旧唐書 本紀第四 高宗上

旧唐書

本紀第四 高宗上

__TOC__

高宗天皇大聖大弘孝皇帝、諱は治、太宗の第九子なり、母は文徳順聖長孫皇后と曰う。貞観二年六月、東宮の麗正殿に生まる。五年、晋王に封ぜらる。七年、遙授にて并州都督となる。幼にして岐嶷端審、寛仁孝友たり。初め著作郎蕭徳言に『孝経』を授けらる。太宗問いて曰く、「此の書中、何の言を要と為すや」と。対えて曰く、「夫れ孝は、親に事うるに始まり、君に事うるに中り、身を立つるに終わる。君子の上に事うるや、進みては忠を尽くすを思い、退きては過ちを補うを思い、其の美を順将し、其の悪を匡救す」と。太宗大いに悦びて曰く、「此を行えば、以て父兄に事え、臣子と為るに足る」と。文徳皇后崩ずるに及び、晋王時年九歳、哀慕して左右を感動せしめ、太宗屡々慰撫を加え、此れより特に深く寵異せらる。尋いで右武候大将軍を拝す。十七年、皇太子承乾廃せられ、魏王泰も亦た罪に坐して黜けらる。太宗、長孫無忌・房玄齢・李勣等と計議し、晋王を立てて皇太子と為す。太宗朝を視る毎に、常に側に在らしめ、庶政の決するを観察せしめ、或いは参議せしむ。太宗数々其の善を称す。十八年、太宗将に高麗を伐たんとし、太子を命じて定州に留鎮せしむ。駕発する期有るに及び、悲啼すること累日、因りて飛駅を請うて表を遞し起居し、並びに敕を遞して垂報せしめんことを請う。並びに之を許す。飛表を以て事を奏すること、此より始まる。軍旋するに及び、太子従いて并州に至る。時に太宗癰を患う、太子親しく之を吮い、輦を扶けて歩従すること数日。

貞観二十三年

二十三年五月己巳、太宗崩ず。庚午、礼部尚書・兼太子少師・黎陽県公於志寧を以て侍中と為し、太子少詹事・兼尚書左丞張行成を兼侍中・検校刑部尚書と為し、太子右庶子・兼吏部侍郎・摂戸部尚書高季輔を兼中書令・検校吏部尚書と為し、太子左庶子・高陽県男許敬宗を兼礼部尚書と為す。辛未、京に還る。

六月甲戌朔、皇太子即皇帝位、時年二十二。詔して曰く、「大行皇帝奄かに普天を棄つ、痛み心霊に貫き、湯火を置くが若し。大孝に遵おうと思い、身を滅すを敢えてせず、永く慕い長く号す、将に何を以てか逮及せん。粤に孤眇を以て、元嗣に属し当たり、空薄を励まし、黎元を康済せんと思い、惟新を敬順し、先徳を仰ぎ昭かにす。宜しく凱沢を布き、億兆に被らしむべし。天下を大赦すべし。内外文武に勲官一級を賜う。諸年八十以上には粟帛を賚う。雍州及び諸州の比年軍に供し労役尤甚なるの処は、並びに復を給すること一年」と。辛巳、民部尚書を改めて戸部尚書と為す。疊州都督・英国公勣を特進・検校洛州刺史と為し、仍って洛陽宮に於いて留守せしむ。癸未、詔して司徒・揚州都督・趙国公無忌を太尉兼検校中書令と為し、尚書門下二省の事を知らしめ、余は並びに故の如し、物三千段を賜う。癸巳、特進・英国公勣を開府儀同三司・同中書門下三品と為す。

秋七月丙午、有司治書侍御史を改めて御史中丞と為し、諸州の治中を司馬と為し、別駕を長史と為し、治礼郎を奉礼郎と為さんことを請う。上名を避くるためなり。貞観の時は先帝の二字を諱まず、有司に詔す。奏して曰く、「先帝二名、礼偏諱せず。上既に単名なれば、臣子指斥すべからず」と。上乃ち之に従う。己酉、于闐王伏闍信来朝す。

八月癸酉朔、河東地震す、晋州尤甚しく、廬舎を壊し、圧死者五千余人。三日又た震う。詔して使いを遣わし存問し、復を給すること二年、圧死者には絹三匹を賜う。開府儀同三司・英国公勣を尚書左僕射・同中書門下三品と為す。僕射始めて同中書門下を帯ぶ。庚寅、太宗を昭陵に葬る。

九月甲寅、鄜州刺史・荊王元景に加授して司徒と為し、前安州都督・呉王恪を司空兼梁州刺史と為す。丙寅、太尉・梁国公玄齢を贈り、司徒・申国公士廉を贈り、左僕射・蒋国公屈突通を贈り、並びに太宗廟庭に配食すべし。

