舊五代史

志五: 禮志下

◎禮志下

後唐の長興元年九月、太常禮院が奏上した。「来年四月の孟夏に、太廟において禘饗を行わんとす。謹んで礼経を按ずるに、三年に一度の祫は孟冬に、五年に一度の禘は孟夏に行う。毀廟した未だ毀廟せざるの主、並びに太祖の廟に合食し、逐廟の功臣は、太廟の庭に配饗す。本朝宝応元年に礼を定め、景皇帝を始封の祖として奉ず。既に廟号を太祖とし、百代遷さず、禘祫に遇う毎に、東向の尊位に居し、代祖元皇帝・高祖こうそ・太宗以下、列聖の子孫、各々昭穆を序して南北相向い、前に合食す。聖朝中興し、宗廟を重修し、今太廟に見饗するは高祖・太宗・懿宗・昭宗・献祖・太祖・莊宗の七廟、太祖景皇帝は祧廟の数に在りて、廟饗に列せず。将来の禘礼、若し高祖を奉じて東向の尊に居せしむれば、則ち禘饗は太祖・代祖に及ばず。若し祧廟の太祖を以て東向の位に居せしむれば、則ち又た礼意に違う。今、所司祧廟の神主及び諸色の法物を修奉し既に備わり、参詳に預かり請うべく、事須らく状を具して申奏すべし。」勅を下して尚書省に百官を集めて詳議せしむ。戸部尚書韓彦惲等、奏議して曰く。「伏して以みるに、本朝は受命の祖景皇帝を尊びて始封の君と為し、百代遷さず、長く廟食に居し、貞観より天祐に至るまで、改更すること無く、聖祖神孫、左は昭に右は穆なり。中興して国祚より、再び宗祊を議し、太祖景皇帝を以て祧廟の数に在らしめ、祖宗に列せず、太祖の位を尊ばんと欲し、東向の儀を行わんとし、爰に群臣を命じて、可否を同議せしむ。伏して詳らかにするに、本朝列聖の旧典、明皇の定礼の新規、開元十年に、特た九廟を立て、子孫遵守し、歴代虧くること無し。今既に定礼の規を行い、又た太祖の室を祧す。昔、徳宗の朝、将に禘祫の礼を行わんとし、顔真卿議して献祖を奉じて東向の位に居せしめ、景皇帝は暫く昭穆の列に居らしむるを請う。之を貞元に考うれば、則ち誤りと為すも、之を今日に行えば、正に其の礼を得たり。今請わくは、禘祫の歳に遇う毎に、暫く景皇帝を奉じて東向の尊に居らしめ、元皇帝以下、昭穆を叙列せしめん。」之に従う。

周の広順三年冬十月、礼儀使が奏上した。「郊廟の祝文、礼例に云う。古は文字皆な冊に書きて、長短の差有り。魏・晋の郊廟祝文は冊に書く。唐初は悉く祝版を用い、唯だ陵廟は玉冊を用う。玄宗親しく郊廟を祭り、玉を以て冊と為す。徳宗の朝、博士陸淳議し、礼に準じて祝版を用い、祭り已に之を燔くべしと。其の議を可とす。貞元六年親祭、又た竹冊を用う。当司は『開元礼』に準じ、並びに祝版を用う。梁朝は礼に依りて之を行い、明宗の郊天に至り、又た竹冊を用う。今、礼例を詳酌するに、允に祝版を以て宜しと為す。」詔して之に従う。

周の広順三年九月、南郊、礼儀使が奏上した。「郊祀に用うる珪璧の制度、礼に準ずれば、上帝を祀るには蒼璧を以てし、地祇を祀るには黄琮を以てし、五帝を祀るには珪璋琥璜琮を以てす。其の玉は各々本方の正色に依る。日月を祀るには珪璋を以てし、神州を祀るには両珪有邸を以てす。其の用うる幣は、天には蒼色、地には黄色、配帝には白色、日月五帝は各々本方の色に従う。皆な長さ一丈八尺。其の珪璧の状は、璧は円くして琮は八方、珪は上鋭にして下方、半珪を璋と曰い、琥は虎の形、半璧を璜と曰う。其の珪璧琮璜は皆な長さ一尺二寸四。珪に邸有り。邸は本なり。珪は璧に著きて整肅なり。日月星辰には珪璧五寸を以てす。前件の珪璧は図様有りと雖も、長短の説或いは殊なり。唐の開元中、玄宗詔して曰く『神を祀るには玉を以てし、其の精潔を取る。比来瑉を用うるは、行うべからず。如し或いは玉を以て難しと為さば、寧ろ其の制度を小にして、以て真を取れ』と。今、郊廟に修する珪璧は、玉の大小を量り、必ずしも皆な古制に従わず。伏して請う、所司を下して修制せしめん。」之に従う。

