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舊五代史
志十一: 職官志
◎職官誌
官は位なくしては貴賤を分つこと能わず、位は品なくしては高卑を定むること能わざるなり。ここをもって歴代の史官、みな紀すところあり、皆源を窮めて本を討ち、世とともに程を作らんことを期す。唐の祚の隆んに方り、玄宗の宥に在り、累朝の故事を採り、衆職の遐源を考へ、才臣に命を申して『六典』を著わす。その勲階の等級、品秩の重軽は、すでに備載せり。故に今の撰ぶところは、敢えて相沿わず、五代の命官を祖述して、百王の垂範に踵がんとす。或いは厘革升降あらば、則ち謹んでこれを誌し、後の天官卿たる者、以て観るを得しめん。
梁の開平三年三月、詔して尚書令を正一品に昇す。『唐六典』に按ずるに、尚書令は正二品なり。是の時に趙州の王镕にこの官を授けんとす。故にこれを昇す。
後唐の天成四年八月、詔して曰く、「朝廷、将相の恩命ある毎に、往例に準じ、諸道の節度使、平章事を帯び、侍中・中書令を兼ぬるは、並びに敕牒の後に銜を列ね、側に『使』の字を書す。今、両浙節度使錢镠は元帥・尚父にして、使相と名を殊にす。前に列銜を承け、久しく改正せず。湖南節度使馬殷は、先に中書令を兼ぬるの時、理宜く相位に齒すべし。今、太師・尚書令を守るは、南省の官資にして、敕尾に署を列するに合わず。今後、将相の敕牒を署する毎に、宜しく錢镠・馬殷の官位を落下すべく、仍って永く常式と為すべし」。
梁の開平二年四月、左右丞を左右司侍郎に改む。廟諱を避くるなり。後唐の同光元年十月に至り、旧に復して左右丞と為す。
後唐の長興元年九月、詔して曰く、「臺轄の司、官資並びに設け、左右貂は素より相類ひ、左右揆は相懸からず。これを比方すれば、豈に分別すべけんや。此より宜しく尚書右丞の官品を昇し、左丞と並びに正四品と為すべし」。
右、都省
後唐の長興四年九月、敕す。「馮赟は経邦の茂業有り、宜しく公臺の位に進むべし。但だ平章事の字、其の父の名に犯すを縁り、其の家諱を斥けんと欲せず。平章事を同中書門下二品に改むることを得べし」。後に周の顯德中に至り、枢密使吳廷祚も亦た同中書門下二品を加ふ。其の諱を避くるなり。
晉の天福五年二月、敕す。「門下侍郎・中書侍郎を以て並びに清望正三品と為す」。晉の天福九月、詔して曰く、「『六典』に云ふ、中書舍人は侍奉進奏・表章を参議するを掌り、凡そ詔旨制敕・璽書策命は、皆故事に按じて起草進画し、既に下れば、則ち署して之を行ふ。其の禁四有り。一に曰く漏泄、二に曰く稽緩、三に曰く違失、四に曰く忘誤、以て王命を重んずる所以なり。古昔已来、典実斯に在り。爰に近代より、別に新名を創す。今、運は興王に属し、事は師古に従ふ。旧貫を仍して、以て前規を耀かしむ。其の翰林学士院の公事は、宜しく並びに中書舍人に帰すべし」。
七年五月、中書門下上言す。「有司、長興四年八月二十一日の敕を検尋す。『官品令』に準ずるに、侍中・中書令は正三品。『会要』に按ずるに、大暦二年十一月、正二品に昇る。左右常侍は従三品。『会要』に按ずるに、広徳二年五月、正三品に昇る。門下中書侍郎は正四品。大暦二年十一月、正三品に昇る。諫議大夫は正五品。『続会要』に按ずるに、会昌二年十二月、正四品に昇り、以て中書門下四品の闕を備ふ。御史大夫は従三品。会昌二年十二月、正三品に昇る。御史中丞は正五品。亦た大夫と同時に正四品に昇る」。敕す。「宜しく各々元の敕の処分に準ずべく、仍って令文に添入し、永く定制と為すべし」。又た詔す。「門下侍郎は、班を常侍の下にし、俸禄は常侍と同じ」。
周の顯徳五年六月、敕す。「諫議大夫は宜しく旧に依り正五品上とし、仍って班位を給事中の下とすべし」。『唐典』に按ずるに、諫議大夫四員、正五品上、皆門下省に隷し、班は給事中の下に在り。会昌二年十一月に至り、中書門下奏し、正四品下に昇め、仍って左右に分ち、以て両省四品の闕を備ふ。故に其の班も亦た給事中の上に昇る。近朝、諫議大夫より給事中に拝する者は、官は序遷すと雖も、位は則ち降等す。是に至り、其の遷次の倫ならざるを以て、故にこれを改正す。
