舊唐書

巻020上

巻020上

舊唐書

原文舊唐書

卷二十上

原文卷二十上

本紀第二十上 昭宗

原文本紀第二十上 昭宗

昭宗聖穆景文孝皇帝の諱は曄、懿宗の第七子、母は惠安太后王氏と曰う。咸通八年二月二十二日に東内に生まる。十三年四月、壽王に封ぜられ、名は傑。乾符四年、開府儀同三司・幽州大都督ととく・幽州盧龍等軍節度・押奚契丹・管内観察処置等使を授かる。帝は僖宗の母弟にして、特に親睦なり。艱難播越より、嘗て左右に随侍し、兵を握り中要にあり、皆奇として之を愛す。

原文昭宗聖穆景文孝皇帝諱曄,懿宗第七子,母曰惠安太后王氏。以咸通八年二月二十二日生於東內。十三年四月,封壽王,名傑。乾符四年,授開府儀同三司、幽州大都督、幽州盧龍等軍節度、押奚契丹、管內觀察處置等使。帝于僖宗,母弟也,尤相親睦。自艱難播越,嘗隨侍左右,握兵中要,皆奇而愛之。

文徳元年

原文文德元年

文徳元年二月、僖宗暴に豫よせず。時に初めて宮闈を復し、人心傾矚す。遽かに疾を被るを聞き、軍民駭愕す。大漸の夕に及びて、未だ立つ所を知らず。群臣吉王最も賢なりとし、又壽王の上に在り、将に之を立たんとす。唯だ軍容楊復恭、壽王を以て監国せしむるを請う。

原文文德元年二月,僖宗暴不豫。時初復宮闈,人心傾矚,遽聞被疾,軍民駭愕。及大漸之夕,而未知所立。群臣以吉王最賢,又在壽王之上,將立之,唯軍容楊復恭請以壽王監國。

三月六日、遺詔を宣して皇太弟に立つ。八日、柩前即帝位す。時に年二十二。司空しくう韋昭度を以て塚宰を摂せしむ。己丑、群臣に見え、始めて政を聴く。帝書を攻め文を好み、特に儒術を重んじ、神気雄俊、会昌の遺風有り。先朝の威武振わず、国命浸微なるを以て、大臣を尊礼し、道術を詳延し、意旧業を恢張し、天下に号令せんとす。即位の始め、中外之を称す。

原文三月六日,宣遺詔立為皇太弟。八日,柩前即位,時年二十二。以司空韋昭度攝塚宰。己丑,見群臣,始聽政。帝攻書好文,尤重儒術,神氣雄俊,有會昌之遺風。以先朝威武不振,國命浸微而尊禮大臣,詳延道術,意在恢張舊業,號令天下。即位之始,中外稱之。

四月戊辰朔。庚午、聖母惠安太后を追諡して恭献と曰う。乙亥、河南尹張全義兵を以て李罕之を河陽に襲い、罕之出でて澤州に拠る。魏博衙軍其の帥楽禎を龍興寺に殺し、又楽従訓を撃ちて之を敗る。従訓残衆を以て洹水を保つ。羅宗弁其の城を陥れて之を殺す。壬午、蔡賊孫儒揚州を陥れ、楊行密潰囲して出で、宣州に拠る。孫儒自ら淮南節度と称し、仍其の衆を率いて宣州を攻む。

原文四月戊辰朔。庚午,追諡聖母惠安太后曰恭獻。乙亥,河南尹彥張全義以兵襲李罕之于河陽,罕之出據澤州。魏博衙軍殺其帥樂禎于龍興寺,又擊樂從訓,敗之。從訓以殘眾保洹水,為羅宗弁陷其城而殺之。壬午,蔡賊孫儒陷揚州,楊行密潰圍而出,據宣州。孫儒自稱淮南節度,仍率其眾攻宣州。

五月丁酉朔、制して宣武軍節度使・検校侍中・沛はい郡王朱全忠を以て蔡州四面行営兵馬都統とす。秦賢・石璠敗れたる後、蔡賊漸く弱く、時溥方に全忠に攻めらるるを以て、故に溥の都統の命を移して全忠に授く。壬寅、蔡賊将偽に署す荊襄節度使趙徳諲使いを遣わして朝に帰し、賊を討ちて自ら効わんことを願う。乃ち徳諲を以て蔡州四面行営副都統とす。徳諲遂に荊襄の兵を以て全忠に属す。

原文五月丁酉朔,制以宣武軍節度使、檢校侍中、沛郡王朱全忠為蔡州四面行營兵馬都統。自秦賢、石璠敗後,蔡賊漸弱,時溥方為全忠所攻,故移溥都統之命授全忠。壬寅,蔡賊將偽署荊襄節度使趙德諲遣使歸朝,願討賊自效,乃以德諲為蔡州四面行營副都統,德諲遂以荊襄之兵屬全忠。

六月丁卯朔、川賊王建大いに乱る。剣南陳敬瑄難を告ぐ。制して開府儀同三司・守司空・門下侍郎・同平章事・太清宮使・弘文館大学士・延資庫使・上柱国・扶陽郡開国公、食邑二千戸韋昭度を検校司徒しと・門下侍郎・平章事とし、兼ねて成都尹、剣南西川節度副大使・知節度事を充て、兼ね両川招撫制置等使とす。蔡州行営賊を龍陂に大破せしむるを奏し、軍を進めて以て賊城に逼る。

原文六月丁卯朔,以川賊王建大亂,劍南陳敬瑄告難,制以開府儀同三司、守司空、門下侍郎、同平章事、太清宮使、弘文館大學士、延資庫使、上柱國、扶陽郡開國公,食邑二千戶韋昭度檢校司徒、門下侍郎、平章事,兼成都尹,充劍南西川節度副大使、知節度事,兼兩川招撫制置等使。蔡州行營奏大破賊于龍陂,進軍以逼賊城。

七月丙申朔、澤州刺史李罕之太原の師を引きて河陽を攻む。汴将丁会に敗られ、高平に退き還る。

原文七月丙申朔,澤州刺史李罕之引太原之師攻河陽,為汴將丁會所敗,退還高平。

九月乙未、汴将朱珍時溥の師を埇橋に敗り、遂に宿州を陥る。是より溥城に嬰り敢えて復た出でず。汴将胡元琮急に蔡州を攻む。

原文九月乙未,汴將朱珍敗時溥之師於埇橋,遂陷宿州,自是溥嬰城不敢復出。汴將胡元琮急攻蔡州。

十二月甲子朔、蔡州牙将申叢秦宗権を執り、其の足を撾折し、降を乞う。詔して中使を宣諭し、便に叢を以て留後を権知せしむ。中使の至るに比し、別将郭璠申叢を殺し、宗権を篡め、縶して汴州に送る。蔡・申・光等州平ず。詔して蔡州行営兵士に銭二十五万貫を賜い、度支に令して逐近支給せしむ。是の月、僖宗を靖陵に葬る。

原文十二月甲子朔,蔡州牙將申叢執秦宗權,撾折其足,乞降。詔中使宣諭,便以叢權知留後。比中使至,別將郭璠殺申叢,篡宗權,縶送汴州。蔡、申、光等州平。詔賜蔡州行營兵士錢二十五萬貫,令度支逐近支給。是月,葬僖宗於靖陵。

龍紀元年

原文龍紀元年

龍紀元年春正月癸巳朔、上武徳殿に御し朝賀を受け、制を宣して大赦し、元を改む。中外文武臣僚進秩頒爵差有り。剣南西川節度・両川招撫制置使韋昭度を検校司空とし、東都留守と為す。翰林学士承旨・兵部侍郎・知制誥劉崇望を本官同平章事とす。刑部侍郎孫揆を京兆尹とす。

原文龍紀元年春正月癸巳朔,上御武德殿受朝賀,宣制大赦,改元。中外文武臣僚進秩頒爵有差。以劍南西川節度、兩川招撫制置使韋昭度檢校司空,為東都留守;以翰林學士承旨、兵部侍郎、知制誥劉崇望本官同平章事;以刑部侍郎孫揆為京兆尹。

二月癸亥朔。己丑、汴州行軍司馬李璠監送して逆賊秦宗権並びに妻趙氏を献ず。上延喜門に御し俘を受け、百僚賀す。之を以て市に徇し、廟社に告げ、独柳に斬る。趙氏笞死す。初め、諸侯長安ちょうあんを収むるより、黄巢東に関を出で、宗権と合す。巢賊平げられたりと雖も、而して宗権の凶徒大いに集まり、西は金・商・陝・虢に至り、南は荊・襄に極まり、東は淮甸を過ぎ、北は徐・兗・汴・鄭を侵す。幅員数十州。五六年の間、民耕織無く、千室の邑、一二を存せず。歳凶荒に既にして、皆人を膾して食らう。喪乱の酷、未だ前に聞かず。宗権既に平ぎ、而して朱全忠兵十万を連ね、河南を吞噬ぜいし、兗・鄆・青・徐の間、血戦解けず、唐祚以て亡に至る。中書奏請して二月二十二日を嘉会節と為さんことを請う。之に従う。

原文二月癸亥朔。己丑,汴州行軍司馬李璠監送逆賊秦宗權並妻趙氏以獻,上御延喜門受俘,百僚稱賀,以之徇市,告廟社,斬于獨柳。趙氏笞死。初,自諸侯收長安,黃巢東出關,與宗權合。巢賊雖平,而宗權之凶徒大集,西至金、商、陝、虢,南極荊、襄,東過淮甸,北侵徐、兗、汴、鄭,幅員數十州。五六年間,民無耕織,千室之邑,不存一二,歲既凶荒,皆膾人而食,喪亂之酷,未之前聞。宗權既平,而朱全忠連兵十萬,吞噬河南,兗、鄆、青、徐之間,血戰不解,唐祚以至於亡。中書奏請以二月二十二日為嘉會節,從之。

三月壬辰朔、右僕射・門下侍郎・同平章事孔緯を以て司空・太清宮使・弘文館大學士・延資庫使を守らしめ、諸道鹽鐵轉運等使を領せしむ。右僕射・門下侍郎・集賢殿大學士杜讓能を以て左僕射・監修國史・判度支と為し、中書侍郎・戶部尚書・同平章事張浚を以て集賢殿大學士・判戶部事と為す。

原文三月壬辰朔,以右僕射、門下侍郎、同平章事孔緯守司空、太清宮使、弘文館大學士、延資庫使、領諸道鹽鐵轉運等使,以右僕射、門下侍郎、集賢殿大學士杜讓能為左僕射、監修國史、判度支,以中書侍郎、戶部尚書、同平章事張浚為集賢殿大學士、判戶部事。

四月壬戌朔、宣武淮南等節度副大使・知節度事・管內營田觀察處置等使・開府儀同三司・檢校太傅・兼侍中・揚州大都督府長史・汴州刺史・蔡州四面行營都統充・上柱國・沛郡王・食邑四千戶朱全忠を以て檢校太尉・中書令と為し、東平王に進封し、仍て賞軍錢十萬貫を賜う。

原文四月壬戌朔,以宣武淮南等節度副大使、知節度事、管內營田觀察處置等使、開府儀同三司、檢校太傅、兼侍中、揚州大都督府長史、汴州刺史、充蔡州四面行營都統、上柱國、沛郡王、食邑四千戶朱全忠為檢校太尉、中書令,進封東平王,仍賜賞軍錢十萬貫。

五月壬辰朔、漢州刺史王建、成都府を陥とす。陳敬瑄を雅州に遷す。建自ら西川兵馬留後と称す。復た田令孜を用いて監軍と為す。

原文五月壬辰朔,漢州刺史王建陷成都府,遷陳敬瑄於雅州,建自稱西川兵馬留後。復用田令孜為監軍。

六月辛酉朔、邢洺節度使孟方立卒す。三軍其の弟洺州刺史遷を推して留後と為す。太原李克用軍を出して之を攻む。杭州刺史錢鏐、宣州を攻め、之を下し、劉浩を擒え、心を剖きて以て周寶を祭る。

原文六月辛酉朔,邢洺節度使孟方立卒,三軍推其弟洺州刺史遷為留後,太原李克用出軍攻之。杭州刺史錢鏐攻宣州,下之,擒劉浩,剖心以祭周寶。

七月、詔して杭州に武勝軍を置き、鏐を以て本軍防禦觀察等使と為す。

原文七月,詔于杭州置武勝軍,以鏐為本軍防禦觀察等使。

十月己未朔、青州節度使王敬武卒す。制して特進・太子少師・博陵郡開國侯・食邑一千戶崔安潛を以て檢校太傅・兼侍中・青州刺史・平盧軍節度觀察・押新羅渤海兩蕃等使と為す。青州三軍、敬武の子師範を以て兵馬事を権知せしむ。

原文十月己未朔,青州節度使王敬武卒。制以特進、太子少師、博陵郡開國侯、食邑一千戶崔安潛檢校太傅、兼侍中、青州刺史、平盧軍節度觀察、押新羅渤海兩蕃等使。青州三軍以敬武子師範權知兵馬事。

十一月己丑朔、将に圓丘に事有らんとす。御名を改めて曄と曰う。辛亥、上武德殿に宿齋す。宰相百僚朝服して位に在り。時に兩軍中尉楊復恭及び兩樞密皆朝服して上に侍す。太常博士錢珝・李綽等奏して之を論じて曰く、「皇帝齋宮に赴くに、内臣皆朝服す。臣國朝の故事及び近代の禮令を檢するに、並びに内官の朝服して祭を助くるの文無し。伏して惟うに皇帝陛下、天を承け曆を御し、聖祚中興し、宗祧を祗見し、克く大禮を陳う。皆高祖こうそ・太宗の成制を稟け、必ず虞・夏・商・周の舊經に循い、冕服章を置き、式に彝憲を遵う。禮院先ず大禮使の牒に准え、内侍省の牒を得て、内臣の朝服の品秩を知らんと要すと称す。禮院已に禮令に准えて報じ訖えり。今近朝の事例を参詳するに、若し内官及び諸衛の將軍、必ず冠服を制せば、即ち各兼ぬる所の正官に依り、資品に随い令式に依りて本官の服を服す。事傳聽に存し、且つ俯して從う可しと雖も、然れども亦分明に禮令に著さず。乞うらくは聖慈、臣の奏する所を允したまわんことを。」状入り、晚に至るも報ぜず。錢珝又状を進めて曰く、「臣今日巳時に状を進め、内官の冠服の制度を論ず。未だ聖旨を奉ぜず。伏して惟うに陛下、郊禋を虔しく事え、式に彝范を遵い、凡そ典禮に關するは、必ず憲章を守る。今陛下先王の大禮を行い、而して内臣遂に先王の法服を服す。来日大聖祖に朝獻し、臣皇帝の行事を贊導す。若し侍臣の服章、制度に違わば、是れ禮に非ざるなり。上り祖宗を瀆し、臣期に敕を奉ぜず。臣謬ち聖代に當たり、叨に禮官に備わり、朝儀を正すことを獲、死して且つ朽ちず。脂膏泥滓、是れ甘心する所なり。」状入り、硃書の御劄を降して曰く、「卿等の論ずる所至當なり。事権に從う可し。小瑕を以て、遂に大禮を妨げること勿れ。」是に於て内四臣遂に法服を以て祠に侍す。甲寅、圓丘の禮畢り、承天門に御し、大赦す。

原文十一月己丑朔,將有事於圓丘。改御名曰曄。辛亥,上宿齋于武德殿,宰相百僚朝服於位。時兩軍中尉楊復恭及兩樞密皆朝服侍上,太常博士錢珝、李綽等奏論之曰:「皇帝赴齋宮,內臣皆服朝服。臣檢國朝故事及近代禮令,並無內官朝服助祭之文。伏惟皇帝陛下承天御曆,聖祚中興,祗見宗祧,克陳大禮。皆稟高祖、太宗之成制,必循虞、夏、商、周之舊經,置冕服章,式遵彝憲。禮院先准大禮使牒稱得內侍省牒,要知內臣朝服品秩,禮院已准禮令報訖。今參詳近朝事例,若內官及諸衛將軍必須制冠服,即各依所兼正官,隨資品依令式服本官之服。事存傳聽,且可俯從,然亦不分明著在禮令。乞聖慈允臣所奏。」狀入,至晚不報。錢珝又進狀曰:「臣今日巳時進狀,論內官冠服制度,未奉聖旨。伏以陛下虔事郊禋,式遵彝范,凡關典禮,必守憲章。今陛下行先王之大禮,而內臣遂服先王之法服。來日朝獻大聖祖,臣贊導皇帝行事,若侍臣服章有違制度,是為非禮,上瀆祖宗,臣期不奉敕。臣謬當聖代,叨備禮官,獲正朝儀,死且不朽,脂膏泥滓,是所甘心。」狀入,降硃書御劄曰:「卿等所論至當,事可從權。勿以小瑕,遂妨大禮。」於是內四臣遂以法服侍祠。甲寅,圓丘禮畢,御承天門,大赦。

十二月戊午、宰臣杜讓能、司空を兼ぬ。

原文十二月戊午,宰臣杜讓能兼司空。

大順元年

原文大順元年

大順元年春正月戊子朔、武德殿に御し朝賀を受く。宰臣百僚、徽號を上りて聖文睿德光武弘孝皇帝と曰う。禮畢り、大赦し、元を改めて大順と為す。

原文大順元年春正月戊子朔,御武德殿受朝賀。宰臣百僚上徽號曰聖文睿德光武弘孝皇帝,禮畢,大赦,改元大順。

二月丁巳、宰臣兼國子祭酒孔緯、孔子廟兵火を經て、有司釋奠する所無きを以て、請う内外の文臣、觀察使・制使より下及び令佐より、本官の料錢の上緡より十文を抽き、國學の修を助けんことを。之に從う。宣武節度使朱全忠、位を進めて中書令を守り、食邑千戶を加え、餘故の如し。太原の都將安金俊、邢州を攻圍すること歴年、城中食盡き、邢洺觀察使孟遷城を以て降る。乃ち孟遷の族を以て太原に歸す。克用大將安建を以て邢洺留後と為す。

原文二月丁巳,宰臣兼國子祭酒孔緯以孔子廟經兵火,有司釋奠無所,請內外文臣自觀察使、制使下及令佐,於本官料錢上緡抽十文,助修國學,從之。宣武節度使朱全忠進位守中書令,加食邑千戶,餘如故。太原都將安金俊攻圍邢州歷年,城中食盡,邢洺觀察使孟遷以城降,乃以孟遷之族歸太原。克用以大將安建為邢洺留後。

三月丁亥朔、朱全忠表を上りて曰く、「關東の籓鎮、請う朝廷の名德を除用して節度觀察使と為さんことを。如し籓臣固位して代を受けざれば、臣請う兵を以て之を誅せん。王徽・裴璩・孔晦・崔安潛等の如きは皆縉紳の名族にして、踐曆素より高し。宜しく用いて徐鄆青兗等道の節度使と為すべし。」之に從う。昭義節度使李克修卒す。太原の帥克用の弟なり。三軍克修の弟克恭を推して留後事を知らしむ。

原文三月丁亥朔,朱全忠上表:「關東籓鎮,請除用朝廷名德為節度觀察使。如籓臣固位不受代,臣請以兵誅之。如王徽、裴璩、孔晦、崔安潛等皆縉紳名族,踐曆素高,宜用為徐鄆青兗等道節度使。」從之。昭義節度使李克修卒,太原帥克用之弟也,三軍推克修弟克恭知留後事。

四月丙辰朔、李克用、大將安金俊を遣わし師を率いて雲州を攻めしむ。赫連鐸、幽州に援を求む。李匡威兵を出して之を援け、蔚州に戦う。太原軍大いに敗れ、燕軍安金俊を執り、之を朝に獻ず。李匡威・赫連鐸・朱全忠等表を上りて曰く、「請う沙陀の敗亡に因り、臣と河北三鎮及び臣の鎮むる汴滑河陽の兵を以て太原を平定せん。願わくは朝廷重臣一人を命じ、都総して戎事せしめん。」昭宗、太原の艱難の時に於て興復の大功を立つるを以て、心其の事を疑い、兩省・御史台・尚書省四品已上の官を下して議せしむ。唯だ全忠に党する者其の伐つ可きを言い、不可とする者十の七、宰臣杜讓能・劉崇望深く以て不可と為す。惟だ張浚議して曰く、「先朝再び興元に幸するは、実に沙陀の罪なり。比に河北の諸侯の之と膠固するを慮り、滌除するに以て無し。今兩河の大籓皆誅討を願う。其の離貳に因りて之を除かざれば、是れ断すべきに断を失うなり。」孔緯曰く、「浚の言是なり。」軍容楊復恭曰く、「先朝霜露を蒙犯し、草莽に播越すること七八年間、寢て安席せず。賊臣外に於て搖盪する有りと雖も、亦中に於て制を失うに由る。陛下纘承し、人心忻戴す。軽く干戈を挙げ、国の為に事を生ずべからず。優詔を望みて全忠に報い、且つ柔服を以て辞と為さんことを。」上然りとす。全忠密かに浚の親党を遣わし浚を賂う。浚全忠の援を恃み、論奏已まず。天子黽勉して之に從う。

原文四月丙辰朔,李克用遣大將安金俊率師攻雲州。赫連鐸求援于幽州,李匡威出兵援之,戰於蔚州,太原軍大敗,燕軍執安金俊,獻之於朝。李匡威、赫連鐸、朱全忠等上表:「請因沙陀敗亡,臣與河北三鎮及臣所鎮汴滑河陽之兵平定太原,願朝廷命重臣一人都總戎事。」昭宗以太原于艱難時立興復大功,心疑其事,下兩省、御史台、尚書省四品已上官議。唯党全忠者言其可伐,不可者十之七,宰臣杜讓能、劉崇望深以為不可。惟張浚議曰:「先朝再幸興元,實沙陀之罪。比慮河北諸侯與之膠固,無以滌除。今兩河大籓皆願誅討,不因其離貳而除之,是當斷失斷也。」孔緯曰:「浚言是也。」軍容楊復恭曰:「先朝蒙犯霜露,播越草莽,七八年間,寢不安席,雖賊臣搖盪於外,亦由失制於中。陛下纘承,人心忻戴,不宜輕舉干戈,為國生事。望優詔報全忠,且以柔服為辭。」上然之。全忠密遣浚之親黨賂浚,浚恃全忠之援,論奏不已,天子黽勉從之。

五月、制を下して特進・中書侍郎・兵部尚書・同平章事・集賢殿大學士・上柱國・河間郡開國伯・食邑七百戸の張浚を太原四面行営兵馬都統とし、京兆尹の孫揆をその副とした。華州節度使の韓建を北面行営招討都虞候・供軍等使とし、宣武節度使の朱全忠を太原東南面招討使とし、成徳軍節度使の王鎔を太原東面招討使とし、幽州節度使の李匡威を太原北面招討使とし、雲州防禦使の赫連鐸をその副とした。丙午、潞州で軍が乱を起こし、その帥の李克恭を殺した。監軍使の薛繢本は克恭の首を函に収めて朝廷に献上し、張浚がちょうど兵を起こしたので、朝廷はこれを称賀した。壬子、都招討使の張浚・孫揆が諸策神軍三千を率いて行営に赴き、昭宗は安喜門に臨んで送り、誡め誓わせた。

原文五月,制特進、中書侍郎、兵部尚書、同平章事、集賢殿大學士、上柱國、河間郡開國伯、食邑七百戶張浚為太原四面行營兵馬都統,京兆尹孫揆副之。以華州節度使韓建為北面行營招討都虞候、供軍等使;以宣武節度使朱全忠為太原東南面招討使;成德軍節度使王鎔為太原東面招討使;幽州節度使李匡威為太原北面招討使,雲州防禦使赫連鐸副之。丙午,潞州軍亂,殺其帥李克恭。監軍使薛繢本函克恭首獻之於朝,浚方起兵,朝廷稱賀。壬子,都招討使張浚、孫揆率諸策神軍三千赴行營,昭宗御安喜門臨送,誡誓之。

