旧唐書
本紀第十八下 宣宗
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宣宗聖武献文孝皇帝は諱を忱といい、憲宗の第十三子、母は孝明皇后鄭氏という。元和五年六月二十二日、大明宮にて生まれた。長慶元年三月、光王に封ぜられ、名を怡といった。会昌六年三月一日、開宗(武宗)の病篤く、遺詔により皇太叔に立てられ、軍国政事を権勾当することとなった。翌日、柩前において帝位に即き、今の名に改め、時に三十七歳であった。帝は外は晦(くら)くして内は朗らか、厳重にして寡言、視瞻(しせん)は特異であった。幼少の時、宮中では慧(さと)らざる者と思われた。十余歳の時、重病に沈み、忽ち光輝が身を照らし、蹶然として起き上がり、身を正して拱手揖(ゆう)し、臣僚に対すが如くであった。乳媼は心疾と思った。穆宗はこれを見て、背を撫でて曰く「これは吾が家の英物なり、心憊(つか)れたる者にあらず」と。玉如意・御馬・金帯を賜った。常に龍に乗って天に昇る夢を見、これを鄭后に言うと、后は曰く「これは人に知らしむべからざる事なり、幸いに復た言うことなかれ」と。大和・会昌の朝を歴て、ますます韜晦(とうかい)を事とし、群臣と遊処するも、未だ嘗て言うこと有らざりき。文宗・武宗が十六宅に幸して宴集し、強いてその言を誘い、戯劇と為し、これを「光叔」と謂った。武宗は気豪にして、特に礼を為さざりき。監国の日に至り、哀毀(あいき)して容に満ち、群僚を接待し、庶務を決断するに、人は初めてその隠徳を見るのであった。四月辛未、喪服を除き、母鄭氏を尊んで皇太后と曰う。兵部侍郎・翰林学士承旨白敏中を以て本官を守らしめ、同中書門下平章事と為す。特進・守太尉・門下侍郎・同平章事・上柱国・衛国公・食邑二千戸李徳裕を以て検校太尉・同平章事・江陵尹・荊南節度使と為す。中散大夫・大理卿馬植を以て金紫光禄大夫・刑部侍郎と為し、諸道塩鉄等使を充てる。成徳軍節度使王元逵を以て検校太保と為し、山南西道節度使王起を以て検校司空と為し、魏博節度使何弘敬・淮南節度使李紳を並びに検校司空と為し、剣南西川節度使崔鄲を以て検校尚書右僕射と為し、同中書門下平章事は並びに元の如し。東都留守李石、太廟を修奉し畢れりと奏し、所司太微宮の神主を迎え奉り廟に祔(ふ)することを訖(おわ)る。東都太廟は、元は武后の家廟、神龍年中に中宗が反正し、武氏の廟主を廃し、太祖以下の神主を立ててこれに付した。安禄山が洛陽を陥とし、廟を以て馬廄と為し、その神主を棄てたが、協律郎厳郢が収めてこれを蔵した。史思明が再び洛陽を陥とし、尋いでまた散失す。賊平ぎて、東京留守盧正己がまた募ってこれを得たり。廟は既に焚毀されたるを以て、乃ち主を太微宮に寄す。大暦十四年、留守路嗣恭、太廟を重修し、以て神主を迎えんと奏す。詔して百官に参議せしむるも、紛然として定まらず、礼儀使顔真卿は堅く帰祔を請うも、従わず。会昌五年、留守李石、太微宮正殿の圮陊(きとう)するに因り、廃弘敬寺を以て太廟と為し、神主を迎えてこれに祔す。また百僚に議を下すも、皆言うに故事に准えば、両都に俱に置くの礼無しと。唯だ礼部侍郎陳商の議に云く「周の文・武に、鎬・洛の二廟有り、今両都異廟と為す可し。然れども廟に主を置くべからず、主は礼に依り廟の北墉の下に瘞むべし」と。事未だ行わざるに武宗崩ず。宣宗即位し、因りて詔して有司に太微宮の寓主を迎え、廃寺の新廟に祔せしむ。而して礼を知る者はこれを非とす。制す「皇長男温は鄆王に封ず可く、二男涇は雅王に封ず可く、第三男滋は蘄王に封ず可く、第四男沂は慶王に封ず可し」と。
五月、左右街功徳使奏す「今月五日赦書の節文に准う。上都両街に四寺を留め、外更に八所を添置す。両所は旧名に依り興唐寺・保寿寺。六所は旧名を改めんことを請う。宝応寺を資聖寺と改め、青龍寺を護国寺と改め、菩提寺を保唐寺と改め、清禅寺を安国寺と改め、法雲尼寺を唐安寺と改め、崇敬尼寺を唐昌寺と改む。右街に八所を添置す。西明寺を福寿寺と改め、荘厳寺を聖寿寺と改む(旧留寺)。二所は旧名、千福寺を興元寺と改め、化度寺を崇福寺と改め、永泰寺を万寿寺と改め、温国寺を崇聖寺と改め、経行寺を龍興寺と改め、奉恩寺を興福寺と改む」と。勅旨、奏に依る。道士劉玄靖等十二人を誅す。その説が武宗を惑わし、釈氏を排毀したる故なり。今月五日赦書の節文、吏部三銓の士を選ぶに、祗だ資考に憑り、多く実才に匪(あら)ず。観察使・刺史に奇才異政の士有らば、聞け薦めて試用することを許す。又観察使・刺史交代の時、冊書に交わる所の戸口、もし能く增添して千戸に至らば、即ち超遷を与え、もし逃亡して七百戸に至らば、罷めたる後三年内に任使することを得ず。又徒流の人在る天徳・振武の者は、管中に量りて糧種を借り、俾(し)まして耕田を以て業と為さしむ。剣南東川節度使・検校礼部尚書盧商を以て兵部侍郎・同平章事と為す。
六月、戸部侍郎・諸道塩鉄転運使を充てる馬植を以て本官同中書門下平章事と為す。七月、兵部尚書李譲夷を以て剣南東川節度使と為す。十月、勅す「太廟祫享(こうきょう)、合(まさ)に功臣を以て配すべし。その憲宗廟には、裴度・杜黄裳・李愬・高崇文等を以て配享せしむ」と。荊南節度使李徳裕を以て東都留守と為す。
十一月、有司太廟を享(すす)む。その穆宗室の文に「皇兄」と曰う。太常博士閔慶之奏す「夫れ礼には尊尊有りて、親親を叙せず。祝文に弟と称するは未だ当たらず、請うらくは'嗣皇帝'に改めん」と。これに従う。京兆府奏す「京師百司の職田斛斗(こくと)、請うらくは会昌三年の例に准い、人をして永く自ら京師に送納することを許し、親ら州県の欺隠する無からしめん」と。これに従う。江西観察使周墀を以て義成軍節度使・鄭滑観察等使と為す。
十二月、刑部尚書・判度支崔元式奏す「七月二日の勅に准う。綾紗絹等の次弱疋段(ひきだん)、並びに同じく禁断し、織造することを得ず。臣、塩鉄・戸部の三司と同条疏せんと欲し、先ず左蔵庫を勘し、次弱疋段を出だす州府を分析せしめ、即ち本道の官に牒して狭小の機杼(きちょ)を搜索し、焚毀せしめん。その已に納到したる次弱疋段は、具数を以て聞かしめん」と。上これに従う。
大中元年
