旧唐書 本紀第二十下 哀帝

旧唐書

本紀第二十下 哀帝

哀皇帝は諱を柷といい、昭宗の第九子、母は積善太后何氏という。景福元年九月三日、大内に生まれる。乾寧四年二月、輝王に封ぜられ、名を祚とす。天復三年二月、開府儀同三司に拝され、諸道兵馬元帥を充てる。

天祐元年

庚戌、群臣上表して聴政を請う。甲寅、中書が奏す:「皇帝九月三日降誕、その日を乾和節と為すことを請う。」これに従う。乙丑、百僚西宮に赴き、殮を訖え、喪服を脱ぐ。皇帝、崇勳殿西廊下にて群臣に謁見す。中書が帖す:「今月二十四日喪服を脱ぎたる後、三日一度名を進めて起居す。」丙辰、勅す:「朕、太后の慈旨を奉ずるに、両司の綱運未だ来らず、百官の事力多く闕け、旦夕霜冷、深く軫念する所なり。内庫の方円銀二千百七十二両を以て、見任文武常参官の救接に充て、御史台に委ねて品秩に依り分俵せしむ。」この日、皇帝聴政す。丁巳、勅す:乾和節は方に哀疚に在り、その内道場は停むべし。戊午、刑部尚書張禕を遣わして河中に告哀す、全忠号哭して哀を尽くす。庚申、勅す:「乾和節に文武百僚諸軍諸使諸道進奏官は故事に准じ寺観に斎を設け、宰殺せず、只だ酒果脯醢を許す。」辛酉、勅す:「三月二十三日嘉会節。伏して大行皇帝仙駕上昇し、霊山将に卜せんとし、神既に天際に遊び、節宜に人間に輟むべし。故事に准じ、嘉会節は停むべし。」

九月壬戌朔、百官素服して西内に赴き臨み、名を進めて奉慰す。戊辰、大行皇帝大祥、百官素服して西内に赴き臨む。己巳、勅す:右僕射・門下侍郎・礼部尚書・平章事裴枢は宜しく大行皇帝山陵礼儀使を充てるべし、門下侍郎・平章事独孤損は宜しく大行皇帝山陵使を充てるべし、兵部侍郎李燕は鹵簿使を充て、しばらく知河南尹韋震は橋道使を充て、宗正卿李克勤は按行使を充てるべし。庚午、皇帝喪服を脱ぎて吉に従う。中書門下奏す:「伏して陛下宝図を光継し、丕緒を纂承し、教道克く先訓に申べ、保任実に慈顔より自る。今則ち宸居に正位し、未だ徽号を崇めず。伏して大行皇帝皇后は四海に母臨し、徳六宮に冠たり、推尊宜しく鴻名に正し、敬上式にえい孝を光らすべし。尊号を上りて皇太后と曰うことを望む。」奉勅して宜しく依るべし。また勅す:輝王府官属は宜しく停むべし。辛巳、山陵橋道使を改めて権河南尹張廷範に差し、その頓遞陵下応接等使は、並びに廷範をしてこれを兼ねしむ。庚寅、中書奏す:太常寺止鼓の両字「敔」の上字は御名を犯す、改めて「肇」と曰うことを請う。これに従う。

十月辛卯朔、日蝕あり、心の初度に在り。壬辰、全忠河中より来朝し、西内に赴き臨祭を訖え、崇勳殿に対す。甲午、勅す:検校太保・左龍武統軍朱友恭は本姓名李彦威に復すべく、崖州司戸同正に貶す。検校司徒・右龍武統軍氏叔琮は貝州司戸同正に貶すべし。また勅す:「彦威等は禁兵を主典し、妄りに扇動を為し、既に物論に彰れ、兼ねてまた軍情に係る。遐方に謫掾し、安くんぞ責を塞がん。宜しく本州長流百姓に配充し、なおって所在に令して自尽を賜うべし。」河南尹張廷範、彦威等を収めてこれを殺す。臨刑に、大呼して曰く:「我が性命を売り、天下の謗を塞がんと欲す、その神理を如何。心を操ること此の如く、子孫長世を望むこと、可ならんや。」廷範を呼び、これに謂いて曰く:「公行く当に此に及び、勉めて自ら図れ。」この日、全忠大梁に帰る。丙申、制す:天平軍節度使・検校太師・中書令、兼鄆州刺史・上柱国・東平王・食邑七千戸張全義は本官にて河南尹・許州刺史・忠武軍節度観察等使・判六軍諸衛事を兼ぬ。皇帝即位行事官・左丞楊涉は開国伯に進封し、食邑四百戸を加う。吏部侍郎趙光逢は開国公に進み、食邑三百戸を加う。右散騎常侍竇回・給事中孫続・戸部郎中知制誥封舜卿等は勲階を加う。礼儀使・太常卿王溥は一子に八品正員官を与う。書宝冊官吏部尚書陸扆・刑部尚書張禕、扆は一子に八品正員官を与え、禕は階を加う。太子太保盧紹卒す。魏博羅紹威、百官の救接に絹千匹・綿三千両を進む。

十一月辛酉朔。癸酉午時、日黄白の暈あり、旁らに青赤の紉あり。楊行密、光州を攻め、また急に鄂州を攻む、杜洪使いを遣わして救援を求め、全忠師五万を率いて潁州より淮を渡り、霍丘に至り大掠してこれを紓く、行密兵を分かち来り拒ぐ。乙酉、勅す:「太常礼院の奏に拠れば、十二月内に日を択びて太后を冊するに。朕近く慈旨を奉ずるに、山陵未だ畢らず、哀感方に纏わる。凡そ百の有司、且く虔しく充奉し、吉凶の礼、並び施すこと難し。太后の冊礼は、宜しく山陵畢日のを俟つべく、庶幾くは橋山の攀慕を得て、群臣に節を尽くすことを彰わし、蘭殿の栄を承け、朕志に盛儀を展べしむ。情既に獲て遂げ、礼実に之を宜しくす。所司に付す。」己丑、嶺南東道辨州は宜しく勲州に改むべし。

十二月辛卯朔。癸卯、権知河南府尹・和王傅張廷範は宜しく本官に復すべし。光禄大夫・検校司徒河東県開国子・食邑五百戸・山陵副使充・権知河南尹・天平軍節度副使韋震は権知鄆州軍州事を為す。

天祐二年

二年春正月庚申朔、楊行密、鄂州を陥とし、節度使杜洪を執り、揚州市に斬る。鄂・岳・蘄・黄等州、行密に入る。全忠、霍丘より大梁に還る。甲子、太常卿王溥、大行皇帝の諡号・廟号を上る、乃ち勅す:右僕射・平章事裴枢に諡冊を撰せしめ、中書侍郎柳璨に哀冊を撰せしむ。辛未、勅す:「朕祗て丕図を荷い、仰いで元訓を惟う、方に遺弓の痛に迫り、俯して同軌の期に臨む。将に孝思を展べ、親しく護衛を扶けんとす。皇太后は義鳴鳳に深く、痛み攀龍に切なり、亦た霊輿を専奉し、躬ずから園寝に及び、兼ねて追摧の道を尽くし、以て克敬の儀を終わんと欲す。その大行皇帝山陵発引の日、朕は太后に随い親しく陵所に至らんとす、中書門下に付し、宜しく至懐を体すべし。」群臣三表を以て論諫し、乃ち止む。

二月庚寅朔。壬辰、制を以て前知鄜州軍州事・檢校尚書左僕射劉鄩を右金吾衛大將軍と為し、右街使を充てる。檢校左僕射朱漢賓を右羽林統軍と為す。丙申、群臣西宮に諡を告ぐ。己亥、勅す、「今月十一日、大行皇帝攢宮を啓く。故事に准じ、坊市音楽を禁ず、二十日に至り玄宮を掩うを畢え、旧の如し」と。庚子、攢宮を啓き、文武百僚夕に西宮に臨む。丁未、霊駕発引し、濮王以下従い、皇帝・太后長楽門外に祭り畢えて大内に帰る。己酉、昭宗皇帝を和陵に葬る。庚戌、制を以て太常卿王溥を工部尚書と為す。壬子、制を以て汝州刺史裴迪を刑部尚書と為す。泰寧軍節度・檢校司空・兗州刺史・御史大夫葛従周を檢校司徒・兼右金吾上將軍にて致仕せしむ、従周風疾に冒され、朝謁に任じざる故なり。左金吾上將軍盧彦威を左威衛上將軍と為す。是の月社日に、樞密使蔣玄暉九曲池にて徳王裕以下九王を宴し、既に酔うや、皆絞殺し、竟に其の瘞する所を知らず。丙辰、左僕射裴贄等廟の遷を議し、順宗一室を遷すにまさうとし、之に従う。己未、昭宗皇帝神主太廟に祔し、礼院昭宗廟の楽を奏す、曰く『咸寧之舞』。

