旧唐書
志第三 礼儀 三
封禅の礼は、漢の光武帝の後、長い世を経て行われなかった。隋の開皇十四年、晋王広が百官を率いて上表し、固く封禅を請うた。文帝は牛弘・辛彦之・許善心らに命じて儀注を創定させた。十五年に至り、行幸して兗州に至り、遂に泰山の下において壇を設けて祭祀を行い、南郊の礼の如くしたが、結局山に登らずして還った。
貞観六年、突厥を平定し、穀物がたびたび豊作となり、群臣が上言して泰山に封禅することを請うた。太宗は言った。「議する者は封禅を大典とする。朕の本心としては、ただ天下を太平にし、家々に人々が足りるようにすれば、たとえ封禅の礼が欠けていても、堯・舜の徳に比べることができよう。もし百姓が足りず、夷狄が内に侵入するならば、たとえ封禅の儀を修めても、桀・紂と何の異なることがあろうか。昔、秦の始皇は自ら徳が天心に和すると称し、自ら皇帝と称し、岱宗に登封したが、奢侈で自ら誇った。漢の文帝はついに登封せず、自ら倹約を行い、刑罰を用いなかった。今、皆が始皇を暴虐の主と称し、漢文を有徳の君と称する。このことから言えば、封禅を借りる必要はない。礼に『至敬は壇せず』とあり、地を掃いて祭れば、至誠を表すに足りる。何ぞ必ずしも遠く高山に登り、数尺の土を封ずる必要があろうか。」侍中王珪が対えて言った。「陛下が徳音を発し、封禅の本末を明らかにされたことは、愚臣の及ぶところではありません。」秘書監魏征が言った。「隋末の大乱で、黎民は陛下に遇って初めて生きる望みを持ちました。これを養うことは至仁ですが、これを労することはまだできません。升中の礼は、千乗万騎を備え、供帳の費用は数州を動役します。戸口が蕭条としているのに、どうして供給できましょうか。」太宗は深く魏征の言を嘉し、しかし内外の章表が止まなかった。上は礼官に両漢の封山の儀注を問い、そこで中書侍郎杜正倫を遣わして泰山の上七十二帝の壇跡を行かせた。この年、両河に水害があり、その事はやむこととなった。十一年に至り、群臣が再び封山を勧め、初めてその礼を議した。そこで国子博士劉伯荘・睦州刺史徐令言らが、それぞれ封祀の事を上言し、互いに疑議を設け、見解が異なった。多くは新礼中の封禅儀注が簡略で周到でないと言った。太宗は秘書少監顔思古・諫議大夫朱子奢らに命じ、四方の名儒博物の士と得失を参議させた。議する者は数十家、互いに駁難し、紛紜として久しく決しなかった。そこで左僕射房玄齢・特進魏征・中書令楊師道が、衆議を博く採り、行用に堪え、かつ旧礼と異なるものを奏上した。
その昊天上帝の壇を議して言った。「封ずる前に先ず祭るのは、神に告げるという義にあり、かつ謁敬の儀を備え、慶成の礼を展べるためである。固より壇の下の阯において、予め斎潔を申し、賛饗が既に畢わった後、然る後に登封すべきである。既に重慎の深さを表し、兼ねて行事に漸があることを示す。今、泰山の下に祭り、壇を設けて上帝を祀り、景皇帝を配享することを請う。壇は長さ十二丈、高さ一丈二尺とする。」また玉牒の制を議して言った。「金玉の重宝は、質性が貞堅であり、宗祀・郊禋に皆、器幣として用いる。華美を嫌うことなく、実に精確を貴ぶ。況や三神の壮観、万代の鴻名、礼は極めて殷崇であり、事は藻縟を資とする。玉牒・玉検は、式として霊奇を韞む。これを伝えて窮まりなく、永く存して朽ちない。今、玉牒は長さ一尺三寸、広さ・厚さ各五寸とすることを請う。玉検は厚さ二寸、長短・闊狭は全て玉牒と同じとする。その印歯は璽の大きさに従い、なお金縄を五周纏うことを請う。」また玉策を議して言った。「封禅の祭は、厳配して主と作り、皆玉策を奠し、粛奉して虔誠を尽くす。今、玉策四枚、各々長さ一尺三寸、広さ一寸五分、厚さ五分とする。毎策五簡、全て金で編む。その一つは上帝に奠し、一つは太祖の座に奠し、一つは皇地祇に奠し、一つは高祖の座に奠す。」また金匱を議して言った。「登配の策は、金匱に盛り、帰って藝祖の廟室に格する。今、長短は玉策を容れるようにし、高さ・広さ各六寸とすることを請う。形制は今の表函の如くとする。金縄で纏い、金泥で封じ、受命璽で印する。」また方石の再累を議して言った。「旧く玉牒を蔵するには、ただ石函を用い、また書を篋笥に盛るのと同様であり、それゆえ或いは石篋と呼ぶ。今、方石三枚を以て再累と為すことを請う。その十枚の石検は、方石の四辺に刻してこれを立てる。金縄で纏い、石泥で封じ、受命璽で印する。」また泰山の上の円壇を議して言った。「四出して道を開き、壇場を通ずるは義であり、南面より入り昇るは、事において允当である。今、介丘の上の円壇は広さ五丈、高さ九尺とし、五色の土を以てこれを加えることを請う。四面各々一階を設ける。御位は壇の南にあり、南階より昇り、上に就いて玉牒を封ずる。」また円壇の上の土封を議して言った。「凡そ封というは、皆、土を積む名である。利を建てて分封するも、またこれをもって社を班ち号を立てる。これを封禅と謂う、その義は知り得る。今、円壇の上に方石を安置し、璽緘が既に畢わった後、土を加えて築き以て封と為すことを請う。高さ一丈二尺、広さ二丈とし、五色の土を以て封を益し、玉牒をその内に蔵す。祀禅の土の封制もまたこれと同じとする。」また玉璽を議して言った。「謹んで前載を詳らかにするに、方石を緘封するには、玉検・金泥、必ず印璽を資として、以て秘固と為す。今、令に依り受命璽を用いて石検を封ずることを請う。その玉検は既に石検と大小が異なるので、請うらくは更に璽一枚を造り、方一寸二分、文は受命璽と同じくし、以て玉牒を封ずる。