舊五代史

志六: 樂志上

◎樂誌上

古の王者は、理定まりて禮を制し、功成りて樂を作す。天地に事へ神人を和する所以なり。歴代已來、舊章斯に在り。唐季の亂に洎りて、咸・鎬墟と爲る。梁の運興ると雖も、『英』・『莖』地を掃す。莊宗朔野より起り、圖を經始す。其の存する所は、邊部鄭聲のみに過ぎず、先王の雅樂殆ど將に泯滅せんとす。同光・天成の際に當たり、或は清廟に事有り、或は泰壇に祈祀すと雖も、簨虡猶ほ施すと雖も、宮商孰か辨ぜん。磬襄・鼗武をして河・漢に入りて歸らず、湯・舜の韶をして陵谷に混じて俱に失はしむ。晉高祖こうそ大寶に奄に登り、前規を迪はんと思ひ、爰に有司に詔して二舞を重ねて興さしむ。旋て烽火亂を爲すに屬し、明法修まらず、漢の祚幾何ぞ、制作に暇あらず。周顯德五年冬、將に歲仗を立たんとす。有司崇牙樹羽を以て、宿に殿庭に設く。世宗親ら樂懸に臨み、其の聲奏を試み、鐘磬の類、設けて撃たざる者有るを見て、工師に訊ねば、皆對ふること能はず。世宗惻然たり。乃ち翰林學士・判太常寺事竇儼をして其の制を參詳せしめ、又た樞密使王樸をして其の聲を考正せしむ。樸乃ち古き累黍の法を用ひ、以て其の度を審にし、律準を造る。其の狀琴の如くして巨なり。凡そ十三弦を設けて六律・六呂旋相宮を爲すの義を定む。世宗之を善しとし、百官に申命して議して之を行はしむ。今亦備へて後に紀し、以て五代雅樂沿革の由を誌す。

梁開平初、太祖禪を受く。始めて宗廟を建つ。凡そ四室、每室登歌・酌獻の舞有り。肅祖宣元皇帝室は『大合之舞』と曰ふ。敬祖光憲皇帝室は『象功之舞』と曰ふ。憲祖昭武皇帝室は『來儀之舞』と曰ふ。

烈祖文穆皇帝室は『昭德之舞』と曰ふ。登歌樂章各一首。(『五代會要』に云く、太常少卿楊煥撰す。)二年春、梁祖將に郊禋を議せんとす。有司樂名・舞名を撰進す。樂は『慶和之樂』と曰ふ。

舞は『崇德之舞』と曰ふ。皇帝行には『慶順』を奏す。玉帛を奠め登歌には『慶平』を奏す。俎を迎ふるには『慶肅』を奏す。

酌獻には『慶熙』を奏す。福酒を飲むには『慶隆』を奏す。文舞を送り武舞を迎ふるには『慶融』を奏す。亞獻には『慶和』を奏す。

終獻には『慶休』を奏す。樂章各一首。太廟神を迎ふるには、舞名『開平』。皇帝行・盥手・登歌・飲福酒・徹豆・送神、皆樂を奏す。

樂章各一首。唐莊宗光聖神閔孝皇帝廟室酌獻には、舞『武成之舞』。

登歌樂章一首。(『五代會要』に云く、尚書兵部侍郎崔居儉撰す。)明宗聖德和武欽孝皇帝廟室酌獻には、舞『雍熙之舞』。登歌樂章一首。(『五代會要』に云く、太常卿盧文紀撰す。)

晉高祖聖文章武明德孝皇帝廟室酌獻には、舞『咸和之舞』。

登歌樂章一首。(『五代會要』に云く、太子賓客・判太常寺事趙光輔撰す。)漢文祖明元皇帝廟室酌獻には、舞『靈長之舞』。德祖恭僖皇帝廟室酌獻には、舞『積善之舞』。

翼祖昭獻皇帝廟室酌獻には、舞『顯仁之舞』。顯祖章聖皇帝廟室酌獻には、舞『章慶之舞』。登歌樂章各一首。(『五代會要』に云く、太常卿張昭撰す。)高祖睿文聖武昭肅孝皇帝廟室酌獻には、舞『觀德之舞』。

