと為る。故に『易』に曰く、'『復』、其れ天地の心を見るか!'と。即ち冬至の卦象なり。一歳の内、吉大なる莫し。甲子は但だ六旬の首と為り、一年の内、月を隔てて常に遇う。既に大会に非ず、晷運未だ周らざれば、唯だ六甲の辰を総べ、四時を助けて歳を成す。今環周を避けて以て甲子を取らんと欲するは、是れ大吉を背きて小吉に就くなり」と。太史令傅孝忠奏して曰く、「『漏刻経』に准うれば、南陸北陸並びに日一分を校す。若し十二日を用いれば、即ち一分を欠く。未だ南極せず、即ち至と為すを得ず」と。上曰く、「俗諺に云う、'冬至は歳に長し'と。亦た改むべからず」と。竟に紹の議に依りて十三日乙丑を以て円丘を祀る。
睿宗太極元年正月、初め将に南郊に事有らんとす。有司議を立て、惟だ昊天上帝を祭りて皇地祇の位を設けず。諫議大夫賈曾上表して曰く、
微臣は典禮に詳しく拠り、天地を合祭すべきであると謂う。謹んで按ずるに『禮祭法』に曰く、「有虞氏は黄帝を禘し嚳を郊し、夏後氏は黄帝を禘し鯀を郊す」と。傳に曰く、大祭を禘と曰う。然らば則ち郊と廟とは、倶に禘祭有り。禘廟は則ち祖宗の主倶に太祖の廟に合し、禘郊は則ち地祇群望倶に圓丘に合し、始祖を以て配享す。皆事有りて大祭し、常祀の義に異なる。『禮大傳』に曰く、「王ならざれば禘せず」と。故に知る、王者命を受くれば、必ず禘禮を行う。『虞書』に曰く、「月正元日、舜文祖に格し、肆に上帝に類し、六宗に祇し、山川に望み、群神に遍す」と。此れ則ち命を受けて禘禮を行う者なり。「文祖に格す」と言うは、則ち餘廟の享することを知るべし。「上帝に類す」と言うは、則ち地祇の合することを知るべし。且つ山川の祀は、皆地に属し、群望尚お遍くす、況んや地祇をや。『周官』「六律・六呂・五聲・八音・六舞を以て、大いに樂を合し、以て神祇を致し、以て邦國を和し、以て萬人を諧す」。又「凡そ六樂の者は、六變して象物及び天神を致す」。此れ則ち禘郊に天神・地祇・人鬼を合して祭る樂なり。
『三輔故事』漢の圓丘祭儀:昊天上帝の位は正しく南面し、後土の位兆も亦南面して少しく東す。又『東觀漢記』に云う、「光武即位し、鄗の陽に壇を為り、天地に祭告し、元始の故事を用う。二年正月、洛陽城南に於いて鄗に依りて圓壇を為り、天地其の上に位し、皆南向して西上す」と。按ずるに兩漢の時自ら後土及び北郊祀有り、而るに此れ已に圓丘に地位を設く、明らかに是れ禘祭の儀なり。又『春秋説』に云う、「王者一歳に七祭し、天地四孟に合食し、分・至に別つ」と。此れ復た天地自ら常に同祭の義有り。王肅云う、「孔子南郊に圓丘を兆すと言う、南郊即ち圓丘、圓丘即ち南郊なり」と。又云う、「天地を祭り配す」と。此れ亦郊祀合祭の明説なり。惟だ鄭康成は禘當に合祭すべきを論ぜず、而して昊天上帝を二神に分ち、専ら緯文に憑り、事經に見えず。又其の『大傳』「不環不禘」の義を注し、則ち云う、「正歳の首、感帝の精を祭り、其の祖を以て配す」と。『周官・大司樂』圓丘を注し、則ち『大傳』の禘を引きて冬至の祭と為す。遞に相矛盾し、未だ依るに足らず。
伏して惟うに陛下籙を膺け尊に居し、文を継ぎ暦に在り、宸極に臨みてより、未だ郊祭に親しまず。今の南郊は、正に禘禮に當たり、固より宜しく天地を合祀し、百神を咸く秩すべく、受命の符に答え、致敬の道を彰すべし。豈に盛禮を崇めずして、彼の常郊に同じくし、地祇をして位無からしめ、未だ禘享に従わざらしむべけんや。今請う皇地祇並びに従祀等の座を備え設くれば、則ち禮は古に稽え、義は情に縁りて合う。然れども郊丘の祀は、國の大事、或いは其の情を失わば、精禋將に闕かん。臣術は經に通ぜず、識は博古に慚じ、徒に昔禮職を謬り、今諫曹を忝くし、正議是れ司どころ、敢へて忠讜を陳ず。事に采るべき有らば、惟だ聖慮に断つを俟つ。