──右、両省
後唐の清泰二年十一月、制す。「前同州節度使・検校太尉・同平章事馮道を以て守司空と為す」。時に議者曰く、「隋・唐以来、三公は職事無く、親王に非ざれば恒に置かず、宰臣に於ては加官と為し、単置する者無し」。道は相位に在りし時、司空を帯び、及んで鎮を罷め、官を命ぜられず。議者は故事に練ならず、率意に行う。制の出づるに及び、言議紛然たり。或いは云く、便ち中書門下の事を綜べ得べし。或いは云く、須らく冊拝開府すべし。列に就くに及び、故事無く、乃ち朝堂に叙班せず。臺官・両省官入りて列に就きて、方に入り、宰臣退き、踵を接ぎて先退す。劉句も亦た相を罷めて僕射と為り、出入就列、一に馮道と同じ。議者之を非とす。晉の天福中に至り、李纮を以て司徒と為し、周の広順初め、竇貞固を以て司徒と為し、蘇禹珪を以て司空と為し、遂に以て例と為す。議者復た云うこと有らず。
──右は三公の条
後唐の天成元年夏六月、李琪を御史大夫と為す。以後は再び除かず。その年の冬十一月丙子、諸道の進奏官上言す。「今月四日、中丞が上事するに、臣等は礼として台に至るべし。期を比するに前規を越えず、旧に依りて伝語すべし。忽ち処分にて通出を蒙り、尋いで再び指揮を取らんとす。審かなることを明らかにせんとす。また問うを蒙る。大夫相公の上事の日は如何。臣等訴えて云う。大夫は曾て宰相たりし。進奏官は中書に伏事す。事体の間、実に旧吏たり。若し別官を以て除授せば、伝語労来と云うべし。また堅く通出を令す。臣等は藩府より出身し、朝儀を会せず。命を拒めば則ち奏聞有らんことを恐れ、稟に遵えば則ち則例を全く隳す。伏して恐る。此の後台に到り参賀するも、儀則定まらずと。」詔して曰く。「御史台は大朝の執憲の司にして、乃ち四海の違を繩するの地なり。凡そ中外に居るものは、皆整斉すべき所なり。藩侯尚お公参を展ぶ。邸吏豈に抗礼に宜しからんや。遽かに論列を観れば、侮軽を験すべし。但だ喪乱孔多にして、紀綱隳紊し、霜威地を掃い、風憲声を銷す。今則ち景運惟新にし、皇図重ねて正し。稍く提挙を加え、漸く澆訛を止めん。宜しく御史台に令す。凡そ旧例に関わるは、並びに須らく舉行すべし。如し稟承せざれば、当に朝典を行わん。」時に盧文紀初めて中丞を拝し、御史府に於いて領事す。諸道の進奏官来たり賀す。文紀曰く。「事例如何。」台吏喬徳威等言う。「朝廷長安に在りし日、進奏官大夫中丞を見るに、胥吏の長官を見る礼の如し。梁氏将に革命せんとするに及び、本朝微弱にし、諸藩強く拠る。人主大臣邸吏を姑息す。時に中丞上事するに、邸吏至るも、皆客次に於いて伝語し、竟に相見えず。兵乱を経てより、便ち以て常と為す。」文紀台吏に令し旧儀を以て相見せしめ、案に拠り簡を端し、名を通し贊拝す。邸吏輩既に出で、怒り自ら勝えず、相率いて閣門に於いて求見し、口を騰して喧訴す。明宗趙鳳に謂いて曰く。「進奏官外に比するに何の官ぞ。」鳳対えて曰く。「府県発遞祗候の流なり。」明宗曰く。「乃ち吏役のみ。安くんぞ吾が法官を慢にせん。」乃ち此の詔を下す。
晋の天福五年二月、御史中丞を以て清望正四品と為す。按ずるに『唐典』、御史中丞正五品上、今始めて之を升す。三年三月壬戌、御史台奏す。「按ずるに『六典』、侍御史は百僚の糾挙を掌り、獄訟を推鞫す。上に居る者は台を判じ、公廨雑事を知る。次に西推・贓贖・三司受事を和し、次に東推・匭を理するを知る。」勅して宜しく旧制に依るべし。遂に駕部員外郎兼侍御史知雑事劉皞を以て河南少尹と為す。是より省郎知雑有る者無し。
開運二年八月、勅す。「御史台は前朝の故事に準じ、郎中・員外郎一人を以て侍御史知雑事を兼ねしむ。近年停罷し、独り年深の御史に知雑を委ぬ。振挙の間、紀綱未だ峻ならず。宜しく旧事に遵い、庶く通規に葉わん。宜しく却って郎署中より清慎強幹なる者を選び、侍御史知雑事を兼ねしむべし。」
──右は御史台の条
