旧唐書 本紀第十七下 文宗 下

旧唐書

本紀第十七下 文宗 下

大和四年

大和四年春正月丙子朔。辛卯、武昌軍節度使牛僧孺来朝す。丙戌、左神策軍大將軍丘直方を以て鄜坊節度使と為す。戊子、詔して長男永を封じて魯王と為す。辛卯、武昌節度使・鄂岳蘄黄安申等観察処置等使・金紫光禄大夫・検校吏部尚書・同中書門下平章事・上柱国・奇章郡開国公牛僧孺を以て兵部尚書・同中書門下平章事と為す。壬辰、兵部侍郎崔郾を以て陝虢観察使と為す。魯王の母王氏を封じて昭儀と為す。癸巳、前邠寧節度使劉遵古を以て剣南東川節度使と為す。甲午、守左僕射・同平章事・諸道塩鉄転運使王播卒す。丙申、太常卿五涯を以て吏部尚書と為し、諸道塩鉄転運使を充てる。辛丑、尚書左丞元稹を以て検校戸部尚書と為し、武昌軍節度・鄂岳蘄黄安申等州観察使を充てる。癸卯、前陝虢観察使王起を以て左丞と為す。

二月丙午朔。戊午、興元軍乱れ、節度使李絳挙家害せられ、判官薛齊・趙存約之に死す。庚申、左丞温造を以て興元節度使と為す。辛未、夏州節度使李寰卒す。壬申、神策行営節度使董重質を以て夏・綏・銀・宥節度使と為す。

三月乙亥、河東節度使李程を以て検校左僕射・同平章事と為し、河中尹・晉絳慈隰等州節度使を兼ね、刑部尚書柳公綽を以て検校左僕射・太原尹・北都留守・河東節度使と為す。丁丑、前河中節度使薛平を以て太子太保と為す。丁亥、衛尉卿桂仲武を以て福建観察使と為す。興元の温造奏す、「李絳を害せし賊の首丘崟・丘鑄及び官健千人を並びに処斬し訖へり。其れ絳を親しく刃する者は百段に斬り、号令する者は三段に斬り、余は並びに首を斬る。内一百首を以て李絳を祭り、三十首を以て王事に死せる官僚を祭り、其の余の屍首は並びに漢江に投ず」と。己丑、詔して興元監軍使楊叔元は宜しく康州百姓に配流し、錮身して配所に遞すべしと。丁酉、監修国史・中書侍郎・平章事路随、撰する所の『憲宗実録』四十巻を進む。優詔を以て之に答え、史官等五人に錦繍銀器を賜ふこと差有り。癸卯、淮南節度使段文昌を以て検校尚書左僕射・同中書門下平章事と為し、江陵尹を兼ね、荊南節度使を充て、前太子賓客崔従を以て検校右僕射・揚州大都督府長史・淮南節度使と為す。甲辰、前荊南節度使崔群を以て検校右僕射・太常卿を兼ねる。中書舎人李虞仲を以て華州刺史と為し、厳休復に代へ、休復を以て右散騎常侍と為す。

夏四月乙巳朔。丙午、右散騎常侍・翰林侍講学士鄭覃を以て工部尚書と為す。丁未、兵部尚書致仕張賈卒す。丁巳、前斉徳滄景等州節度使李有裕を貶して永州刺史と為し、駅伝を馳せて任に赴かしむ。庚申、尚書左丞王起を以て戸部尚書・判度支と為し、崔元略に代へ、元略を以て検校吏部尚書と為し、東都留守と為す。辛酉、月南斗第二星を掩ふ。壬戌、詔して曰く、「倹を以て用を足し、令を出だして惟れ行はれ、前経に著はる。斯れ理の本と為す。朕四海に臨みてより、元元の久しく困れるを湣み、日昃に食を忘れ、宵に興きて疚懷す。文繡の飾りを絶つと雖も、尚ほ茅茨の倹に愧づ。亦卿士に諭し、詔条に形はす。聞くに積習流弊、余風未だ革まずと。車服第室、相ひ高くすること華靡の制を以てし、資用貨宝、固より貪冒の源に啓く。有司禁ぜず、侈俗滋く扇がる。蓋し朕が教導の未だ敷かざるに因り、兆庶をして恥尚に昧からしむるなり。其れ何を以てか用を足し令を行ひ、致理に臻らんや。永く念ひ慚歎し、茲に申敕す。今より内外班列職位の士は、各務めて素樸にし、此の国風を弘めよ。僭差尤も甚だしき有る者は、御史糾上せよ。主者は中外に宣示し、朕が意を知らしめよ」と。文宗、長慶・宝暦の奢靡の風を承け、鋭意懲革にし、躬を以て倹素を行ひ、以て率厲す。辛未、前東都留守崔弘礼を以て刑部尚書と為す。鎮州の王廷湊、初陵・啓運の二陵を修建せんことを請ふ。之に従ふ。

五月甲戌朔。丁丑、旱に因りて命じて京城諸司に繫囚を疏理せしむ。己卯、通化南北の二門の鎖開く可からず、鑰入るるも、之を持つ者有るが如し。上鉄工をして鎖を破らしむ。時に日已に辰に及べり。丁亥、鄆州東平県を改めて天平県と為す。戊子、度支に勅して毎歳西川に於て綾羅錦八千一百六十七匹を織造せしむるを、数内に二千五百十匹を減ぜしむ。

六月癸卯朔。丁未、守司徒・門下侍郎・平章事・上柱国・晉国公・食邑三千戸・食実封三百戸裴度を以て守司徒・平章軍国重事と為す。疾の損ずる日を待ち、毎三日・五日に一度中書に入る。辛未夜、一更より五更に至るまで、大小の星流れ旁午し、観る者数ふる能はず。壬申、詔す、諸司の刑獄例多く停滞するを聞くに、尚書左右丞及び監察御史を委して糾挙して以て聞かしむ。

秋七月癸酉朔。癸未、詔して朝議郎・尚書右丞・上柱国・賜紫金魚袋宋申錫を以て正議大夫・行尚書右丞・同中書門下平章事と為す。乙酉、勅す、「前行郎中知制誥の者は、満一周年を約し、即ち正授に与ふ。諫議大夫より知る者は、亦此に准ふべし。余は長慶二年七月二十七日の勅に依りて処分すべし」と。振武に雲伽関を置き、鎮兵千人を加ふ。吏部侍郎王璠を以て京兆尹・兼御史大夫と為し、李諒に代へて桂管観察使と為す。太原饑ふ、粟三万石を賑す。十六宅の諸王に綾絹二万匹を賜ふ。丁酉、守司徒裴度上表して冊命を辞し、言す、「臣此の官已に三度冊を受け、面目有ること靦し」と。之に従ふ。

八月壬寅朔。丙辰、鄜州水有り、居民三百余家を溺す。太原の柳公綽奏す、雲・代・蔚の三州山谷の間、石化して麵と為り、人取りて之を食すと。己未、宣歙観察使于敖卒す。甲子、内より綾絹三十万匹を出だし、戸部に付して和糴に充つ。戊辰、梨園亭に幸し、会昌殿にて新楽を奏す。

九月壬申朔。丁丑、大理卿裴誼を檢校右散騎常侍と為し、江西觀察使を充て、沈傳師に代わる。傳師を宣歙觀察使と為す。内より綾三千匹を出し、宥州の築城兵士に賜う。戊寅、舒州太湖・宿松・望江の三縣水害あり、民戸六百八十を溺死せしむ。詔して義倉を以て賑貸せしむ。庚辰、吏部尚書王涯を右僕射と為し、前の如く鹽鐵轉運使に依る。壬午、守司徒・平章軍國重事・晉國公裴度を守司徒・兼侍中と為し、山南東道節度使を充てる。投來の奚王茹羯を右驍衛將軍同正と為す。丙戌、前山南東道節度使竇易直を尚書左僕射と為す。戊子、吏部尚書致仕裴向卒す。己丑、淮南天長等七縣水害あり、稼を害す。丁酉、前豐州刺史・天德軍使渾鐵、贓七千貫に坐し、哀州司馬に貶せらる。

冬十月壬寅朔。戊申、東都留守崔元略を檢校吏部尚書と為し、滑州刺史・義成軍節度使を兼ね、李德裕に代わる。德裕を檢校兵部尚書と為し、成都尹を兼ねる。劍南西川節度使・檢校司空郭釗を太常卿と為し、崔群に代わり吏部尚書と為す。丁卯、御史中丞宇文鼎奏す、「今月十三日、宰臣宣旨す、今後群臣延英にて奏事するに、前一日状を進めて来る者と。臣以爲へらく、尋常の公事は、面論する暇なく、表章を見るのみにて以て陳露するに足る。儻し臨時に忽ち公務有り、文字以て盡く言ふに足らざれば、則ち咫尺の天聽、聞達する路無し。更に後坐を俟つは、動もすれば數辰を踰え、處置の間に、便ち及ばざる有らん。伏して重ねて宣示を賜ひ、状を入るるを限るに、並びに卯前を以てす。卯後に在るが如きは、收覽せざるを聽く。自然と人各遵守し、禮も亦得中せん」と。之に從ふ。

十一月辛未朔。是の夜、熒惑左執法に近づく。癸巳、左丞康承宣を兗・海・沂・密等州節度使と為す。淮南大水及び蟲霜有り、並びに稼を傷つく。

十二月辛丑朔、滄州殷侑、景州を廢して景平縣と為すことを請ふ。己酉、義成軍節度使崔元略卒す。壬子、左金吾衛大將軍段嶷を義成軍節度使と為す。癸丑、湖南觀察使韋辭卒す。丙辰、工部侍郎崔琯を京兆尹と為し、王璠に代わり尚書左丞と為す。癸亥、東都留守崔弘禮卒す。同州刺史高重を潭州刺史・兼御史中丞と為し、湖南觀察使を充てる。甲子、左僕射致仕楊於陵卒す。司空を贈る。丙寅、前河南尹馮宿を工部侍郎と為す。戊辰、太子賓客分司白居易を河南尹と為し、韋弘景に代わる。弘景を守刑部尚書・東都留守と為す。閏十二月辛未朔。壬申、太常卿郭釗卒す。司徒を贈る。壬辰、齊州歸化縣を廢し、其の地を臨邑縣に入る。是の州を廢し、其の縣は滄州刺史に隷す。是歲、京畿・河南・江南・荊襄・鄂嶽・湖南等の道大水有り、稼を害し、官米を出して賑給す。

大和五年

五年春正月庚子朔、積陰旬を浹するを以て、元會を罷む。丁巳、滄德節度使に義昌軍の號を賜ふ。太原旱す、粟十萬石を賑ふ。己未、詔す、方鎮節度觀察使入觀を請ふ者は、先づ表を上げて奏聞し、允さるるを俟ちて則ち進程を任すと。庚申、幽州軍亂れ、其の帥李載義を逐ひ、後院副兵馬使楊志誠を立てて留後と為す。癸亥詔す、端午節の辰、方鎮例として進奉有り、其の雜彩匹段は、生白綾絹を進むるを許すと。己丑、權知渤海國國務大彝震を檢校秘書監・忽汗州都督・渤海國王と為す。

二月庚午朔。壬辰、盧龍軍節度使・守太保・同平章事李載義を守太保・同中書門下平章事と為す。時に載義地を失ひ入朝す。永寧裏に第を賜ひ、給賜優厚なり。丙申、桂管觀察使李諒を嶺南節度使と為す。戊戌、神策中尉王守澄、軍虞候豆盧著の状を得たりと奏す、宰相宋申錫の漳王と謀反を謀るを告ぐと。即ち追捕を令す。庚子、詔して宋申錫を貶して太子右庶子と為す。壬寅、左常侍崔玄亮及び諫官等十四人、玉階に伏して奏す、「北軍の告ぐる所の事は、内中に於て鞫問せず、法司に付することを請ふ」と。帝曰く、「吾已に公卿と謀る。卿等暫く退け」と。崔玄亮泣涕して陳諫すること久し。帝容を改め勞ひて曰く、「朕即ち宰臣と商議せん」と。玄亮等方に退く。癸卯、詔す、漳王湊は降して巢縣公と為すべし、右庶子宋申錫は開州司馬同正と。初め、京師忷忷たり、宰相實に親王と連りて逆を謀るとす。三四日の後、方に誣構なるを知る。人士守澄・鄭注を側目す。故に諫官號泣して之を論ず。申錫方に其の禍を免る。己酉、敕して李載義の入朝を以て、曲江亭に宴を賜ひ、仍ち宰臣百僚を命じて會に赴かしむ。辛酉、黔中觀察使裴弘泰を桂管經略使と為し、前安州刺史陳正儀を黔中觀察使と為す。丁卯、紫宸にて奏事す。宰相路隨、龍墀に至りて地に僕る。中人をして之を掖かしむ。翌日、上疏して退くを陳ふ。識者之を嘉す。

