旧唐書 本紀第二十上 昭宗

旧唐書

本紀第二十上 昭宗

昭宗聖穆景文孝皇帝の諱は曄、懿宗の第七子、母は惠安太后王氏と曰う。咸通八年二月二十二日に東内に生まる。十三年四月、壽王に封ぜられ、名は傑。乾符四年、開府儀同三司・幽州大都督・幽州盧龍等軍節度・押奚契丹・管内観察処置等使を授かる。帝は僖宗の母弟にして、特に親睦なり。艱難播越より、嘗て左右に随侍し、兵を握り中要にあり、皆奇として之を愛す。

文徳元年

文徳元年二月、僖宗暴に豫せず。時に初めて宮闈を復し、人心傾矚す。遽かに疾を被るを聞き、軍民駭愕す。大漸の夕に及びて、未だ立つ所を知らず。群臣吉王最も賢なりとし、又壽王の上に在り、将に之を立たんとす。唯だ軍容楊復恭、壽王を以て監国せしむるを請う。

三月六日、遺詔を宣して皇太弟に立つ。八日、柩前即帝位す。時に年二十二。司空韋昭度を以て塚宰を摂せしむ。己丑、群臣に見え、始めて政を聴く。帝書を攻め文を好み、特に儒術を重んじ、神気雄俊、会昌の遺風有り。先朝の威武振わず、国命浸微なるを以て、大臣を尊礼し、道術を詳延し、意旧業を恢張し、天下に号令せんとす。即位の始め、中外之を称す。

四月戊辰朔。庚午、聖母惠安太后を追諡して恭献と曰う。乙亥、河南尹張全義兵を以て李罕之を河陽に襲い、罕之出でて澤州に拠る。魏博衙軍其の帥楽禎を龍興寺に殺し、又楽従訓を撃ちて之を敗る。従訓残衆を以て洹水を保つ。羅宗弁其の城を陥れて之を殺す。壬午、蔡賊孫儒揚州を陥れ、楊行密潰囲して出で、宣州に拠る。孫儒自ら淮南節度と称し、仍其の衆を率いて宣州を攻む。

五月丁酉朔、制して宣武軍節度使・検校侍中・沛郡王朱全忠を以て蔡州四面行営兵馬都統とす。秦賢・石璠敗れたる後、蔡賊漸く弱く、時溥まさに全忠に攻めらるるを以て、故に溥の都統の命を移して全忠に授く。壬寅、蔡賊将偽に署す荊襄節度使趙徳諲使いを遣わして朝に帰し、賊を討ちて自ら効わんことを願う。乃ち徳諲を以て蔡州四面行営副都統とす。徳諲遂に荊襄の兵を以て全忠に属す。

六月丁卯朔、川賊王建大いに乱る。剣南陳敬瑄難を告ぐ。制して開府儀同三司・守司空・門下侍郎・同平章事・太清宮使・弘文館大学士・延資庫使・上柱国・扶陽郡開国公、食邑二千戸韋昭度を検校司徒・門下侍郎・平章事とし、兼ねて成都尹、剣南西川節度副大使・知節度事を充て、兼ね両川招撫制置等使とす。蔡州行営賊を龍陂に大破せしむるを奏し、軍を進めて以て賊城に逼る。

七月丙申朔、澤州刺史李罕之太原の師を引きて河陽を攻む。汴将丁会に敗られ、高平に退き還る。

九月乙未、汴将朱珍時溥の師を埇橋に敗り、遂に宿州を陥る。是より溥城に嬰り敢えて復た出でず。汴将胡元琮急に蔡州を攻む。

十二月甲子朔、蔡州牙将申叢秦宗権を執り、其の足を撾折し、降を乞う。詔して中使を宣諭し、便に叢を以て留後を権知せしむ。中使の至るに比し、別将郭璠申叢を殺し、宗権を篡め、縶して汴州に送る。蔡・申・光等州平ず。詔して蔡州行営兵士に銭二十五万貫を賜い、度支に令して逐近支給せしむ。是の月、僖宗を靖陵に葬る。

龍紀元年

龍紀元年春正月癸巳朔、上武徳殿に御し朝賀を受け、制を宣して大赦し、元を改む。中外文武臣僚進秩頒爵差有り。剣南西川節度・両川招撫制置使韋昭度を検校司空とし、東都留守と為す。翰林学士承旨・兵部侍郎・知制誥劉崇望を本官同平章事とす。刑部侍郎孫揆を京兆尹とす。

二月癸亥朔。己丑、汴州行軍司馬李璠監送して逆賊秦宗権並びに妻趙氏を献ず。上延喜門に御し俘を受け、百僚賀す。之を以て市に徇し、廟社に告げ、独柳に斬る。趙氏笞死す。初め、諸侯長安を収むるより、黄巢東に関を出で、宗権と合す。巢賊平げられたりと雖も、而して宗権の凶徒大いに集まり、西は金・商・陝・虢に至り、南は荊・襄に極まり、東は淮甸を過ぎ、北は徐・兗・汴・鄭を侵す。幅員数十州。五六年の間、民耕織無く、千室の邑、一二を存せず。歳凶荒に既にして、皆人を膾して食らう。喪乱の酷、未だ前に聞かず。宗権既に平ぎ、而して朱全忠兵十万を連ね、河南を吞噬し、兗・鄆・青・徐の間、血戦解けず、唐祚以て亡に至る。中書奏請して二月二十二日を嘉会節と為さんことを請う。之に従う。

三月壬辰朔、右僕射・門下侍郎・同平章事孔緯を以て司空・太清宮使・弘文館大學士・延資庫使を守らしめ、諸道鹽鐵轉運等使を領せしむ。右僕射・門下侍郎・集賢殿大學士杜讓能を以て左僕射・監修國史・判度支と為し、中書侍郎・戶部尚書・同平章事張浚を以て集賢殿大學士・判戶部事と為す。

四月壬戌朔、宣武淮南等節度副大使・知節度事・管內營田觀察處置等使・開府儀同三司・檢校太傅・兼侍中・揚州大都督府長史・汴州刺史・蔡州四面行營都統充・上柱國・沛郡王・食邑四千戶朱全忠を以て檢校太尉・中書令と為し、東平王に進封し、仍て賞軍錢十萬貫を賜う。

五月壬辰朔、漢州刺史王建、成都府を陥とす。陳敬瑄を雅州に遷す。建自ら西川兵馬留後と称す。復た田令孜を用いて監軍と為す。

六月辛酉朔、邢洺節度使孟方立卒す。三軍其の弟洺州刺史遷を推して留後と為す。太原李克用軍を出して之を攻む。杭州刺史錢鏐、宣州を攻め、之を下し、劉浩を擒え、心を剖きて以て周寶を祭る。

七月、詔して杭州に武勝軍を置き、鏐を以て本軍防禦觀察等使と為す。

十月己未朔、青州節度使王敬武卒す。制して特進・太子少師・博陵郡開國侯・食邑一千戶崔安潛を以て檢校太傅・兼侍中・青州刺史・平盧軍節度觀察・押新羅渤海兩蕃等使と為す。青州三軍、敬武の子師範を以て兵馬事を権知せしむ。

十一月己丑朔、将に圓丘に事有らんとす。御名を改めて曄と曰う。辛亥、上武德殿に宿齋す。宰相百僚朝服して位に在り。時に兩軍中尉楊復恭及び兩樞密皆朝服して上に侍す。太常博士錢珝・李綽等奏して之を論じて曰く、「皇帝齋宮に赴くに、内臣皆朝服す。臣國朝の故事及び近代の禮令を檢するに、並びに内官の朝服して祭を助くるの文無し。伏して惟うに皇帝陛下、天を承け曆を御し、聖祚中興し、宗祧を祗見し、克く大禮を陳う。皆高祖・太宗の成制を稟け、必ず虞・夏・商・周の舊經に循い、冕服章を置き、式に彝憲を遵う。禮院先ず大禮使の牒に准え、内侍省の牒を得て、内臣の朝服の品秩を知らんと要すと称す。禮院已に禮令に准えて報じ訖えり。今近朝の事例を参詳するに、若し内官及び諸衛の將軍、必ず冠服を制せば、即ち各兼ぬる所の正官に依り、資品に随い令式に依りて本官の服を服す。事傳聽に存し、且つ俯して從うよろしと雖も、然れども亦分明に禮令に著さず。乞うらくは聖慈、臣の奏する所を允したまわんことを。」状入り、晚に至るも報ぜず。錢珝又状を進めて曰く、「臣今日巳時に状を進め、内官の冠服の制度を論ず。未だ聖旨を奉ぜず。伏して惟うに陛下、郊禋を虔しく事え、式に彝范を遵い、凡そ典禮に關するは、必ず憲章を守る。今陛下先王の大禮を行い、而して内臣遂に先王の法服を服す。来日大聖祖に朝獻し、臣皇帝の行事を贊導す。若し侍臣の服章、制度に違わば、是れ禮に非ざるなり。上り祖宗を瀆し、臣期に敕を奉ぜず。臣謬ち聖代に當たり、叨に禮官に備わり、朝儀を正すことを、死して且つ朽ちず。脂膏泥滓、是れ甘心する所なり。」状入り、硃書の御劄を降して曰く、「卿等の論ずる所至當なり。事権に從う可し。小瑕を以て、遂に大禮を妨げること勿れ。」是に於て内四臣遂に法服を以て祠に侍す。甲寅、圓丘の禮畢り、承天門に御し、大赦す。

十二月戊午、宰臣杜讓能、司空を兼ぬ。

大順元年

大順元年春正月戊子朔、武德殿に御し朝賀を受く。宰臣百僚、徽號を上りて聖文えい德光武弘孝皇帝と曰う。禮畢り、大赦し、元を改めて大順と為す。

二月丁巳、宰臣兼國子祭酒孔緯、孔子廟兵火を經て、有司釋奠する所無きを以て、請う内外の文臣、觀察使・制使より下及び令佐より、本官の料錢の上緡より十文を抽き、國學の修を助けんことを。之に從う。宣武節度使朱全忠、位を進めて中書令を守り、食邑千戶を加え、餘故の如し。太原の都將安金俊、邢州を攻圍すること歴年、城中食盡き、邢洺觀察使孟遷城を以て降る。乃ち孟遷の族を以て太原に歸す。克用大將安建を以て邢洺留後と為す。

三月丁亥朔、朱全忠表を上りて曰く、「關東の籓鎮、請う朝廷の名德を除用して節度觀察使と為さんことを。如し籓臣固位して代を受けざれば、臣請う兵を以て之を誅せん。王徽・裴璩・孔晦・崔安潛等の如きは皆縉紳の名族にして、踐曆素より高し。宜しく用いて徐鄆青兗等道の節度使と為すべし。」之に從う。昭義節度使李克修卒す。太原の帥克用の弟なり。三軍克修の弟克恭を推して留後事を知らしむ。

四月丙辰朔、李克用、大將安金俊を遣わし師を率いて雲州を攻めしむ。赫連鐸、幽州に援を求む。李匡威兵を出して之を援け、蔚州に戦う。太原軍大いに敗れ、燕軍安金俊を執り、之を朝に獻ず。李匡威・赫連鐸・朱全忠等表を上りて曰く、「請う沙陀の敗亡に因り、臣と河北三鎮及び臣の鎮むる汴滑河陽の兵を以て太原を平定せん。願わくは朝廷重臣一人を命じ、都総して戎事せしめん。」昭宗、太原の艱難の時に於て興復の大功を立つるを以て、心其の事を疑い、兩省・御史台・尚書省四品已上の官を下して議せしむ。唯だ全忠に党する者其の伐つ可きを言い、不可とする者十の七、宰臣杜讓能・劉崇望深く以て不可と為す。惟だ張浚議して曰く、「先朝再び興元に幸するは、実に沙陀の罪なり。比に河北の諸侯の之と膠固するを慮り、滌除するに以て無し。今兩河の大籓皆誅討を願う。其の離貳に因りて之を除かざれば、是れ断すべきに断を失うなり。」孔緯曰く、「浚の言是なり。」軍容楊復恭曰く、「先朝霜露を蒙犯し、草莽に播越すること七八年間、寢て安席せず。賊臣外に於て搖盪する有りと雖も、亦中に於て制を失うに由る。陛下纘承し、人心忻戴す。軽く干戈を挙げ、国の為に事を生ずべからず。優詔を望みて全忠に報い、且つ柔服を以て辞と為さんことを。」上然りとす。全忠密かに浚の親党を遣わし浚を賂う。浚全忠の援を恃み、論奏已まず。天子黽勉して之に從う。

五月、制を下して特進・中書侍郎・兵部尚書・同平章事・集賢殿大學士・上柱國・河間郡開國伯・食邑七百戸の張浚を太原四面行営兵馬都統とし、京兆尹の孫揆をその副とした。華州節度使の韓建を北面行営招討都虞候・供軍等使とし、宣武節度使の朱全忠を太原東南面招討使とし、成徳軍節度使の王鎔を太原東面招討使とし、幽州節度使の李匡威を太原北面招討使とし、雲州防禦使の赫連鐸をその副とした。丙午、潞州で軍が乱を起こし、その帥の李克恭を殺した。監軍使の薛繢本は克恭の首を函に収めて朝廷に献上し、張浚がちょうど兵を起こしたので、朝廷はこれを称賀した。壬子、都招討使の張浚・孫揆が諸策神軍三千を率いて行営に赴き、昭宗は安喜門に臨んで送り、誡め誓わせた。

