舊唐書

巻023

巻023

舊唐書

原文舊唐書

卷二十三

原文卷二十三

志第三 禮儀 三

原文志第三 禮儀 三

封禅の礼は、漢の光武帝の後、長い世を経て行われなかった。隋の開皇十四年、晋王広が百官を率いて上表し、固く封禅を請うた。文帝は牛弘・辛彦之・許善心らに命じて儀注を創定させた。十五年に至り、行幸して兗州に至り、遂に泰山の下において壇を設けて祭祀を行い、南郊の礼の如くしたが、結局山に登らずして還った。

原文封禪之禮,自漢光武之後,曠世不修。隋開皇十四年,晉王廣率百官抗表,固請封禪。文帝令牛弘、辛彥之、許善心等創定儀注。至十五年,行幸兗州,遂於太山之下,為壇設祭,如南郊之禮,竟不升山而還。

貞観六年、突厥を平定し、穀物がたびたび豊作となり、群臣が上言して泰山に封禅することを請うた。太宗は言った。「議する者は封禅を大典とする。朕の本心としては、ただ天下を太平にし、家々に人々が足りるようにすれば、たとえ封禅の礼が欠けていても、堯・舜の徳に比べることができよう。もし百姓が足りず、夷狄が内に侵入するならば、たとえ封禅の儀を修めても、桀・紂と何の異なることがあろうか。昔、秦の始皇は自ら徳が天心に和すると称し、自ら皇帝と称し、岱宗に登封したが、奢侈で自ら誇った。漢の文帝はついに登封せず、自ら倹約を行い、刑罰を用いなかった。今、皆が始皇を暴虐の主と称し、漢文を有徳の君と称する。このことから言えば、封禅を借りる必要はない。礼に『至敬は壇せず』とあり、地を掃いて祭れば、至誠を表すに足りる。何ぞ必ずしも遠く高山に登り、数尺の土を封ずる必要があろうか。」侍中王珪が対えて言った。「陛下が徳音を発し、封禅の本末を明らかにされたことは、愚臣の及ぶところではありません。」秘書監魏征が言った。「隋末の大乱で、黎民は陛下に遇って初めて生きる望みを持ちました。これを養うことは至仁ですが、これを労することはまだできません。升中の礼は、千乗万騎を備え、供帳の費用は数州を動役します。戸口が蕭条としているのに、どうして供給できましょうか。」太宗は深く魏征の言を嘉し、しかし内外の章表が止まなかった。上は礼官に両漢の封山の儀注を問い、そこで中書侍郎杜正倫を遣わして泰山の上七十二帝の壇跡を行かせた。この年、両河に水害があり、その事はやむこととなった。十一年に至り、群臣が再び封山を勧め、初めてその礼を議した。そこで国子博士劉伯荘・睦州刺史徐令言らが、それぞれ封祀の事を上言し、互いに疑議を設け、見解が異なった。多くは新礼中の封禅儀注が簡略で周到でないと言った。太宗は秘書少監顔思古・諫議大夫朱子奢らに命じ、四方の名儒博物の士と得失を参議させた。議する者は数十家、互いに駁難し、紛紜として久しく決しなかった。そこで左僕射房玄齢・特進魏征・中書令楊師道が、衆議を博く採り、行用に堪え、かつ旧礼と異なるものを奏上した。

原文貞觀六年,平突厥,年穀屢登,群臣上言請封泰山。太宗曰:「議者以封禪為大典。如朕本心,但使天下太平,家給人足,雖闕封禪之禮,亦可比德堯、舜;若百姓不足,夷狄內侵,縱修封禪之儀,亦何異於桀、紂?昔秦始皇自謂德洽天心,自稱皇帝,登封岱宗,奢侈自矜。漢文帝竟不登封,而躬行儉約,刑措不用。今皆稱始皇為暴虐之主,漢文為有德之君。以此而言,無假封禪。禮雲,'至敬不壇',掃地而祭,足表至誠,何必遠登高山,封數尺之土也!」侍中王珪對曰:「陛下發德音,明封禪本末,非愚臣之所及。」秘書監魏征曰:「隨末大亂,黎民遇陛下,始有生望。養之則至仁,勞之則未可。升中之禮,須備千乘萬騎,供帳之費,動役數州。戶口蕭條,何以能給?」太宗深嘉征言,而中外章表不已。上問禮官兩漢封山儀注,因遣中書侍郎杜正倫行太山上七十二帝壇跡。是年兩河水潦,其事乃寢。至十一年,群臣復勸封山,始議其禮。於是國子博士劉伯莊、睦州刺史徐令言等,各上封祀之事,互設疑議,所見不同。多言新禮中封禪儀注,簡略未周。太宗敕秘書少監顏思古、諫議大夫硃子奢等,與四方名儒博物之士參議得失。議者數十家,遞相駁難,紛紜久不決。於是左僕射房玄齡、特進魏征、中書令楊師道,博采眾議堪行用而與舊禮不同者奏之。

その昊天上帝の壇を議して言った。「封ずる前に先ず祭るのは、神に告げるという義にあり、かつ謁敬の儀を備え、慶成の礼を展べるためである。固より壇の下の阯において、予め斎潔を申し、賛饗が既に畢わった後、然る後に登封すべきである。既に重慎の深さを表し、兼ねて行事に漸があることを示す。今、泰山の下に祭り、壇を設けて上帝を祀り、景皇帝を配享することを請う。壇は長さ十二丈、高さ一丈二尺とする。」また玉牒の制を議して言った。「金玉の重宝は、質性が貞堅であり、宗祀・郊禋に皆、器幣として用いる。華美を嫌うことなく、実に精確を貴ぶ。況や三神の壮観、万代の鴻名、礼は極めて殷崇であり、事は藻縟を資とする。玉牒・玉検は、式として霊奇を韞む。これを伝えて窮まりなく、永く存して朽ちない。今、玉牒は長さ一尺三寸、広さ・厚さ各五寸とすることを請う。玉検は厚さ二寸、長短・闊狭は全て玉牒と同じとする。その印歯は璽の大きさに従い、なお金縄を五周纏うことを請う。」また玉策を議して言った。「封禅の祭は、厳配して主と作り、皆玉策を奠し、粛奉して虔誠を尽くす。今、玉策四枚、各々長さ一尺三寸、広さ一寸五分、厚さ五分とする。毎策五簡、全て金で編む。その一つは上帝に奠し、一つは太祖の座に奠し、一つは皇地祇に奠し、一つは高祖こうその座に奠す。」また金匱を議して言った。「登配の策は、金匱に盛り、帰って藝祖の廟室に格する。今、長短は玉策を容れるようにし、高さ・広さ各六寸とすることを請う。形制は今の表函の如くとする。金縄で纏い、金泥で封じ、受命璽で印する。」また方石の再累を議して言った。「旧く玉牒を蔵するには、ただ石函を用い、また書を篋笥に盛るのと同様であり、それゆえ或いは石篋と呼ぶ。今、方石三枚を以て再累と為すことを請う。その十枚の石検は、方石の四辺に刻してこれを立てる。金縄で纏い、石泥で封じ、受命璽で印する。」また泰山の上の円壇を議して言った。「四出して道を開き、壇場を通ずるは義であり、南面より入り昇るは、事において允当である。今、介丘の上の円壇は広さ五丈、高さ九尺とし、五色の土を以てこれを加えることを請う。四面各々一階を設ける。御位は壇の南にあり、南階より昇り、上に就いて玉牒を封ずる。」また円壇の上の土封を議して言った。「凡そ封というは、皆、土を積む名である。利を建てて分封するも、またこれをもって社を班ち号を立てる。これを封禅と謂う、その義は知り得る。今、円壇の上に方石を安置し、璽緘が既に畢わった後、土を加えて築き以て封と為すことを請う。高さ一丈二尺、広さ二丈とし、五色の土を以て封を益し、玉牒をその内に蔵す。祀禅の土の封制もまたこれと同じとする。」また玉璽を議して言った。「謹んで前載を詳らかにするに、方石を緘封するには、玉検・金泥、必ず印璽を資として、以て秘固と為す。今、令に依り受命璽を用いて石検を封ずることを請う。その玉検は既に石検と大小が異なるので、請うらくは更に璽一枚を造り、方一寸二分、文は受命璽と同じくし、以て玉牒を封ずる。石検の形制は、漢の建武の故事に依る。」また碑を立てることを議して言った。「石に勒して号を紀し、功業を顕揚し、登封降禅し、肆覲の壇に、碑を立ててこれを紀する。」また告至の壇を設けることを議して言った。「既に山下に至り、礼を行って至りたることを告げ、東方の上帝に柴し、望秩して遍く群神に礼する。今、その壇は方八十一尺、高さ三尺、陛はなお四出とすることを請う。その禅の方壇及びその余の儀式は、今の礼に従うことを請う。なお柴祭・望秩を同時に行うことを請う。」また石闕及び大小の距石を廃することを議して言った。「距石を設けるのは、牢固を取る意であり、本、実用を資するもので、どうして彫飾と言えようか。今、既に土を厚く積んで封じるので、天長地久に足る。その小距が壇を環らし、石闕を回らして建てることは、事、経誥に非ず、礼義に益なく、煩にして要ならず、減省することを請う。」

原文其議昊天上帝壇曰:「將封先祭,義在告神,且備謁敬之儀,方展慶成之禮。固當於壇下阯,預申齊潔。贊饗已畢,然後登封。既表重慎之深,兼示行事有漸。今請祭于泰山下,設壇以祀上帝,以景皇帝配享。壇長一十二丈,高一丈二尺。」又議制玉牒曰:「金玉重寶,質性貞堅,宗祀郊禋,皆充器幣,豈嫌華美,實貴精確。況乎三神壯觀,萬代鴻名,禮極殷崇,事資藻縟。玉牒玉檢,式韞靈奇。,傳之無窮,永存不朽。今請玉牒長一尺三寸,廣厚各五寸。玉檢厚二寸,長短闊狹一如玉牒。其印齒請隨璽大小,仍纏以金繩五周。」又議玉策曰:「封禪之祭,嚴配作主,皆奠玉策,肅奉虔誠。今玉策四枚,各長一尺三寸,廣一寸五分,厚五分。每策五簡,俱以金編。其一奠上帝,一奠太祖座,一奠皇地祇,一奠高祖座。」又議金匱曰:「登配之策,盛以金匱,歸格藝祖之廟室。今請長短令容玉策,高廣各六寸。形制如今之表函。纏以金繩,封以金泥,印以受命璽。」又議方石再累曰:「舊藏玉牒,止用石函,亦猶盛書篋笥,所以或呼石篋。今請方石三枚,以為再累。其十枚石檢,刻方石四邊而立之。纏以金繩,封以石泥,印以受命璽。」又議泰山上圓壇曰:「四出開道,壇場通義,南面入升,於事為允。今請介丘上圓壇廣五丈,高九尺,用五色土加之。四面各設一階。御位在壇南,升自南階,而就上封玉牒。」又議圓壇上土封曰:「凡言封者,皆是積土之名。利建分封,亦以班社立號。謂之封禪,厥義可知。今請於圓壇之上,安置方石,璽緘既畢,加土築以為封。高一丈二尺,而廣二丈,以五色土益封,玉牒藏於其內。祀禪之土,其封制亦同此。」又議玉璽曰:「謹詳前載方石緘封,玉檢金泥,必資印璽,以為秘固。今請依令用受命璽以封石檢。其玉檢既與石檢大小不同,請更造璽一枚,方一寸二分,文同受命璽,以封玉牒。石檢形制,依漢建武故事。」又議立碑曰:「勒石紀號,顯揚功業,登封降禪,肆覲之壇,立碑紀之。」又議設告至壇曰:「既至山下,禮行告至,柴於東方上帝,望秩遍禮群神。今請其壇方八十一尺,高三尺,陛仍四出。其禪方壇及餘儀式,請從今禮。仍請柴祭、望秩,同時行事。」又議廢石闕及大小距石曰:「距石之設,意取牢固,本資實用,豈雲雕飾。今既積土厚封,足與天長地久。其小距環壇,石闕回建,事非經誥,無益禮義,煩而非要,請從減省。」

