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舊五代史
僭偽列傳一: 楊行密 李昪 王審知
楊行密
楊行密は廬州の人である。幼くして孤貧であり、膂力があり、一日に三百里を行く。唐の中和の乱に、天子が蜀に幸するや、郡将は行密を遣わして徒歩で奏事させたが、期日通りに帰還した。光啓の初め、秦宗権が淮右を擾乱し、しばしば廬・寿を寇す。郡将は戦って賊を擒えることのできる者を募り、級に応じて賞することを計らうと、行密は胆力をもって応募し、往けば必ず獲るところあり、補せられて隊長となった。行密は自ら百余人を募り、皆勇猛にして行いのない者であり、都将を殺し、自ら州兵を権領した。郡将は即ち符印をこれに付して去り、朝廷は因って正しく行密を廬州刺史に授けた。
光啓三年、揚州節度使高駢は政を失い、妖人呂用之の輩に委任した。牙将畢師鐸は用之に譖せられることを懼れ、高郵より起兵して広陵を襲うが、用之に退けられ、乃ち宣州の秦彦に師を乞い、かつ事の克つ日には、願わくば揚州の帥を以てせんと。彦は先に将秦稠を遣わし兵三千人を以て師鐸を助け、広陵を攻め陥れた。高駢は師鐸を行軍司馬に署す。未だ幾ばくもせず、秦彦は大衆並びに家属を率いて江を渡り、揚州の軍府に入り、自ら節度使と称した。初め、揚州未だ陥ちざるに、呂用之は高駢の檄を詐り、廬州に兵を征す。城陥つるに及び、行密は万人を以て奄至す。畢師鐸の広陵に入るや、呂用之は外に奔出し、是に至り行密に委質す。行密は広陵を攻め、大明寺に営す。秦・畢は兵を出して行密の営を攻む。短兵纔に接するや、行密は偽りて遁る。秦・畢の兵は争って其の柵に入り、金帛を取らんとす。行密は伏兵を発してこれを撃ち、秦・畢大いに敗れ、退きて其の壁に走る。自ら是より復た出戦せず。其の年九月、秦・畢は高駢を幽所に害し、少長皆死し、同じ坎に道院の北垣の下に痤す。行密の攻囲愈急、城中食尽き、米一斗四十千、居人相啖い略く尽きんとす。十月、城陥つ。秦・畢は東塘に走る。行密は広陵に入り、外寨の粟を輦して饑民に食わせ、即日米価減じて三千に至る。十一月、蔡賊孫儒は衆万人を以て淮西より奄至し、還って外寨を拠る。行密の輜重牛羊軍食未だ城に入らざるもの、皆儒の所有と為る。時に秦・畢は東塘より来たり、儒軍と合す。自ら是より西門の外、復た敵境と為る。初め、呂用之は行密に遇うこと天長にあり、行密を紿いて曰く「用之に白金五千鋌あり、居する廡の下に瘞す。寇平の日、願わくば将士の倡楼一醉の資に備えん」と。是に至り、行密は兵を閲す。用之側に在り。行密、用之に謂いて曰く「僕射此の輩に銀を許す、何ぞ心に負くや」と。遽に命じて三橋の下に斬り、其の族を夷す。行密既に広陵有り、使を大梁に遣わし、帰附の意を陳ぶ。是の時、梁祖は淮南を兼領す。乃ち牙将張廷範を遣わして淮南に使せしめ、行密と盟を結ばしむ。尋いに行軍司馬李璠を遣わし、権に淮南留後を領せしめ、都将郭言に兵を以て援送せしむ。行密は初めは厚く廷範を礼す。李璠の行を聞くに及び、勃然として拒命の意有り。廷範懼れ、衣を易え夜遁す。宋州にて梁祖に遇い、行密の不軌の心を備言す。其の兵勢を酌むに未だ図るべからざるを以て、乃ち李璠等を追い還らしめ、即ち行密を表して淮南留後と為す。
