舊五代史

志七: 樂志下

◎樂誌下

周の廣順元年、太祖が初めて帝位に即き、諸政を一新するに当たり、時に太常卿邊蔚が上疏して舞の名を改めることを請うた。その要旨は、「前朝は祖孝孫の定めた二舞の名を改め、文舞を《治安之舞》とし、武舞を《振德の舞》とした。今《治安》を《政和の舞》と、《振德》を《善勝の舞》と改めることを請う。前朝は貞観年間の二舞の名を改め、文舞を《観象の舞》とし、武舞を《講功の舞》とした。今《観象》を《崇德の舞》と、《講功》を《象成の舞》と改めることを請う。また《十二成》を改めることを議し、今これを順と改める。《十二順楽曲》の名は、天神を祭るに《禋成》を奏するを、改めて《昭順之楽》と為すことを請う。地祇を祭るに《順成》を奏するを、改めて《寧順之楽》と為すことを請う。宗廟を祭るに《裕成》を奏するを、改めて《肅順之楽》と為すことを請う。天地・宗廟を祭り、登歌に《肅成》を奏するを、今改めて《感順之楽》と為すことを請う。皇帝が臨軒するに《政成》を奏するを、改めて《治順之楽》と為すことを請う。王公の出入に《弼成》を奏するを、改めて《忠順之楽》と為すことを請う。皇帝が食挙するに《德成》を奏するを、改めて《康順之楽》と為すことを請う。皇帝が朝を受け、皇后が宮に入るに《扆成》を奏するを、改めて《雍順之楽》と為すことを請う。皇太子が軒懸出入するに《胤成》を奏するを、改めて《溫順之楽》と為すことを請う。元日・冬至に皇帝が礼会し、登歌に《慶成》を奏するを、改めて《禮順之楽》と為すことを請う。郊廟に俎が入るに《骍成》を奏するを、改めて《禋順之楽》と為すことを請う。皇帝が祭享し、酌献・読祝及び飲福・受胙するに《壽成》を奏するを、改めて《福順之楽》と為すことを請う。梁の武帝は《九夏》を《十二雅》と改め、陽律・陰呂・十二管旋宮の義に合わせ、祖孝孫はこれを《十二和》と改めた。開元年中、さらに三和を加え、前朝は二和を去り、一雅を改めた。今は雅を去り、ただ《十二順》の曲を用いる。孔宣父・齊太公たいこうの廟に降神するに《師雅》を奏するを、同じく《禮順之楽》を用いることを請う。三公が殿に昇り、会終わって階を下り履行するに同じく《弼成》を用いるを、同じく《忠順之楽》を用いることを請う。先農を饗し及び籍田に同じく《順成》を用いるを、同じく《寧順之楽》を用いることを請う。」曲の詞文は多く載せない。

世宗の顕德元年、即位し、有司が太祖廟室の酌献を上奏し、《明德之舞》を奏した。

五年六月、中書舎人竇儼に命じて太常雅楽を参詳させた。十一月、翰林学士竇儼が上疏して礼楽刑政の源を論じ、その第一は、「《唐会要》の分けた門類に依り、上は五帝より始め、聖朝に至るまで、凡そ施為したことを悉く編次せしめ、礼楽に関することは闕漏なきようにし、これを大周通礼と名付け、礼院にこれを掌らしむることを請う。」その第二は、「伏して博通の士に命じ、上は五帝より始め、聖朝に至るまで、凡そ楽章の沿革を総次編録し、歴代の楽録の後に繋ぎ、永く定式と為し、これを大周正楽と名付け、楽寺にこれを掌らしむることを請う。文に依り教習し、務めて斉粛に在らしむ。」詔して曰く、「竇儼の上ぐる封章は、政要を備え陳べ、当今の急務を挙げ、近世の因循を疾む。器識嘉むべく、辞理甚だ当たり、故に能く事を立て、官に蒞むに愧じず。請う所の大周通礼・大周正楽の編集は、宜しく依るべし。仍て内外の職官前資前名の中に、文学の士を選択し、共に編集せしめ、名を具えて以て聞かしむ。儼に委ねて其の事を総領せしむ。須いる所の紙筆は、下して有司に供給せしむ。」