三月庚申朔。壬戌、制を以て前平盧軍節度使・檢校太傅・同平章事・兼青州刺史・上柱國・琅邪郡公・食邑二千五百戶王師範を孟州刺史・河陽三城懷孟節度觀察等使と為す、全忠の奏に従うなり。甲子、制を以て特進・尚書右僕射・門下侍郎・同平章事・太清宮使・弘文館大學士・延資庫使・諸道鹽鐵轉運使・判度支・上柱國・河東郡開國公・食邑二千戶裴樞を守尚書左僕射とす可し。光祿大夫・門下侍郎・戸部尚書・同平章事・監修國史・河南縣開國子・食邑五百戶獨孤損を檢校尚書左僕射・同平章事、兼安南都護、充静海軍節度・安南管內觀察處置等使とす可し。光祿大夫・中書侍郎・同平章事・集賢殿大學士・上柱國・博陵郡開國公・食邑一千五百戶崔遠を守尚書右僕射とす可し。正議大夫・中書侍郎・同平章事、判戸部事・上柱國・河東縣男・食邑三百戶柳璨を門下侍郎・兼戸部尚書・同平章事・太清宮使・弘文館大學士・延資庫使・諸道鹽鐵轉運等使と為す。正議大夫・尚書吏部侍郎・上柱國・賜紫金魚袋張文蔚を中書侍郎・同平章事・監修國史・判度支と為す。銀青光祿大夫・行尚書左丞・上柱國・弘農縣伯・食邑七百戶楊涉を中書侍郎・同平章事・集賢殿大學士・判戸部事と為す。庚午、勅す、「朕宰臣学士、文武百僚、常に官局に拘わり、空しく遊従を逐う。今膏澤愆らず、豊年望み有り、此の韶景に当たり、宜しく優恩を示すべし。今月十二日後より十六日に至るまで、各便を取って勝を選び追遊せしむ。所司に付す」と。壬申、檢校司徒・和王傅張廷范を太常卿と為す。丁亥、勅す、「翰林学士・戸部侍郎楊注は是れ宰臣楊涉の親弟、兄既に枢衡を秉るに、弟故に宥密に居り難し、本官を守らしめ、内職を罷む可し」と。

四月己丑朔。壬辰、勅す、河南府緱氏県令は宜しく和陵台令を兼ね充つべく、仍って赤県に昇すべしと。癸巳、勅して曰く、「文武の二柄は国家の大綱、東西の両班は官職同じ体なり。皆聖運を匡べく、共に明廷に列し、品秩は高卑に対して相対し、禄俸は皆厚薄に均しくす。前代を論ぜず、只本朝を考う。太宗皇帝は中外の臣僚を以て、文武参用し、或いは軍衛よりして台省に居り、亦た衣冠よりして節旄を秉るも、足らく武列文班に明らかにして、清濁優劣を分かつことを令せず。近代浮薄相尚い、旧章を凌蔑し、偃武を仮りて文を修め、競いて本を棄てて末を逐う。藍衫魚簡と雖も、一見して便ち升堂を許し、縦え紫を拖き金を腰うるとも、若し類に非ずして席を接することを令せず。是を以て栄辱を顕揚し、重軽を分別し、遽かに人心を失い、尽く朝体を隳す。其の今日に致るは、実に此の由なり、議を須いて改更し、漸く通済を期すべし。文武百官、一品以下より、逐月に給する所の料錢並びに均勻すべく、数目多少、一般に支給す。兼ねて諸道に差使するも、亦た輪次に依る。既に公平に就けば、必ず開泰を期す。凡百臣庶、宜しく朕が懐を体すべし」と。和王傅張廷范は、全忠の将吏なり、善く音律を以て、太常卿を求む。全忠薦めて用う。宰相裴樞は廷范楽卿の才に非ざるを以て、全忠怒り、樞の相位を罷む。柳璨旨に希い、又此の詔を降して樞輩を斥く。故に白馬の禍有り。丙午、前棣州刺史劉仁遇は檢校司空、兼ね兗州刺史・御史大夫、泰寧軍節度使を充つ。乙未、制す、左僕射裴樞・新たに除く清海軍節度使獨孤損・河南尹張全義・工部尚書王溥・司空致仕裴贄・刑部尚書張禕、並びに一子に八品正員官を賜い、以て山陵を奉ずるの労に報ゆ。勅して曰く、「朕は宿麥未だ登らず、時陽久しく亢ふるを以て、粢盛の備えを闕くを慮い、予が宵旰の懐を軫む。宜しく正位を宸居に避け、珍羞を常膳に減ずべし。諒うに惟だ眇質、深く躬を罪すに合う。今月八日已後より、正殿に御せず、常膳を減ず。所司に付す」と。辛丑、侍御史李光庭郗殷象・殿中丞張升崔昭矩・起居舍人盧仁烱盧鼎蘇楷・吏部員外郎崔協・左補闕崔鹹休・右補闕杜承昭羅兗・右拾遺韋彖路德延、並びに宜しく緋魚袋を賜うべし。兵部郎中韋乾美・比部郎中楊煥、皆紫金魚袋を賜う。並びに以て山陵を奉ずるの労なり。壬寅、勅す、「朕は丕圖を荷うことを獲、仰いで慈訓に遵い、爰に徽号を崇め、已に禮儀を定む。為子の心を申さんことを冀い、以て親を奉ずるの敬を展べんとす。昨、所司今月二十五日に皇太后冊禮を行わんと定む。再び慈旨を奉ずるに、宮殿未だ工作を停めず、蒸暑人を労するを欲せず、宜しく吉辰を改むべしと。固く命に違い難し。冊禮は大内の修まるを畢えし日を俟ち、所司以て聞かしむべし」と。癸卯、太清宮使柳璨奏す、上清宮を修むることを畢え、請う太清宮と改むることを。之に従う。甲辰夜、彗星北河に起こり、文昌を貫き、其の長さ三丈、西北方に在り。丁未、勅す、「官を設け職を分つは、各々司存有り。銓衡既に吏曹に任ずれば、除授宰職に煩うこと寧からんや。但し所司注擬申し到るに、中書過ぎて驗え酌量す。苟或いは差舛あらば、尽く定め難し。近年除授、其の徒実に繁し、選部の闕員を占め、公當の優便を擇ぶ。遂に三銓注擬の時を致して、皆職務を曠つ。且つ宰相の任を以て、百司を提挙す。唯だ公平私無きを務め、方ち漸く有道に臻るを致す。応に天下州府の令録は、並びに吏部三銓に委ねて注擬すべし。天祐二年四月十一日已後より、中書並びに除授せず、或いは諸の薦奏量り留むるは、即ち可否を度り施行す。庶くは各々其の局を司り、紊隳を致すを免れ、宰相綱を提げ、永く事体を存せん。所司に付す」と。辛亥、彗孛謫見を以て、德音を放ち京畿軍鎮諸司の禁囚を、常赦に原さざるの外、罪の軽重無く、一等を遞減し、三日を限り内に疏理し聞奏せしむ。壬子、勅す、「朕は沖幼を以て、克く丕基を嗣ぐ。業業兢兢、勤恭夕惕す。彗星謫見するは、罪朕が躬に在り。雖た已に赦文を降し、特に行い恩宥す。今月二十四日後より起こり、正殿を避け、常膳を減じ、以て過ちを思うことを明らかにす。所司に付す」と。丙辰、勅す、「向來の事例に准う、毎貫抽除の外、八百五十文を以て貫と為し、毎陌八十五文とす。聞くに坊市の中、多く八十を以て陌と為し、更に除折有り、頓に旧規を爽にすと。河南府に付す、市肆交易、並びに八十五文を以て陌と為し、更に改移有るべからず」と。戊午、勅す、「東上閣門、西上閣門、比来常に出入するに、東上を以て先と為す。大忌名を進むるは、即ち西上閣門を以て便と為す。比閹官権を擅にするに因り、乃ち陰陽を以て位を取る。南面を思わず、只だ西門を啓く。邇来相承し、未だ更改を議せず。其の称謂を詳うするに、旧規を爽にするに似たり。今年五月一日後より、常朝出入は、東上閣門を取り、或いは奉慰に遇うは、即ち西上閣門を開く。永く定制と為す。所司に付す」と。又勅す、「朕は上天の謫見を以て、殿を避け躬を責む。朔会して正殿に朝するに宜しからず。其の五月一日の朝会は、宜しく権りて停むべし」と。