二月丁卯の日、制を下す。「憲宗の第十七子の惕を彭王に封じ、第十八子の惴を棣王とす。皇第五子の澤を濮王とし、第六子の潤を鄂王とす。」と。百福殿の修繕を命ずる。検校太尉・東都留守の李德裕を太子少保とし、分司東都とする。給事中の鄭亞を桂州刺史・御史中丞・桂管防禦観察等使とする。二月丁酉の日、礼部侍郎の魏扶が奏上する。「臣が今年放榜した進士三十三人のうち、封彥卿・崔琢・鄭延休の三人は、実に詞芸があり、時に称えられておりますが、皆その父兄が重位にあるため、中選させませんでした。」と。詔して翰林学士承旨・戸部侍郎の韋琮に重ねて考覆させ、勅して曰く。「彥卿らの試した文字は、いずれも程に合致する。及第を許すべし。有司の試験は、ただ至公にあるべきであり、もし請託に及べば、自ら朝典がある。今後はただ常例に依って放榜し、別に奏聞する必要はない。」と。帝は儒士を好み、貢挙に心を留めた。時に微行して民間に入り、輿論を採り聴き、選士の得失を観た。山池の曲宴の度に、学士の詩什に属和し、公卿が出鎮する時も、また詩を賦して餞行した。臣僚に対することは、皆肅然として拱揖し、軽易の言は少なかった。大臣が章疏を献ずれば、即ち香を焚き手を盥ぎてこれを覧た。当時、大中の政は貞観の風有りとされた。また勅す。「今より進士放榜の後は、杏園に任せて旧に依り宴集せしめ、有司は禁制してはならない。」と。武宗が巡遊を好んだため、曲江亭で人の宴聚を禁じた故である。
閏三月、勅す。「会昌の末年、寺宇を併省した。異方の教えとは云え、致理の源を損なうものではない。中国の人は久しくその道を行い、厘革過当にして、事体未だ弘まらず。その霊山勝境・天下州府において、応に会昌五年四月に廃した寺宇で、宿旧の名僧が復た修創できるものは、住持に任せ、所司は禁止してはならない。」と。
四月、積慶太后蕭氏崩ず。諡して貞献と曰う。文宗の母なり。
六月、義成軍節度使の周墀を兵部侍郎・判度支とす。黠戛斯の王子の為を冊して英武誠明可汗とし、鴻臚卿の李業を命じて蕃に入り冊拝せしむ。金紫光禄大夫・守太子少保分司東都・上柱国・奇章郡開国公・食邑二千戸の牛僧孺を守太子太師とし、銀青光禄大夫・行太子賓客・上柱国・隴西郡開国公・食邑二千戸の李彥佐を太子太保とす。並びに前の如く分司せしむ。左諫議大夫の庾簡休を虢州刺史とし、正議大夫・行尚書考功郎中・知制誥・上柱国の崔璵を中書舎人とし、中散大夫・前湖州刺史・彭陽県開国男・食邑三百戸の令狐綯を行尚書考功郎中・知制誥とす。
秋七月、制して正議大夫・尚書戸部侍郎・知制誥・翰林学士承旨・柱国・賜紫金魚袋の韋琮を以て本官のまま同中書門下平章事とす。太子少保分司東都・衛国公の李德裕は人の訟うる所となり、潮州司馬員外置同正員に貶す。
八月、工部尚書・中書侍郎・平章事の盧商を出して鄂岳観察使とす。神策軍、百福殿の修繕成るを奏す。その殿を雍和殿と名付け、楼を親親楼と名付く。凡そ廊舎屋宇七百間、以て諸王の子孫を会せしむ。
九月、前永寧県尉の呉汝納が闕に詣でて冤を称え、言う。「弟の湘は会昌四年に揚州江都県尉に任じられ、節度使の李紳に誣奏されて贓罪に問われ、宰相の李德裕は曲情して李紳に附き、臣の弟の湘を死に至らしめました。」と。詔して御史台に下し、鞫按せしむ。
大中二年
二年春正月壬戌の日、宰臣が文武百僚を率いて徽号を上る。聖敬文思和武光孝皇帝と曰う。宣政殿に御し冊を受け終わり、徳音を宣す。神策軍が左銀台門の楼・屋宇及び南面の城牆を修め、睿武楼に至る。
二月、制して剣南西川節度・光禄大夫・検校吏部尚書・同平章事・成都尹・上柱国・隴西郡開国公・食邑二千戸の李回を責授して湖南観察使とし、桂州刺史・御史中丞・桂管防禦観察使の鄭亞を循州刺史に貶し、前淮南観察判官の魏鉶を吉州司戸に貶し、陸渾県令の元寿を韶州司戸に貶し、殿中侍御史の蔡京を澧州司馬に貶す。御史台奏す。
三司の推勘した呉湘の獄に拠り、謹んで逐人の罪状を具えること後し。揚州都虞候の盧行立・劉群は、会昌二年一月十四日に、阿顔の家で酒を喫し、阿顔の母の阿焦と同座す。群は自ら阿顔を収めて妻とせんと擬し、妄りに監軍使の処分と称し、阿顔を進奉せしめ、嫁ぐことを得ざらしめ、兼ねて擅に人をして監守せしむ。その阿焦は遂に江都県尉の呉湘と密約し、阿顔を湘に嫁がせんとす。劉群と押軍牙官の李克勳は即時に遮欄して得ず、乃ち江都の百姓をして湘の取受を論ぜしむ。節度使の李紳は湘を追って獄に下し、贓を計って処死す。獄を具えて奏聞す。朝廷その冤を疑い、御史の崔元藻を差し往きて揚州に按問せしむ。湘に取受有りと雖も、罪は死に至らずと拠る。李德裕は李紳に党附し、乃ち元藻を嶺南に貶し、淮南の元申文案を取って、湘を断じて処死す。今、三司使の追った崔元藻及び淮南の元推判官の魏鉶並びに関連人の款状に拠る。淮南都虞候の劉群、元推判官の魏鉶、典の孫貞・高利銭・倚・黄嵩、江都県典の沈頒・陳宰、節度押牙の白沙鎮遏使の傅義、左都虞候の盧行立、天長県令の張弘思、曲の張洙・清・陳回、右廂子巡の李行璠、典臣の金弘挙、呉湘の妻女を澧州に送りし取受銭物の人潘宰、前揚府録事参軍の李公佐、元推官の元寿・呉珙・翁恭、太子少保分司の李德裕、西川節度使の李回、桂管観察使の鄭亞等、伏して敕旨を候う。
その月、勅す。
李回・鄭亞・元寿・魏鉶は既に別敕に従い処分す。李紳がこの冤訴を起こすは、本より真ならず。今既に身歿し、以て刑を加うる無し。粗く衆情を塞ぎ、量に行って削奪すべし。宜しく三任の官告を追奪し、刑部に送り注毀せしむべし。その子孫は経義に稽え、罰は嗣に及ばず、並びに釈放すべし。李德裕は先朝に重権を委ねられ、その党庇を絶たんと務めず、致使して冤苦、今に到るまで及ぶ。職として爾が由、恨歎無からんや。昨、李威の訴うる所に以て、既に遠貶す。事体を俯して全うし、特為に従寛す。宜しく去年の敕令に准じて処分すべし。張弘思・李公佐は卑吏として官を守り、制は己に由らず、正を守ること能わず、曲く権臣に附す。各々両任の官を削る。崔元藻は曾て無辜の貶を受け、洗雪の条に合す。中書門下に委ねて商量処分せしむ。李恪は款状を詳験し、蠹害最も深し。その多時なるを以て、須らく減等を議すべし。京兆府に委ねて脊杖十五を決し、天徳に配流せしむ。李克勳は阿顔を収めんと欲し、決杖二十、硤州に配流す。劉群はその款状に拠れば、痛刑を議すべし。曾て職官に効あり、脊を決せんと欲せず。臀杖五十を決し、岳州に配流す。その盧行立及び諸の典吏は、三司使に委ねて罪を量り科放し終わり奏聞せしむ。
三月己酉の日、兵部侍郎・判度支の周墀を本官のまま平章事とする。礼部尚書・塩鉄転運使の馬植を本官のまま同平章事とする。日本国の王子が入朝し、地方の産物を貢ぐ。王子は囲碁に巧みであり、帝は侍詔の顧師言に命じてこれと対局させた。
五月己未の日、日蝕があった。
六月己丑の日、太皇太后郭氏が崩御し、諡して懿安という。憲宗の妃で、穆宗の母である。戸部侍郎・兼御史大夫・判度支の崔龜從が上奏した。「諸司の場院官が官本銭を返却した後、もし欺瞞・隠匿・負債がある場合は、徴収・処理を十分に行い、安易に恩赦に従って放免を求めてはならない。今後、凡そ隠匿・窃盗・負債については、官典の贓罪を犯した例に準じて処分することを請う。たとえ恩赦に遇うも、免罪の限りにあらず。」これを聞き入れた。
七月戊午の日、前山南西道節度使の高元裕を吏部尚書とする。
八月戊子の日、朝散大夫・中書舎人・充翰林学士・上柱国・平陰県開国男・食実封三百戸・賜紫金魚袋の畢諴を刑部侍郎とする。