六年春正月、枢密使王樸が詔を奉じて雅楽十二律旋相為宮の法を詳定し、併せて律準を造り、これを上奏した。その奏疏の要旨は曰く、

夫れ楽は人心に作り、物に成声し、声気既に和すれば、却って人心に感ずる者なり。仮る所の物は、大小数有り。九は成数なり、是を以て黄帝は九寸の管を吹き、黄鐘の声を得、楽の端と為す。これを半ばにすれば、清声なり。これを倍にすれば、緩声なり。その一を三分して以てこれを損益すれば、相生の声なり。十二変して復た黄鐘に至るは、声の総数なり。乃ちこれを命じて十二律と曰う。旋叠して均と為し、均には七調有り、八十四調を合わせ、これを八音に播き、歌頌に著わす。宗周より以上は、率ね斯の道に由る。秦より以下は、旋宮の声廃る。東漢に至り、大予丞鮑鄴のこれを興す有りと雖も、人亡びて音息み、継ぐ者無し。漢より隋に至るまで十代を垂れ、凡そ数百年、存する所は黄鐘の宮一調のみ。十二律の中、ただ七声を用い、その余の五律は、これを啞鐘と謂い、用いざる故なり。唐の太宗古道を復し、乃ち祖孝孫・張文収を用いて雅楽を考正せしめ、旋宮八十四調復た時に見え、懸くるの器に方りて啞なる者無し。安・史の乱、京都墟と為り、器と工とは、十に一を存せず、用いる所の歌奏、漸く多く紕繆す。黄巢の余に逮び、工器都く尽き、購募も獲ず、文記も亦亡び、官を集めて詳酌すれども、終に其の制度を知らず。時に太常博士殷盈孫有り、《周官・考工記》の文に案じ、緌鐘十二を鋳、編鐘二百四十を鋳し、処士蕭承訓石磬を校定す、今の懸くるに在る者は是なり。楽器の状有ると雖も、相応の和に殊なること無し。朱梁・後唐に逮び、晋と漢を歴て、皆享国遠からず、礼楽に及ぶ暇無し。以て十二緌鐘に至りては、声律宮商を問わず、ただ循環して撃ち、編鐘・編磬徒らに懸くるのみ。絲・竹・匏・土は、僅かに七声有り、黄鐘の宮一調を作すも、亦和備せず、その余の八十三調は、ここに於いて泯絶し、楽の缺壊、今に甚だしきは無し。

陛下は天より文武の才を授かり、天下を統治され、三代の風を復興せんと志し、楽懸を臨視し、自ら考聴して、その亡失を知り、深く上心を動かされた。そこで中書舎人竇儼に命じて太常の楽事を参詳させ、一ヶ月を過ぎずして八音を調品し、粗く和会を加えた。臣がかつて律暦を学んだことを以て、古今の楽録を宣示し、臣に討論を命じられた。臣は不敏ながら、敢えて詔を奉じざるを得ない。そこで周の法に依り、黍を以て尺度を校定し、長さ九寸、虚径三分を黄鐘の管とし、現存する黄鐘の声と相応じた。上下相生の法を以てこれを推し、十二律管を得た。

諸管を互いに吹き、声を用いるに不便なりと考え、律準を作り、十三弦に声を宣べ、長さ九尺に弦を張り、各々黄鐘の声の如くした。第八弦六尺に柱を設けて林鐘とし、第三弦八尺に柱を設けて太簇とし、第十弦五尺三寸四分に柱を設けて南呂とし、第五弦七尺一寸三分に柱を設けて姑洗とし、第十二弦四尺七寸五分に柱を設けて応鐘とし、第七弦六尺三寸三分に柱を設けて蕤賓とし、第二弦八尺四寸四分に柱を設けて太呂とし、第九弦五尺六寸三分に柱を設けて夷則とし、第四弦七尺五寸一分に柱を設けて夾鐘とし、第十一弦五尺一分に柱を設けて無射とし、第六弦六尺六寸八分に柱を設けて中呂とし、第十三弦四尺五寸に柱を設けて黄鐘の清声とした。十二律の中、七声を旋用して均と為し、均の主たる者は宮であり、徴・商・羽・角・変宮・変徴これに次ぐ。その均主の声を発し、本音の律に帰すれば、七声が重なって応じ乱れず、調を成す。均に七調あり、声に十二均あり、合わせて八十四調となり、歌奏の曲はここより出る。

