旧唐書
本紀第十八上 武宗
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武宗至道昭肅孝皇帝の諱は炎、穆宗の第五子、母は宣懿皇后韋氏という。元和九年六月十二日に東宮にて生まれる。長慶元年三月、潁王に封ぜられ、本名は瀍。開成年中に開府儀同三司・檢校吏部尚書を加えられ、百官の例に依り、逐月俸料を給せられる。初め、文宗は莊恪太子が道ならざる由で薨じたことを追悔し、乃ち敬宗の子陳王成美を皇太子と為さんとし、開成四年冬十月に制を宣したが、冊礼を行う暇がなかった。
開成五年
五年正月二日、文宗が暴疾に罹り、宰相李玨・知樞密劉弘逸が密旨を奉じ、皇太子に国事を監せしむ。両軍中尉仇士良・魚弘志が詔を矯り、十六宅にて潁王を迎え、曰く、「朕自ら疾疹を嬰いてより、加うること有りて瘳えず、躬ら万機を総べ、日々庶政を厘むる能わざるを懼る。謨訓に稽り、大臣に謀り、親賢を建てて以て神器の貳と為さん。親弟潁王瀍は昔藩邸に在り、朕と常に師訓を同じくし、動き儀矩を成し、性寛仁を稟く。昌図を奉ぜしめば、必ず人欲に諧わん。皇太弟と立つべし。応に軍国政事は便令権勾当せしむべし。百辟卿士、中外の庶臣、宜しく乃心を竭くし、予が志を輔成すべし。陳王成美は先に皇太子と立つも、其の年尚お沖幼にして、未だ師資に漸かず、比日重難、冊命に遑あらず。朱邸に迴践し、式に至公に協わしむ。復た陳王に封ぜらるべし。」是の夜、士良が兵士を統率し十六宅にて太弟を迎え少陽院に赴かしめ、百官は東宮思賢殿に謁見す。三日、仇士良が仙韶院副使尉遅璋を収捕し之を殺し、其の家を屠る。四日、文宗崩御し、遺詔を宣す:皇太弟宜しく柩前において即皇帝位すべし、宰相楊嗣復が冢宰を摂す。十四日、正殿にて冊を受け、時に年二十七。陳王成美・安王溶は邸第にて殂す。初め、楊賢妃は文宗に寵愛され、而して莊恪太子の母王妃は寵を失い怨望し、楊妃の譖る所と為り、王妃死し、太子廃せらる。開成末年に及び、帝多く疾有りて嗣無く、賢妃は安王溶を以て嗣がしめんことを請う。帝、宰臣李玨に謀る。玨之を非とし、乃ち陳王を立てしむ。是に至り、仇士良が武宗を立て、功を己に帰せんと欲し、乃ち安王の旧事を発す。故に二王と賢妃皆死す。
二月、制して穆宗の妃韋氏を追諡して宣懿皇太后と為す、帝の母なり。上正殿に御し、德音を降し、開府・右軍中尉仇士良を楚国公に封じ、左軍中尉魚弘志を韓国公と為し、太常卿崔鄲・戸部尚書判度支崔珙は並びに本官のまま同中書門下平章事と為す。勅して二月十五日玄元皇帝降誕の日を降聖節と為し、休假一日とすべし。
三月、詔して宮人劉氏・王氏を並びに妃と為す。勅して朔望の入閣対に刑法官を対すは、是の日便ならず、宜しく停むべし。
五月、中書奏す:六月十二日は皇帝載誕の辰、請うらくは其の日を慶陽節と為さん。宣懿太后を太廟に祔す。初め、武宗は穆宗陵を啓き祔葬せんと欲す。中書門下奏して曰く、「園陵已に安んじ、神道は静を貴ぶ。光陵は二十余載、福陵は則ち近く又修崇せり。窃に惟うに孝思、足ら以て厳奉を彰す。今若し再び合祔に因らば、須らく二陵を啓くべく、或いは聖霊の安からざるを慮り、先旨に合わず。又以て陰陽の避忌も、亦疑う所有り。福陵を移さざるは、実に典礼に協う。」乃ち止む。旧墳に就き増築し、名づけて福陵と曰う。又奏す:「准うるに今年二月八日の赦文、応に京諸司の勒留官は、本処に令し手力雑給を剋留し摂官に与うべし。臣等検詳するに、諸道の正官料錢は絶えて少なく、雑給手力は即ち多し。今正官勒留するも、亦公事を管し、料錢は雑給より少なく、刻下事未だ中を得ず。臣等商量するに、其の正官料錢雑給等の錢は、望むらくは毎貫二百文を割き留め摂官に与え、余は並びに旧の如くせん。」之に従う。
秋七月、制して檢校禮部尚書・華州刺史陳夷行を復た中書侍郎・同平章事と為す。
八月十七日、文宗皇帝を章陵に葬る。知樞密劉弘逸・薛季稜が禁軍を率い霊駕を陵所に護る。二人は素より文宗に奨遇せられ、仇士良之を悪み、心自ら安からず、是に因り兵を掌り、戈を倒し士良・弘志を誅せんと欲す。鹵簿使兵部尚書王起・山陵使崔稜其の謀を覚り、先ず鹵簿諸軍に諭す。是の日弘逸・季稜誅せらる。門下侍郎・同平章事楊嗣復は檢校吏部尚書・潭州刺史と為し、湖南都團練觀察使を充す。中書侍郎・同平章事李玨は檢校兵部尚書・桂州刺史と為し、桂管防禦觀察等使を充す。御史中丞裴夷直は杭州刺史と為す:皆弘逸・季稜の党に坐すなり。易定軍乱れ、節度使陳君賞を逐う。君賞豪傑数百人を鳩合し、復た城に入り、謀乱の兵士を尽く誅し、軍城復た安んず。
九月、淮南節度使・檢校尚書左僕射李德裕を吏部尚書・同中書門下平章事と為し、尋いで門下侍郎を兼ぬ。宣武軍節度使・檢校吏部尚書・汴州刺史李紳を以て德裕に代わり淮南を鎮めしむ。帝藩に在りし時、頗る道術修摂の事を好む。是の秋、道士趙帰真等八十一人を召し禁中に入れ、三殿に於いて金籙道場を修す。帝三殿に幸し、九天壇に於いて親ら法籙を受く。右拾遺王哲上疏し、王業の初め、崇信過当すべからざるを言う。疏奏省みられず。
十一月、鹽鐵轉運使奏す、江淮已南は請うらくは復た茶を税せん、之に従う。魏博節度使何進滔卒す。三軍其の子重霸を推し留後事を知らしむ。
会昌元年
会昌元年正月壬寅朔。庚戌、郊廟に事有り。礼畢り、丹鳳楼に御し、大赦し、元を改む。
二月壬寅、淮南節度使・検校吏部尚書李紳を以て中書侍郎・同平章事と為す。中書奏す、「南宮六曹は皆職分有り、各官業を責め、即ち事因循せず。近くは戸部度支は、多くは諸軍の奏請に在り、本司の郎吏は手を束ね閑居す。今後は請う、祗に本行をして分判せしめ、中書門下に委ね公幹才器相当なる者を簡択して転授せしむることを。」之に従う。車駕昆明池に幸す。仇士良に紀功碑を賜い、詔して右僕射李程をして其の文を為さしむ。
三月、湖南観察使楊嗣復を潮州司馬に貶し、桂管観察使李玨を端州司馬に貶し、杭州刺史裴夷直を驩州司戸に貶す。宰臣李徳裕司空に進位す。三月壬申、宰相李徳裕・陳夷行・崔珙・李紳等奏す、「憲宗皇帝は恢復中興の功有り、請う百代不遷の廟と為さんことを。」帝曰く、「論ずる所至当なり。」続いて之を議す、事竟に行われず。故中書令・晋国公裴度に太師を贈る。山南東道蝗害稼す。霊符応聖院を龍首池に造る。
四月辛丑、勅す、「『憲宗実録』旧本未だ備わらず、宜しく史官をして重修し内に進めしむべし。其の旧本は注破すべからず、新撰成るを俟ちて同進せしむ。」時に李徳裕先に憲宗廟を遷さざることを請い、議者に之を沮まれたり、復た或いは其の父の不善の事を書かんことを恐れ、故に復た実録を改撰することを請う、朝野之を非とす。