太宗はその議に従い、なお礼に附することを命じた。

原文太宗從其議,仍令附之於禮。

十五年、詔を下し、将に泰山に事あらんとし、復た公卿諸儒に命じて儀注を詳定させた。太常卿韋挺・礼部侍郎令狐徳棻を封禅使とし、その議を参考させた。時に論者はまた異見を執り、顔師古が上書して前議を申し明らかにした。太宗はその奏を覧て、多く師古の陳ぶる所に依って定めた。車駕が洛陽らくよう宮に至った時、彗星の変があったので、乃ち詔を下してその事を罷めた。

原文十五年,下詔,將有事于泰山,復令公卿諸儒詳定儀注。太常卿韋挺、禮部侍郎令狐德棻為封禪使,參考其議。時論者又執異見,顏師古上書申明前議。太宗覽其奏,多依師古所陳為定。車駕至洛陽宮,會有彗星之變,乃下詔罷其事。

高宗が即位し、公卿がたびたび封禅を請うた。則天が既に皇后として立てられた後、また密かにこれを賛した。麟徳二年二月、車駕が京を発し、東に巡狩し、礼官・博士に詔して封禅の儀注を撰定させた。

原文高宗即位,公卿數請封禪,則天既立為皇后,又密贊之。麟德二年二月,車駕發京,東巡狩,詔禮官、博士撰定封禪儀注:

有司は乾封元年正月戊辰朔に先立ち、有司は斎戒した。祀りの前七日の平旦に、太尉が百官に行従の中台において誓い、云う。「来月一日に封祀し、二日に泰山に登封し、三日に社首に禅す。各々その職を揚げ、その事に供せざれば、国に常刑あり。」上は行宮において四日間斎し、三日間致斎した。近侍の官で昇るに従うべき者、及び従事の群官・諸方の客使は、各々本司の公館において一宿清斎した。祀りの前一日、諸衛はその属に令す。未の後の一刻に、黄麾半仗を外壝の外に設け、楽工人とともに一宿清斎した。

原文有司于乾封元年正月戊辰朔。先是,有司齋戒。于前祀七日平旦,太尉誓百官于行從中台,云:「來月一日封祀,二日登封泰山,三日禪社首,各揚其職,不供其事,國有常刑。」上齋於行宮四日,致齋三日。近侍之官應從升者,及從事群官、諸方客使,各本司公館清齋一宿。前祀一日,諸衛令共屬:未後一刻,設黃麾半仗於外壝之外,與樂工人俱清齋一宿。

有司は太岳の南四里に円壇を造り、三層・十二階とし、円丘の制の如くす。壇上は青をもって飾り、四面は各々方色に依る。また燎壇及び壝三重を造る。また玉策三枚を造り、皆金縄をもって連ね編み玉簡を以てこれを作る。各簡は長さ一尺二寸、広さ一寸二分、厚さ三分、玉を刻み金を填めて字とす。また玉匱一つを造り、以て正座の玉策を蔵し、長さ一尺三寸。併せて玉検は方五寸、縄に当たる処に刻みて五道とし、封璽に当たる処に刻み深さ二分、方一寸二分。また金匱二つを造り、以て配座の玉策を蔵し、制度は玉匱の如し。また黄金の縄を造り以て金玉の匱を纏め、各五周す。金泥・玉匱・金匱とす。玉璽一枚を造り、方一寸二分、文は受命璽と同じくし、玉匱・金匱を封ず。また石感を造り、以て玉匱を蔵す。方石を再累を用い、各々方五尺、厚さ一尺、方石の中を刻み玉匱を容るることを令す。感の旁に検を施す処は、皆深さ三寸三分、闊さ一尺に刻む。縄に当たる処は皆深さ三分、闊さ一寸五分に刻む。石検十枚を造り、以て石感を検し、皆長さ三尺、闊さ一尺、厚さ七寸。皆印歯三道に刻み、深さ四寸。封璽に当たる処は方五寸、通縄に当たる処は闊さ一寸五分。皆小石の蓋有り、制は検の刻む処と相応じ、以て検を擫み封泥す。その検は感の旁に立ち、南方・北方各三、東方・西方各二、感の隅を去ること皆七寸。また金縄を造り以て石感を纏め、各五周、径三分。石泥を造り以て石感を泥し、その泥は、末石と方色の土を和してこれを作る。距石十二枚を造り、分かち感の隅に距し、皆再累、各闊さ二尺、長さ一丈、その首を斜めに刻み、感の隅と相応ずることを令す。

原文有司于太岳南四里為圓壇,三成、十二階,如圓丘之制。壇上飾以青,四面各依方色,並造燎壇及壝三重。又造玉策三枚,皆以金繩連編玉簡為之。每簡長一尺二寸,廣一寸二分,厚三分,刻玉填金為字。又為玉匱一,以藏正座玉策,長一尺三寸。並玉檢方五寸,當繩處刻為五道,當封璽處刻深二分,方一寸二分。又為金匱二,以藏配座玉策,制度如玉匱。又為黃金繩以纏金玉匱,各五周。為金泥、玉匱、金匱。為玉璽一枚,方一寸二分,文同受命璽,封玉匱、金匱。又為石〓感,以藏玉匱。用方石再累,各方五尺,厚一尺,刻方石中令容玉匱。〓感旁施檢處,皆刻深三寸三分,闊一尺。當繩處皆刻深三分,闊一寸五分。為石檢十枚,以檢石〓感,皆長三尺,闊一尺,厚七寸。皆刻為印齒三道,深四寸。當封璽處方五寸,當通繩處闊一寸五分。皆有小石蓋,制與檢刻處相應,以檢擫封泥。其檢立於〓感旁,南方、北方各三,東方、西方各二,去〓感隅皆七寸。又為金繩以纏石〓感,各五周,徑三分。為石泥以泥石〓感,其泥,末石和方色土為之。為距石十二枚,分距〓感隅,皆再累,各闊二尺,長一丈,斜刻其首,令與〓感隅相應。

泰山の上に、登封の壇を設け、上の径五丈、高さ九尺、四出陛。壇上は青をもって飾り、四面は方色に依る。一壝、地の宜に随う。その玉牒・玉匱・石感・石検・距石は、皆封祀の制の如し。また降禅の壇を社首山上に造り、方壇八隅、一層八陛、方丘の制の如し。壇上は黄をもって飾り、四面は方色に依る。三壝、地の宜に随う。その玉策・玉匱・石感・石検・距石等も、また封祀の制と同じし。

原文泰山之上,設登封之壇,上徑五丈,高九尺,四出陛。壇上飾以青,四面依方色。一壝,隨地之宜。其玉牒、玉匱、石〓感、石檢、距石,皆如封祀之制。又為降禪壇於社首山上,方壇八隅,一成八陛,如方丘之制。壇上飾以黃,四面依方色。三壝,隨地之宜。其玉策、玉匱、石〓感、石檢、距石等,亦同封祀之制。

その年の十二月に至り、車駕は山下に至る。及び有司が儀注を進奏するに、封祀は高祖・太宗を以て同配とし、禅社首は太穆皇后・文德皇后を以て同配とし、皆公卿を以て亜献・終献の礼を充てんとす。ここにおいて皇后が表を抗して曰く。

原文至其年十二月,車駕至山下。及有司進奏儀注,封祀以高祖、太宗同配,禪社首乙太穆皇后、文德皇后同配,皆以公卿充亞獻、終獻之禮。於是皇后抗表曰:

伏して尋ぬるに、登封の礼は古先に遠く邁り、而降禅の儀は窃かに未だ允ならずと為す。その地祇を祭る日の、太后を昭配と為すに至り、行事を行うに皆公卿を以てす。妾が愚誠を以てすれば、恐らく未だ周備せざらん。何となれば、乾坤定位し、剛柔の義已に殊なり、経義載陳し、中外の儀斯に別なり。瑤壇に作配するは、既に方祇に合し、玉豆に芳を薦むるは、実に内職に帰す。況や先後を推尊し、親しく瓊筵を饗するに、豈に外命の宰臣有りて、内に禋祭に参ぜんや。至理に詳らかにすれば、徽章を紊う有り。但だ礼節の源は、昔典に興ると雖も、而して升降の制は、尚ほ遙図に缺く。且つ往代の封嶽は、顕号と云うと雖も、或は時俗に因り、意は仙を尋ぬるに在り、或は情名を覬み、事深く己の為とす。豈に化四表に被り、美を神宗に推し、道二儀に冠り、功を先徳に帰するが如からんや。寧ぞ旧軌に仍り遵い、彝章を創さざらんや。

原文伏尋登封之禮,遠邁古先,而降禪之儀,竊為未允。其祭地祇之日,以太后昭配,至於行事,皆以公卿。以妾愚誠,恐未周備。何者?乾坤定位,剛柔之義已殊;經義載陳,中外之儀斯別。瑤壇作配,既合于方祇;玉豆薦芳,實歸於內職。況推尊先後,親饗瓊筵,豈有外命宰臣,內參禋祭?詳於至理,有紊徽章。但禮節之源,雖興於昔典;而升降之制,尚缺於遙圖。且往代封嶽,雖雲顯號,或因時俗,意在尋仙;或以情覬名,事深為己。豈如化被乎四表,推美于神宗;道冠乎二儀,歸功於先德。寧可仍遵舊軌,靡創彝章?

妾は謬りて椒闈に処り、叨りて蘭掖に居る。但だ職は惟だ中饋に在り、道は蒸・嘗に属し、義は奉先に切にし、理は蘋・藻に光る。罔極の思は、載せて因心に結び、祗肅の懷は、実に明祀に深し。但だ妾は早く定省に乖き、已に晨昏に侍するを闕き、今崇禋に属す。豈敢えて帷帟に安からんや。是故に情を夕寝に馳せ、嬴裏を睠みて魂を翹ぎょうげ、慮を宵興に疊ね、深郊を仰ぎて念を聳ます。伏して望む、礼を展ぶるの日、総べて六宮内外の命婦を率い、以て親しく奠を奉ぜんことを。冀くは如在の敬を申し、式として虔拜の儀を展べん。この微誠を積み、已に気序に淹る。既に鑾輿将に警め、奠璧賒からずに属す。輒ち丹心を效し、庶くは大礼を裨せん。冀くは聖朝則を垂れ、永く芳規に播し、螢燭の末光、日月に輝を増さんことを。

原文妾謬處椒闈,叨居蘭掖。但以職惟中饋,道屬於蒸、嘗;義切奉先,理光於蘋、藻。罔極之思,載結於因心;祗肅之懷,實深於明祀。但妾早乖定省,已闕侍於晨昏;今屬崇禋,豈敢安於帷帟。是故馳情夕寢,睠嬴裏而翹魂;疊慮宵興,仰深郊而聳念。伏望展禮之日,總率六宮內外命婦,以親奉奠。冀申如在之敬,式展虔拜之儀。積此微誠,已淹氣序。既屬鑾輿將警,奠璧非賒,輒效丹心,庶裨大禮。冀聖朝垂則,永播於芳規;螢燭末光,增輝於日月。