六月乙卯、李克用の大将で権知邢洺兵馬留後の安建が上表し、三州を以て帰順することを請い、中使を遣わしてこれを労った。制を下して徳州刺史・権知滄州兵馬留後の盧彦威を検校尚書右僕射、兼ねて滄州刺史・御史大夫とし、義昌軍節度・滄徳観察処置等使を充てた。彦威は、光啓の初めにその帥の楊全玫を逐い、旄節を求めたが、朝廷は扈蹕都都將の曹誠を滄徳節度使とした。誠は任に至らなかったが、彦威の請いは行われなかった。ここに至り、王鎔・羅弘信が張浚の用兵に因り、彦威のために論請したので、この授けがあった。京兆尹・行営兵馬副招討の孫揆を検校兵部尚書、兼ねて潞州大都督府長史とし、昭義節度副大使・知節度事を充てた。張浚は諸軍を晉州で会し、朱全忠は汴卒三千を選んで張浚の牙隊とした。

原文六月乙卯,李克用大將權知邢洺兵馬留後安建上表,請以三州歸順,遣中使往勞之。制以德州刺史、權知滄州兵馬留後盧彥威檢校尚書右僕射,兼滄州刺史、御史大夫,充義昌軍節度、滄德觀察處置等使。彥威,光啟初逐其帥楊全玫,求旄節,朝廷以扈蹕都將曹誠為滄德節度使,誠雖不至任,而彥威之請不行。至是,王鎔、羅弘信因張浚用兵,為彥威論請,故有斯授。以京兆尹、行營兵馬副招討孫揆檢校兵部尚書,兼潞州大都督府長史,充昭義節度副大使、知節度事。張浚會諸軍于晉州,朱全忠選汴卒三千為張浚牙隊。

秋七月乙酉の朔、王師は陰地に屯し、太原の大将康君立が兵を以て拒戦した。朱全忠は大将の葛従周を遣わして千騎を率いて潞州に入らせ、従周は権に兵馬留後を充てた。朱全忠は奏上して、既に兵士を差して潞州を守らせたので、節度使の孫揆を鎮に赴かせることを請うた。時に中使の韓帰範が揆の旌節・官告を押送して行営に至った。丙申、揆は節を建て、兵二千を率いて晉州より昭義の鎮に赴いた。戊申、長子県の山谷中に至った。太原の騎将李存孝が伏兵を以て揆と韓帰範の牙兵五百を捕らえ、俘虜として太原に送り、残りの兵は悉く存孝に殺された。太原の将康君立は兵二万を率いて潞州を攻めた。

原文秋七月乙酉朔,王師屯于陰地,太原大將康君立以兵拒戰。朱全忠遣大將葛從周率千騎入潞州,從周權充兵馬留後。朱全忠奏已差兵士守潞州,請節度使孫揆赴鎮。時中使韓歸範押揆旌節、官告送至行營。丙申,揆建節,率兵二千,自晉州赴鎮昭義。戊申,至長子縣山谷中。太原騎將李存孝伏兵執揆與韓歸範牙兵五百,俘送太原,餘兵悉為存孝所殺。太原將康君立率兵二萬攻潞州。

九月甲申、幽州・雲州の蕃・漢の兵三万が雁門を攻め、太原の将李存信・薛阿檀がこれを撃破した。汴将の葛従周は上党を棄て、康君立が入ってこれを占拠し、克用は君立を沢潞兵馬留後とした。

原文九月甲申,幽州、雲州蕃、漢兵三萬攻雁門,太原將李存信、薛阿檀擊敗之。汴將葛從周棄上党,康君立入據之,克用以君立為澤潞兵馬留後。

十一月癸丑の朔、太原の将で邢州刺史の李存孝は、自ら孫揆を擒らえた功を恃み、昭義の帥となることを合わせて望み、克用が康君立を授けたことを怨んだ。存孝は晉州より行営兵を率いて邢州に帰り、城を拠って上表して朝に帰し、また張浚・王鎔に書を致して援を求めた。克用は大将の李存信・薛阿檀を遣わして王師を陰地で拒ませ、三戦三勝し、これにより河西の鄜・夏・邠・岐の軍は河を渡って西に帰った。韓建は諸軍を以て平陽を保ち、存信がこれを追うと、建の軍また敗れ、建は退いて絳州を保った。張浚は汴卒・禁軍一万を晉州に在らせたが、存信がこれを三日攻め、互いに謀って言うには、「張浚は宰相、これを俘虜にしても益なし。天子の禁兵は、害を加うべからず。もし平陽を得ても、我らに利なし」と。すなわち五十里退いて舍を設けて軍した。

原文十一月癸丑朔,太原將邢州刺史李存孝自恃擒孫揆功,合為昭義帥,怨克用授康君立。存孝自晉州率行營兵歸邢州,據城上表歸朝,仍致書與張浚、王鎔求援。克用遣大將李存信、薛阿檀拒王師于陰地,三戰三捷,由是河西鄜、夏、邠、岐之軍渡河西歸。韓建以諸軍保平陽,存信追之,建軍又敗,建退保絳州。張浚以汴卒、禁軍萬人在晉州,存信攻之三日,相與謀曰:「張浚宰相,俘之無益,天子禁兵,不宜加害。如得平陽,於我無利。」遂退舍五十里而軍。

十二月壬午の朔、張浚・韓建は晉・絳を抜いて遁走し、李存信は晉・絳を収め、河中の四郡を大いに掠めた。丙寅、制を下して特進・中書侍郎・平章事・太原四面行営都統の張浚を検校兵部尚書、兼ねて鄂州刺史・御史大夫とし、鄂嶽観察使を充てることを可とした。開府儀同三司・守司徒・門下侍郎・同平章事・上柱國・魯國公・食邑三千戸・諸道塩鉄転運等使を充てる孔緯を検校司徒、兼ねて江陵尹・荊南節度観察処置使とした。庚午、新たに除された鄂岳観察使の張浚を責めて連州刺史と授け、新たに除された荊南節度使の孔緯を責めて均州刺史と授け、ともに馳驛して任に赴かせた。太原軍は晉州に屯し、李克用は中使の韓帰範を還朝させ、因って上表して冤を訴え、言うには、「賊臣張浚が朱全忠に依倚して功臣を離間し、臣の官爵を削奪するに致った」と。朝廷は憾みを解かせんと欲し、群臣を下してその可否を議させた。左僕射の韋昭度等が議して曰く。

原文十二月壬午朔,張浚、韓建拔晉、絳遁去,李存信收晉、絳,大掠河中四郡。丙寅,制特進、中書侍郎、平章事、太原四面行營都統張浚可檢校兵部尚書,兼鄂州刺史、御史大夫,充鄂嶽觀察使。以開府儀同三司、守司徒、門下侍郎、同平章事、上柱國、魯國公、食邑三千戶、充諸道鹽鐵轉運等使孔緯檢校司徒,兼江陵尹、荊南節度觀察處置使。庚午,新除鄂岳觀察使張浚責授連州刺史,新除荊南節度使孔緯責授均州刺史,並馳驛赴任。太原軍屯晉州,李克用遣中使韓歸範還朝,因上表訴冤,言:「被賊臣張浚依倚朱全忠離間功臣,致削奪臣官爵。」朝廷欲令釋憾,下群臣議其可否。左僕射韋昭度等議曰:

「功を賞し否を罰することは、前聖の令猷なり。垢を含み瑕を匿すことは、百王の垂訓なり。これにより雷解けて羲文は徳に象り、網開けて湯化は仁に帰す。彼の懐柔を用い、式として彝範を存す。上は軒農の代より、下は文武の朝に臻るまで、允に寛弘に洽わざるはなく、以て霈沢を流す。況んや国家の徳祖守成の日、憲宗致理の時においてをや。車軌は一に同く、桑麻は万里なり。燭龍の外野は、悉く梯航に在り。火鼠の窮郊は、咸く正朔に帰す。然るに猶お王承宗は兵を擁して鎮・冀に在り、詔して範希朝にこれを討たしむも、歳を仍いて功無く、卒に行って赦宥す。また朱滔は幽州の衆を以て、田悦・李納・王武俊の強を結び、馬燧等を遣わしてこれを征するも克たず、旋ってまたこれを寛う。累聖の典謀睿哲、大朝の紀律文明を以て、彼を風駆せしめ、その電掃を快くせんと欲せざるに非ず。然れども且つ《春秋》の義を考へ、楚・鄭の文を稽へ、或いは退いて平を許し、或いは服して更に舍つ。旧史に存し、彼の新書に載す。

原文「賞功罰否,前聖之令猷;含垢匿瑕,百王之垂訓。是以雷解而羲文象德,網開而湯化歸仁,用彼懷柔,式存彝範。上自軒農之代,下臻文武之朝,罔不允洽寬弘,以流霈澤。況國家德祖守成之日,憲宗致理之時,車軌一同,桑麻萬里。燭龍外野,悉在梯航;火鼠窮郊,鹹歸正朔。然猶王承宗擁兵鎮、冀,詔範希朝討之,仍歲無功,卒行赦宥。而又硃滔以幽州之眾,結田悅、李納、王武俊之強,遣馬燧等征之不克,旋又寬之。以累聖之典謀睿哲,大朝之紀律文明,非不欲厲彼風驅,快其電掃。然且考《春秋》之義,稽楚、鄭之文,或退而許平,或服而更舍,存于舊史,載彼新書。

李克用は代漠の強宗、陰山の貴胤にして、呼吸すれば風雲気を作し、指麾すれば草樹形を成す。天を仰ぎ心を指し、誓って失訾の首を献ぜん。弢を伏して血を歐し、屡く都護の営に親しむ。所謂る勇多く人に上り、自ら窮より我に帰するに匪ず。及び陛下の聖考懿宗皇帝の朝、彭門失守の時、親しく鋭卒を駆り、首めて殊功を建つ。而して先帝即位の初、渚宮大いに擾るに、復た義旅を提げ、克く妖氛を静む。その後、封豕長蛇、薦んで上国を食い、継いて子朝の乱、皆な重耳の盟に因る。大朝の宗祧を保ち、簡冊に中興を垂る。蓋し聖王の天下を御するや、勳有れば書す可く、績有れば載す可し。過を宥するは十代に忘れず、功を念うは豈に一時に止まらんや。天高くして卑を聴く、請う斯の語に事えん。且つ四海の内、創磐猶お殷く、九貢の邦、綱条未だ理めず。昨者遽かに邠・岐の衆を起こし、尋いで已に退き還る。また燕・薊の師を征し、倏ち内変を聞く。饟饋の職を失い、資扉の供を絶つに出で、此の戈を投ずるに致り、是れ箸を借るに乖る。蓋し下計の未だ熟さざるに在りて、聖謀の臧らざるに非ず。儻し宸断重離し、天機間出せば、此の成款を録し、彼の師徒を散じ、その旧を念うの懐を虚しくし、初めの如きの礼を以て待たば。臣等の議する所、実に是れに在り。

原文李克用代漠強宗,陰山貴胤,呼吸而風雲作氣,指麾而草樹成形。仰天指心,誓獻失訾之首;伏弢歐血,屢親都護之營。所謂勇多上人,自匪窮來歸我。及陛下聖考懿宗皇帝之朝,彭門失守,親驅銳卒,首建殊功。而先帝即位之初,渚宮大擾,復提義旅,克靜妖氛。其後封豕長蛇,薦食上國,繼以子朝之亂,皆因重耳之盟,保大朝之宗祧,垂中興于簡冊。蓋聖王之御天下也,有勳可書,有績可載,宥過不忘於十代,念功豈止于一時。天高聽卑,請事斯語。且四海之內,創磐猶殷,九貢之邦,綱條未理。昨者遽起邠、岐之眾,尋已退還;又征燕、薊之師,倏聞內變。出於饟饋失職,資扉絕供,致此投戈,是乖借箸。蓋下計之未熟,非聖謀之不臧。儻宸斷重離,天機間出,錄茲成款,散彼師徒,虛其念舊之懷,待以如初之禮。臣等所議,實以在斯。

またかつて聞くところによれば、漢の将軍趙充国が辺境の衰弱に乗じて出兵してこれを撃とうとしたとき、魏相が上書して利害を図示して陳べ、かつ曰く、『国家の大なるを恃み、人物の衆きを矜り、敵に威を見せんと欲する者は、これを驕兵と謂う。兵驕るる者は滅ぶ、ただ人事のみにあらず、乃ち天道なり』と。また曰く、『臣はこの兵何の名とするやを知らず』と。兵を出すに名なくんば、事乃ち成らず、漢の宣帝はこれを納れ、ついにその伐を罷めしめた。伏して惟うに、皇帝陛下は往古の用師の難きを鑑み、列聖の善に遷る美を採り、恩を区宇に加え、信を豚魚に及ぼさば、則ち臣等は懇願に勝えざるべし。況んや今、汴・魏はなお艱しく、幽・定はまさに困窮し、仮にこれに調発を遣わすとも、豈に事を集め得んや。虚しく号令を行い、徒らに寇讎を召し、以て人を剿らんとす、ただ国を辱しむるのみにあらず。且つ黠斯は勤王の衆を挙げ、効命の誠を推し、未だ虜騎の独り攻むるを得ず、望むところは漢兵の同力なり。今茲数鎮は奔命に遑あらず、師を済わしむること難く、恐らくはまた事を生ぜん。その漸く暑熱に当たるを諭し、戎旃に利あらざるを告げ、力を悉くして頒沾し、蕃部に遣わし還すべし。重盈に五郡の卒を陳べさせ、関防を益々謹ましめ、王珙に両河の雄を振るわせ、旗鼓を更に厳にすべし。然る後にその上表を奨め、自ら陳ずるを哀れみ、その前労を録し、後の効を責むべし。神爵の往典を征し、日逐の故封に還すべし。その已に王恭を斥けたるを諭し、更に晋帝を疑わしめざらしめ、凡百の臣子、実にその誠を切にす。その克用の身の官爵は、並びに請う却って還し、仍って前に依り属籍に編入すべし。

原文抑又聞往者漢將趙充國欲因邊境衰弱,出兵擊之,於是魏相上書,畫陳利害,且曰:『恃國家之大,矜人物之眾,欲見威於敵者,謂之驕兵。兵驕者滅,非但人事,乃天道也。』又曰:『臣不知此兵何名者也。』兵出無名,事乃不成,漢宣納之,竟罷其伐。伏惟皇帝陛下鑒往古用師之難,采列聖遷善之美,恩加區宇,信及豚魚,則臣等不勝懇願。況今汴、魏猶艱,幽、定方困,縱遣之調發,豈能集事!虛行號令,徒召寇讎,將以剿人,非唯辱國。且黠斯舉勤王之眾,推效命之誠,未能虜騎獨攻,所望漢兵同力。令茲數鎮,奔命不遑,難致濟師,恐又生事。諭其漸當暑熱,非利戎旃,悉力頒沾,遣還蕃部。重盈陳五郡之卒,益謹關防;王珙振兩河之雄,更嚴旗鼓。然後獎其上表,哀以自陳,錄彼前勞,責之後效。征神爵之往典,還日逐之故封。諭其已斥王恭,不使更疑晉帝,凡百臣子,實切乃誠。其克用在身官爵,並請卻還,仍依前編入屬籍。」

これに従う。

原文從之。

翰林学士承旨・兵部侍郎崔昭緯を本官のまま同平章事とし、御史中丞徐彦若を戸部侍郎・同平章事とする。尚書右僕射王徽卒す。司空を贈り、諡して貞と曰う。

原文以翰林學士承旨、兵部侍郎崔昭緯本官同平章事,御史中丞徐彥若為戶部侍郎、同平章事。尚書右僕射王徽卒,贈司空,諡曰貞。

大順二年

原文大順二年

二年春正月壬子の朔、李克用、邢州を急攻す。李存孝、王鎔に救援を求め、鎔は軍を出してこれを援け、堯山に屯す。克用、太原より至り、これを撃ち破り、進んで邢州を囲む。司徒・門下侍郎・平章事杜譲能、位を進めて太尉・太清宮使・弘文館大学士・延資庫使とし、諸道塩鉄転運等使を領す。中書侍郎・吏部尚書・平章事劉望を門下侍郎・監修国史・判度支事とし、工部侍郎・平章事崔昭緯に戸部事を判らしむ。

原文二年春正月壬子朔,李克用急攻邢州。李存孝求援于王鎔,鎔出軍援之,屯於堯山。克用自太原至,擊敗之,進圍邢州。司徒、門下侍郎、平章事杜讓能進位太尉、太清宮使、弘文館大學士、延資庫使領諸道鹽鐵轉運等使。以中書侍郎、吏部尚書、平章事劉望為門下侍郎、監修國史、判度支事,工部侍郎、平章事崔昭緯判戶部事。

二月辛巳、李克用、復た検校太師・中書令・太原尹・北都留守・河東節度観察処置等使となる。時に張浚・韓建、兵敗れたる後、太原の将李存信等に追われ、ここに至りて方に含山より王偓を逾え、河清に出で、河陽に達す。河の溢るるに属し、舟楫なく、建は人の廬舎を壊し、木罌数百を作り、方に渡ることを獲、人多く覆溺し、その徒を司徒廟に休む。この役、朝廷は朱全忠及び三鎮の兵に倚る。全忠は方に兵を連ねて徐・鄆を攻め、乃ち兵糧を鎮・魏に求め、全忠は終に行営に至らず。鎮・魏は太原を扞蔽として倚り、もし太原郡を破らば、恐らくは鎮・魏を危うくせんとし、王鎔・羅弘信もまた師を出さず。ただ邠・岐・華・鄜・夏の烏合の衆、晋州に会す。兵未だ交わらずして孫揆擒えられ、燕の卒敗れ、以て河西・岐下の師は風を望んで潰散し、而して浚・建は敗に至る。全忠、鎮・魏の兵糧を助けず観望するを以て、龐師古を遣わして兵を将い魏を討たしめ、十県を陥れ、羅弘信盟を乞う、乃ち退く。棣州刺史張蟾、青州の将王師範に敗られる。新たに授けられたる平盧節度使崔安潜、棣州より朝に帰り、復た太子少師を授かる。

原文二月辛巳,李克用復檢校太師、中書令、太原尹、北都留守、河東節度觀察處置等使。時張浚、韓建兵敗後,為太原將李存信等所追,至是方自含山逾王偓,出河清,達于河陽。屬河溢,無舟楫,建壞人盧舍,為木罌數百,方獲渡,人多覆溺,休其徒于司徒廟。是役也,朝廷倚朱全忠及三鎮兵。全忠方連兵徐鄆,乃求兵糧于鎮、魏,全忠終不至行營。鎮、魏倚太原為扞蔽,如破太原郡,恐危鎮、魏,王鎔、羅弘信亦不出師。唯邠、岐、華、鄜、夏烏合之眾會晉州。兵未交而孫揆擒,燕卒敗,所以河西、岐下之師望風潰散,而浚、建至敗。全忠以鎮、魏不助兵糧觀望,遣龐師古將兵討魏,陷十縣,羅弘信乞盟,乃退。棣州刺史張蟾為青州將王師範所敗。新授平盧節度使崔安潛自棣州歸朝,復授太子少師。

三月辛亥の朔、青州権知兵馬留後王師範を検校兵部尚書とし、青州刺史・御史大夫を兼ね、平盧軍節度観察・押新羅渤海両蕃等使を充てる。淮南節度孫儒、宣州観察使楊行密に殺さる。初め、行密は揚州を失守し、宣州に拠る。孫儒、兵を以て攻囲すること三年。この春、淮南大いに饑え、軍中疫癘に死する者十三四。この月、孫儒もまた病み、帳下に執せられ、行密に降る。行密は乃ち孫儒の衆を併せ、復た広陵に拠る。

原文三月辛亥朔,以青州權知兵馬留後王師範檢校兵部尚書,兼青州刺史、御史大夫,充平盧軍。三月辛亥朔,以青州權知兵馬留後王師節度觀察、押新羅渤海兩蕃等使。淮南節度孫儒為宣州觀察使楊行密所殺。初,行密揚州失守,據宣州,孫儒以兵攻圍三年。是春,淮南大饑,軍中疫癘死者十三四。是月,孫儒亦病,為帳下所執,降行密。行密乃並孫儒之眾,復據廣陵。

六月、王鎔、軍を出して李存孝を援け、克用大いに挙兵して鎮州を討つ。

原文六月,王鎔出軍援李存孝,克用大舉討鎮州。

七月、太原軍、井陘より出で、常山鎮に屯し、大いに鎮・趙・深諸郡を掠む。幽州節度使李匡威、自ら歩騎三万を率いて王鎔を援く。

原文七月,太原軍出井陘,屯於常山鎮,大掠鎮、趙、深諸郡。幽州節度使李匡威自率步騎三萬援王鎔。

八月、克用、師を班す。

原文八月,克用班師。

九月丁未の朔。乙卯、天子、左軍中尉楊復恭に几杖を賜い、大将軍を以て致仕せしむ。復恭怒り、病と称して詔を受けず。

原文九月丁未朔。乙卯,天子賜左軍中尉楊復恭几杖,以大將軍致仕。復恭怒,稱病不受詔。

十月丁丑の朔。甲申、天威軍使李順節、禁兵を率いて楊復恭を討つ。復恭の仮子玉山軍使楊守信、兵を以てこれに拒ぎ、昌化裏に陣を列ぬ。昭宗、延喜楼に登り、兵を陳べて自ら衛し以て変を俟つ。相持すること晩に至り、戦わずして退く。この夜、守信は乃ちその衆を擁して復恭を衛し京師を出で、且つ戦い且つ行き、通化門を出で、七盤路より商州に至り、また義児張綰をして後殿たらしむ。永安都頭安権、綰に追い及び、これを擒えて還る。

原文十月丁丑朔。甲申,天威軍使李順節率禁兵討楊復恭,復恭假子玉山軍使楊守信以兵拒之,列陣於昌化裏。昭宗登延喜樓,陳兵自衛以俟變。相持至晚,不戰而退。是夜,守信乃擁其眾衛復恭出京師,且戰且行,出通化門,由七盤路之商州,又令義兒張綰為後殿。永安都頭安權追及綰,擒之而還。

十一月、朱全忠上表し、時溥の節鎮を移すことを請う。この月、汴軍、宿州を陥れ、乃ち溥に太子太師を授く。溥の将劉知俊、汴軍に降る。鎮州王鎔・幽州李匡威、復た謀りて定州を攻めてその地を分かたんとし、王処存、太原に救援を求む。

原文十一月,朱全忠上表,請移時溥節鎮。是月,汴軍陷宿州,乃授溥太子太師。溥將劉知俊降汴軍。鎮州王鎔、幽州李匡威復謀攻定州以分其地,王處存求援於太原。

十二月丙子の朔、光禄大夫・門下侍郎・右僕射・平章事・監修国史・判度支・上柱国・彭城県開国男劉崇望を検校司空・同平章事とし、徐州刺史を兼ね、武寧軍節度・徐宿観察制置使を充てる。時に李順節、恩を恃み恣に横暴にし、出入りに兵仗を以て自ら随え、両軍中尉劉景宣・西門君遂、その非望を窺図するを懼る。丁亥、両中尉詔を伝えて順節を召す。順節、甲士三百を以て自ら随え、銀台門に至る。門司、詔を伝えて従者を止む。両中尉、仗舎に在りて順節を邀え、坐次に、部将嗣光審に命じて順節を斫らしむ。頭、剣に随いて落つ。その部下、順節の死を知り、大いに噪ぎて延喜門を出づ。この日、天威・捧日・登封の三都乱れ、永寧裏を剽し、晩に方に定まる。戸部尚書鄭延昌、中書侍郎・平章事・判度支となる。