制して宰臣をして禮官を召し詳議せしめ可否を問う。禮官國子祭酒褚無量・國子司業郭山惲等咸く曾の奏する所に依ることを請う。時に又將に北郊を親享せんとし、竟に曾の表を寢す。
玄宗即位し、開元十一年十一月、圓丘を親享す。時に中書令張説禮儀使と為り、衛尉少卿韋絛副と為り、説議を建て高祖神堯皇帝を以て配祭することを請い、始めて三祖同配の禮を罷む。二十年に至り、蕭嵩中書令と為り、新禮を改めて撰す。天を祀ること一歳に四有り、地を祀ること二有り。冬至、圓丘に於いて昊天上帝を祀り、高祖神堯皇帝を配し、中官を加えて一百五十九座と為し、外官を減じて一百四座と為す。其の昊天上帝及び配帝の二座は、每座籩・豆各十二を用い、簋・簠・甌・俎各一。上帝は則ち太樽・著樽・犧樽・象樽・壺樽各二、山罍六。配帝は則ち太樽及び壺樽を設けず、山罍の四を減じ、餘は上帝に同じ。五方帝の座は則ち籩・豆各十、簋・簠・甌・俎各一、太樽二。大明・夜明は、籩・豆各八、餘は五方帝に同じ。内官は每座籩・豆二、簋・俎各一。内官已上は樽を十二階の間に設く。内官は每道の間に著樽二、中官は犧樽二、外官は著樽二、眾星は壺樽二。正月上辛、穀を祈り、圓丘に於いて昊天上帝を祀り、高祖を以て配し、五方帝従祀す。其の上帝・配帝は、籩・豆等冬至の数に同じ。五方帝は、太樽・著樽・犧樽・山罍各一、籩・豆等も亦冬至の数に同じ。孟夏、圓丘に於いて昊天上帝を雩い、太宗を以て配し、五方帝及び太昊等五帝・勾芒等五官従祀す。其の上帝配帝・五方帝は、籩・豆各八、簋・簠・甌・俎各一。五官は每座籩・豆各二、簋・簠及び俎各一。季秋、明堂に於いて大享し、昊天上帝を祀り、睿宗を以て配し、其の五方帝・五人帝・五官従祀す。籩・豆の数は、雩祀に同じ。夏至、方丘に於いて皇地祇を禮し、高祖を以て配し、其の従祀神州已下六十八座は、貞觀の禮に同じ。地祇・配帝は、籩・豆圓丘の数の如し。神州は、籩・豆各四、簋・簠・甌・俎各一。五嶽・四鎮・四海・四瀆・五方・山林・川澤等三十七座は、每座籩・豆各二、簋・簠各一。五方五帝・丘陵・墳衍・原隰等三十座は、籩・豆・簋・簠・甌・俎各一。立冬、北郊に於いて神州を祭り、太宗を以て配す。二座籩・豆各十二、簋・簠・甌・俎各一。冬至圓丘已下より、餘は貞觀の禮に同じ。
時に起居舍人王仲丘既に修撰を掌知し、仍ち議を建議して曰く。
『貞観礼』によれば、正月の上辛の日に感帝を南郊で祀り、『顕慶礼』によれば、昊天上帝を円丘で祀って穀物を祈る。『左伝』に「郊祀を行ってから耕作する」とあり、『詩経』に「『噫嘻』は春夏に上帝に穀物を祈る」とあり、『礼記』にも「上辛に上帝に穀物を祈る」とある。すなわち祈穀の文は歴代に伝わり、上帝の号はまさに昊天に属する。しかし鄭康成は「天の五帝が代々王となり、王者の興起は必ずその一つに感応し、その感応に因り、別に祭って尊ぶ。ゆえに夏正の月に、生まれた帝を南郊で祀り、その祖を配する。ゆえに周は霊威仰を祭り、后稷を配し、これによって穀物を祈る」と言う。その説くところによれば、感帝を祀るのは本来祈穀ではない。先儒の説は、事柄として恐らく拠り所にし難い。今、祈穀の礼は礼に準じてこれを修めることを請う。また感帝の祀りは、行われること久しい。『礼記』に「挙げるものあれば、廃すべからず」とある。祈穀の壇において、五方帝を遍く祭ることを請う。五帝とは五行の精であり、五行とは九穀の宗である。今、二つの礼を並行し、六神を皆祀ることを請う。
