舊五代史

志九: 刑法志

◎刑法志(案:『刑法志序』は『永樂大典』原本に欠く)

梁の太祖開平三年十一月、詔して太常卿李燕・御史蕭頃・中書舍人張兗・戶部侍郎崔沂・大理卿王鄯・刑部郎中崔誥に命じ、共に律令格式を刪定せしむ。四年十二月、宰臣薛貽矩奏す、「太常卿李燕等が重ねて刊定した律令三十巻、式二十巻、格一十巻、並びに目録一十三巻、律疏三十巻、凡そ五部一十帙、合わせて一百三巻。勅を以て中書舍人李仁儉をして閣門に詣り奉進せしむ。伏して目を『大梁新定格式律令』と為し、仍って頒下施行を請う」と。之に従う。(原註:是の時、大理卿李保殷、撰する所の『刑律總要』十二巻を進む)

唐の莊宗同光元年十二月、御史臺奏す、「当司の刑部・大理寺の本朝法書は、朱溫の僭逆より以来、事条を刪改し、或いは貨財を重んじ人命を軽んじ、或いは自ら枉過に徇い、濫りに刑罰を加う。今見るに三司に収貯する刑書は、並びに偽廷の刪改したる者なり。兼ねて偽廷は先だって諸道に下し本朝法書を追取して焚毀せしめ、或いは兵火に経て遺る所は、皆な旧本の節目無し。只だ定州の敕庫に本朝法書具在す。請うらくは勅して定州節度使に速やかに副本を写し進納せしめ、庶幾くば刑法令式、並びに本朝の旧制に合わん」と。之に従う。未だ幾ばくもせず、定州の王都、唐朝の格式律令を進納す、凡そ二百八十六巻。二年二月、刑部尚書盧價奏し、『同光刑律統類』を纂集す、凡そ一十三巻、之を上る。

周の太祖廣順元年六月、勅して侍御史盧億・刑部員外郎曹匪躬・大理正段濤に命じ、同議して法書一百四十八巻を重写定めしむ。先ず是れ、漢の隱帝末、兵乱に因り法書亡失す。是に至り大理奏して律令格式・統類編敕を重写す。凡そ点画及び義理の誤字を改むること二百一十有四。晋・漢及び国初の事にて刑法に関わる敕条、凡そ二十六件を以て、二巻に分け、編敕に附し、目して『大周續編敕』と為す。省・寺に行用せしむ。(『宋史』:盧億、周初に侍御史と為る。漢末兵乱に法書亡失す。是に至り大理奏して律令格式・統類編敕を重写す。乃ち詔して億と刑部員外曹匪躬・大理正段濤とに同く旧本を議定して加えしむ。京兆府を改めて五府に同くし、開封・大名府を改めて河南府に同くし、長安ちょうあん・萬年を改めて次赤縣と為し、開封・浚儀・大名・元城を改めて赤縣と為す。又た東京諸門の薰風等を定めて京城門と為し、明德等を皇城門と為し、啓運等を宮城門と為し、升龍等を宮門と為し、崇元等を殿門と為す。廟諱は書して字を成さず。凡そ点画及び義理の誤字を改むること二百一十有四。又た晋・漢及び周初の事にて刑法に関わる敕条なる者を以て、二巻に分け、編敕に附し、目して『大周續編敕』と為す。詔して之を行わしむ)

二年二月、中書門下奏す、「元年正月五日赦書の節文に準う。今後応に窃盗贓及び和奸を犯す者は、並びに晋の天福元年以前の条制に依り施行すべし。諸処の犯罪人等は、反逆罪を除く外、其の余の罪は並びに家産を籍没し、骨肉を誅せず、一に格令に依り処分すべしと。請うらくは再び明敕を下し、天下に頒示せん」と。乃ち詔を下して曰く、「赦書の節文、明らかに厘革有り。切に辺城遠郡の審詳を得ざらんことを慮う。宜しく更に申明し、差誤に至るを免れしむべし。其の盗賊、若し強盗たるは、並びに自來の格条に準じて断遣すべし。其の窃盗を犯す者は、贓絹満三匹以上に計うる者は、並びに衆を集めて決殺すべし。其の絹は本処の上估価を以て定めとす。三匹に満たざる者は、等第に決断すべし。応に夫婦有る人強姦せらるる者は、男子は決殺し、婦人は坐せず。其の和奸を犯す者は、並びに律に準じて科断し、死に至らざる罪とす。其の余の奸私の罪犯は、格律に準じて処分すべし。応に諸色の罪人は、謀反大逆を除く外、其の余は並びに骨肉を誅殺し、家産を籍没すべからず」と。先ず是れ、晋の天福中の敕、凡そ和奸する者は、男子婦人並びに極法に処す。是に至り始めて律文に従い改む。