石検の形制は、漢の建武の故事に依る。」また碑を立てることを議して言った。「石に勒して号を紀し、功業を顕揚し、登封降禅し、肆覲の壇に、碑を立ててこれを紀する。」また告至の壇を設けることを議して言った。「既に山下に至り、礼を行って至りたることを告げ、東方の上帝に柴し、望秩して遍く群神に礼する。今、その壇は方八十一尺、高さ三尺、陛はなお四出とすることを請う。その禅の方壇及びその余の儀式は、今の礼に従うことを請う。なお柴祭・望秩を同時に行うことを請う。」また石闕及び大小の距石を廃することを議して言った。「距石を設けるのは、牢固を取る意であり、本、実用を資するもので、どうして彫飾と言えようか。今、既に土を厚く積んで封じるので、天長地久に足る。その小距が壇を環らし、石闕を回らして建てることは、事、経誥に非ず、礼義に益なく、煩にして要ならず、減省することを請う。」
太宗はその議に従い、なお礼に附することを命じた。
十五年、詔を下し、将に泰山に事あらんとし、復た公卿諸儒に命じて儀注を詳定させた。太常卿韋挺・礼部侍郎令狐徳棻を封禅使とし、その議を参考させた。時に論者はまた異見を執り、顔師古が上書して前議を申し明らかにした。太宗はその奏を覧て、多く師古の陳ぶる所に依って定めた。車駕が洛陽宮に至った時、彗星の変があったので、乃ち詔を下してその事を罷めた。
高宗が即位し、公卿がたびたび封禅を請うた。則天が既に皇后として立てられた後、また密かにこれを賛した。麟徳二年二月、車駕が京を発し、東に巡狩し、礼官・博士に詔して封禅の儀注を撰定させた。
有司は乾封元年正月戊辰朔に先立ち、有司は斎戒した。祀りの前七日の平旦に、太尉が百官に行従の中台において誓い、云う。「来月一日に封祀し、二日に泰山に登封し、三日に社首に禅す。各々その職を揚げ、その事に供せざれば、国に常刑あり。」上は行宮において四日間斎し、三日間致斎した。近侍の官で昇るに従うべき者、及び従事の群官・諸方の客使は、各々本司の公館において一宿清斎した。祀りの前一日、諸衛はその属に令す。未の後の一刻に、黄麾半仗を外壝の外に設け、楽工人とともに一宿清斎した。
有司は太岳の南四里に円壇を造り、三層・十二階とし、円丘の制の如くす。壇上は青をもって飾り、四面は各々方色に依る。また燎壇及び壝三重を造る。また玉策三枚を造り、皆金縄をもって連ね編み玉簡を以てこれを作る。各簡は長さ一尺二寸、広さ一寸二分、厚さ三分、玉を刻み金を填めて字とす。また玉匱一つを造り、以て正座の玉策を蔵し、長さ一尺三寸。併せて玉検は方五寸、縄に当たる処に刻みて五道とし、封璽に当たる処に刻み深さ二分、方一寸二分。また金匱二つを造り、以て配座の玉策を蔵し、制度は玉匱の如し。また黄金の縄を造り以て金玉の匱を纏め、各五周す。金泥・玉匱・金匱とす。玉璽一枚を造り、方一寸二分、文は受命璽と同じくし、玉匱・金匱を封ず。また石感を造り、以て玉匱を蔵す。方石を再累を用い、各々方五尺、厚さ一尺、方石の中を刻み玉匱を容るることを令す。感の旁に検を施す処は、皆深さ三寸三分、闊さ一尺に刻む。縄に当たる処は皆深さ三分、闊さ一寸五分に刻む。石検十枚を造り、以て石感を検し、皆長さ三尺、闊さ一尺、厚さ七寸。皆印歯三道に刻み、深さ四寸。封璽に当たる処は方五寸、通縄に当たる処は闊さ一寸五分。皆小石の蓋有り、制は検の刻む処と相応じ、以て検を擫み封泥す。その検は感の旁に立ち、南方・北方各三、東方・西方各二、感の隅を去ること皆七寸。また金縄を造り以て石感を纏め、各五周、径三分。石泥を造り以て石感を泥し、その泥は、末石と方色の土を和してこれを作る。距石十二枚を造り、分かち感の隅に距し、皆再累、各闊さ二尺、長さ一丈、その首を斜めに刻み、感の隅と相応ずることを令す。
泰山の上に、登封の壇を設け、上の径五丈、高さ九尺、四出陛。壇上は青をもって飾り、四面は方色に依る。一壝、地の宜に随う。その玉牒・玉匱・石感・石検・距石は、皆封祀の制の如し。また降禅の壇を社首山上に造り、方壇八隅、一層八陛、方丘の制の如し。壇上は黄をもって飾り、四面は方色に依る。三壝、地の宜に随う。その玉策・玉匱・石感・石検・距石等も、また封祀の制と同じし。
その年の十二月に至り、車駕は山下に至る。及び有司が儀注を進奏するに、封祀は高祖・太宗を以て同配とし、禅社首は太穆皇后・文德皇后を以て同配とし、皆公卿を以て亜献・終献の礼を充てんとす。ここにおいて皇后が表を抗して曰く。
伏して尋ぬるに、登封の礼は古先に遠く邁り、而降禅の儀は窃かに未だ允ならずと為す。その地祇を祭る日の、太后を昭配と為すに至り、行事を行うに皆公卿を以てす。妾が愚誠を以てすれば、恐らく未だ周備せざらん。何となれば、乾坤定位し、剛柔の義已に殊なり、経義載陳し、中外の儀斯に別なり。瑤壇に作配するは、既に方祇に合し、玉豆に芳を薦むるは、実に内職に帰す。況や先後を推尊し、親しく瓊筵を饗するに、豈に外命の宰臣有りて、内に禋祭に参ぜんや。至理に詳らかにすれば、徽章を紊う有り。但だ礼節の源は、昔典に興ると雖も、而して升降の制は、尚ほ遙図に缺く。且つ往代の封嶽は、顕号と云うと雖も、或は時俗に因り、意は仙を尋ぬるに在り、或は情名を覬み、事深く己の為とす。豈に化四表に被り、美を神宗に推し、道二儀に冠り、功を先徳に帰するが如からんや。寧ぞ旧軌に仍り遵い、彝章を創さざらんや。