また『貞観礼』によれば、孟夏に雩祀として五方上帝・五人帝・五官を南郊で祀り、『顕慶礼』によれば、雩祀として昊天上帝を円丘で祀る。そもそも雩祀で上帝を祀るのは、百穀のために甘雨を祈るためである。ゆえに『月令』に「有司に命じて大いに帝を雩祀し、盛んな楽を用い、穀実を祈る」とある。鄭玄は「雩祀する上帝とは天の別号であり、まさに昊天に属し、円丘で祀るのは天の位を尊ぶためである」と言う。しかし五帝を雩祀することも既に久しいので、二つの礼を並行し、大雩帝の義を成すことを請う。
また『貞観礼』によれば、季秋に五方帝・五官を明堂で祀り、『顕慶礼』によれば、昊天上帝を明堂で礼する。『孝経』に「郊祀して后稷を以て天に配し、明堂で宗祀して文王を以て上帝に配す」とあるのに準ずる。先儒は天を感精の帝、すなわち太微五帝とし、これらは皆星辰の例であるとする。また上帝の号は皆昊天に属し、鄭玄の引用するものは皆五帝と言う。『周礼』に「王将に上帝に旅せんとすれば、氈案を張り、皇邸を設く。五帝を祀れば、大次小次を張る」とある。これによって言えば、上帝と五帝には自ら差等があり、どうして混同して一つとすることができようか。『孝経』に「厳父は天に配するより大なるは莫し」とあり、その下文に即ち「明堂で宗祀して文王を以て上帝に配す」とある。鄭玄注に「上帝とは天の別名なり、神に二主無し、故に其の処を異にす」とあり、孔安国は「帝も亦天なり」と言う。
されば則ち上帝を禋享することは、経義に合する。しかし五方を皆祀ることは、行わるること久しく、挙げるものあれば、即時に廃することは難しい。また二つの礼を並行し、『月令』の大享帝の義を成すことを請う。
天宝十載五月以前は、天地を郊祭するに高祖神堯皇帝を配座とし、故に郊廟を祭らんとする時は、高祖神堯皇帝の室に告げた。宝応元年、杜鴻漸が太常卿礼儀使となり、員外郎薛頎・帰崇敬等が議して「神堯は受命の主であるが、始封の君ではないので太祖として天地に配することはできない。太祖景皇帝は唐に始めて封ぜられた者であり、即ち殷の契、周の后稷に当たる。太祖景皇帝を以て郊祀に天地に配し、宗廟に告請する時も太祖景皇帝を酌献することを請う」とし、諫議大夫黎幹は議して、太祖景皇帝は受命の君ではないので、天地に配享するに合わないとした。二年五月、幹は議状を進めて十詰十難とし、曰く、
集賢校理潤州別駕帰崇敬の議状及び礼儀使判官水部員外郎薛頎等は称して、禘とは冬至に円丘で天を祭ることを謂い、周人は遠祖帝嚳を配し、今は景皇帝を始祖とし、円丘で昊天に配せんと欲す、と。
臣幹詰して曰く、「『国語』に『有虞氏・夏后氏は俱に黄帝を禘し、商人は舜を禘し、周人は嚳を禘す』とあり、俱に円丘で昊天を祭ると言わず、一なり。『詩・商頌』に『『長髪』は大禘なり』とあり、又円丘で昊天と言わず、二なり。『詩・周頌』に『『雍』は太祖を禘るなり』とあり、又円丘で昊天を祭ると言わず、三なり。『礼記・祭法』に『有虞氏・夏后氏は俱に黄帝を禘し、殷人・周人は俱に嚳を禘す』とあり、又円丘で昊天を祭ると言わず、四なり。『礼記・大伝』に『王ならざれば禘せず。