五月辛未、中書門下奏す、「『六典』に拠るに、隋は諫議大夫七人を置き、従四品上。大暦二年、門下侍郎を正三品に升し、両省遂に四品を闕く。建官の道、未だ周からざる所有り。詩に云う『袞職に闕有り、仲山甫之を補う』と。周・漢の大臣は、禁闥に入り、過を補い遺を拾わんことを願う。張衡侍郎と為り、常に帷幄に居り、従容として諷諫す。此れ皆大臣の任なり、故に其の秩峻く、其の任重し、則ち其の言を敬い其の道を行わしむ。況んや蹇諤の地は、宜しく老成の人に在り、秩未だ優崇ならざれば、則ち耆徳を用い難し。其の諫議大夫は望む、隋氏の旧制に依り、従四品に升し、左右に分ち、以て両省四品の闕を備えん。向後は丞郎と出入迭用し、以て其の選を重んぜん。又御史中丞は大夫の貳たり、縁りて大夫の秩崇く、官常に置かず、中丞は憲台の長たり。今寺監・少卿・少監・司業・少尹並びに寺署の貳と為り、皆四品たり。中丞の官名至って重く、見る秩未だ崇からず、望む従四品に升さんことを。」之に従う。
六月、禿鶖鳥有りて禁苑に集まる。庚子夜五更、小流星五十余旁午に流散す。制して魏博兵馬留後何重覇を以て検校工部尚書・魏州大都督府長史と為し、天雄軍節度使を充て、仍て名を重順と賜う。中書奏して姚璹の故事に依り、宰相毎月時政記を修し史館に送ることを請う、之に従う。衡山道士劉玄靖を以て銀青光禄大夫と為し、崇玄館学士を充て、号を広成先生と賜い、道士趙帰真と禁中に於いて法籙を修めしむ。左補闕劉彦謨上疏切諫す、彦謨を河南府戸曹に貶す。勅す、「前に自ら中外上封して事を論じ、糾挙する所有らば、則ち留中を請う。今後並びに『請う御史台に付す』と云い、『留中して下さず』と云うことを得ず。如し事軍国に関わり、理須く宥密に在らば、此の限に在らず。如し台司勘当の後、若し事実を得ば、必ず奉公を奨す。苟くも加誣に渉らば、必ず当に反問す。中外に告示し、此の意を明知せしむ。」
七月己巳、北方に流星有り、天を経て良久し。関東大蝗稼を傷つく。襄・郢・江左大水す。彗復た室壁の間に出づ。
八月、回鶻烏介可汗使いを遣わして難を告ぐ、言う本国は黠戛斯に攻められ、故可汗死す、今部人推して可汗と為すと。縁りて本国破散す、今太和公主を奉じて南に大国に投ぜんとすと。時に烏介塞上に至り、大首領嗢没斯と赤心宰相相攻め、赤心を殺し、其の部下数千帳を率いて西城に近づく。天徳防禦使田牟以て聞す。烏介又其の相頡干迦斯をして表を上らしめ、天徳城を借り以て公主を安んじ、仍て糧儲牛羊の供給を乞う。詔して金吾大将軍王会・宗正少卿李師偃をして其の牙に往き宣慰せしめ、公主を放ち入朝せしめ、粟二万石を賑う。
九月、幽州軍乱れ、其の帥史元忠を逐い、牙将陳行泰を推して留後と為す。三軍章を上りて符節を請う、朝旨未だ許さず。十月、幽州雄武軍使張絳軍吏呉仲舒を遣わし入朝せしめ、行泰の惨虐なるを言い、将帥の任に処すべからず、鎮軍を以て加討することを請う、之を許す。
十月、行泰を誅し、遂に絳を以て兵馬使と知らしむ。車駕咸陽に校猟す。
十一月丁酉朔。壬寅夜、大星東北に流れ、其の光地を燭し、声雷の如く、山崩れ石隕つ。其の彗室に起り、凡そ五十六日にして滅ぶ。太和公主使いを遣わし入朝し、烏介自ら可汗と称し、策命を行わんことを乞い、縁りて初めて漠南に至り、使いを降して宣慰せんことを乞うと言う、之に従う。
十二月、中書門下実録体例を修するを奏す、「旧録は禁中の言を載する所有り。伏して以て君上と宰臣・公卿の事を言うは、皆須く衆の聞見する所にして、方可く史冊に書すべし。且つ禁中の語は、在外何ぞ知らん、或いは伝聞に得たるは、多く浮妄に渉り、便ち史筆に形し、実に鴻猷を累す。今後実録中に此の色有らば、並びに請う刊削せん。又宰臣と公卿の事を論ずるは、行わるると行われざると、須く明かなる拠有るべし。或いは奏請允愜なれば、必ず褒称を見、或いは論ずる所乖僻なれば、因りて懲責有り。藩鎮に在りて表を上るは、必ず批答有り、要官に居りて事を啓する者は、自ら著明有り、並びに須く昭然として人の耳目に在るべし。或いは取捨は堂案に存し、或いは与奪は詔勅に形す、前代史書の載する奏議は、罔く此れに由らず。近く実録を見るに多く密疏を載す、言は朝聴に彰れず、事は当時に顕れず、其の家に得たるは、未だ信と為すに足らず。今後実録の載する章奏は、並びに須く朝廷共に知る者にして、方に紀述を得べく、密疏は並びに請う載せざらん。此くの如くすれば則ち理必ず法とすべく、人皆公に向かい、愛憎の志行われず、褒貶の言必ず信ならん。」之に従う。李徳裕奏して改修『憲宗実録』の載する吉甫の不善の跡を改め、鄭亞旨に希い之を削る。徳裕更に此の条を奏し、以て其の跡を掩う。搢紳謗議す、武宗頗る之を知る。
会昌二年
二年春正月丙申朔、撫王紘を以て開府儀同三司・幽州大都督府長史と為し、幽州盧龍節度大使を充てる。雄武軍使張絳を以て検校左散騎常侍と為し、幽州左司馬を兼ね、両使留後を知らしめ、仍て名を仲武と賜う。中書奏して百官九宮壇を議し、本大祠たり、請う中祠に降さんことを。宰相崔珙・陳夷行左右僕射上事儀注を奏定す。
二月丙寅、中書が奏上した、「元和七年の勅に準じ、河東・鳳翔・鄜坊・邠寧等の道州県の官に対し、戸部に命じて加給課料銭を毎年六万二千五百貫支給することとした。吏部は平留官数百員を出し得、当時は妥当とされた。その後、戸部の支給は零碎で時を定めず、観察使は別にこれを破用し、加給があるのみで官人に及ばず、これにより選人は遠方を憚り、注受を喜ばない。伏して部都に実物を与え、時を失わず支遣せしめんことを望む。諸道は観察判官に委ねて給受を知らしめ、専らこの案を判じ、月ごとに支給し、年末に計帳を戸部に申告せしむ。また、選に赴く官人は多く京債を負い、任に到って填還するため、その貪求を招き、これによらざるはない。今年の三銓において、前件の州府に官を得た者に対し、連状して相保つことを許し、戸部が各々二月分の加給料銭を貸与し、支給時に折り下げる。冀うところは、初官が任に到り、息債を帯びず、衣食稍々足り、清廉を責め得ることである。」と。これを従った。太子太師致仕の蕭俛が卒した。牂柯・南詔の蛮が使を遣わして入朝した。
三月、使を遣わして迴紇の烏介可汗を冊立した。振武麟勝節度使・銀青光禄大夫・検校尚書右僕射・単于大都護・兼御史大夫・彭城郡開国公・食邑二千戸の劉沔を検校右僕射とし、兼ねて太原尹・北京留守とし、河東節度・管内観察処置等使を充て、苻澈に代えた。時に迴紇は天徳に在り、沔に太原の師を以てこれを討たしめた。