妾は謬りて椒闈に処り、叨りて蘭掖に居る。但だ職は惟だ中饋に在り、道は蒸・嘗に属し、義は奉先に切にし、理は蘋・藻に光る。罔極の思は、載せて因心に結び、祗肅の懷は、実に明祀に深し。但だ妾は早く定省に乖き、已に晨昏に侍するを闕き、今崇禋に属す。豈敢えて帷帟に安からんや。是故に情を夕寝に馳せ、嬴裏を睠みて魂を翹げ、慮を宵興に疊ね、深郊を仰ぎて念を聳ます。伏して望む、礼を展ぶるの日、総べて六宮内外の命婦を率い、以て親しく奠を奉ぜんことを。冀くは如在の敬を申し、式として虔拜の儀を展べん。この微誠を積み、已に気序に淹る。既に鑾輿将に警め、奠璧賒からずに属す。輒ち丹心を效し、庶くは大礼を裨せん。冀くは聖朝則を垂れ、永く芳規に播し、螢燭の末光、日月に輝を増さんことを。
ここにおいて地祇・梁甫を祭るに、皆皇后を以て亜献と為し、諸王の大妃を以て終献と為す。
丙辰、前羅文府果毅李敬貞、封禅には明水を以て樽を実すべきを論じて曰く、「『淮南子』に云う、'方諸月を見れば、則ち津して水と為す'と。高誘の注に云う、'方諸は陰燧、大蛤なり。熟く摩拭して熱からしめ、以て月に向かえば、則ち水生ず。銅盤を以てこれを受け、下ること数石'と。王充の『論衡』に云う、'陽燧は日に火を取り、方諸は月に水を取り、相去ること甚だ遠し。而して火至り水来るは、気感の験なり'と。『漢旧儀』に云う、'八月酎を飲み、車駕は夕牲し、鑒諸を以て月に水を取り、陽燧を以て日に火を取る'と。『周礼・考工記』に云う、'金に六斉有り。金錫半ばするは、これを鑒燧の斉と謂う'と。鄭玄の注に云う、'鑒燧は、水火を日月の器に取るなり'と。鄭のこの注に准うれば、則ち水火の器は、皆金錫を以てこれを作る。今司宰に陽燧有り、形は円鏡の如く、以て明火を取り、陰鑒は形は方鏡の如く、以て明水を取る。但だ比年の祠祭は、皆陽燧を用いて火を取り、時に応じて得、陰鑒を用いて水を取るは、未だ得る者無く、常用井水を以て明水の処に替う'と。」奉勅して礼司に研究せしむ。敬貞因りて先儒の是非を説き、言明水に及びて、乃ち云く、「周礼の金錫相半ばするは、自是れ陽燧を造る法なり。鄭玄錯りて解きて陰鑒の制と為す。仍って古の明水を取る法は、方諸を用うるに合し、『淮南子』等の書を引き、大蛤を用う。」又称して、「敬貞は曾て八九月中に、蛤一尺二寸の者を取り法に依りてこれを試む。人定より夜半に至り、水四五斗を得たり。」奉常奏して曰く、「封禅祭祀は、即ち明水を須いて樽を実す。敬貞の陳ぶる所は、故実を検する有り。」又称して、「先ず経験を試み確執す。望み請う、敬貞を差し自ら蚌蛤を取り、便ち太山に赴きて所司と対試せしめん。」
この日、制して曰く、「古今の典制、文質同じからず。制度に至りては、世代に随い沿革す。唯だ天地を祀るは、独り改張せず。斯れ乃ち自ら厚きに処り、天を奉るに薄きを以てす。又今の封禅は、即ち玉牒金縄を用い、器物の間に復た瓦樽秸席有り。一時に行礼し、文質頓に乖き、駁にして倫れず、深く未だ愜わず。その封祀・降禅の設くる上帝・後土の位、先に颭秸・瓦甒・瓢杯等の物を設くるは、並びに宜しく裀褥罍爵に改用し、毎事文に従うべし。その諸郊祀も亦宜しく此に准うべし。」ここにおいて昊天上帝の座褥は蒼を以てし、皇地祇の褥は黄を以てし、配帝及び後の褥は紫を以てし、五方上帝及び大明・夜明の席は皆方色を以てし、内官已下の席は皆莞を以てす。
三年正月、帝は山下の封礼の壇において昊天上帝を親享し、円丘の儀式の如くであった。祭祀が終わると、自ら玉策を封じて石感に置き、五色の土を集めて封じた。円径は一丈二尺、高さは九尺。その日、帝は侍臣以下を率いて泰山に登った。翌日、山上の登封の壇に就き玉策を封じ終えると、再び山下の斎宮に還った。その翌日、社首山の降禅の壇において皇地祇を親祀し、方丘の儀式の如くであった。皇后が亜献となり、越国太妃燕氏が終献となった。翌日、上は朝覲壇に臨んで群臣を朝し、元日の儀式の如くであった。礼が終わると、文武の百僚を宴し、大赦を行い元号を改めた。初め、上は降禅の壇において親享し、初献の礼を終えると、執事者は皆急いで下がった。宦官が帷を執り、皇后が六宮を率いて登壇し、礼を行った。帷や帟は皆錦繡で作られていた。百僚が在位して眺め、或いはひそかに議論した。ここにおいて詔して登封・降禅・朝覲の碑を立て、各々壇の場所に置いた。また詔して封祀壇を舞鶴台と名付け、介丘壇を万歳台とし、降禅壇を景雲台と名付け、当時見られた瑞祥を記念した。
高宗は泰山を封禅した後、さらに五嶽を遍く封ぜんと欲した。永淳元年に至り、洛州嵩山の南に崇陽県を置いた。その年七月、奉天宮の造営を命じた。二年正月、車駕は奉天宮に幸した。七月に至り、その年十一月に嵩嶽において封禅を行わんとする詔を下した。国子司業李行偉・考工員外郎賈大隱・太常博士韋叔夏・裴守貞・輔抱素らに詔して儀注を詳定させた。ここにおいて議して曰く、
封祀壇を立てるは、円丘の制の如く。上は玄色で飾り、四面は方色に依る。円壇と為し、三成、高さ二丈四尺、各等高さ六尺。壇上の径は十六歩、三等各々広さ四歩。十二陛を設け、陛は皆上幅八尺、下幅一丈四尺。三重の壝を為し、外壝より三十歩距て、内壝は五十歩距てる。燎壇は壇の東南外壝の内にあり、高さ三尺、方一丈五尺、南に陛を出す。登封壇は、円径五丈、高さ九尺。四出陛、一壝を為し、五色で飾り、封祀に準ず。禅祭壇は、上を金色で飾り、四面は方色に依り、八角方壇と為し、再成、高さ一丈二尺、各等高さ四尺。壇上の方十六歩、各等広さ四歩、八陛を設く。その上壇の陛は皆幅八尺、中等の陛は皆幅一丈、下等の陛は皆幅一丈二尺。三重の壝の大小は、封祀に準ず。埋坎を為し、壇の未地外壝の内にあり、方深は物を容るるに足るを取り、南に陛を出す。朝覲壇は、行宮の前に壇を為す。宮は方三分。壝二、南にあり。壇は方二十四丈、高さ九尺、南面に両陛、余の三面は各々一陛。封祀・登封は、五色土で石感を封じて円封と為し、上径一丈二尺、下径三丈、高さ九尺。禅祭は、五色土で封じて八角方封と為し、大小は封祀の制度に準ず。用いる尺寸は、歴代の東封に準じ、並びに古尺を用いる。諸壇は並びに土を築いて之を為し、礼に石を用うるの文なし。並びに影を度りて以て方位を定む。登封・降禅は、四出陛各々四方の中に当たり、陛は各々上幅七尺、下幅一丈二尺。封祀の玉帛の料は、蒼璧有り、四圭有邸、圭璧有り。禅祭は黄琮有り、両圭有邸、圭璧無し。
