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舊五代史
志八: 食貨志
◎食貨志
梁祖(朱全忠)が国を開いた時は、黄巢の大乱の後に当たる。夷門(汴州)一鎮を以て、外には烽候を厳しくし、内には汚萊(荒れ地)を開拓し、耕桑を励まし、租賦を軽くした。士卒は苦戦したが、民は喜んで輸納し、二紀(二十四年)の間に、俄かに覇業を成した。末帝が莊宗と河上で対峙した時も、河南の民は輦運(輸送)に困窮したが、流亡に至ることはなかった。その理由は他ならず、賦斂が軽くて故郷を恋しむべきであったからである。莊宗が梁室を平定した後、吏人孔謙を租庸使に任じ、峻法を以て下を剥ぎ、厚斂を以て上に奉じた。民産は尽きたが、軍食は尚不足した。これに兵革を加え、饑饉が続き、三四年を経ずして顛隕に至った。その理由は他ならず、賦役が重くて天下が失望したからである。{{*|(案:以上は『容齋三筆』に引く『薛史』に見え、その文義を繙けば、『食貨志』の序に当たるであろう。今これを巻首に録す。)}}
後唐同光三年二月、詔勅を下す。「魏府の小菉豆税は、毎畝につき三升を減免する。城内の店宅・園囿は、従来は無税であったが、近頃偽命(前朝の法令)により、配征(割り当て徴収)が行われた。その後、徴収した物資を以て軍装・衣賜の補助に充て、通済(融通)を図ろうとしたが、宜しく矜蠲(憐れんで免除)を示すべきである。今、緊慢(緊急・緩慢)の地に応じ、現に輸納する税絲の毎両を三等に分け、酌量して銭を納めさせ、軍装・衣賜の購入に充て、その絲は仍お除放(免除)する。」同年閏十二月、吏部尚書李琪が上言する。「賦税は折納(物納を銭納に換算)を事とせず、一切本色(現物)を以て官に輸納すべきであり、また紐配(名目を付加した割り当て)を名目とせず、正税のみを加納すべきである。」詔勅に曰く。「本朝の徴科は、惟だ両税に配するのみであり、折納は行うべきでない。宜しく李琪の論ずる所に依り、各税が合納すべき銭物・斛斗・塩銭等は、租庸司に指揮させ、全て元来徴収する本色を基準として輸納せしめ、改変を許さず、もし移改すべき事があれば、即ち事由を具して奏聞せよ。」
天成元年四月、詔勅を下す。「夏秋税を納めるに当たり、先に省耗(税糧の損耗分)として毎斗一升を加えていたが、今後は正税の数のみを納め、省耗を量らない。」四年五月、戸部が奏上する。「三京・鄴都・諸道州府が逐年に徴収する夏秋税租、兼ねて塩曲折征(塩税の折納)及び諸般の銭穀起征は、それぞれその地の節候の早晚に視て、期限を分けて立てる。」その月、詔勅を下す。「百姓の今年の夏苗(夏税)は、人戸に自ら供出する手状を通させ、所有する田地の多少を具えさせ、五家を保とし、隠漏無きことを保証させ、手状を綴り連ねて本州に送らせ、本州は状を具えて省(戸部)に送る。州県は重ねて人を差して検括(検査・徴収)してはならない。もし人戸が隠蔽・欺瞞があれば、陳告を許し、その田畑は倍額を徴収する。」