文徳元年正月、孫儒は秦彦・畢師鐸を高郵にて殺し、軍を引いて広陵を襲い、これを下す。儒自ら節度使と称す。行密は其の衆を収めて廬江に帰る。十一月、梁祖は大将龐師古を遣わし潁上より淮を渡り、孫儒の乱を討たしむ。師古は兵を引いて深く淮甸に入るも、利あらずして還る。龍紀元年、孫儒は出でて宣州を攻む。行密は虚に乗じ襲い揚州を拠る。北は時溥に通ず。孫儒は兵を引いて復た行密を攻む。大順元年、行密危蹙し、衆を率いて夜遁し、出でて宣州を拠る。儒は復た揚州に入る。二年、乃ち兵甲を蒐練して行密を攻めんとす。江・淮疾疫に属し、師人多く死し、儒も亦臥病し、部下に執せられ、行密に送られて殺さる。行密は宣城より長駆して広陵に入り、孫儒の衆を尽く得る。光啓の末より、高駢の失守の後、行密と畢師鐸・秦彦・孫儒は遞いに窺図し、六七年の中、兵革競い起こり、八州の内、鞠として荒榛と為り、圜幅数百里、人煙断絶す。行密は孫儒を併せしより、乃ち遺散を招合し、民と休息し、政事寛簡にして、百姓之に便し、兵を蒐め将を練り、以て霸道を図る。得たる所の孫儒の衆は、皆淮南の驍果なり。五千人を選び府第に豢養し、其の衣食を厚くし、之を駆りて戦わしむるに、争い先んぜざるは無し。甲胄は皆黒繒を以て之を飾り、命じて「黒雲都」と曰う。
乾寧二年、行密は尽く淮南の地を有す。昭宗は乃ち制を降し、行密を授けて淮南節度副大使知節度事・管内営田観察処置等使・開府儀同三司・検校太傅・同中書門下平章事・兼揚州大都督府長史・上柱国・宏農郡王と為し、食邑三千戸、食実封一百戸。四年、梁祖は兗・鄆を平らぐ。朱瑾及び沙陀の将李承嗣・史儼等は皆淮南に奔る。行密は之を厚く待ち、以て将と為すに任ず。瑾と承嗣は皆位方伯に至る。是の歳、行密は兵を縦して隣部を侵掠す。両浙の錢镠・江西の鐘傳・鄂州の杜洪は皆使を遣わし梁に求救す。梁祖は朱友恭を遣わし部騎万人を率いて江を渡り、便に乗じて討伐せしむ。行密は先に都将翟章をして黄州を拠らしむ。梁師の至るに及び、即ち郡を棄てて南渡し、固く武昌寨を守る。行密は将馬珣を遣わし精兵五千を以て之を助く。友恭と杜洪は大いに其の衆を破り、遂に武昌寨を抜き、翟章並びに淮軍三千余人を擒え、馬五百匹を獲る。淮夷大いに恐る。八月、梁祖は葛従周を遣わし歩騎万人を率い霍丘より淮を渡り、龐師古を遣わし大軍を清口に営せしむ。淮人は堰を決し水を縱ち、流潦大いに至る。又た朱瑾をして勁兵を率い汴軍を襲わしむ。汴軍大いに敗れ、師古死す。葛従周は師古の敗を聞き、濠梁より班師し、淠河に至り、淮人の乗ずる所と為り、諸軍僅かに北帰を得る。
光化二年、行密は北侵し、張帰厚を遣わして之を禦わしめて退く。天復三年、青州の王師範叛し、淮南に師を乞う。行密は将王景仁を遣わし師二万を率いて以て之を援い、密州を攻討せしむ。七月、梁祖は大いに師範及び景仁の衆を破り、景仁遁れ還る。輔唐に追い至り、数千人を殺し、進みて密州を取る。天祐元年十一月、淮人は光州を攻む。梁祖は軍を率いて霍丘に抵り、地を廬・寿の境に略す。淮人は遁れ去る。二年正月、進みて寿州を攻む。淮人は壁を閉じて出でず、大いに掠めて還る。是の月、行密は鄂州を攻め陥し、節度使杜洪を擒え、揚州市にて戮す。梁の戍兵数千人も亦陥ち焉。其の後、江西の鐘傳・宣州の田頵は俱に行密に併せらる。三年、行密は疾を以て広陵に卒す。其の子渭の僭号するに及び、偽りて追尊して太祖武皇帝と為す。
行密の長子 渥
