旧唐書
本紀第十九上 懿宗
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懿宗昭聖恭恵孝皇帝漼は、宣宗の長子であり、母は元昭皇太后晁氏と申す。大和七年十一月十四日に、藩邸にて生まれた。会昌六年十月、鄆王に封ぜられ、本名は温といった。
大中十三年
九月、喪服を脱ぎ、母后晁氏を追尊して太后とし、諡して元昭と曰う。
十月癸未、制を下して門下侍郎・守左僕射・同平章事令狐綯を司空に守らせ、門下侍郎・兵部尚書・同平章事蕭鄴に尚書右僕射を兼ねさせ、中書侍郎・礼部尚書・平章事夏侯孜に兵部尚書を兼ねさせ、中書侍郎・平章事蔣伸に工部尚書を兼ねさせ、いずれも前の如く政事を知らしめた。また兵部侍郎鄭顥を河南尹とした。昭義軍節度・潞邢磁洺観察等使・光禄大夫・検校吏部尚書・兼潞州大都督府長史・上柱国・河東県開国子・食邑五百戸裴休を太原尹・北都留守・河東節度管内観察処置等使とした。河中節度使・検校尚書左僕射畢諴を汴州刺史とし、宣武軍節度・宋亳観察等使を充てた。中書舎人裴坦をもって礼部貢挙を権知せしめた。
十二月、戸部侍郎・翰林学士杜審権を検校礼部尚書・河中晉絳節度等使とした。
咸通元年
二月、宣宗皇帝を貞陵に葬った。右拾遺劉鄴を翰林学士に充てた。河中節度使杜審権を兵部侍郎・判度支とし、まもなく本官をもって同平章事とした。門下侍郎・守司徒・同平章事令狐綯を検校司徒・同平章事とし、出鎮して河中に赴かせた。尚書左僕射・諸道塩鉄転運使杜忭を同平章事とした。浙東観察使王式が草賊仇甫を斬り、浙東の郡邑はことごとく平定された。
八月、河東節度使裴休を鳳翔尹・鳳翔隴右節度使とし、鳳翔隴右節度使・銀青光禄大夫・検校刑部尚書盧簡求を太原尹・北都留守・河東節度使とした。
十一月丙午朔。丁未、上は郊廟に事あり、礼畢えて、丹鳳門に御し、大赦を行い、元号を改めた。中書舎人薛耽をもって貢挙を権知せしめた。
咸通二年
二年春二月、吏部尚書蕭鄴を検校尚書右僕射・太原尹・北都留守・河東節度観察等使とした。鄭滑節度使・検校工部尚書李福が奏上して言うには、「管轄する潁州は去年の夏に大雨があり、沈丘・汝陰・潁上等県では平地の水深一丈に及び、田畑の作物・家屋がことごとく水没した。租賦の免除を乞う」と。これに従った。中書侍郎兼工部尚書蔣伸に刑部尚書を兼ねさせ、右僕射・門下侍郎杜忭を左僕射とし、前の如く政事を知らしめた。
四月、前婺州刺史裴閔を潁州刺史とし、本州団練鎮遏等使を充てた。駕部郎中王鐸を本官のまま知制誥とした。
八月、中書舍人衛洙を工部侍郎に任ず。まもなく銀青光禄大夫・検校礼部尚書に改め、滑州刺史・御史大夫・駙馬都尉を兼ね、義成軍節度・鄭滑潁観察処置等使を充てる。洙が奏状を奉りて称す、「恩を蒙り滑州刺史を除授せらる。官号の内一字、臣が家諱と音同じ。文字は殊なるといえども、声韻別ち難し。閑官に改授せられんことを請う」と。勅す、「嫌名は諱まず、礼文に著はし。成命已に行はる、固より依允し難し」と。兵部侍郎曹確を以て度支を判らしめ、兵部員外郎楊知遠・司勲員外郎穆仁裕を以て吏部宏詞選人を試みしむ。
九月、前兵部侍郎・判度支畢諴を工部尚書・同平章事とす。蔣伸は政事を知るを罷む。林邑蛮、安南府を寇す。神策将軍康承訓に禁軍及び江西・湖南の兵を率い赴援せしむ。
咸通三年
三年春正月、左僕射・門下侍郎・平章事杜忭、百僚を率い徽号を上りて睿文明聖孝徳皇帝と曰ふ。
五月、勅す、「嶺南を分ち五管と為すこと、誠に已に多年なり。居常の時は、同しく禦捍を資け、有事の際は、要に別に改張すべし。邕州は西に南蛮に接し、深く黄洞に拠り、両江の獷俗を控へ、数道の遊民を居く。比に人を委するに太だ軽く、軍威振はず。境は内地に連なり、海南と並ばず。宜しく嶺南を分ちて東・西道節度観察処置等使と為し、広州を以て嶺南東道とし、邕州を以て嶺南西道とし、別に良吏を択び、節旄を付すべし。其の管する八州、俗に耕桑無く、地極めて辺遠にし、近く盗擾に罹り、尤も凋残甚だし。藩垣を盛んにせんと欲すれば、宜しく州県を添うべし。宜しく桂州管内の龔州・象州、容州管内の藤州・巌州を割き、並びに嶺南西道に隷せしめ収管せしむべし」と。宰臣杜忭は司空を兼ね、畢諴は兵部尚書を兼ぬ。駕部郎中・知制誥王鐸を中書舎人とす。邕管経略使鄭愚を広州刺史とし、嶺南東道節度・観察処置等使を充て、将軍宋戎を嶺南西道節度使とす。
夏、淮南・河南に蝗旱あり、民飢う。南蛮、交趾を陥す。諸道の兵を徴し嶺南に赴かしむ。詔して湖南水運は、湘江より澪渠に入り、江西は切麦粥を造り以て行営に饋らしむ。湘・漓を溯運するに、功役艱難、軍は広州に屯し食乏し。潤州人陳磻石、闕に詣で上書し、言す、「江西・湖南、流を溯り糧を運ぶも、軍師に済はず。士卒食尽くれば則ち散ず。此れ宜しく深く慮るべし。臣に奇計有り、以て南軍に饋らん」と。天子召見す。磻石因り奏す、「臣が弟聴思、嘗て雷州刺史を任ず。家人海船に随ひ福建に至る。往来の大船一隻、千石を致す可し。福建より船を装し、一月に至らずして広州に到る。船数十艘を得れば、便ち三万石を広府に致す可し」と。又た劉裕の海路より進軍し盧循を破りし故事を引く。執政之を是とし、磻石を塩鉄巡官と為し、楊子院に往き専ら海運を督せしむ。ここに於て康承訓の軍は皆供を闕かず。
七月、徐州軍乱る。浙東観察使王式を検校工部尚書・徐州刺史・御史大夫・武寧軍節度・徐泗濠観察等使とす。初め、王智興徐州を得て、凶豪の卒二千人を召募し、号して銀刀・雕旗・門槍・挾馬等軍と曰ひ、番して衙城に宿す。後に自ら浸く驕び、節度使姑息して暇あらず。田牟徐に鎮する日、毎に驕卒と雑坐し、酒酣に背を撫で、時に板を把りて之が為に唱歌す。其の徒日費万計す。賓宴有る毎に、必ず先ず食を厭ひ酒を飫し、祁寒暑雨、卮酒盈前なり。然れども猶ほ喧噪邀求し、動もすれば帥を逐はんと謀る。前年、寿州刺史温璋節度使と為る。驕卒素より璋の厳酷なるを知り、深く憂疑を負ふ。璋懐を開き撫諭すれども、終に猜貳と為り、酒食を与ふるも、嘗て口を瀝さず。期月を経ずして璋を逐ふ。上是を以て式をして璋に代へしむ。時に式は忠武・義成の師三千を以て仇甫を平定し、便ち詔して式に二鎮の師を率い淮を渡らしむ。徐卒之を聞き、其の勢を懼れ、之を如何ともする無し。大彭館に至り、方に来り迎謁す。三日居りて、両鎮の兵を犒労し還らしむ。既に甲を擐ぎ兵を執るや、即ち命じて驕卒を環らしめ之を殺さしむ。徐卒三千余人、是の日尽く誅さる。ここに由り凶徒悉く殄ぶ。
九月、戸部侍郎李晦を検校工部尚書とし、興元尹・山南西道節度使を兼ねしむ。
十一月、将軍蔡襲に禁軍三千を率いしめ、諸道の師を会し安南に赴援せしむ。吏部侍郎鄭処誨・蕭仿、吏部員外郎楊儼、戸部員外郎崔彦昭等を以て宏詞選人を試みしむ。十二月、吏部侍郎蕭仿を以て権に礼部貢挙を知らしむ。
咸通四年
四年春正月甲子朔。庚午、上円丘に事有り。礼畢り、丹鳳楼に御し、大赦す。中外の官は宜しく建中元年の勅に准ひ、官を授けられたる後三日に一人を挙げ自ら代はるべし。州牧令録上佐の官は、在任須く三考を終ふべし。河東節度使・検校刑部尚書盧簡求、病を以て罷めんことを求め、詔して太子少師を以て致仕し東都に帰らしむ。昭義節度使・検校礼部尚書・上柱国・紫金魚袋を賜ふ劉潼を太原尹・北都留守・御史大夫とし、河東節度観察処置等使を充てしむ。
二月、左散騎常侍李荀を検校工部尚書・滑州刺史・義成軍節度・鄭滑観察等使とす。
三月、兵部侍郎・判度支楊收を本官のまま同平章事とす。刑部侍郎曹汾を河南尹とす。戸部侍郎李蠙を検校礼部尚書・潞州大都督府長史とし、昭義節度・観察処置等使を充てしむ。
四月、勅して徐州の防禦使を罷め、支郡と為し、兗州に隷せしむ。
