旧唐書 本紀第二 太宗上

旧唐書

本紀第二 太宗上

太宗上

太宗文武大聖大広孝皇帝、諱は世民、高祖の第二子なり。母は太穆順聖皇后竇氏と曰う。隋の開皇十八年十二月戊午、武功の別館に生まる。時に二龍有りて館門の外に戯れ、三日にして去る。高祖の岐州に臨むや、太宗時に年四歳。書生有りて自ら善く相を見ると言い、高祖に謁して曰く、「公は貴人なり、且つ貴子有らん」と。太宗を見て曰く、「龍鳳の姿、天日の表、年将に二十に及ばば、必ず能く世を済い民を安んずるあらん」と。高祖其の言の洩るるを懼れ、将に之を殺さんとす、忽ち所在を失う。因りて「世を済い民を安んず」の義を採りて以て名と為す。太宗幼くして聡えい、玄鑒深遠、機に臨みて果斷、小節に拘わらず、時に人測る能わざるなり。

大業末、よう帝雁門に於て突厥に囲まる。太宗募に応じて救援し、屯衛将軍云定興の営に隷す。将に行かんとし、定興に謂いて曰く、「必ず旗鼓を齎し以て疑兵を設くべし。且つ始畢可汗は挙国の師を挙げ、敢えて天子を囲むは、必ず国家の倉卒にして援無きを以てす。我軍容を張り、数十里に幡旗相続き、夜は則ち鉦鼓相応ぜしめば、虜必ず救兵雲集すと謂い、塵を望みて遁るべし。然らずんば、彼は衆にして我は寡、悉く軍を来して戦わば、必ず支うる能わざるべし」と。定興之に従う。師崞県に次ぐ。突厥の候騎馳せて始畢に告げて曰く、王師大いに至ると。是に由りて囲みを解きて遁る。高祖の太原を守るに及び、太宗時に年十八。高陽の賊帥魏刀児有り、自ら歴山飛と号す。来たりて太原を攻む。高祖之を撃ち、深く賊陣に入る。太宗軽騎を以て突囲して進み、之を射て、向かう所皆披靡し、高祖を万衆の中より抜く。適に会うに歩兵至り、高祖と太宗又奮撃し、之を大破す。時に隋の祚已に終わり、太宗潜かに義挙を図り、毎に節を折りて士に下り、財を推して客を養い、群盗大侠、効死力を願わざる莫し。義兵起るに及び、乃ち兵を率いて西河を略徇し、之を克つ。右領大都督に拝し、右三軍皆之に隷し、燉煌郡公に封ぜらる。

大軍西上して賈胡堡に至る。隋将宋老生精兵二万を率いて霍邑に屯し、以て義師を拒ぐ。会うに久雨して糧尽き、高祖裴寂と議し、且つ太原に還り、以て後の挙を図らんとす。太宗曰く、「本より大義を興して蒼生を救わんとす、須らく先ず咸陽に入り、天下に号令すべし。小敵に遇いて即ち班師せば、将に義に従うの徒一朝に解体せんことを恐る。還りて太原一城の地を守るは、此れ賊たるのみ。何を以てか自ら全からん」と。高祖納れず、促して引發を令す。太宗遂に外に号泣し、声帳中に聞ゆ。高祖召して其の故を問う。対えて曰く、「今兵は義を以て動く。進みて戦えば則ち必ず克ち、退きて還れば則ち必ず散ず。衆は前に散じ、敵は後に乗ず。死亡須臾にして至らん。是を以て悲しむなり」と。高祖乃ち悟りて止む。

八月己卯、雨霽ゆ。高祖師を引きて霍邑に趣く。太宗老生の出でて戦わざるを恐れ、乃ち数騎を将いて先ず其の城下に詣り、鞭を挙げて指麾し、将に城を囲まんとするが若くし、以て之を激怒せしむ。老生果たして怒り、門を開きて兵を出し、城を背にして陣す。高祖建成と城東に合陣し、太宗及び柴紹城南に陣す。老生兵を麾して疾く進み、先ず高祖に薄る。而して建成馬より墜つ。老生之に乗ず。高祖と建成の軍咸く却く。太宗南原より二騎を率いて峻阪を馳せ下り、其の軍を沖ぎ断ち、兵を引きて奮撃す。賊衆大いに敗れ、各仗を捨てて走る。懸門発す。老生縄を引きて上らんと欲す。遂に之を斬り、霍邑を平ぐ。河東に至る。関中の豪傑争い走りて義に赴く。太宗師を進めて関に入り、永豊倉を取って窮乏を賑い、群盗を収めて京師を図らんことを請う。高祖善しと称す。太宗前軍を以て河を済い、先ず渭北を定む。三輔の吏民及び諸豪猾軍門に詣りて自ら効せんことを請う者日に千計す。老を扶け幼を携え、麾下に満つ。英俊を収納し、以て僚列に備う。遠近聞く者、咸く自ら托す。師涇陽に次ぐ。勝兵九万、胡賊劉鷂子を破り、其の衆を併せす。殷開山、劉弘基を留めて長安故城に屯せしむ。太宗自ら司竹に趣く。賊帥李仲文、何潘仁、向善志等皆来会し、阿城に頓す。兵十三万を獲る。長安の父老牛酒を齎し旌門に詣る者勝げて紀す可からず。労して之を遣り、一も受けざる所無し。軍令厳肅、秋毫も犯す所無し。尋いで大軍と京城を平ぐ。高祖政を輔け、唐国内史を受け、秦国公に改封せらる。会うに薛挙勁卒十万を以て来たりて渭濱に逼る。太宗親しく之を撃ち、其の衆を大破し、追い斬ること万余級、地を略して隴坻に至る。