世宗顕徳四年五月、中書門下奏す、「宣に準う。法書行用多時、文意古質、条目不細、人をして会し難からしむ。兼ねて前後の敕格、互いに換え重畳し、亦た詳定し難し。宜しく中書門下をして並びに重ねて刪定せしめ、務めて節要に従い、貴ぶ所は天下の詳究し易きを為さんとす。伏して刑法は人の銜勒を御し、弊を救うの斧斤なり。故に鞭撲は一日も之を家に弛むべからず、刑法は一日も之を国に廃すべからず。堯・舜の淳古の代と雖も、亦た此を捨てて理を致すこと能わざるなり。今制旨を奉じて律令を刪定するは、聖君の欽恤明罰敕法の意を見る有るなり。窃に律令の書は政理の本、聖賢の損益を経て、古今の章程と為り、歴代以来、之を彜典と謂う。今朝廷の行用する所は律一十二巻・律疏三十巻・式二十巻・令三十巻・『開成格』一十巻・『大中統類』一十二巻・後唐以来漢末に至る編敕三十二巻及び皇朝の制敕等なり。獄を折り刑を定むるは、此より出でず。律令は則ち文辞古質、看覧者詳明し難く、格敕は則ち条目繁多、検閲者或いは疑誤有り。之に加うるに辺遠の地、貪猾の徒、此に縁りて奸を為し、浸して弊を成す。方に盛明の運に属す。宜しく画一の規を伸ぶべし。冀う所は民刑に陥らず、吏守る所を知らんとす。臣等商量す。望むらくは聖旨に準じて施行し、仍って侍御史知雑事張湜・太子右庶子劇可久・殿中侍御史率汀・職方郎中鄧守中・倉部郎中王瑩・司封員外郎賈比・太常博士趙礪・国子博士李光賛・大理正蘇曉・太子中允王伸等一十人を差し、新格を編集し、部帙を勒成せしむ。律令に難解なる有る者は、文に就き訓釈し、格敕に繁雑なる有る者は、事に随い刪除す。止だ理に諧い文を省き、兼ねて直書にして会し易からんことを要す。其の中に軽重未だ当たらず、古に便にして今に便ならざる有り、矛盾相違し、此に於いて可にして彼に於いて不可なる有るは、尽く宜しく改正し、或いは牽拘すること無かるべし。編集畢るの日を候い、御史臺・尚書省四品以上及び両省五品以上の官に委ねて可否を参詳せしめ、中書門下に送り議定せしめ、奏して進止を取らしむ」と。詔して之に従う。是より湜等は都省に於いて集議刪定し、仍って大官に供膳せしむ。

五年(958年)七月、中書門下が上奏した。「侍御史知雑事張湜ら九人は、詔を奉じて刑書を編集し、すべて条貫を備えている。兵部尚書張昭ら十人は、その旨要を参詳し、さらに損益を加えた。臣質、臣溥は文に拠って評議し、精審なることを備え見る。その編集したところは、律を以て正とし、辞旨に難解なるものは疏意を以て釈し、義理に易了なるものはその疏文を略す。式令に附近するものはこれに次ぎ、格勅に廃置あるものはまたこれに次ぐ。事に今に便ならず、該説未だ尽きざるものは、別に新条を立てて本条の下に置き、その文理深古にして人の疑惑を慮うるものは、別に朱字を以て訓釈す。朝廷の禁令に至りては、州県の常科は、各々類を以て分ち、悉く編附せしむ。冀わくは函を発き巻を展べば、綱目遺れることなく、本を究め源を討てば、刑政咸くここに在らん。その編集したものは、一部に勒し、別に目録あり、凡そ二十一卷。刑名の要は、尽くここに統べ、目して『大周刑統』と為す。請わくは天下に頒行し、律疏令式と通行せしめん。その『刑法統類』・『開成格』・編勅等は、采掇既に尽きたれば、法司の行使する限りに在らず。自ら来たりて宣命指揮の公事及び三司の臨時条法、州県現今施行するものは、編集の数に在らず。応に京百司の公事は、逐司各々見行条件有り、望むらくは本司をして刪集せしめ、中書門下に送り詳議して聞奏せしめん。」と。勅して宜しく依るべしとし、仍て天下に頒行す。乃ち侍御史知雑事張湜ら九人に各々銀器二十両、雑彩三十匹を賜い、『刑統』を刪定した労を賞す。

