文字サイズ
舊五代史
志四: 禮志上
◎禮志上(案ずるに、『禮志序』は原本闕佚す。)
梁の開平元年夏四月、太祖初めて禪を受けしめ、乃ち西京に四廟を立て、近古の制に従へり。
唐の同光二年六月、太常禮院奏す、「国家の興建の初め、已に北都に廟を置けり。今天下を克復し、都を洛陽に遷し、却って本朝の宗廟に復す。礼を按ずるに二廟の文無し。其の北都宗廟は請ふらくは廃せんことを。」乃ち尚書省をして集議せしむ。禮部尚書王正言等議を奏して曰く、「伏して惟ふに、都邑の制は宗廟を以て先とす。今洛を卜して尊に居り、基を開き宇を禦ふ。事は古に師ふべく、神は必ず人に依る。北都先に宗廟を置くは、並び設くるに宜しからず。況んや每年の朝享、礼に常規有り。時日既に同じければ、神何に拠らんや。窃に近例を聞くに、亦た権に従ふ有り。神主已に修まるは、之を迎えて夾室に蔵む。廟宇已に崇きは、之を虚して以て恒制と為す。若し齊桓公の廟の二主の如きは、礼に明文無し。古者は師行するも、亦た廟主を遷す無かりき。昔、天後の鞏・洛を崇むるは、礼に謂ふ、宜しからずと。漢皇の豐・滕を戀ふるは、事に法する所無し。況んや本朝の故事、禮院具に明らかなり。洛邑は舊都、嵩高は正位、豈に遠き宮闕の居を宜しくし、祖宗の廟を建てんや。事は久しきに可からず、理は長きに従ふに在り。其の北都宗廟は、請ふらくは太常禮院の申奏に準じて停廢せんことを。」之に従ふ。
天成元年、中書舍人馬縞奏して曰く、「伏して見るに、漢・晉已來、諸侯王宗室帝統を承襲するは、七廟の外を除き、皆別に親廟を追尊す。漢の光武皇帝は先四代を南陽に立て、其の後桓帝已下も、亦た皆上り前修を考へ、先代を追崇せり。乞はくは兩漢の故事に依り、別に親廟を立てんことを。」詔して尚書省に下し、百官を集めて議を定めしむ。禮部尚書蕭頃等議して曰く、「伏して方冊に載する所、聖概の存する所を見るに、蘋藻の誠を達せんと将ては、宜しく楶棁の制有るべし。臣等集議す、其の追尊位號及び廟を建つる都邑は、乞はくは特に制命を降し、馬縞の議ふる所に依らしめん。」
天成二年、中書門下又た上奏す、「伏して惟ふに、兩漢は諸侯王を以て帝統に入繼せしむれば、則ち必ず名を易へ謚を上ぐ。孝を廣めて皇と稱す。諸王故事に載する所、孝德皇・孝仁皇・孝元皇是れなり。伏して乞はくは聖慈、俯して人の願ひに従ひ、皇を取りて號を薦むるを許し、兼ねて謚を上ぐて以て名を尊び、圓陵を改置し、仍て兵衛を増さんことを。」遂に詔して太常禮院に其の儀制を定めしむ。太常博士王丕等、漢の桓帝の入嗣を引き、其の祖河間孝王を尊びて孝穆皇帝と曰ひ、父蠡吾侯を孝崇皇帝と曰へるを例とし、請ふらくは太常卿に付して謚を定めしめんとす。刑部侍郎・權判太常卿馬縞復た議して曰く、「伏して兩漢の故事に準ずるに、諸侯王宗室を以て帝統に入承せしむれば、則ち必ず父祖を追尊し、園陵を修樹す。西漢の宣帝・東漢の光武、孝饗の道、故事具に存す。安帝の入嗣より已來、遂に皇太后の令有り、別に謚法を崇め、追ひて某皇と曰ふ。所謂る孝德・孝穆の類是れなり。前代惟だ孫皓の烏程侯より繼嗣し、父和を追ひて文皇帝と為すのみ。事は非常に出で、垂訓に堪へず。今禮院の状に據るに、漢の安帝以下、若し本紀に據らば、又た「帝」の字を見ず。伏して惟ふに、謚法に「德天地に象るを帝と曰ふ」。伏して緣るに、禮院已曾て奏聞せしが故に、難しく兩漢の故事を将ひて、便ち尊名を述べん。