六月乙卯、李克用の大将で権知邢洺兵馬留後の安建が上表し、三州を以て帰順することを請い、中使を遣わしてこれを労った。制を下して徳州刺史・権知滄州兵馬留後の盧彦威を検校尚書右僕射、兼ねて滄州刺史・御史大夫とし、義昌軍節度・滄徳観察処置等使を充てた。彦威は、光啓の初めにその帥の楊全玫を逐い、旄節を求めたが、朝廷は扈蹕都都將の曹誠を滄徳節度使とした。誠は任に至らなかったが、彦威の請いは行われなかった。ここに至り、王鎔・羅弘信が張浚の用兵に因り、彦威のために論請したので、この授けがあった。京兆尹・行営兵馬副招討の孫揆を検校兵部尚書、兼ねて潞州大都督府長史とし、昭義節度副大使・知節度事を充てた。張浚は諸軍を晉州で会し、朱全忠は汴卒三千を選んで張浚の牙隊とした。

秋七月乙酉の朔、王師は陰地に屯し、太原の大将康君立が兵を以て拒戦した。朱全忠は大将の葛従周を遣わして千騎を率いて潞州に入らせ、従周は権に兵馬留後を充てた。朱全忠は奏上して、既に兵士を差して潞州を守らせたので、節度使の孫揆を鎮に赴かせることを請うた。時に中使の韓帰範が揆の旌節・官告を押送して行営に至った。丙申、揆は節を建て、兵二千を率いて晉州より昭義の鎮に赴いた。戊申、長子県の山谷中に至った。太原の騎将李存孝が伏兵を以て揆と韓帰範の牙兵五百を捕らえ、俘虜として太原に送り、残りの兵は悉く存孝に殺された。太原の将康君立は兵二万を率いて潞州を攻めた。

九月甲申、幽州・雲州の蕃・漢の兵三万が雁門を攻め、太原の将李存信・薛阿檀がこれを撃破した。汴将の葛従周は上党を棄て、康君立が入ってこれを占拠し、克用は君立を沢潞兵馬留後とした。

十一月癸丑の朔、太原の将で邢州刺史の李存孝は、自ら孫揆を擒らえた功を恃み、昭義の帥となることを合わせて望み、克用が康君立を授けたことを怨んだ。存孝は晉州より行営兵を率いて邢州に帰り、城を拠って上表して朝に帰し、また張浚・王鎔に書を致して援を求めた。克用は大将の李存信・薛阿檀を遣わして王師を陰地で拒ませ、三戦三勝し、これにより河西の鄜・夏・邠・岐の軍は河を渡って西に帰った。韓建は諸軍を以て平陽を保ち、存信がこれを追うと、建の軍また敗れ、建は退いて絳州を保った。張浚は汴卒・禁軍一万を晉州に在らせたが、存信がこれを三日攻め、互いに謀って言うには、「張浚は宰相、これを俘虜にしても益なし。天子の禁兵は、害を加うべからず。もし平陽を得ても、我らに利なし」と。すなわち五十里退いて舍を設けて軍した。

十二月壬午の朔、張浚・韓建は晉・絳を抜いて遁走し、李存信は晉・絳を収め、河中の四郡を大いに掠めた。丙寅、制を下して特進・中書侍郎・平章事・太原四面行営都統の張浚を検校兵部尚書、兼ねて鄂州刺史・御史大夫とし、鄂嶽観察使を充てることを可とした。開府儀同三司・守司徒・門下侍郎・同平章事・上柱國・魯國公・食邑三千戸・諸道塩鉄転運等使を充てる孔緯を検校司徒、兼ねて江陵尹・荊南節度観察処置使とした。庚午、新たに除された鄂岳観察使の張浚を責めて連州刺史と授け、新たに除された荊南節度使の孔緯を責めて均州刺史と授け、ともに馳驛して任に赴かせた。太原軍は晉州に屯し、李克用は中使の韓帰範を還朝させ、因って上表して冤を訴え、言うには、「賊臣張浚が朱全忠に依倚して功臣を離間し、臣の官爵を削奪するに致った」と。朝廷は憾みを解かせんと欲し、群臣を下してその可否を議させた。左僕射の韋昭度等が議して曰く。

「功を賞し否を罰することは、前聖の令猷なり。垢を含み瑕を匿すことは、百王の垂訓なり。これにより雷解けて羲文は徳に象り、網開けて湯化は仁に帰す。彼の懐柔を用い、式として彝範を存す。上は軒農の代より、下は文武の朝に臻るまで、允に寛弘に洽わざるはなく、以て霈沢を流す。況んや国家の徳祖守成の日、憲宗致理の時においてをや。車軌は一に同く、桑麻は万里なり。燭龍の外野は、悉く梯航に在り。火鼠の窮郊は、咸く正朔に帰す。然るに猶お王承宗は兵を擁して鎮・冀に在り、詔して範希朝にこれを討たしむも、歳を仍いて功無く、卒に行って赦宥す。また朱滔は幽州の衆を以て、田悦・李納・王武俊の強を結び、馬燧等を遣わしてこれを征するも克たず、旋ってまたこれを寛う。累聖の典謀睿哲、大朝の紀律文明を以て、彼を風駆せしめ、その電掃を快くせんと欲せざるに非ず。然れども且つ《春秋》の義を考へ、楚・鄭の文を稽へ、或いは退いて平を許し、或いは服して更に舍つ。旧史に存し、彼の新書にすです。

李克用は代漠の強宗、陰山の貴胤にして、呼吸すれば風雲気を作し、指麾すれば草樹形を成す。天を仰ぎ心を指し、誓って失訾の首を献ぜん。弢を伏して血を歐し、屡く都護の営に親しむ。所謂る勇多く人に上り、自ら窮より我に帰するにあらず。及び陛下の聖考懿宗皇帝の朝、彭門失守の時、親しく鋭卒を駆り、首めて殊功を建つ。而して先帝即位の初、渚宮大いに擾るに、復た義旅を提げ、克く妖氛を静む。その後、封豕長蛇、すすんで上国を食い、継いて子朝の乱、皆な重耳の盟に因る。大朝の宗祧を保ち、簡冊に中興を垂る。蓋し聖王の天下を御するや、勳有れば書す可く、績有れば載す可し。過を宥するは十代に忘れず、功を念うは豈に一時に止まらんや。天高くして卑を聴く、請う斯の語に事えん。且つ四海の内、創磐猶お殷く、九貢の邦、綱条未だ理めず。昨者遽かに邠・岐の衆を起こし、尋いで已に退き還る。また燕・薊の師を征し、倏ち内変を聞く。饟饋の職を失い、資扉の供を絶つに出で、此の戈を投ずるに致り、是れ箸を借るに乖る。蓋し下計の未だ熟さざるに在りて、聖謀の臧らざるに非ず。儻し宸断重離し、天機間出せば、此の成款を録し、彼の師徒を散じ、その旧を念うの懐を虚しくし、初めの如きの礼を以て待たば。臣等の議する所、実に是れに在り。

またかつて聞くところによれば、漢の将軍趙充国が辺境の衰弱に乗じて出兵してこれを撃とうとしたとき、魏相が上書して利害を図示して陳べ、かつ曰く、『国家の大なるを恃み、人物の衆きを矜り、敵に威を見せんと欲する者は、これを驕兵と謂う。兵驕るる者は滅ぶ、ただ人事のみにあらず、乃ち天道なり』と。また曰く、『臣はこの兵何の名とするやを知らず』と。兵を出すに名なくんば、事乃ち成らず、漢の宣帝はこれを納れ、ついにその伐を罷めしめた。伏して惟うに、皇帝陛下は往古の用師の難きを鑑み、列聖の善に遷る美を採り、恩を区宇に加え、信を豚魚に及ぼさば、則ち臣等は懇願に勝えざるべし。況んや今、汴・魏はなお艱しく、幽・定はまさに困窮し、仮にこれに調発を遣わすとも、豈に事を集め得んや。虚しく号令を行い、徒らに寇讎を召し、以て人をほろぼらんとす、ただ国を辱しむるのみにあらず。且つ黠斯は勤王の衆を挙げ、効命の誠を推し、未だ虜騎の独り攻むるを得ず、望むところは漢兵の同力なり。今茲数鎮は奔命に遑あらず、師を済わしむること難く、恐らくはまた事を生ぜん。その漸く暑熱に当たるを諭し、戎旃に利あらざるを告げ、力を悉くして頒沾し、蕃部に遣わし還すべし。重盈に五郡の卒を陳べさせ、関防を益々謹ましめ、王珙に両河の雄を振るわせ、旗鼓を更に厳にすべし。然る後にその上表を奨め、自ら陳ずるを哀れみ、その前労を録し、後の効を責むべし。神爵の往典を征し、日逐の故封に還すべし。その已に王恭を斥けたるを諭し、更に晋帝を疑わしめざらしめ、凡百の臣子、実にその誠を切にす。その克用の身の官爵は、並びに請う却って還し、仍って前に依り属籍に編入すべし。

これに従う。

翰林学士承旨・兵部侍郎崔昭緯を本官のまま同平章事とし、御史中丞徐彦若を戸部侍郎・同平章事とする。尚書右僕射王徽卒す。司空を贈り、諡して貞と曰う。

大順二年

二年春正月壬子の朔、李克用、邢州を急攻す。李存孝、王鎔に救援を求め、鎔は軍を出してこれを援け、堯山に屯す。克用、太原より至り、これを撃ち破り、進んで邢州を囲む。司徒・門下侍郎・平章事杜譲能、位を進めて太尉・太清宮使・弘文館大学士・延資庫使とし、諸道塩鉄転運等使を領す。中書侍郎・吏部尚書・平章事劉望を門下侍郎・監修国史・判度支事とし、工部侍郎・平章事崔昭緯に戸部事を判らしむ。

二月辛巳、李克用、復た検校太師・中書令・太原尹・北都留守・河東節度観察処置等使となる。時に張浚・韓建、兵敗れたる後、太原の将李存信等に追われ、ここに至りて方に含山より王偓を逾え、河清に出で、河陽に達す。河の溢るるに属し、舟楫なく、建は人の廬舎を壊し、木罌数百を作り、方に渡ることを獲、人多く覆溺し、その徒を司徒廟に休む。この役、朝廷は朱全忠及び三鎮の兵に倚る。全忠は方に兵を連ねて徐・鄆を攻め、乃ち兵糧を鎮・魏に求め、全忠は終に行営に至らず。鎮・魏は太原を扞蔽として倚り、もし太原郡を破らば、恐らくは鎮・魏を危うくせんとし、王鎔・羅弘信もまた師を出さず。ただ邠・岐・華・鄜・夏の烏合の衆、晋州に会す。兵未だ交わらずして孫揆擒えられ、燕の卒敗れ、以て河西・岐下の師は風を望んで潰散し、而して浚・建は敗に至る。全忠、鎮・魏の兵糧を助けず観望するを以て、龐師古を遣わして兵を将い魏を討たしめ、十県を陥れ、羅弘信盟を乞う、乃ち退く。棣州刺史張蟾、青州の将王師範に敗られる。新たに授けられたる平盧節度使崔安潜、棣州より朝に帰り、復た太子少師を授かる。

三月辛亥の朔、青州権知兵馬留後王師範を検校兵部尚書とし、青州刺史・御史大夫を兼ね、平盧軍節度観察・押新羅渤海両蕃等使を充てる。淮南節度孫儒、宣州観察使楊行密に殺さる。初め、行密は揚州を失守し、宣州に拠る。孫儒、兵を以て攻囲すること三年。この春、淮南大いに饑え、軍中疫癘に死する者十三四。この月、孫儒もまた病み、帳下に執せられ、行密に降る。行密は乃ち孫儒の衆を併せ、復た広陵に拠る。

六月、王鎔、軍を出して李存孝を援け、克用大いに挙兵して鎮州を討つ。

七月、太原軍、井陘より出で、常山鎮に屯し、大いに鎮・趙・深諸郡を掠む。幽州節度使李匡威、自ら歩騎三万を率いて王鎔を援く。

八月、克用、師を班す。

九月丁未の朔。乙卯、天子、左軍中尉楊復恭に几杖を賜い、大将軍を以て致仕せしむ。復恭怒り、病と称して詔を受けず。

十月丁丑の朔。甲申、天威軍使李順節、禁兵を率いて楊復恭を討つ。復恭の仮子玉山軍使楊守信、兵を以てこれに拒ぎ、昌化裏に陣を列ぬ。昭宗、延喜楼に登り、兵を陳べて自ら衛し以て変を俟つ。相持すること晩に至り、戦わずして退く。この夜、守信は乃ちその衆を擁して復恭を衛し京師を出で、且つ戦い且つ行き、通化門を出で、七盤路より商州に至り、また義児張綰をして後殿たらしむ。永安都頭安権、綰に追い及び、これを擒えて還る。

十一月、朱全忠上表し、時溥の節鎮を移すことを請う。この月、汴軍、宿州を陥れ、乃ち溥に太子太師を授く。溥の将劉知俊、汴軍に降る。鎮州王鎔・幽州李匡威、復た謀りて定州を攻めてその地を分かたんとし、王処存、太原に救援を求む。

