舊唐書

巻002

巻002

舊唐書

原文舊唐書

卷二

原文卷二

本紀第二 太宗上

原文本紀第二 太宗上

太宗上

原文太宗上

太宗文武大聖大広孝皇帝、諱は世民、高祖こうその第二子なり。母は太穆順聖皇后竇氏と曰う。隋の開皇十八年十二月戊午、武功の別館に生まる。時に二龍有りて館門の外に戯れ、三日にして去る。高祖の岐州に臨むや、太宗時に年四歳。書生有りて自ら善く相を見ると言い、高祖に謁して曰く、「公は貴人なり、且つ貴子有らん」と。太宗を見て曰く、「龍鳳の姿、天日の表、年将に二十に及ばば、必ず能く世を済い民を安んずるあらん」と。高祖其の言の洩るるを懼れ、将に之を殺さんとす、忽ち所在を失う。因りて「世を済い民を安んず」の義を採りて以て名と為す。太宗幼くして聡睿、玄鑒深遠、機に臨みて果斷、小節に拘わらず、時に人測る能わざるなり。

原文太宗文武大聖大廣孝皇帝諱世民,高祖第二子也。母曰太穆順聖皇后竇氏。隋開皇十八年十二月戊午,生於武功之別館。時有二龍戲於館門之外,三日而去。高祖之臨岐州,太宗時年四歲。有書生自言善相,謁高祖曰:「公貴人也,且有貴子。」見太宗,曰:「龍鳳之姿,天日之表,年將二十,必能濟世安民矣。」高祖懼其言洩,將殺之,忽失所在,因採「濟世安民」之義以為名焉。太宗幼聰睿,玄鑒深遠,臨機果斷,不拘小節,時人莫能測也。

大業末、煬帝雁門に於て突厥に囲まる。太宗募に応じて救援し、屯衛将軍云定興の営に隷す。将に行かんとし、定興に謂いて曰く、「必ず旗鼓を齎し以て疑兵を設くべし。且つ始畢可汗は挙国の師を挙げ、敢えて天子を囲むは、必ず国家の倉卒にして援無きを以てす。我軍容を張り、数十里に幡旗相続き、夜は則ち鉦鼓相応ぜしめば、虜必ず救兵雲集すと謂い、塵を望みて遁るべし。然らずんば、彼は衆にして我は寡、悉く軍を来して戦わば、必ず支うる能わざるべし」と。定興之に従う。師崞県に次ぐ。突厥の候騎馳せて始畢に告げて曰く、王師大いに至ると。是に由りて囲みを解きて遁る。高祖の太原を守るに及び、太宗時に年十八。高陽の賊帥魏刀児有り、自ら歴山飛と号す。来たりて太原を攻む。高祖之を撃ち、深く賊陣に入る。太宗軽騎を以て突囲して進み、之を射て、向かう所皆披靡し、高祖を万衆の中より抜く。適に会うに歩兵至り、高祖と太宗又奮撃し、之を大破す。時に隋の祚已に終わり、太宗潜かに義挙を図り、毎に節を折りて士に下り、財を推して客を養い、群盗大侠、効死力を願わざる莫し。義兵起るに及び、乃ち兵を率いて西河を略徇し、之を克つ。右領大都督ととくに拝し、右三軍皆之に隷し、燉煌郡公に封ぜらる。

原文大業末,煬帝於雁門為突厥所圍,太宗應募救援,隸屯衛將軍云定興營。將行,謂定興曰:「必齎旗鼓以設疑兵。且始畢可汗舉國之師,敢圍天子,必以國家倉卒無援。我張軍容,令數十里幡旗相續,夜則鉦鼓相應,虜必謂救兵雲集,望塵而遁矣。不然,彼眾我寡,悉軍來戰,必不能支矣。」定興從焉。師次崞縣,突厥候騎馳告始畢曰:王師大至。由是解圍而遁。及高祖之守太原,太宗時年十八。有高陽賊帥魏刀兒,自號歷山飛。來攻太原,高祖擊之,深入賊陣。太宗以輕騎突圍而進,射之,所向皆披靡,拔高祖於萬眾之中。適會步兵至,高祖與太宗又奮擊,大破之。時隋祚已終,太宗潛圖義舉,每折節下士,推財養客,群盜大俠,莫不願效死力。及義兵起,乃率兵略徇西河,克之。拜右領大都督,右三軍皆隸焉,封燉煌郡公。

大軍西上して賈胡堡に至る。隋将宋老生精兵二万を率いて霍邑に屯し、以て義師を拒ぐ。会うに久雨して糧尽き、高祖裴寂と議し、且つ太原に還り、以て後の挙を図らんとす。太宗曰く、「本より大義を興して蒼生を救わんとす、須らく先ず咸陽に入り、天下に号令すべし。小敵に遇いて即ち班師せば、将に義に従うの徒一朝に解体せんことを恐る。還りて太原一城の地を守るは、此れ賊たるのみ。何を以てか自ら全からん」と。高祖納れず、促して引發を令す。太宗遂に外に号泣し、声帳中に聞ゆ。高祖召して其の故を問う。対えて曰く、「今兵は義を以て動く。進みて戦えば則ち必ず克ち、退きて還れば則ち必ず散ず。衆は前に散じ、敵は後に乗ず。死亡須臾にして至らん。是を以て悲しむなり」と。高祖乃ち悟りて止む。

原文大軍西上賈胡堡,隋將宋老生率精兵二萬屯霍邑,以拒義師。會久雨糧盡,高祖與裴寂議,且還太原,以圖後舉。太宗曰:「本興大義以救蒼生,當須先入咸陽,號令天下;遇小敵即班師,將恐從義之徒一朝解體。還守太原一城之地,此為賊耳,何以自全!」高祖不納,促令引發。太宗遂號泣於外,聲聞帳中。高祖召問其故,對曰:「今兵以義動,進戰則必克,退還則必散。眾散於前,敵乘於後,死亡須臾而至,是以悲耳。」高祖乃悟而止。

八月己卯、雨霽ゆ。高祖師を引きて霍邑に趣く。太宗老生の出でて戦わざるを恐れ、乃ち数騎を将いて先ず其の城下に詣り、鞭を挙げて指麾し、将に城を囲まんとするが若くし、以て之を激怒せしむ。老生果たして怒り、門を開きて兵を出し、城を背にして陣す。高祖建成と城東に合陣し、太宗及び柴紹城南に陣す。老生兵を麾して疾く進み、先ず高祖に薄る。而して建成馬より墜つ。老生之に乗ず。高祖と建成の軍咸く却く。太宗南原より二騎を率いて峻阪を馳せ下り、其の軍を沖ぎ断ち、兵を引きて奮撃す。賊衆大いに敗れ、各仗を捨てて走る。懸門発す。老生縄を引きて上らんと欲す。遂に之を斬り、霍邑を平ぐ。河東に至る。関中の豪傑争い走りて義に赴く。太宗師を進めて関に入り、永豊倉を取って窮乏を賑い、群盗を収めて京師を図らんことを請う。高祖善しと称す。太宗前軍を以て河を済い、先ず渭北を定む。三輔の吏民及び諸豪猾軍門に詣りて自ら効せんことを請う者日に千計す。老を扶け幼を携え、麾下に満つ。英俊を収納し、以て僚列に備う。遠近聞く者、咸く自ら托す。師涇陽に次ぐ。勝兵九万、胡賊劉鷂子を破り、其の衆を併せす。殷開山、劉弘基を留めて長安ちょうあん故城に屯せしむ。太宗自ら司竹に趣く。賊帥李仲文、何潘仁、向善志等皆来会し、阿城に頓す。兵十三万を獲る。長安の父老牛酒を齎し旌門に詣る者勝げて紀す可からず。労して之を遣り、一も受けざる所無し。軍令厳肅、秋毫も犯す所無し。尋いで大軍と京城を平ぐ。高祖政を輔け、唐国内史を受け、秦国公に改封せらる。会うに薛挙勁卒十万を以て来たりて渭濱に逼る。太宗親しく之を撃ち、其の衆を大破し、追い斬ること万余級、地を略して隴坻に至る。