四月乙丑朔、光禄大夫・守司空・兼門下侍郎・平章事の李徳裕、銀青光禄大夫・守右僕射・門下侍郎・平章事の崔珙、銀青光禄大夫・中書侍郎・同平章事の李紳、金紫光禄大夫・検校司徒・兼太子太保の牛僧孺らが上章し、尊号を加えて仁聖文武至神大孝皇帝と称することを請うた。戊寅、宣政殿に御して冊を受けた。この月九日に雨が降り、十四日に転じて甚だしくなったため、二十三日に改めた。時に賤しき者が中尉仇士良に告げて言う、「宰相が赦書を作り、禁軍の衣糧馬草料を減削せんとす」と。士良怒って曰く、「必ずもし此の事あらば、軍人は須らく楼前に至って作閙すべし」と。宰相李徳裕らこれを知り、延英を開いてその事を訴うることを請うた。帝曰く、「奸人の詞なり」と。両軍中尉を召して諭して曰く、「赦書は朕の意より出ず、宰相によるにあらず、況んや未だ施行せず、公等どうしてこの言を得んや」と。士良惶恐して謝した。この日晴れ渡った。中書が奏上した、「元日に含元殿に御し、百官列に就くとき、ただ宰相及び両省官のみが未だ扇開かざる前に欄檻の内に立ち、及び扇開くや、便ち御前に侍立す。三朝の大慶、万邦賀を称するに、ただ宰相侍臣のみ介冑の武夫と同じく、竟に至尊に拝せずして退く、礼意に酌み、事中を得ず。臣等請う、御殿の日昧爽に、宰相・両省官香案前にて鬥班し、扇開くを俟ち、通事両省官の再拝を賛し、拝訖、殿に升り侍立せしむ」と。これを従った。天徳が奏上した、迴紇の族帳が部内を侵擾すと。勅す、「桑の種植を勧課すること、比に勅命あり、もし数増す能わば、毎年聞かしむ。比に知るに並びに遵行なく、恣に翦伐を加え、鄽市に列ね、薪蒸として売る。今より州県の所由、切に禁断すべし」と。
五月、勅す、慶陽節に百官率醵の外、別に銭三百貫を賜い、素食合宴に備えしめ、仍って京兆府に供帳せしめ、坊市の楽人を追集するを用いず。天徳軍使田牟が奏上した、迴紇の大将嗢没斯が多覧将軍と将吏二千六百人を率いて降伏を請うと、中人を遣わして詔を齎しこれを慰労した。宰相李徳裕兼ねて司徒を守る。太子太師致仕の鄭覃が卒した。
六月甲子朔、火星木星を犯す。丙寅、太白星東井を犯す。迴紇の降将嗢没斯、将吏二千六百余人を率いて京師に至る。制を以て嗢没斯を検校工部尚書とし、帰義軍使を充て、懐化郡王に封じ、仍って姓名を賜いて李思忠と曰う。迴紇の宰相受耶勿を帰義軍副使・検校右散騎常侍とし、姓名を賜いて李弘順と曰う。
七月、嵐州の人田満川、郡に拠りて叛く、劉沔これを誅す。
八月、迴紇の烏介可汗、天徳を過ぎ、杷頭烽の北に至り、雲・朔の北川を俘掠す。詔して劉沔に出師して雁門諸関を守らしむ。迴紇の首領屈武、幽州に降り、左武衛将軍同正を授く。詔して曰く、迴紇辺を犯し、漸く内地に浸し、或いは攻め或いは守り、理において何ぞ安からんや。少師牛僧孺・陳夷行に命じ公卿と集議して可否を以て聞かしむ。僧孺曰く、「今百僚議状を以て、関防を固守し、その撃つ可きを伺い兵を用う」と。宰相李徳裕議す、「迴紇の恃むところは嗢没・赤心のみ、今已に離叛し、その強弱の勢い見るべし。戎人獷悍にして、成敗を顧みず、二将を失い、忿りに乗じて侵入す。師を出して急撃すれば、これを破る必ずなり。険を守り弱を示せば、虜退く由なし。これを撃つの便なり」と。天子以て然りとす。乃ち許・蔡・汴・滑等六鎮の師を徴発し、太原節度使劉沔を以て迴紇南面招討使とす。張仲武を以て幽州盧龍節度使・検校工部尚書とし、蘭陵郡王に封じ、迴紇東面招討使を充てる。李思忠を以て河西党項都将、迴紇西南面招討使とす。皆軍を太原に会す。制を以て皇子峴を益王とし、岐を兗王とし、皇長女を昌楽公主とし、第二女を寿春公主とし、第三女を永寧公主とす。上麟徳殿に御し、室韋の首領督熱論等十五人を見る。太原が奏上した、迴紇帳を移して南に近きこと四十里、叛将嗢没斯を索め、昨横水に至り俘虜し、兼ねて公主上表して食尽きたりと言い、牛羊を賜うることを乞う事。烏介に詔を賜いて曰く、
朕は自ら天下を治め、人民の父母として、ただ生を好むことを徳とし、武を濫用して名を成すことを願わない。故にかの国が不幸にも黠戛斯に破られ、辺境に来投して以来、すでに数年を経た。慰撫受け入れる間、至らざる所はなかった。初めはその飢饉を思い、糧食を給し、次いでその損傷を知り、馬の代価をことごとく返還した。前後使者を遣わして慰問し、往来は道途に交錯した。小さな侵擾も、すべて計較しなかった。今、可汗はなおこの近塞にあり、帰蕃を議していない。朝廷の大臣、四方の節鎮は皆、疑いと憤りを抱き、ことごとく出師を請うている。朕はひたすら包容を務めるが、それも理解されない。先日数度の使者が戻って来て、皆、可汗はただ馬の代価を待っていると言う。それを支払おうとすると、またその駐留地がたびたび移り、あるいは雲州・朔州などを侵掠し、あるいは羌・渾の諸部を劫奪していると聞く。この意図が、結局どうしたいのか分からない。もし未だ馬の代価を交わさず、塞垣に近づく必要があるなら、行止の間にも、まず辺将に告げるべきである。どうして突然来て突然去り、移り住みが定まらないことがあろうか。水草に従って移動するとは言え、動くたびに城柵に接近する。遠くその深意を推し量れば、姻戚の情を恃んでいるようであり、その行跡を見るごとに、実に弛緩と突撃の計略である。況や横水柵の下に至っては、殺戮が極めて多い。蕃・渾の牛羊は、掠奪を惜しまないが、民衆に何の罪があって、皆傷つき殺されようか。それゆえ中朝の大臣は皆言う。『回紇が近塞にいることは、すでに盟約に違背している。さらに辺民を殺戮することは、実に大義に背く。』皆、この機に乗じて討ち逐い、殺害された者の冤罪を雪ごうと願っている。しかし朕の志は懐柔にあり、己を屈する情が深く、たとえ可汗が徳に背くとも、ついに災いに乗じることを忍びない。石戒直は久しく京城に在り、人々の実情の憤りと嘆きを詳しく知り、誠意から発して、固く自ら行くことを請うた。その事態の機微を深く見抜いたことを嘉し、違え阻むことができなかった。可汗はよく自ら考えを遂げ、速やかに良策を選べ。悔い改めないことのないように、後悔を残すことなかれ。
詔して、太原より室韋・沙陀の三部落、吐渾諸部を起こし、石雄をして前鋒とせしむ。易定の兵千人に大同軍を守らせ、契苾通・何清朝に沙陀・吐渾の六千騎を率いさせ天徳に向かわせ、李思忠に回紇・党項の軍を率いさせ保大柵に駐屯せしむ。
十月、吐蕃の贊普卒す。使いの論普熱を遣わし入朝して哀を告げしむ。詔して将作少監李璟をして蕃に入り弔祭せしむ。帝、涇陽に幸し、白鹿原で校獵す。諫議大夫高少逸・鄭朗ら、閣内にて論ず。「陛下の校獵はあまりに頻繁で、出城すること稍々遠く、万機廃弛し、星出でて夜帰る。今まさに用兵の時、且く停止すべし。」上、これを優しく労う。諫官出でし後、宰相に謂いて曰く。「諫官は甚だ重要である。朕は時にその言を聞き、過ちを減ずることを望む。」
会昌三年
三年春正月、野に師を宿すを以て、元会を罷む。勅す。新たに銀州刺史・本州押蕃落・銀川監牧使に授けられた何清朝は、検校太子賓客・左龍武大将軍とし、沙陀・吐渾・党項の衆を分領して振武に赴き、劉沔の処分を受くべし。