十二月丙子の朔、光禄大夫・門下侍郎・右僕射・平章事・監修国史・判度支・上柱国・彭城県開国男劉崇望を検校司空・同平章事とし、徐州刺史を兼ね、武寧軍節度・徐宿観察制置使を充てる。時に李順節、恩を恃み恣に横暴にし、出入りに兵仗を以て自ら随え、両軍中尉劉景宣・西門君遂、その非望を窺図するを懼る。丁亥、両中尉詔を伝えて順節を召す。順節、甲士三百を以て自ら随え、銀台門に至る。門司、詔を伝えて従者を止む。両中尉、仗舎に在りて順節を邀え、坐次に、部将嗣光審に命じて順節を斫らしむ。頭、剣に随いて落つ。その部下、順節の死を知り、大いに噪ぎて延喜門を出づ。この日、天威・捧日・登封の三都乱れ、永寧裏を剽し、晩に方に定まる。戸部尚書鄭延昌、中書侍郎・平章事・判度支となる。

景福元年

景福元年(八九二年)春正月丙午朔(一日)、帝は武徳殿に御して朝賀を受け、大赦を行い、元号を景福と改めた。鳳翔の李茂貞、邠州の王行瑜、華州の韓建、同州の王行約、秦州の李茂莊らが上表し、興元の楊守亮が叛臣楊復恭を匿っていることを疏奏し、共に本軍を出して討伐することを請い、兼ねて自ら供軍の糧料を備え、度支からは取らず、ただ茂貞に山南招討使の名を加えることを請うた。内臣は皆その奏を認めず、昭宗もまた茂貞が山南を得た後に問鼎の志があると考え、詔は久しく下されなかった。茂貞は怒り、王行瑜と共に進止を待たず、兵を発して興元を攻めた。累次招討の命を請い、兼ねて宰相杜譲能、中尉西門君遂に書を送り、言葉は罵詈し、王室を凌蔑したので、昭宗は心に容れることができなかった。

二月丙子朔(一日)。庚寅(十五日)、太原・易定の兵が合勢して鎮州を攻め、王鎔は再び幽州に難を告げた。李匡威は歩騎三万を率いてこれに赴いた。時に太原の軍衆は常山鎮に軍し、易定の軍衆は堅固鎮に軍し、燕・趙の兵卒が分かれてこれを拒いだ。

三月、克用・処存は軍を収めて退いた。

四月乙亥(二日)、左軍中尉西門君遂が天威軍使賈徳晟を殺した。時に徳晟は李順節と共に天威軍を掌り、順節が死ぬと、中尉は徳晟を憎み、誣奏してこれを殺した。この日、徳晟の部下千余騎が鳳翔に出奔し、これより岐軍はますます盛んとなった。

五月甲辰(二日)、制を以て河南尹張全義を検校司徒・同平章事とし、兼ねて孟州刺史、河陽三城節度・孟懐沢観察等使を充てた。

七月、燕・趙の兵卒が合勢して邢州を援け、太原の大将李存信が軍を率いて堯山でこれを拒ぎ、王鎔は大敗して還った。

十一月辛丑(二十一日)、鳳翔・邠寧の軍衆が興元府を攻め、これを陥とした。山南西道節度使楊守亮は前左軍中尉楊復恭・判官李巨川と共に包囲を突破して遁走し、太原に奔らんとした。李茂貞はその子継密を表して権知興元府事とした。

十二月辛未朔(一日)、華州節度使韓建が奏して、乾元県で興元の潰散兵士に遇い、これを撃破した。その楊守亮・楊復恭は並びに既に処斬し終わり、皆首を京師に伝えた。

景福二年(八九三年)

二年春正月辛丑朔(一日)、制を以て権知剣南東川兵馬留後顧彦暉を検校尚書右僕射とし、兼ねて梓州刺史・御史大夫、剣南東川節度観察等使を充てた。時に王建は連年彦暉を攻め、李茂貞は建と東川を争わんと欲し、故に彦暉の正授を表請し、旄鉞を授けて、修好を示した。

二月庚午朔(一日)、太原の李克用が兵を以て鎮州を攻め、師は井陘より出で、王鎔は懼れ、再び幽州に救を求めた。甲申(十五日)、李匡威が再び来援し、太原の軍は邢州に還った。

三月庚子(二日)、制を以て捧日都頭陳珮を広州刺史・嶺南東道節度使とし、扈蹕都頭曹誠を黔州刺史・黔中節度使とし、耀徳都頭李鋋を潤州刺史・鎮海軍節度使とし、宣威都頭孫惟晟を江陵尹・荊南節度使とし、並びに特進・同平章事を加えた。各々鎮に赴かせ、並びに軍権を落とした。時に朝議は茂貞が王命を傲侮し、武臣が制し難いとして、杜譲能及び親王に禁兵を典せしめんと欲し、故に五将の権を罷め、兼ねて平章事を以てその心を悦ばせた。太尉杜譲能は冊拝し、食邑を六千戸に加えた。この月、幽州節度使李匡威の弟匡籌が幽州を拠り、自ら留後と称し、符を以て行営の兵を追い、兵は皆幽州に還った。匡威は既に帰路なく、判官李貞抱を遣わして入奏し、朝覲を請うた。王鎔は匡威の援助の恵みに感じ、乃ち恆州に第を築き、匡威を迎えてこれを処した。

四月己巳(二日)、汴将王重師・牛存節が徐州を陥とし、節度使時溥は挙家自ら燔して死んだ。朱全忠は将龐師古を遣わして徐州を守らせた。

六月丁酉朔(一日)。乙卯(十九日)、幽州節度使李匡威が王鎔を害してその帥を奪わんと謀り、恆州の三軍が匡威を攻めてこれを殺した。戊午(二十二日)、制して太尉・門下侍郎・平章事・晋国公杜譲能に食邑を九千戸に加えた。門下侍郎・吏部尚書・平章事崔昭緯は光禄大夫に進階し、中書侍郎・平章事鄭延昌は刑部尚書を兼ね、並びに食邑を千戸に加えた。祠部郎中・知制誥陸扆を中書舎人とし、仍前の如く翰林学士とした。幽州節度使李匡籌は使を遣わして檄を王鎔に送り、匡威を殺した罪を訊ねた。二藩は怨みを結び、朱全忠は判官韋震を遣わして幽州に使いし、これを和解させた。七月、李克用が兵を興して鎮州を攻め、平山で王鎔の軍を破った。鎔は懼れ、盟を乞い、兵糧を以て邢州攻撃を助けることを請い、これを許され、克用は遂に軍を襄国に旋した。癸未(十九日)、制を以て鳳翔隴州節度使・検校太尉・中書令・鳳翔尹・上柱国・岐王・食邑四千五百戸李茂貞を興元尹・山南西道節度等使とした。中書侍郎・同平章事徐彦若を検校尚書左僕射・同平章事とし、兼ねて鳳翔尹、鳳翔隴州節度使を充てた。時に茂貞は兵を恃んで山南節度を兼領することを求め、昭宗は久しく行わず、茂貞の表章は不遜で、時政を深く詆毀したので、上は容れることができず、将に兵を加えて罪を問わんとし、故に彦若を以てこれに代えた。

八月丙申朔(一日)、嗣ひろ王を京西招討使とし、神策大将軍李钅歲をその副とした。

九月丙寅朔、武勝軍防禦使錢鏐を鎮海軍節度・浙江西道觀察處置等使とし、なお鎮海軍の額を杭州に移す。乙亥、覃王は扈駕五十四軍を率いて岐陽を攻撃し、興平に駐屯す。李茂貞は兵を以て逆戦し、盭厔に屯す。壬午、岐軍は進んで興平に迫り、王師は自潰す。茂貞は勝に乗じて京師を逼り、進んで三橋に屯す。甲申、昭宗は安福門に御し、観軍容使西門君遂・内枢密使李周潼を斬り、中使を遣わして茂貞に詔を賜い、兵を収めて鎮に帰らしむ。茂貞は兵を臨皋驛に陳べ、宰臣杜譲能の罪を数え、これを誅するを請う。制して太尉・平章事・晋国公杜譲能を雷州司戸に貶す。

十月乙未、杜譲能に自尽を賜う。その弟戸部侍郎弘徽は譲能に坐して死を賜う。

十一月、制して鳳翔節度使李茂貞を中書令とし、秦王に進封し、興元尹・山南西道節度使を兼ねしむ。邠州節度使王行瑜に「尚父」の号を賜い、鉄券を賜う。門下侍郎・吏部尚書・平章事・監修国史崔昭緯を尚書左僕射に兼ね、諸道塩鉄転運等使を充てしむ。特進・行右僕射韋昭度を司空・門下侍郎・同平章事・弘文館大学士・太清宮使・延資庫使とす。中書侍郎・刑部尚書・平章事・判度支鄭延昌は政事を知るを罷め、尚書左僕射を守る。病を以て罷むるを求むる故なり。新除の鳳翔節度使徐彦若を復た政事を知らしむ。戸部侍郎・判戸部事王搏を本官のまま同平章事とす。

乾寧元年

乾寧元年春正月乙丑朔、上は武徳殿に御して朝を受け、制を宣して大赦し、元を改めて乾寧とす。鳳翔李茂貞来朝し、兵衛を大いに陳べ、妓女三十人を献じ、内殿に宴し、数日にして藩に還る。時に茂貞は山南の梁・洋・興・鳳・岐・隴・秦・涇・原等十五余郡を有し、甲兵雄盛にして王室を凌弱し、頗る問鼎の志有り。

二月、汴人は兗・鄆の軍を東阿に大破す。瑄・瑾勢蹙り、太原に救援を求む。李克用師を出してこれを援く。

三月甲子朔、太原軍は邢州を攻め、これを陥とし、その逆将李存孝を執り、檻車にて太原に送り、これを裂く。克用は大将馬師素を以て権に邢洺団練事を知らしむ。

五月、蔡賊孫儒の部将劉建鋒は潭州を攻め陥とし、自ら湖南節度使と称す。翰林学士・中書舎人陸扆を戸部侍郎・知制誥とし、職を充てしむ。

六月壬辰、李克用は雲州を攻め陥とし、大同防禦使赫連鐸を執り、その牙将薛志勤を以て雲中を守らしむ。

十月庚寅、中書侍郎・平章事王搏を湖南節度使とす。翰林学士承旨・礼部尚書・知制誥李磎を戸部侍郎・同平章事とす。制を宣するの日、水部郎中・知制誥劉崇魯は班を出でて泣き、磎の奸邪にして内官に党附するを言い、輔弼の地に居るべからず。これにより制命行はれず。戊申、制して御史中丞崔胤を兵部侍郎・同平章事とす。是の月、李克用は太原の衆を以て幽州を進攻す。

十二月、幽州節度使李匡籌は囲みを潰して遁る。克用は幽州を陥とし、李匡威の故将劉仁恭を幽州兵馬留後とす。是の月、李匡籌は南奔して関に赴き、景城に至り、滄州節度使盧彦威に殺さる。

乾寧二年

二年春正月己未朔、河中節度使・検校太師・中書令・河中尹・上柱国・琅邪郡王王重盈卒す。三軍は重榮の子行軍司馬珂を立てて留後事を知らしむ。

二月己丑朔、王重盈の子陝州節度使珙・絳州刺史瑤は兵を挙げて王珂を討ち、兼ねて上章して珂の姓を冒し重榮の子に非ざるを訴う。珂・珙蒲帥たるを争い、上は中使を遣わして慰労す。

三月、制して中書侍郎・同平章事崔胤を検校尚書左僕射・同平章事・河中尹とし、河中節度・晋絳慈隰観察処置等使を充てしむ。浙東節度使董昌は僭号して羅平国と称し、年号を大聖と称し、婺州刺史蔣瑰を宰相と為し、なお偽りに官員を署す。鎮海軍節度使錢鏐は本軍を以て進討するを請う。これに従う。翰林学士承旨・兵部侍郎・知制誥趙光逢を尚書左丞とし、前に依り職を充てしむ。太原李克用上章して言う、王重榮は国に功有り、その子珂は宜しく承襲すべし、節鉞を賜わんことを請う、と。邠州王行瑜・鳳翔李茂貞・華州韓建各上章して言う、珂は螟蛉にて、宜しく纘襲すべからず、王珂を陝州とし、王珙を河中とせんことを請う、と。天子は先に克用の奏を允したるを以て、久しく下さず。

五月丁巳朔。甲子、李茂貞・王行瑜・韓建等各々精甲数千を率いて入覲し、京師は大いに恐れ、人皆亡竄し、吏止む能わず。昭宗安福門に御してこれを俟つ。三帥既に至り、楼の下にて拝舞す。昭宗軒に臨み自らこれを諭して曰く、「卿等は藩侯なり、臣節を存すべし。兵を称して朝に入り、奏請に由らず、意何に在るか」と。茂貞・行瑜は汗流れて背に洽き、対ふる能わず。唯だ韓建のみ入覲の由を陳叙す。上並びに召して楼に昇らしめ、之に卮酒を賜い、同文殿にて宴す。茂貞・行瑜は極めて南北司の相傾き、深く時政を蠹すを言い、其の甚だしき者を誅せんことを請う。乃ち宰相韋昭度・李磎を貶し、尋いで都亭駅にて之を殺し、内官数人を殺して去る。王行瑜は弟行約を留め、茂貞は仮子閻圭を留め、各々兵二千人を以て宿衛せしむ。時に三帥は謀を同じくして昭宗を廃し吉王を立てんとし、太原の軍を起すを聞きて乃ち止み、兵を留めて宿衛せしめて還る。壬申、責授均州司戸孔緯・繡州司戸張浚を並びに太子賓客と為す。翰林学士・戸部侍郎・知制誥陸扆を以て兵部侍郎と為し、職を充つ。