冬十一月甲子、瑤池都督阿史那賀魯を左驍衛大将軍と為す。乙丑、晋州地又た震う。是の冬雪無し。

永徽元年

永徽元年春正月辛丑朔、上朝を受けず、詔して改元す。壬寅、太極殿に御し、朝を受くるも会せず。丙午。妃王氏を立てて皇后と為す。丁未、陳王忠を雍州牧と為す。

二月辛卯、皇子孝を封じて許王と為し、上金を杞王と為し、素節を雍王と為す。

夏四月己巳朔、晋州地又た震う。

五月丁未の日、帝は群臣に謂いて曰く、「朕は誤って大位を膺け、政教明らかならず、遂に晋州の地に屡々震動有らしむ。良に賞罰中を失い、政道方に乖くに由る。卿等宜しく各封事を進め、得失を極言し、以て逮わざるを匡うべし」と。吐火羅は使いを遣わして大鳥を献ず、駝の如く、銅鉄を食らう。帝は献じて昭陵に遣わす。吐蕃の贊普死す、右武衛将軍鮮於匡濟を遣わして璽書を賫ち往きて吊祭せしむ。

六月庚辰の日、晋州地震す。

秋七月丙寅の日、旱のため、親しく京城の囚徒を録す。

九月癸卯の日、右驍衛郎将高侃、車鼻可汗を執えて闕に詣り、社廟及び昭陵に献ず。己未の日、尚書左僕射・英国公李勣、固より職を解くを請う、之を許し、開府儀同三司同中書門下三品とす。

十一月己未の日、中書令・河南郡公褚遂良、左授されて同州刺史と為る。

十二月、瑤池都督・沙缽羅葉護阿史那賀魯、府を以て叛き、自ら可汗と称し、総べて西域の地を有つ。是の歳、雍・絳・同等九州旱蝗有り、齊・定等十六州水有り。

永徽二年

二年春正月戊戌の日、詔して曰く、「去歳関輔の地、頗る蝗螟に弊え、天下諸州、或いは水旱に遭う、百姓の間、致して罄乏有り。此れ朕の不徳に由り、兆庶何ぞ辜ならんや。物を矜み己を罪し、載せて深く憂惕す。今献歳肇春、東作方に始まらんとす、糧廩或いは空しく、事賑給に資す。其れ蟲水に遭う処に貧乏有る者は、正倉・義倉を以て賑貸すべし。雍・同二州には、各郎中一人を遣わして使と為し存問せしめ、務めて哀矜の旨を尽くし、朕の乃眷の心に副わしめよ」と。乙巳の日、黄門侍郎・平昌県公宇文節に銀青光禄大夫を加え、旧に依りて同中書門下三品とす。守中書侍郎柳奭を中書侍郎と為し、旧に依りて同中書門下三品とす。

夏四月乙酉の日、太廟令及び献・昭二陵令を従五品に、丞を従七品に秩す。

五月壬辰の日、開府儀同三司及び京官文武職事四品・五品に、並びに随身魚を給す。

六月辛酉の日、開府儀同三司・襄邑王李神符薨ず。

秋七月丁未の日、賀魯、金嶺城・蒲類県を寇陷し、武候大将軍梁建方・右驍衛大将軍契苾何力を弓月道総管と為し以て之を討たしむ。

八月乙丑の日、大食国始めて使いを遣わし朝献す。己巳の日、侍中・燕国公於志寧を尚書左僕射と為し、侍中兼刑部尚書・北平県公張行成を尚書右僕射と為し、並びに同中書門下三品とす、猶銜に入らず。中書令兼検校吏部尚書・條県公高季輔を侍郎と為す。

九月癸巳の日、九成宮を改めて万年宮と為し、玉華宮を廃して以て仏寺と為す。

閏月辛未の日、新定の律・令・格・式を天下に頒つ。冬十月辛卯の日、晋州地震す。

十一月辛酉、南郊で祭祀を行う。戊辰、定襄で地震が起こる。丁丑、高昌の故地に安西都護府を置く。白水蠻が麻州を寇し、左領軍將軍趙孝祖に命じてこれを討ち平らげる。

永徽三年

三年春正月癸亥、去秋よりこの月に至るまで雨が降らず、帝は正殿を避け、天下の死罪及び流罪を一等減じ、徒罪以下はすべてこれを宥す。弓月道総管梁建方・契苾何力らが牢山において処月の硃耶孤注を大破し、九千級を斬首し、渠帥六千を虜にし、生口一万余を俘え、牛馬雑畜七万を獲る。丙寅、太尉・趙國公長孫無忌が旱魃により退位を請うが、許さず。己巳、同州刺史・河南郡公褚遂良を吏部尚書・同中書門下三品とする。丙子、親しく太廟を祠る。丁亥、千畝で籍田を行い、群官に帛を賜うこと差等あり。