また登封・降禅・朝覲等の日を定む。礼に準ずれば、冬至に円丘にて天を祭る。その封祀は十二日を用いんことを請う。東封祀の故事に準ずれば、十二日登封、十三日禅祭、十四日朝覲。若し故有らば、登封以下の期日を改むるを須い、礼に妨げ無し。
また輦輿の料に云う:封祀・登封は、皇帝出ずるには玉輅に乗り、還るには金輅に乗る。皇太子は往還ともに金輅。禅祭は、皇帝・太子は封祀の如し。また衣服の料に云う:「東封祠祭の日、天皇は袞冕を服す。近く制を奉じ、『貞観礼』に依り大裘を服す。また云う:袞冕服一具、斎に之を服す;通天冠服一具、回りに之を服す;翼善冠服一具、馬上に之を服す。皇太子は袞冕服。また斎すれば則ち遠遊冠を服し、朝を受くれば則ち公服遠遊冠服、馬上では則ち進德冠服。
当時また射牛の礼を詳しく求めしむることを令す。行偉・守貞ら議して曰く:「『周礼』及び『国語』に拠れば、天地を郊祀するに、天子自ら其の牲を射る。漢の武帝は唯泰山を封ずるに、侍中の儒者に牛を射しめて行事せしむ。余の祀に至っては、亦た牲を射るの文無し。但し親しく舂き牲を射るは、古礼と雖も、久しく廃省に従う。封禅礼に拠れば、祀の日、未明十五刻に、宰人が鑾刀を以て牲を割き、質明にして行事す。鑾駕の至る時に比すれば、牢牲は総べて畢わり、天皇は唯玉を奠し酌献するのみ。今若し祀の前一日に牲を射れば、事即ち早きを傷つく。祀の日に方りて始めて牲を射れば、事又た晩きを傷つく。若し漢武の故事に依らば、即ち親射の儀に非ず、事行うべからず。」詔して之に従う。尋で高宗の不豫に属し、遂に封禅の礼を罷む。
則天証聖元年、嵩山に事有らんとし、先ず使いを遣わして祭りを致し福を祈り助けしめ、制を下し、嵩山を神嶽と号し、嵩山神を天中王と尊び、夫人を霊妃とす。嵩山旧に夏の啓及び啓母・少室阿姨の神廟有り、皆令して予め祈祭せしむ。天冊万歳二年臘月甲申に至り、親しく登封の礼を行ふ。礼畢りて、便ち大赦し、元号を万歳登封と改め、嵩陽県を登封県と改め、陽成県を告成県と改む。粤に三日丁亥、少室山に禅す。又た二日己丑、朝覲壇に臨み群臣を朝し、皆乾封の儀の如し。則天は封禅の日を嵩嶽の神祇の祐る所と為し、遂に神嶽天中王を神嶽天中皇帝と尊び、霊妃を天中皇后とし、夏后啓を斉聖皇帝とす;啓母神を玉京太后に封じ、少室阿姨神を金闕夫人とす;王子晋を升仙太子とし、別に廟を立てしむ。登封壇の南に槲樹有り、大赦の日に其の杪に金鶏樹を置く。則天自ら『升中述志碑』を製し、壇の丙の地に樹つ。
玄宗開元十二年、文武の百僚・朝集使・皇親及び四方の文学の士は、皆以て理化升平し、時に穀屡ねて稔るを以て、上書して封禅の礼を修めんことを請い並びに賦頌を献ずる者、前後千余篇有り。玄宗は謙沖として許さず。中書令張説又た累日固く請う。乃ち制を下して曰く、
古より命を受けて王と為る者は、曷ぞ泰山を封じ梁父に禅へずして、厚徳に答え成功を告げんや。三代以前は、此れに由らざるは罔し。魏・晋より越え、周・隋に至るまで、帝典闕けて大道隠れ、王綱弛んで旧章缺け、千載寂寥たり、封崇嗣ぐ者莫し。物極まりて復る、天我が唐に祚し、武・文の二後、図に応じ籙を受く。高宗に洎りて、重光累盛し、至理を承け、介丘に登り、百神を懐き、六合を震わし、殷・周の統を紹ぎ、虞・夏の風に接ぐ。中宗は弘懿鑠の休を弘め、睿宗は粹精の道を沐し、巍巍蕩蕩、称うるを得る者無し。
朕は昔、多難を戡定し、先朝の謀略を稟承し、慈旨を虔しく奉じて、丕業を嗣ぎ膺けた。ここにおいて九廟を創建して孝敬を申べ、二郊を礼して厳禋を展べ、菽粟を水火に宝し、珠玉を山谷に捐つ。兢兢業業として、敢えて前王を追美せず;日慎一日として、実に遺訓を奉遵せんとする。巡狩の大典、封禅の鴻名に至っては、顧みて寡薄なるを惟い、未だ時邁に遑あらず、茲に十四載を経たり。今、百穀は有年、五材は眚無く、刑罰を用いず、礼義は興行し、和気は氤氳し、淳風は澹泊たり。蛮夷戎狄、殊方異類、重訳して至る者は、日月闕廷に於いて;奇獣神禽、甘露嘉醴、窮祥極瑞は、朝夕林禦に於いて。王公卿士は、中に乃ち誠を罄く;鴻生碩儒は、外に其の書を献ず。神祇に合契し、億兆同心せざるは莫し。これ皆、烈祖聖孝の、余慶を垂れたるなり。故に朕は宗廟の介福に頼り、敢えて眇身を以て、其の克譲を顓にす。ここをもって群議を敬奉し、此の大猷を弘めて、我が高祖の丕図を光らし、我が高祖の鴻烈を紹げんとす。永く陟配を言い、追感載深し。開元十三年十一月十日を以て、故実に式遵し、太山に事有らしむべし。所司は公卿諸儒と典礼を詳かに択び、預め備具せしめ、広く人を労すること勿く、務む節約に存し、以て朕が意に称えしむべし。
ここにおいて詔して、中書令張説・右散騎常侍徐堅・太常少卿韋縚・秘書少監康子元・国子博士侯行果等をして、礼官と集賢書院に於いて儀注を刊撰せしむ。