五月己未朔,星変のため朝を視ず。勅して曰く、「天文の変見は、事に合して祈禳すべし。宜しく太清宮に黄籙道場を置き、三司は斎料を支給すべし」と。壬戌、勅す、「法駕遷都の日、洛京再建の初め、土を懐くの類有るを新豊に慮り、権に名を更めて以て旧制に変ぜんとす。妖星既に雍分に出で、高閎は秦餘に效い難し。宜しく旧門の名を改め、以て卜年の永きを壮にすべし。延喜門を改めて宣仁門と為し、重明門を改めて興教門と為し、長楽門を改めて光政門と為し、光范門を応天門と曰い、乾化門を乾元門と曰い、宣政門を敷政門と曰い、宣政殿を貞観殿と曰い、日華門を左延福門と曰い、月華門を右延福門と曰い、万寿門を万春門と曰い、積慶門を興善門と曰い、含章門を膺福門と曰い、含清門を延義門と曰い、金鑾門を千秋門と曰い、延和門を章善門と曰い、保寧殿を文思殿と曰う。其の見在の門名、西京の門と同名する者有らば、並びに宜しく洛京の旧門名に復すべし。所司に付す」と。乙酉の夜、西北に彗星有り、長さ六七十丈、軒轅・大角より天市西垣に及び、光輝猛怒し、其の長さ竟天す。丙寅、有司皇太后宮を修め畢ぬ。中書奏す、「皇太后慈恵人に臨み、寛仁物を馭す。早く伣天の兆に叶い、克く誕聖の符を彰わす。今輪奐新宮、規摹旧典、崇訓既に信史に徴し、積善宜しく昌期に顕はすべし。太后宮は積善を以て名と為さんことを請う」と。之に従う。又、将に郊禋を卜せんとし、雅楽を預め調う。宜しく太常卿張廷范を以て修楽懸使に充てんとす。丁卯、荊襄節度使趙匡凝奏す、故使成汭の為に祠宇を立つることを。之に従う。己巳、太清宮使柳璨奏す、「近く勅して宮殿門名を改易す。窃に玄元皇帝廟を以てす。西京は太清宮と曰い、東京は太微宮と曰う。其の太清宮は請う、復た太微宮と為さん。臣便ち官階に入るを給す」と。之に従う。庚午、勅す、「所司は今年十月九日、郊丘に事有るを定む。其の礼衣祭服を修制するは宜しく宰臣柳璨に判せしめ、祭器は宜しく張文蔚・楊涉に分判せしめ、儀仗車輅は宜しく太常卿張廷範に判せしむべし」と。壬申、制す、新たに除く静海軍節度使・銀青光禄大夫・検校尚書左僕射・同平章事・兼安南都護・河南郡開国侯・食邑一千戸獨孤損は、責めて朝散大夫・棣州刺史を授くべく、仍て御史台に発遣して京を出でしめ畢りて奏聞せしむべし。勅して曰く、「朕謬やかに眇質を将し、叨むに丕図を荷う。常に馭朽の心を懐き、毎に泣辜の念を軫す。黜責に諒り、豈に施行し易からんや。左僕射裴樞・右僕射崔遠は、機衡を罷むと雖も、尚揆路に居る。既に優崇の任に処り、未だ進退の規を傷はず。志を秉り家を安んずる能はず、但だ流言を恣にして国を謗る。頗る物論を興し、朝章を抑え難し。須く八座の栄を離れ、尚六条の政に付すべし。咎を己に思うを勉め、人を尤るに至る無かれ。樞は責めて朝散大夫・登州刺史を授くべく、遠は責めて朝散大夫・萊州刺史を授くべし。便ち発遣して京を出でしむ」と。兵部郎中韋乾美は沂州司戸に貶す。甲戌、勅す、中書舎人封渭は斉州司戸に貶し、右補闕鄭輦は密州莒県尉に貶し、兵部員外盧協は祁州司戸に貶し、並びに員外に置く。乙亥、勅す、吏部尚書陸扆は濮州司戸に貶し、工部尚書王溥は淄州司戸に貶す。司天奏す、「旬朔已前、星文変見し、仰ぎ観て垂象を、特ち聖慈を軫す。今月八日夜已後より、連ねて陰雨に遇い、測候得ず。十三日夜一更三點に至り、天色暫く晴れ、景緯分明なり。妖星碧虚に見えず、災沴天漢に潜に消ゆる者」と。勅して曰く、「上天謫見し、下土震驚す。夙夜の沈憂を致し、恐らくは生霊の多難を生ぜんとす。正殿に居らず、常羞を尽く輟み、益々斎虔を務め、以て禳禱を申す。果たして玄穹の覆祐を致し、孛彗消除す。豈に罪己の感通に非ずや、人に災沴を貽すを免る。式に陳奏を観、深く誠懐を慰む」と。丙子、勅す、戸部郎中李仁儉は和王府諮議に貶し、起居舎人盧仁烱は安州司戸に貶し、寿安尉・直弘文館盧晏は滄州東光尉に貶す。丁丑、陳許節度使張全義奏す、「許州留後の状申を得たり。多事より以来、許州は権に列郡と為る。今特ち鼓角楼を創め畢りぬ。軍額に復せんことを請う」と。勅旨、旧に依り忠武軍の牌額を置く。戊寅、群臣を崇勲殿に宴す。全忠と王鎔・羅紹威、宴を置くなり。庚辰、勅す、特進・検校司徒・守太保致仕趙崇は曹州司戸とすべく、銀青光禄大夫・兵部侍郎王贊は濮州司戸とすべし。辛巳、勅す、責めて登州刺史を授く裴樞は隴州司戸とすべく、責めて棣州刺史を授く獨孤損は瓊州司戸とすべく、責めて萊州刺史を授く崔遠は白州司戸とすべし。壬午、勅す、司勲員外韋甄は責めて和王友を授け、洛陽県令李光序は責めて左春坊典設郎を授く。甲申、秘書監崔仁魯は密州司戸とすべく、国子祭酒崔澄は陳州司戸とすべく、太府少卿裴鍼は徐州司戸とすべく、衛尉少卿裴紓は曹州南華尉とすべく、左補闕崔咸休は甯陵尉とすべく、司封員外薛滈は輝州司戸とすべく、前塩鉄推官獨孤憲は臨沂尉とすべく、秘書少監裴鉥は鄆州司戸とすべく、長安尉・直史館裴格は符離尉とすべく、兵部郎中李象は鄭州司戸とすべく、刑部員外盧薦は范県尉とすべし。丙戌、潁州汝陰県人彭文の妻、三男を産む。丁亥、勅す、翰林学士・尚書職方郎中張策を以て兼ね史館修撰に充て、国史を修めしむ。