六月丁亥朔、京兆尹・嗣薛王知柔を以て戸部尚書・判度支を兼ね、諸道塩鉄転運等使を兼ねしむ。壬辰、太子賓客孔緯を以て吏部尚書と為し、尋いで開府儀同三司・守司空・門下侍郎・同平章事・弘文館大学士・太清宮延資庫使・上柱国・魯郡開国公に復し、食邑四千戸・食実封二百戸を給し、仍って「持危啓運保乂功臣」と号す。時に緯は華州に在り、尋いで太原軍の至るに属して止む。太子賓客張浚を以て光禄大夫・行兵部尚書・上柱国・河間郡開国侯・食邑二千戸に復す。浚は長水に在り、亦た京師に至らず。復た王摶を以て中書侍郎・平章事と為す。

七月丙辰朔、李克用軍を挙げて河を渡り、以て王行瑜・李茂貞・韓建等の兵を称して闕に詣れる罪を討つ。庚申、同州節度使王行実郡を棄てて京師に入り、両軍中尉駱全瓘・劉景宣に謂ひて曰く、「沙陀十万至れり。請ふ車駕を奉じて邠州に幸せしめ、且つ城守せん」と。時に景宣は鳳翔に附す。癸亥の夜、閻圭と劉景宣の子継晟・同州の王行実は火を放ち東市を剽掠し、上に出幸せんことを請ふ。上乱を聞き、承天門に登り、諸王を遣わして禁兵を率いしめて之を禦がしむ。捧日都頭李筠本軍を率いて楼上に侍衛す。閻圭鳳翔の卒を以て李筠を攻め、矢御座の楼扉に及ぶ。上懼れ、楼を下り親王・公主・内人数百と永興坊の李筠の営に幸す。扈蹕都頭李君実兵を以て継ぎて至る。乃ち筠と両都の兵士を以て侍衛し、啓夏門より出で、華厳寺に憩ひ、以て内人の継ぎて至るを候ふ。其の日の晩、莎城鎮に幸す。京師の士庶従幸する者数十万、比して南山の谷口に至るに、暍死する者三の一。暮に至り、盗寇の掠奪に遭ひ、慟哭の声、山谷に殷動す。権りに京兆尹知柔に中書事及び随駕置頓使を令す。信宿して、宰相徐彦若・王摶・崔胤の三人至る。乃ち石門鎮の仏宮に移る。仍って知枢密劉光裕・薛王知柔に帰京師して制置せしめ、禁軍を合して以て宮禁を備へしむ。丙寅、李克用牙将閻諤を遣わして表を奉じて奔問し、軍を河中に屯し、進止を候ひて発して邠州に赴かんことを奏す。丁卯、上内官張承業を遣わして詔を克用の軍に伝え、便ち監太原行営兵馬を令し、発して新平に赴かしむ。又た内官郤廷立を遣わして詔を涇州に伝え、張鐇に涇原の師を起し克用の軍に会せしめんことを令す。上南山に在ること半月余り、克用仍だ河中に在り、未だ渭北に至らず。上鳳翔の兵士の劫遷を懼れ、乃ち延王に御服・鞍馬・玉器等を将て河中に至らしめ、宣諭して曰く、「朕は景宣・全瓘・行実・継鵬を以て表裏の奸謀と為し、干戈を双闕に縦ち、煙塵倏忽、劫殺縱横す。朕偶に鋒鋩を脱し、遂にはこ輅を移す。所謂る巡幸、止だ近郊に在り。蓋し卿の雄師を統領し、蒲阪に臨み駐まるを知り、累ねて書詔を飛ばし、継ぎて使人を遣はす。卿に期すに社稷を憂へ、君親を念ふを以てし、必ずや応を思い回し、速に龔行を議せんとす。豈に将に両旬に渉らんと謂ひて、未だ来表有らず、憂虞是れ切にして、寝食遑あらざらんや。豈に忠義疚懐に切ならずして、道途或は阻滞有るか。今則ち専ら親信を令し、勲賢に懇托す。故に延王戒丕・丹王允と供奉官王魯紆等を遣わして宣示す。卿宜しく便ち貔貅を董し、径に邠鳳に臨み、妖穴を蕩平し、以て阽危を拯ひ、是れ望む所なり」と。

八月乙酉朔、延王河中に至る。克用既に前鋒を発して渭北に至らしめ、又た史儼に五百騎を率いしめて行在に赴き侍衛せしむ。己丑、克用自ら渭橋の砦に至る。癸巳、梨園に行き邠軍数千を殺し、其の大将王令陶を獲て以て献ず。又た詔して鄜州節度使李思孝に本軍を進討せしむ。丁酉、制して河東節度使・開府儀同三司・守太師・中書令、兼ねて太原尹・北都留守・上柱国・隴西郡王李克用を以て邠寧四面行営都招討使と為す。夏州節度使李思諫を以て邠寧東北面招討使を充て、涇原節度使張鐇を以て邠寧西面招討使を充て、河中節度使王珂を以て行営供軍糧料使を充つ。李茂貞之を聞きて懼れ、閻圭・武禿子を斬り、首を伝えて行在に送り、章を上りて罪を請ふ。辛丑、制して王行瑜の在身官爵を削奪す。李克用を改めて授けて邠寧四面行営都統と為す。其の大将蓋寓・李存信・閻鍔、判官王讓・李襲吉等は、並びに詔を降して錫賚す。又た河中都監袁季貞を以て邠寧四面行営兵馬都監押を充つ。壬寅、李克用子存貞を遣わして表を奉じて行在に至らしめ、車駕の還宮を請ふ。詔に答えて曰く、「昨延王回り、言ふ卿の時を憂へ国を体し、礼を執し忠を輸し、接遇の間、周旋節を尽くすを。備はく肺腑を知り、我が恩栄を識る。静かに惟ふに尊主の心、果たして臣を知るの分に契ふ。朕今月十二四日に却て都城に復せんと欲す。兆庶を寧んぜんことを冀ひ、我が勲徳に倚り、長城の若き有らんことを。速に翦蕩の謀を伸べ、以て黔黎の望を慰めよ」と。癸卯、又た延王に詔を伝へしめ、克用に騎軍三千を発して三橋に赴き屯駐せしめ、以て回鑾に備へしむ。辛亥、車駕還宮す。壬子、司空・門下侍郎・平章事・臨修国史・諸道塩鉄転運使崔昭緯知政事を罷め、太子賓客と為す。河中兵馬留後王珂を以て検校司空、兼ねて河中尹・御史大夫、護国軍節度・河中晉絳慈隰観察等使を充つ。幽州兵馬留後劉仁恭を以て検校司空、兼ねて幽州大都督府長史、幽州盧龍軍節度・押奚契丹等使を充つ。故左軍中尉楊復恭を以て開府・魏国公と為す。並びに克用の奏請に従ふなり。

九月甲寅朔。丙辰、制して光禄大夫・守尚書左僕射・門下侍郎・同平章事・監修国史・上柱国・東莞郡公徐彦若を司空・門下侍郎・同平章事・太清宮修奉太廟等使・弘文館大学士・延資庫使とし、諸道塩鉄転運等使を充てる。正議大夫・中書侍郎・同平章事王摶を金紫光禄大夫・戸部尚書門下侍郎・監修国史・判度支とす。正議大夫・中書侍郎・同平章事崔胤を金紫光禄大夫・戸部兼礼部尚書・集賢殿大学士・判戸部事とす。並びに号を「扶危匡国致理功臣」と賜う。癸亥、司空・門下侍郎・平章事・太清宮修奉太廟等使・弘文館大学士・延資庫使・上柱国・魯郡開国公孔緯卒す。太尉を贈る。

十月甲申朔、王師賊の梨園砦を破り、俘斬すること万計に及び、行瑜これにより城を嬰いて自ら固む。丁亥、制して囚を赦し、その節文に曰く、「任崇く柱石たり、位重く台衡たり、或いは軍権に委ね、或いは宥密に参ずる者有り。竟に連謗に因り、終に禍名に至り、我が好生を鬱し、嗟乎強死す。応に大順以来、罪なくして削奪を加えられたる者、並びに官資を復すべし。其の杜譲能・西門君遂・李周潼以下、並びに昭雪をあずかえ、其の爵秩を還す。韋昭度頃に台司に処り、毎に相業を伸べ、王行瑜尚書令を求めしに、独り能く之を抑え、沈冤に致るは、諒に此の事に由る。李磎文章宏贍にして、迥に輩流に出で、竟に朋党の間に以て、死地に擠せらる。凡そ識有る者は、孰か咨嗟せざらん。宜しく並びに昭洗を与え、仍て官爵を復すべし。」と。又勅す、「太子賓客崔昭緯を責授して梧州司馬とし、水部郎中・知制誥劉崇魯を貶して崖州司戸とす。」又詔して邠州行営都統に曰く、「邠州節度副使崔鋋、賊を破るの時、漏網せしむる勿れ。鋋は昭緯と去年朋党し、行瑜に交結し、禍胎を構合す。原ること此の賊に由る。四面行営に付して知らしむ。」是の月、四面行営大いに邠州に集まる。

十一月癸未朔。壬寅、王行瑜其の妻子部曲五百余人とともに潰囲して出奔し、慶州に至り、行瑜部下に殺され、並びに其の家二百口、並びに行営に詣り降を乞う。李克用牙将閻鍔を遣わして京師に献ず。

十二月甲申朔、昭宗延喜門に御し俘馘を受け、百僚楼前に賀を称す。制して李克用を守太師・中書令とし、進めて晋王に封じ、食邑九千戸、改めて「忠貞平難功臣」を賜う。是の月、克用師を班して太原に帰る。制す、皇第三子祤を棣王に封じ、第五子禊を虔王に封じ、第六子禋を沂王に封じ、第七子禕を遂王に封ず。

乾寧三年

三年春正月癸丑朔、制して特進・戸部尚書・兼京兆尹・嗣薛王知柔を以て検校司徒、兼広州刺史・御史大夫とし、清海軍節度・嶺南東道観察処置等使を充てる。尚書右丞崔沢を以て鳳州刺史とす。魏博羅弘信莘県に於いて太原軍を撃破す。初め、兗鄆太原に援を示し、克用蕃将史完府・何懐宝等千騎をして之に赴かしむ。是に至り又大将李存信をして莘県に屯せしむ。魏人は常に其の道を仮す。存信軍を戢むること謹まず、或いは魏民を侵撓す。弘信怒り、伏兵を以て之を撃ち、其の軍宵に潰く。是より弘信南に梁に結び、太原と絶ち、兗鄆已に至りて俱に陥つ。

二月壬子朔、制して通王滋を以て開府儀同三司、判侍衛諸道軍事とす。銀青光禄大夫・戸部尚書・嘉興県子・食邑五百戸陸扆を以て兵部尚書とす。

三月壬子朔、考功員外郎・集賢殿学士杜徳祥を以て工部郎中・知制誥とす。

四月壬午朔、湖南軍乱れ、其の帥劉建鋒を殺し、三軍其の部将権知邵州刺史馬殷を立てて兵馬留後とす。鎮海軍節度使錢鏐越州を攻め、之を下し、董昌を斬り、浙東を平ぐ。制して錢鏐に検校太尉・中書令を加う。

五月辛巳、責授梧州司馬崔昭緯に自尽を賜う。制して金紫光禄大夫・戸部尚書・門下侍郎・平章事・監修国史・上柱国・太原郡開国公王摶を検校尚書左僕射・同平章事、兼越州刺史とし、鎮東軍節度・浙江東道観察処置等使を充てる。

六月庚戌、李克用沙陀・並・汾の衆五万を率いて魏州を攻め、其の郛に及び、大いに其の六郡に掠り、成安・洹水・臨漳十余邑を陥し、莘の怨みに報ゆ。鳳翔李茂貞国家に朱玫の討有るを怨み、朝貢を絶ち、闕を犯さんと謀る。天子覃王に命じて兵を治め以て変を俟たしむ。是の月、茂貞上章し、兵師を以て入覲せんことを請う。上通王・覃王・延王をして分ち安聖・捧宸・保寧・宣化等の四軍を統せしめ、以て近畿を衛わしむ。丙寅、鳳翔軍京畿を犯し、覃王婁館に於いて之を拒ぎ、戦を接して利あらず。

秋七月庚辰朔。壬辰、岐軍京師に逼り、諸王禁兵を率いて車駕を奉じ将に太原に幸せんとす。癸巳、渭北に次ぐ。華州韓建子充を遣わし表を奉り起居し、華州に駐蹕せんことを請う。乃ち建を京畿都指揮・安撫制置・催促諸道綱運等使に授く。詔して建に謂いて曰く、「途を啓くの行、已に河東に在り。今且く鄜畤に幸せん。」と。甲午、富平に次ぐ。韓建来朝し、泣きて奏して曰く、「籓臣倔強なるは、茂貞に止まらず。太原勧王と雖も、巡幸に宜しからず。臣が鎮守は、関畿を控扼し、兵力微なりと雖も、自ら固むるに足る。陛下若し軽く近畿を捨て、遠く極塞を巡れば、園陵宗廟を去り、寧んぞ痛心せざらん。魏闕金湯を失い、又良算に非ず。若し輿駕河を渡らば、必ず再び復し難く、謀苟も臧らざれば、之を悔ゆる寧んぞ及ばん。願わくは陛下且く三峰に駐まり、以て恢復を図らん。」と。上も亦泣きて曰く、「朕茂貞に耐え難く、忿りて難を思わず。卿の言是なり。」と。乙未、下邽に次ぐ。丙申、華州に駐蹕し、衙城を行宮とす。時に岐軍京師を犯し、宮室廛閭、鞠して灰燼と為り、中和以来葺構の功、地を掃いて尽くす。乙巳、制して金紫光禄大夫・中書侍郎、兼礼部尚書・同平章事・集賢殿大学士・判戸部事・上柱国・博陵県開国伯崔胤を検校尚書左僕射、兼広州刺史・御史大夫とし、清海軍節度・嶺南東道観察処置等使を充てる。丙午、制して翰林学士承旨・尚書左丞・知制誥・嘉興県開国子・食邑五百戸陸扆を戸部侍郎・同平章事とす。