義寧元年十二月、復た右元帥と為り、兵十万を総べて東都を徇す。将に旋らんとし及んで、左右に謂いて曰く、「賊吾の還るを見て、必ず相追躡せん」と。三伏を設けて以て之を待つ。俄にして隋将段達万余人を率いて後より至り、三王陵を度る。伏を発して之を撃つ。段達大いに敗れ、追奔して城下に至る。因りて宜陽、新安を於て熊、穀の二州を置き、之を戍して還る。趙国公に徙封せらる。高祖禅を受け、尚書令、右武候大将軍に拝し、秦王に進封せられ、雍州牧を加授せらる。

武德元年七月、薛挙が涇州を寇す。太宗は衆を率いてこれを討つも、利あらずして還る。九月、薛挙死す。その子仁杲嗣立す。太宗また元帥となりて仁杲を撃ち、折墌城において相持すること六十余日に及ぶ。賊衆十余万、兵鋒甚だ鋭く、数たび来たりて挑戦す。太宗は甲を按じてこれを挫く。賊糧尽き、その将牟君才・梁胡郎来降す。太宗諸将軍に謂いて曰く、「彼気衰えたり。吾まさにこれを取るべし」と。将軍龐玉を遣わし、先ず浅水原の南に陣してこれを誘う。賊将宗羅㬋軍を並べて来たり拒ぐ。玉の軍幾くんか敗れんとす。既にして太宗親しく大軍を御し、奄に原の北よりし、その不意に出づ。羅㬋望見し、復た師を回らして相拒ぐ。太宗驍騎数十を将いて賊陣に入る。ここにおいて王師表裏斉しく奮い、羅㬋大いに潰え、首級数千を斬り、澗谷に投じて死する者算うべからず。太宗左右二十余騎を率いて奔を追い、直ちに折墌に趣きてこれを乗ず。仁杲大いに懼れ、城を嬰いて自ら守る。将に夕べならんとして、大軍継ぎて至り、四面合囲す。詰朝、仁杲降を請う。その精兵一万余人・男女五万口を俘虜す。既にして諸将賀を奉ず。因りて問うて曰く、「始め大王野戦に賊を破り、その主なお堅城を保つ。王攻具無く、軽騎騰逐し、歩兵を待たず、径に城下に薄る。咸に克たずと疑えども、竟にこれを下す。何ぞや」と。太宗曰く、「これ権道を以てこれを迫り、その計の発するに暇あらしめざるが故に、克つなり。羅㬋往年の勝に恃み、兼ねてまた鋭を養うこと日久し。吾の出でざるを見て、意相軽するに在り。今吾の出づるを喜び、悉く兵をして来たり戦わしむ。これを撃破すと雖も、擒殺すること蓋し少なし。若し急に躡わずんば、還り走りて城に投ぜん。仁杲これを収めて撫せば、則ち便ち未だ得べからざるなり。且つその兵衆皆隴西の人、一敗して披退すれば、回顧に及ばず、散じて隴外に帰らん。則ち折墌自ら虚し。我が軍これに随いて迫る。故に懼れて降るなり。これ成算と謂うべし。諸君尽く見ざるか」と。諸将曰く、「これ凡人能く及ぶ所にあらず」と。賊兵の精騎甚だ衆くを獲、還って仁杲兄弟及び賊帥宗羅㬋・翟長孫等にこれを領せしむ。太宗これと游獵馳射し、間然たること無し。賊徒恩に荷い気を懾し、咸く死を效わんことを願う。時に李密初めて附く。高祖密をして伝を馳せて太宗を豳州に迎えしむ。密太宗の天姿神武、軍威厳粛なるを見て、驚悚嘆服し、私に殷開山に謂いて曰く、「真に英主なり。此くの如くせずんば、何を以てか禍乱を定めんや」と。凱旋し、捷を太廟に献ず。太尉・陜東道行臺尚書令に拝し、長春宮に鎮り、関東の兵馬並びに節度を受く。尋いで左武候大將軍・涼州総管を加う。