九月、勅する。「近頃、無良の輩が街市に匿名文書を投じ、あるいは矢の上や旗幡の上に勝手に奸言を書き、国法を乱すことがある。今後は所管の役人が厳重に捕縛せよ。もしこの類を捕獲したならば、直ちに焼却・埋葬し、上聞に及ぼしてはならない。」
十一月、兵部侍郎・判戸部事の魏扶が上奏した。「天下の州府の銭物・斛斗・文簿は、すべて録事参軍に委ねて専判させ、長史と通判し、交代の時に数を詳らかにして上奏申告させる。もし未納・負債がなければ、選考の軽減を量って注擬する。」勅する。「路随らが修した『憲宗実録』の旧本は、改めて施行せよ。その会昌年間に新たに修されたものは、すべて進納せよ。もし写本を得た者は、勅が到着次第、すべて史館に納め、勝手に留めてはならない。州府に委ねて厳重に捜索捕獲せよ。」戸部侍郎・判度支の崔龜從を本官のまま同平章事とする。銀青光禄大夫・門下侍郎・兼礼部尚書・同平章事の韋琮を太子詹事とし、東都に分司させる。
大中三年
三年春正月丙寅の日、涇原節度使の康季榮が上奏した。吐蕃の宰相論恐熱が秦州・原州・安楽州の三州及び石門等の七関の兵民を率いて帰国した。詔して太僕卿の陸耽を遣わして旨を告げさせ、なお霊武節度使の朱叔明・邠寧節度使の張君緒に命じ、各々本道の兵馬を出してその来投を応接させる。太常卿の封敖を検校兵部尚書とし、興元尹・山南西道節度使とする。
三月乙卯の日、勅して待詔官は刑法官・諫官と次第に対面させるべきである。銀青光禄大夫・中書侍郎・同平章事・監修国史・上柱国・汝南県開国子・食邑五百戸の周墀を検校刑部尚書・梓州刺史とし、剣南東川節度使を充てる。
四月、正議大夫・守中書侍郎・同平章事・集賢殿大学士・賜紫金魚袋の馬植を太子賓客とし、東都に分司させる。正議大夫・守御史大夫・上柱国・博陵県開国子・食邑五百戸・賜紫金袋の崔鉉を中書侍郎・平章事とすることを可とする。正議大夫・行兵部侍郎・判戸部事・上柱国・鉅鹿県開国男・食邑五百戸・賜紫金魚袋の魏扶を本官のまま平章事とすることを可とする。
五月、幽州節度使・検校司徒・平章事の張仲武が卒去した。三軍はその子の直方を以て留後事を知らしめる。
六月癸未の日、五色の雲が京師に見えた。勅する。先に流罪・貶謫に処せられた罪人で、不幸にも貶所で没した者で、情状が悪逆でないものは、刑部に陳牒することを任せ、帰葬を許す。特に遠隔の地については、なお事に応じて官が棺槨を給する。康季榮が原州・石門・驛蔵・木峡・制勝・六磐・石峡等の六関を収復し終えたと奏上した。邠寧の張君緒が奏上した。今月十三日に蕭関を収復した。御史台が奏上した。義成軍節度使の韋讓が懐真坊において街路を侵して九間の屋舎を造ったが、既にこれを破却させ終えた。勅して蕭関に武州を置き、長楽を改めて威州とする。
七月、三州七関の軍人百姓は、皆、河州・隴州の遺民であり、数千人が宮闕の下に参じた。上は延喜門に臨んで撫慰し、その辮髪を解かせ、冠帯を賜い、合わせて絹十五万匹を賜った。
八月、鳳翔節度使の李玭が秦州を収復したと奏上した。制書に曰く。
昔より皇王の国を有つや、何ぞ嘗て文を以て成を守り、武を以て事を集め、二柄に参らせて、大寧に帰せざらんや。朕猥りに丕図を荷い、景運を弘めんと思い、庶政を憂勤すること、茲に四載なり。毎に河・湟の土疆を念うに、綿亘して遐闊なり。天宝末より、犬戎我が多難に乗じ、奸を禦ぐ力無く、遂に腥膻を縦せり、京邑に遠からず。事十葉を更え、時百年に近し。進士能を試みるに、其の長策を竭さざるは莫く、朝廷議を下すに、皆亦其の直詞を聴く。尽く辺事を生ぜざるを以て永図と為し、且つ旧地を守るを明理と為し、荏苒として是に於て、収復する由無し。今者天地祥を儲け、祖宗佑を垂れ、左衽款を輸し、辺壘連りて降り、恥を刷ぎ功を建て、謀う所必ず克つ。実に枢衡の妙算、将帥の雄稜、玄元の争わざるの文に副い、漢武の遠征の悔を絶つ。甌脱頓に内地に空しく、斥候全く新封に拠る。莫大の休、期を指して就らんとす。況んや将士等風雨に櫛沐し、郊原に暴露し、荊棘を披きて刁斗夜に厳しく、豺狼を逐いて穹廬暁に破る。動くこと皆如意、古と与に京す無し。此の誠勤を念い、宜しく寵賞を加うべし。涇原には宜しく絹六万匹を賜い、霊武五万匹、鳳翔・邠甯各四万匹、並びに戸部の産業物色を以て充て、仍て季栄・叔明・李玼・君緒各回戈して鎮に到るを待ち、度支脚を差して支送せしむ。四道の立功将士は、各名銜を具して聞奏せしめ、当に甄酬を議せん。其の秦・威・原三州及び七関側近は、訪聞するに田土肥沃、水草豊美、もし百姓能く耕墾種蒔せば、五年内税賦を加えず。五年已後に重ねて戸籍を定め、永業と為す。温池の塩利は、辺陲を贍う可く、度支に委ね制置して聞奏せしむ。鳳翔・邠甯・霊武・涇原の守鎮将士は、もし本戍の処に於て耕墾営田する能くば、即ち度支牛糧子種を給賜し、每年斛斗を得る量を以て、便ち軍糧に充て、亦定数の約に限らず。三州七関の鎮守官健は、人毎に衣糧両分を与え、一分は常年の例に依り支給し、一分は度支加給し、仍て二年に一たび替換す。其の家口は長吏に委ね切に安存を加う。官健に庄田戸籍有る者は、州県に仰せて差役を放免せしむ。秦州より隴州已来の道路は、要に堡柵を置き、秦州と応接せしめ、李玭と劉皋に委ね即ち便ち計度して聞奏せしむ。もし商旅往来し、官健の父兄子弟家信を通伝せば、関司並びに邀詰阻滯す可からず。三州七関の刺史・関使は、将来訓練捍防効能有る者は、並びに超序して官爵を与う。剣南西川沿辺の蕃に没したる州郡は、もし力能く収復せば、本道も亦宜しく接借すべし。三州七関創置の戍卒は、且つ要は務めて静かにす。もし蕃人市を求めば、切に通ず可からず。投降する者有れば、長吏の処分を申し取る。嗚呼、七関要害、三郡膏腴、候館の残趾尋ぬ可く、唐人の遺風尚在り。往事を追懐し、良に用て興嗟す。夫れ取るは広きに在らず、其の金湯を保つを貴び、得るは必ず時有り、詎に遅速を計らんや。今則ち便ち務めて修築し、干戈を進めず、必ず食を足し兵を足らしめ、備え有りて患無からしめ、載けて亭育の道を洽くし、永く生霊の安を致さん。中外の臣僚、宜しく朕が意を体すべし。
九月辛亥、西川節度使杜忭、維州を収復せりと奏す。制して曰く、