夏四月己巳、甲戌、新羅王嗣子金景徽を開府儀同三司・檢校太保・使持節雞林州諸軍事・雞林州大都督・甯海軍使・上柱國と為し、新羅王に封じ、仍ち其の母樸氏を新羅國太妃に封ず。丁亥、詔す、「史官の事を記すは、時に戒むるを用ふ。先朝の舊制、並びに仗に隨ふを得たり。其の後宰臣時政記を撰す。因循すること斯く久しく、廢墜實に多し。自今以後、宰臣の奏事、獻替に關り及び臨時の處分稍く政刑に涉る者は、中書門下丞一人に委ねて隨時撰錄せしめ、每季史館に送らしむ。庶く朕が闕を警め、且つ復た官常をせん」と。己丑、李載義を山南西道節度と為し、前の如く守太保・同平章事に依り、溫造に代わる。造を兵部侍郎と為す。幽州盧龍節度留後楊志誠を檢校工部尚書と為し、幽州盧龍節度使と為す。

五月戊戌朔(一日)、太廟第四室・第六室が破損漏雨し、有司が時を移さず修繕せず、各々俸禄を罰せられる。上は中使に命じて工匠を率い、禁中の営造材を用いてこれを修繕させた。右補闕韋温が上疏して論じて曰く、「宗廟を修繕せぬは、有司の弛緩怠慢に罪あり、重く責むべきなり。今、有司はただ俸禄を罰するに止まり、便ち内臣に委ねて修繕せしむるは、是れ百司の官に公然と職を廃するを許すなり。宗廟の重きを以て、陛下の私と為せば、則ち群官有司は便ち同しく委棄せらるるに同じ。此れ臣が窃かに聖朝の為に惜しむ所なり。事は宗廟に関わり、皆史冊に書す。苟くも旧典に非ざれば、率然たるべからず。伏して更に詔書を下し、復た所司に委ねて営繕せしめ、則ち制度乱れず、官業各々修まることを乞う。」疏が奏上され、帝は之を嘉し、乃ち中使を追い止め、有司に修繕奉仕せしめた。戊午、西川の李德裕が奏す:南蛮が先に擄掠した百姓・工匠・僧道およそ四千人を放還し本道に還す。辛酉、東都留守・刑部尚書韋弘景卒す。丙寅、京兆尹崔琯を以て尚書左丞と為す。太常少卿龐厳に京兆尹を権知せしむ。

六月丁卯朔(一日)。戊寅、霖雨十日に及び、詔して諸司の繫囚を疏理す。辛卯、蘇州・杭州・湖南、水害して稼を損なう。甲午、東川が奏す:玄武江水二丈漲り、梓州羅城の人廬舎を漂う。

秋七月丁酉朔(一日)。庚子、太子賓客李渤に礼部尚書を贈る。辛丑、兵部侍郎温造を以て検校戸部尚書と為し、東都留守と為す。甲辰、太子少師分司・上柱国・襲徐国公蕭俛を以て左僕射を守りて致仕せしむ。剣南東・西両川水害し、使者を遣わして宣撫賑給す。己未、給事中羅譲を以て福建観察使と為す。

八月丙寅朔(一日)。庚午、武昌軍節度使・検校戸部尚書元稹卒す。辛未、刑部員外郎舒元輿を貶して著作郎と為す。元輿累ねて表を上りて自ら効力を請い、併せて文章を進む。朝議其の躁進を責むるなり。壬申、河陽三城懐州節度使楊元卿を以て宣武軍節度使と為し、李逢吉に代わる。逢吉を以て検校司徒・兼太子太師と為し、東都留守を充て、温造に代わる。温造を以て河陽三城懐州節度使と為す。戊寅、陝虢観察使崔郾を以て鄂岳安黄観察使と為す。甲申、中書舎人崔咸を以て陝州防禦使と為す。詔して陝州旧に都防禦観察使の額有るも宜しく停め、兵馬は本州防禦使に属すべしと。丙戌、京兆尹龐厳卒す。庚寅、司農卿・駙馬都尉杜悰を以て京兆尹と為す。

九月丙申朔(一日)。甲辰、太子左庶子郭求を貶して婺王府司馬と為す。其の心疾有り、同僚と忿競したるを以てなり。翰林学士薛廷老・李譲夷皆職を罷め本官を守る。廷老翰林に在りて、終日酣酔して儀検無し、故に罷む。譲夷常に廷老を推薦せし故、坐に累ねるなり。己未、左僕射竇易直に太常卿を判せしむ。西川の李徳裕、吐蕃の陷れたる維州を収復し、兵を差して鎮守すと奏す。

冬十月乙丑朔(一日)、前綿州刺史鄭綽を以て安南都護と為す。戊寅、蛮が巂州を寇し、二県を陷す。辛巳、滄州、清池県を南羅城内に移して置く。

十一月乙未朔(一日)。庚戌、鳳翔節度使王承元来朝す。己未、承元を以て検校司空・青州刺史と為し、平盧軍節度使を充てる。癸亥、尚書左僕射・太常卿事を判ずる竇易直を以て検校司空と為し、鳳翔隴右節度使と為す。

十二月乙丑朔(一日)。戊寅、左丞王璠に兼ねて太常卿事を判せしむ。甲申、新たに除せられたる桂管観察使裴弘泰を貶して饒州刺史と為す。鎮に除せられて程に淹留し進まず、憲司に糾されたる故なり。癸巳、鄭州刺史李翺を以て桂管観察使と為す。是歳、淮南・浙江東西道・荊襄・鄂岳・剣南東川並びに水害し、稼を損ない、秋租の蠲免を請う。京師大雨雪。

大和六年

六年春正月乙未朔(一日)、久雪の為に元会を廃す。戊戌、振武の李泳、黒山外の契苾部落四百七十三帳を招收し得たり。壬子、詔して曰く、「朕聞く、『天聴は我が人の聴くに自り、天視は我が人の視るに自る』と。朕の菲徳、道に渉りて未だ明らかならず、四時を調序し、和気を導迎する能わず。去冬以来、月を逾えて雨雪、寒風尤甚しく、頗る和を傷つく。茲の庶氓を念うに、或いは凍餒に罹り、仮貸する所無く、自ら存する能わず。中宵に載懐し、旰食して歎き、怵惕として厲の若く、是れ予が辜なり。惠沢を弘めて、以て時令に順わんことを思う。天下の死罪囚、官典犯贓・故意殺人を除く外、並びに流に降し、流已下は一等を遞降すべし。京畿諸県に応じ、宜しく常平義倉の斗斛を以て賑恤せしむべし。京城内の鰥寡癃殘、告ぐる無くして自ら存する能わざる者は、京兆尹に委ねて事を量りて済恤せしめ、数を具えて聞かしむべし。赤子を言念し、之を視ること傷むが如し。天或いは予に警め、此の陰沴を示す。躬を扶けて夕に惕み、予甚だ悼む。」群臣表を拝して徽号を上る。甲寅、司徒致仕薛平卒す。

二月甲子朔(一日)、前義昌軍節度使殷侑を以て検校吏部尚書と為し、天平軍節度・鄆曹濮等州観察使を充て、令狐楚に代わる。楚を以て検校右僕射・兼太原尹・北都留守・河東節度使と為す。戊寅、蘇・湖二州水害し、米二十二万石を賑う。本州の常平義倉斛斗を以て給す。庚辰、戸部尚書・度支を判ずる王起、邠寧・霊武に営田務を置くことを請い、之に従う。己丑、寒食節、上麟徳殿にて群臣を宴す。是日、雑戯人孔子を弄ぶ。帝曰く、「孔子は古今の師なり、安んぞ侮瀆すべけんや。」亟に命じて駆り出ださしむ。

三月甲午朔(一日)。辛丑、武寧軍節度使・守太傅・同平章事王智興を以て侍中を兼ね、忠武軍節度・陳許蔡観察等使を充てる。邠寧節度使李聴を以て武寧軍節度・徐泗濠観察等使と為す。金吾衛大将軍孟友亮を以て邠寧節度使と為す。前河東節度使柳公綽を以て兵部尚書と為す。辛酉、前忠武軍節度使高瑀を以て検校右僕射と為し、武寧軍節度・徐泗濠観察等使を充てる。

夏四月癸亥朔(一日)。乙丑、兵部尚書柳公綽卒す。戊寅、新たに除せられたる武寧軍節度使李聴を以て太子太保と為す。

五月癸巳朔。甲辰、西川は邛崍関の城を修築し、また雋州を台登城に移す。壬子、浙西の丁公著が杭州八県の災疫を奏上し、米七万石を賑給す。丁巳、塩州刺史の王晏平を以て検校左散騎常侍・御史大夫と為し、霊塩節度使を充てる。己未、興平県の人上官興は酔って人を殺し逃亡す。官はその父を捕えて囚う。興は帰り、有司に待罪す。京兆尹杜忭・中丞宇文鼎は興が自首して父の囚を免れたるを以て、その孝を奨むべく、死を免ずるを請う。詔して両省に参議せしむ。皆言う、人を殺す者は死す、古今共に守る所なり、興は免ずべからずと。上ついに忭等の議に従い死を免じ、杖八十を決し、霊州に配流す。庚申、詔す、「諸道に水旱人を害し、疾疫相継ぐを聞く。宵旰己を罪し、興寝疚懐す。今長吏の奏申するに、劄瘥なお甚だし。蓋し教化未だ蒸人に感ぜず、精誠未だ天地に格せず、法令或いは爽い、官吏非を為す。一つの茲に在るも、皆和気を傷つく。並びに中外の臣僚に委ね、一一具に所見聞を奏せよ。朕親ら覧むべし、直言を憚ることなかれ。その災疫に遭えるの家、一門尽く歿する者は、官にて兇器を給す。その余はその人口の疫に遭える多少に据え、税銭を減ずべし。疫疾未だ定まらざる処は、官にて医薬を給す。諸道既に賑賜有り、国費また充たざるを慮る。その供禦の須う所及び諸公用は、量り宜しく節減し、以て凶荒を救え」と。

六月壬戌朔。丙寅、京兆尹杜忭、御史大夫を兼ぬ。戊寅、右僕射王涯、勅を奉じ、令式に准いて士庶の衣服・車馬・第舎の制度を条疏す。勅下後のち、浮議沸騰す。杜忭は勅内の条件の施行し易きものはその限を寛くし、事ついに行われず、公議これを惜しむ。

秋七月辛卯朔。甲午、諫議大夫王彦威・戸部郎中楊漢公・祠部員外郎蘇滌・右補闕裴休を以て並びに史館修撰を充てる。故事に、史官は三員を過ぎず、或いは止めて両員なり。今四人並びに命ず。論者これを非とす。戊申、原王逵薨ず。癸丑、前霊武節度使李文悦を以て兗海沂密節度使と為す。己未、河中節度使李程を以て左僕射と為す。戸部尚書・判度支王起を以て検校吏部尚書と為し、河中晉慈隰節度使を充てる。御史中丞・兼刑部侍郎宇文鼎を以て戸部侍郎・判度支と為す。

八月辛酉朔、吏部尚書崔群卒す。駕部郎中・知制誥李漢を以て御史中丞と為す。乙丑、尚書右丞・判太常卿王璠を以て検校礼部尚書・潤州刺史・浙西観察使と為す。庚午、山南東道節度使裴度来朝す。壬申、前浙西観察使丁公著を以て太常卿と為す。甲戌、御史中丞李漢、僕射上事の儀を論奏し、四品已下の官の拝を受くるに合わずとす。時に左僕射李程、将に省に赴き上せんとする故なり。詔して曰く、「僕射上儀、近く定むる所の拝礼に縁るは、皆令文に約し、既に施行せり。更改に合わず。宜しく大和四年十一月十六日の勅の処分に准うべし」と。