玄宗は初め、霊山は静を好むを以て、喧繁を欲せず、宰臣及び侍講学士と対議し、山下封祀の儀を用いんとす。ここにおいて張説、徐堅・韋縚等に謂いて曰く、「乾封の旧儀は、社首に禅し、皇地祇を享け、先後を以て配饗す。王者は天を父とし地を母とす。当今の皇母位は、亦た往帝の母なり。子が母に配して饗るも、亦た何の嫌か有らん。而るに皇后を以て地祇に配するは、古の制に非ず。天監孔明にして、福善響の如し。乾封の礼に、文徳皇后を以て皇地祇に配し、天后を以て亜献と為し、越国太妃を以て終献と為す。宮闈神に接するは、旧典に乖けり。上玄祐せず、遂に天授易姓の事有り、宗社中に圮ち、公族誅滅す、皆此れに由るなり。景龍の季、円丘に事有り、韋氏を以て亜献と為す、皆婦人を以て壇に升り籩豆を執る。穹蒼を渫黷し、享祀潔からず。未だ年を逾えざるに、国に内難有り、終献皆其の咎を受く。掌座斎郎及び女人祭を執る者、多く亦た夭卒す。今、主上は天を尊び神を敬し、事資革正す。斯の礼は睿宗大聖貞皇帝を以て皇地祇に配し、神を侑えて主と作すべし」と。乃ち議を定めて奏聞す。上之に従う。
旧礼は、郊祀既に畢りて、玉帛牲体を収取し、柴の上に置き、然る後に燎壇の上に燔く。其の壇は神壇の左に在り。
謹んで按ずるに祭祀の礼、周人は臭を尚ぶ。天を祭れば則ち柴を燔き、地を祭れば則ち血を瘞え、宗廟は則ち蕭を焫え鬯を灌ぐ。皆気臭を貴び、同じく以て神を降す。礼経明白にして、義釈甚だ詳し。柴を委すること祭神の初に在り、理として惑うる所無し。ここを以て『三礼義宗』等並びに云う、「天を祭るは燔柴を以て始めと為し、然る後正祭を行ふ。地を祭るは瘞血を以て先と為し、然る後正祭を行ふ」と。又『礼論』に説く、太常賀循上言す、「積柴旧は壇の南に在り、天を燎祭する牲は、犢の左胖を用ふ。漢儀は頭を用ふ。今の郊は脅の九個を用ふ。太宰令は牲脅を奉じ、太祝令は圭璧を奉じ、倶に燎薪の上に奠す」と。此れ即ち晋氏の故事、亦た祭末の文無し。既に漢儀は牲頭を用ふと云う。頭は神俎の物に非ず、且つ祭末の俎は皆右胖の脅を升る。唯だ『三礼』・賀循は既に天を祭る牲の左胖を用ふと云い、復た今の儀は脅九個を用ふと云う。燔柴の用ふる所は、升俎と異なるを足ら明らかにす。是れ祭初に自ら在りて、別に牲体を燔くを知る。祭末に於いて、神余の饌を焼くに非ず。此れ則ち晋氏以前、仍って古礼を遵ふ。唯だ周・魏以降、妄りに損益を為す。廟に告ぐる幣の、事畢りて瘞埋するに縁り、因りて燔柴を改め、将に祭末と為さんとす。事典実無く、礼降神を闕く。
又た燔柴・正祭、牲・玉は皆別なり。蒼璧蒼犢の流は、柴の用ふる所;四圭騂犢の属は、祀の須ふる所。故に天を郊するに四圭有るは、猶お廟を祀るに圭瓚有るが如し。ここを以て『周官典瑞』、文勢相因り、並びに事畢りて収蔵し、燔の例に在らず。而るに今の新礼は蒼璧を引用し、圭瓚を顧みず、遂に亦た倶に燔く。義既に乖けり、理因襲に難し。又た燔柴作楽は、倶に神を降すを以てす。則ち処置の宜しきは、須らく相い準依すべし。柴燔は左に在り、作楽は南に在り。礼情を求めれば、実に類せず。且つ『礼論』に積柴の処は神壇の南に在りと説く。新体は壇左と為すを以てす。文典故無し。請う燔を改めて祭の始めと為し、楽懸の南、外壝の内に位せしむ。其の陰祀の瘞埋も、亦た請う此れに准ぜしむ。
制して之を可とす。是れより郊丘諸祀は、並びに先ず焚き而る後祭す。
及び玄宗将に封禅の礼を作らんとす。張説等儀注を参定し、徐堅・康子元等建議して曰く、
臣等謹んで按ずるに、顕慶年修礼官長孫無忌等の奏する、燔柴を祭前に改むる状に称す「祭祀の礼は、必ず先ず神を降す。周人は臭を尚ぶ。天を祭れば則ち柴を燔く」と。臣等礼を按ずるに、神を迎うるの義は、楽六変すれば則ち天神降り、八変すれば則ち地祇出で、九変すれば則ち鬼神礼すべきを得。則ち神を降すは楽を以てす。『周礼』の正文、柴を燔きて以て神を降すと謂うに非ず。案ずるに臭を尚ぶの義は、燔の先後を為さず。仮令周人は臭を尚ぶとす。天を祭れば則ち柴を燔く。容或は臭を燔き先ず以て神を迎う。然らば則ち殷人は声を尚ぶ。天を祭るも亦た柴を燔く。何の声か燔き先ず神を迎うる可き。又た按ずるに顕慶中無忌等の奏に称す「晋氏以前は、猶お古礼を遵ふ。周・魏以降は、妄りに損益を為す」と。今按ずるに郭璞『晋南郊賦』及び『爾雅』に注す「祭りて後方に燔く」。又た按ずるに『宋志』の論ずる所も、亦た祭りて後方に燔く。又た南斉・北斉及び梁の郊祀を検するも、亦た福酒を飲みて後方に燔く。又た後周及び隋の郊祀を検するも、亦た先ず祭りて後燔く。此れに拠れば、即ち周は後燔を遵ひ、晋は先燎せず。無忌の事、義乃ち相い乖けり。
また『周礼大宗伯』の職掌に按ずるに、「玉をもって六器を作り、以て天地四方を礼す」とある。注に云う、「礼とは始めて神に告ぐる時に神に薦むるなり」と。下文に云う、「蒼璧を以て天を礼し、黄琮を以て地を礼し、皆牲幣有り、各おの其の器の色の如し」と。また『礼器』に云う、「少きを以て貴しと為す者は、天を祭るに特牲を用う」と。是れ蒼璧と蒼牲とが、倶に各おの神座に奠められることを知る、理節惑わず。また云う、「四圭に邸有り、以て天を祀り、上帝に旅す」と。即ち昊天上帝を祀る時に、以て五方の天帝に旅することを明らかにするなり。其の青圭・赤璋・白琥・玄璜は、自ずから立春・立夏・立秋・立冬の日、各おの其の方に於いて気を迎えるに用いるもの、自ずから分別有り。今、顕慶の改めたる新礼に按ずるに、蒼璧と蒼牲・蒼幣とを、倶に先ず燔くを用う。蒼璧既に已に燔かれぬれば、以て遂に四圭有邸を加え、神座に奠む。蒼牲既に已に燔かれぬれば、以て更に騂牲を加え、其の実俎に充つ。昊天を五帝に混じ、同しく四圭を用い、特牲の明文を失い、二犢と為すを加う。深く礼意に乖き、事乃ち憑る所無し。