唐(後唐)同光二年(924年)六月己巳、勅す。「応に御史臺・河南府行臺・馬歩司・左右軍巡院の見禁囚徒は、罪の軽重に拠り、限り十日内に並びに決遣申奏すべし。仍て四京・諸道州府に委ね、見禁囚徒は速やかに宜しく疏決すべく、淹停すべからず。兼ねて内外の形勢官員の私事寄禁を恐るるは、切に止絶を要し、冤滞無からしむべし。」三年五月己未、勅す。「在京及び諸道州府の禁ずる罪人は、もし大過無ければ、速やかに疏決せしめ、淹滞すべからず。」六月甲寅、勅す。「刑は秋冬を以てすとは、惻隠に関すと雖も、罪多く連累すれば、翻って滞淹を慮う。もし或いは十人の中に、止だ一夫の為に死に抵るのみならば、豈に軽きを以て重きに附し、禁錮時を踰えしむべけんや。哀矜を言念すれば、また全く廃し難し。その諸司の囚徒は、罪軽重無く、並びに宜しく各々本司に委ね、罪に拠り詳断申奏せしめ、軽き者は即時に疏理し、重き者は立春過ぐるを俟ち、秋分に至り然る後法を行え。もし是れ事軍機に係り、厳令を行わざるべからず、或いは悪逆を謀り、或いは奸邪を畜え、或いは劫殺人を行い、留滞し難きは、並びにこの限りに在らず。」

天成元年(926年)十一月庚申、勅す。「応に天下の州使の系囚は、大辟罪以上を除き、所在の長吏に委ね、速やかに推勘決断せしめ、傍ら証対を追うべからず。食宿の地を過ぐるに、当死の刑を除き、並びに仰せて釈放せしめ、兼ねて懲治を許さず。」二年春、左拾遺李同が上言す。「天下の系囚は、請わくは長吏に委ねて逐旬親しく引問し、その罪状の真虚を質し、然る後に之を法を以て論ぜしめ、庶くは枉濫無からん。」従う。六月、大理少卿王郁が上言す。「凡そ極刑を決するは、三覆奏に合う。近年以来、全く此れを守らず。伏して乞う、今後は前一日に各々一覆奏せしめん。」奉勅して宜しく依るべし。八月、西京が奏す。「近勅を奉ずるに、在京に極刑を犯す者は、決前一日に各々一覆奏せしむと。縁るに当府地遠く、此れより後凡そ極刑有るは、条疏に準じて覆奏するか審らかならず。」奉勅旨す。「昨六月二十日の降した敕文は、只だ応に洛京に極刑を犯す者の覆奏の為のみ。その諸道は已に旨命を降し、旧例に準じて施行す。今詳らかにするに西京の奏する所は、未だ近敕を明らかにせず、兼ねて諸道に此の疑惑有るを慮う。故に曉諭せしむ。」十月辛丑、德音す。「政を為すの要は、切に私無きに在り。訟を聴くの方、惟期するは濫れざるに在り。天下諸州府の官員に、もし善く疑獄を推し及び曾て冤濫を雪ぎ兼ねて異政有る者は、当に姓名を具して聞奏せしめ、別に甄獎を加えん。」