朕丕業を祗荷し、泰階を平げんと思い、将に邪正の源を分かち、冀くは華夷胥に悦ばしめんとす。其れ常に元輔に登り、久しく武宗に奉り、深く禍心を苞み、盗みに国柄を弄する者有り。既に譴斥の典を行えども、未だ億兆の言を塞がず、是を議して再び朝章を挙げ、式に彝憲に遵わんとす。潮州司馬員外置同正員李徳裕は、早く門地に藉り、猥りに清華を践み、累居将相の栄、唯奸傾を以て業と為す。会昌の際に当たり、極めて公台の栄、諛佞を騁して君を得、遂に恣横にして政を持ち、専権して事を生じ、賢を妬み忠を害す。動くこと多く詭異の謀、潜かに僭越の志を懐く。直きを秉る者は必ず棄て、善に向う者は尽く排す。貞良を誣いて朋党の名を造り、肆に讒構して加諸の釁を生ず。計は指鹿に逾る有り、罪実に其の天を欺くを見る。属する者方に鈞衡に処するも、曾て嫌避無く、国史を愛婿の手に委ね、秘文を弱子の身に寵し、洎て信書に参ずるも、亦親昵を引く。恭しく惟うに『元和実録』は乃ち不刊の書、擅かに敢えて改張し、畏忌有ること無し。他人の懿績を奪い、私門の令猷と為す。又李紳の曲情に附し、断じて成す吳湘の冤獄。凡そ彼の簪纓の士、其の取捨の途を遏む。驕居自ら誇り、狡蠹対する無し、爾が発を擢げて、数罪未だ窮まらず。載て立刻上の由を窺うに、益々君無きの意を験す。天下の人をして、重足一跡、皆讋懼して面を奉り、而して慢易心に在らしむ。臣と為して斯の若き、法に於て何ぞ逭らん。於戲、朕務めて大體を全うし、久しく含容を為す。官栄を黜降すと雖も、尚其の醜状を蓋蔵す。而して睥睨未だ已まず、兢惕聞く無く、積悪既に彰れば、公議抑え難し。是れ宜しく荒服に移投し、以て万邦に謝すべし。中外の臣僚、当に予が意を知るべし。崖州司戸参軍と為す可く、所在馳駅して発遣し、縦え恩赦に逢うも、量移の限に在らず。
起居郎庾道蔚・礼部員外郎李文儒を以て並びに翰林学士を充てしむ。
十月辛巳、京師地震し、河西・天徳・霊夏尤甚しく、戍卒圧死する者数千人。
十一月、東川節度使鄭涯・鳳翔節度使李玭、文川谷路を修すと奏す。霊泉より白雲に至るまで十一驛を置く。詔を下して褒美す。経年雨の為に壊され、又た封敖に令して斜谷の旧路を修せしむ。刑部侍郎韋有翼を以て御史中丞と為し、職方員外郎鄭処誨を以て御史知雑を兼ねしむ。幽州軍乱れ、其の留後張直方を逐い、軍人其の衙将周綝を推して留後と為す。
十二月、順宗を追諡して至徳大聖大安孝皇帝と曰い、憲宗を昭文章武大聖孝皇帝と曰う。初め河・湟収復を以て、百僚徽号を加えんことを請う。帝曰く、「河・湟収復は、先志を継成す。朕祖宗を追尊し、以て功烈を昭さんと欲す。」白敏中等対えて曰く、「臣が愚昧の能く及ぶ所に非ず。」是に至り、上宣政殿に御し行事し、及び冊出ずるに、楼に俯して目送し、流涕嗚咽す。崖州司戸参軍李徳裕、貶所に於て卒す。
大中四年
四年春正月、二聖を追尊するを以て、正殿に御し、天下に大赦す。「徒流比に天徳に在る者は、十年を以て限と為し、既に鴻恩に遇う、例えて三載を減ず。但だ循環添換せしめ、辺人を闕かず、次第に放帰せしめ、人怨苦無からしむ。其の秦・原・威・武諸州・諸関は、先ず格に准じて徒流人、亦量りて限を立つる与え、七年に止まり、住まんと要する者も、亦聴す。諸州府県官工假を請うこと、一月已下は、権に諸庁の判官を差し、一月已上は、即ち勾当の例に准ず。其の課料等は数に据りて毎貫二百文を刻み、見判案官に与えて添給す。故意に人を殺す者有らば、既に傷つけ未だ死せず、既に死して更に生くるも、意殺傷せんと欲し、偶然に免るるも、並びに已に人を殺すの条に同じく処分す。」
二月、皇女万寿公主、右拾遺鄭顥に出降す。顥を以て銀青光禄大夫・行起居郎・駙馬都尉と為す。
三月己卯、刑部が奏上した。「監臨主守が官物を私自に貸し使い、並びに人に貸し借りし、及び己が物を官司に中納する者、並びに専知別當主掌所由が贓を犯した者は、皆、犯入己贓と同様とし、原赦の限りに在らず。」これを従う。幽州節度副大使・検校工部尚書張直方を左金吾衛将軍とする。
四月、勅す。「法司が刑を用いるに、或いは巧詐を持し、律を分けて両端とし、遂に其の罪を成す。既に奸吏が計を得れば、則ち黎庶何ぞ安からん。自今以後、罪を書して刑を定むるに応じ、宜しく直ちに其の事を指し、文を舞わし、妄りに援引すること有るべからず。」また刑部が奏上した。「今年正月一日の勅節文に准拠し、会昌元年三月二十六日の勅に拠れば、窃盗贓一貫文に至れば処死すと。宜しく所司に委ねて重ねて条目を詳定し奏聞すべし。臣等が検校するに、並びに建中三年三月二十四日の勅に准拠することを請う。窃盗贓満三疋以上は決殺し、如し贓数充たざれば、量りて科放を請う。」これを従う。
七月丙子、大理卿劉蒙が奏上した。「古は法を懸けて人に示し、人をして善に従い罪を遠ざけしめ、不犯に至り、以て刑措に致さんとす。大和二年十月二十六日、刑部侍郎高釴の条疏に准拠し、勘節目一十一件を准え、諸州府に下し、粉壁に録事参軍食堂に書す。毎に罪人を申奏するに、須らく前件の節目に依るべし。歳月滋く久しく、文字湮淪す。州県が案を推すに、多く節目に違漏す。今後、諸道に下し、石に刻して会食の所に置き、官吏をして起坐観省せしめ、条目を記憶せしめ、庶幾くば案牘を周詳ならしめんことを請う。」これを従う。
八月、刑部侍郎・御史中丞魏掞が奏上した。「諸道州府の百姓が台に詣り事を訴うるに、多く御史を差して推劾す。臣、州県の煩労を恐る。先ず度支・戸部・塩鉄院の官で憲銜を帯びる者を差して推劾することを請う。又、各々三司使の申称を得たり。院官の人数多くなく、例として専ら院務を掌り、課績を弁ぜず。今、諸道観察使の幕中の判官、少なくも五六人に下らず。請う、其の中に憲銜を帯びる者に委ねて推劾せしむ。如し累ねて推すに労有り、能く冤滯を雪ぐあらば、御史台に官闕すれば、便ち奏用せしむ。」これを従う。
九月、朝請大夫・検校礼部尚書・孟州刺史・河陽三城節度使李拭を太原尹・北都留守・河東節度等使とする。幽州節度周綝卒す。軍人其の牙将張允伸を立てて留後とす。
十月、中書侍郎・平章事魏扶、政事を知るを罷む。
十一月己亥、勅す。「成・維・扶等の三州を収復し、建立已に定まり、条令制置、一切合同す。其の已に配到したる流人は、宜しく秦・原・威・武等州の流例に准え、七年にして放還すべし。」戸部侍郎・本司事を判ずる令狐綯を兵部侍郎・同平章事とする。
十二月、華州刺史周敬復を光禄大夫・検校左散騎常侍とし、兼ねて洪州刺史・江南西道団練観察使とし、金紫を賜う。
大中五年
五年春正月甲戌、制す。皇第七子洽を封じて懐王とし、第八子汭を昭王とし、第九子汶を康王とす。勅す。両京天下の州府、大中五年正月一日已後より起し、三年内は牛を殺すべからず。如し郊廟享祀に合用するは、即ち諸畜を以て代うべし。
二月、戸部侍郎裴休、諸道塩鉄転運等使を充てる。
四月癸卯、刑部侍郎劉瑑が奏上した。今年四月十三日已前に拠れば、凡そ二百二十四年、雑制勅計六百四十六門、二千一百六十五条、軽重を議し、名づけて『大中刑法統類』と曰い、之を行用せんと欲す。
五月、太原尹・河東節度使李拭を鳳翔節度使とする。李業を検校戸部尚書・太原尹・北都留守とし、河東節度使を充てる。守司空・門下侍郎・太原郡開国伯・食邑一千戸白敏中を検校司徒・同平章事邠州刺史とし、邠寧節度観察・東面招討党項等使を充てる。戸部侍郎・戸部事を判ずる魏謩を本官同平章事とする。
七月、宰相監修国史崔龜從、柳芳の『唐曆』を続けること二十二巻を上る。