王者は其の祖の出づる所を禘し、其の祖を以て之に配す』とあり、又円丘で昊天を祭ると言わず、五なり。『爾雅・釈天』に『禘は大祭なり』とあり、又円丘で昊天を祭ると言わず、六なり。『家語』に『凡そ四代帝王の郊する所は、皆以て天に配す。其の所謂る禘は、皆五年の大祭なり』とあり、又円丘で昊天を祭ると言わず、七なり。盧植云く『禘は祭の名なり。禘は諦なり、事を尊び明らかに諦する、故に禘と曰う』とあり、又円丘で昊天を祭ると言わず、八なり。王粛云く『禘は五年の大祭の時を謂うなり』とあり、又円丘で昊天を祭ると言わず、九なり。郭璞云く『禘は五年の大祭なり』とあり、又円丘で昊天を祭ると言わず、十なり。
臣幹は禘は五年の宗廟の大祭であると謂う。『詩経』・『礼記』の経伝、文義は明らかである。今、略く十詰を挙げてこれを明らかにする。臣は惟うに『礼記・祭法』及び『礼記・大伝』・『商頌・長髪』等三箇所の鄭玄注を見るに、或いは昊天を祭ると称し、或いは霊威仰を祭ると云う。臣は典籍を精詳するに、更に禘を以て円丘で昊天を祭るもの及び郊で天を祭るものと為すものは無い。審らかに禘が祭の最大なるものであれば、則ち孔子が『孝経』を説いて万代百王の法と為し、周公の大孝を称えるに、何故円丘で帝嚳を禘祀して天に配するとは言わず、却って「郊祀して后稷を以て天に配す」と言うのか。是を以て『五経』に俱に其の説が無く、聖人は故に言わないのである。軽々しく大典を議すること、亦た如何に容易ならんや。猶お悟らざるを恐れ、今更に十難を作る。
第一の難問は、『周頌』に「『雍』は、禘祭して太祖を祀るなり」とあり、鄭玄の箋に云う、「禘は大祭なり。太祖は文王なり」と。『商頌』に云う、「『長髪』は大禘なり」と。玄また箋に云う、「大禘は天を祭るなり」と。夫れ商・周の『頌』、その文互いに説く。或いは禘太祖と云い、或いは大禘と云い、倶に是れ五年の宗廟の大祭なり、典籍を詳しく覧るに、更に異同無し。惟だ鄭玄が『長髪』を箋するに、乃ち是れ郊祭天と称す。玄の意を詳しくするに、この『商頌』の禘は『大伝』の云う大祭の如く、『春秋』の「大事を太廟に於いてす」の如く、『爾雅』の「禘は大祭なり」の如し、大祭と云うと雖も、亦是れ宗廟の祭なり、便ち天を祭ると称すべけんや。若し所説の如くならば、大禘は即ち郊祭天と云い、禘と称するは即ち宗廟を祭るなり。又『祭法』は虞・夏・商・周の黄帝と嚳を禘するを説き、『大伝』に「王ならざれば禘せず」とあり、禘の上に倶に大字無し、玄何に因りて復た天を祭ると称するか。又『長髪』の文も亦た嚳と感生帝を歌わず、故に知る、『長髪』の禘は、嚳を禘し及び天を郊祭するに非ざることを。殷・周の五帝の大祭は、群経衆史及び鴻儒碩学、古より立言著論し、之を序するに詳なり、倶に禘を以て天を祭ると為す無し。何ぞ周・孔の法言を棄て、独り康成の小注を取り、便ち経に違ひ聖を非とし、祀典を誣り乱さんと欲するや、謬なるかな。
第二の難問は、『大伝』に称す「礼は、王ならざれば禘せず、王者は其の祖の自ら出づる所を禘し、其の祖を以て之に配す、諸侯は其の太祖に及ぶ」と。此れ王者は則ち当に禘すべきを謂ふ。其の謂ふ所の『祭法』、虞・夏・殷・周の黄帝及び嚳を禘す、「王ならざれば則ち禘せず、当に禘すべきは其の祖の自ら出づる所」と謂ふは、虞・夏は黄帝より出で、殷・周は帝嚳より出づるを謂ひ、近祖を以て配して之を祭るなり。自ら出づるの祖は、既に宗廟無く、即ち是れ外より至る者なり、故に天地神祇に同じくし、祖を以て配して之を祀る。