二月、先に詔して百官の家が京城に私廟を置くことを得ざるは、その皇城南向の六坊には置くことを得ず、その閑僻の坊曲には即ち旧に従い置くことを許す。太原の劉沔奏す。「先日諸道の師を率いて大同軍に至り、石雄を遣わして回鶻の牙帳を襲わしめしに、雄、殺胡山において回鶻を大いに破り、烏介可汗は傷つきて逃走せり。すでに太和公主を迎えて雲州に至る。」この日、宣政殿に御し、百官賀す。制して曰く。
「天の廃する所は、継絶の恩を施し難く、人の棄つる所は、侮亡の道を用うべし。朕は毎に前訓を思い、格言を忘れんや。回鶻は近ごろ自ら兵強を恃み、久しく桀驁たり、諸部を凌虐し、近隣に怨みを結ぶ。黠戛斯、潜かに師を彗掃の如くし、穹居瓦解し、種族はことごとく原野に膏とし、区落は遂に荊榛に至る。今、可汗は逃走して国を失い、窃かに号して自立し、遠く沙漠を逾え、辺陲に命を寄す。朕はその衰残を思い、尋ねて賑恤を加う。章表を陳ずる毎に、多く詐諛の詞あり。我が使臣に接するに、全盛の日の如し。傷つきし禽の哀鳴の意なく、困獣なお闘うの心あり。去歳は朔川に潜り入り、牛馬を大いに掠め、今春は振武を掩襲し、城池に逼近す。可汗は皆自ら兵を率い、まず寇盗たり。破敗を恥じず、姻親を顧みず。河東節度使劉沔は敵を料り謀を伐ち、機に乗じて制勝す。胡貉の騎を発して前鋒と為し、翎侯の旗を搴げて彼を穴に伐つ。短兵は帳下に鏖し、元悪は彀中に抶せらる。況や六飛に乗らず、衆はわずかに一旅、儲備はすでに竭き、日を計れば擒うべし。太和公主は居処を同じくせず、情義久しく絶つ。故郷を思い多くは思い、しきりに黄鵠の歌を聞き、位を失いて自ら傷み、寧くも『緑衣』の嘆を免れんや。その羈苦を思い、常に朕心を軫る。今やすでに豺狼を脱し、再び宮闕を見る。上は宗廟の宿憤を攄げ、次には太皇太后の深き慈しみを慰め、永く帰寧を言う、まことに欣感を用う。その回紇はすでに破滅し、義は翦除に在り。宜しく諸道の兵馬使に令し同しく進討せしむべし。河東の立功将士以下は、優厚に賞給し、続いて条疏して処分す。応に在京の外宅及び東都に功德を修める回紇は、並びに冠帯を勒し、各諸道に配して収管せしむ。その回紇及び摩尼寺の庄宅・銭物等は、並びに功德使と御史臺及び京兆府に委ね、各官を差し点検収抽せしめ、諸色人の影占を容るることを得ず。もし犯す者は並びに極法に処し、銭物は官に納む。摩尼寺の僧は中書門下に委ね条疏して聞奏せしむ。」
麟州刺史・天德行営副使石雄を銀青光禄大夫・検校左散騎常侍・豊州刺史・御史大夫とし、豊州西城中城都防禦・本管押蕃落等使を充てしむ。劉沔を検校尚書左僕射とし、張仲武を検校尚書右僕射とし、余は並びに故の如し。黠戛斯の使い注吾合素、入朝し、名馬二匹を献じ、言うには可汗はすでに回鶻を破り、太和公主を迎えて国に帰し、人を差し公主を送りて入朝せしめんとす、愁うるに回鶻の残衆が途中でこれを奪わんことを。帝、遂に中使を遣わし注吾合素を送りて太原に往き公主を迎えしむ。時に烏介可汗は中箭し、走って黒車子に投ず。詔して黠戛斯に出兵してこれを攻めしむ。
三月、太和公主、京師に至る。百官、章敬寺に班列して迎謁し、仍って所司に令し憲宗・穆宗の二室に告げしむ。四月、昭義節度使劉従諫卒す。三軍、従諫の甥の稹を以て兵馬留後とし、上表して節鉞の授けを請う。尋いで使いを遣わし詔を潞府に齎し、稹に令して従諫の喪を護りて洛陽に帰らしむ。稹、朝旨を拒む。詔して中書門下両省尚書御史臺四品已上、武官三品已上に、会議して劉稹を誅すべくや宥すべくやの状を以て聞かしむ。
五月、勅す。諸道節度使は随身を置くこと六十人を過ぐべからず、観察使は四十人を過ぐべからず、経略・都護は三十人を過ぐべからず。禁中に望仙観を築く。宰臣百官、議状を進む。「昆戎未だ殄ぜず、塞上用兵す。中原に事を生ずるに宜しからず。潞府には親王を以て遥領せしめ、稹に権知兵馬事を令し、辺上の兵を罷むるを俟つべし。」独り李徳裕以為く、沢潞は内地なり。前時に従諫が襲封を許されたことは、すでに失断なり。その後跋扈して制し難く、朝廷を規脅す。稹は豎子なり、復た前車を践ますべからず、これを討てば必ず殄ぶべしと。武宗の性は雄俊にして、曰く。「吾は徳裕とこれを同じくす。後悔なきを保つ。」ここより諫官の上疏、兵を用うべからざるを言うこと相継ぐ。
六月、西内の神龍寺災う。左軍中尉楚国公仇士良卒す。
秋七月戊子の日、宰相が奏上して言うには、「秋の気配が既に至り、進軍を議するに当たり、幽州は早く回鶻を平定すべく、鎮州・魏博は速やかに劉稹を誅すべし。各々使者を遣わして旨を諭し、兼ねて三鎮の軍情を偵察すべきです。今日延英殿において面して聖旨を奉じ、張賈を使者に充てんと欲されました。臣らは引き続き更に商量いたしましたが、張賈は幹事に才あり、軍中の体勢に甚だ詳しいものの、性質剛直で気性に任せ、和を安んぜず慮られるゆえ、暫く李回を命ずるに如かず。もし台綱に人を欠くとなれば、即ち兵部侍郎鄭涯は久しく征鎮の判官を為し、情実に甚だ精敏であり、弁舌は無くとも、事を言うに分明で、官は重く事は閑にして、最も相応しいようです」と。上は言われた、「李回を行かせるに如かず」と。即ち李回を遣わして三鎮に奉使させた。
八月壬戌の日、火星は七月より蒼赤色を呈し、井宿の中に動揺し、この月十六日に至って輿鬼を犯す。万年県の東市に火災あり。黠戛斯の使者諦徳伊斯難珠が入朝す。右僕射・平章事陳夷行をして検校司空、兼ねて河中尹・御史大夫と為し、河中節度・晋絳慈隰観察等使を充てしむ。
九月、制を下す。
「天下を定むる者は、風俗を大同に致し、生人を安んずる者は、法度を画一に斉しくす。晋の欒氏・趙氏のごときは、家に旧勲あり、漢の韓信・黥布のごときは、身を以て佐命たりといえども、紀律を干乱するに至っては、梟夷せざるはなく、暴を禁じ残を除くは、古今の大義なり。