六月戊子朔、詔す。「隴州司戸に責授せられた裴樞、瓊州司戸の獨孤損、白州司戸の崔遠、濮州司戸の陸扆、淄州司戸の王溥、曹州司戸の趙崇、濮州司戸の王贊等は、皆国恩を受け、重責を担うべき者であった。忠誠を尽くすことを思わず、ただ奸邪を蓄えていた。既に遠方に貶謫されたとはいえ、なお国典をもって寛容し難い。御史台に委ねて、所在の州県に人を差し遣わし、各々に自尽を賜うべし。」時に樞等七人は既に滑州に至っており、皆白馬驛において命を共にし、全忠は屍を河に投げ入れるよう命じた。己丑、詔す。「君臣の間においては、進退は礼をもってすべきであり、まして旧臣を求め、初めから終わりまでを保とうとするならば、もし自ら悔いや過ちを招いたのであれば、また罷免と責罰を行わねばならない。特進・守司空致仕・上柱國・河東縣開國公・食邑二千戸の裴贄は、早くより公の声望をもって、常に台司を踏みしめていた。時に力を尽くして匡すことを聞かず、毎事、恬淡を養って事を避けることに務めていた。老いを請うに及んで、恩が無いとは言わないが、枢機を慎み、動きは規矩に従うべきであった。勇退とは言え、後に言がある。自ら簿従の長となり、人臣の礼を頗る失った。郡の掾に貶謫して居らしめ、朝綱を正す。青州司戸に責授すべし。刑部郎中李煦は萊州司戸とすべし。」辛卯、太微宮使柳璨奏す。「前使裴樞が宮使を充てた日に、権宜として玄元観を太清宮と奏請し、また別に在京の弘道観を太清宮と奏請したが、今に至るまで制置が無い。伏して考えるに、今年十月九日、陛下が南郊の祭祀に親事され、先ず聖祖廟に謁するに、弘道観は未だ修繕されておらず、玄元観はまた北山にある。もし車駕が城を出れば、礼として便穏ではない。今はただ北邙山上の老君廟一ヶ所を留め置き、その玄元観は都城に取り込み、清化坊内に太微宮を建置し、車駕の行事に備えたい。」これに従う。壬辰、詔す。「諸道の節度・觀察・防禦・刺史等は、部内に新たに除された朝官・前資の朝官があれば、勅が到着してから三日以内に発遣して闕に赴かせ、なお人を差して監送せよ。所在の州県は停住させてはならず、もし遅滞違背があれば、必ず貶黜を議する。所司に付す。」癸巳、詔す。「衛尉少卿敬沼は裴贄の甥である。常に舅に累い、あるいは明経をもって文柄を撓め、あるいは私事をもって化権を窃んだ。贄は既に左遷された。爾はまた何ぞ追わんや。徐州蕭縣尉に貶すべし。」丙申、詔す。「福建が毎年橄欖子を進めるのは、比来、閹豎が閩中より出で、嗜好の間に牽かれ、遂に貢奉の典と成ったものである。忠藎を嘉するとはいえ、伏して煩労を恐れる。今後は只、蠟麵茶を供進するのみとし、橄欖子の進上は停めるべし。」戊戌、詔す。「密縣令裴練は登州牟平尉に貶し、長水令崔仁略は淄州高苑尉に貶し、福昌主簿陸珣は沂州新泰尉に貶し、泥水令獨孤韜は范縣尉に貶し、並びに員外に置く。皆、裴樞・崔遠・陸扆の宗党である。」壬寅、湖南の馬殷奏す。岳州洞庭・青草の側に、古祠四所あり、先に荒廃していたが、臣が廟を修復し完了した。賜額を乞う。勅旨す。黄陵の二妃祠を懿節と曰い、洞庭君祠を利涉侯と曰い、青草祠を安流侯と曰う。三閭大夫祠は、先に澧朗觀察使雷滿の奏により、既に昭靈侯に封じられている。天祐元年九月二十九日の勅の処分に依るべし。丙午、全忠奏す。「宰相柳璨の記事を得るに、北邙山下の玄元観を拆して都内に移し、清化坊に旧昭明寺の基を取って太微宮を建置し、十月九日の南郊行事に備えたいという。延資庫・塩鐵に並び物力が無いため、臣に商量せしめるとのこと。臣は既に判六軍諸衛張全義に牒して指揮工作せしめ終わった。」優詔を下してこれを嘉する。丁未、詔す。「太子賓客柳遜は嘗て張浚の租庸判官となり、また王溥が監修の日に奏して判官とし、工部侍郎を授け、また趙崇・裴贄と刎頸の交わりを為した。昨、裴樞等が罪を得た時に、連坐すべきであったが、なお老齢を憐れみ、且つ懸車せしめる。本官をもって致仕すべし。」戊申、詔す。前司勳員外郎・賜緋魚袋李延古を責授して衛尉寺主簿とす。

七月戊午朔。辛酉、全忠に『迎鑾記功碑文』を賜い、都内に立てしむ。全忠、郊礼を助ける銭三万貫を進む。癸亥、再び柳遜を曹州司馬に貶す。辛巳、詔す。全忠の請いにより、河中・晉・絳諸縣の印を鋳造し、縣名内に「城」の字のあるものは並びに落下させ、密鄭・絳・蒲の例の如く、単名を文とす。壬午、宰臣柳璨・禮部尚書蘇循を皇太后冊禮使に充てる。この日、積善宮にて礼を行い終わり、帝は輦に乗って太后宮に赴き賀を称す。丙戌、太常禮院奏す。「毎月の朔望に、皇帝は積善宮に赴き起居し、文武百官は宮門にて名を進めて起居すべし。」これに従う。

八月丁亥朔。戊子、制す。中書舍人姚洎を尚書戶部侍郎とし、元帥府判官に充てることを可とする。全忠の奏に従う。洛苑使、谷水屯地内に嘉禾合穎あるを奏す。乙未、詔す。「官階を偽称した者、泉州晉江縣の応郷貢明経陳文巨、罪款を招伏し、河南府に付して決殺す。」庚子、詔す。「漢代の元勳、鄧禹は諸侯の上に冠たり。晉朝の重位、王導は百辟の先に居り。皆、道は匡扶に著しく、功は寰宇に宣べ、その崇寵たるや、等倫に迥異なり。朕は眇躬をもって獲に、丕運を重ねて興し、凡そ制度に関することは、必ず旧章に法り、実に勳賢に仗り、宗社を永安せんとす。副元帥梁王は正に太尉・中書令を守り、忠武軍節度使・河南尹張全義も亦た正に中書令を守る。俱に深く倚注し、鹹に台衡を正す。その朝廷の冊礼・天地宗廟に告祀するには、その司空は則ち官を差して摂行し、太尉・侍中・中書令は即ち宰臣が摂行す。今、太尉副元帥は任は籓垣に冠たり、毎度行礼の時に、或いは京国に在らず、即ち事須く太尉を差摂して行事すべし。全義は見るに闕下に居り、任は正に中樞に在り、更に別の官を差して又た中書令の事を摂るべからず。その太尉の官は、もし梁王が朝覲して在京すれば、便ち行事を委ね、もし却って鎮に赴かば、即ち前に依り摂行す。合わせて差すべき中書令は、便ち全義に本官をもって行礼せしむ。その侍中・司空・司徒は即ち臨時に官を差す。所司に付す。」壬寅、詔す。「前太中大夫・尚書兵部侍郎・賜紫金魚袋司空圖は俊造に登科し、朱紫の籍に升り、既に高を養って代に傲り、類して山を移し名を釣る。志は漱流を楽しみ、心は食祿を軽んず。夷にも非ず、惠にも非ず、公正の朝に居り難く、載せて省み、載せて思い、当に幽棲の志に徇うべし。宜しく中條山に放還すべし。」癸卯、詔す。太常卿張廷範を宜しく南郊禮儀使に充てるべし。丁未、制す。荊襄節度使趙匡凝の在身の官爵を削奪す。是の月乙未、全忠、大将楊師厚を遣わして匡凝を討ち、唐・鄧・復・郢・随等州を収め、全忠自ら親軍を率いてこれに赴く。荊襄の軍、漢水の陰に陣す。

九月丁巳朔。辛酉、楊師厚は襄州の西六十里の陰谷江口において竹木を伐り浮梁を造る。癸亥、梁は成り、軍を引き渡江す。甲子、趙匡凝は勁兵二万を率い、江の湄に陣す。師厚は一戦にしてこれを破り、遂に勝に乗じてこれを追い、城下に陣す。是の夜、匡凝は其の孥を携え潰囲して遁走す。乙丑、師厚は襄陽に入る。丙寅、全忠は継いで至る。壬申、匡凝の牙将王建武は押牙常質を遣わし荊南を以て降る。言う、権知荊南軍府事趙匡明は今月十一日に城を棄てて峡に上り、蜀川に奔る。敕す、「梁王躬ら貔武に臨み、荊・襄を収復し、峴首を抜くこと転丸の若く、荊門を平らぐること沃雪の如し、連ねて両鎮を収め、並びに二凶を走らす。乃ち勲庸を睠み、深く嘉注を載す、宜しく詔を賜いて獎飾すべし」。内より宣旨す、「妳婆楊氏は号を昭儀と賜うべく、妳婆王氏は郡夫人に封ぜらるべく、第二の妳婆王氏は先帝既に郡夫人に封ず、楊氏の例に准じて改封すべし」。中書奏議して言う、「乳母は古に夫人に封じ内職を賜うの例無く、近代因循し、殊に典故に乖けり。昔、漢の順帝は乳母宋氏を以て山陽君と為し、安帝の乳母王氏を野王君と曰う、当時朝議これを非とす。今、国祚中興し、礼は旧を求むる宜し。臣等商量す、楊氏は望むらくは号を安聖君と賜い、王氏を福聖君と曰い、第二の王氏を康聖君と曰うべし」。これに従う。己巳、武成王廟は宜しく武明王に改むべしと敕す。乙酉、先ず十月九日を択びて郊丘に事有るも、備物の間に未だ辦ぜざる所有り、宜しく十一月十九日に改用すべしと敕す。

