舊五代史

志十: 選舉志

◎選舉誌

『唐典』によれば、凡そ選授の制度は天官卿がこれを掌り、以て権衡を正し賢能を進める所以であり、凡そ貢挙の政は春官卿がこれを掌り、以て文行を核し雋秀を第する所以である。梁氏以降に至るまで、皆これを奉じて行い、仮に或いは小なる厘革有りとも、亦その軌轍を出でず。今その事を採り、後世に備えて紀し、以て五代の審官取士の方策を誌す。

梁の開平元年七月、勅す「近年の挙人は、秋薦の時に当たり、親しく試みざる者を『抜解』と号す。今後は宜しく止絶すべし」。四月、兵部尚書・権知貢挙の姚洎奏す「近代文科を設け、胄子を選ぶは、以て名教を綱維し、邦本を崇樹する所以なり。今朝に在る公卿の親属・将相の子孫に、文行取るべき者有らば、請う所在の州府に許して薦送せしめ、以て疏材の路を広むることを」。これに従う。(『文献通考』に曰く、唐の時知貢挙は皆礼部侍郎を用う。梁の開平中、始めて兵部侍郎楊渉を命じて権知貢挙とす。)

唐の同光二年十月、中書奏し、挙選を一年停むることを請う。勅す「挙・選の二門は、国朝の重事なり。但だ精確を要すれば、難く議して権停すべし。宜しく常例に準じて処分すべし」。

天成元年八月、勅す「応に三京・諸道、今年の貢挙人は、依って常年のごとく解を取るべく、仍って随処に事を量り、津送して闕に赴かしむべし」。五年二月九日、勅す「近年の文士、格条を軽視し、就試の時に帖経に疏く、登第の後選に赴くを恥ず。宜しく躁求の路を絶ち、別に奨勧の門を開くべし。その進士科已に及第したる者は、選数を計り年満の日に、許して中書に就き状を陳べ、都堂の前に於いて各々本業の詩賦判文を試みしむ。その中才藝灼然として取るべき者有らば、便ち与に除官すべし。若し或いは事業甚だ精ならざる者は、自ら添選に準ずることを許す」。

晉の天福三年三月、翰林学士承旨・兵部侍郎・権知貢挙の崔棁奏す「臣謬くも眷渥を蒙り、叨むに文衡を掌る。実に庸懦の材を憂え、搜羅の旨に副わざるを。敢えず頑鈍を揣摩し、阿私を杜絶し、上は則ち陛下の賢を求むるを顕わし、次は則ち平人の路を得しめんとす。但だ以て今年就挙する者、常歳に比べて倍多し、科目の中に、兇豪甚だ衆し。毎に駁榜出でたる後、則ち時に喧張有り、自ら省循せず、只だ屈塞を言い、互いに朋扇し、各々言詞を出す。或いは云う主司不公と、或いは云う試官賄を受く、と。実に聖聴に上達せんことを慮り、微臣以て自ら明らかにする無からん。昼に省み夜に思い、深淵に臨み薄氷を履むが如し。今臣請わくは、挙人落第の後、或いは甘心せず、任せて自ら状を投じ披陳せしめ、却って試みたる所のものと疏義とを対証せしめ、兼ねて其の日一甲同じく校量せしむることを請う。若し独り試官に委せば、恐らくは詞理未だ息まず。儻し是れ実に抑屈を負うに在らば、則ち所司固より憲章を逭れ難し。其の如く妄りに陳論有らば、則ち挙人に乞う痛く懲断を加えん。冀わくは此の際虚しく謗議に遭うを免れ、亦将来に於いて久遠に施行し得んことを。儻し聖造の允俞を蒙らば、伏して勅を降して処分せんことを乞う」。これに従う。