八月、勅す。「公主の邑司が擅に文牒を行い、恐らく多く影庇し、条章に率いる有らん。今後、公主は征封に縁るを除き外、邑司をして府県に文書牒を行わしむべからず。如し公事に縁るは、邑司をして宗正寺に申さしめ、事体と酌みて施行せしむべし。」沙州刺史張義潮、兄義澤を遣わして瓜・沙・伊・肅等十一州の戸口を以て来献す。河・隴が蕃に陥ちて百余年以来、是に至りて悉く隴右の故地を復す。義潮を瓜沙伊等州節度使とする。
九月、詔を下す、「刺史の交代については、逐一公事を知州官に交割して初めて離任することを許す。会昌元年の詔に準じ、刺史は官吏の科率や人戸への抑配を禁ずるのみで、使州の公廨及び雑利潤については、天下の州府にそれぞれ規制があり、敢えて違越することはない。これまで明敕による処分がなく、多くは無良の人吏に乗じられて恐喝され、あるいは言訟に至っている。今後、刺史の下担什物及び除替後の資送銭物については、官吏を率斂せず、百姓に科配しない限り、各々州県の旧例色目に従って支給することを任せる。公廨がなければ、資送の限りではない。もし敢えて率配があれば、入己贓として論ずる」と。正議大夫・兵部侍郎・諸道塩鉄転運使・上柱国・河東県開国子裴休を以て礼部尚書を守らせ、金紫に進階す。前宣歙観察使・太中大夫・検校左散騎常侍裴諗を以て兵部侍郎を権知せしむ。
十月己亥、京兆尹韋博奏す、「京畿の富戸が諸軍に影占され、苟くも府県の色役を免れ、あるいは追訴があれば、軍府紛然たり。会昌三年十二月の詔に準じ、諸軍使は百姓を強奪して軍に入ることを得ざることを請う」と。これに従う。
十一月、中書侍郎兼吏部尚書・平章事崔亀従を検校尚書左僕射・汴州刺史とし、宣武軍節度使を充てる。沙州に帰義軍を置き、張義潮を以て節度使とす。太子詹事姚康、『帝王政纂』十巻を献ず。また『統史』三百巻を撰す。上は開闢より始め、下は隋朝に尽くし、帝王の美政・詔令・制置・銅塩銭穀の損益・用兵の利害、下は僧道の是非に至るまで、備載せざるなく、編年としてこれをなす。国子祭酒馮審奏す、「文宣王廟は、始め太宗これを立て、睿宗額を書す。武后が政を窃むの日、篆題を改めて『大周』の二字とす。これを削ることを請う」と。これに従う。
十二月、盗み景陵の神門戟を斫つ。京兆尹韋博は二月の俸を罰せられ、宗正卿李文挙は睦州刺史に貶せられ、陵令呉閲は岳州司馬に、奉先令裴譲は隋州司馬に貶せらる。是歳、湖南大いに饑う。
大中六年
六年春正月戊辰、隴州防禦使薛逵を以て秦州刺史・天雄軍使とし、秦・成両州経略使を兼ねしむ。
二月、右衛大将軍鄭光、賜田を以て租税の免除を請う。宰相魏謩奏して曰く、「鄭光は国舅の親として、賜田は可なりと雖も、免税は以て蒸民を勧むるなし」と。詔して曰く、「一に人戸の例に依りて税を供せしむ」と。
三月、隴州刺史薛逵、定成関の修築工事畢るを奏す。
四月丁酉、詔す、「常平義倉の斛斗は、毎年検勘し、実に水旱の災ある処は、録事参軍先ず人戸の多少を勘し、支給は先ず貧下の戸にし、富戸は支給の限りにあらず」と。礼部尚書・諸道塩鉄転運等使裴休を以て本官のまま同平章事とす。
五月、詔す、「天下の軍府に兵馬ある処は、宜しく兵法を会し弓馬に能き人等を選びて教練使に充て、毎年教習を合する時は、常に教習せしむべし。仍ってその時に兵部に申すべし」と。御史台奏す、「諸色の刑獄に朝官に関連する者は、尚書省四品已上・諸司三品已上の官は、宜しく先ず奏して進止を取るべし。もし諸色の官の状を取れば、即ち中書に申して裁を取るべし」と。これに従う。
秋七月丙辰、前淮南節度使・金紫光禄大夫・検校尚書左僕射兼揚州大都督府長史・御史大夫・上柱国・賛皇郡開国公・食邑一千五百戸李玨卒す。司空を贈る。詔す、贓を犯した人の平贓は、律に据りて当時の物価の上旬の估に依る。犯したる処の、その月内上旬の時估を取って平らにすることを請う。これに従う。検校司空・太子少師・上柱国・范陽郡開国公・食邑二千戸盧鈞を以て太原尹・北都留守・河東節度使とす。
九月、詔す、起居郎の転官の月限は、宜しく二十箇月とすべし。
大中七年
七年春正月壬辰、金紫光禄大夫・守太子少傅分司・上柱国・晋陵郡開国公・食邑二千戸帰融卒す。右僕射を贈る。宗正卿李文会、睦州刺史に貶せらる。
四月、御史大夫鄭朗を以て中書侍郎・同平章事とす。
五月、左衛率府倉曹の張戣が律令格式の条件で相類するものを一千二百五十条集め、一百二十一門に分け、『刑法統類』と号して、これを上進した。
七月、正議大夫・尚書左丞・上柱國・金魚袋を賜うた崔璪を刑部尚書とし、銀青光祿大夫・行兵部侍郎・知制誥・翰林學士を充てる蘇滌を尚書左丞とし、權知戶部侍郎の崔璵を權知兵部侍郎とすべしとした。
十月、尚書左僕射・門下侍郎・平章事・太清宮使・弘文館大學士の崔鉉が『続会要』四十巻を進め、修撰官の楊紹復・崔瑑・薛逢・鄭言らに物を賜うこと差等あり。
大中八年
八年春正月、陝州の黄河が清んだ。
二月、南蛮が犀牛を進貢したが、詔してこれを返還させた。
三月、旱魃により詔使を派遣して繋囚の疏決を行わせることを勅した。宰相監修國史の魏謩が『文宗実録』四十巻を修成し、これを上進した。修史官の給事中盧耽・太常少卿蔣偕・司勳員外郎王渢・右補闕盧吉に、銀器・錦彩を賜うこと差等あり。山南東道節度使・検校戸部尚書・襄州刺史・上柱國・酒泉県開國子・食邑三百戸の李景譲を吏部尚書とした。
五月、中書舎人・翰林學士の韋澳を京兆尹とした。戸部侍郎・翰林學士承旨・上柱國・武功県開國子・食邑三百戸の蘇滌を検校兵部尚書とし、江陵尹・御史大夫を兼ね、荊南節度管内観察処置等使を充てた。
七月、銀青光祿大夫・守門下侍郎・同平章事の魏謩が戸部尚書を兼ねた。
八月、司農卿の鄭助を検校左散騎常侍とし、夏州刺史・御史大夫・上柱國・滎陽県開國男・食邑三百戸・夏綏銀宥等州節度営田観察処置押蕃落安撫平夏党項等使を兼ねた。
大中九年
九年春正月辛巳、銀青光祿大夫・秘書監・許昌県開國男の陳商が卒した。工部尚書を追贈された。
二月、中書侍郎・礼部尚書兼・同平章事の裴休を検校吏部尚書とし、汴州刺史・御史大夫を兼ね、宣武軍節度使・汴宋亳潁観察処置等使を充てた。
三月、宏詞挙人の試験において、題目が漏洩したことを御史台が弾劾した。侍郎の裴諗は国子祭酒に改められ、郎中の周敬復は二月分の俸料を罰せられ、考試官の刑部郎中唐枝は処州刺史に出され、監察御史の馮顓は一月分の俸料を罰せられた。登科した十人は全て取り消された。吏部東銓は右丞の盧懿に権判させた。吏部侍郎の鄭涯を検校礼部尚書とし、定州刺史・御史大夫を兼ね、義武軍節度・易定州観察処置・北平軍等使を充てた。御史台が正月八日に礼部貢院で捕らえた明経の黄続之・趙弘成・全質ら三人が堂印・堂帖を偽造し、さらに黄続之が緋衫を偽って着用し、偽帖を持って貢院に入り、挙人の虞蒸・胡簡・党賛ら三人に及第させ、銭一千六百貫文を得ることを約した件について、黄続之らの罪状を調査したところ、偽造したことを詳細に自供し、約束した銭はまだ入手していないうちに事が発覚した。勅を奉じて全て法に準じて処死すべしとした。主司は自ら奸人を捕らえたため、放免された。