原文十二月丙子朔,以光祿大夫、門下侍郎、右僕射、平章事、監修國史、判度支、上柱國、彭城縣開國男劉崇望檢校司空、同平章事,兼徐州刺史,充武寧軍節度、徐宿觀察制置使。時李順節恃恩恣橫,出入以兵仗自隨,兩軍中尉劉景宣、西門君遂懼其窺圖非望。丁亥,兩中尉傳詔召順節,順節以甲士三百自隨,至銀台門,門司傳詔止從者。兩中尉在仗舍邀順節,坐次,令部將嗣光審斫順節,頭隨劍落。其部下知順節死,大噪出延喜門。是日,天威、捧日、登封三都亂,剽永寧裏,至晚方定。戶部尚書鄭延昌為中書侍郎、平章事、判度支。

景福元年

原文景福元年

景福元年(八九二年)春正月丙午朔(一日)、帝は武徳殿に御して朝賀を受け、大赦を行い、元号を景福と改めた。鳳翔の李茂貞、邠州の王行瑜、華州の韓建、同州の王行約、秦州の李茂莊らが上表し、興元の楊守亮が叛臣楊復恭を匿っていることを疏奏し、共に本軍を出して討伐することを請い、兼ねて自ら供軍の糧料を備え、度支からは取らず、ただ茂貞に山南招討使の名を加えることを請うた。内臣は皆その奏を認めず、昭宗もまた茂貞が山南を得た後に問鼎の志があると考え、詔は久しく下されなかった。茂貞は怒り、王行瑜と共に進止を待たず、兵を発して興元を攻めた。累次招討の命を請い、兼ねて宰相杜譲能、中尉西門君遂に書を送り、言葉は罵詈し、王室を凌蔑したので、昭宗は心に容れることができなかった。

原文景福元年春正月丙午朔,上御武德殿受朝賀,大赦,改元景福。鳳翔李茂貞、邠州王行瑜、華州韓建、同州王行約、秦州李茂莊等上表疏興元楊守亮納叛臣楊復恭,請同出本軍討伐,兼自備供軍糧料,不取給于度支,只請加茂貞山南招討使名。內臣皆不可其奏,昭宗亦以茂貞得山南之後有問鼎之志,詔久之不下。茂貞怒,與王行瑜不俟進止,發兵攻興元。累請招討之命,兼與宰相杜讓能、中尉西門君遂書,詞語詬詈,淩蔑王室,昭宗心不能容。

二月丙子朔(一日)。庚寅(十五日)、太原・易定の兵が合勢して鎮州を攻め、王鎔は再び幽州に難を告げた。李匡威は歩騎三万を率いてこれに赴いた。時に太原の軍衆は常山鎮に軍し、易定の軍衆は堅固鎮に軍し、燕・趙の兵卒が分かれてこれを拒いだ。

原文二月丙子朔。庚寅,太原、易定之兵合勢攻鎮州,王鎔復告難於幽州,李匡威率步騎三萬赴之。時太原之眾軍於常山鎮,易定之眾軍堅固鎮,燕、趙之卒分拒之。

三月、克用・処存は軍を収めて退いた。

原文三月,克用、處存斂軍而退。

四月乙亥(二日)、左軍中尉西門君遂が天威軍使賈徳晟を殺した。時に徳晟は李順節と共に天威軍を掌り、順節が死ぬと、中尉は徳晟を憎み、誣奏してこれを殺した。この日、徳晟の部下千余騎が鳳翔に出奔し、これより岐軍はますます盛んとなった。

原文四月乙亥,左軍中尉西門君遂殺天威軍使賈德晟,時德晟與李順節俱掌天威軍,順節死,中尉惡德晟,誣奏殺之。是日,德晟部下千余騎出奔鳳翔,自是岐軍益盛。

五月甲辰(二日)、制を以て河南尹張全義を検校司徒・同平章事とし、兼ねて孟州刺史、河陽三城節度・孟懐沢観察等使を充てた。

原文五月甲辰,制以河南尹張全義檢校司徒、同平章事,兼孟州刺史,充河陽三城節度、孟懷澤觀察等使。

七月、燕・趙の兵卒が合勢して邢州を援け、太原の大将李存信が軍を率いて堯山でこれを拒ぎ、王鎔は大敗して還った。

原文七月,燕、趙之卒合勢援邢州,太原大將李存信率軍拒於堯山,王鎔大敗而還。

十一月辛丑(二十一日)、鳳翔・邠寧の軍衆が興元府を攻め、これを陥とした。山南西道節度使楊守亮は前左軍中尉楊復恭・判官李巨川と共に包囲を突破して遁走し、太原に奔らんとした。李茂貞はその子継密を表して権知興元府事とした。

原文十一月辛丑,鳳翔、邠寧之眾攻興元府,陷之。山南西道節度使楊守亮與前左軍中尉楊復恭、判官李巨川突圍而遁,將奔太原。李茂貞表其子繼密權知興元府事。

十二月辛未朔(一日)、華州節度使韓建が奏して、乾元県で興元の潰散兵士に遇い、これを撃破した。その楊守亮・楊復恭は並びに既に処斬し終わり、皆首を京師に伝えた。

原文十二月辛未朔,華州節度使韓建奏於乾元縣遇興元潰散兵士,擊敗之。其楊守亮、楊復恭並已處斬訖,皆傳首京師。

景福二年(八九三年)

原文景福二年

二年春正月辛丑朔(一日)、制を以て権知剣南東川兵馬留後顧彦暉を検校尚書右僕射とし、兼ねて梓州刺史・御史大夫、剣南東川節度観察等使を充てた。時に王建は連年彦暉を攻め、李茂貞は建と東川を争わんと欲し、故に彦暉の正授を表請し、旄鉞を授けて、修好を示した。

原文二年春正月辛丑朔,制以權知劍南東川兵馬留後顧彥暉檢校尚書右僕射,兼梓州刺史、御史大夫,充劍南東川節度觀察等使。時王建連年攻彥暉,李茂貞欲與建爭東川,故表請彥暉正授旄鉞,示修好也。

二月庚午朔(一日)、太原の李克用が兵を以て鎮州を攻め、師は井陘より出で、王鎔は懼れ、再び幽州に救を求めた。甲申(十五日)、李匡威が再び来援し、太原の軍は邢州に還った。

原文二月庚午朔,太原李克用以兵攻鎮州,師出井陘,王鎔懼,再求救於幽州。甲申,李匡威復來赴援,太原之軍還邢州。

三月庚子(二日)、制を以て捧日都頭陳珮を広州刺史・嶺南東道節度使とし、扈蹕都頭曹誠を黔州刺史・黔中節度使とし、耀徳都頭李鋋を潤州刺史・鎮海軍節度使とし、宣威都頭孫惟晟を江陵尹・荊南節度使とし、並びに特進・同平章事を加えた。各々鎮に赴かせ、並びに軍権を落とした。時に朝議は茂貞が王命を傲侮し、武臣が制し難いとして、杜譲能及び親王に禁兵を典せしめんと欲し、故に五将の権を罷め、兼ねて平章事を以てその心を悦ばせた。太尉杜譲能は冊拝し、食邑を六千戸に加えた。この月、幽州節度使李匡威の弟匡籌が幽州を拠り、自ら留後と称し、符を以て行営の兵を追い、兵は皆幽州に還った。匡威は既に帰路なく、判官李貞抱を遣わして入奏し、朝覲を請うた。王鎔は匡威の援助の恵みに感じ、乃ち恆州に第を築き、匡威を迎えてこれを処した。

原文三月庚子,制以捧日都頭陳珮為廣州刺史、嶺南東道節度使,扈蹕都頭曹誠為黔州刺史、黔中節度使,耀德都頭李鋋為潤州刺史、鎮海軍節度使,宣威都頭孫惟晟為江陵尹、荊南節度使,並加特進、同平章事。各令赴鎮,並落軍權。時朝議以茂貞傲侮王命,武臣難制,欲用杜讓能及親王典禁兵,故罷五將之權,兼以平章事悅其心。太尉杜讓能冊拜,加食邑至六千戶。是月,幽州節度使李匡威弟匡籌據幽州,自稱留後,以符追行營兵,兵皆還幽州。匡威既無歸路,遣判官李貞抱入奏,請朝覲。王鎔感匡威援助之惠,乃築第於恆州,迎匡威處之。

四月己巳(二日)、汴将王重師・牛存節が徐州を陥とし、節度使時溥は挙家自ら燔して死んだ。朱全忠は将龐師古を遣わして徐州を守らせた。

原文四月己巳,汴將王重師、牛存節陷徐州,節度使時溥舉家自燔而死。朱全忠遣將龐師古守徐州。

六月丁酉朔(一日)。乙卯(十九日)、幽州節度使李匡威が王鎔を害してその帥を奪わんと謀り、恆州の三軍が匡威を攻めてこれを殺した。戊午(二十二日)、制して太尉・門下侍郎・平章事・晋国公杜譲能に食邑を九千戸に加えた。門下侍郎・吏部尚書・平章事崔昭緯は光禄大夫に進階し、中書侍郎・平章事鄭延昌は刑部尚書を兼ね、並びに食邑を千戸に加えた。祠部郎中・知制誥陸扆を中書舎人とし、仍前の如く翰林学士とした。幽州節度使李匡籌は使を遣わして檄を王鎔に送り、匡威を殺した罪を訊ねた。二藩は怨みを結び、朱全忠は判官韋震を遣わして幽州に使いし、これを和解させた。七月、李克用が兵を興して鎮州を攻め、平山で王鎔の軍を破った。鎔は懼れ、盟を乞い、兵糧を以て邢州攻撃を助けることを請い、これを許され、克用は遂に軍を襄国に旋した。癸未(十九日)、制を以て鳳翔隴州節度使・検校太尉・中書令・鳳翔尹・上柱国・岐王・食邑四千五百戸李茂貞を興元尹・山南西道節度等使とした。中書侍郎・同平章事徐彦若を検校尚書左僕射・同平章事とし、兼ねて鳳翔尹、鳳翔隴州節度使を充てた。時に茂貞は兵を恃んで山南節度を兼領することを求め、昭宗は久しく行わず、茂貞の表章は不遜で、時政を深く詆毀したので、上は容れることができず、将に兵を加えて罪を問わんとし、故に彦若を以てこれに代えた。

原文六月丁酉朔。乙卯,幽州節度使李匡威謀害王鎔而奪其帥,恆州三軍攻匡威,殺之。戊午,制太尉、門下侍郎、平章事、晉國公杜讓能加食邑至九千戶。門下侍郎、吏部尚書、平間事崔昭緯進階光祿大夫,中書侍郎、平章事鄭延昌兼刑部尚書,並加食邑至千戶。以祠部郎中、知制誥陸扆為中書舍人,仍前翰林學士。幽州節度使李匡籌遣使檄王鎔,訊殺匡威之罪。二籓結怨,朱全忠遣判官韋震使幽州和解之。七月,李克用興兵攻鎮州,敗王鎔軍于平山。鎔懼,乞盟,請以兵糧助攻邢州,許之,克用遂旋軍襄國。癸未,制以鳳翔隴州節度使、檢校太尉、中書令、鳳翔尹、上柱國、岐王、食邑四千五百戶李茂貞為興元尹、山南西道節度等使。以中書侍郎、同平章事徐彥若檢校尚書左僕射、同平章事,兼鳳翔尹,充鳳翔隴州節度使。時茂貞恃兵求兼領山南節度,昭宗久之不行,茂貞表章不遜,深詆時政,上不能容,將加兵問罪,故以彥若代之。

八月丙申朔(一日)、嗣覃王を京西招討使とし、神策大将軍李钅歲をその副とした。

原文八月丙申朔,以嗣覃王為京西招討使,神策大將軍李钅歲副之。

九月丙寅朔、武勝軍防禦使錢鏐を鎮海軍節度・浙江西道觀察處置等使とし、なお鎮海軍の額を杭州に移す。乙亥、覃王は扈駕五十四軍を率いて岐陽を攻撃し、興平に駐屯す。李茂貞は兵を以て逆戦し、盭厔に屯す。壬午、岐軍は進んで興平に迫り、王師は自潰す。茂貞は勝に乗じて京師を逼り、進んで三橋に屯す。甲申、昭宗は安福門に御し、観軍容使西門君遂・内枢密使李周潼を斬り、中使を遣わして茂貞に詔を賜い、兵を収めて鎮に帰らしむ。茂貞は兵を臨皋驛に陳べ、宰臣杜譲能の罪を数え、これを誅するを請う。制して太尉・平章事・晋国公杜譲能を雷州司戸に貶す。

原文九月丙寅朔,以武勝軍防禦使錢鏐為鎮海軍節度、浙江西道觀察處置等使,仍移鎮海軍額於杭州。乙亥,覃王率扈駕五十四軍進攻岐陽,屯于興平。李茂貞以兵逆戰,屯於盭厔。壬午,岐軍進迫興平,王師自潰。茂貞乘勝逼京師,進屯三橋。甲申,昭宗御安福門,斬觀軍容使西門君遂、內樞密使李周潼,遣中使賜茂貞詔,令收兵歸鎮。茂貞陳兵臨皋驛,數宰臣杜讓能之罪,請誅之。制貶太尉、平章事、晉國公杜讓能為雷州司戶。

十月乙未、杜譲能に自尽を賜う。その弟戸部侍郎弘徽は譲能に坐して死を賜う。

原文十月乙未,賜杜讓能自盡,其弟戶部侍郎弘徽坐讓能賜死。

十一月、制して鳳翔節度使李茂貞を中書令とし、秦王に進封し、興元尹・山南西道節度使を兼ねしむ。邠州節度使王行瑜に「尚父」の号を賜い、鉄券を賜う。門下侍郎・吏部尚書・平章事・監修国史崔昭緯を尚書左僕射に兼ね、諸道塩鉄転運等使を充てしむ。特進・行右僕射韋昭度を司空・門下侍郎・同平章事・弘文館大学士・太清宮使・延資庫使とす。中書侍郎・刑部尚書・平章事・判度支鄭延昌は政事を知るを罷め、尚書左僕射を守る。病を以て罷むるを求むる故なり。新除の鳳翔節度使徐彦若を復た政事を知らしむ。戸部侍郎・判戸部事王搏を本官のまま同平章事とす。

原文十一月,制以鳳翔節度使李茂貞守中書令,進封秦王,兼興元尹、山南西道節度使。邠州節度使王行瑜賜號「尚父」,賜鐵券。以門下侍郎、吏部尚書、平章事、監修國史崔昭緯兼尚書左僕射,充諸道鹽鐵轉運等使;以特進、行右僕射韋昭度為司空、門下侍郎、同平章事、弘文館大學士、太清宮使、延資庫使。中書侍郎、刑部尚書、平章事、判度支鄭延昌罷知政事,守尚書左僕射,以病求罷故也。以新除鳳翔節度使徐彥若復知政事。戶部侍郎、判戶部事王搏本官同平章事。

乾寧元年

原文乾寧元年

乾寧元年春正月乙丑朔、上は武徳殿に御して朝を受け、制を宣して大赦し、元を改めて乾寧とす。鳳翔李茂貞来朝し、兵衛を大いに陳べ、妓女三十人を献じ、内殿に宴し、数日にして藩に還る。時に茂貞は山南の梁・洋・興・鳳・岐・隴・秦・涇・原等十五余郡を有し、甲兵雄盛にして王室を凌弱し、頗る問鼎の志有り。

原文乾甯元年春正月乙丑朔,上御武德殿受朝,宣制大赦,改元乾寧。鳳翔李茂貞來朝,大陳兵衛,獻妓女三十人,宴之內殿,數日還籓。時茂貞有山南梁、洋、興、鳳、岐、隴、秦、涇、原等十五餘郡,甲兵雄盛,淩弱王室,頗有問鼎之志。

二月、汴人は兗・鄆の軍を東阿に大破す。瑄・瑾勢蹙り、太原に救援を求む。李克用師を出してこれを援く。

原文二月,汴人大敗兗、鄆之軍于東阿,瑄、瑾勢蹙,求援于太原,李克用出師援之。

三月甲子朔、太原軍は邢州を攻め、これを陥とし、その逆将李存孝を執り、檻車にて太原に送り、これを裂く。克用は大将馬師素を以て権に邢洺団練事を知らしむ。

原文三月甲子朔,太原軍攻邢州,陷之,執其逆將李存孝,檻送太原,裂之。克用以大將馬師素權知邢洺團練事。

五月、蔡賊孫儒の部将劉建鋒は潭州を攻め陥とし、自ら湖南節度使と称す。翰林学士・中書舎人陸扆を戸部侍郎・知制誥とし、職を充てしむ。

原文五月,蔡賊孫儒部將劉建鋒攻陷潭州,自稱湖南節度使。以翰林學士、中書舍人陸扆為戶部侍郎、知制誥,充職。

六月壬辰、李克用は雲州を攻め陥とし、大同防禦使赫連鐸を執り、その牙将薛志勤を以て雲中を守らしむ。

原文六月壬辰,李克用攻陷雲州,執大同防禦使赫連鐸,以其牙將薛志勤守雲中。

十月庚寅、中書侍郎・平章事王搏を湖南節度使とす。翰林学士承旨・礼部尚書・知制誥李磎を戸部侍郎・同平章事とす。制を宣するの日、水部郎中・知制誥劉崇魯は班を出でて泣き、磎の奸邪にして内官に党附するを言い、輔弼の地に居るべからず。これにより制命行はれず。戊申、制して御史中丞崔胤を兵部侍郎・同平章事とす。是の月、李克用は太原の衆を以て幽州を進攻す。

原文十月庚寅,以中書侍郎、平章事王搏為湖南節度使。以翰林學士承旨、禮部尚書、知制誥李磎為戶部侍郎、同平章事。宣制之日,水部郎中、知制誥劉崇魯出班而泣,言磎奸邪,黨附內官,不可居輔弼之地,由是制命不行。戊申,制御史中丞崔胤為兵部侍郎、同平章事。是月,李克用以太原之眾進攻幽州。

十二月、幽州節度使李匡籌は囲みを潰して遁る。克用は幽州を陥とし、李匡威の故将劉仁恭を幽州兵馬留後とす。是の月、李匡籌は南奔して関に赴き、景城に至り、滄州節度使盧彦威に殺さる。

原文十二月,幽州節度使李匡籌潰圍而遁。克用陷幽州,以李匡威故將劉仁恭為幽州兵為留後。是月,李匡籌南奔赴關,至景城,為滄州節度使盧彥威所殺。

乾寧二年

原文乾寧二年

二年春正月己未朔、河中節度使・検校太師・中書令・河中尹・上柱国・琅邪郡王王重盈卒す。三軍は重榮の子行軍司馬珂を立てて留後事を知らしむ。

原文二年春正月己未朔,河中節度使、檢校太師、中書令、河中尹、上柱國、琅邪郡王王重盈卒,三軍立重榮子行軍司馬珂知留後事。

二月己丑朔、王重盈の子陝州節度使珙・絳州刺史瑤は兵を挙げて王珂を討ち、兼ねて上章して珂の姓を冒し重榮の子に非ざるを訴う。珂・珙蒲帥たるを争い、上は中使を遣わして慰労す。

原文二月己丑朔,王重盈子陝州節度使珙、絳州刺史瑤舉兵討王珂,兼上章訴珂冒姓,非重榮子。珂、珙爭為蒲帥,上遣中使慰勞。

三月、制して中書侍郎・同平章事崔胤を検校尚書左僕射・同平章事・河中尹とし、河中節度・晋絳慈隰観察処置等使を充てしむ。浙東節度使董昌は僭号して羅平国と称し、年号を大聖と称し、婺州刺史蔣瑰を宰相と為し、なお偽りに官員を署す。鎮海軍節度使錢鏐は本軍を以て進討するを請う。これに従う。翰林学士承旨・兵部侍郎・知制誥趙光逢を尚書左丞とし、前に依り職を充てしむ。太原李克用上章して言う、王重榮は国に功有り、その子珂は宜しく承襲すべし、節鉞を賜わんことを請う、と。邠州王行瑜・鳳翔李茂貞・華州韓建各上章して言う、珂は螟蛉にて、宜しく纘襲すべからず、王珂を陝州とし、王珙を河中とせんことを請う、と。天子は先に克用の奏を允したるを以て、久しく下さず。

原文三月,制以中書侍郎、同平章事崔胤檢校尚書左僕射、同平章事、河中尹,充河中節度、晉絳慈隰觀察處置等使。浙東節度使董昌僭號稱羅平國,年稱大聖,用婺州刺史蔣瑰為宰相,仍偽署官員。鎮海軍節度使錢鏐請以本軍進討,從之。以翰林學士承旨、兵部侍郎、知制誥趙光逢為尚書左丞,依前充職。太原李克用上章言王重榮有功于國,其子珂宜承襲,請賜節鉞。邠州王行瑜、鳳翔李茂貞、華州韓建各上章,言珂螟蛉,不宜纘襲,請以王珂為陝州,王珙為河中。天子以先允克用之奏,久之不下。

五月丁巳朔。甲子、李茂貞・王行瑜・韓建等各々精甲数千を率いて入覲し、京師は大いに恐れ、人皆亡竄し、吏止む能わず。昭宗安福門に御してこれを俟つ。三帥既に至り、楼の下にて拝舞す。昭宗軒に臨み自らこれを諭して曰く、「卿等は藩侯なり、臣節を存すべし。兵を称して朝に入り、奏請に由らず、意何に在るか」と。茂貞・行瑜は汗流れて背に洽き、対ふる能わず。唯だ韓建のみ入覲の由を陳叙す。上並びに召して楼に昇らしめ、之に卮酒を賜い、同文殿にて宴す。茂貞・行瑜は極めて南北司の相傾き、深く時政を蠹すを言い、其の甚だしき者を誅せんことを請う。乃ち宰相韋昭度・李磎を貶し、尋いで都亭駅にて之を殺し、内官数人を殺して去る。王行瑜は弟行約を留め、茂貞は仮子閻圭を留め、各々兵二千人を以て宿衛せしむ。時に三帥は謀を同じくして昭宗を廃し吉王を立てんとし、太原の軍を起すを聞きて乃ち止み、兵を留めて宿衛せしめて還る。壬申、責授均州司戸孔緯・繡州司戸張浚を並びに太子賓客と為す。翰林学士・戸部侍郎・知制誥陸扆を以て兵部侍郎と為し、職を充つ。

原文五月丁巳朔。甲子,李茂貞、王行瑜、韓建等各率精甲數千人入覲,京師大恐,人皆亡竄,吏不能止。昭宗御安福門以俟之,三帥既至,拜舞樓下,昭宗臨軒自諭之曰:「卿等籓侯,宜存臣節,稱兵入朝,不由奏請,意在何也?」茂貞、行瑜汗流洽背,不能對,唯韓建陳敘入覲之由。上並召升樓,賜之卮酒,宴之于同文殿。茂貞、行瑜極言南北司相傾,深蠹時政,請誅其太甚者。乃貶宰相韋昭度、李磎,尋殺之於都亭驛,殺內官數人而去。王行瑜留弟行約,茂貞留假子閻圭,各以兵二千人宿衛。時三帥同謀廢昭宗立吉王,聞太原起軍乃止,留兵宿衛而還。壬申,以責授均州司戶孔緯、繡州司戶張浚並為太子賓客。以翰林學士、戶部侍郎、知制誥陸扆為兵部侍郎,充職。