三月辛巳、黄門侍郎・平昌縣公宇文節を侍中とし、中書侍郎柳奭を中書令とする。庚申、観徳殿に幸し、文武群官に大射を賜う。

夏四月庚寅、左領軍將軍趙孝祖が白水蠻の大勃律を大破する。甲午、澧州刺史・彭王李元則薨ず。

五月庚辰、詔して周の司沐大夫裴融、齊の侍中崔季舒・給事黄門侍郎裴澤・尚書左丞封孝琰、隋の儀同三司豆盧毓・御史中丞游楚客らは、いずれも門に忠鯁を挺し、その子孫各々宜しく甄擢すべしとす。

秋七月丁巳、陳王李忠を立てて皇太子とし、大赦天下し、五品以上の子で父の後を継ぐ者に勲一転を賜い、大酺三日を行う。乙丑、左僕射于志寧が太子少師を兼ね、右僕射張行成が太子少傅を兼ね、侍中高季輔が太子少保を兼ね、侍中宇文節が太子詹事を兼ねる。丁丑、帝が戸部尚書高履行に問う「去年の進戸はいくらか」と。履行が奏して称す「進戸は総計十五万」と。また問うて曰く「隋の日には戸いくつありしや。今見るに戸いくつあるか」と。履行が奏す「隋の開皇中に戸八百七十万あり。即ち今見るに戸三百八十万あり」と。

九月丁巳、太子中允を内允と改め、中書舍人を内史舍人と改め、諸率府中郎を旅賁郎将と改め、太子の名を避く。

冬十月戊戌、同安大長公主の第に幸し、また高陽長公主の第に幸し、即日宮に還る。

十一月乙亥、駁馬国が使いを遣わして朝貢す。庚寅、弘化長公主が吐谷渾より来朝す。

十二月癸巳、濮王李泰薨ず。

永徽四年

四年春正月癸丑朔、帝が軒に臨むも、朝を受けず、濮王李泰が殯にあるによる。丙子、新たに除された房州刺史・駙馬都尉房遺愛、司徒・秦州刺史・荊王李元景、司空・安州刺史・呉王李恪、寧州刺史・駙馬都尉薛万徹、嵐州刺史・駙馬都尉柴令武が謀反す。

二月乙酉、遺愛・万徹・令武らは並びに誅せられ、元景・恪・巴陵高陽公主は並びに死を賜う。左驍衛大將軍・安国公執失思力を巂州に配流し、侍中兼太子詹事・平昌縣公宇文節を桂州に配流す。戊子、特進・太常卿・江夏王李道宗を桂州に配流し、恪の同母弟蜀王李愔を廃して庶人とす。己亥、絳州刺史・徐王李元礼に司徒を加授し、開府儀同三司・英国公李勣を司空とする。

三月壬子朔、孔穎達の『五経正義』を天下に頒ち、毎年明経科はこれに依って試験することを令す。丙辰、帝が観徳殿に御し、逆人房遺愛らの口馬資財を五つの塁に陳べ、王公・諸親・蕃客及び文武九品以上の者を引いて射させる。

夏四月戊子、林邑国の王が使者を遣わして来朝し、馴象を貢いだ。壬寅、旱魃のため正殿を避け、膳を減じ、自ら囚人を録し、使者を遣わして天下の冤獄を分かち省みさせ、文武の官に得失を極言するよう詔した。

八月己亥、同州の馮翊に隕石十八あり、声雷の如し。

九月壬寅、尚書右僕射・北平県公張行成薨ず。甲戌、吏部尚書・河南郡公褚遂良を尚書右僕射とし、旧に依り政事を知らしむ。

冬十月庚子、新豊の温湯に幸す。甲辰、新豊を曲赦す。乙巳、温湯より至る。戊申、睦州の女子陳碩貞、兵を挙げて反し、自ら文佳皇帝と称し、睦州の属県を攻め陥す。婺州刺史崔義玄・揚州都督府長史房仁裕、各々衆を率いてこれを討ち平らぐ。

十一月癸丑、兵部尚書・固安県公崔敦礼を侍中とす。新律疏を天下に頒つ。

十二月庚子、侍中兼太子少保・条県公高季輔卒す。

永徽五年

五年春三月戊午、万年宮に幸す。辛未、経過した州県の囚人を曲赦す。工部尚書閻立德に丁夫四万を領せしめ、長安の羅郭を築かしむ。

夏四月、守黄門侍郎潁川県公韓瑗・守尚書侍郎来済、並びに銀青光禄大夫を加えられ、旧に依り同中書門下三品とす。

閏五月丁丑の夜、大雨、水漲ぎ暴溢し、麟游県の居人及び当番の衛士を漂溺し、死者三千余人。

六月、恒州大雨、滹沱河泛溢し、五千余家を溺す。癸丑、蒲州汾陰県暴雨、居人を漂溺し、廬舎を浸壊す。癸亥、中書令柳奭、吏部尚書を兼ぬ。丙寅、河北諸州大水。

七月辛巳、雀の如き小鳥有り、万年宮の皇帝旧宅に鳩の如き大鳥を生む。

八月、大理、死囚を決するを奏す、総管七十余人。辛亥、詔して今より以後、五品以上に薨亡する者有れば、随身魚並びに追収するを須いず。辛未、吐蕃の使人、馬百匹及び高さ五丈、広袤各二十七歩の大廬を献ず。