長興元年(930年)二月、制す。「和気を通ぜんと欲すれば、必ず冤を伸ぶるに在り。公方を設けんと将すれば、実に善を奨るに資る。州県の官僚能く冤獄を雪ぎ人生命を活かす者は、時に非ずして選を許し、仍て階を加え資を超えて官を註し、転じて服色を与え、已に緋を著する者は転じて兼官を与えん。」二年二月辛亥、勅す。「朕猥りに眇躬を以て、鴻業を薦け承く。彼の疲瘵を念い、寐興に労す。或いは官人を得ざるを慮い、因って紊乱を成す。或いは刑其の罪に非ざるを慮い、遂に怨嗟に至る。王化の興る所、獄訟を本と為す。苟くも訓励無ければ、必ず滞淹有り。近日諸道の百姓は、或いは諸々違犯多く、或いは小可の闘争有り。官吏は曲く胥徒を縦し、巧みに瑕釁を求む。初めは則ち節目を滋張し、作法して拘囚し、終わりは則ち貨財を誅剝し、市恩して出抜す。外は公道に憑り、内は私情に循う。理無き者は転じて務めて遷延し、理有る者は卻って退縮を思う。訛弊を積み成し、漸く紀綱を失う。自今以後切に逐処の官吏・州牧・県宰等に委ね、余が懐を深く体し、各々爾が職を挙げよ。凡そ推究を闕くは、速やかに剸裁を与えよ。もし敢えて苟くも依違を縦し、遂に枉濫を成し、或いは臺に経て屈を訴え、或いは匭に投じて冤を申すも、勘問虚しからずば、その元推の官典並びに当に責罰せられ、その逐処の観察使・刺史は、別に朝典を議せん。宜しく諸道州府に令し、各々此の処分に依り、管属する郡は本道に委ねて厳切に指揮せしめよ。」八月丁卯、勅す。「三京・諸道州府の刑獄は、近日訪い聞くに、前に依りて人を禁系するも、多く旋決せず。諸道は宜しく所在に各々長吏をして、専切に推窮せしめ、滞淹有るべからず。」

四月、前濮州録事参軍崔琮が上言す。「諸道の獄囚は、法に依らず拷掠するを恐れ、或いは苦に勝えずして斃るるに至り、翻って病を以て聞かんことを請う。病囚院を置き、兼ねて医薬を加えんことを請う。」中書が覆云す。「罪有って当に刑すべきは、天を仰いで恨み無し。病無くして斃るるに致すは、地に没して冤を銜む。死灰を燃やして必ず至仁に在り、覆盆を照らして須らく異鑒に資る。『書』は『欽哉』の旨を著し、『礼』は『侀也』の文を標す。因って善を泣辜に彰し、更に恩を扇暍に推す。請う所の病囚院を置くは、望むらくは依り、仍て長吏に委ねて専切に経心せしめよ。或いは病囚有れば、当時に医人を遣わして診候せしめ、治療後、犯す所の軽重に拠り決断せしめよ。もし敢えて故違し、病囚をして負屈身亡せしむれば、本処の官吏並びに厳断を加えよ。兼ねて毎に夏至に及びては、五日一度、人を差して枷匣を洗刷せしめよ。」

応順元年(934年)二月戊午、詔す。「応に三京・諸道州府の系囚は、罪の軽重に拠り、疾速に断遣すべし。比来停滞し、須らく奏して裁を取るは、区分に便ならず、故に留滞を為す。今後凡そ刑獄有れば、理に拠り断遣せよ。もし勅推按有り、理合わしく奏聞すべきは、この限りに在らず。」

清泰元年(934年)五月丁丑、詔す。「在京の諸獄及び天下州府の見系罪人は、正に暑毒の時に当たり、未だ拘囚の苦を免れず。誠に罪を負うを知るも、特ち予が懐を軫む。法吏情を生じ、決断に滞るるを恐る。詔至るや、所在の長吏親しく慮問し、軽重に拠り疾速に断遣し、淹滞無からしめよ。」

晉の天福二年八月、刑部・大理寺・御史臺及び三京・諸道州府に詔勅が下された。「今後もし囚人が疾病に罹った者は、全てその処の軍医に診察させ、公廨銭の中から薬価を量って支給せよ。あるいは罪の軽い者は、なお家人の看病を許すべし」。