七月朔、制す、「安南寇陷の初め、流人多く溪洞に寄る。其の安南の将吏官健海門に走り至る者は人数少なからず。宜しく宋戎・李良瑍に察訪せしめ人数を量り、事に応じて救恤すべし。安南管内蛮賊に駆劫せられたる処は、本戸の両税・丁銭等を量り二年を放ち、収復の後別に指揮有るを俟つべし。其の安南溪洞の首領は、素より誠節を推し、蛮寇城壁を窃拠すと雖も、酋豪各々土疆を守る。聞くに溪洞の間、悉く嶺北の茶薬に藉ると。宜しく諸道に令し、一任商人興販せしめ、往来を禁止するを得ず。廉州の珠池は、人と利を共にす。近く本道の禁断するを聞く。遂に通商絶ゆ。宜しく本州に令し、百姓の採取に任じ、止約するを得ず。其の徐州の銀刀官健、其中先に逃竄する者有り。累り勅旨を降し、捕逐せしめず。其の今年四月十八日、草賊の頭首已に極法に抵る。其の余の徒党各自奔逃す。所在更に捕逐す勿れ」と。是の月、東都・許・汝・徐・泗等の州大水有り、稼を傷む。初め、大中の末、安南都護李琢貪暴にして、獠民を侵刻す。群獠林邑蛮を引き安南府を攻む。三年、大いに兵を徴し赴援す。天下騒動す。其の年冬、蛮竟に交州を陥す。安南に赴ける諸軍並びに抽退を令し、嶺南東・西道に分かち保たしむ。
十一月、長安県尉・集賢校理の令狐滈を左拾遺とする。制が下ると、左拾遺の劉蛻・起居郎の張雲が上疏し、滈の父綯が権力を握っていた日に賄賂を広く受け、李琢の賄賂を受けて安南に任じ、蛮寇を生じさせたことを論じ、滈は諫諍の列に居るべきではないと論じた。時に綯は淮南におり、上表して訴えたので、雲を興元少尹に貶し、蛻を華陰令に貶し、滈は詹事司直に改めた。中書舎人の王鐸を以て礼部貢挙を権知させ、兵部侍郎・判度支の曹確を以て同平章事とし、中書侍郎・平章事の畢諴を以て検校吏部尚書・河中尹・晋絳慈隰節度使とする。就いて幽州の張允伸に検校司徒を加える。兵部侍郎の高璩を本官のまま同平章事とし、戸部侍郎の裴寅を以て本司事を判らせる。
咸通五年
五年春正月戊午の朔、用兵のため元会を罷む。諫議大夫の裴坦が上疏し、天下に徴兵し財賦がまさに乏しい時、仏寺を過度に興して国力を困窮させるべきではないと論じた。優詔を以てこれに答える。
二月、兵部尚書の牛叢を検校兵部尚書とし、兼ねて成都尹・剣南西川節度副大使・知節度事とする。徐州処置観察防御使を置く。門下侍郎・兵部尚書・平章事の杜審権を潤州刺史・浙江西道節度使とする。
三月、兵部郎中の高湜・員外郎の于懐を以て吏部を試み、平判選人を行う。
四月、右僕射・平章事の夏侯孜に爵五百戸を増す。中書舎人の王鐸を礼部侍郎とし、晋州刺史の孟球を検校工部尚書とし、兼ねて徐州刺史とする。南蛮が邕管を寇し、秦州経略使の高駢に禁軍五千を率いて邕管に赴かせ、諸道の師と会してこれを防がせる。
五月丁酉、制す。
「朕は寡昧を以て、高祖・太宗の丕構を承くることを獲てより、茲に六年になる。畋遊を以て楽しむことなく、声色を以てほしいままにすることなく、刑戮を濫りに行うことなく、邪佞に惑わされることなく、夙夜悚惕し、以て憂い以て勤め、八表の康きを用い、兆人の泰なることを庶幾う。然るに西戎は款附し、北狄は懐柔すれども、独り南蛮のみ、奸宄にして率わず。交趾を侵陥し、朗寧を突犯し、爰に雋州に及び、亦た寇を攘うに用う。我が士卒を労し、吾が甲兵を興し、黎元を騒動せしめ、役力を飛輓に費やし、一たびこれを軫念する毎に、閔然として疚しむ。顧みるに生人、此の愁苦に罹る、宜しく自天の沢を布き、及物の仁を垂れしむべし。聞くに湖南・桂州は、是れ嶺路の系口たり、諸道の兵馬綱運、経過せざるは無く、頓遞供承、動もすれば多く差配し、凋傷転た甚だし、宜しく特恩有るべし。潭・桂両道に各々銭三万貫文を賜い、以て軍銭を助け、亦た以て館駅の息利本銭に充てしむ。其の江陵・江西・鄂州の三道は、潭・桂に比べ、徭配稍簡なり、宜しく本道観察使に詳らかに其の閑劇をさせ、此の例に准じて本銭を置かしむ。邕州已西の黎・雋界内は、昨因って蛮寇に因り、互いに殺傷有り、宜しく本道に収拾埋瘞せしめ、量りに祭酹を設けしむ。
徐州の土風は雄勁、甲士は精強なり、比に制馭乖方に以て、頻りに騒擾を致す。近者再び使額を置き、却って四州を領し、労逸既に均しく、人心甚だ泰し。但だ聞く、比に節度を罷むる日に因り、或いは罪に被り奔逃する者有り、朝廷頻りに詔書を下し、並びに一切問わざるを令すと雖も、猶恐らくは尚疑懼を懐き、招携を委ねず、山林に結聚し、終に詿誤を成すを。況んや辺方未だ静かならず、深く人才に藉る、宜しく徐泗団練使に選揀召募して官健三千人を、邕管に赴かせ防戍せしむ。嶺外の事寧しきの後に待ちて、即ち代えて帰還せしむ。仍って毎に五百人を召し満つれば、即ち軍将を差して押送せしめ、其の糧料賞給は、所司准例処分せしむ。
淮南・両浙の海運は、虜に舟船を隔てられ、商徒を訪聞するに、失業頗る甚だしく、所由の縦捨、弊実に深し。亦た貨財を搬して水次に委ね、人無くして看守し、多くは散亡に至り、嗟怨の声、道路に盈つ。宜しく三道に据って搬する所の米石の数、牒を以て所在の塩鉄巡院に報ぜしめ、和雇して入海{{PUA|〓}}同船を令し、所司に分付せしむ。通計して米を載する数足るの外は、輒ち更に隔奪有ることなく、妄りに貯備と称すべからず。其の小舸短船の江口に到るは、使司自ら船有り、更に商人の舟船を取るの限に在らず。もし官吏妄りに威福を行わば、必ず痛刑を議す。於戲!万方靡安、寧くんぞ罪己を忘れんや;百姓足らず、敢えて躬を責むるを怠らんや。用いて欽恤の懐を伸べ、式に憂勤の旨を表す。」
壬寅、制して中書侍郎・平章事の楊収を門下侍郎・兼刑部尚書とし、中書侍郎・平章事の曹確を兼工部尚書とし、兵部侍郎・平章事の高璩を中書侍郎・知政事とし、余は並びに故の如し。
秋七月壬子、延資庫使の夏侯孜が奏す:「塩鉄戸部先だ積欠す当使咸通四年以前の延資庫銭絹三百六十九万余貫匹。内戸部は毎年合送すべき銭二十六万四千一百八十貫匹、大中十二年至り咸通四年九月以前に従い、納を除く外、欠くこと一百五十万五千七百一十四万貫匹。当使は戸部の積欠数多きに縁り、先ず具に申奏し、諸道州府場塩院の合納する戸部の収むる所の八十文除陌銭内に於て、一十五文を割き、当使に属して自ら収管せしめんことを請う。勅命行わるるも、送納稽緩す。今戸部の牒称を得るに、収管する除陌銭絹の外、更に諸雑物貨有り、延資庫の徴収不便なり、請う今年より合納する延資庫銭絹を一時に便足せしめん。其の以前の積欠は、物力稍充するを候い、積漸填納せしめん。其の割く所の一十五文銭は、即ち当司仍って旧く収管す。又累歳以来に縁り、嶺南に用兵し、多く戸部の銭物を支う。当使は旧欠を堅く論ぜんと欲せず、戸部の商量に依り、合納する今年一年の額色銭絹須らく足るべく、明年は即ち旧制に依り、三月・九月の両限に送納畢らしめん。其の以前の積欠は、仍って戸部に自立して填納期限を令せしめん。」勅旨これに依る。
十月丙辰、中書舎人の李蔚を以て礼部貢挙を権知せしむ。
十一月乙酉、大同軍防御使の盧簡方を検校工部尚書・滄州刺史・御史大夫とし、義昌軍節度・滄済徳観察等使を充てる。乙未、兵部侍郎の蕭寘を本官のまま同中書門下平章事とする。
咸通六年
六年正月癸未朔。丁亥、制を以て河東節度使・検校刑部尚書孔温裕を鄆州刺史・天平軍節度・鄆曹棣観察処置等使と為す。
二月、制を以て御史中丞徐商を兵部侍郎・同平章事と為す。高璩は政事を知るを罷む。吏部尚書崔慎由・吏部侍郎鄭従讜・吏部侍郎王鐸・兵部員外郎崔謹張彦遠等を以て宏詞選人を考す。金部員外郎張乂思・大理少卿董賡を以て抜萃選人を試す。給事中楊厳を工部侍郎と為し、尋ち召して翰林学士と為す。
四月、西川節度使牛叢、蛮界に於いて新城・安城を築き、戎州を遏へる功畢るを奏す。時に南詔蛮、姚・雋に寇入し、陳許大将顔復、雋州に戍り新たに二城を築く。其の年秋、六姓蛮、戎州を遏へるを攻むるも、復に敗られて退き去る。兵部侍郎・平章事徐商・蕭寘、中書侍郎・知政事に転ず。