請ふらくは百官を詔して集議せしめん。」時に右僕射李琪等議して曰く、「伏して歴代已來を睹るに、宗廟の成制、繼襲は異無く、沿革は或は殊なり。馬縞の奏する所、礼に按據有り。乞はくは制命を下し、馬縞をして典冊に虔に依り、以て尊名を述べしめん。」時に明宗は意「帝」の字を兼ねて加へんと欲し、乃ち詔を下して曰く、「朕聞く、國を開き家を承くるは、以て禮を作り樂を作るを得と。故に三皇は相襲はず、五帝は相沿はず。代に隨ひて規を創む、禮に於いて爽ふ無し。況んや或は情は祖禰に関り、事は烝嘗に係る。且つ追謚追尊、皇と稱し帝と稱するは、既に減增の字有れば、合は褒貶の辭を陳ぶべし。大約二名俱に尊稱と為す。若し三皇の代は故に帝を加ふ可からず、五帝の代は皇を言ふ可からず。爰に秦朝より、便ち二號を兼ぬ。至若玄元皇帝に至りては、事千祀を隔て、宗一源を追ふ。猶ほ鴻名に冊を顯す。豈に漢典に遵ふを須ひんや。況んや朕は九五の位に居り、億兆の尊と為る。二名を眇躬に總べ、一字を先代に惜しむ可からず。苟くも執議に隨はば、何を以て孝誠を表はさん。委ねて宰臣をして百官と詳定せしめ、兩班を中書に集め、逐班各其の見る所を陳べしめよ。」惟だ李琪等は祖禰の二室に先づ「帝」の字を加ふるを請ふ。宰臣衆議を合して奏して曰く、「恭しく惟ふに、朝廷の重きは宗廟を以て先とす。事は承祧に係り、義は致美に符す。且つ聖朝の追尊する日は、即ち漢氏の舊儀を引き、漢氏の封崇する時に在りては、復た何れの代の故事に依る。理は凝滯に関り、未だ聖謨に協はず。道は變通に合ひ、方て民則と為る。且つ王者の功成り治定まるは、禮を作り樂を作り、正朔服色、尚ほ改更有り。祖を尊び先に奉ずるは、沿革を何ぞ妨げん。若し應州に必ず別廟を立てば、即ち地は上都に遠し。今開元中に臯陶を追尊して德明皇帝と為し、涼武昭王を興聖皇帝と為し、皆廟を京都に立つるに據る。臣等商量す、議する所の追尊四廟は、望むらくは御劄に依り並びに皇帝の號を加へ、兼ねて洛京に廟を立つるを請ふ。」敕す、「宜しく應州の舊宅に廟を立つべし。餘は奏する所に依れ。」(案ずるに『文獻通考』:後唐の所謂る七廟は、沙陀の獻祖國昌・太祖克用・莊宗存勖を以て、上り唐の高祖・太宗・懿宗・昭宗に繼ぐ。此の所謂る四廟は、又た明宗の代北の高・曾・祖・父なり。)
其の年八月、太常禮院奏す、「莊宗神主を以て此の月十日に廟に祔す。七室の内、合は祧遷有るべし。」中書門下奏議し、懿祖一室を祧せんことを請ふ。後ち百僚を下して集議せしむ。禮部尚書蕭頃等奏し、請ふらくは中書の奏する所に従はんことを。之に従ふ。
應順元年正月、中書門下が奏上して言う、「太常が大行皇帝の山陵が終わり廟に合祀することを以てする。今太廟に見饗するは七室、高祖、太宗、懿宗、昭宗、獻祖、太祖、莊宗、大行皇帝の昇祔に当たり、礼は獻祖を祧遷すべきに合う。請う、尚書省に下して集議せしめん」と。太子少傅盧質等が議して言う、「臣等は親尽きて祧に従うは旧典に垂れ、疑事質す無きは、素より明文有り。頃に莊宗皇帝は寰区を再造し、復た宗廟を隆くし、三祖を先遠に追い、四室を本朝に復し、式に祧遷を遏ぎ、旋ち沿革を成す。及び莊宗の昇祔に及び、懿祖を以て祧に従う、蓋し嗣立の君に非ざるが故に、先ず其の室を遷すなり。光武が新を滅ぼした後、始めて追尊の儀有り、比は只だ南陽に在るのみ、元より太廟に帰せず、事を引きて且つ故実に疏く、此時は須らく新規に稟るべし。