楊渥は字を奉天といい、楊行密の長子である。行密が卒すると、渥は偽位を襲い、自ら呉王と称し、軍政を大将張顥に委ねた。渥は猜疑忌避の性分で、下を統御することができなかった。天祐五年六月、渥は顥に殺され、顥は梁に帰順しようとし、自ら留後を称し、別将徐温に兵権を委ねた。ほどなくして、温はまた顥を殺し、行密の次子楊渭を立てて主とした。及び渭が僭号すると、偽って景帝と追尊した。
渥の弟 楊渭
楊渭は、渥の弟である。立つと、政事はすべて徐温に委ねた。当時温は鎮海軍節度使・内外馬歩軍都指揮使であり、上元県に昇州を置き、盛大に幕府を開き、上流で兵権を握り、その子知訓らは揚州に居て政務を執り、凡そ十余年に及んだ。温はついに渭を冊立して天子とし、国号を大呉とし、唐の天祐十六年を武義元年と改めた。渭は温を大丞相・都督中外諸軍事とした。渭が僭号したのは凡そ三年で卒し、諡を恵帝とした。
行密の末子 楊溥
楊溥は、行密の末子である。初め丹陽王に封ぜられ、渭が卒すると、徐温は溥を推して主とし、後に偽号を僭称した。唐の同光元年、荘宗が梁を平定し、都を洛陽に遷した。十二月、溥は使者章景を遣わして来朝し、「大呉国主、書を奉りて大唐皇帝に上る」と称し、その言辞の趣旨は卑遜で、箋表と同様であった。明年八月、またその司農卿盧蘋を遣わして方物を貢ぎ、及び貞簡太后の珍玩を献じた。荘宗は左蔵庫使王居敏・通事舎人張朗らに命じて名馬をもってこれに報いさせた。郭崇韜が西川を平定したとき、淮人は大いに恐れ、偽号を去り、唐に藩称しようとした。当時崇韜は舟師を陳べて峡を下り、呉を平定する策を立てようとしたが、崇韜が誅殺され、洛城に変事が起こると、淮人はこれを聞き、家ごとに慶賀し合った。明宗が嗣を纂ぐと、溥はまた使者を遣わして修好した。安重誨が奏上して言うには、「楊溥は既に藩称せず、これと抗礼するに足らず、国情を偵察しに来るのであれば、辞絶するに如かず」と。そこでその使者を謝絶し、貢物を受けずに帰らせた。唐の天成二年十月、徐温が卒し、斉王に追封された。温の養子李昪が温に代わって輔佐し、政務を執ること数年、位は太尉・中書令・録尚書事に至り、斉王を襲封し、偽って九錫を加えられた。晋の天福二年、溥は已むなく昪に位を譲った。昪は溥を潤州に移し、丹陽宮を築いてこれに住まわせた。溥はここより羽衣を着て、辟穀の術を習い、一年余りして幽死した。昪はまたその一族を海陵に移し、呉人はその居所を永寧宮と呼んだ。周の顕徳年中、李景が周の軍が淮を渡ったと聞き、楊氏が変を起こすことを慮り、人を遣わしてことごとくこれを殺させた。唐の大順二年、行密が初めて淮南の地を有してから、溥が位を譲るまで、凡そ四十七年で滅亡した。
李昪
李昪は、もと海州の人である。偽呉の大丞相徐温の養子である。温は字を敦美といい、これも海州の人で、初め淮南節度使楊行密に従って廬州で兵を起こし、次第に軍校に至った。唐末、青州の王師範が梁祖に包囲され、淮南に援軍を乞うた。楊行密は兵を発してこれに赴かせ、温は当時小将であり、またこの行に加わった。軍は青州の南辺に駐屯したが、師範は既に敗れており、淮兵は大いに掠奪して還った。昪は当時幼く、温に捕らえられ、温はその聡明さを愛で、ついに己が子として育て、名を知誥とした。天祐初年、行密が卒し、その子渥が嗣ぐと、左衛都指揮使張顥が渥を殺し、梁に帰順しようとした。温は顥に言うには、「ここから梁国までは、往復三千里、一ヶ月余りで事は成らず、軍国に主なく、主なきは乱れんとす。誰かを立てて、事を徐図するに如かず」と。