自ら出づるの説は、但だ父に於いてのみならず、母に在りても亦然り。『左伝』に子産云う、「陳は則ち我が周の自ら出づる所なり」と。此れ太微五帝より出づると称すべけんや。故に曰く「王ならざれば禘せず、王者は其の祖の自ら出づる所を禘し、其の祖を以て之に配す」と、此れを之れ謂ふなり。及び諸侯の禘は、則ち王者に降り、自ら出づるの祖を祭るを得ず、只だ太祖に及ぶのみなり。故に曰く「諸侯は其の太祖に及ぶ」と、此れを之れ謂ふなり。鄭玄錯乱し、禘を分けて三と為す:『祭法』に注して云う「禘は昊天を円丘に於いて祭るを謂ふ」と、一なり。『大伝』に注して称す「郊祭天、後稷を以て霊威仰に配す」と、『商頌』を箋して又た称す「郊祭天」と、二なり。『周頌』に注して云う「禘は大祭、四時の祭より大なりと雖も祫よりは小なり、太祖は文王を謂ふ」と、三なり。禘は一つの祭なり、玄之を析いて三と為し、顛倒錯乱し、皆な胸臆に率ひ、曾て典拠無し、何ぞ足らんて憑むべけんや。
第三の難問は、虞・夏・殷・周以前は、祖の自ら出づる所を禘する、其の義昭然たり。漢・魏・晋已還千余歳より、其の礼遂に闕く。又た鄭玄の説く所は、其の言経に経らず、先儒之を棄て、未だ嘗て行用せず。愚以為ふらく、錯乱の義、廃棄の注は、以て大典を正すに足らずと。
第四の難問は、称する所の今『三礼』代に行はるるは、皆な鄭玄の学なり、請ふ鄭学に拠りて以て之を明かさんと。曰く、鄭学に拠ると云ふと雖も、今景皇帝を以て始祖の廟と為し天に配せんと欲するは、復た鄭義に相乖く。何となれば、『王制』に云ふ、「天子七廟」と。玄云ふ、「此れ周礼なり」と。七廟とは、太祖及び文・武の祧と親廟四なり。殷は則ち六廟、契及び湯と二昭二穆なり。鄭学に拠れば、夏は鯀及び顓頊・昌意を以て始祖と為さず、昭然として知るべし。而るに稷・契を引いて例と為さんと欲するは、其の義又た是れに異なり。爰に邃古より今に稽ふるに、人臣を以て始祖と為すこと無し、惟だ殷は契を以てし、周は稷を以てす。夫れ稷・契は、皆な天子の元妃の子にして、神を感して生まる。昔帝嚳の次妃簡狄は、有{{PUA|〓}}戎氏の女にして、玄鳥の卵を吞み、因りて契を生む。契長じて禹を佐けて水を治め、大功有り。舜乃ち契に命じて司徒と為し、百姓既に和し、遂に商に封ず。故に『詩』に曰く、「天命玄鳥、降りて商を生み、殷土芒芒に宅る」と、此れを之れ謂ふなり。後稷は、其の母有邰氏の女姜嫄と曰ひ、帝嚳の妃と為り、野に出でて巨跡を履み、歆然として孕み、稷を生む。稷長じて稼穡に勤め、堯聞き、挙げて農師と為し、天下其の利を得、大功有り、舜邰に封じ、号して後稷と曰ふ。唐・虞・夏の際、皆な令徳有り。故に『詩』に曰く、「帝武敏を履みて歆ひ、居然として子を生み、即ち有邰の家室有り」と、此れを之れ謂ふなり。舜・禹天下を有つ、稷・契其の間に在り、功を量り徳を比ぶれば、抑其の次なり。舜職を授くれば、則ち百穀を播き五教を敷く。禹功を譲れば、則ち水土を平らげ百揆に宅る。故に『国語』に曰く、「聖人の祀を制するや、功人に施せば則ち之を祀り、死を以て事に勤むれば則ち之を祀る」と。契は司徒として人輯睦し、稷は百穀に勤めて死す、皆な前代の祀典に居り、子孫天下を有つ、尊びて之を祖とせざるべけんや。
第五の難問は、既に鄭説に遵ひ、小徳は寡に配すとし、遂に後稷を以て只だ一帝に配せしむ、尚だ全く五帝に配するを得ず。今景皇帝を以て特り昊天に配せんとす、鄭義に於いて可ならんや。