十月丙戌朔、制す、梁王全忠は諸道兵馬元帥を充つべく、別に府幕を開き、食邑を通前一万五千戸に加え、実封一千五百戸とす。金州の馮行襲奏す、当道昭信軍の額内の一字、元帥全忠の諱字と同じなり、乃ち号を戎昭軍と賜う。制して荊南留後趙匡凝の官爵を削奪す。丁亥、敕す、「洛城の坊曲内、旧に朝臣諸司の宅舍有り、乱を経て荒榛と為る。張全義の葺理より以来、皆已に耕墾し、既に軍賦を供す、即ち公田に系る。或は恐らくは毎に披論有り、世業と為すを認め、須らく按験を煩わし、遂に幸門を啓かん。其の都内の坊曲及び畿内の已に耕植したる田土は、諸色の人並びに論認すべからず。若し業田を要せば、一任買置すべし。凡そ論認する者は、給還の限に在らず。若し本主元より自ら人を差し勾当せしむる者は、此の限に在らず。若し荒田に主無きは、即ち識認を許す。河南府に付す」。甲午、起居郎蘇楷、昭宗の諡号を駁して曰く、「帝王宇を禦むるは、理乱を由りて以て汚隆を審にす;宗祀天に配するは、諡号を資りて以て升降を定む。故に臣下君上皆私すべからざるなり。伏して以うるに、陛下古道に順考し、至公を昭彰す、既に不諱の朝に当たり、寧ぞ上言の路を阻まん。伏して以うるに、昭宗皇帝は睿哲尊に居り、恭儉化を垂る、其の善美に於いて、孰か敢えて蔽虧せん。然れども否運興らず、至理猶鬱し、遂に四方多事を致し、万乗頻遷す。始めは則ち閹豎倡狂し、東内に於いて幽辱を受け;終わりは則ち嬪嬙悖乱し、中闈に於いて夭閼に罹る。其の易名に於いて、宜しく考行に循うべし。有司先に尊諡を定めて聖穆景文孝皇帝と曰い、廟号を昭宗とす、敢えて溢美を言う、直書に異なるに似たり。按ずるに後漢の和・安・順帝は、功徳に非ざるに縁り、遂に宗称を改め、以て臣下の請を允す。今、郊禋日に有り、祫祭惟時にす。将に期す列聖の心に允愜せんことを、更に下りて詳議し新廟の称をす。庶幾くは先朝の罪己の徳に葉い、聖主の私無きの明を表わさん」。楷は、礼部尚書循の子、凡劣にして芸無し。乾寧二年進士に応じて登第したる後、物論これを濫りと為す、昭宗は翰林学士陸扆・秘書監馮渥を命じて覆試し黜落せしめ、永く挙場に入るを許さず、楷は愧を負い怨を銜む。是に至り、全忠は君上を弑逆し、柳璨は朝臣を陷害す、乃ち起居郎羅袞・起居舍人盧鼎と連署して駁議す。楷は目書を知らず、手僅かに能く筆を執る、其の文は羅袞の作る所なり。時に政は賊臣より出で、哀帝制する能わず。太常卿張廷範、諡を改めて恭霊莊閔孝皇帝と曰い、廟号を襄宗と曰う。全忠は雄猜にして物を鑒み、楷の諡を駁したる後より、深くこれを鄙み、既に代を伝えたる後に、循・楷父子皆斥逐せられ、朝に在らしめず。丁未、所司昭宗の神主を改題し、朝を輟むこと一日、癸丑、成徳軍は宜しく武順に改むべく、管内の槁城県を槁平と曰い、信都を堯都と曰い、欒城を欒氏と曰い、阜城を漢阜と曰い、臨城を房子と為す、全忠の祖・父の名を避くるなりと敕す。

十一月乙卯朔(一日)、潞州潞城縣を潞子と改め、黎城を黎亭と曰う詔勅を下す。全忠は荊襄を平定した後、軍を率いて淮南を攻めんとす。棗陽に至りて雨に阻まれ、光州に至るまで、道険しく塗潦ぬかるみ(ぬかるみ)多く、人馬飢え疲る。十余日休止し、乃ち固始に向かう。進軍して壽州より三十里の地に至るも、壽人は壁を閉じて出でず、左右の者が師老いて用いるべからずと進言す。是の月丙辰(二日)、全忠は正陽より淮を渡りて北に至り、汝陰に至る。全忠は深く此行の無益を悔いる。丁卯(十三日)、大樑に至る。時に哀帝は此の月十九日に親しく圓丘を祠らんとし、中外の百司、禮儀法物既に備わる。戊辰(十四日)、宰相以下南郊壇にて儀を習う。而して裴迪大樑より回り、全忠が蔣玄暉・張廷範・柳璨等の唐祚を延ばさんと謀り、郊天改元を欲するを怒ると言う。玄暉・柳璨大いに懼る。庚午(十六日)、詔勅す、「先に此の月十九日に親しく南郊の禮を行わんと定む。吉辰定まるといえども、改めて卜すること亦故事有り。宜しく来年正月上辛を改めて取るべし。所司に付す。」辛巳(二十七日)、制す、「回天再造竭忠守正功臣・諸道兵馬元帥・宣武宣義天平護國等軍節度觀察處置・修宮闕制置・度支解縣池場・亳州太清宮等使・開府儀同三司・守太尉・中書令・河中尹・汴滑鄆等州刺史・上柱國・梁王・食邑一萬五千戶・實封一千五百戶硃全忠は、相國を授けられ、百揆を総べ、宣武・宣義・天平・護國・天雄・武順・忠武・佑國・河陽・義武・昭義・保義・戎昭・武定・泰甯・平盧・匡國・鎮國・武甯・忠義・荊南の二十一道を以て魏國と為し、仍(なお)魏王に進封せられ、前の如く諸道兵馬元帥・太尉・中書令・宣武宣義天平護國等軍節度觀察處置等使を充て、食邑五千戶を加え、實封八千五百戶とし、朝に入りて趨らず、劍履上殿し、贊拜して名を称せず、兼ねて九錫の命を備え、仍(なお)日を択び禮を備えて冊命すべし。」又制して、楊師厚を襄州兵馬留後と為し、左龍武統軍張慎思を武寧軍兵馬留後と為す。壬午(二十八日)、中書門下奏す、「相國魏王百揆を総べらる。百司は合(まさ)に本司の印を呈納すべし。其の中書門下の印は、堂候王仁珪が呈納し、中書の公事は、権(しばらく)中書省の印を追って行遣す。」之に従う。甲申(三十日)、河南告成縣を陽邑と改め、蔡州襄城を苞孚と改め、同州韓城を韓原と改め、絳州翼城を澮川と改め、鄆州鄆城を萬安と改め、慈州文城を屈邑と改め、澤州晉城を高都と改め、陽城を濩澤と改め、安州應城を應陽と改め、洪州豐城を吳高と改むる詔勅を下す。全忠、判官司馬鄴に相國総百揆の命を譲らしむ。