六月丁亥朔、京兆尹・嗣薛王知柔を以て戸部尚書・判度支を兼ね、諸道塩鉄転運等使を兼ねしむ。壬辰、太子賓客孔緯を以て吏部尚書と為し、尋いで開府儀同三司・守司空・門下侍郎・同平章事・弘文館大学士・太清宮延資庫使・上柱国・魯郡開国公に復し、食邑四千戸・食実封二百戸を給し、仍って「持危啓運保乂功臣」と号す。時に緯は華州に在り、尋いで太原軍の至るに属して止む。太子賓客張浚を以て光禄大夫・行兵部尚書・上柱国・河間郡開国侯・食邑二千戸に復す。浚は長水に在り、亦た京師に至らず。復た王摶を以て中書侍郎・平章事と為す。

原文六月丁亥朔,以京兆尹、嗣薛王知柔兼戶部尚書、判度支,兼諸道鹽鐵轉運等使。壬辰,以太子賓客孔緯為吏部尚書,尋復開府儀同三司、守司空、門下侍郎、同平章事、弘文館大學士、太清宮延資庫使、上柱國、魯郡開國公,食邑四千戶、食實封二百戶,仍號「持危啟運保乂功臣。」時緯在華州,尋屬太原軍至而止。以太子賓客張浚復光祿大夫、行兵部尚書、上柱國、河間郡開國侯、食邑二千戶。浚在長水,亦不至京師。復以王搏為中書侍郎、平章事。

七月丙辰朔、李克用軍を挙げて河を渡り、以て王行瑜・李茂貞・韓建等の兵を称して闕に詣れる罪を討つ。庚申、同州節度使王行実郡を棄てて京師に入り、両軍中尉駱全瓘・劉景宣に謂ひて曰く、「沙陀十万至れり。請ふ車駕を奉じて邠州に幸せしめ、且つ城守せん」と。時に景宣は鳳翔に附す。癸亥の夜、閻圭と劉景宣の子継晟・同州の王行実は火を放ち東市を剽掠し、上に出幸せんことを請ふ。上乱を聞き、承天門に登り、諸王を遣わして禁兵を率いしめて之を禦がしむ。捧日都頭李筠本軍を率いて楼上に侍衛す。閻圭鳳翔の卒を以て李筠を攻め、矢御座の楼扉に及ぶ。上懼れ、楼を下り親王・公主・内人数百と永興坊の李筠の営に幸す。扈蹕都頭李君実兵を以て継ぎて至る。乃ち筠と両都の兵士を以て侍衛し、啓夏門より出で、華厳寺に憩ひ、以て内人の継ぎて至るを候ふ。其の日の晩、莎城鎮に幸す。京師の士庶従幸する者数十万、比して南山の谷口に至るに、暍死する者三の一。暮に至り、盗寇の掠奪に遭ひ、慟哭の声、山谷に殷動す。権りに京兆尹知柔に中書事及び随駕置頓使を令す。信宿して、宰相徐彦若・王摶・崔胤の三人至る。乃ち石門鎮の仏宮に移る。仍って知枢密劉光裕・薛王知柔に帰京師して制置せしめ、禁軍を合して以て宮禁を備へしむ。丙寅、李克用牙将閻諤を遣わして表を奉じて奔問し、軍を河中に屯し、進止を候ひて発して邠州に赴かんことを奏す。丁卯、上内官張承業を遣わして詔を克用の軍に伝え、便ち監太原行営兵馬を令し、発して新平に赴かしむ。又た内官郤廷立を遣わして詔を涇州に伝え、張鐇に涇原の師を起し克用の軍に会せしめんことを令す。上南山に在ること半月余り、克用仍だ河中に在り、未だ渭北に至らず。上鳳翔の兵士の劫遷を懼れ、乃ち延王に御服・鞍馬・玉器等を将て河中に至らしめ、宣諭して曰く、「朕は景宣・全瓘・行実・継鵬を以て表裏の奸謀と為し、干戈を双闕に縦ち、煙塵倏忽、劫殺縱横す。朕偶に鋒鋩を脱し、遂に輦輅を移す。所謂る巡幸、止だ近郊に在り。蓋し卿の雄師を統領し、蒲阪に臨み駐まるを知り、累ねて書詔を飛ばし、継ぎて使人を遣はす。卿に期すに社稷を憂へ、君親を念ふを以てし、必ずや応を思い回し、速に龔行を議せんとす。豈に将に両旬に渉らんと謂ひて、未だ来表有らず、憂虞是れ切にして、寝食遑あらざらんや。豈に忠義疚懐に切ならずして、道途或は阻滞有るか。今則ち専ら親信を令し、勲賢に懇托す。故に延王戒丕・丹王允と供奉官王魯紆等を遣わして宣示す。卿宜しく便ち貔貅を董し、径に邠鳳に臨み、妖穴を蕩平し、以て阽危を拯ひ、是れ望む所なり」と。

原文七月丙辰朔,李克用舉軍渡河,以討王行瑜、李茂貞、韓建等稱兵詣闕之罪。庚申,同州節度使王行實棄郡入京師,謂兩軍中尉駱全瓘、劉景宣曰:「沙陀十萬至矣!請奉車駕幸邠州,且有城守。」時景宣附鳳翔,癸亥夜,閻圭與劉景宣子繼晟、同州王行實縱火剽東市,請上出幸。上聞亂,登承天門,遣諸王率禁兵禦之。捧日都頭李筠率本軍侍衛樓上。閻圭以鳳翔之卒攻李筠,矢及御座之樓扉。上懼,下樓與親王、公主、內人數百幸永興坊李筠營。扈蹕都頭李君實以兵繼至,乃與筠兩都兵士侍衛出啟夏門,憩于華嚴寺,以候內人繼至。其日晚,幸莎城鎮。京師士庶從幸者數十萬,比至南山谷口,暍死者三之一。至暮,為盜寇掠,慟哭之聲,殷動山谷。權令京兆尹知柔中書事及隨駕置頓使。信宿,宰相徐彥若、王摶、崔胤三人至,乃移石門鎮之佛宮。仍令知樞密劉光裕、薛王知柔歸京師制置,合禁軍以備宮禁。丙寅,李克用遣牙將閻諤奉表奔問,奏屯軍河中,候進止發赴邠州。丁卯,上遣內官張承業傳詔克用軍,便令監太原行營兵馬,發赴新平。又令內官郤廷立傳詔涇州,令張鐇起涇原之師會克用軍。上在南山半月餘,克用仍在河中,未至渭北。上懼鳳翔兵士劫遷,乃令延王將御服、鞍馬、玉器等至河中,宣諭曰:「朕以景宣、全瓘、行實、繼鵬為表裏之奸謀,縱干戈于雙闕,煙塵倏忽,劫殺縱橫。朕偶脫鋒鋩,遂移輦輅,所為巡幸,止在近郊。蓋知卿統領雄師,駐臨蒲阪,累飛書詔,繼遣使人。期卿以社稷為憂,君親在念,必思回應,速議龔行。豈謂將涉兩旬,未有來表,憂虞是切,寢食不遑。豈忠義不切疚懷,而道途或有阻滯?今則專令親信,懇托勳賢,故遣延王戒丕、丹王允與供奉官王魯紆等宣示。卿宜便董貔貅,徑臨邠鳳,蕩平妖穴,以拯阽危,是所望也。」

八月乙酉朔、延王河中に至る。克用既に前鋒を発して渭北に至らしめ、又た史儼に五百騎を率いしめて行在に赴き侍衛せしむ。己丑、克用自ら渭橋の砦に至る。癸巳、梨園に行き邠軍数千を殺し、其の大将王令陶を獲て以て献ず。又た詔して鄜州節度使李思孝に本軍を進討せしむ。丁酉、制して河東節度使・開府儀同三司・守太師・中書令、兼ねて太原尹・北都留守・上柱国・隴西郡王李克用を以て邠寧四面行営都招討使と為す。夏州節度使李思諫を以て邠寧東北面招討使を充て、涇原節度使張鐇を以て邠寧西面招討使を充て、河中節度使王珂を以て行営供軍糧料使を充つ。李茂貞之を聞きて懼れ、閻圭・武禿子を斬り、首を伝えて行在に送り、章を上りて罪を請ふ。辛丑、制して王行瑜の在身官爵を削奪す。李克用を改めて授けて邠寧四面行営都統と為す。其の大将蓋寓・李存信・閻鍔、判官王讓・李襲吉等は、並びに詔を降して錫賚す。又た河中都監袁季貞を以て邠寧四面行営兵馬都監押を充つ。壬寅、李克用子存貞を遣わして表を奉じて行在に至らしめ、車駕の還宮を請ふ。詔に答えて曰く、「昨延王回り、言ふ卿の時を憂へ国を体し、礼を執し忠を輸し、接遇の間、周旋節を尽くすを。備はく肺腑を知り、我が恩栄を識る。静かに惟ふに尊主の心、果たして臣を知るの分に契ふ。朕今月十二四日に却て都城に復せんと欲す。兆庶を寧んぜんことを冀ひ、我が勲徳に倚り、長城の若き有らんことを。速に翦蕩の謀を伸べ、以て黔黎の望を慰めよ」と。癸卯、又た延王に詔を伝へしめ、克用に騎軍三千を発して三橋に赴き屯駐せしめ、以て回鑾に備へしむ。辛亥、車駕還宮す。壬子、司空・門下侍郎・平章事・臨修国史・諸道塩鉄転運使崔昭緯知政事を罷め、太子賓客と為す。河中兵馬留後王珂を以て検校司空、兼ねて河中尹・御史大夫、護国軍節度・河中晉絳慈隰観察等使を充つ。幽州兵馬留後劉仁恭を以て検校司空、兼ねて幽州大都督府長史、幽州盧龍軍節度・押奚契丹等使を充つ。故左軍中尉楊復恭を以て開府・魏国公と為す。並びに克用の奏請に従ふなり。

原文八月乙酉朔,延王至河中,克用已發前鋒至渭北,又令史儼率五百騎赴行在侍衛。己丑,克用自至渭橋砦。癸巳,行梨園殺邠軍數千,獲其大將王令陶以獻。又詔鄜州節度使李思孝本軍進討。丁酉,制以河東節度使、開府儀同三司、守太師、中書令,兼太原尹、北都留守、上柱國、隴西郡王李克用為邠寧四面行營都招討使。夏州節度使李思諫充邠甯東北面招討使,涇原節度使張鐇充邠甯西面招討使,河中節度使王珂充行營供軍糧料使。李茂貞聞之懼,斬閻圭、武禿子,傳首行在,上章請罪。辛丑,制削奪王行瑜在身官爵。改授李克用邠寧四面行營都統。其大將蓋寓李存信閻鍔、判官王讓李襲吉等,並降詔錫賚。又以河中都監袁季貞充邠寧四面行營兵馬都監押。壬寅,李克用遣子存貞奉表行在,請車駕還宮。答詔曰:「昨延王回,言卿憂時體國,執禮輸忠,接遇之間,周旋盡節。備知肺腑,識我恩榮,靜惟尊主之心,果契知臣之分。朕欲取今月十二四日卻復都城,冀寧兆庶,倚我勳德,有若長城,速伸翦蕩之謀,以慰黔黎之望。」癸卯,又令延王傳詔,令克用發騎軍三千赴三橋屯駐,以備回鑾。辛亥,車駕還宮。壬子,司空、門下侍郎、平章事、臨修國史、諸道鹽鐵轉運使崔昭緯罷知政事,為太子賓客。以河中兵馬留後王珂檢校司空,兼河中尹、御史大夫,充護國軍節度、河中晉絳慈隰觀察等使;以幽州兵馬留後劉仁恭檢校司空,兼幽州大都督府長史,充幽州盧龍軍節度、押奚契丹等使;以故左軍中尉楊復恭開府、魏國公:並從克用奏請也。

九月甲寅朔。丙辰、制して光禄大夫・守尚書左僕射・門下侍郎・同平章事・監修国史・上柱国・東莞郡公徐彦若を司空・門下侍郎・同平章事・太清宮修奉太廟等使・弘文館大学士・延資庫使とし、諸道塩鉄転運等使を充てる。正議大夫・中書侍郎・同平章事王摶を金紫光禄大夫・戸部尚書門下侍郎・監修国史・判度支とす。正議大夫・中書侍郎・同平章事崔胤を金紫光禄大夫・戸部兼礼部尚書・集賢殿大学士・判戸部事とす。並びに号を「扶危匡国致理功臣」と賜う。癸亥、司空・門下侍郎・平章事・太清宮修奉太廟等使・弘文館大学士・延資庫使・上柱国・魯郡開国公孔緯卒す。太尉を贈る。

原文九月甲寅朔。丙辰,制光祿大夫、守尚書左僕射、門下侍郎、同平章事、監修國史、上柱國、東莞郡公徐彥若為司空、門下侍郎、同平章事、太清宮修奉太廟等使、弘文館大學士、延資庫使,充諸道鹽鐵轉運等使。正議大夫、中書侍郎、同平章事王摶為金紫光祿大夫、戶部尚書門下侍郎、監修國史、判度支;正議大夫、中書侍郎、同平章事崔胤為金紫光祿大夫、戶部兼禮部尚書、集賢殿大學士、判戶部事。並賜號「扶危匡國致理功臣。」癸亥,司空、門下侍郎、平章事、太清宮修奉太廟等使、弘文館大學士、延資庫使、上柱國、魯郡開國公孔緯卒,贈太尉。

十月甲申朔、王師賊の梨園砦を破り、俘斬すること万計に及び、行瑜これにより城を嬰いて自ら固む。丁亥、制して囚を赦し、その節文に曰く、「任崇く柱石たり、位重く台衡たり、或いは軍権に委ね、或いは宥密に参ずる者有り。竟に連謗に因り、終に禍名に至り、我が好生を鬱し、嗟乎強死す。応に大順以来、罪なくして削奪を加えられたる者、並びに官資を復すべし。其の杜譲能・西門君遂・李周潼以下、並びに昭雪を与え、其の爵秩を還す。韋昭度頃に台司に処り、毎に相業を伸べ、王行瑜尚書令しょうしょれいを求めしに、独り能く之を抑え、沈冤に致るは、諒に此の事に由る。李磎文章宏贍にして、迥に輩流に出で、竟に朋党の間に以て、死地に擠せらる。凡そ識有る者は、孰か咨嗟せざらん。宜しく並びに昭洗を与え、仍て官爵を復すべし。」と。又勅す、「太子賓客崔昭緯を責授して梧州司馬とし、水部郎中・知制誥劉崇魯を貶して崖州司戸とす。」又詔して邠州行営都統に曰く、「邠州節度副使崔鋋、賊を破るの時、漏網せしむる勿れ。鋋は昭緯と去年朋党し、行瑜に交結し、禍胎を構合す。原ること此の賊に由る。四面行営に付して知らしむ。」是の月、四面行営大いに邠州に集まる。

原文十月甲申朔,王師破賊梨園砦,俘斬萬計,行瑜由是嬰城自固。丁亥,制赦系囚,其節文曰:「其有任崇柱石,位重台衡,或委以軍權,或參諸宥密。竟因連謗,終至禍名,鬱我好生,嗟乎強死。應大順已來,有非罪而加削奪者,並復官資。其杜讓能、西門君遂、李周潼已下,並與昭雪,還其爵秩。韋昭度頃處台司,每伸相業,王行瑜求尚書令,獨能抑之,致於沉冤,諒由此事。李磎文章宏贍,迥出輩流,竟以朋黨之間,擠於死地,凡在有識,孰不咨嗟。宜並與昭洗,仍復官爵。」又敕:「太子賓客崔昭緯責授梧州司馬,水部郎中、知制誥劉崇魯貶崖州司戶。又詔邠州行營都統曰:「邠州節度副使崔鋋,破賊之時,勿令漏網。鋋與昭緯去年朋黨,交結行瑜,構合禍胎,原由此賊。付四面行營知委。」是月,四面行營大集邠州。

十一月癸未朔。壬寅、王行瑜其の妻子部曲五百余人とともに潰囲して出奔し、慶州に至り、行瑜部下に殺され、並びに其の家二百口、並びに行営に詣り降を乞う。李克用牙将閻鍔を遣わして京師に献ず。

原文十一月癸未朔。壬寅,王行瑜與其妻子部曲五百餘人潰圍出奔,至慶州,行瑜為部下所殺,並其家二百口,並詣行營乞降,李克用遣牙將閻鍔獻于京師。

十二月甲申朔、昭宗延喜門に御し俘馘を受け、百僚楼前に賀を称す。制して李克用を守太師・中書令とし、進めて晋王に封じ、食邑九千戸、改めて「忠貞平難功臣」を賜う。是の月、克用師を班して太原に帰る。制す、皇第三子祤を棣王に封じ、第五子禊を虔王に封じ、第六子禋を沂王に封じ、第七子禕を遂王に封ず。

原文十二月甲申朔,昭宗御延喜門受俘馘,百僚樓前稱賀。制以李克用守太師、中書令,進封晉王,食邑九千戶,改賜「忠貞平難功臣。」是月,克用班師太原。制:皇第三子祤封棣王,第五子禊封虔王,第六子禋封沂王,第七子禕封遂王。

乾寧三年

原文乾寧三年

三年春正月癸丑朔、制して特進・戸部尚書・兼京兆尹・嗣薛王知柔を以て検校司徒、兼広州刺史・御史大夫とし、清海軍節度・嶺南東道観察処置等使を充てる。尚書右丞崔沢を以て鳳州刺史とす。魏博羅弘信莘県に於いて太原軍を撃破す。初め、兗鄆太原に援を示し、克用蕃将史完府・何懐宝等千騎をして之に赴かしむ。是に至り又大将李存信をして莘県に屯せしむ。魏人は常に其の道を仮す。存信軍を戢むること謹まず、或いは魏民を侵撓す。弘信怒り、伏兵を以て之を撃ち、其の軍宵に潰く。是より弘信南に梁に結び、太原と絶ち、兗鄆已に至りて俱に陥つ。

原文三年春正月癸丑朔,制以特進、戶部尚書、兼京兆尹、嗣薛王知柔檢校司徒,兼廣州刺史、御史大夫,充清海軍節度、嶺南東道觀察處置等使。以尚書右丞崔澤為鳳州刺史。魏博羅弘信擊敗太原軍於莘縣。初,兗鄆示援於太原,克用令蕃將史完府、何懷寶等千騎赴之。至是又令大將李存信屯於莘縣,魏人常假其道,存信戢軍不謹,或侵撓魏民。弘信怒,伏兵擊之,其軍宵潰。自是弘信南結于梁,與太原絕,兗鄆已至俱陷。

二月壬子朔、制して通王滋を以て開府儀同三司、判侍衛諸道軍事とす。銀青光禄大夫・戸部尚書・嘉興県子・食邑五百戸陸扆を以て兵部尚書とす。

原文二月壬子朔,制以通王滋為開府儀同三司,判侍衛諸道軍事。以銀青光祿大夫、戶部尚書、嘉興縣子、食邑五百戶陸扆為兵部尚書。

三月壬子朔、考功員外郎・集賢殿学士杜徳祥を以て工部郎中・知制誥とす。

原文三月壬子朔,以考功員外郎、集賢殿學士杜德祥為工部郎中、知制誥。

四月壬午朔、湖南軍乱れ、其の帥劉建鋒を殺し、三軍其の部将権知邵州刺史馬殷を立てて兵馬留後とす。鎮海軍節度使錢鏐越州を攻め、之を下し、董昌を斬り、浙東を平ぐ。制して錢鏐に検校太尉・中書令を加う。

原文四月壬午朔,湖南軍亂,殺其帥劉建鋒,三軍立其部將權知邵州刺史馬殷為兵馬留後。鎮海軍節度使錢鏐攻越州,下之,斬董昌,平浙東。制加錢鏐檢校太尉、中書令。

五月辛巳、責授梧州司馬崔昭緯に自尽を賜う。制して金紫光禄大夫・戸部尚書・門下侍郎・平章事・監修国史・上柱国・太原郡開国公王摶を検校尚書左僕射・同平章事、兼越州刺史とし、鎮東軍節度・浙江東道観察処置等使を充てる。

原文五月辛巳,責授梧州司馬崔昭緯賜自盡。制金紫光祿大夫、戶部尚書、門下侍郎、平章事、監修國史、上柱國、太原郡開國公王摶為檢校尚書左僕射、同平章事,兼越州刺史,充鎮東軍節度、浙江東道觀察處置等使。

六月庚戌、李克用沙陀・並・汾の衆五万を率いて魏州を攻め、其の郛に及び、大いに其の六郡に掠り、成安・洹水・臨漳十余邑を陥し、莘の怨みに報ゆ。鳳翔李茂貞国家に朱玫の討有るを怨み、朝貢を絶ち、闕を犯さんと謀る。天子覃王に命じて兵を治め以て変を俟たしむ。是の月、茂貞上章し、兵師を以て入覲せんことを請う。上通王・覃王・延王をして分ち安聖・捧宸・保寧・宣化等の四軍を統せしめ、以て近畿を衛わしむ。丙寅、鳳翔軍京畿を犯し、覃王婁館に於いて之を拒ぎ、戦を接して利あらず。

原文六月庚戌,李克用率沙陀、並、汾之眾五萬攻魏州,及其郛,大掠於其六郡,陷成安、洹水、臨漳十餘邑,報莘之怨也。鳳翔李茂貞怨國家有朱玫之討,絕朝貢,謀將犯闕,天子命覃王治兵以俟變。是月,茂貞上章,請以兵師入覲。上令通王、覃王、延王分統安聖、捧宸、保寧、宣化等四軍,以衛近畿。丙寅,鳳翔軍犯京畿,覃王拒之于婁館,接戰不利。

秋七月庚辰朔。壬辰、岐軍京師に逼り、諸王禁兵を率いて車駕を奉じ将に太原に幸せんとす。癸巳、渭北に次ぐ。華州韓建子充を遣わし表を奉り起居し、華州に駐蹕せんことを請う。乃ち建を京畿都指揮・安撫制置・催促諸道綱運等使に授く。詔して建に謂いて曰く、「途を啓くの行、已に河東に在り。今且く鄜畤に幸せん。」と。甲午、富平に次ぐ。韓建来朝し、泣きて奏して曰く、「籓臣倔強なるは、茂貞に止まらず。太原勧王と雖も、巡幸に宜しからず。臣が鎮守は、関畿を控扼し、兵力微なりと雖も、自ら固むるに足る。陛下若し軽く近畿を捨て、遠く極塞を巡れば、園陵宗廟を去り、寧んぞ痛心せざらん。魏闕金湯を失い、又良算に非ず。若し輿駕河を渡らば、必ず再び復し難く、謀苟も臧らざれば、之を悔ゆる寧んぞ及ばん。願わくは陛下且く三峰に駐まり、以て恢復を図らん。」と。上も亦泣きて曰く、「朕茂貞に耐え難く、忿りて難を思わず。卿の言是なり。」と。乙未、下邽に次ぐ。丙申、華州に駐蹕し、衙城を行宮とす。時に岐軍京師を犯し、宮室廛閭、鞠して灰燼かいじんと為り、中和以来葺構の功、地を掃いて尽くす。乙巳、制して金紫光禄大夫・中書侍郎、兼礼部尚書・同平章事・集賢殿大学士・判戸部事・上柱国・博陵県開国伯崔胤を検校尚書左僕射、兼広州刺史・御史大夫とし、清海軍節度・嶺南東道観察処置等使を充てる。丙午、制して翰林学士承旨・尚書左丞・知制誥・嘉興県開国子・食邑五百戸陸扆を戸部侍郎・同平章事とす。