七月、河東節度使・検校司空・太原尹・北都留守・上柱國・范陽郡開國公・食邑三千戸の盧鈞を尚書右僕射とした。
八月、門下侍郎・守尚書右僕射・監修國史・博陵縣開國伯・食邑一千戸の崔鉉を、検校司空・同平章事とし、兼ねて揚州大都督府長史を務めさせ、淮南節度副大使・知節度使事を充任させた。宣宗は宴を設けて送別し、詩を賦してこれを賜った。
九月、昭義節度使・検校礼部尚書・兼潞州大都督府長史・御史大夫・上柱國・賜紫金魚袋の鄭涓を、検校刑部尚書・太原尹・北都留守・御史大夫とし、河東節度・管内観察処置等使を充任させた。
十一月、河南尹の劉瑑を検校工部尚書・汴州刺史・兼御史大夫とし、宣武軍節度・宋亳汴潁観察処置等使を充任させた。中書舎人の鄭顥を礼部侍郎とした。
大中十年
十年春正月乙巳、正議大夫・華州刺史・潼関防禦・鎮國軍等使・上柱國・隴西縣開國男・食邑三百戸・賜紫金魚袋の李訥を検校左散騎常侍とし、兼ねて越州刺史・御史大夫・浙江東道都団練観察等使を務めさせた。
三月、中書門下が上奏した。「礼部貢院に現置されている科目、《開元礼》、《三礼》、《三伝》、《三史》、学究、道挙、明算、童子などの九科は、近年人材を取るのが甚だしく濫雑で、かつて実技・学芸を採るべきものはなく、徒らに官途に入る門戸を増やしているのみである。条規を議論して整理し、その事業を精選すべきである。臣らは既に延英殿で面論し、伏して聖旨を奉じ、文書を持参した者である。前記の九科について、臣らが協議したところでは、大中十年より起算して、権宜的に三年間停止し、満了後、その時に科挙に赴いて試験を受ける者については、役所に命じて挙げられた人の名を先に進めさせ、中書舎人に重ねて問答させたい。その中で本業がやや通じ、朝廷の顧問に堪えうる者があれば、即ち等第を作って名を進め、勅命を待って処分する。もし学業が荒廃し、名数を送るに合わない者があれば、考官は即ち朝廷の責罰を議する。童子については、近頃諸道が推薦して送る者は、多く年齢が既に過ぎており、偽って童子と称し、その学業を考査してみれば、また普通の者である。今日以後より起算して、天下の州府に童子を推薦して送る場合、必ず実年齢が十一、十二歳以下であり、なおかつ一経を精熟し、問えば皆全通し、兼ねて自ら書き写せる者に限ることを望む。もし制条に違反した場合は、当該道の長吏もまた懲罰の法を議する。」これに従った。
四月癸丑、刑部郎中の盧搏を廬州刺史とした。給事中・渤海郡開國公・食邑二千戸の高少逸を検校礼部尚書・華州刺史・潼関防禦・鎮國軍等使とした。
六月、兵部郎中の裴夷直を蘇州刺史とした。
六月、兵部郎中の裴夷直を蘇州刺史とした。
九月、中書舎人の杜審権に礼部貢挙を掌らせた。
十月、邠甯慶節度使・検校礼部尚書・邠州刺史・上柱國・賜紫金魚袋の諴を検校兵部尚書・潞州大都督府長史・御史大夫とし、昭義節度副大使・知節度使・潞邢洺等州観察使を充任させた。桂管観察使の令狐定が卒去した。礼部尚書を追贈した。
大中十一年
十一年春正月、銀青光禄大夫・守吏部尚書・上柱國・酒泉縣開國男・食邑三百戸の李景譲を御史大夫とした。朝請大夫・守御史中丞・兼尚書右丞・上柱國・賜紫金魚袋の夏侯孜を戸部侍郎・判戸部事とした。朝散大夫・守京兆尹・上柱國・扶風縣開國男・食邑三百戸・賜紫金魚袋の韋澳を検校工部尚書・孟州刺史・御史大夫とし、河陽三城節度・孟懐澤観察処置等使を充任させた。先に、車駕が華清宮に行幸しようとした際、両省の官が状を進めて論奏した。詔して曰く、「朕は驪山が宮殿に近く、真の聖なる廟貌であるのに、未だ修謁したことがなく、自ら欠けていると謂う。今は陽和の気清らかな時節に属し、中外の事も簡素である。聴政の暇に、あるいは一行を議する。礼敬の心を崇めるためであり、逸遊を事とするのではない。既に命を申し戒めたが、兼ねて人を労することを慮る。卿らは職を禁闈に備え、志を奉上に勤め、前古を援引し、状を列ねて上章し、懇到の詞を載せて陳べ、忠を尽くす節を深く見る。既に来請を允し、奏した所は皆知った。」と。剣南西川節度副大使・知節度事・管内観察処置統押近界諸蛮及西山八国雲南安撫等使・特進・検校司徒・同中書門下平章事・兼成都尹・上柱國・太原郡開國公・食邑二千戸の白敏中に本官のまま江陵尹を兼ねさせ、荊南節度・管内観察処置等使を充任させた。
二月、夏綏銀宥節度使・通議大夫・検校左散騎常侍・夏州刺史・御史大夫・上柱國・滎陽縣開國男・食邑三百戸・賜紫金魚袋の鄭助を検校工部尚書・邠州刺史とし、邠甯慶節度・管内営田観察処置、兼ねて慶州南路救援・塩州及び当道沿路鎮寨糧料等使を充任させた。右金吾衛将軍の田在賓を検校右散騎常侍とし、兼ねて夏州刺史とし、鄭助に代わって夏・綏・銀・宥節度等使とした。荊南節度使・銀青光禄大夫・検校兵部尚書・兼江陵尹・御史大夫・上柱國・武功郡開國男・食邑三百戸の蘇滌を太常卿とした。銀青光禄大夫・守門下侍郎・兼戸部尚書・同平章事・監修國史・上柱國の魏謩を検校戸部尚書・同平章事とし、兼ねて成都尹を務めさせ、剣南西川節度副大使・知節度事を充任させた。太中大夫・守工部尚書・上柱國・賜紫金魚袋の崔慎由を中書侍郎・同平章事とした。成徳軍節度・鎮冀深趙観察処置等使・起復雲麾将軍・守左金吾衛大將軍同正・検校兵部尚書・鎮州大都督府長史の王紹鼎を銀青光禄大夫・検校尚書右僕射とし、その他の官は元の通りとした。通議大夫・守中書門下侍郎・兼礼部尚書・同平章事・集賢殿大学士・上柱國・賜紫金魚袋の鄭朗に監修國史を務めさせた。太中大夫・守工部尚書・同平章事・上柱國・賜紫金魚袋の崔慎由に集賢院大学士を務めさせた。
三月、朝請大夫・深州刺史・御史大夫を起復し、兼成徳軍節度判官の王紹懿は、検校左散騎常侍・鎮府左司馬・知府事に任じ、成徳軍節度副使を充任し、兼ねて都知兵馬使を充任することを可とする。成徳軍中軍兵馬使・銀青光禄大夫・検校太子賓客・兼監察御史・上柱国の王景胤は、本官のまま深州刺史・本州団練守捉使に任じることを可とする。検校左散騎常侍・右神武大交軍知軍事の王紹孚は、起復を落とし、前の如く右神武大将軍に任じることを可とする。紹懿・紹孚は、鎮州の王紹鼎の弟である。景胤は、紹鼎の子である。朝請大夫・検校刑部尚書・華州刺史・上柱国・酇県開国男・食邑三百戸・賜紫金魚袋の蕭俶を太子賓客とし、東都に分司させる。