九月丁酉、万年宮より至る。

冬十一月癸酉、京師の羅郭を築き、京兆の百姓四万一千人を和雇し、板築三十日にして罷む。九門各々観を施す。

十二月癸丑、倭国が琥珀・瑪瑙を献上す。琥珀は斗の如く大、瑪瑙は五斗器の如く大なり。戊午、京師を発ち昭陵を謁す。路にて皇子賢を生む。己未、二年を以て戸を定むることを勅す。

永徽六年

六年春正月壬申朔、親しく昭陵を謁し、醴泉県の民を曲赦し、今年の租賦を放つ。陵所の宿衛将軍・郎将は爵一等を進め、陵令・丞は階を加え物を賜う。甲戌、昭陵より至る。陵側に仏寺を建つ。庚寅、皇子弘を代王に封じ、賢を潞王に封ず。

二月乙巳、皇太子忠に元服を加え、内外文武職事五品以上にして父の後を為す者に勲一級を賜う。大酺三日。

三月、営州都督程名振、高麗を貴端水に破る。嘉州辛道譲の妻、一産に四男を生む。壬戌、昭儀武氏、『内訓』一篇を著す。

夏五月癸未、左屯衛大将軍・盧国公程知節ら五将軍に命じ師を帥いて葱山道より出で、賀魯を討たしむ。黄門侍郎・潁川郡公韓瑗を侍中と為し、中書侍郎・南陽男来済を中書令と為す。兼吏部尚書・河東県男柳奭を遂州刺史に貶す。

六月、大食国、使いを遣わし朝貢す。

秋七月乙亥、侍中・固安県公崔敦礼を中書令と為す。乙酉、天下の州県公廨を均す。

八月、尚薬奉御蒋孝璋を員外特置とし、仍って正と同じしむ。員外同正は蒋孝璋より始まる。己酉、大理に更に少卿一員を置く。先ず是れ大雨有り、道路通ぜず、京師の米価暴貴す。倉粟を出して之を糶す。京師東西二市に常平倉を置く。

九月庚午、尚書右僕射・河南郡公褚遂良、武昭儀の立つを諫むるを以て、貶授されて潭州都督と為る。乙酉、洛州大水、天津橋を毀つ。

冬十月己酉、皇后王氏を廃して庶人と為し、儀武昭氏を立てて皇后と為し、天下に大赦す。

十一月丁卯朔、軒に臨み、司空勣・左僕射志寧に命じて皇后を冊し、文武群官及び蕃夷の長、肅義門に於いて皇后に朝す。十一月己巳、皇后廟に見ゆ。癸酉、後父の故工部尚書・応国公・贈并州都督武士彠を追贈して司空と為す。丙子、淄州高苑県呉文威の妻魏氏、一産に四男を生み、三は育つを見る。癸巳、応国夫人楊氏を改封して代国夫人と為す。

十二月、礼部尚書・高陽県男許敬宗を遣わし、毎日武徳殿西門に待詔せしむ。

顕慶元年

七年春正月辛未、皇太子忠を廃して梁王と為し、代王弘を立てて皇太子と為す。壬申、大赦し、元を改めて顕慶と為す。文武九品以上及び五品以下にして子の父の後を為す者に、勲官一転を賜う。大酺三日。甲子、尚書左僕射兼太子少師・燕国公於志寧を兼ねて太子太傅と為し、侍中韓瑗・中書令来済・礼部尚書許敬宗、並びに太子賓客と為る。始めて賓客有り。玄武門に御し、葱山道大総管程知節を餞る。