原文八月己卯,雨霽,高祖引師趣霍邑。太宗恐老生不出戰,乃將數騎先詣其城下,舉鞭指麾,若將圍城者,以激怒之。老生果怒,開門出兵,背城而陣。高祖與建成合陣於城東,太宗及柴紹陣於城南。老生麾兵疾進,先薄高祖,而建成墜馬,老生乘之,高祖與建成軍咸卻。太宗自南原率二騎馳下峻阪,沖斷其軍,引兵奮擊,賊眾大敗,各舍仗而走。懸門發,老生引繩欲上,遂斬之,平霍邑。至河東,關中豪傑爭走赴義。太宗請進師入關,取永豐倉以賑窮乏,收群盜以圖京師,高祖稱善。太宗以前軍濟河,先定渭北。三輔吏民及諸豪猾詣軍門請自效者日以千計,扶老攜幼,滿於麾下。收納英俊,以備僚列,遠近聞者,咸自托焉。師次於涇陽,勝兵九萬,破胡賊劉鷂子,並其眾。留殷開山、劉弘基屯長安故城。太宗自趣司竹,賊帥李仲文、何潘仁、向善志等皆來會,頓於阿城,獲兵十三萬。長安父老齎牛酒詣旌門者不可勝紀,勞而遣之,一無所受。軍令嚴肅,秋毫無所犯。尋與大軍平京城。高祖輔政,受唐國內史,改封秦國公。會薛舉以勁卒十萬來逼渭濱,太宗親擊之,大破其眾,追斬萬餘級,略地至於隴坻。

義寧元年十二月、復た右元帥と為り、兵十万を総べて東都を徇す。将に旋らんとし及んで、左右に謂いて曰く、「賊吾の還るを見て、必ず相追躡せん」と。三伏を設けて以て之を待つ。俄にして隋将段達万余人を率いて後より至り、三王陵を度る。伏を発して之を撃つ。段達大いに敗れ、追奔して城下に至る。因りて宜陽、新安を於て熊、穀の二州を置き、之を戍して還る。趙国公に徙封せらる。高祖禅を受け、尚書令しょうしょれい、右武候大将軍に拝し、秦王に進封せられ、雍州牧を加授せらる。

原文義寧元年十二月,復為右元帥,總兵十萬徇東都。及將旋,謂左右曰:「賊見吾還,必相追躡。」設三伏以待之。俄而隋將段達率萬餘人自後而至,度三王陵,發伏擊之,段達大敗,追奔至於城下。因於宜陽、新安置熊、穀二州,戍之而還。徙封趙國公。高祖受禪,拜尚書令、右武候大將軍,進封秦王,加授雍州牧。

武德元年七月、薛挙が涇州を寇す。太宗は衆を率いてこれを討つも、利あらずして還る。九月、薛挙死す。その子仁杲嗣立す。太宗また元帥となりて仁杲を撃ち、折墌城において相持すること六十余日に及ぶ。賊衆十余万、兵鋒甚だ鋭く、数たび来たりて挑戦す。太宗は甲を按じてこれを挫く。賊糧尽き、その将牟君才・梁胡郎来降す。太宗諸将軍に謂いて曰く、「彼気衰えたり。吾まさにこれを取るべし」と。将軍龐玉を遣わし、先ず浅水原の南に陣してこれを誘う。賊将宗羅㬋軍を並べて来たり拒ぐ。玉の軍幾くんか敗れんとす。既にして太宗親しく大軍を御し、奄に原の北よりし、その不意に出づ。羅㬋望見し、復た師を回らして相拒ぐ。太宗驍ぎょう騎数十を将いて賊陣に入る。ここにおいて王師表裏斉しく奮い、羅㬋大いに潰え、首級数千を斬り、澗谷に投じて死する者算うべからず。太宗左右二十余騎を率いて奔を追い、直ちに折墌に趣きてこれを乗ず。仁杲大いに懼れ、城を嬰いて自ら守る。将に夕べならんとして、大軍継ぎて至り、四面合囲す。詰朝、仁杲降を請う。その精兵一万余人・男女五万口を俘虜す。既にして諸将賀を奉ず。因りて問うて曰く、「始め大王野戦に賊を破り、その主なお堅城を保つ。王攻具無く、軽騎騰逐し、歩兵を待たず、径に城下に薄る。咸に克たずと疑えども、竟にこれを下す。何ぞや」と。太宗曰く、「これ権道を以てこれを迫り、その計の発するに暇あらしめざるが故に、克つなり。羅㬋往年の勝に恃み、兼ねてまた鋭を養うこと日久し。吾の出でざるを見て、意相軽するに在り。今吾の出づるを喜び、悉く兵をして来たり戦わしむ。これを撃破すと雖も、擒殺すること蓋し少なし。若し急に躡わずんば、還り走りて城に投ぜん。仁杲これを収めて撫せば、則ち便ち未だ得べからざるなり。且つその兵衆皆隴西の人、一敗して披退すれば、回顧に及ばず、散じて隴外に帰らん。則ち折墌自ら虚し。我が軍これに随いて迫る。故に懼れて降るなり。これ成算と謂うべし。諸君尽く見ざるか」と。諸将曰く、「これ凡人能く及ぶ所にあらず」と。賊兵の精騎甚だ衆くを獲、還って仁杲兄弟及び賊帥宗羅㬋・翟長孫等にこれを領せしむ。太宗これと游獵馳射し、間然たること無し。賊徒恩に荷い気を懾し、咸く死を效わんことを願う。時に李密初めて附く。高祖密をして伝を馳せて太宗を豳州に迎えしむ。密太宗の天姿神武、軍威厳粛なるを見て、驚悚嘆服し、私に殷開山に謂いて曰く、「真に英主なり。此くの如くせずんば、何を以てか禍乱を定めんや」と。凱旋し、捷を太廟に献ず。太尉・陜東道行臺尚書令に拝し、長春宮に鎮り、関東の兵馬並びに節度を受く。尋いで左武候大將軍・涼州総管を加う。

原文武德元年七月,薛舉寇涇州,太宗率眾討之,不利而旋。九月,薛舉死,其子仁杲嗣立。太宗又為元帥以擊仁杲,相持於折墌城,深溝高壘者六十餘日。賊眾十餘萬,兵鋒甚銳,數來挑戰,太宗按甲以挫之。賊糧盡,其將牟君才、梁胡郎來降。太宗謂諸將軍曰:「彼氣衰矣,吾當取之。」遣將軍龐玉先陣於淺水原南以誘之,賊將宗羅㬋並軍來拒,玉軍幾敗。既而太宗親御大軍,奄自原北,出其不意。羅㬋望見,復回師相拒。太宗將驍騎數十入賊陣,於是王師表裏齊奮,羅㬋大潰,斬首數千級,投澗穀而死者不可勝計。太宗率左右二十餘騎追奔,直趣折墌以乘之。仁杲大懼,嬰城自守。將夕,大軍繼至,四面合圍。詰朝,仁杲請降,俘其精兵萬餘人、男女五萬口。既而諸將奉賀,因問曰:「始大王野戰破賊,其主尚保堅城,王無攻具,輕騎騰逐,不待步兵,徑薄城下,咸疑不克,而竟下之,何也?」太宗曰:「此以權道迫之,使其計不暇發,以故克也。羅㬋恃往年之勝,兼復養銳日久,見吾不出,意在相輕。今喜吾出,悉兵來戰,雖擊破之,擒殺蓋少。若不急躡,還走投城,仁杲收而撫之,則便未可得矣。且其兵眾皆隴西人,一敗披退,不及回顧,散歸隴外,則折墌自虛,我軍隨而迫之,所以懼而降也。此可謂成算,諸君盡不見耶?」諸將曰:「此非凡人所能及也。」獲賊兵精騎甚眾,還令仁杲兄弟及賊帥宗羅㬋、翟長孫等領之。太宗與之游獵馳射,無所間然。賊徒荷恩懾氣,咸願效死。時李密初附,高祖令密馳傳迎太宗於豳州。密見太宗天姿神武,軍威嚴肅,驚悚嘆服,私謂殷開山曰:「真英主也。不如此,何以定禍亂乎?」凱旋,獻捷於太廟。拜太尉、陜東道行臺尚書令,鎮長春宮,關東兵馬並受節度。尋加左武候大將軍、涼州總管。