十二月乙酉朔。戊子、詔して蔣玄暉に手詔を齎し魏國に赴かしめ、陳讓錫命を許さず。辛卯、制す。正議大夫・門下侍郎、戸部尚書を兼ね、同平章事・太微宮使・弘文館大學士・延資庫使、諸道鹽鐵轉運等使を充て、上柱國・河東縣開國男・食邑三百戸の柳璨は、光祿大夫・守司空、門下侍郎を兼ね、同平章事・太微宮使・弘文館大學士・延資庫使、諸道鹽鐵轉運等使を充て、進めて河東縣開國伯に封じ、前に通じて食邑七百戸とし、魏國冊禮使を充てるべし。制す。相國魏王の曾祖、贈太傅茂琳を追封して魏王とし、諡して宣憲とす。祖、贈太師信を追封して魏王とし、諡して武元とす。父、贈尚書令誠を追封して魏王とし、諡して文明とす。敕す。右常侍王钜・太常卿張廷範・給事中崔沂・工部尚書李克助・祠部郎中知制誥張茂樞・膳部員外知制誥杜曉・吏部郎中李光嗣・駕部郎中趙光胤・戸部郎中崔協・比部郎中楊煥・左常侍孔拯・右諫議蕭頎・左拾遺裴瑑・右拾遺高濟・職方郎中牛希逸・主客郎中蕭蘧等、冊禮使柳璨に隨ひ魏國に行事せしむ。是に先立ち、北院宣徽使王殷、壽州行營に使し、蔣玄暉を全忠に構ふ。全忠怒り、急ぎ大樑に歸る。上、刑部尚書裴迪に詔を齎し全忠を慰勞せしむ。全忠忿恨し、語極めて不遜なり。故に相國百揆の命を行ひて其の心を悦ばしむ。蔣玄暉自ら大樑に至り陳訴す。全忠の怒猶解けず。帝之を憂ふ。甲午、上三宰相を召し其の事を議す。柳璨曰く、人望元帥に歸す。陛下揖讓して負を釋く、今其の時なり。帝曰く、運祚唐を去ること久し。幸ひに元帥の延ふる所と爲る。今日の天下、予が天下に非ず。神器大寶、德有るに歸す。又何をか疑はん。他人予が意を傳ふる盡さず。卿自ら大樞に往き、備く此の懷を言へ。乃ち璨に茶・藥を賜ひ、便ち進發せしむ。乙未、敕す。樞密使蔣玄暉は宜しく在身の官爵を削り、河南府に送り處斬すべし。豐德庫使應頊・尚食使硃建武は河南府に送り決殺すべし。庚子、敕す。樞密使及び宣徽南院北院並びに停む。其の樞密公事は、王殷をして權に知らしむ。其の兩院の人吏は、並びに勒して中書に歸す。其の諸司諸道の人、並びに宣徽院に到ることを得ず。凡そ公事有るは、並びに中書に於て論請す。其の延義・千秋の兩門は、只だ小黃門三人を差して勾當せしめ、其の官健は勒して本軍に歸す。敕す。魏王寵命を堅く辭し、過ぎて捴謙を示す。朕國史の書く所の元帥の任は、並びに天下を以て名と爲す。爰に近年より、諸道と改む。既に舊制に非ず、須らく正名に在り。宜しく制を追ひて天下兵馬元帥と改むべし。余は詔旨に准じて處分すべし。辛丑、敕す。漢宣帝中興し、五日に一朝を聽くは、歷代の通規、永く常式と爲す。近代舊儀に循はず、輒ち制度を隳す。既に奸邪の計を得、臨視の常を失はしむ。須らく舊規を守り、以て定制に循ふべし。宜しく每月只だ一・五・九日に延英を開くを許し、九度を計ふべし。其の入閣の日は、仍て延英の日に一度指揮す。大段の公事有らば、中書門下榜子を具して奏請し延英を開く。日数を計はず。所司に付す。又敕す。宮嬪女職は、本內任に備ふ。近年已來、稍儀制を失ふ。宮人內を出で宣命し、寀禦朝視に參隨す。乃ち舊規を失ひ、須らく永制と爲すべし。今後每に延英坐朝の日に遇ふには、只だ小黃門をして祗候引從せしめ、宮人は擅に內門を出づることを得ず。庶く典儀に循ひ、紛雜に至るを免れしむ。壬寅、戎昭軍金州を收復せしと奏す。兵火の後、井邑殘破す。請ふ、理所を均州に移すを。之に從ふ。仍て武定軍と改む。乙巳、汴州別駕蔣仲伸を決殺す。玄暉の季父なり。又敕す。蔣玄暉身密近に居り、擅に威權を弄び、爵を鬻ぎ官を賣り、財を聚め第を營み、而して悖逆を苞藏し、奸邪を稔浸す。都市に已に極刑を處すと雖も、屈法尚眾怒に慊かず。更に焚棄の典を示し、以て顯負の蹤を懲らしむ。宜しく追削して凶逆百姓と爲し、仍て河南府に委ね屍を都門外に揭げ、眾を聚めて焚燒せしむべし。玄暉死したる後、王殷・趙殷衡等又全忠に譖りて云く、內人相傳ふ、玄暉積善宮に私に侍し、柳璨・張廷範と盟誓の交はりを爲し、唐祚を興さんと求むと。戊申、全忠知樞密王殷をして皇太后何氏を積善宮に害せしむ。又宮人阿秋・阿虔を殺す。蔣玄暉に通導せしと言ふ。己酉、敕して太后の喪を以て、朝を廢すること三日。百官奉慰訖。又敕して曰く、皇太后位坤德を承け、母儀に愧づ有り。近者凶逆誅夷せられ、宮闈詞醜狀に連なり、尋いで自ら崩變し、以て萬方に謝す。朕幼沖を以て、區宇に君臨す。號慕に情深しと雖も、法私に徇ひ難し。秦・漢の規を勉ひて循ひ、須らく追降の典を示すべし。其れ黃門を遣はし上る所の皇太后の寶冊を收め、追廢して庶人と爲し、宜しく官を差し郊廟に告げしむべし。庚戌、敕す。朕謬かに丕圖を荷ひ、禮合郊廟を親謁す。先づ來年正月上辛の用事を定む。今宮圍內亂を以て、醜聲に播き、慚恧の容を以て祖宗の廟に入り難し。其れ明年上辛の親謁郊廟は宜しく停むべし。壬子、敕す。積善宮安福殿は宜しく廢すべし。癸丑、敕す。光祿大夫・守司空・門下侍郎・平章事・太微宮使・弘文館大學士・延資庫使・諸道鹽鐵轉運使柳璨を責授し朝議郎・守登州刺史と爲す。又敕す。太常卿張廷範・太常少卿裴磵溫鑾・祠部郎中知制誥張茂樞等、蔣玄暉樞密に在りし之時、柳璨・張廷範と共に朋扇を爲し、日相往來し、其の遊宴の名を假り、別に傾危の計を貯ふ。苟くも重位を安んじ、酷く朝臣を陷る。既に此の陰謀有り、難く大辟を寬む。柳璨は已に別敕に從ひ處分す。廷範は責授して萊州司戶と爲すべし。裴磵等常に聚會を同くし、固より苞藏を共にす。磵は青州北海尉と爲すべし。鑾は臨淄尉と爲すべし。茂樞は博昌尉と爲すべし。並びに員外に置く。甲寅、敕す。責授登州刺史柳璨は、素憸巧を矜り、每に回邪を務む。幸ひに庸才を以て、驟に重位に居る。曾て顯效無く、明恩を孤負す。詭譎多端、苞藏測む可からず。但兇險に結連し、獨り賢良を陷害す。罪既に貫盈す、理須らく竄殛すべし。密州司戶に貶し、再び長流崖州百姓と爲すべし。御史台に委ね自盡を賜ふ。是日上東門外に斬る。又敕す。張廷範性唯だ庸妄、志回邪に在り。寵榮を保慎する能はず、而して乃ち兇險を苞藏す。密に柳璨に交はり、深く玄暉に結ぶ。晝議宵行、天を欺き地に負く。神祇共に怒り、罪狀原む難し。宜しく名を除き、河南府に委ね都市に於て眾を集め、以て五車分裂すべし。溫鑾・裴磵・張茂樞並びに名を除き、御史台の所在に委ね自盡を賜ふ。柳璨の弟瑀・瑊は、河南府に送り決殺す。