二月庚寅、『破陣楽』を『神功破陣楽』と名づく。辛亥、司空武士彠を司徒・周国公に贈る。

三月辛巳、皇后北郊にて先蠶を祀る。丙戌、戸部侍郎杜正倫を守黄門侍郎・同中書門下三品となす。

夏四月戊申、安福門に御し、僧玄奘が御製並びに書したる慈恩寺碑文を迎ふるを観る。導従は天竺の法儀を以てし、其の徒甚だ盛なり。

五月己卯、太尉長孫無忌、史官の撰する所の梁・陳・周・齊・隋『五代史志』三十巻を進む。弘文館学士許敬宗、撰する所の『東殿新書』二百巻を進む。上自ら序を製す。

六月、岐州刺史・潞王賢を雍州牧となす。

秋七月癸未、中書令兼検校太子詹事・固安県公崔敦禮を太子少師・同中書門下三品となす。戸部尚書を度支尚書と改め、侍郎も亦た然り。

八月丙申、太子少師崔敦礼卒す。左衛大将軍程知節、賀魯の部する歌邏祿獲剌頡発及び処月預支俟斤等と榆幕谷に戦ひ、大いに之を破り、千余級を斬首し、駝馬牛羊万計を獲る。

九月癸酉、初めて戸三万已上を上州と為し、二万已上を中州と為す詔す。先づ上州・中州と為る者は各旧に依れ。皇后『外戚誡』を製す。庚辰、括州海水泛溢し、安固・永嘉二県を壊し、四千余家を損ず。辛巳、初めて都督及び上州に各執刀十五人を置き、中州・下州は十人と制す。癸未、初めて驃騎大将軍を置き、官は従一品と為す。程知節、賀魯の男咥運と戦ひ、数千級を斬首し、怛篤城に進み、其の部落戸口及び貨物の巨積を俘獲す。

冬十一月乙丑、皇子顕生まる。京官・朝集使に各勲級を加ふるを詔す。

十二月乙酉、算学を置く。左屯衛大将軍程知節、賀魯を討つに逗留し、賊を追ひ及ばざるに坐し、死を減じて官を免ず。蘭州都督を罷む。鄯州に都督を置く。

顕慶二年

二年春正月庚寅、洛陽に幸す。右屯衛将軍蘇定方等四将軍を伊麗道将軍と為し、師を帥いて以て賀魯を討たしむ。

二月辛酉、洛陽宮に入り、洛州を曲赦す。庚午、皇第七子顕を周王に封じ、許王素節を徙封して郇王と為す。

三月甲子、中書侍郎李義府を中書令兼検校御史大夫と為し、黄門侍郎杜正倫を度支尚書を兼ね、旧に依り同中書門下三品と為す。

夏五月丙申、明徳宮に幸す。

秋七月丁亥、洛陽宮に還る。

八月丁卯、侍中・潁川縣公韓瑗は振州刺史に左授せられ、中書令兼太子詹事・南陽侯來濟は臺州刺史に左授せらる。皆、武昭儀を立てて皇后と為すことを諫め、褚遂良の貶を救ひたるに坐すなり。禮部尚書・高陽郡公許敬宗は侍中と為る。武后を立てたる功によるなり。九月庚寅、度支尚書杜正倫は中書令と為る。

冬十月戊戌、許・鄭の郊に親しく講武し、鄭州を曲赦す。使いを遣はして鄭大夫國僑・漢太丘長陳實の墓を祭る。

十二月乙卯、洛陽宮に還る。庚午、「皞」「葉」の字を改む。丁卯、手詔して洛陽宮を東都と改め、洛州官員の階品は並びに雍州に準ず。穀州を廃し、福昌等四縣を以て、並びに懷州河陽・濟源・溫、鄭州汜水を洛州に隷せしむ。己巳、中書省に起居舍人兩員を置き、品は起居郎と同じし。庚午、周王顯を以て洛州牧と為す。壬午、散騎常侍を左右各兩員に分ち、其の右散騎常侍は中書省に隷す。

顯慶三年

三年春正月戊子、太尉・趙國公無忌等『新禮』を修して成る。凡そ一百三十卷、二百五十九篇、詔して天下に頒つ。

二月丁巳、車駕京に還る。壬午、親しく囚徒を録し、多く原宥す。蘇定方、西突厥沙鉢羅可汗賀魯及び咥運・闕啜を攻め破る。賀魯は石国に走る。副將蕭嗣業追ひて之を擒へ、其の人畜前後四十餘萬を収む。甲寅、西域平ぐ。其の地を以て濛池・昆陵二都護府を置く。復た龜茲国に安西都護府を置き、高昌の故地を以て西州と為す。懷化大將軍正三品、歸化將軍從三品を置き、以て初附の首領に授け、仍て諸衛に分隷せしむ。

六月、程名振、高麗を攻む。

九月、書・算・律學を廃す。有司、排車七百乘を造るを請ふ。行幸に擬ひて排城を載せんとす。上、民を労するを以て、乃ち旧頓に院墻を置く。

冬十一月乙酉、兼中書令・皇太子賓客兼檢校御史大夫・河間郡公李義府は普州刺史に左授せられ、兼中書令・皇太子賓客・襄陽郡公杜正倫は橫州刺史に左授せらる。中書侍郎李友益は名を除かれ、巂州に配流せらる。戊戌、侍中許敬宗は權檢校中書令と為る。戊子、侍中・皇太子賓客・權檢校中書令・高陽郡公許敬宗は中書令と為り、賓客已下は故の如し。大理卿辛茂將は侍中と為る。鴻臚卿蕭嗣業、石国に於て賀魯を取り至り、昭陵に献ず。甲辰、開府儀同三司・鄂國公尉遲敬德薨ず。