宋金剛の澮州を陥すや、兵鋒甚だ鋭し。高祖、王行本なお蒲州に拠り、呂崇茂夏県に反し、晋・澮二州相継いで陷没し、関中震駭するを以て、乃ち手敕して曰く、「賊勢此くの如し。争鋒に難し。宜しく河東の地を棄て、謹んで関西を守るのみ」と。太宗上表して曰く、「太原は王業の基く所、国の根本なり。河東は殷実にして、京邑の資る所なり。若し挙げてこれを棄てんには、臣窃に憤恨す。願わくは精兵三万を仮り、必ずや武周を平殄し、汾・晋を克復せん」と。高祖ここにおいて関中の兵を悉く発してこれを益し、又た長春宮に幸して親しく太宗を送る。二年十一月、太宗衆を率いて龍門関に趣き、氷を履いてこれを渡り、進みて柏壁に屯し、賊将宋金剛と相持す。尋いで永安王孝基夏県に敗れ、於筠・獨孤懷恩・唐儉並びに賊将尋相・尉遅敬德の執る所となり、将に澮州に還らんとす。太宗殷開山・秦叔宝を遣わし、これを美良川に邀え、大いにこれを破る。相等僅かに身を免る。その衆を悉く虜とし、復た柏壁に帰す。ここにおいて諸将咸く戦を請う。太宗曰く、「金剛軍を千里に懸け、深く吾が地に入る。精兵驍将、皆ここに在り。武周太原に拠り、専ら金剛を倚りて以て捍と為す。士卒衆しと雖も、内実空虚にして、意速戦に在り。我堅営して鋭を蓄え、その鋒を挫かん。糧尽き計窮すれば、自ら遁走すべし」と。

原文宋金剛之陷澮州也,兵鋒甚銳。高祖以王行本尚據蒲州,呂崇茂反於夏縣,晉、澮二州相繼陷沒,關中震駭,乃手敕曰:「賊勢如此,難與爭鋒,宜棄河東之地,謹守關西而已。」太宗上表曰:「太原王業所基,國之根本,河東殷實,京邑所資。若舉而棄之,臣竊憤恨。願假精兵三萬,必能平殄武周,克復汾、晉。」高祖於是悉發關中兵以益之,又幸長春宮親送太宗。二年十一月,太宗率眾趣龍門關,履冰而渡之,進屯柏壁,與賊將宋金剛相持。尋而永安王孝基敗於夏縣,於筠、獨孤懷恩、唐儉並為賊將尋相、尉遲敬德所執,將還澮州。太宗遣殷開山、秦叔寶邀之於美良川,大破之,相等僅以身免,悉虜其眾,復歸柏壁。於是諸將咸請戰,太宗曰:「金剛懸軍千里,深入吾地,精兵驍將,皆在於此。武周據太原,專倚金剛以為捍。士卒雖眾,內實空虛,意在速戰。我堅營蓄銳以挫其鋒,糧盡計窮,自當遁走。」

三年二月、金剛竟に衆餒えて遁る。太宗これを介州に追う。金剛陣を列ね、南北七里、以て官軍を拒ぐ。太宗総管李世勣・程咬金・秦叔宝を遣わし、その北に当たらしめ、翟長孫・秦武通をしてその南に当たらしむ。諸軍戦いて小しく却き、賊の乗ずる所と為る。太宗精騎を率いてこれを撃ち、その陣後を沖く。賊衆大いに敗れ、奔を追うこと数十里。敬德・相衆八千を率いて来降す。還って敬德にこれを督せしめ、軍営と相参わらしむ。屈突通その変を為さんことを懼れ、驟りて以て請う。太宗曰く、「昔蕭王赤心を推して人の腹中に置き、並びに能く命を畢う。今敬德を委任す。又何ぞ疑わんや」と。ここにおいて劉武周突厥に奔る。并へい・汾悉く旧地を復す。詔して軍に就きて益州道行臺尚書令を拝することを加う。

原文三年二月,金剛竟以眾餒而遁,太宗追之至介州。金剛列陣,南北七里,以拒官軍。太宗遣總管李世勣、程咬金、秦叔寶當其北,翟長孫、秦武通當其南。諸軍戰小卻,為賊所乘。太宗率精騎擊之,沖其陣後,賊眾大敗,追奔數十里。敬德、相率眾八千來降,還令敬德督之,與軍營相參。屈突通懼其為變,驟以為請。太宗曰:「昔蕭王推赤心置人腹中,並能畢命,今委任敬德,又何疑也。」於是劉武周奔於突厥,並、汾悉復舊地。詔就軍加拜益州道行臺尚書令。

七月、諸軍を総率して王世充を洛邑に攻む。師穀州に次ぐ。世充精兵三万を率いて慈澗に陣す。太宗軽騎を以てこれを挑む。時に衆寡敵せず、重囲に陷り、左右咸く懼る。太宗左右を命じて先に帰らしめ、独り後殿に留まる。世充の驍将単雄信数百騎、道を夾みて来たり逼り、搶を交えて競い進む。太宗幾くんか敗れんとす。太宗左右してこれを射れば、弦に応じて倒れざる無し。その大将燕頎を獲る。世充乃ち慈澗の鎮を抜きて東都に帰る。太宗行軍総管史万宝を遣わし、宜陽より南して龍門を拠らしめ、劉德威をして太行より東して河内を囲ましめ、王君廓をして洛口より賊の糧道を断たしむ。又た黄君漢を遣わし、夜孝水河中より舟師を下して回洛城を襲わしめ、これを克つ。黄河已南、響応せざる莫く、城堡相次いで来降す。大軍進みて邙山に屯す。九月、太宗五百騎を以て先ず戦地を観る。卒然として世充の万余人と相遇い、会戦し、復たこれを破り、首級三千余を斬り、大将陳智略を獲る。世充僅かに身を免る。その署する所の筠州総管楊慶使いを遣わして降を請う。李世勣を遣わし師を率いて轘轅道より出で、その衆を安撫せしむ。滎・汴・洧・豫よ等九州相継いで来降す。世充遂に竇建德に求救す。

原文七月,總率諸軍攻王世充於洛邑,師次穀州。世充率精兵三萬陣於慈澗,太宗以輕騎挑之。時眾寡不敵,陷於重圍,左右咸懼。太宗命左右先歸,獨留後殿。世充驍將單雄信數百騎夾道來逼,交搶競進,太宗幾為所敗。太宗左右射之,無不應弦而倒,獲其大將燕頎。世充乃拔慈澗之鎮歸於東都。太宗遣行軍總管史萬寶自宜陽南據龍門,劉德威自太行東圍河內,王君廓自洛口斷賊糧道。又遣黃君漢夜從孝水河中下舟師襲回洛城,克之。黃河已南,莫不響應,城堡相次來降。大軍進屯邙山。九月,太宗以五百騎先觀戰地,卒與世充萬餘人相遇,會戰,復破之,斬首三千餘級,獲大將陳智略,世充僅以身免。其所署筠州總管楊慶遣使請降,遣李世勣率師出轘轅道安撫其眾。滎、汴、洧、豫九州相繼來降。世充遂求救於竇建德。

四年二月、また進んで青城宮に屯した。営壘未だ立たず、世充の衆二万、方諸門より谷水に臨んで陣す。太宗は精騎を以て北邙山に陣し、屈突通に歩卒五千を率いさせて水を渡りて之を撃たしめ、因りて通に誡めて曰く、「兵交はるや即ち煙を放て、吾当に騎軍を率いて南下せん」と。兵纔に接するや、太宗は騎を以て之を衝き、身を挺して先んじ進み、通と表裏相応ず。賊衆殊死に戦い、散じて復た合する者数たびなり。辰より午に及び、賊衆始めて退く。兵を縦ちて之に乗じ、俘斬八千人、ここに進みて城下に営す。世充敢えて復た出でず、但だ城を嬰して自ら守り、建德の援を待つ。太宗は諸軍を遣わして塹を掘らしめ、長囲を匝布して以て之を守る。呉王杜伏威、其の将陳正通・徐召宗を遣わして精兵二千を率い来たり軍所に会せしむ。偽鄭州司馬沈悦、武牢を以て降り、将軍王君廓之に応じ、其の偽荊王王行本を擒う。会に竇建德、兵十余万を以て来たり世充を援け、酸棗に至る。蕭瑀・屈突通・封徳彞皆、腹背敵を受くるを以て、恐らくは万全に非ずとし、師を退き穀州にて以て之を観んことを請う。太宗曰く、「世充糧尽き、内外心を離る、我当に労せずして攻撃し、坐して其の敝を収むべし。建德新たに孟海公を破り、将驕り卒惰る、吾当に進みて武牢を拠り、其の襟要を扼せん。賊若し険を冒して我と鋒を争わば、之を破ること必せり。其れ戦わざれば、旬日の間に世充自ずから潰るべし。若し速やかに進まざれば、賊武牢に入り、諸城新たに附するも、必ず守ること能わず。二賊力を併せば、将に之を如何せん」と。通また囲みを解きて険に就き、以て其の変を候わんことを請う、太宗許さず。ここに通を留めて斉王元吉を輔けしめて以て世充を囲ましめ、親しく歩騎三千五百人を率いて武牢に趣く。