五月、左丞楊知温を河南尹と為し、神策大将軍馬挙を秦州経略招討使と為し、右金吾大将軍李宴元を夏州刺史・朔方節度等使と為す。安南都護高駢、邕管に於いて林邑蛮を大破せしことを奏す。
七月、右衛大将軍薛綰を検校工部尚書・徐州刺史と為し、徐泗団練観察防禦等使を充てしむ。
九月、中書舎人趙騭を以て礼部貢挙を権知せしむ。吏部侍郎蕭仿を検校礼部尚書・滑州刺史・御史大夫と為し、義成軍節度・判滑潁観察等使を充てしむ。
十二月、太皇太后鄭氏崩ず。諡して孝明と曰う。是の歳秋、高駢、海門より進軍して蛮軍を破り、安南府を収復す。李琢政を失ひてより、交趾湮没すること十年、蛮軍北に邕容界に寇し、人聊生する無く、是に至りて方に故地を復す。
咸通七年
七年春正月戊寅朔、太皇太后の喪を以て元会を罷む。
三月、成徳軍節度・鎮冀深趙等州観察処置等使・金紫光禄大夫・検校司空・鎮州大都督府長史・御史大夫・太原県開国伯・食邑七百戸・襲食実封一百戸王紹懿卒す。司徒を贈る。紹鼎の弟にして、倶に寿安公主の子なり。三軍、紹鼎の子景崇を推して兵馬留後事を知らしむ。就いて幽州張允伸に太保・平章事を兼ねさせ、燕国公に進封す。吏部侍郎鄭従讜を検校礼部尚書・兼太原尹・北都留守・御史大夫・上柱国・滎陽県開国男・食邑三百戸と為し、河東節度管内観察処置等使を充てしむ。
四月、寿安公主、表を上りて朝に入らんことを請う。詔して曰く、「志興、汝が景崇未だ恩命を降さざるを以て、来朝覲せんと欲する事を奏す。具に悉す。景崇、素より孝悌を聞こえ、頗る義方有り、三軍愛戴の情に洽く、千里折衝の寄を荷う。乃ち旧服を纘ぎ、令猷に綽有り。朝廷能を奨め、続いて処分有らん。孝明太后の園寢日に有るを縁り、庶事且く停め、廟に祔する礼成るを候ひ、当に誠請を允さん」と。
七月、沙州節度使張義潮、甘峻山の青鷹四聯・延慶節の馬二匹・吐蕃の女子二人を進む。僧曇延、『大乗百法門明論』等を進む。
八月、鎮州王景崇、忠武将軍・左金吾衛将軍同正・検校右散騎常侍を起復し、兼鎮州大都督府左司馬・知府事・御史中丞と為し、成徳軍節度観察留後を充てしむ。上柱国・紫金魚袋を賜う。中書侍郎・平章事徐商、工部尚書を兼ぬ。
十月、沙州張義潮奏す。回鶻首領僕固俊を差して吐蕃大将尚恐熱と交戦せしめ、大いに蕃寇を敗り、尚恐熱を斬り、首を京師に伝う。右僕射・門下侍郎・平章事夏侯孜を検校司空・平章事と為し、兼成都尹・剣南西川節度等副大使・知節度使とす。安南高駢、蛮寇悉く平らぐを奏す。
十一月十日、宣政殿に御し、大赦す。安南を復せるを以ての故なり。翰林学士承旨・戸部侍郎路岩を兵部侍郎・同平章事と為す。義成軍節度蕭仿に就いて検校兵部尚書を加ふ。能政を褒むるなり。礼部郎中李景温・吏部員外郎高湘を以て抜萃選人を試す。
咸通八年
八年春正月壬寅の朔日。丁未、河中・晉・絳の地に大震あり、盧舎圧仆し人を傷つけ、死者あり。
三月、安南の高駤奏す、「南より邕管に至るまで、水路湍険にして巨石途を梗む、工人をして開鑿せしめ畢り、漕船滞る者なし」と。詔を降して之を褒む。制して門下侍郎・兼戸部尚書平章事・上柱國・晉陽縣開國男・食邑三百戸・賜紫金魚袋楊收を以て検校兵部尚書と為し、浙江西道観察使を充てしむ。浙西観察使杜審権を以て尚書左僕射を守らしむ。兵部侍郎于忭を以て本官のまま同平章事と為す。
九月丁酉、延資庫使曹確奏す:
「戸部は毎年当使に送るべき三月・九月の両限の絹二十一萬四千一百匹、錢萬貫、大中八年已後より咸通四年に至るまで、積欠一百五十萬五千七百餘貫匹あり。前使杜忭申奏し、咸通五年正月以後より、諸道州府場監院の戸部に送るべき八十文除陌錢の内、十五文を割きて当使の収管と為し、以て積欠を填めんことを請う。続いて戸部の牒に拠れば、州府の除陌錢には折色零碎あり、咸通五年より送るべき延資庫の錢絹は、逐年両限に須らく足すべく、其の除陌十五文は、当司仍舊の如く収管すべしと論請す。前使夏侯孜事由を具して申奏し、且つ戸部の論請する期限に依らんことを請う。其の咸通五年の錢絹は、戸部已に送納す。六年より八年に至るまで、其の錢絹は前の如く旋って送納せず、又積欠三十六萬五千五百七貫匹となる。伏して思うに、設置する所の延資庫は、初め備邊を以て名と為し、大中三年に至り始めて今の号に改む。若し財貨充たざれば、則ち名額虚設なり。制置の時に当たり、三司をして逐年分減して当使に送り収管せしむ。元勅には只錢数有るのみ、但だ本司に減割して庫に送らしむるを令し、色目を定めず。此を以て因循し、漸く舊制を隳し、年月既に久しく、積欠漸く多し。既に徴収するの計無く、乃ち色を指して以て取濟し、稍く備邊の名号に称し、元勅の指揮に遵うことを得たり。乃ち戸部の除陌八十文の内十五文を割きて収管し、及び戸部の逐年庫に送らんことを請うは、須らく且く稟従すべし。今既に積欠又多し、終に期限に及ばざるを慮る。臣今諸道州府場監院の戸部に送るべき錢絹の内に酌量し分配し、合送すべき延資庫の数目を勒留して下し、本処に別に綱運を為さしめ、戸部の綱と同しく上都に送上し、直に延資庫に納めしむれば、則ち戸部は逋懸有ること免れ、累年の積欠に至らざるべし」と。之に従う。
十月丙寅、戸部侍郎・判度支崔彦昭奏す:当司応に収管すべき江・淮諸道州府の咸通八年已前の両税榷酒及び支米價並びに二十文除陌諸色の属省錢は、旧例に准じて逐年商人投状便換す。南蠻用兵已来より、供軍使を置き、当司の諸州府場監の錢に在りては、猶商人の便換有り、省司の便換文牒を齎して本州府に至り請領するも、皆諸州府に准供軍使指揮占留すと称せられて被る。此を以て商人疑惑し、乃ち致す所の当司の支用充たず。諸道州府場監院に下し、限に依りて送納し及び商人に給還し、托称して占留することを得ざらしむるを乞う」と。勅旨之に従う。宰相・門下侍郎・戸部尚書曹確は吏部尚書を兼ぬ。門下侍郎・禮部尚書路岩は戸部尚書を兼ぬ。中書侍郎・工部尚書徐商は刑部尚書を兼ぬ。兵部侍郎・平章事於忭は中書侍郎と為る。中書舍人劉允章を以て権知礼部貢挙と為し、吏部侍郎盧匡・吏部侍郎李蔚・兵部員外郎薛崇・司勲員外郎崔殷夢を以て吏部宏詞選人を考せしむ。
咸通九年
九年春正月丙申、吏部侍郎李蔚を以て検校刑部尚書・汴州刺史・御史大夫と為し、宣武節度・汴宋亳観察処置等使を充てしむ。幽州節度使張允伸に就きて検校太傅を加う。兵部員外郎焦瀆・司勲員外郎李岳を以て宏詞選人を考せしむ。
七月戊戌、白虹西方に横亙す。其の月、徐州より桂林に赴く戍卒五百人、官健許佶・趙可立其の将王仲甫を殺し、糧料判官龐勳を以て都頭と為し、湘潭・衡山の両県を剽掠し、衆千人を有ち、擅に本鎮に還る。
九月辛卯の朔日。甲午、龐勳宿州を陥とす。知州判官焦潞徐に奔り帰る。乙未、龐勳徐州を陥とし、節度使崔彦曾・判官焦潞・李税溫延皓・崔蘊・韋廷乂を殺し、惟だ監軍張道謹を免ず。遂に徐・宿の官庫の錢帛を出し、凶徒を召募す。旬日を経ずして其の徒五萬。勳表を抗して罪を請い、仍ち群凶をして節鉞を邀求せしむ。上中使を遣わして因りて之を撫す。賊別将梁伾をして宿州を守らしめ、姚周を以て柳子寨主と為し、又劉行及・丁景琮・吳玫迥を遣わして泗州を攻囲せしむ。十月、詔して河南・河東・山南諸道の師を征す。浙西観察使楊收を貶して端州司馬同正と為し、収の弟前浙東観察使・越州刺史・御史中丞嚴を韶州刺史と為し、検校工部尚書・洪州刺史・鎮南節度・江南西道観察処置等使嚴譔を嶺南に長流す。賊泗州を攻むる勢急なり。淮南節度使令狐綯泗口を失い、賊の奔沖と為らんことを慮り、乃ち大将李湘をして赴援せしむ。賊の誘う所と為り、弱きを示して降を乞い、其の無備に乗じ、賊の襲う所と為り、挙軍皆没す。湘と都監郭厚本俱に賊の執る所と為り、徐州に送らる。