将来先廟に昇祔するに、次に獻祖を祧遷すべきに合う、既に時の義に協い、又た変体の文に符す」と。之に従う。時に議する者は、懿祖が懿宗に賜姓せられ、支庶を以て大宗に系ぐの例に依れば、宜しく懿祖を以て始祖と為し、次に昭宗とすべし、必ずしも神堯を祖とし太宗を宗とすべからずとす。若し漢の光武に依らば、則ち宜しく代州に於いて獻祖以下の親廟を立て、其の唐廟は旧礼に依り之を行えば可なりとす。而るに議謚する者は咸通の懿宗を忘れ、又た懿祖と称す、父子俱に「懿」、理に於いて可ならんや。将に朱耶三世と唐室四廟とを連ねて昭穆を叙せんとす、礼に非ざること甚だし。議祧する者は唐の懿宗に受氏するを知らずして之を祧し、今又た獻祖に及ぼさんとす。礼を以て之を論ずれば、始めに昭宗を祧し、次に獻祖を祧すべし、而して懿祖は唐の景皇帝の如く、豈に祧すべけんや。
晉の天福二年正月、中書門下が奏上して言う、「皇帝京に到るも、未だ宗廟を立てず、望むらくは司をして速やかに制度典禮を具えて以て聞かしめん」と。之に従う。二月、太常博士段颙が議して言う、
夫れ宗廟の制は、歴代之を難しと為し、礼経を考へ故事を求めざるべからず。謹んで按ずるに《尚書・舜典》に曰く、「正月上日、文祖に終を受けしむ」と。此れは堯の廟なり、猶ほ其の数を載せず。又た按ずるに《郊祀録》に曰く、夏は五廟を立て、商は六廟を立て、周は七廟を立てたり。漢初に祖宗の廟を郡国に立て、共に計るに一百六十七所。後漢光武の中興後、別に六廟を立てたり。魏の明帝初めに親廟四を立て、後に重ねて議して周の法に依り七廟を立てたり。晉の武帝禅を受け、初めに六廟を立て、後に復た七廟を立てたり。宋の武帝初めに六廟を立て、齊朝も亦た六廟を立てたり。隋の文帝命を受け、初めに親廟四を立て、大業元年に至り、煬帝周の法を遵ばんと欲し、議して七廟を立てたり。次に伝禅唐に属し、武德元年六月四日、始めて四廟を長安に立て、貞観九年に至り、有司に命じて廟制を詳議せしめ、遂に七廟を立て、開元十一年後に至り、九廟を創立せり。又た按ずるに《禮記・喪服小記》に曰く、「王者は其の祖の出づる所を禘し、其の祖を以て之に配し、而して四廟を立つ」と。鄭玄の註に云く、高祖已下禰に至る四世は、即ち親尽きなり、更に始祖を立てて遷さざるの廟と為し、共に五廟なりと。又た按ずるに《禮記・祭法》及び《王制》、《孔子家語》、《春秋穀梁傳》並びに云く、天子七廟、諸侯五廟、大夫三廟、士一廟。此れは降殺して以て両の義なり。又た按ずるに《尚書・咸有一德》に曰く、「七世の廟は、以て徳を観るべし」と。又た按ずるに《疑義》に云く、天子七廟を立て、或いは四廟、蓋し其の義有り。四廟の如きは、禰より高祖已下親尽きに従ひ、故に四廟の理有り。又た七廟を立てるは、古より聖王に縁り、祖は功有り、宗は徳有り、更に封じて始祖を立て、即ち四親廟の外に、或いは祖功宗徳、定数に拘わらず、故に五廟・六廟、或いは七廟・九廟有り、後代の子孫に其の功德を観せしめんと欲するなり。故に《尚書》に云く「七世の廟は、以て徳を観るべし」と。又た按ずるに周舍の論に云く、「江左已来、晉・宋・齊・梁相承け、多く七廟を立てたり」と。今臣等参詳するに、唯だ七廟を立てば、即ち並びに其の理を通ず。伏して宗廟の事大なるを縁り、一理を執へて以て之を定むるを敢てせず、故に七廟・四廟二件の文を検し、俱に其の宜しきを得たり、他の論ずる所は、並びに皆な取る勿れ。請う、三省に下して百官を集め詳議せしめん。