天祐三年。

三年春正月乙卯朔、全忠は四鎮の兵七万を以て、河北諸軍と会し、深州楽城に屯す。戊午、右拾遺柳瑗を洺州鶏沢尉に貶すを勅す、璨の疏属なり。乙丑、全忠は汴河より魏州に赴く。丙寅、制す、「定乱安国功臣・鎮海鎮東軍節度・浙江東西道観察処置等使・淮南東面行営招討営田安撫両浙塩鉄制置発運等使・開府儀同三司・守侍中・兼中書令・杭越両州刺史・上柱国・呉王・食邑九千戸・実封五百戸の錢鏐は、両鎮を総臨し、三呉を制撫す。道途阻艱にして、未だ冊命を行わず、宜しく所司に令して日を択び礼を備えしむべし」。己巳夜、魏博節度使羅紹威、其の衙内親軍八千人を殺す。戊午、全忠は内黄より魏州に入る。是の月、魏博衙外兵五万は歴亭より還り、紹威の貝・博等の州に分拠す、汴軍之を攻囲す。壬申、勅す、「相国総百揆魏王は頃に冊命を辞す、宜しく所司に令して再び冊礼を行わしむべし」。辛巳、国子監奉る、「去年十一月五日の勅文を奉ずるに、応に国学は毎年諸道等と一例に二人を解送すべしと、今監生郭応図等六十人連状して論訴す」。勅旨す、「士を取るの科は、明経極めて重し、毎年の人数は、既に旧規有り、去夏条疏は、蓋し渝濫を防がんが為なり。今国子監・河南府倶に論奏有り、試むる所の明経は、宜しく往年の例に准じて礼部に解送し、人を放つ多少は、酌量して施行すべし。但だ嘱求に徇わず、僥倖を致さざるのみ。所司に付す」。

二月甲申朔、魏博節度使羅紹威は宜しく本鎮に三代私廟を置くを許すべし。癸卯。今年礼部の放つ進士は、去年の人数に依拠する外に、更に二人を放つを勅す。

三月甲寅朔。甲戌、勅す、「河中・昭義管内に、倶に慈州有り、地裏相去ること遠からず、称謂時に錯誤を聞く、其の昭義管内の慈州は宜しく惠州に改むべし」。壬戌、全忠奏す、河中判官劉崇の子匡図は、今年進士に登第し、遽かに高科を列す、群議に渉るを恐る、礼部に落下を請う。戊寅、元帥梁王は諸道塩鉄転運等使を兼領し、度支戸部事を判じ、三司都制置使を充つべしと制す。辛巳、西都留守判官・左諫議大夫鄭賨を崖州司戸に貶すを勅し、尋いで死を賜う。

四月甲申朔、日蝕有り、胃十二度に在り。戊申、魏博羅紹威奏す、「臣が管する博州聊城県・武陽莘県武水博平高堂等の五県は、皆黄河東岸に在り、其の郷村百姓の河を渡り税を輸する不便なり、天平軍管界と接連す、鄆に割属せんことを請う」。之に従う。

五月癸酉朔、故荊南節度使成汭・鄂岳節度使杜洪の官爵を追贈し、仍お本州に祠廟を立つ、全忠の奏に従うなり。丙申、勅す、「天祐二年九月二十日に金州に戎昭軍を置き、均・房二州を割きて属郡とす。比に馮行襲の元勳を葉賛し、丕績を克く宣ぶるに因り、済師の効を奨するを用い、遂に割地の権を行う。今帥を得るに人を得、庸を疇するに秩有り、其の戎昭軍の額は宜しく停め、其の均・房二州は却って山南東道に還し収管せしむべし」。

六月癸未朔、甲申、勅す、「襄州は近く趙匡凝の帥と作るに因り、別に忠義軍の額を立てんことを請う、往制に非ざれば、固に権に従うなり。忠義軍の額は宜しく停廃し、旧に依りて山南東道節度使と為すべし」。己亥、権右唐州事衛審符奏す、州郭凋残し、又要路に居らず、泌陽県に理所を移さんことを請う、之に従う。京兆尹・佑国軍節度使韓建を以て青州節度使と為し、王重師に代え、重師を以て建に代わり京兆尹と為すと制す。壬寅、勅す、「文武百僚は毎月一度貞観殿に入閣す。貞観大殿は朝廷の正衙、正至の辰に遇えば、群臣の朝賀を受く。比来朔を視るに、未だ規儀を正さず、今後は崇勲殿に入閣すべし。所司に付す」。左拾遺・史館修撰を充つる裴瑑は堂叔母の危疾済源に在り、兄弟無く疾に侍す、仮を乞い寧省せんと、之に従う。

七月壬子朔。己未、全忠始めて魏州より大梁に帰る、魏博六州平定す。検校工部尚書・守宗正卿・嗣邠王震は見任を停め、襲封を落下す、外に請告するを以てなり。辛未、皇妹永明公主薨ず、朝を三日罷む。

八月甲辰、全忠復た汴州より北に河を渡り、滄州を攻む。乙未、魏博奏す、貝州永済・広宗、相州臨河・内黄・洹水・斥丘等の六県を割きて魏州に隷せしむ、之に従う。

九月辛亥朔。丁卯、全忠は軍中に在りて滄州に至り、長蘆に軍す。是の月積陰霖雨止まず、官を差し宗禜を都門にす。

十月乙未、両浙錢鏐は本鎮に三代私廟を立てんことを請う、之に従う。

十一月庚戌朔。丙子、牛羊司を廃す。御厨の肉は河南府供進し、所有進到の牛羊は、便ち河南府に付し収管せしむ。

十二月己卯朔、淮南偽署の宣歙観察使・検校司徒王茂章は金紫光禄大夫・検校太保と為すべし、錢鏐の奏に従うなり。茂章は楊渥に背き、宣州を以て錢鏐に降る故なり。己丑、全忠奏す、文武両班の一・五・九朝日に、元帥府廊飧を排比す。勅して曰く、「百官朝に入り、両廊に食を賜う、遷都の後、有司供すに官闕す。元帥梁王は大綱を整え、復た故事を行わんと欲し、其の班列を俾し、益々優隆を認む、宜しく詔を賜い奨飾すべし」。甲辰、河陽節度副使孫乗を崖州司戸に貶し、尋いで自尽を賜う。閏十二月己酉朔、福建の百姓僧道闕に詣り、節度使王審知の為に徳政碑を立てんことを請う、之に従う。乙丑、華州鎮国節度観察処置等使の額及び興徳府の名は、倶に宜しく停廃し、復た華州刺史と為し、本州防禦使を充て、仍お同州に隷し支郡と為し、管する所の華・商両州諸県は、先に次赤に升め、次畿と為すを並び罷め、宜しく旧名に依るべし。西都佑国軍は鎮と作る已来、未だ属郡有らず、其の金州・商州は宜しく隷して属郡と為すべし。京兆府奉先県は本馮翊に属し、櫟陽は下邽に連接す、奉先県は宜しく却って同州に隷し、櫟陽は宜しく華州に隷すべし。丙寅、西川節度使王建の在身官爵を奪う。戊辰、李克用は幽州の衆と同に潞州を攻む、全忠の守将丁会は沢・潞を以て太原に降り、克用は其の子嗣昭を以て留後と為す。甲戌、全忠は長蘆の営を焼き軍を旋す、潞州の陥るを聞く故なり。乙亥、興唐府少尹孫秘を長流愛州に貶し、尋いで死を賜う、孫乗の弟なり。

天祐四年

四年の春正月戊寅の朔日。壬寅、全忠は長蘆より大梁に至る。天子は御史大夫薛貽矩を遣わし、詔を齎して慰労す。全忠は昭宗を弑してよりのち、岐・蜀・太原、兵を連ねて牽制し、関西は日に削がる。幸いに羅紹威が牙軍を殺し、魏博六州を全く獲たり。将に篡代を行わんとし、河朔に威を臨まんと欲し、乃ち再び師を興して幽・滄に臨み、冀うに仁恭父子が盟を乞い、則ち之と相結び、以て王鎔・紹威の心を固めんとす。而して秋より冬に迄り、滄州を攻めて功無く、及び丁会の失守を聞き、営を焼きて遽かに還る。路、魏州に由る。羅紹威、勢を失えるを知り、兵の己を襲うを恐れ、深く篡奪の謀を賛し、他日王の禅を受くるに、必ず六州の軍賦を罄くして以て大礼を助けんとす。全忠深く之を感ず。大梁に至り、薛貽矩の来るに会い、乃ち臣礼を以て全忠に見ゆ。貽矩、間を承けて密かに禅代の謀を陳ぶ。全忠、心に之を徳とす。貽矩還りて奏して曰く、「元帥に受代の意有り。陛下深く時事を体し、此の重負を去らん」と。帝曰く、「此れ吾が素懐なり」と。乃ち詔を降して元帥に二月に伝禅の礼を行わしむ。全忠偽りに辞す。