天福五年三月、詔す「及第挙人と主司の選勝筵宴、及び中書舎人の靸鞋にて挙人に接見すること、並びに兵部・礼部の引人過堂の日の、幕次の酒食会客は、悉く宜しくこれを廃すべし」。四月、礼部侍郎張允奏して曰く「明君側席すと雖も、旁求に切なり。貢士観光すと雖も、豈に濫進宜しからんや。窃かに前代を窺うに、諸科を設けず、始めに明経を以て、高第を昇らしむ。『九経』『五経』の後有りてより、及び『三礼』『三伝』已来、孝廉の科は、遂に因循して廃せず、搢紳の士も亦緘黙して言無し。以て相承し、改作する能わず。毎歳明経一科、少なきは五百以上より、多きは一千有余に及び、挙人かくの如く繁多なれば、試官豈に精当たる能わんや。況んや此の等多く義を究めず、惟だ帖書を攻め、文理既に甚だ通ぜず、名第豈に妄りに与えんや。且つ常年登科する者少なからず、相次いで選に赴く者甚だ多し。州県の間には、必ず遣闕無く、輦轂の下には、須らく稽留有らん。怨嗟ここより興り、謗讟茲に因りて起らん。但だ今広場大いに啓き、諸科並びに存す。明経なる者は悉く『九経』『五経』の中に包まれ、『三礼』『三伝』の内に出でず。若し夫れ厘革せんには、恐らく未だ便宜ならず。其の明経一科は、伏して停廃を請う」。又奏す「国家科を懸けて士を待つは、務めとして搜揚を貴ぶ。実を責めて才を求むるは、須らく訛濫を除くべし。童子は毎たび就試に当たり、止だ念書に在り、経を背くは則ち精詳に似たれども、巻に対すれば則ち読誦する能わず。名貢部に成り、身故郷に返りては、但だ克日を以て官を取り、更に心有って業を習う無し。徭役を濫に蠲し、官名を虚しく占む。其の童子一科も、亦請う停廃せん」。勅して明経・童子・宏詞・抜萃・明算・道挙・百篇等の科を並びに停む。

天福七年五月、勅す「応に諸色進策人等は、皆材能を抱き、方に来たりて投献す。宜しく明試を加え、俾く臧謀を尽くさしむべし。今後より起りて応に進策条は、中書奏覆し、勅下る。其の進策人は門下省に委ねて策三道を試み、仍って上・中・下の三等を定む。もし是れ元の進策内に施行する者有らば、其の試むる策或いは上或いは中なる者は、門下省に委ねて減選を与え、或いは出身優牒合格せしむ。参選の日、其の試策上なる者は、銓司に委ねて超えに一資を註擬す。其の試策中なる者は、銓司に委ねて資に依りて註擬す。もし是れ試むる策或いは上或いは中なれども、元の進策条並びに施行せず、試むる策下り、元の進策条内に施行する者有らば、其の本官並びに仰せて量りて恩賜を以て発遣せしむ。若し或いは試むる策下り、進むる策条並びに施行せざれば、便ち仰せて曉示して発遣し、再び投進有るを得ず。余は並びに前後の敕文に準じて処分すべし」。

開運元年八月、詔して曰く「明経・童子の科は、前代の設くる所、蓋し士を取るを期し、良く通規と謂う。爰に近年より、暫く停廃に従う。損益の機未だ見えず、牢籠の義全く虧く。将に斯の文を闡さんとす、宜しく旧貫に依るべし。庶幾くは至理に臻り、用て旁求を広めん。其の明経・童子二科は、今後復た置く」。十一月、工部尚書・権知貢挙の竇貞固奏す「進士の雑文を考試し、及び諸科挙人の策に入るは、歴代已来、皆三条の燭尽くるを以て限りとす。長興二年、改めて令して昼に試む。伏して懸科士を取るは、国の常規有り。沿革の道は殊なるも、公共の情は失い難し。若し両廊の下に就試せしめ、短景の中に毫を揮わしめ、刻を視て惟だ稽遲を畏れ、詞藻を演じて妍麗を求むる難ければ、未だ観光の美を見ず、但だ款答の由に同じ。既に古に師うる規に非ず、恐らくは人を取る道を失わん。今考試の時、旧例に準じて三条の燭を以て限りとせんと欲す。其の進士並びに諸色挙貢人等、書冊を懐蔵して院に入る者有らば、旧例は扶出し、就試せしめず。近年以来、懐蔵有るを見ると雖も、多くは容縦す。今弛紊を振挙し、臧否を明弁せんと欲し、冀わくは必行に在り、庶幾くは定式たらんことを」。

漢の乾祐二年、刑部侍郎辺帰讜が上言する。「臣が窃かに見るに、毎年の貢挙人数は甚だ多く、動もすれば五挙・六挙を引き合いに出し、多くは二千・三千に至る。既に事業精しからず、即ち人文何を取らん。請うらくは、三京・鄴都・諸道州府の長官に勅を下し、諸色の貢挙人文解を発するに当たっては、並びに須らく精しく考校を加え、事業精研なる者を即ち解送すべし、濫りに挙送することを得ざらしめ、以て濫進の門を塞ぎ、能を興すの路を開かんことを」と。勅してこれに従う。その間の条奏未だ尽くさざる処は、貢院に下して天福五年四月二十七日の勅文を録し、天下に告諭し、元の勅条件に依り施行せしむ。もし固より違う者有らば、その随処の考試官員は、当に勅条に準じて処分すべし。