敕旨、宜しく依るべし。左僕射劉句等が議して言う、
臣等今月八日、伏して敕命を奉ずるに尚書省に於いて太常博士段颙の議する所の宗廟の事を集議す。伏して以て、将に至化を敷きて以て万方に達し、克く平和を致さんとすれば、必ず先ず宗廟有り。故に《禮記・王制》に云く、「天子七廟、諸侯五廟、大夫三廟」と。疏に云く、「周制の七なる者は、太祖廟及び文王・武王の祧と、親廟四。太祖は後稷なり。商の六廟は、契及び湯と二昭・二穆。夏は則ち五廟、太祖無く、禹と二昭・二穆のみ。夏より周に及び、少なくも五を減ぜず、多くも七を過ぎず」と。又た云く、「天子七廟は、皆な周に拠るなり。其の人有れば則ち七、其の人無ければ則ち五。若し諸侯の廟制は、其の人有ると雖も、則ち五を過ぎず。此れ則ち天子・諸侯七・五の異なること明らかなり」と。三代已後の魏・晉・宋・齊・隋及び唐初に至り、多く六廟或いは四廟を立てしは、蓋し建国の始めに於いて、七廟の数に盈たざるなり。今請うらくは高祖已下四親廟を立て、其の始祖一廟は、未だ敢て軽く議せず、伏して聖裁を俟たん。
御史中丞張昭遠が奏議して言う、
臣前月中に都省の宗廟の事を集議するに預かり、伏して議状を見るに親廟の外に、請う別に始祖一廟を立て、近く中書門下の牒に奏し、再び百官を都省に於いて議定して聞奏せしむる者。
臣は十四代の史書を読み、二千年の故事を見、諸家の宗廟を観るに、いずれも始祖の称はなく、ただ商・周の二代のみ、稷・契を太祖とした。『礼記』に曰く、「天子七廟、三昭・三穆、太祖の廟と合わせて七つ」と。鄭玄の註に、「これは周の制なり。七つとは、太祖后稷及び文王・武王と四親廟なり」と。また曰く、「商人は六廟、契及び成湯と二昭・二穆なり。夏后氏は五廟を立て、太祖を立てず、ただ禹と二昭・二穆のみなり」と。『王制』鄭玄の解釈に拠れば、すなわち商・周は稷・契を太祖とし、夏后は太祖なく、また追謚の廟もなし。商・周以来、時代は十代を経たが、皆親廟の中において、功ある者を太祖とし、始祖を追崇する例はなかった。今古を具に引けば、詞の繁雑を恐れ、事を証明するには、梗概を陳べるを要す。漢は高祖父太上皇執嘉に社稷の功なく、廟号を立てず、高帝自ら高祖となす。魏は曹公が漢に相たり、三十年に垂んじ、始めて魏に封ぜられた故に太祖となす。晋は宣王が魏を輔けて功あり、高祖と立て、景帝が始めて晋に封ぜられた故に太祖となす。宋氏の先世は、官閥卑賤にして、帝号を追崇すれども、劉裕自ら高祖となす。南斉高帝の父は、位右将軍に至り、生時に封爵なく、太祖たるを得ず、高帝自ら太祖となす。梁武帝の父順之は、斉室を佐佑し、侯に封ぜられ、位は領軍・丹陽尹に至る。梁に封ぜられざりしも、また太祖となす。陳武帝の父文賛は、生時に名位なく、武帝の功により、梁室より侍中を贈られ、義興公に封ぜられ、武帝即位の後、また追って太祖となす。周閔帝は父泰が西魏に相たり、王業を経営し、始めて周に封ぜられた故に太祖となす。隋文帝の父忠は、周室を輔けて大功あり、始めて隋に封ぜられた故に太祖となす。唐高祖神堯の祖父虎は周の八柱国たり、隋代に唐公を追封された故に太祖となす。唐末梁室朱氏に帝位あり、また四廟を立てたが、朱公の先世に名位なく、四廟を追冊すれども太祖を立てず、朱公自ら太祖となす。これ即ち前代の太祖追冊は、親廟を出ざる成例なり。