顥はこれを然りとし、渥の弟渭を立てて帥とした。温はまもなく顥を殺し、渭は温に常州刺史・検校司徒を授けた。温は広陵に留まり、昪に州事を知らせた。この年は、唐の天祐五年である。七年、母の喪に服し、起復して検校太尉・温州刺史を授けられ、本州団練観察使を充てた。八年、宣州が叛き、温は都将柴再用とともにこれを討平し、同中書平章事を加えられ、淮南行軍司馬・内外馬歩都指揮使・鎮海軍節度使・浙江西道観察使等を充てた。十二年八月、温は潤州に出鎮し、その子知訓に政事を知らせ、温に鎮海軍管内水陵馬歩軍都軍使を加え、兼ねて寧国軍節度使・宣歙池等州観察使とした。当時昪は温の属郡である昇州刺史であり、郡庁を大いに修繕した。温は表を上してその府を金陵に移すことを請い、偽って昇州大都督府長史を授け、鎮海軍節度副大使を充て、節度事を知らせ、昪を鎮海軍節度副使・行潤州刺史とし、本州団練使を充てた。十五年、知訓は淮南行軍副使・内外馬歩軍都指揮使を授けられ、軍府事を通判した。ほどなくして、知訓は大将朱瑾に殺され、温は昪に代わって政事を知らせた。明年、温は楊渭を冊立して天子とし、大呉と僭称し、唐の天祐十六年を武義元年と改めた。
十八年、渭が死ぬと、温はこれを聞き、金陵より揚州へ馳せ帰り、夜に広陵に入り、擁立すべき者を議す。或いは温の意を窺い、蜀の先主が諸葛亮に遺命した故事に言及する者あり。温は声を厲して曰く、「若し楊氏に男子無くば、女子有らば当に立つべし、異議を唱うること無かれ」と。ここに於いて群心定まり、遂に丹陽王溥を潤州より迎え、その年の六月十八日に偽位に即かしめ、元を改めて順義と為す。この時より温父子ますます盛んとなり、中外共にその国を専らにし、楊氏は主祭のみに止まる。温は累官して竭忠定難建國功臣・大丞相・都督中外諸軍事・諸道都統・鎮海寧国等軍節度・宣歙池等州管內営田観察等使・開府儀同三司・守太師・中書令・金陵尹・東海王に至り、食邑一万戸、実封五百戸。偽順義七年、乾貞元年と改元す、即ち後唐の天成二年なり。その年の十月二十三日、温卒す。偽って大元帥を贈り、斉王を追封し、諡して忠武と曰う。
昪は前に温が己を背負って山を登る夢を見たが、翌年に温が卒し、昪は偽って輔政興邦功臣を授けられ、内外左右の事を知り、開府儀同三司・守太尉・中書令・宣城公と為る。昪は朱瑾の乱を平定してより、遂に呉の政を執る。天成四年、偽呉は太和元年と改元す。この歳、昪は出鎮して金陵に至り、尋いで東海王に封ぜらる。清泰二年に至り天祚元年と改元す。その年、金陵を以て斉国と為し、昪を斉王に封じ、乃ち温を追諡して忠武王と為し、廟号を太祖とす。昪はまた太尉・録尚書事に進位し、留まって金陵を鎮め、その子景に政を総せしめて揚州に在らしむ。未だ幾ばくもせず、偽って昪に九錫を加え、天子の旌旗を建て、金陵を西都と改め、揚州を以て東都と為す。昪は国を開くに斉・梁の故事に依る。徐玠を斉国右丞相と為し、宋斉丘を左丞相と為し、以て謀主と為す。偽呉天祚三年、楊溥は位を昪に譲る。国号を大斉とし、元を改めて升元と為し、金陵に都を建つ。時に晋氏の天福二年なり。昪は乃ち楊溥を冊して譲皇と為し、その冊文に「禅を受く老臣知誥、謹んで冊を上りて皇帝を高尚思元宏古譲皇と為す」と云う。仍ってその子に平廬軍節度使を遥領せしめ、海陵に遷す。昪は自ら云う、唐の明皇第六子永王璘の裔なりと。唐の天宝末、安禄山連ねて両京を陥とし、明皇蜀に幸す。詔して璘を以て山南・嶺南・黔中・江南四道節度采訪等使と為す。璘は広陵に至り、大いに兵甲を募り、江左を窺図するの志有り。後に官軍に敗られ、大庾嶺の北に死す。故に昪はこれを指して遠祖と為す。因って姓を李氏に還し、始めて名を昪と改め、国号を大唐とし、徐温を義祖として尊ぶ。昪が僭位すること凡そ七年、子の景立つ。