四月、職方郎中・知制誥の裴坦を中書舎人とする。朝議大夫・権知京兆尹の崔郢を濮王傅とし、東都に分司させる。府吏を決殺したためである。江西観察使・洪州刺史・御史中丞・上柱国・賜紫金魚袋の張毅夫を京兆尹とする。鳳翔節度使・正議大夫・検校戸部尚書・兼鳳翔尹・上柱国・襲晋国公・食邑三千戸・襲実封一百五十戸の裴識を許州刺史とし、忠武軍節度・陳許蔡観察等使を充任することを可とする。吏部侍郎の盧懿を検校工部尚書・兼鳳翔尹・御史大夫・鳳翔隴右節度使とする。中書舎人の鄭憲を洪州刺史・御史中丞・江南西道都団練観察処置等使とし、なお紫金魚袋を賜う。安南宣慰使・右千牛衛大将軍の宋涯を安南都護・御史中丞・本管経略招討処置等使とする。幽州節度使張允伸の弟、允中を荊州刺史とし、允千を檀州刺史とし、允辛を安塞軍使とし、允挙を納降軍使とし、いずれも兼御史中丞とする。前邠寧節度使・朝議大夫・検校工部尚書・邠州刺史・上柱国・賜紫金魚袋の柳憙を検校礼部尚書・河南尹とすることを可とする。
五月、職方郎中李玄を寿州刺史とする。
六月、朔方霊武定遠等城節度使・朝散大夫・検校左散騎常侍・霊州大都督府長史・上柱国・賜紫金魚袋の劉潼を鄭州刺史とし、駅馬を馳せて赴任させる。辺兵の糧食を時に及ばせなかったためである。安南都護の宋涯を容州刺史・容管経略招討処置等使とする。制を下し、皇第三男の灌を衛王に封じ、第十一男の澭を広王に封ず。朝散大夫・守尚書兵部侍郎・判度支・上柱国・彭城県開国男・食邑三百戸・賜紫金魚袋の蕭鄴を本官のまま同平章事・判度支とする。右監門将軍・知内府省事・清河公の崔巨淙を淮南監軍とする。特進・検校司空・兼太子太傅分司東都・上柱国・扶風郡開国公・食邑二千戸の杜忭を本官のまま東都尚書省を判じ、兼御史大夫とし、東都留守・東畿汝都防禦使を充任する。
七月、飛龍使・宮闈局令の王帰長を守内侍省内常侍とし、知省事を以て内枢密使を充任する。責授邠州員外司馬の張直方を右驍衛大将軍とする。
八月、成徳軍節度使・検校尚書右僕射の王紹鼎が卒す。司空を贈り、布帛三百段を賻う。皇子の昭王汭を開府儀同三司・守鎮州大都督府長史・成徳軍節度・鎮冀深趙観察等大使とする。成徳軍節度副使・都知兵馬使・左司馬・知府事・御史中丞の王紹懿を成徳軍副使留後とする。義武軍節度・易定観察等使・検校礼部尚書・定州刺史・上柱国・滎陽県開国男・食邑三百戸の鄭涯を検校戸部尚書・汴州刺史・上柱国とし、宣武軍節度副大使・知節度事・宋亳観察・亳州太清宮等使を充任する。四鎮北庭行軍・涇原渭武節度使・銀青光禄大夫・検校右散騎常侍・涇州刺史・御史大夫・上柱国・范陽県開国男・食邑三百戸の盧簡求を検校工部尚書・定州刺史・義武節度使・易定観察・北平軍等使とすることを可とする。塩州防禦押蕃落諸軍防秋都知兵馬使・度支烏池榷税使・検校右散騎常侍・塩州刺史・上柱国・賜紫金魚袋の陸耽を簡求に代えて涇原節度使とする。翰林学士・朝散大夫・中書舎人・賜紫金魚袋の曹確を権知河南尹とする。汝州防禦使の令狐緒に善政あり、郡人が闕に詣でて徳政碑頌を立てることを請う。緒は弟の綯が中書に在ることを以て、上表してこれを止めることを乞い、従う。太常卿の蘇滌を兵部尚書・権知吏部銓事とし、銀青光禄大夫・守散騎常侍・上柱国・渤海郡開国伯・食邑七百戸の封敖を太常卿とする。是の月、熒惑(火星)が東井(井宿)を犯す。
九月、秦州刺史の李承勲を朝散大夫・検校工部尚書・涇州刺史とし、四鎮北庭涇原渭武節度等使を充任する。礼部郎中の楊知温を翰林学士に充てる。中散大夫・尚書礼部侍郎・上柱国・賜紫金魚袋の杜審権を陝州大都督府長史・兼御史大夫・陝虢都防禦観察処置等使とする。銀青光禄大夫・検校司空・兼太子太師・上柱国・范陽郡開国公・食邑二千戸の盧鈞を検校司空・同中書門下平章事・興元尹とし、山南西道節度等使を充任する。右補闕の陳嘏・左拾遺の王譜・右拾遺の薛傑が上疏し、中使を羅浮山に遣わして軒轅先生を迎えることを諫める。詔して曰く、「朕は万機の事繁く、躬親して庶務を治む。羅浮山の処士軒轅集は、善く摂生を能くし、年齢もまた寿なるを聞く。乃ち使を遣わしてこれを迎え、或いは少しく保理あらんことを冀う。朕は毎に前史を観るに、秦の始皇帝・漢の武帝が方士に惑わされたるを見て、常にこれを以て誡めとす。卿等は位は論列に当たり、職は諫司に在り、来章を閲し、深く誠意を納る。」仍て崔慎由に謂いて曰く、「吾がために諫官に言え、少翁・欒大復た生きるとも、相い惑わす能わず。聞くところに依れば、軒轅生は高士なり、これと一言せんと欲するのみ。」と。宰相の鄭朗、累月告を請い、三章を上りて免を求む。是の月乙未、彗星が房宿の初度に出で、長さ三尺。
十月、制を下して通議大夫・守中書侍郎・禮部尚書・同平章事・監修國史・上柱國・賜紫金魚袋鄭朗を檢校尚書右僕射とし、兼ねて太子少師とす。山南西道節度使・中散大夫・檢校禮部尚書・興元尹・上柱國・賜紫金魚袋蔣系を以て權知刑部尚書とし、宰相崔慎由に國史の修撰を兼ねさせ、蕭鄴に集賢殿大學士を兼ねさせる。華州刺史高少逸を左散騎常侍とし、蘇州刺史裴夷直を華州刺史・潼關防禦・鎮國軍等使とし、太常少卿崔鈞を蘇州刺史とする。入回鶻冊禮使・衛尉少卿王端章を賀州司馬に貶し、副使國子《禮記》博士李尋を郴州司馬とし、判官河南府士曹李寂を永州司馬とする。端章らが塞を出でた際、黑車子が路を阻んで帰還したためである。成德軍觀察留後・御史中丞・賜紫金魚袋王紹懿を檢校工部尚書とし、兼ねて鎮州大都督府長史・御史大夫とし、成德軍節度・鎮冀深趙觀察等使を充てる。中書舍人李籓を以て權知禮部貢院とす。
十一月、太子少師鄭朗卒す。司空を贈る。銀青光祿大夫・檢校尚書左僕射・兼太子太保・充右羽林統軍・御史大夫・上柱國・滎陽縣開國男・食邑三百戶鄭光卒す。三日間朝を輟め、司徒を贈り、仍て百官に奉慰せしむ。上(皇帝)の元舅(母方の伯叔父)なり。宰相崔慎由を中書侍郎兼禮部尚書とし、尚書蕭鄴に工部尚書を兼ねさせ、余は並びに元の如し。
十二月、昭義軍節度使・朝議大夫・檢校工部尚書・上柱國・平陰縣開國男・食邑三百戶畢諴を太原尹・北都留守・河東節度使とす。朝議大夫・檢校禮部尚書・兼太原尹・北都留守・上柱國・賜紫金魚袋劉瑑を尚書戶部侍郎・判度支とす。翰林學士承旨・通議大夫・守尚書戶部侍郎・知制誥・上護軍・賜紫金魚袋蔣伸を兵部侍郎とし、職を充てる。金紫光祿大夫・守太子少保分司東都・上柱國・河東縣開國男・食邑五百戶裴休を檢校戶部尚書兼潞州大都督府長史・昭義軍節度副大使・知節度事・潞磁邢洺觀察等使とす。正議大夫・行尚書兵部侍郎・上柱國・河東縣開國男・食邑三百戶・賜紫金魚袋柳仲郢を本官のまま御史大夫を兼ね、諸道鹽鐵轉運使を充てる。正議大夫・檢校戶部尚書・兼太子賓客・上柱國・賜紫金魚袋孔溫業を本官のまま分司東都とす。病を以て告を請うたためなり。禮部郎中楊右溫を本官のまま知制誥とし、翰林學士を充てる。幽州中軍使・檢校國子祭酒・幽府左司馬・知府事・御史中丞張簡真を檢校右散騎常侍とす。允伸の子なり。中散大夫・權知刑部尚書・上柱國・賜紫金魚袋蔣系を檢校戶部尚書・鳳翔尹・御史大夫・鳳翔隴右節度觀察處置等使とす。是の歳、舒州の吳塘堰に衆禽(多くの鳥)が巣を作る。広さ七尺、高さ七丈にして、水禽・山鳥・鷹隼・燕雀の類、馴れ親しまざるは無し。又、人面にして縁に毛あり、爪と嘴は皆紺色なる鳥あり。その声は「甘」と曰い、人はこれを「甘蟲」と呼ぶ。