登歌樂章一首。周信祖睿和皇帝廟室酌獻には、舞『肅雍之舞』。僖祖明憲皇帝廟室酌獻には、舞『章德之舞』。義祖翼順皇帝廟室酌獻には、舞『善慶之舞』。

慶祖章肅皇帝の廟室にて酌献を行い、舞は『観成の舞』を奏す。登歌の楽章各一首。太祖聖神恭肅文武孝皇帝の廟室にて酌献を行い、舞は『明徳の舞』を奏す。世宗睿武孝文皇帝の廟室にて酌献を行い、舞は『定功の舞』を奏す。

登歌の楽章各一首。{{*|(『五代会要』に云う:太祖廟室の楽章は、太常卿田敏の撰。世宗廟室の楽章は、翰林学士・判太常寺事竇儼の撰。)}}楽章の詞は多く録さず。

右、楽章。

晋の天福四年十二月、礼官が奏上して言う、「来年の正旦、王公が上寿する際、皇帝が酒を挙げられるときは、『元同の楽』を奏することを請う。再び酒を挙げられるときは、『文同の楽』を奏することを請う」と。これに従う。

五年、初めて二舞を再興することを議し、詔して曰く、「正冬の二節、朝会の旧儀は、離乱の時に廃れ、平和の代より興る。物を備えんと期するは、全く心を用いるに係り、人を択ぶを議する須らく、共に定制と為すべし。その正冬朝会の礼節・楽章・二舞の行列等の事儀は、太常卿崔棁・御史中丞竇貞固・刑部侍郎呂琦・礼部侍郎張允に差し、太常寺の官と共に逐一詳定せしむ。礼は新意に従い、道は旧章に在り、治世の和を知り、漸くに移風の善を見んことを庶幾す」と。その年の秋、崔棁らは制度を具に述べて上奏して云う。

『礼』に案ずるに云く、「天子は徳を以て車と為し、楽を以て御と為す」。「大楽は天地と和を同じくし、大礼は天地と節を同じくす」と。また曰く、「上を安んじ民を治むるは、礼に善きは莫く、風を移し俗を易うるは、楽に善きは莫し」と。故に楽書は舞を議して云う:夫れ楽、耳に在るを声と曰い、目に在るを容と曰う。声は耳に応じ、以て聴き知るべく、容は心に蔵し、以て貌づらに観るは難し。故に聖人は干戚・羽旄を仮りて以てその容を表し、発揚蹈厲して以てその意を見せしむ。声と容和合すれば、則ち大楽備わる。また『義鏡』に案ずるに、問うて曰く、鼓吹十二案は何れの所に合するか。答えて云う:『周礼』に鼓人は六鼓四金を掌る。漢朝に至りて乃ち黄門鼓吹有り。崔豹の『古今注』に云う:張騫が西域に使いしに因り、『摩訶兜勒』の一曲を得、李延年之を増し、分かちて二十八曲と為す。梁は鼓吹清商令二人を置く。唐にはまた堈鼓・金鉦・大鼓・長鳴・歌簫・笳・笛有り、合わせて鼓吹十二案と為し、大享会には則ち懸外に設く。これ是れ二舞及び鼓吹十二案を設くるの由なり。