顯慶四年

四年春二月乙亥、上親しく挙人を策試す。凡そ九百人、惟だ郭待封・張九齢等五人のみ上第に居る。詔して弘文館に待詔せしめ、仗に随ひて供奉せしむ。

三月、左驍衛大將軍・郕國公契苾何力を以て遼東に往きて経略せしむ。

夏四月己未、太子太傅・尚書左僕射・燕國公於志寧は太子太師と為り、仍て同中書門下三品なり。乙丑、黃門侍郎許圉師は同中書門下三品なり。丙戌、太子太師・同中書門下三品・燕國公於志寧は官を免ぜられ、私第に放還せらる。戊戌、太尉・揚州都督・趙國公無忌は揚州都督を帯びて黔州に安置せられ、旧に準じて一品の供給を受く。五月丙申、兵部尚書任雅相・度支尚書盧承慶並びに政事に参知す。

秋七月壬子、普州刺史李義府は吏部尚書・同中書門下三品と為る。

冬十月乙巳、皇太子が元服を加え、天下に大赦し、文武五品以上の子孫で父祖の後を継ぐ者には勲官一級を加え、大酺三日を賜う。

閏十月戊寅、東都に幸し、皇太子に国を監せしむ。戊戌、東都に至る。

十一月、中書侍郎許圉師を散騎常侍・検校侍中となす。戊午、兼侍中辛茂将卒す。癸亥、邢国公蘇定方を神丘道総管とし、劉伯英を昆夷道総管となす。

顕慶五年

五年春正月甲子、并州に幸す。

二月辛巳、并州に至る。丙戌、従官及び諸親・并州官属の父老を宴し、帛を賜うこと差あり。并州及び管内諸州を曲赦す。義旗の初め職事五品以上で身亡し墳墓が并州にある者は、所司に命じて祭を致さしむ。佐命功臣の子孫及び大将軍府の僚佐以下で今見存する者には、階級を賜うこと差あり、才を量り処分す。起義の徒で職事一品以下には、物を賜うこと差あり。年八十以上には、版授して刺史・県令となす。佐命功臣で別封を食み身已に歿する者は、後子孫各に二階を加う。酺を賜うこと三日。甲午、旧宅を祠り、武士彠・殷開山・劉政会を以て配食す。

三月丙午、皇后、朝堂に於いて親族鄰里故旧を宴し、命婦婦人を内殿に入会せしめ、及び皇室諸親に帛を賜うこと各差あり、及び従行の文武五品以上にも及ぶ。制して皇后の故郷并州の長史・司馬各に勲級を加えしむ。又皇后親預会する者に、毎に物一千段を賜い、期親には五百段、大功以下及び無服の親・鄰里故旧には差あり。城内及び諸婦女で年八十以上には、各版授して郡君となし、仍て物等を賜う。己酉、并州城西に於いて武を講じ、上飛閣に御し、群臣を引いて臨観す。辛亥、神丘道の軍を発して百済を伐つ。丁巳、左右領始めて左右千牛と改む。

夏四月戊寅、車駕東都に還り、八関宮を東都苑内に造る。癸亥、并州より至る。

五月壬戌、八関宮に幸し、合璧宮と改む。

六月庚午朔、日蝕あり。辛卯、詔して文武五品以上に四科挙人を挙げしむ。甲午、駕東都に還る。

秋七月乙巳、梁王忠を廃して庶人とし、黔州に徙す。戊辰、度支尚書・同中書門下三品盧承慶、罪に坐して免ぜらる。八月庚辰、蘇定方等百済を討ち平げ、その王扶余義慈を面縛す。国を五部に分ち、郡三十七、城二百、戸七十六万、その地を以て熊津等五都督府を分置す。神丘・昆夷道総管以下を曲赦し、天下に大酺三日を賜う。

九月戊午、英国公李勣に墓塋一区を賜う。

冬十月丙子、代国夫人楊氏を改めて栄国夫人とし、品第一、位は王公の母妻の上に在る。

十一月戊戌朔、邢国公蘇定方、百済王扶余義慈・太子隆等五十八人の俘を則天門に献じ、責めてこれを宥す。乙卯、許・鄭の郊に狩す。

十二月己卯、許州より至る。

龍朔元年

六年春正月乙卯、河南・河北・淮南の六十七州において四万四千六百四十六人を募り、平壌帯方道の行営に赴かせた。

二月乙未、益州・綿州などが皆、龍の出現を言上したため、元号を改めた。洛州を曲赦した。

龍朔元年三月丙申朔、元号を改めた。壬戌、合璧宮に幸した。

夏五月丙申、左驍衛大将軍・涼国公契苾何力を遼東道大総管とし、左武衛大将軍・邢国公蘇定方を平壌道大総管とし、兵部尚書・同中書門下三品・楽安県公任雅相を浿江道大総管として、高麗を討伐させた。この日、皇后が天下の婦人に俳優の戯れを禁ずることを請い、詔してこれに従った。甲子晦、日蝕があった。