原文秋七月庚辰朔。壬辰,岐軍逼京師,諸王率禁兵奉車駕將幸太原。癸巳,次渭北,華州韓建遣子充奉表起居,請駐蹕華州,乃授建京畿都指揮、安撫制置、催促諸道綱運等使。詔謂建曰:「啟途之行,已在河東,今且幸鄜畤。」甲午,次富平。韓建來朝,泣奏曰:「籓臣倔強,非止茂貞。雖太原勤王,無宜巡幸。臣之鎮守,控扼關畿,兵力雖微,足以自固。陛下若輕舍近畿,遠巡極塞,去園陵宗廟,寧不痛心,失魏闕金湯,又非良算。若輿駕渡河,必難再復,謀苟不臧,悔之寧及。願陛下且駐三峰,以圖恢復。」上亦泣下曰:「朕難奈茂貞,忿不思難。卿言是也。」乙未,次下邽丙申,駐蹕華州,以衙城為行宮。時岐軍犯京師,宮室廛閭,鞠為灰燼,自中和已來葺構之功,掃地盡矣。乙巳,制以金紫光祿大夫、中書侍郎,兼禮部尚書、同平章事、集賢殿大學士、判戶部事、上柱國、博陵縣開國伯崔胤檢校尚書左僕射,兼廣州刺史、御史大夫,充清海軍節度、嶺南東道觀察處置等使。丙午,制以翰林學士承旨、尚書左丞、知制誥、嘉興縣開國子、食邑五百戶陸扆為戶部侍郎、同平章事。

八月己酉朔。甲寅、新たに除する鎮東軍節度使錢鏐に浙江東道軍州事を権領せしむ。戊午、制して戸部侍郎・平章事陸扆を中書侍郎、兼判戸部事とす。

原文八月己酉朔。甲寅,新除鎮東軍節度使錢鏐權領浙江東道軍州事。戊午,制以戶部侍郎、平章事陸扆為中書侍郎,兼判戶部事。

九月己卯朔、汴州の朱全忠・河南尹の張全義は関東の諸侯とともに上表し、秦中に災いありと述べて、車駕の洛陽らくよう遷都を請うた。全忠・全義は言う、臣は既に諸藩を率いて洛陽の宮室を繕治したと。優詔を以てこれに答う。乙未、新たに清海軍節度使に除せられた崔胤を復た政事を知らしむる制を下す。胤の出鎮するや、朱全忠再び表を上り論奏を請い、胤が相位を去るべからざるを言う、故にこの命あり。丁酉、中書侍郎・集賢殿大学士・戸部事を判ずる陸扆を責めて硤州刺史を授くる制を下す。崔胤が扆が己に代わるを怒り、扆が茂貞を党庇すと誣奏したためなり。丙午、鎮国軍節度使韓建を検校太尉兼中書令とし、修復宮闕・京畿制置・催促諸道綱運等使を充てる制を下す。京兆尹孫偓を兵部侍郎・同平章事とする。

原文九月己卯朔,汴州朱全忠、河南尹張全義與關東諸侯俱上表,言秦中有災,請車駕遷都洛陽。全忠、全義言臣已表率諸籓,繕治洛陽宮室。優詔答之。乙未,制新除清海軍節度使崔胤復知政事。胤之出鎮,朱全忠再表請論奏,言胤不宜去相位,故有是命。丁酉,制中書侍郎、集賢殿大學士、判戶部事陸扆責授硤州刺史,崔胤怒扆代己,誣奏扆黨庇茂貞故也。丙午,制以鎮國軍節度使韓建檢校太尉,兼中書令,充修復宮闕、京畿制置、催促諸道綱運等使。以京兆尹孫偓為兵部侍郎、同平章事。

十月戊申朔、中書舎人・権知礼部貢挙の薛昭緯を礼部侍郎とする。壬子、兵部侍郎・平章事の孫偓を中書侍郎とし、鳳翔行営招討使を充てる制を下す。甲寅、偓は駅舎において諸将を会し、以て進軍を議す。戊午、李茂貞上表して罪を請い、事君の礼を改め職貢を継ぎ修めんことを願い、なお銭十五万を献じて京闕の修復を助く。韓建これに左右せられ、師は遂に行かず。

原文十月戊申朔,以中書舍人、權知禮部貢舉薛昭緯為禮部侍郎。壬子,制以兵部侍郎、平章事孫偓為中書侍郎,充鳳翔行營招討使。甲寅,偓於驛舍會諸將,以議進軍。戊午,李茂貞上表章請罪,願改事君之禮,繼修職貢,仍獻錢十五萬,助修京闕。韓建左右之,師遂不行。

十一月丁丑朔、韓建に京兆尹・京城把截使を兼領せしむ。

原文十一月丁丑朔,以韓建兼領京兆尹、京城把截使。

十二月丁未、李克用兵を縦して魏博の諸郡邑を俘掠せしむ。前翰林学士承旨・尚書左丞・知制誥の趙光遠を御史中丞とする。太常礼院、権に行廟を立てて告饗に備えんことを奏す、これに従う。

原文十二月丁未,李克用縱兵俘剽魏博諸郡邑。以前翰林學士承旨、尚書左丞、知制誥趙光遠為御史中丞。太常禮院奏權立行廟,以備告饗,從之。

乾寧四年

原文乾寧四年

四年春正月丁丑朔、車駕は華州行宮に在り、群臣の朝賀を受く。癸未、汴将の龐師古が鄆州を陥とす。節度使朱瑄は妻の栄氏とともに囲みを潰して走り、瑄は中都に至りて野人に殺され、栄氏は汴軍に俘えらる。朱全忠は龐師古を署して鄆州兵馬留後とす。宰相孫偓は政事を知るを罷め、兵部尚書を守る。

原文四年春正月丁丑朔,車駕在華州行宮,受群臣朝賀。癸未,汴將龐師古陷鄆州,節度使朱瑄與妻榮氏潰圍,瑄至中都,為野人所殺,榮氏俘於汴軍。朱全忠署龐師古為鄆州兵馬留後。宰相孫偓罷知政事,守兵部尚書。

二月丙午朔。戊申、汴将の葛従周が兗州を攻めて陥とす。節度使朱瑾は楊行密に奔り、その将の康懐貞は従周に降る。朱全忠は従周を署して兗州兵馬留後とす。ここに至りて鄆・齊・曹・棣・兗・沂・密・徐・宿・陳・許・鄭・滑・濮等の州は皆全忠に没し、唯だ王師範が青州を守るのみ、また汴に款を納む。己未、朝議大夫・守右散騎常侍さんきじょうじ・上柱国・滎陽けいよう県男の鄭綮を礼部侍郎・同平章事とする制を下す。癸丑、責授硤州刺史の陸扆を工部尚書とする。甲寅、華州防城将の花重武が、睦王以下八王が韓建を謀殺し、車駕を河中に幸せんと欲すと告ぐ。帝これを聞きて駭然とし、韓建を召して諭す。建は疾を辞して敢えて行かず。帝は即ち通王以下に命じて建の治所に詣り自ら陳述せしむ。建奏して曰く、「今日未の時、睦王・済王・韶王・通王・彭王・韓王・儀王・陳王等八人が臣が治所に到る、事の由を測り難し。臣事体を酌量するに、諸王と相見ゆるに合わず、兼ねて久しく臣が所に在るを恐るるは、事に宜しからず。況んや睦王等と臣とは中外事殊なり、尊卑礼隔たり、事柄に至りては、未だ相侵すこと有らず、忽然として門に及ぶ、意測るべからず。」また晋室の八王が天下を撓乱せし事を引き、「旧制に依り、諸王を十六宅に在らしめ、兵を典るに合わざるを請う。その殿后捧日・扈蹕等の軍人は、皆坊市の無頼の徒にして、侍衛に堪えず、伏して放散を乞い、以て衆心を寧んぜん。」昭宗已むを得ず、皆これに従う。この日、八王を別第に囚え、殿后侍衛四軍二万余人を皆放散し、捧日都頭の李筠を大雲橋の下に殺す。ここに至りて天子の衛士尽きたり。丙辰、韓建上表し、皇太子・親王の封拝を請い、以て維城の計と為さんとす。己未、徳王裕を冊して皇太子とすべき制を下す。辛酉、第八男の秘を封じて景王とし、第九男の祚を封じて輝王とし、第十男の祺を封じて祁王とし、第十一男の禛を封じて雅王とし、第十二男の祥を封じて瓊王とすべき制を下す。

原文二月丙午朔。戊申,汴將葛從周攻兗州,陷之,節度使朱瑾奔楊行密,其將康懷貞降從周,朱全忠署從周為兗州兵馬留後。自是鄆、齊、曹、棣、兗、沂、密、徐、宿、陳、許、鄭、滑、濮等州皆沒于全忠,唯王師範守青州,亦納款於汴。己未,制朝議大夫、守右散騎常侍、上柱國、滎陽縣男鄭綮為禮部侍郎、同平章事。癸丑,責授硤州刺史陸扆為工部尚書。甲寅,華州防城將花重武告睦王已下八王欲謀殺韓建,移車駕幸河中。帝聞之駭然,召韓建諭之,建辭疾不敢行。帝即令通王已下詣建治所自陳。建奏曰:「今日未時,睦王、濟王、韶王、通王、彭王、韓王、儀王、陳王等八人到臣治所,不測事由。臣酌量事體,不合與諸王相見,兼恐久在臣所,於事非宜。況睦王等與臣中外事殊,尊卑禮隔,至於事柄,未有相侵,忽然及門,意不可測。」又引晉室八王撓亂天下事,「請依舊制,令諸王在十六宅,不合典兵。其殿后捧日、扈蹕等軍人,皆坊市無賴之徒,不堪侍衛,伏乞放散,以寧眾心。」昭宗不得已,皆從之。是日,囚八王於別第,殿后侍衛四軍二萬餘人皆放散,殺捧日都頭李筠於大雲橋下,自是天子之衛士盡矣。丙辰,韓建上表,請封拜皇太子、親王,以為維城之計。己未,制德王裕宜冊為皇太子。辛酉,制第八男秘可封景王,第九男祚可封輝王,第十男祺可封祁王,第十一男禛可封雅王,第十二男祥可封瓊王。

三月丙子朔。戊寅、韓建を進めて昌黎郡王に封じ、「資忠靖国功臣」を改めて賜う制を下す。光禄大夫・兵部尚書・上柱国・河間郡開国侯・食邑二千戸の張浚を尚書左僕射とし、前に依りて租庸使を充てる。

原文三月丙子朔。戊寅,制韓建進封昌黎郡王,改賜「資忠靖國功臣」。以光祿大夫、兵部尚書、上柱國、河間郡開國侯、食邑二千戶張浚為尚書左僕射,依前充租庸使。

四月丙午朔、就いて福建節度使の王潮に検校尚書右僕射を加う。韓建、封事十条を献ず。その三に、太子・諸王に師傅を置きて教導せんことを請う。乃ち太子賓客の王牘を以て諸王侍読とす。宰相の鄭綮は病を以て骸骨を乞う、乃ち政事を知るを罷む。

原文四月丙午朔,就加福建節度使王潮檢校尚書右僕射。韓建獻封事十條,其三,太子、諸王請置師傅教導。乃以太子賓客王牘為諸王侍讀。宰相鄭綮以病乞骸,乃罷知政事。

五月乙亥朔、国子博士の朱朴を右諫議大夫・同平章事とする。

原文五月乙亥朔,以國子博士朱朴為右諫議大夫、同平章事。

七月甲戌、帝は学士・親王とともに斉雲楼に登り、西に長安を望み、楽工に命じて御製の《菩薩蛮》詞を唱わしむ。奏畢りて、皆泣下して襟を沾し、覃王以下並びに属和有り。

原文七月甲戌,帝與學士、親王登齊雲樓,西望長安,令樂工唱御製《菩薩蠻》詞,奏畢,皆泣下沾襟,覃王已下並有屬和。

八月甲辰朔、工部尚書の陸扆を兵部尚書とする。韓建は邠・岐の三鎮と素より君無き跡有り、及び李克用が行瑜を誅するや、心常に切歯す。去歳、車駕将に河東に幸せんとす、乃ち延王戒丕をして太原に使わしめ、克用に見え、省方の意を陳ぜしむ。この月、延王は太原より還る。韓建奏して曰く、「陛下の即位已来、近輔と交悪するは、皆諸王の兵を典るに因り、凶徒禍を楽しまば、遂に輿駕の安からざるを致す。比者臣が兵権を罷むるを奏するは、実に不測の変有らんことを慮るなり。今聞く、延王・覃王尚ほ陰計を苞むと。願わくは陛下宸断して疑わず、未だ乱れざるに制せば、即ち社稷の福なり。」上曰く、「豈に是に至らんや。」数日を居て、上より報い無きを以て、乃ち知枢密の劉季述とともに制を矯りて兵を発し、十六宅を囲む。諸王懼れ、髪を披きて垣に沿いて呼びて曰く、「官家児の命を救え。」或いは屋に登り樹に沿う。この日、通王・覃王以下十一王並びにその侍者は、皆建の兵に擁せられて石堤穀に至り、長少無く皆殺さる。而して建は謀逆を以て聞こゆ。尋いで太子詹事の馬道殷・将作監の許岩士を殺し、平章事の朱朴を貶す。皆上の寵昵する者なり。

原文八月甲辰朔,以工部尚書陸扆為兵部尚書。韓建與邠、岐三鎮素有無君之跡,及李克用誅行瑜,心常切齒。去歲車駕將幸河東,乃令延王戒丕使太原,見克用,陳省方之意。是月,延王自太原還。韓建奏曰:「自陛下即位已來,與近輔交惡,皆因諸王典兵,凶徒樂禍,遂致輿駕不安。比者臣奏罷兵權,實慮有不測之變。今聞延王、覃王尚苞陰計,願陛下宸斷不疑,制於未亂,即社稷之福也。」上曰:「豈至是耶!」居數日,以上無報,乃與知樞密劉季述矯制發兵,圍十六宅。諸王懼,披髮沿垣而呼曰:「官家救兒命!或登屋沿樹。是日,通王、覃王已下十一王並其侍者,皆為建兵所擁,至石堤穀,無長少皆殺之,而建以謀逆聞。尋殺太子詹事馬道殷、將作監許岩士,貶平章事朱樸,皆上所寵昵者。

九月癸酉朔、御史中丞の狄帰昌を尚書右丞とする。刑部侍郎の楊渉を吏部侍郎とする。鎮海軍節度使の銭鏐を鎮海軍節度・浙江東西道観察処置等使・杭州越州刺史・上柱国・呉王とする制を下す。

原文九月癸酉朔,以御史中丞狄歸昌為尚書右丞。以刑部侍郎楊涉為吏部侍郎。制以鎮海軍節度使錢鏐為鎮海軍節度、漸江東西道觀察處置等使、杭州越州刺史、上柱國、吳王。

冬十月癸卯朔、華州節度使の韓建に同州刺史・匡国軍節度使を兼ねしむ。朱全忠、その将権徐州兵馬留後の龐師古・兗州留後の葛従周を遣わし、兗・鄆・曹・濮・徐・宿・滑等の兵士七万を率いて淮を渡り楊行密を討たしむ。太中大夫・前御史中丞の裴贄を礼部尚書・知貢挙とする制を下す。幽州節度使の劉仁恭、沙陀を安塞において大いに敗る。李克用は単騎僅かに免る。

原文冬十月癸卯朔,以華州節度使韓建兼同州刺史、匡國軍節度使。朱全忠遣其將權徐州兵馬留後龐師古、兗州留後葛從周率兗、鄆、曹、濮、徐、宿、滑等兵士七萬渡淮討楊行密。制乙太中大夫、前御史中丞裴贄為禮部尚書、知貢舉。幽州節度使劉仁恭大敗沙陀于安塞,李克用單騎僅免。

十一月壬申朔。癸酉、淮南の大将朱瑾が密かに舟師を出して汴軍を清口に襲い、龐師古は挙軍皆没し、師古は捕らえられた。進んで葛従周は霍丘より淮を渡り、濠州に至るが、師古の敗北を聞き、乃ち軍を退き、信宿して渒河に至り、方に渡らんとして朱瑾が至る。この日、殺傷溺死すること殆んど尽き、還る者は千人に満たず、唯だ牛存節の一軍のみ先に渡りて免るるを得たり。潁州に比するに、大雪寒凍し、死者十五六。古より喪師の甚だしきは、此の如きは無し。是より行密は江・淮の間を拠有す。検校司空・権知兗州兵馬事葛従周を以て兗州刺史と為し、泰寧軍節度使を充て;潁州刺史王敬蕘を以て検校尚書左僕射・兼徐州刺史と為し、武寧軍節度使を充つ:全忠の奏に従うなり。

原文十一月壬申朔。癸酉,淮南大將朱瑾潛出舟師襲汴軍於清口,龐師古舉軍皆沒,師古被執。進葛從周自霍丘渡淮,至濠州,聞師古敗,乃退軍,信宿至渒河,方渡而朱瑾至。是日殺傷溺死殆盡,還者不滿千人,唯牛存節一軍先渡獲免。比至潁州,大雪寒凍,死者十五六。自古喪師之甚,無如此也。由是行密據有江、淮之間。以檢校司空、權知兗州兵馬事葛從周為兗州刺史,充泰甯軍節度使;以潁州刺史王敬蕘檢校尚書左僕射、兼徐州刺史,充武甯軍節度使:從全忠奏也。

光化元年

原文光化元年

光化元年春正月辛未朔、車駕は華州に在り。兵部侍郎崔遠を以て戸部侍郎・同平章事と為す。諸道、宮闕修復の銭を貢ぐ、京兆尹韓建を命じて京城に入り計度せしむ。朱全忠、判官韋震を遣わして事を奏し、鄆州を兼領せんことを求む。時に全忠は軍敗の後、自ら其の権を大にして、以て隣籓の変を扼せんとす。幽州節度使劉仁恭、安塞の捷を恃み、河朔を吞噬せんと欲し、是の月其の子守文を遣わして兵を将いて滄州を襲わしむ、節度使盧彦威は城を棄てて循く、守文遂に之を拠り、自ら留後と称す。

原文光化元年春正月辛未朔,車駕在華州。以兵部侍郎崔遠為戶部侍郎、同平章事。諸道貢修宮闕錢,命京兆尹韓建入京城計度。朱全忠遣判官韋震奏事,求兼領鄆州。時全忠軍敗之後,欲自大其權,以扼鄰籓之變。幽州節度使劉仁恭恃安塞之捷,欲吞噬河朔,是月遣其子守文將兵襲滄州,節度使盧彥威棄城而循,守文遂據之,自稱留後。

四月庚子、制す、淑妃何氏を冊して皇后と為すべし。上、陟屺寺に幸し、従官を韓建の献ずる所の御荘に宴す。

原文四月庚子,制淑妃何氏宜冊為皇后。上幸陟屺寺,宴從官于韓建所獻御莊。

五月己巳朔、后を立てて大赦す。汴将葛従周、衆を率いて李克用の邢・洺・磁等州を攻め、之を陥す。全忠、従周を署して三州兵馬留後と為す。

原文五月己巳朔,以立後大赦。汴將葛從周率眾攻李克用邢、洺、磁等州,陷之。全忠署從周為三州兵馬留後。

六月己亥、帝、西溪に幸して競渡を観る。天下の籓牧・文武百僚、表を上り、車駕の京に還ることを請う。

原文六月己亥,帝幸西溪觀競渡。天下籓牧、文武百僚上表,請車駕還京。

七月、汴将氏叔琮、趙匡凝の随・唐・鄧等州を陥す。華州を昇めて興徳府と為し、刺史を尹と為し、左右司馬を少尹と為し、鄭県を次赤と為し、官員の資望は一に五府に同じ。華嶽廟を封じて佑順侯と為す。

原文七月,汴將氏叔琮陷趙匡凝之隨、唐、鄧等州。敕昇華州為興德府,剌史為尹,左右司馬為少尹,鄭縣為次赤,官員資望一同五府。封華嶽廟為佑順侯。

八月戊戌朔。己未、車駕、華より京師に還る。甲子、端門に御し、大赦し、元を改めて光化と為す。

原文八月戊戌朔。己未,車駕自華還京師。甲子,御端門,大赦,改元光化。

九月戊辰朔、御史中丞狄帰昌を以て尚書左丞と為す。制す、鎮国・匡国等軍節度使韓建を守太傅・中書令・興徳尹と為し、潁川郡王に封じ、鉄券を賜い、並びに御写「忠貞」を以て之に遺す。建累ねて表を上り王爵を辞す、乃ち改めて許国公に封ず。魏博節度使羅弘信、進んで臨清郡王に封ぜらる。是の月、弘信卒す、太師を贈り、諡して曰く莊肅。衙軍其の子副大使紹威を立てて兵馬事を知らしむ、尋いで之に節鉞を賜う。

原文九月戊辰朔,以御史中丞狄歸昌為尚書左丞。制以鎮國、匡國等軍節度使韓建守太傅、中書令、興德尹,封潁川郡王,賜鐵券,並御寫「忠貞」以遺之。建累上表辭王爵,乃改封許國公。魏博節度使羅弘信進封臨清郡王。是月,弘信卒,贈太師,諡曰莊肅。衙軍立其子副大使紹威知兵馬事,尋賜之節鉞。

十月丁酉朔、河南尹張全義、就いて侍中を加う。汴将朱友恭、江西行営より還り、安州を過ぎ、刺史武渝を殺し、部将を遣わして之を守らしむ。汴将張存敬、兵を以て蔡州を襲い、刺史崔洪款を納れ、弟賢を以て汴に質せんことを請う、之を許す。

原文十月丁酉朔,河南尹張全義就加侍中。汴將朱友恭自江西行營還,過安州,殺刺史武渝,遣部將守之。汴將張存敬以兵襲蔡州,刺史崔洪納款,請以弟賢質于汴,許之。

十二月丙寅、李克用の将潞州節度使薛志勤死す、沢州刺史李罕之其の帥無きに乗じ、潞を襲いて之を取り、其の子顥を遣わして汴に降ることを乞う、全忠、罕之を表して節度使と為す。

原文十二月丙寅,李克用將潞州節度使薛志勤死,澤州刺史李罕之乘其無帥,襲潞取之,遣其子顥乞降于汴,全忠表罕之為節度使。

光化二年

原文光化二年

二年春正月乙未朔。丁未、兵部尚書陸扆を以て兵部侍郎・同平章事と為す。

原文二年春正月乙未朔。丁未,以兵部尚書陸扆為兵部侍郎、同平章事。

二月、蔡州刺史崔洪、衙兵に迫られ、共に淮南に竄く。時に洪は弟賢を以て汴に質し、汴人は賢を遣わして蔡に還し、兵三千を徴して出征せしむ。蔡兵乱を起こし、賢を殺し、遂に洪を擁して淮を渡る。朱全忠、其の子友裕をして蔡州を守らしむ。幽州節度使劉仁恭、燕軍十万を駆り、将に趙・魏を兼ねんとす。是の月貝州を陥し、人少長無く皆之を屠り、屍を清水に投ずれば、之が為に流れず。遂に進んで魏州を攻む。羅紹威、汴に救を求む。

原文二月,蔡州刺史崔洪為衙兵所迫,同竄淮南。時洪以弟賢質于汴,汴人遣賢還蔡,徵兵三千出征。蔡兵亂,殺賢,遂擁洪度淮。朱全忠令其子友裕守蔡州。幽州節度使劉仁恭驅燕軍十萬,將兼趙、魏。是月陷貝州,人無少長皆屠之,投屍清水,為之不流。遂進攻魏州。羅紹威求救於汴。

三月、朱全忠、大将張存敬を遣わして師を率いて之を援け、内黄に屯す。葛従周、邢・洺より勁騎八百を率いて魏州に入る。燕将劉守文・単可及、汴軍の内黄に在るを聞き、軍を引いて往きて之を撃つ。存敬、内黄の東に伏を設け、大いに燕軍を敗り、俘斬三万、生擒して単可及を得たり。劉守文、余衆を以て魏州に還るが、存敬・従周に乗ぜられ、燕軍復た敗れ、仁恭父子僅かに免る。汴・魏兵を合して之を躡い、趙人復た之を東境に邀え、魏より滄に至る五百里の間、僵屍相枕す。是の春、白気天に竟きて練の如く、西南より東北に徹し、而して旋って燕卒の敗有り。