四年九月、相州節度使桑維翰が上奏した。「管内で捕らえた賊人の財産は、従来籍没(没収)してきたが、これは鄴都の旧例によるものであり、格律には明文が見当たらない」。詔勅が下された。「今後凡そ賊人がある者は、格に準じて定罪し、家資を没収してはならない。天下の諸州も、この処分に準じよ」。

三月庚午、詳定院が上奏した。「前守洪洞県主簿盧燦が献策して云う。『伏して刑獄は最も重く、朝廷の難事である。尚書省は六司に職を分ち、天下これを会府と謂う。且つ諸道が獄を決するに、もし人命に関わるならば、刑部が知らぬは合わない。請うに、州府が凡そ大辟の罪人を断じ終えたならば、毎季ごとに有無を具して刑部に申報せしめ、なお案款事節を全て書き写し、併せて本判官・馬歩都虞候・司法参軍・法直官・馬歩司判官の名銜を申聞せしめられたい。これにより貴ぶべきは、もし案内に情理が曲がって円満でないことがあれば、刑部が覆勘を行えることである。かくすれば天下は法律を遵守し、敢えて軽々しく刑書を犯さず、冤罪を免れるのみならず、またその政を立てることを勧めることとなろう』。臣ら参詳するに、伏して人命は最も重く、国法は精でなければならぬ。旧章に載るとはいえ、更に条理を整えるべきであり、誠に允当である。施行を賜わることを望む」。これに従った。

五月、詔が下された。「刑獄の難しさは、古今重んずる所である。ただ人命に関わることは、実に天心を動かす。もし冤魂があれば、則ち和気を傷つける。応に諸道州府は、凡そ囚徒ある者は、推勘して到った案款に基づき、一々理を尽くし、仔細に律令格勅を検討せよ。その中に疑わしいものがあれば、令文に準じて讞議し、大理寺も疑うならば、尚書省に申し出よ。省寺に明らかな指帰があって、初めて州府は決遣すべし」。

漢(後漢)の乾祐二年正月、詔勅を下す。「政治は寛易を貴び、刑罰は哀矜を尚ぶ。蔓草のごとく奸を生ずるを慮り、実に軫傷の念を抱く。今、三元の候を改め、四序の端を履む。将に和平を冀わんとすれば、獄訟に如くは無し。応に三京・鄴都・諸道州府に現に繋がる罪人は、逐処の長吏に委ねて躬親に慮問せしめ、その決断に於いては、務めて公平に在らしむべし。但だ其の情を見て、即ち具獄と為し、率引を令むること勿れ、遂に淹停を致すこと無からしむ。舞文を縦すること無く、和気を傷つくる有ること勿らしめよ。」

四月甲午、詔勅す。「月は正陽を戒め、候は小暑に当たる。乃ち重を挺げて軽を出すの日、是れ刑を恤い獄を議うの辰なり。罪有る者は速やかに勘窮に就き、薄罰者は画時に疏決すべし。時令に符し、滞淹を縦すこと勿れ。三京・鄴都・諸道州府、獄に在りて現に繋がる罪人は、宜しく所司に令めて疾速に断遣せしめ、淹滞枉濫を致すこと無からしむべし。」五月辛未、詔勅す。「政化の先とする所、獄訟の切なること、枉撓のみならず、兼ねて滞淹を慮う。適当に長養の時に当たり、正に熇蒸の候に属す。累行条貫し、俾くは速やかに施行せしむ。丁寧ならざる無く、未だ奏報せず。再び告諭を頌し、因循有ること無からしめよ。応に三京・鄴都、諸道州府は、詔至りし上は、宜しく疏放已行未行を具して申奏すべし。逗留を致すこと無からしめよ。」