原文四年二月,又進屯青城宮。營壘未立,世充眾二萬自方諸門臨谷水而陣。太宗以精騎陣於北邙山,令屈突通率步卒五千渡水以擊之,因誡通曰:「待兵交即放煙,吾當率騎軍南下。」兵才接,太宗以騎沖之,挺身先進,與通表裏相應。賊眾殊死戰,散而復合者數焉。自辰及午,賊眾始退。縱兵乘之,俘斬八千人,於是進營城下。世充不敢復出,但嬰城自守,以待建德之援。太宗遣諸軍掘塹,匝布長圍以守之。吳王杜伏威遣其將陳正通、徐召宗率精兵二千來會於軍所。偽鄭州司馬沈悅以武牢降,將軍王君廓應之,擒其偽荊王王行本。會竇建德以兵十餘萬來援世充,至於酸棗。蕭瑀、屈突通、封德彞皆以腹背受敵,恐非萬全,請退師穀州以觀之。太宗曰:「世充糧盡,內外離心,我當不勞攻擊,坐收其敝。建德新破孟海公,將驕卒惰,吾當進據武牢,扼其襟要。賊若冒險與我爭鋒,破之必矣。如其不戰,旬日間世充當自潰。若不速進,賊入武牢,諸城新附,必不能守。二賊並力,將若之何?」通又請解圍就險以候其變,太宗不許。於是留通輔齊王元吉以圍世充,親率步騎三千五百人趣武牢。

建徳は滎陽けいようより西上し、板渚に壘を築き、太宗は武牢に屯し、相持つこと二十余日。諜者曰く、「建徳は官軍の芻尽くるを伺い、河北に牧馬するを候い、因りて将に武牢を襲わんとす」と。太宗其の謀を知り、遂に河北に牧馬して以て之を誘う。詰朝、建徳果たしく衆を悉くして至り、兵を氾水に陳し、世充の将郭士衡其の南に陣し、綿互数里、鼓噪す、諸将大いに懼る。太宗数騎を将いて高丘に昇りて之を望み、諸将に謂いて曰く、「賊山東より起り、未だ大敵を見ず。今険を度りて囂しむは、是れ政令無きなり。城に逼りて陣するは、我が心を軽んずる有り。我兵を按じて出でず、彼乃ち気衰え、陣久しくして卒飢えば、必ず自ら退かん、追いて之を撃てば、往くとして克たざる無からん。吾公等と約す、必ず午時を以て後に之を破らん」と。建徳列陣し、辰より午に至り、兵士飢え倦み、皆坐列し、又水を飲むを争い、逡巡して斂退す。太宗曰く、「撃つべし」と。親しく軽騎を率いて追いて之を誘い、衆継ぎて至る。建徳師を回して陣せんとす、未だ整列に及ばず、太宗先んじて登りて之を撃ち、向かう所皆靡く。俄にして衆軍合戦し、囂塵四起す。太宗は史大奈・程咬金・秦叔宝・宇文歆等を率いて幡を揮いて入り、直ちに其の陣後を突出し、我が旗幟を張る。賊顧みて之を見、大いに潰る。奔るを追うこと三十里、首三千余級を斬り、其の衆五万を虜にし、生け捕りに建徳を陣中に擒う。太宗之を数えて曰く、「我干戈を以て罪を問う、本は王世充に在り、得失存亡、汝が事に預からず、何ぞ故に境を越え、我が兵鋒を犯す」と。建徳股慄して言いて曰く、「今若し来たらずんば、恐らくは遠く取るを労せしめん」と。高祖聞きて大いに悦び、手詔して曰く、「隋氏分崩し、崤函隔絶す。両雄勢を合わし、一朝清蕩す。兵既に克捷し、更に死傷無し。臣たるに愧じず、其の父を憂えず、並びに汝が功なり」と。乃ち建徳を将いて東都城下に至る。世充懼れ、其の官属二千余人を率いて軍門に詣り降を請う、山東悉く平ぐ。太宗宮城に入り拠り、蕭瑀・竇軌等に令して府庫を封守せしめ、一も取る所無く、記室房玄齢に令して隋の図籍を収めしむ。ここに其の同悪段達等五十余人を誅し、枉く囚禁せられたる者悉く之を釈し、罪無く誅戮せられたる者祭りて之を誄す。将士を大いに饗し、班賜差有り。高祖令して尚書左僕射裴寂をして軍中に労せしむ。

原文建德自滎陽西上,築壘於板渚,太宗屯武牢,相持二十餘日。諜者曰:「建德伺官軍芻盡,候牧馬於河北,因將襲武牢。」太宗知其謀,遂牧馬河北以誘之。詰朝,建德果悉眾而至,陳兵氾水,世充將郭士衡陣於其南,綿互數里,鼓噪,諸將大懼。太宗將數騎升高丘以望之,謂諸將曰:「賊起山東,未見大敵。今度險而囂,是無政令;逼城而陣,有輕我心。我按兵不出,彼乃氣衰,陣久卒饑,必將自退,追而擊之,無往不克。吾與公等約,必以午時後破之。」建德列陣,自辰至午,兵士饑倦,皆坐列,又爭飲水,逡巡斂退。太宗曰:「可擊矣!」親率輕騎追而誘之,眾繼至。建德回師而陣,未及整列,太宗先登擊之,所向皆靡。俄而眾軍合戰,囂塵四起。太宗率史大奈、程咬金、秦叔寶、宇文歆等揮幡而入,直突出其陣後,張我旗幟。賊顧見之,大潰。追奔三十里,斬首三千餘級,虜其眾五萬,生擒建德於陣。太宗數之曰:「我以干戈問罪,本在王世充,得失存亡,不預汝事,何故越境,犯我兵鋒?」建德股慄而言曰:「今若不來,恐勞遠取。」高祖聞而大悅,手詔曰;「隋氏分崩,崤函隔絕。兩雄合勢,一朝清蕩。兵既克捷,更無死傷。無愧為臣,不憂其父,並汝功也。」乃將建德至東都城下。世充懼,率其官屬二千餘人詣軍門請降,山東悉平。太宗入據宮城,令蕭瑀、竇軌等封守府庫,一無所取,令記室房玄齡收隋圖籍。於是誅其同惡段達等五十餘人,枉被囚禁者悉釋之,非罪誅戮者祭而誄之。大饗將士,班賜有差。高祖令尚書左僕射裴寂勞於軍中。

六月、凱旋す。太宗親しく黄金甲を披き、鉄馬一万騎を陣し、甲士三万人、前後部鼓吹し、二偽主及び隋氏の器物輦輅を俘え、太廟に献ず。高祖大いに悦び、飲至の礼を行いて以て享く。高祖は古より旧官殊功に称せざるを以て、乃ち別に徽号を表し、用て勲徳を旌す。

原文六月,凱旋。太宗親披黃金甲,陣鐵馬一萬騎,甲士三萬人,前後部鼓吹,俘二偽主及隋氏器物輦輅獻於太廟。高祖大悅,行飲至禮以享焉。高祖以自古舊官不稱殊功,乃別表徽號,用旌勛德。

十月、号を加えて天策上将・陝東道大行臺と為し、位は王公の上に在り。邑二万戸を増し、前に通ずること三万戸。金輅一乗、袞冕の服、玉璧一双、黄金六千斤、前後部鼓吹及び九部の楽、班剣四十人を賜う。時に海内漸く平らぎ、太宗乃ち経籍に鋭意し、文学館を開きて以て四方の士を待つ。行臺司勲郎中杜如晦等十八人を学士と為し、毎に更直して閣下に降り、温顔を以て之に降り、之と経義を討論し、或いは夜分にして罷む。未だ幾ばくもせず、竇建徳の旧将劉黒闥挙兵して反し、洺州に拠る。

原文十月,加號天策上將、陜東道大行臺,位在王公上。增邑二萬戶,通前三萬戶。賜金輅一乘,袞冕之服,玉璧一雙,黃金六千斤,前後部鼓吹及九部之樂,班劍四十人。於時海內漸平,太宗乃銳意經籍,開文學館以待四方之士。行臺司勛郎中杜如晦等十有八人為學士,每更直閣下,降以溫顏,與之討論經義,或夜分而罷。未幾,竇建德舊將劉黑闥舉兵反,據洺州。