八月己酉朔。甲寅、新たに除する鎮東軍節度使錢鏐に浙江東道軍州事を権領せしむ。戊午、制して戸部侍郎・平章事陸扆を中書侍郎、兼判戸部事とす。

九月己卯朔、汴州の朱全忠・河南尹の張全義は関東の諸侯とともに上表し、秦中に災いありと述べて、車駕の洛陽遷都を請うた。全忠・全義は言う、臣は既に諸藩を率いて洛陽の宮室を繕治したと。優詔を以てこれに答う。乙未、新たに清海軍節度使に除せられた崔胤を復た政事を知らしむる制を下す。胤の出鎮するや、朱全忠再び表を上り論奏を請い、胤が相位を去るべからざるを言う、故にこの命あり。丁酉、中書侍郎・集賢殿大学士・戸部事を判ずる陸扆を責めて硤州刺史を授くる制を下す。崔胤が扆が己に代わるを怒り、扆が茂貞を党庇すと誣奏したためなり。丙午、鎮国軍節度使韓建を検校太尉兼中書令とし、修復宮闕・京畿制置・催促諸道綱運等使を充てる制を下す。京兆尹孫偓を兵部侍郎・同平章事とする。

十月戊申朔、中書舎人・権知礼部貢挙の薛昭緯を礼部侍郎とする。壬子、兵部侍郎・平章事の孫偓を中書侍郎とし、鳳翔行営招討使を充てる制を下す。甲寅、偓は駅舎において諸将を会し、以て進軍を議す。戊午、李茂貞上表して罪を請い、事君の礼を改め職貢を継ぎ修めんことを願い、なお銭十五万を献じて京闕の修復を助く。韓建これに左右せられ、師は遂に行かず。

十一月丁丑朔、韓建に京兆尹・京城把截使を兼領せしむ。

十二月丁未、李克用兵を縦して魏博の諸郡邑を俘掠せしむ。前翰林学士承旨・尚書左丞・知制誥の趙光遠を御史中丞とする。太常礼院、権に行廟を立てて告饗に備えんことを奏す、これに従う。

乾寧四年

四年春正月丁丑朔、車駕は華州行宮に在り、群臣の朝賀を受く。癸未、汴将の龐師古が鄆州を陥とす。節度使朱瑄は妻の栄氏とともに囲みを潰して走り、瑄は中都に至りて野人に殺され、栄氏は汴軍に俘えらる。朱全忠は龐師古を署して鄆州兵馬留後とす。宰相孫偓は政事を知るを罷め、兵部尚書を守る。

二月丙午朔。戊申、汴将の葛従周が兗州を攻めて陥とす。節度使朱瑾は楊行密に奔り、その将の康懐貞は従周に降る。朱全忠は従周を署して兗州兵馬留後とす。ここに至りて鄆・齊・曹・棣・兗・沂・密・徐・宿・陳・許・鄭・滑・濮等の州は皆全忠に没し、唯だ王師範が青州を守るのみ、また汴に款を納む。己未、朝議大夫・守右散騎常侍・上柱国・滎陽けいよう県男の鄭綮を礼部侍郎・同平章事とする制を下す。癸丑、責授硤州刺史の陸扆を工部尚書とする。甲寅、華州防城将の花重武が、睦王以下八王が韓建を謀殺し、車駕を河中に幸せんと欲すと告ぐ。帝これを聞きて駭然とし、韓建を召して諭す。建は疾を辞して敢えて行かず。帝は即ち通王以下に命じて建の治所に詣り自ら陳述せしむ。建奏して曰く、「今日未の時、睦王・済王・韶王・通王・彭王・韓王・儀王・陳王等八人が臣が治所に到る、事の由を測り難し。臣事体を酌量するに、諸王と相見ゆるに合わず、兼ねて久しく臣が所に在るを恐るるは、事に宜しからず。況んや睦王等と臣とは中外事殊なり、尊卑礼隔たり、事柄に至りては、未だ相侵すこと有らず、忽然として門に及ぶ、意測るべからず。」また晋室の八王が天下を撓乱せし事を引き、「旧制に依り、諸王を十六宅に在らしめ、兵を典るに合わざるを請う。その殿后捧日・扈蹕等の軍人は、皆坊市の無頼の徒にして、侍衛に堪えず、伏して放散を乞い、以て衆心を寧んぜん。」昭宗已むを得ず、皆これに従う。この日、八王を別第に囚え、殿后侍衛四軍二万余人を皆放散し、捧日都頭の李筠を大雲橋の下に殺す。ここに至りて天子の衛士尽きたり。丙辰、韓建上表し、皇太子・親王の封拝を請い、以て維城の計と為さんとす。己未、徳王裕を冊して皇太子とすべき制を下す。辛酉、第八男の秘を封じて景王とし、第九男の祚を封じて輝王とし、第十男の祺を封じて祁王とし、第十一男の禛を封じて雅王とし、第十二男の祥を封じて瓊王とすべき制を下す。

三月丙子朔。戊寅、韓建を進めて昌黎郡王に封じ、「資忠靖国功臣」を改めて賜う制を下す。光禄大夫・兵部尚書・上柱国・河間郡開国侯・食邑二千戸の張浚を尚書左僕射とし、前に依りて租庸使を充てる。

四月丙午朔、就いて福建節度使の王潮に検校尚書右僕射を加う。韓建、封事十条を献ず。その三に、太子・諸王に師傅を置きて教導せんことを請う。乃ち太子賓客の王牘を以て諸王侍読とす。宰相の鄭綮は病を以て骸骨を乞う、乃ち政事を知るを罷む。

五月乙亥朔、国子博士の朱朴を右諫議大夫・同平章事とする。

七月甲戌、帝は学士・親王とともに斉雲楼に登り、西に長安を望み、楽工に命じて御製の《菩薩蛮》詞を唱わしむ。奏畢りて、皆泣下して襟を沾し、覃王以下並びに属和有り。

八月甲辰朔、工部尚書の陸扆を兵部尚書とする。韓建は邠・岐の三鎮と素より君無き跡有り、及び李克用が行瑜を誅するや、心常に切歯す。去歳、車駕将に河東に幸せんとす、乃ち延王戒丕をして太原に使わしめ、克用に見え、省方の意を陳ぜしむ。この月、延王は太原より還る。韓建奏して曰く、「陛下の即位已来、近輔と交悪するは、皆諸王の兵を典るに因り、凶徒禍を楽しまば、遂に輿駕の安からざるを致す。比者臣が兵権を罷むるを奏するは、実に不測の変有らんことを慮るなり。今聞く、延王・覃王尚ほ陰計を苞むと。願わくは陛下宸断して疑わず、未だ乱れざるに制せば、即ち社稷の福なり。」上曰く、「豈に是に至らんや。」数日を居て、上より報い無きを以て、乃ち知枢密の劉季述とともに制を矯りて兵を発し、十六宅を囲む。諸王懼れ、髪を披きて垣に沿いて呼びて曰く、「官家児の命を救え。」或いは屋に登り樹に沿う。この日、通王・覃王以下十一王並びにその侍者は、皆建の兵に擁せられて石堤穀に至り、長少無く皆殺さる。而して建は謀逆を以て聞こゆ。尋いで太子詹事の馬道殷・将作監の許岩士を殺し、平章事の朱朴を貶す。皆上の寵昵する者なり。

九月癸酉朔、御史中丞の狄帰昌を尚書右丞とする。刑部侍郎の楊渉を吏部侍郎とする。鎮海軍節度使の銭鏐を鎮海軍節度・浙江東西道観察処置等使・杭州越州刺史・上柱国・呉王とする制を下す。

冬十月癸卯朔、華州節度使の韓建に同州刺史・匡国軍節度使を兼ねしむ。朱全忠、その将権徐州兵馬留後の龐師古・兗州留後の葛従周を遣わし、兗・鄆・曹・濮・徐・宿・滑等の兵士七万を率いて淮を渡り楊行密を討たしむ。太中大夫・前御史中丞の裴贄を礼部尚書・知貢挙とする制を下す。幽州節度使の劉仁恭、沙陀を安塞において大いに敗る。李克用は単騎僅かに免る。

十一月壬申朔。癸酉、淮南の大将朱瑾が密かに舟師を出して汴軍を清口に襲い、龐師古は挙軍皆没し、師古は捕らえられた。進んで葛従周は霍丘より淮を渡り、濠州に至るが、師古の敗北を聞き、乃ち軍を退き、信宿して渒河に至り、方に渡らんとして朱瑾が至る。この日、殺傷溺死すること殆んど尽き、還る者は千人に満たず、唯だ牛存節の一軍のみ先に渡りて免るるを得たり。潁州に比するに、大雪寒凍し、死者十五六。古より喪師の甚だしきは、此の如きは無し。是より行密は江・淮の間を拠有す。検校司空・権知兗州兵馬事葛従周を以て兗州刺史と為し、泰寧軍節度使を充て;潁州刺史王敬蕘を以て検校尚書左僕射・兼徐州刺史と為し、武寧軍節度使を充つ:全忠の奏に従うなり。

光化元年

光化元年春正月辛未朔、車駕は華州に在り。兵部侍郎崔遠を以て戸部侍郎・同平章事と為す。諸道、宮闕修復の銭を貢ぐ、京兆尹韓建を命じて京城に入り計度せしむ。朱全忠、判官韋震を遣わして事を奏し、鄆州を兼領せんことを求む。時に全忠は軍敗の後、自ら其の権を大にして、以て隣籓の変を扼せんとす。幽州節度使劉仁恭、安塞の捷を恃み、河朔を吞噬せんと欲し、是の月其の子守文を遣わして兵を将いて滄州を襲わしむ、節度使盧彦威は城を棄てて循く、守文遂に之を拠り、自ら留後と称す。

四月庚子、制す、淑妃何氏を冊して皇后と為すべし。上、陟屺寺に幸し、従官を韓建の献ずる所の御荘に宴す。

五月己巳朔、后を立てて大赦す。汴将葛従周、衆を率いて李克用の邢・洺・磁等州を攻め、之を陥す。全忠、従周を署して三州兵馬留後と為す。

六月己亥、帝、西溪に幸して競渡を観る。天下の籓牧・文武百僚、表を上り、車駕の京に還ることを請う。

七月、汴将氏叔琮、趙匡凝の随・唐・鄧等州を陥す。華州を昇めて興徳府と為し、刺史を尹と為し、左右司馬を少尹と為し、鄭県を次赤と為し、官員の資望は一に五府に同じ。華嶽廟を封じて佑順侯と為す。

八月戊戌朔。己未、車駕、華より京師に還る。甲子、ただ門に御し、大赦し、元を改めて光化と為す。

九月戊辰朔、御史中丞狄帰昌を以て尚書左丞と為す。制す、鎮国・匡国等軍節度使韓建を守太傅・中書令・興徳尹と為し、潁川郡王に封じ、鉄券を賜い、並びに御写「忠貞」を以て之に遺す。建累ねて表を上り王爵を辞す、乃ち改めて許国公に封ず。魏博節度使羅弘信、進んで臨清郡王に封ぜらる。是の月、弘信卒す、太師を贈り、諡して曰く莊肅。衙軍其の子副大使紹威を立てて兵馬事を知らしむ、尋いで之に節鉞を賜う。

十月丁酉朔、河南尹張全義、就いて侍中を加う。汴将朱友恭、江西行営より還り、安州を過ぎ、刺史武渝を殺し、部将を遣わして之を守らしむ。汴将張存敬、兵を以て蔡州を襲い、刺史崔洪款を納れ、弟賢を以て汴に質せんことを請う、之を許す。

十二月丙寅、李克用の将潞州節度使薛志勤死す、沢州刺史李罕之其の帥無きに乗じ、潞を襲いて之を取り、其の子顥を遣わして汴に降ることを乞う、全忠、罕之を表して節度使と為す。

光化二年

二年春正月乙未朔。丁未、兵部尚書陸扆を以て兵部侍郎・同平章事と為す。

二月、蔡州刺史崔洪、衙兵に迫られ、共に淮南に竄く。時に洪は弟賢を以て汴に質し、汴人は賢を遣わして蔡に還し、兵三千を徴して出征せしむ。蔡兵乱を起こし、賢を殺し、遂に洪を擁して淮を渡る。朱全忠、其の子友裕をして蔡州を守らしむ。幽州節度使劉仁恭、燕軍十万を駆り、将に趙・魏を兼ねんとす。是の月貝州を陥し、人少長無く皆之を屠り、屍を清水に投ずれば、之が為に流れず。遂に進んで魏州を攻む。羅紹威、汴に救を求む。