十一月庚寅の朔日。丁酉戌時、妖星初めて出ず。匹練の如く空に亙り、雲に化し、楚分に没す。吳迥既に李湘を執り、乃ち小将張行簡・吳約をして滁州を攻めしむ。城内兵無く、淮南の游奕兵三百人州界に在り、賊の至るを見て、径ち郡に奔り来る。賊之に乗じ、遂に滁州を陥とす。張行簡刺史高錫望を執り、手ずから之を刃し、其の城を屠りて去る。行簡又和州を進攻す。刺史崔雍城楼に登りて吳迥に謂いて曰く、「城中の玉帛・女子は敢えて惜しまず、只だ天子の城池を取る勿れ」と。賊之を許す。遂に城中の居民を剽し、判官張琢を殺す。琢の城壕を浚う故なり。龐勳又将劉贄をして濠州を攻めしめ、之を陥とす。刺史盧望回を回車館に囚う。望回鬱憤して死す。僕妾数人皆賊の蒸して食う所と為る。
十二月庚辰の朔日、将軍戴可師沙陀・吐渾の部落二萬人を率い、淮南に於て賊と転戦し、賊党屡く敗れ、尽く淮南の守を棄つ。是歳、江・淮蝗稼を食い、大旱す。龐勳奏す、「当道先だ嶺南に発する戍兵士三千人の春冬衣、今人を差し送りて邕管に赴かしめんと欲す」と。鄂岳観察使劉允章上書して言う、「龐勳徒を聚むること十萬、今若し人を遣わして嶺表に達せしめば、戍卒と勳と合勢するが如くんば、則ち禍難細ならず」と。尋で詔して龐勳に止絶せしめ、兼ねて江・淮諸道の紀綱をして之を捕えしむ。
咸通十年
十年春正月己未朔、徐州での用兵により元会を罷む。癸亥、右拾遺韋保衡を以て銀青光禄大夫・守起居郎・駙馬都尉と為し、皇女同昌公主を尚(めあわ)す。出降の日、礼儀甚だ盛ん。神武大将軍王晏権を以て検校工部尚書・徐州刺史・御史大夫と為し、武寧軍節度・徐泗濠観察を充て、兼ねて徐州北路行営招討等使とす。智興の従子なり。将軍硃克誠を以て北路招討都虞候を充て、王宥を北路招討前軍使とす。翰林学士・戸部侍郎劉瞻を以て本官を守り同平章事とす。中書侍郎・兼戸部尚書・平章事蔣伸を太子太保と為し、知政事を罷む。病により免ぜられるなり。門下侍郎・兼刑部尚書・同平章事徐商を以て検校兵部尚書・江陵尹・荊南節度使とす。右神策大将軍・知軍使・兼御史大夫・上柱国・龍陽県開国伯・食邑一千戸康承訓を以て金紫光禄大夫・検校刑部尚書・兼右神策大将軍・御史大夫・上柱国・扶風郡開国公・食邑一千五百戸に可(ゆる)し、徐泗行営都招討使を充てる。また将軍李邵を以て徐州南路行営招討都虞候と為し、将軍史忠用を以て潁州行営都知兵馬使と為し、将軍馬澹を以て徐州行営都知兵馬使と為し、将軍董濤を以て盧州行営都知兵馬使を充て、将軍戴可師を以て曹州行営招討使を充て、将軍硃邪赤心を以て太原行営招討使・沙陀三部落等軍使を充て、将軍王建を以て淮泗行営招討使を充て、将軍曹翔を以て兗海節度行営招討使を充て、将軍馬挙を揚州都督府司馬と為し、淮南行営招討使を充て、将軍高羅鋭を楚州刺史と為し、本州行営招討使と為し、将軍秦匡謨を濠州刺史と為し、本州行営如討使と為し、李播を宿州刺史と為し、盧州行営招討使に赴かしむ。将軍孟彪を以て太僕卿と為し、都糧料使を充てる。凡そ十八将、諸道の兵七万三千十五人を分董し、正月一日進軍して徐州を攻む。魏博何弘敬、当道の兵馬一万三千を点検し行営に赴かんことを奏す。時に賊将劉行及・丁景琮・吳迥、泗州を攻囲す。可師、勝に乗じて之を救い、石梁驛に屯す。賊自ら退去す。可師追撃し、劉行及を生擒す。賊、都梁城に保つ。乃ち行及の指を断ち、城下に懸けて賊に示す。賊城に登りて拝し曰く、「都頭と謀りて朝に帰らんと見(おも)う」と。可師其の窘(きゅう)なるを知るや、乃ち軍を五里退く。其の城西面に水有り、三面大軍なり。賊乃ち夜中水を渉りて遁る。明け方城門を開くに、病嫗数人のみ。王師、壘に入りて未だ整わず、翌日詰旦重霧、賊軍大いに至る。可師方に大いに酔い、単馬にて奔り出で、虹県人郭真に殺さる。一軍尽く没す。惟だ忠武・太原・沙陀の騎軍保全して退く。副将王健、賊に擒(とら)えらる。劉行及却って賊将吳迥に得らる。吳迥乃ち進軍し復た泗州を囲む。是より梯沖雲の如く合し、内外通ぜず。龐勳其の驟勝に恃み、人を遣わし表を上る。詞語恭しからず。又康承訓に書を与え、朝政を指斥す。王晏権は、智興の猶子なり。故に武寧節制を授けて以て之を招き、招懐を冀(こいねが)う。徐人、王式の誅を怨み、相扇ぎて乱を構う。数月招携し、利を以て啖(くら)わすも、民闕卒(ついに)革心する者無し。康承訓大軍宿州を攻む。賊将梁伾出戦し屡敗る。乃ち承訓に検校尚書右僕射・霊滑州刺史・義成軍節度使を授く。責めて端州司馬楊收を驩州に長流し、厳譔と並びに路にて賜死す。其の党楊公慶・厳
季実・楊全益・史明・廉遂・何師玄・李孟勳・馬全祐・李羽・王彦復等を儋・崖・播等州に長流す。判官硃偘・常濆・閻均等を配流して嶺南とす。河中節度使・開府儀同三司・検校司徒・平章事・上柱国・譙郡開国公・食邑二千戸夏候孜を以て太子少保と為し、分司して東都とす。時に南平蛮、西川を寇す。孜が蜀に在りし日の失政を責むるなり。
二月己丑、龐勳急ぎ泗州を攻め、牙将李員を遣わし城に入り刺史杜慆に見(まみ)えて曰く、「留後中丞の名族なるを知り、軍士に礼を失わしむるを敢えてせず。但だ城門を開き、百姓をして存活せしめ、相疑うこと無かれ」と。慆之を執りて殺す。詔して司農卿薛瓊をして淮南盧・寿・楚等州に使わし、郷兵を点集して以て自ら固めしむ。
四月、康承訓、柳子寨の賊を大いに敗れしを奏す。詔して監軍楊玄価に康承訓と商量せしめ、汴河水を抜きて以て宿州を灌がしむ。
六月丁亥朔。戊戌、制して曰く。
天地を動かすものは精誠に若くはなく、平和を致すものは政を修めるに若くはない。朕は惟うに庸昧にして、王公の上に托し、ここに十一年となる。丕構を祗荷し、寅畏小心、唐堯の昊天を欽若するを慕い、周王の上帝を昭事するに遵う。茲を念う夙夜、虔恭を替えず、朽を馭するの憂勤に同じくし、隍を納るの軫慮を思う。内に奢靡を戒め、外に畋遊を罷め、敢えて雍熙を期せず、清浄に自ら得る所、ただ望むは寰区無事、稼穡年有らんことを。然るに理を燭すること明らかならず、道に渉ること唯浅く、気多く堙鬱し、誠未だ感通せず。旱魃是れ虞れ、虫螟害と為り、蛮蜒未だ遐裔に賓せず、寇盗復た中原に蠹く。尚戎車を駕し、益兵食を調え、黎元の重困を俾し、毎に宵旰して安を忘る。今盛夏驕陽、時雨久しく曠く、兆庶を憂勤し、旦夕焦労す。内に香火を修めて以て虔に祈り、外に牲玉を罄くして以て精に禱る。仰ぎて玄貺を俟てば、必ず甘滋を致さん。而して油雲未だ興らず、秋稼望みを闕く、茲に因りて愆亢し、誠懐に軫す。況ん復た暴政煩刑、強官酷吏、侵漁蠹耗、孤煢を陷害し、冤抑の人致有り、災沴の気を構成す。主守長吏、奉公を忘るる無かれ。叛を伐ち師を興すは、蓋し獲已むを得ざるに非ず、奸を除き逆を討つは、必ず当辜をせしむ。苟くも或いは平人に陷及すれば、自然風雨候を愆らす。凡そ行営の将帥は、切に審詳に在り、惻憫の心を昭示し、勤恤の旨を敬聴せよ。応に京城天下諸州府見禁の囚徒は、十悪忤逆・官典犯贓・故意殺人・毒薬を合造し・放火持仗・墳墓を開劫し及び徐州逆党に関連するを除く外、並びに宜しく罪の軽重を量り、速やかに決遣を令し、久しく系留する無かれ。雷雨同じからず、田疇方に瘁す、誠に物を湣むに宜しく、以て好生を示す。其の京城未だ降雨せざる間は、宜しく坊市に権に屠宰を断ぜしむべし。昨陝虢の中使回りて、方に蝗旱損有る処を知る。諸道の長史は、憂を分かち理を共にす、宜しく各公を推し、共に物を済すを思うべし。内に饑歉有らば、切に慰安に在り、此の蒸人を哀れみ、艱食を俾す毋かれ。徐方の寇孽未だ殄らず、師旅征有り、凡そ誅鋤を合するは、淑慝を審かに分かち、脅従をして横死せしむる無く、元悪をして偷生せしむる無からしむ。宜しく告伐の文を申し、逆順の理を知らしむべし。於戲!毎に禹・湯の己を罪するを思い、其れ成・康の刑を措くに庶幾からん。孰れか謂わんや徳信未だ孚らず、教化猶梗たりと。爾多士に咨り、予一人を俾し、既に過を躬に引き、亦理に幾るに漸かん。中外に布告し、朕意に称えよ。」賊将鄭鎰急に寿州を攻む。詔して南面招討使馬挙をして之を救わしむ。賊囲みを解きて去る。康承訓兵を悉くして賊の小睢寨を攻む。利あらずして退く。