ここにおいて地祇・梁甫を祭るに、皆皇后を以て亜献と為し、諸王の大妃を以て終献と為す。

原文於是祭地祇、梁甫,皆以皇后為亞獻,諸王大妃為終獻。

丙辰、前羅文府果毅李敬貞、封禅には明水を以て樽を実すべきを論じて曰く、「『淮南子』に云う、'方諸月を見れば、則ち津して水と為す'と。高誘の注に云う、'方諸は陰燧、大蛤なり。熟く摩拭して熱からしめ、以て月に向かえば、則ち水生ず。銅盤を以てこれを受け、下ること数石'と。王充の『論衡』に云う、'陽燧は日に火を取り、方諸は月に水を取り、相去ること甚だ遠し。而して火至り水来るは、気感の験なり'と。『漢旧儀』に云う、'八月酎を飲み、車駕は夕牲し、鑒諸を以て月に水を取り、陽燧を以て日に火を取る'と。『周礼・考工記』に云う、'金に六斉有り。金錫半ばするは、これを鑒燧の斉と謂う'と。鄭玄の注に云う、'鑒燧は、水火を日月の器に取るなり'と。鄭のこの注に准うれば、則ち水火の器は、皆金錫を以てこれを作る。今司宰に陽燧有り、形は円鏡の如く、以て明火を取り、陰鑒は形は方鏡の如く、以て明水を取る。但だ比年の祠祭は、皆陽燧を用いて火を取り、時に応じて得、陰鑒を用いて水を取るは、未だ得る者無く、常用井水を以て明水の処に替う'と。」奉勅して礼司に研究せしむ。敬貞因りて先儒の是非を説き、言明水に及びて、乃ち云く、「周礼の金錫相半ばするは、自是れ陽燧を造る法なり。鄭玄錯りて解きて陰鑒の制と為す。仍って古の明水を取る法は、方諸を用うるに合し、『淮南子』等の書を引き、大蛤を用う。」又称して、「敬貞は曾て八九月中に、蛤一尺二寸の者を取り法に依りてこれを試む。人定より夜半に至り、水四五斗を得たり。」奉常奏して曰く、「封禅祭祀は、即ち明水を須いて樽を実す。敬貞の陳ぶる所は、故実を検する有り。」又称して、「先ず経験を試み確執す。望み請う、敬貞を差し自ら蚌蛤を取り、便ち太山に赴きて所司と対試せしめん。」

原文丙辰,前羅文府果毅李敬貞論封禪須明水實樽:「《淮南子》云:'方諸見月,則津而為水。'高誘注云:'方諸,陰燧,大蛤也。熟摩拭令熱,以向月,則水生。以銅盤受之,下數石。'王充《論衡》云:'陽燧取火于日,方諸取水於月,相去甚遠,而火至水來者,氣感之驗也。'《漢舊儀》云:'八月飲酎,車駕夕牲,以鑒諸取水於月,以陽燧取火於日。'《周禮·考工記》云:'金有六齊。金錫半,謂之鑒燧之齊。'鄭玄注云:'鑒燧,取水火於日月之器也。'准鄭此注,則水火之器,皆以金錫為之。今司宰有陽燧,形如圓鏡,以取明火;陰鑒形如方鏡,以取明水。但比年祠祭,皆用陽燧取火,應時得;以陰鑒取水,未有得者,常用井水替明水之處。」奉敕令禮司研究。敬貞因說先儒是非,言及明水,乃云:「周禮金錫相半,自是造陽燧法,鄭玄錯解以為陰鑒之制。仍古取明水法,合用方諸,引《淮南子》等書,用大蛤也。」又稱:「敬貞曾八九月中,取蛤一尺二寸者依法試之。自人定至夜半,得水四五斗。」奉常奏曰:「封禪祭祀,即須明水實樽。敬貞所陳,檢有故實。」又稱:先經試驗確執,望請差敬貞自取蚌蛤,便赴太山與所司對試。」

この日、制して曰く、「古今の典制、文質同じからず。制度に至りては、世代に随い沿革す。唯だ天地を祀るは、独り改張せず。斯れ乃ち自ら厚きに処り、天を奉るに薄きを以てす。又今の封禅は、即ち玉牒金縄を用い、器物の間に復た瓦樽秸席有り。一時に行礼し、文質頓に乖き、駁にして倫れず、深く未だ愜わず。その封祀・降禅の設くる上帝・後土の位、先に颭秸・瓦甒・瓢杯等の物を設くるは、並びに宜しく裀褥罍爵に改用し、毎事文に従うべし。その諸郊祀も亦宜しく此に准うべし。」ここにおいて昊天上帝の座褥は蒼を以てし、皇地祇の褥は黄を以てし、配帝及び後の褥は紫を以てし、五方上帝及び大明・夜明の席は皆方色を以てし、内官已下の席は皆莞を以てす。

原文是日,制曰:「古今典制,文質不同,至於制度,隨世代沿革,唯祀天地,獨不改張,斯乃自處於厚,奉天以薄。又今封禪,即用玉牒金繩,器物之間,復有瓦樽秸席,一時行禮,文質頓乖,駁而不倫,深為未愜。其封祀、降禪所設上帝、後土位,先設颭秸、瓦甒、瓢杯等物,並宜改用裀褥罍爵,每事從文。其諸郊祀,亦宜准此。」於是昊天上帝之座褥以蒼,皇地祇褥以黃,配帝及後褥以紫,五方上帝及大明、夜明席皆以方色,內官已下席皆以莞。

三年正月、帝は山下の封礼の壇において昊天上帝を親享し、円丘の儀式の如くであった。祭祀が終わると、自ら玉策を封じて石感に置き、五色の土を集めて封じた。円径は一丈二尺、高さは九尺。その日、帝は侍臣以下を率いて泰山に登った。翌日、山上の登封の壇に就き玉策を封じ終えると、再び山下の斎宮に還った。その翌日、社首山の降禅の壇において皇地祇を親祀し、方丘の儀式の如くであった。皇后が亜献となり、越国太妃燕氏が終献となった。翌日、上は朝覲壇に臨んで群臣を朝し、元日の儀式の如くであった。礼が終わると、文武の百僚を宴し、大赦を行い元号を改めた。初め、上は降禅の壇において親享し、初献の礼を終えると、執事者は皆急いで下がった。宦官が帷を執り、皇后が六宮を率いて登壇し、礼を行った。帷や帟は皆錦繡で作られていた。百僚が在位して眺め、或いはひそかに議論した。ここにおいて詔して登封・降禅・朝覲の碑を立て、各々壇の場所に置いた。また詔して封祀壇を舞鶴台と名付け、介丘壇を万歳台とし、降禅壇を景雲台と名付け、当時見られた瑞祥を記念した。

原文三年正月,帝親享昊天上帝於山下,封禮之壇,如圓丘之儀。祭訖,親封玉策,置石〓感,聚五色土封之。圓徑一丈二尺,高九尺。其日,帝率侍臣已下升泰山。翌日,就山上登封之壇封玉策訖,復還山下之齋宮。其明日,親祀皇地祇於社首山上,降禪之壇,如方丘之儀。皇后為亞獻,越國太妃燕氏為終獻。翌日,上御朝覲壇以朝群臣,如元日之儀。禮畢,宴文武百僚,大赦改元。初,上親享於降禪之壇,行初獻之禮畢,執事者皆趨而下。宦者執帷,皇后率六宮以升,行禮。帷帟皆以錦繡為之。百僚在位瞻望,或竊議焉。於是詔立登封、降禪、朝覲之碑,各於壇所。又詔名封祀壇為舞鶴台,介丘壇為萬歲台,降禪壇為景雲台,以紀當時所見之瑞焉。

高宗は泰山を封禅した後、さらに五嶽を遍く封ぜんと欲した。永淳元年に至り、洛州嵩山の南に崇陽県を置いた。その年七月、奉天宮の造営を命じた。二年正月、車駕は奉天宮に幸した。七月に至り、その年十一月に嵩嶽において封禅を行わんとする詔を下した。国子司業李行偉・考工員外郎賈大隱・太常博士韋叔夏・裴守貞・輔抱素らに詔して儀注を詳定させた。ここにおいて議して曰く、

原文高宗既封泰山之後,又欲遍封五嶽。至永淳元年,於洛州嵩山之南,置崇陽縣。其年七月,敕其所造奉天宮。二年正月,駕幸奉天宮。至七月,下詔將以其年十一月封禪于嵩嶽。詔國子司業李行偉、考工員外郎賈大隱、太常博士韋叔夏裴守貞輔抱素等詳定儀注。於是議:

封祀壇を立てるは、円丘の制の如く。上は玄色で飾り、四面は方色に依る。円壇と為し、三成、高さ二丈四尺、各等高さ六尺。壇上の径は十六歩、三等各々広さ四歩。十二陛を設け、陛は皆上幅八尺、下幅一丈四尺。三重の壝を為し、外壝より三十歩距て、内壝は五十歩距てる。燎壇は壇の東南外壝の内にあり、高さ三尺、方一丈五尺、南に陛を出す。登封壇は、円径五丈、高さ九尺。四出陛、一壝を為し、五色で飾り、封祀に準ず。禅祭壇は、上を金色で飾り、四面は方色に依り、八角方壇と為し、再成、高さ一丈二尺、各等高さ四尺。壇上の方十六歩、各等広さ四歩、八陛を設く。その上壇の陛は皆幅八尺、中等の陛は皆幅一丈、下等の陛は皆幅一丈二尺。三重の壝の大小は、封祀に準ず。埋坎を為し、壇の未地外壝の内にあり、方深は物を容るるに足るを取り、南に陛を出す。朝覲壇は、行宮の前に壇を為す。宮は方三分。壝二、南にあり。壇は方二十四丈、高さ九尺、南面に両陛、余の三面は各々一陛。封祀・登封は、五色土で石感を封じて円封と為し、上径一丈二尺、下径三丈、高さ九尺。禅祭は、五色土で封じて八角方封と為し、大小は封祀の制度に準ず。用いる尺寸は、歴代の東封に準じ、並びに古尺を用いる。諸壇は並びに土を築いて之を為し、礼に石を用うるの文なし。並びに影を度りて以て方位を定む。登封・降禅は、四出陛各々四方の中に当たり、陛は各々上幅七尺、下幅一丈二尺。封祀の玉帛の料は、蒼璧有り、四圭有邸、圭璧有り。禅祭は黄琮有り、両圭有邸、圭璧無し。

原文立封祀壇,如圓丘之制。上飾以玄,四面依方色。為圓壇,三成,高二丈四尺,每等高六尺。壇上徑一十六步,三等各闊四步。設十二陛,陛皆上闊八尺,下闊一丈四尺。為三重壝,距外壝三十步,內壝距五十步。燎壇在壇東南外壝之內,高三尺,方一丈五尺,南出陛。登封壇,圓徑五丈,高九尺。四出陛,為一壝,飾以五色,准封祀。禪祭壇,上飾以金,四面依方色,為八角方壇,再成,高一丈二尺,每等高四尺。壇上方十六步,每等廣四步,設八陛。其上壇陛皆廣八尺,中等陛皆廣一丈,下等陛皆廣一丈二尺。為三重壝之大小,准封祀。為埋坎,在壇之未地外壝之內,方深取足容物,南出陛。朝覲壇,於行宮之前為壇。宮方三分。壝二,在南。壇方二十四丈,高九尺,南面兩陛,餘三百各一陛。封祀、登封,五色土封石〓感為圓封,上徑一丈二尺,下徑三丈,高九尺。禪祭,五色土封為八角方封,大小准封祀制度。所用尺寸,准曆東封,並用古尺。諸壇並築土為之,禮無用石之文。並度影以定方位。登封、降禪,四出陛各當四方之中,陛各上廣七尺,下廣一丈二尺。封祀玉帛料,有蒼璧,四圭有邸,圭璧。禪祭有黃琮,兩圭有邸,無圭璧。