昔、唐朝は中官一人を択びて樞密使と為し、以て帝命を出納せしむ。{{*|(『職官分紀』:唐の樞密使と両軍中尉とを「四貴」と謂う。天祐元年廃す。項安世『家説』:唐は政事堂の後に五房を列ね、樞密房有り、以て曹務を主る。則ち樞密の任は、宰相之を主り、未だ他に付せず。其の後宦人を寵任し、始めて樞密を内侍に帰す。)}}梁の開平元年五月に至り、樞密院を崇政院と改め、始めて敬翔を院使と命じ、仍て判官一人を置く。以後副使一人を改置す。二年十一月、崇政院直学士二員を置き、政術文学有る者を選びて之と為す。其の後又た直崇政院と改む。
後唐の同光元年十月、崇政院は旧に依りて樞密院と為し、宰臣郭崇韜に樞密使を兼ねしめ、亦た直院一人を置く。
晋の天福四年四月、樞密副使張従恩を以て宣徽使と為す。樞密院を権に廃する故なり。是に先立ち、晋祖は宰臣桑維翰に樞密使を兼ねしめしが、懇りて職を免ぜんことを求めて、只だ中書に在らんとす。遂に宣徽使劉処譲を以て之に代う。毎に奏議有るも、多く旨に称せず。其の後処譲丁憂す。乃ち樞密印を中書門下に付す。故に是の厘改有り。
開運元年六月、勅して旧に依りて樞密院を置き、宰臣桑維翰に樞密使を兼ねしむ。中書門下の奏請に従うなり。
周の顕徳六年六月、司徒平章事範質・礼部尚書平章事王溥を命じ、並びに樞密院事に参ぜしむ。
梁の開平元年四月、始めて建昌院を置き、博王友文に院事を判せしむ。太祖の藩に在りし時、四鎮の管する兵車賦税・諸色課利を、旧簿籍に按じて之を主らしむ。其の年五月、中書門下奏請して、建昌院事を判ずる者を建昌宮使と為し、仍て東京太祖潜龍の旧宅を以て宮と為す。二年二月、侍中{{*|(案:原本に闕文有り。『五代会要』に拠れば、侍中韓建を以て建昌宮事を判せしむ。)}}に建昌宮事を判せしむ。十月に至り、尚書兵部侍郎李皎を以て建昌宮副使と為す。三年九月、門下侍郎平章事薛貽矩に延資庫使を兼ねしめ、建昌宮事を判せしむ。四年十二月に至り、李振を以て建昌宮副使と為す。乾化二年五月、門下侍郎平章事於兢に延資庫使を兼ねしめ、建昌宮事を判せしむ。其の年六月、建昌宮を廃し、河南尹魏王張宗奭を以て国計使と為す。凡そ天下の金穀兵戎旧に建昌宮に隷する者は悉く之を主らしむ。後唐の同光四年二月に至り、吏部尚書李琪を以て国計使と為す。以後其の名額を廃し置かず。
後唐の同光元年十一月、左監門衛将軍・判内侍省の李紹宏を兼ねて内勾とし、天下の銭穀簿書を悉く裁遣に委ねた。これより州県の供帳は繁費となり、議者はこれを非とした。また内勾の名は、人々が不祥の言と為すところとなった。二年正月、勅して塩鉄・度支・戸部の三司は、銭物に関することは並びに租庸使の管轄に委ねるとし、梁の旧制を踏襲した。天成元年四月、詔して租庸院を廃し、旧に依って塩鉄・戸部・度支の三司とし、宰臣一人に専ら判らしめた。長興元年八月、許州節度使の張延朗を行工部尚書とし、三司使を充て、班位は宣徽使の下とした。三司に使を置くのは、延朗より始まる。唐朝以来、戸部・度支は泉貨を掌り、塩鉄は時に使名を置き、戸部・度支は則ち尚書省の本司郎中・侍郎がその事を判じた。天宝中、楊慎矜・王鉷・楊国忠は継いで聚貨の術をもって上に媚び寵を受けしも、皆戸部・度支の本官を守り、別に使額を帯びただけで、改作することも無かった。下って劉晏・第五琦も旧制の如し。その後も宰臣が各々一司を判じ、使額を置かなかった。乾符の後、天下兵興し、随処に租庸使を置いて調発を主らしめ、兵罷むれば則ち停めた。梁の時に乃ち租庸使を置き、天下の泉貨を専らにした。荘宗の中興に当たり、政を執る者は典故に通ぜず、梁朝の故事を踏襲し、復た租庸使を置き、魏博の故吏たる孔謙に専ら使務をさせた。天下に怨を斂め、王室を斫喪せしめたのは、実に租庸の弊による故である。明宗の嗣位に及び、その弊を革めんとし、未だ下車せざるに、乃ち詔して使名を削除し、但だ重臣一人にその事を判らしめ、判三司と曰う。ここに至り、延朗は許州より入り再び国計を掌り、枢密使に白して三司の名を置くことを請う。中書に下してその事を議せしむ。宰臣は旧制を以て覆奏し、延朗に特進・行工部尚書を授け、諸道塩鉄転運等使を充て、兼ねて戸部・度支事を判ぜしめ、旧制に従わしめた。明宗は従わず、竟に三司使を名と為した。