七月、康承訓賊の柳子寨を攻む。垂く克たんとして賊将王弘立の救至る。王師大いに敗れ、承訓退きて宋州を保つ。龐勳勝に乗じ自ら徐州の勁卒を率い並びに泗州を攻め、其の都将許佶を留めて徐州を守らしむ。詔して南面招討使馬挙を行営都招討使と為し、承訓に代わり諸軍を率いて以て泗州を援わしむ。
八月、和州防虞行官石侔等一百三十人状を以て刺史崔雍を訴え、称して「賊初め烏江県を劫う。雍歩奏官二人をして探知せしむ。雍猶信ぜず、二人並びに枷杻せらる。続けて人を差し探らしむるに賊已に州を去ること十里。賊尋いで州城に逼る。崔雍賊頭呉と鼓角楼上に於いて酒を飲み、賊に州を許す。又軍事判官李譙を親弟と認め、表状驅使官張立を男と為し、只二人並びに身を乞い、其の余の将士は一任処置す。便ち押衙李詞等をして各衣甲を脱がしめ、防虞官健束手して斬らるる者八百余人。行官石瓊衣甲を脱ぐ稍遅く、便ち崔雍に遣わされて賊に処斬せらる。其の崔雍の所有する料錢並びに家口は、累人を差し押送して採石に往かしめ、今潤州に在り。豈に将一千人の兵士の命を以て、己が一身を贖い抜かんや。唯其の神明に辜ぬるのみならず、実に亦聖主に生を負う。兼ねて軍州の官吏に科配して城池を修葺せしめ、妄りに出料錢を以て城を修むと称す。」敕して曰く「臣子の節、尽忠に如くは無し。士人の風、宜しく遠恥に当たるべし。崔雍牧守に任じ居り、賊州城を犯す。禦捍曾て言を発せず、従容として乃ち命酒と与す。況んや石瓊未だ衣甲を脱がず、志鋒に当たるに在り。其の赤誠を奨むること能わず、翻って令し擒えて賊の所に送らしむ。其の深意を原れば、賊と通和し、臣節全く虧け、情状見るべし。朝典を行わんと欲すれば、宜しく更に推窮すべし。其の崔雍の家口並びに宣州に在り。宜しく宣歙観察使をして崔雍を追い収禁し速やかに勘せしめ、逐事由を具し申奏せしむべし。」是の月、馬挙師を率いて泗州の囲みを解く。賊党遁れ去る。敕して曰く「崔雍の郡を守るの日に当たりては、是れ龐勳の肆逆の初めなり。狂寇の奔沖に属し、風を望みて和好し、酒を置きて以て賊将を邀え、関を啓きて以て凶徒を納る。城内兵を持つを許さず、皆甲を解かしめ、以て三軍の百姓をして、血を抆いて相視し、頭を連ねて誅せらしむ。初め奏陳を聞き、深く観聴を駭す。錫望城を守りて死す、已に追栄有り。杜慆孤壘全きを獲、尋いで殊獎を加う。既に忠節を褒む、罪人を赦し難し。玉石固より分かる、懲勸斯に在り。将に誡を四海に垂れんとす、当に何ぞ一夫を愛せん。其の崔雍宜しく内養孟公度を差し専ら宣州に往き、自尽を賜うべし。」公度至る。雍陵陽館に死す。其の男党児・帰僧康州に配流し、錮身して遞送す。司勲郎中崔原柳州司戸に貶せられ、比部員外郎崔福昭州司戸、長安県令崔朗澧州司戸、左拾遺崔庚連州司戸、荊南観察支使崔序衡州司戸に貶せらる。皆雍の親党なり。
九月、賊の宿州守将張玄稔が城を以て降り、兵一万人あり、馬挙は師を率いて之に赴く。龐勳之を聞き、其の衆を以て将に玄稔を攻めんとす。玄稔は賊の勁将なり、遂に挙と合勢し、急に徐州を囲む。許佶城に登り拒ぎ守ること三日、佶敗れて走り出づ。玄稔徐州を収復す、龐勳方に来たりて援けんとし、城已に抜けたるを聞き、南に濠州に趨かんと欲し、馬挙追ひて渙河に及び、之を撃ち破り、勳水に溺れて死す。蕭県の主将又た許佶の首を斬り来たりて降る、徐寇悉く平ぐ。初め、龐勳徐州に拠り、倉庫素より貯蓄無く、乃ち群凶を令し四出し、揚・楚・盧・寿・滁・和・兗・海・沂・密・曹・濮等の州界に於て牛馬を剽ぎ糧糗を輓運し、夜を以て晝に継ぐ。亡命を招致し、衆二十万有り、男女十五已上、皆な兵を執ることを令す、其の人皆な鋤鉤を舒べて兵と為し、号して「霍錐」と曰ふ。首尾周歳、十余郡の生霊、其の酷毒を受け、是に至りて尽く平ぐ。玄稔に詔して曰く、「去歳災興り分野し、毒徐方より起る、蕞爾たる庸夫、兵を称して命を犯し、招諭に復せず、倡狂して悛わず、三州の人を脅従し、万姓の俗を污染す。逆順の理、邪正坐に分かれ、果たして忠臣有り、悉く逆党を殲し、再び郡邑を清め、干戈を挙げず。此れ皆な衆人の心を協せしめ、州を合して福を受く。但だ首尾周歳を以て、凶威を取制し、里閭安からず、農桑業を失ひ、言ふに此れを念ひ、倍積に憂懷す。已に詔を有り指揮し、今玄稔に銀青光禄大夫・検校右散騎常侍・兼右驍衛大将軍・御史大夫を授け、帛五千匹・金榼一枚・蓋碗一具・金腰帯一条を賜ふ。軍将張皋已下二十人、等第優に給す。今高品李志承を差し押領して宣賜せしむ。」制して曰く、
「朕眇身を以て、丕業を承くることを獲、虔恭惕厲す、茲に十一載。況や十七聖の鴻休を荷ひ、三百年の慶祚を紹ぎ、将に理本を求め、敢へて宵衣を忘れず。誠信未だ孚らずと雖も、而も寅畏怠らず、既に苑囿に意を絶ち、固より畋遊に心無く、業業兢兢、日慎一日す。休征応ずること無く、沴気潜かに生じ、南蠻将に戦争を罷めんとし、徐寇忽ち惠養に孤し。招諭至らず、虐暴滋しく深く、窃に干戈を弄び、擅に州鎮を攻む。将に符印を邀へんとし、輒ち凶殲を恣にし、神祇を畏れず、自ら覆滅を貽す。股肱の臣、罪悪の捨て難きを以てし、腹心の衆、悖逆の誅く可きを謂ふ。爰に甲兵を征し、用て塗炭を救ひ、上将力に宣べ、内臣心を協す。選用皆な良材に得、掃蕩纔に周歳に及び、幹紀反常の噍類を誅し、乱臣賊子の奸謀を懲らす。
今則已に偃戈に及び、重ねて黎庶を康んず。疇庸の典、絲髪に在りて私無く、懋賞の時、纖毫の必ず当たるを貴ぶ。其の四面行営節度使は、既に茂勳を成せり、宜しく酬獎を加ふべく、並びに別勅を取って処分す。応に諸道行営都將已下節級軍將は、各本道に委ね功労名銜を具し、分析して聞奏せしめ、当に続き処分有らん。堅に被り鋭を執り、寒暄に冒渉し、甲を解き弓を橐し、郷に還り業を復せしむるに、繒帛の賜を頒ち、差役の征を免ず。応に四面行営將士は、今既に平寧なれば、宜しく次第に本道に放ち帰らしむべし。其の賞賜匹段は、已に別勅に従ひ処分し、本道に到りて後、仍ち節度使に令し各犒宴して私第に放ち帰らしめ、便ち歇息せしめ、未だ差使を用ゐず。如し行営の人、並びに差科色役を免ず、如し本廂本將、今後節級員闕有らば、且つ行営軍健を以て量材差置し、征伐の勤を酬ゆるに用ゐよ。敵に臨み命を用ひ、力屈び身殞するは、須らく傷魂を慰め、以て忠節を彰すべし。超えて職事と與へ、仍ち任使を加ふ。如し父兄子弟無くば、即ち妻女有る者は、即ち州使に委ね厚く贈恤を加へ、常に安撫せしめよ。是の如く都將より都虞候に至るまで陣亡する者は、官を贈る。応に陣亡將士に父兄子弟軍に入るを願ふ者有らば、便ち本道に令し填替せしめよ。如し父兄子弟無くば、仍ち且つ衣糧を給すること三年。戦陣に因り手足を傷損し永く廢する者は、終身停給す可からず。如し將士賊に殺害せらるる者は、所在の州縣に委ね事を量り救接し、重ねて改瘞し、暴露せしむること勿れ、兼ねて祭を設けよ。
王者は仁恕を本と為し、拯済を謀る、元惡既に已に誅鋤せられ、脅従宜しく寛宥に従ふべし。寵勳の親属及び桂州回戈の逆党を除き、賊に脅従せられ及び戦陣に因り官軍に拒敵し、招諭に悛わず、法を懼れて逃走する者は、皆な本惡に非ず、蓋し鋒刃の駆る所、今並びに釈放し、一切問はず。応に旧軍將軍吏節級所由は、既に帰還せり、征賦先づ宜しく蠲免すべし。其の徐・宿・濠・泗等州応に合す秋夏両税及び諸色差科色役を征するは、一事已上、宜しく十年を放ち、已後に三年を蠲放し、三年を待ちて後続き条疏を議し処分すべし。編甿業を失ひ、丘井人無く、桑柘枌榆、茂草と為るに鞠す、応に行営処の百姓田宅産業賊に残毀燒焚せらるる者は、今既に平寧なれば、並びに識認を許し、各本主に還し、諸色の人妄りに侵佔する有ること無からしむ。九原作す可く、千載忘れず、尚ほ樵蘇を禁じ、寧ろ丘壟を傷つけんや。応に先賢墳墓碑記人の知る所と為り、賊に毀廢せらるる者有らば、即ち掩藏と與へ、仍ち量りて祭を致せ。兵を用ふる已来、郡邑皆な攻劫に罹り、遠く驚撓を念ひ、尤も慰安に在り。今右散騎常侍劉異・兵部郎中薛崇等を遣はし彼に往きて宣撫せしむ。於戲!朕四海を家と為し、兆人を子と為す。一物失所すれば、毎に納隍の憂を軫み、一方未だ甯からざれば、常に阽危の戒を負ふ。今元兇就戮し、逆党誅夷せられ、載せて干戈を戢め、永く氛昆を銷し、庶幾くば妖気を平げ、允に嘉祥に洽はん。遐邇の臣僚、当に予が意を体すべし。」