九月庚寅朔、淄青初めて両税の額を定む。五州一十九万三千九百八十九貫。ここより淄青始めて上供有り。庚子、太傅趙宗儒を以て司空を守りて致仕せしむ。辛丑、涿州に新城県を置く。古の督亢の地なり。丁未、太常卿丁公著卒す。庚戌、司空致仕趙宗儒卒す。壬子、右金吾衛将軍史孝章を以て鄜坊丹延節度使と為す。

冬十月庚子朔。甲子、詔して魯王永宜しく冊して皇太子と為すべしと。壬午、左金吾衛将軍李昌言を以て検校左散騎常侍と為し、夏綏銀宥節度使を充てる。甲申、諫議大夫王彦威を以て河中少尹と為す。その上官興の獄を論ずる太だ徼訐なるを以ての故なり。

十一月己丑朔。丁未、淮南節度使・検校右僕射崔従卒す。乙卯、荊南節度使段文昌を以て剣南西川節度使と為す。前に依りて検校左僕射・同平章事。

十二月己未朔。乙丑、中書侍郎・同平章事牛僧孺を以て検校右僕射・同平章事・揚州大都督府長史と為し、淮南節度使を充てる。戊辰、内養王宗禹渤海使より回り、渤海に左右神策軍事・左右三軍一百二十司を置くを言い、図を画きて以て進む。尚書右丞崔琯を以て江陵尹・荊南都団練観察使と為す。珍王諴薨ず。乙亥、昭義節度使劉従諫来朝す。丁未、前西川節度使李徳裕を以て兵部尚書と為す。責授循州司馬杜元穎卒す。湖州刺史を贈る。

大和七年

七年春正月乙丑朔、含元殿に御し朝賀を受く。比年兵を用い、雨雪あるを以て、元会の儀を行わず。故に書す。呉蜀新茶を貢す。皆冬中に法を為してこれを作る。上恭倹を務め、その物性を逆らわんと欲せず。詔して供する新茶は、宜しく立春後に造るべしと。甲午、劉従諫に同平章事を加う。襄州の裴度、臨漢監牧を停めんことを奏請す。これに従う。この監は元和十四年に置く。馬三千二百匹。百姓の田四百余頃を廃す。これを停むる便なり。乙亥、太府卿崔珙を以て広州刺史・嶺南節度使と為す。壬子、詔す、「朕上天の眷佑を承け、列聖の丕図を荷い、宵旰憂労し、敢えて暇逸せず、康乂を致さんと思い、八年茲に至る。而るに水旱流行し、疫疾沴を作し、兆庶食に艱しみ、劄瘥相仍ぐ。蓋し徳未だ天を動かさず、誠未だ物に感ぜず、一類失所す。その過予に在り。罪己の心を載懐し、納隍の歎を深く軫む。関輔・河東に去年亢旱し、秋稼登らず、今春作の時、農務また切なり。若し賑救せざれば、流亡に至らんことを懼る。京兆府に粟十万石を賑し、河南府・河中府・絳州には各七万石を賜い、同・華・陝・虢・晉等州には各十万石を賜う。並びに常平義倉の物を以て充てよ」と。新たに除する嶺南節度使崔珙を以て検校工部尚書と為し、武寧軍節度使を充てる。右金吾衛将軍王茂元を以て嶺南節度使と為す。丙辰、前武寧軍節度使高瑀を以て刑部尚書と為す。嶺南五管及び黔中等道の選補使は、宜しく一二年を権停すべし。

三月戊子朔。庚寅、前戸部侍郎楊嗣復を尚書左丞となす。壬辰、左散騎常侍張仲方を太子賓客分司となす。仲方郎中たりし時、常に故相李吉甫の諡を駁し、徳裕政を秉るに及び、仲方告を請い、因りて之を授く。己亥、嶺南節度使李諒卒す。辛丑、和王綺薨ず。復た埇橋に宿州を置き、徐州符離県蘄県・泗州虹県を割きて之に隷せしめ、東都塩鉄院官呉季真を以て宿州刺史となす。癸卯、京兆尹・駙馬都尉杜忭を以て検校礼部尚書と為し、鳳翔隴右節度を充つ。己酉、安南奏す:蛮寇当管金龍州を寇し、当管生獠国・赤珠落国同じく兵を出して蛮を撃ち、之を敗る。庚戌、給事中楊虞卿を出して常州刺史と為し、中書舎人張元夫を汝州刺史と為す。太府卿韋長を以て京兆尹となす。丙辰、散騎常侍厳休復を以て河南尹となす。丁巳、給事中蕭浣を以て鄭州刺史となす。

夏四月戊午朔。辛酉、九姓回紇可汗卒す。癸亥、前鳳翔節度使・検校司空竇易直卒す。癸酉、同州刺史呉士智を以て江西観察使となす。吏部侍郎高釴を以て同州刺史となす。庚辰、工部侍郎李固言を以て右丞となし、中書舎人楊汝士を工部侍郎となす。壬子、河南尹白居易を以て太子賓客と為し、分司東都す。甲申、江西観察使裴誼を以て歙池観察使と為し、沈伝師に代わる。伝師を以て吏部侍郎となす。右金吾衛将軍唐弘実を以て回紇に使い、九姓回紇愛登裏羅汨没施合句録毗伽彰信可汗を冊す。

五月丁亥朔。丁酉、李聴を以て鳳翔隴右節度使となし、前に依り検校司徒・兼太子太保とす。癸卯、興元李載義朝に来る。癸丑、前邛州刺史劉旻を以て安南都護となす。

六月丁巳朔。乙巳、山南西道節度使李載義を以て太原尹・北都留守・河東節度使となし、前に守る太保・同平章事に依る。壬申、御史中丞李漢を以て礼部侍郎となし、工部尚書・翰林侍講学士鄭覃を以て御史大夫となす。甲戌、刑部尚書高瑀を以て太子少保分司となす。乙亥、中書侍郎・平章事李宗閔を以て検校礼部尚書・同平章事と為し、兼ねて興元尹・山南西道節度使とす。丁丑、左金吾衛将軍李従易を以て桂管観察使となす。己卯、右神策大将軍李用を以て邠寧節度使となす。河陽防口堰を修し、役工四万、済源・河内・温県・武徳・武陟五県の田五千余頃を溉ぐ。癸未、涇原節度使張惟清卒す。乙酉、前河東節度使令狐楚を以て検校右僕射と為し、吏部尚書を兼ぬ。

秋七月丙戌朔。丁亥、右龍武統軍康志睦を以て四鎮北庭行軍・涇原節度使となす。壬寅、金紫光禄大夫・守尚書右僕射・諸道塩鉄転運使・上柱国・代郡公・食邑二千戸王涯を以て同中書門下平章事と為すことを可とし、使を領すること前に如し。甲辰、右丞李固言等状を奏し、僕射省中に上事するは、四品已下の拝を受くるに合わずと論ず。勅旨、宜しく大和四年十一月十六日の勅の処分に准うべし。乙巳、虢州刺史崔玄亮卒す。左丞楊嗣復を以て検校礼部尚書と為し、剣南東川節度使を充つ。戸部侍郎庾敬休を以て左丞となす。己酉、旱に因り、命じて京城諸司に繫囚を疏決せしむ。壬子、勅す、応に外官に任じ一品正京官を帯ぶる者は、縦え政事を知らずと雖も、其の俸料宜しく兼ねて給すべし。癸丑、左僕射李程を以て検校司空と為し、汴州刺史・宣武軍節度使を兼ぬ。甲寅、旱に因り市を徙す。左降官開州司馬宋申錫卒す。詔して葬に帰るを許す。閏七月乙卯朔、詔して曰く、「朕丕図を嗣守し、生類を覆嫗し、競業寅畏して、上天休を承く。而るに陰陽和を失い、膏澤候に愆り、我が稼穡を害し、黔黎に災う。過有ること予に在り、敢えて咎責を忘れんや。今より正殿を避け、供膳を減じ、教坊の楽を停め、廄馬は芻粟を量り減じ、百司の厨饌も亦宜しく権に減ずべし。陰陽鬱堙し、和気を傷う有り、宜しく宮女千人を出すべし。五坊の鷹犬は量り須らく減放すべし。内外の修造事急務に非ざる者は、並びに停む。」時に久しく雨無く、上心憂労す。詔下ること数日、雨沢沾洽し、人心大いに悦ぶ。乙丑、前宣武軍節度楊元卿を以て太子太保となす。戊戌、給事中崔戎を以て華州刺史となす。癸未、太子賓客李紳を以て検校左散騎常侍兼越州刺史と為し、浙東観察使を充て、陸亙に代わる。亙を以て宣歙観察使となす。

八月甲申朔、宣政殿に御し、皇太子永を冊す。是の日詔を降す、「応に死に犯する者は流に従い、流已下は一等を遞減す。諸王は自今後相次いで出閣し、緊望已上の州刺史佐を授く。其の十六宅の諸県主は、吏部に委せ選人中に簡択して配匹し、具に名を以て聞かしむ。皇太子方に師傅に従い《六経》を伝授し、一二年の後、当に令して国庠に歯胄し、以て墜典を興すべし。宜しく国子に令して名儒を選び、五経博士各一人を置くべし。其の公卿士族の子弟は、明年已後、先に国学に入り業を習わざる者は、応明経進士の限に在らず。其の進士挙は宜しく先ず帖経を試み、並びに略かに大義を問い、経義精通する者を取りて及第を放つ。卿大夫は、下人の視る所、遠方の仿う所、若し恭儉克己せず、廉直人に任ぜずして、其の服従を望むは、固より得べからず。況んや朕珠玉を宝とせず、纖華を禦せず、六宮に逮るまで、皆儉薄を務む。卿大夫朕が此の志に葉わずして、率先して兆人に得んや。比年頒布する所の制度は、皆国家の令式に約し、其の甚だしき者を去り、稍謂う得中と。而るに士大夫苟も身を便にし、習俗に安んじ、因循未だ革まず、以て今に至る。百官士族は、今年十月より起り、其の衣服輿馬は、並びに宜しく大和六年十月七日の勅に准うべし。如し固く違う有らば、重く黜責を加う。文武常参官及び諸州府長官の子父を後とする者は、勲両転を賜う。」癸巳、太子太保楊元卿卒す。戊申、京兆尹韋長を以て御史大夫を兼ね、刑部尚書高瑀を以て忠武軍節度使となす。

九月甲寅朔。丙寅、侍御史李款閣内に奏して前邠州行軍司馬鄭注を弾し、曰く、「注内に敕使に通じ、外に朝官を連ね、両地往来し、財貨を卜射し、昼伏夜動し、化権を幹竊す。人言を敢えてせず、道路目を以てす。請う法司に付して情款を推劾せしめん。」旬日の内に、諫章数十上る。是れに由りて注を通王府司馬・兼侍御史と授け、神策軍判官を充てしむ。中外駭歎す。甲寅、前忠武軍節度使王智興を以て前に守る太傅・兼侍中・河中尹・河中晉絳慈𫠃節度使に依らしめ、王起に代わる。起を以て兵部尚書となす。

冬十月癸未朔、揚州江都等七縣に水害あり、禾稼を害す。壬辰、上降誕の日、僧徒・道士麟徳殿に於いて講論す。翌日、延英殿に御し、上宰臣に謂ひて曰く、「降誕日に斎を設くるは、近代より起る。朕相承ひて久しきを縁とし、便ち革むべからず、斎会を置くといへども、唯だ王源中等に対し暫く殿に入るのみ、僧道の講論に至りては、皆監聴せず」と。宰相路随等奏す、「誕日の斎会は、誠に景福を資す、本より中国の教法に非ず。臣伏して見るに、開元十七年張説・乾源曜、誕日を以て千秋節と為し、内外宴楽して以て昌期を慶す、頗る礼を得たり」と。上深く然りとす、宰臣因りて十月十日を慶成節と為さんことを請ふ(上誕日なり)。之に従ふ。辛酉、潤・常・蘇・湖の四州に水害あり、禾稼を害す。