また登封・降禅・朝覲等の日を定む。礼に準ずれば、冬至に円丘にて天を祭る。その封祀は十二日を用いんことを請う。東封祀の故事に準ずれば、十二日登封、十三日禅祭、十四日朝覲。若し故有らば、登封以下の期日を改むるを須い、礼に妨げ無し。

原文又定登封、降禪、朝覲等日。准禮,冬至祭天於圓丘,其封祀請用十二日。准東封祀故事,十二日登封,十三日禪祭,十四日朝覲。若有故,須改登封已下期日,在禮無妨。

また輦輿の料に云う:封祀・登封は、皇帝出ずるには玉輅に乗り、還るには金輅に乗る。皇太子は往還ともに金輅。禅祭は、皇帝・太子は封祀の如し。また衣服の料に云う:「東封祠祭の日、天皇は袞冕を服す。近く制を奉じ、『貞観礼』に依り大裘を服す。また云う:袞冕服一具、斎に之を服す;通天冠服一具、回りに之を服す;翼善冠服一具、馬上に之を服す。皇太子は袞冕服。また斎すれば則ち遠遊冠を服し、朝を受くれば則ち公服遠遊冠服、馬上では則ち進德冠服。

原文又輦輿料云:封祀、登封,皇帝出乘玉輅,還乘金輅。皇太子往還金輅。禪祭,皇帝、太子如封祀。又衣服料云:「東封祠祭日,天皇服袞冕,近奉制,依《貞觀禮》服大裘。又云:袞冕服一具,齋服之;通天冠服一具,回服之;翼善冠服一具,馬上服之。皇太子袞冕服。又齋則服遠遊冠,受朝則公服遠遊冠服,馬上則進德冠服。

当時また射牛の礼を詳しく求めしむることを令す。行偉・守貞ら議して曰く:「『周礼』及び『国語』に拠れば、天地を郊祀するに、天子自ら其の牲を射る。漢の武帝は唯泰山を封ずるに、侍中の儒者に牛を射しめて行事せしむ。余の祀に至っては、亦た牲を射るの文無し。但し親しく舂き牲を射るは、古礼と雖も、久しく廃省に従う。封禅礼に拠れば、祀の日、未明十五刻に、宰人が鑾刀を以て牲を割き、質明にして行事す。鑾駕の至る時に比すれば、牢牲は総べて畢わり、天皇は唯玉を奠し酌献するのみ。今若し祀の前一日に牲を射れば、事即ち早きを傷つく。祀の日に方りて始めて牲を射れば、事又た晩きを傷つく。若し漢武の故事に依らば、即ち親射の儀に非ず、事行うべからず。」詔して之に従う。尋で高宗の不豫よに属し、遂に封禅の礼を罷む。

原文當時又令詳求射牛之禮。行偉、守貞等議曰:「據《周禮》及《國語》,郊祀天地,天子自射其牲。漢武唯封太山,令侍中儒者射牛行事。至於餘祀,亦無射牲之文。但親舂射牲,雖是古禮,久從廢省。據封禪禮,祀日,未明十五刻,宰人以鑾刀割牲,質明而行事。比鑾駕至時,牢牲總畢,天皇唯奠玉酌獻而已。今若祀前一日射牲,事即傷早。祀日方始射牲,事又傷晚。若依漢武故事,即非親射之儀,事不可行。」詔從之。尋屬高宗不豫,遂罷封禪之禮。

則天証聖元年、嵩山に事有らんとし、先ず使いを遣わして祭りを致し福を祈り助けしめ、制を下し、嵩山を神嶽と号し、嵩山神を天中王と尊び、夫人を霊妃とす。嵩山旧に夏の啓及び啓母・少室阿姨の神廟有り、皆令して予め祈祭せしむ。天冊万歳二年臘月甲申に至り、親しく登封の礼を行ふ。礼畢りて、便ち大赦し、元号を万歳登封と改め、嵩陽県を登封県と改め、陽成県を告成県と改む。粤に三日丁亥、少室山に禅す。又た二日己丑、朝覲壇に臨み群臣を朝し、皆乾封の儀の如し。則天は封禅の日を嵩嶽の神祇の祐る所と為し、遂に神嶽天中王を神嶽天中皇帝と尊び、霊妃を天中皇后とし、夏后啓を斉聖皇帝とす;啓母神を玉京太后に封じ、少室阿姨神を金闕夫人とす;王子晋を升仙太子とし、別に廟を立てしむ。登封壇の南に槲樹有り、大赦の日に其の杪に金鶏樹を置く。則天自ら『升中述志碑』を製し、壇の丙の地に樹つ。

原文則天證聖元年,將有事於嵩山,先遣使致祭以祈福助,下制,號嵩山為神嶽,尊嵩山神為天中王,夫人為靈妃。嵩山舊有夏啟及啟母、少室阿姨神廟,咸令預祈祭。至天冊萬歲二年臘月甲申,親行登封之禮。禮畢,便大赦,改元萬歲登封,改嵩陽縣為登封縣,陽成縣為告成縣。粵三日丁亥,禪於少室山。又二日己丑,禦朝覲壇朝群臣,咸如乾封之儀。則天以封禪日為嵩嶽神祇所祐,遂尊神岳天中王為神岳天中皇帝,靈妃為天中皇后,夏後啟為齊聖皇帝;封啟母神為玉京太后,少室阿姨神為金闕夫人;王子晉為升仙太子,別為立廟。登封壇南有槲樹,大赦日於其杪置金雞樹。則天自製《升中述志碑》,樹於壇之丙地。

玄宗開元十二年、文武の百僚・朝集使・皇親及び四方の文学の士は、皆以て理化升平し、時に穀屡ねて稔るを以て、上書して封禅の礼を修めんことを請い並びに賦頌を献ずる者、前後千余篇有り。玄宗は謙沖として許さず。中書令張説又た累日固く請う。乃ち制を下して曰く、

原文玄宗開元十二年,文武百僚、朝集使、皇親及四方文學之士,皆以理化升平,時穀屢稔,上書請修封禪之禮並獻賦頌者,前後千有餘篇。玄宗謙沖不許。中書令張說又累日固請,乃下制曰:

古より命を受けて王と為る者は、曷ぞ泰山を封じ梁父に禅へずして、厚徳に答え成功を告げんや。三代以前は、此れに由らざるは罔し。魏・晋より越え、周・隋に至るまで、帝典闕けて大道隠れ、王綱弛んで旧章缺け、千載寂寥たり、封崇嗣ぐ者莫し。物極まりて復る、天我が唐に祚し、武・文の二後、図に応じ籙を受く。高宗に洎りて、重光累盛し、至理を承け、介丘に登り、百神を懐き、六合を震わし、殷・周の統を紹ぎ、虞・夏の風に接ぐ。中宗は弘懿鑠の休を弘め、睿宗は粹精の道を沐し、巍巍蕩蕩、称うるを得る者無し。

原文自古受命而王者,曷嘗不封泰山,禪梁父,答厚德,告成功。三代之前,罔不由此。越自魏、晉,以迄周、隋,帝典闕而大道隱,王綱弛而舊章缺,千載寂寥,封崇莫嗣。物極而復,天祚我唐,武、文二後,應圖受籙。洎于高宗,重光累盛,承至理,登介丘,懷百神,震六合,紹殷、周之統,接虞、夏之風。中宗弘懿鑠之休,睿宗沐粹精之道,巍巍蕩蕩,無得而稱者也。

朕は昔、多難を戡定し、先朝の謀略を稟承し、慈旨を虔しく奉じて、丕業を嗣ぎ膺けた。ここにおいて九廟を創建して孝敬を申べ、二郊を礼して厳禋を展べ、菽粟を水火に宝し、珠玉を山谷に捐つ。兢兢業業として、敢えて前王を追美せず;日慎一日として、実に遺訓を奉遵せんとする。巡狩の大典、封禅の鴻名に至っては、顧みて寡薄なるを惟い、未だ時邁に遑あらず、茲に十四載を経たり。今、百穀は有年、五材は眚無く、刑罰を用いず、礼義は興行し、和気は氤氳し、淳風は澹泊たり。蛮夷戎狄、殊方異類、重訳して至る者は、日月闕廷に於いて;奇獣神禽、甘露嘉醴、窮祥極瑞は、朝夕林禦に於いて。王公卿士は、中に乃ち誠を罄く;鴻生碩儒は、外に其の書を献ず。神祇に合契し、億兆同心せざるは莫し。これ皆、烈祖聖孝の、余慶を垂れたるなり。故に朕は宗廟の介福に頼り、敢えて眇身を以て、其の克譲を顓にす。ここをもって群議を敬奉し、此の大猷を弘めて、我が高祖の丕図を光らし、我が高祖の鴻烈を紹げんとす。永く陟配を言い、追感載深し。開元十三年十一月十日を以て、故実に式遵し、太山に事有らしむべし。所司は公卿諸儒と典礼を詳かに択び、預め備具せしめ、広く人を労すること勿く、務む節約に存し、以て朕が意に称えしむべし。

原文朕昔戡多難,稟略先朝,虔奉慈旨,嗣膺丕業。是用創九廟以申孝敬,禮二郊以展嚴禋,寶菽粟於水火,捐珠玉於山谷。兢兢業業,非敢追美前王;日慎一日,實以奉遵遺訓。至於巡狩大典,封禪鴻名,顧惟寡薄,未遑時邁,十四載於茲矣。今百谷有年,五材無眚,刑罰不用,禮義興行,和氣氤氳,淳風澹泊。蠻夷戎狄,殊方異類,重譯而至者,日月于闕廷;奇獸神禽,甘露嘉醴,窮祥極瑞,朝夕于林禦。王公卿士,罄乃誠於中;鴻生碩儒,獻其書於外。莫不以神祇合契,億兆同心。斯皆烈祖聖孝,垂裕余慶。故朕賴宗廟之介福,敢以眇身,顓其克讓。是以敬奉群議,弘此大猷,以光我高祖之丕圖,以紹我高祖之鴻烈。永言陟配,追感載深。可以開元十三年十一月十日,式遵故實,有事太山。所司與公卿諸儒詳擇典禮,預為備具,勿廣勞人,務存節約,以稱朕意。

ここにおいて詔して、中書令張説・右散騎常侍さんきじょうじ徐堅・太常少卿韋縚・秘書少監康子元・国子博士侯行果等をして、礼官と集賢書院に於いて儀注を刊撰せしむ。

原文於是詔中書令張說、右散騎常侍徐堅、太常少卿韋絛、秘書少監康子元、國子博士侯行果等,與禮官於集賢書院刊撰儀注。

玄宗は初め、霊山は静を好むを以て、喧繁を欲せず、宰臣及び侍講学士と対議し、山下封祀の儀を用いんとす。ここにおいて張説、徐堅・韋縚等に謂いて曰く、「乾封の旧儀は、社首に禅し、皇地祇を享け、先後を以て配饗す。王者は天を父とし地を母とす。当今の皇母位は、亦た往帝の母なり。子が母に配して饗るも、亦た何の嫌か有らん。而るに皇后を以て地祇に配するは、古の制に非ず。天監孔明にして、福善響の如し。乾封の礼に、文徳皇后を以て皇地祇に配し、天后を以て亜献と為し、越国太妃を以て終献と為す。宮闈神に接するは、旧典に乖けり。上玄祐せず、遂に天授易姓の事有り、宗社中に圮ち、公族誅滅す、皆此れに由るなり。景龍の季、円丘に事有り、韋氏を以て亜献と為す、皆婦人を以て壇に升り籩豆を執る。穹蒼を渫黷し、享祀潔からず。未だ年を逾えざるに、国に内難有り、終献皆其の咎を受く。掌座斎郎及び女人祭を執る者、多く亦た夭卒す。今、主上は天を尊び神を敬し、事資革正す。斯の礼は睿宗大聖貞皇帝を以て皇地祇に配し、神を侑えて主と作すべし」と。乃ち議を定めて奏聞す。上之に従う。