十二月、太宗戎を総べて東討す。五年正月、肥郷に進軍し、兵を分かちて其の糧道を絶ち、相持つこと両月。黒闥窘急して戦を求め、歩騎二万を率い、南して洺水を渡り、晨に官軍を圧す。太宗親しく精騎を率い、其の馬軍を撃ち、之を破り、勝に乗じて其の歩卒を蹂躙し、賊大いに潰れ、首万余級を斬る。先に、太宗は洺水上流に堰きて浅からしめ、黒闥をして渡るを得しむ。戦に及び、乃ち堰を決するを令す。水大いに至り、深さ丈余、賊徒既に敗れ、水に赴く者皆溺死す。黒闥二百余騎とともに北走して突厥に走り、其の衆を悉く虜う、河北平ぐ。時に徐円朗兵を徐・兗に阻み、太宗師を回して討ち平げ之、ここに河・済・江・淮諸郡邑皆平ぐ。十月、左右十二衛大将軍を加う。

原文十二月,太宗總戎東討。五年正月,進軍肥鄉,分兵絕其糧道,相持兩月。黑闥窘急求戰,率步騎二萬,南渡洺水,晨壓官軍。太宗親率精騎,擊其馬軍,破之,乘勝蹂其步卒,賊大潰,斬首萬餘級。先是,太宗遣堰洺水上流使淺,令黑闥得渡。及戰,乃令決堰,水大至,深丈餘,賊徒既敗,赴水者皆溺死焉。黑闥與二百餘騎北走突厥,悉虜其眾,河北平。時徐圓朗阻兵徐、兗,太宗回師討平之,於是河、濟、江、淮諸郡邑皆平。十月,加左右十二衛大將軍。

七年秋、突厥の頡利・突利二可汗、原州より入寇し、関中を侵擾す。高祖に説く者有りて云く、「只だ府蔵子女の京師に在るを為すが故に、突厥来る。若し長安を焼き却てて都とせずんば、則ち胡寇自ずから止まん」と。高祖乃ち中書侍郎宇文士及を行かしめて山南の居くべきの地を行わしめ、即ち都を移さんと欲す。蕭瑀等皆以て非と為すも、然れども終に敢えて顔を犯して正諫せず。太宗独り曰く、「霍去病は、漢廷の将帥なるのみ、猶お且つ匈奴を滅ぼさんと志す。臣籓維に忝く備わり、尚お胡塵息まず、遂に陛下をして議して都を遷さんと欲せしむ、此れ臣が責なり。幸いに臣が一たび微効を申すを聴き、彼の頡利を取らしめよ。若し一両年の間其の頸を係がずんば、徐ろに移都の策を建つべし、臣当に復た言わざるを敢えん」と。高祖怒り、仍て太宗を遣わして三十余騎を将いて行き刬せしむ。還る日、固く奏して必ず都を移すべからずとす、高祖遂に止む。八年、中書令を加う。

原文七年秋,突厥頡利、突利二可汗自原州入寇,侵擾關中。有說高祖云:「只為府藏子女在京師,故突厥來,若燒卻長安而不都,則胡寇自止。」高祖乃遣中書侍郎宇文士及行山南可居之地,即欲移都。蕭瑀等皆以為非,然終不敢犯顏正諫。太宗獨曰:「霍去病,漢廷之將帥耳,猶且志滅匈奴。臣忝備籓維,尚使胡塵不息,遂令陛下議欲遷都,此臣之責也。幸乞聽臣一申微效,取彼頡利。若一兩年間不系其頸,徐建移都之策,臣當不敢復言」。高祖怒,仍遣太宗將三十餘騎行刬。還日,固奏必不可移都,高祖遂止。八年,加中書令。

武徳九年

原文武德九年

九年、皇太子建成と齊王元吉が太宗を謀害せんとす。六月四日、太宗は長孫無忌・尉遲敬徳・房玄齢・杜如晦・宇文士及・高士廉・侯君集・程知節・秦叔寶・段志玄・屈突通・張士貴らを率いて玄武門にてこれを誅す。甲子、皇太子に立てられ、庶政はすべて断決す。太宗は禁苑に養われた鷹犬を放ち、併せて諸方より進められた珍異を停め、政は簡素厳粛を尚び、天下大いに悦ぶ。また百官に命じて各々封事を上らせ、安民理国の要を備え陳べしむ。己巳、令して曰く、「礼に依れば、二名は偏諱せず。近代以来、両字を兼ねて避け、廃闕すでに多く、率意に行い、経典に違う。官号・人名・公私の文籍に、『世民』の両字が連続せざるものは、並びに諱むを須いず」と。幽州大都督府を罷む。辛未、陝東道大行臺を廃し、洛州都督府を置き、益州道行臺を廃し、益州大都督府を置く。壬午、幽州大都督廬江王瑗、謀逆を図り、庶人に廃せらる。乙酉、天策府を罷む。七月壬辰、太子左庶子高士廉を侍中と為し、右庶子房玄齢を中書令と為し、尚書右僕射蕭瑀を尚書左僕射と為し、吏部尚書楊恭仁を雍州牧と為し、太子左庶子長孫無忌を吏部尚書と為し、右庶子杜如晦を兵部尚書と為し、太子詹事宇文士及を中書令と為し、封徳彞を尚書右僕射と為す。

原文九年,皇太子建成、齊王元吉謀害太宗。六月四日,太宗率長孫無忌、尉遲敬德、房玄齡、杜如晦、宇文士及、高士廉、侯君集、程知節、秦叔寶、段志玄、屈突通、張士貴等於玄武門誅之。甲子,立為皇太子,庶政皆斷決。太宗乃縱禁苑所養鷹犬,並停諸方所進珍異,政尚簡肅,天下大悅。又令百官各上封事,備陳安人理國之要。己巳,令曰:「依禮,二名不偏諱。近代已來,兩字兼避,廢闕已多,率意而行,有違經典。其官號、人名、公私文籍,有『世民』兩字不連續者,並不須諱。」罷幽州大都督府。辛未,廢陜東道大行臺,置洛州都督府,廢益州道行臺,置益州大都督府。壬午,幽州大都督廬江王瑗謀逆,廢為庶人。乙酉,罷天策府。七月壬辰,太子左庶子高士廉為侍中,右庶子房玄齡為中書令,尚書右僕射蕭瑀為尚書左僕射,吏部尚書楊恭仁為雍州牧,太子左庶子長孫無忌為吏部尚書,右庶子杜如晦為兵部尚書,太子詹事宇文士及為中書令,封德彞為尚書右僕射。

八月癸亥、高祖、皇太子に位を伝う。太宗、東宮顕徳殿にて即位す。司空しくう・魏国公裴寂を遣わし、南郊に柴して告ぐ。天下に大赦す。武徳元年以来、責情により流配せられたる者を並びに放還す。文武の官五品以上で先に爵なき者には爵一級を賜い、六品以下には勲一転を加う。天下に一年の復除を与う。癸酉、掖庭の宮女三千余人を放つ。甲戌、突厥の頡利・突利、涇州を寇す。乙亥、突厥、武功に進みて寇し、京師戒厳す。丙子、妃長孫氏を立てて皇后と為す。己卯、突厥、高陵を寇す。辛巳、行軍総管尉遲敬徳、突厥と涇陽にて戦い、これを大破し、千余級を斬首す。癸未、突厥の頡利、渭水便橋の北に至る。その酋帥執失思力を遣わし入朝して覘と為し、自ら形勢を張る。太宗、これを囚うるを命ず。親しく玄武門を出で、六騎を馳せて渭水上に幸し、頡利と津を隔てて語り、約に背くを責む。俄にして衆軍継いて至る。頡利、軍容既に盛んなるを見、又思力の拘えられたるを知り、ここにおいて大いに懼れ、遂に和を請う。詔してこれを許す。即日宮に還る。乙酉、また便橋に幸し、頡利と白馬を刑して盟を設く。突厥引き退く。九月丙戌、頡利、馬三千匹・羊一万口を献ず。帝受けず、頡利に令して掠めたる中国の戸口を帰せしむ。丁未、諸衛の騎兵統将らを引き、顕徳殿庭にて習射せしむ。将軍以下に謂いて曰く、「古より突厥と中国は更に盛衰有り。若し軒轅よく五兵を用いれば、即ち能く北に獯鬻を逐い、周宣の方・召を駆馳すれば、亦能く太原に制勝す。漢・晋の君より隋代に逮ぶまで、兵士に素より干戈を習わしめず、突厥来侵するも、抗禦する能わず、中国の生民をして寇の手に塗炭せしむるを致す。我今汝らに池を穿ち苑を築き、諸の淫費を造らしめず、農民は恣に逸楽せしめ、兵士は唯弓馬を習わしめ、庶幾くば汝らをして戦い、亦汝らの前に横敵なからんことを望む」と。ここにおいて毎日数百人を引き殿前にて射を教え、帝自ら臨みて試み、射中つる者に随って弓刀・布帛を賞す。朝臣に諫むる者多く、曰く、「先王の法を制するに、兵刃を以て御所に至る者有ればこれを刑す。以て萌を防ぎ漸を杜ぎ、不虞を備うる所以なり。今裨卒の人を引き、軒陛の側に弧を彎き矢を縦つるは、陛下親しく其の間に在り、正に禍の意に非ざるより出づるを恐る。社稷を計る所以に非ざるなり」と。上納れず。是より後、士卒皆精鋭と為る。壬子、詔して私家に妖神を輒り立て、淫祀を妄りに設け、礼に非ざる祠禱は、一に皆禁絶すべし。其の亀易五兆の外、諸の雑占卜も、亦皆停断す。長孫無忌を斉国公に封じ、房玄齢を邢国公に封じ、尉遲敬徳を呉国公に封じ、杜如晦を蔡国公に封じ、侯君集を潞国公に封ず。