第六の難問は、衆臣難じて云ふ、「上帝と五帝は一なり。引く所の『春官』:天を祀りて上帝に旅し、地を祀りて四望に旅す。旅は衆と訓ず、則ち上帝は五帝なり」と。臣曰く、然らず。旅は衆と訓ずと雖も、『爾雅』に出づ、及び祭名と為るや、『春官』は陳と訓じ、注に明文有り。若し言ふ所の如くならば、旅上帝便ち五帝と成らば、則ち季氏泰山に旅するは、便ち是れ四鎮と成るを得んや。
第七の難問は、鄭玄の学説に拠れば、景皇帝は親等が尽きており、廟主は合祀されるべきであるのに、天地に配祭しようとし、祖宗を錯乱させているというものである。始祖とは、草創の世を経営し、その体は天のように大きく、元気を正し広大ならしめ、万物の宗として尊ばれるものであり、陽気が萌動し始める冬至の日に、ともに南郊で祀られるのである。万物の始まりは天である。人の始まりは祖である。日の始まりは至(冬至)である。地を掃いて祭るのは質素である。器は陶匏を用いるのは素朴である。犠牲は犢を用いるのは誠実である。南郊に兆域を設けるのは陽位に就くためである。至って尊く至って質素であり、先祖と同じにすることは敢えてせず、これが礼である。故に『白虎通』に「祭天は年に一度、何故か。天は至って尊く至って質素であり、これを祀るに褻黷を敢えてせず、故に年の陽気が始めて達するに因って祭るのである」とある。今、国家は年に四度これを祭り、褻黷これより大なるはない。上帝、五帝の祀りは遂に欠け、怠慢もまた甚だしい。褻黷と怠慢は、いずれも礼の失であり、知らざるべからざるものである。親には限りがあり、祖には常があり、聖人は礼を制定し、君子は情によってこれを変易しない。国家は重光累聖、百数を数える祀りを経ており、景皇帝が始めて唐に封ぜられたことを知らぬはずがあろうか。当時の通儒は功を議し徳を度り、神堯皇帝を尊んで彼の天に克く配し、太宗皇帝を宗として上帝に配した。神には定まった主があり、日も久しい。今、神堯皇帝を黜して含樞紐に配し、太宗皇帝を以て上帝に配せんとすれば、紫微五精は上帝の佐であり、子を以て父に先んずるは、豈に礼の意たるべけんや。ただ神祇の錯位に止まらず、また祖宗の乖序となり、何をもって上に皇天祖宗の意を称えんや。若し神堯皇帝の功、太宗皇帝の徳が、皇天上帝に格ることを思えば、臣は郊祀宗祀としてこれに加うるものなしと為す。
第八の難問は、景皇帝を始祖と為さんと欲するが、既に我が区宇を造り、草創の世を経営した主ではなく、故に夏の始祖禹、殷の始祖契、周の始祖稷、漢の始祖高帝、魏の始祖武皇帝、晋の始祖宣帝、国家の始祖神堯皇帝と功徳を同じくし比べることはできず、而るに忽ち宗祀円丘の上に昇らせ、昊天と匹敵せしめんとするは、曾て円丘は林放に如かずと言わんとするか、というものである。
第九の難問は、先に言った魏の文帝丕が武帝操を始祖とし、晋の武帝炎が宣帝懿を始祖としたという件である。孟徳(曹操)、仲達(司馬懿)は、皆人傑である。天下の強兵を擁し、漢、魏の微主を挟み、海内を専制し、令は行き草は偃せ、袞冕を服し、軒懸を陳べ、天子は私第に於いて事を決し、公卿は道左に列拝し、名は臣と雖も、勢は実に君を凌ぐ。後主はこれに因って帝業を成し、前王はこれによって禅代し、子孫は尊んで祖と為す、不亦可からずや。