宋金剛の澮州を陥すや、兵鋒甚だ鋭し。高祖、王行本なお蒲州に拠り、呂崇茂夏県に反し、晋・澮二州相継いで陷没し、関中震駭するを以て、乃ち手敕して曰く、「賊勢此くの如し。争鋒に難し。宜しく河東の地を棄て、謹んで関西を守るのみ」と。太宗上表して曰く、「太原は王業の基く所、国の根本なり。河東は殷実にして、京邑の資る所なり。若し挙げてこれを棄てんには、臣窃に憤恨す。願わくは精兵三万を仮り、必ずや武周を平殄し、汾・晋を克復せん」と。高祖ここにおいて関中の兵を悉く発してこれを益し、又た長春宮に幸して親しく太宗を送る。二年十一月、太宗衆を率いて龍門関に趣き、氷を履いてこれを渡り、進みて柏壁に屯し、賊将宋金剛と相持す。尋いで永安王孝基夏県に敗れ、於筠・獨孤懷恩・唐儉並びに賊将尋相・尉遅敬德の執る所となり、将に澮州に還らんとす。太宗殷開山・秦叔宝を遣わし、これを美良川に邀え、大いにこれを破る。相等僅かに身を免る。その衆を悉く虜とし、復た柏壁に帰す。ここにおいて諸将咸く戦を請う。太宗曰く、「金剛軍を千里に懸け、深く吾が地に入る。精兵驍将、皆ここに在り。武周太原に拠り、専ら金剛を倚りて以て捍と為す。士卒衆しと雖も、内実空虚にして、意速戦に在り。我堅営して鋭を蓄え、その鋒を挫かん。糧尽き計窮すれば、自ら遁走すべし」と。

三年二月、金剛竟に衆餒えて遁る。太宗これを介州に追う。金剛陣を列ね、南北七里、以て官軍を拒ぐ。太宗総管李世勣・程咬金・秦叔宝を遣わし、その北に当たらしめ、翟長孫・秦武通をしてその南に当たらしむ。諸軍戦いて小しく却き、賊の乗ずる所と為る。太宗精騎を率いてこれを撃ち、その陣後を沖く。賊衆大いに敗れ、奔を追うこと数十里。敬德・相衆八千を率いて来降す。還って敬德にこれを督せしめ、軍営と相参わらしむ。屈突通その変を為さんことを懼れ、驟りて以て請う。太宗曰く、「昔蕭王赤心を推して人の腹中に置き、並びに能く命を畢う。今敬德を委任す。又何ぞ疑わんや」と。ここにおいて劉武周突厥に奔る。并・汾悉く旧地を復す。詔して軍に就きて益州道行臺尚書令を拝することを加う。

七月、諸軍を総率して王世充を洛邑に攻む。師穀州に次ぐ。世充精兵三万を率いて慈澗に陣す。太宗軽騎を以てこれを挑む。時に衆寡敵せず、重囲に陷り、左右咸く懼る。太宗左右を命じて先に帰らしめ、独り後殿に留まる。世充の驍将単雄信数百騎、道を夾みて来たり逼り、搶を交えて競い進む。太宗幾くんか敗れんとす。太宗左右してこれを射れば、弦に応じて倒れざる無し。その大将燕頎を獲る。世充乃ち慈澗の鎮を抜きて東都に帰る。太宗行軍総管史万宝を遣わし、宜陽より南して龍門を拠らしめ、劉德威をして太行より東して河内を囲ましめ、王君廓をして洛口より賊の糧道を断たしむ。又た黄君漢を遣わし、夜孝水河中より舟師を下して回洛城を襲わしめ、これを克つ。黄河已南、響応せざる莫く、城堡相次いで来降す。大軍進みて邙山に屯す。九月、太宗五百騎を以て先ず戦地を観る。卒然として世充の万余人と相遇い、会戦し、復たこれを破り、首級三千余を斬り、大将陳智略を獲る。世充僅かに身を免る。その署する所の筠州総管楊慶使いを遣わして降を請う。李世勣を遣わし師を率いて轘轅道より出で、その衆を安撫せしむ。滎・汴・洧・豫等九州相継いで来降す。世充遂に竇建德に求救す。

四年二月、また進んで青城宮に屯した。営壘未だ立たず、世充の衆二万、方諸門より谷水に臨んで陣す。太宗は精騎を以て北邙山に陣し、屈突通に歩卒五千を率いさせて水を渡りて之を撃たしめ、因りて通に誡めて曰く、「兵交はるや即ち煙を放て、吾当に騎軍を率いて南下せん」と。兵纔に接するや、太宗は騎を以て之を衝き、身を挺して先んじ進み、通と表裏相応ず。賊衆殊死に戦い、散じて復た合する者数たびなり。辰より午に及び、賊衆始めて退く。兵を縦ちて之に乗じ、俘斬八千人、ここに進みて城下に営す。世充敢えて復た出でず、但だ城を嬰して自ら守り、建德の援を待つ。太宗は諸軍を遣わして塹を掘らしめ、長囲を匝布して以て之を守る。呉王杜伏威、其の将陳正通・徐召宗を遣わして精兵二千を率い来たり軍所に会せしむ。偽鄭州司馬沈悦、武牢を以て降り、将軍王君廓之に応じ、其の偽荊王王行本を擒う。会に竇建德、兵十余万を以て来たり世充を援け、酸棗に至る。蕭瑀・屈突通・封徳彞皆、腹背敵を受くるを以て、恐らくは万全に非ずとし、師を退き穀州にて以て之を観んことを請う。太宗曰く、「世充糧尽き、内外心を離る、我当に労せずして攻撃し、坐して其の敝を収むべし。建德新たに孟海公を破り、将驕り卒惰る、吾当に進みて武牢を拠り、其の襟要を扼せん。賊若し険を冒して我と鋒を争わば、之を破ること必せり。其れ戦わざれば、旬日の間に世充自ずから潰るべし。若し速やかに進まざれば、賊武牢に入り、諸城新たに附するも、必ず守ること能わず。二賊力を併せば、将に之を如何せん」と。通また囲みを解きて険に就き、以て其の変を候わんことを請う、太宗許さず。ここに通を留めて斉王元吉を輔けしめて以て世充を囲ましめ、親しく歩騎三千五百人を率いて武牢に趣く。