原文八月癸亥,高祖傳位於皇太子,太宗即位於東宮顯德殿。遣司空、魏國公裴寂柴告於南郊。大赦天下。武德元年以來責情流配者並放還。文武官五品已上先無爵者賜爵一級,六品已下加勛一轉。天下給復一年。癸酉,放掖庭宮女三千餘人。甲戌,突厥頡利、突利寇涇州。乙亥,突厥進寇武功,京師戒嚴。丙子,立妃長孫氏為皇后。己卯,突厥寇高陵。辛巳,行軍總管尉遲敬德與突厥戰於涇陽,大破之,斬首千餘級。癸未,突厥頡利至於渭水便橋之北,遣其酋帥執失思力入朝為覘,自張形勢,太宗命囚之。親出玄武門,馳六騎幸渭水上,與頡利隔津而語,責以負約。俄而眾軍繼至,頡利見軍容既盛,又知思力就拘,由是大懼,遂請和,詔許焉。即日還宮。乙酉,又幸便橋,與頡利刑白馬設盟,突厥引退。九月丙戌,頡利獻馬三千匹、羊萬口,帝不受,令頡利歸所掠中國戶口。丁未,引諸衛騎兵統將等習射於顯德殿庭,謂將軍已下曰:「自古突厥與中國更有盛衰。若軒轅善用五兵,即能北逐獯鬻;周宣驅馳方、召,亦能制勝太原。至漢、晉之君,逮於隋代,不使兵士素習干戈,突厥來侵,莫能抗禦,致遺中國生民塗炭於寇手。我今不使汝等穿池築苑,造諸淫費,農民恣令逸樂,兵士唯習弓馬,庶使汝鬥戰,亦望汝前無橫敵。」於是每日引數百人於殿前教射,帝親自臨試,射中者隨賞弓刀、布帛。朝臣多有諫者,曰:「先王制法,有以兵刃至御所者刑之,所以防萌杜漸,備不虞也。今引裨卒之人,彎弧縱矢於軒陛之側,陛下親在其間,正恐禍出非意,非所以為社稷計也。」上不納。自是後,士卒皆為精銳。壬子,詔私家不得輒立妖神,妄設淫祀,非禮祠禱,一皆禁絕。其龜易五兆之外,諸雜占卜,亦皆停斷。長孫無忌封齊國公,房玄齡邢國公,尉遲敬德吳國公,杜如晦蔡國公,侯君集潞國公。

冬十月丙辰朔、日蝕有り。癸亥、中山王承乾を立てて皇太子と為す。癸酉、裴寂に実封一千五百戸を食ましむ。長孫無忌・王君廓・尉遲敬徳・房玄齢・杜如晦に一千三百戸、長孫順徳・柴紹・羅藝・趙郡王孝恭に一千二百戸、侯君集・張公謹・劉師立に一千戸、李世勣・劉弘基に九百戸、高士廉・宇文士及・秦叔寶・程知節に七百戸、安興貴・安修仁・唐儉・竇軌・屈突通・蕭瑀・封徳彞・劉義節に六百戸、銭九隴・樊世興・公孫武達・李孟常・段志玄・龐卿惲・張亮・李薬師・杜淹・元仲文に四百戸、張長遜・張平高・李安遠・李子和・秦行師・馬三寶に三百戸を食ましむ。十一月庚寅、宗室で郡王に封ぜられたる者を降し、並びに県公と為す。十二月癸酉、親しく囚徒を録す。是歳、新羅・亀茲・突厥・高麗・百済・党項並びに使を遣わし朝貢す。

原文冬十月丙辰朔,日有蝕之。癸亥,立中山王承乾為皇太子。癸酉,裴寂食實封一千五百戶,長孫無忌、王君廓、尉遲敬德、房玄齡、杜如晦一千三百戶,長孫順德、柴紹、羅藝、趙郡王孝恭一千二百戶,侯君集、張公謹、劉師立一千戶,李世勣、劉弘基九百戶,高士廉、宇文士及、秦叔寶、程知節七百戶,安興貴、安修仁、唐儉、竇軌、屈突通、蕭瑀、封德彞、劉義節六百戶,錢九隴、樊世興、公孫武達、李孟常、段志玄、龐卿惲、張亮、李藥師、杜淹、元仲文四百戶,張長遜、張平高、李安遠、李子和、秦行師、馬三寶三百戶。十一月庚寅,降宗室封郡王者並為縣公。十二月癸酉,親錄囚徒。是歲,新羅、龜茲、突厥、高麗、百濟、黨項並遣使朝貢。

貞観元年

原文貞觀元年

貞観元年春正月乙酉、元を改む。辛丑、燕郡王李藝、涇州に拠りて反す。尋いで左右の者に斬られ、首を京師に伝う。庚午、僕射竇軌を以て益州大都督と為す。

原文貞觀元年春正月乙酉,改元。辛丑,燕郡王李藝據涇州反,尋為左右所斬,傳首京師。庚午,以僕射竇軌為益州大都督。

三月癸巳、皇后親しく蠶す。尚書左僕射・宋国公蕭瑀を太子少師と為す。丙午、詔して曰く、「斉の故尚書僕射崔季舒・給事黄門侍郎郭遵・尚書右丞封孝琰ら、昔鄴中に仕え、名位通顕、志は忠讜に存し、表を抗して言を極む。社稷の亡を救う無く、遂に龍逢の酷を見る。其の季舒の子剛・遵の子雲・孝琰の子君遵は、並びに門、時の譴に遭い、淫刑濫りに及ぶ。褒奨に従うべく、常倫に異なるを特し、内侍を免じ、才を量り別に叙すべし」と。

原文三月癸巳,皇后親蠶。尚書左僕射、宋國公蕭瑀為太子少師。丙午,詔:「齊故尚書僕射崔季舒、給事黃門侍郎郭遵、尚書右丞封孝琰等,昔仕鄴中,名位通顯,志存忠讜,抗表極言,無救社稷之亡,遂見龍逢之酷。其季舒子剛、遵子雲、孝琰子君遵,並以門遭時譴,淫刑濫及。宜從褒獎,特異常倫,可免內侍,量才別敘。」

夏四月癸巳、涼州都督・長楽王幼良、罪有りて誅せらる。

原文夏四月癸巳,涼州都督、長樂王幼良有罪伏誅。

六月辛巳、尚書右僕射・密国公封徳彞薨ず。壬辰、太子少保宋国公蕭瑀を尚書左僕射と為す。是の夏、山東諸州大旱し、所在に令して賑恤せしめ、今年の租賦を出さず。

原文六月辛巳,尚書右僕射、密國公封德彞薨。壬辰,太子少保宋國公蕭瑀為尚書左僕射。是夏,山東諸州大旱,令所在賑恤,無出今年租賦。

秋七月壬子、吏部尚書・斉国公長孫無忌を尚書右僕射と為す。

原文秋七月壬子,吏部尚書、齊國公長孫無忌為尚書右僕射。

八月戊戌、侍中・義興郡公高士廉を貶し安州大都督と為す。戸部尚書裴矩卒す。是月、関東及び河南・隴右の沿辺諸州、霜秋稼を害す。

原文八月戊戌,貶侍中、義興郡公高士廉為安州大都督。戶部尚書裴矩卒。是月,關東及河南、隴右沿邊諸州霜害秋稼。

九月辛酉、中書侍郎温彦博・尚書右丞魏徵らに命じ、分かれて諸州に往き賑恤せしむ。中書令・郢国公宇文士及を殿中監と為す。御史大夫・検校吏部尚書・朝政に参預す・安吉郡公杜淹、位に署す。