第十の難問は、引き合いに出した商、周、魏、晋の例が既に当たらなければ、則ち景皇帝が始祖とならぬことは明らかである。我が神堯皇帝は群雄の中より抜き出で、隋室を廓清し、生人を塗炭より拯い上げたれば、則ち夏の禹の勲も多く足らざるべく、数年之間に帝業を成したれば、則ち漢祖の功も比ぶるに足らざるべし。夏は大禹を以て始祖とし、漢は高帝を以て始祖と為す。則ち我が唐は神堯皇帝を以て始祖と為し、夏に法り漢に則る、義に於いて何の嫌疑かあらん。今、皇天の礼を革め、太祖の廟を易えんと欲するは、事の大なるもの、斯れより大なるは莫し。曾て按拠無く、何ぞ一何寡陋なること此の如き、心に愧じず、天を畏れざるか。
以前詔を奉じて、諸司に各々礼経に拠り議を定めしめた。臣幹、朝列に忝くし窃にし、官は諫を以て名と為し、直を以て知られ、学を以て達せられ、敢えて竭くさずして万一を裨えざるべからず。先月十四日、具に議状を以て宰相に呈し、宰相は朝臣に臣と論難せしめた。臣を難じた者は、臣の見る所独り異なるを以て、辞を勝え弁を飛ばし、競いて臣の理を砕き、臣の口を鉗めんと欲す。毫釐を剖析し、異同を分別し、墳典の凝滞を序べ、子伝の乖謬を指し、事は皆根に帰し、物に触れて碍げず。但だ臣の言に宗有るのみ。豈に弁者の流れならんや。又、帰崇敬、薛頎等は鄭学を援引し、祀典を蕪らさんと欲す。臣は明らかに弁じたが、迷って復たせず。臣は輒ち十詰十難を作り、墳籍を援拠し、昭然として知るべし。庶くは郊禘の事その真を得、厳配その序を失わず、皇霊祉を降し、天下頼むところとならん。臣また何ぞ顧みて鼎鑊を蹈まざらんや。謹んで敢えて聞達し、伏して悚越を増す。
議を奏す。報いず。
二年(広徳二年)の春夏に至り旱魃あり。言事者云う、太祖景皇帝は唐に追封せられ、高祖は実に命を受けたる祖なり、百神職を受く、高祖に依るべし。今、天地に配享せられず、故に神福を降さず、以て愆陽を致すと。代宗これを疑い、詔して百僚に会議せしむ。太常博士獨孤及議を献じて曰く。
礼に、王者はその祖の出づる所を禘し、その祖を以てこれに配す。凡そ命を受け始めて封ぜられたる君は、皆太祖と為す。太祖を継ぐ以下六廟は、則ち親尽きて迭毀す。而して太祖の廟は、百代と雖も遷さず。これ五帝、三王の祖を尊び宗を敬う所以なり。故に神宗に命を受けたるは、禹なり、而して夏後氏は顓頊を祖とし鯀を郊ぐ。禹を纘ぎ夏を黜するは、湯なり、而して殷人は冥を郊ぎ契を祖とす。革命して周を作るは、武王なり、而して周人は稷を郊ぎ文王を祖とす。則ち明らかに自古より必ず首封の君を以て、昊天上帝に配す。唯だ漢氏は豊沛に崛起し、豊公太公は、皆位無く功無く、以て祖宗と為すべからず、故に漢は高皇帝を以て太祖と為す。その先は細微なり。以て後代の法と為すに足らず。
伏して惟うに、太祖景皇帝は柱国の任を以て、周を翼け魏を弼え、王業を肇啓し、唐に封を建つ。高祖これに因り、以て天下を有つ号と為す、天の命ずる所なり。亦た契の商に封ぜられ、後稷の邰に封ぜられたるが如し。禘郊祖宗の位は、宜しく百代遷さざるの典に在るべし。郊には太祖を祀り、宗には高祖を祀るは、猶お周の文王を祖とし武王を宗とするが如し。今若し高祖の創業を以て、当にその祀を躋むべしと為せば、是れ三代の令典を棄て、漢氏の末制を尊び、景皇帝の大業を黜し、豊公太公の祀らざるに同じくし、古に反き道に違う、失うこと孰れか大なる。夫れ景皇を追尊し、廟号を太祖と為すは、高祖、太宗の崇尊する礼なり。若し配天の位既に異ならば、則ち太祖の号宜しく廃すべく、祀りを修めざれば、廟も亦た当に毀つべし。祖を尊び本に報いるの道、其れ地に墜つるか。漢制に、宗廟を擅に議するを、大不敬を以て論ず。今、武徳、貞観の憲章未だ改まらず、国家方に将に祀事を敬い、神人を和せんとし、禘郊の間、恐らく是れ宜しからざる所なり。臣謹んで礼文を稽え、諸の往制に参し、請うらくは旧典に仍らんことを。