考功員外郎趙冬曦・太学博士侯行果曰く、「先に焚く者は本より神を降すを以てし、行わるること已久し。若し祭義に従わば、後焚を定めと為すべし」と。中書令張説執りて奏して曰く、「徐堅等の議する所の燔柴の前後は、議に同じからず。祭義及び貞観・顕慶已後の礼に拠れば、既に先に燔く。若し失礼を正し、祭義を求めんと欲せば、請う『貞観礼』に従わんことを。如し且く因循して改めざれば、更に請う『顕慶礼』に従わんことを。凡そ祭る者は、本より心を主と為し、心至れば則ち天地に通じ、神祇に達す。既に先焚・後燎有り、自ら聖意に断ずべし。聖意の至る所、則ち神明に通ず。燔くの先後は、臣等敢えて裁定せず」と。玄宗、後焚及び先に奠むるの儀に依ることを令す。是の後、太常卿甯王憲奏請して、郊壇の時祭は、並びに此れに依り先ず璧を奠めて後に柴を燔き埋むるに依らしむ、制して之に従う。
時に又た四門助教施敬本有りて、旧封禅礼八条を駁奏す、其の略は曰く、
旧礼は、侍中跪きて匜を取って沃盥す、礼に非ざるなり。夫れ手を盥い爵を洗うは、人君将に潔を致して神を尊ばんとす、故に能く小臣をして之を為さしむ。今の侍中は、大臣なり、而して人君に沃盥す。太祝は、小臣なり、乃ち天神に詔祝す。是れ天神を小臣に接し、人君を大臣に奉ずるなり、故に礼に非ず。『周礼・大宗伯』に按ずるに曰く、「郁人、下士二人、裸事を賛す」と。則ち沃盥は此の職なり。漢は秦の制を承け、郁人の職無し、故に近臣をして之を為さしむ。魏・晋より今に至るまで、因りて改めず。然らば則ち漢の礼は、侍中之を行えば則ち可なり、今侍中を以て之を為すは、則ち非なり。漢の侍中は、其の始め微なり。高帝の時、籍孺之を為し、恵帝の時、閎孺之を為し、留侯の子辟強年十五にして之を為す。後漢に至り、楼堅議郎を以て侍中に拝せられ、邵闔侍中より歩兵校尉に遷り、秩千石、少府卿の属なり。少府卿秩中二千石、丞秩千石、侍中は少府丞と班同じ。魏代、蘇則之を為す。旧く侍中は親しく起居を省み、故に之を「執獣子」と謂う。吉茂見て之に謂いて曰く、「仕進止まず執獣子」と、是れ其の褻臣たるを言うなり。今の侍中は、名は則ち古官、人は昔の任に非ず、掌は燮理に同じく、寄は実に塩梅たり、復た漢・魏の「執獣子」の班に非ず、『周礼』郁人の職に異なり。舟を行かして息まず、剣墜ちて方に遥かなり、刻を験して求めんとす、謬りと謂うべし。
祝は以て命を伝え、主人の意を通じて神明に薦む、賤職に非ざるなり。故に両君相見うれば、則ち卿上儐と為る。況んや天人の際、其の粛恭の礼は、両君を以て喩うるに、亦た大ならずや。今の太祝は、下士なり、命を重んじ神を尊ぶの義に非ざる所以なり。然らば則ち周・漢の太祝は、是れ礼なり。何となれば、『周礼・大宗伯』に按ずるに曰く、「太祝、下大夫二人、上士四人、六祝の辞を掌る」と。大宗伯は上卿、今の礼部尚書・太常卿の比なり。小宗伯は中大夫、今の侍郎・少卿の比なり。太祝は下大夫、今の郎中・太常丞の比なり。上士四人は、今の員外郎・太常博士の比なり。故に以て天人の際に処し、尊極の辞を致すべし。又た漢の太祝令は、秩六百石、太常博士と班同じ。梁の太祝令は、南台御史と班同じ。今の太祝は下士の卑しきに在りて、下大夫の職に居る、斯れ又た刻舟の論、前に異ならず。
又た曰く、
旧礼は、謁者太尉を引いて壇に升らしめ亞献せしむ、礼に非ざるなり。謁者は已に賤しく、壇に升るは已に重し、是れ微者を用うるは古に於いて然り、而して大體は実に今に於いて之を変ず。『漢官儀』に按ずるに、「尚書御史台の官属に謁者僕射一人有り、秩六百石、銅印青綬。謁者三十五人、郎中を以て歳を称して給事し、未だ歳満たざるを称して灌謁者とす」と。又た『漢書百官公卿表』に按ずるに、光禄勲の官属に郎中・員外有り、秩比二千石。謁者有り、賓賛受事を掌り、員七十人、秩比六百石。古の謁者は、秩異等、今の謁者は班微なり、以て之に事を従う、疏なりと謂うべし。
又た曰く、
旧礼は、尚書令玉牒を奉ず、今其の官無し、請う中書令を以て事に従わんことを。漢武帝の時、張安世尚書令と為り、後宮に游宴し、宦者一人を以て帝命に出入せしめ、中書謁者令と改む。成帝に至り、宦者を罷め、士人を用う。魏の黄初、秘書と改め、中書監令を置く。旧く尚書は並びに制誥を掌る、既に中書官を置くに及び、而して制誥枢密皆掌る。則ち魏以来、中書は漢朝尚書の職なり。今尚書令玉牒を奉ずるは、漢の礼を用うるなり、其の官既に闕くれば、故に以て中書令之を主とすべし。
議奏す、玄宗、張説・徐堅に令して敬本を召し之と対議詳定せしむ。説等奏して曰く、「敬本の議する所、其の中四条は、先に已に改定せり。同じからざる者有らば、臨時に事を量り改摂せんことを望む」と。制して之に従う。