建徳は滎陽けいようより西上し、板渚に壘を築き、太宗は武牢に屯し、相持つこと二十余日。諜者曰く、「建徳は官軍の芻尽くるを伺い、河北に牧馬するを候い、因りて将に武牢を襲わんとす」と。太宗其の謀を知り、遂に河北に牧馬して以て之を誘う。詰朝、建徳果たしく衆を悉くして至り、兵を氾水に陳し、世充の将郭士衡其の南に陣し、綿互数里、鼓噪す、諸将大いに懼る。太宗数騎を将いて高丘に昇りて之を望み、諸将に謂いて曰く、「賊山東より起り、未だ大敵を見ず。今険を度りて囂しむは、是れ政令無きなり。城に逼りて陣するは、我が心を軽んずる有り。我兵を按じて出でず、彼乃ち気衰え、陣久しくして卒飢えば、必ず自ら退かん、追いて之を撃てば、往くとして克たざる無からん。吾公等と約す、必ず午時を以て後に之を破らん」と。建徳列陣し、辰より午に至り、兵士飢え倦み、皆坐列し、又水を飲むを争い、逡巡して斂退す。太宗曰く、「撃つべし」と。親しく軽騎を率いて追いて之を誘い、衆継ぎて至る。建徳師を回して陣せんとす、未だ整列に及ばず、太宗先んじて登りて之を撃ち、向かう所皆靡く。俄にして衆軍合戦し、囂塵四起す。太宗は史大奈・程咬金・秦叔宝・宇文歆等を率いて幡を揮いて入り、直ちに其の陣後を突出し、我が旗幟を張る。賊顧みて之を見、大いに潰る。奔るを追うこと三十里、首三千余級を斬り、其の衆五万を虜にし、生け捕りに建徳を陣中に擒う。太宗之を数えて曰く、「我干戈を以て罪を問う、本は王世充に在り、得失存亡、汝が事に預からず、何ぞ故に境を越え、我が兵鋒を犯す」と。建徳股慄して言いて曰く、「今若し来たらずんば、恐らくは遠く取るを労せしめん」と。高祖聞きて大いに悦び、手詔して曰く、「隋氏分崩し、崤函隔絶す。両雄勢を合わし、一朝清蕩す。兵既に克捷し、更に死傷無し。臣たるに愧じず、其の父を憂えず、並びに汝が功なり」と。乃ち建徳を将いて東都城下に至る。世充懼れ、其の官属二千余人を率いて軍門に詣り降を請う、山東悉く平ぐ。太宗宮城に入り拠り、蕭瑀・竇軌等に令して府庫を封守せしめ、一も取る所無く、記室房玄齢に令して隋の図籍を収めしむ。ここに其の同悪段達等五十余人を誅し、枉く囚禁せられたる者悉く之を釈し、罪無く誅戮せられたる者祭りて之を誄す。将士を大いに饗し、班賜差有り。高祖令して尚書左僕射裴寂をして軍中に労せしむ。

六月、凱旋す。太宗親しく黄金甲を披き、鉄馬一万騎を陣し、甲士三万人、前後部鼓吹し、二偽主及び隋氏の器物輦輅を俘え、太廟に献ず。高祖大いに悦び、飲至の礼を行いて以て享く。高祖は古より旧官殊功に称せざるを以て、乃ち別に徽号を表し、用て勲徳を旌す。

十月、号を加えて天策上将・陝東道大行臺と為し、位は王公の上に在り。邑二万戸を増し、前に通ずること三万戸。金輅一乗、袞冕の服、玉璧一双、黄金六千斤、前後部鼓吹及び九部の楽、班剣四十人を賜う。時に海内漸く平らぎ、太宗乃ち経籍に鋭意し、文学館を開きて以て四方の士を待つ。行臺司勲郎中杜如晦等十八人を学士と為し、毎に更直して閣下に降り、温顔を以て之に降り、之と経義を討論し、或いは夜分にして罷む。未だ幾ばくもせず、竇建徳の旧将劉黒闥挙兵して反し、洺州に拠る。