長興二年六月、詔勅を下す。「諸道観察使に委ね、属県において毎村ごとに有力人戸を定めて村長とせしめ、村人と議して、有力人戸の出剩(余剰)した田苗(税額)を以て、貧しくて足りない者を補う。承諾すれば即ち状を具えて徴収し、異議があれば即ち排段(順序立てて)検括する。本年よりこれを定額とする。災害を受けた所及び逐年に逋欠(未納)のある所は、この限りではない。」三年十二月、三司が奏請する。「諸道の上供税物は、兵士の衣賜に充てるに不足する。天下が納める斛斗及び銭は、支給・供贍(供給)に充てた残りを、時価に依り綾羅絹帛に折納することを請う。」これに従う。
後晉天福四年正月、詔勅を下す。「諸道の節度使・刺史は、擅りに賦役を加え、及び県邑に別に監征を立ててはならない。納める田租は、人戸に委ねて自ら量り自ら概(概算)せしめよ。」
後周顕徳三年十月、三司に宣し、諸道州府を指揮して、今後夏税は六月一日より起征(徴収開始)し、秋税は十月一日より起征し、永く定制とせしむ。五年七月、諸道に『均田図』を賜う。十月、左散騎常侍艾穎ら三十四人を命じ、諸州に下って民租を検定せしむ。後周顕徳六年春、諸道の使臣が戻り、総計して検出した戸数は二百三十万九千八百十二戸であった。
後唐同光二年、度支が奏請して府・州・県・鎮に榜示し、軍民商旅凡て売買有る者は、並びに八十陌銭(八十文を百文として通用させる銭)を使用すべしとせしむ。
後唐同光二年二月、詔して曰く。「銭は古の泉布なり。蓋し其の天下に流行し、人間に布散するを取る。積滞無ければ則ち交易通じ、貯蔵多ければ則ち士農困す。故に西漢は幣制を改めるの制を興し、告緡(密告による財産没収)の条を立て、以て蓄賈を権防ぎて大奸を防がんとしたのである。宜しく所司に散じて州府に下し、常に検察せしめ、富室が分外に現銭を収貯するを許さず、また工人が銷鋳して銅器とすることを禁じ、兼ねて沿辺の州鎮は法を設けて鈐轄(統制)し、商人が船載して境外に運び出すを許さざるべし。」三月、知唐州晏駢安が奏上する。「市肆間で銭帛を点検したところ、内に錫鑞の小銭が多く混じり、江南の綱商(輸送商人)が挟帯して来たものである。」詔して曰く。「帛布の幣に鉛錫を雑えるは、惟だ江湖の外に盗鋳尤も多く、市肆の間に公行して畏れる無し。是に因り綱商が挟帯し、舟楫往来して、好銭と換易し、富室に蔵貯するは、実に蠹弊なり。条流(規定)有るべし。宜しく京城・諸道に令し、坊市に行使する銭内に於て、雑悪の鉛錫銭を点検し、並びに禁断すべし。沿江の州県は、舟船が岸に到る毎に厳しく覚察し、雑鉛錫の悪銭を以て往来し好銭と換易するを許さず、もし私載有れば、並びに収納せよ。」
天成元年八月、中書門下が奏上する。「訪聞するに、近日諸道州府で売られる銅器の価格が高いのは、多くは現銭を銷熔して厚利を邀めるためである。」乃ち詔を下して曰く。「宜しく遍く行き渡らせて曉告せしめ、もし元来銅器及び碎銅であったものは、即ち器物を鋳造するを許す。仍お生銅器物は毎斤の価を二百文に定め、熟銅器物は毎斤四百文とす。もし省価(官定価格)に違反すれば、売買の人は盗鋳銭律に依り科断する。」
清泰二年十二月、詔して御史臺に中外に曉告せしめ、鉛銭の使用を禁ず。もし違犯すれば、条流に準じて処分する。
後晉天福二年、詔す。「一切の銅器を禁ず。其の銅鏡は今後官が鋳造し、東京に場を置いて貨売し、人の収買を許し、諸処に興販(販売)して往くべし。」