六月庚寅、中書令許敬宗らが『累璧』六百三十巻及び目録四巻を進上した。

秋七月癸卯、車駕が東都に還った。

八月丙戌、諸州に孝行が特に顕著な者及び累代にわたり義居して風俗を励ますことができる者を挙げるよう命じた。

九月甲辰、河南県の大女張が百三歳であるため、親しくその邸宅に幸した。また李勣の邸宅に幸した。天宮寺は高祖が潜龍の時の旧宅であり、上は殿宇を巡り歩き、感慨にふけって久しく、僧二十人を度した。皇后は許圉師の邸宅に至った。壬子、潞王賢を沛王に徙封した。この日、雍州牧・幽州都督・沛王賢を揚州都督・左武候大将軍とし、牧はもとの通りとした。洛州牧・周王顕を并州都督とした。この日、中書門下五品以上・諸司長官・尚書省侍郎及び諸親三等以上に勅し、皆、沛王の邸宅に詣でて宴礼を設け、『九部楽』を奏した。礼が終わると、帛・雑彩などを賜い、それぞれ差があった。

冬十月丁卯、陸渾で狩猟した。癸酉、宮中に還った。この年、新羅王金春秋が卒し、その子法敏が嗣立した。

龍朔二年

二年春正月乙巳、太府寺にさらに少卿一員を置き、両京を分けて検校させた。丙午、東都に初めて国子監を置き、学生などの員数を加え、両都に均分して教授させた。

二月甲子、京中の諸司及び百官の名称を改めた。尚書省を中台とし、門下省を東台とし、中書省を西台とし、左右僕射を左右匡政とし、左右丞を肅機とし、侍中を左相とし、中書令を右相とし、その他はそれぞれ義訓によって改めた。また六宮の内職の名称を改めた。甲戌、司戎太常伯・浿江道総管・楽安県公任雅相が軍中で卒した。

三月甲申、東都より京に還った。癸丑、同州に幸した。蘇定方が葦島において高麗を破り、さらに平壌城を攻めたが、陥とせずして還った。

夏四月庚申朔、東都より至った。辛巳、蓬萊宮が造営されて成り、これに徙居した。

五月丙申の日、左侍極許圉師を左相とした。乙巳の日、律学・書学・算学の三学を再び置いた。

六月己未の朔日、皇子旭輪が生まれた。乙丑の日、初めて道士・女冠・僧・尼らに、皆その父母に礼を尽くして拝礼することを命じた。乙亥の日、蓬莱宮の諸門・殿・亭などの名を定めた。

秋七月丁亥の朔日、東宮(皇太子)の誕生満月を以て、天下に大赦を行い、三日間の賜酺(酒宴の許可)を与えた。

八月甲午の日、右相許敬宗が致仕を願い出た。壬寅の日、許敬宗を太子少師とし、同東西台三品とし、なお西台の事を管掌させた。

九月、司礼少常伯孫茂道が上奏して言う、「八品・九品の旧令は青色の服を着ると定めていますが、紫色と紛らわしく、卑しい品階の者が着るべきではありません。碧色の服を着るよう命じることを望みます」。詔してこれに従った。戊寅の日、前吏部尚書・河間郡公李義府を起復して司列太常伯とし、同東西台三品とした。

冬十月丁酉の日、温湯に行幸し、皇太子弘が国事を監理した。丁未の日、温湯から帰還した。庚戌の日、西台侍郎上官儀を同東西台二品とした。

十一月辛未の日、左相許圉師を獄に下した。癸酉の日、皇第四子旭輪を殷王に封じた。

十二月辛丑の日、魏州を冀州大都督府と改め、冀州を魏州と改めた。また、并州・揚州・荊州・益州の四都督府をいずれも大都督府とした。沛王賢を揚州大都督とし、周王顕を并州大都督とし、殷王旭輪を遥かに冀州大都督に任じた。左相許圉師の現任の職を解いた。

龍朔三年

三年春正月、左武衛大将軍鄭仁泰らが軍を率いて鉄勒の残党を討ち、これを悉く平定した。乙丑の日、司列太常伯李義府を右相とした。二月丙戌の日、隴州・雍州・同州・岐州など十五州の戸口を徴発して蓬莱宮の修築に当たらせた。癸巳の日、太子左右諭徳及び桂坊大夫などの官員を置き、司経局を桂坊館と改め、崇賢館は左春坊の隷属を罷めた。丁酉の日、京官の一月分の俸給を減じて、蓬莱宮修築の助けとした。庚戌の日、詔して言う、「天の徳は生を施し、陽気は節に和す。幽閉された獄を思い、夜の分け目に哀れみを覚える。たとえ毎度哀れみを加えているとはいえ、なお冤罪や濫刑を免れていないことを恐れる。京師に在って流罪・死罪に当たる囚は、毎日二十人ずつ連れて来よ」。ここにおいて自ら臨んで訊問し、多くを赦免し、尽くさなかった者は皇太子に記録させた。詔して、書学を蘭台に隷属させ、算学を秘閣に隷属させ、律学を詳刑寺に隷属させた。燕然都護府を瀚海都護府と改め、瀚海都護府を雲中都護府と改めた。二月、前左相許圉師を左遷して虔州刺史とした。太子弘が撰した『瑤山玉彩』が完成し、書は凡そ五百巻であった。