顕徳四年夏四月、礼官博士等、詔に準じて、祭器・祭玉の制度を議して聞かしむ。時に国子祭酒尹拙は崔霊恩の『三礼義宗』を引きて云う。「蒼璧は以て天を祀る所以なり。其の長さ十有二寸、蓋し天の十二時を法とす。」又た『江都集』・『白虎通』等の諸書の説を引きて云う。「璧は皆な外円内方なり。」又た云う。「璜琮は以て地を祀る所以なり。其の長さ十寸、以て地の数を法とす。其の琮は外方内円、八角にして好有り。」国子博士聶崇義は以て為すに、璧は内外皆な円く、其の径九寸なりと。又た按ずるに阮氏・鄭玄の図は皆な九寸と云い、『周礼・玉人』の職又た九寸の璧有り。及び『爾雅』を引きて云う。「肉倍好は之を璧と謂い、好倍肉は之を瑗と謂い、肉好若一は之を環と謂う。」郭璞の註に云う。「好は孔なり。肉は辺なり。」而して尺寸の数を載せず。崇義は又た『冬官・玉人』を引きて云う「璧好三寸」、『爾雅』に云う「肉倍好は之を璧と謂う」。両辺の肉各々三寸、好を通じて共に九寸、則ち其の璧九寸なること明らかなり。崇義は又た云う。「璜琮は八方を以て地に象り、毎角各々一寸六分を剡出し、共に長さ八寸、厚さ一寸。『周礼疏』及び阮氏の図を按ずるに並びに好無し。」又た『冬官・玉人』を引きて云う。「琮は八角にして好無し。」崇義は又た云う。「琮璜珪璧は、倶に是れ天地を祀るの器なり。而して『爾雅』は唯だ璧環瑗の三者に好有りと言い、其の余の黄琮諸器は、並びに之を言わず。則ち璜琮は八角にして好無きこと明らかなり。」太常卿田敏以下議して、尹拙の説く所は拠る所有りと雖も、崇義の『周礼』の正文を援くるは、其の理稍々優れりと為し、之に従うを請う。其の諸祭器の制度も亦た多く崇義の議する所を以て定めと為す。

顕徳二年秋八月、兵部尚書張昭上言す。「今月十二日、伏して宸慈に蒙り召対し、面して聖旨を奉ず。每年の祀祭、多く太牢を用い、其の耕稼の労を念い、更に犠牲の用を備う。諸の豢養に比し、特たに湣傷すべし。臣等をして故事を討たしめ、以て佗の牲を以て代うべしや否やと。臣仰ぎて綸言を稟し、退きて礼籍を尋ぬ。其の三牲八簋の制、五礼六楽の文は、典彜に著し、叠相沿襲し、累経朝代、改更すること無し。臣聞く、古は燔黍捭豚、尚お多く質略なり。近くは則ち梁武の面牲竹脯、宗師すべからず。生を好むの徳は然りと雖も、先に奉ずるの儀には太だ劣れり。蓋し礼は信を主とし、孝は本心に因る。黍稷は馨しからず、鬼神は徳を饗す。必ずしも牲牢の巨細、籩豆の方円を須いず。苟くも血祀長く宗祧に保たば、而して牲俎何ぞ繭栗を須いん。但だ以て国の大事、儒者の久しく行う所、佗の牢を以て易うれば、恐らく未だ便ならざらん。臣の愚見を以てすれば、其の南北郊・宗廟社稷・朝日夕月等の大祠、皇帝親しく事を行えば、三牲を備え、司有りて事を摂行すれば、則ち少牢以下を用う。旧典に非ざると雖も、牲牛を減ずるを貴ぶ。」是の時、太常卿田敏又た奏して云う。