王者は功ある者を祖とし、徳ある者を宗とす。漢・魏の制は、功徳なければ祖宗と立てず、商・周は天命を受け、稷・契が唐・虞の際に大功ありし故に、追尊して太祖となす。秦・漢以後は、その礼然らず、功を祖とすれども、なお親廟を須う。今もまた往例を粗言し、以て証明を取らん。秦は造父の後と称すれども、造父を始祖とせず。漢は唐堯・劉累の後と称すれども、堯・累を始祖とせず。魏は曹参の後と称すれども、参を始祖とせず。晋は趙将司馬卬の後と称すれども、卬を始祖とせず。宋は漢楚元王の後と称すれども、元王を始祖とせず。斉・梁は皆蕭何の後と称すれども、蕭何を始祖とせず。陳は太丘長陳寔の後と称すれども、寔を始祖とせず。元魏は李陵の後と称すれども、陵を始祖とせず。後周は神農の後と称すれども、神農を始祖とせず。隋は楊震の後と称すれども、楊震を始祖とせず。唐は皐陶・老子の後と称すれども、皐陶・老子を始祖とせず。ただ唐高宗の時、則天武后が臨朝し、唐を革めて周と称し、また七廟を立て、なお周文王姫昌を追冊して始祖とせり。これは当時の附麗の徒、故実に諳んぜず、武后が姫廟を立てしは、乖越甚だしく、曲台の人、今に至るまで嗤誚す。臣は遠く秦・漢を観、下って周・隋に至るまで、礼楽衣冠、声明文物、唐室の盛の如きは未だあらず。武徳に廟を議するの初め、英才間出し、温・魏・顔・虞は今古に通じ、封・蕭・薛・杜は礼儀に達し、制度憲章、必ず師法あり。
夫れ先王・先母を追崇する儀は、周代に起る。『史記』及び礼経に拠れば、「武王は太王・王季・文王の緒を纘ぎ、一戎衣にして天下あり、尊ばれて天子となり、宗廟に饗せらる。周公は文・武の徳を成し、太王・王季を追王し、先公を祀るに天子の礼を以てす」と。また曰く「后稷を郊祀して以て天に配す」と。これに拠りて言えば、周武は七世を祀れども、王号に追せしは、ただ四世のみ。故に東漢以来、国を有するの初め、多く四廟を崇むるは、周制に従えるなり。況んや商は夏礼に因り、漢は秦儀に習う、博訪の文を労せず、宜しく已成の制を約すべし。隋・唐の国を有するの初めに依り、四廟を創立し、四世の中より名位高き者を推して太祖とせんことを請う。謹んで議を以て聞す。
勅す:宜しく尚書省に令して百官を集め、前の議状と張昭遠の陳ぶる所を将い、速やかに定奪して聞奏せしむべし。左僕射劉句等、再び議を奏して曰く。
臣等、今月十三日、再び尚書省において百官を集めて詳議す。王者は武を祖とし文を宗とし、天を郊祀し地を祀る。故に追崇の典有り、以て配饗の儀を申ぶ。初めに太常礼院の議状を詳むるに、ただ七廟・四廟を立てば、即ち並びにその理を通ず。他の論ずる所は、並びに皆取るべからず。七廟とは、『礼記・王制』に按ずるに曰く、「天子七廟、三昭・三穆と太祖の廟と合わせて七つ」と。鄭玄の註に云く、「これは周の制なり」と。その礼経を詳むれば、即ち是れ周家七廟の定数なり。四廟とは、高・曾・祖・禰の四世を謂う。『周本紀』及び『礼記・大伝』に按ずるに皆曰く、「武王即位し、太王・王季・文王を追王す。后稷は堯の稷官たりし故に、追尊して太祖とす」と。これ即ち周武王が初めて天下を有し、四廟を追尊したる明文なり。故に漢・魏已降、周・隋に至るまで、創業の君の追謚は四世を過ぎず、周制に約するなり。この礼行わるること已久しく、事は疑いなし。今、都省の前議状を参詳するに、四廟を立てる外、別に始祖を引き、裁を取るは未だ定議とならず。続いて勅に準じて御史中丞張昭遠の奏を拠るに、四廟を創立する外、別に始祖を封ずるの文なし。況んや国家の礼楽刑名は、皆唐典に依り、宗廟の制は、須らく旧章に約すべし。唐朝が献祖宣皇帝・懿祖光皇帝・太祖景皇帝・代祖元皇帝を追尊したる故事に依り、四廟を追尊するを定めとせんことを請う。