故昭義節度使劉悟は、頃に海岱に居り、嘗て爪牙に列せり。師道が兵を阻むに属し、王師罪を問うや、三面網を開き、一境心を離る。この危機に乗じ、遂に帰命する能えり。憲宗その誠款を嘉し、南燕を授け、穆宗は腹心を以て待ち、上党に委ぬ。死士を招き、一方を固護す。末年に迨るまで、已に臣節を虧けり。劉従諫は生まれながらに戾気を稟け、幼より乱風を習う。跋扈の資に因り、以て封壌を専にし、紀綱の力を恃み、以て兵符を襲う。暫く執珪の儀を展べ、終に上綬の請い無し。隙駒を以て譬えと為すは、魏豹の姑く河を絶つを務むるがごとく、井蛙自ら居るは、孫述の頗る険を恃むを聞くがごとし。戸命を受け誘い、妄りに妖言を作し、中に朝廷を罔し、潜かに左道を図る。接壤する戎帥に、屡々陰謀を奏す。顧みれば髫齔の矜る所、豈に淵魚の是れ察するに足らんや。沈痼に洎るや、曾て哀鳴せず、猶将に尽きんとする魂を駐め、邪僻の志を恣に行い、奮い抜くこと無く、自ら狡童を樹つ。中使医を授くるも、その朝服を見ること莫く、近臣命を銜むも、壘門に入らず。逆節甚だ明らか、人神共に棄つ。その贈官及び先に授かりし官爵、並びに劉稹の在身の官爵は、宜しく並びに削奪すべし。成徳軍節度使王元逵・魏博節度使何弘敬は、或いは王室に姻連し、或いは藩維に任重く、一至の誠を懇陳し、九伐の命を揚げんことを願う。呉漢の任職は、詔を受けながら初めより辦嚴無く、卜式の朴忠は、未だ戦わずして義形於色なり。況や成徳軍は嘗て梟騎を以て陣を横たえ、首として朱滔を破る。戦気方酣なる時、再び魯陽の日を迴らし、鼓音息まざる時、三たび不注の山を周る。魏博軍は頃に大旆を以て河に渉り、竟に師道を殲滅す。十二郡の旗鼓を建て、以て降人を列し、六十年の厲階を削り、尽く皇化に帰す。士は余勇を伝え、軍は雄名有り、必ずや酇侯の指縦を稟け、葛亮の心伐を成す能わん。咨う爾二帥、朕の注懷する所なり。元逵は本官を以て北面招討沢潞使を充て、弘敬は東面招討沢潞使を充てよ。
曩に列祖藩に在りし時、先天聖を啓く。符瑞昭晰たり、彩繪は泗亭に煥え、鑾輅巡遊し、金石は代邸に刻まる。実に謂う可きは、封ずべきの俗、久しく仁寿の郷と為るを。寇難以来、頗る誠節を著わし、必ずしも同悪に非ず、咸く自新を許すべし。その昭義の旧将士及び百姓等、もし初心を保たば、並びに赦して問わず。もし能く逆を捨て順に効い、州郡の兵衆を以て帰降する者は、必ず厚く封賞を加うべし。もし能く劉稹を擒えて送る者は、別に土地を授け、以て勲庸に報いん。頃に劉悟に随いし鄆州の旧将校の子孫は、既に義心有り、宜しく改悔を思うべし。もし能く劉稹を感諭し、身を束ねて朝に帰すれば、必ずや之を初めの如く待ち、特と洗雪を与えん。爾等旧校も、亦並びに労を酬いん。仍て夷行・劉沔・王茂元に委ね、各々兵を進めて同力攻討せしむ。その諸道の進軍は、並びに廬舎を焚焼し、墳墓を発掘し、百姓を擒執して俘囚と為すことを得ず。桑麻田苗は、各々本戸を主と為すことを許す。罪は元悪に止まり、務めて生霊を拯わん。
於戲、蕃維の大臣は、外に疏を抗し、髦俊の旧老は、朝に言を昌ぶ。朕に戒むるに祖宗の法を以てし、一族を私すべからず、刑賞の柄は、以て万邦を正す所以なりと。宜しく甲兵を用い、原野に陳ぜん。朕は恩を以て聴かざるも、而して群臣は義を以て固く争い、僉謀に詢うに、諒や已むを得ざるに非ず。中外に布告し、明らかに朕が懐を体せよ。」
仍て徐泗節度使李彦佐を沢潞西南面招討使と為す。河陽節度使王茂元は本軍を以て万善に屯す。彦佐は制下の後、月を逾えても未だ師を出さず、朝廷はその持重を疑い、乃ち天徳軍の石雄を彦佐の副と為す。劉稹の牙将李丕降伏し、之を用いて忻州刺史と為す。陳許節度使王宰をして沢潞南面招討使を充てしむ。河陽節度使王茂元卒す。司徒を贈る。王宰、茂元に代わり万善の師を総ぶ。
十月、宰相監修国史李紳・兵部郎中史館修撰判館事鄭亞、重修の『憲宗実録』四十巻を進め、頒賜に差有り。晋絳行営副招討石雄、賊砦五つを収めしを奏す。河東節度使劉沔をして検校司空、兼ねて滑州刺史・御史大夫と為し、義成軍節度・鄭滑濮観察等使を充てしむ。荊南節度使・検校右僕射・同平章事李石をして検校司空・平章事、兼ねて太原尹・北都留守と為し、河東節度・管内観察等使を充てしむことを可とす。
十一月、勅す、「中外の官員、過ぎて繁冗なり、量り宜しく減省し、以て軍民に便ならしむべし。宜しく吏部に令し、条疏して合減の員数を以て聞かしむべし。」十二月、王宰、天井関を収めしを奏す。楡社行営都將王逢、兵少なきを奏し、師の済るを乞う。詔して太原軍二千人をして之に赴かしむ。初め、劉沔回鶻を破り、三千人を留めて横水を戍らしむ。是に至り、李石、太原に兵無きを以て、横水の戍卒一千五百人を抽きて以て王逢に赴かしむ。是の月二十八日、横水軍太原に至り、軍を出して優給を請う。旧例、一軍ごとに絹二疋。時に劉沔交代の後、軍庫に絹無し。石、己が絹を以て之を益す。方にて人ごとに一疋を与え、便ち上路を催す。軍人は歳将に除かんとし、歳を過ぐるを候わんと欲す。期既に速やかなれば、軍情悦ばず。都頭楊弁、士卒の流怨に乗じ、之を激して乱を為さしむ。
会昌四年
四年春正月乙酉朔、沢潞に兵を用うるを以て、元会を罷む。その日、楊弁、太原節度使李石を逐う。勅す、「斎月に屠を断つは、釈氏に出づ。国家創業、猶お梁・隋に近く、卿相大臣、或いは茲の弊に沿う。鼓刀者は既に厚利を獲、糾察者は潜かに請求を受く。正月は万物生植の初めなれば、宜しく三日を断つべし。列聖の忌日は一日を断つ。仍て開元二十二年の勅に准い、三元の日は各三日を断ち、余月は禁ぜず。」壬子、河東監軍使呂義忠、太原を収復し、楊弁を生擒し、その乱卒を尽く斬る。百僚賀す。
二月甲寅朔。丁巳、制を下して河中晋・絳・慈・隰等州節度観察等使・中散大夫・検校左散騎常侍・河中尹・御史大夫・上柱国・博陵県開国男・食邑三百戸崔元式をして検校礼部尚書、兼ねて太原尹・北都留守を以て充て、河東節度観察等使とすべしとす。戊午夜、太白鎮星を犯す。辛酉、太原より楊弁とその同悪五十四人を送り来たりて献じ、狗脊嶺にて斬る。
三月、晋絳副招討石雄を以て沢潞西面招討とし、汾州刺史李丕を以て副とす。道士趙帰真を以て左右街道門教授先生とす。時に帝神仙の学を志し、帰真に師事す。帰真寵に乗じ、毎に対し、釈氏を排毀し、中国の教に非ず、生霊を蠹耗す、尽く宜しく除去すべしと言い、帝頗るこれを信ず。四月、王宰軍を進めて沢州を攻む。
五月、司農卿薛元賞を以て京兆尹とす。
六月、金紫光禄大夫・尚書右僕射・中書侍郎・同平章事・判度支崔珙、澧州刺史に貶せらる。癸丑、勅す:「諫官事を論ずるに、見る所同じからず、状を連ね名を署し、事糾率に同じ。此れより後、凡そ公事を論ずるは、各おの己が見に随い、連署姓名すべからず。もし大政奏論あらば、すなわち連署すべし。」制を下して故左軍中尉仇士良の先に授かりし官及び贈官を追削し、その家財並びに籍没す。士良死後、中人その家に於いて兵仗数千件を得、兼ねて士良の宿罪を発せしが故なり。勅して官を責授せらるる銀青光禄大夫・澧州刺史・上柱国・安平郡開国公・食邑二千戸崔珙を再び恩州司馬員外置に貶す。珙が塩鉄を領する時、宋滑院の塩鉄九十万貫を欠けしを以てなり。帝、度支・塩鉄・転運を合して一使とせしむ。