原文玄宗初以靈山好靜,不欲喧繁,與宰臣及侍講學士對議,用山下封祀之儀。於是張說謂徐堅、韋絛等曰:「乾封舊儀,禪社首,享皇地祇,以先後配饗。王者父天而母地,當今皇母位,亦當往帝之母也,子配母饗,亦有何嫌?而以皇后配地祇,非古之制也。天監孔明,福善如響。乾封之禮,文德皇后配皇地祇,天后為亞獻,越國太妃為終獻。宮闈接神,有乖舊典。上玄不祐,遂有天授易姓之事,宗社中圮,公族誅滅,皆由此也。景龍之季,有事圓丘,韋氏為亞獻,皆以婦人升壇執籩豆,渫黷穹蒼,享祀不潔。未及逾年,國有內難,終獻皆受其咎,掌座齋郎及女人執祭者,多亦夭卒。今主上尊天敬神,事資革正。斯禮以睿宗大聖貞皇帝配皇地祇,侑神作主。」乃定議奏聞。上從之。

旧礼は、郊祀既に畢りて、玉帛牲体を収取し、柴の上に置き、然る後に燎壇の上に燔く。其の壇は神壇の左に在り。

原文舊禮:郊祀既畢,收取玉帛牲體,置於柴上,然後燔於燎壇之上,其壇於神壇之左。顯慶中,禮部尚書許敬宗等因修改舊禮,乃奏曰:

謹んで按ずるに祭祀の礼、周人は臭を尚ぶ。天を祭れば則ち柴を燔き、地を祭れば則ち血を瘞え、宗廟は則ち蕭を焫え鬯を灌ぐ。皆気臭を貴び、同じく以て神を降す。礼経明白にして、義釈甚だ詳し。柴を委すること祭神の初に在り、理として惑うる所無し。ここを以て『三礼義宗』等並びに云う、「天を祭るは燔柴を以て始めと為し、然る後正祭を行ふ。地を祭るは瘞血を以て先と為し、然る後正祭を行ふ」と。又『礼論』に説く、太常賀循上言す、「積柴旧は壇の南に在り、天を燎祭する牲は、犢の左胖を用ふ。漢儀は頭を用ふ。今の郊は脅の九個を用ふ。太宰令は牲脅を奉じ、太祝令は圭璧を奉じ、倶に燎薪の上に奠す」と。此れ即ち晋氏の故事、亦た祭末の文無し。既に漢儀は牲頭を用ふと云う。頭は神俎の物に非ず、且つ祭末の俎は皆右胖の脅を升る。唯だ『三礼』・賀循は既に天を祭る牲の左胖を用ふと云い、復た今の儀は脅九個を用ふと云う。燔柴の用ふる所は、升俎と異なるを足ら明らかにす。是れ祭初に自ら在りて、別に牲体を燔くを知る。祭末に於いて、神余の饌を焼くに非ず。此れ則ち晋氏以前、仍って古礼を遵ふ。唯だ周・魏以降、妄りに損益を為す。廟に告ぐる幣の、事畢りて瘞埋するに縁り、因りて燔柴を改め、将に祭末と為さんとす。事典実無く、礼降神を闕く。

原文謹按祭祀之禮,周人尚臭,祭天則燔柴,祭地則瘞血,宗廟則焫蕭灌鬯,皆貴氣臭,同以降神。禮經明白,義釋甚詳。委柴在祭神之初,理無所惑。是以《三禮義宗》等並云:「祭天以燔柴為始,然後行正祭。祭地以瘞血為先,然後行正祭。」又《禮論》說太常賀循上言:「積柴舊在壇南,燎祭天之牲,用犢左胖,漢儀用頭,今郊用脅之九個。太宰令奉牲脅,太祝令奉圭璧,俱奠燎薪之上。」此即晉氏故事,亦無祭末之文。既雲漢儀用牲頭,頭非神俎之物,且祭末俎皆升右胖之脅。唯有《三禮》、賀循既雲用祭天之牲左胖,復雲今儀用脅九個,足明燔柴所用,與升俎不同。是知自在祭初,別燔牲體,非於祭末,燒神餘饌。此則晉氏以前,仍遵古禮。唯周、魏以降,妄為損益。緣告廟之幣,事畢瘞埋,因改燔柴,將為祭末。事無典實,禮闕降神。

又た燔柴・正祭、牲・玉は皆別なり。蒼璧蒼犢の流は、柴の用ふる所;四圭騂犢の属は、祀の須ふる所。故に天を郊するに四圭有るは、猶お廟を祀るに圭瓚有るが如し。ここを以て『周官典瑞』、文勢相因り、並びに事畢りて収蔵し、燔の例に在らず。而るに今の新礼は蒼璧を引用し、圭瓚を顧みず、遂に亦た倶に燔く。義既に乖けり、理因襲に難し。又た燔柴作楽は、倶に神を降すを以てす。則ち処置の宜しきは、須らく相い準依すべし。柴燔は左に在り、作楽は南に在り。礼情を求めれば、実に類せず。且つ『礼論』に積柴の処は神壇の南に在りと説く。新体は壇左と為すを以てす。文典故無し。請う燔を改めて祭の始めと為し、楽懸の南、外壝の内に位せしむ。其の陰祀の瘞埋も、亦た請う此れに准ぜしむ。

原文又燔柴、正祭,牲、玉皆別。蒼璧蒼犢之流,柴之所用;四圭騂犢之屬,祀之所須。故郊天之有四圭,猶祀廟之有圭瓚。是以《周官典瑞》,文勢相因,並事畢收藏,不在燔例。而今新禮引用蒼璧,不顧圭瓚,遂亦俱燔,義既有乖,理難因襲。又燔柴作樂,俱以降神,則處置之宜,須相依准。柴燔在左,作樂在南,求之禮情,實為不類。且《禮論》說積柴之處在神壇之南,新體以為壇左,文無典故。請改燔為祭始,位樂懸之南,外壝之內。其陰祀瘞埋,亦請准此。

制して之を可とす。是れより郊丘諸祀は、並びに先ず焚き而る後祭す。

原文制可之。自是郊丘諸祀,並先焚而後祭。

及び玄宗将に封禅の礼を作らんとす。張説等儀注を参定し、徐堅・康子元等建議して曰く、

原文及玄宗將作封禪之禮,張說等參定儀注,徐堅、康子元等建議曰:

臣等謹んで按ずるに、顕慶年修礼官長孫無忌等の奏する、燔柴を祭前に改むる状に称す「祭祀の礼は、必ず先ず神を降す。周人は臭を尚ぶ。天を祭れば則ち柴を燔く」と。臣等礼を按ずるに、神を迎うるの義は、楽六変すれば則ち天神降り、八変すれば則ち地祇出で、九変すれば則ち鬼神礼すべきを得。則ち神を降すは楽を以てす。『周礼』の正文、柴を燔きて以て神を降すと謂うに非ず。案ずるに臭を尚ぶの義は、燔の先後を為さず。仮令周人は臭を尚ぶとす。天を祭れば則ち柴を燔く。容或は臭を燔き先ず以て神を迎う。然らば則ち殷人は声を尚ぶ。天を祭るも亦た柴を燔く。何の声か燔き先ず神を迎うる可き。又た按ずるに顕慶中無忌等の奏に称す「晋氏以前は、猶お古礼を遵ふ。周・魏以降は、妄りに損益を為す」と。今按ずるに郭璞『晋南郊賦』及び『爾雅』に注す「祭りて後方に燔く」。又た按ずるに『宋志』の論ずる所も、亦た祭りて後方に燔く。又た南斉・北斉及び梁の郊祀を検するも、亦た福酒を飲みて後方に燔く。又た後周及び隋の郊祀を検するも、亦た先ず祭りて後燔く。此れに拠れば、即ち周は後燔を遵ひ、晋は先燎せず。無忌の事、義乃ち相い乖けり。

原文臣等謹按顯慶年修禮官長孫無忌等奏改燔柴在祭前狀稱「祭祀之禮,必先降神。周人尚臭,祭天則燔柴」者。臣等按禮,迎神之義,樂六變則天神降,八變則地祇出,九變則鬼神可得而禮矣。則降神以樂,《周禮》正文,非謂燔柴以降神也。案尚臭之義,不為燔之先後。假如周人尚臭,祭天則燔柴,容或燔臭先以迎神。然則殷人尚聲,祭天亦燔柴,何聲可燔先迎神乎?又按顯慶中無忌等奏稱「晉氏之前,猶遵古禮。周、魏以降,妄為損益」者。今按郭璞《晉南郊賦》及注《爾雅》:「祭後方燔。」又按《宋志》所論,亦祭後方燔。又檢南齊、北齊及梁郊祀,亦飲福酒後方燔。又檢後周及隋郊祀,亦先祭後燔。據此,即周遵後燔,晉不先燎。無忌之事,義乃相乖。

また『周礼大宗伯』の職掌に按ずるに、「玉をもって六器を作り、以て天地四方を礼す」とある。注に云う、「礼とは始めて神に告ぐる時に神に薦むるなり」と。下文に云う、「蒼璧を以て天を礼し、黄琮を以て地を礼し、皆牲幣有り、各おの其の器の色の如し」と。また『礼器』に云う、「少きを以て貴しと為す者は、天を祭るに特牲を用う」と。是れ蒼璧と蒼牲とが、倶に各おの神座に奠められることを知る、理節惑わず。また云う、「四圭に邸有り、以て天を祀り、上帝に旅す」と。即ち昊天上帝を祀る時に、以て五方の天帝に旅することを明らかにするなり。其の青圭・赤璋・白琥・玄璜は、自ずから立春・立夏・立秋・立冬の日、各おの其の方に於いて気を迎えるに用いるもの、自ずから分別有り。今、顕慶の改めたる新礼に按ずるに、蒼璧と蒼牲・蒼幣とを、倶に先ず燔くを用う。蒼璧既に已に燔かれぬれば、以て遂に四圭有邸を加え、神座に奠む。蒼牲既に已に燔かれぬれば、以て更に騂牲を加え、其の実俎に充つ。昊天を五帝に混じ、同しく四圭を用い、特牲の明文を失い、二犢と為すを加う。深く礼意に乖き、事乃ち憑る所無し。

原文又按《周禮大宗伯》職:「以玉作六器,以禮天地四方。」《注》云:「禮為始告神時薦於神也。」下文云:「以蒼璧禮天,以黃琮禮地,皆有牲幣,各如其器之色。」又《禮器》云:以少為貴者,祭天特牲。」是知蒼璧之與蒼牲,俱各奠之神座,理節不惑。又云:「四圭有邸,以祀天、旅上帝。」即明祀昊天上帝之時,以旅五方天帝明矣。其青圭、赤璋、白琥、玄璜,自是立春、立夏、立秋、立冬之日,各于其方迎氣所用,自分別矣。今按顯慶所改新禮,以蒼璧與蒼牲、蒼幣,俱用先燔。蒼璧既已燔矣,所以遂加四圭有邸,奠之神座。蒼牲既已燔矣,所以更加騂牲,充其實俎。混昊天於五帝,同用四圭;失特牲之明文,加為二犢。深乖禮意,事乃無憑。