制して徐州南面招討使・検校尚書左僕射・右神武大将軍・権知淮南節度事・扶風県開国伯・食邑一千戸馬挙を以て検校司空、兼揚州大都督府長史・淮南節度副大使・知節度事と為す可しとす。右武衛大将軍・徐州東南面招討使曹翔を以て検校兵部尚書、兼徐州刺史・御史大夫・徐泗濠団練防禦等使と為す。前淮南節度使・検校司空・平章事・上柱国・涼国公・食邑三千戸令狐綯を以て太子太保、分司東都と為す。魏博節度使・検校太傅・同平章事何弘敬卒す、三軍其の子全皞を立て兵馬留後と為す。
十一月、南詔蠻驃信坦綽酋龍衆二万を率ひて雋州を寇す。定辺軍節度都頭安再榮清溪関を守る、賊の攻むる所と為り、再栄退きて大渡河を保ち、北清溪関を去ること二百里、水を隔てて相射ること、凡そ九日八夜。定辺軍節度使竇滂兵を勒して之を拒ぐ。
十二月、驃信は清平官十余人を遣わして偽りの和議を申し入れ、竇滂と語らいし折、蛮軍の船筏は競って渡河し、忠武・武寧両軍の兵士は陣を結んでこれに抗し、戦闘は午より申に及び、蛮軍はやや退却す。竇滂は帳中にて自縊せんとす、徐州の将苗全緒これを解き、滂に謂いて曰く、「都統何ぞここに至らん、ただ安心せよ、全緒は再栄・弘節らと血戦して勝利を取らん」と。全緒ら三人は兵を率いて出で、滂は単騎にて夜遁す。その夜、蛮軍は山下に営す。全緒ら謀りて曰く、「彼は衆にして我は寡なり、若し明日対陣せば、吾が属は敗るるなり。夜これを撃ち、その軍を乱し、自ら解き去らしむべし」と。忠武・武寧の師は乃ち夜に蛮軍に入り、弓弩乱発し、蛮衆大いに駭き、全緒ら三将は軍を保って去る。蛮軍は勝に乗じて西川を進攻し平らぐ。朝廷は顔慶復を以て大渡河制置・剣南応接等使と為し、宋威を行営都知兵馬使と為し、兵数万を将い、忠武・武寧の師と合し、蛮軍と漢州の毗橋に戦いて大捷し、西川の囲みを解く。明日、蛮軍遁走し、西川平らぐ。蜀王佶を以て開府儀同三司・成都尹・剣南西川節度副大使・知節度事と為すも、閣を出でず。盧耽を以て節度事を知らしむ。詔して河東節度使鄭従を闕に赴かしむ。義成軍節度使・光禄大夫・検校尚書左僕射・同平章事・滑州刺史・上柱国・会稽県開国伯・食邑二千戸康承訓を以て本官のまま太原尹・北都留守を兼ね、河東軍節度使を充てしむ。吏部侍郎楊知温・吏部侍郎于徳孫李玄を以て考官と為す。司封員外郎盧蕘・刑部侍郎楊戴を以て宏詞選人を考試せしむ。虞部郎中宋震・前昭応主簿胡徳融を以て科目挙人を考せしむ。詔して兵戈纔に罷まり、且つ撫寧を務むるを以て、その礼部貢挙は宜しく権めて一年停め、中書に付して勅を指揮せしめ、その両省官等は、用て論奏せざらしむ。荊南節度使杜忭に勅す、「司天の奏に拠れば、小孛星の気有りて分野を歴過し、外夷の兵水の患有るを恐る。辺縁の藩鎮は、最も提防を要す、宜しく師徒を訓習し、城堡を増築すべし。凡そ制置に関することは、事を具して以て聞かしむ」と。制して魏博節度使何全皞を以て起復検校司空・同平章事と為す。
咸通十一年
十一年春正月甲寅朔、制して尚書右僕射杜審権を検校司徒・河中尹・絳慈隰節度観察処置等使と為す。丙午、制して宰相・門下侍郎・吏部尚書曹確は兼ねて尚書左僕射と為すべく、門下侍郎・戸部尚書路岩は兼ねて右僕射と為すべく、中書侍郎于忭は兼ねて戸部尚書と為すべく、平章事劉瞻は中書侍郎・知政事と為すべし。余は並びに故の如し。己酉、制す、「河東節度使康承訓は、将門の瑣質、戎壘の微才にして、曾て兵を知らず、謬って重禄を膺く。韜鈐を憂えて以て任に效い、奸悪を畜えて以て君に事え、幾たびか戎藩に鉞を授け、嘗て金を執りて以て徼道す、その尽節を謂い、専征に委ぬ。属に徐部匪寧にして、敢えて紀律を干す、諸将を護らしめ、坐して危巢を覆す。国幣を罄して以て軍を佐け、王爵を頒して以て士を賞す、而るに寇を玩びて戦わず、甲を按じて前らず、立法は未だ穰苴に学ばず、申令は頓に孫子に虧く。況んや部伍戦わず、逼撓謀無く、人数空しく多し、軍威何ぞ振わん。農夫に耒を釈せしめ、工女に機を下らしめ、始めに天誅を凝望し、翻って賊の至るを思う有り。洎んで元兇自ら潰え、玄稔忠を效す、彭門洞開す、爾の功何か有らん!而して恩を負うこと已に甚だしく、貨を瀆すること是を求む、栄を叨り苟も一時に幸いし、患を遺すこと遂に積歳を逾ゆ。爰に国典を行い、戎藩に傅わしむ、蜀王傅と為すべく、東都に分司す」と。再び恩州司馬同正に貶し、駅を馳せて発遣す。検校左散騎常侍・泗州刺史杜慆を以て検校工部尚書・滑州刺史・義成軍節度・鄭滑観察等使と為す。河東行営沙陀三部落羌渾諸部招討使・検校太子賓客・監察御史硃邪赤心を以て検校工部尚書・単于大都護・御史大夫・振武節度・麟勝等州観察等使と為し、仍て姓名を賜いて李国昌と曰う。吏部尚書蕭鄴・吏部侍郎于徳孫・吏部侍郎楊知温を以て考官と為す。司勲員外郎李耀・礼部員外郎崔澹等を以て応宏詞選人を考試せしむ。河陽三城節度・孟懐沢観察使・中散大夫・検校礼部尚書・孟州刺史・御史大夫崔彦昭を以て金紫光禄大夫・検校刑部尚書・太原尹・北都留守・河東節度観察等使と為す。兵部侍郎・翰林学士承旨・扶風県開国子・食邑五百戸・駙馬都尉韋保衡を以て本官のまま同平章事と為す。兵部侍郎劉鄴を以て度支を判らしむ。左僕射・門下侍郎・同平章事曹確は病を以て免を求め、検校司空・同平章事を授け、潤州刺史を兼ね、浙江西道観察等使を充てしむ。魏博節度使何全皞は酷政にして、衙軍に殺さる、その大将韓君雄を推して留後と為す。
四月癸未朔。戊子、勅す、「去年は用軍の際に属するを以て、権めて貢挙を一年停めしが、今既に戈を去る、却って宜しく仍って旧の如くすべし。来年は宜しく別に三十人の及第を許すべく、進士十人、明経二十人、已後は例に援ることを得ず」と。
八月辛巳朔。己酉、同昌公主薨じ、衛国公主を追贈し、諡して文懿と曰う。主は郭淑妃の生みし所、主は大中三年七月三日に生まれ、咸通九年二月二日に下降す。上特に鐘念し、悲惜異常なり。待詔韓宗紹等の医薬効無きを以て、これを殺し、その親族三百余人を収捕し、京兆府に繫ぐ。宰相劉瞻・京兆尹温璋上疏して行法の過ぎるを論諫す、上怒り、叱してこれを出だす。
九月丙辰、制して正議大夫・守中書侍郎・兼刑部尚書・同平章事・充集賢殿大学士・上柱国・彭城県開国侯・食邑一千戸・賜紫金魚袋劉瞻を検校刑部尚書・同平章事と為し、江陵尹を兼ね、荊南節度等使を充てしむ。翰林学士・戸部侍郎・知制誥・上柱国・賜紫金魚袋鄭畋を梧州刺史と為す。正議大夫・御史中丞・上柱国・賜紫金魚袋孫瑝を汀州刺史と為す。将仕郎・右諫議大夫・柱国・賜紫金魚袋高湘を高州刺史と為す。中散大夫・比部郎中・知制誥・柱国・賜紫金魚袋楊知至を瓊州司馬と為す。将仕郎・守礼部郎中魏簹を春州司馬と為す。朝議大夫・行兵部員外郎・判度支案・柱国張顔を播州司戸と為す。朝議大夫・行刑部員外郎・柱国崔顔融を雷州司戸と為す。並びに劉瞻に親善するを坐し、韋保衡に逐わるるなり。京兆尹温璋は振州司馬に貶せられ、制の出づるの夜、璋仰薬して死す。劉瞻は再び康州刺史に貶せらる。
十月、給事中薛能を以て京兆尹と為し、中書舎人高湜を以て権めて礼部貢挙を知らしむ。