原文三月,朱全忠遣大將張存敬率師援之,屯于內黃。葛從周自邢、洺率勁騎八百入魏州。燕將劉守文、單可及聞汴軍在內黃,引軍往擊之。存敬設伏內黃東,大敗燕軍,俘斬三萬,生擒單可及。劉守文以余眾還魏州,為存敬、從周所乘,燕軍復敗,仁恭父子僅免。汴、魏合兵躡之,趙人復邀之東境,自魏至滄五百里間,僵屍相枕。是春,有白氣竟天如練,自西南徹東北,而旋有燕卒之敗。

四月、汴将の氏叔琮が上党より進軍して太原を攻め、石会を出たが、沙陀にその前鋒将の陳章を擒えられ、叔琮は乃ち退き去った。

原文四月,汴將氏叔琮由上党進軍攻太原,出石會,為沙陀擒其前鋒將陳章,叔琮乃退去。

六月、制して昭義節度使・検校太尉・兼太師・侍中・潞州大都督府長史・隴西郡開国公・食邑三千戸の李罕之を孟州刺史とし、河陽三城節度・孟懐観察等使を充てる。検校司徒・孟州刺史・河陽節度使の丁会を沢・潞等節度使とする:全忠の奏に従うなり。丁丑、李罕之は懐州に至り、伝舎に卒す。陝州軍乱れ、その帥の王珙を殺し、都将軍の李璠を立てて留後とす。丁亥、制して前太常卿の劉崇望を吏部尚書とし、兵部侍郎の裴枢を吏部侍郎とし、戸部侍郎の薛昭緯を兵部侍郎とする。

原文六月,制以昭義節度使、檢校太尉、兼太師、侍中、潞州大都督府長史、隴西郡開國公、食邑三千戶李罕之為孟州刺史,充河陽三城節度、孟懷觀察等使;以檢校司徒、孟州刺史、河陽節度使丁會為澤、潞等節度使:從全忠奏也。丁丑,李罕之至懷州,卒於傳舍。陝州軍亂,殺其帥王珙,立都將軍李璠為留後。丁亥,制以前太常卿劉崇望為吏部尚書,兵部侍郎裴樞為吏部侍郎,戶部侍郎薛昭緯為兵部侍郎

七月、青州の海州守将の牛従毅が郡人を擁して淮南に投じ、行密は遂に海州を有す。

原文七月,青州守海州將牛從毅擁郡人投淮南,行密遂有海州。

十一月、陝州の衙将の朱簡が李璠を殺し、自ら留後と称し、汴に降る。全忠は簡を表して帥守とす。

原文十一月,陝州衙將朱簡殺李璠,自稱留後,降汴,全忠表簡為帥守。

光化三年

原文光化三年

三年春正月庚子朔、礼部尚書の裴贄を刑部尚書とする。癸卯、朱全忠奏す:「本貫は宋州碭山県、恩を蒙り輝州に昇格す。その地は卑湿にして、廬舎を修めること難し。輝州の治所を単父県に移すことを請う。」之に従い、仍て崇徳軍の号を賜う。

原文三年春正月庚子朔,以禮部尚書裴贄為刑部尚書。癸卯,朱全忠奏:「本貫宋州碭山縣,蒙恩升為輝州,其地卑濕,難葺廬舍,請移輝州治所于單父縣。」從之,仍賜號為崇德軍。

四月戊午、汴・魏の合軍が滄州を攻め、郛に入られた戦役に報いる。葛従周は連ねて滄徳の郡邑を陥とす。王鎔は使いを遣わして全忠に和解を求め、劉仁恭に修好せしむ。汴・魏は班師す。辛未、皇后・太子、九廟に謁す。

原文四月戊午,汴、魏合軍攻滄州,以報入郛之役,葛從周連陷滄德郡邑,王鎔遣使和解于全忠,令劉仁恭修好,汴、魏班師。辛未,皇后、太子謁九廟。

六月丁巳、朱全忠、表して陝州兵馬留後の朱簡は郷里同宗なりとし、名を友謙と改め、節鉞を真に授けんことを乞う。之に従う。戊辰、特進・司空・門下侍郎・平章事・監修国史の王摶は崖州司戸に貶され、尋いで藍田駅にて死を賜う。枢密使の宋道弼・景務修は並びに死す。崔胤に誣えられ、三人が中外相結ぶと言わるるが故なり。

原文六月丁巳,朱全忠表陝州兵馬留後朱簡鄉里同宗,改名友謙,乞真授節鉞。從之。戊辰,特進、司空、門下侍郎、平章事、監修國史王摶貶崖州司戶,尋賜死于藍田驛,樞密使宋道弼、景務修並死。為崔胤所誣,言三人中外相結也。

七月丁亥朔、兵部尚書の劉崇望卒す。司空を贈る。甲午、兵部郎中の薛正表を右諫議大夫とする。許州刺史の朱友恭を検校司徒とし、潁州刺史とす。左武衛将軍の趙霖を検左僕射とし、許州刺史とす。宣武押衙の劉知俊を検校右僕射とし、鄭州刺史とす:全忠の奏に従うなり。戊申、制して武貞軍節度・澧朗叙等州観察処置等使・開府儀同三司・検校司徒・同平章事・朗州刺史・上柱国・馮翊郡ひょうよくぐん開国侯・食邑一千五百戸の雷満を検校太保とし、馮翊郡王に封じ、余は故の如し。武泰軍節度・黔中観察処置等使・光禄大夫・検校尚書左僕射・黔州刺史・御史大夫・上柱国の趙崇を天水県開国子に封じ、食邑五百戸。庚戌、制して昭義節度留後・光禄大夫・検校司空・上柱国の孟遷を検校司徒とし、潞州大都府長史を兼ね、昭義節度副大使・知節度事・潞磁邢洺等州観察処置使を充て、仍て平昌県男に封じ、食邑三百戸、李克用の奏に従うなり。金紫光禄大夫・守兵部尚書・上柱国・楽安郡開国公・食邑一千五百戸の孫儲を守兵部尚書とし、京兆尹を兼ねる。乙卯、制して忠烈衛聖鎮国功臣・剣南西川節度副大使・知節度事・管内営田観察処置統押近界諸蛮兼西山八国雲南安撫制置等使・開府儀同三司・検校太尉・中書令・成都尹・上柱国・琅邪郡王・食邑三千戸・実封一百戸の王建は兼剣南東川・武信軍両道都指揮制置等使とし、食邑一千戸を加え、余は故の如し。時に建が梓州の顧彦暉を攻め下し、東川の洋・果・閬等州を兼ね有するが故なり。又、忠義軍節度・山南東道管内観察処置三司水陸発運等使・開府儀同三司・検校太尉・中書令・兼襄州刺史・上柱国・南平王・食邑三千戸の趙匡凝は検校太師・兼中書令とし、実封一百戸を加う。

原文七月丁亥朔,兵部尚書劉崇望卒,贈司空。甲午,兵部郎中薛正表為右諫議大夫。以許州刺史朱友恭檢校司徒,為潁州刺史;以左武衛將軍趙霖檢左僕射,為許州刺史;宣武押衙劉知俊檢校右僕射,為鄭州刺史:從全忠奏也。戊申,制以武貞軍節度、澧朗敘等州觀察處置等使、開府儀同三司、檢校司徒、同平章事、朗州刺史、上柱國、馮翊郡開國侯、食邑一千五百戶雷滿檢校太保,封馮翊郡王,餘如故。以武泰軍節度、黔中觀察處置等使、光祿大夫、檢校尚書左僕射、黔州刺史、御史大夫、上柱國趙崇封天水縣開國子,食邑五百戶。庚戌,制昭義節度留後、光祿大夫、檢校司空、上柱國孟遷為檢校司徒,兼潞州大都府長史,充昭義節度副大使、知節度事、潞磁邢洺等州觀察處置使,仍封平昌縣男,食邑三百戶,從李克用奏也。以金紫光祿大夫、守兵部尚書、上柱國、樂安郡開國公、食邑一千五百戶孫儲守兵部尚書,兼京兆尹。乙卯,制忠烈衛聖鎮國功臣、劍南西川節度副大使、知節度事、管內營田觀察處置統押近界諸蠻兼西山八國雲南安撫制置等使、開府儀同三司、檢校太尉、中書令、成都尹、上柱國、琅邪郡王、食邑三千戶、實封一百戶王建可兼劍南東川、武信軍兩道都指揮制置等使,加食邑一千戶,餘如故。時建攻下梓州顧彥暉,兼有東川洋、果、閬等州故也。又以忠義軍節度、山南東道管內觀察處置三司水陸發運等使、開府儀同三司、檢校太尉、中書令、兼襄州刺史、上柱國、南平王、食邑三千戶趙匡凝可檢校太師、兼中書令,加實封一百戶。

八月丙辰朔、朱全忠奏す:「先に汝州を割いて許州に隷せしめしが、請うて却って東都に還す。河陽は先に沢州を管せり、今、蕃戎の占拠に縁り、得失常ならず。請うて権に河南府の王屋・清河・鞏の三県を割きて河陽に隷せしむ。」之に従う。癸亥、制して忠貞平難功臣・河東節度・管内観察処置等使・開府儀同三司・守太師・兼中書令・北都留守・太原尹・上柱国・晋王・食邑九千戸・食実封七百戸の李克用に実封一百戸を加う。丁卯、朝請大夫・虞部郎中・知制誥・上柱国・賜紫金魚袋の顔蕘を中書舎人とする。己巳、制して前帰義軍節度副使・権知兵馬留後・銀青光禄大夫・検校国子祭酒・監察御史・上柱国の張承奉を検校左散騎常侍とし、沙州刺史・御史大夫を兼ね、帰義節度・瓜沙伊西等州観察処置押蕃落等使を充てる。庚辰、太原の大将の李嗣昭が洺州を攻め、之を下し、汴将の朱紹宗を執る。汴将の葛従周が師を率いて之に赴く。嗣昭は城を棄てて去る。従周は之を青山口に邀え撃ち、晋軍大いに敗る。従周は勝に乗じて鎮州を攻む。壬午、制して荊南節度・忠万帰夔涪峡等州観察処置水陸催運等使・開府儀同三司・検校太尉・兼中書令・江陵尹・上柱国・上谷郡王・食邑三千戸の成汭は検校太師・中書令とし、余は故の如し。甲申、制して扶危匡国致理功臣・特進・行尚書左僕射・兼門下侍郎・同平章事・監修国史・判度支・上柱国・清河郡開国公・食邑二千戸の崔胤は開府儀同三司とし、魏国公に進封し、食邑一千戸を加え、余は故の如し。

原文八月丙辰朔,朱全忠奏:「先割汝州隸許州,請卻還東都。河陽先管澤州,今緣蕃戎佔據,得失不常,請權割河南府王屋、清河、鞏三縣隸河陽。」從之。癸亥,制忠貞平難功臣、河東節度、管內觀察處置等使、開府儀同三司、守太師、兼中書令、北都留守、太原尹、上柱國、晉王、食邑九千戶、食實封七百戶李克用加實封一百戶。丁卯,以朝請大夫、虞部郎中、知制誥、上柱國、賜紫金魚袋顏蕘為中書舍人。己巳,制前歸義軍節度副使、權知兵馬留後、銀青光祿大夫、檢校國子祭酒、監察御史、上柱國張承奉為檢校左散騎常侍,兼沙州刺史、御史大夫,充歸義節度、瓜沙伊西等州觀察處置押蕃落等使。庚辰,太原大將李嗣昭攻洺州、下之,執汴將朱紹宗。汴將葛從周率師赴之,嗣昭棄城而去。從周邀之于青山口,晉軍大敗,從周乘勝攻鎮州。壬午,制荊南節度、忠萬歸夔涪峽等州觀察處置水陸催運等使、開府儀同三司、檢校太尉、兼中書令、江陵尹、上柱國、上谷郡王、食邑三千戶成汭可檢校太師、中書令,余如故。甲申,制扶危匡國致理功臣、特進、行尚書左僕射、兼門下侍郎、同平章事、監修國史、判度支、上柱國、清河郡開國公、食邑二千戶崔胤可開府儀同三司,進封魏國公,加食邑一千戶,餘如故。

九月丙戌朔(一日)、朱全忠は三鎮の兵を率いて鎮州を攻め、王鎔は恐れて、判官周式・副大使王昭祚・主事梁公儒の子弟を汴に人質として送り、犒師の絹十五万匹を出して盟を求め、これを許された。張存敬は深州・冀州から進軍し、瀛州・莫州を攻め、二十の郡邑を陥れ、雨と泥濘に阻まれて幽州に至らず。西に向かって祁州を陥し、沙河北で中山の将王処直の軍を大破し、進んで懐徳驛に駐屯した。定州を攻め、節度使王郜は太原に奔り、衙将王処直は孔目官梁汶を斬り、縑二十万を出して盟を乞い、これを許された。全忠は遂に王処直を義武軍留後に任じた。乙巳(二十日)、制して扶危匡国致理功臣・開府儀同三司・守太保・兼門下侍郎・平章事、太清宮使・修奉太廟使・弘文館大学士・延資庫使・諸道塩鉄転運等使・上柱国・斉国公・食邑五千戸・食実封一百戸徐彦若を検校太尉・同平章事とし、清海軍節度・嶺南東道管内観察処置供軍糧料等使に充てる。丙午(二十一日)、制して光禄大夫・中書侍郎・兼吏部尚書・同平章事・集賢殿大学士・判戸部事・博陵郡開国公・食邑二千戸崔遠を罷めて政事を知らず、本官を守らしむ。戊申(二十三日)、制して左僕射・門下侍郎・平章事・監修国史・判度支崔胤を太清宮使・修奉太廟使・弘文館大学士・延資庫使に充て、前の如く判度支とし、兼ねて諸道塩鉄運等使を充てる。光禄大夫・中書侍郎・兼戸部尚書・同平章事・上柱国・呉郡開国公・食邑一千五百戸陸扆を門下侍郎・戸部尚書・監修国史とする。正議大夫・守刑部尚書・上柱国・河東県開国男・食邑三百戸・賜紫金魚袋裴贄を中書侍郎・兼刑部尚書・同平章事とし、集賢殿大学士を充てる。銀青光禄大夫・行尚書吏部侍郎・上柱国裴枢を中書侍郎・同平章事とし、戸部事を判らしむ。辛亥(二十六日)、光禄大夫・尚書右僕射・租庸使張濬を罷めて租庸使とせず、本官を守らしむ。

原文九月丙戌朔,朱全忠引三鎮之師攻鎮州,王鎔懼,遣判官周式、副大使王昭祚、主事梁公儒子弟為質於汴,出犒師絹十五萬匹求盟,許之。張存敬遂自深、冀進軍,攻瀛、莫,下郡邑二十,阻雨泥濘,不及幽州。遂西行陷祁州,大敗中山將王處直軍於沙河北,進屯懷德驛。遂攻定州,節度使王郜奔太原,衙將王處直斬孔目官梁汶,出縑二十萬乞盟,許之。全忠遂署王處直為義武軍留後。乙巳,制扶危匡國致理功臣、開府儀同三司、守太保、兼門下侍郎、平章事,充太清宮使、修奉太廟使、弘文館大學士、延資庫使、諸道鹽鐵轉運等使、上柱國、齊國公、食邑五千戶、食實封一百戶徐彥若可檢校太尉、同平章事,充清海軍節度、嶺南東道管內觀察處置供軍糧料等使。丙午,制光祿大夫、中書侍郎、兼吏部尚書、同平章事、充集賢殿大學士、判戶部事、博陵郡開國公、食邑二千戶崔遠罷知政事,守本官。戊申,制左僕射、門下侍郎、平章事、監修國史、判度支崔胤充太清宮使、修奉太廟使、弘文館大學士、延資庫使,依前判度支,兼充諸道鹽鐵運等使。光祿大夫、中書侍郎,兼戶部尚書、同平章事、上柱國、吳郡開國公、食邑一千五百戶陸扆為門下侍郎、戶部尚書、監修國史。以正議大夫、守刑部尚書、上柱國、河東縣開國男、食邑三百戶、賜紫金魚袋裴贄為中書侍郎,兼刑部尚書、同平章事,充集賢殿大學士。以銀青光祿大夫、行尚書吏部侍郎、上柱國裴樞為中書侍郎、同平章事,判戶部事。辛亥,以光祿大夫、尚書右僕射、租庸使張浚罷租庸使,守本官。

十月丙辰朔(一日)。辛酉(六日)、前清海軍節度副使・朝散大夫・検校左散騎常侍・御史大夫・上柱国王溥を守左散騎常侍とし、塩鉄副使に充てる。癸未(二十八日)、制して保義軍節度留後・銀青光禄大夫・検校戸部尚書・兼御史大夫・上柱国朱友謙を金紫光禄大夫・検校尚書右僕射・兼陝州大都督府長史・御史大夫とし、保義軍節度・陝虢観察処置等使に充てる。

原文十月丙辰朔。辛酉,以前清海軍節度副使、朝散大夫、檢校左散騎常侍、御史大夫、上柱國王溥守左散騎常侍,充鹽鐵副使。癸未,制以保義軍節度留後、銀青光祿大夫、檢校戶部尚書、兼御史大夫、上柱國朱友謙為金紫光祿大夫、檢校尚書右僕射,兼陝州大都督府長史、御史大夫,充保義軍節度、陝虢觀察處置等使。

十一月乙酉朔(一日)。庚寅(六日)、左右軍中尉劉季述・王仲先が昭宗を廃し、東内問安宮に幽閉し、皇太子裕に国事を監させた。時に昭宗は崔胤に政を委ね、胤は全忠の援助を恃み、宦官を漸く抑えた。帝は華州より還宮して後、甚だ禽酒に志を肆にし、喜怒常ならず、宋道弼等が罪を得てより、黄門は特に懼れた。ここに至り、上は苑中で狩猟し、酔い甚だしく、この夜、手ずから黄門・侍女数人を殺した。庚寅(六日)、日辰巳に及び、内門開かず。劉季述は中書に詣でて宰相崔胤に謂いて曰く、「宮中には必ず不測の事有らん、人臣安んぞ坐視すべけんや?我等は内臣なり、便宜に事を行い得べし」と。即ち禁兵千人を以て関を破って入り、中人に問訊し、具に其の故を知る。即ち出でて宰臣と謀りて曰く、「主上の為す所此の如し、社稷の主に非ず。昏きを廃し明きを立てるは、故事有り、国家の大計、逆乱に非ず」と。即ち百官を召して状に署せしめ、崔胤等は已むを得ず之に署した。季述・仲先は汴州進奏官程岩等十三人と請対し、対訖、季述は殿上に上りて待罪の次に在り。左右軍の将士斉しく万歳の声を唱え、遂に宣化門に突入し、思政殿に行き至り、便ち殺戮を行い、径ちに乞巧楼下に至る。帝遽かに兵士を見て、驚き床下に墮ち、起きて将に去らんとす、季述・仲先掖えて坐らしむ。何皇后遽かに出でて拝して曰く、「軍容長官官家を護り、驚恐に至ること勿れ、事有れば軍容に取りて商量せよ」と。季述は即ち百官の合同状を出して曰く、「陛下宝位に臨むに倦み、中外の群情、太子の国を監するを願い、陛下の東宮に於いて頤養せんことを請う」と。帝曰く、「吾昨卿等と歓飲し、覚えず過ぎたるに至る、何ぞ此に至らんや!」皇后曰く、「聖人は彼の軍容の語に依れ」と。即ち御前において国宝を取りて季述に付し、即時に帝と皇后は共に一輦に乗り、並びに常に侍従する十余の内人と共に東宮に赴く。入りて後、季述は手ずから院門を扃鎖し、日に窓中より食器を通す。是の日、皇太子を迎えて国を監せしめ、昭宗の命を矯宣して上皇と称す。甲午(十日)、上皇の制を宣し、太子皇帝の位に登る。宰臣・百僚・方鎮に爵を加え秩を進め、又百僚に銀一千五百両・絹千匹・綿万両を賜い救接に充てる。皆季述の朝に媚びを求むるなり。時に朱全忠は定州の行営に在り、崔胤は前左僕射張濬と全忠に難を告げ、兵を以て罪を問わんことを請う。全忠は行営より自ら大梁に還る。

原文十一月乙酉朔。庚寅,左右軍中尉劉季述、王仲先廢昭宗,幽於東內問安宮,請皇太子裕監國。時昭宗委崔胤以執政,胤恃全忠之助,稍抑宦官。而帝自華還宮後,頗以禽酒肆志,喜怒不常,自宋道弼等得罪,黃門尤懼。至是,上獵苑中,醉甚,是夜,手殺黃門、侍女數人。庚寅,日及辰巳,內門不開。劉季述詣中書謂宰相崔胤曰:「宮中必有不測之事,人臣安得坐觀?我等內臣也,可以便宜從事。」即以禁兵千人破關而入,問訊中人,具知其故。即出與宰臣謀曰:「主上所為如此,非社稷之主也。廢昏立明,具有故事,國家大計,非逆亂也。」即召百官署狀,崔胤等不獲已署之。季述、仲先與汴州進奏官程岩等十三人請對,對訖,季述上殿待罪次。左右軍將士齊唱萬歲聲,遂突入宣化門,行至思政殿,便行殺戮,徑至乞巧樓下。帝遽見兵士,驚墮床下,起而將去,季述、仲先掖而令坐。何皇后遽出拜曰:「軍容長官護官家,勿至驚恐,有事取軍容商量。」季述即出百官合同狀,曰:「陛下倦臨寶位,中外群情,願太子監國,請陛下頤養于東宮。」帝曰:「吾昨與卿等歡飲,不覺太過,何至此耶!」皇后曰:「聖人依他軍容語。」即于御前取國寶付季述,即時帝與皇后共一輦,並常所侍從十余內人赴東宮。入後,季述手自扃鎖院門,日於窗中通食器。是日,迎皇太子監國,矯宣昭宗命稱上皇。甲午,宣上皇制,太子登皇帝位,宰臣、百僚、方鎮加爵進秩,又賜百僚銀一千五百兩、絹千匹、綿萬兩充救接,皆季述求媚於朝也。時朱全忠在定州行營,崔胤與前左僕射張浚告難於全忠,請以兵問罪,全忠自行營還大梁。

十二月乙卯朔(一日)。癸未(二十九日)夜、護駕塩州都將孫徳昭・周承誨・董彦弼が兵を以て劉季述・王仲先を攻め、仲先を殺し、其の首を携えて東宮門に詣で、呼んで曰く、「逆賊王仲先已に斬首訖りぬ、請う陛下宮を出でて兵士を慰諭せよ」と。宮人鑰を破り、帝と皇后方に得出る。

原文十二月乙卯朔。癸未夜。護駕鹽州都將孫德昭、周承誨、董彥弼以兵攻劉季述、王仲先,殺仲先,攜其首詣東宮門,呼曰:「逆賊王仲先已斬首訖,請陛下出宮慰諭兵士。」宮人破鑰,帝與皇后方得出。