夏四月乙丑の日、右相李義府を獄に下した。戊子の日、李義府を除名し、巂州に配流した。丙午の日、蓬莱宮に新たに建てられた含元殿に行幸した。

秋八月癸卯の日、彗星が左摂提(星宿)に現れた。戊申の日、詔して百官に直言正諫を極言することを命じた。司元太常伯竇徳玄・司刑太常伯劉詳道ら九人を持節大使とし、分かれて天下を行き巡らせた。なお内外の官で五品以上の者に、それぞれ知る者を推挙することを命じた。

冬十月丙申の日、絳州の介山に麒麟が現れた。丙午の日、含元殿の前に麟の足跡が現れた。

十一月癸酉の日、氷雨が降った。

十二月庚子の日、詔して来年の正月一日を麟徳元年と改めることを定めた。

麟徳元年

麟徳元年春正月甲子、雲中都護府を改めて単于大都護府と為し、官品は大都督府と同じ。

二月丁亥、殷王旭輪に単于大都護を加授す。戊子、万年宮に幸す。

三月辛亥、大射の礼を展ぶ。丁卯、長女を追封して安定公主と為し、諡して思と曰う。その鹵簿鼓吹及び葬に供する所須は、並びに親王の制の如くし、徳業寺に於いて崇敬寺に遷す。

夏四月、衛州刺史・道王元慶薨ず。

五月、許王孝薨ず。乙卯、昆明の弄棟川に於いて姚州都督府を置く。

秋八月丙子朔、万年宮より至り、便ち旧宅に幸す。己卯、万年県の囚を降し、因りて大慈恩寺に幸す。壬午、蓬莱宮に還る。戊子、司列太常伯を兼ね、沛王府長史・城陽県侯劉祥道を検校し、右相を兼ね、大司憲竇徳玄は司元太常伯を兼ね、左相を検校す。

九月己卯、詔して曰く、「周の京兆尹・左右宮伯大将軍・司衛上将軍・少塚宰・広陵郡公宇文孝伯は、忠亮心に存し、貞賢志に表わる。淫刑既に逞しきに及び、方に諫を納れて仁を求めんとし、忍忌将に加わらんとし、甘んじて躯を捐てて節に徇う。年載久しきと雖も、風烈猶ほ生く。宜しく徽章を峻くし、式に胤冑を旌くべし。其の孫左威衛長史思純は、加授して朝散大夫と為すべし」と。

十二月丙戌、西台侍郎上官儀を殺す。戊子、庶人忠は儀と交通するに坐し、死を賜う。右相・城陽県侯劉祥道は司礼太常伯と為る。太子右中護検校西台侍郎楽彦瑋・西台侍郎孫処約は同く政事を知る。是の冬雪無し。

麟徳二年

二年春正月壬午、東都に幸す。丁酉、合璧宮に幸す。戊子、雍・洛二州及び諸司の囚を慮す。甲子、泰山に向かいて発するを以て、選を停む。

三月甲寅、司戎太常伯を兼ね、永安郡公姜恪は東西台三品に同ず。辛未、東都に乾元殿を造り成る。

閏月癸酉、日に蝕有り。四月丙午、桂・広・黔三都督府管内の大辟罪已上を曲赦す。丙寅、邙山の陽に武を講じ、城北楼に御して之を観る。戊辰、左侍極・仍検校大司成・嘉興県子陸敦信を検校右相と為し、其の大司成は宜しく停むべし。西台侍郎孫処約・楽彦瑋は並びに政事を知るを停む。

五月辛卯、秘閣郎中李淳風の歴を造り成るを以て、名づけて『麟徳歴』とし、之を頒つ。司空・英国公李勣、少師・高陽郡公許敬宗、右相・嘉興県子陸敦信、左相・鉅鹿男竇徳玄を以て検校封禅使と為す。六月、鄜州大水し、城邑を壊す。秋七月、鄧王元裕薨ず。

冬十月戊午、皇后封禅を請う。司礼太常伯劉祥道上疏して封禅を請う。癸亥、高麗王高藏其の子福男を遣わして来朝す。丁卯、将に泰山を封ぜんとし、東都より発す。是の歳大稔し、米斗五銭、麰麦市に列せず。

十一月丙子、原武にやどる。少牢を以て漢の将紀信の墓を祭り、驃騎大將軍を贈る。庚寅、華州刺史・燕國公於志寧卒す。

十二月丙午、齊州の大㕔に御す。乙卯、有司に命じて泰山を祭らしむ。丙辰、靈巖頓より発つ。