十一月己酉朔。辛亥、制を以て礼部尚書王鐸を本官のまま同平章事とす。丁卯、勅す。「徐州は地沛野に当たり、軍は元来驍雄にして、実に壮国の都たり、固より建侯の制に協う。況んや山河素より異なり、土俗甚だ殷し、豈に卑削せんと欲し、其の繁盛を挫かんや。蓋し比年禍に因り、或いは乱常に至り、罪は己れに由りて招き、孽は天の作す所に非ざるが故なり。桂林の叛卒、継いて逆謀有り、生霊を塗炭にし、首尾周歳に及ぶ。黎庶を殺傷し、忠良を汚染す、言うに忍びざる所、尋いで剪滅を加う。是を以て其の鎮額を卑くし、彼の藩方に隷す。近く大兵の已来に属し、饑年薦り至る。且つ軍人百姓、深く前非を恥じ、旧規を行い、却って建節を希うを聞く。朕毎に深く軫念し、小康を致さんと思い、特ちに渥恩を示し、其の軍額を復す。宜しく宣徽庫の綾絹十万匹を賜い、其の宴犒を助け、必ず周豊を獲しむべし。其の徐州都団練使を感化軍節度・徐宿濠泗等州観察処置等使に改む。」吏部侍郎鄭従讜を以て検校戸部尚書とし、兼ねて汴州刺史・御史大夫を以て宣武軍節度使に充て、李蔚に代わる。蔚を以て検校吏部尚書・揚州大都督府長史とし、兼ねて淮南節度副大使・知節度事とす。
咸通十二年
十二年春正月戊申、宰相路岩文武百僚を率いて徽号を上りて曰く睿文英武明徳至仁大聖広孝皇帝、含元殿に御す。冊礼畢りて大赦す。辛酉、衛国公主を少陵原に葬る。是に先立ち、詔して百僚に輓歌詞を作らしめ、仍て韋保衡に自ら神道碑を撰せしめ、京兆尹薛能を外監護とし、供奉楊復璟を内監護とす。威儀甚だ盛なり、上郭淑妃と延興門に御して哭送す。幽州節度使張允伸病み、請うて子簡会を以て節度副大使・権知兵馬事と為さんことを、詔して従う。
三月、吏部尚書蕭鄴・吏部侍郎帰仁晦李当を以て考官とす。司封郎中鄭紹業・兵部員外郎陸勲等を以て宏詞選人を考試す。
四月、左僕射・門下侍郎・同平章事路岩を以て検校司徒とし、兼ねて成都尹・剣南西川節度等使とす。
五月庚申、勅す。「慎みて刑獄を恤れ、大《易》の格言。《語》に曰く、其の情を得れば、即ち哀矜して喜ぶこと勿れ。而るに獄吏苛刻にして、務めて舞文に在り、守臣因循にして、罕に視事を聞かず。此を以て械係の輩、狴牢に溢れ、追捕の徒、簡牘に係る。実に和気を傷い、因りて沴氛を致す。況んや時熇蒸に属し、化先ず茂育を以てす。並びに罪戾を赦し、式に生成に順う。応に天下の禁係する罪人は、十悪忤逆・故意殺人・毒薬を合造し・仗を把って行劫し・墳墓を開発するを除く外、余は並びに宜しく疏理して釈放すべし。或いは人吏を信任し、多く生情して係留する有らば、続いて察訪して知り得、本道観察使判官・州府本曹官必ず懲譴を加え、以て慢易を誡むべし。到後十日内に、速やかに疏理分析して聞奏せよ。」上安国寺に幸し、講経僧に沈香の高座を賜う。
七月辛丑、中書門下奏す。「今年六月十二日の勅に准え、諸道及び在京諸司の奏官並びに章服を請う事を厘革せんとす。其の諸道の奏する州県官司録・県令・録事・参軍は、或いは現任の公事に敗闕不理、切に替換を要し、及び前任実に労効有り、並びに現に闕員有るは、即ち各々知る所を挙ぐるに任す。毎道奏請すと雖も、仍て両人を過ぐるを得ず。其の河東・潞府・邠寧・涇原・霊武・塩夏・振武・天徳・鄜坊・滄徳・易定・三川等道の観察防禦等使及び嶺南五管は、毎道毎年令・録を除く外、量りて簿・尉及び中下州の判司並びに県丞合わせて三人を奏するを許す。福州は県官を奏する限に在らず。其の黔中の奏する州県官及び大将管内の官は、即ち旧例に准じて処分するに任す。在京諸司及び諸道の帯職奏官は、或いは時に非ざる僉替、考限未満にして、並びに却って本資官とす。諸道節度及び都団練防禦使下の将校の奏転試官及び憲禦等は、諸節度事に毎年量りて五人を許し、都団練防禦は量りて三人を許して定めと為し、其の外に更に奏請するを得ず。其の御史中丞已下は、即ち勅文条疏に准じ、須らく軍功有るを以て方に授任すべし。自今以後如し顕に戦伐の功労を立てる者あらば、任せて事績を具し申奏せしめ、如し検勘虚しからずんば、当に別に商量処分すべく、以外輒ち更に奏請有るべからず。其の幽・鎮・魏三道は望むらくは且つ承前の旧例に准じて処分せんことを。」勅旨之に従う。
十二月、検校戸部尚書・汴州刺史・御史大夫・宣武軍節度使鄭従讜を広州刺史・嶺南東道節度観察処置等使とす。
咸通十三年
十三年春正月壬寅朔。甲戌、制を以て兵部侍郎・判度支劉鄴を本官のまま同平章事とす。幽州盧龍等軍節度使・検校司徒・同平章事・幽州大都督府長史・上柱国・燕国公・食邑三千戸張允伸卒す。太尉を贈り、諡して忠烈と曰う。允伸幽州を鎮むること二十三年。
二月、幽州牙将張公素留後張簡会の軍政を奪い、自ら留後と称す。丁巳、制を以て尚書右僕射・門下侍郎・同平章事於琮を検校司空・襄州刺史とし、山南東道節度観察処置等使に充つ。御史中丞趙隠を以て戸部侍郎・本官同平章事とす。
三月、吏部尚書蕭鄴・吏部侍郎独孤雲を以て考官とす。職方郎中趙蒙・駕部員外郎李超を以て宏詞選人を考試す。試日、蕭鄴替わり、右丞孔温裕を差して権判せしむ。
五月庚午朔。辛未、勅して検校尚書左僕射・守左羽林軍統軍・御史大夫張直方を康州司馬同正に貶す。其の部下盗を為すを以ての故なり。乙亥、国子司業韋殷裕閣門に於いて状を進め、淑妃の弟郭敬述の陰事を論ず。上怒り甚だしく、即日に京兆府に下して殷裕を決殺し、其の家を籍没す。殷裕の妻崔氏、音声人鄭羽客・王燕客、婢微娘・紅子等九人掖庭に配す。閣門使田献銛紫を奪い、橋陵に配す。閣門司閻敬直十五を決し、南衙に配す。殷裕の文状を受けたる故なり。給事中杜裔休を端州司馬に貶す。中書舎人崔沆を循州司戸に貶す。殷裕の妻の兄なり。太僕少卿崔元を応州司戸に貶す。殷裕の妻の父なり。前河陰院官韋君卿を愛州崇平尉と為す。殷裕の季父なり。以前大理正万俟鎔を国子司業と為し、前興元少尹馮彭を普州刺史と為し、前大理正陽琯を昌州刺史と為す。丙子、制して開府儀同三司・検校尚書左僕射・兼襄州刺史・御史大夫・充山南西道節度観察等使於琮を正議大夫・守普王傅と為し、分司東都す。辛巳、勅して尚書左丞李当を道州刺史に貶し、吏部侍郎王珮を漳州刺史に貶し、左散騎常侍李郁を賀州刺史に貶し、前中書舎人封彦卿を潮州司戸に貶し、翰林学士承旨・兵部侍郎・知制誥張裼を封州司馬に貶し、右諫議大夫楊塾を和州司戸に貶し、工部尚書厳祁を郴州刺史に貶し、給事中李貺を蘄州刺史に貶し、給事中張鐸を藤州刺史に貶し、左金吾衛大将軍・充左街使李敬伸を儋州司戸に貶し、前青州刺史・平盧軍節度使于涓を涼王府長史と為し、分司東都す。前湖南観察使于瑰を袁州刺史と為す。涓・瑰は琮の兄なり。于藹・於蔇も亦配流す。李当已下より、皆琮の親党なり。韋保衡に逐はるる所と為る。天徳防禦使・検校左散騎常侍段文楚を以て雲州刺史・大同軍防禦使と為す。
六月、義成軍節度使・検校工部尚書杜慆奏す:当管潁州の僧道百姓刺史宗回を挙留すと。勅して曰く、「回は清幹人に臨み、自ら月限有り。方に綏輯を藉り、未だ替移を議せず。」六月、中書門下奏す:
「今月十七日、延英にて面して聖旨を奉ず。天下の州府に誡約を令し、応に逃亡戸口有るは、其の賦税差科、見在人戸の上に攤配すべからざる者。伏して諸道州府を以てす。或いは兵戈の後、災沴の余、戸口逃亡し、田疇荒廃す。天は敷佑せず、人は多く艱危なり。郷閭は屡征徭に困しみ、帑蔵は茲に因りて耗竭す。遂に使ふ、從來の経費色額、太半空しく簿書に系る。徴斂を緩むれば則ち供須に闕き、期限を促せば則ち貧苦に迫る。凋弊を言念し、乃ち憂勤を労す。明文を降さずんば、孰か聖念を知らん。其の亡戸口の賦税及び雑差科等は、須らく承佃の戸人有るを以てすべし。方可く前に依りて応役すべし。若し闕税課額を将ちて、見在人戸に攤せば、則ち転じて逋債と成り、重く黎元を困す。或いは富者は連阡の田有り、貧者は立錐の地無し。均一を令せんと欲すれば、固より公平に在り。若し狡猾の徒をして、升降己に由るを得しめば、其の完葺を望む、亦た難からずや。全く長吏の竭誠に由りて、方に疲甿をして漸く泰ならしむ。臣等商量す。諸道州府に令して此の条疏に准ぜしめ、応に逃亡戸口の税賦並びに雑色差科等有るは、並びに輒更に見存人戸の上に攤配すべからず。務めて法を設けて招携し、方多くを撫禦し、茲の豊稔に乗じ、重ねて昭蘇を獲しむ。苟くも安寧を致さば、自ら遷陟すべし。詔令に遵はざれば、必ず典刑を挙ぐべし。」之に従ふ。