今、一に令式に従い、排列し教習することを議す。文舞郎六十四人、分かれて八佾と為し、毎佾八人。左手に籥を執る。『礼』に云く、「葦籥は、伊耆氏の楽なり」と。『周礼』に「籥師、国子を教う」と有り。『爾雅』に曰く、籥は笛の如く、三孔にして短く、大なる者は七孔、之を簅と謂う。歴代以来、文舞の用いる所、凡そ籥六十有四を用う。右手に翟を執る。『周礼』の所謂る羽舞なり。『書』に云く、「幹羽を両階に舞わす」と。翟は山雉なり、雉の羽を以て析ち連ね攢えて之を為す。二人纛を執りて前導し、数は舞人の外に在り。舞人は進賢冠を冠り、黄紗袍を服し、白紗中単、皂領褾、白練衤蓋襠、白布大口袴、革帯、烏皮履、白布襘を着す。武舞郎六十四人、分かれて八佾と為す。左手に幹を執る。幹は楯なり、今の旁牌、以て身を翳す所以のものなり。その色は赤、中に獣形を画く、故に之を朱幹と謂う。『周礼』の所謂る兵舞、その武象を取り、楯六十有四を用う。右手に戚を執る。戚は斧なり、上を玉を以て飾る、故に之を玉戚と謂う。二人旌を執りて前導す。旌は旗に似て小さく、絳色、升龍を画く。二人鼗鼓を執り、二人鐸を執る。『周礼』に四金の奏有り、その三を金鐸と曰い、以て鼓を通ず。形は大鈴の如く、仰ぎて之を振る。金錞二、毎錞二人之を挙げ、一人之を奏す。『周礼』四金の奏、一を金錞と曰い、以て鼓を和す。銅を鋳て之を為し、その色は黒、その形は円く、椎の若く、上大にして下小、高さ三尺六寸六分有り、囲み二尺四寸、上に伏虎の状有り、旁に耳有り、獣形にして镮を銜む。二人鐃を執りて之に次ぐ。『周礼』四金の奏、二を金鐃と曰い、以て鼓を止む。鈴の如くして舌無く、柄を搖りて以て之を鳴らす。二人相を掌りて左に在り。『礼』に云く、「乱を治むるは相を以てす」と。制は小鼓の如く、皮を以て表と為し、之に糠を実し、之を撫して以て楽を節す。二人雅を掌りて右に在り。『礼』に云く、「疾を訊むるは雅を以てす」と。木を以て之を為し、状は漆筒の如くして口を弇にす。大さ二尺囲、長さ五尺六寸、羖皮を以て之を鞔い、旁に二紐有り、髹画す。賓酔いて出ずるに、器を以て地を築き、行い節を失わざるを明らかにす。武舞人は弁を服し、平巾幘、金支緋絲の大袖、緋絲布の裲襠、甲は金に飾り、白練𧞔襠、錦の騰蛇起梁帯、豹文の大口布袴、烏皮靴。工人二十、数は舞人の外に在り。武弁朱翙、革帯、烏皮履、白練𧞔襠、白布襘。殿庭に仍って鼓吹十二案を加う。『義鏡』に云う:常に氈案を設く、氈を以て床と為すなり。今、大床十二を制することを請う。慶容九人、歌楽を振作し、その床を熊・羆・貙・豹・騰倚の状を以て之を承け、百獣率いて舞うの意を象る。分かちて建鼓の外に置き、各三案、毎案に羽葆鼓一、大鼓一、金錞一、歌二人、簫二人、笳二人。十二案、楽工百八人、舞郎百三十有二人、年十五已上、弱冠已下、容止端正なる者を取る。その歌曲の名号・楽章の詞句は、中書が条奏し、官を差して修撰せしむ。

これに従った。{{*|(《歐陽史·崔棁傳》に曰く、高祖は太常に命じて文武二舞を復活させ、正冬の朝会の礼及び楽章を詳定させた。唐末の乱より、礼楽制度は亡失して久しく、棁は御史中丞竇貞固、刑部侍郎呂琦、礼部侍郎張允らと共にこれを草案した。その年の冬至、高祖は朝会を崇元殿にて開き、廷に宮懸を設け、二舞を北に、登歌を上に置いた。文舞郎は八佾六十四人、冠は進賢冠。黄紗袍、白中単、白練の礻蓋襠、白布の大口袴、革帯履、左手に枿を執り、右手に翟を秉り、纛を執って先導する者二人。武舞郎は八佾六十四人、平巾幘を服し、緋色の絲布大袖繍襠、金飾りの甲、白練の礻蓋襠、錦の騰蛇起梁帯、豹文の大口袴、烏靴、左手に幹を執り、右手に戚を執り、旌を執って先導する者二人。鼓吹十二案を加え、熊豹を負わせ、以て百獣の率舞するを象る。案には羽葆鼓一、大鼓一、金錞一、歌簫・笳各二人を設く。王公が上寿し、天子が爵を挙ぐるときは《元同》を奏し、二たび挙ぐるときは登歌《文同》を奏し、食を挙ぐるときは文舞《昭徳》、武舞《成功》の曲を奏す。礼畢して、高祖大いに悦び、棁に金帛を賜い、群臣左右の観る者皆これを賛嘆した。然れども礼楽廃れて久しく、制作は簡繆にして、又これに継いで亀茲部の《霓裳法曲》を以て雅音を参乱す。その楽工舞郎は、多く教坊の伶人・百工商賈・州県の役を避くる者にて、又師匠良工の教習無し。明年の正旦、復た庭に奏す。而して登歌発声するや、悲離煩慝にして《薤露》《虞殯》の音の如く、舞者の行列進退、皆節に応ぜず、聞く者皆悲憤す。開運二年、太常少卿陶穀奏して二舞を廃す。)}}