梁の開平三年正月、思政殿を金鑾殿と改め、乾化元年五月に至り、大学士一員を置き、始めて崇政院使の敬翔をこれに命じた。前朝は金巒坡に因って門名と為し、翰林院と相接していた故、学士たる者を「金巒」と称した。梁氏はこれに因って殿名と為し、仍って「巒」を「鑾」と改め、美名に従ったのである。大学士は三館大学士と同様である。(《青箱雑記》:梁祖が汴に都し、諸事草創、貞明中、今の右長慶門東北に於いて、始めて小屋数十間を創って三館と為す。湫隘甚だし。又周廬僥道皆その間より出で、衛士騶卒朝夕喧雑す。詔を受けて撰述する毎に、皆他所に移す。)
後唐の天成元年五月、勅して翰林学士・尚書戸部侍郎・知制誥の馮道、翰林学士・中書舎人の趙鳳を、倶に本官を以て端明殿学士を充てしむ。旧号にあらず。時に明宗即位し、四方の書奏を多く枢密使の安重誨に読ませしも、文義を暁さず、ここにおいて孔循が議を献じ、始めて端明殿学士の名を置き、道らをこれに命じた。二年正月、勅す:「端明殿学士は宜しく班を翰林学士の上にせしむべし。今後転改あるも、仍って只だ翰林学士の内より選任すべし。」初め端明殿学士を置くや、名目は三館の例の如く、職は官の下に在り。趙鳳が侍郎に転じ、人を遣わして任圜に諷し職を官の上に移さしめ、今に至るまで例と為す。(《職官分紀》:晋の天福五年、端明殿学士を廃す。開運元年、桑維翰が枢密使と為り、復た学士を置くことを奏す。)
同光元年四月、護鑾書制学士を置き、尚書倉部員外郎の趙鳳をこれに任ず。時に荘宗初めて号を建つる故、特しくこの名を立てしも、故事にあらず。八月、翰林学士承旨・戸部尚書の盧質に論思匡佐功臣を賜う。亦た常例にあらず。
天成三年八月、勅す:「掌綸の任は、才を擢げて居らしむ。或いは初命より昇り、或いは顕秩より授かる。蓋しその職を重んずるが故に、その官に系わず。事分は皆同じくとも、行綴或いは異なる。誠に往日定規無きに由る。官位を議すれば則ち上下恒ならず、職次を論ずれば則ち後先当たらず。宜しく顕命を行い、以て近班を正すべし。今後翰林学士の入院は、並びに先後を以て定めと為す。惟だ承旨一員は、朕の意より出で、官資の先後を計わず、学士の上に在り。仍って《翰林志》に編入すべし。」その年十一月、勅す:「新たに除する翰林学士の張昭遠は、早く綸闈に践み、久しく史筆を司り、曾て憲府に居り、累ねて貳卿に陟る。今既に禁林に擢げらる。宜しく別に班序を宣ぶべく、その立位は崔棁の次にすべし。」(《宋史・張昭伝》:晋の天福二年、宰相桑維翰、昭を薦めて翰林学士と為す。内署の故事、先後入を以て次と為し、官序に系わず。特詔して昭の立位を承旨崔棁の次とす。据《宋史》則ちこの勅は晋の天福中にあるべく、薛史は唐の天成三年後に系す。疑わくは原本に脱誤有り。)
晋の開運元年六月、勅す:「翰林学士と中書舎人は、旧く両制に分かれ、各々六員を置く。偶々近年より、内署を権停す。況んや詔命を司るは必ず深厳に在り。将に宜しきに従わしめんとすれば、却って旧貫に仍るべし。宜しく翰林学士院を復置すべし。」
周の顕徳五年十一月、詔す:「翰林学士の職は禁庭に系り、地は親近に居る。班行と既に異なり、朝請に在りては宜しく殊なるべし。今後より当直下直の学士は、並びに宜しく逐日に起居せしむべし。その当直学士は、仍って晚朝に赴くべし。」旧制、翰林院学士は常参官と五日一度起居す。時に世宗、朝夕謁見せしめて時事を訪わんと欲し、故にこの詔有り。
──右、内職
後唐の天成三年五月、詔す:「開府儀同三司は階の極み、太師は官の極み、封王は爵の極み、上柱国は勲の極みなり。近代已来、文臣は官階稍く高く便ち柱国を授け、歳月未だ深からずして便ち上柱国に転ず。武資は何人たるを計わず、初官便ち上柱国を授く。官爵に次第無きに非ず、階勲に等差備わる。宜しくこの時より、旧制を重修すべし。今後凡そ勲を加うるは、先ず武騎尉より、十二転を経て方に上柱国を授くべし。永く成規を作り、逾越せしむるなかれ。」是の命有りと雖も、竟に前例を革めず。