七月、以前義昌軍節度使盧簡方を太僕卿と為す。
十二月、振武節度李国昌を以て検校右僕射・雲州刺史・大同軍防禦等使と為す。国昌は功を恃み頗る横なり。専ら長吏を殺し、朝廷平らぐ能はず。乃ち鎮を雲中に移す。国昌は病を称して軍務を辞す。乃ち太僕卿盧簡方を以て検校刑部尚書・雲州刺史と為し、大同軍防禦等使を充す。上、簡方を思政殿に召し、之に謂ひて曰く、「卿は滄州の節鎮を以て、屈して大同に転ず。然れども朕は沙陀・羌・渾の辺鄙を撓乱するを以て、卿の曾て雲中に在り、恩部落に及びしを以てし、且つ屈を忍びて朕が此の行を為し、具さに朕が旨を達し、国昌を安慰し、猜嫌を有することを令むること勿れ。」是の月、李国昌の小男克用、雲中防禦使段文楚を殺し、雲州に拠り、自ら防禦留後と称す。制して宣宗を追諡して元聖至明成武献文睿智章仁神聡懿道大孝皇帝と為す。
咸通十四年
十四年春正月丙寅朔。御史中丞韋蟾奏す:応に諸州刺史の除授、正衙に辞謝したる後、故に托して牒を陳べて請暇するは、実に容易なり。自今以後、如し実に故有りて衆の知る所と為る者は、三日外は陳牒の限に在らず。応に内外の官を除きて京に入るは、合便に朝謝すべし。如し假日に遇はば、且つ合に都亭驛に在るべし。近日多くは請暇に因りて、便ち私家に帰す。既に条章を犯し、頗る礼敬に乖く。自今已後、望むらくは故事に准じ、如し未だ朝謝せずんば、須らく都亭驛に於くべし。如し違越せば、台司勘当して申奏すべし。」之に従ふ。辛未、雲・朔の暴乱、代北の騒動を以て、盧簡方に詔を賜ひて曰く、「李国昌久しく忠赤を懐ひ、功労を顕著す。朝廷亦た三たび土疆を授け、両たび旄節を移す。其の寵遇たる、実に比倫寡し。昨者は兵師を徴発し、又た克讓を令して将領せしむ。惟だ節義を嘉し、同じく嫌疑を絶つ。近く知る、大同軍安からず、段文楚を殺害し、国昌の小男克用を推して兵権を主領せしむ。事は一時に出づと雖も、心豈に長久を忘れんや。段文楚若し実に刻剝し、自ら怨嫌を結べば、但だ申論すべし。必ず朝典を行はん。遽かに至りて性命を傷残し、肌膚を刳剔し、惨毒憑淩す。殊に驚駭すべし。況んや忠烈の後、節義の門、茲の横亡を致すは、尤も観聴を悚しむ。若し克用暫く兵務を主せず、手を束ねて朝廷の人を除くを待たば、則ち事は権宜に出づ。猜慮に足らず。若し便ち軍柄を図り、大同を奄有せんと欲せば、則ち患ひは久長に系る。故に依允し難し。料るに国昌は忠を輸し節を效す。必ず当に已に指揮有らん。卿の両たび雲中に任じ、恩国昌の爺子に及べば、敬憚懐感、常人に同じからず。宜しく悚て書題を与へ、深く禍福を陳べ、殷勤に曉喻し、劈析して指宜すべし。切に大節をして虧くる無からしめ、前功をして並びに棄つることを令むること勿れ。」簡方詔に准じて之を諭す。国昌詔を奉ぜず。乃ち詔して太原節度使崔彦昭・幽州節度使張公素に師を帥いて之を討たしむ。
三月、新に除する大同軍使盧簡方を以て単于大都護・振武節度・麟勝等州観察等使と為す。時に李国昌は振武に拠る。簡方は嵐州に至りて卒す。是より沙陀は代北の諸軍鎮を侵掠す。庚午、詔して両街の僧をして鳳翔法門寺に於いて仏骨を迎へしむ。是の日、天雨黃土遍地す。
四月八日、仏舎利が京師に至り、開遠門より安福門に至るまで、彩棚が道を挟み、念仏の音は地を震わす。帝は安福門に登りこれを迎え礼し、内道場に迎え入れ三日を経て、京城の諸寺に出ず。士女は雲の如く集い、威儀は盛んに飾り、古にその比無し。制して曰く、「朕は寡徳を以て、鴻業を纘承すること十有四年。頃に寇の猖狂に属し、王師未だ息まず。朕は憂勤して位に在り、生霊を愛育し、遂に乃ち釈教を尊崇し、玄門を至重とし、真身を迎請し、万姓の為に福を祈る。今、これを観睹するの衆、路岐を隘塞す。狴牢を載念し、寝興に慮に在り、嗟く我が黎人、刑辟に陷るを。況んや漸く暑毒に当たり、縲絏に係わるをや。或いは積幽凝滞して和気を傷う有り、或いは関連追擾して農務を妨ぐ有り。京畿及び天下の州府に見禁の囚徒、十悪忤逆・故意殺人・官典犯贓・合造毒薬・放火持仗・開発墳墓を除く外、余の罪は軽重節級を以て一等を遞減す。その京城軍鎮は、限り両日内に疏理を訖えて聞奏すべし。天下の州府は、勅到る三日内に疏理して聞奏すべし。」吏部侍郎蕭仿を以て兵部侍郎・同平章事と為す。
六月、帝豫せず。
七月癸亥朔。戊寅、疾大いに漸す。庚午、制して普王儼を立てて皇太子と為し、権に軍国政事を勾当せしむ。辛巳、遺詔して曰く、「朕は九廟を祗事し、四海に君臨し、夕に惕みて厲の如く、宵分に寧きこと靡く、必ず政化の源を求め、大中の道を建てんと思ふ。夷貊を懐柔し、干戈を偃戢するに至るまで、皆徳を以て綏ぎ、亦自ら馴致し、清浄を以て理と為さんことを冀ひ、治平の臻く可きを庶幾す。秋より已来、忽爾として疹を嬰ふ。坐朝既に闕け、旬を踰えて未だ瘳えず。六疾斯に侵され、万機多に曠く、医和験無く、以て弥留に至る。嗚呼、数なる哉有窮、聖賢の必ず同くする所、斯の言に明かなるは、是れ達節と為す。載せて顧命を申し、式に典謨に葉はしむ。皇太子権勾当軍国事儼、性は寛和を稟け、生れながら忠孝を知り、徳は睿哲を苞み、聖表は徇齊、必ず能く祖宗の重光を揚げ、邦家の丕構を荷ふべし。宜しく所司に令して礼を具へ、柩前に於て即ち皇帝位に即かしむべし。司空・門下侍郎・平章事韋保衡を以て塚宰を摂せしむ。軍国の務殷し、豈に久しく曠く可けんや、況んや易月の制は、之を行ふこと古より有り、皇帝は宜しく三日にして政を聴き、二十七日に服を釈くべし。諸道の節度・観察・団練・防禦等使、及び監軍・諸州刺史は、寄せを受くること至重く、並びに離任して哀に赴くことを得ず。文武の常参官は朝晡の臨、十五に音を挙ぐ。宮中に当に臨すべき者は、時に非ざれば擅に哭くことを得ず。天下の人吏百姓は告哀の後出臨三日、皆服を釈き、肉を食ひ酒を飲み婚姻祭祀するを禁ずること勿れ、服を釈くの後は当に挙ぐるを禁ずること無し。薄葬の礼は、宜しく漢魏の文に遵ふべし。その山陵の制度は、切に儉約に在り、並びに金銀錦繡を以て喪具を文飾することを得ず。五坊の鷹犬等は、搜狩を除く外、余は並びに解放す。その医官段璲・趙〓・苻虔休・馬及等は並びに釈放す。咨う爾が将相卿士・中外の臣僚、力を竭くし忠を尽くし、予が令嗣を匡け、往きし事を送り居るを事とし、朕が志に違ふこと無かれ。」是の日、咸寧殿に崩ず。聖寿四十一。百僚諡を上りて睿文昭聖恭恵孝皇帝と曰ひ、廟号を懿宗とす。十五年二月、簡陵に葬る。
【論】
史臣曰く、臣は常に咸通の耆老に接し、恭恵皇帝の故事を言ふ。大中の時に当たり、四海は承平、百職は修挙し、中外に粃政無く、府庫に余貲有り、年穀は屢登し、封疆に擾無し。恭恵始めて丕構を承け、頗る亦励精し、讜言を延納し、耆徳を尊崇し、数稔の内に、洋洋たる頌声有り。然れども器は本より中庸、近習に流れ、親しむ所は巷伯、昵む所は桑門。蠱惑の侈言を以て、驕淫の方寸を乱し、怠忽無からんと欲すれど、其れ得可けんや。及び釁は蛮陬に結び、奸は戍卒に生ず。五嶺の転輸を発すれば、寰海動揺し、二蜀の捍防を征すれば、蒸人蕩覆す。徐寇は雖も殄び、河南幾くんぞ空し。然れども猶軍賦を削りて伽藍を飾り、民財を困して浄業を修め、諛佞を以て己を愛すと為し、忠諫を妖言と謂ふ。争ひて険陂の途に趨き、貞方の節を励ますこと罕なり。豕負塗の愛豎を見れば、次に非ざるも寵升し、燋頭爛額の輔臣は、辜無きも竄逐す。是を以て干戈は野に布き、虫旱は年を弥ぎ、仏骨纔に応門に入るや、龍輴已に蒼野に泣く。報応必ずしも無からず、斯れ其の験なるか。土徳淩夷し、禍は此に階る。文・景の英継有りと雖も、興すこと難し。茲より龜玉の昌えざるは、固より其れ宜なり。黄髪の遺叟、之を言へば涕零す。
贊して曰く、邦家の治乱は、君の聴断に在り。恭恵は驕奢、賢良は貶竄す。凶豎国に当たり、憸人朝に満つ。奸雄釁に乗じ、謀を貽して道消ゆ。