七月、淮南節度使・検校司空杜悰を以て尚書右僕射を守り、門下侍郎を兼ね、同平章事とし、仍って度支を判じ、塩鉄転運等使を充てしむ。又制を下し、銀青光禄大夫・守尚書右僕射・兼門下侍郎・同平章事・監修国史・上柱国・趙郡開国公・食邑二千戸李紳をして検校司空・平章事・揚州大都督府長史・淮南節度副大使・知節度事とすべしとす。吏部、中外合せて減ずべき官員一千一百十四員を条奏す。王元逵、邢州刺史裴問・別将高元武の城を以て降るを奏す。洺州刺史王釗・磁州刺史安玉、城を以て何弘敬に降る。山東三州平ぐ。潞州大将郭誼・張谷・陳揚廷、人を遣わして王宰の軍に至り、稹を殺して以て自ら贖わんことを請う。王宰以て聞く、乃ち詔して石雄に軍七千を率いて潞州に入らしむ。誼、劉稹の首を斬りて以て雄を迎う。沢・潞等五州平ぐ。
八月戊戌、王宰、稹の首と大将郭誼等一百五十人を伝え、露布を以て京師に献ず。上安福門に御し俘虜を受け、百僚楼前にて賀を称す。魏博節度使・検校尚書右僕射・同平章事何弘敬を以て廬江郡開国公に進封し、食邑二千戸とす。成徳軍節度使王元逵を以て検校司空・兼太子太師・同平章事とし、太原郡開国公に進封し、食邑二千戸とす。宰相李徳裕、太尉を守り、衛国公に進封し、食邑一千戸を加う。兵部侍郎・翰林学士承旨崔鉉を以て中書侍郎・同平章事とす。河東節度使陳夷行卒す。
九月、天徳軍使・晋絳行営招討使石雄を以て検校兵部尚書・河中尹・兼御史大夫・河中晋絳慈隰等州節度使とす。前山南東道節度使盧鈞を以て検校尚書左僕射・潞州大都督府長史とし、昭義軍節度使・沢潞邢洺観察等使を充てしむ。忠武軍節度・陳許蔡等州観察処置等使・河陽行営諸軍招討使・金紫光禄大夫・検校尚書右僕射・兼御史大夫・上柱国・太原郡開国公・食邑二千戸王宰を以て検校司空・太原尹・北都留守とし、河東節度・管内観察処置等使を充てしむ。制に曰く:「逆賊郭誼等は、狐鼠の妖、丘穴に依りて作固し;牛羊の力、水草を得て逾兇なり。久しく叛臣に従い、皆逆気を負う。劉従諫は徳に背き義に反し、賊を掩い奸を蔵し、その怙乱の謀を積むこと、親吏の計に非ざるは無し。劉公直・安全慶等は各おの地険に憑り、屡王師に抗し、毎に悖言を肆にし、革面を懐かざりき。況んや郭誼・王協は邢・洺の帰款を聞き、義旅の覆巢を懼れ、孽童を売りて以て全からんと図り、堅城に拠りて以て命を請う。昔、伍被吏に詣りて、誅に就くを免れず;延岑出降して、終に亦族を夷せらる。之を大辟に致す、愧懐する所無し。」郭誼・劉公直・王協・安全慶・李道徳・李佐堯・劉稹・稹の母阿裴・稹の弟曹九・満郎・君郎・妹四娘・五娘・従兄洪卿・漢卿・周卿・魯卿・匡堯・張谷の男涯・解愁・陳揚廷の弟宣・男醜奴・張溢の男歓郎・三宝・門客甄戈・伎術人郭諗・蔣党・李訓の兄仲京・王涯の侄孫羽・韓約の男茂章・茂宝・王璠の男珪等、並びに独柳に於いて処斬す。勅して河陽三城鎮遏使を以て孟州とし、沢州を割きてこれに隷せしめ、懐・孟・沢と節度を為し、河陽と号す。制を以て皇子愕を開府儀同三司・夏州刺史・朔方軍節度大使とす。時に党項叛く、親王を命じて以てこれを制せしむ。
十月、車駕鄠県に幸す。
十一月、雲陽に幸す。
十二月、勅す:「郊礼日近く、獄囚数多し。案款既に成り、多く翻覆有り。その両京・天下州府に見繋の囚、已に結正し及び両度翻案伏款する者は、並びに先ず事を結断し訖りて申すべし。」時に左僕射王起、頻年にわたり貢挙を知り、毎に貢院試験訖り、上牓の後、更に宰相に呈して取るべきか否かを取る。後人数多くなく、宰相延英にて論言す:「主司芸を試むるは、宰相の与奪を取るに合わず。比来貢挙艱難、人を放つこと絶えて少なく、弘訪の道に非ざるを恐る。」帝曰く:「貢院我が意を会せず。子弟を放たざれば、即ち過ぎたり。子弟・寒門を論ぜず、但だ実芸を取るのみ。」李徳裕対えて曰く:「鄭肅・封敖に好子弟有り、敢えて応挙せず。」帝曰く:「我比に楊虞卿兄弟貴勢に朋比し、平人の道路を妨ぐるを聞く。昨楊知至・鄭朴の徒、並びに落下せしむ、その甚だしきを抑うるのみ。」徳裕曰く:「臣名第無く、進士の非を言うに合わず。然れども臣の祖、天宝末に仕進に他の伎無く、勉強して計に随い、一挙して第に登る。自ら後、私家に『文選』を置かず、蓋しその祖尚浮華、芸実に根ざさざるを悪むなり。然れども朝廷の顕官は、須らく是れ公卿の子弟なるべし。何となれば、自ら小より便ち挙業を習い、自ら朝廷の間事に熟し、台閣の儀範、班行の准則、教えずして自ら成る。寒士縦い出人の才有りとも、第に登りての後、始めて一班一級を得、固より熟習すること能わざるなり。則ち子弟の成名は、軽んずべからざるなり。」
会昌五年
五年春正月己酉朔、勅して望仙台を南郊壇に造らしむ。時に道士趙帰真は特に恩礼を蒙り、諫官上疏して、之を延英殿に論ず。帝、宰臣に謂ひて曰く、「諫官趙帰真を論ず、此の意は卿等に知らしめんと要す。朕宮中に事無く、声技を屏去す、但だ此の人に道話せしむるのみ。」李徳裕対へて曰く、「臣敢へて前代の得失を言はず、只だ帰真が敬宗朝に宮掖に出入したるに縁り、此を以て人情は陛下の復た之に親近せんことを願はざるなり。」帝曰く、「我爾の時に已に此の道人を識る、名を帰真と知らず、只だ趙鍊師と呼ぶ。敬宗の時に於ても亦た甚だ過ち無し。我之と言ひ、煩を滌ぐ爾。軍国の政事に至りては、唯だ卿等と次対官と論ず、何ぞ須ひん道士に問ふを。直ちに一の帰真のみに非ず、百の帰真も亦た相惑はす能はざるなり。」帰真自ら物論に渉るを以てし、遂に羅浮の道士鄧元起に長年の術有るを挙げ、帝中使を遣はして之を迎へしむ。是に由りて衡山の道士劉玄靖及び帰真と膠固し、釈氏を排毀し、而して寺を拆くの請を行はしむ。宰臣李徳裕・杜悰・李譲夷・崔鉉・太常卿孫簡等、文武の百僚を率ひて徽号を上りて曰く仁聖文武章天成功神徳明道皇帝。辛亥、郊廟に事有り、礼畢りて、承天門に御し、大赦天下す。庚申、義安太后崩ず、敬宗の母なり。遺令して皇帝に三日聴政し、十三日小祥、二十五日大祥、二十七日釋服せしむ。兵部尚書帰融奏す、「事は中を得るを貴び、礼は順変に従ふ、配祔の礼は、宜しく等差有るべし。請ふらくは服期を降し、日を以て月に易へ、十二日に釋服せん。内外の臣僚も亦た其の日に釋服するを請ふ。陵園の制度は、請ふらくは降殺無からしめん。」之に従ふ。以前の太原節度使・検校司空李石を以て本官を以て東都留守に充つ。
二月戊寅朔、太白昴の北側を掩ふ。諫議大夫・権知礼部貢挙陳商、士三十七人を選びて中第せしむ、物論以て請托と為す、翰林学士白敏中に令して覆試せしめ、張瀆・李玗・薛忱・張覿・崔凜・王諶・劉伯芻等七人を落とす。
三月、崔鉉政事を知るを罷め、出でて陝虢観察使と為す。御史中丞・兵部侍郎を兼ぬる李回を以て本官同平章事と為す。
夏四月、皇第四女を延慶公主に封じ、第五女を靖楽公主に封ず。勅して祠部に天下の寺及び僧尼の人数を検括せしむ。大凡寺四千六百、蘭若四万、僧尼二十六万五百。宰相杜悰政事を知るを罷む。戸部侍郎・戸部を判する崔元式を以て同平章事と為す。