後周広順元年三月、勅す。「銅法は、今後官中は更に禁断せず、一任して興販せしむ。所在において一色で即ち瀉破(溶かして破壊)し銅器として貨売することを得ず。もし犯す者有れば、人の糾告・捉獲に依り、所犯人は多少斤両を計らず、並びに処死する。其の地分の所由・節級は、脊杖十七を決して放ち、隣保人は臀杖十七を決して放つ。其の告事人には賞銭一百貫文を与う。」
江南は唐代の旧制に因り、饒州に永平監を置き、毎年銭を鋳造し、池州の永寧監・建州の永豊監もまた毎年銭を鋳造し、杭州に保興監を置いて銭を鋳造す。
唐の同光二年二月、詔して曰く、「会計の重きは、鹹鹺(塩)が先んずる。況んや彼の両池(安邑・解県の塩池)は、実に豊かな利あり。頃者兵戈擾攘よりこのかた、民庶流離し、場務既に隳残し、程課の虧失を致す。これを重ねて葺理するには、規模に仗るを須う。事を立てて功を成さんとすれば、長に従いて便に就くに在り。宜しく河中節度使冀王李継麟に制置度支安邑・解県両池榷塩使を兼充せしめ、便を以て制し、一一条貫すべし」と。
晋の天福年中、河南・河北諸州は、俵散する蚕塩の銭を徴収する外、毎年末塩の界分場務において、約十七万貫余りの銭を糶す。言事者称えて、この銭を得ると雖も、百姓多く塩法を犯すと。請うに上件の食塩銭を諸道州府に於いて戸を計い、毎戸一貫より二百までを五等に配し、然る後に人をして逐便興販せしむ。既に官を虧かさず、又た百姓に益あらんと。朝廷之を行い、諸処の場務も亦且つ仍旧とす。俄にして塩貨頓に賤し、塩の出づる処より遠き州県に去ること、毎斤二十文を過ぎず、近き処は十文を過ぎず。掌事者又た驟に其の法を改め難く、重ねて塩場の税を制するを奏請す。蓋し其の興販を絶ち、利を官に帰せんと欲するなり。
七年十二月、宣旨を三司に下す。応に往来する塩貨有るは悉く之に税す。過税は毎斤七文、住税は毎斤十文。其の諸道州府、応に属州の塩務有るは、並びに省司に人を差し勾当せしむ。既にして糶塩多しと雖も、而して人戸の塩銭は又た放免せず、今に至るまで民甚だ之を苦しむ。
周の廣順元年九月、詔を下して塩法を改め、凡そ五斤以上を犯す者は死に処し、鹼塩を煎じて一斤以上を犯す者は死に処すと定めた。先に漢の法は斤両の多少を計らず、並びに極刑に処していたが、ここに至って初めてこれを改めたのである。三年三月、詔して曰く、「青白池の務には、元より定規あり、只だ近年より、頗る循守に乖く。比来青塩一石につき、税銭八百文足陌、塩一斗を抽し、白塩一石につき、税銭五百文、塩五升を抽す。その後青塩一石につき、銭一千、塩一斗を抽す。訪聞するに、更改以来、商販に便ならず、蕃人漢戸、利を求むること艱難なり、宜しく優饒を与え、庶くは存済せしむべし。今後は毎に青塩一石につき、旧に依り税銭八百文を抽し、八十五を以て陌と為し、塩一斗とす。白塩一石につき、税銭五百、塩五升を抽す。此の外更に別に邀求有るべからず。辺上の鎮鋪が、蕃漢戸の市易糶糴に於いて、衷私に抽税するを訪聞す、今後一切止絶せよ」。
顯德元年十二月、世宗は侍臣に謂いて曰く、「朕が食末鹽の州郡を覧るに、私鹽を犯すこと顆鹽の界分より多く、蓋し卑濕の地は、刮鹼煎造を為し易く、豈に我が榷法に違うのみならんや、兼ねて又我が好鹽を汚す。況んや末鹽の煎煉、般運の費用は顆鹽に倍す。今宜しく十餘州を分割し、顆鹽を食わしむべし、輦運の省力なるのみならず、兼ねて且つ人をして禁を犯すこと少なからしむべし」と。是より曹、宋已西の十餘州、皆盡く顆鹽を食う。