考功員外郎趙冬曦・太学博士侯行果曰く、「先に焚く者は本より神を降すを以てし、行わるること已久し。若し祭義に従わば、後焚を定めと為すべし」と。中書令張説執りて奏して曰く、「徐堅等の議する所の燔柴の前後は、議に同じからず。祭義及び貞観・顕慶已後の礼に拠れば、既に先に燔く。若し失礼を正し、祭義を求めんと欲せば、請う『貞観礼』に従わんことを。如し且く因循して改めざれば、更に請う『顕慶礼』に従わんことを。凡そ祭る者は、本より心を主と為し、心至れば則ち天地に通じ、神祇に達す。既に先焚・後燎有り、自ら聖意に断ずべし。聖意の至る所、則ち神明に通ず。燔くの先後は、臣等敢えて裁定せず」と。玄宗、後焚及び先に奠むるの儀に依ることを令す。是の後、太常卿甯王憲奏請して、郊壇の時祭は、並びに此れに依り先ず璧を奠めて後に柴を燔き埋むるに依らしむ、制して之に従う。

原文考功員外郎趙冬曦、太學博士侯行果曰:「先焚者本以降神,行之已久。若從祭義,後焚為定。」中書令張說執奏曰:「徐堅等所議燔柴前後,議有不同。據祭義及貞觀。顯慶已後,既先燔,若欲正失禮,求祭義,請從《貞觀禮》。如且因循不改,更請從《顯慶禮》。凡祭者,本以心為主,心至則通于天地,達於神祇。既有先燔、後燎,自可斷於聖意,聖意所至,則通於神明。燔之先後,臣等不敢裁定。」玄宗令依後燔及先奠之儀。是後太常卿甯王憲奏請郊壇時祭,並依此先奠璧而後燔柴、瘞埋,制從之。

時に又た四門助教施敬本有りて、旧封禅礼八条を駁奏す、其の略は曰く、

原文時又有四門助教施敬本駁奏舊封禪禮八條,其略曰:

旧礼は、侍中跪きて匜を取って沃盥す、礼に非ざるなり。夫れ手を盥い爵を洗うは、人君将に潔を致して神を尊ばんとす、故に能く小臣をして之を為さしむ。今の侍中は、大臣なり、而して人君に沃盥す。太祝は、小臣なり、乃ち天神に詔祝す。是れ天神を小臣に接し、人君を大臣に奉ずるなり、故に礼に非ず。『周礼・大宗伯』に按ずるに曰く、「郁人、下士二人、裸事を賛す」と。則ち沃盥は此の職なり。漢は秦の制を承け、郁人の職無し、故に近臣をして之を為さしむ。魏・晋より今に至るまで、因りて改めず。然らば則ち漢の礼は、侍中之を行えば則ち可なり、今侍中を以て之を為すは、則ち非なり。漢の侍中は、其の始め微なり。高帝の時、籍孺之を為し、恵帝の時、閎孺之を為し、留侯の子辟強年十五にして之を為す。後漢に至り、楼堅議郎を以て侍中に拝せられ、邵闔侍中より歩兵校尉こういに遷り、秩千石、少府卿の属なり。少府卿秩中二千石、丞秩千石、侍中は少府丞と班同じ。魏代、蘇則之を為す。旧く侍中は親しく起居を省み、故に之を「執獣子」と謂う。吉茂見て之に謂いて曰く、「仕進止まず執獣子」と、是れ其の褻臣たるを言うなり。今の侍中は、名は則ち古官、人は昔の任に非ず、掌は燮理に同じく、寄は実に塩梅たり、復た漢・魏の「執獣子」の班に非ず、『周礼』郁人の職に異なり。舟を行かして息まず、剣墜ちて方に遥かなり、刻を験して求めんとす、謬りと謂うべし。

原文舊禮,侍中跪取匜沃盥,非禮也。夫盥手洗爵,人君將致潔而尊神,故能使小臣為之。今侍中,大臣也,而沃盥於人君;太祝,小臣也,乃詔祝於天神。是接天神以小臣,奉人君以大臣,故非禮。按《周禮·大宗伯》曰:「郁人,下士二人,贊裸事。」則沃盥此職也。漢承秦制,無鬱人之職,故使近臣為之。魏、晉至今,因而不改。然則漢禮,侍中行之則可矣,今以侍中為之,則非也。漢侍中,其始也微。高帝時籍孺為之,惠帝時閎孺為之,留侯子辟強年十五為之。至後漢,樓堅以議郎拜侍中,邵闔自侍中遷步兵校尉,秩千石,少府卿之屬也。少府卿秩中二千石,丞秩千石,侍中與少府丞班同。魏代蘇則為之。舊侍中親省起居,故謂之「執獸子。」吉茂見謂之曰,「仕進不止執獸子」,是言其為褻臣也。今侍中,名則古官,人非昔任,掌同燮理,寄實鹽梅,非復漢、魏「執獸子」之班,異乎《周禮》鬱人之職。行舟不息,墜劍方遙,驗刻而求,可謂謬矣。

祝は以て命を伝え、主人の意を通じて神明に薦む、賤職に非ざるなり。故に両君相見うれば、則ち卿上儐と為る。況んや天人の際、其の粛恭の礼は、両君を以て喩うるに、亦た大ならずや。今の太祝は、下士なり、命を重んじ神を尊ぶの義に非ざる所以なり。然らば則ち周・漢の太祝は、是れ礼なり。何となれば、『周礼・大宗伯』に按ずるに曰く、「太祝、下大夫二人、上士四人、六祝の辞を掌る」と。大宗伯は上卿、今の礼部尚書・太常卿の比なり。小宗伯は中大夫、今の侍郎・少卿の比なり。太祝は下大夫、今の郎中・太常丞の比なり。上士四人は、今の員外郎・太常博士の比なり。故に以て天人の際に処し、尊極の辞を致すべし。又た漢の太祝令は、秩六百石、太常博士と班同じ。梁の太祝令は、南台御史と班同じ。今の太祝は下士の卑しきに在りて、下大夫の職に居る、斯れ又た刻舟の論、前に異ならず。

原文夫祝以傳命,通主人之意以薦於神明,非賤職也。故兩君相見,則卿為上儐。況天人之際,其肅恭之禮,以兩君為喻,不亦大乎!今太祝,下士也,非所以重命而尊神之義也。然則周、漢太祝,是禮矣。何者?按《周禮·大宗伯》曰:「太祝,下大夫二人,上士四人,掌六祝之辭。」大宗伯為上卿,今禮部尚書、太常卿比也;小宗伯中大夫,今侍郎、少卿比也;太祝下大夫,今郎中、太常丞比也;上士四人,今員外郎、太常博士之比也。故可以處天人之際,致尊極之辭矣。又漢太祝令,秩六百石,與太常博士同班。梁太祝令,與南台御史同班。今太祝下士之卑,而居下大夫之職,斯又刻舟之論,不異於前矣。

又た曰く、

原文又曰:

旧礼は、謁者太尉を引いて壇に升らしめ亞献せしむ、礼に非ざるなり。謁者は已に賤しく、壇に升るは已に重し、是れ微者を用うるは古に於いて然り、而して大體は実に今に於いて之を変ず。『漢官儀』に按ずるに、「尚書御史台の官属に謁者僕射一人有り、秩六百石、銅印青綬。謁者三十五人、郎中を以て歳を称して給事し、未だ歳満たざるを称して灌謁者とす」と。又た『漢書かんじょ百官公卿表』に按ずるに、光禄勲の官属に郎中・員外有り、秩比二千石。謁者有り、賓賛受事を掌り、員七十人、秩比六百石。古の謁者は、秩異等、今の謁者は班微なり、以て之に事を従う、疏なりと謂うべし。

原文舊禮,謁者引太尉升壇亞獻,非禮也。謁者已賤,升壇已重,是微者用之于古,而大體實變之於今也。按《漢官儀》:「尚書御史台官屬有謁者僕射一人,秩六百石,銅印青綬;謁者三十五人,以郎中歲稱給事,未滿歲稱灌謁者。又按《漢書百官公卿表》:光祿勳官屬有郎中、員外,秩比二千石;有謁者,掌賓贊受事,員七十人,秩比六百石。古之謁者,秩異等,今謁者班微,以之從事,可謂疏矣。

又た曰く、

原文又曰:

旧礼は、尚書令しょうしょれい玉牒を奉ず、今其の官無し、請う中書令を以て事に従わんことを。漢武帝の時、張安世尚書令と為り、後宮に游宴し、宦者一人を以て帝命に出入せしめ、中書謁者令と改む。成帝に至り、宦者を罷め、士人を用う。魏の黄初、秘書と改め、中書監ちゅうしょかん令を置く。旧く尚書は並びに制誥を掌る、既に中書官を置くに及び、而して制誥枢密皆掌る。則ち魏以来、中書は漢朝尚書の職なり。今尚書令玉牒を奉ずるは、漢の礼を用うるなり、其の官既に闕くれば、故に以て中書令之を主とすべし。

原文舊禮,尚書令奉玉牒,今無其官,請以中書令從事。按漢武帝時,張安世為尚書令,游宴後宮,以宦者一人出入帝命,改為中書謁者令。至成帝,罷宦者,用士人。魏黃初改秘書,置中書監令。舊尚書並掌制誥,既置中書官,而制誥樞密皆掌焉。則自魏以來,中書是漢朝尚書之職。今尚書令奉玉牒,是用漢禮,其官既闕,故可以中書令主之。

議奏す、玄宗、張説・徐堅に令して敬本を召し之と対議詳定せしむ。説等奏して曰く、「敬本の議する所、其の中四条は、先に已に改定せり。同じからざる者有らば、臨時に事を量り改摂せんことを望む」と。制して之に従う。

原文議奏,玄宗令張說、徐堅召敬本與之對議詳定,說等奏曰:「敬本所議,其中四條,先已改定。有不同者,望臨時量事改攝。」制從之。

十三年十一月丙戌の日、泰山に至り、山麓より五里、西は社首山より三里の地に至る。丁亥の日、玄宗は行宮において袞冕を着け、供帳前殿において斎戒を致す。己丑の日、冬至に当たり、法駕を大いに整え、山下に至る。玄宗は馬に乗って登り、侍臣が従う。先に玄宗は霊山が清浄であるゆえ、多く人を登らせたくなく、初献を山上の壇で行い、亜献・終献を山下の壇で行わんと欲す。ここに礼官学士賀知章らを召し入れて儀注を講じさせ、これについて問う。知章ら奏して曰く、「昊天上帝は君の位、五方時帝は臣の位なり。帝号は同じといえども、君臣位を異にす。陛下山上にて君位を享け、群臣山下にて臣位を祀るは、誠に来葉に範を垂れ、変礼の大なる者と為すに足る。礼は三に成る。初献・亜・終は一処に合すべし」。玄宗曰く、「朕まさにこの如くせんと欲す。故に卿らに問うのみ」。ここに勅して三献を山上にて行い、その五方帝及び諸神座を山下の壇にて行わしむ。玄宗ここに問う、「玉牒の文、前代の帝王、何故にこれを秘すや」。知章対えて曰く、「玉牒は本より神明に通ずるの意なり。前代の帝王、求むる所各異なり。或いは年算を禱り、或いは神仙を思う。その事微密なれば、是をもってこれを知る者なし」。玄宗曰く、「朕今この行、皆な蒼生のために福を祈る。さらに秘請することなし。まさに玉牒を百僚に出示すべし。朕が意を知らしめよ」。その辞に曰く、「有唐嗣天子臣某、敢えて昊天上帝に昭告す。天は李氏を啓き、運は土徳に興る。高祖・太宗、命を受け極を立てる。高宗は中に升り、六合殷盛なり。中宗は紹復すれども、体を継ぐこと足らず。上帝眷祐し、臣に忠武を錫う。内難を底綏し、聖父を推戴す。大宝を恭しく承け、十三年あり。天意を敬して若くすれば、四海晏然たり。岱岳を封祀し、天に成を謝す。子孫百禄、蒼生福を受く」。