天復元年

原文天復元年

天復元年春正月甲申朔、昭宗が復位し、長楽門楼に登り、朝賀を受ける。班列未だ退かざるに、孫徳昭が劉季述を捕らえて楼前に至る。上まさに詰責せんとすれど、すでに乱棒にて撃ち殺され、乃ち市に屍を曝す。乙酉、制を以て孫徳昭を検校司空と為し、静海軍節度使を充てる。丙戌、宰相崔胤が司空に進位す。己丑、朱全忠、程岩を檻車に械し、足を折って京師に送り、市にて戮す。制して皇太子裕を徳王に降し、名を祐と改む。庚寅、制を以て孫徳昭を安南節度・検校太保と為す。周承誨を邕州刺史・邕管節度経略使と為し、董彦弼を容州刺史・容管節度等使と為し、並びに検校太保・同平章事を加う。神策軍使李師虔・徐彦回を殺す。勅して曰く、「朕が臨御以来、十有四載、常に好生の徳を慕い、固より殺を楽む心無し。昨季述等朕が身を幽辱し、太子を迫脅す。李師虔は是れ逆賊の親厚にして、選び来たりて東内を主持し、動息の間に、其れをして偵伺せしむ。毎に須索有れば、皆供承せず。紙筆を要すれば則ち詔書を作るを恐れ、錐刀を索めば則ち利器と為るを慮り、凌辱万状、出入して捜羅す。朕の御する所の衣は、昼に服し夜に濯ぎ、凝冽の際、寒苦勝え難し。嬪嬙公主、衾裯皆闕く。緡銭は則ち貫百入らず、繒帛は則ち尺寸求め難し。六輩其の主張を同じくし、五人其の威勢を権る。若し状罪を言わば、翰墨窮め難く、若し生全を許さば、是れ法を貸すと為す。宜しく並びに処斬すべし。」時に朱全忠既に河朔三鎮を服し、王室を窺図し代わらんとする謀有り。李克用が太原に在るを以て、其の角逐を懼る。是の月、全忠、大将張存敬に兵三万を率いさせ、含山より河中の王珂を襲わしむ。晋州刺史張漢瑜・絳州刺史陶建、賊の至るを意にせず、城守に備え無く、皆郡を以て降る。存敬、兵を移して河中を囲む。王珂、太原に救援を求む。克用救う能わず。乃ち城に嬰りて存敬に謂いて曰く、「吾は汴王と旧有り、王の至るを俟ちて即ち降らん。」

原文天復元年春正月甲申朔,昭宗反正,登長樂門樓,受朝賀。班未退,孫德昭執劉季述至樓前,上方詰責,已為亂棒擊死,乃屍之於市。乙酉,制以孫德昭檢校司空,充靜海軍節度使。丙戌,宰相崔胤進位司空。己丑,朱全忠械程岩,折足檻送京師,戮之於市。制皇太子裕降為德王,改名祐。庚寅,制以孫德昭為安南節度、檢校太保。以周承誨為邕州刺史、邕管節度經略使,以董彥弼為容州刺史、容管節度等使,並檢校太保、同平章事。殺神策軍使李師虔、徐彥回。敕曰:「朕臨御已來,十有四載,常慕好生之德,固無樂殺之心。昨季述等幽辱朕躬,迫脅太子。李師虔是逆賊親厚,選來東內主持,動息之間,俾其偵伺。每有須索,皆不供承。要紙筆則恐作詔書,索錐刀則慮為利器,淩辱萬狀,出入搜羅。朕所御之衣,晝服夜濯,凝冽之際,寒苦難勝。嬪嬙公主,衾裯皆闕。緡錢則貫百不入,繒帛則尺寸難求。六輩同其主張,五人權其威勢。若言狀罪,翰墨難窮,若許生全,是為貸法,宜並處斬。」時朱全忠既服河朔三鎮,欲窺圖王室篡代之謀,以李克用在太原,懼其角逐。是月,全忠令大將張存敬率兵三萬,由含山襲河中王珂。晉州刺史張漢瑜、絳州刺史、陶建不意賊至,城守無備,皆以郡降。存敬移兵圍河中,王珂求救於太原,克用不能救,乃嬰城謂存敬曰:「吾與汴王有舊,俟王至即降。」

二月甲寅朔。戊辰、朱全忠、河中に至り、遂に王珂及び兄璘・弟瓚を挙室して汴に徙らしめ、張存敬をして河中を守らしむ。是の月、制を以て全忠を検校太師・守中書令と為し、梁王に進封す。

原文二月甲寅朔。戊辰,朱全忠至河中,遂移王珂及兄璘、弟瓚舉室徙於汴,以張存敬守河中。是月,制以全忠檢校太師、守中書令,進封梁王。

三月癸未朔、全忠、軍を引きて汴に帰る。奏して曰く、「河中節度使は歳に課塩三千車を貢す。臣今池場を代領す。二千車を加え、歳に五千車を貢せんことを請う。五池の完葺を候ち、則ち平時の供訂額に依らん。」之に従う。

原文三月癸未朔,全忠引軍歸汴,奏:「河中節度使歲貢課鹽三千車,臣今代領池場,請加二千車,歲貢五千車。候五池完葺,則依平時供訂額。」從之。

四月癸丑朔、汴軍大いに挙りて太原を攻む。氏叔琮、兵三万を以て天井関より進みて沢潞を攻め、節度使孟遷、上党を以て降る。叔琮、長駆して囲柏を出で、洞渦駅に営す。葛従周、趙・魏・中山の兵を率いて土門より入り、承天軍を陥とし、叔琮と会す。時に大雨に属し、芻糧給せず、汴将衆を保ちて還る。甲戌、天子宗廟に事有り。是の日、長楽門に御し、天下に大赦し、元を天復と改む。李茂貞、鎮より来朝し、寿春殿に宴を賜い、銭数万緡を進む。時に中尉韓全誨及び北司は茂貞と相善くし、宰相崔胤は朱全忠と相善くす。四人各表裏を為す。全忠は都を洛陽に遷さんと欲し、茂貞は駕を鳳翔に迎えんと欲し、各天子を挟みて諸侯に令せんとする意有り。

原文四月癸丑朔,汴軍大舉攻太原,氏叔琮以兵三萬由天井關進攻澤潞,節度使孟遷以上黨降。叔琮長驅出圍柏,營於洞渦驛。葛從周率趙、魏、中山之兵由土門入,陷承天軍,與叔琮會。時屬大雨,芻糧不給,汴將保眾而還。甲戌,天子有事于宗廟。是日,御長樂門,大赦天下,改元天復。李茂貞自鎮來朝,賜宴于壽春殿,進錢數萬緡。時中尉韓全誨及北司與茂貞相善,宰相崔胤與朱全忠相善,四人各為表裏。全忠欲遷都洛陽,茂貞欲迎駕鳳翔,各有挾天子令諸侯之意。

五月壬午朔。庚子、制して門下侍郎・戸部尚書・平章事陸扆に兵部尚書を加え、階を特進に進む。壬寅、制を以て朱全忠を兼ねて河中尹・河中節度・晋絳慈隰観察処置・安邑解県両池榷塩制置等使と為す。閏六月辛巳朔、制を以て河陽節度丁会を前の如く検校司徒と為し、兼ねて潞州大都督府長史・昭義節度等使と為し、孟遷に代わる。遷を検校司徒と為し、河陽節度と為す。全忠の奏なり。仍て昭義節度の官階内より邢・洺・磁の三州を落下し、却って沢州を属郡と為し、其の河陽節度は只だ懐州を以て属郡と為さんことを請う。之に従う。全忠又た斉州を鄆州に隷せんことを奏請す。之に従う。

原文五月壬午朔。庚子,制門下侍郎、戶部尚書、平章事陸扆加兵部尚書,進階特進。壬寅,制以朱全忠兼河中尹、河中節度、晉絳慈隰觀察處置、安邑解縣兩池榷鹽制置等使。閏六月辛巳朔,制以河陽節度丁會依前檢校司徒,兼潞州大都督府長史、昭義節度等使,代孟遷;以遷檢校司徒,為河陽節度。全忠奏也。仍請於昭義節度官階內落下邢、洺、磁三州,卻以澤州為屬郡,其河陽節度只以懷州為屬郡,從之。全忠又奏請以齊州隸鄆州,從之。

十月己卯朔。戊戌、全忠、四鎮の師七万を引きて河中に赴く。京師之を聞きて大いに恐れ、豪民皆山谷に亡竄す。

原文十月己卯朔。戊戌,全忠引四鎮之師七萬赴河中,京師聞之大恐,豪民皆亡竄山谷。

十一月己酉朔。壬子、中尉韓全誨と鳳翔護駕都将李継誨、車駕を奉じて出でて鳳翔に幸す。是の日、汴軍同州を陥とし、州将司馬鄴を執る。華州節度使韓建、判官李巨川を遣わして款を送る。甲寅、汴軍霊口に駐る。乙卯、全忠、帝の出幸を知り、乃ち兵を回して華州を攻む。大軍赤水に駐り、全忠親兵を以て西渓に駐る。韓建出でて降る。乃ち之を署して忠武軍節度使と為し、陳州を理所と為す。丁巳、宰相崔胤、戸部侍郎王溥をして赤水砦に至らしめ、全忠を促して兵を以て駕を迎えしむ。戊午、全忠、赤水より自ら長安に趨く。崔胤、文武百僚太子太師盧知猷已下を率い、坡頭にて全忠を迎う。庚申、汴軍鳳翔に趨く。戊辰、岐下に至る。全忠、判官李択・裴鑄をして城に入り事を奏せしめ、言わく、「臣河中に在りて、崔胤の書を得たり。密詔を奉じて臣に兵士を以て駕を迎えしむと言う。臣敢えて擅自に鑾を迎えず。」昭宗、胤の命を矯るを怒り、連詔して全忠に兵士を以て還鎮せしむ。辛未、全忠、軍を引きて鳳翔を離れ、退きて邠州を攻む。甲戌、制して扶危致理功臣・開府儀同三司・守司空・門下侍郎・平章事・太清宮使充・弘文館大学士・延資庫使・諸道塩鉄転運等使・判度支・上柱国・魏国公・食邑五千戸・食実封二百戸崔胤を責授して朝散大夫・守工部尚書と為すことを可とす。乙亥、邠州節度使李継徽、城を以て降る。全忠乃ち其の孥を河中に舎し、継徽を従軍せしむ。汴軍を以て三原に営す。

原文十一月己酉朔。壬子,中尉韓全誨與鳳翔護駕都將李繼誨奉車駕出幸鳳翔。是日,汴軍陷同州,執州將司馬鄴,華州節度使韓建遣判官李巨川送款。甲寅,汴軍駐靈口。乙卯,全忠知帝出幸,乃回兵攻華州。大軍駐赤水,全忠以親兵駐西溪。韓建出降,乃署為忠武軍節度使,以陳州為理所。丁巳,宰相崔胤令戶部侍郎王溥至赤水砦,促全忠以兵迎駕。戊午,全忠自赤水趨長安,崔胤率文武百僚太子太師盧知猷已下迎全忠於坡頭。庚申,汴軍趨鳳翔。戊辰,至岐下。全忠令判官李擇、裴鑄入城奏事,言:「臣在河中,得崔胤書,言奉密詔令臣以兵士迎駕,臣不敢擅自迎鑾。」昭宗怒胤矯命,連詔全忠以兵士還鎮。辛未,全忠引軍離鳳翔,退攻邠州。甲戌,制扶危致理功臣、開府儀同三司、守司空、門下侍郎、平章事、充太清宮使、弘文館大學士、延資庫使、諸道鹽鐵轉運等使、判度支、上柱國、魏國公、食邑五千戶、食實封二百戶崔胤可責授朝散大夫、守工部尚書。乙亥,邠州節度使李繼徽以城降,全忠乃舍其孥於河中,以繼徽從軍。以汴軍營于三原。

十二月己卯、崔胤、長安より三原砦に至り、全忠と謀りて鳳翔を攻む。

原文十二月己卯,崔胤自長安至三原砦,與全忠謀攻鳳翔。

天復二年

原文天復二年

二年春正月戊申朔、車駕鳳翔に在り。全忠三原に在り。李克用、大将周徳威を遣わして慈・隰・晋等州を攻めしむ。全忠河中に帰り、其の将朱友寧に衆五万を率いさせて絳州に屯せしめ、蒲県西北にて太原軍を大いに破る。友寧勝に乗じて奔を追い、汾州を陥とし、進みて太原を囲む。天子、諫議大夫張顗を晋州に遣わして全忠に諭し、太原と通和せしむ。友寧の再戦利あらざるに属し、乃ち関西に還る。

原文二年春正月戊申朔,車駕在鳳翔。全忠在三原,李克用遣大將周德威攻慈、隰、晉等州。全忠歸河中,令其將朱友甯率眾五萬屯絳州,大敗太原軍于蒲縣西北,友甯乘勝追奔,陷汾州,進圍太原。天子遣諫議大夫張顗至晉州諭全忠,令與太原通和。屬友甯再戰不利,乃還關西。

四月丁丑、朱友寧、大軍を総べて興平に屯す。

原文四月丁丑,朱友甯總大軍屯于興平。

五月、岐軍出でて戦い、武功南の漢穀にて大いに敗る。全忠捷を聞き、自ら汴軍五万を引きて西征す。

原文五月,岐軍出戰,大敗于武功南之漢穀。全忠聞捷,自引汴軍五萬西征。

六月、進みて虢県に営す。丁亥、進みて鳳翔を囲み、判官を遣わして城に入り駕を迎えしむ。

原文六月,進營虢縣。丁亥,進圍鳳翔,遣判官入城迎駕。

九月、岐軍出でて戦い、又た敗る。

原文九月,岐軍出戰,又敗。

十一月、鄜州節度使李周彝、衆を率いて鳳翔を救う。

原文十一月,鄜州節度使李周彝率眾救鳳翔。

十二月癸酉、汴将孔勍が虚に乗じて鄜州を襲い陥れ、周彝の妻子を捕らえ、周彝は直ちに兵士を率いて降伏した。ここにおいて邠州・寧州・鄜州・坊州等の州は皆汴軍に陥落した。茂貞は恐れ、内官を誅殺して事態を解決せんと謀った。

原文十二月癸酉,汴將孔勍乘虛襲下鄜州,獲周彝妻子,周彝即以兵士來降。於是邠、寧、鄜、坊等州皆陷於汴軍。茂貞懼,謀誅內官以解。

天復三年

原文天復三年

三年春正月癸卯朔、車駕は鳳翔に在り。甲辰、天子は中使を全忠の軍に遣わし、茂貞もまた軍将郭啓奇をして上(天子)が京師に還りたまわんとする旨を伝えさせた。丙午、青州牙将劉鄩が全忠の兗州を陥とし、また牙将張厚をして入奏せしめた。この日、また華州において密かに発兵し、州将婁敬思を殺した。上はまた戸部侍郎韓偓・趙国夫人寵顔をして全忠の軍に宣諭せしめた。辛亥、全忠は判官李振をして入奏せしめ、上は翰林学士姚洎に伝宣せしめ、全忠に崔胤を呼び出させ文武百僚を率いて車駕を迎えさせよと命じた。癸丑、上は礼部尚書蘇循に詔を伝えさせ、全忠に玉帯を賜い、なお全忠に処分させて蔣玄暉を帝の左右に侍らせた。丁巳、蔣玄暉は中使とともに中尉韓全誨・張弘彦以下二十人の首級を押送し、四鎮の兵士に回鑾の期日を告げ諭した。戊午、中使を走馬で華州に遣わし、崔胤を追わせたが、胤は病と託して至らなかった。甲子巳時、車駕は鳳翔を出で、全忠の軍に幸す。全忠は素服で罪を待ち、涙を流して自ら勝えず、上は自ら玉帯を解いてこれを賜った。乙丑、扶風に次ぐ。朱友倫に総兵して侍衛させた。丙寅、武功に次ぐ。丁卯、興平に次ぐ。宰臣崔胤が百官を率いて迎え謁した。即日、制を降し、崔胤を司空・門下侍郎・平章事に守らせ、太清宮使・弘文館大学士・延資庫使・諸道塩鉄転運使・判度支を復し、魏国公の封邑はもと通りとした。戊辰、咸陽に次ぐ。己巳、京師に入る。天子は素服で太廟に哭し、冕旒に改服して九廟を謁した。礼畢、長楽楼に御し、大赦し、百僚賀した。全忠は左軍に処す。辛未、内殿において全忠を宴し、内弟子に楽を奏させた。この日、制して内官第五可範以下七百人を並びに内侍省において賜死せしめ、その諸道の監軍及び小使は、仰せて本道の節度使に処斬し畢えて奏せしめ、全忠・崔胤の奏に従った。帝はこれを悲しみ惜しみ、自ら奠文を作りてこれを祭った。

原文三年春正月癸卯朔,車駕在鳳翔。甲辰,天子遣中使到全忠軍,茂貞亦令軍將郭啟奇來達上欲還京之旨。丙午,青州牙將劉鄩陷全忠之兗州,又令牙將張厚入奏,是日,亦竊發于華州,殺州將婁敬思。上又令戶部侍郎韓偓、趙國夫人寵顏宣諭于全忠軍。辛亥,全忠令判官李振入奏,上令翰林學士姚洎傳宣,令全忠喚崔胤令率文武百僚來迎駕。癸丑,上令禮部尚書蘇循傳詔,賜全忠玉帶,仍令全忠處分蔣玄暉侍帝左右。丁巳,蔣玄暉與中使同押送中尉韓全誨、張弘彥已下二十人首級,告諭四鎮兵士回鑾之期。戊午,遣中使走馬華州,追崔胤,胤托疾不至。甲子巳時,車駕出鳳翔,幸全忠軍。全忠素服待罪,泣下不自勝,上親解玉帶賜之。乙丑,次扶風,令朱友倫總兵侍衛。丙寅,次武功。丁卯,次興平,宰臣崔胤率百官迎謁。即日降制,以崔胤守司空、門下侍郎、平章事,復太清宮使、弘文館大學士、延資庫使、諸道鹽鐵轉運使、判度支,魏國公封邑如故。戊辰,次咸陽。己巳,入京師。天子素服哭于太廟,改服冕旒,謁九廟。禮畢,御長樂樓,大赦,百僚稱賀。全忠處左軍。辛未,宴全忠於內殿,內第子奏樂。是日,制內官第五可範已下七百人並賜死於內侍省,其諸道監軍及小使,仰本道節度使處斬訖奏,從全忠、崔胤所奏也。帝悲惜之,自為奠文祭之。

二月壬申朔。甲戌、制して全忠に「回天再造竭忠守正功臣」の名を賜う。己卯、制して輝王祚を諸道兵馬元帥に充てる。また制して回天再造竭忠守正功臣・宣武宣義天平護国等軍節度使・汴宋亳輝河中晉絳慈隰鄭滑潁鄆齊曹等州観察処置等使・太清宮修葺宮闕制置度支解県池場等使・開府儀同三司・検校太師・守中書令・河中尹・汴滑鄆等州刺史・上柱国・梁王・食邑九千戸・食実封六百戸硃全忠を司徒に守らせ、兼侍中・判六軍十二衛とす。吏部尚書・平章事裴樞を検校右僕射・同平章事とし、兼広州刺史・守太尉・中書令に可とし、諸道兵馬副元帥を充て、邑三千戸を進む。宰臣崔胤を清海軍節度・嶺南東道観察等使とす。甲戌、制して門下侍郎・兵部尚書・同平章事・監修国史陸扆を責授して沂王傅分司とす。己丑、上は寿春殿において全忠を宴す。また全忠に茂貞に書を送り、平原公主を取らせた。同州節度使趙翊・陝州節度使朱友謙来朝す。制して朱友裕を華州刺史とし、感化軍節度使を充てる。乙未、保甯殿において鞠を会し、全忠が頭籌を得たので、内弟子に酒を送らせ、なお面して副元帥の官告を賜う。新たに除された広州節度使裴樞を門下侍郎・吏部尚書・平章事・監修国史とす。戸部侍郎王溥を同平章事とす。戊戌、全忠は大梁に帰る。上は内殿においてこれを宴し、延喜門に酒を置く。この日、全忠と四鎮の判官は皆席に預かり、上は軒に臨み泣いて別れ、また中使を走らせて御製の『楊柳枝』詞五首を賜う。辛丑、平原公主京師に至る。

原文二月壬申朔。甲戌,制賜全忠「回天再造竭忠守正功臣」名。己卯,制以輝王祚充諸道兵馬元帥。又制以回天再造竭忠守正功臣、宣武宣義天平護國等軍節度使、汴宋亳輝河中晉絳慈隰鄭滑潁鄆齊曹等州觀察處置等使、太清宮修葺宮闕制置度支解縣池場等使、開府儀同三司、檢校太師、守中書令、河中尹、汴滑鄆等州刺史、上柱國、梁王、食邑九千戶、食實封六百戶硃全忠守司徒,兼侍中、判六軍十二衛。以吏部尚書、平章事裴樞檢校右僕射,同平章事,兼廣州刺史、可守太尉、中書令,充諸道兵馬副元帥,進邑三千戶。以宰臣崔胤清海軍節度、嶺南東道觀察等使。甲戌,制以門下侍郎、兵部尚書、同平章事、監修國史陸扆責授沂王傅分司。己丑,上宴全忠於壽春殿。又令全忠與茂貞書,取平原公主。同州節度使趙翊、陝州節度使朱友謙來朝。制以朱友裕為華州刺史,充感化軍節度使。乙未,會鞠于保甯殿,全忠得頭籌,令內弟子送酒,仍面賜副元帥官告。以新除廣州節度使裴樞為門下侍郎、吏部尚書、平章事、監修國史;以戶部侍郎王溥同平章事。戊戌,全忠歸大梁,上宴之內殿,置酒於延喜門。是日,全忠與四鎮判官皆預席,上臨軒泣別,又令中使走送御製《楊柳枝》詞五首賜之。辛丑,平原公主至京師。

三月壬寅朔、全忠は四鎮の兵を引きいて王師範を征す。先に、大将朱友甯・楊師厚の前軍が臨淄・青に臨み、師範は淮南に援を求め、楊行密は将王景仁を遣わし衆一万人を率いてこれに赴かせた。

原文三月壬寅朔,全忠引四鎮之兵征王師範。先是,大將朱友甯、楊師厚前軍臨淄、青,師範求援于淮南,楊行密遣將王景仁帥眾萬人赴之。

四月辛未朔、西川の王建は兵をもって秦・隴を攻め、茂貞の弱きに乗じ、なお判官韋莊を遣わして入貢し、全忠に好を修めた。

原文四月辛未朔,西川王建以兵攻秦、隴,乘茂貞之弱也,仍遣判官韋莊入貢,修好于全忠。

五月、制して鳳翔隴右四鎮北庭行軍・彰義軍節度・涇原渭武観察処置押蕃落等使・開府儀同三司・守尚書令・兼侍中・鳳翔尹・上柱国・秦王李茂貞を検校太師・守中書令に可とす。初め、茂貞は王室を凌ぎ弱め、朝廷は姑息し、尚書令を加えたが、この時全忠が方に太尉を守るに及び、茂貞は懼れ、尚書令を罷めんことを乞うた故なり。崔胤奏す、「六軍十二衛の名額は空しく存するも、実に兵士無し。京師の侍衛もまた親軍に藉る。請う、毎軍量りに一千一百人を召募し、共に六千六百人を置かん」と。これに従う。乃ち六軍諸衛副使・京兆尹鄭元規に格を立てて市中に招收せしむ。制して潁州刺史朱友恭を検校司空・兼徐州刺史とし、武甯軍節度使を充てる。全忠の奏に従うなり。

原文五月,制鳳翔隴右四鎮北庭行軍、彰義軍節度、涇原渭武觀察處置押蕃落等使、開府儀同三司、守尚書令、兼侍中、鳳翔尹、上柱國、秦王李茂貞可檢校太師、守中書令。初,茂貞淩弱王室,朝廷姑息,加尚書令,及是全忠方守太尉,茂貞懼,乞罷尚書令故也。崔胤奏:「六軍十二衛名額空存,實無兵士。京師侍衛,亦藉親軍。請每軍量召募一千一百人,共置六千六百人。」從之。乃令六軍諸衛副使、京兆尹鄭元規立格招收於市。制以潁州刺史朱友恭檢校司空,兼徐州刺史,充武甯軍節度使,從全忠奏也。