右、勲格
後唐清泰二年秋九月庚申、尚書考功が上言す。「今年五月、翰林學士程遜の上封事の中に、宰相・百執事より、外鎮の節度使・刺史に至るまで、公事に係る官は全て、逐年に考を書き、その優劣を較べよと請うた。そこで『唐書』・『六典』・『会要』の考課を検尋し、考第を書かしむる令を求めたり。」これを従う。時に議する者曰く、「考績の法は、唐堯・三代の旧制なり。西漢は刺史六条をもって郡守を察し、五曹尚書は庶績を綜べ、法は特に精察にして、吏に検繩あり。漢末乱離し、旧章弛廃す。魏武は軍中において権に品第を制し、吏の清濁を議し、人を用い吏を按ずるに、前規を頓に爽にす。隋・唐已来、始めて令に著わる。漢代の郡守は、入りて三公と為り、魏・晋の後は、政は中書に在り、左右僕射は政事を知り、午前は禁中を視、午後は省中を視、三臺百職、統摂せざるは無し。是をもってこれを論ずれば、宰輔は何を憑りて較考せん。天宝末より、権に使務を置く已後、庶事因循し、尚書諸司、漸く有名無実に致し、廃墜すること久しく、何を憑りて督責するかを知らず。」程遜の上る所も、また本源を詳らかにせず、其の時所司に挙明有りと雖も、大都の諸官もまた考較の事無し。
右、較考
梁開平元年四月、詔す。「開封府司録参軍及び六曹掾属は、各一員を置くべし。両畿赤県は、令・簿・尉各一員を置くべし。」二年十月、諸道州府の六曹掾属を省き、只戸曹一員を留め、六曹を通判せしむ。
後唐同光元年十一月、中書門下奏す。「諸寺監は各、只大卿監・祭酒・司業各一員、博士両員を置くことを請う。その余の官属は並びに権に停めることを請う。惟だ太常寺は大礼に関し、大理寺は刑法に関わるを以て、太常博士の外、更に丞一員を置くことを許す。その王府及び東宮官属・司天五官正・奉御の類、凡そ不急の司存は、並びに未だ除授を議せざることを請う。その諸司郎中・員外郎、双曹有る処に応じ、且つ一員を署し、左右散騎常侍・諫議大夫・給事中・起居郎・起居舎人・補闕・拾遺は、各半分を置く。三院侍御史は仍び御史中丞に委ね条理を申奏せしめ、即日停罷す。朝官は仍び各名氏を録し、罷任の月日を具し、中書に留め、見任官満二十五箇月に候い、並びに資品に据えて却って官を除く。」これを従う。
周顕徳五年十二月、詔す。「両京五府少尹・司録参軍は、先に各両員を置けり。今後より起り只一員を置き、六曹判司内には只戸曹・法曹各一員を置き、その余及び諸州支使・両蕃判官は並びに省く。」
右、増減
梁開平元年五月、御食使を改めて司膳使と為し、小馬坊使を改めて天驥使と為し、文思院使を改めて乾文院使と為し、同和院使を改めて儀鸞院使と為す。其の年又城門郎を改めて門局郎と為す。廟諱を避くるなり。唐同光元年十一月、旧に依り城門郎と為す。
後唐天成元年十一月、詔す。「雄武軍節度使の官銜内、宜しく押蕃落使を兼ぬべし。」二年七月、詔す。「頃に本朝の親王の方鎮を遥領するに因り、其の鎮に在る者は、遂に副大使知節度事と云う。但だ年代已に深く、相沿いて未だ改めず。今天下の侯伯並びに正に節旄す。惟だ東・西両川のみ『副大使』の字を落とさず。宜しく今後只節度使と言わしむべし。」
晉天福五年四月丙午、詔す。「承旨とは、時君の旨を承くるもの、近侍の重臣に非ざれば、以て朕が命を稟け予が言を宣ぶる無し。是を以て大朝会には宰臣承旨し、草制詔には学士承旨す。若し区別無くば、何を以て等威を表さん。翰林承旨の外、殿前承旨は宜しく改めて殿直と為し、密院承旨は宜しく改めて承宣と為すべし。御史臺・三司・閣門・客省の所有の承旨は、並びに別に其の名を定めしむべし。」
周広順二年十二月、詔して左右威衛を改めて復た屯衛と為す。御名を避くるなり。右、改制