三月、朱全忠、大将張存敬を遣わして師を率いて之を援け、内黄に屯す。葛従周、邢・洺より勁騎八百を率いて魏州に入る。燕将劉守文・単可及、汴軍の内黄に在るを聞き、軍を引いて往きて之を撃つ。存敬、内黄の東に伏を設け、大いに燕軍を敗り、俘斬三万、生擒して単可及を得たり。劉守文、余衆を以て魏州に還るが、存敬・従周に乗ぜられ、燕軍復た敗れ、仁恭父子僅かに免る。汴・魏兵を合して之を躡い、趙人復た之を東境に邀え、魏より滄に至る五百里の間、僵屍相枕す。是の春、白気天に竟きて練の如く、西南より東北に徹し、而して旋って燕卒の敗有り。

四月、汴将の氏叔琮が上党より進軍して太原を攻め、石会を出たが、沙陀にその前鋒将の陳章を擒えられ、叔琮は乃ち退き去った。

六月、制して昭義節度使・検校太尉・兼太師・侍中・潞州大都督府長史・隴西郡開国公・食邑三千戸の李罕之を孟州刺史とし、河陽三城節度・孟懐観察等使を充てる。検校司徒・孟州刺史・河陽節度使の丁会を沢・潞等節度使とする:全忠の奏に従うなり。丁丑、李罕之は懐州に至り、伝舎に卒す。陝州軍乱れ、その帥の王珙を殺し、都将軍の李璠を立てて留後とす。丁亥、制して前太常卿の劉崇望を吏部尚書とし、兵部侍郎の裴枢を吏部侍郎とし、戸部侍郎の薛昭緯を兵部侍郎とする。

七月、青州の海州守将の牛従毅が郡人を擁して淮南に投じ、行密は遂に海州を有す。

十一月、陝州の衙将の朱簡が李璠を殺し、自ら留後と称し、汴に降る。全忠は簡を表して帥守とす。

光化三年

三年春正月庚子朔、礼部尚書の裴贄を刑部尚書とする。癸卯、朱全忠奏す:「本貫は宋州碭山県、恩を蒙り輝州に昇格す。その地は卑湿にして、廬舎を修めること難し。輝州の治所を単父県に移すことを請う。」之に従い、仍て崇徳軍の号を賜う。

四月戊午、汴・魏の合軍が滄州を攻め、郛に入られた戦役に報いる。葛従周は連ねて滄徳の郡邑を陥とす。王鎔は使いを遣わして全忠に和解を求め、劉仁恭に修好せしむ。汴・魏は班師す。辛未、皇后・太子、九廟に謁す。

六月丁巳、朱全忠、表して陝州兵馬留後の朱簡は郷里同宗なりとし、名を友謙と改め、節鉞を真に授けんことを乞う。之に従う。戊辰、特進・司空・門下侍郎・平章事・監修国史の王摶は崖州司戸に貶され、尋いで藍田駅にて死を賜う。枢密使の宋道弼・景務修は並びに死す。崔胤に誣えられ、三人が中外相結ぶと言わるるが故なり。

七月丁亥朔、兵部尚書の劉崇望卒す。司空を贈る。甲午、兵部郎中の薛正表を右諫議大夫とする。許州刺史の朱友恭を検校司徒とし、潁州刺史とす。左武衛将軍の趙霖を検左僕射とし、許州刺史とす。宣武押衙の劉知俊を検校右僕射とし、鄭州刺史とす:全忠の奏に従うなり。戊申、制して武貞軍節度・澧朗叙等州観察処置等使・開府儀同三司・検校司徒・同平章事・朗州刺史・上柱国・馮翊郡開国侯・食邑一千五百戸の雷満を検校太保とし、馮翊郡王に封じ、余は故の如し。武泰軍節度・黔中観察処置等使・光禄大夫・検校尚書左僕射・黔州刺史・御史大夫・上柱国の趙崇を天水県開国子に封じ、食邑五百戸。庚戌、制して昭義節度留後・光禄大夫・検校司空・上柱国の孟遷を検校司徒とし、潞州大都府長史を兼ね、昭義節度副大使・知節度事・潞磁邢洺等州観察処置使を充て、仍て平昌県男に封じ、食邑三百戸、李克用の奏に従うなり。金紫光禄大夫・守兵部尚書・上柱国・楽安郡開国公・食邑一千五百戸の孫儲を守兵部尚書とし、京兆尹を兼ねる。乙卯、制して忠烈衛聖鎮国功臣・剣南西川節度副大使・知節度事・管内営田観察処置統押近界諸蛮兼西山八国雲南安撫制置等使・開府儀同三司・検校太尉・中書令・成都尹・上柱国・琅邪郡王・食邑三千戸・実封一百戸の王建は兼剣南東川・武信軍両道都指揮制置等使とし、食邑一千戸を加え、余は故の如し。時に建が梓州の顧彦暉を攻め下し、東川の洋・果・閬等州を兼ね有するが故なり。又、忠義軍節度・山南東道管内観察処置三司水陸発運等使・開府儀同三司・検校太尉・中書令・兼襄州刺史・上柱国・南平王・食邑三千戸の趙匡凝は検校太師・兼中書令とし、実封一百戸を加う。

八月丙辰朔、朱全忠奏す:「先に汝州を割いて許州に隷せしめしが、請うて却って東都に還す。河陽は先に沢州を管せり、今、蕃戎の占拠に縁り、得失常ならず。請うて権に河南府の王屋・清河・鞏の三県を割きて河陽に隷せしむ。」之に従う。癸亥、制して忠貞平難功臣・河東節度・管内観察処置等使・開府儀同三司・守太師・兼中書令・北都留守・太原尹・上柱国・晋王・食邑九千戸・食実封七百戸の李克用に実封一百戸を加う。丁卯、朝請大夫・虞部郎中・知制誥・上柱国・賜紫金魚袋の顔蕘を中書舎人とする。己巳、制して前帰義軍節度副使・権知兵馬留後・銀青光禄大夫・検校国子祭酒・監察御史・上柱国の張承奉を検校左散騎常侍とし、沙州刺史・御史大夫を兼ね、帰義節度・瓜沙伊西等州観察処置押蕃落等使を充てる。庚辰、太原の大将の李嗣昭が洺州を攻め、之を下し、汴将の朱紹宗を執る。汴将の葛従周が師を率いて之に赴く。嗣昭は城を棄てて去る。従周は之を青山口に邀え撃ち、晋軍大いに敗る。従周は勝に乗じて鎮州を攻む。壬午、制して荊南節度・忠万帰夔涪峡等州観察処置水陸催運等使・開府儀同三司・検校太尉・兼中書令・江陵尹・上柱国・上谷郡王・食邑三千戸の成汭は検校太師・中書令とし、余は故の如し。甲申、制して扶危匡国致理功臣・特進・行尚書左僕射・兼門下侍郎・同平章事・監修国史・判度支・上柱国・清河郡開国公・食邑二千戸の崔胤は開府儀同三司とし、魏国公に進封し、食邑一千戸を加え、余は故の如し。

九月丙戌朔(一日)、朱全忠は三鎮の兵を率いて鎮州を攻め、王鎔は恐れて、判官周式・副大使王昭祚・主事梁公儒の子弟を汴に人質として送り、犒師の絹十五万匹を出して盟を求め、これを許された。張存敬は深州・冀州から進軍し、瀛州・莫州を攻め、二十の郡邑を陥れ、雨と泥濘に阻まれて幽州に至らず。西に向かって祁州を陥し、沙河北で中山の将王処直の軍を大破し、進んで懐徳驛に駐屯した。定州を攻め、節度使王郜は太原に奔り、衙将王処直は孔目官梁汶を斬り、縑二十万を出して盟を乞い、これを許された。全忠は遂に王処直を義武軍留後に任じた。乙巳(二十日)、制して扶危匡国致理功臣・開府儀同三司・守太保・兼門下侍郎・平章事、太清宮使・修奉太廟使・弘文館大学士・延資庫使・諸道塩鉄転運等使・上柱国・斉国公・食邑五千戸・食実封一百戸徐彦若を検校太尉・同平章事とし、清海軍節度・嶺南東道管内観察処置供軍糧料等使に充てる。丙午(二十一日)、制して光禄大夫・中書侍郎・兼吏部尚書・同平章事・集賢殿大学士・判戸部事・博陵郡開国公・食邑二千戸崔遠を罷めて政事を知らず、本官を守らしむ。戊申(二十三日)、制して左僕射・門下侍郎・平章事・監修国史・判度支崔胤を太清宮使・修奉太廟使・弘文館大学士・延資庫使に充て、前の如く判度支とし、兼ねて諸道塩鉄運等使を充てる。光禄大夫・中書侍郎・兼戸部尚書・同平章事・上柱国・呉郡開国公・食邑一千五百戸陸扆を門下侍郎・戸部尚書・監修国史とする。正議大夫・守刑部尚書・上柱国・河東県開国男・食邑三百戸・賜紫金魚袋裴贄を中書侍郎・兼刑部尚書・同平章事とし、集賢殿大学士を充てる。銀青光禄大夫・行尚書吏部侍郎・上柱国裴枢を中書侍郎・同平章事とし、戸部事を判らしむ。辛亥(二十六日)、光禄大夫・尚書右僕射・租庸使張濬を罷めて租庸使とせず、本官を守らしむ。

十月丙辰朔(一日)。辛酉(六日)、前清海軍節度副使・朝散大夫・検校左散騎常侍・御史大夫・上柱国王溥を守左散騎常侍とし、塩鉄副使に充てる。癸未(二十八日)、制して保義軍節度留後・銀青光禄大夫・検校戸部尚書・兼御史大夫・上柱国朱友謙を金紫光禄大夫・検校尚書右僕射・兼陝州大都督府長史・御史大夫とし、保義軍節度・陝虢観察処置等使に充てる。

十一月乙酉朔(一日)。庚寅(六日)、左右軍中尉劉季述・王仲先が昭宗を廃し、東内問安宮に幽閉し、皇太子裕に国事を監させた。時に昭宗は崔胤に政を委ね、胤は全忠の援助を恃み、宦官を漸く抑えた。帝は華州より還宮して後、甚だ禽酒に志をゆるにし、喜怒常ならず、宋道弼等が罪を得てより、黄門は特に懼れた。ここに至り、上は苑中で狩猟し、酔い甚だしく、この夜、手ずから黄門・侍女数人を殺した。庚寅(六日)、日辰巳に及び、内門開かず。劉季述は中書に詣でて宰相崔胤に謂いて曰く、「宮中には必ず不測の事有らん、人臣安んぞ坐視すべけんや?我等は内臣なり、便宜に事を行い得べし」と。即ち禁兵千人を以て関を破って入り、中人に問訊し、具に其の故を知る。即ち出でて宰臣と謀りて曰く、「主上の為す所此の如し、社稷の主に非ず。昏きを廃し明きを立てるは、故事有り、国家の大計、逆乱に非ず」と。即ち百官を召して状に署せしめ、崔胤等は已むを得ず之に署した。季述・仲先は汴州進奏官程岩等十三人と請対し、対訖、季述は殿上に上りて待罪の次に在り。左右軍の将士斉しく万歳の声を唱え、遂に宣化門に突入し、思政殿に行き至り、便ち殺戮を行い、径ちに乞巧楼下に至る。帝遽かに兵士を見て、驚き床下に墮ち、起きて将に去らんとす、季述・仲先掖えて坐らしむ。何皇后遽かに出でて拝して曰く、「軍容長官官家を護り、驚恐に至ること勿れ、事有れば軍容に取りて商量せよ」と。季述は即ち百官の合同状を出して曰く、「陛下宝位に臨むに倦み、中外の群情、太子の国を監するを願い、陛下の東宮に於いて頤養せんことを請う」と。帝曰く、「吾昨卿等と歓飲し、覚えず過ぎたるに至る、何ぞ此に至らんや!」皇后曰く、「聖人は彼の軍容の語に依れ」と。即ち御前において国宝を取りて季述に付し、即時に帝と皇后は共に一輦に乗り、並びに常に侍従する十余の内人と共に東宮に赴く。入りて後、季述は手ずから院門を扃鎖し、日に窓中より食器を通す。是の日、皇太子を迎えて国を監せしめ、昭宗の命を矯宣して上皇と称す。甲午(十日)、上皇の制を宣し、太子皇帝の位に登る。宰臣・百僚・方鎮に爵を加え秩を進め、又百僚に銀一千五百両・絹千匹・綿万両を賜い救接に充てる。皆季述の朝に媚びを求むるなり。時に朱全忠は定州の行営に在り、崔胤は前左僕射張濬と全忠に難を告げ、兵を以て罪を問わんことを請う。全忠は行営より自ら大梁に還る。

十二月乙卯朔(一日)。癸未(二十九日)夜、護駕塩州都將孫徳昭・周承誨・董彦弼が兵を以て劉季述・王仲先を攻め、仲先を殺し、其の首を携えて東宮門に詣で、呼んで曰く、「逆賊王仲先已に斬首訖りぬ、請う陛下宮を出でて兵士を慰諭せよ」と。宮人鑰を破り、帝と皇后方に得出る。