十一月癸丑朔。乙亥、涇源節度使康志睦卒す。己卯、左神策長武城使硃叔夜を以て涇州刺史と為し、涇原節度使を充つ。壬午、銀州に於いて監牧を置く。

十二月癸未朔。己亥、刑部、大理丞謝登の新編『格後敕』六十巻を詳定し、刪落詳定して五十巻と為すことを令す。庚子、望春宮に幸す、聖体康ならず。癸卯、平盧軍節度・検校司空王承元卒す。丁未、河南尹厳休復を検校礼部尚書と為し、平盧軍節度・淄青登萊棣観察等使を充つ。戊甲、給事中王質を以て権知河南尹と為す。河東節度副使李石を給事中と為す。

大和八年

八年春正月癸丑朔。丁巳、聖体平癒し、太和殿に御して内臣に見ゆ。甲子、紫宸殿に御して群臣に見ゆ。丙寅、太廟を修す。太常卿庾承宣に太尉を摂せしめ、遍く九室に告げ、神主を便殿に遷す。癸酉、揚・楚・舒・廬・寿・滁・和の七州、去年水害あり、田四万余頃を損ず。

二月壬午朔、日蝕あり。庚寅、詔して聖躬平癒を以て、囚を赦し、逋賦を放ち、流人を移す。己亥、蔚州飛狐鎮に鑄銭院を置く。

三月壬子朔。甲寅、上巳、群臣に曲江亭に於いて宴を賜ふ。庚午、山南東道節度使裴度を以て東都留守を充し、前に依り司徒を守り・侍中を兼ぬ。東都留守李逢吉を検校司徒・右僕射を兼ぬ。癸酉、兗海節度使李文悦卒す。丙子、右丞李固言を華州刺史と為し、崔戎に代ふ。戎を兗海観察使と為す。四月壬午朔。壬辰、集賢学士裴濆『通選』三十巻を撰す、昭明太子の『文選』に擬す。濆の取る所偏僻にして、時の論新たに称せず。甲午、縮州刺史呉李真を邕管経略使と為す。乙已、乾林学士・兵部侍郎王源中内職を辞す、乃ち源中を礼部尚書と為す。

五月辛亥朔。己巳、太廟を修奉すること畢り、吏部尚書令狐楚に太尉を摂せしめ、遍く神主に告げ、正殿に復す。飛龍神駒中廄火災あり。

六月庚辰朔。辛巳、市を徙す。壬午、大理卿劉遵古卒す。壬辰、陳許節度使高瑀卒す。甲午、旱を以て、詔して諸司に囚を疏決せしむ。丙申、前鳳翔節度使・駙馬都尉杜忭を起復して検校戸部尚書と為し、忠武軍節度使を充つ。戊戌、襯臣王涯・路随、旧制に依り時令を読むことを奏請す。庚子、充海観察使崔戎卒す。辛丑、同州刺史高釴卒す。戊申、将作監・駙馬都尉崔杞を充海沂密観察使と為す。

秋七月庚戌朔。丙辰、工部侍郎楊汝士を同州刺史と為す。戊午、奉先・美原・櫟陽等に雨あり、夏麥を損ず。辛酉、定陵台大雨、東廊郎の下を震ひて地裂ること一百三十尺、詔して宗正卿李仍叔に啓告修塞せしむ。癸亥、郯王経薨ず。己巳夜、月昴を犯す。壬申、右金吾衛大将軍段百倫を検校工部尚書と為し、福建観察使を充つ。堂帖を以て中外臣僚に、各善く『周易』を学ぶ者を挙げしむ。

八月己卯朔、右龍武統軍董重質卒す。庚寅、太白熒惑を犯す。辛卯、詔して故澧王大男漢を東陽郡王に封ずべく、第二男源を安陸郡王に封ずべく、第三男演を臨安郡王に封ずべし。故深王大男潭を河内郡王に封ずべく、第二男淑を呉興郡王に封ずべし。故絳王大男洙を新安郡王に封ずべく、第二男滂を高平郡王に封ずべし。故洋王大男沛を潁川郡王に封ずべし。淄王大男浣を許昌郡王に封ずべし。沔王大男瀛を封晉陵郡王に封ずべし。鄜王大男溥を平陽郡王に封ずべし。仍く並びに光禄大夫を賜ふ。丙申、諸色の選挙を罷む、歳旱の故なり。己亥、『周易』の義五道を御写して群臣に示し、此の義を明らかにする者有らば、三日の内に聞奏せしむ。時に李仲言『易』の道を以て上を惑はし、及び其の義を下す、人皆窃に笑ひ、卒に言を進むる者無し。

九月乙酉朔。辛亥の夜、彗星が太微垣に起こり、郎位に近く、西を指し、長さ丈余、西北に行き、凡そ九夜、郎位を越えて西北五尺にて滅ぶ。癸丑、月南斗に入る。乙亥、宣州観察使陸亙卒す。己未、宰臣李徳裕『禦臣要略』及び『柳氏旧聞』三巻を進む。随州刺史杜師仁は前に吉州を刺し、贓に坐し絹三万匹を計り、家にて賜死す。故江西観察使裴誼は廉察に乖き、贈工部尚書を削る。庚申、右軍中尉王守澄鄭注を宣召し、浴堂門にて対し、仍て錦彩銀器を賜う。是の夜、彗星東方に出で、長さ三尺、輝耀甚だ偉なり。辛酉、権知河南尹王質を以て宣歙観察使と為す。吏部尚書致仕張正甫卒す。癸亥、尚書吏部侍郎鄭浣を以て河南尹と為す。甲子、鄭注『薬方』一巻を進む。庚午、安王溶・潁王瀍皆検校兵部尚書。宰相路随冊拝して太子太師と為す。辛巳、幽州節度使楊志誠・監軍李懐仵悉く三軍に逐はれ、其の部将史元忠を立てて留後と為す。陝州・江西旱し、稼無し。己丑、秘書監崔威卒す。庚寅、山南西道節度使・検校礼部尚書・同平章事・上柱国・襄武県開国侯・食邑一千戸李宗閔を以て中書侍郎・同中書門下平章事と為すべし。辛卯、中使田全操を以て皇太子太師見の礼儀使に充つ。壬辰、国子四門助教李仲言を召して思政殿にて対し、緋を賜う。河南府・鄧州・同州・揚州並びに旱蟲秋稼を傷損すと奏す。甲午、銀青光禄大夫・守中書侍郎・平章事李徳裕を以て検校兵部尚書・同平章事・興元尹、山南西道節度使を充つ。助教李仲言を以て国子『周易』博士、翰林侍講学士を充つ。皇太子太師路随に明門にて見ゆ。丙申、諫官上疏して李仲言の奨任に合はずを論ず。上中使をして諫官に宣諭せしめて曰く、「朕仲言を禁中に留め、経義を顧問す。勅命已に行はる。遽に改むべからず。」淮南・両浙・黔中水災を為し、民戸流亡し、京師物価暴貴す。庚子、詔して鄭注をして太和殿にて対せしむ。御史大夫鄭覃を以て戸部尚書と為す。壬寅、翰林院にて李仲言を宴し、『法曲』弟子二十人に楽を奏せしめて以て之を寵す。丙午、新たに除する興元節度使李徳裕を以て兵部尚書と為す。

十一月丁未朔。庚戌、尚書左僕射致仕蕭俛を以て太子太傅と為す。辛亥、左金吾衛大将軍蕭洪を以て河陽三城節度使と為す。襄州水し、田を損ず。壬子、滁州清流等三県四月より六月に至るまで雨し、諸山洪水を発し、戸一万三千八百を漂溺すと奏す。癸丑、礼部尚書王源中を以て検校戸部尚書、山南西道節度使を充つ。戸部侍郎李漢を以て華州刺史・鎮国軍潼関防禦使と為す。成徳軍節度使王廷湊卒す。前河陽節度使温造を以て御史大夫と為す。己卯、幽州節度使楊志誠逐はれて朝に入り、御史台に下して訊鞫す。志誠幽州に在りて、被服皆龍鳳を為す。乃ち之を嶺外に流し、商州に至りて之を殺す。乙亥、兵部尚書李徳裕を以て検校右僕射、鎮海軍節度・浙江西道観察等使を充つ。丙子、李仲言名を改めて訓と為すを奏請し、之に従ふ。十二月丁丑朔。己卯、昭義節度副使・検校庫部員外郎・賜紫金魚袋鄭注を以て太僕卿と為す。辛巳、棣州刺史韓威を以て安南都護と為す。癸未、通王を以て幽州盧龍節度使と為し、権勾当幽州兵馬史元忠を以て留後と為す。甲申、太子太傅蕭瑀の致仕を許す。是の夜、月昴を掩ふ。己丑、太子賓客分司張仲方を以て左散騎常侍と為し、常州刺史楊虞卿を以て工部侍郎と為す。己亥、尚書左僕射李逢吉を以て司徒を守りて致仕せしむ。宗正卿李仍叔を以て湖南観察使と為し、李翱に代ふ。翱を以て刑部侍郎と為し、裴濆に代ふ。濆を以て華州鎮国軍潼関防禦使と為す。昭成寺火す。

大和九年

九年春正月丁未朔。乙卯、鎮州左司馬王元逵を以て起復定遠将軍・守左金吾衛大将軍・検校工部尚書、成徳軍節度使・鎮冀深趙観察等使を充つ。太常卿庾成宣を以て検校吏部尚書、天平軍節度使を充ち、殷侑に代ふ。侑を以て刑部尚書と為す。癸亥、巣県公湊薨じ、斉王を追封す。壬申、司徒致仕李逢吉卒す。癸酉、右散騎常侍舒元輿を以て陝州防禦観察使と為す。前棣州刺史田早を以て安南都護と為す。

二月丙子朔。甲申、司農卿王彦威を以て御史大夫を兼ね、平盧軍節度使を充つ。丁亥、神策軍一千五百人を発して曲江を修淘す。諸司に力有りて、曲江に亭館を置かんと要する者は、宜しく閑地を与ふべし。辛丑、冀王絿薨ず。癸卯、京師地震す。甲辰、幽州留後史元忠を以て盧龍節度使と為す。乙巳、剣南西川節度使・検校左僕射・同平章事段文昌卒す。庚申、剣南東川節度使楊嗣復を以て検校戸部尚書、成都尹・西川節度使を兼ぬ。乙丑、歳饑を以て、河北尤だ甚だしきにより、魏博六州に粟五万石を賜ひ、陳許・鄆・曹濮三鎮各糙米二万石を賜ふ。庚午、左丞庾敬休卒す。朝を廃すること一日。詔して曰く、「官丞・郎に至るは、朕の親く委ぬる所なり。不幸に雲亡する者は、宜しく之が為に朝を廃すべし。今より丞・郎は宜しく諸司三品官の例に准じ、朝を罷むること一日。」

夏四月丙子朔。丙戌、桂管観察使李従易を以て広州刺史・嶺南節度使と為す。鎮海軍節度使・浙西観察等使李徳裕を以て太子賓客、分司東都と為す。辛卯、京兆尹賈餗を以て浙西観察使と為す。工部侍郎楊虞卿を以て京兆尹と為し、仍て金紫を賜ふ。給事中韓佽を以て桂管観察使と為す。丙申、太子太師・門下侍郎・平章事路随を以て鎮海軍節度・浙西観察等使と為す。戊戌、詔して新たに浙西観察使賈餗を以て中書侍郎・同中書門下平章事と為す。庚子、詔して銀青光禄大夫・守太子賓客分司東都・上柱国・賛皇県開国伯・食邑七百戸李徳裕を袁州長史に貶す。辛丑、大風、含元殿四鴟吻並びに皆落つ。金吾仗舎を壊す。楼観城四十余所を廃す。壬寅、吏部侍郎沈伝師卒す。

五月乙巳朔。丁未、浙東観察使李紳を以て太子賓客と為し、東都に分司す。乙卯、給事中高銖を以て浙東観察使と為す。戊午、御史大夫温造を以て礼部尚書と為し、吏部侍郎李固言を以て御史大夫と為す。辛酉、太和公主馬射の女子七人・沙陀の小児二人を進む。戊辰、金吾大将軍李玼を以て黔中観察使と為し、尚書右丞王璠を以て戸部尚書・判度支と為す。己巳、戸部尚書鄭覃を以て秘書監と為す。辛未、宰相王涯司空を冊拝す。癸酉、河中節度使王智興を以て宣武軍節度使と為し、前に依りて太傅を守り、侍中を兼ぬ。