臣は聖旨を奉じて、祠祭に用いる犢(子牛)の事について申し上げる。今、太僕寺が供する犢は、一年の四季を通じて用いる犢が二十二頭である。『唐會要』に、武徳九年十月の詔に「祭祀の意義は、本来民のためにするものであり、民を窮して神に事えるのは、正直にそむく。牛を殺すことは、礿祭(薄祭)に及ばず、明徳こそが馨香(かぐわしい香り)である。古を望み今を推すに、民と神は一つの道理である。その祭、圜丘・方澤・宗廟以外は、みな少牢(羊・豚)を用いることを止めてよい。少牢を用いるものは特牲(一頭の犢)で代えよ。時が和ぎ年が豊かになって、その後初めて常礼を修めることができる」とある。また、『會要』を按ずるに、天宝六載正月十三日の赦文に「祭祀の典において、犠牲を備えるのは、虔誠を達せんとするがためであり、広く殺すことに資するものではない。今後より毎たび大祭祀において、応用すべき骍犢(赤い子牛)は、所司に命じてその数を量り減らし、なお永く恒式とせよ。その年起請(建議)によれば、旧料(従来の割り当て)では毎年犢二百十二頭を用いていたが、今は百七十三頭を減らし、三十九頭のみを用い、その余の祠饗はみな犢の使用を停止する」とある。上元二年九月二十一日の赦文に至っては、「国の大事は、郊祀を先とし、その至誠を貴び、品の多きを美としない。黍稷(供物)は設けられていても、なお馨しからざることもあり、牲牢(犠牲)が空しく多くても、能く饗(神が受け入れる)することはできない。圜丘・方澤は、恒式に任せて依る。宗廟諸祠は、臨時に献熟(調理済みの供物)とし、明徳の馨を懐(思い)い、西鄰の祭(薄い祭り)に合わしめよ。その年起請では、昊天上帝・太廟にそれぞれ太牢(牛・羊・豚)一を、その余の祭りはみな事に随って市で供する」とある。もし天宝六載に拠れば、二百十二頭から減じて三十九頭を用い、武徳九年に拠れば、毎年犢十頭を用い(圜丘四、方澤一、宗廟五)、上元二年の起請に拠れば、昊天上帝・太廟のみで、また方澤が無いので、九頭となる。今、国家が牛を用いるのは、開元・天宝と比べれば多くはないが、武徳・上元と比べればその大半を過ぎている。案ずるに『會要』によれば、太僕寺に牧監があり、孳課(繁殖と管理)の事を掌っている。乞う、今後太僕寺に孳課牛を養わせ、その犢は昊天上帝の祭りの前三月に滌宮で養い、その蕩滌清潔を取る。その余の祭りは滌宮で養わない。もし臨時に牛を買うならば、典故に合わない恐れがある。

勅を奉ずるに、「祭祀は誠を尚び、祝史は信を貴ぶ。誠と信でなければ、何をもって神に事えようか。礿祭は牛を殺すことより重く、黍稷は明徳より軽い。犠牲の数は、典経に具に載っている。前代以来、あるいは増減があったが、宜しく酌中の礼を采り、かつ貴少の文に従うべし。今後より、圜丘・方澤・社稷を祭るには、並びに旧に依って犢を用いる。その太廟及び諸祠は、宜しく上元二年九月二十一日の制に準じ、並びに犢を用いない。もし皇帝が親しく事を行なう場合は、常式に依る」。

後唐同光二年三月十日、祠部が奏上する。「本朝の旧儀によれば、太微宮は毎年五度の献があり、その南郊壇は毎年四度の祠祭がある。吏部が申し奏上して、中書門下に太尉を摂(代行)させて事を行なうことを請う。その太廟及び諸郊壇は、並びに吏部が三品以上の者に太尉を摂させて事を行なう」。これに従う。その年の七月に至り、中書門下が奏上する。「尚書祠部の状に拠れば、毎年太微宮の五度の薦献、南郊壇の四度の祠祭は、並びに宰相が太尉を摂して事を行なう。ただ太廟の時祭のみ、独り庶僚(下級官)を遣わす。旧規ではあるが、礼を欠くことを慮る。臣等が商量するに、今後太廟の祠祭も、宰臣を差して事を行なうことを望む」。これに従う。