十二月、太宗戎を総べて東討す。五年正月、肥郷に進軍し、兵を分かちて其の糧道を絶ち、相持つこと両月。黒闥窘急して戦を求め、歩騎二万を率い、南して洺水を渡り、晨に官軍を圧す。太宗親しく精騎を率い、其の馬軍を撃ち、之を破り、勝に乗じて其の歩卒を蹂躙し、賊大いに潰れ、首万余級を斬る。先に、太宗は洺水上流に堰きて浅からしめ、黒闥をして渡るを得しむ。戦に及び、乃ち堰を決するを令す。水大いに至り、深さ丈余、賊徒既に敗れ、水に赴く者皆溺死す。黒闥二百余騎とともに北走して突厥に走り、其の衆を悉く虜う、河北平ぐ。時に徐円朗兵を徐・兗に阻み、太宗師を回して討ち平げ之、ここに河・済・江・淮諸郡邑皆平ぐ。十月、左右十二衛大将軍を加う。

七年秋、突厥の頡利・突利二可汗、原州より入寇し、関中を侵擾す。高祖に説く者有りて云く、「只だ府蔵子女の京師に在るを為すが故に、突厥来る。若し長安を焼き却てて都とせずんば、則ち胡寇自ずから止まん」と。高祖乃ち中書侍郎宇文士及を行かしめて山南の居くべきの地を行わしめ、即ち都を移さんと欲す。蕭瑀等皆以て非と為すも、然れども終に敢えて顔を犯して正諫せず。太宗独り曰く、「霍去病は、漢廷の将帥なるのみ、猶お且つ匈奴を滅ぼさんと志す。臣籓維に忝く備わり、尚お胡塵息まず、遂に陛下をして議して都を遷さんと欲せしむ、此れ臣が責なり。幸いに臣が一たび微効を申すを聴き、彼の頡利を取らしめよ。若し一両年の間其の頸を係がずんば、徐ろに移都の策を建つべし、臣当に復た言わざるを敢えん」と。高祖怒り、仍て太宗を遣わして三十余騎を将いて行き刬せしむ。還る日、固く奏して必ず都を移すべからずとす、高祖遂に止む。八年、中書令を加う。

武徳九年

九年、皇太子建成と齊王元吉が太宗を謀害せんとす。六月四日、太宗は長孫無忌・尉遲敬徳・房玄齢・杜如晦・宇文士及・高士廉・侯君集・程知節・秦叔寶・段志玄・屈突通・張士貴らを率いて玄武門にてこれを誅す。甲子、皇太子に立てられ、庶政はすべて断決す。太宗は禁苑に養われた鷹犬を放ち、併せて諸方より進められた珍異を停め、政は簡素厳粛を尚び、天下大いに悦ぶ。また百官に命じて各々封事を上らせ、安民理国の要を備え陳べしむ。己巳、令して曰く、「礼に依れば、二名は偏諱せず。近代以来、両字を兼ねて避け、廃闕すでに多く、率意に行い、経典に違う。官号・人名・公私の文籍に、『世民』の両字が連続せざるものは、並びに諱むを須いず」と。幽州大都督府を罷む。辛未、陝東道大行臺を廃し、洛州都督府を置き、益州道行臺を廃し、益州大都督府を置く。壬午、幽州大都督廬江王瑗、謀逆を図り、庶人に廃せらる。乙酉、天策府を罷む。七月壬辰、太子左庶子高士廉を侍中と為し、右庶子房玄齢を中書令と為し、尚書右僕射蕭瑀を尚書左僕射と為し、吏部尚書楊恭仁を雍州牧と為し、太子左庶子長孫無忌を吏部尚書と為し、右庶子杜如晦を兵部尚書と為し、太子詹事宇文士及を中書令と為し、封徳彞を尚書右僕射と為す。