伏して考えるに、旋宮の声は久しく絶えており、一日にしてこれを補うは、臣の独見より出でたるもの、恐らく詳悉ならず。百官及び内外の知音者を集めてその得失を較べ、然る後に調に依って曲を制することを望む。八十四調、曲は数百あるも、現存するは九曲のみで、皆これを黄鐘の宮と謂う。今その音数を詳らかにするに、内三曲は即ち黄鐘宮声であり、その余の六曲は諸調に錯雑し、伝習の誤りであろう。唐初には還宮の楽有りといえども、曲を用いるに至っては、多く礼文に相違す。既に唐を則とすることは敢えず、臣また懵学独力にして、古今を備え究むること能わず。また多聞にして礼文を知る者を集め、上は古曲に本づき、下は常道に順い、その義理を定めることを望む。何月に何礼を行い、何調何曲を用い、声数の長短、幾変幾成かを、議定して曲を制し、方ぞ久長に行用すべし。補う所の雅楽旋宮八十四調、並びに定むる所の尺、吹く所の黄鐘管、作る所の律準を、謹んで同じく上進す。

世宗はこれを善とし、詔して尚書省に百官を集めて詳議させた。兵部尚書張昭等の議して曰く。

昔、帝鴻氏の楽を制するや、将に天地を範囲し、人神を協和せんとし、八節の風声を候い、四時の正気を測らんとした。気の清濁は筆授すべからず、声の善否は口伝すべからず。故に鳧氏は金を鋳、伶倫は竹を截り、律呂相生の算、宮商正和の音と為した。乃ちこれを管弦に播き、鐘石に宣べ、然る後に覆載の情は合し、陰陽の気は和同し、八風は律に従いて奸まず、五声は文を成して乱れず。空桑・孤竹の韻は以て神を礼するに足り、『雲門』・『大夏』の容は徳を観るに虧けなし。然れども月律に旋宮の法有り、太師の職に備わる。秦を経て学滅び、雅道は淩夷す。漢初、制氏の調ぶる所は、鼓舞を存するのみ。旋宮十二均更用の法は、世に聞くことを得ず。漢の元帝の時、京房は『易』に善く、別音し、古義を探求し、『周官』の均法を以て、毎月五音を更用し、乃ち準調を立て、旋相して宮と為し、六十調を成す。また日法を以て三百六十に析き、楽府に伝え、編懸は復旧し、律呂は差無し。漢の中微に遭い、雅音は淪缺す。京房の準法は、屡々言う者有れども、事終に成らず。錢樂は空しくその名を記し、沈重は但だその説を条すのみ。六十律法は寂寥として伝わらず。梁の武帝は素より音律に精しく、自ら四通十二笛を造り、以て八音を鼓した。また古の五正・二変の音を引き、旋相して宮と為し、八十四調を得、律準の調ぶる所と、音は同じくして数は異なる。侯景の乱に、その音また絶ゆ。隋朝、初めて雅楽を定めんとし、群党沮議し、歴載して成らず。而してはい公鄭訳は、亀茲琵琶の七音に因り、月律に応じ、五正・二変、七調克く諧い、旋相して宮と為し、復た八十四調と為す。工人萬寶常はまたその糸数を減じ、稍々古淡ならしむ。隋の高祖こうそは雅楽を重んぜず、儒官をして集議せしむ。博士何妥が駁奏し、その鄭・萬の奏する所の八十四調は並びに廃す。隋氏の郊廟に奏する所は、惟だ黄鐘一均のみ。五郊迎気と、蕤賓を雑用するも、但だ七調のみ。その余の五鐘は懸けて作さず。三朝の宴楽には、縵楽九部を用い、革命に至るまで、改更すること能わず。唐の太宗は爰に旧工の祖孝孫・張文収に命じて、鄭訳・萬寶常の均むる所の七音八十四調を整比せしめ、方にて絲管並びに施し、鐘石俱に奏し、七始の音復た振い、四廂の韻皆調う。安・史の乱離より、鹹秦は蕩覆す。崇牙樹羽の器は、掃地して余り無く、戛撃搏拊の工は、窮年嗣がず。郊廟に奏する所は、何ぞ南箕に異ならん。波蕩して遷らず、知音始めて絶ゆ。

世宗は奏上を覧て、これを善しとした。乃ち詔を下して曰く、「礼楽の重きは、国家の先ず為すところなり。近朝以来、雅音廃墜し、時に運の多故なるも、亦た官守の因循する所なり。遂に撃拊の音をして、空しく梗概を留め、旋相の法をして、指帰を究むる莫からしむ。枢密使王朴は、博く古今に識り、律呂に懸通し、旧典を討尋し、新声を撰集して、六代の正音を定め、一朝の盛事を成す。其の王朴の奏する旋宮の法は、宜しく張昭等の議状に依りて行うべし。仍て有司に令して調に依りて曲を制せしめ、其の間に或いは疑滞有らば、更に王朴に委ねて裁酌施行せしむべし」と。是より雅楽の音、稍く諧うを得たり。