昪の長子 景
景、本名は璟、周に臣たるに及び、廟諱に犯すを以て、故にこれを改む。昪の長子なり。昪卒し、乃ち偽位を襲ぎ、元を改めて保大と為す。仲弟の遂を皇太弟と為し、季弟の達を斉王と為し、仍って父の柩の前に盟約を設け、兄弟相継ぐ。景が僭号してのち、中原多事に属し、北土乱離す。一方を雄据し、余すところ一紀を行る。その地は東は衢・婺に及び、南は五嶺に及び、西は湖湘に至り、北は長淮に据う。凡そ三十余州、広袤数千里、尽く其の所有と為り、近代僭窃の地、最も強盛なり。又嘗て使いを遣わし私に契丹に賂り、中国の患と為らしめ、自ら固めんとする偷安の計と為す。
周の顕徳二年冬、世宗始めて南征を議し、宰臣李穀を前軍都部署と為す。この冬、周師寿春を囲む。三年春、世宗親ら淮甸を征し、正陽に於いて淮寇を大いに破り、遂に寿州を攻む。尋いでまた今上、渦口に於いて何延錫を破り、滁州に於いて皇甫暉を擒う。景これを聞き大いに懼れ、その臣鐘謨・李徳明等を遣わし表を世宗に奉り、附庸の国たるを乞い、仍って歳ごとに百万の数を貢ぎ、又金銀器幣及び犒軍の牛酒を進む。未だ幾ばくもせず、またその臣孫晟・王崇質等を遣わし表を奉り貢を修め、且つ言う、「景、濠・寿・泗・楚・光・海等六州の地を割き、大朝に隷せんことを願い、攻討を罷めんことを乞う」と。世宗未だこれを許さず。時に李徳明等、周師の寿春を争って攻むるを見、保つ能わざるを慮り、乃ち奏して云く、「臣等に五日の誅を寛め、臣等を容めて自ら江南に往き、本国の表章を取り、江北の諸州を挙げて、尽く大朝に献ぜしめよ」と。世宗その行を許す。久しくして、徳明等至らず、乃ち権に回鑾を議し、惟だ偏師数千を留めて寿春を囲守するのみ。四年春、世宗再び駕して南征す。三月、紫金山に於いて江南の援軍を大いに破り、尋いで寿州を下し、乃ち班師を命ず。この歳冬十月、世宗復た淮甸に臨み、連ねて濠・泗二郡を下し、楚州を攻む。明年春正月、これを抜き、遂に幸を揚州に移し、大軍を迎鑾に駐め、将に江を済わんことを議す。景これを聞き、自ら亡ぶこと旦夕に在りと謂い、乃ち位をその世子に伝えんことを謀り、周に藩を称せしめんとす。その臣陳覚を遣わし表を奉りて情を陳べ、且つ世宗の旨に順う。覚至り、世宗禦幄に於いて対す。この時江北の諸州、唯だ廬・舒・蘄・黄の四郡未だ下らず。世宗因って覚に謂いて曰く、「江南国主若し能く江北の地を以て尽く我に帰せば、則ち朕も窮兵黷武に至らじ」と。覚命を聞き欣然たり、即ち人を遣わし江を過ぎて景の表を取り、廬・舒・蘄・黄等の四州を以て来り上り、江を画して界と為し、仍って歳ごとに地征数十万を貢がんことを乞う。世宗これを許し、乃ち京に還る。ここより景始めて大朝の正朔を行い、上章して唐国主臣景と称し、累ねて使いを遣わし貢を修め、亦た外臣の礼を失わず。
皇朝(宋)建隆二年の夏、景(李景)は病により金陵で卒す。時に年四十六。その子煜に偽位を襲わしめ、その後の事は皇家の日曆に具わる。
王審知