八月癸亥、高祖、皇太子に位を伝う。太宗、東宮顕徳殿にて即位す。司空・魏国公裴寂を遣わし、南郊に柴して告ぐ。天下に大赦す。武徳元年以来、責情により流配せられたる者を並びに放還す。文武の官五品以上で先に爵なき者には爵一級を賜い、六品以下には勲一転を加う。天下に一年の復除を与う。癸酉、掖庭の宮女三千余人を放つ。甲戌、突厥の頡利・突利、涇州を寇す。乙亥、突厥、武功に進みて寇し、京師戒厳す。丙子、妃長孫氏を立てて皇后と為す。己卯、突厥、高陵を寇す。辛巳、行軍総管尉遲敬徳、突厥と涇陽にて戦い、これを大破し、千余級を斬首す。癸未、突厥の頡利、渭水便橋の北に至る。その酋帥執失思力を遣わし入朝して覘と為し、自ら形勢を張る。太宗、これを囚うるを命ず。親しく玄武門を出で、六騎を馳せて渭水上に幸し、頡利と津を隔てて語り、約に背くを責む。俄にして衆軍継いて至る。頡利、軍容既に盛んなるを見、又思力の拘えられたるを知り、ここにおいて大いに懼れ、遂に和を請う。詔してこれを許す。即日宮に還る。乙酉、また便橋に幸し、頡利と白馬を刑して盟を設く。突厥引き退く。九月丙戌、頡利、馬三千匹・羊一万口を献ず。帝受けず、頡利に令して掠めたる中国の戸口を帰せしむ。丁未、諸衛の騎兵統将らを引き、顕徳殿庭にて習射せしむ。将軍以下に謂いて曰く、「古より突厥と中国は更に盛衰有り。若し軒轅よく五兵を用いれば、即ち能く北に獯鬻を逐い、周宣の方・召を駆馳すれば、亦能く太原に制勝す。漢・晋の君より隋代に逮ぶまで、兵士に素より干戈を習わしめず、突厥来侵するも、抗禦する能わず、中国の生民をして寇の手に塗炭せしむるを致す。我今汝らに池を穿ち苑を築き、諸の淫費を造らしめず、農民は恣に逸楽せしめ、兵士は唯弓馬を習わしめ、庶幾くば汝らをして戦い、亦汝らの前に横敵なからんことを望む」と。ここにおいて毎日数百人を引き殿前にて射を教え、帝自ら臨みて試み、射中つる者に随って弓刀・布帛を賞す。朝臣に諫むる者多く、曰く、「先王の法を制するに、兵刃を以て御所に至る者有ればこれを刑す。以て萌を防ぎ漸を杜ぎ、不虞を備うる所以なり。今裨卒の人を引き、軒陛の側に弧を彎き矢を縦つるは、陛下親しく其の間に在り、正に禍の意に非ざるより出づるを恐る。社稷を計る所以に非ざるなり」と。上納れず。是より後、士卒皆精鋭と為る。壬子、詔して私家に妖神を輒り立て、淫祀を妄りに設け、礼に非ざる祠禱は、一に皆禁絶すべし。其の亀易五兆の外、諸の雑占卜も、亦皆停断す。長孫無忌を斉国公に封じ、房玄齢を邢国公に封じ、尉遲敬徳を呉国公に封じ、杜如晦を蔡国公に封じ、侯君集を潞国公に封ず。

冬十月丙辰朔、日蝕有り。癸亥、中山王承乾を立てて皇太子と為す。癸酉、裴寂に実封一千五百戸を食ましむ。長孫無忌・王君廓・尉遲敬徳・房玄齢・杜如晦に一千三百戸、長孫順徳・柴紹・羅藝・趙郡王孝恭に一千二百戸、侯君集・張公謹・劉師立に一千戸、李世勣・劉弘基に九百戸、高士廉・宇文士及・秦叔寶・程知節に七百戸、安興貴・安修仁・唐儉・竇軌・屈突通・蕭瑀・封徳彞・劉義節に六百戸、銭九隴・樊世興・公孫武達・李孟常・段志玄・龐卿惲・張亮・李薬師・杜淹・元仲文に四百戸、張長遜・張平高・李安遠・李子和・秦行師・馬三寶に三百戸を食ましむ。十一月庚寅、宗室で郡王に封ぜられたる者を降し、並びに県公と為す。十二月癸酉、親しく囚徒を録す。是歳、新羅・亀茲・突厥・高麗・百済・党項並びに使を遣わし朝貢す。

貞観元年

貞観元年春正月乙酉、元を改む。辛丑、燕郡王李藝、涇州に拠りて反す。尋いで左右の者に斬られ、首を京師に伝う。庚午、僕射竇軌を以て益州大都督と為す。

三月癸巳、皇后親しく蠶す。尚書左僕射・宋国公蕭瑀を太子少師と為す。丙午、詔して曰く、「斉の故尚書僕射崔季舒・給事黄門侍郎郭遵・尚書右丞封孝琰ら、昔鄴中に仕え、名位通顕、志は忠讜に存し、表を抗して言を極む。社稷の亡を救う無く、遂に龍逢の酷を見る。其の季舒の子剛・遵の子雲・孝琰の子君遵は、並びに門、時の譴に遭い、淫刑濫りに及ぶ。褒奨に従うべく、常倫に異なるを特し、内侍を免じ、才を量り別に叙すべし」と。

夏四月癸巳、涼州都督・長楽王幼良、罪有りて誅せらる。

六月辛巳、尚書右僕射・密国公封徳彞薨ず。壬辰、太子少保宋国公蕭瑀を尚書左僕射と為す。是の夏、山東諸州大旱し、所在に令して賑恤せしめ、今年の租賦を出さず。

秋七月壬子、吏部尚書・斉国公長孫無忌を尚書右僕射と為す。

八月戊戌、侍中・義興郡公高士廉を貶し安州大都督と為す。戸部尚書裴矩卒す。是月、関東及び河南・隴右の沿辺諸州、霜秋稼を害す。

九月辛酉、中書侍郎温彦博・尚書右丞魏徵らに命じ、分かれて諸州に往き賑恤せしむ。中書令・郢国公宇文士及を殿中監と為す。御史大夫・検校吏部尚書・朝政に参預す・安吉郡公杜淹、位に署す。