周の広順二年二月、礼部侍郎趙上交が奏す。「貢院の諸科は、今、泛義を試さず、その口義五十道を、墨義十道に改めて試さんと欲す」と。従う。三年正月、趙上交が奏す。「進士は元来、詩賦各一首を試み、帖経二十帖・対義五通を試む。今、帖経・対義を罷め、別に雑文二首を試み、策一道を試まんと欲す」と。従う。その年の八月、刑部侍郎・権知貢挙徐臺符が奏す。「請うらくは、別に雑文を試むる外、その帖経・墨義は、仍って元の格に依らんことを」と。従う。

顕徳二年三月、礼部侍郎竇儀が奏す。「請うらくは、諸科挙人に、若し解すべきに合いながら解せず、解すべからざるに合いながら解する者は、監試官を首罪とし、現任を勒停し、挙送の長官は、奏聞して裁断を取らん。監試官、もし賄賂を受け、及び今後進士に、もし人に倩いて文字を述作し応挙する者有らば、人の言告を許し、本処の色役に送り、永く進仕せしめざらんことを」と。

唐の同光四年三月、中書門下が奏議する。「左拾遺王松・吏部員外郎李慎儀が上疏し、諸道州県は皆な摂官にて、生霊を誅剝し、漸く存済せずと。比者、郭崇韜が中書に在りし日、本朝の故事に詳らかならず、妄りに閑人の献疑に被り、選曹を点検し、曲りに異議を生じ、或いは告赤欠少し、一事闕違し、保内一人来らず、五保即ち須らく並びに廃せられ、文書一紙誤り有り、数任皆な勘詳せず。その年の選人及び行事官一千二百五十余員、官を得る者は纔かに数十に及ぶのみ。皆な渝濫を以て名と為し、尽く焚毀棄逐せられ、或いは旅店に斃踣し、或いは道途に号哭す。以て二年已来、選人敢えて赴集せず、銓曹人無くして註すべく、中書人無くして除くべく、去年の闕近く二千、官を授くる六十に及ばず。伏して請うらくは、特に勅文を降し、遐邇に宣布し、往年の制置は宸衷より出でず、此の日の焦労は、特ちに睿沢を頒つことを明らかにせん。中書の条件及び王松等の論ずる事節を以て、銓司に委ね点検せしめ、務めて酌中に在りて、以て定制と為さんことを望む」と。従う。時に議者以て、銓註の弊は一朝に止まらず、搢紳の家、自ら甄別無く、或いは伯叔の告赤を、同姓の家に鬻ぎ、賂に随ひて改更し、因りて昭穆を乱り、至っては季父伯舅反って侄甥に拝する者有りと。郭崇韜は疾悪太だ深く、奏請して厘革せんとし、豆盧革・韋説は僶俛して賛成す。或いは親旧其事端を訊く者有れば、韋説曰く「此れ郭漢子の意なり」と。崇韅の誅せらるるに及び、革・説は即ち門人王松を教え、上疏奏論せしむ。故に此の奏有り。識者は之を非とす。

天成四年冬十月丙申、詔して曰く。「本朝一統の時、嶺南・黔中、京を去ること地遠きを除き、三年に一たび選補使を降し、号して南選と為す外、その余の諸道及び京百司の諸色選人は、毎年動もすれば数千に及び、三選に分ち、尚ほ繁重なり。近代の選人は、毎年数百を過ぎず、何ぞ必ずしも一司の公事を以て、三処の官方を作さんや。況んや格条有り、各資考に依り、兼ねて又明らかに勅命を行い、務めて阿私を絶たんとす。宜しく公共の規を新たにし、俾く官常の要を慎ましむべし。その諸道の選人は、宜しく三銓の官員に令し、都て省署に在りて子細に磨勘し、違礙無き後、即ち格に據り同しく商量し註擬し、連署して申奏すべし。仍って前に踵いて私第に官を註ぐことを得ざらん。然らば則ち人吏整斉し易く、公事も亦た遅滞無からん」と。

長興元年三月、勅す。「凡そ是れ選人は、皆な資考有り。毎に赴調するに至りては、必ず文書を験す。或いは具全せず、多く失墜を称す。本末を明らかにせんと将ち、須らく規程を示すべし。その判成の諸色選人は、黄甲下った後、歴任の文書告赤を連粘し、宜しく南曹に令し逐縫に印を使わしめ、都て後面に紙を粘すべし。その前後の歴任文書は、都て紙数を計り、仍って年月日を具し、判成して某官を授く」と。蓋し其の或いは人に分け仮るを懼るる故なり。その年の十月、中書が奏す。「吏部流内銓の諸色選人は、先に条流して判を両節試み、並びに本官に委ね優劣等第を申奏す。文優なる者は宜しく一資を超えて註擬すべく、その次なる者は宜しく資に依り、更に次なる者は同類の官を以て註擬す。以て毫を援るの作を励まし、亦た歴任の労を掩わざらん。その或いは理道に於て全く疏なる者は、人戸少き処の州県の同類官の中に比擬し、仍って元の勅に準じ、業文なる者は古今を征引するに任せ、業文ならざる者は但だ公理に據り判断の可否をせん。当たらずんば、罪は有司に在り。兼ねて諸色選人に、或いは元より家状を通じ、郷里の名号実ならず、将来選に赴かんとする者は、並びに令して改正せしめ、一一本貫属の郷県を堅めしむ。兼ねて出身無く、一奏一除官等は、宜しく並びに選限を加えざらんことを」と。従う。