周の広順三年四月乙亥、詔勅す。「朕は時に化育に当たり、気は炎蒸に属するを以て、乃ち縲紲の人を思い、是れ哀矜の念を軫る。其の非所を慮り、案鞫淹延す。或いは枉濫窮屈にして未だ申宣を得ざる有り、或いは饑渴疾病にして控告する所無き有り。罪に当たりて刑せらるる者は、惟だ彼自ら召す、法は移す可からず。理に非ずして苦を受くる者は、上明らかならざるが為めなり、安んぞ慮い無からんや。欽恤の道、夙宵に寧んずる無し。応に諸道州府に現に繋がる罪人は、宜しく官吏に令めて疾速に推鞫せしめ、軽きに拠り断遣し、淹滞することを得ざらしむべし。仍く獄吏に令め、牢獄を灑掃し、当に虚歇せしむべし。枷械を洗滌し、蚤虱を令むること無からしむべし。水漿を供給し、饑渴を令むること無からしむべし。如し疾患有らば、其の家人に看承せしめ、囚人に主無きは、官に医工を差し診候せしめ、病亡を致すこと勿らしむ。典法の成規に循い、長嬴の時令に順い、俾く淹滞無からしめ、以て治平を致さしむべし。」又、諸州に詔を賜いて曰く。「朕は敷政の勤めを以て、惟だ刑を是れ重んず。既に人を化して罪無きに至らしむる能わず、則ち上と為りて刑を失う可からず。況んや時に長嬴に当たり、事は清適を貴ぶ。囹圄の閉固を念い、復た桎梏の拘縻を思う。炎蒸に処るは、何ぞ焚灼に異ならん。州及び所属の刑獄に現に繋がる罪人に在りては、卿は躬親に録問し、省略区分すべし。務に入りて行わざる者に於いては、令めて務開を俟ちて繋がしめ、理有りて須らく伸ぶべき者は、速やかに期して疏決せしむべし。俾く皆平允にして、滞淹に至ること無からしむ。又、獄吏の任情の奸を逞うし、囚人の非法の苦を受くるを以て、宜しく検察を加え、侵欺を縦すこと勿れ。常に獄房を浄掃せしめ、枷匣を洗刷し、其の饑渴を知り、水漿を供与し、病有る者は骨肉の看承を聴し、主無き者は医工を遣わして救療せしめ、理に非ずして斃るるを致すこと令むること勿れ、以て和気を傷つくる有らしむること勿れ。卿は忠幹に分憂し、仁明に事に蒞る。必ず能く詔を奉じ、我が心を体せん。眷委茲に在り、興寐已む無し。余は敕命の処分に従う。」

顕徳元年十一月、帝侍臣に謂いて曰く。「天下の奏する獄訟は、多く追引証を引き、甚だしきに至っては淹延し、百余日に及びて未だ決せざる者有り。其中に徒党反告する者、劫主陳訴する者及び妄りに牽引せらるる者有り。獄吏の幸いに遅留を作すを慮り、生人の活業を休廃せしむるを致す。朕毎に此を念うに、弥切に疚懐す。此後宜しく所在の藩郡に条貫し、明幹の僚吏を選びて当に其の訴訟に当たらしむべし。如し獄滞留せず、人枉撓せずんば、明らかに具して聞奏せしめ、量りて甄奨を与うべし。」内外の官の当贖の法は、梁・唐皆定制無く、多く優容を示し、或いは時に因りて軽重を分つ。晋の天福六年五月、尚書刑部員外郎李象請う。「今後凡そ是れ散官は、高低を計わず、若し罪を犯せば当贖することを得ず、亦た上請し詳定院の覆奏を請うことを得ず。応に内外文武の官、品官有る者は自ら品官法に従い、品官無くして散試官有る者は、応に内外の職を帯びる廷臣賓従・有功の将校等は、並びに九品官の例に同じく請う。其の京都運巡使及び諸道州府衙前の職員・内外の雑任鎮将等は、並びに律に準じ、上請当贖することを得ざるを請う。其の巡司馬歩司判官は、曾て品官を歴たる有りと雖も、亦た流外の職に同じく請う。律に準ず。杖罪以下は、決罰の例に依り、徒罪以上は、仍く当贖の法に依る。」周の顕徳五年七月に至り、新たに《刑統》を定む。「今後定罪するに、諸道行軍司馬・節度副使・副留守は、従五品官の例に準ず。諸道両使判官・防禦団練副使は、従六品官の例に準ず。節度掌書記・団判官・両蕃営田等使判官は、従七品官の例に準ず。諸道推巡及び軍事判官は、従八品官の例に準ず。諸軍将校内諸司使・使副・供奉・殿直は、臨時に奏して敕旨を聴く。」是れによりて内外品官当贖の法、始めて定制有り焉。