十三年十一月丙戌の日、泰山に至り、山麓より五里、西は社首山より三里の地に至る。丁亥の日、玄宗は行宮において袞冕を着け、供帳前殿において斎戒を致す。己丑の日、冬至に当たり、法駕を大いに整え、山下に至る。玄宗は馬に乗って登り、侍臣が従う。先に玄宗は霊山が清浄であるゆえ、多く人を登らせたくなく、初献を山上の壇で行い、亜献・終献を山下の壇で行わんと欲す。ここに礼官学士賀知章らを召し入れて儀注を講じさせ、これについて問う。知章ら奏して曰く、「昊天上帝は君の位、五方時帝は臣の位なり。帝号は同じといえども、君臣位を異にす。陛下山上にて君位を享け、群臣山下にて臣位を祀るは、誠に来葉に範を垂れ、変礼の大なる者と為すに足る。礼は三に成る。初献・亜・終は一処に合すべし」。玄宗曰く、「朕まさにこの如くせんと欲す。故に卿らに問うのみ」。ここに勅して三献を山上にて行い、その五方帝及び諸神座を山下の壇にて行わしむ。玄宗ここに問う、「玉牒の文、前代の帝王、何故にこれを秘すや」。知章対えて曰く、「玉牒は本より神明に通ずるの意なり。前代の帝王、求むる所各異なり。或いは年算を禱り、或いは神仙を思う。その事微密なれば、是をもってこれを知る者なし」。玄宗曰く、「朕今この行、皆な蒼生のために福を祈る。さらに秘請することなし。まさに玉牒を百僚に出示すべし。朕が意を知らしめよ」。その辞に曰く、「有唐嗣天子臣某、敢えて昊天上帝に昭告す。天は李氏を啓き、運は土徳に興る。高祖・太宗、命を受け極を立てる。高宗は中に升り、六合殷盛なり。中宗は紹復すれども、体を継ぐこと足らず。上帝眷祐し、臣に忠武を錫う。内難を底綏し、聖父を推戴す。大宝を恭しく承け、十三年あり。天意を敬して若くすれば、四海晏然たり。岱岳を封祀し、天に成を謝す。子孫百禄、蒼生福を受く」。
庚寅の日、山上の封台の前壇において昊天上帝を祀り、高祖神堯皇帝を配享す。邠王守礼は亜献を、甯王憲は終献を務む。皇帝は福酒を飲む。癸巳の日、中書令張説進みて称す、「天は皇帝に太一神策を賜い、周りて復始し、永く兆人を綏す」。帝は拝稽首す。山上に円台四階を作り、これを封壇と謂う。台上に方石を再び累ね、これを石感と謂う。玉牒・玉策を納れ、玉を刻み金を填めて字と為し、各玉匱に盛り、金繩を以て束ね、金泥を以て封じ、皇帝は受命宝を以てこれに印す。二の玉匱を石感の中に納れ、金泥の際を堿し、「天下同文」の印を以てこれを封ず。壇の東南に燎壇を為し、その上に柴を積む。皇帝は望燎の位に就き、火発すれば、群臣万歳を称し、呼び伝えて山下に至り、声天地を動かす。山下の壇祀は、群臣の行事已に畢り、皇帝未だ位を離れず、中書門下に命じて曰く、「朕は薄徳を以て、恭しく大宝を膺く。今封祀初めて建つ。雲物休祐するは、皆是れ卿等輔弼の力なり。君臣相保ち、勉めて天心に副い、長く今日の如くならんことを。敢えて矜怠せず」。中書令張説跪きて言う、「聖心誠懇にして、山上に宿斎す。昨夜は則ち風を息め雨を収め、今朝は則ち天清く日暖かく、復た祥風有りて楽を助け、卿雲有りて燎を引き、霊跡盛事、千古未だ聞かず。陛下又た慎終を初めの如く思す。長く万姓に福し、天下幸甚なり」。
先に車駕が岳西の来蘇頓に至りしとき、大風東北より来り、午より夕に至るまで、幕を裂き柱を折り、衆恐る。張説倡言して曰く、「此れ必ず海神の来迎するなり」。及び岳下に至れば、天地清晏たり。玄宗山に登るに、日気和煦たり。斎次の日入後に至り、勁風人を偃し、寒気骨を切る。玄宗ここに因りて食せず、次前の露立に至り、夜半に及び、天を仰ぎて称す、「某身に過ち有らば、請う即ち罰を降せ。若し万人に福無くば、亦た某をして当に罪を為さしめよ。兵馬辛苦す。風寒を停めんことを乞う」。時に応じて風止み、山気温暖なり。時に山上より布兵して山壇に至り、辰刻及び詔命を伝呼し往来するも、斯須にして達す。夜中に火を燃やして相属し、山下よりこれを望めば、連星の地より天に属するが如し。その日平明、山上清迥にして、下りて山下を望めば、休気四塞し、登歌楽を奏すれば、祥風南より至り、絲竹の声、天外より飄ぶが若し。及び行事するに、日は火光を揚げ、慶雲紛郁として、遍く天際に満つ。群臣並びに社首山の帷宮の次に集まり、以て鑾駕を候う。遥かに紫煙憧憧として上達するを望み、内外歓噪す。玄宗山上より便ち社首の斎次に赴く。辰巳の間に至れば、日色明朗にして、慶雲散ぜず。百辟及び蕃夷争いて前へ迎賀す。辛卯の日、社首の泰折壇において地祇を享け、睿宗大聖貞皇帝を配祀す。五色雲見え、日は重輪なり。玉策を石感の中に蔵すること、封壇の儀の如し。壬辰の日、玄宗は朝覲の帳殿に御し、大いに陳布を備う。文武百僚、二王の後、孔子の後、諸方の朝集使、岳牧の挙ぐる賢良及び儒生・文士にして賦頌を上る者、戎狄夷蛮羌胡の朝献の国、突厥の頡利発、契丹・奚等の王、大食・謝褷・五天十姓、昆侖・日本・新羅・靺鞨の侍子及び使、内臣の番、高麗朝鮮王、百済帯方王、十姓摩阿史那興昔可汗、三十姓左右賢王、日南・西竺・鑿歯・雕題・牂柯・烏滸の酋長、咸に位に在り。制して曰く、
朕聞く、天は後を監み、後は天を奉ずるに克く、既に徳を合して命を受け、亦た功を推して始めに復すと。厥の初め作者七十二君、道洽く跡著しく、時に至り符出で、皆な介丘に事を用い、上帝に中を升る。人神の望み、蓋し以てこれを塞ぐ有り。皇王の序、言うを得べし。朕は統を接ぐこと千歳、光を承くること五葉、惟れ祖宗の徳人の在るに在り、惟れ天地の霊主と作る。往者内難、幽にして賛し大勳を集む。間に外虞無く、成を守り旧服を纘ぐ。未だ嘗て乾乾として終日せず、公卿大夫と上下心を協せ、以て至理を聿求め、我が烈聖を弘めんことを思わざるは無し。其れ庶幾くは馨香ならん。今九有大寧、群氓業を楽しみ、時は必ず敬授して奪わず、物も亦た順成して夭せず。皇極を懋建し、幸いに太和を致す。乃ち幽遐に洎ぎ、率ね感被に由る。戎狄は至らず、唯だ文告を以て来庭し、麟鳳は已に臻り、将に情を覚えて藪に在らんとす。故を以て凡百の執事、亟に大封を言う。顧みるに惟れ不徳、切に議を勿らんと欲す。伏して惟うに、先聖は祉を儲け、天と功を同じくす。伝符を荷うて今に在るを、敢えて神に侑して報い無からんや。大篇斯に在り、朕何ぞ譲らん。ここに遂に高宗の旧章を奉遵し、乾封の令典に憲し、時に東土を邁り、柴して岱嶽に告ぐ。百神群望、懐柔せざる莫く、四方の諸侯、慶び来らざる莫し。斯れは天下の介福、邦家の耿光なり。窮り無きの休祉、豈に独り予に在らんや。非常の恵沢、亦た宜しく下に逮すべし。大いに天下を赦すべし。泰山の神を封じて天斉王と為し、礼秩は三公の一等を加え、仍って管する所に祠廟を崇飾せしめ、山を環ること十里、其の樵采を禁ず。近山の二十戸に復を給し、以て祠神を奉ぜしむ。