天復元年

天復元年春正月甲申朔、昭宗が復位し、長楽門楼に登り、朝賀を受ける。班列未だ退かざるに、孫徳昭が劉季述を捕らえて楼前に至る。上まさに詰責せんとすれど、すでに乱棒にて撃ち殺され、乃ち市に屍を曝す。乙酉、制を以て孫徳昭を検校司空と為し、静海軍節度使を充てる。丙戌、宰相崔胤が司空に進位す。己丑、朱全忠、程岩を檻車に械し、足を折って京師に送り、市にて戮す。制して皇太子裕を徳王に降し、名を祐と改む。庚寅、制を以て孫徳昭を安南節度・検校太保と為す。周承誨を邕州刺史・邕管節度経略使と為し、董彦弼を容州刺史・容管節度等使と為し、並びに検校太保・同平章事を加う。神策軍使李師虔・徐彦回を殺す。勅して曰く、「朕が臨御以来、十有四載、常に好生の徳を慕い、固より殺を楽む心無し。昨季述等朕が身を幽辱し、太子を迫脅す。李師虔は是れ逆賊の親厚にして、選び来たりて東内を主持し、動息の間に、其れをして偵伺せしむ。毎に須索有れば、皆供承せず。紙筆を要すれば則ち詔書を作るを恐れ、錐刀を索めば則ち利器と為るを慮り、凌辱万状、出入して捜羅す。朕の御する所の衣は、昼に服し夜に濯ぎ、凝冽の際、寒苦勝え難し。嬪嬙公主、衾裯皆闕く。緡銭は則ち貫百入らず、繒帛は則ち尺寸求め難し。六輩其の主張を同じくし、五人其の威勢を権る。若し状罪を言わば、翰墨窮め難く、若し生全を許さば、是れ法を貸すと為す。宜しく並びに処斬すべし。」時に朱全忠既に河朔三鎮を服し、王室を窺図し代わらんとする謀有り。李克用が太原に在るを以て、其の角逐を懼る。是の月、全忠、大将張存敬に兵三万を率いさせ、含山より河中の王珂を襲わしむ。晋州刺史張漢瑜・絳州刺史陶建、賊の至るを意にせず、城守に備え無く、皆郡を以て降る。存敬、兵を移して河中を囲む。王珂、太原に救援を求む。克用救う能わず。乃ち城に嬰りて存敬に謂いて曰く、「吾は汴王と旧有り、王の至るを俟ちて即ち降らん。」

二月甲寅朔。戊辰、朱全忠、河中に至り、遂に王珂及び兄璘・弟瓚を挙室して汴に徙らしめ、張存敬をして河中を守らしむ。是の月、制を以て全忠を検校太師・守中書令と為し、梁王に進封す。

三月癸未朔、全忠、軍を引きて汴に帰る。奏して曰く、「河中節度使は歳に課塩三千車を貢す。臣今池場を代領す。二千車を加え、歳に五千車を貢せんことを請う。五池の完葺を候ち、則ち平時の供訂額に依らん。」之に従う。

四月癸丑朔、汴軍大いに挙りて太原を攻む。氏叔琮、兵三万を以て天井関より進みて沢潞を攻め、節度使孟遷、上党を以て降る。叔琮、長駆して囲柏を出で、洞渦駅に営す。葛従周、趙・魏・中山の兵を率いて土門より入り、承天軍を陥とし、叔琮と会す。時に大雨に属し、芻糧給せず、汴将衆を保ちて還る。甲戌、天子宗廟に事有り。是の日、長楽門に御し、天下に大赦し、元を天復と改む。李茂貞、鎮より来朝し、寿春殿に宴を賜い、銭数万緡を進む。時に中尉韓全誨及び北司は茂貞と相善くし、宰相崔胤は朱全忠と相善くす。四人各表裏を為す。全忠は都を洛陽に遷さんと欲し、茂貞は駕を鳳翔に迎えんと欲し、各天子を挟みて諸侯に令せんとする意有り。

五月壬午朔。庚子、制して門下侍郎・戸部尚書・平章事陸扆に兵部尚書を加え、階を特進に進む。壬寅、制を以て朱全忠を兼ねて河中尹・河中節度・晋絳慈隰観察処置・安邑解県両池榷塩制置等使と為す。閏六月辛巳朔、制を以て河陽節度丁会を前の如く検校司徒と為し、兼ねて潞州大都督府長史・昭義節度等使と為し、孟遷に代わる。遷を検校司徒と為し、河陽節度と為す。全忠の奏なり。仍て昭義節度の官階内より邢・洺・磁の三州を落下し、却って沢州を属郡と為し、其の河陽節度は只だ懐州を以て属郡と為さんことを請う。之に従う。全忠又た斉州を鄆州に隷せんことを奏請す。之に従う。

十月己卯朔。戊戌、全忠、四鎮の師七万を引きて河中に赴く。京師之を聞きて大いに恐れ、豪民皆山谷に亡竄す。

十一月己酉朔。壬子、中尉韓全誨と鳳翔護駕都将李継誨、車駕を奉じて出でて鳳翔に幸す。是の日、汴軍同州を陥とし、州将司馬鄴を執る。華州節度使韓建、判官李巨川を遣わして款を送る。甲寅、汴軍霊口に駐る。乙卯、全忠、帝の出幸を知り、乃ち兵を回して華州を攻む。大軍赤水に駐り、全忠親兵を以て西渓に駐る。韓建出でて降る。乃ち之を署して忠武軍節度使と為し、陳州を理所と為す。丁巳、宰相崔胤、戸部侍郎王溥をして赤水砦に至らしめ、全忠を促して兵を以て駕を迎えしむ。戊午、全忠、赤水より自ら長安に趨く。崔胤、文武百僚太子太師盧知猷已下を率い、坡頭にて全忠を迎う。庚申、汴軍鳳翔に趨く。戊辰、岐下に至る。全忠、判官李択・裴鑄をして城に入り事を奏せしめ、言わく、「臣河中に在りて、崔胤の書を得たり。密詔を奉じて臣に兵士を以て駕を迎えしむと言う。臣敢えて擅自に鑾を迎えず。」昭宗、胤の命を矯るを怒り、連詔して全忠に兵士を以て還鎮せしむ。辛未、全忠、軍を引きて鳳翔を離れ、退きて邠州を攻む。甲戌、制して扶危致理功臣・開府儀同三司・守司空・門下侍郎・平章事・太清宮使充・弘文館大学士・延資庫使・諸道塩鉄転運等使・判度支・上柱国・魏国公・食邑五千戸・食実封二百戸崔胤を責授して朝散大夫・守工部尚書と為すことを可とす。乙亥、邠州節度使李継徽、城を以て降る。全忠乃ち其の孥を河中に舎し、継徽を従軍せしむ。汴軍を以て三原に営す。

十二月己卯、崔胤、長安より三原砦に至り、全忠と謀りて鳳翔を攻む。

天復二年

二年春正月戊申朔、車駕鳳翔に在り。全忠三原に在り。李克用、大将周徳威を遣わして慈・隰・晋等州を攻めしむ。全忠河中に帰り、其の将朱友寧に衆五万を率いさせて絳州に屯せしめ、蒲県西北にて太原軍を大いに破る。友寧勝に乗じて奔を追い、汾州を陥とし、進みて太原を囲む。天子、諫議大夫張顗を晋州に遣わして全忠に諭し、太原と通和せしむ。友寧の再戦利あらざるに属し、乃ち関西に還る。

四月丁丑、朱友寧、大軍を総べて興平に屯す。

五月、岐軍出でて戦い、武功南の漢穀にて大いに敗る。全忠捷を聞き、自ら汴軍五万を引きて西征す。

六月、進みて虢県に営す。丁亥、進みて鳳翔を囲み、判官を遣わして城に入り駕を迎えしむ。

九月、岐軍出でて戦い、又た敗る。

十一月、鄜州節度使李周彝、衆を率いて鳳翔を救う。

十二月癸酉、汴将孔勍が虚に乗じて鄜州を襲い陥れ、周彝の妻子を捕らえ、周彝は直ちに兵士を率いて降伏した。ここにおいて邠州・寧州・鄜州・坊州等の州は皆汴軍に陥落した。茂貞は恐れ、内官を誅殺して事態を解決せんと謀った。

天復三年

三年春正月癸卯朔、車駕は鳳翔に在り。甲辰、天子は中使を全忠の軍に遣わし、茂貞もまた軍将郭啓奇をして上(天子)が京師に還りたまわんとする旨を伝えさせた。丙午、青州牙将劉鄩が全忠の兗州を陥とし、また牙将張厚をして入奏せしめた。この日、また華州において密かに発兵し、州将婁敬思を殺した。上はまた戸部侍郎韓偓・趙国夫人寵顔をして全忠の軍に宣諭せしめた。辛亥、全忠は判官李振をして入奏せしめ、上は翰林学士姚およに伝宣せしめ、全忠に崔胤を呼び出させ文武百僚を率いて車駕を迎えさせよと命じた。癸丑、上は礼部尚書蘇循に詔を伝えさせ、全忠に玉帯を賜い、なお全忠に処分させて蔣玄暉を帝の左右に侍らせた。丁巳、蔣玄暉は中使とともに中尉韓全誨・張弘彦以下二十人の首級を押送し、四鎮の兵士に回鑾の期日を告げ諭した。戊午、中使を走馬で華州に遣わし、崔胤を追わせたが、胤は病と託して至らなかった。甲子巳時、車駕は鳳翔を出で、全忠の軍に幸す。全忠は素服で罪を待ち、涙を流して自ら勝えず、上は自ら玉帯を解いてこれを賜った。乙丑、扶風に次ぐ。朱友倫に総兵して侍衛させた。丙寅、武功に次ぐ。丁卯、興平に次ぐ。宰臣崔胤が百官を率いて迎え謁した。即日、制を降し、崔胤を司空・門下侍郎・平章事に守らせ、太清宮使・弘文館大学士・延資庫使・諸道塩鉄転運使・判度支を復し、魏国公の封邑はもと通りとした。戊辰、咸陽に次ぐ。己巳、京師に入る。天子は素服で太廟に哭し、冕旒に改服して九廟を謁した。礼畢、長楽楼に御し、大赦し、百僚賀した。全忠は左軍に処す。辛未、内殿において全忠を宴し、内弟子に楽を奏させた。この日、制して内官第五可範以下七百人を並びに内侍省において賜死せしめ、その諸道の監軍及び小使は、仰せて本道の節度使に処斬し畢えて奏せしめ、全忠・崔胤の奏に従った。帝はこれを悲しみ惜しみ、自ら奠文を作りてこれを祭った。

二月壬申朔。甲戌、制して全忠に「回天再造竭忠守正功臣」の名を賜う。己卯、制して輝王祚を諸道兵馬元帥に充てる。また制して回天再造竭忠守正功臣・宣武宣義天平護国等軍節度使・汴宋亳輝河中晉絳慈隰鄭滑潁鄆齊曹等州観察処置等使・太清宮修葺宮闕制置度支解県池場等使・開府儀同三司・検校太師・守中書令・河中尹・汴滑鄆等州刺史・上柱国・梁王・食邑九千戸・食実封六百戸硃全忠を司徒に守らせ、兼侍中・判六軍十二衛とす。吏部尚書・平章事裴樞を検校右僕射・同平章事とし、兼広州刺史・守太尉・中書令に可とし、諸道兵馬副元帥を充て、邑三千戸を進む。宰臣崔胤を清海軍節度・嶺南東道観察等使とす。甲戌、制して門下侍郎・兵部尚書・同平章事・監修国史陸扆を責授して沂王傅分司とす。己丑、上は寿春殿において全忠を宴す。また全忠に茂貞に書を送り、平原公主を取らせた。同州節度使趙翊・陝州節度使朱友謙来朝す。制して朱友裕を華州刺史とし、感化軍節度使を充てる。乙未、保甯殿において鞠を会し、全忠が頭籌を得たので、内弟子に酒を送らせ、なお面して副元帥の官告を賜う。新たに除された広州節度使裴樞を門下侍郎・吏部尚書・平章事・監修国史とす。戸部侍郎王溥を同平章事とす。戊戌、全忠は大梁に帰る。上は内殿においてこれを宴し、延喜門に酒を置く。この日、全忠と四鎮の判官は皆席に預かり、上は軒に臨み泣いて別れ、また中使を走らせて御製の『楊柳枝』詞五首を賜う。辛丑、平原公主京師に至る。

三月壬寅朔、全忠は四鎮の兵を引きいて王師範を征す。先に、大将朱友甯・楊師厚の前軍が臨淄・青に臨み、師範は淮南に援を求め、楊行密は将王景仁を遣わし衆一万人を率いてこれに赴かせた。

四月辛未朔、西川の王建は兵をもって秦・隴を攻め、茂貞の弱きに乗じ、なお判官韋莊を遣わして入貢し、全忠に好を修めた。

五月、制して鳳翔隴右四鎮北庭行軍・彰義軍節度・涇原渭武観察処置押蕃落等使・開府儀同三司・守尚書令・兼侍中・鳳翔尹・上柱国・秦王李茂貞を検校太師・守中書令に可とす。初め、茂貞は王室を凌ぎ弱め、朝廷は姑息し、尚書令を加えたが、この時全忠が方に太尉を守るに及び、茂貞は懼れ、尚書令を罷めんことを乞うた故なり。崔胤奏す、「六軍十二衛の名額は空しく存するも、実に兵士無し。京師の侍衛もまた親軍に藉る。請う、毎軍量りに一千一百人を召募し、共に六千六百人を置かん」と。これに従う。乃ち六軍諸衛副使・京兆尹鄭元規に格を立てて市中に招收せしむ。制して潁州刺史朱友恭を検校司空・兼徐州刺史とし、武甯軍節度使を充てる。全忠の奏に従うなり。