後唐同光二年三月、中書門下奏す。「糾轄の任は、時に外臺と謂い、宰字の官は、古より列爵と称す。朝命に非ざれば、是れ国章を廃するなり。近日諸道は多くは各官銜を列ね、便ち州県を指し、朝廷の正授を請い、藩鎮の私恩を樹つること頗る規程を乱す。宜しく条制を加うべし。今後より大鎮節度使、三州已上を管する者は、毎年管内官三人を奏することを許す。三州以下を管する者は、管内官二人を奏することを許す。仍び課績尤も異なる有るを須い、方に上聞すべし。若し只だ検慎瑕無く、科征限に及ぶに止まるは、是れ常道を守るのみ。只だ考を書いて旌嘉するを得るも、特有に薦奏するを得ず。その防禦使は毎年只一人を奏することを許す。若し尤も異なる無くば、奏薦するを得ず。刺史には奏薦の例無く、輒り規程を乱すべからず。」其の年八月、中書奏す。「偽庭の時、諸藩の参佐は、皆従除授せり。今後より諸道は節度副使・両使判官の除授より外、その余の職員並びに諸州軍事判官は、各本処に任せて奏辟せしむ。其の軍事判官は仍び奏官の限に在らず。冀わくは招延の礼、皆前規に合い、簡辟の間、濫挙を聞かざらん。」これを従う。
長興二年十一月、詔す。「闕員限有り、人数常に多し。高低を以て須い、其の等級を定む。今後より起り両使判官罷任の後は、宜しく一年外に比擬すべし。書記・支使・防禦団練判官等は、二年外に比擬すべし。推巡・防禦団練推官・軍事判官等は、並びに三年後に比擬すべし。仍び毎に除授に遇うごとに、量りて改転の官資を与え、或いは階勲、或いは職資とす。其れ殊に常ならざる勤績有る者は、別に優升を議す。若し文学知術群倫を超邁し、或いは衆の称する所と為り、或いは良知迥に挙げられ、察験的実なる者は、年月の限に拘わらず。」
清泰二年八月、中書門下が上言した。「以前の大卿監・五品升朝官・西班將軍は、皆在任中に満二十五月を許され、もし沖替(臨時代理)が既に二十月に達したならば、別に任用する。少卿監は、旧例では三任四任して初めて大卿監に入る。五品は三任四任して初めて少卿監に入る。今後は共に三任のみとし、各任は必ず月限を満たし、殿責(処罰記録)のない者をこの官に入れる。西班將軍は、罷任後一年で求官を許す。旧例では三任四任して初めて大將軍に入るが、今は三任を限りとし、三任の大將軍にして初めて上將軍に入る。共に各任の月限を満たし、殿責がなく、或いはかつて金吾將軍・街使・藩鎮刺史を歴任した者は、特勅によりこの例に拘束されない。諸道は両使判官を除き、書記以下は自ら辟請することを許す。朝官で外任に除された者は、罷任後一年を経て初めて陳乞を許す。諸道の賓席で未曾だ升朝していない者で、官が三院御史を兼ねる者は、中下縣令に除する。大夫・中丞・秘書少監・郎中・員外郎を兼ねる者は清資を与える。初任の升朝官で、檢校官が尚書・常侍・秘書監・庶子に至る者は、升朝すると少卿監を与える。諸州の防禦・團練判官・推官は、共に本州が奏辟することを請い、中書は改めて除授しない。選門を出た官で三院御史供奉裏行及び省銜を帯びる者は、罷任後一周年を経て陳乞を許す。諸州の別駕は、令録を除さず、依然として本官の月限を守り、得替後一年を経て陳乞を許す。長史・司馬は、摂官として奏上されて正官となったが、官のない者は名簿を送る。」詔はこれに従った。
三年五月乙未、詔して曰く。「近く内外の臣僚を以て、出入を重ねて処し、稍々労逸を均しくし、転遷の滞りを免れしむ。両司判官・畿赤令は、郎中・員外・補闕・拾遺・三丞・五博、少列宮僚を取り、選択して擢任す。一には藩方の侯伯に使いて、別に賓階を耀かしめ、次には朝列の人臣を致して、時政に備え諳んぜしむ。今後或いは満闕あらば、便宜に此れに依りて施行すべし。」
周の廣順元年夏五月辛巳、詔す。「朝廷は爵を設け官を命じ、賢を求め士を取る。或いは資敘を以て進め、或いは科級を以て升る。白首窮経して初めて一第に諧い、半生守選して始めて一官に遂ぐるに至る。是を以て国に幸民無く、士濫りに進まず。近年州郡の奏薦は、多く出身・前官無く、或いは権勢の書題に因り、或いは衷私の請托による。既に意を阻み難く、便ち真恩を授く。遂に躁求僥倖の徒をして、争って捷徑に遊ばしめ、辛苦孤寒の士をして、尽く窮途に泣かしむ。濁を激し清を揚げんと期し、名に循い実を責うる所宜なり。今後州府は前官及び出身なき人を奏薦することを得ず。もし奇才異行、衆を越え群を超うる者あらば、亦た名を具えて以て聞かしむるを許すべし。便ち表に随って闕に赴かしめ、当に有司をして考試せしめ、朕も亦た自ら披詳し、其の否臧を断じて、之を升黜せしむ。庶くは人謬りに挙げず、野に遺才無からしめん。」