三年十一月、礼儀使が奏上する。「伏して礼経に準ずれば、喪三年は祭らず、ただ天地社稷を祭るのみが越紼(喪中の礼を越える)行事である。これは古制である。漢の文帝より以来、神器を益々尊び、公にしたがい私を絶つ義に務め、日をもって月に易える制を行ない、事久しく相沿い、礼は順変に従う。今、園陵の事は既に畢り、祥練(喪服を除く儀式)も既に除かれた。宗廟は享(祭り)を欠くべからず、神祇は祀りを廃すべからず。宜しく礼の意を遵い、孝思をのっとってべるべし。伏して請う、貞簡太后が升祔(祖廟に合祀される)の礼が畢わってより、応に宗廟の伎楽及び群祀は、並びに旧に準じて施行せられんことを」。これに従う。

天成四年九月、太常寺が奏上する。「伏して見るに、大祠には則ち宰臣を差して事を行ない、中祠には則ち諸寺卿監を差して事を行ない、小祠には則ち太祝・奉礼に委せる。今後、凡そ小祠には、五品官を差して事を行なうことを請う」。これに従う。その年十月、中書門下が奏上する。「太微宮・太廟・南郊壇において、宰臣が事を行ない宿斎する際、百官皆が人事(挨拶など)に預かる。伏して思うに、命を奉じて事を行ない、精誠を込めて斎宿するに、もし朝官に遍く見えられれば、祠祭に対するつつしみに渉る(妨げる)。今後、宰臣が事を行なう際は、文武両班ともに、宿斎の処に到ることを許さないことを望む」。勅を奉じて宜しく依るべし。その年十二月、中書門下が奏上する。「今後、宰臣が致斎(斎戒)している内は、押班(朝班の監督)せず、印を知らず、起居(日常の挨拶)せず。或いは国忌に遇えば、応に行事官は誓戒を受け、並びに行香に赴かず、並びに刑殺の公事を奏覆(上奏裁可)しない。及び大祠の致斎内は、宴を開かないことを請う」。これに従う。

長興二年五月、尚書左丞崔居儉が奏上する。「大祠・中祠に官を差して事を行なう際、皇帝は祭りに預からなくとも、その日も朝を見ない。伏して見るに、車駕がその日に出ることもあり、理に於いて不便である。今後請う、毎たび大祠・中祠に遇うごとに、車駕は出さない」。これに従う。

四年二月、太常博士路航が奏上する。「比来、小祠以上では、公卿皆が祭服を著て事を行なっていた。近日では、ただ郊廟・太微宮のみが祭服を具え、五郊迎気・日月諸祠は、並びに只だ常服で事を行ない、兼ねて本司の執事人等は、皆が随事の衣装を著け、狼藉たる鞋履(靴)で、便すなわち公卿に随って壇墠(祭壇)に升降する。祠部令を按ずるに、中祠以上では、応に斎郎等が壇に升って事を行なう者は、並びに潔服を与え、事畢わって収納する。今後、中祠以上では、公卿は祭服を具えることを請い、執事で壇に升る人は並びに履を著け、緋衣と幘子を具える。また、臣が『礼閣新儀』を検するに、太微宮使は卯時に事を行なう。近年は諸郊廟の例に依り、五更初に便ち事を行なう。今後請う、旧に依って卯時とすることを」。これに従う。

清泰元年五月、中書門下が奏上する。「太常礼院の申しに拠れば、明宗聖徳和武欽孝皇帝が今月二十日に祔廟される。太尉はまさに宰臣を差して摂行すべきであるが、よしんば馮道は仮(休暇)にあり、李愚は十八日が私忌であり、致斎内にある。今、劉昫が又た奏上して、三司事を判ずる事煩わしいと見え、祀事を免ぜんことを請う。今、礼官と参酌するに、諸私忌の日に、大朝会に遇えば、入閣宣召され、尚ほ朝参に赴く。今、祔饗の事は大きく、忌日は私に属する。斎日は大朝会宣召の例に比し、李愚を差して事を行なうことを請う」。これに従う。