六月丙子、勅す、「漢・魏已来、朝廷の大政は、必ず公卿に下して詳議せしめ、理道を博く求め、以て群情を尽くす。是を以て政必ず経有り、人皆道に向ふ。此の後礼法に関る事、群情に疑ひ有る者は、本司に令して尚書都省に申し、礼官を下して参議せしめよ。是の如く刑獄も亦た先づ法官に令して詳議せしめ、然る後に刑部に申して参覆せしめよ。郎官・御史に駁難する能く有る者、或は経史の故事に拠り、議論精当なるは、即ち擢授遷改して以て之を奨めよ。言浮華に渉り、都て経拠無きは、申聞に在らざるべし。」神策奏す、望仙楼及び廊舎五百三十九間を修する功畢れりと。
秋七月庚子、勅して天下の仏寺を併省す。中書門下条疏を聞奏す、「令式に据るに、諸上州国忌日に官吏寺に行香す、其上州は望むらくは各々寺一ヶ所を留め、列聖の尊容有れば、便ち令して寺内に移すべし;其の下州の寺は並びに廃すべし。其の上都・東都両街は請ふらくは十寺を留め、寺僧十人。」勅す、「上州合留の寺は、工作精妙なる者を之を留めよ;破落せる如きは、亦た宜しく廃毀すべし。其の行香すべき日に、官吏は宜しく道観に於てすべし。其の上都・下都は毎街寺二ヶ所を留め、寺は僧三十人を留むべし。上都左街は慈恩・薦福を留め、右街は西明・莊厳を留む。」中書又た奏す、「天下の廃寺の銅像・鐘磬は塩鉄使に委ねて銭を鋳せしめ、其の鉄像は本州に委ねて農器と為して鋳せしめ、金・銀・鍮石等の像は銷して度支に付せしめよ。衣冠士庶の家の所有する金・銀・銅・鉄の像は、勅出でたる後一月を限りて官に納めしめよ、違はば、塩鉄使に委ねて禁銅法に依り処分せしめよ。其の土・木・石等の像は合して寺内に留めて旧に依らしむべし。」又た奏す、「僧尼は祠部に隷するに合はず、請ふらくは鴻臚寺に隷せしめよ。其の大秦穆護等の祠は、釈教既に已に釐革せり、邪法は独り存すべからず。其の人並びに勒して還俗せしめ、本貫に遞帰せしめ、税戸に充てよ。外国人の如きは、本処に送還して収管せしめよ。」
八月、制す。
「朕聞く、三代已前は、未だ嘗て仏を言はず、漢魏の後は、像教寖に興る。是れ季時に由り、此の異俗を伝へ、因縁染習し、蔓衍滋多す。以て国風を蠧耗し而して漸く覚えず、人意を誘惑し而して衆益々迷ふに至る。九州の山原に洎ぎ、両京の城闕に、僧徒日く広く、仏寺日く崇し。人力を土木の功に労し、人利を金宝の飾に奪ひ、君親を師資の際に遺し、配偶を戒律の間に違ふ。法を壊し人を害するは、此の道を踰ゆる無し。且つ一夫田せずば、其の飢を受くる者有り;一婦蠶せずば、其の寒を受くる者有り。今天下の僧尼、数ふるに勝へず、皆農に待ちて食ひ、蠶に待ちて衣ふ。寺宇招提、紀極を知ること莫く、皆雲構藻飾し、宮居に僭擬す。晋・宋・齊・梁、物力凋瘵し、風俗澆詐なるは、是に由りて致さざる莫し。況んや我が高祖・太宗、武を以て禍乱を定め、文を以て華夏を理む、此の二柄を執る、以て邦を経るに足る、豈に区区たる西方の教を以て、我と抗衡せしむべけんや!貞観・開元も亦た嘗て釈革す、剗除尽くさず、流衍転た滋し。朕博く前言を覧、旁く輿議を求め、弊の革すべきは、断じて疑ひ在らず。而して中外の誠臣、予が至意に協ひ、条疏至当なるは、宜しく必行に在るべし。千古の蠧源を懲らし、百王の典法を成し、人を済ひ衆を利するは、予何ぞ譲らん。其の天下に拆く所の寺四千六百餘所、還俗する僧尼二十六万五百人、収めて両税戸に充て、招提・蘭若四萬餘所を拆き、膏腴の上田数千万頃を収め、奴婢を収めて両税戸十五万人と為す。僧尼を主客に隷属せしめ、外国の教を顕明す。大秦・穆護・祆三千餘人を勒して還俗せしめ、中華の風に雑せざらしむ。於戲!前古未だ行はざる、将に待つ有るに似たり;今に及びて尽く去る、豈に時無しと謂はんや。游惰不業の徒を駆りて、已に十萬を踰え;丹雘無用の室を廃して、何啻億千ならん。此より清浄を以て人を訓へ、無為の理を慕はしめ;簡易を以て政を斉へ、一俗の功を成さしめん。将に六合の黔黎をして、同じく皇化に帰せしめんとす。尚ほ弊を革するの始め、日用知らず、明廷に制を下し、宜しく予が意を体すべし。」
制して第六女を楽温公主に封じ、第七女を長寧公主に封ず。中書奏す、「伏して見るに公主上表に『妾某』と称す、伏して臣妾の義を以てすれは、其の賤称を取る;家人の礼は、即ち宜しく区別すべし。臣等商量す、公主上表は、請ふらくは長公主の例の如く、並びに『某邑公主幾女上表』と云はしめ、郡・県主も亦た望むらくは此の例に依りて称謂せしめん。」之に従ふ。
九月、火星上将を犯す。
十月乙亥、中書が奏上して言う、「汜水県武牢関は太宗が王世充・竇建徳を擒えた地であり、関城の東峰に二聖の塑像があり、一堂の内にある。伏して考えるに山河は旧の如く、城塁は猶存し、威霊は皆軒台に盛んで、風雲は豊沛に還るを疑う。誠に百代厳奉し、万邦式瞻すべきである。西漢の故事に、祖宗嘗て行幸した処は、皆邦国に命じて廟を立てしむ。今、定覚寺の例に縁り毀拆に合う。望むらくは寺中の大殿の材木を取り、東峰に於いて一殿を造り、四面に宮牆を置き、伏して望む、名づけて昭武廟と為し、以て聖祖の武功の盛を昭す。委ねて懐孟節度使に判官一人を差して勾当せしむ。聖像は年代已久しきに縁り、望むらくは李石に令して東都に好画手を揀び、就きて厳飾を増さしむ。初めて功を興す日に、望むらくは東都に令して分司官一員を差し薦告せしむ」と。之に従う。
十一月甲辰、勅す、「悲田養病坊は、僧尼の還俗に縁り、人無くして主持し、恐らくは残疾取給する無からん。両京は量りて寺田を給し賑済す。諸州府は七頃より十頃に至り、各本管に於いて耆寿一人を選び勾当し、以て粥料に充つ」と。
十二月、車駕咸陽に幸す。給事中韋弘質上疏し、中書の権重きを論じ、三司の銭穀は相府の兼領に合わずとす。宰相奏論して曰く、
「臣等昨延英に対し、恭しく聖旨を聞く、常に朝廷の尊く、臣下の肅なるを欲すと。此れは陛下の理本を深く究め給う所なり。臣《管子》に按ずるに云う、『凡そ国の重器は、令より重きは莫し。令重ければ則ち君尊く、君尊ければ則ち国安し。故に国安は君を尊ぶに在り、君を尊ぶは令を行うに在り。君人の理、本は令を出すより要なるは莫し。故に曰く、令を虧く者は死し、令を益す者は死し、令を行わざる者は死し、令に従わざる者は死す』と。又曰く、『令は上に行わるれども、下に論じて可不可とす、是れ上其の威を失い、下人のみに繋がるなり』と。大和已来より、其の風大いに弊れ、令は上に出づれども、之を下に非ず。此の弊を除かざれば、以て国を理むる無し。昨韋弘質の論ずる所、宰相の銭穀を兼領するに合わず。臣等輒ち事体を以て陳聞す。昔匡衡の云う所以は、『大臣は国家の股肱、万姓の瞻仰する所、明王の慎んで択ぶ所』なり。《伝》に曰く、『下其の上を軽んじ、賤人柄を図れば、則ち国家揺動し、而して人静かならず』と。