原文九月辛酉,命中書侍郎溫彥博、尚書右丞魏徵等分往諸州賑恤。中書令、郢國公宇文士及為殿中監。御史大夫、檢校吏部尚書、參預朝政、安吉郡公杜淹署位。

十二月壬午の日、帝は侍臣に謂ひて曰く、「神仙の事は本より虚妄にして、空しく其の名有るのみ。秦始皇は分を越えて愛好し、遂に方士の詐りに為り、乃ち童男女数千人を遣はして徐福に随ひ海に入り仙薬を求めしむ。方士は秦の苛虐を避け、因りて留まりて帰らず。始皇は猶ほ海側に踟躕して之を待ち、還りて沙丘に至りて死す。漢武帝は仙を求むる為めに、乃ち女を将ちて道術の人に嫁す。事既に験無く、便ち誅戮を行ふ。此の二事に拠れば、神仙は妄りに求むるに煩はさず。」尚書左僕射、宋國公蕭瑀は事に坐して免ぜらる。戊申の日、利州都督義安王孝常、右武衛将軍劉德裕等謀反し、誅せらる。是の歳、関中饑饉し、男女を鬻ぐ者有るに至る。

原文十二月壬午,上謂侍臣曰:「神仙事本虛妄,空有其名。秦始皇非分愛好,遂為方士所詐,乃遣童男女數千人隨徐福入海求仙藥,方士避秦苛虐,因留不歸。始皇猶海側踟躕以待之,還至沙丘而死。漢武帝為求仙,乃將女嫁道術人,事既無驗,便行誅戮。據此二事,神仙不煩妄求也。」尚書左僕射、宋國公蕭瑀坐事免。戊申,利州都督義安王孝常、右武衛將軍劉德裕等謀反,伏誅。是歲,關中饑,至有鬻男女者。

貞観二年

原文貞觀二年

二年春正月辛丑の日、尚書右僕射、齊國公長孫無忌を開府儀同三司と為す。漢王屬を徙封して恪王と為し、衛王泰を越王と為し、楚王祐を燕王と為す。六侍郎を復置し、六尚書の事を副へ、並びに左右司郎中各一人を置く。前安州大都督、趙王元景を雍州牧と為し、蜀しょく王恪を益州大都督と為し、越王泰を揚州大都督と為す。二月丙戌の日、靺鞨内属す。三月戊申朔の日、日蝕有り。丁卯の日、御史大夫杜淹を遣はして関内諸州を巡行せしむ。御府の金宝を出し、自ら売らるる男女を贖ひて其の父母に還す。庚午の日、天下に大赦す。

原文二年春正月辛丑,尚書右僕射、齊國公長孫無忌為開府儀同三司。徙封漢王屬為恪王,衛王泰為越王,楚王祐為燕王。復置六侍郎,副六尚書事,並置左右司郎中各一人。前安州大都督、趙王元景為雍州牧,蜀王恪為益州大都督,越王泰為揚州大都督。二月丙戌,靺鞨內屬。三月戊申朔,日有蝕之。丁卯,遣御史大夫杜淹巡關內諸州。出御府金寶,贖男女自賣者還其父母。庚午,大赦天下。

夏四月己卯の日、詔して骸骨暴露する者は、所在に埋瘞せしむ。丙申の日、契丹内属す。初めて天下の州県に並びに義倉を置く詔を下す。夏州の賊帥梁師都、其の従父弟洛仁に為りて殺され、城を以て降る。五月、大雨雹有り。六月庚寅の日、皇子治生まる。五品以上に宴を賜ひ、帛を賜ふこと差有り、仍て天下に是の日生まるる者に粟を賜ふ。辛卯の日、帝は侍臣に謂ひて曰く、「君たると雖も君に非ずと雖も、臣は臣たらざる可からず。裴虔通は、煬帝の旧き左右なりしに、而して親しく乱の首と為る。朕方に敬義を崇奨せんとす、豈に猶ほ民を宰ち俗を訓はしむるを得んや。」詔して曰く、

原文夏四月己卯,詔骸骨暴露者,令所在埋瘞。丙申,契丹內屬。初詔天下州縣並置義倉。夏州賊帥梁師都為其從父弟洛仁所殺,以城降。五月,大雨雹。六月庚寅,皇子治生,宴五品以上,賜帛有差,仍賜天下是日生者粟。辛卯,上謂侍臣曰:「君雖不君,臣不可以不臣。裴虔通,煬帝舊左右也,而親為亂首。朕方崇獎敬義,豈可猶使宰民訓俗。」詔曰:

天地位を定め、君臣の義以て彰はる。卑高既に陳べられ、人倫の道斯に著はる。是を用ひて風俗を篤厚にし、天下を化成す。復た時に治乱を経ると雖も、主或は昏明有りと雖も、疾風勁草、芬芳絶ゆること無く、心を剖き体を焚き、赴蹈すること帰るが如し。夫れ豈に七尺の躯を愛しまず、百年の命を重んぜざらんや。諒ろに君臣の義重く、名教の先とする所に由るなり。故に能く大節を当時に明らかにし、清風を身後に立つるなり。趙高の二世を殞し、董卓の弘農を鴆すが如きに至りては、人神の疾む所、異代同じく憤る。況んや凡庸の小豎、兇悖を懐く者有りて、遐く典策を観れば、誅夷せざる莫きなり。辰州刺史、長蛇縣男裴虔通、昔隋代に在りて、質を晉籓に委ね、煬帝は旧邸の情を以て、特に関愛幸せり。遂に乃ち君親を蔑ろにする志を懐き、潜かに弒逆を図り、密かに間隙を伺ひ、群醜を招結し、長戟流矢、一朝窃かに発す。天下の悪、孰れか忍ぶ可きと云はん。宜しく其の宗を夷し首を焚き、以て大戮を彰すべし。但だ年代時を異にし、累ねて赦令に逢ふ。特に極刑を免じ、名を除き爵を削ぎ、驩州に遷配すべし。

原文天地定位,君臣之義以彰;卑高既陳,人倫之道斯著。是用篤厚風俗,化成天下。雖復時經治亂,主或昏明,疾風勁草,芬芳無絕,剖心焚體,赴蹈如歸。夫豈不愛七尺之軀,重百年之命?諒由君臣義重,名教所先,故能明大節於當時,立清風於身後。至如趙高之殞二世,董卓之鴆弘農,人神所疾,異代同憤。況凡庸小豎,有懷兇悖,遐觀典策,莫不誅夷。辰州刺史、長蛇縣男裴虔通,昔在隋代,委質晉籓,煬帝以舊邸之情,特相愛幸。遂乃志蔑君親,潛圖弒逆,密伺間隙,招結群醜,長戟流矢,一朝竊發。天下之惡,孰云可忍!宜其夷宗焚首,以彰大戮。但年代異時,累逢赦令,可特免極刑,除名削爵,遷配驩州。

秋七月戊申の日、詔す。「萊州刺史牛方裕、絳州刺史薛世良、廣州都督府長史唐奉義、隋の武牙郎将高元禮、並びに隋代に俱に任用を蒙り、乃ち契を宇文化及に協け、弒逆を構成す。宜しく裴虔通に依り、名を除き嶺表に配流すべし。」太宗、侍臣に謂ひて曰く、「天下の愚人、憲章を犯すを好む。凡そ赦宥の恩は、唯だ不軌の輩に及ぶ。古語に曰く、『小人の幸は、君子の不幸なり。』『一歳再び赦せば、好人喑啞す。』凡そ稂莠を養ふ者は禾稼を傷つけ、奸宄に恵む者は良人を賊す。昔し文王罰を作り、此れを刑して赦さず。又た蜀の先主嘗て諸葛亮に謂ひて曰く、『吾れ陳元方・鄭康成の間を周旋す。毎に見るに理乱の道を啓告するに備はれり。曾て赦を語らず。』夫れ小人は、大人の賊なり。故に朕天下を有つ已来、甚だしく赦を放たず。今四海安静し、礼義興行す。非常の恩は、施すに数ふ可からず。将に恐らくは愚人常に僥幸を冀ひ、唯だ法を犯さんと欲して、過ちを改むる能はざらんと。」八月甲戌朔の日、朝堂に幸し、親しく冤屈を覧る。是より、帝は軍国事無きを以て、毎日西宮に於て膳を視る。癸巳の日、公卿奏して曰く、「礼に依れば、季夏の月は、台榭に居る可し。今隆暑未だ退かず、秋霖方に始まらんとす。宮中卑湿なり。請ふらくは一閣を営み以て之に居らしめん。」帝曰く、「朕気病有り。豈に下湿に宜しからんや。若し遂に来請に従はば、糜費良多からん。昔し漢文帝露台を起さんとし、而して十家の産を惜しむ。朕の徳は漢帝に逮ばず、而して費やす所之に過ぐ。豈に民の父母たるの道と謂はんや。」竟に許さず。是の月、河南・河北大霜有り、人饑ゆ。