六月、青州・淮南軍は汴人と臨淄において戦い、汴軍大いに敗れ、朱友甯戦死し、首級は淮南に伝わる。

九月、汴将楊師厚は青州軍を臨朐において大いに破る。荊南節度使成汭は舟師を以て鄂州の援に赴く。澧朗の雷彥恭は虚に乗じて江陵を襲い陥とす。汭の軍士これを聞き潰れて帰り、汭は憤怒して水に投じて死す。趙匡凝は遂に兵を以て荊州を襲い、これを占拠す。辛巳、汴州護駕都将朱友倫、鞠を撃ちて馬より墜ち卒す。全忠怒り、同鞠の将校数人を殺す。

十一月丁酉朔、王師範は青州を以て楊師厚に降り、全忠はまた師範に青州事を知らしむ。邠州・鳳翔の兵士京畿に逼る。汴軍は河中に屯す。青州牙将劉鄩は兗州を以て葛従周に降り、師範の命に禀るなり。全忠これを嘉し、署して元帥府都押衙・権知鄜州留後事とす。

十二月丁卯朔。辛巳、制して礼部尚書獨孤損を兵部侍郎・同平章事とす。丙申、制して守司徒・侍中・太清宮使・弘文館大学士・延資庫使・判六軍十二衛事・諸道塩鉄転運使・判度支・上柱国・魏国公・食邑四千五百戸崔胤を責授して太子賓客とし、守刑部尚書・兼京兆尹・六軍諸衛副使鄭元規を責授して循州司戸とす。この日、汴州扈駕指揮使朱友諒は胤及び元規・皇城使王建勳・飛龍使陳班・閣門使王建襲・客省使王建乂・前左僕射上柱国河間郡公張浚を殺す。全忠は将に車駕を逼りて洛陽に幸せんとし、胤・浚が異を立てんことを懼れたなり。

天祐元年

二月丙寅朔。乙亥、全忠は洛陽に赴くことを辞し、親しく工作を督う。

四月丙寅朔。癸巳、帝は晋国夫人可証を遣わし詔を伝えて全忠に諭し、中宮が産褥で未だ安からず、十月を取って洛陽宮に入ると言う。全忠は上(帝)が遅留して変を俟つと意図し、甚だ怒り、牙将寇彦卿に謂いて曰く、「急ぎ陝州に往き、到る日便ち官家を促して発来せよ!」と。

閏四月乙未朔。丁酉、車駕は陝州を発す。壬寅、谷水行宮に次ぐ。時に崔胤の募った六軍兵士は、胤の死後に亡散して並び尽き、上に従って東遷する者は、唯だ諸王・小黄門十数人、打球代奉内園小児合わせて二百余人のみ。全忠は陝に在り、仍って此の輩が変を為すを慮り、尽く去らんと欲し、汴卒を以て侍衛と為す。谷水頓に至り、全忠は医官許昭遠を令して内園等の謀変を告げさせ、因って会を設けて幄を張り、酒食の次に並びに之を坑(生き埋め)にし、乃ち謀逆を以て聞かしむ。是より帝の左右前後の侍衛職掌は、皆汴人なり。甲辰、車駕は徽安門より入る。朱全忠・張全義・宰相裴樞・独孤損が前導す。是日大風雨土、跬歩物色を弁ぜず、日暮れ稍やく止む。上は太廟を謁し、礼畢えて宮に還り、正殿に御して従官衛士を宣労し、駕を受く。乙巳、上は光政門に御し、大赦す。制して曰く、

乃ち中州を睠み、便ち侯伯の会朝の路;運百六に逢い、古今の禳避の宜に順う。況や鼎を建つる旧京、我が家の二宅、轘轅其の左に通じ、郟・鄏其の前に引く。周の平王の東遷、更に姫姓を延ぶ;漢の光武の定業、克く劉宗を茂す。肇めて新都を葺き、天に永命を祈るは、皆否運に因り、復た昌期を啓く。或いは西に戎狄を避け、或いは妖孽に載(すで)に殲(ほろ)ぼさる。朕は家に遭うこと不造、徳を布くこと明ならず、十載已来、三たび播越に罹る。亦た災の秦・雍に纏わり、叛の邠・岐に起るに属す。始めに石門に幸し、以て衛兵の乱を避け;載(すなわ)ち華嶽を行き、仍って畿邑の侵を驚く。憂危なれば則ち矢は車輿に及び、淩脅なれば則ち火は宮廟に延ぶ。迨(いた)るに逆の宮豎に連なり、奸凶を構結するに至り、劉季述をして朕を下宮に幽せしめ、韓全誨をして予を右輔に劫せしむ。兵内殿を囲み、焰九重に亙るに匪(あら)ざるは莫く、皆武を仮りて身を容れんと思い、唯だ鹿を指して衆を威すを效(なら)う。天憲を矯宣し、外籓を欺蔑し、書詔を行いて以て任情にし、忠良を欲して而も罪を獲(う)る。群方の嶽牧と雖も、力を協せて匡扶すと雖も、戎律を阻修に拘(とど)め、朝恩を報じて隔越す。副元帥・梁王全忠は兼鎮近輔を以てし、兵を総べて四籓とし、遠く岐陽に赴き、みずか(みずか)ら大駕を迎う。辛勤百戦、凶渠を尽く剿(ほろぼ)し、野に営すること三年、竟に鑾輅を回す。鹹・鎬は載(すで)に其の宮闕を新たにし、譲・珪は閹徒に類を絶つ。方(まさ)に再造の功を崇め、以て中興の運を正さんとす。又た邠岐は釁を結び、巴蜀は兵を連ね、上は国恩に負い、下は鄰好をやぶ(やぶ)る。宮を焚く烈火、更に親鄰に熱を延べ;駕を却する凶鋒、復た禁苑に侵を延ぶ。抑又た太一の遊処、並びに六宮に集まり、罰星熒惑、久しく東井に纏わり、玄象は災を秦分に薦(すす)め、地形は洛陽に過ぐる無し。爰に一二の藎臣有り、洎(およ)び四方の同志、心を王室に竭し、共に嘉謀を誓う。魏鎮定燕は大河を航して畢く至り;陳徐潞蔡は巨軸を輦(はこ)びて偕に来る。荊棘を披きて朝廷を立て、灰燼をわか(わか)ちて輪奐に化す。左に郊祧、右に社稷、肅として崇嚴;前に廣殿、後に重廊、藹然として華邃。公卿僉議し、龜筮協従す。甲子令年、孟夏初吉、法駕を備えて陝分を離れ、百官を列して洛郊に入る。此の殷繁を観れば、良く多く嘉慰す。太廟に謝罪し、憂惕驚懐;端門に登御し、軫惻興感す。蓋し一人寡祐を以て、至りて萬姓靡甯、工役艱疲、忠良尽瘁、再遷の業を克く建て、八百の基を延べんことを冀う。宜しく渙汗の恩を覃(ひろ)め、此の雍熙の慶を俟つべし。瑕を滌ぎ垢を蕩し、咸く惟新に与(あずか)るべし。天下を大赦すべし。天復四年を改めて天祐元年と為す。於戲!眚を閶闔に肆(ゆる)し、即ち宮闈に安んず。九廟の几筵と雖も、已に新室にとざ(とざ)さる;而して諸陵の松柏、遥かに旧都に隔たる。将に乂寧を務めんとす、難く綣慕を申べし。文武百辟、執事具僚、我に従いて千里より来り、端(ただ)しくなんじ(なんじ)が一心政に蒞(のぞ)め。恩は既往に覃(ひろ)め、效は従新に責む。方(まさ)に開国の初めに当たり、必ず慢官の罰を挙ぐべし。

戊申、勅す、今後宣徽両院・小馬坊・豊徳廟・御厨・客省・閣門・飛龍・庄宅の九使を留めて除く外、其の余は並びに停む。内園冰井の公事は河南尹に委ね、仍って内夫人を差して伝宣せず。医官閻祐之・国子博士欧陽特を殺す。星讖を言うなり。宰相裴樞は右僕射・諸道塩鉄転運等使・監修国史を兼ね、戸部尚書・門下侍郎・平章事独孤損は度支を判じ、中書侍郎・平章事柳璨は戸部事を判ず。

五月乙丑朔。丙寅、河陽節度使張漢瑜を同平章事に制す。百僚を崇勳殿に宴す。上は全忠の功業を贊述し、因って言う、御楼前一日に所司赦書を亡失し、元帥府の収めて得たる副本に頼りて施行す、ほとんど事を失わんとす、中書は過無きを得ずと。裴樞等起ちて罪に待つ。中飲、帝は更衣し、全忠を召して閣中に曲宴す。全忠は懇ろに辞す。帝曰く、「朕は全忠の功業崇高を以て、斎中に款曲し、以て庇頼を表さんと欲す。全忠既に来たるを欲せずば、即ち敬翔を令して来らしめ、朕之と言わん」と。全忠は敬翔を令して私に退かしめ、奏して曰く、「敬翔も亦た酔して出でたり」と。己巳、全忠は辞して大梁に赴かんとす。崇勳殿に宴す。是日雨甚だし。乙酉、翰林学士・左諫議大夫・知制誥沈棲遠は本官を守る。病を以て陳乞する故なり。丁亥、勅す、河南府畿県は先に尉一員を減ず、京兆府の例に准じ、復た県尉一員を置くべし。癸巳、中書奏す、今年四月十一日の赦文に准うれば、陝州都督府は興唐府と改め、其の都督府長史は宜しく尹と改め、左右司馬は少尹と為し、録事は司録と為し、陝県は次赤と為し、余は次畿と為すべし。之に従う。

六月甲午朔、邠州の楊崇本は関内を侵掠す。全忠は朱友裕を遣わして軍を百仁村に屯せしむ。丙申、通議大夫・中書舎人・賜紫金魚袋楊注は翰林学士に充つべし。庚子、三仏斉国の入朝使薄訶粟は甯遠将軍に可し。丁未、金紫光禄大夫・太子少傅盧紹は太子太保致仕に可しと制す。銀青光禄大夫・太子少師・天水男・食邑三百戸趙崇は検校右僕射に可し。甲寅、京兆少尹鄭韜光を太常少卿と為し、前侍御史韋説を右司員外郎と為し、前進士姚顗を校書郎と為し、前進士趙頎・劉明済・竇専は並びに秘書省校書郎正字に可し。柳璨の奏に従うなり。荊南襄州忠義軍節度・開府儀同三司・検校太師・中書令・江陵尹・襄州刺史・上柱国・楚王・食邑六千戸趙匡凝は宜しく礼を備えて冊命すべし。

七月癸亥朔、全忠は軍を率いて邠・鳳を討つ。甲子、汴より洛陽に至り、文思球場にて宴を催す。全忠入場す、百官或いは廊下に坐す、全忠怒り、通引官何凝を笞つ。丙寅、制す、金紫光禄大夫・行御史中丞・上柱國韓儀を責めて棣州司馬に授け、侍御史歸藹を責めて登州司戸に授く、百官全忠に傲るを坐すなり。甲戌、制す、中大夫・中書舍人・上柱國・賜紫金魚袋杜彥林を以て太中大夫・守御史中丞と為す。丁丑、制す、兵部郎中蕭頎を以て吏部郎中と為し、戸部郎中徐綰を以て兵部郎中と為し、司勲員外郎張茂樞を以て礼部郎中と為し、監察御史郤殷象を以て右補闕と為す。己卯、制す、武昌軍節度・鄂岳蘄黄等州観察処置兼三司水陸発運淮南西面行営招討等使・開府儀同三司・検校太師・中書令・西平王・食邑三千戸杜洪に食邑一千戸を加え、実封二百戸を加ふ。庚寅、中書奏す:「西京旧に凌煙閣有り、功臣を図画す、今都を洛陽に遷す、合議して修建すべし。副元帥梁王の勲庸世に冠たり、凌煙閣の側に別に一閣を創り、以て殊勲を表すことを請ふ。」之に従ふ。

八月壬辰朔。壬寅の夜、朱全忠、左龍武統軍朱友恭・右龍武統軍氏叔琮・枢密使蔣玄暉に令して昭宗を椒殿に弑せしむ。帝洛に遷りてより、李克用・李茂貞・西川王建・襄陽趙匡凝、全忠の簒奪の謀を知り、盟を連ね義を挙げ、以て興復を辞と為す。而して帝英傑にして群せず、全忠方に西討を事とし、変の中より起こるを慮り、故に帝を害して以て人望を絶つ。帝長安を離れてより、日々不測を憂ひ、皇后・内人と唯だ沈飲して自ら寛ぐ。是の月壬寅、全忠、判官李振に令して河中より洛陽に至らしめ、友恭等と之を図る。是の夜二鼓、蔣玄暉、龍武衙官史太等百人を選び内門を叩き、軍前に急奏有りて上に面見せんと云ふ。内門開く、玄暉毎門に卒十人を留め、椒殿院に至る、貞一夫人関を啓き、玄暉に謂ひて曰く「急奏は卒を以て来るべからず」と。史太、貞一を執りて之を殺し、急ぎ殿下に趨る。玄暉曰く「至尊何れの処にか在る」と。昭儀李漸栄軒に臨みて玄暉に謂ひて曰く「院使官家を傷つくる莫れ、寧ろ我輩を殺せ」と。帝方に酔ひ、之を聞きて遽かに起つ。史太剣を把りて椒殿に入る、帝単衣にして柱を旋りて走る、太追ひて之を弑す。漸栄身を以て帝を護り、亦た太に殺さる。復た何皇后を執り、将に之を害せんとす。後玄暉に哀を求む、玄暉全忠の帝を害せよとのみ令するを以て、後を釈して去る。帝殂す、年三十八、群臣上諡して聖穆景文孝皇帝と曰ひ、廟号を昭宗とす。二年二月二十日、和陵に葬る。