六月、青州・淮南軍は汴人と臨淄において戦い、汴軍大いに敗れ、朱友甯戦死し、首級は淮南に伝わる。

原文六月,青州、淮南軍與汴人戰於臨淄,汴軍大敗,朱友甯戰死,傳首淮南。

九月、汴将楊師厚は青州軍を臨朐において大いに破る。荊南節度使成汭は舟師を以て鄂州の援に赴く。澧朗の雷彥恭は虚に乗じて江陵を襲い陥とす。汭の軍士これを聞き潰れて帰り、汭は憤怒して水に投じて死す。趙匡凝は遂に兵を以て荊州を襲い、これを占拠す。辛巳、汴州護駕都将朱友倫、鞠を撃ちて馬より墜ち卒す。全忠怒り、同鞠の将校数人を殺す。

原文九月,汴將楊師厚大敗青州軍於臨朐。荊南節度使成汭以舟師赴援鄂州,澧朗雷彥恭承虛襲陷江陵。汭軍士聞之潰歸,汭憤怒投水而死。趙匡凝遂以兵襲荊州,據之。辛巳,汴州護駕都將朱友倫擊鞠墜馬卒,全忠怒,殺同鞠將校數人。

十一月丁酉朔、王師範は青州を以て楊師厚に降り、全忠はまた師範に青州事を知らしむ。邠州・鳳翔の兵士京畿に逼る。汴軍は河中に屯す。青州牙将劉鄩は兗州を以て葛従周に降り、師範の命に禀るなり。全忠これを嘉し、署して元帥府都押衙・権知鄜州留後事とす。

原文十一月丁酉朔,王師範以青州降楊師厚,全忠復令師範知青州事。邠州、鳳翔兵士逼京畿。汴軍屯河中。青州牙將劉鄩以兗州降葛從周,稟師範命也。全忠嘉之,署為元帥府都押衙,權知鄜州留後事。

十二月丁卯朔。辛巳、制して礼部尚書獨孤損を兵部侍郎・同平章事とす。丙申、制して守司徒・侍中・太清宮使・弘文館大学士・延資庫使・判六軍十二衛事・諸道塩鉄転運使・判度支・上柱国・魏国公・食邑四千五百戸崔胤を責授して太子賓客とし、守刑部尚書・兼京兆尹・六軍諸衛副使鄭元規を責授して循州司戸とす。この日、汴州扈駕指揮使朱友諒は胤及び元規・皇城使王建勳・飛龍使陳班・閣門使王建襲・客省使王建乂・前左僕射上柱国河間郡公張浚を殺す。全忠は将に車駕を逼りて洛陽に幸せんとし、胤・浚が異を立てんことを懼れたなり。

原文十二月丁卯朔。辛巳,制以禮部尚書獨孤損為兵部侍郎、同平章事。丙申,制守司徒、侍中、太清宮使、弘文館大學士、延資庫使、判六軍十二衛事、諸道鹽鐵轉運使、判度支、上柱國、魏國公、食邑四千五百戶崔胤責授太子賓客,守刑部尚書、兼京兆尹、六軍諸衛副使鄭元規責授循州司戶。是日,汴州扈駕指揮使朱友諒殺胤及元規、皇城使王建勳、飛龍使陳班、閣門使王建襲、客省使王建乂、前左僕射上柱國河間郡公張浚。全忠將逼車駕幸洛陽,懼胤、浚立異也。

天祐元年

原文天祐元年

二月丙寅朔。乙亥、全忠は洛陽に赴くことを辞し、親しく工作を督う。

原文二月丙寅朔。乙亥,全忠辭赴洛陽,親督工作。

四月丙寅朔。癸巳、帝は晋国夫人可証を遣わし詔を伝えて全忠に諭し、中宮が産褥で未だ安からず、十月を取って洛陽宮に入ると言う。全忠は上(帝)が遅留して変を俟つと意図し、甚だ怒り、牙将寇彦卿に謂いて曰く、「急ぎ陝州に往き、到る日便ち官家を促して発来せよ!」と。

原文四月丙寅朔。癸巳,帝遣晉國夫人可證傳詔諭全忠,言中宮誕蓐未安,取十月入洛陽宮。全忠意上遲留俟變,怒甚,謂牙將寇彥卿曰:「亟往陝州,到日便促官家發來!」

閏四月乙未朔。丁酉、車駕は陝州を発す。壬寅、谷水行宮に次ぐ。時に崔胤の募った六軍兵士は、胤の死後に亡散して並び尽き、上に従って東遷する者は、唯だ諸王・小黄門十数人、打球代奉内園小児合わせて二百余人のみ。全忠は陝に在り、仍って此の輩が変を為すを慮り、尽く去らんと欲し、汴卒を以て侍衛と為す。谷水頓に至り、全忠は医官許昭遠を令して内園等の謀変を告げさせ、因って会を設けて幄を張り、酒食の次に並びに之を坑(生き埋め)にし、乃ち謀逆を以て聞かしむ。是より帝の左右前後の侍衛職掌は、皆汴人なり。甲辰、車駕は徽安門より入る。朱全忠・張全義・宰相裴樞・独孤損が前導す。是日大風雨土、跬歩物色を弁ぜず、日暮れ稍やく止む。上は太廟を謁し、礼畢えて宮に還り、正殿に御して従官衛士を宣労し、駕を受く。乙巳、上は光政門に御し、大赦す。制して曰く、

原文閏四月乙未朔。丁酉,車駕發陝州。壬寅,次谷水行宮。時崔胤所募六軍兵士,胤死後亡散並盡,從上東遷者,唯諸王、小黃門十數,打球代奉內園小兒共二百餘人。全忠在陝,仍慮此輩為變,欲盡去之,以汴卒為侍衛。至谷水頓,全忠令醫官許昭遠告內園等謀變,因會設幄,酒食次並坑之,乃以謀逆聞。由是帝左右前後侍衛職掌,皆汴人也。甲辰,車駕由徽安門入,朱全忠、張全義、宰相裴樞獨孤損前導。是日大風雨土,跬步不辨物色,日暝稍止。上謁太廟,禮畢還宮,御正殿宣勞從官衛士,受駕。乙巳,上御光政門,大赦,制曰:

乃ち中州を睠み、便ち侯伯の会朝の路;運百六に逢い、古今の禳避の宜に順う。況や鼎を建つる旧京、我が家の二宅、轘轅其の左に通じ、郟・鄏其の前に引く。周の平王の東遷、更に姫姓を延ぶ;漢の光武の定業、克く劉宗を茂す。肇めて新都を葺き、天に永命を祈るは、皆否運に因り、復た昌期を啓く。或いは西に戎狄を避け、或いは妖孽に載すでに殲ほろぼさる。朕は家に遭うこと不造、徳を布くこと明ならず、十載已来、三たび播越に罹る。亦た災の秦・雍に纏わり、叛の邠・岐に起るに属す。始めに石門に幸し、以て衛兵の乱を避け;載ち華嶽を行き、仍って畿邑の侵を驚く。憂危なれば則ち矢は車輿に及び、淩脅なれば則ち火は宮廟に延ぶ。迨いたるに逆の宮豎に連なり、奸凶を構結するに至り、劉季述をして朕を下宮に幽せしめ、韓全誨をして予を右輔に劫せしむ。兵内殿を囲み、焰九重に亙るに匪あらざるは莫く、皆武を仮りて身を容れんと思い、唯だ鹿を指して衆を威すを效ならう。天憲を矯宣し、外籓を欺蔑し、書詔を行いて以て任情にし、忠良を欲して而も罪を獲うる。群方の嶽牧と雖も、力を協せて匡扶すと雖も、戎律を阻修に拘とどめ、朝恩を報じて隔越す。副元帥・梁王全忠は兼鎮近輔を以てし、兵を総べて四籓とし、遠く岐陽に赴き、躬みずから大駕を迎う。辛勤百戦、凶渠を尽く剿ほろぼし、野に営すること三年、竟に鑾輅を回す。鹹・鎬は載に其の宮闕を新たにし、譲・珪は閹徒に類を絶つ。方まさに再造の功を崇め、以て中興の運を正さんとす。又た邠岐は釁を結び、巴蜀しょくはしょくは兵を連ね、上は国恩に負い、下は鄰好を隳やぶる。宮を焚く烈火、更に親鄰に熱を延べ;駕を却する凶鋒、復た禁苑に侵を延ぶ。抑又た太一の遊処、並びに六宮に集まり、罰星熒惑、久しく東井に纏わり、玄象は災を秦分に薦すすめ、地形は洛陽に過ぐる無し。爰に一二の藎臣有り、洎および四方の同志、心を王室に竭し、共に嘉謀を誓う。魏鎮定燕は大河を航して畢く至り;陳徐潞蔡は巨軸を輦はこびて偕に来る。荊棘を披きて朝廷を立て、灰燼を劃わかちて輪奐に化す。左に郊祧、右に社稷、肅として崇嚴;前に廣殿、後に重廊、藹然として華邃。公卿僉議し、龜筮協従す。甲子令年、孟夏初吉、法駕を備えて陝分を離れ、百官を列して洛郊に入る。此の殷繁を観れば、良く多く嘉慰す。太廟に謝罪し、憂惕驚懐;端門に登御し、軫惻興感す。蓋し一人寡祐を以て、至りて萬姓靡甯、工役艱疲、忠良尽瘁、再遷の業を克く建て、八百の基を延べんことを冀う。宜しく渙汗の恩を覃ひろめ、此の雍熙の慶を俟つべし。瑕を滌ぎ垢を蕩し、咸く惟新に与あずかるべし。天下を大赦すべし。天復四年を改めて天祐元年と為す。於戲!眚を閶闔に肆ゆるし、即ち宮闈に安んず。九廟の几筵と雖も、已に新室に閟とざさる;而して諸陵の松柏、遥かに旧都に隔たる。将に乂寧を務めんとす、難く綣慕を申べし。文武百辟、執事具僚、我に従いて千里より来り、端ただしく爾なんじが一心政に蒞のぞめ。恩は既往に覃め、效は従新に責む。方に開国の初めに当たり、必ず慢官の罰を挙ぐべし。

原文乃睠中州,便侯伯會朝之路;運逢百六,順古今禳避之宜。況建鼎舊京,我家二宅,轘轅通其左,郟、鄏引其前。周平王之東遷,更延姬姓;漢光武之定業,克茂劉宗。肇葺新都,祈天永命,皆因否運,復啟昌期。或西避于戎狄,或載殲於妖孽。朕遭家不造,布德不明,十載已來,三罹播越。亦屬災纏秦、雍,叛起邠、岐。始幸石門,以避衛兵之亂;載行華嶽,仍驚畿邑之侵。憂危則矢及車輿,淩脅則火延宮廟。迨至逆連宮豎,構結奸凶,致劉季述幽朕于下宮,韓全誨劫予於右輔。莫匪兵圍內殿,焰亙九重,皆思假武以容身,唯效指鹿而威眾。矯宣天憲,欺蔑外籓,行書詔以任情,欲忠良而獲罪。雖群方嶽牧,協力匡扶,拘戎律于阻修,報朝恩而隔越。副元帥、梁王全忠以兼鎮近輔,總兵四籓,遠赴岐陽,躬迎大駕。辛勤百戰,盡剿凶渠,營野三年,竟回鑾輅。鹹、鎬載新其宮闕,讓、珪絕類於閹徒,方崇再造之功,以正中興之運。又邠岐結釁,巴蜀連兵,上負國恩,下隳鄰好。焚宮烈火,更延熱於親鄰;卻駕凶鋒,復延侵于禁苑。抑又太一遊處,並集六宮,罰星熒惑,久纏東井,玄象薦災于秦分,地形無過於洛陽。爰有一二藎臣,洎四方同志,竭心王室,共誓嘉謀。魏鎮定燕,航大河而畢至;陳徐潞蔡,輦巨軸以偕來。披荊棘而立朝廷,劃灰燼而化輪奐。左郊祧而右社稷,肅爾崇嚴;前廣殿而後重廊,藹然華邃。公卿僉議,龜筮協從。甲子令年,孟夏初吉,備法駕而離陝分,列百官而入洛郊,觀此殷繁,良多嘉慰。謝罪太廟,憂惕驚懷;登御端門,軫惻興感。蓋以一人寡祐,至萬姓靡甯,工役艱疲,忠良盡瘁,克建再遷之業,冀延八百之基。宜覃渙汗之恩,俟此雍熙之慶,滌瑕蕩垢,鹹與惟新。可大赦天下,改天復四年為天祐元年,於戲!肆眚閶闔,即安宮闈。雖九廟几筵,已閟於新室;而諸陵松柏,遙隔於舊都。將務乂甯,難申綣慕。文武百辟,執事具僚,從我千里而來,端爾一心蒞政。恩覃既往,效責從新,方當開國之初,必舉慢官之罰。

戊申、勅す、今後宣徽両院・小馬坊・豊徳廟・御厨・客省・閣門・飛龍・庄宅の九使を留めて除く外、其の余は並びに停む。内園冰井の公事は河南尹に委ね、仍って内夫人を差して伝宣せず。医官閻祐之・国子博士欧陽特を殺す。星讖を言うなり。宰相裴樞は右僕射・諸道塩鉄転運等使・監修国史を兼ね、戸部尚書・門下侍郎・平章事独孤損は度支を判じ、中書侍郎・平章事柳璨は戸部事を判ず。

原文戊申,敕今後除留宣徽兩院、小馬坊、豐德廟、御廚、客省、閣門、飛龍、莊宅九使外,其餘並停。內園冰井公事委河南尹,仍不差內夫人傳宣。殺醫官閻祐之、國子博士歐陽特,言星讖也。宰相裴樞兼右僕射、諸道鹽鐵轉運等使、監修國史,戶部尚書、門下侍郎、平章事獨孤損判度支,中書侍郎、平章事柳璨判戶部事。

五月乙丑朔。丙寅、河陽節度使張漢瑜を同平章事に制す。百僚を崇勳殿に宴す。上は全忠の功業を贊述し、因って言う、御楼前一日に所司赦書を亡失し、元帥府の収めて得たる副本に頼りて施行す、幾ほとんど事を失わんとす、中書は過無きを得ずと。裴樞等起ちて罪に待つ。中飲、帝は更衣し、全忠を召して閣中に曲宴す。全忠は懇ろに辞す。帝曰く、「朕は全忠の功業崇高を以て、斎中に款曲し、以て庇頼を表さんと欲す。全忠既に来たるを欲せずば、即ち敬翔を令して来らしめ、朕之と言わん」と。全忠は敬翔を令して私に退かしめ、奏して曰く、「敬翔も亦た酔して出でたり」と。己巳、全忠は辞して大梁に赴かんとす。崇勳殿に宴す。是日雨甚だし。乙酉、翰林学士・左諫議大夫・知制誥沈棲遠は本官を守る。病を以て陳乞する故なり。丁亥、勅す、河南府畿県は先に尉一員を減ず、京兆府の例に准じ、復た県尉一員を置くべし。癸巳、中書奏す、今年四月十一日の赦文に准うれば、陝州都督府は興唐府と改め、其の都督府長史は宜しく尹と改め、左右司馬は少尹と為し、録事は司録と為し、陝県は次赤と為し、余は次畿と為すべし。之に従う。

原文五月乙丑朔。丙寅,制河陽節度使張漢瑜同平章事。宴百僚於崇勳殿,上贊述全忠之功業,因言御樓前一日所司亡失赦書,賴元帥府收得副本施行,幾失事矣,中書不得無過。裴樞等起待罪。中飲,帝更衣,召全忠曲宴閣中,全忠懇辭。帝曰:「朕以全忠功業崇高,欲齋中款曲,以表庇賴耳。全忠既不欲來,即令敬翔來,朕與之言。」全忠令敬翔私退,奏曰:「敬翔亦醉而出矣。」己巳,全忠辭赴大梁,宴於崇勳殿,是日雨甚。乙酉,翰林學士、左諫議大夫、知制誥沈棲遠守本官,以病陳乞故也。丁亥,敕河南府畿縣先減尉一員,可准京兆府例,復置縣尉一員。癸巳,中書奏:准今年四月十一日赦文,陝州都督府改為興唐府,其都督府長史宜改為尹,左右司馬為少尹,錄事為司錄,陝縣為次赤,餘為次畿。從之。

六月甲午朔、邠州の楊崇本は関内を侵掠す。全忠は朱友裕を遣わして軍を百仁村に屯せしむ。丙申、通議大夫・中書舎人・賜紫金魚袋楊注は翰林学士に充つべし。庚子、三仏斉国の入朝使薄訶粟は甯遠将軍に可よろし。丁未、金紫光禄大夫・太子少傅盧紹は太子太保致仕に可しと制す。銀青光禄大夫・太子少師・天水男・食邑三百戸趙崇は検校右僕射に可し。甲寅、京兆少尹鄭韜光を太常少卿と為し、前侍御史韋説を右司員外郎と為し、前進士姚顗を校書郎と為し、前進士趙頎・劉明済・竇専は並びに秘書省校書郎正字に可し。柳璨の奏に従うなり。荊南襄州忠義軍節度・開府儀同三司・検校太師・中書令・江陵尹・襄州刺史・上柱国・楚王・食邑六千戸趙匡凝は宜しく礼を備えて冊命すべし。

原文六月甲午朔,邠州楊崇本侵掠關內,全忠遣朱友裕屯軍於百仁村。丙申,通議大夫、中書舍人、賜紫金魚袋楊注可充翰林學士。庚子,三佛齊國入朝使薄訶粟可甯遠將軍。丁未,制金紫光祿大夫、太子少傅盧紹可太子太保致仕。銀青光祿大夫、太子少師、天水男、食邑三百戶趙崇可檢校右僕射。甲寅,以京兆少尹鄭韜光為太常少卿,前侍御史韋說為右司員外郎,前進士姚顗為校書郎,前進士趙頎、劉明濟、竇專並可秘書省校書郎正字,從柳璨奏也。荊南襄州忠義軍節度、開府儀同三司、檢校太師、中書令、江陵尹、襄州刺史、上柱國、楚王、食邑六千戶趙匡凝宜備禮冊命。

七月癸亥朔、全忠は軍を率いて邠・鳳を討つ。甲子、汴より洛陽に至り、文思球場にて宴を催す。全忠入場す、百官或いは廊下に坐す、全忠怒り、通引官何凝を笞つ。丙寅、制す、金紫光禄大夫・行御史中丞・上柱國韓儀を責めて棣州司馬に授け、侍御史歸藹を責めて登州司戸に授く、百官全忠に傲るを坐すなり。甲戌、制す、中大夫・中書舍人・上柱國・賜紫金魚袋杜彥林を以て太中大夫・守御史中丞と為す。丁丑、制す、兵部郎中蕭頎を以て吏部郎中と為し、戸部郎中徐綰を以て兵部郎中と為し、司勲員外郎張茂樞を以て礼部郎中と為し、監察御史郤殷象を以て右補闕と為す。己卯、制す、武昌軍節度・鄂岳蘄黄等州観察処置兼三司水陸発運淮南西面行営招討等使・開府儀同三司・検校太師・中書令・西平王・食邑三千戸杜洪に食邑一千戸を加え、実封二百戸を加ふ。庚寅、中書奏す:「西京旧に凌煙閣有り、功臣を図画す、今都を洛陽に遷す、合議して修建すべし。副元帥梁王の勲庸世に冠たり、凌煙閣の側に別に一閣を創り、以て殊勲を表すことを請ふ。」之に従ふ。

原文七月癸亥朔,全忠率師討邠、鳳。甲子,自汴至洛陽,宴于文思球場。全忠入,百官或坐於廊下,全忠怒,笞通引官何凝。丙寅,制金紫光祿大夫、行御史中丞、上柱國韓儀責授棣州司馬,侍御史歸藹責授登州司戶,坐百官傲全忠也。甲戌,制以中大夫、中書舍人、上柱國、賜紫金魚袋杜彥林為太中大夫、守御史中丞。丁丑,制以兵部郎中蕭頎為吏部郎中,戶部郎中徐綰為兵部郎中,司勳員外郎張茂樞為禮部郎中,監察御史郤殷象為右補闕。己卯,制武昌軍節度、鄂岳蘄黃等州觀察處置兼三司水陸發運淮南西面行營招討等使、開府儀同三司、檢校太師、中書令、西平王、食邑三千戶杜洪加食邑一千戶,實封二百戶。庚寅,中書奏:「西京舊有淩煙閣,圖畫功臣,今遷都洛陽,合議修建。副元帥梁王勳庸冠世,請淩煙閣之側別創一閣,以表殊勳。」從之。

八月壬辰朔。壬寅の夜、朱全忠、左龍武統軍朱友恭・右龍武統軍氏叔琮・枢密使蔣玄暉に令して昭宗を椒殿に弑しいせしむ。帝洛に遷りてより、李克用・李茂貞・西川王建・襄陽趙匡凝、全忠の簒さん奪さんだつの謀を知り、盟を連ね義を挙げ、以て興復を辞と為す。而して帝英傑にして群せず、全忠方に西討を事とし、変の中より起こるを慮り、故に帝を害して以て人望を絶つ。帝長安を離れてより、日々不測を憂ひ、皇后・内人と唯だ沈飲して自ら寛ぐ。是の月壬寅、全忠、判官李振に令して河中より洛陽に至らしめ、友恭等と之を図る。是の夜二鼓、蔣玄暉、龍武衙官史太等百人を選び内門を叩き、軍前に急奏有りて上に面見せんと云ふ。内門開く、玄暉毎門に卒十人を留め、椒殿院に至る、貞一夫人関を啓き、玄暉に謂ひて曰く「急奏は卒を以て来るべからず」と。史太、貞一を執りて之を殺し、急ぎ殿下に趨る。玄暉曰く「至尊何れの処にか在る」と。昭儀李漸栄軒に臨みて玄暉に謂ひて曰く「院使官家を傷つくる莫れ、寧ろ我輩を殺せ」と。帝方に酔ひ、之を聞きて遽かに起つ。史太剣を把りて椒殿に入る、帝単衣にして柱を旋りて走る、太追ひて之を弑す。漸栄身を以て帝を護り、亦た太に殺さる。復た何皇后を執り、将に之を害せんとす。後玄暉に哀を求む、玄暉全忠の帝を害せよとのみ令するを以て、後を釈して去る。帝殂す、年三十八、群臣上諡して聖穆景文孝皇帝と曰ひ、廟号を昭宗とす。二年二月二十日、和陵に葬る。

原文八月壬辰朔。壬寅夜,朱全忠令左龍武統軍朱友恭、右龍武統軍氏叔琮、樞密使蔣玄暉弑昭宗於椒殿。自帝遷洛,李克用、李茂貞、西川王建、襄陽趙匡凝知全忠篡奪之謀,連盟舉義,以興復為辭。而帝英傑不群,全忠方事西討,慮變起於中,故害帝以絕人望。帝自離長安、日憂不測,與皇后、內人唯沉飲自寬。是月壬寅,全忠令判官李振自河中至洛陽,與友恭等圖之。是夜二鼓,蔣玄暉選龍武衙官史太等百人叩內門,言軍前有急奏面見上。內門開,玄暉每門留卒十人,至椒殿院,貞一夫人啟關,謂玄暉曰:「急奏不應以卒來。」史太執貞一殺之,急趨殿下。玄暉曰:「至尊何在?」昭儀李漸榮臨軒謂玄暉曰:「院使莫傷官家,寧殺我輩。」帝方醉,聞之遽起。史太持劍入椒殿,帝單衣旋柱而走,太追而弑之。漸榮以身護帝,亦為太所殺。復執何皇后,將害之。後求哀于玄暉,玄暉以全忠止令害帝,釋後而去。帝殂,年三十八,群臣上諡曰聖穆景文孝皇帝,廟號昭宗。二年二月二十日,葬於和陵。