漢高祖が天命を受けた年の秋九月、権太常卿張昭が上疏し、一代の楽名を改めることを奏上した。その要旨は次の通りである。

昔、周公が成王を補佐し、礼楽を制定し、殿庭に六代の舞を遍く奏した。所謂《雲門》《大咸》《大韶》《大夏》《大濩》《大武》これなり。周室既に衰え、王綱振わず、諸楽多く廃れ、惟《大韶》《大武》の二曲存す。秦・漢以来、名を二舞と為す:文舞は《韶》なり、武舞は《武》なり。漢時に改めて《文始》《五行之舞》と為し、歴代因循して改めず。貞観に楽を作る時、祖孝孫は隋の文舞を《治康之舞》と改め、武舞を《凱安之舞》と改む。貞観中、《秦王破陣楽》《功成慶善楽》の二舞有り、楽府又たこれを以て二舞と為す。是れ舞四つ有り。前朝行用年深く、遽かに廃すべからず。国家霊台に偃伯するを俟ち、即ち別に工師を召し、その節奏を更めん。今その名を改め、具に左に書す:祖孝孫の定むる所の二舞の名、文舞を《治康之舞》と曰う、請う《治安之舞》と改めん。武舞を《凱安之舞》と曰う、請う《振徳之舞》と改めん。貞観中の二舞の名、文舞《功成慶善楽》、前朝名《九功舞》、請う《観象之舞》と改めん。武舞《秦王破陣楽》、前朝名《七徳舞》、請う《講功之舞》と改めん。その《治安》《振徳》の二舞は、請う旧に依り郊廟に行用し、文舞を以て神を降し、武舞を以て神を送らん。その《観象》《講功》の二舞は、請う旧に依り宴会に行用せん。

又た《十二和楽》を改むることを請う。云く、

昔、周朝は六代之楽を奏す。即ち今の二舞の類これなり。その賓祭常用するに、別に《九夏之楽》有り。即ち《肆夏》《皇夏》等これなり。梁武帝は音楽に善くし、《九夏》を改めて《十二雅》と為す。前朝祖孝孫は雅を和に改め、相沿わざるを示す。臣今和を成に改む。《韶》楽九成の義を取るなり。《十二成楽曲》の名:天神を祭りては《和之楽》を奏す、請う《禋成》と改めん。地祇を祭りては《順和》を奏す、請う《順成》と改めん。宗廟を祭りては《永和》を奏す、請う《裕成》と改めん。天地・宗廟を祭り、登歌《肅和》を奏す、請う《肅成》と改めん。皇帝臨軒に《太和》を奏す、請う《政成》と改めん。王公出入に《舒和》を奏す、請う《弼成》と改めん。皇帝食挙及び飲宴に《休和》を奏す、請う《徳成》と改めん。皇帝朝を受け、皇后宮に入るに《正和》を奏す、請う《騂成》と改めん。皇太子軒懸出入に《承和》を奏す、請う《允成》と改めん。元日・冬至皇帝礼会、登歌《昭和》を奏す、請う《慶成》と改めん。郊廟俎入に《雍和》を奏す、請う《騂成》と改めん。皇帝祭享・酌献・祝文読み及び飲福・受胙に《寿和》を奏す、請う《寿成》と改めん。

祖孝孫が元来定めた《十二和曲》に、開元朝また三和を奏上し、遂に《十五和》の名有り。凡そ礼法を制作するは、動もすれば典故に依る。梁が《十二雅》を置くは、蓋し十二天の成数を取り、八音十二律の変に契う。輒ち三和を益すは、稽古に乖く。又た祠祭に用うる所に縁り、尽く去ること得ず。臣はその一を取る。孔宣父・斉太公たいこう廟を祭り神を降すに《宣和》を奏す、請う《師雅之楽》と改めん。三公殿に升り、会訖りて階を下り履行するに《祴和》を奏す、請う廃し、同じく《弼成》を用いん。先農を享け、籍田を耕すに《豊和》を奏す、請う廃し、同じく《順成》を用いん。

已上の四舞・《十二成》・《雅楽》等の曲、今具に合用する処所及び楽章の首数を録し、一一条列して下にす。

その歌詞の文は録さず。