これに従う。
七年七月、太常礼院奏す:「国朝、見饗する四廟は、靖祖・粛祖・睿祖・憲祖なり。今、大行皇帝将に升祔せんとす。『会要』に按ずるに、唐武徳元年、長安に四廟を立て、貞観九年、高祖神堯皇帝崩御し、有司に命じて廟制を詳議せしむ。議して高祖神主を以て並びに旧四室に祔廟せしむ。今、先帝の神主は、唐高祖の升祔に同じくせんことを請う。」これに従う。
漢の天福十二年閏七月、時に漢の高祖は既に即位していたが、尚も天福の年号を用いていた。太常博士段颙が奏議して曰く、「伏して考えるに、宗廟の制度は歴代において難事であり、礼経に拠り、傍らに故実を求めねばならず、また礼は時に貴ぶを縁として、損益は定まらぬ。今、歴代の故事を参詳し、高・曾・祖・禰の四廟を立て、更に上って遠祖光武皇帝を追尊して始祖の百代遷さざる廟とし、東向きの位に居らしめ、合わせて五廟と為し、往例に符し、また礼経に合わしむることを庶幾う」と。詔して尚書省に百官を集めて議させた。吏部尚書竇貞固等の議に云く、「『礼記』王制に拠れば、『天子七廟、諸侯五廟、大夫三廟』とある。疏に云く、『周制の七廟とは、太祖及び文王・武王の祧(遠祖廟)と親廟四なり。太祖は後稷なり』と。また云く、『天子七廟は皆周に拠るなり。其の人あれば則ち七、其の人なければ則ち五なり』と。光武の中興及び歴代に至っては多く六廟或いは四廟を立てるは、蓋し建国の始め、未だ七廟の数に満たざるによる。また『郊祀録』に拠れば王肅が云う、『徳厚き者は流澤広く、天子は六代を事とすべきの義なり』と。今、高祖已下の四親廟を立てんことを請わんと欲す。また古より聖王は、功有るを祖とし、徳有るを宗とす、即ち四親廟の外に於て、祖功宗徳は定数に拘わらざるなり。今、四親廟を除く外、更に上って高皇帝・光武皇帝を追尊し、更に六廟を立てんことを請う」と。これに従った。
周の広順元年正月、中書門下が奏す、「太常礼院の議に、太廟の室数を立てるに合うは、文を守り体を継ぐならば、則ち魏・晋に七廟の文有り。若し業を創し基を開くならば、則ち隋・唐に四廟の議有り。聖朝は近礼に依り、四廟を追謚せんことを請う。伏して恐らくは議する所未だ同じからざるを以て、百官を下して集議せしめんことを請う」と。太子太傅和凝等の議、「礼官の議に拠り、四親廟を立てんことを請う」と。これに従った。其の年四月、中書門下が奏す、「太常礼院の申すに、七月一日、皇帝崇元殿に御し、使を命じて冊を奏し四廟とす。旧儀に準ずれば、袞冕を服して即座し、太尉が冊案を引き入る。皇帝座を降り、御座の前に引き立ちて南向し、中書令が冊案を奉じて進む。皇帝珪を搢き捧げて授け、冊使跪いて受け、転じて冊を舁ぐ官に授く。其の宝を進め宝を授くる儀は冊案の如し。臣等参詳するに、至時に皇帝階を降りて冊を授けしめんことを請う」と。これに従った。