顯德二年六月、詔す。「両京諸道州府の留守判官・両使判官・少尹・防禦團練軍事判官は、今後並びに奏薦することを得ず。其の防禦團練・刺史州は各々推官一員を置く。」右は厘革す。
晉の天福三年十一月、起居郎殷鵬上言す。窃かに聞く、司封の格式に、内外の文武臣僚で才しく朝籍に升る者は、父母無ければ便ち追封贈を与え、父母在れば即ち未だ敘せず未だ封ぜずと。臣の見る所を以てすれば、誠に不可なり。此れは生者を軽んじて死者を重んじ、今人を棄てて故人を録するなり。其の栄え何か有らん。其の理安くにか在らん。又云う、父母在り、品秩及格する者は、即ち以て其の母を封じ、其の父に加えず、便ち邑号を加え、兼ねて太君と曰う。遂に妻は則ち旁ら夫無きが若く、子は則ち上に父無きが若からしむ。豈に父は則ち賤しくして母は則ち貴く、夫は則ち卑しくして妻は則ち尊しと謂わんや。若し其の父未だ恩を加うるに合わずと謂わば、安んぞ其の母賜を受くべけん。若し子を以て便ち貴ぶに合うと謂わば、何ぞ其の父先ず封ぜられざるを得ん。伏して惟うに、父尊く母卑しきは天地の道、尊きに二上無く、国家も亦た同体なり。今父に爵を授けて封ずること無くんば、名教順わず、茲より大なるは莫し。臣伏して乞う、今より後文武臣僚は、父母在り、其の父母既に官爵有る者は、即ち資品を敘進して格式に及び、或いは禄仕に任ぜざれば、即ち致仕或いは同正官を授くるを以て可とし、貴ぶ所は以て妻室を敘封するを得しむるに在り。即ち父母俱に栄え、孝子逮わざるの感無く、閨門交映し、聖君慶賞の恩を覃う。噫、陛下の孝沼の風に荷い、陛下の栄親の禄を受くる者は、静かに指を屈すれば、数人に過ぎず。陛下は以て特議を挙行し、令式に編み、天下の善を為すを勧め、域中の風を望ましむるを令すべし。自然に前代の闕文を見、我が朝の盛典を成す。況んや唐の長興元年の徳音内一節に『応に在朝中外の臣僚は、父母在れば、並びに恩を加うべし』と。司封は明制を行わず、前文を堅く執る。儻い新恩を布かば、兼ねて旧敕に合わしめ、庶くは君に事え父に事うるに、恒に一体の規を遵わしめ、子と為り臣と為るに、両全の義を失わしめざらん。臣又聞く、司封の令式に、内外臣僚の官階五品已上なる者は、即ち妻を封じ子を蔭することを与う。固より清濁を分かたず、只だ其の品秩を言う。且つ諫議大夫・給事中・中書舍人は並びに五品なり。贊善大夫・洗馬・中允・奉御等も亦た五品なり。若し朝廷の委任、宰臣の擬論、出入の階資、中外の瞻望を論ずれば、則ち天壤相懸ること有り。其の敘封に及びては、乃ち一貫と為す。相沿いて此に至る、甚だ是れ非なり。況んや北省は陛下の侍従の臣、南宮は陛下の経綸の務を掌り、憲臺は陛下の紀綱の司を執る。群僚に首冠し、総べて三署と為り、職に当たること尤も重く、責望軽からず。此れは清列十年にして、未だ顕栄の願いを遂げず、彼れは雑班両任にして、便ち封蔭の恩を承く。事均平せず、理宜しく改革すべし。伏して乞う、今より後応に諸官及び五品已上の者は、即ち旧制に依り施行し、応に三署の清望官及び六品已上は、便ち封蔭を与えよ。清濁既に異なり、品秩宜しく升るべし。仍って所司に下し、恒式と議せしむべし。」詔はこれに従った。
漢の乾祐元年七月、詔す。「尚書省に集議せしめ、内外臣僚、父在り、母が子の蔭を承け、敘封追封するに、『太』の字を加うるに合うや否や。以て聞かしめよ。」尚書省奏議して曰く。「今前後の敕条を詳らかにするに、凡そ母は皆『太』の字を加え、存歿並びに同じ。此れは即ち父歿して母存すれば、即ち敘封進封内に『太』の字を加え、母歿して追封するも、亦た『太』の字を加う。故に存歿並びに同じと云う。若し父在らば、敕格に拠れば、母に『太』の字を加うる処載せず。若し近敕を以てすれば、子の貴に因りて父に命官す。父自ら官有れば、即ち妻は夫の品に従い、以て妻を封ずることを得べし。父在りては其の子を以て母に『太』の字を加うるに合わず。若し子の官有ると雖も、其の品尚ほ卑しく、未だ妻を蔭するを得ざれば、亦た子の蔭の限を用うるに合わず。」詔はこれに従った。