晋開運三年六月、西京留司監祭使が奏上する。「祠祭に定めた行事官が、臨日に或いは疾病に遇い、或いは詔を奉じて闕(宮中)に赴く場合、留司の吏部郎中一人が主判し、欠員があれば便ち次第に名を定め、ほぼく事を欠くことなからんことを」。これに従う。『永楽大典』巻一万七千五十二。

天成三年十一月、太常寺は唐の少帝を昭宣光烈考皇帝と定め、廟号を景宗とすることとした。博士の呂朋龜が奏上して言うには、「謹んで礼経を按ずるに、臣は君をしのびごとせず、天を称してこれにおくりなす。これにより本朝の故事では、太尉に命じて百官を率いさせ、謚冊を奉じて圜丘において天に告げ、霊座の前で読み返し、いずれも七月の内に行い、謚冊を陵に納める。もし追尊して定謚する場合は、太尉に命じて太廟において謚冊を読み、冊を当該の廟に蔵する。伏して考えるに、景宗皇帝はかつて深い冤罪を負い、歳月が遠く隔たり、園陵はすでに修築され、廟に合祀されていない。すなわち景宗皇帝は親しく七廟の外にある。今、聖朝が冤罪を晴らし、追尊して定謚し、帝号を新たにされるにあたり、礼儀を撰する必要がある。また、『礼』に云う、『君は年を越えずして宗廟に入らず』と。かつ漢の殤帝・沖帝・質帝は、君臣の関係はすでに成っているが、晋の恵帝・懐帝・愍帝は、いずれも艱難を負い、皆高祖の廟に列せず、ただ園寢において祀るのみである。臣らは切に故実を詳らかにし、園所に景宗皇帝廟を立て、使者に命じて冊書と宝綬を奉じ、廟において謚を上り、直ちに太牢を奉じてこれを祀り、その四時の祭祀は守臣に委ねて奉薦させたい。尚書省に下して三省の官を集め、詳議して施行するよう請う」と。右散騎常侍さんきじょうじの蕭希甫らは議し、礼院の奏請に依るよう請うた。勅を奉じて、宜しく本州の城内に地を選び廟を起こすべしとされた。そこで曹州に廟を立てた。

四年五月、中書門下が奏上した。「先に太常寺が少帝の謚を昭宣光烈孝皇帝と定め、号を景宗とした件について。伏して考えるに、景宗は生前帝位にあり、祭祀は祖廟を継承するものである。既に景宗と号するならば、宗廟に入るのが道理であり、宗廟に入らなければ、宗と称することは難しい。理によって論ずれば、一つの遠い廟をとおざけて、少帝の神主を太廟に安置すれば、すなわち昭穆の序が整い宗祀が正される。今、仮に別廟に居させるならば、景宗とは言わず、ただ昭宣光烈孝皇帝と云うべきである。兼ねて冊文の中に『基』の字があるが、これは玄宗の廟諱である。尋常の詔勅では皆回避しないが、少帝は継世の孫であり、列聖の諱を斥けたくない。今『基』を『宗』の字に改めたい」と。これに従った。{{*|(『五代会要』:『風俗通』に陳孔璋が云う、尊卑に序あり、喪祭に哀敬あり、各々その終わり有り、言を著わして遵うべく、事を施して犯さざらしめんと欲すと。『礼』に云う、「卒哭の後、宰は木鐸を執り宮に徇いて曰く、故を捨てて新を諱すと」。故とは、毀廟の主を謂う。恩遠く属絶え、名は諱むべからず。今、昭宣帝より玄宗を去ること十四世、冊文を改むるを奏すは、典故に非ず。)}}