六月乙亥朔、西市火災す。前宣武軍節度使李程を以て河中節度使と為す。庚寅の夜、月歳星を掩ふ。癸巳、吏部尚書令狐楚を以て太常卿と為す。丁酉、礼部尚書温造卒す。京兆尹楊虞卿の家人妖言を出だし、御史台に下す。虞卿の弟司封郎中漢公並びに男知進等八人登聞鼓を撾ちて冤を称す、勅して虞卿をして私第に帰らしむ。己亥、右神策大将軍劉沔を以て涇原節度使と為す。壬辰、詔して銀青光禄大夫・守中書侍郎・同平章事・襄武県開国侯・食邑一千戸李宗閔を以て明州刺史に貶すとす、時に楊虞卿妖言の坐に坐して人をして第に帰らしむ、人皆冤誣を以て為す、宗閔上に於いて極言論列す、上怒り、面して宗閔の罪を数へ、之を叱して出だす、故に坐して貶す。

秋七月甲申朔、京兆尹楊虞卿を虔州司馬同正に貶す。丙午、給事中李石を以て権知京兆尹と為す。戊申、龍首池を填めて鞠場と為し、曲江に紫雲楼を修す。辛亥、詔して御史大夫李固言を以て門下侍郎・同平章事と為す。壬子、李宗閔を再び処州長史に貶す。癸丑、右司郎中・兼侍御史・知雑事舒元輿を以て御史中丞と為す。吏部侍郎李漢を汾州刺史に貶し、刑部侍郎蕭浣を遂州刺史に貶す。丁巳、詔して人を度して僧尼と為すことを得ざらしむ。戊午、工部侍郎・充皇太子侍読崔侑を洋州刺史に貶し、吏部郎中張諷を夔州刺史に貶し、考功郎中・皇太子侍読蘇滌を忠州刺史に貶し、戸部郎中楊敬之を連州刺史に貶す。辛酉、鄂岳観察使崔郾を以て浙西観察使に充て、国子祭酒高重を以て鄂嶽観察使と為す。壬戌、鎮海軍節度使路随卒す。癸亥、侍御史李甘を封州司馬に貶し、殿中侍御史蘇特を潘州司戸に貶す。甲子、『周易』博士李訓を以て兵部郎中・知制誥と為し、前に依りて翰林侍講学士を充す。丁卯、天平軍節度使庾承宣卒す。大理卿羅讓を以て散騎常侍と為し、汝州刺史郭行余を以て大理卿と為す。戊辰、刑部尚書殷侑を以て天平軍節度使と為し、吉州刺史裴泰を以て邕管経略使と為す。

八月甲戌朔、戸部侍郎李翱を以て検校礼部尚書と為し、山南東道節度使に充て、王起に代ふ。起を以て兵部尚書と為し、戸部事を判ず。丙子、又処州長史李宗閔を潮州司戸に貶す。丁丑、太僕卿鄭注を以て工部尚書と為し、翰林侍講学士を充す。上左軍龍首殿に幸し、因りて梨園に幸し、含元殿にて大いに楽を合す。戊寅、秘書監鄭覃を以て刑部尚書と為す。翰林学士・守尚書戸部侍郎・知制誥李玨を江州刺史に貶し、鄜坊節度使史孝章を以て義成軍節度使と為す。甲申、左神策軍大将軍趙儋を以て鄜坊節度使と為す。甲午、中書舍人権璩を鄭州刺史に貶す。丙申、内官楊承和を驩州に於いて安置し、韋元素を象州に安置し、王踐言を思州に安置し、仰せて身を錮して遞送せしむ。李宗閔吏部侍郎たりし時、駙馬沈{{PUA|〓}}に托して宮人宋若憲の処に宰相を求めしめ、承和・踐言・元素中に在りて導達せし故なりと云ふ。宗閔の党楊虞卿・李漢・蕭浣皆再び貶さる。壬寅、中書舍人高元裕を閬州刺史に貶す。元裕鄭注の官を除く制を為し、注の医薬の功を説き、注之を銜む故なり。蘇州刺史盧周仁を以て湖南観察使と為す。

九月癸卯朔、奸臣李訓・鄭注事を用ひ、己に附せざる者は、即時に貶黜し、朝廷悚震し、人自ら安からず。是の日、詔を下して曰く、「朕天の序を承け、理を燭する未だ明ならず、虚襟を労して賢を求め、寛徳を励まして衆を容る。頃者台輔弼諧の道に乖き、而して具僚朋此の風を扇ぎ、翕然相従ひ、実に彝憲を斁す。致して薰蕕器を共にし、賢不肖並びに馳せ、退跡者は咸く後時の夫、登門者に迎吠の客有り。繆盭の気、堙郁未だ平らかならず、而して陰陽時に順ひ、疵癘作さず、朝廷清肅し、班列和安するを望むは、古より今に及び、未だ嘗て有らざるなり。今既に再び朝典を申し、一たび澆風を変じ、朋附の徒を掃清し、貞廉の俗を匡飭す、凡百の卿士、惟新の令猷を思へ。聞く所に拠れば周行の中に、尚ほ疑懼を蓄ふ、或は妄りに相指目し、令して自ら安からしめず、今茲曠然として、明らかに朕が意を諭す。宗閔・徳裕と或は新たに或は故く及び門生旧吏等と与にすべく、今日已前に放黜せられたるの外は、一切問はず」と。辛亥、太子賓客分司東都白居易を以て同州刺史と為し、楊汝士に代ふ。汝士を以て駕部侍郎と為す。乙亥、涇原節度使劉沔を以て振武麟勝節度使と為す。丙辰、権知御史中丞舒元輿を以て御史中丞と為し、兼ねて刑部侍郎を判ず。庚申、鳳翔節度使李聽を以て忠武軍節度使と為す。癸亥、内養齊抱真に令して杖を将て青泥驛に於いて前襄州監軍陳弘志を決殺せしむ、殺逆の罪有るを以てなり。丁卯、門下侍郎・同平章事李固言を以て興元尹・山南西道節度使と為す。翰林侍講学士・工部尚書鄭注を以て検校右僕射と為し、鳳翔隴右節度使に充つ。戊辰、右軍中尉王守澄を以て左右神策観軍容使と為し、十二衛統軍を兼ぬ。己巳、詔して朝議郎・守御史中丞・兼刑部侍郎・賜紫金魚袋舒元輿を本官を以て同中書門下平章事と為す。朝議郎・守兵部郎中・知制誥・充翰林侍講学士・賜緋魚袋李訓を守尚書礼部侍郎・同中書門下平章事と為すことを可とし、仍て金紫を賜ふ。壬申、刑部郎中・兼侍御史・知雑李孝本を以て権知御史中丞と為す。

冬十月癸酉(の日)。乙亥(の日)、杜忭が再び陳許節度使となり、李聴は太子太保分司となった。内裏より曲江に新造の紫雲楼・彩霞亭の額を出し、左軍中尉仇士良が百戯を以て銀台門にてこれを迎えた。時に鄭注は秦中に災い有りと言い、土功を興してこれを厭うべしとし、乃ち昆明池・曲江の二池を浚った。帝は詩を作ることを好み、毎に杜甫の『曲江行』を誦して云う、「江頭宮殿鎖千門、細柳新蒲為誰緑」と。乃ち知る、天宝以前には、曲江の四岸には皆行宮台殿・百司廨署有りと。昇平の故事を復せんと思い、故に楼殿を以てこれを壮んず。王涯は榷茶の利を献じ、乃ち涯を以て榷茶使とす。茶に榷税有るは、涯より始まる。京兆・河南の両畿は旱魃。吏部尚書令狐楚を以て左僕射と為し、刑部尚書鄭覃を以て右僕射と為す。辛巳(の日)、中使李好古を遣わし酖を齎して王守澄に賜う。是の日、守澄卒す。壬午(の日)、群臣に曲江亭にて宴を賜う。癸未(の日)、前広州節度使王茂元を以て涇原節度使と為す。丁亥(の日)、礼部郎中銭可復・兵部員外郎李敬彝・駕部員外郎盧簡能・主客員外郎蕭傑・左拾遺盧茂弘等は皆鳳翔使府判官を授けられ、鄭注の奏請に従う。乙未(の日)、新たに同州刺史を受けた白居易を以て太子少傅分司と為し、汝州刺史劉禹錫を以て同州刺史と為す。己亥(の日)、前河陽節度使蕭洪を以て鄜坊節度使と為す。淄青観察使王彦威は管内の県丞十九員を停めることを請い、従う。庚子(の日)、東都留守・特進・守司徒・侍中裴度は位を進めて中書令と為し、余は故の如し。前山南西道節度使王源中を以て刑部尚書と為す。

十一月壬寅朔。乙巳(の日)、内養馮叔良をして前徐州監軍王守涓を中牟県にて殺さしむ。左神策軍胡沐を以て容管経略使と為し、大理卿郭行余を以て邠寧節度使と為す。丁未(の日)、鄜坊節度使趙儋卒す。乙酉(の日)、左金吾衛大将軍崔鄯卒す。癸丑(の日)、左僕射令狐楚をして太常卿事を判せしめ、右僕射鄭覃をして国子祭酒事を判せしむ。丁巳(の日)、戸部尚書・判度支王璠を以て太原尹・北都留守・河東節度使と為す。戊午(の日)、京兆尹李右を以て戸部侍郎・判度支と為し、京兆少尹羅立言を以て権知って府事を治めしむ。己未(の日)、太府卿韓約を以て左金吾衛大将軍と為す。壬戌(の日)、中尉仇士良兵を率いて宰相王涯・賈餗・舒元輿・李訓、新たに太原節度を除かれたる王璠、郭行余・鄭注・羅立言・李孝本、韓約等十余家を誅し、皆族誅す。時に李訓・鄭注は内官を誅せんと謀り、詐って金吾仗舎の石榴樹に甘露有りと言い、上に観ることを請う。内官先ず金吾仗に至り、幕下に甲を伏するを見て、遽かに帝の輦を扶けて内に入る。故に訓等敗れ、流血地を塗す。京師大いに駭き、旬日にして稍々安んず。癸亥(の日)、詔して銀青光禄大夫・尚書左僕射・上柱国・滎陽けいよう郡開国公鄭覃を以て本官のまま同中書門下平章事と為す。乙丑(の日)、詔して朝議郎・守尚書戸部侍郎・判度支李石を以て朝議大夫・本官のまま同平章事と為すことを可とす。丁卯(の日)、左神策大将軍陳君奕を以て鳳翔節度使と為す。戊辰(の日)、給事中李翊を以て御史中丞と為し、左右軍尉仇士良・魚志弘は並びに上将軍を兼ぬ。

十二月壬申朔、諸道塩鉄転運榷茶使令狐楚は榷茶は民に便ならずと奏し、停むることを請う。従う。癸丑(の日)。太子太保張茂宗卒す。甲子(の日)、左右省の起居に筆硯及び紙を齎して螭頭の下に言を記し事を記さしむることを勅す。丙子(の日)、刑部尚書王源中を以て天平軍節度使と為す。丁丑(の日)、諸道府に私に暦日板を置くことを得ざることを勅す。己卯(の日)、鳳翔監軍は鄭注の判官銭可復等四人並びに処斬し畢れりと奏す。庚辰(の日)、上紫宸殿に御し、宰相に謂いて曰く、「坊市の間、人漸く安んずるや未だや」と。李石奏して曰く、「人情安んずるも、然れども刑殺過多、此の陰沴を致す。又聞く、鄭注が鳳翔にて兵募を招致する少なからず、今皆刑戮に被る。臣恐らくはこれに乗じて事を生ずるを、切に宜しく原赦して以てこれを安んずべし」と。上曰く、「然り」と。鄭覃又理道を陳ぶ。上曰く、「我毎に貞観・開元の時を思い、今日の事を観るに、往々憤気膺に填す」と。癸未(の日)、儀仗使田全操辺を巡り回り、馬を馳せて金光門に入る。街市訛言相驚き、縦横に散走す。金吾大将軍陳君賞がその徒を以て望仙門の下に立ちたるに頼り、晚に至りて方に定まる。丁亥(の日)、権知京兆尹張仲方を以て華州防禦使と為し、司農卿薛元賞を以て権知って京兆を治めしむ。左僕射令狐楚奏す、「方鎮節度使等、弩帓を具え、器仗を帯び、尚書省兵部に就きて参辞す。伏して停罷を乞う。もし参謝を須うれば、公服を具えしむべし」と。従う。時に楚は訓・注の奸謀を引き、王璠・郭行余の兵仗を用い、遂に兵仗を以て省に参辞すべからずと雲い、事体に殊に乖く。物方にこれを尤む。先ず是れ、宰相武元衡害せられ、憲宗は内庫の弓箭・陌刀を出して左右街使に賜い、宰相の朝に入るを俟ち、以て翼従と為し、建福門に及びて退く。是に至りて亦これを停む。辛卯(の日)、諫院の印を置く。