原文十三年十一月丙戌,至泰山,去山趾五里,西去社首山三里。丁亥,玄宗服袞冕於行宮,致齋於供帳前殿。己丑,日南至,大備法駕,至山下。玄宗禦馬而登,侍臣從。先是玄宗以靈山清潔,不欲多人上,欲初獻於山上壇行事,亞獻、終獻於山下壇行事。因召禮官學士賀知章等入講儀注,因問之,知章等奏曰:「昊天上帝,君位;五方時帝,臣位;帝號雖同,而君臣異位。陛下享君位於山上,群臣祀臣位於山下,誠足以垂范來葉,為變禮之大者也。禮成于三,初獻、亞、終,合於一處。」玄宗曰:「朕正欲如是,故問卿耳。」於是敕三獻於山上行事,其五方帝及諸神座於山下壇行事。玄宗因問:「玉牒之文,前代帝王,何故秘之?」知章對曰:「玉牒本是通於神明之意。前代帝王,所求各異,或禱年算,或思神仙,其事微密,是故莫知之。」玄宗曰:「朕今此行,皆為蒼生祈福,更無秘請。宜將玉牒出示百僚;使知朕意。」其辭曰:「有唐嗣天子臣某,敢昭告於昊天上帝。天啟李氏,運興土德。高祖、太宗,受命立極。高宗升中,六合殷盛。中宗紹復,繼體不足。上帝眷祐,錫臣忠武。底綏內難,推戴聖父。恭承大寶,十有三年。敬若天意,四海晏然。封祀岱岳,謝成於天。子孫百祿,蒼生受福。」

庚寅の日、山上の封台の前壇において昊天上帝を祀り、高祖神堯皇帝を配享す。邠王守礼は亜献を、甯王憲は終献を務む。皇帝は福酒を飲む。癸巳の日、中書令張説進みて称す、「天は皇帝に太一神策を賜い、周りて復始し、永く兆人を綏す」。帝は拝稽首す。山上に円台四階を作り、これを封壇と謂う。台上に方石を再び累ね、これを石感と謂う。玉牒・玉策を納れ、玉を刻み金を填めて字と為し、各玉匱に盛り、金繩を以て束ね、金泥を以て封じ、皇帝は受命宝を以てこれに印す。二の玉匱を石感の中に納れ、金泥の際を堿し、「天下同文」の印を以てこれを封ず。壇の東南に燎壇を為し、その上に柴を積む。皇帝は望燎の位に就き、火発すれば、群臣万歳を称し、呼び伝えて山下に至り、声天地を動かす。山下の壇祀は、群臣の行事已に畢り、皇帝未だ位を離れず、中書門下に命じて曰く、「朕は薄徳を以て、恭しく大宝を膺く。今封祀初めて建つ。雲物休祐するは、皆是れ卿等輔弼の力なり。君臣相保ち、勉めて天心に副い、長く今日の如くならんことを。敢えて矜怠せず」。中書令張説跪きて言う、「聖心誠懇にして、山上に宿斎す。昨夜は則ち風を息め雨を収め、今朝は則ち天清く日暖かく、復た祥風有りて楽を助け、卿雲有りて燎を引き、霊跡盛事、千古未だ聞かず。陛下又た慎終を初めの如く思す。長く万姓に福し、天下幸甚なり」。

原文庚寅,祀昊天上帝于山上封台之前壇,高祖神堯皇帝配享焉。邠王守禮亞獻,甯王憲終獻。皇帝飲福酒。癸巳,中書令張說進稱:「天賜皇帝太一神策,周而復始,永綏兆人。」帝拜稽首。山上作圓臺四階,謂之封壇。臺上有方石再累,謂之石〓感玉牒、玉策,刻玉填金為字,各盛以玉匱,束以金繩,封以金泥,皇帝以受命寶印之。納二玉匱於〓感中,金泥堿際,以「天下同文」之印封之。壇東南為燎壇,積柴其上。皇帝就望燎位,火發,群臣稱萬歲,傳呼下山下,聲動天地。山下壇祀,群臣行事已畢,皇帝未離位,命中書門下曰:「朕以薄德,恭膺大寶。今封祀初建,雲物休祐,皆是卿等輔弼之力。君臣相保,勉副天心,長如今日,不敢矜怠。」中書令張說跪言:「聖心誠懇,宿齋山上。昨夜則息風收雨,今朝則天清日暖,復有祥風助樂,卿雲引燎,靈跡盛事,千古未聞。陛下又思慎終如初。長福萬姓,天下幸甚。」

先に車駕が岳西の来蘇頓に至りしとき、大風東北より来り、午より夕に至るまで、幕を裂き柱を折り、衆恐る。張説倡言して曰く、「此れ必ず海神の来迎するなり」。及び岳下に至れば、天地清晏たり。玄宗山に登るに、日気和煦たり。斎次の日入後に至り、勁風人を偃し、寒気骨を切る。玄宗ここに因りて食せず、次前の露立に至り、夜半に及び、天を仰ぎて称す、「某身に過ち有らば、請う即ち罰を降せ。若し万人に福無くば、亦た某をして当に罪を為さしめよ。兵馬辛苦す。風寒を停めんことを乞う」。時に応じて風止み、山気温暖なり。時に山上より布兵して山壇に至り、辰刻及び詔命を伝呼し往来するも、斯須にして達す。夜中に火を燃やして相属し、山下よりこれを望めば、連星の地より天に属するが如し。その日平明、山上清迥にして、下りて山下を望めば、休気四塞し、登歌楽を奏すれば、祥風南より至り、絲竹の声、天外より飄ぶが若し。及び行事するに、日は火光を揚げ、慶雲紛郁として、遍く天際に満つ。群臣並びに社首山の帷宮の次に集まり、以て鑾駕を候う。遥かに紫煙憧憧として上達するを望み、内外歓噪す。玄宗山上より便ち社首の斎次に赴く。辰巳の間に至れば、日色明朗にして、慶雲散ぜず。百辟及び蕃夷争いて前へ迎賀す。辛卯の日、社首の泰折壇において地祇を享け、睿宗大聖貞皇帝を配祀す。五色雲見え、日は重輪なり。玉策を石感の中に蔵すること、封壇の儀の如し。壬辰の日、玄宗は朝覲の帳殿に御し、大いに陳布を備う。文武百僚、二王の後、孔子の後、諸方の朝集使、岳牧の挙ぐる賢良及び儒生・文士にして賦頌を上る者、戎狄夷蛮羌胡の朝献の国、突厥の頡利発、契丹・奚等の王、大食・謝褷・五天十姓、昆侖・日本・新羅・靺鞨の侍子及び使、内臣の番、高麗朝鮮王、百済帯方王、十姓摩阿史那興昔可汗、三十姓左右賢王、日南・西竺・鑿歯・雕題・牂柯・烏滸の酋長、咸に位に在り。制して曰く、

原文先是車駕至岳西來蘇頓,有大風從東北來,自午至夕,裂幕折柱,眾恐。張說倡言曰:「此必是海神來迎也。」及至嶽下,天地清晏。玄宗登山,日氣和煦。至齋次日入後,勁風偃人,寒氣切骨。玄宗因不食,次前露立,至夜半,仰天稱:「某身有過,請即降罰。若萬人無福,亦請某為當罪。兵馬辛苦,乞停風寒。」應時風止,山氣溫暖。時從山上布兵至於山壇,傳呼辰刻及詔命來往,斯須而達。夜中燃火相屬,山下望之,有如連星自地屬天。其日平明,山上清迥,下望山下,休氣四塞,登歌奏樂,有祥風自南而至,絲竹之聲,飄若天外。及行事,日揚火光,慶雲紛郁,遍滿天際。群臣並集於社首山帷宮之次,以候鑾駕,遙望紫煙憧憧上達,內外歡噪。玄宗自山上便赴社首齋次,辰巳間至,日色明朗,慶雲不散。百辟及蕃夷爭前迎賀。辛卯,享地祇於社首之泰折壇,睿宗大聖貞皇帝配祀。五色雲見,日重輪。藏玉策于石〓感,如封壇之儀。壬辰,玄宗禦朝覲之帳殿,大備陳布。文武百僚,二王后,孔子後,諸方朝集使,岳牧舉賢良及儒生、文士上賦頌者,戎狄夷蠻羌胡朝獻之國,突厥頡利發,契丹、奚等王,大食、謝褷、五天十姓,昆侖、日本、新羅、靺鞨之侍子及使,內臣之番,高麗朝鮮王,百濟帶方王,十姓摩阿史那興昔可汗,三十姓左右賢王,日南、西竺、鑿齒、雕題、牂柯、烏滸之酋長,咸在位。制曰:

朕聞く、天は後を監み、後は天を奉ずるに克く、既に徳を合して命を受け、亦た功を推して始めに復すと。厥の初め作者七十二君、道洽く跡著しく、時に至り符出で、皆な介丘に事を用い、上帝に中を升る。人神の望み、蓋し以てこれを塞ぐ有り。皇王の序、言うを得べし。朕は統を接ぐこと千歳、光を承くること五葉、惟れ祖宗の徳人の在るに在り、惟れ天地の霊主と作る。往者内難、幽にして賛し大勳を集む。間に外虞無く、成を守り旧服を纘ぐ。未だ嘗て乾乾として終日せず、公卿大夫と上下心を協せ、以て至理を聿求め、我が烈聖を弘めんことを思わざるは無し。其れ庶幾くは馨香ならん。今九有大寧、群氓業を楽しみ、時は必ず敬授して奪わず、物も亦た順成して夭せず。皇極を懋建し、幸いに太和を致す。乃ち幽遐に洎ぎ、率ね感被に由る。戎狄は至らず、唯だ文告を以て来庭し、麟鳳は已に臻り、将に情を覚えて藪に在らんとす。故を以て凡百の執事、亟に大封を言う。顧みるに惟れ不徳、切に議を勿らんと欲す。伏して惟うに、先聖は祉を儲け、天と功を同じくす。伝符を荷うて今に在るを、敢えて神に侑して報い無からんや。大篇斯に在り、朕何ぞ譲らん。ここに遂に高宗の旧章を奉遵し、乾封の令典に憲し、時に東土を邁り、柴して岱嶽に告ぐ。百神群望、懐柔せざる莫く、四方の諸侯、慶び来らざる莫し。斯れは天下の介福、邦家の耿光なり。窮り無きの休祉、豈に独り予に在らんや。非常の恵沢、亦た宜しく下に逮すべし。大いに天下を赦すべし。泰山の神を封じて天斉王と為し、礼秩は三公の一等を加え、仍って管する所に祠廟を崇飾せしめ、山を環ること十里、其の樵采を禁ず。近山の二十戸に復を給し、以て祠神を奉ぜしむ。