玄宗は『紀太山銘』を制し、御書を以て山頂の石壁の上に勒す。その辞に曰く、
朕が帝位に在ること十有四年、顧みて惟うに徳ならず、至道に懵く、任に難きを任じ、安んずるに難きを安んず、茲に朕は上下に戾を獲るを知らず、心の浩蕩たる、大川に渉るが若し。頼むに上帝休を垂れ、先後慶を儲え、宰相庶尹、皇極を交修し、四海会同し、五典敷暢し、歳云う嘉熟、人用て大和す。百辟僉謀し、余に封禅を唱え、孝は厳父より大なるは莫く、礼は天に告ぐるより盛んなるは莫しと謂い、天符既に至り、人望既に積り、固請已まず、固辞獲ず。肆に余と夫れ二三の臣、虞の《典》を稽え、漢の制を繹き、六師を張惶し、九宇を震讋す。旌旗列有り、士馬嘩無く、肅肅邕邕、翼翼溶溶、以て岱宗に至る、順なり。
《爾雅》に曰く「泰山は東嶽と為す」。《周官》に曰く「兗州の鎮山」。実に万物の始め、故に岱と称す;其の位は五嶽の伯に居る、故に宗と称す。昔より王者命を受けて姓を易うるは、是に於いて天地を啓き、成功を薦め、図録を序し、氏号を紀す。朕は先王を統承し、茲に厥の典に率い、実に玄天の眷命に報い、蒼生の為に福を祈らんと欲す、豈に敢えて千古を高祝し、自ら九皇に比せんや!故に壇場を山下に設け、群方の助祭を受け;躬ら封燎を山上にし、一献の神に通ぜんことを冀う。斯れ亦た高きに因りて天を崇め、広きに就きて地を増すの義なり。
乃ち仲冬庚寅、東嶽に事有り、上帝に類し、我が高祖に配す。天に在るの神、降らざるは畢く無し。粤に翌日、社首に禅し、我が聖考を佑け、皇祇に祀る。地に在るの神、挙げざるは咸く無し。暨ぶ壬辰、群後に覲し、上公進みて曰く「天子天符に膺り、介福を納る。群臣稽首を拝し、万歳を呼ぶ。慶合歓同し、乃ち誡を陳べて以て徳とす。大渾度に協い、彝倫攸に叙せられ、三事百揆、是れ乃ちの功。万物庚に由り、兆人允に植えられ、列牧衆宰、是れ乃ちの功。一二の兄弟、孝友を行い篤く、類を万国に錫し、是れ唯れ休なるかな!我が儒は礼を制し、我が史は楽を作し、天地擾順し、是れ唯れ休なるかな!蛮夷戎狄、重訳して来貢し、累聖の化、朕何ぞ慕わん。五霊百宝、日来月集し、会昌の運、朕何ぞ惑わん。凡そ今而後、乃ち在位を儆め、一王度、斉象法、旧章を権え、缺政を補い、易簡を存し、煩苛を去る。人極を立つることを思い、乃ち天則を見ん。
於戲!天は蒸人を生み、惟れ後時に乂え、能く美利を以て天下を利し、天に事うること明らかなり。地の徳は物を載せ、惟れ後時に相い、能く厚生を以て万人を生かし、地に事うること察かなり。天地明察、鬼神著し。惟れ我が藝祖文考、精爽天に在り、其れ曰く「懿なるかな爾が幼孫、克く上帝を享く。惟れ帝時に若く、馨香其の下にす」、丕なる乃ち曰く「有唐氏文武の曾孫隆基、新命を誕錫し、我が旧業を纘ぎ、永く天祿を保ち、子孫其れ之を承けよ」。余小子敢えて上帝の休命に対揚せば、則ち亦た百執事と兆人を尚綏し、将に前功より多くして、彼の後患を毖らん。一夫獲ずんば、万方其れ予を罪せん。一心終わり有らば、上天其れ我を知らん。朕惟うに三徳を宝行す、曰く慈・儉・謙。慈は、無疆の言を覆う;儉は、将来の訓を崇む;自ら満つる者は人損い、自ら謙る者は天益す。苟くも是の如くならば、則ち軌跡循い易く、基構守り易し。石璧を磨き、金石に刻み、後人の辞を聴きて心を見、末を観て本を知らんことを冀う。銘に曰く:
惟れ天は人を生み、君を立てて以て理む、惟れ君は命を受け、天に奉じて子と為す。代去りて留まらず、人来りて已む無し、徳涼き者は滅び、道高き者は起つ。赫赫たる高祖、明明たる太宗、爰に隋政を革め、奄に万邦を有つ。天を罄き宇を張り、地を尽くし封を開く、武は有截と称し、文は時邕を表す。高宗古を稽え、徳施して周溥、茫茫たる九夷、削平して一鼓。礼は封禅に備わり、功は舜禹に斉し、岩巍たる岱宗、我が神主を衛う。中宗運を紹ぎ、旧邦惟れ新たに、睿宗明を継ぎ、天下仁に帰す。恭己して南面し、氤氳として化淳まり、告成の礼、諸れ後人に留む。緬として余小子、五聖を重ね基う、功を伐たず高く、徳を矜まず盛ん。祀典を欽若し、永命を丕承し、至誠天を動かし、我が万姓を福す。古より太山を封ずること、七十二君、或いは亭亭に禅じ、或いは云云に禅ず。其の跡は見えず、其の名は聞く可し、祗遹して文祖、旧勳を光昭す。方士虚誕、儒書足らず、後を佚して仙を求め、神を誣して玉を検す。秦は風雨に災い、漢は編録に汚し、徳未だ天に合わず、或いは辱を承く。道は政を観るに在り、名は欲に従うに非ず、心を岩に銘し、群嶽に告げ播く。
ここにおいて中書令張説は《封祀壇頌》を撰し、侍中源乾曜は《社首壇頌》を撰し、礼部尚書蘇頲は《朝覲壇頌》を撰して以て徳を紀す。
玄宗は乙酉歳に生まれ、華嶽を以て本命と当つ。先天二年七月正位し、八月癸丑、華岳神を封じて金天王と為す。開元十年、東都に幸するに因り、又た華嶽祠前に碑を立て、高さ五十余尺。又た岳上に道士観を置き、功德を修む。天宝九載に至り、又た将に華岳に封禅せんとし、御史大夫王鉷に命じて険路を開鑿して壇場を設けしむ、祠堂災に会いて止む。