大中十二年
十二年春正月、晉陽令鄭液を通州刺史とす。羅浮山人軒轅集が京師に至る。上(皇帝)これを禁中に召し入れ、「先生は遐壽にして長生は致すべきか」と謂う。曰く、「聲色を徹(去)れ、滋味を去り、哀樂を一にし、德施を周給すれば、自然と天地と德を合せ、日月と明を齊しくす。何ぞ別に長生を求むるを要せん」と。月余り留め置くも、堅く山に還るを求む。前鄉貢進士于琮を秘書省校書郎とし、尋いで皇女廣德公主に尚せしめ、銀青光祿大夫・守右拾遺・駙馬都尉に改む。安南本管經略招討處置使・朝散大夫・檢校左散騎常侍・安南都護・御史大夫・賜紫金魚袋李弘甫を宗正卿とす。中大夫・守京兆尹・上柱國・賜紫金魚袋張毅夫を鄂州刺史・御史大夫・鄂岳蘄黃申等州都團練觀察使とす。太中大夫・福州刺史・御史中丞・上柱國・賜紫金魚袋楊發を檢校右散騎常侍・廣州刺史・御史大夫とし、嶺南東道節度觀察處置等使を充てる。朝散大夫・守康王傅分司東都・上柱國・襲魏郡開國公・食邑二千戶・賜紫金魚袋王式を安南都護・兼御史中丞とし、安南本管經略招討處置等使を充てる。朝請大夫・前守太子賓客分司東都・上柱國・酂縣開國男・食邑三百戶・賜紫金魚袋蕭俶を守太子少保分司とす。朝請大夫・檢校左散騎常侍・右金吾將軍・充右街使・上柱國・襲太原郡開國公・食邑二千戶・賜紫金魚袋王鎮を檢校左散騎常侍・使持節都督福州諸軍事・福州刺史・御史大夫とし、福建等州都團練觀察處置等使を充てる。翰林學士・朝議郎・守尚書司勳郎中・知制誥・賜緋魚袋孔溫裕を中書舍人とし、職を充てる。右驍衛上將軍李正源を守大內皇城留守とす。朝議大夫・守尚書戶部侍郎・判度支・上柱國・賜紫金魚袋劉瑑を本官のまま同平章事とし、前の如く判度支を依る。太中大夫・守中書侍郎・兼禮部尚書・同平章事・監修國史・上柱國・賜紫金魚袋崔慎由を檢校禮部尚書・梓州刺史・御史大夫・劍南東川節度副大使・知節度事とし、韋有翼に代わる。有翼を吏部侍郎とする。
二月、前の邕管経略招討処置使・朝議郎・邕州刺史・御史中丞・紫金魚袋を賜った段文楚を昭武校尉・右金吾衛将軍とする。朝議郎・守中書舎人・権知礼部貢挙・上柱国・緋魚袋を賜った李藩を尚書戸部侍郎とする。朝散大夫・守工部尚書・同平章事・充集賢殿大学士・上柱国・彭城県開国男・食邑三百戸・紫金魚袋を賜った蕭鄴を監修国史とする。朝議大夫・守戸部侍郎・同平章事・判度支・上柱国・紫金魚袋を賜った劉瑑を充集賢院学士とすることを可とする。渤海国王の弟で権知国務の大虔晃を銀青光禄大夫・検校秘書監・忽汗州都督とし、冊立して渤海国王とする。兵部侍郎柳仲郢を刑部尚書とする。朝議大夫・守尚書戸部侍郎・判戸部事・上柱国・紫金魚袋を賜った夏侯孜を兵部侍郎とし、諸道塩鉄転運使を充てる。朝請大夫・権知刑部侍郎・紫金魚袋を賜った杜勝を戸部侍郎・判戸部事とする。光禄大夫・守左領軍衛大将軍分司東都・上柱国・会稽県開国公・食邑一千五百戸の康季栄を検校尚書右僕射、兼右衛上将軍分司とすることを可とする。前の利州刺史杜倉を賀州司戸に貶し、蔡州刺史李叢を邵州司馬に貶す。工部郎中・知制誥の于徳孫、庫部郎中・知制誥の苗恪を、ともに中書舎人とし、前の如く翰林学士とすることを可とする。前の右金吾衛将軍鄭漢璋、前の鴻臚少卿鄭漢卿を、ともに起復して本官を授ける。国舅鄭光の子である。銀青光禄大夫・行給事中・駙馬都尉の衛洙を工部侍郎とする。前の濮王傅分司の皇甫権を康王傅分司とする。庫部員外郎・史館修撰の李渙を長安令とする。
閏二月、司農少卿盧籍を代州刺史とし、前の江陵少尹杜惲を司農少卿とする。河東馬歩都虞候段威を朔州刺史とし、天寧軍使を充て、兼ねて興唐軍沙陀三部落防遏都知兵馬使とする。
五月、兵部侍郎・塩鉄転運使の夏侯孜を本官のまま同平章事とする。
六月、南蛮が安南府を攻撃する。
八月、洪州の賊徒毛合・宣州の賊徒康全大が郡県を攻撃掠奪する。詔して両浙の兵に討伐平定させる。
十二月、太子少保魏掞が卒す。司徒を追贈する。
大中十三年
十三年春正月、虢陝観察使杜審権を戸部侍郎・判戸部事とする。
三月、宰相蕭鄴が政事を罷められ、吏部尚書を守る。
四月、翰林学士承旨・兵部侍郎・知制誥の蔣伸を本官のまま同平章事とする。
五月、上(皇帝)が御不豫となり、一ヶ月余り朝政を視ることができず。
八月七日、遺詔を宣して鄆王を皇太子とし、軍国事を勾当させる。この日、大明宮にて崩御す。聖寿五十。詔して門下侍郎・平章事令狐綯に塚宰を摂行させる。群臣、諡を上りて聖武献文孝皇帝と曰い、廟号を宣宗とす。十四年二月、貞陵に葬る。
【論】
史臣曰く、臣嘗て黎老(古老)より大中の故事を聞くに、献文皇帝は器識深遠にして、久しく艱難を歴し、人間の疾苦を備(つぶさ)に知る。宝暦以来、中人(宦官)が権を擅(ほしいまま)にし、事多く仮借(かりに)し、京師の豪右(豪族)は大いに窮民を擾(みだ)す。大中(帝)が臨御するに及びて、一には権豪が跡を斂(おさ)め、二には奸臣が法を畏れ、三には閽寺(宦官)が気を讋(お)す。ここによりて刑政濫(みだ)れず、賢能効用し、百揆四岳(百官)、穆(しず)かにして清風の若く、十余年の間、頌声路に載(み)つ。上(皇帝)は宮中に浣濯の衣を着し、常膳は数器を過ぎず、母后の膳を侑(すす)むるに非ざれば、輒(すなわ)ち楽を挙げず、歳或いは小饑あれば、憂い色に形(あらわ)る。左右近習と雖も、未だ嘗て怠惰の容を見ず。群臣と言うに、儼然として煦(あたたか)く接し、賓僚を待つが如く、或いは陳聞する所あれば、虚襟(虚心)して聴き納る。旧時、人主の行く所、黄門(宦官)先ず龍脳・郁金を以て地に藉(し)くを、上は悉く命じてこれを去らしむ。宮人に疾あれば、医これを視、既に瘳(い)えて、即ち袖の金を賜い、誡めて曰く「勅使に知らしむるなかれ、予が侍者に私するを謂わん」と。その恭儉好善、此の如し。季年(晩年)風毒(中風)に悩み、羅浮山人軒轅集を召し、治国治身の要を以て訪う。その伎術詭異の道は、未だ嘗て言を措(お)かず。集も亦た有道の士なり。十三年春、堅く還山を求む。上曰く「先生少しく一年留まり、羅浮山に於いて別に一道館を創るを俟てよ」と。集に留意無し。上曰く「先生我を捨てて亟(すみやか)に去らんとす。国に災有るか。朕天下を得て、竟(つい)に幾年を得ん」と。集筆を取って「四十」の字を書き、而して十の字を上に挑(はね)る。乃ち十四年なり。興替数有り、その此の若きか。而して帝道皇猷(帝王の道)、始終として缺くる無し。漢の文・景と雖も過ぐるに足らず。惜しむかな、簡藉(典籍)遺落し、旧事十に三・四無く、墨を吮(す)い翰を揮(ふる)いて、慊然(物足りなげ)たる所有り。
賛して曰く、李(唐)の英主、実に献文(帝)なり。粃粺(悪しきもの)尽く去り、淑慝(善悪)斯(ここ)に分かる。河・隴の地帰し、朔漠の氛(戦いの気配)消ゆ。今に到る遺老、明君を歌詠す。