竟に帰崇敬等の議に依り、太祖を以て天地に配享す。
広徳二年正月十六日、礼儀使杜鴻漸奏す、「郊祀、太廟の大礼、その祝文は今より以後、請うらくは唐礼に依り、板上に墨書せん。その玉簡金字の者は、一切停廃せん。若し臣の奏する所を允さば、望むらくは常式として編せられんことを。」勅して曰く、「宜しく竹簡を行用すべし。」
貞元元年十一月十一日、徳宗はみずから南郊を祀る。有司が図を進め、勅して礼官に付して詳しく斟酌せしむ。博士柳冕奏して曰く、「開元の礼を定め、これを垂れて刊せざるものとす。天宝の改作は、権制より起こる。これ皆方士の謬妄の説にして、礼典の文にあらず。請う、一に『開元礼』に準ぜん」と。これに従う。その年十月二十七日、詔して曰く、「郊礼の議は、至誠に本づく。礼を制し名を定むるは、事実に従うべく、名実相副わしめて、則ち尊卑倫あり。五方の配帝は、上古の哲王にして、道は烝人を済い、礼は明祀に著わる。善を論じ功を計れば、則ち朕の徳は類ならず、天を統べ極を禦ふるは、朕の位攸に同じ。而るに祝文に臣と称して祭るは、既に誠敬に益なく、徒らに等威を瀆すのみ。前京兆府司録参軍高佩上疏して陳請す、その理精詳なり。朕は旧儀を変ずるを重んじ、卿士に訪い、大義を申明し、是をもって釈然たり。宜しく改正に従い、以て至礼を敦くすべし。今より已後、五方配帝を祀る祝文は、並びに臣と称するを須いず。その余の礼数は旧の如し」と。
六年十一月八日、南郊に事あり。詔して皇太子を以て亜献とし、親王を終献とす。上、礼官に問う、「亜献・終献は誓誡を受くるに合すや否や」と。吏部郎中柳冕曰く、「『開元礼』に准うれば、献官は前七日、内に於いて誓誡を受く。辞に云う、『各その職を揚げ、その事に供せざれば、国に常刑あり』と。今、皇太子を以て亜献と為すに、旧辞を改め、『各その職を揚げ、常儀を肅奉す』と云わんことを請う」と。これに従う。
十五年四月、術士匡彭祖上言して曰く、「大唐は土徳にして、千年符に合う。請う、毎に四季の月に天地を郊祀せん」と。詔して礼官儒者に議せしむ。帰崇敬曰く、「礼に准うれば、立春に春を東郊に迎え、青帝を祭る。立夏に夏を南郊に迎え、赤帝を祭る。立秋後十八日、黄霊を中地に迎え、黄帝を祭る。秋・冬は各その方に於いてす。黄帝は五行に於いて土と為し、四季に王たり。土は火より生じ、木に用事し、而して秋に祭る。三季は則ち否なり。漢・魏・周・隋、共にこの礼を行ふ。国家は土徳時に乗じ、亦た毎歳六月の土王の日に、黄帝を南郊に祀り、后土を以て配し、典礼に合う。彭祖は候緯の説に憑り、陰陽の書に拠る。事は不経に渉り、恐らく行用し難からん」と。乃ち寝す。
元和十五年十二月、将に南郊に事あらんとす。穆宗、礼官に問う、「南郊は日を卜すや否や」と。礼院奏して曰く、「伏して礼令に准うれば、祠祭は皆卜す。天宝已後より、凡そ郊祀せんと欲すれば、必ず先ず太清宮に朝し、次日太廟を饗え、又次日南郊を祀る。相循いて今に至り、並びに日を卜さず」と。これに従う。及び明年正月、南郊の礼畢り、有司は禦榻を設けず、上立ちて群臣の慶賀を受く。及び樓に禦し仗退き、百僚復た樓前に於いて賀せず、乃ち興慶宮に於いて賀を受く。二者礼を闕き、有司の過ちなり。