十二月壬午の日、帝は侍臣に謂ひて曰く、「神仙の事は本より虚妄にして、空しく其の名有るのみ。秦始皇は分を越えて愛好し、遂に方士の詐りに為り、乃ち童男女数千人を遣はして徐福に随ひ海に入り仙薬を求めしむ。方士は秦の苛虐を避け、因りて留まりて帰らず。始皇は猶ほ海側に踟躕して之を待ち、還りて沙丘に至りて死す。漢武帝は仙を求むる為めに、乃ち女を将ちて道術の人に嫁す。事既に験無く、便ち誅戮を行ふ。此の二事に拠れば、神仙は妄りに求むるに煩はさず。」尚書左僕射、宋國公蕭瑀は事に坐して免ぜらる。戊申の日、利州都督義安王孝常、右武衛将軍劉德裕等謀反し、誅せらる。是の歳、関中饑饉し、男女を鬻ぐ者有るに至る。

貞観二年

二年春正月辛丑の日、尚書右僕射、齊國公長孫無忌を開府儀同三司と為す。漢王屬を徙封して恪王と為し、衛王泰を越王と為し、楚王祐を燕王と為す。六侍郎を復置し、六尚書の事を副へ、並びに左右司郎中各一人を置く。前安州大都督、趙王元景を雍州牧と為し、蜀王恪を益州大都督と為し、越王泰を揚州大都督と為す。二月丙戌の日、靺鞨内属す。三月戊申朔の日、日蝕有り。丁卯の日、御史大夫杜淹を遣はして関内諸州を巡行せしむ。御府の金宝を出し、自ら売らるる男女を贖ひて其の父母に還す。庚午の日、天下に大赦す。

夏四月己卯の日、詔して骸骨暴露する者は、所在に埋瘞せしむ。丙申の日、契丹内属す。初めて天下の州県に並びに義倉を置く詔を下す。夏州の賊帥梁師都、其の従父弟洛仁に為りて殺され、城を以て降る。五月、大雨雹有り。六月庚寅の日、皇子治生まる。五品以上に宴を賜ひ、帛を賜ふこと差有り、仍て天下に是の日生まるる者に粟を賜ふ。辛卯の日、帝は侍臣に謂ひて曰く、「君たると雖も君に非ずと雖も、臣は臣たらざる可からず。裴虔通は、煬帝の旧き左右なりしに、而して親しく乱の首と為る。朕方に敬義を崇奨せんとす、豈に猶ほ民を宰ち俗を訓はしむるを得んや。」詔して曰く、

天地位を定め、君臣の義以て彰はる。卑高既に陳べられ、人倫の道斯に著はる。是を用ひて風俗を篤厚にし、天下を化成す。復た時に治乱を経ると雖も、主或は昏明有りと雖も、疾風勁草、芬芳絶ゆること無く、心を剖き体を焚き、赴蹈すること帰るが如し。夫れ豈に七尺の躯を愛しまず、百年の命を重んぜざらんや。諒ろに君臣の義重く、名教の先とする所に由るなり。故に能く大節を当時に明らかにし、清風を身後に立つるなり。趙高の二世を殞し、董卓の弘農を鴆すが如きに至りては、人神の疾む所、異代同じく憤る。況んや凡庸の小豎、兇悖を懐く者有りて、遐く典策を観れば、誅夷せざる莫きなり。辰州刺史、長蛇縣男裴虔通、昔隋代に在りて、質を晉籓に委ね、煬帝は旧邸の情を以て、特に関愛幸せり。遂に乃ち君親を蔑ろにする志を懐き、潜かに弒逆を図り、密かに間隙を伺ひ、群醜を招結し、長戟流矢、一朝窃かに発す。天下の悪、孰れか忍ぶ可きと云はん。宜しく其の宗を夷し首を焚き、以て大戮を彰すべし。但だ年代時を異にし、累ねて赦令に逢ふ。特に極刑を免じ、名を除き爵を削ぎ、驩州に遷配すべし。