応順元年閏正月丁卯、中書門下が奏す。「天成二年十二月の勅に準ずるに、長定格応に経学出身の人は、一任三考にして、下県令・下州録事参軍に入るを許し、亦た中下州録事参軍に入る。両任四考にして、中下県令・中州録事参軍に入るを許す。両任六考にして、上県令及び緊州録事参軍に入るを許す。凡そ進取を為すは、皆な因依有り。或いは少年にして便ち好官を受け、或いは暮歯にして卑任を離れず。況んや孤貧の挙士は、或いは年四十にして始めて経学及び第し、八年合選にして方に一官を受け、在任多く三考を成さず、第二選漸く向かって蹉跎す。一生終に令録に至らざる者有り。若し改革無くんば、何を以てか発揚せん。此より経学出身は、請うらくは一任両考にして、中下県令・下州録事参軍に入るを許さんことを」と。詔して曰く。「参選の徒は、艱辛一ならず。身を発する遅滞し、到老卑低なり。宜しく未達の人を優し、惟新の沢を示すべし。その経学出身は、一任両考、元の勅は下県令・下州録事参軍に入る。今より後は更に中下県令・下州録事参軍に入るを許す。一任三考の者は、人戸多き処の州県に註擬す。若し近き勅条の内に於て、資叙相当なる者無くんば、即ち格に準じ資を循り考を入れて官とす。その両任四考の者は、二任五考の例に準じて官に入る。余は格条に準じて処分すべし」と。

晋の天福三年正月、詔して曰く。「挙選の流は、苦辛備歴す。或いは則ち書に耽り歳久しく、或いは則ち事を守り年深し。少しく格条に違礙する有れば、例えて是れ式様を知らざるなり。今則ち方に公器を求め、宜しく皇恩に被るべし。所有の選人等は、宜しく所司に令し、元の駁放及び落下の事由を除く外、違礙無きは並びに施行すべし。仍って所司に令し遍く諸道に下し、今より後文解差錯の過ちは、発解の州府の官吏に在らしむべし。

漢(後漢)の乾祐二年八月、右拾遺の高守瓊が上言して曰く、「官に仕える者で年齢が三十に満たない者は、県令に任命すべからず」と。これにより詔を下して曰く、「今後より諸色の選人で、年七十の者は優れた散官に注擬すべし。年少で資考を歴ねていない者は、令録に注授することを得ず」と。その年の十二月、中書門下が奏上して曰く、「諸々の選門を出でた官で、かつ歴任の内に曾て朝に昇り及び両使判官を歴任し、今任が却って令録を授けられる者については、みな現任官の選数に依って集に赴くべし」と。これを従う。

周(後周)の広順元年二月、詔して曰く、「以前より朝廷が官を除し、銓司が選授するに当たり、その用闕に際しては、皆旧規に稟う。近く聞くところによれば、得た官人の中には、或いは他事に阻まれて留められ、或いは疾に染まって淹留し、初めて任に赴く者は既に月限を過ぎ、後に官に就く者は遂に期程を失い、以て相沿うに至り、漸く非次となる。これにより新官は参謝して上らんと欲し、旧官は考秩未だ終わらず、満ちて替移を待つに、動もすれば時月を逾え、一処を雕残し、新旧二官、迎送に在りて以て労と為し、必ず公私の緒を失わん。今後、諸道州府の録事参軍・判司・県令・主簿等に応ずる者は、宜しく本州府に令し、到任の月日を以て、旋めに具して申奏し及び吏部に報ぜしむべし。此れより後は中書及び銓司、到任の月日を以て闕を用い、永く定制と為すべし」と。その年の十月、詔して曰く、「選部の公事、比来三銓を置くも、所有の員闕選人は三処に分かれ、毎に注擬の際に至っては、資叙相当を得難し。況んや今年の選人多からず、宜しく三銓の公事を併せて一処と為し、本司の長官に委ねて通判せしめ、同しく商量して可否を施行すべし。今開泰の期に当たり、宜しく単平の衆を軫むべし。今後より合格の選人で、歴任に違礙なき者は、並びに仰せて吏部南曹に判成せしめ、もし文解に差錯有り、式様に合わざるは、罪は発解の官吏に在り」と。