弘質人の教導を受け、輒ち封章を献ず、是れ則ち賤人の柄を図るなり。蕭望之は漢朝の名儒重徳、御史大夫と為り、奏して云う、『今首歳日月光少なし、罪臣等に在り』と。上は望之の意丞相を軽んずるを以て、乃ち侍中御史を下して詰問す。貞観中、監察御史陳師合上書して云う、『人の思慮は有限なり、一人は数職を兼総すべからず』と。太宗曰く、『此人妄りに譭謗有り、我が君臣を離間せんと欲す』と。師合を嶺外に流す。賈誼云う、『人主堂の如く、群臣陛の如し、陛高ければ則ち堂高し』と。亦た将相重ければ則ち君尊きに由る、其の勢然りなり。如し宰相奸謀を隠匿せば、則ち人人皆上論するを得べし。制置職業に至りては、固より人主の柄、小人の干議するを得る所に非ず。古者朝廷の上、各其の官を守り、思ひ位に出でず。弘質賤人、豈に宜しからざるを以て言うべき所を非とし、明主に上瀆すべけんや、此れは宰相を軽んじ時政を撓ますなり。昔東漢処士横議し、遂に党錮の事起こる、此の事深く懲絶すべきなり。伏して望む、陛下其の奸詐を詳らかにし、其の朋徒を去らしめ給わんことを、則ち朝廷安静し、制令肅然たらん。臣等感憤の至りに勝えず」と。弘質坐して官を貶せらる。
又奏して曰く、「天宝已前、中書は機密遷授を除くの外、其他の政事は皆中書舎人と同商量す。艱難已来より、務め権便に従い、政頗る台閣を去り、事多く軍期に繋がり、万機を決遣し、博議に暇あらず。臣等商量す、今後機密公事を除くの外、諸候の表疏・百僚の奏事・銭穀刑獄等の事、望むらくは中書舎人六人に令し、故事に依り先ず可否を参詳し、臣等議して奏聞せしむ」と。之に従う。李徳裕相位に在ること日久しく、朝臣其の抑えらるる者は皆之を怨む。崔鉉・杜悰相を罷めて後、中貴人上に前に言う、徳裕太だ専なりと、上の意悦ばず、而して白敏中の徒、弘質を教えて之を論ぜしむ、故に此の奏有り。而して徳裕の結怨の深き、此の言に由るなり。
会昌六年
六年春正月癸卯朔。丁巳、左散騎常侍致仕馮定卒す、工部尚書を贈る。己未、南詔・契丹・室韋・渤海・牂柯・昆明等国使を遣わし朝に入り、麟徳殿に於いて対す。兵部侍郎・判度支盧商奏す、「諸道の兵党項を討伐す、今度支郎官一人を差し所在糧料有る州郡に往き、先ず度支を計りて給せしむ」と。之に従う。己丑、渤海王子大之萼朝に入る。東都太微宮修成り玄元皇帝・玄宗・肅宗の三聖の容、右散騎常侍裴章を遣わし東都に往き薦献せしむ。監察元寿奏す、前彭州刺史李鈇本州の龍興寺の婢を買いて乳母と為す、法に違う、と。随州長史に貶す。
二月壬申朔。癸酉、時雨の候に愆あるを以て、詔す。「京城天下の繋囚、官典の贓を犯し、仗を把り劫殺し、忤逆十悪を除く外、余の罪は一等を遞減し、軽罪を犯す者は並びに釈放せよ。党項を征する行営の兵士は、濫りに殺傷有ることなかれ」と。丁丑、左拾遺王龜、父の興元節度使起の年高きを以て、休官して侍養を乞う。之に従う。是の夜、月畢の大星を犯し、相去ること三寸。庚辰、夏州節度使米暨を以て東北道招討党項使に充つ。壬午、右庶子呂讓状を進む。「亡兄溫の女、大和七年に左衛兵曹蕭敏に嫁し、二男を生む。開成三年、敏心疾に乖忤し、因りて離婚す。今敏日を愈ゆ。卻って臣の姪女と配合を乞う」と。之に従う。乙酉、前太子少保劉沔は太子太保致仕とす可し。前壽州刺史王鎮は潞州長史に貶す。丁亥の夜、月色光少く、一更一点に至り、熒惑を犯し、相去ること四寸。後良久にして、其の光地を燭し、軫七度に在り。壬辰、翰林學士・起居郎孫穀を以て兵部員外郎と為し職に充つ。旱を以て、上巳の曲江賜宴を停む。敕す。「比來錢重く幣軽きに縁り、生人転た困す。今新たに鼓鑄を加うれば、必ず流行に在り。通變して時を救うは、此に切なるは莫し。宜しく先甲の令を申し、以て貨を居するの徒を儆むべし。京城諸道は、宜しく来年正月已後の起り、公私行用し、並びに新錢を取るべし。其の舊錢は権て三數年を停む。違犯有るは、鉛錫錢を用うるの例に同じく科断す。其の舊錢は並びに沒納す」と。又敕す。「諸道の鑄錢は、已に次第有り。須らく舊錢を流布せしめ、絹價値稍く増すべし。文武百僚の俸料は、三月一日より起り、並びに見錢の一半を給す。先ず疋段を給し、估に對する時價は、皆見錢を給す」と。舒州刺史蘇滌を貶して連州刺史と為す。滌は李宗閔の黨、前に自ら給事中より德裕に斥けられ、累年郡守たり。是に至り李紳其の政無きを言う故なり。邠甯節度使高承恭を以て西南面招討党項使に充つ。丙申の夜、月牛の南星を掩い、又歳星を犯す。丁酉、新羅使金國連朝に入る。辛丑の夜、東北の流星桃の如く、色赤く、其の光地を燭し、尾跡大角に入り、西に流れて紫微垣を穿つ。
三月壬寅、上豫せず。制して御名を炎と改む。帝方士を重んじ、頗る服食修攝し、親しく法籙を受く。是に至り藥躁しく、喜怒常を失い、疾既に篤く、旬日言う能わず。宰相李德裕等見えんことを請うも、許さず。中外安否を知る莫く、人情危懼す。是の月二十三日、遺詔を宣し、皇太叔光王を以て柩前に即けしむ。是の日崩ず。時に年三十三。諡して至道昭肅孝皇帝と曰い、廟號武宗とす。其の年八月、端陵に葬る。德妃王氏祔す。
【論】
史臣曰わく、開成中、王室寖く卑く、政は閽寺に由る。綴衣将に変ぜんとし、儲位遽かに移る。昭肅孤立して維城とし、茲の当璧に副う。而して能く雄謀勇断し、已に去れる威権を振い、策を運し精を勵まし、非常の俊傑を抜く。天驕の国を失い、潞孽兵を阻ぐに属し、盈庭の言に惑わず、独り大臣の計を納る。戎車既に駕し、乱略底いて寧く、紀律再び張り、声名復た振う。以て章武の出師の跡を蹈み、元和の戡乱の功を継ぐに足る。然る後に道を訪うの車を迂え、神を礼するの館を築き、心を玄牝に棲まわせ、幽人を物色し、将に俗を大庭に致さんと欲し、姑射に蹤を希わんと欲す。是に於て浮圖の法を削り、游隋の民を懲らし、志丹梯に歩を矯めて、赤水に珠を求めんと欲す。徒に蕭衍・姚興の謬学を見て、秦王・漢武の非求を悟らず。蓋し左道の言に惑い、異方の説を偏に斥く。況や身毒西来の教は、向に千祀を欲し、蚩蚩の民は習いて以て俗を成し、其の教を畏ること国法に甚だしく、其の徒を楽むこと登仙に異ならず。文身祝髮の郷の如く、久しく習いて其の醜を知る莫く、吐火吞刀の戯を以て、乍ち観て便に神と為す。安んぞ正すに《咸》《韶》を以てし、律するに章甫を以てせん。之に加うるに笮融・何充の佞、代に人を乏ます莫く、荀卿・孟子の賢に非ざれば、誰か正論を興さん。一朝に金狄を隳殘し、胡書を燔棄し、怨を膜拜の流に結び、怒を鄙夫の口に犯す。哲王の挙は、物情を駭かさず。前代は存して論ぜず、実に中道と為す。斯の弊を革めんと欲すれば、以て河清を俟つ。昭肅明らかに照らし、斯の弊を聴く。
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