原文朕聞天監唯後,後克奉天,既合德以受命,亦推功而復始。厥初作者七十二君,道洽跡著,時至符出,皆用事於介丘,升中於上帝。人神之望,蓋有以塞之,皇王之序,可得而言。朕接統千歲,承光五葉,惟祖宗之德在人,惟天地之靈作主。往者內難,幽贊而集大勳;間無外虞,守成而纘舊服。未嘗不乾乾終日,思與公卿大夫上下協心,聿求至理,以弘我烈聖,其庶乎馨香。今九有大寧,群氓樂業,時必敬授而不奪,物亦順成而無夭。懋建皇極,幸致太和。洎乃幽遐,率由感被。戎狄不至,唯文告而來庭;麟鳳已臻,將覺情而在藪。以故凡百執事,亟言大封。顧惟不德,切欲勿議。伏以先聖儲祉,與天同功,荷傳符以在今,敢侑神而無報。大篇斯在,朕何讓焉。遂奉遵高宗之舊章,憲乾封之令典,時邁東土,柴告岱嶽,百神群望,莫不懷柔,四方諸侯,莫不來慶,斯是天下之介福,邦家之耿光也。無窮之休祉,豈獨在予;非常之惠澤,亦宜逮下。可大赦天下。封泰山神為天齊王,禮秩加三公一等,仍令所管崇飾祠廟,環山十里,禁其樵采。給近山二十戶復,以奉祠神。

玄宗は『紀太山銘』を制し、御書を以て山頂の石壁の上に勒す。その辞に曰く、

原文玄宗制《紀太山銘》,御書勒於山頂石壁之上。其辭曰:

朕が帝位に在ること十有四年、顧みて惟うに徳ならず、至道に懵く、任に難きを任じ、安んずるに難きを安んず、茲に朕は上下に戾を獲るを知らず、心の浩蕩たる、大川に渉るが若し。頼むに上帝休を垂れ、先後慶を儲え、宰相庶尹、皇極を交修し、四海会同し、五典敷暢し、歳云う嘉熟、人用て大和す。百辟僉謀し、余に封禅を唱え、孝は厳父より大なるは莫く、礼は天に告ぐるより盛んなるは莫しと謂い、天符既に至り、人望既に積り、固請已まず、固辞獲ず。肆に余と夫れ二三の臣、虞の《典》を稽え、漢の制を繹き、六師を張惶し、九宇を震讋す。旌旗列有り、士馬嘩無く、肅肅邕邕、翼翼溶溶、以て岱宗に至る、順なり。

原文朕宅帝位,十有四載,顧惟不德,懵於至道,任夫難任,安夫難安,茲朕未知獲戾於上下,心之浩蕩,若涉大川。賴上帝垂休,先後儲慶,宰相庶尹,交修皇極,四海會同,五典敷暢,歲雲嘉熟,人用大和。百辟僉謀,唱余封禪,謂孝莫大于嚴父,禮莫盛於告天,天符既至,人望既積,固請不已,固辭不獲。肆餘與夫二三臣,稽虞《典》,繹漢制,張惶六師,震讋九宇。旌旗有列,士馬無嘩,肅肅邕邕,翼翼溶溶,以至岱宗,順也。

《爾雅》に曰く「泰山は東嶽と為す」。《周官》に曰く「兗州の鎮山」。実に万物の始め、故に岱と称す;其の位は五嶽の伯に居る、故に宗と称す。昔より王者命を受けて姓を易うるは、是に於いて天地を啓き、成功を薦め、図録を序し、氏号を紀す。朕は先王を統承し、茲に厥の典に率い、実に玄天の眷命に報い、蒼生の為に福を祈らんと欲す、豈に敢えて千古を高祝し、自ら九皇に比せんや!故に壇場を山下に設け、群方の助祭を受け;躬ら封燎を山上にし、一献の神に通ぜんことを冀う。斯れ亦た高きに因りて天を崇め、広きに就きて地を増すの義なり。

原文《爾雅》曰:「泰山為東嶽。」《周官》曰:「兗州之鎮山。」實萬物之始,故稱岱焉;其位居五嶽之伯,故稱宗焉。自昔王者受命易姓,於是乎啟天地,薦成功,序圖錄,紀氏號。朕統承先王,茲率厥典,實欲報玄天之眷命,為蒼生而祈福,豈敢高祝千古,自比九皇哉!故設壇場於山下,受群方之助祭;躬封燎於山上,冀一獻之通神。斯亦因高崇天,就廣增地之義也。

乃ち仲冬庚寅、東嶽に事有り、上帝に類し、我が高祖に配す。天に在るの神、降らざるは畢く無し。粤に翌日、社首に禅し、我が聖考を佑け、皇祇に祀る。地に在るの神、挙げざるは咸く無し。暨ぶ壬辰、群後に覲し、上公進みて曰く「天子天符に膺り、介福を納る。群臣稽首を拝し、万歳を呼ぶ。慶合歓同し、乃ち誡を陳べて以て徳とす。大渾度に協い、彝倫攸に叙せられ、三事百揆、是れ乃ちの功。万物庚に由り、兆人允に植えられ、列牧衆宰、是れ乃ちの功。一二の兄弟、孝友を行い篤く、類を万国に錫し、是れ唯れ休なるかな!我が儒は礼を制し、我が史は楽を作し、天地擾順し、是れ唯れ休なるかな!蛮夷戎狄、重訳して来貢し、累聖の化、朕何ぞ慕わん。五霊百宝、日来月集し、会昌の運、朕何ぞ惑わん。凡そ今而後、乃ち在位を儆め、一王度、斉象法、旧章を権え、缺政を補い、易簡を存し、煩苛を去る。人極を立つることを思い、乃ち天則を見ん。

原文乃仲冬庚寅,有事東嶽,類於上帝,配我高祖。在天之神,罔不畢降。粵翌日,禪於社首,佑我聖考,祀於皇祇。在地之神,罔不鹹舉。暨壬辰,覲群後,上公進曰:「天子膺天符,納介福。群臣拜稽首,呼萬歲。慶合歡同,乃陳誡以德。大渾協度,彝倫攸敘,三事百揆,時乃之功。萬物由庚,兆人允植,列牧眾宰,時乃之功。一二兄弟,篤行孝友,錫類萬國,時唯休哉!我儒制禮,我史作樂,天地擾順,時唯休哉!蠻夷戎狄,重譯來貢,累聖之化,朕何慕焉。五靈百寶,日來月集,會昌之運,朕何惑焉。凡今而後,儆乃在位,一王度,齊象法,權舊章,補缺政,存易簡,去煩苛。思立人極,乃見天則。

於戲!天は蒸人を生み、惟れ後時に乂え、能く美利を以て天下を利し、天に事うること明らかなり。地の徳は物を載せ、惟れ後時に相い、能く厚生を以て万人を生かし、地に事うること察かなり。天地明察、鬼神著し。惟れ我が藝祖文考、精爽天に在り、其れ曰く「懿なるかな爾が幼孫、克く上帝を享く。惟れ帝時に若く、馨香其の下にす」、丕なる乃ち曰く「有唐氏文武の曾孫隆基、新命を誕錫し、我が旧業を纘ぎ、永く天祿を保ち、子孫其れ之を承けよ」。余小子敢えて上帝の休命に対揚せば、則ち亦た百執事と兆人を尚綏し、将に前功より多くして、彼の後患を毖らん。一夫獲ずんば、万方其れ予を罪せん。一心終わり有らば、上天其れ我を知らん。朕惟うに三徳を宝行す、曰く慈・儉・謙。慈は、無疆の言を覆う;儉は、将来の訓を崇む;自ら満つる者は人損い、自ら謙る者は天益す。苟くも是の如くならば、則ち軌跡循い易く、基構守り易し。石璧を磨き、金石に刻み、後人の辞を聴きて心を見、末を観て本を知らんことを冀う。銘に曰く:

原文於戲!天生蒸人,惟後時乂,能以美利利天下,事天明矣。地德載物,惟後時相,能以厚生生萬人,事地察矣。天地明察,鬼神著矣。惟我藝祖文考,精爽在天,其曰「懿爾幼孫,克享上帝。惟帝時若,馨香其下」,丕乃曰「有唐氏文武之曾孫隆基,誕錫新命,纘我舊業,永保天祿,子孫其承之」。餘小子敢對揚上帝之休命,則亦與百執事尚綏兆人,將多於前功,而毖彼後患。一夫不獲,萬方其罪予。一心有終,上天其知我。朕惟寶行三德,曰慈、儉、謙。慈者,覆無疆之言;儉者,崇將來之訓;自滿者人損,自謙者天益。苟如是,則軌跡易循,基構易守。磨石璧,刻金石,冀後人之聽辭而見心,觀末而知本。銘曰:

惟れ天は人を生み、君を立てて以て理む、惟れ君は命を受け、天に奉じて子と為す。代去りて留まらず、人来りて已む無し、徳涼き者は滅び、道高き者は起つ。赫赫たる高祖、明明たる太宗、爰に隋政を革め、奄に万邦を有つ。天を罄き宇を張り、地を尽くし封を開く、武は有截と称し、文は時邕を表す。高宗古を稽え、徳施して周溥、茫茫たる九夷、削平して一鼓。礼は封禅に備わり、功は舜禹に斉し、岩巍たる岱宗、我が神主を衛う。中宗運を紹ぎ、旧邦惟れ新たに、睿宗明を継ぎ、天下仁に帰す。恭己して南面し、氤氳として化淳まり、告成の礼、諸れ後人に留む。緬として余小子、五聖を重ね基う、功を伐たず高く、徳を矜まず盛ん。祀典を欽若し、永命を丕承し、至誠天を動かし、我が万姓を福す。古より太山を封ずること、七十二君、或いは亭亭に禅じ、或いは云云に禅ず。其の跡は見えず、其の名は聞く可し、祗遹して文祖、旧勳を光昭す。方士虚誕、儒書足らず、後を佚して仙を求め、神を誣して玉を検す。秦は風雨に災い、漢は編録に汚し、徳未だ天に合わず、或いは辱を承く。道は政を観るに在り、名は欲に従うに非ず、心を岩に銘し、群嶽に告げ播く。

原文維天生人,立君以理,維君受命,奉天為子。代去不留,人來無已,德涼者滅,道高斯起。赫赫高祖,明明太宗,爰革隋政,奄有萬邦。罄天張宇,盡地開封,武稱有截,文表時邕。高宗稽古,德施周溥,茫茫九夷,削平一鼓。禮備封禪,功齊舜禹,岩巍岱宗,衛我神主。中宗紹運,舊邦惟新,睿宗繼明,天下歸仁。恭己南面,氤氳化淳,告成之禮,留諸後人。緬餘小子,重基五聖,匪功伐高,匪德矜盛。欽若祀典,丕承永命,至誠動天,福我萬姓。古封太山,七十二君,或禪亭亭,或禪云云。其跡不見,其名可聞,祗遹文祖,光昭舊勳。方士虛誕,儒書不足,佚後求仙,誣神檢玉。秦災風雨,漢汙編錄,德未合天,或承之辱。道在觀政,名非從欲,銘心絕岩,播告群嶽。

ここにおいて中書令張説は《封祀壇頌》を撰し、侍中源乾曜は《社首壇頌》を撰し、礼部尚書蘇頲は《朝覲壇頌》を撰して以て徳を紀す。

原文於是中書令張說撰《封祀壇頌》、侍中源乾曜撰《社首壇頌》、禮部尚書蘇頲撰《朝覲壇頌》以紀德。

玄宗は乙酉歳に生まれ、華嶽を以て本命と当つ。先天二年七月正位し、八月癸丑、華岳神を封じて金天王と為す。開元十年、東都に幸するに因り、又た華嶽祠前に碑を立て、高さ五十余尺。又た岳上に道士観を置き、功德を修む。天宝九載に至り、又た将に華岳に封禅せんとし、御史大夫王鉷に命じて険路を開鑿して壇場を設けしむ、祠堂災に会いて止む。

原文玄宗乙酉歲生,以華嶽當本命。先天二年七月正位,八月癸丑,封華岳神為金天王。開元十年,因幸東都,又于華嶽祠前立碑,高五十餘尺。又于岳上置道士觀,修功德。至天寶九載,又將封禪于華岳,命御史大夫王鉷開鑿險路以設壇場,會祠堂災而止。