原文秋七月戊申,詔:「萊州刺史牛方裕、絳州刺史薛世良、廣州都督府長史唐奉義、隋武牙郎將高元禮,並於隋代俱蒙任用,乃協契宇文化及,構成弒逆。宜依裴虔通,除名配流嶺表。」太宗謂侍臣曰:「天下愚人,好犯憲章,凡赦宥之恩,唯及不軌之輩。古語曰:『小人之幸,君子之不幸。』『一歲再赦,好人喑啞。』凡養稂莠者傷禾稼,惠奸宄者賊良人。昔文王作罰,刑茲無赦。又蜀先主嘗謂諸葛亮曰:『吾周旋陳元方、鄭康成間,每見啟告理亂之道備矣,曾不語赦也。』夫小人者,大人之賊,故朕有天下已來,不甚放赦。今四海安靜,禮義興行,非常之恩,施不可數,將恐愚人常冀僥幸,唯欲犯法,不能改過。」八月甲戌朔,幸朝堂,親覽冤屈。自是,上以軍國無事,每日視膳於西宮。癸巳,公卿奏曰:「依禮,季夏之月,可以居臺榭。今隆暑未退,秋霖方始,宮中卑濕,請營一閣以居之。」帝曰:「朕有氣病,豈宜下濕。若遂來請,糜費良多。昔漢文帝將起露臺,而惜十家之產。朕德不逮於漢帝,而所費過之,豈謂為民父母之道也。」竟不許。是月,河南、河北大霜,人饑。

九月丙午の日、詔して曰く、「尚齒重舊は、先王之を以て範を垂る。還章解組は、朝臣是に於て克く終る。釋菜合楽の儀、東膠西序の制、養老の義、遺文睹る可し。朕恭しく大宝を膺け、故実を憲章し、言を乞ひ事を尊ぶこと、弥切に深衷を衷す。然れども情は今古に存し、世は澆季に踵く。而して名を策し列に就くは、或は大體に乖く。筋力将に尽き、桑榆且に迫るに至りては、徒らに夙興の勤を竭くし、未だ夜行の罪を悟らず。其れ心に止足を驚かし、行ひ激勵に堪へ、公門に事を謝し、骸骨を閭里に収め、礼譲を以てする能くする者は、固より嘉む可し。内外文武の群官、年高く致仕し、表を抗ひて職を去る者は、参朝の日、宜しく本品の見任の上に在るべし。」丁未の日、侍臣に謂ひて曰く、「婦人深宮に幽閉せらるるは、情実に愍む可し。隋氏の末年、求採已むこと無く、離宮別館に至りては、幸御の所に非ざるも、多く宮人を聚め、皆人財力を竭くす。朕の取らざる所なり。且つ灑掃の餘、更に何を用ふる所か。今将に之を出だし、伉儷を求むるに任せん。独り費を惜しむを以てするのみに非ず、亦た人各其の性を遂ぐるを得ん。」是に於て尚書左丞戴胄、給事中杜正倫等を遣はし、掖庭宮の西門に於て簡び出ださしむ。

原文九月丙午,詔曰:「尚齒重舊,先王以之垂範;還章解組,朝臣於是克終。釋菜合樂之儀,東膠西序之制,養老之義,遺文可睹。朕恭膺大寶,憲章故實,乞言尊事,彌切深衷。然情存今古,世踵澆季,而策名就列,或乖大體。至若筋力將盡,桑榆且迫,徒竭夙興之勤,未悟夜行之罪。其有心驚止足,行堪激勵,謝事公門,收骸閭里,能以禮讓,固可嘉焉。內外文武群官年高致仕、抗表去職者,參朝之日,宜在本品見任之上。」丁未,謂侍臣曰:「婦人幽閉深宮,情實可愍。隋氏末年,求採無已,至於離宮別館,非幸御之所,多聚宮人,皆竭人財力,朕所不取。且灑掃之餘,更何所用?今將出之,任求伉儷,非獨以惜費,亦人得各遂其性。」於是遣尚書左丞戴胄、給事中杜正倫等,於掖庭宮西門簡出之。

冬十月庚辰の日、御史大夫、安吉郡公杜淹卒す。戊子の日、瀛州刺史盧祖尚を殺す。

原文冬十月庚辰,御史大夫、安吉郡公杜淹卒。戊子,殺瀛州刺史盧祖尚。

十一月辛酉の日、圓丘に事有り。

原文十一月辛酉,有事於圓丘。

十二月壬午の日、黄門侍郎王珪を侍中と為す。

原文十二月壬午,黃門侍郎王珪為侍中。

貞観三年

原文貞觀三年

三年春正月辛亥の日、契丹の渠帥来朝す。戊午の日、太廟を謁す。癸亥の日、親しく籍田を耕す。辛未の日、司空、魏國公裴寂事に坐して免ぜらる。

原文三年春正月辛亥,契丹渠帥來朝。戊午,謁太廟。癸亥,親耕籍田。辛未,司空、魏國公裴寂坐事免。

二月戊寅の日、中書令、邢國公房玄齢を尚書左僕射と為し、兵部尚書、檢校侍中、蔡國公杜如晦を尚書右僕射と為し、刑部尚書、檢校中書令、永康縣公李靖を兵部尚書と為し、右丞魏徵を守秘書監と為し、朝政に参預せしむ。

原文二月戊寅,中書令、邢國公房玄齡為尚書左僕射,兵部尚書、檢校侍中、蔡國公杜如晦為尚書右僕射,刑部尚書、檢校中書令、永康縣公李靖為兵部尚書,右丞魏徵為守秘書監,參預朝政。

夏四月辛巳の日、太上皇大安宮に徙居す。甲子の日、太宗始めて太極殿に於て政を聴く。

原文夏四月辛巳,太上皇徙居大安宮。甲子,太宗始於太極殿聽政。

五月、周王元方薨ず。

原文五月,周王元方薨。

六月戊寅の日、旱魃のため、自ら囚徒を録囚した。長孫無忌・房玄齢らを名山大川に遣わして雨を祈らせ、中書舎人杜正倫らを関内諸州に往かせて慰撫させた。また文武の官に命じ、各々封事を上奏して得失を極言させた。己卯の日、大風が木を折った。

原文六月戊寅,以旱,親錄囚徒。遣長孫無忌、房玄齡等祈雨於名山大川,中書舍人杜正倫等往關內諸州慰撫。又令文武官各上封事,極言得失。已卯,大風折木。

秋八月己巳の朔、日蝕があった。薛延陀が使者を遣わして朝貢した。

原文秋八月己巳朔,日有蝕之。薛延陀遣使朝貢。

九月癸丑の日、諸州に医学を置いた。

原文九月癸丑,諸州置醫學。

冬十一月丙午の日、西突厥・高昌が使者を遣わして朝貢した。庚申の日、并州都督李世勣を通漢道行軍総管とし、兵部尚書李靖を定襄道行軍総管として、突厥を撃たせた。

原文冬十一月丙午,西突厥、高昌遣使朝貢。庚申,以並州都督李世勣為通漢道行軍總管,兵部尚書李靖為定襄道行軍總管,以擊突厥。

十二月戊辰の日、突利可汗が来奔した。癸未の日、杜如晦が疾を以て位を辞し、これを許した。癸丑の日、詔して、

原文十二月戊辰,突利可汗來奔。癸未,杜如晦以疾辭位,許之。癸丑,詔

義を建てて以来、兵を交えたところに、義士勇夫が戎陣に殞身した者のために各々一寺を立て、虞世南・李伯薬・褚亮・顔師古・岑文本・許敬宗・硃子奢らに命じてこれが碑銘を作らせ、功業を紀せしめた。

原文建義以來交兵之處,為義士勇夫殞身戎陣者各立一寺,命虞世南、李伯藥、褚亮、顏師古、岑文本、許敬宗、硃子奢等為之碑銘,以紀功業。

この年、戸部が奏上して言うには、中国人で塞外より帰来した者及び突厥の前後内附し、四夷を開いて州県とした者は、男女合わせて百二十余万口である。

原文是歲,戶部奏言:中國人自塞外來歸及突厥前後內附、開四夷為州縣者,男女一百二十餘萬口。