開成元年

開成元年正月辛丑朔、帝は常服にて宣政殿に御し賀を受け、遂に詔を宣して大赦天下し、元を改めて開成と為す。乙巳(の日)、紫宸殿に御す。宰臣李石奏して曰く、「陛下元を改め殿に御するや、人情大いに悦び、京兆の一年の租賦を全く放ち、又四節の進奉を停む。恩沢の該る所、実に要切に当たる」と。帝曰く、「朕は実を行わんことを務め、空文を崇長せんと欲せず」と。石曰く、「赦書は須らく内に一本を留め、陛下時にこれを看るべし。又十道の黜陟使発する日、更に公事の根本を付与し、令して外に向かって長吏と詳しく択び施行せしめ、方に利害の要を尽くすべし」と。丁未(の日)、秘書監韋縝を以て工部尚書と為す。勅す、「楊承和・韋元素・王踐言・崔潭峻は頃に誣陷に遭い、毎に追傷を用う。宜しく官爵を復し、その帰葬を聴くべし」と。銀州刺史劉源を以て夏・綏・銀・宥節度使と為す。丙辰の望、日に蝕有り。

二月辛未朔、左散騎常侍羅譲を以て江西観察使と為す。乙亥の夜四更、京師地震し、屋瓦皆墜つ。丙申(の日)、左武衛大将軍硃叔夜に藍田関にて死を賜う。天徳は生退渾部落三千帳来たり豊州に投ずと奏す。

三月庚子朔。壬寅(の日)、袁州長史李徳裕を以て滁州刺史と為す。庚申(の日)、龍首池に幸し、内人の雨を賽ぐるを観、因りて『暮春喜雨詩』を賦す。昭義節度使劉従諫三たび疏を上し、王涯の罪名を問う。内官仇士良これを聞きて惕懼す。是の日、従諫は焦楚長を遣わし入奏せしめ、客状に誹謗し、面対を請う。上は楚長を召し慰諭してこれを遣わす。

夏四月庚午朔、河南尹鄭浣を左丞と為し、太子賓客分司東都李紳を河南尹と為す。癸酉、亳州刺史裴弘泰を義成軍節度使と為し、諫議大夫李讓夷を兼権知起居舍人事と為す。乙卯、潮州司戸李宗閔を衡州司馬と為し、江州刺史李玨を太子賓客分司と為す。癸未、吏部侍郎李虞仲卒す。辛卯、淄王協薨ず。甲午、詔して山南西道節度使・検校兵部尚書李固言を門下侍郎・同中書門下平章事と為し、左僕射・諸道塩鉄転運使令狐楚を検校左僕射と為し、山南西道節度使と為す。丙申、李固言に戸部事を判せしむ。李石に度支を判せしめ、諸道塩鉄転運使を兼ねしむ。

五月乙亥朔。癸卯、翰林学士帰融を御史中丞と為す。丁未、給事中郭承嘏を華州防禦使と為す。給事中盧載、承嘏の公正にして道を守り、屡々封駁有るを以て、外郡に置くに宜しからずとし、乃ち詔書を封還す。詡日、復た承嘏を給事中と為し、乃ち給事中盧鈞を以て嘏に代わり華州を守らしむ。乙卯、紫宸に御し、上宰臣に謂ひて曰く、「政を為すの道は、古より難し。」李石対へて曰く、「朝廷の法令行はれば、則ち易し。」丁巳、尚書右丞鄭肅を陝虢都防禦観察使と為す。前に観察を罷めしを復た之を置く。中書舍人唐扶を福建観察使と為す。庚申、判国子祭酒宰臣鄭覃奏す、「太学新たに五経博士各一人を置く。王府官の例に依り、祿粟を賜はらんことを請ふ。」之に従ふ。丙寅、昭義奏して夷儀山路を開き、太原・晉州に通ず。之に従ふ。閏五月己巳朔。甲申、河中節度使李程を左僕射・判太常卿事と為す。乙酉、太子太保分司李聽を河中節度使と為す。丙戌、烏唐安寺に集まり、月を踰えて方に散ず。己丑、神策大将軍魏仲卿を朔方霊塩節度と為す。湖南観察使盧周仁、羨余錢二萬貫・雑物八萬段を進む。受けず、之を還し、貧下戸の徴税を貸さしむ。

六月戊戌朔。癸亥、河南尹李紳を検校礼部尚書・汴州刺史と為し、宣武軍節度使を充てしむ。

秋七月戊辰朔、御史台奏す、「秘書省管の新旧書五萬六千四百七十六卷、長慶二年已前は並びに文案無し。大和五年已後は、並びに新書を納れず。今簿籍を創立し、闕に據りて卷数を添寫し、逐月台に申さんことを請ふ。」之に従ふ。辛未、左金吾衛将軍傅毅を鄜坊節度使と為す。癸酉、宣武軍節度使王智興卒す。辛卯、刑部尚書殷侑を検校右僕射と為し、山南東道節度使を充てしむ。壬午、滁州刺史李德裕を太子賓客と為す。甲午、金吾衛大将軍陳君賞を平盧軍節度使と為し、王彦威に代ふ。彦威を戸部侍郎・判度支と為す。丙申、湖南観察使盧周仁、羨余錢一十萬貫を進む。御史中丞帰融其の制に違ひ進奉するを彈す。詔して周仁の進むる所の錢を河陰院に収貯せしむ。

八月戊戌朔。甲辰、国舅と詐称する者前鄜坊節度使蕭洪を長流驩州に宣す。戊申、皇太后の親弟蕭本を右贊善大夫と為す。

九月丁卯朔。庚辰、詔して故左降開州司馬宋申錫の正議大夫・尚書右丞・同平章事を復し、仍其の子慎徽を城固尉と為す。饒州刺史馬植を安南都護と為す。辛巳、寿州刺史高承恭を邕管経略使と為す。辛卯、秘書省・集賢院に勅し、応に欠く書四萬五千二百六十一卷を諸道に配し繕寫せしむ。

冬十月丁酉朔。己酉、揚州江都七縣水旱有り、田を損ず。

十一月丙寅朔。庚辰、浙西観察使崔郾卒す。太子賓客分司東都李德裕を検校戸部尚書と為し、浙西観察使を充てしむ。壬午、兵部尚書・皇太子侍読王起に太常卿を兼判せしむ。甲申、左僕射李程に吏部尚書を兼ねしむ。忠武帥杜忭・天平帥王源中奏す、当道の常平義倉斛斗、元額を除く外、別に十萬石を置かんことを請ふ。

十二月丙申朔、京兆尹・兼御史大夫薛元賞を武寧節度・徐泗宿濠観察等使と為し、戸部侍郎・兼御史中丞帰融を京兆尹と為し、給事中狄兼謨を御史中丞と為す。己酉、嶺南節度使李従易卒す。庚戌、華州刺史盧鈞を広州刺史と為し、嶺南節度使を充てしむ。中書舍人崔亀従を華州防禦使と為す。辛亥、剣南東川節度使馮宿卒す。壬子、太僕卿段伯倫卒す。癸丑、兵部侍郎湯汝士を検校礼部尚書と為し、剣南東川節度使を充てしむ。己未、漵王縱薨ず。

開成二年

二年春正月乙丑朔。丙寅、宣州観察使王質卒す。乙亥、吏部侍郎崔鄲を宣歙観察使と為し、右丞鄭浣を刑部尚書・判左丞事と為す。庚寅、戸部侍郎・判度支王彦威、撰する所の『供軍図』を進む。略序に曰く、「至德・乾元の後より、貞元・元和の際に迄るまで、天下に観察有る者十、節度二十有九、防禦者四、経略者三。掎角の師、犬牙相制し、大都通邑、兵無きは莫し。中外の兵額を約計すれば八十八萬に至る。長慶の戸口凡そ三百三十五萬、而して兵額又約九十九萬、通計して三戸一兵を資奉す。今天下の租賦を計るに、一歳の入る所、総べて三千五百餘萬を過ぎず、而上供の数其の三の一焉。三分の中、二は衣賜に給し、留州留使の兵士衣食を自る外、其の餘四十萬眾、度支に仰給す焉。」二月乙未朔。丙申、刑部侍郎郭承嘏卒す。丙午夜、彗東方に出で、長さ七尺、危の初度に在り、西を指す。戊申、王彦威、撰する所の『唐典』七十卷を進む。武德に起り、永貞に終る。庚戌、均王緯薨ず。辛酉夜、彗長さ丈餘、直ちに西行し、稍南を指し、虚九度半に在り。壬戌夜、彗長さ二丈餘、廣さ三尺、女九度に在り、是より漸く長闊す。

三月甲子朔、内より音声女妓四十八人を出だし、家に帰らしむ。乙丑夜、彗星長さ五丈、歧分かれて兩尾と為り、其の一は氐を指し、其の一は房を掩ふ。丙寅、曲江の宴を罷む。是の夜、彗長さ六丈、尾歧無く、亢七度に在り。尚食使に勅し、今より毎一日の御食料を分かちて十日と為し、内の修造を停む。戊辰夜、彗長さ八丈有餘、西北行し、東を指し、張十四度に在り。辛未、宣徽院の『法曲』楽官を放ち帰す。壬申、詔して曰く、

朕は大業を継ぎ、上天に対し、謹み畏れて今や一紀を経た。何ぞ嘗て朝早く衣を着て道を思い、日暮れに食して過ちを思わざらんや、周文王の小心を師とし、『易経』乾卦の夕べの戒めを慕い、徳が類わざるを懼れ、歴代の聖君に恥を遺すことを恐れた。平和を致さんと欲し、時に災いなからんことを願うも、然れども誠が物に通ぜず、天に譴責が現れ、仰いでは三霊に愧じ、俯しては万民に慚じ、救済を得んと思えども、広大にして涯なし。昔、宋の景公が発言すれば、星は退いて宿を移し、魯の僖公が諫言を納るれば、飢饉も人を害さず。往昔の賢人を鑑とし、深く自らを励ます。咎は朕に在ることを痛み、罪ある者を恤う恩を降すべく、憂いを表し、明らかな戒めに応えんとす。天下の死罪は流罪に降し、流罪以下は全て放免す。ただし故殺人、官吏の贓罪、銭穀を掌る賊盗は、この限りに在らず。諸州で水旱の災害に遭った所は、租税を免除す。内外の修造は全て停止す。五坊の鷹隼は全て解放す。朕は今、素服を着て正殿を避け、音楽を廃し、食事を減らす。近頃、内外の臣僚が相次いで章表を奉り、徽号を加えんと欲す。道が大なるを帝と為す。朕はこの称を膺け、既に愧ずること多し、況や星変の時に当たり、敢えて名声を揚げる美を議せんや。過ぎしを懲らすのみならず、且つ将来を戒めんとす。内外の臣僚は、更に上表して奏請することを得ず。表が既に途上にある者は、皆速やかに還すべし。朝廷の群臣、地方の長吏は、各々封事を上奏し、得失を極言し、過ちを正し、教えを納れ、朕の虚心に副うべし。

甲戌の日、左僕射李程を山南東道節度使に任ず。壬午の日、楚州刺史厳譽を桂管観察使に任ず。甲申の日、山南東道節度使殷侑を太子賓客分司に任ず。貞興門外に鵲が古塚に巣を作る。丁亥の日、邠寧節度使李用卒す。戊子の日、河南尹李玨を戸部侍郎に任ず。乙丑の日、金吾大将軍李直臣を邠寧節度使に任ず。壬辰の日、桂管観察使韓佽卒す。兵部侍郎裴濆を河南尹に任ず。