三年九月、将に南郊に事有らんとし、東京に別に太廟を建つることを議す。時に太常礼院言う、「洛京の廟室十五間に準じ、四室に分ち、東西各々夾室有り。四神門、毎方屋一間、各々三門、戟二十四、別に斎宮神厨の屋宇有り。礼に準ずれば、左に宗廟、右に社稷、国城内に在り。司を下して修奉せしめんことを請う」と。これに従った。其の月、太常礼院奏す、「太廟社稷の神主を迎えて京に到る、其の日未だ審らかにせず、皇帝親しく郊外に出でて迎奉するや否や。故事を検討するに、元より礼例無し。伏して三省の官を召し集議せしめんことを請う」と。敕す、「宜しく尚書省四品以上、中書門下五品已上をして同じく参議せしむべし」と。司徒竇貞固・司空蘇禹珪等議す、「呉主孫休の即位を按ずるに、祖父の神主を呉郡より迎え、太廟に祔す。前一日城を出でて野次し、明日常服を以て奉迎す。此れ其の例なり」と。遂に状を署し、車駕城を出でて奉迎するを是と為すを言い、礼儀使を下して儀注を草定せしめんことを請う。十月に至り、礼儀使奏す、「太祖の神主将に至らんとす。前一日、儀仗城を出でて次を掌り、西御荘の東北に神主の行廟幄幕を設け、面南す。其の日朝を放ち、群臣早く西門を出づ。皇帝常服を以て城を出で行宮に詣る。群臣起居畢り、次に就く。神主将に至らんとするに、群臣班定まり、皇帝班前に立つ。神主至り、太常卿皇帝に再拝を請う。群臣俱に拝す。神主行廟幄幕の座に就き、常饌を設け、群臣神幄前に班す。侍中次に就き、皇帝に神主を謁せしむるを請う。既に至り、群臣再拝し、皇帝進酒畢りて再拝す。群臣俱に拝す。皇帝幄に還り、群臣先ず太廟の門外に赴き立班し、皇帝の至るを俟ちて起居す。神主の至るを俟ち、群臣廟門外に班し、皇帝班前に立ち、太常卿皇帝に再拝を請う。群臣俱に拝す。皇帝幄に還り、群臣次に就く。宮闈令神主を本室に安んずることを訖え、群臣廟庭に班す。太常卿皇帝に四室に奠饗せしむるを請う。逐室に皇帝再拝し、群臣俱に拝す。四室祔饗畢りて、皇帝宮に還る。前件の儀注、中書門下に付して宣下せんことを望む」と。これに従った。
顕徳六年七月、詔して大行皇帝の山陵期有るを以て、神主将に太廟に祔せんとす。其の廟殿の室宇添修すべきや否や。国子司業兼太常博士聶崇義奏議して曰く、「敕を奉ずるに、大行皇帝の山陵期有るが為め、神主廟に祔す。恐らくは殿室の間数少なく、重ねて添修すべきか。今廟中に詣り相度す。若し廟殿一間より両間に添修するは、並びに諸の神門及び角楼・宮墻・仗舍を移動せざるべからず。及び堂殿正面の檐栿・階道も亦た東に省牲立班の位に至り、直に斎宮に及び、漸く近く迫窄なり。今廟殿を重ねて拆き、続き更に添修するは、唯だ重労なるのみに非ず、兼ねて未だ便ならざるを恐る。窃かに見るに、廟殿現に東西二夾室虚し。況んや未だ祧遷の主無し。廟殿を拆かず、更に間数を添え、即ち将に夾室を以て重ねて六室の位次を安排せんことを請わんと欲す。所有の神主を動移するは、若し旧礼に準ずれば、殿庭に権に行廟幕殿を設くるは、即ち恐らくは雨水猶お多く、陳設に難しからん。伏して権に太廟の斎宮内に神主を奉安し、修奉の日を畢るに至り、宜称に庶幾わんことを請う。又、『礼記』に按ずるに云く、廟成れば則ち中屋に於て羊を刲りて以て之に釁す。夾室は則ち鶏を用う、と。又、『大戴礼』及び『通典』にも亦た夾室有り。文を察し義を観るに、乃是れ廟を備うるの制なり。況んや新主廟に祔するや、諸経に遷易の文有り。古を考へ今に沿う、庶く通礼に合わん。伏して諸室を遞遷し、大行皇帝の神主を奉安せしめ、以て礼意に符せんことを請う」と。敕して典礼に依う。