八月戊申、明宗は袞冕を着け、文明殿に御し、昭宣光烈孝皇帝を追冊した。礼が終わると、冊使の兵部尚書盧質が冊を押して応天門を出て車に登り、鹵簿・鼓吹が前導し、都亭驛に入った。翌日、車に登って曹州へ赴いた。当時、議する者は追尊することは可であるが、これを宗として立て、太廟に入れないのは、深く礼を失うとしていた。宗と云うのは、功業が祖禰に継がれ、徳沢が生民に及ぶものであり、号令を発することのできる者である。かつ輝王が帝位を継承した日、国命は賊臣より出で、君父は冤罪を抱き、母后は塗炭に陥り、放逐に遭い、鼎祚は覆亡した。追謚して名を易えるには、故実に従うべきである。漢の沖帝・質帝、晋の愍帝・懐帝のように、ただ尊称するのみで廟号はない。前代の亡国の者、周の赧王、漢の献帝、魏の陳留王もまた宗と称さない。中興して追謚された者、孺子嬰に対し、光武帝はついに追宗の典を行わなかった。仮に自我作古として人情に酌むならば、これを「景宣光烈」と謂うのは、深く相応しくない。古の周景王・漢景帝・周宣王・漢宣帝は、皆中興再造の主である。国朝に至っては、太祖を景皇帝とし、天命を受けて唐室を有したためであり、宣宗皇帝は隔代して運を承け、皇綱を復振させたためである。今、輝王は国を亡ぼし業を墜とした者であり、「宣景」と謂うのは、謬りではないか。先に、太常寺が既に奏上し、尚書省に下して集議させたが、智者ありといえども、依違して言わなかった。ここに至り、既に景宗として立て、陵号を温陵とし、曹州に廟を置き、時に告享し、仍って本州刺史以下を三献官とした。後に宰臣はその非を知り、廟号を去るよう奏上した。

晋の天福四年十一月、太常礼院が奏上した。唐朝の帝廟を立てることを議し、武德年間の故事を引き、隋の三帝を祀った例を挙げる。今、近朝の荘宗・明宗・閔帝の三廟を立てることを請う。前規に合うであろう。詔して曰く、「徳は継絶するより盛んなるは莫く、礼は先を奉ずるより重きは莫し。荘宗は興復の功を立て、明宗は光大の業を垂れ、閔帝に逮るも、実に本枝を継ぐ。然らば則ち丕緒洪源、皆唐室を尊ぶ。周を継ぐ者は須らく後稷を崇め、漢を嗣ぐ者は必ず高皇を奉ず。将に厳祠を啓かんとす、当に茂典を崇くすべし。宜しく唐の高祖・太宗及び荘宗・明宗・閔帝の五廟を立てよ」と。その月、太常礼院がまた奏上した。「唐廟の制度について、至徳宮の正殿を隔てて五室とし、三分の一を以てし、南は地を去ること四尺、石を以てと為し、中に二主を容れることを請う。廟の南に一屋三門、門戟二十四本。東西に一屋一門、門に棨戟無し。四仲の祭は、一羊一豕、中祠の如くし、幣帛・牲牢の類は光禄寺が主る。祠祝の文は、進まず署せず、神厨の具は鴻臚寺が督す。五帝五后、凡そ十主、未だ遷さざる者六、未だ立たざる者四、未だ謚せざる者三。高祖・太宗とその后及び荘宗・明宗、凡そ六主は清化裏の寢宮に在り、祭の前二日、殿中の傘扇二十を以て、新廟に迎え置き以て享祀す。閔皇帝・荘宗明宗の二后及び魯国孔夫人の神主四座は、修制して廟に祔せんことを請い、及び三后の謚法を定めんことを請う」と。これに従った。

周の広順元年二月、太常礼院が上言した。「勅に準ずれば、漢廟を升平宮に遷す。その唐・晋両朝は、皆五廟のみを遷移した。今、漢は七廟であるが、総て移すか、或いは只五廟のみを移すか、未だ審らかでない。勅すべきは前勅に準じ、並びに升平宮に移すべし。その法物・神厨・斎院・祭服・祭器・饌料は、皆中祠の例に依り、少牢を用い、光禄寺等が給す。その読文の太祝及び奉礼郎は、太常寺が差す。毎仲饗には、漢の宗子を以て三献とす」と。これに従った。