王審知、字は信通、光州固始の人。父は恁、代々農民なり。唐の広明中、黄巢が闕を犯し、江・淮に盗賊蜂起す。賊帥王緒なる者有り、自ら将軍と称し、固始県を陥とす。審知の兄潮は時に県佐たり、緒これに軍正を署す。蔡賊秦宗権、緒を以て光州刺史と為し、尋いで兵を遣わして之を攻む。緒は衆を率いて江を渡り、所在に剽掠し、南康より転じて閩中に至り、臨汀に入り、自ら刺史と称す。緒は疑忌多く、部将に己より優る者有れば皆これを誅す。潮は豪首数輩と共に緒を殺す。その衆、帥を求め、乃ち牲を刑し血を歃って盟し、剣を前に植え、祝して曰く「此の剣の動く者を拝して将軍と為さん」と。潮の拝するに至り、剣地に躍る。衆以て神異と為し、即ち潮を奉じて帥と為す。時に泉州刺史廖彦若は政貪暴にして、軍民これに苦しむ。潮が理を整粛するを聞き、耆老乃ち牛酒を奉じ、道を遮りて留まるを請う。潮因りて兵を引き彦若を囲み、歳余にしてこれを克つ。又狼山の賊帥薛蘊を平げ、兵鋒日々に盛ん。唐の光啓二年、福建観察使陳巖、潮を表して泉州刺史と為す。大順中、巖卒す。子婿範暉自ら留後と称す。潮、審知を遣わし兵を将いてこれを攻む。年を逾ぎ、城中食尽き、乃ち暉を斬りて降る。これにより閩・嶺五州の地を尽く有す。潮即ちその事を表す。昭宗因りて威武軍を福州に建て、潮を以て節度・福建管内観察使と為し、審知を副と為す。審知は観察副使たりし時、過有り、潮猶お捶撻を加うるも、審知怨色無し。潮寝疾す。その子延興・延虹・延豊・延休を捨て、審知に命じて軍府の事を知らしむ。十二月丁未、潮薨ず。審知、これを兄審邽に譲る。審邽は審知に功有りとし、辞して受けず。審知自ら福建留後と称し、朝廷に表す。唐末、威武軍節度・福建観察使と為り、累遷して検校太保に至り、瑯邪郡王に封ぜらる。梁朝開国、累加して中書令に至り、閩王に封ぜらる。
審知は隴畝より起り、富貴に至る。常に節倹を以て自ら処し、良吏を選任し、刑を省み費を惜しみ、徭を軽く斂を薄くし、民と休息す。三十年の間、一境晏然たり。同光元年、審知卒す。子延翰嗣ぐ。弟延鈞に殺さる。
審知の次子 延鈞
延鈞は、審知の次子である。後唐の長興三年、上言して呉越国王錢镠が薨じたとし、自らを呉越王に封じることを乞うたが、返答はなかった。まもなく、自ら帝を称し、国号を大閩とし、元号を龍啓と改めたが、なお朝廷に対しては藩臣を称していた。清泰元年、弑逆に遭う。子の昶が嗣ぐ。
延鈞の子 昶
昶は、偽位を嗣ぎ、朝廷はこれに因み昶を福建節度使に任じた。晋の天福三年、使者を遣わして貢奉を闕下に至らしめ、ただ閩王と称した。その子の継恭は節度使を称し、晋の高祖はついに制を下して昶を閩王に封じた。元号を通大と改め、後に弑逆に遭い、審知の少子延羲が嗣ぐ。
審知の少子 延羲
延羲は、偽位を嗣ぎ、元号を永隆と改め、在位六年にして弑逆に遭う。兄の延政は、自ら福州において帝を称し、晋の開運三年、李景によって滅ぼされた。
史臣曰く
史臣曰く、昔、唐の祚が横流し、異方に割拠す。行密は高材捷足をもって前もってこれを啓き、李昪は履霜堅冰をもって後にこれを得たり。偽りをもって偽りを易え、六十年を逾ゆ。洎て周の興りて薄伐の師あり、皇上の示すところの懐柔の徳あれども、しかる後に梯杭を走りて入貢し、正朔を奉じて来庭す。かくの如くすれば、則ち長江の険、また何を以てか恃むに足らんや。審知は僻く一隅に拠り、僅かに数世を将う。始めは則ち呉芮に方すべく、終わりは則ち窃かに尉佗に效う。夫れ穴蜂井蛙と、また何ぞ相遠からんや。五紀の亡ぶ、蓋し其の幸いなるか。