夏四月甲午朔。戊戌の日、将仕郎・守尚書工部侍郎・知制誥、翰林学士を充て、皇太子侍読を兼ね、上騎都尉・紫金魚袋を賜う陳夷行を本官のまま同中書門下平章事に任ずる詔。丙子の日、中書舎人敬昕を江西観察使に任ず。戊申の日、前江西観察使羅讓卒す。辛酉の日、終南山神祠を設置する詔。蓬州に蓬池・朗池の二県を復置す。

五月癸亥朔。乙丑の日、東都留守裴度を太原尹・北都留守・河東節度使に任じ、前の如く司徒・中書令を守らしむ。丙寅の日、戸部侍郎李玨に本司事を判らしむ。浙西観察使李德裕を検校戸部尚書に任じ、揚州大都督府長史を兼ね、淮南節度使を充てしむ。辛未の日、前淮南節度使牛僧孺を検校司空・東都留守に、蘇州刺史盧商を浙西観察使に任ずる詔。壬申の日、上、十六宅に幸し、諸王と宴楽す。十六宅の宮市内官範文喜ら三人を決罰す。諸王の食物が精しからざるが故なり。

六月癸巳朔。丁酉の日、成徳軍節度使王元逵を駙馬都尉とし、寿安公主を尚ばしむ。己亥の日、鴻臚卿李逵を天徳軍都防禦使に任ず。庚子の日、吏部が長定選格を奏上し、南曹郎中一人を加置し、別に印一面を置き、「新置南曹之印」を文とすべしと請う。之に従う。丙午の日、河陽軍乱を起こし、節度使李泳を逐う。戊申の日、左金吾衛将軍李執方を河陽三城懐州節度使に任ず。庚戌の日、右金吾衛大将軍崔珙を京兆尹に任ず。魏・博・沢・潞・淄・青・滄・徳・兗・海・河南府等の州より蝗が禾稼を害すと奏上す。鄆州より蝗が雨を得て自死すと奏上す。丁亥の日、御史中丞狄兼謨を刑部侍郎に、前京兆尹帰融を秘書監に、給事中李翊を湖南観察使に任ず。

秋七月壬戌朔。乙亥の日、久旱のため市を移し、坊門を閉ず。甲申の日、太府卿張賈を兗海観察使に任ず。河北三鎮を除く外、諸州府は試銜をもって官を奏することを得ざる詔。鄆州より奏す:「当州先に天平・平陰の両県を廃す。平陰県を復置し、以て盗賊を制せんことを請う。」之に従う。乙酉の日、蝗旱のため、諸司に囚人を疏決せしむる詔。己丑の日、使者を遣わし諸道に下り蝗虫を巡覆せしむ。是の日、京畿に雨降る。群臣表を奉りて賀す。外州の李紳より蝗虫が境内に入るも田苗を食わずと奏上す。詔書を下し褒め称え、相国寺に石を刻む。

八月壬辰朔。丁酉の日、彗星が虚宿・危宿の間に出づ。振武より突厥が営田を寇すと奏す。庚戌の日、昭儀王氏を冊して徳妃と為し、昭容楊氏を冊して賢妃と為す詔。又詔す:「敬宗皇帝の第二子休復・第三子執中・第四子言揚・第六子成美らは、宜しく列土の封を開き、以て睦族の典を申べし。休復は梁王に封ずべく、執中は襄王に封ずべく、言揚は紀王に封ずべく、成美は陳王に封ずべし。皇第二男宗儉は蔣王に封ずべし。」乙丑の日、房州刺史盧行簡、贓罪に坐し杖殺さる。己巳の日、前湖南観察使盧行術を陝虢観察使に任ず。甲申の日、詔して曰く:「慶成節は朕の生辰なり。天下に宴を賜い、庶幾くは共に歓泰ならんとす。屠殺を欲せず、以て好生を表す。是れ空門を信尚するに非ず、無妄の福を希うに将るなり。恐らくは内外の臣庶、朕が懐を諭さず、広く斎筵を設け、大いに僧衆を集め、独り物力を凋耗するのみならず、兼ねて生霊を惑わすを致さんことを。今より宴会は蔬食とし、脯醢を陳ぶるに任せ、永く常例と為すべし。」又勅す:「慶成節は宜しく京兆尹に令せしめ、上巳・重陽の例に准じ、曲江にて百官を会宴せしむべし。延英にて觴を奉るは宜しく権停すべし。」戊子の日、尚書戸部侍郎・判度支王彦威を衛尉卿に任じ、分司東都とす。

冬十月辛卯朔、天後の撰したる『三教珠英』を『海内珠英』と改むる詔。戊戌の日、嘉王運・循王遹・通王諶を並びに光禄大夫・検校司空に任じ、勲上柱国を賜い、仍って百官の例に依り料銭を給す詔。安王溶・潁王瀍に並びに料銭を給す。庚子の日、慶成節、群臣に曲江にて宴を賜う。上、十六宅に幸し、諸王と宴楽す。癸卯の日、宰臣判国子祭酒鄭覃、『石壁九経』一百六十巻を進む。時に上は文を好み、鄭覃は経義をもって啓導し、稍々文章の士を折し、遂に五経博士を置くことを奏し、後漢の蔡伯喈が碑を刊して太学に列ねしに依り、『石壁九経』を創立し、諸儒に訛謬を校正せしむ。上又た翰林勒字官唐玄度に令して字体を復校せしむるも、又た師法に乖く。故に石経立つ後数十年、名儒皆之を窺わず、以て蕪累甚だしと為す。戊申の日、門下侍郎・同平章事李固言を剣南西川節度使に任じ、前の如く同門下侍郎・平章事を守らしむ。甲寅の日、塩鉄・戸部・度支の三使の下の監院官は、皆郎官・御史を以て之を為すべしと勅す。使は雖も更改すとも、院官は移替すべからず。若し顕かに曠敗有らば、即ち事を具して以て聞かしむべし。己未の日、前西川節度使楊嗣復を戸部尚書に任じ、諸道塩鉄転運使を充てしむ。

十一月辛酉朔。壬戌、太子賓客分司東都の殷侑を以て忠武軍節度使と為す。癸亥、狂病人劉德廣含元殿に突入し、京兆府に付して杖殺す。乙丑、京師地震す。丁丑、興元節度使令狐楚卒す。丁亥、刑部尚書鄭浣を以て山南西道節度使と為す。己丑、契丹朝貢す。

十二月庚寅朔。丙申、内閣にて左右史裴素等に対す。上は開成初より故事を復し、毎に入閣するに、左右史は筆を執りて螭頭の下に立ち、君臣論奏、以て備書するを得しむ。故に開成の政事は近代に最も詳なり。壬寅、前忠武軍節度使杜悰を以て工部尚書・判度支と為す。時に忭は既に官を除かるるも、久しく謝恩せず。戸部侍郎李玨、杜が岐陽公主の服仮内に在るを奏す。玨因りて言う、「比来駙馬は公主の為に服を三年行う。是を以て士族の家は国戚と為るを願わざるは此に由る」と。帝その奏を大いに駭き、即日に詔して曰く、「制服の軽重は必ず典礼に資す。往者駙馬が公主の為に服を三年行うを聞くに、情に縁るの義、殊に故実に非ず。経に違うの制、今に至りて乃ち知る。宜しく期周を行い、永く定制と為すべし」と。

開成三年

三年春正月庚申朔。甲子、宰臣李石親仁里に於いて盗に遇い、剣に中り、その馬尾を断たれ、又流矢に中るも、甚だしく傷つかず。是の時、京城大いに恐れ、盗を捕え得ず。既にして仇士良の新たに為すを知る。乙丑、常参官朝に入る者は九人のみ。余は皆潜竄し、累日にして方に安んず。丁卯、詔して故斉王湊に贈りて懐懿太子と為す。戊申、諸道塩鉄転運使・正議大夫・守戸部尚書・上柱国・宏農郡開国伯・食邑七百戸・賜紫金魚袋楊嗣復を以て本官にて同中書門下平章事と為すことを可とし、朝議郎・戸部侍郎・判戸部事・上柱国・賜紫金魚袋李玨を以て本官にて同中書門下平章事と為すことを可とし、前に依りて判戸部事と為す。丙子、中書侍郎・同中書門下平章事李石を以て荊南節度使と為し、前に依りて中書侍郎・平章事と為す。丁丑、前荊南節度使韋長を以て河南尹と為す。癸未、詔して去秋蝗虫稼を害する処の逋賦を放ち、仍って本処の常平倉を以て賑貸す。是の日大雪。

二月己丑朔。乙未、上宰臣に謂いて曰く、「李宗閔は外に数年、別に一官を与うべし」と。鄭覃・陳夷行曰く、「宗閔は鄭注を養成し、幾くにか朝廷を覆さんとす。その奸邪は李林甫に甚だし」と。楊嗣復・李玨奏して曰く、「大和の末、宗閔・徳裕同時に罪を得、二年の間、徳裕再び量移して淮南節度使と為り、而して宗閔は尚だ貶所に在り。凡そ事は中を得るを貴ぶ。但だ私情に徇うべからず」と。上曰く、「一郡を与うべし」と。丁酉、衡州司馬李宗閔を以て杭州刺史と為す。庚子、吏部奏す、「去年修めし長定選格、或いは往例に乖き、頗る人の便ならず。久しく行うべからず。請う旧格を用いん」と。之に従う。乙巳、詔して僕射・尚書・侍郎・左右丞・大卿監、毎に坐日に遇うに、宜しく兩人をして次を循りて進み対せしむべし。丁未、同州刺史孫簡を以て陝虢観察使と為し、盧行術に代わる。術を以て福王傅・分司東都と為す。乙酉、礼部尚書許康佐卒す。辛亥、左丞盧載を同州防禦使と為す。

三月己未朔。庚午、故陳王第十九男儼を封じて宣城郡王と為し、故襄王第三男寀を封じて楽平郡王と為す。

夏四月戊子朔。己丑、礼部尚書致仕徐晦卒す。辛卯、戸部侍郎崔亀従に本司事を判せしむ。詔して曰く、「戸部侍郎両員、今後先に授かるる上なる者は、宜しく本司の銭穀を判せしむべし。平章事を帯び、塩鉄度支を判し、中丞学士を兼ぬるは此の限に在らず」と。壬辰、給事中裴袞を以て華州防禦使と為す。乙酉、《法曲》を改めて《仙韶曲》と為し、仍って伶官の親処を以て仙韶院と為す。兵部侍郎裴濆卒す。癸丑、屯田郎中李衢・沔王府長史林贊等、修め進むる所の《皇唐玉牒》一百五十巻。

五月丁巳朔、礼部に勅す:貢院進士・挙人、歳限三十人を放ち及第せしむ。辛酉、詔す:前江西観察使呉士規贓に坐し、端州に長流す。庚午、月天心の大星を犯す。癸未、吏部侍郎高鍇を以て鄂嶽観察使と為し、高重に代わる。重を以て兵部侍郎と為す。

六月丁未朔。辛酉、宮人四百八十人を出だし、両街の寺観に送りて安置す。晋州平陽院の礬官を廃し、並びに州県に帰す。癸丑、上紫宸に御し、宰臣に対して曰く、「幣軽く銭重きは如何」と。楊嗣復曰く、「此の事已久しく、其の法を遽に変うべからず。法変ずれば則ち人を擾す。但だ銅器を禁ずるに、斯に其の要を得ん」と。

秋七月丙辰朔。壬戌、陳許節度使殷侑卒す。甲子、衛尉卿王彦威を検校礼部尚書と為し、忠武軍節度使を充てる。右金吾衛大将軍史孝章を以て邠甯節度使と為す。戊辰、西川節度使李固言再び表を上り、門下侍郎及び検校右僕射を譲る。

八月丙戌朔。甲午、山南東道諸州大水し、田稼漂い尽くす。丁酉、詔す、「大河の南、幅員千里、楚沢の北、連亙数州。水潦暴に至り、堤防潰溢し、既に廬舎を壊し、復た田苗を損す。黎元を言念し、此の災沴に羅するは、或いは生業蕩尽し、農功索然たり。困餧雕残、豈に自ら済わんや。宜しく給事中盧弘宣をして陳許・鄭滑・曹濮等道に往きて宣慰せしめ、刑部郎中崔瑨をして山南東道・鄂岳・蘄黄道に往きて宣慰せしむべし」と。己亥、嘉王運薨ず。魏博六州蝗秋苗を食い並びに尽くす。