二月壬子、文武の百官に詔して今月七日を以て斉しく元帥府に赴かしむ。癸丑、宰相百官辞す。全忠、未だ表を断たざるを以て詞とす。

三月戊寅の朔日、全忠、大将李思安に令し兵三万を率い、魏博の衆を合し、幽州を攻掠せしむ。思安、兵を頓えて其の郛に臨み、会に仁恭の子守光、兵を率いて赴援す。思安乃ち還る。庚寅、薛貽矩に詔して再び大梁に使わしめ、伝位の旨を達せしむ。甲辰、詔して曰く、「宰臣文武百辟、藩岳庶尹に勅す。明らかに朕が言を聴け。夫れ大宝の尊、神器の重、儻や徳宇宙に充ちず、功黔黎を済さず、重華の納麓の功を著わさず、文命の導川の績を彰さず、允に帝載を熙かし、克く天工を代えずんば、則ち何を以てか万邦を統禦し、八極を照臨せん。元帥梁王、龍顔瑞質、玉理奇文、英謀睿武を以て寰瀛を定め、厚沢深仁を以て華夏を撫す。神功至徳、絶後光前、緹油其の鴻勳を紀するに罕にして、謳誦顕かに至化に帰す。二十年の功業、億兆衆の推崇、邇に異言無く、遠く異望無し。朕惟うに王の聖徳、八紘に光被し、玄穹に順い、此の宝命を膺くべし。況んや天文符瑞、雑遝として宣明なり。虞夏の昌期、図籙に顕わる。万機久しく曠くべからず、天命久しく違うべからず。神祇心を葉え、有徳に帰す。朕敬って天下を以て、聖君に伝禅し、退きて旧藩に居り、以て三恪を備えん。今宰臣張文蔚・楊涉等に勅し、文武百僚を率い、法駕を備えて梁朝を奉迎せしめ、勉励肅恭、明主を尊戴せしむ。沖人此の重負を釈し、永く虞賓と為り、新朝を奉ずることを獲ば、慶泰兼ねて極まれり。中外の列辟、宜しく朕が懐を体すべし」と。乙酉、乃ち中書侍郎・平章事張文蔚を以て冊使と充て、礼部尚書蘇循を副とす。中書侍郎・平章事楊涉を押伝国宝使とし、翰林学士・中書舎人張策を副とす。御史大夫薛貽矩を押金宝使とし、左丞趙光逢を副とす。甲午、文蔚、文武百僚を押して大梁に赴く。甲子、事を行ふ。冊に曰く。

「皇帝曰く、咨う爾れ天下兵馬元帥・相国総百揆梁王。朕が上古の書を観る毎に、堯舜を始めと為すは、蓋し禅譲の典の無窮に垂るるを以てなり。故に泰山を封じ、梁父を禅る。略く道う可き者七十二君、則ち天下の至公なること、一姓の独り有するに非ざるを知る。古より明王聖帝、焦思労神、惴として隍に納るるが若く、坐して旦を待ち、之に居れば則ち兢畏し、之を去れば則ち逸安せざるは莫し。且つ軒轅は明ならずといわず、放勳は聖ならずといわず、尚お姑射に游び、彼の大庭を休めんと欲す。況んや歴数尋で終わり、期運久しく謝えり。孤藐に属し、万方を統禦する者においてをや。況んや懿祖の後より、嬖幸朝を乱し、禍階より起こり、政漸く象無し。天綱幅裂し、海水横流す。四紀これに於て、群生庇う無し。喪乱に洎りて、誰か其れ之を底綏せん。小子に洎りて、粤に幼年を以て、此の衰緒を継ぐ。豈に此の沖昧、能く洪基を守らんや。惟うに王は明聖躬に在り、上哲に体す。神武を奮揚し、区夏を戡定す。大功二十、冊書に光著す。北は陰山を越え、南は瘴海を踰え、東は碣石に至り、西は流沙に暨り、生を懐くるの倫、悦附せざるは罔し。況んや予が寡昧、危うくして存することを獲たり。今則ち上は天文を察し、下は人願を観る。是れ土徳終極の際にして、乃ち金行兆応の辰なり。況んや十載の間、彗星三たび見ゆ。新を布き旧を除く、厥れ明徴有り。謳歌の帰する所、睿徳に属す。今、持節・銀青光禄大夫・守中書侍郎・同中書門下平章事張文蔚等を遣わし、皇帝の宝綬を奉り、敬って位を遜る。於戯、天の歴数爾が躬に在り。允に其中を執れ、天禄永く終われん。王其れ大礼を祗顕し、此の万国を享け、以て天命を肅膺せよ」。

全忠、国を建て、帝を奉じて済陰王と為し、曹州に遷し、前刺史氏叔琮の第に処わしむ。時に太原・幽州・鳳翔・西川は猶お天祐の正朔を称す。天祐五年二月二十一日、帝は全忠の害する所と為り、時に年十七。仍って諡して哀皇帝と曰い、王礼を以て済陰県の定陶郷に葬る。中興の初、方に礼を備えて改卜せんとす。国喪に遇いて止む。明宗の時、故陵に就き園邑を置く。有司請うて諡して昭宣光烈孝皇帝と曰い、廟号を「景宗」とす。中書覆奏して少帝の行事、宗と称するに合わず、諡を存するのみとす。礼を知る者も亦、宣・景の諡は宜しからずとす。今只だ本諡を取り、之を紀に載す。

【論】

史臣曰く、悲しいかな、土運の将に亡ぼんとするや、五常殆ど盡き、百怪斯に呈し、宇縣瓜分し、皇圖瓦解す。昭宗皇帝は英猷奮發し、志は陵夷を憤り、旁らに奇傑の才を求め、淪胥の運を拯はんと欲す。而して世途僻なること多く、忠義俱に亡び、極爵位を以て賢豪を待ち、珍奇を罄して心腹に托す。殷勤たる國士の遇ひ、孤を托すの賢有ること罕なり、豢豐にして犬豕轉た獰く、肉飽きて虎狼逾よ暴なり。五侯九伯、鼎を問ふの徒に非ざるは無く、四岳十連、皆君無きの跡を畜ふ。蕭屏の臣腕を扼し、岩廊の輔心を痛むるも、空しく毀室の悲を銜み、寧くんぞ喪邦の禍を救はん。扶風西幸し、洛邑東遷するに及んで、珠を盜蹠の門に寄せ、水を尾閭の上に蓄ふるが如く、往きて返らず、夫れ何を言はんや。川竭き山崩るるに至りては、古今同じく歎く。虎爭ひ龍戰ふは、興替常無し。縱ひ胠篋の不仁と雖も、亦攫金の有道なり。曹操椒壺に刑を請ふは、蓋し陰謀に迫られてなり。馬昭凌雲に命を拒むは、見討たるるに窘しめられてなり。誠に醜跡を知り、以て詞と為すを得るも、全忠の行ふ所は、殘忍に止まる。況んや岐より洛に遷りてより、天子塊然たり、六軍盡く秦人に斥けられ、四面皆汴卒に環らされる。冕旒寄するが如く、纖芥疑ひを為し、鑾を迎ふる未だ崇朝に及ばずして、剚刃已に塗地に聞こゆ。嗣君を南面に立て、母后を中闈に斃し、黄門と禁旅皆殲され、宗室衣冠と共に殪さる。復た又鐘を盜みて耳を掩ひ、禍を人に嫁す。何ぞ九六の數窮まり、偶さく天人の道盡き、目撃斯の亂、之を言ふに心を傷ましむ。哀帝の時、政は凶族に由る。揖讓の令有るも、山陽に類するも、凌逼の權は、侯景を過ぎ逾る。人道浸く薄く、陰騭徵し難し、然れども此を以て終を受く、如何にして永く延ばん。

贊に曰く、勳華命を受け、揖讓終を告ぐ。逆に取り順に守るも、仁道已に窮る。暴なれば則ち祚短く、義なれば則ち延洪なり。虞賓の禍は、一宗に止まらず。