周の顕徳六年冬十二月壬辰の日、尚書兵部が上言した。「本司は千牛・進馬を蔭補する。漢の乾祐年間に散失した勅文があり、以来ただ『晋編勅』及び堂帖に準じて施行している。前後が同じでないため、別に勅命を降すことを請う。」詔して曰く、「今後、蔭補すべき子孫は、逐品ごとに一人を補うことを許すべし。直に品が転ずるを待ちて、初めて更に補うを得る。本品内に重ねて収補するを得ず。もし補う所の人に身故・除名・落藩・廃疾及び応挙及第の内あるは、本品内に再び一人を補うことを許すのみ。太子進馬・太子千牛は、収補を用いず。詹事は祭酒の例に依って施行す。兵部尚書・侍郎は、旧例収補を許さず、宜しく収補を許すべし。致仕官で歴任中に曾て朝文班三品・武班二品及び丞郎給舎以上、金吾大将軍・節度・防禦・団練・留後を任ぜられた者は、初めて補蔭を得る。皇蔭人は、その祖・父が曾て皇朝の官秩を授かった者に限り、収補を得る。応に収補すべき人は、須らく本官の親子孫で年貌合格し、別に渝濫なきを以て、初めて施行を許す。余は旧例に従って処分すべし。」
右、封蔭
梁の開平四年四月、勅す。「諸州鎮使は、官秩の高卑無く、並びに県令の下に在る。」その年九月、詔して曰く、「魏博管内の刺史は、比来州務を並びに督郵に委ね、遂に曹官にその威権を擅にせしめ、州牧を閑冗と同じくせしむ。通制に循い、異端を塞ぐに宜しく、並びに宜しく河南諸州の例に依るべし。刺史は専達を得る。」時に議者曰く、「唐朝憲宗の時、烏重胤が滄州節度使たりしに、嘗て河朔十六州が能く朝命に抗拒する所以は、刺史の権と県令の職を奪いて自ら威福を作すによる。もし二千石各々その柄を得、又鎮兵有らば、安・史と雖も奸を挟むも、豈に一墉に拠りて叛せんや。遂に奏して、管する所の徳・棣・景の三州を以て、各々刺史の職分に還し、州兵並びに収管に隷せしむ。是れ以後、幽・鎮・魏の三道は、河北の旧風を以て自ら相伝襲すと雖も、惟だ滄州一道のみ、独り命を稟け代を受く。重胤の制置然らしむるよりなり。則ち梁氏の更張は、正にその事に合う。」
後唐の長興二年閏五月、詔して曰く、「要道行われれば、則ち千岐共に貫く。宏綱一たび挙げれば、則ち万目畢に張る。前王の法制殊なること無く、百代の科条悉く在り。改作に煩う無く、各々定規有り。程式を守る者は心逸んで日休し、胸臆に率う者は心労んで日拙なり。天は万象を垂れ、星辰の分野差無く、地は群倫を載せ、嶽瀆の方隅易わらず。儻や各々その局を司れば、則ち皆その心を尽くさん。且つ律令・格式・六典は、凡そ庶政に関わり、互いに区分有り。久しく挙行せず、遂に隳紊に至る。宜しく旧制に準じ、百司をして各々その間に於いて本局の公事を録出せしめ、巨細一一抄写せしめ、漏落纖毫するを得ず、巻軸に集成し、仍って粉壁に書して公廳に在らしむべし。若し廨署無き者は、文書官司に委ね主掌せしめ、仍って毎に新たに官を授かる者到る毎に、自ら写録一本して披尋せしむ。或いは顧問の時に因り、応対須らく次第を知るべく、曠闕を容るる無し。毎に執行に在りて、庶僚をしては法を守り公に奉らしめ、宰臣をしては綱を提げ領を振わしめば、必ず彜倫攸に叙せられん。所謂至道は繁からず、何ぞ期年を必ずして然る後に政を報ぜん。宜しく御史台に告諭催促を遍く加えしめ、両月内に鈔録及び粉壁書写須らく畢るべし。その間或いは未だ便に行うべからず、及び曾て厘革したる事件有らば、逐司に委ねて旋に中書門下に申し、当に更に参酌し、奏覆施行すべし。」その年八月、勅す。「今後、大理寺の官員は、宜しく台省官の例に同じく進升すべし。その法直官は、礼直官に比して任使すべし。」
応順元年春三月戊午の日、宗正が上言した。「故事に、諸陵に令・丞各一員有り。近く令・丞を俱に置かず、便ち本県令に委ねてこれを兼ぬ。縁りて河南・洛陽は京邑なるを以て、兼令・丞は便ならざるを恐る。」詔して特ち陵台令・丞各一員を置く。
右、雑録