三年十月、敕す、「漳河已北の州府管界は、元は官場糶鹽なり、今後は城郭草市の内を除き、仍舊禁法とし、其の鄉村は並びに鹽貨の通商を許す。逐處に鹼鹵の地有れば、一任人戶の煎煉に任せ、興販するも則ち漳河を逾越して、通商せざる地界に入るべからず」と。
周顯德二年正月、世宗は侍臣に謂いて曰く、「轉輸の物は、向來皆斗耗を給す、晉、漢已來より、支破せず。倉廩の納むる新物は、尚ほ省耗を除く、況んや水路の般する所、豈に損折無からんや?今より後は每石宜しく耗一斗を与うべし」と。
天成三年(九二八年)七月、詔して曰く、「三京・鄴都および諸道州府の郷村人戸は、今年七月以後、秋田の苗上において、毎畝ごとに曲銭五文(足陌)を納めよ。百姓は各自私曲を造り、酒を醸して家に供することを許す。その銭は夏秋の徴納に随って納めよ。京都および諸道州府県鎮の坊界内において、逐年官曲を買う酒戸は、自ら曲を造り、酒を醸して売ることを許す。なお天成二年正月より年終までの一年間の各戸の買曲銭総額のうち、十分の二のみを納め、これを榷酒銭に充てよ。今年七月以後より、定められた数を徴納せよ。榷酒戸以外のその他の諸色の人も、私に酒曲を造り家に供することを許す。ただし、ひそかに酒を売ることは許されず、もし故意に違反するものがあれば、ただちに糾察し、中等の酒戸の納める榷銭に準じて徴収せよ。坊村においては売買を自由とし、納榷の限りではない」と。時に孔循が曲法により洛陽で一家を殺したため、ある者がこの議を献じ、民を愛し国に便であるとして、これを行った。
長興元年(九三〇年)二月、赦書の節文に、「諸道州府の人戸は、秋苗一畝ごとに、元来曲銭五文を徴していたが、今後は特に二文を免除し、三文のみを徴する」とある。二年、詔して曰く、「酒醴は重んずるもの、曲糵はこれが必要であるが、売価が高すぎ、禁条が甚だ峻厳なため、士庶はこれによって法を犯し、刑名はこれによってますます明らかになる。改革の文を行い、煩苛の政をやめさせたい。各々苗畝に随い、税銭を量り定める。数年来の様子を尋ね聞くに、犯法者は稀ではあるが、民を傷つけることは甚だしい。乱離の日久しく、貧下の戸が多いため、ようやく昇平に遇い、勤めて稼穡に励み、各々耕田鑿井に務め、誰が枕曲藉糟(酒に耽ること)をしようか。例に随って均攤されると、虚を抱いて輸納することとなり、次第に凋敝し、深く憫傷に値する。況や豊財を致さんと欲すれば、必ず時病を除くべきであり、有利の事はまさに施行すべきところ、無名の求は特に廃罷すべきである。日新の理を得んとすれば、夕改の嫌いを辞するいわれがあろうか。在京諸道の苗畝上に徴する曲銭等は、今年の夏より一斉に免除する。曲は官中で自ら造り、各州に委ねて旧価の半減を以て、城内において撲断(専売)し貨売せよ。城内の居人が私造することを許さないほかは、郷村の人戸が家に供するため必要ならば、私造を自由に許す」と。勅が下された日、人々は甚だこれを喜んだ。
顕徳四年(九五七年)七月、詔して曰く、「諸道州府の曲務は、今後は一往例に依り、官中において法により曲を売る。各処に先ず都務を置いていたが、勅が到った日より、すべて停罷せよ。現在の曲数に基づき、貨買に備え、また年計に合わせて使用すべき曲数を時を以て踏造し、人戸が価銭を持って来たとき、その数に応じて…」