秋七月戊申の日、詔す。「萊州刺史牛方裕、絳州刺史薛世良、廣州都督府長史唐奉義、隋の武牙郎将高元禮、並びに隋代に俱に任用を蒙り、乃ち契を宇文化及に協け、弒逆を構成す。宜しく裴虔通に依り、名を除き嶺表に配流すべし。」太宗、侍臣に謂ひて曰く、「天下の愚人、憲章を犯すを好む。凡そ赦宥の恩は、唯だ不軌の輩に及ぶ。古語に曰く、『小人の幸は、君子の不幸なり。』『一歳再び赦せば、好人喑啞す。』凡そ稂莠を養ふ者は禾稼を傷つけ、奸宄に恵む者は良人を賊す。昔し文王罰を作り、此れを刑して赦さず。又た蜀の先主嘗て諸葛亮に謂ひて曰く、『吾れ陳元方・鄭康成の間を周旋す。毎に見るに理乱の道を啓告するに備はれり。曾て赦を語らず。』夫れ小人は、大人の賊なり。故に朕天下を有つ已来、甚だしく赦を放たず。今四海安静し、礼義興行す。非常の恩は、施すに数ふ可からず。将に恐らくは愚人常に僥幸を冀ひ、唯だ法を犯さんと欲して、過ちを改むる能はざらんと。」八月甲戌朔の日、朝堂に幸し、親しく冤屈を覧る。是より、帝は軍国事無きを以て、毎日西宮に於て膳を視る。癸巳の日、公卿奏して曰く、「礼に依れば、季夏の月は、台榭に居る可し。今隆暑未だ退かず、秋霖方に始まらんとす。宮中卑湿なり。請ふらくは一閣を営み以て之に居らしめん。」帝曰く、「朕気病有り。豈に下湿に宜しからんや。若し遂に来請に従はば、糜費良多からん。昔し漢文帝露台を起さんとし、而して十家の産を惜しむ。朕の徳は漢帝に逮ばず、而して費やす所之に過ぐ。豈に民の父母たるの道と謂はんや。」竟に許さず。是の月、河南・河北大霜有り、人饑ゆ。

九月丙午の日、詔して曰く、「尚齒重舊は、先王之を以て範を垂る。還章解組は、朝臣是に於て克く終る。釋菜合楽の儀、東膠西序の制、養老の義、遺文睹る可し。朕恭しく大宝を膺け、故実を憲章し、言を乞ひ事を尊ぶこと、弥切に深衷を衷す。然れども情は今古に存し、世は澆季に踵く。而して名を策し列に就くは、或は大體に乖く。筋力将に尽き、桑榆且に迫るに至りては、徒らに夙興の勤を竭くし、未だ夜行の罪を悟らず。其れ心に止足を驚かし、行ひ激勵に堪へ、公門に事を謝し、骸骨を閭里に収め、礼譲を以てする能くする者は、固より嘉む可し。内外文武の群官、年高く致仕し、表を抗ひて職を去る者は、参朝の日、宜しく本品の見任の上に在るべし。」丁未の日、侍臣に謂ひて曰く、「婦人深宮に幽閉せらるるは、情実に愍む可し。隋氏の末年、求採已むこと無く、離宮別館に至りては、幸御の所に非ざるも、多く宮人を聚め、皆人財力を竭くす。朕の取らざる所なり。且つ灑掃の餘、更に何を用ふる所か。今将に之を出だし、伉儷を求むるに任せん。独り費を惜しむを以てするのみに非ず、亦た人各其の性を遂ぐるを得ん。」是に於て尚書左丞戴胄、給事中杜正倫等を遣はし、掖庭宮の西門に於て簡び出ださしむ。

冬十月庚辰の日、御史大夫、安吉郡公杜淹卒す。戊子の日、瀛州刺史盧祖尚を殺す。

十一月辛酉の日、圓丘に事有り。

十二月壬午の日、黄門侍郎王珪を侍中と為す。

貞観三年

三年春正月辛亥の日、契丹の渠帥来朝す。戊午の日、太廟を謁す。癸亥の日、親しく籍田を耕す。辛未の日、司空、魏國公裴寂事に坐して免ぜらる。

二月戊寅の日、中書令、邢國公房玄齢を尚書左僕射と為し、兵部尚書、檢校侍中、蔡國公杜如晦を尚書右僕射と為し、刑部尚書、檢校中書令、永康縣公李靖を兵部尚書と為し、右丞魏徵を守秘書監と為し、朝政に参預せしむ。

夏四月辛巳の日、太上皇大安宮に徙居す。甲子の日、太宗始めて太極殿に於て政を聴く。

五月、周王元方薨ず。

六月戊寅の日、旱魃のため、自ら囚徒を録囚した。長孫無忌・房玄齢らを名山大川に遣わして雨を祈らせ、中書舎人杜正倫らを関内諸州に往かせて慰撫させた。また文武の官に命じ、各々封事を上奏して得失を極言させた。己卯の日、大風が木を折った。

秋八月己巳の朔、日蝕があった。薛延陀が使者を遣わして朝貢した。

九月癸丑の日、諸州に医学を置いた。

冬十一月丙午の日、西突厥・高昌が使者を遣わして朝貢した。庚申の日、并州都督李世勣を通漢道行軍総管とし、兵部尚書李靖を定襄道行軍総管として、突厥を撃たせた。

十二月戊辰の日、突利可汗が来奔した。癸未の日、杜如晦が疾を以て位を辞し、これを許した。癸丑の日、詔して、

義を建てて以来、兵を交えたところに、義士勇夫が戎陣に殞身した者のために各々一寺を立て、虞世南・李伯薬・褚亮・顔師古・岑文本・許敬宗・硃子奢らに命じてこれが碑銘を作らせ、功業を紀せしめた。

この年、戸部が奏上して言うには、中国人で塞外より帰来した者及び突厥の前後内附し、四夷を開いて州県とした者は、男女合わせて百二十余万口である。