九月丙辰朔。辛酉、荊南李石中書侍郎を譲る。乃ち改めて検校兵部尚書を授く。壬戌、上皇太子の慢游敗度を以て、之を廃せんと欲す。中丞狄兼謨涕を垂れて切に諫む。是の夜、太子を少陽院に移し、太子宮人の左右数十人を殺す。戊辰、詔して梁王等五人、先に北内に在るも、可く却って十六宅に帰すべし。辛未、易定節度使張璠卒す。壬申、易州刺史李仲遷を以て定州刺史と為し、義武軍節度使を充てる。戊寅、東都留守牛僧孺を以て左僕射と為す。辛巳、詔して皇太子侍読竇宗直に隔日に少陽院に入らしむ。

冬十月乙酉朔、尚書左丞崔琯を以て戸部尚書を検校せしめ、東都留守を充てしむ。易定軍乱れ、新使李仲遷を納れず、張璠の子元益を立てて留後と為す。己丑、少府監張沼を以て黔中観察使と為す。壬辰、右金吾衛将軍高霞寓を以て夏・綏・銀・宥節度使と為す。癸巳、中書舎人李景譲を以て華州防禦使と為す。甲午、慶成節、中人の酒酺及び『仙韶楽』を以て群臣に賜い、曲江亭に宴を賜う。丁酉、夏州節度使劉源卒す。庚子、皇太子少陽院に薨ず、諡して荘恪と曰う。乙巳、左金吾将軍郭旼を以て邠・寧・慶節度使と為す。是の夜、彗星軫に起こり、其の長さ三丈、東西を指す。乙酉、前邠寧節度使史孝章卒す。

十一月乙卯朔、是の夜、彗星東西天に竟く。壬戌、詔して曰く、「上天蓋し高しと雖も、感応は必ず人事に由る。寰宇広しと雖も、理乱は尽く君心に係る。古より以来、必然の義なり。朕宝位を嗣ぎ膺けて、十三年有り、常に克己して恭虔にし、毎に誠を推して衆庶にす。将に休応を導迎し、漸く輯熙に致し、宗祧を克荷するを期し、華夏を保寧せんことを思う。而るに徳未だ至らざる所有り、信未だ孚さざる所有り。災気上騰し、天文謫見し、再び期月を週り、重ねて星躔を擾す。衣を求むるの時に当たり、垂象の変を睹て、兢懼惕厲し、泉穀を蹈むが若し。是を用いて成湯の六事を挙げ、宋景の一言を念い、譴告の端を詳求し、銷禳の術を采聴す。必ず精理有りて、衆情に蘊む。法を屈して以て人を安んじ、刑を恤みて以て下を原わんことを冀う。応に京城諸道見囚たる者、十二月八日より以前、死罪は流に降し、已下は一等を逓減すべし。十悪大逆・殺人劫盗・官典贓を犯すは此の限に在らず。今年水蝗虫に遭う処、並びに宜しく存撫賑給すべし」と。滄州節度使李彦佐を以て鄆・曹・濮節度使と為し、徳州刺史・滄景節度副使劉約を以て義昌軍節度使と為す。癸亥、宋州刺史唐弘実を以て邕管経略使と為す。乙丑、天平軍節度使王源中卒す。庚午、翰林学士丁居晦を以て御史中丞と為す。壬申、蔡州刺史韓威を以て定州刺史・義武軍節度・北平軍等使と為す。

十二月乙酉朔。辛丑、詔して河東節度使・開府儀同三司・守司徒・兼中書令・太原尹・北都留守・上柱国・晋国公・食邑三千戸裴度を以て司徒・中書令を守らしむ。兵部侍郎狄兼謨を以て河東節度使と為す。丙午、守太子太師・尚書右僕射・門下侍郎・国子祭酒・同平章事鄭覃の太子太師を罷め、仍って三五日中書に入る。日本国珍珠絹を貢ぐ。

開成四年

四年春正月甲寅朔。丁巳、熒惑・太白・辰星南斗に聚まる。丁卯夜、威泰殿に於いて灯を観て楽を作し、三宮太后諸公主等畢く会す。上性節倹、延安公主衣裾寛大なり、即時に斥けて帰し、駙馬竇浣罪を待つ。詔して曰く、「公主参入し、衣服制を踰ゆ。夫に従うの義、過ち帰する所有り。浣宜しく両月の俸銭を奪うべし」と。

閏月甲申朔、吏部侍郎鄭肅を以て礼部尚書を検校せしめ、河中晋絳慈隰等州節度使と為し、蘇州刺史李道枢を以て浙東観察使と為し、諫議大夫高元裕を以て御史中丞と為す。丙申、前河中節度使李聴を以て太子太保と為す。己亥、裴度太原より至る、上中人をして第に就きて疾を問わしむ。辛丑、司農卿李𤣱を以て福建観察使と為す。諫官其の不可を論ず、乃ち之を罷む。丙午、大理卿盧貞を以て福建観察使と為す。丁未、興元節度使鄭浣卒す。戊申、闍婆国朝貢す。

二月癸酉朔。辛酉、吏部侍郎帰融を以て礼部尚書を検校せしめ、山南西道節度使を充てしむ。丙寅、寒食節、上通化門に御して以て遊人を観る。戊辰、勤政楼に幸して角抵・蹴鞠を観る。

三月癸未朔。乙酉、群臣に上巳の宴を曲江に賜う。是の夜、月東井第三星を掩う。丙申、司徒・中書令裴度卒す。癸酉、浙東観察使李道枢卒す。戸部侍郎崔亀従を以て宣歙観察使と為し、崔鄲に代わる。鄲を以て太常卿と為す。楚州刺史蕭俶を以て浙東観察使と為す。

夏四月壬子朔、右羽林統軍李昌言を以て鄜坊節度使と為す。壬戌、麞太廟より出づ。

五月辛丑朔。丁亥、閣内にて上宰臣に謂いて曰く、「新修の『開元政要』如何」と。楊嗣復曰く、「臣等未だ見ず。陛下此の書を以て子孫に伝示せんと欲せば、則ち臣等に宣付し、可否を参定すべし。縁りて開元の政事は貞観と同じからず、玄宗或いは畋遊を好み、或いは声色を好み、賢を選び能に任ずるも、未だ尽く美を得ず。撰述して後を示すは、程を作すを貴ぶ所なり。豈容易ならんや」と。丙申、鄭覃・陳夷行政事を知るを罷め、覃は左僕射を守り、夷行は吏部侍郎と為る。丙午、邠寧節度使郭旼卒す。天平・魏博・易定等管内蝗秋稼を食う。

六月辛亥朔、長武城使苻澈を以て邠寧節度使と為す。庚申、上十六宅安王・潁王院に幸して宴楽し、賜与頗る厚し。戊辰、久旱を以て、祠禱を分命す。毎に憂い色に動く。宰相等奏して曰く、「水旱は時数然らしむる所なり、乞うらくは過ぎて聖慮を労すること無かれ」と。上容を改めて言いて曰く、「朕人主と為り、徳天下に及ぼさず、茲の災旱を致し、又天に謫見す。若し三日雨無くば、当に退きて南内に帰り、更に賢明を選び以て天下を主とすべし」と。宰臣嗚咽流涕し、各策免を請う。是の夜、大雨霑霈す。丁丑、襄陽山竹実を結び、其の米食うべし。

秋七月庚辰朔、西蜀水し、稼を害す。乙未夜、月熒惑を犯す。壬寅、河南尹韋長を以て平盧軍節度使と為し、刑部侍郎高鍇を以て河南尹と為す。甲辰、大中大夫・守太常卿・上柱国・賜紫金魚袋崔鄲を以て本官同中書門下平章事と為す。滄景・淄青大水す。

八月庚戌朔、給事中姚合を以て陝虢観察使と為す。辛亥、鄜王憬薨ず。丙辰、邢州青山県を廃し、磁州昭義県を固鎮駅に移す。癸亥、左僕射牛僧孺を以て司空を検校せしめ、同平章事とし、襄州刺史を兼ね、山南東道節度使を充てしむ。辛未夜、流星羽林より出で、尾長さ八十余尺、滅したる後声雷の如し。壬申、鎮・冀四州蝗稼を食い、野草樹葉に至るまで皆尽く。

九月己卯朔。辛卯、剣南東川節度使楊汝士を吏部侍郎となす。丁酉の夜、月東井第三星を掩う。辛丑、吏部侍郎陳夷行を華州鎮国軍防禦使となし、蘇州刺史李穎を江西観察使となし、諫議大夫馮定を桂管観察使となす。甲辰、京兆尹鄭復を剣南東川節度使となす。丙午、前江西観察使敬昕を京兆尹となす。

冬十月己酉朔。戊午、慶成節、群臣に曲江亭にて宴を賜う。辛酉の夜、星斗魁に入る。前桂管観察使厳謇卒す。丙寅、制を以て敬宗第六男陳王成美を皇太子となす。丁丑、太子太保李聽卒す。

十一月己卯朔。壬申、前福建観察使唐扶卒す。己亥、京城の繋囚を曲赦す。

十二月己酉朔。癸丑、光禄卿・駙馬都尉韋讓を澧州長史に貶す。乙卯、乾陵火災あり。杭州刺史李宗閔を太子賓客・分司東都となす。辛酉、上御不康、百僚延英に赴き起居す。乙亥、宰臣入謁し、太和殿に於いて上を拝す。是歳、戸部計見管戸四百九十九万六千七百五十二。

開成五年

五年春正月戊寅朔、上御不康、朝賀を受けず。己卯、詔して親弟潁王瀍を皇太弟と立て、権勾当軍国事とす。皇太子成美は復た陳王となす。辛巳、上崩ずるに大明宮の太和殿に於いて、寿三十三を享く。群臣諡して元聖昭献皇帝と曰い、廟号を文宗とす。其の年八月十七日、章陵に葬る。

【論】

史臣曰く、昭献皇帝は恭儉儒雅、自然に出で、父兄の奢弊の余を承け、閽寺権を撓るの際に当たりて、能く以て乱を治に易え、危を安に代う。大和の初、明なりと謂うべし。初め、帝藩に在りし時、『貞観政要』を読むを喜び、毎に太宗の政道に孜々たるを見て、茲に意有り。即位の後に洎りて、毎に延英に宰臣に対し、率ね漏下十一刻に及ぶ。故事、天子は双日に事を視る。帝宰輔に謂いて曰く、「朕卿等と毎日相見せんと欲す。其れ輟朝・放朝、双日を用うるは可なり」と。時に憲宗郭后興慶宮に居り、太皇太后と曰い、敬宗宝暦太后及び上母蕭太后、時に「三宮太后」と呼ぶ。帝性仁孝、三宮に問安し、其の情一の如し。嘗て内園より櫻桃を進む。所司啓して曰く、「別に三宮太后に賜う」と。帝曰く、「太后宮に物を送る、焉ぞ賜うと為さんや」と。遽に筆を取って賜うを奉と改む。宗正寺祭器の朽敗を以て、之を易えんことを請う。及び有司進むるを呈す。命じて別殿に陳べしめ、冠帯を具えて面に之を閲し、容色淒然たり。政理に勒むること尤も甚だし。凡そ内外の群官を選ぶに、府名を進むれば、帝必ず面に其の行能を訊ね、然る後に補除す。中書鴻臚卿張賈を衢州刺史と為すを用う。賈は博を好む。朝辞の日、帝之に謂いて曰く、「卿善く長行すと聞く」と。対えて曰く、「政事の余、聊か賓客と与に戯るるのみ。妨有るに非ず」と。帝曰く、「豈に之を好みて而も妨無からんや」と。内外之を聞きて悚息す。而して帝は累世禁闈に変起するを以て、中官に尤も側目し、尽く之を除かんと欲す。然れども訓・注狂狡の流、制禦の術無く、矢謀既に誤り、幾くんか顛危に致らんとす。所謂「帝王の道有りて、帝王の才無し」と。旰食焦憂すと雖も、患を弭ぐること能わず。異なるかな。

賛して曰く、昭献天を統べ、洪に惟れ令徳。心は仇恥に憤り、志は凶慝を除かんとす。未だ夔魖を殄せず、又た鬼蜮を生ず。天未だ治を好まず、乱何に由てか息まん。